にせものリウム 4

関係者専用のエレベータを出、すぐさま琴野の私室に通された。「嫌われ者の部屋に入ってくる物好きはいないよ」と、口元は笑っているが目が据わっている。脚を見るやいなや事態に思い当たったようだ。神経質なまでに掃除の行き届いた部屋の中央、ソファにニカを下ろす。
「痛かったり痒かったりは? ……そう」
床に新聞紙を敷き、温めたタオルで覆うように拭っていく。粉末が付着し、替えが何枚も必要になった。
「何か手伝うか」
「いい。座ってて」
「しかし」
「うろうろされると邪魔だって言ってんの」
コンピュータの前にある硬そうな椅子に腰掛けた。
「星の砂に関しては、スイちゃんのが詳しいでしょ」
「一般の外科に行ったところで何ができる。……見当はついている。急遽、連れて行ける場所がここしかなかった」
「ま、頼られて嫌な気はしないけどさぁ」
琴野は地理学の他に医療学も履修していたという。初耳だったが、人は見かけによらないものだ。応急処置の手際の良さは見事だった。ニカの両足には軟膏のようなものが塗られ、丁寧に包帯が巻かれた。
「ありがとう、ございます」
「このくらいしかできなくてごめんね。変だなって思ったらすぐ言うんだよ。……どうしてこうなったか、わかる?」
ゆったりと琴野が問いかける。ニカは決まり悪そうに視線を彷徨わせ、口の開閉を繰り返した。
「……スイちゃんになら言える?」
琴野の目配せには赤と青が混じっていた。
「「僕たち」は席を外そう。それで」
「いいよ。コトノもいて。
嘘つきました。たくさん。もう、すっかりです」
調子が少しは良くなったのだろう。床に着かない爪先を前後に揺らし、子供らしくない遠い目つきをした。
「すっかり思いだしてしまいました。思いだしたくなかった。しゃべったら、スイたちとお別れだって思ったよ。だから、ちょっと黙った。怒らないでください」
「怒らないと言っている」
琴野はニカの足元に座り込んだ。椅子を引き寄せて、その反対側に移動する。
「ニカの体はさらさらになっていきます。スイとコトノなら知ってるか。さそりの心臓がうずく日に、なくなります」
「疼く?」
「赤い星が並ぶんだ」
双紅の日。約二週間後の話だ。
「ことしはなんにも起こりませんよ。安心です」
思わず琴野と顔を見合わせた。来週辺りにバベルから正式発表される筈だ。降砂量に目立った変化はない。接近による影響は殆どない、と。
「お空にのこってる、ニカの仲間がそう言ってます。スイたちが集めてる仲間も言いましたね」
「へ? 砂と話できんの!?」
「うん。スイのお部屋でも聞こえるよ」
「お前も星の砂だからか」
言っていて違和感があった。自分の口から出てくる言葉にしては、詩情と幻想が多寡になっていると思った。
「そう。ニカたちはお星さまでした」
子供が言えばそれなりの響きを持つのだが。
「人間は空にお願いをします。ニカたちはお願いを食べて光る。でもお願い、たくさんで重たくなって、入れものがまんたんになった。人間だけじゃなくて、いろんな生き物のお願いが集まった。
空がきゅうくつになったので、ニカたちは人間のとこに行くことにしました。さそりの心臓がうずく日なら、おおぜいの人間が空を見ます。その日に行こうって決めたんだ。教えてあげたかった。ちゃんとお願いは届きました、叶うから、んー、叶えるから、いっしょにがんばりましょうって」
ニカ達に人間を苦しめる意図は全くなかったのだろう。
それに、他力本願な望みには身に覚えがある。琴野も苦い顔でニカを見つめていた。
「びっくりしました。落っこちて、光れないし動けなかった。
ニカたちはまちがってた。きゅうくつでも、教えたくても、落っこちちゃいけなかったんだ」
「帰り方は考えてたの?」
「人間の乗り物。あれに乗せてもらって帰れるかなって」
「人工衛星か」
「あー。スペースシャトル?」
現在は民間のものも含め、稼働の可否を問わなければ相当数のものが太陽系内を周回している。飛ばされたきり宇宙のゴミになるものが大半だが、こいつらの理解はそこまで及んでいなかったのだろう。
「砂になっちゃってなにもできなかった。……でもニカはね、落っこちたあと、長く星でいられた。みんな協力してくれた。ニカだけでも人間とお話できるようにって。お空にのこってる仲間が、人間の形にしてくれた」
「砂の一粒一粒がお星さま、ってことなのかな」
「うん。でもみんなはしゃべれません。落っこちてつかれちゃった。砂のまんまよりニカの体になるのがいいって言ってくれた。みんなが集まってニカになった。
人間の形になれましたが、かんきょうがちがいました。動くとばらばらになりそう。だから休けいしてました」
満面の笑みを見せる。あのときの挨拶を思い起こさせた。
「ああでもね、お休みしすぎたな。みんな、ニカたちのせいでたいへんになってしまいました。
喜んでほしかったのに、はんたいになった」
「それはボクたちの力不足だ。星にお願いをするだけして、頑張らない人が多いのはその通りだから」
赤いまま、青の口調で琴野は告げる。
「ニカはすごいよ。人間だけではなくて、仲間たちのお願いも背負ってきたんだろう? 脚も……スイちゃんに、迷惑かけると思ったんじゃない」
眉尻を下げたままのニカの目がこちらを向く。急速に湧き上がる雫がぼたりと落ち、シャツに染みを作った。
「だから教えなかったんだね。
辛かったね。よく、頑張った」
「……ううん」
はたはたと落ちる涙を、琴野は残っていたタオルで払っていく。手を出せなかった。その言葉をかけるのは自分の役目ではないと思った。
「体が砂に戻っているのは、単にお前と仲間とやらが力尽きようとしているからか? 元には戻らないのか。双紅の日はもうじきだが、影響は」
「もどらないんだ」
鼻を啜りながらの声はくぐもっている。脇のティッシュ箱から中身を出して渡してやった。
「ありがと。……ニカの役目は人間に教えてあげること。それと、いっしょに叶えてあげること。ニカはまたまちがえました。がんばりすぎました。スイのお願いしか」
「スイちゃんの? 見かけによらずメルヘンなんだねぇ……。どうかお願いお星様! しゃららんきらきらりーん! なんてする性格だっけ」
「こんなときまで喧嘩を売るな。観測は長く続けている」
だが、無意識に強く願っていたのかもしれない。
そのせいで、こいつは消えそうになっているのか。
「水から引き上げた義理か? 願いの成就を祈る奴ならごまんといる。命を賭けているような人間が」
「お空にいるとき、ずっとスイの声聞いてたよ」
声を。
ニカの空はスイの話す空。
あれは世辞ではなかったのか。
「だからすぐわかった。ニカたちを話してくれてた声はあのひと。いっぱいわくわくしたから、今度はニカの番です。ニカの体のみんなも、それでいいって言ってます」
「目も当てられない、下手な話だったろう」
厚紙や黒いビニールを使った自作のシアター。科学施設で触れた大型の天体望遠鏡。今の部屋にある投影設備。天体観測もその真似事も、腐るほどやってきた。
そんな作り事を、本物のお前が好むのか。
「それで、他の願いに干渉する余力はないんだな」
机の上に投げていた袋から琴野用の菓子を取り出した。突き付けると当然の如く受け取られる。少し癪だが、それがこいつだ。口止め料とでも思っておけ。
「お前の望みは何だ」
「ニカの? みんなにお願いちゃんと届いてる、って」
「そうじゃない。いやそれもあるかもしれんが、もっと即物的な欲望、欲求と言うべきか何というか、成し遂げたいことはないのか」
「言葉が重いなぁ」
「お前は黙れ。
ニカ、やりたいことはあるか」
収集した砂同様の姿になっても意思は残るのだろうか。ニカは砂と意思疎通が出来ると言っていたが、こいつだからこそ出来ると思う方が妥当だ。だったら可能なうちに。
「何でも良い。食いたい物でも見たい物でも。
残念ながら金には限りがあるが、お前の為なら出来うる努力は全てする」
「なんで。今日、楽しかったんだ。ニカはもう」
「まだ時間はある」
だから、この期に及んで泣きそうな顔をするな。妙な罪悪感が湧く。無駄なことを考えてしまう。
「最後とは言わん。家族サービスくらいさせろ」
琴野の口笛は無視だ。先に言ったのはニカだし、これが最適の表現というだけで。羞恥心など砂粒程度で十分だ。
高々、精々。その類の言葉がつく時間しか共有していない。だが、否定が叫ばれない程度にはそれらしく過ごしてきたと思って良いだろう。思い上がっても、良いだろう。
「ニカはね……」

幸せすぎてだめになりそうよ。
点きっ放しのテレビの音声にぎょっとした。ドラマの再放送か。見れば犬が前足でザッピングしている。行儀が悪い。主電源から消してやった。
「暇なのは分かる」
抱えようとすると身を捩るが、折れて大人しく腕の中に収まった。
「お前も入るなと言われたんだろう。何なんだろうな」
ニカは、夕食を済ませるなり自室に鍵をかけてしまったのだ。家事も業務も全て済ませている。見たい番組がある訳でもなく、思い切り暇を持て余していた。
最も、今は自宅待機が主な仕事といったところだが。
双紅の日と同規模の天文現象が起きるのは明日。ニカのこともあり、休暇は勝手に延長させられていた。琴野が口利きをしてくれたのだろうが「スイおじちゃん頑張って!」という謎の励ましを同僚から受ける羽目になった。
休暇の延長は線量の高い場所の担当だったことも影響しているのだろう。体内に蓄積された有害物質が抜けきるまで、本格的な調査を再開することもままならないのだ。
なんとはなしに水槽に近付く。特に変化はなかった。

ニカがやりたいと言ったことはシンプルだった。

「夏休み。ニカもしたいです」
読んでいた雑誌に夏休みをいかにして過ごすかを取り上げた特集記事が載っていたのだという。科学館のような施設の紹介から自由研究の題材まで選り取りみどりだ。
自由研究。
そんな文化がまだ息づいているのかと驚いた。ニカはそれらに、片っ端から取り組みたいと言い出した。そこに書いてあることが、ニカの「夏休み」の全てなのだ。
流石に遠出は難しい。ならばと、まずは自宅でできる科学実験なるものに手をつけた。
水性ペンのインクを分離させる。塩の結晶を作る。果物で電池を作る。こちらからすれば懐かしさを伴うそれらに、ニカは目を輝かせていた。
仮名文字と平易な漢字は習得していたので、持っている語彙を駆使して結果を書き付ける。コンピュータで出力した写真を張り付ければ、立派な研究ノートが完成した。最後のページには、学校の教師がするように赤色のペンで一言と花丸を書き添えた。
それから「科学料理」と銘打った特集も実行した。酸性とアルカリ性を利用して食材の色を変えたり、食品の特性を簡易的に調べたりするものだった。身近にあるものでこうも工夫ができるのか。いつ買ったかも分からない加工レモン汁の使い道ができた。
食材を切るのに包丁を使ったのだが、これが良くなかった。
「砂化」は全身に進行している。腕も同様に。作業中に力が入らなくなる場可能性を考慮しなかったこちらのミスだ。滑り落ちた包丁は、むき出しの足近くに落下した。
「すまん。怪我はないか」
「ん。ちょっとびっくり」
「残りはやる。場所を代われ」
「やだ。やりたいです」
「なら一旦休んでからだ。今すぐは無理だろう」
「やるの! やらせて、ニカがやるから」
「いつでも我儘が通ると思うな!」
駄々を捏ねることのなかったニカが、ここまで言ってきたのは初めてだった。「夏休み」全てをやりきるのに時間が足りないかもしれないという焦りだろう。分かってはいるが、敢えて叱るように言った。途端に表情が凍った。
「だって、……っう、ぅ」
「泣くな」
「っな、ないていません」
「……急いでしまって上手くいかなかったり、お前が怪我をする方がよっぽどだ。分かるな」
「わかります」
「よし」
頭を撫でた。腕が動くようになるまで、夕飯用のトマトを二人で粗方食い尽くしてしまったのは致し方ない。
「泳げるようになりたかったけど、時間がないか」
「……水遊びも似合うんじゃないか」
「スイ、いまのはちょっとばかにしたね?」
汚染が少ない地域では、屋外プールも未だ開放されているらしい。しかし近場でも片道で半日かかる上、ニカから砂が流れ出てしまう。普段もシャワーで済ませているのだから、こればかりは妥協せざるを得なかった。
「やっほー! スイちゃーん頼まれ物だよー!」
バベルの備品も捨てたものではない。今までも何かしらを拝借していた。馬鹿でかい謎のタライを見繕ってくれた琴野は何故か髪色が赤寄りの紫になっていた。
リビングにビニールを敷いて水を張ったタライを置く。一度も使っていない透明な容器や、琴野の私物であるビー玉の類も準備した。ビー玉を集めている理由は訊くまい。
「「僕」が集めてるんだよ。ボクじゃない」
「どちらでも良い。その髪は何だ」
「これ? なんかね、彼女の提案。これまで以上に仲良くなるには気分転換も必要だ、って脳内会議が開かれて」
もう一つの人格との対話は脳内会議と言うらしい。
タイピンもそうだったが、星の子らしく光るものに惹かれるのだろう。ニカは薄い緑の容器に水と極彩色のビー玉を入れ、下から覗き込むように透かしていた。タライの傍に椅子を設置したので足湯のような体勢になっている。犬も興味津々といった様子で、その手元に注目していた。
「冷たくってきらきら。星のみんなよりきれいだ」
「ふっふー。んなこと言ってぇ」
「うそじゃないですよ」
言葉通り口角が上がっている。タライにぶちまけられたビー玉の成り損ないを足で弄りつつ、
「ほんとよかったよ。星のまんまだったら、このきれいも知らなかった。きっと、今のニカはしあわせです」
「それはそれは。地球人代表としてお礼しなくちゃね」

「…………幸せ過ぎて駄目になる、とは言うまいな」
足が重い。犬が膝下を引っ張っていた。持ち上げ、水槽を見せてやる。猫でもあるまいに、尻尾が大きく振られた。餌を変えてから、魚の色が目に見えて明るくなったように感じる。あまり美味そうではない。
「とってもお待たせ!」
振り向くとニカは何かを後ろ手に隠して立っていた。座れと言われたのでキッチンの椅子を引く。これで目線は同じになる。
青白くなっていた頬を拭ってやった。砂、星に近付くさまに、今や掃除も追いつかなくなっていた。
「じゃーん」
リボンの巻かれた紙筒を掲げてみせる。何とか蝶結びの体を成しているそれはすぐに解け、膝の上に落とされた。
「スイへ。
スイはなんでもできます。おそうじもおせんたくもできます。料理がとてもとくいです。ぜんぶ一ばんおいしい。頭がよくて、星のこと、ニカたちのことも知ってます。すごいです。でもたまにうっかりします。犬とけんかもします。水そうをあらうのはニカのほうがとくい。れんしゅうしてください。あと、コトノとなかよく。コトノはへんで、いいひと」
一瞬目線を上げる。空色の瞬きをしてから続けた。
「ニカ、スイのお願いがかなえられそう。たくさんもらったので、おかえしできてうれしいです。
明日からニカはいません。おうちに帰らないといけない。帰っても、ぜったいスイのとこに遊びにきます。そしたらお話してください。星のお話。
スイの声が、ニカはだいすきです」
たくさんごめんなさいがあります。ありがとうも。
でもたぶんほんとうにまた会えると思うから、さよならじゃないです。
いってきます。早くただいまも言いたいな。
「スイにかんしゃじょう。ニカより」
紙を再び丸めていく。脆くなっている指が擦れ、星が床に散った。結び直しに苦戦していたので手を添えた。
「こちら側を上に持ってくるんだ。それは縦結びになる」
帰って来るのなら教えておいて損はない。
「ありがとう。大切にする。それから」
そろそろ、良い具合の時間だ。
やるぞ、と言うだけでニカには通じた。犬に声をかけてロフトに走っていく。注意を促しつつ、コントローラで照明を低くした。窓という窓のカーテンを開ける。夜藍の色が白い部屋に満ちれば、準備完了だ。
「それではお待たせ致しました。
今夜の上映は、一冊の本の内容を抜粋してお送りいたします」
ペンライトで手元を照らす。あるのはニカが選んだ本だ。
「夏の夜空に浮かぶ星座、有名なものはもうお話してしまいましたね。では、これはいかがでしょうか。
とても賢い、あるお医者様の話です」
「おいしゃさん?」
「あぁ。琴野とは比べようもないぞ。……この星座の周りには沢山の星の集まりがあります。そう、さそりも近くにいますね。隣には蛇。分かるか? この辺りにも特徴的な星団があります。仲間で固まるように」
ふと窓の方を向けば、そこには人数分の影が写りこんでいる。自分と犬と。ニカの、鏡越しの姿だ。
「星座の基になった話は大抵、人間臭いものばかりですが。彼はそうした神や女神とは違いますのでどうかご安心を。
不遇を乗り越え努力を重ね、何と彼は死者を蘇らせる術を編み出してしまいました。これに、冥界……亡くなった人のいる世界の王様は焦った。秩序が乱れてしまうと、大神に抗議しました。大神は迷った末、彼の命を奪うことに決めた。ですが、のちに彼の魂は功績を認められ、空に迎え入れられました。健康を司る杖を持った姿で、私たちに今なお光を投げかけているのです。
彼の正しさは天秤座でも測れないのでしょう。人々の幸福を望む心と秩序を望む心との衝突は、星の巡り合わせが悪かった、と言うほかないのかもしれません」
重ねていた絵を消し、流星群が映るよう設定を変えた。驚きの声は上がらなかった。故郷から見ていた風景に重ね合わせているのかもしれない。
ニカの正面に腰を下ろす。
「何事もそうだ。と、思えるようになった」
「ニカはずっと思ってたよ。遅れてるなぁ」
自慢げに胸を張る姿が窓に写る。犬はやはり寝ていた。
「作り物って言いました。スイ、前にね。
だけどニカの中では、このお空がほんとうです」
「そうか」
仮構の夜藍に浮かぶ星。
人間を擬装した星。
それらを丸ごと否定する根拠は持ち合わせていないし、また、持つ必要も感じなかった。
「ちゃんと、ここからでも見えるように光れよ」
「うん。わかってます」
暗闇でも髪色が眩しい。これなら問題はなさそうだ。

見知らぬ番号から着信があった。折り返すと出たのは琴野だ。機種を変えたとは聞いていない。
「すぐ来なよ。バベルの最上階だ」
青い声は一方的に通話を切り上げた。
最上階は一般向けのものと観測用のものと、分離した展望台になっている。ふざけてはいるが今夜も景色が綺麗よなどとぬかす奴ではないので、観測用に向かう通路を急いだ。胸がざわつく。倦怠感を伴ったざわつきだ。ここ最近は忘れていた不快な感覚。ニカが来るまでは始終、頭の隅にあったのだが。
双紅の日は何事もなく過ぎた。
あの部屋には、掌で掬える量の青白い星と様々な「忘れ物」が残った。寂しさがないと言えば嘘になる。
だが顔を出すと言っていたのを信じ、箱に纏めて保管しておくことにした。「離れて暮らす子供でもいるみたい」と赤い琴野から揶揄された。蹴りを入れておいた。
エレベータのボタンを連打する。着くと、入口からでも分かる人だかりができていて少し引いた。ここの連中が騒ぐ姿は滅多にお目にかかれない。
「来た! 遅いぞ、ったく」
人を掻き分けて飛び出した琴野は未だ青い。しかし表情は、赤と大差なく浮かれ浮ついたものだ。
「一体何の騒ぎが」
「スイちゃん?」
幼馴染の声がした。
バベルへの所属が決まる直前。遠征調査に行った先で、星の濁流に呑み込まれた筈だった。連絡は途絶え、行方不明扱いにも時効が来る寸前だったが。
ユアは無事だったのだ。
「もう! わたしなんかおばさんになっちゃったのに、全然変わらないのね。琴野の言ってた通りだわ」
「お前も……十分、変わりがない」
「やっだ、持ち上げなくたっていいのに!」
頬の辺りがやつれているが、いたって健康体のようだ。ユアを知る数人の研究員が肩を叩いてくる。その他、バベルから退いた知人も大勢集まっていた。
「随分と離れた国で、先生をやって過ごしてたんだと! 国交のほとんどないところだ。バベルも未調査の」
「帰国手段もないしで、とっくにいない扱いになってると思ってたらしい。それがまぁ、幸運が重なったな!」
「そうなの。地球の反対側で、実際もう諦めかけてたんだけど。不思議な出来事ってあるものね」
「ユアなら絶対に無事だと思ってたけどな。オレたちは!」
「嘘つけ、さっきまで泣いてた癖に」
「……まずその、不思議とは」
月の白肌に闇より深い漆黒の髪。学生時代、そんな恥ずかしいキャッチコピーを彼女につけたのは誰だったろう。今のユアの髪は、真昼の空を転写させたような桃色になっていた。染髪にしては、不自然なほど自然過ぎる。
「そうそう、スイちゃん聞いて! 夢に子供が出てきてね、帰り方を教えてくれたの。予言っていうやつ? どこをどんな船が通るのかとかね、すごく事細かに」
きらきらと、疑いを持たない瞳でユアは語る。
隣では琴野が愉快そうに腕組みをしていた。
「予知夢とも違うけど。願いを叶えてくれたのかしらね」
「……どんな奴だったか、覚えているか」
「ええっとね、すごく綺麗な空色の髪でね。けっこう派手だったかなぁ……なあんて、今のわたしが言えることじゃないわね!」
夢を見てから、ユアの髪色は急変したのだという。
「そいつは」
名前を呼ぼうとすると、視界に空色が散った気がした。
良いだろう。
まだ、言わないでおいてやるさ。

にせものリウム 4

すっかり秋になり、見られる星座も変わってしまいましたが。少しでも楽しんでいただければ幸いです。

にせものリウム 4

続き物、これが最後です。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-08-31

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著作権法内での利用のみを許可します。

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