回り道
幸せとは、回り道の先にあるものだ。
幸せとは、ちょっとしんどい目を見た後にあるもの。
こないだ、私を病床の縁から救ってくれた恩人が大阪の従姉妹の家に遊びに来て、私は早速、のこのこと出歩いていった。
自転車にも乗らず、運動を兼ねて4キロほど歩いた。
ジャージにニット帽の短い髪の男の子のようになった私を見て、その人は「まあ、そういうのもお洒落で良いね」と言った。
それから二人で誰もいない家の中、テレビを見ながら過ごしたが、私は少し退屈していた。
その人が年老いていたというのもある。私は若者の中でもどちらかといえばよく尽くしているほうだったが、お昼を食べて行けと、正直おかしな味のする味噌汁を飲み、食欲が進まなかった。
明日は、泊まりに来いと言う。
私はこのとき、失敗を犯した。
確かに私の持っている持病が、悪化する恐れもあった。しかし従姉妹は私が来ると喜んでいたようだし、叔母たちもその人の発言で、それなりに準備していたようだった。
私は母が「まーた勝手に決められちゃって」と言うのも手伝って、三日続けて4キロ歩いた手前、ひどく疲れていたのもあり、それを断ってしまった。
すると、翌日電話があり、その人が田舎に帰るという。
その声には、元気がなかった。
私は、このとき失態を犯したと気づいた。
つまらなくとも、付き合ってあげるべきだったのだ。幸せとはつまらなかったりしんどかったりする回り道の少し先にある。
叔母はあっけらかんとした人で、私が腹の中にいるころから見ていてくれた人だから、関係性を心配することは無かった。
しかしその人には、その頃私という人間が必要だったのである。
もう忘れ去られたことだが、あの時のことは私にとって一生消えない染みとなった。今まで距離のあった従姉妹や叔父とも、仲直りのきっかけになったかもしれないのに。
あるいは、私の一人問答かもしれない。
しかし、思うのだ。
生きている者は誰しも死んでしまう。私の儘になることなど何一つない。私は失われる一瞬を、切り取るように覚えておきたくて、それにはその人について手を抜いてはいけない。
人に添いたいと思ったなら、多少傷つけられても、真剣にその人の怒りや思い方について理解する必要があり、気長に付き合うことだ。
それは万人に向けていたら疲れてしまうけど、それでも思慮深くはなれるはずだし、新しく世界は開かれ、偏見もなくなるだろう。
仲良くするとは、理解するということなのだ。そのためには無知でいるわけにはいかない。
私は精神障害2級の障碍者で、しかし外出先で嫌がらせに会うこともなく日々を過ごせるほどには回復した。それは私がタフになったという面もあるけど、ひとえに周りが大人で、少しは私のことに理解を示してくれるからである。
どうしようもないことをしているな、というときには叱咤が飛ぶ。それは当たり前で、シャカリキなこの地らしさだ。喧嘩をすれば華があり、祭りごとには手を抜かない。しかしその代りあんまり卑怯な真似もしない。私が多少は身を守るためのキャラづくりをして面白く見られているという利点もあるけれど、やっぱり優しいからだと思う。
一人で外出する度に、変な目には合う。それはしんどいことだけど、人に言えば案外笑い話に早変わりし、私の軟な部分が感性の邪魔をしているとしか言いようがない。
幸せとは、ストレートに来ないのだ。ただその努力は少しで良いものだし、根気さえあれば誰にでも降り注ぐ。
続けるということを諦めないことが大事なのだ。
話は変わるけど、私は作家活動を続けるにあたり、やはり働いた方が自分の為にもなると思い人に話した。
しかし病的体験はまだまだ治まらないし、私なりに理解して人の怒りに触れているのだということを語っても、それは妄想だよ、と片づけられてしまう。
第一、薬を減らせていない。
そのことが大きいらしい。
病院の先生にも言われたが、「焦らないことが肝心です」とのこと。
もし世の中が私の誇大妄想の通り、私に誰とも縁を無くす代わりに、私に一生分の猶予を与えてくれたのだとしたら、私はその中で文を書き、自分の目で物を見て、自分の世界を作り上げるだろう。
律することを覚えるだろう。それなりに楽しく過ごすということも覚えるだろう。
幸せとは、ストレートに来ないのだ。
多少の犠牲はつきもので、先生はそれを与えてくれようとしている。
「あなたは一生分の苦労をしたのだから、そろそろ楽しんでいきなさい」と。
私は人が思っているよりデリケートで、他人とは一定距離を取っていないと付き合えない。
人の汚れた一面を見るのが苦手。付け込まれやすくて、酷いときには盗難にさえあうものだから、働けなくなった。
でも、その時期の一生分の苦しみが、今の私を作ってくれた。
優しく生きなさいと、傍の人たちが教えてくれた。あなたが許せば、世界は変わると。
私は、幸せとは、回り道した先にあると思う。ストレートに来ないもの。
だからこその今があって、それは誰にも文句は言えないし、笑う者がいたなら、その人に悪意があれば醜く、親愛があれば微笑みかけたく思う。
私は、明るい馬鹿でいよう。
そうして少しづつ世界を知ろう。人の痛みを知ろう。
だからこそ今の人生は続いていくのであり、私にはそれを考え抜く権利が与えられた。
今はそう思っている。
回り道
最近思うことです。