洋燈を消せよ
――――暗がりの中に煙を喫(の)む兄の目は、そこだけが途方のない絶叫に塗り隠されているようだった。何かおおきなものを探しあぐねて長きを経たようにも見えた。そうした疲れはかれのうつむけた頸すじのなかにあらわれて、このうれはしい闇のうちに、わずかに頽廃にも似たものを産み付けて去る、蛾のごとくに不快な、けれども、奇妙にもそれらしい――とも思えるものなので――おれはふとそのもやのそこまで手を伸ばす。兄がそのきはまで行ってしまわないようにすべきと思って……。
§◎§
ふるの用いる幾つかの煙管の中に、あまり使うところを見ない、いやに古い羅宇のものがある。
羅宇は幾度か替えているらしく見えるし、手入れはするから未だにちゃんときれいだけれど、雁首のあたりの鈍くひかる金色に、おそらく年季のために錆の混じった黒い濁りが、薄くぜんたいに広がっているのを、おれは見たことがあった。それでおれはこの兄にいちど限り、「どうしてそんな古いものをいつまでも使うのか」と訊いたことがある。ふるはおれを一瞥して云った。
「ただそこにあると落ち着くものってあるだろう」
「……愛着だとかそういう意味か」
「少し違う…がうまく説明がつかないね」
彼はそのときも煙を喫んでいた。彼はこうしたとき部屋の窓を開けておかないものだから、堆く積み上げられた古書の黴と埃の薄く重なるにおいのなかに、あふれる煙が行き場をなくしてざわめきながら、空気の中を這い濃くわだかまるようになる。兄のてのひらの細い線さえ靄のかかったようにかすみかかる。
「むかし、私の兄だった人が使っていたものなんだ」
ふるは口の中にころがしていた煙を長く吐いた。
「…アンタ、兄なんていたのか」
「もう死んだよ。ずいぶんになる」
「初めて聞いたな、そんな話は」
「誰にも云ってないからね」
おれは、彼に家族らしいものがかつてあったことを、このとき初めて知った。おれはたびたび、この兄のことがよく判らなくなる。
――――彼はおれにとってたったひとり家族と呼べるひとである。ほんとうの父母を、覚えていないくらいのむかしに亡くしたおれを、古書のこもるにおいのなかで、ああして育てたのは彼だった。彼はおれのことを、息子というよりは弟と称し、おれも彼のことを親というより兄と称する。
彼は他人には旧川と名乗る。おれは彼に云われて、彼をふるとだけ呼ぶ。おれは彼のほんとうの名前を知らないし、それは彼を旧川さんと呼ぶ、あたり一帯の他人たちも同様らしく思われた。
兄は時に厭世的な目をする。兄はおれよりほかの人々にはひどく冷たい。おれはもうすぐ数えで二十歳になるが、そのほとんどをこの傍らにありながら、おれはふるのことを何も知らない。
§◎§
ふるは、たびたび噎せ返るほどの煙のうちへ籠りたがる。
§◎§
兄は夜になると、闇のうちへすがたを解かしてしまうことがある。
すがたかたちのまるきり失せた状態で、兄はしばしばやはり煙を喫む。おれは足もとの影をひろい集めて広げることができるけれど、その影の糸にすら、兄の像はひろえない。彼は音もなく歩み、陰鬱なところで滞る。滞ってはうち沈んでいる。
おれはそうした兄の挙動がこわい。
「ふる」
呼んでも彼は返事をしない。
すがたを見えなくした兄は、たてる音さえこちらへ寄越すことがない。触れても何の感触もない。そこだけにんげんであることを諦めて、彼は夜と永い永い向かい合いをしている。そのもとから流れてくる煙の濃い馨りだけをたよりにして、おれは兄のすがたのおおよそを捉えなくてはならない。
ふるは夜の間だけ、喫む煙の種類を変える。慣れぬ馨りのおおもとに、兄がいるのだと思えば、むかしからどこかで安心ができる。
けれどおれはすがたに裏打ちされない兄の存在がこわい。
「…また、いるのか。ふる」
兄は時に、おれが夜に出ていくと、そのあとをついてくる。
煙だけが嗅覚をつく。
§◎§
「あおい」
陽が落ちてから――ふるがおれの名前を呼ぶとき、それはおよそ「灯りを落としな」とつながる。
兄はそこにおれがいても、暗がりの中で煙草を喫むのが好きだ。
「…アンタ、なんでいつもそう、暗いところで喫みたがるんだ」
ふるはひとたび黙した。おれが灯りを落としてくるまでの間、彼は煙草に火を入れて、もやを深く吸い入れるところだった。「どうしてだろう。落ち着くからかな」窓も開けない暗い部屋の中に、煙と声とだけが吐きだされて、そこが、ふるのためだけの空間になってしまうように思われた。おれはそこに居所を失う。
よく見ると、ふるの指のうちには、あの兄のものだったという細い羅宇があった。
「その煙管と同しように?」
「…そうかもね」
「そんな暗いところに何があるっていうんだよ…」
ふるは時に答えない。あたりの夜以上に濁りを深くした目のうちで、おれは彼が何を考えているものかを知ることがない。
けれど、静かなふりをして、叫んでいることだけがわかる。
§◎§
おれは夜が嫌いだ。
その音のない叫び声も嫌いだ。
§◎§
――――ふと手を伸ばしてみて、気が付いたら、その暗がりの中に、おれの手が、ふるの頸すじを掴みかけていたことがある。咄嗟に後退した身と、煙草の火をもそのままに、けれどふるは、わずかな当惑だけをあらわして、おれの、まだ力すらかからない手を払いのけることもないまま、広がる煙を横目に云った。
「お前はにいさんにそっくりだ」
その声はつぶやきよりもはるかに小さかった。おれはその真意を掴みあぐねた。ふるは――ふたたび煙を吸い、吐くそのとき、幼子にするようにおれの頭を撫でた。
「……そう寂しそうにしているなよ」
吐かれた煙がおれの周囲を取り巻くように思われた。
洋燈を消せよ