僕のあがいた時期
大谷さんは、実に僕の興味を引いた。
大谷さんとの出会いは、偶然だった。
田舎で、バスに乗る時だった。
車いすの老人が、バスの運転手に「なんで俺を乗せないんだ!」と怒鳴っていた。
僕はその頃大学を中退したばかりで、暇だったので、「僕がお乗せします」と言って、その爺さんを担ぎ、車いすを持ってバスに乗り込んだ。
むっつりと黙ってしかめっ面の爺さんに、「家までお送りしますから」と言うと、「来ていらん」と言うので、「でも、これじゃ無理でしょう」と車いすを指示した。
爺さんはますますむっつりとし、僕は「お爺さん、お名前は?」と気軽に聞いた。
ご趣味は、家族は、映画は何を見られますか?
僕は断然、山田洋二監督とスピルバーグだなー。
すると、爺さんは「あんた、そんなに映画が好きか」と聞く。
はい、と頷くと、「あんたに家まで送ってもらう。その代り、礼もする!」と言い切って、また押し黙った。
僕は苦笑して、はい、と頷いた。
爺さんの家はでかかった。
その昔、土木でワンマンで鳴らしていたらしい。
表札を見て、大谷さんと言うのだと分かった。
僕は大谷さんの車いすを押し、チャイムを鳴らすと、綺麗な奥さんが出てきて「またあなた、一人でどこ行ってたの」と心配した。
何度も礼を言われ、お茶をごちそうになる。
大谷さんは「おい、あんた、二階に上がってみろ」と言うので、大谷さんの介助をしながら二階へ上がると、そこはシアタールームとなっていた。
古い映画がずらっと壁に並んでいる。
「これから、好きな時に来て、好きな映画を見ていけ」
そう大谷さんが偉そうに命令するので、僕はなんだか可笑しくて、嬉しくて、「はい、そうさせてもらいます」と頭を下げた。
僕は実家では精神病を患い、可愛そうな身の上となっていたのだけれど、大谷さんちという行くところができて本当に助かった。
家では身の置き所がなかった。
学歴は中途半端だし、働くことも未だままならず。
父は裕福だったが、男が働かないというのは駄目だろうという口で、しかし大谷さんのことを聞くと、「いいじゃないか、何か勉強になるかもしれない。ぜひとも行かせてもらえ」と鷹揚に頷いた。
父のこういう柔軟なところが好きだ。
僕は、母の作ったケーキを手に、大谷さんの家へ行き、毎日映画を見たり、大谷さんと町の温泉につかりに行ったり、とにかく右腕となって動いた。
心なしか、大谷さんも笑うようになった気がする。
時々行くと喉に管を通して、しゅこー、しゅこーと言っているときの苦しそうな時間を覗けば、大谷さんは至って快活で、厳格で、明快だった。
「馬鹿!」と何かまどろっこしいことをすると怒鳴られるのも、僕は映画みたいで好きだった。
ある日、大谷さんと掛けをした。
僕が持ってきた朝顔、紫が咲くか、青が咲くか。
大谷さんは青で、買ったら今年の花火大会に連れて行けという。
大谷さんを連れての地獄の階段上りはなかなかスリリングだな、と僕は思い、いいですよ、と請け合った。そしてブルーベリーのタルトをかじった。
僕はその頃、何故大谷さんのような人に着いていたかと言うと、死を目の前にしたり、何か障害を越えようともがく人に対して、純粋に興味があったからだと言えば変だろうか。
僕は、健全な体を持ちながら、生まれながらに絶望しているところがあって、大谷さんに出会っていなければ、死ぬこともできず、ただそれを夢見て生きる屍になっていただろう。
大学時代に一度だけ首を吊る真似ごとをし、苦しさに涙をにじませて、何故僕はこんなに恵まれた環境で死を願うのかと、生きていることに疑問を覚えた。
大谷さんは、ただ生に向かって邁進していた。
わき目も降らず、バスの運転手に煙たがられながらも、街に出ることを辞めず、いつも外出して昔の仇に笑われながらも、我を通していた。
厭らしさなど欠片も無かった。
むしろ僕の方が卑しく、卑怯な気がしていた。
周りは「偉いわねえ」と言ってくれるが、大谷さんを利用していたのだ、僕は。
それでも大谷さんが人として好感が持てるというのは確かで、僕が大谷さんに誠心誠意尽くそうと思うのは、僕の中の福祉の精神が確実に育っていたからである。
ある日、僕がホームセンターで父のお供をしていると、変な親父がやってきて、取り巻きと「ぼんくら息子連れて、ええ身分やのう」と父を愚弄した。
父は「相手すんな」と耳打ちし、「なんじゃ、関口。お前みたいなカスに俺は用無いぞ、早よ消えろや」と言った。
すると関口は、「死にたがり息子が、死にぞこないの相手して、金もろて、さぞ潤っとんやろのう」とげひひと笑った。
途端、僕の手から角材が消えた。
父が関口の頭を割ったのだ。
「痛え」とわめく関口に、「大谷さんと息子に手え出してみい、殺すぞ」と父は言い、帰ろうか、と普通に僕を振り返った。
僕は父の怖さを改めて再確認し、頼もしく思いながらも、「こういう人間関係だから、僕は嫌になったんだよな」とちらと思った。
父の仕事仲間にいじめられるのは、日常茶飯事だった。
さて、花火大会の日、僕はこっそりと青の朝顔の鉢を用意して、奥さんと笑った。
紫のそれを隠しながら、「大谷さん、掛け、僕の負けです」と笑って部屋に入ると、大谷さんが床を這っていた。
ぎょっとして「どうしたんですか!」と駆け寄ると、「来るな!」と大谷さんが言った。
「今な、今、自分の力で着替えるんだ、自分の力で・・・」
そう言って、大谷さんは息も絶え絶えになった。
救急車が呼ばれた。
心筋梗塞で、命が危ない。
床に落ちた浴衣を拾い、「これも持って行って」と涙ながらに言う奥さんからパナマ帽と葉巻を受け取りながら、僕は大谷さんと病院へと運ばれていった。
全ての処置が終えられ、浴衣を着せられた大谷さんに、僕はカーテンを全開にした窓を開けて見せ、部屋の電気を消した。
「見ててください、大谷さん・・・」
今、上がりますよ。
そう言って一分ほど経つと、ヒュー、と音がし、ドーンと大輪の花火が空に咲いた。
後から到着した奥さんに手を握られながら、大谷さんはうっすらを目を開け、「ああ・・・」と呟いた。
そして、葉巻を手に取り、ゆっくり吹かすと、「今生を、ありがとうよ、来い」と僕に言った。
僕が大谷さんの傍に座ると、大谷さんは僕の肩を叩くように抱いて、「生きろよ、人は生きてなんぼなんだ、勝てなくてもいい、自分にだけ勝ちゃいいんだ、いいか、人生とは、自分との闘いなんだ・・・」
そう言って、がくっと事切れた。
僕は、「大谷さん!大谷さん!」と叫ぶように泣いて、何度もがくがくと揺すった。
僕は、大谷さんの下の名前を知ろうとしなかった。葬式で初めて健次郎と言うのだと知った。
僕は相も変わらず自分勝手だった自分を恥じた。「そんなことはなんでもないの、なんでもないのよ。大事な時期を、あなたはくれたの。それこそが大事なの」と泣きくれる僕に、奥さんは言ってくれた。
寺の入り口で父が「吹かせ」とタバコを差し出し、そこに関口がやってきて、「俺にもくれんか」と包帯を巻いた頭でぶすっとして言った。
僕らは三人でタバコを吹かした。
「世の中な、生きてくためには働かなきゃどうにもならねえよ。そんな中、あんたが羨ましくてなあ・・・あんたにも人に言えんことがあるだろうが、まあ、なんだ、頑張れよ」
関口がそう言って、僕の背中を叩いた。
僕は「はい、ありがとうございます」と頭を下げた。大学時代のことがふと頭にかすり、「死ぬなんて、馬鹿みたいだ」と思った。
僕はそれから、もがくことにした。
父は「無理はするな」と言ってくれた。
僕はその田舎では精神疾患者と言うことで虐められていた方だが、恥も外聞も捨てて、なんとか働こうと試みた。
しかし体が、精神が受け付けず、始めて行ったバイト先で吐いて父に車で連れ戻された。
落ち込んで部屋で寝込んでいる僕に、父は「誰かを助けられれば、それだけでいいんじゃないか」と一言言った。
僕は大谷さんとの日々を思い出した。車いすや大谷さんの体を支えたり、色んな世話をしてあげたが、あんなの全然苦しくなかった。
ある日、母が「こんなの興味ない?」と僕にチラシをくれた。
それは地域のボランティアセンターの求人で、収入は無いがお年寄りや障碍者の方の相手をするお茶会と言うことだった。
僕は参加してみることにした。
市民会館で、目の前に座ったのは、車いすに座った白いワンピースの女の子だった。
僕はがちがちに緊張して、会話もうまくいかなかった。しかし、「僕も目に見えないけど、働けない程度の障害があるんです」と言うと、彼女は「お互い、元気で頑張りましょうね」と笑って、手を差し出してくれた。僕は握手しながら、目の前の彼女にどきどきとした。
それからも、僕はそのお茶会に参加し続けた。
彼女は生活上自立していて、働いていた。「負けたなあ」と僕が言うと、「なんたって、太宰治が愛読書だもんね」と言って笑った。
彼女の勧めで、僕は働けないながらも、障碍者年金を受け取り、自立支援を受けながら、彼女と時々遠出をしたりして、なんとか形になる生活をし出した。
「見てみい!やっぱり羨ましいが!」
関口に一度そう言って、ど突かれた。彼女はそれを見て笑った。
僕はまだ限られた人としか話せないし、世の中から見れば遊び人の体たらくだ。
しかし、かけがえのないものを持っている。そう自覚している。
「行こうよ、健二君」
彼女がそう言った。
「うん」
僕はこれからもあがくだろう、彼女や大谷さんのような人に助けられながら生きるだろう。
どうしても、弱い。情けない。
しかし強い彼らは言うのだ。
生きなさいと。
僕のあがいた時期
素直に書けました。