我が一族の思い出話

ひたすら赤っ恥の多い生涯でした。

これは私の幼いころの思い出話である。

私の母方の祖父は早くになくなっており、接点がなかった。
基本的に父の実家でご飯を食べ、寝起きこそ別にするものの、ほとんど父の実家に入りびたり、叔父家族と過ごす日々。

そんな中で、今の私が文学に出会うきっかけを作ってくれたのは、他ならぬ祖父であった。

祖父は主に、長男の子である従姉妹達に本を買っていたように思う。
しかし、活発な従姉妹達は全く本を読まない。
山と与えられたその本を、むさぼるように読むのはもっぱら私であった。

私は五歳の時から漢字を覚え初め、よく褒められた。
芥川龍之介の蜘蛛の糸や杜子春をNHKで見て、実際にその本を読む。太宰治も読んだ。
私はこの耐えようのない興味を引かれる本たちはなんなのだろうと、半ば不思議に思いながら、吸い込まれるようにそれらを吸収した。

従姉妹達の母が、また本好きな人で、教育に携わる本や童話の読み聞かせのカセットテープなど、従姉妹達のために用意してはせっせと聞かせているのが羨ましく、忙殺されてそれどころでなく、いつも怒鳴ってばかりの母が半ば恨めしかった。
それらしいことを言うと、平手が飛んできて母が泣くのも日常茶飯事だった。

叔母は私が大人しく、本好きで、女の子らしい文化的な性格であることを見抜き、よく遠出した際に、レターセットやハンコなど、女の子が喜ぶものを買ってきてくれた。
従姉妹達の面倒を見る代わりに、本を買うお金もくれたし、一緒に買い物にも連れて行ってくれた。
この人には恩義が深いのだけど、三年前の正月に従姉妹の悪戯により私が陰口をたたいたことが発端で喧嘩が勃発し、仲たがいしてしまったのが悔やまれる。
あれほど、手本となる素晴らしい人はいなかった。
私たちの青年期は、経営難から正直あまり喜ばしくない面も見え隠れしたが、それはお互いさまであったろう。
私は元来のむっつり型で、押し黙り、兄は友達意外とはまるで話さない。弟は精神障害が出て誤解を生み、叔父夫婦を嫌っていた。

色々といけなかったのは、祖母の経営する店で、母や叔母がこき使われていたという面もある。
給金も出ず、朝から晩まで働き詰め。
母は私たちの幼いころの思い出を知らないと今でも嘆く。
またこの経営がどんぶり勘定。
様々な出費をしては見栄を張るように金を使う叔父と祖母に、周りはやいのやいのと愚痴をこぼす。
しかし祖母は後年、意地を張って一人で家でご飯を食べる私を心配し、小遣いをくれたりとなかなか世話を焼いてくれた。
異国に行った際その国の華方的民族衣装を買ってきてくれたのも祖母である。母は着ている姿を見て「大きくなった」と泣いていた。
私の心掛けが悪いせいで、苦労を掛けた。

父もまた、叔父に嫌われ、弟だというのに顎で使われ、給料が14万という日もあった。
あの日のことは忘れない。ある夏の日、初めての家族水入らずの旅行先で、車が変なところに止めてあるからお前が見に行け、となぜか旅行先の父に電話がかかり、急きょ旅行は取りやめにしてその日に帰った。
横目で見たプールの楽しそうな様子が今でも忘れられない。恨み言は言うなと言うが、叔父は性格に難があった。

子供のころの私は、普通より背が高く、ほっそりとしてモデル体型。自分でも誇らしく思い、よそに出れば褒められる。
母も自分の若いころの服を着せ、お洒落をさせてくれた。
叔父も私と弟が可愛いと、いつも冗談を言ったりからかったりと可愛がってくれたのに、なぜか兄は除外され、徹底的に虐めるという始末。
訳がわからない差別である。
叔父はやはり性格に難があった。可愛がってもらった手前言うのも何だが、そこは尊敬できなかった。

しかし、天罰とは訪れるものである。

叔父は脳こうそくで倒れた。
実質的に父に実権が回り、父は社長の座にこそ就かなかったが、叔父をけちょんけちょんにやっつけた。これは父も悪い面が出たと思うし、従姉妹達の手前可哀想だったと思うが、積年の恨みと言うやつで、叔母も文句は言わなかった。
叔母がいつも叔父にやっつけられていたようなものだから、叔母も叔父に恨みがあったともいえる。
しかし従姉妹が父を睨みつけている様は見ていて哀れであった。私はここでも、弱弱しくだんまりで、顔を見せるたびに叔父に親しく挨拶はしたが、後は世話を焼いてあげた記憶もなく、薄情者である。

叔父夫婦の長男と言うのが、また家を継ぐために折角良い大学の法学部を出たというのに、土木の世界に引っ張り込まれたというのが聞いていて気の毒であった。
しかしバンドをやっていたほどの手腕の持ち主であるから、そこは馴染んで、先輩方に可愛がられて仕事していた。私たちのようなぼんくらとは違う。

叔父家族と私たち家族の相違点。
子供の教育に熱心であったか、なかったかに尽きる。
夜になると、うちに母はいなかった。帰ってくるのは夜中の0時。学校でいじめに遭っていたときも相談相手はおらず、父は家では寝てばかり。
よそに連れて行くということも丸っきりなく、キャッチボールすら兄や弟は知らない。
徹底的に構われなかったというのは私たちの自信を育てなかった。私と弟は全く同じ精神病を患い、父は放任主義で、今じゃお気楽と笑っていられるが、飼っていた犬の世話も自分が飼うと言いながらせず、病院にも通院させず、結局は長生きしたのだけど最後はフィラリアにやられた。
しかし17年生きたな。
あれは奇跡の犬としか言いようがない。祖母が拾ってきて拾ってきたうえで保健所にやろうというので、母が「可哀想だ」と言ってうちで飼うことになった犬だ。

良い犬だった。幼いころの私の人形になりながら、母たちの代わりに私たちを見守ってくれていた。
全く噛まなかった。散歩に行かねば気が済まないところが難があったが、後々外にすら出られなくなった私がまた外に出るきっかけを作ってくれた子だった。
そう思うと、福である。
祖母が「あの犬は福を連れてきてくれた、私が拾ってきた」と言うので、父が「何言うとんじゃ、阿保抜かせ!」と叱っていたのを思い出す。

ここまで書いてしまってから、私は家族のことを相当に恨んでいるとお思いだろうがそうではない。
ここまで書いたのは、私の時代背景を知ってほしいからで、それは私の本心をある人たちにさらけ出したいという欲求でもある。
本当は違ったんだ、私は全然、恨んでないんだ、そう釈明したい。

そして、私たち親子は、どちらかというと本の虫であった。
母が沢山話しかけたときだって沢山あった。しかし私は絶賛本の虫。だんまりで「話聞いてないね」と呆れられることもしばしばあり、中学でいじめられたのはたまたま運が悪かっただけの話だ。
母には本当に、今日まで可愛がってもらった。服装はいつだってトップランナーのようなハイセンスなものを選んでくれたし、弁当はいつだって美味しそうだった。

私たち父子は、会話の代わりにコミュニケーションが豊富で、いつも一緒にツタヤに繰り出しては、ゲームを選んだり漫画を買ってもらって一緒に追いかけたりと、子供の友達のような関係だった。
父はドラクエをしている間に赤ん坊の私が階段から落っこちたという伝説を持つ男で、私はその時のことを覚えているが、軽いからぼうんぼうんと尻持ちをついて一段ずつ落ち、痛くもないがびっくりして泣いただけのことである。

私が学校での鬱憤を、三國無双で敵を切り殺しながら発散していると、父も傍にやってきて、ああだこうだ言いながらゲームに興じた記憶がある。
結局三國無双を1から最近まで追い求めることとなり、非常に思い入れの深いゲームとなった。
父は信長の野望派。金が回らない時に私が最新版を遠く離れた地で遊べと、買ってあげたのがごく最近である。

弟はすっかり叔父に懐いていたかと思えば、私の睨んだ通り、その臆病な性格からハリーポッターのネズミに化けていたヴォルデモートの部下よろしく、指示をくれるリーダーを欲していただけで、叔父が倒れるや否や、急に恨み言を言うようになり、今度は母方の母の叔父の社長にゴマをする有様。

あれには呆れた。祖父が臨終の際には「武勇伝が聞きたい」と良い恰好して、とことん世の中の渡り方を熟知している。そして私たち兄弟を見下して「自分が長男だ、お前らは弟妹」と妄想猛々しく言い出す始末。
大学から帰ってくるたびに、向こうで自分が遭った嫌なことを「お前らはこんな体験もしていないだろう」と見下して散々当たり散らしては、私の車を拝借して友人と働いている私を馬鹿にし、ガソリン代を寄越せと詐欺よろしく口車は上手い。
当然のように言うのでついこちらもはいと渡してしまう。

あいつだけは許せない。
幾ら精神病に陥っていたからと言って、あれは無い。現状は可哀想だと言えるが、老後の面倒を見れるかと言われれば自信がない。
とことん自分が折れるということを知らないのだ。最低な奴だと胸を張って言える。

私がこれらを書くにあたって、何故これを書いたかというと、最近知啓があり、「そうそう、従姉妹達とも仲良くしなくてはなぁ」と思うようになったからである。大人になったのだ。
私の訳の分からない我儘に突き合わせて、あの正月は酷い目に遭わせてしまった。
従姉妹とそりが合わないのでなく、いい年をして合わせ方すら知らなかったコミュ障の私が悪い。

だから、私が見た目に反してコミュニケーション障害であるということをわかってほしかったのだ。今まで恋愛面でも碌な目に合わなかったせいで、男の人とは死んでも喋れない。
徹底的に人間不信。口下手。

従姉妹の末っ子の子にも、当時飼っていた犬のことや私の性格の面で苦労を掛けた。もともと優しい子で、自慢できるほど美しい子だった。
私が当時都会に来たのだから、面接のとき太っていては落とされるとダイエットしていたのをその子を意識していると邪推されたのはさすがに腹が立ったが、ちゃんと言い返せたからよかった。
この子がまた、犬の面倒を見てくれたのだ。姉の方の子ははっきりとした性格で、正直苦手なので悪口になる可能性があるからあまり書かないが、この子が来るまではそれまでは平和であったと言える。

私は人との接し方がわからず、当時久しぶりの共同生活に戸惑っていなかったと言えば嘘になる。
あの見栄っ張りの田舎にすっかり染められて、化粧はばんばん、人見知りもばんばん。
そこにあの従姉妹のギャル特有の攻撃をされては、たまったものではない。
私はひたすら立つ瀬が無い。

ここに書いて伝わるかどうかなんてわからないが、私はあなた達と仲良くしたいのだ。
仲直りしよう。私たちの代で終わりにしよう。

その折は、本当にすみませんでした。
本当に、ごめんなさい。

ただそれだけを伝えたい。

そのための手記である。

ここに筆を置く。

2016.8.27

我が一族の思い出話

伝わるでしょうか。

我が一族の思い出話

恥じ多い、私の懐かしき記憶である。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-08-26

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted