負けないでっ 【第五巻】

負けないでっ 【第五巻】

百九十 可愛い心

 特に行くあてもないが、足の向くまま、希世彦は千葉の内房線館山往きの電車に乗っていた。平日で、大きな製鉄会社の工場がある君津までは混雑していたが、君津を過ぎると空いてきて、行商と思われる年配の男女や高校生が乗ったり降りたり入れ替わり、そんな乗客の様子や車窓の外の流れる景色ををぼんやりと眺めていた。やがて電車は海岸線に沿って走り、竹岡と言う小さな駅に着いた時、希世彦はなかば衝動的に電車を降りた。少し先に行くと、東京湾フェリーが発着する金谷だ。
 電車を降りると、駅から歩いて直ぐの荻生と言う海岸に出た。海水浴場で休日は混雑する所だが、その日は人もまばらで空いていた。海水浴場は防波堤で囲まれているが、少し歩いて防波堤を外れた砂浜で腰を下ろした。ここは東京湾の出入り口にあたる所で、船舶の往来が多い。タンカー、漁船、貨客船など様々な船が絶え間なく出入りする。対岸は三浦半島で、正面に見える突き出た岬は多分観音崎だろうと思った。
 海岸の砂浜はゴミが少なく綺麗だった。希世彦は寄せては返す漣を眺めながら、今は亡き可愛らしかったヨンヒを独り偲んで想い出に耽っていた。

 昨夜諸井雅恵と言う婦人から受け取った手紙は少なからず希世彦の心に大きな傷を残した。快活で明るく、自分の思う通りに行動するヨンヒがまさか自殺するなど考えもしなかった。
 ヨンヒは170cmを少し欠けるが女性としては長身で、いつもブランド物の高価な衣装で身を包み、細くすらっとした脚で六本木や表参道の街路を一緒に闊歩していると、モデルか女優かと人が振り返って見るほど美しかった。
 ヨンヒとは、最初から結婚を前提に付き合い始めた。だから、希世彦の頭の中ではいつも、
「この人と一生苦楽を共にしていけるだろうか」
 と世俗的な邪念がよぎって、純粋な気持ちでヨンヒの可愛い心を読み取ってやれなかったと後悔していた。

 少し離れた所で投げ釣りをしている数人の釣り客が居る他は希世彦の前に広がる海岸線には人影がなかったが、いつの間にか子犬を連れた女がやってきて、希世彦の座っている前の波打ち際で子犬と戯れ始めた。高校生か大学生かは分らないが、膝上丈の白いウォーキングショーツの上に淡いピンクの半そでシャツ姿で、ポニーテールが似合っていた。女は自分のことを意識しているのか、時々ちらっと自分の方を見て、また子犬とじゃれあって戯れた。
 子犬を放ったままにして、不意に、女が希世彦の所にやってきて、やや距離を置いて砂の上に座り込んだ。しばらく、女は子犬の方を見ていた。希世彦がふと女の方に顔を向けた時、ほぼ同時に女も希世彦の方を振り向き、目と目が合ってしまった。こんな時はきまりが悪いものだ。希世彦はまた視線を沖の方に移すと横で、
「お独り?」
 と声がした。振り向くと女が人懐っこい顔で微笑んでいた。
「はい」
「今日はお休みですか?」
「いえ、サボっちゃった」
 希世彦が笑うと、
「会社、クビになりますよ」
 と女も笑った。
「学生ですから」
「どちらの?」
 会話は希世彦が好まない方向に進みそうだった。それで、
「東大」
 とやや投げやりに返事をした。
「すごぉ~い」
 女は少し驚いた様子だった。希世彦は話題を変えようとした。
「なんて名前?」
 と子犬の方に目線を移した。
「コロちゃんです」
「あはは、そんな感じだな」
 子犬はころころとした感じだった。
「毎日ここへ?」
「そうだな、週二くらいかな。あなたはここは初めてなの?」
「ん」
 どうやら女は直ぐに身の上調査の方に話を持っていくようだ。希世彦もわざと女のことを聞いてみた。
「近くにずっと住んでるの?」
「最近東京から越してきましたの」
「ご主人の転勤で?」
 わざと聞いてみた。思った通り女は少しむきになった。
「おばさんに見える?」
「はい」
「嫌だぁ、あたしまだ二十歳(はたち)です」
「実家がこの近くなの?」
「いえ、父の転勤で一緒に来ました」
 女は立ち上がって、子犬を呼んで首輪に紐をつないだ。
「コロコロッ」
 と呼んで見ると、子犬は希世彦にじゃれついて来た。女と同じで人懐っこいと思った。
「犬、お好きですか?」
「飼ったことないから」
「動物はちゃんと怖い人か優しい人か見分けるのよ。あなたは優しい人」
 と女が笑った。
「男には優しくないけど」
「女性には?」
「多分優しくないかも」
 希世彦はヨンヒを振ってしまったことをまた思い出していた。

 希世彦が尻に付いた砂を払って立ち上がると、
「駅までご一緒してもいいですか?」
 と言う。希世彦はどっちでも良かった。それで、
「ん」
 と答えた。女は嬉しそうな顔をして希世彦と並んで歩いた。
「あたし、西新井に住んでましたの」
 希世彦は少し驚いた。自分の家も西新井だ。
「足立区の?」
「そう」
「どの辺り?」
「西新井一丁目」
「近くだ」
「多分。あたし、短大に通ってる時、大師前駅のホームでたまにあなたを見かけましたのよ」
「へぇーっ、気付かなかった」
「ちょっとイケ面の人だなぁって見てました」
 女は少し顔を赤くしたように感じた。
 竹岡駅に着いた。希世彦が、
「じゃっ」
 と言うと女は、
「また会えます?」
 と聞いた。
「もう会うことはないかも」
 と答えると女は悲しそうな顔で、
「そっか、残念」
 と答えた。希世彦はヨンヒのことがあって、自分は女の気持ちと言うか女の可愛い心に敏感になっているように思った。けれども内房線のこんな遠くに来ることはこの先もうないだろうと思ったから正直に答えたのだ。
「携帯、お持ちです……よね?」
 女は遠慮がちに聞いた。
「持ってるよ」
「アド交換……ダメですか」
 希世彦は自分の携帯のアドは特別な人限定と決めていた。だから、
「ダメ」
 と答えた。
「意地悪。やっぱ優しくないんだ」
「コロちゃんはあてにならないよ」
 と笑うと、
「やっとお話しできたのにぃ」
 と悔しそうな顔をした。
「短大生だった時、あたしたちお友達どうしで通学の時、あなたを見かけると誰が最初にお話しのきっかけを作るかって話し合ってたの。多分あたしが最初だな」
 と笑った。
「よくくしゃみが出るから花粉症だと思った」
 と言い返した。女は楽しそうに笑った。電車が間もなく到着するとアナウンスが聞こえた。それで、
「今度、もしも偶然に会えたらアド、教えるよ。じゃね」
 希世彦は手をちょっと挙げて改札口を通って中に入った。
「絶対にまた会えるから」
 そう言いながら女も手を振った。
 電車が走り出すと、女はずっと希世彦の方に向けて手を振っていた。ヨンヒのことで落ち込んでいた気持ちが少しゆるんだように感じた。

百九十一 蛍《ほたる》

 沙希はソウルの諸井雅恵と連絡を取ってから、息子の希世彦と共に仁川国際空港に降り立った。事前の連絡で諸井雅恵とパク・ヨンヒの母ヨンチルが出迎えに来てくれていた。ヨンチルはヨンヒに似ていて、美人だった。
「遠い所、ありがとうございます。お待ちしておりました」
 ヨンチルは沙希に丁寧に頭を下げて礼を言った。ソウルには元軍用施設だった金浦国際空港があるが、現在は国内線専用で国際線はソウルから少し西に離れた島にある仁川国際空港にまとめられている。
 諸井は駐車場に案内した。駐車場にはヨンヒの父が待っていた。パク夫妻、諸井、沙希と希世彦の五人はパク氏が運転してきたワンボックスカーでソウル市内には降りずに、直接ヨンヒの墓があると言う忠清南道(チュンチョンナムド)に向かって仁川から国道42号線で南に下っていた。
 ヨンチルは日本語が分らなかったから諸井が通訳をしてくれた。

 道中何もすることがないので、諸井が話し始めた。
「忠清南道はソウルから南に150kmほどありますので、ヨンヒさんが永眠している所までは約二時間半もかかります。景色の良い所で、観光地になっておりますが、ご存知の通りその昔は百済の都がありました所で、戦前一九三一年頃から四五年までは日本が占領して統治をしており、忠清南道の知事は岡崎哲郎氏など日本人だった時代がありましたのよ」
「そうですか」
 沙希は相槌を打った。車はやがて国道1号線に合流して天安(チョンナン)と言う所で南西に折れて国道21号線で40kmほど走り忠清南道に着いた。
 ヨンヒの墓は清流沿いの小高い丘にある公園墓地の中にあった。ソウル近郊の共同墓地は石碑などが林立しているが、この墓地は韓国の昔ながらの墓地で、墓石はなく、お椀を逆さにしたようなこんもりと盛り上がった土の墓だった。
 ヨンヒの墓は新しく盛り土されていて、全体に矮性のかすみ草[ジプシーローズ]の花で覆われていた。生前の可愛らしいヨンヒを偲ばせる可愛らしいピンク色のかすみ草だ。
「綺麗っ!」
「綺麗だこと」
 沙希も諸井も思わず感嘆の声をあげた。
 沙希は東京から供え物の和菓子を希世彦に持たせて来たが、途中のパーキングで花束や果物を買い込んできてお供えをした。
 沙希と希世彦は並んで墓の前にしゃがみ合掌した。諸井は朝鮮風に伏して祈った。着いた時は暑かったが、夕方になって涼しい風が吹き心地良かった。

 いつ来たのだろう? 何者かに突然希世彦は背中を蹴られてその場に転がった。
「ここはおめぇが来るとこじゃねぇんだ!」
 見ると新宿の歌舞伎町で希世彦のほっぺたを思い切りなぐった奴が立っていた。ヨンヒの父が慌てて制して韓国語で怒鳴りつけた。
「こらっ、ジェウク、まだ懲りないのかぁっ! この方に何かあったら命がないぞと赤豹派にやられたのを忘れたのかっ!」
 ジェウクは次の瞬間急に泣き出して希世彦の腕にすがると、
「許してくれ、オレがしたことを赤豹派には言わないでくれ。これ、この通りだ。頼む」
 ジェウクが突然態度を変えて謝ったが、希世彦は何のことか分らなかった。するとヨンヒの父が、
「こいつは赤豹派にこっぴどくやられてそれ以来頭が少しおかしくなっているんですよ。ジェウクが謝った通り許してやって下さい」
 と韓国語で言った。それを諸井が通訳してくれた。
「何かあったのですか?」
 と諸井が沙希に聞いたので、
「いえ、少し前息子がこの方に新宿で思い切りホッペタを殴られまして、頬骨陥没の大怪我をしたのです。でも、私たちはその後のことは何も存じませんのよ」
 と答えた。諸井は韓国語でヨンヒの父に聞いた。
「こいつの暴力の仕返しで赤豹派に捕まって半殺しにされたんですよ。それが原因なのか分からないが、頭が少しおかしくなって、時々変な行動をするので困ってます。今日お二人がここに来られることはパク会長以外には知らせていませんが、恐らくパク会長が謝って来いとこいつに知らせたのでしょう」
 と説明した。要点を沙希に伝えると、
「そうだったの。私どもの知らない所で動きがあったのだと思いますが、可哀想なことをしましたね」
 と答えた。
 辺りが薄暗くなって来た時、ヨンヒの墓の上を蛍がすぅっと飛んで行った。見ると墓の向うの真っ暗な茂みの中でほんのりとした蛍の明かりが明滅していた。沙希と希世彦はこの幻想的な光景をしばらくの間見つめていた。
「この中に、きっとヨンヒさんも居るのね」
 沙希がぼそっと呟いた。
 その夜はソウルのホテルに泊まる予定で、五人はソウルへ向かってまた車を走らせていた。ソウルに着くとパク会長が沙希と希世彦に墓参のお礼と失礼のお詫びだと言って夕食をご馳走してくれた。

百九十二 心臓が喉から飛び出す

 ヨンヒの事件が片付いた頃、父の善雄が欧州への長期出張から自宅に戻ってきた。その夜は久しぶりに家族が全員揃って夕食を囲んだ。米村家では珍しい。沙希は早速ヨンヒの事件の顛末を善雄に報告した。
「そうか、希世彦から聞いてはいたが、事件のことは初めて聞く話しだね」
 沙希は夫には事件のことを報告をしていなかった。
「まさか、自殺までは予想をしませんでしたのよ。だから、わたしも驚きました。他殺の可能性もあって、刑事が調べにきました」
「ヨンヒは良い子だったから残念なことをしたね」
 善雄は済んでしまったことにいつまでもくよくよしても仕方が無い。割り切れと沙希と希世彦に言った。次に話題がチェコでの事件の話しになった。
「あんなことがなければ、思い出多い旅だったのに、残念だったね」
 と善雄が沙里の顔を見た。
「チェコは治安が良い国だと思いましたけれど、やはり海外に出た時は常に警戒していて丁度良いようですね」
 と沙希。善太郎が、
「海外慣れしたお父さんが付いていてだらしがないぞ」
 と善雄を見て笑った。

「沙里たちが大変な目に遭っている時、希世彦たちはいい想い出を作ったらしいね」
 希世彦の話は沙希は詳しく聞いていたが、沙里は聞かされてなかった。
「どこに行ってたの?」
 と沙里が希世彦の顔を見た。
「スイス。登山電車でアルプスに登った」
「あのケーブルカーみたいな電車? あたし、写真で見たわよ」
「そう。あれだ」
「すごく良かったのは?」
「全部」
「やっぱなぁ、お兄ちゃん最愛の恋人と一緒だから、アオハさん以外は見えなかったの違う?」
 沙里はからかったつもりだが希世彦は、
「当たりっ!」
 と言ってニヤニヤしていた。
 と善雄が、
「そうだ、その恋人のアオハさん、僕に紹介しろよ」
 と思い出したように家に連れて来いと言った。もちろん希世彦は承諾した。

 沙希は夫がアオハに会う前に、今まで分ったことを全て話しておく必要があると思った。夜、寝室に入ってから、
「希世彦がお付き合いしているアオハさんのことですが」
「何かあるの?」
「ええ、色々」
 それで、沙希はアオハは今は川野奈緒美だが、実母は岩井加奈子で三年前に死去して、今は川野珠実の養女であることなどを詳しく話した。加奈子が沙希に意地悪をしたのは沙希がまだ章吾と付き合っていた結婚前の話しだが、それも詳しく話をした。善雄は加奈子が六本木のクラブのナンバーワンだったことも知らなかった。初めて聞かされた話しに善雄は衝撃を受けたが、
「わたしの知っている加奈子さんと奈緒美さんのお母さんが同一人物かは調べてみてもはっきりしないのよ。世の中には同姓同名の方って珍しくはありませんから、もしかして同姓同名ってこともあるわね」
 と沙希が付け加えたので、善雄は同姓同名の別人だと思うようにした。人はえてして自分の都合の良い方に受け取りがちな所がある。善雄もまさかとは思ったが、そんなことはないだろうと否定する方にかけた。

 奈緒美は次の次の日の夕刻なら都合が付くと言ってきた。それで善雄もその日は早く会社を出て帰宅した。善雄は奈緒美が来るまでは落ち着かなかった。あんなに探して見付からなかった娘が、こともあろうに自分の息子の恋人としてかなり前から自分の近くに居たこと自体信じ難いことだった。だが、自分は米村善雄で都筑庄平などと言う男は全く知らないと何が何でも押し通そうと覚悟を決めていた。

 七時過ぎ、希世彦が奈緒美と一緒に帰宅した。
「ただいまぁ」
 玄関の方で希世彦の声がした。続いて、
「お邪魔します」
 と女の声がした。善雄は紛れもなく娘の奈緒美の声を聞いた。それで、
「落ち着けっ!」
 と自分に言い聞かせた。希世彦と奈緒美、それに沙希が一緒に部屋に入ってきた。奈緒美が善雄の顔を見た瞬間、奈緒美の顔色が変ったが、善雄は何食わぬ顔で、
「いらっしゃい。待っていたよ」
 と答えた。顔合わせの挨拶が終わると、
「奈緒美さんと二人でゆっくり話をしたいのだが」
 と沙希に言うと、沙希と希世彦は気をきかせて部屋を出て行った。

 二人が部屋を出て扉が閉まるのを見てから、奈緒美はいきなり善雄に抱きついて来た。
「パパ、あたしのパパでしょ? 会いたかったぁ。あたし、すっごく探したんだからぁ」
 これには流石の善雄もかなり動揺した。だが、
「驚かせちゃいけないよ。僕は奈緒美さんにお目にかかるのは初めてだよ」
 と言って抱き付いた腕をそっとほどいて押しやった。奈緒美は善雄の目を食い入るように見つめ、
「やはりあたしのパパよ。あたし分るもん。子供の頃、お風呂に入れてくれたから、あたし、パパのお腹をみればホクロの位置もちゃんと覚えているもん」
 奈緒美の甘えるような声で[ホクロ]と聞かされて、善雄は心臓が喉から飛び出すのではないかとめちゃくちゃに動揺していた。もうそれを顔に出さないように抑え付けるのが精一杯で、冷や汗が出ていた。もしもこの場でシャツをたくし上げて腹を見られてしまったら、間違いだと説明するのは極めて難しくなる。
「あなたのお父さんのお名前は?」
 善雄は動揺を隠すため質問した。
「パパの名前は都筑庄平です。都と筑波の筑、庄屋の庄と平らと書きます」
「そう。都筑庄平さんねぇ。僕と相当似ている方のようだね。ご健在ですか?」
「はいと言いたいのですが、今行方不明で探している所です」
「見付かるといいね」
「はい」
 ようやく奈緒美は人違いかも知れないと思うようになったようだ。善雄は母親のことや兄弟のことも尋ねた。沙希から聞いていたが顔には出さずに初めて知ったような顔をした。
 善雄はこの場で[僕が都筑だよ]と奈緒美を抱きしめてやれればどんなにか幸せだろうと思った。運命の神様は悪戯なものだ。何で奈緒美の恋人が希世彦なんだと恨みたい思いだ。

百九十三 失意

 モデルアオハこと奈緒美は間違いなく実の父親に再会できたのに、娘だと認めてもらえず、もしも実父だと認められれば、今度は愛する恋人の希世彦がお兄ちゃんになってしまうと言う二重の失意に打ちのめされてしまった。だから、希世彦の父の善雄と話が終わった時、すっかりしおげてしまっていた。奈緒美と夫の話が終わって沙希と希世彦が部屋に入った時の雰囲気は異様なものがあった。
「あなた、何かあったの?」
「いや、特にないよ。僕が奈緒美さんのお父さんに瓜二つだと言うことが分って奈緒美さんがすっかり元気をなくされてしまったようだ。さっ、奈緒美さん、元気を出して」
 善雄も実の父親でありながら娘を抱きしめてやれないもどかしさに、奈緒美と同様に失意の中に居た。
 話しが終わって、奈緒美は気分が少し悪いからと早々に、
「帰ります」
 と言うので、希世彦が送って行った。六本木のマンションまで、奈緒美は一言も口をきかなかった。最近はお別れにキスをするのに、今夜はどうしたことかそんな雰囲気ではなかった。二人は以前写真の見せっ子をして、その時父親が同一人物かと思うほど良く似ていることは知っていた。だが、今奈緒美は希世彦の父親が自分の父、都筑庄平だと確信に近いものを感じていた。娘が大好きな父親を見分けるのは殆ど動物的感覚であり、間違えるはずがなかった。

 奈緒美は悩んだ。それで、希世彦の父親、米村善雄と初めて会った時の気持ちを義母の珠実に話した。
「それって、奈緒美ちゃんが正しいと思うわ。きっと何か事情があって、お父様なのに父親ですと名乗れなかったのだと思う」
 珠実も奈緒美と同じ意見だった。
「そうよ、常識的に言って、名乗れるはずがないわ。だってそうでしょ、もしもよ、奈緒美ちゃんを娘ですと認めたら、奥様はじめご家族に昔不倫をしましたと認めるようなものですもの、今頃になってそんなこと言えないわよ」
 と付け加えた。
「もう、あたしどうしよう? 希世彦さんを諦めるっかないのかなぁ」
「そうねぇ、たとえ希世彦さんのお父様が父親ですとお認めにならなくても、奈緒美ちゃんの父親には間違いないですから、将来希世彦さんと結婚するのは難しいわね」
「あたし、希世彦さんのこと、すごく好きになってしまったから、辛いなあ」
 そう言いながら奈緒美は珠実の胸に顔を埋めて泣きじゃくった。
 そのことがあってから、奈緒美は希世彦と会うのを避けるようになった。会えば愛しい気持ちがこみ上げてきて、自分をもっと辛くするだけだ。大好きなのに会えないこの理不尽を恨んだ。
「お仕事が忙しくて都合がつかないの。ごめんね」
 希世彦からお誘いがあるといつも仕事を理由に断った。
 善雄は善雄で、できることなら明日にでも仙台に行って都筑庄平として奈緒美に再会して抱きしめてやりたい気持ちがあった。だが、米村善雄として会って直ぐに会いに出かけたのではウソが見え見えだ。それで半年位経ってから、偶然を装って奈緒美の前に現れようと計画を練り始めた。あんなに探して、やっと見つけた娘なのに、当分は会えないのだ。

 あのことがあってから二週間後、奈緒美は珠美と一緒に仙台のマンションに戻っていた。
 しばらくぶりに、奈緒美は仙台の銀行の貸金庫室に居た。ここは亡き母親の加奈子に会える唯一の場所だ。金庫を開けると、加奈子が生前身に付けていたアクセなどがそのまま保管してある。そして、金庫を開けた時に、加奈子が着けていた香水、プアゾンのかすかな香りがした。
「ママ、あたし参ったなぁ。パパがあたしが大好きになった人のお父様と同じ人みたいなの。ママ、そのこと知ってた? 知ってるわけないわよね? あたし、どうしよう?」
 奈緒美はしばらくの間、亡き母親に向かって独りで話をしていた。ついでに、自分と弟の庄司名義の預金通帳の記帳をした。残額を見て驚いた。毎月欠かさずに都筑庄平から現金の振込みが続けられていたのだ。自分に三十万円、庄司に二十万円、合わせて五十万円だ。二十年以上も続いている。今まで一度だって引き出したことがない。だから、弟の分を合わせると残高は合計一億二千万円を越えていた。奈緒美は通帳を見て、
「パパ、ありがとう」
 そしてまた涙が零れ落ちた。

百九十四 心の変化

 その後何ヶ月間も希世彦は奈緒美に会えないかと連絡を入れたが奈緒美からは、
「都合が付かないの。ごめんね」
 とコピペのような返事が続いた。我慢強い希世彦もいい加減奈緒美には愛想をつかしてしまった。とうとう十二月になってしまい、クリスマスプレゼントを考えようとしたが、昨年友達に無理を言って作ってもらった特製の内側に肌触りの良い毛をあしらったブーツも結局渡せずにまだ手元にあったから、今年は奈緒美に渡すプレゼントは止めることにした。
 希世彦は希世彦で卒論の仕上げに多忙で、十二月は時間的に余裕がなかった。そんなこんなで、前にデートに誘った甲斐明美とは秋に食事に誘っただけで、ここのとこご無沙汰になっていた。

 いくらなんでも、クリスマスイブを独りで膝っ子を抱えて家で過ごすのは可哀想過ぎる気がして、甲斐明美の都合を聞いてみた。
「嬉しいです。今年も独り淋しくイブを過ごすのかと諦めてました。時間や場所は希世彦さんのご都合に合わせます」
 と返事が来た。それで、その年のイブは新宿か渋谷で過ごす計画を立てることにした。 なんとなく六本木にはしたくなかった。頭の隅にアオハのことがあったのだ。アオハは六本木だ。そんな所をウロウロしていて、アオハが別の男とイブを過ごしているのにばったり出会ったらいい気持ちがしない。

 アオハは正直な所希世彦から、
「会えないか?」
 とメールが来る度に胸を引き裂かれるような気持ちで居た。
「すごく会いたいのに会えないなんて、あたし不幸だなぁ」
 だから、返事を送りたい気持ちを押さえ込んで、この頃はアルコールの量が大分増えた。そうとでもしなければ、希世彦に会いたい、恋しい気持ちを抑えようがなかった。いつも側で奈緒美の心の苦しみを見ている義母の珠実もたまらない気持ちでいっぱいだった。近頃の奈緒美は、仕事の時は気持ちをきっちりと切り替えられるように成長していた。珠実はそんな娘を見て、
「奈緒美ちゃんも逞しくなったわね」
 と感心していた。

 奈緒美も珠実も気持ちが晴れない日々、川野珠実は気分転換に奈緒美を連れて仙台のマンションに戻った。郵便受けの中は珠実が社長をしているスクールの事務の女性が毎日整理をして、部屋の中の事務机に乗せて置いてくれた。マンションに戻ると、珠実は届いた郵便物に一通り目を通した。その中に珠実宛てに知らない男から一通の封書が届いていた。裏を返すと都筑庄平と書かれていた。珠実は封筒を奈緒美に見せて、
「都筑さんって失踪中のあなたのパパ?」
「そうよ。パパからだぁ。ねぇ、中に何て書いてあるの?」
「随分探し回って、やっとここの住所を見つけたんですって。もし自分の娘の奈緒美がそちら様にお世話になり元気で居るなら一度会いたいので連絡先を教えて下さいなんて書いてあるわよ。教えても大丈夫かしら?」
 奈緒美は都筑庄平の筆跡を見た。
「この書き方からすると多分パパ本人だと思う。なので大丈夫だと思う」
 と奈緒美が答えた。奈緒美はここのとこ希世彦のことで落ち込んでいたから、突然の都筑からの便りにすごく元気付けられた。それで珠実から返事を出してもらった。

 十二月二十四日、希世彦は夕方六時、新宿南口の紀伊国屋書店の四階で明美と待ち合わせをしたいと連絡をした。本屋なら、どちらが遅れても立ち読みをしていれば時間が苦にならないからだ。デパートなどのイルミネーションが綺麗で、そこに居るだけでもクリスマス気分になれた。
 約束の時間に明美はやってきて、立ち読みをしている希世彦の腕に自分の腕を絡めてきた。
「待った?」
「いや、さっき来たばかり。明美さんは時間が正確だね」
「特別のデートですもの」
「勿論お腹空かせているんでしょ?」
「はい」
 と明美が笑った。希世彦はプレゼントにウールのマフラーと皮の手袋を用意していた。もちろんブランド品だ。

 紀伊国屋のJRの線路を挟んで向い側にあるサザンタワー四階の和食屋の個室を予約していた。
「牛しゃぶでもいい? それとも他のものにする?」
「あたし、好き嫌いあまり無いから何でも大丈夫よ」
「お酒? ビール?」
「久しぶりにお酒がいいな」
 明美は宮崎の出身でアルコールはいける方だった。多分自分よりずっと強いだろうと希世彦は思った。
 結局牛しゃぶにした。
「お正月は国に帰られるんですか?」
「どうしようかなと思ってるの。まだ決めてないわ」
「ご両親はお元気なんでしょ?」
「両親二人とも教師で、ちゃんとお勤めしているらしいので元気だと思います。母とは時々電話しますけど、母はすごく元気です。あなたのご両親は?」
「僕の方も両方元気だよ」
「正月、何処かへ行こうか? パスポート持ってる?」
「って言うことは海外へ?」
「ん。三日か四日ニュージランドとか暖かい所」
「あ、行く、行く、行きたいです」
 そんな話は直ぐに決まってしまう。年末年始は混雑するが、ツアーでなければ慌てなくとも航空券さえ押さえてしまえば良いのだと希世彦は思った。明美はパスポートの期限切れがないか頭の中で考えていた。多分大丈夫だろうと思った。

百九十五 明美、その後

 正月のニュージランド行きは決まった。三十日に出発して、翌年三日に帰国する予定で、航空機と宿泊場所の手配は希世彦が引き受けた。
「明美さんは着替えだけでいいよ。暖かい季節だから、水着もあるとグーだね」
「プールとか?」
「いや、多分クルーザーが借りられると思うからクルーザーで海に出る時水着の方が気が楽だと思うよ」
 明美は具体的な話が出ると急にわくわくしてきた。その日はイブの二十四日だから、三十日と言えばあと一週間足らずで飛行機で飛んで行くんだと思うとウソのような夢のような気分だ。
「最近仕事の方は順調?」
「はい。頑張ってます。ノーミスをずっと続けてるから金子早苗さんにも信頼されてるみたい。そういえば一月くらい前に須藤課長から褒められました」
「ふーん、あの男みたいな金子さんに信頼されたらすごいことだよ。課長の須藤さん、いい男でしょ?」
「はい。身体ががっしりしていて男の中の男って感じです。でも、あたしのタイプじゃないなぁ」
「明美さんのタイプはどんな感じの男?」
「分っていらっしゃるくせにぃ。あなたみたいな男性よ」
 明美はお世辞とかウソを言ってるようではなかった。

「航空券も泊まる所も確保できたよ」
 十二月二十八日、希世彦から明美に連絡が入った。
「朝早くに羽田から関空に飛んで、そこからエアーニュージランドでケリケリまで飛ぶんだ。ケリケリの近くにラッセルと言う町があって、そこの高級宿泊施設をキープしたよ」
 明美は希世彦の話を聞いても何のことか良く分らなかった。とにかく希世彦について行けば何とかしてくれそうだと理解した。
 十二月三十日、二人は予定通り羽田から関空に飛んで、そこからエアーニュージランドに乗り換えてニュージランドに向かった。
「ニュージランドは地図を見て大体知ってるよね」
「はい。南北に細長い島で、北島と南島に分かれていますよね」
「ん。日本と逆で北の方が赤道に近いから暖かなんだよね」
「ケリケリはどの辺ですか?」
「北島でも一番北の方のノースランド地域だよ。だから今なら暑いかな」
「ホテル、予約がよく取れましたね」
「いや、お正月はツアーの旅行者が多くてホテルはどこも一杯だよ。僕等が泊まる所は高級別荘。でもね、別荘と言ってもちゃんとメイドや料理人が常駐しているから、高級ホテルよりもっと贅沢なんだ。でも料金はそれほど高くはないんだ。別荘だから旅行会社のツアーなんかの対象外だからさ、穴場だよ。世界のリゾート地の貸し別荘を手広くやってるイーグルズネストって会社があるんだけど、そこに仕事で知り合った知人が居て、彼女に頼んでセットしてもらった。セーリング、フィッシングなんかも出来て、景色は抜群、夜星空がすごく綺麗だって言ってたよ」
 そんな話をしている内に、希世彦が言っていたケリケリに着陸した。そこから予約しておいたレンタカーを借りてラッセルの別荘に向かった。

 希世彦が言った通り別荘は素晴らしかった。広い部屋が四つもあって、居間、食堂、寝室、寝室に分かれていて、家電一式全部揃っていた。下手な高級ホテルのスイートなんかより全然良い。
 管理人は親切な婦人で旦那が料理人だと挨拶した。
「お魚料理が嫌でなければ、ここで獲れた新鮮なお魚料理を腹いっぱい食べられますよ」
 と笑った。
「こんな広い素的な所にあなたと二人っきりで泊まるわけ?」
「そうだよ」
「なんかもったいないなぁ。お父さんとお母さんも一緒だって充分泊まれますよね」
「ん。普通はファミリーで泊まるんだよ」
 管理人の旦那の料理はなかなかのものだった。兎に角美味いのだ。それに三食全部やってくれるし、出かける時はお弁当を作りましょうとまで言ってくれた。翌日はドライブと夜星座を見て、次の日はクルーザーでセーリング、最後の日は観光用の軽飛行機に乗って南島まで飛んで上空から島を見た。

「なんだか、あっと言う間に過ぎちゃったわね」
「そうだね。こんないい所なら一ヶ月くらいのんびりしたいよね」
 帰りの飛行機に乗ると、明美はちょっと悔しそうな顔をしていた。明美にはもう一つ悔しかったことがあった。だが、それは希世彦には言わずに黙っていた。何が悔しかったかと言うと、寝室が二つあって、毎晩別々の部屋だったのだ。明美は当然希世彦と同じ部屋で泊まるものと思って、女として覚悟を決めて来た。だから、毎晩なんとなく淋しい思いをさせられてしまった。希世彦にしてみればけじめのつもりだったのだろう。けれど結婚を前提にお付き合いしているのだから、セックスはしなくとも肌と肌とを合わせるくらいはして欲しかったのだ。これは恋する女の気持ちだ。

 年が明けて、明美の上司須藤課長は人事部長に呼ばれた。
「君の所に預けた甲斐君だが、その後仕事ぶりはどうかね」
「金子さんの指導が良いのだと思いますが、なかなか優秀なようで、弱音もはかず、配属以来ノーミスの記録を塗り替えています。それで、昨年褒めてやりました。あの管理課の仕事はご存知の通り相当きつい仕事で、過去に新しく配属した新人は一回か二回ミスをやって製造現場で土下座させられてますが、彼女の場合はまだ土下座させられていません」
「そうか、そんなに優秀か? 実はな三月の異動で甲斐君を生産技術部へ移したいんだが、大丈夫かね?」
「彼女のような優秀なのを抜かれますと大丈夫とは言えませんが、後任に優秀なのを回して頂ければ金子女史も納得するでしょう」
 この話は明美には何も知らされなかったが、三月の異動は確定していた。
 人事部長は、明美をゆくゆくは日本橋の元の○○ホールディングスに戻してやる予定をしていたが、そのことを須藤には言わなかった。

百九十六 秘密

 正月休み、沙希、マリア、美登里の三人は娘達を連れて六人でマリアの実家のスペインに遊びに出かけた。娘達は勿論沙里、茉莉、志穂の三人だ。善雄の息子の希世彦は甲斐明美とニュージランドに出かけて行った。章吾とサトルは仕事で年末は出かけられず、正月は二人で泊まりで伊豆の稲取温泉に釣りに出かけた。祖父母の善太郎と美鈴はどこにも出かけずに家に居ると言った。
 だから、結局善雄だけが置いてきぼりとなっていた。善雄にとっては好都合だ。それで、前に川野珠実宛に善雄が懇意にしている友人宅の住所から封書を送って戻ってきた返事に書いてあった連絡先に電話をしてみた所、運良く珠実も奈緒美も仙台に戻り、特に予定はないとの返事だった。善雄は迷わず都筑庄平になりすまして仙台に行く予定にした。

 川野珠実の返信にはこんな風に書いてあった。丁寧で、筆跡はとても綺麗で好感が持てた。

  都筑庄平様
  初めてお名前を拝見致しました時は全く見知らぬ方からでしたので、最近多い迷惑メールか何かと勘違いしてしまいま
 した。娘の奈緒美に聞きましたら、奈緒美のお父様でとても大切な方だと分かりました。奈緒美が筆跡を覚えておりまし
 たので、間違いはないと思いお返事を差し上げることと致しました。何分母一人、娘一人の女世帯でございますので、
 万一怖い方からの手紙でしたら大変ですので用心致しましたことをお許し下さい。
  さて、奈緒美の話ですと三年程前に実母が亡くなってから長い間消息がなく、会いたくて探しておりましたが見付から
 ずお元気でいらっしゃるか心配をしておりました。
  当時奈緒美は未成年でしたので、マネージャーをしておりました私の養女として引き取り今日に至っております。奈緒
 美の話ですと都筑様は大変素的な方だそうで、近い内に母子共々お目にかかれることを楽しみにしております。ご都合の
 よろしい時に是非左記の連絡先にご一報賜れば大変嬉しいです。先ずは取り急ぎお返事まで。
                                                  かしこ

 連絡先電話番号 022-XXX-XXXX、
 090-XXXX-XXXX(私の携帯)
 私の携帯メールアドレスtamaXXXX@docomo.ne.jp

 三十日までは仕事の都合があるが、正月三日までは空いていた。それで善雄は三十一日に先ずマンションの方にお邪魔するが、お正月休みでもあるので、近くの秋保温泉にでも泊まってゆっくりしませんか? と連絡を入れた。少し遠くに行きたいなら国内のどこにでもお供しますと付け加えた。珠実は自分は初めてお目にかかるがすごく楽しみにしているし、奈緒美ちゃんは天に昇るほどの歓びようなのでいらっしゃるのを二人で首を長くして待っていますと言ってきた。
 三十一日は直ぐにやってきた。善雄は床屋に出かけて髪形を変え、伊達眼鏡を買って都筑庄平に変身した。家には父の善太郎と母の美鈴が居たが、知人と久しぶりに遊びに行くからと言って家を出た。大分様子が変った善雄を見て美鈴は、
「少し若く見えるわよ。眼鏡、お似合いよ」
 とからかったが別に気にしている様子はなかった。善雄は自分が米村善雄であることを証明するようなものはすべてチェックして持ち物から外した。運転免許や名刺、洋服のネーム刺繍など手抜かりの無いよう十分に注意した。男性用フレグランスも以前加奈子に会う時に使っていたものにした。女は匂いや香りに厳しいことを知っていたからだ。勿論携帯も都筑用として新しいものを買った。
「珠実、奈緒美とのホットラインだなぁ」
 と独り笑った。

「こんにちは」
 マンションのドアが開くと奈緒美が出たが、都筑を見ると飛びついてきた。
「おいおいっ、すっかり大人になったな。元気だった?」
 都筑も奈緒美をしっかりと抱きしめた。奈緒美は鳴き声で、
「パパのバカ。会いたかったのにぃ……」
 後は言葉にならなかった。様子を察して珠実も出て来た。都筑は健康そうな小奇麗でサッパリとした女を認めた。初めて会う川野珠実だ。
「都筑です。初めまして」
「奈緒美ちゃん、もう離して差し上げて、中に入って頂いて」
 と抱きついて離さない奈緒美を促した。
 都筑庄平は改めて珠実に自己紹介をして、奈緒美の実父だが、加奈子の都合で敢えて実父を名乗らないことにしてきたのだと説明した。奈緒美に庄司の様子も聞いた。それで、九州の今井家に養子として引き取られたことを知った。
 奈緒美は養育費を今でも毎月欠かさず振り込んでくれていることを改めてありがとうと言った。都筑はちゃんと奈緒美が気持ちを受け取ってくれていたのだと知って嬉しかった。

 昼食は珠実と奈緒美が並んでキッチンに立ってニョッキ(gnocchi) を作ってくれていた。その様子が可愛くて都筑は出されたコーヒーをすすりながら、幸せそうに見ていた。
「都筑さん、アスパラとかトマトはお嫌いですか?」
 と珠実が聞いた。
「どちらも好きです」
 と答えると、
「良かった。今ね、お義母さんと粉を練ってトマトベースとアスパラベースと二種類のニョッキを作ってるのよ」
 と奈緒美が楽しそうに言った。
 ニョッキの出来はなかなかのもので美味しかった。
「コーヒーはエスプレッソにしたわよ」
 と奈緒美が笑った。まるで親子水入らずだ。
昼食が終わって後片付けが済むと、
「これからどこに行きたい?」
 と聞くと、
「今夜は取りあえず秋保温泉にしません?」
 と珠実が答えた。それで、珠実が運転するからと言うのを遮ってタクシーを呼んで三人で秋保温泉に出かけた。二日から混むそうで、三十一日~元旦は苦労せずに予約が取れたのだ。少し高いが和風の茶寮宗園と言う旅館にした。

 旅館に着いた。大晦日らしく宿の従業員はなんとなくせわしい。一年の終わりを可愛い娘とゆっくり温泉宿で過ごすなんて都筑庄平は初めてだった。米村家の実の娘沙里とはまだそんなことは一度も無い。
 夕食まで時間があるので都筑は、
「お風呂に入らないか?」
 と言った。都筑は当然男女別々の大浴場を考えていた。だが予約を取った部屋は離れで夫々露天風呂まで附属している。それでか、
「パパ、あたしも一緒に入っていい?」
 と奈緒美が言った。
「いいけど、大浴場でなくて、ここの風呂になるけどいいのかい?」
 と聞くと、
「当然よ」
 と奈緒美は澄ました顔をしている。もちろん都筑は嬉しいのだが、奈緒美はもう二十歳過ぎだ。
「子供の頃はいつも一緒に入ってくれたけど、今もいいのかい?」
 と確かめるとさすが恥ずかしそうに、
「あたし、一緒に入りたくなっちゃった」
 と答えた。
「じゃ、決まりだ。入ろう」
 この話をはたで聞いていた珠実が、
「お嫌でなかったら家族水入らずであたしも入ろうかな?」
 と言った。都筑は、
「珠実さん、僕でも構わないの?」
 と聞くと、
「はい。奈緒美ちゃんのことを考えて、あたしずっと一人身を通してきましたもの、都筑さんは奈緒美ちゃんのパパだからあたしの旦那様ってことでどうかしら」
 と悪戯っぽく笑った。
「そうか、そう言う考え方もあるな。いいよ、僕は嬉しいね」
 それで三人揃って風呂に入った。部屋ごとに付いている風呂とは言え、この旅館の離れの風呂は大きめで三人でもゆっくりとくつろげる広さがあった。内風呂に続いて露天風呂もあった。都筑はなんだか新婚時代のような新鮮な気持ちで風呂に入った。珠実はかいがいしく背中を流してくれるし、奈緒美は湯船で庄平の膝に乗ってきた。三人は新しい家族になった気持ちでそれぞれ幸せな気持ちでゆっくりと湯船に浸かった。珠実も都筑に寄り添い、都筑はこんな気分は初めてだった。奈緒美は都筑のお腹にある小さなホクロを確かめるようにじっと見つめていた。

百九十七 相性

 風呂からあがった所で、仲居がやってきた。
「お布団、旦那様と奥様をご一緒にして、娘さんは別のお部屋に敷いてよろしいでしょうか?」
 と尋ねた。都筑は、
「家内と娘を一緒にして、僕は別の部屋にしてくれないか」
 と答えた。それを聞いた奈緒美は、
「ママとパパ、一緒のお部屋にしたら? あたしはいつも自分のお部屋のベッドで一人だから大丈夫よ」
 と珠実に勧めた。都筑も珠実も初めてなので遠慮があった。珠実は、
「いいえ、娘と一緒にして下さい」
 と仲居に指示した。それで、仲居は珠実と奈緒美の布団を一緒にして敷いて、
「お食事は旦那様のお部屋に仕度させて頂きます。お食事が終わりましてから旦那様のお布団を敷かせて頂きます」
 と言い添えて出て行った。

 食事が終わると仲居がやってきて食器などを下げてから都筑の布団を敷いた。
「どうぞ、ごゆっくり」
 仲居は丁寧に挨拶して出て行った。
 都筑は窓辺に立って外の庭園を見ていた。先ほどから粉雪がさらさらと落ちてきて、庭園はうっすらと雪化粧をしていた。
「静かだなぁ」
 都筑は独り呟いた。雪が降ると、不思議と雑音が消えて辺りが静かになるのだ。離れなので、旅館によくある隣室の喧騒などは全く聞こえない。
 と、都筑の背後に人の気配がした。振り向くと旅館の浴衣姿で珠実が立っていた。珠実は黙って都筑の顔を見上げて微笑んでいた。
 都筑は珠実を促して、奈緒美が居る部屋に行って三人でテレビのドラマを見た。相変らず奈緒美は都筑にべったりで、あぐらをかいた都筑の膝に座り込んでいた。まるで小学生の娘みたいだ。
「奈緒美ちゃん、長い間会えなかったからパパのこと恋しいのね」
 と珠実は心の中で思っていた。

 ドラマが終わって、都筑は自分の布団が敷いてある部屋に戻って、ニュース番組を見ていた。一時間も経っただろうか、襖がすぅ~っと開いて、
「奈緒美ちゃん、もう寝ました。少しよろしいでしょうか?」
 と珠実が小声で囁いた。
「どうぞ」
 珠実は都筑の隣に足を崩して座った。
「あのう、あたし都筑さんのこと、もう少し知りたくて、失礼なことをお聞きしてもいいですか?」
 珠実は声を押し殺して遠慮がちに聞いた。表情を見ると、かなり勇気を振り絞って緊張している様子だ。
「どうぞ、軽いお気持ちで何でも聞いて下さい」
「奈緒美の母の加奈子さんとの関係ですが、今でも忘れられずに愛されていらっしゃいますの?」
「ああ、加奈子さんとはね、元々客の一人に過ぎなかったのですが、ある時誘われまして、つまり自分は結婚をする気持ちはないが、子供は欲しい。それで自分に手を貸してくれとそんな関係から始まりました」
「あの方、自立されてましたから」
「僕は所帯持ちなので、不倫をするつもりはなかったのですが、どうしてもと頼まれて身体を重ねることになりました。たった一度で奈緒美を懐妊して、庄司の時は最初は失敗して、二度目に懐妊されました。だから、彼女とは三回だけしか交わってないんですよ。普通じゃ考えられない不思議な関係です。彼女を嫌いではなかったですが、ずるずると引き摺るようなことはしませんでした。お互いの暗黙の了解ってやつですね」
「恋愛はされてなかったのですか?」
「微妙だな。お互いに嫌いではなかったですし、子供、つまり奈緒美と庄司が産まれてからはどちらかと言うと子供を二人で可愛がりました」
「そうだったのですか。今も奥様とお子様がいらっしゃるのですよね」
「はい。居ます」
「奈緒美に優しくして頂いていること、ご家族もご存知ですか?」
「一切知らせていません」
 珠実は奈緒美の話から希世彦の父親と目の前の都筑とは同一人物の可能性が高いと理解していたが、そのことには触れなかった。

「これからもご家族には一切知らせないおつもりですか?」
「はい。そのつもりです。ですから、珠実さんにお願いですが、僕のことを今後一切詮索しないとお約束頂けますか?」
「はい。お約束します。最初からそのつもりでいました。わたくしは奈緒美ちゃんのことを考えて一人身で通してきました。ですから、この先も男性と世帯を持つことは考えておりませんの。でも、時々淋しい気持ちになることはあります。女二人の世帯ですので心細いこともあります。ですから、いつも遠くから見守ってくれて、何でもご相談できる殿方が居て欲しいと思っていました。都筑さんは奈緒美ちゃんの実父でいらっしゃるので、お嫌でなければわたしたちの所にいらした時だけ。わたしの旦那様にもなっていただけません?」
「つまり、愛して欲しいと?」
「はい。わたしはもういい歳ですけれど、まだ女性ですから」
「今までに恋人はいらっしゃったでしょ?」
「若い頃テレビのお仕事をしていた時はいました。奈緒美ちゃんを引き取った時、気持ちを整理して、それ以降は男性との関わりは持ちませんでした」
「そうだったんですか」
 都筑は珠実の生き方に好感を抱いた。得てして養女に関係の無い恋人を作って結婚すれば、人間関係がややこしくなって、小説のネタになるようなDVや娘との淫らな関係が生じ易いのだ。珠実はそれを恐れておそらく一人身を通して来たのだろうと思った。
「珠実さん、僕でもよろしいのですか?」
「はい。初めてお目にかかって、奈緒美が言ってました以上に素的な方ですもの」
「じゃ、今日から奈緒美を訪ねて来た時はあなたの夫になりましょう」
「なんだか嬉しいわ」
 珠実は都筑の腕をとって頭を肩に寄せて甘える仕草をした。都筑はそんな珠実のウエストにそっと手を回して引き寄せた。
「あのぅ、今夜わたしに初体験させて頂けます?」
 都筑は黙って珠実を抱きしめた。珠実の熱い息が近付いて、二人はごく自然に唇を重ねた。

 都筑は明かりを消して、珠実の浴衣の小袋帯を丁寧に解いた。帯を解くとゆっくりと浴衣を肩から下にずらした。珠実はブラは着けてなかった。ふくよかな珠実の乳房が窓から差し込む僅かな光で形の良い美しいシルエットに見えた。都筑も自分の浴衣の角帯を解いて裸になり珠実を抱くと、静かに布団に横たえた。
 隣室の奈緒美を気にしてか、珠実は押し殺した声で都筑の愛撫に応えた。今まで紐で縛ってあったものが一気に解けたように珠実は燃えた。
 アラフォー世代に近付いている珠実はずっと一人身だったせいか、綺麗な肢体をしていた。都筑は珠実に知られないように避妊に気を遣って果てた。珠実も同時に登りつめてしばらく都筑にしがみついていた。
 ようやく珠実の気持ちがおさまって来た時、
「一緒にお風呂に入ろう」
 と誘った。珠実は浴衣を着ると素直に従った。時計の針は十二時を過ぎて元旦になっていた。二人は湯船に浸かってまた抱き合った。
「今日からわたしのパパよ」
「ん」

 都筑は物音がした気がした。すると奈緒美がするっと入って来た。
「あたしも起こしてくれればいいのに」
 そう言って身体を流してから湯船に入ってきた。それでまた三人で温泉に浸かった。外は昨夜から降り出した粉雪が積もって、あたりが明るくなっていた。
「露天風呂に行こうか」
 三人は真っ白な雪を見ながら並んで露天風呂に浸かった。
「奈緒美ちゃん、今日から都筑さんはわたしの旦那様になって下さったの。だからこの人、わたしたちのパパよ」
「嬉しいっ、あたし、そうなるといいなって思ってたの。ママを可愛がってあげてね、パパ」
「ん。やきもちは困るよ」
 と都筑は笑った。

百九十八 過去の恋人

 女の子が、ある男を好きになる時、その男が父親のイメージに重なるためとはよく聞く話だ。希世彦に恋したアオハこと奈緒美は大好きな父親都筑庄平の面影を希世彦の中に求めていたのかも知れなかった。だから、都筑庄平と再会をはたして甘えることができた奈緒美は、あんなに恋しかった希世彦を諦めることができた。奈緒美は都筑庄平と居ると、何故か安心できると言うか気持ちが落ち着いた。それで、奈緒美自身気付いては居なかったが、奈緒美の中では希世彦が次第に過去の恋人になりつつあった。

 希世彦は、まだ奈緒美との恋を完全に諦めきれずにいた。奈緒美は自分の父親と希世彦の父親米村善雄が同じ人物で、その場合希世彦は腹違いの兄になる可能性が高いと認識していた。だが、希世彦にはそんなことは何も知らされていなかったから希世彦は未だに純粋な気持ちで奈緒美に好意を寄せていたのだ。
「奈緒美に会いたい。でもおかしいな、最近奈緒美は僕を避けているのかなぁ」
 希世彦は漠然とそんな風に感じていた。
 四月、希世彦は東京大学工学部を無事に卒業すると、直ちにハーバードの入試準備にとりかかった。米村工機の仕事もあったが、父善雄の指示で留学の準備に力を入れていた。希世彦が目指す経営大学院は卒業するとMBAの資格が授与されるが、欧米ではMBAは企業経営者のステータスとなっているのだ。従って世界各地の企業経営者と交わりがある米村工機の経営トップとして将来希世彦にとって大切な資格になるはずであった。そのことは希世彦も十分に理解していた。

 年末年始ニュージランド旅行に誘ってもらってから、甲斐明美は、その後希世彦からのお誘いがなく、淋しい思いをしていた。
「あたしって、片想いかなぁ?」
 最近はそんな風に感じることが多くなった。
 三月末、明美は突然生産技術部への異動を指示された。米村工機では、異動に不平を言えば会社を辞めなければならないと言う社風があって、異動命令が出れば、社員なら誰でも命令に従わなければならなかった。
 仕事は楽ではなかったが、明美は最近すっかり上司の金子早苗に可愛がってもらい、今の部署は居心地が良かった。だが、命令なら仕方が無い、四月早々生産技術部へ移った。
 通勤は相変らず東陽町のマンションから通っていた。かれこれ一年も通って、最近は通勤にもすっかり慣れた。満員の通勤電車で痴漢に尻などを触られた時、最初の二ヶ月間位は嫌で嫌で仕方がなかったが、毎日何とか我慢をした。だが不思議なもので、一年近く過ぎた最近ではすっかり慣れっこになり、いつも触ってくる男たちの顔を覚えてしまって、たまに男が明美のそばに乗り込んで来ない日は、
「あら、あいつ、今日は具合でも悪いのかしら」
 などと変な心配までしてしまう始末だ。そんなことを自分でもおかしくて、笑ってしまうこともある。尻を触られるなど、考えてみればどうってことはないのだ。刃物で怪我をさせられたりするわけでもないし、顔を覚えてしまうと、そいつが一見真面目そうな年配のオッサンだったりすると、
「可愛いもんだ」
 なんて軽くあしらう余裕さえ出て来た。

 米村工機の生産技術部は製造現場と直結していて、より製造効率の高い組立ラインの研究開発とライン用機器の設計を業務にしていた。新製品の開発は別にある技術開発部が担っており、基礎研究部門は独立していて、工機発祥の地、板橋区小豆沢の事務所の中にあった。
 前に居た部品管理課と違って室内は小奇麗で明美にも小さな事務机が与えられた。上司の課長はいかにも技術屋らしい神経質そうな男だった。明美はその男の下で図面管理と事務作業を言いつけられた。
 明美が新しい部署に配属されると、課員一同で歓迎会をやってくれた。なにしろ女の少ない職場だ。女性社員の比率は十人に一人位で、何人か居る女性は皆大学の理工学部出身の技術者ばかりだった。だから、文科系出身で器量もそこそこの明美は男子社員に好感を持って迎えられた。
 課員は総勢二十三名、前に居た所と世帯はあまり変らないが、明美の他には技術者の女性が二人いるだけだった。
 歓迎会で雑談になった時、課員の約半数の十人はまだ独身で、最年長の独身者は四十一歳にもなると聞かされた。最近は草食系の男が増えて、どうやら結婚する気のない男が何人か居るらしい。

 四十歳を過ぎたいい歳になっても独身で居る男を、明美はなんとなく[きもい]と感じていた。そんな奴に限って、歓迎会では明美に何かと言い寄ってきた。顔には出さないが、何となく明美が嫌がっていると思って、無理に言い寄られている明美をタイミングよく救ってくれる男が居た。男は武田と自己紹介していた。確かまだ独身ですとか言っていたのを覚えている。男は三十歳より少し若いと思われた。明美より二コか三コ歳上の感じだ。その武田が、歓迎会がお開きになった時、
「若いものどうしで二次会に行きますが、宜しかったら仲間に入りませんか」
 と誘ってきた。
「よろしくお願いします」
 明美は誘いに応じた。

百九十九 拒否する心

 明美の歓迎会だから、明美が主役だ。武田に誘われて都営三田線西台駅の会社とは反対の南側の高島通り沿いにあるカラオケ店に入った。
 集まった七人の内東(あずま)と言う女性と明美の他の五人は男性だった。皆明美と同年代で飲んだり食ったり歌ったりとすっかり盛り上がった。酒には強い明美も、皆に勧められるまま飲み続けて、いつもよりハイピッチだったせいで少し酔ってしまった。明美は酔うと地が出てしまう。それで、いつのまにか男性たちと肩を組んだり抱きついたりしながら歌いまくっていた。もちろん武田先輩ともだ。

 二次会がお開きになって、東は一人の男と一緒に帰って行った。
「東さん、元は島さんだったんだけど、一緒に歩いている東君と結婚して、まだ新婚さんです」
 と仲良く帰っていく東を指して武田が教えてくれた。
「甲斐さんの家はどっち方面ですか?」
 武田に聞かれて、
「あたし、東陽町です」
「江東区の?」
「はい」
「遠いね。毎日そこから通勤?」
「はい」
「じゃ、朝、大変でしょ」
「もう慣れました」
「僕は新板橋です。方向が同じだから途中までいいですか」
「はい」
 明美は足元が少しふらついていた。武田は明美を支えるようにして、西台駅から電車に乗った。他に同僚が二人居たが反対方向のホームに上がった。それで明美は武田と二人きりになった。
 新板橋駅に着いた時、明美はすっかり酔いが回っていた。冷酒をガブ飲みしたのが効いたらしい。武田はこのまま独り甲斐を帰すのは危ないと思った。それで、
「僕の所に寄って酔いを醒まされてから帰られたらどうですか」
 と勧めた。明美は、
「いえ、大丈夫です」
 と断ったが、発車のアナウンスがあって、扉が閉じる寸前に武田に引っ張られて電車から降ろされた。明美は気持ち的には、
「いけない、帰らなくちゃ」
 と武田の誘いを拒否し続けたが、身体が言うことを聞かなかった。駅の改札を出て、ふらつく足で武田のマンションに辿り着いた時は、明美は朦朧としていた。どれくらい経っただろう、ふと気が付くと明美はベッドの上に寝かされていた。男臭い匂いがした。

「目が覚めましたか? 三十分位寝てたよ」
 そこに優しく微笑んでいる武田の顔があった。武田は、
「さ、これ飲んで」
 と冷たい水と[酒得倍増]のラベルが付いたドリンク剤を差し出した。
「すみません。すっかりご迷惑をかけてしまって」
 明美はそう言いながら出されたドリンクと水を飲んだ。喉を通る冷たい水が気持ち良かった。
「甲斐さんは今付き合ってる人居ます?」
「はい。居ますけど、彼は忙しい人で最近は……」
 と言いかけて明美は余計なことを言ってしまったと後悔した。そんな明美の顔を武田は見つめていた。
 急に武田の手が伸びて、明美の首の後に回って引き寄せられ、武田に唇を奪われた。明美は歯を閉じて抵抗したが、武田の執拗なキスに負けてつい歯を開いてしまった。そこに武田の舌が入り込んできて、明美は武田に完全に唇を奪われてしまった。明美にとってはファーストキスだったのだ。武田の舌に刺激されて背筋がぞくぞくするような感じがして身体が震えた。武田は根気よく明美の気持ちをほぐすようにキスを続けた。そうされている内に、明美の中に快感が訪れて、明美も舌を武田の舌に絡めた。武田はゆっくりと明美をベッドの上に押し倒し、手を明美の太ももの内側に入れてきた。
「ダメです。やめてぇ。ダメェェェェ」
 手は明美のショーツの裾に入り、明美の恥ずかしい部分を愛撫始めた。
「ダメェェェ」
 と言う声が次第にすすり泣きのように変わりやがて、
「ァァァァ」
 に変った。明美のそこは既にすっかり潤んでいた。

 やがて明美は武田にブラウスのボタンを外され、スカートもショーツも脱がされて裸にされてしまった。恥ずかしくて乳房と下腹部を手で覆うようにしたが、武田に上手い具合に手を外されて、恥ずかしい部分を曝け出していた。武田の愛撫は丁寧で上手だった。尖った乳首を舌で愛撫された時は、堕ちて行くのを抗っていた気力が萎えて、体中に快感が走り、下腹部を舌で愛撫された時には完全に堕ちてしまった。明美は武田にされていることは全て初体験で、セックスの快感を初めて知った。武田のものが挿入された時、声を出す自覚がないのに、思わず大きな声を出している自分がいた。武田の荒い息遣いを聞きながら、やがて明美は快感が頂点に達して、その瞬間全身が痺れ頭の中が真っ白になった。
「初めてだったの?」
 明美は頷いた。
「いったみたいだね」
 どう言うのを[いく]と言うのか、今まで恋愛小説で何度も読んで来たのに本当のことは知らなかった。でも、今[いく]と言う状態をはっきり理解できたように思った。

 武田と明美は勤めが終わって一緒に帰ることが多くなった。会社を出る時は別々で電車も別の入り口から乗り、車内で一緒になった。もちろん職場ではお互いにそ知らぬ顔を通した。
 お互いに仕事の都合で週に二回か三回一緒に帰り、明美は新板橋駅で武田と一緒に降りた。そんな時はいつも武田のマンションで身体を重ねセックスをした。休日はデートをした。馴れてくると、夕食の食材を二人でスーパーで買い込み、マンションの小さなキッチンで明美は夕食の仕度をした。時には武田が明美のマンションに遊びに来た。

 七月、明美は体調の異変に気付いて婦人科の診察を受け、懐妊を知った。武田はとても喜んでくれた。産科医は二ヶ月ですと言った。
 武田は群馬県出身で、東工大を卒業して直ぐに米村工機に入社した。
「今度の日曜日、実家の父母に会ってくれない?」
「はい」
 その時明美は武田にプロポーズされた。群馬の田舎の武田の両親は優しかった。それで明美は武田のプロポーズに同意した。
「夏休みに、宮崎の実家の両親に会って下さい」
 二人の関係は順調に進んで、九月早々結婚式を挙げることになった。

 八月中旬、希世彦は米国留学前に明美に会っておきたいと思って電話をした。そこで意外な話を聞かされた。
「すみません。あたし来月早々、社内の同じ課の武田さんと言う方と結婚することになりましたの。希世彦さんにはご報告をしなければと思っておりましたが、ご多忙の様子でしたので」
「そう。おめでとう。幸せになって下さい」
 明美は希世彦に嫌味の一つも言われるのを覚悟していたが、さらっと言われてしまって拍子抜けしてしまった。
 希世彦は予定通りボストンに向けて旅立って行った。沙里と志穂が成田まで来たが、アオハも明美も見送りはなかった。

二百 生涯の友情

 希世彦はマサチューセッツ州ボストン市に着くと、とりあえずホテルに部屋を取って、下宿先を探した。不動産屋に相談すると、ビーコンヒルの普通の家庭で留学生に部屋を貸してくれる家があると聞いた。ビーコンヒルは高級住宅街で富裕層の人々が暮らしている所だ。それで、不動産屋の紹介状を持ってビーコンヒルのとある家庭を訪ねた。薔薇や草花などが咲いているちょっとした広さの庭に白っぽい平屋の建物が建っていた。門の所で呼び鈴を鳴らすと、家から品の良い老婦人が出て来た。紹介状を手渡すと、婦人はにっこりとして、
「どうぞ中にお入りになって」
 と招き入れた。奥に婦人が声を掛けると、少し太った老紳士が顔をだした。
 リビングに通されて希世彦は、
「日本から来ました。今年からハーバードのビジネススクールに通うので、卒業するまでの二年間おいて頂けませんか?」
 と丁寧に挨拶した。
 老紳士が大きな手を差し出した。希世彦は求めに応じて握手した。
「トム・ヘイワードだ。ようこそ」
 老人はにっこりと希世彦の手を握った。それで決まりだ。希世彦に貸してくれる部屋は離れで、日本で言えば十畳くらいの広さで、机とベッドが置いてあった。掃き出しのガラス戸の外は花が綺麗な庭だ。老婦人が持ってきた契約書にサインをすると、鍵を渡された。どうやら人に貸すようになってから外から直接出入りできるように小さな扉を付けたらしい。食堂にも案内されて、
「食事はわたしたちとご一緒にしましょう」
 と言われた。
「留学生はわたしたちの家族ですから」
 と付け加えた。
 ホテルを引き払って、希世彦はビーコンヒルで新しい生活をスタートした。
 大学の芝生の美しいキャンパスを歩いていると、有名なジョン・ハーバードの座像を見つけた。十七世紀、学校を開設する時に多額の遺産を寄付した資産家だ。ハーバード大学の名前はこの資産家ジョン・ハーバードにちなんで命名されたと言われている。
 学校が始まると、希世彦は急に多忙になった。兎に角、朝から晩まで財務諸表の面倒な計算をやらされて、数字を見て事業経営の内容を評価させるのだ。毎日がそんな作業の繰り返しだと言っても過言でなかった。
 世の中では数字の操作で収益を伸ばす様をマネーゲームと言うが、マーケティングや事業戦略をゲーム理論に基づいて策定することも教えられた。
 パソコンが世の中に誕生した頃、つまり一九七七年頃、このハーバードのビジネススクールの学生だったダン・ブルックリンと言う青年が、毎日やらされる財務諸表の計算をもっと能率よくできないものかと考えて、表の中の数字を、簡単な関数をセットして、たて横に計算でき、一つを訂正すると自動的に関連する他の欄の数字も訂正されるプログラムを考案した。これが現在の表計算ソフト[エクセル(EXCEL)] などの大元になったビジカルク(VisiCalc)だ。
 今では団塊の世代と呼ばれるオジサンたちが青年だった頃、優秀な奴は米国の国際交換プログラム、フルブライト・プログラムのフルブライト奨学金制度のお陰で、大勢米国の有名大学に留学した。だが、現在はどうだろう? その年ハーバードのビジネススクールに入学した日本人は希世彦だけで、中国、韓国、インド、ブラジルなど新興諸国からの留学生が目立っていた。
 希世彦はビジネススクールに入る目的を二つに決めていた。一つはMBAの取得、もう一つは友人、とりわけ中国、韓国、インド、ブラジルなど新興諸国から来ている学生と友達になることだった。彼らは殆ど国の富裕層の子弟で卒業後、国に戻ると多くは将来政財界の大物になると思われた。それで、希世彦は友達作りに努力した。ここで共に学んだ友達の多くは生涯の友達になるだろう。

 母の沙希に、
「お友達を作ったら、その友達の国の言葉も良く覚えるわよ」
 と自分の体験談を聞かされていたので、希世彦は中国語や韓国語などの習得にも力を入れた。そう言えば、サトル小父さんのとこの茉莉の母親マリアがスペイン人なので、母の沙希はスペイン語も達者だった。
 息子がいくつになっても、母親は母親だ。沙希は遠く米国に留学している希世彦が元気にしているのか気がかりだった。それで、翌年の三月末、ボストンで希世彦が世話になっているヘイワード家を訪ねてきた。一人かと思ったら、妹の沙里に章吾小父さんのとこの志穂も一緒にやって来た。

 ヘイワード夫妻は沙希たちを大歓迎してくれた。もちろん三人で手分けして日本からお土産をどっさりと買い込んできた。三人共英語は達者なので、言葉の壁はなかった。
「思ったより元気そうじゃない?」
「それってどう言うこと?」
「母さんは青い顔をしてやせ細ったあなたを想像していたのよ。勉強の虫」
 と沙希は笑った。
「アオハから何も連絡がなかった?」
 希世彦が気にしていることを聞くと、
「あれから一度六本木のマンションに川野さんを訪ねてお邪魔したのよ。そうしたら最近女優のお仕事が増えたそうですごく多忙だってよ」
「そうか。たまにはボストンに遊びに来たらどうかと思っていたけど、無理ってわけか」
 希世彦は今でも時々奈緒美のことを思い出すのだ。スイスのアルプスで抱き合って星空を眺めた想い出は今でも新鮮な映像となって瞼に浮かぶのだ。

 母親たちが帰って、静かになった。せっかくボストンまで来たので、ついでにナイアガラの滝を見るんだと沙里と志穂が楽しみにしていた。
 大学の春休み、希世彦は市内の大きな本屋で立ち読みをしていた。ボストンは大学の町なので、大きな本屋がある。
 希世彦が経営書を立ち読みしていると、肩をポンと叩かれた。振り返ると、
「あたし、絶対に再会できると思ってたよ」
 と可愛らしい女性が微笑んでいた。

 忘れもしない、ソウル在住の諸井雅恵と言う婦人から受け取ったヨンヒの遺書のために心に大きな傷を負って、房総の竹岡海岸でぼんやりとしていた時に出会った子犬と戯れていた女の子だ。あの時より、お姉さまっぽくなっていた。
「今度、もしも偶然に会えたらアド、教えるよって約束、忘れてないよね?」
「ん。忘れてない」
 希世彦が笑うと、
「よかったぁ、ちゃんと覚えていてくれたんだ」
 と彼女は嬉しそうに笑った。

二百一 豊かな感じで美しい人

「お茶しない?」
 希世彦は逢ったばかりの女性を誘ってみた。
「あたしも、お茶しないって、今言おうと思ってたんだ」
 逢ったばかりと言っても房総の海岸で逢っているから、正確には再会だ。
 二人は書店の近くのコーヒーショップに入った。ボストンは歴史的に有名な茶会事件、つまり一七七三年植民地政策に不満を持つ暴徒が港に停泊していた東インド会社の三隻の船を襲撃して三百四十二箱の茶箱を海に投げ込んだってことから、ティーよりもコーヒーを愛好する者が多いらしい。当時暴徒たちは紅茶をボイコットする運動をしたからだ。
「えぇーっと、名前聞いてなかったな」
「お互いに。あたし、渡辺美玲(わたなべみれい)
「僕は米村希世彦(よねむらきよひこ)。どうしてボストンに居るの?」
「学校」
「留学? 当たり前かぁ」
 希世彦はくだらないことを聞いてしまった。
「どっち?」
「あなたと一緒よ」
「って言うことはハーバード?」
「はい」
「へぇーっ」
「びっくりした?」
「少し」
「なんだ、少しかぁ」
「学部は? 僕はビジネススクール」
「経営大学院ね。すごぉーぃっ。あたしはアカデミックの中で日本文化と歴史を勉強してるんだ。韓国、中国、ベトナムなんかも含めて」
「どうして日本文化と歴史なの?」
「これからの日本は観光を経済発展の柱の一つにしようと政府が頑張ってるでしょ? なので、海外からのお客様を受け入れる時、欧米では日本とか極東文化をどんな風に捉えてるのか、そんなことを勉強して将来に活かしたいんだ。それにここに居ると色々な国から留学生が来てるから、言葉とか、相手の国の文化とか物事の考え方なんかも覚えられるしぃ」
 希世彦は意外だった。目の前に居るのは可愛らしい女の子だ。とてもそんな風に将来を見据えて勉強をしているなんて想像できなかった。日本の女子大生だって、自分の将来を見据えて勉強をしてる子は少ないのだ。
「ハーバードに入学したきっかけ、あるんだろ?」
「あるよ。あなたと初めて逢ってから、父がニューヨークに転勤になったの。それであたしもついて来ちゃって、少し離れてるけど、ここの大学にしたのよ」
「お父さんはしばらくニューヨークに居るの」
「多分」
 ボストンとニューヨークは直線距離で300kmくらいは離れている。日本で言えば東京駅から名古屋駅までの距離より少し近い。だから、広い米国では遠いと言う感じではないのだ。

「今、どこに泊まってるの?」
「ビーコンヒルの端っこ」
「なんだ、ご近所さんだな。僕もビーコンヒルだよ」
「そうなんだぁ。偶然って面白いね」
 ビーコンヒルはボストンの旧市街だが、ハーバード大学はボストンから数キロ離れたケンブリッジにある。交通機関が発達しているから、不便はない。
「あっ、大切な約束わすれてた」
「アドでしょ?」
 それで二人は携帯のアド交換をした。こうして、希世彦の携帯の限定アドレスに美玲が加わった。

 そんな再会があってから、キャンパスで一緒に昼食をしたり、友達と会う時に時々美玲を誘った。それで友達も美玲自身も、美玲は希世彦の彼女だと言うことになってしまった。美玲は特に嫌がるでもなく、むしろ喜んで希世彦の彼女役を務めた。休日はレンタカーを借りて二人でボストン郊外にドライブにでかけたり楽しく遊ぶことが多くなった。
 美玲はまめな所があって、一日に何回もメールをしてきた。希世彦は不精だから、毎回返事は出さなかったが、美玲は気にしている様子ではなかった。
 美玲は豊麗と言う形容がぴったりで、初めて出会った時よりも豊かな感じで美しい女性だった。ハーバードで勉強してはいるが、知的な感じではなくて、どちらかと言えば小悪魔ちゃん的な感じの所もあった。
「今度のお休みに、父が希世彦さんに会ってみたいんだって。ニューヨークまでドライブしない?」
 希世彦はもちろんOKした。

二百二 帰国子女の悩み

 土日に、希世彦と美玲は連れ立ってボストンからニューヨークを目指してドライブに出かけた。
「品質がどうのこうのと言う人がいるけど、やっぱトヨタが一番安心だからさ、レクサスにしたんだ」
「燃費もいいんでしょ」
「ん。満タンにしておくと給油なしで着ける」
 希世彦は、
「往きは内陸の有料道路にして、帰りは海岸沿いのフリーウェイにしよう」
 と言ってルート90に乗り入れた。ルート90はオンタリオ湖の方に延びていて、オンタリオの隣のエリー湖畔のバッファローまで続いている。
 助手席の美玲は膝上10cm以上もあるミニ丈の可愛い花柄のワンピを着ていた。最初に海岸で子犬と戯れていた時は、ウォーキングショーツを履いていて、ショーツから出た脚が綺麗だなぁと思った。美玲は自分のチャームポイントを知っているかのように希世彦の視線を気にしつつ綺麗な脚を見せていた。胸元も切込みが深くて、上から見ると谷間ちゃんがはっきりと見える。美玲はこんな所で小悪魔的なイメージに映るのだが、キュートな感じで決して嫌らしくはなかった。希世彦はそんな美玲の魅力が気に入っていた。

「あたし、生まれたのはロンドンなの。小学校を卒業するまではロンドン郊外に住んでいたのよ。周りのお家はどこもお庭が綺麗で、そうね、薔薇が一番多かったけれど、ハーブの小花も多かったわね」
 前にデートの時大体は聞いていたが、美玲は自分の生い立ちを詳しく話し始めた。運転しながら、希世彦は美玲の話しに耳を傾けていた。
「父がM銀行の外国業務部だったので、ずっと海外なの」
 希世彦はこれから会う銀行マンの美玲の父親を想像してみた。
「中学に入った時、少しの間パリに居たの。あたし、フランス語はそれほど出来なかったから、勉強はすっごく厳しかったな。中学一年生の頃、アメリカのアトランタに引っ越したの。だから、小学校はロンドン、中学はアメリカね。高校に入学する時に、両親はアメリカでしたけど、あたしだけ帰国して西新井の父の実家から地元の高校に通ったわ。中学まで海外だったから、大学の受験勉強、良く出来なかったの。それでとりあえず短大に入ったのよ」
「確かに日本の一流大学に入るための受験勉強は大変だよね」
「希世彦さんは今[院]だからどこかの大学を出ていらっしゃるんでしょ?」
 今まで美玲と何度もデートをしてきたが、希世彦は卒業校なんて然程興味がなかったから話題にしなかったのだ。
「一応卒業させてもらったよ」
 と希世彦が笑うと、
「どこの大学?」
 と聞いた。
「東大」
「えっ? 東京大学?」
「そうだよ。工学部。」
「やはりなぁ、ハーバードのビジネススクール、レベル高いから多分一流大学だと思ってたよ。そう言えば、房総で最初に逢った時に東大って聞いたのを今思い出したわ」
「美玲は?」
 一応聞いてみた。
「高校は地元で受け入れてくれましたけど、高校が海外だと大変みたい。それで帰国子女を特に受け入れている短大とか大学がありますけど、あたしは共立女子短大にしました。高校は日本の高校だからどこでも入れてくれるんですけど、お友達どうしの話題なんか考えると帰国子女を受け入れている学校の方がいいと思って水道橋に通ったの」
「海外で育った人は日本語で困る人が居るんだってね」
「そう。あたしの小学校のお友達、日本の大学を落ちて、結局海外の大学に進んだ人も居るわ」
「あたしの場合は、生まれた時から英語。でも母が日本から絵本とかビデオとか色々取り寄せてくれて、家の中では英語と日本語とゴッチャでしたけど、子供の時から日本語をちゃんと話せたわね」
「あたしが短大を卒業する少し前、父はM銀行を退職して外資系の銀行に入ったの。それで、新しい勤め先が決まるまでの間、母方の実家の房総に引っ越して住んでいたのよ。あそこで偶然希世彦さんを見かけた時、あたし運命を感じたわ。だって、高校、短大と通う間西新井の駅で良く見かけてお友達と一緒にお慕いしていた方ですもの」
 美玲はこの話をする時、少しはにかんだ。
「あたし、初めて希世彦さんとお話しできたことをお友達に自慢したの。そうしたらお友達、すごく羨ましがってたわ。それで、絶対的に運命を信じたのはボストンで再会できた時ね。あの時は、あたし、すごい感動だったわ」
 美玲は少し顔を赤くして神様のお導きだと言った。
 そんな話をしている内に、ルート87との分岐点に着いた。左折して真直ぐ走ればニューヨークシティだ。途中一回サービスエリアで休憩したが思ったより速い。ルート87をハドソン河沿いに120マイルくらい北上するとニューヨークだ。

 美玲の父親はニューヨークに隣接するニュージャージのガーデンステイツと呼ばれる地域の中のメイプルウッドと呼ばれる美しい高級住宅街に住んでいた。ここはニューヨークの喧騒とは別世界の静かな住宅地で中流階級の瀟洒な住宅が並んでいた。
 最近金融機関の高給取りはニューヨークを避けてこの辺りにいくつもある高級住宅街に家を構える者が増えているのだと言う。

「やぁ、米村君、待っていたよ」
 美玲の父親は中背のがっしりした体格の男でなかなかハンサムだった。今様に言えばイケメンだ。奥から静かな雰囲気の上品な婦人も出迎えてくれた。美玲の母親だった。
「道路、混雑してましたの?」
「いえ、日本の東名高速なんかに比べるとガラガラでした」
 と希世彦は笑った。
 美玲の父親は渡辺憲次で家内は玲子だと自己紹介した。今は米国の銀行の役員をしているのだと言った。希世彦も自分のことを概略紹介した。
「そうか、あの米村工機の息子さんか。以前邦銀に勤めていた頃、一度お爺様の善太郎さんにお目にかかったことがあるよ。神経の図太い立派な経営者だな、なんて印象だったよ」
 そう言って憲次は祖父の善太郎を褒めた。
夕食をご馳走になって、その日は渡辺家に泊めてもらうことになった。美玲は高校、短大と別居していたせいか、母親べったりではなくどちらかと言うと父親の方に懐いている様子だった。憲次は、既に結婚している美玲の兄が一人居て、今はロンドンに住んでいるのだと説明した。

二百三 恋の火

「帰りは、フリーウェイでのんびり帰ろうね」
「はい」
 希世彦と美玲は朝早めにメイプルウッドの美玲の実家を出発した。美玲の母の玲子が、
「気を付けて行きなさいよ」
 と見送ってくれた。
「希世彦さん、あたしのパパに気に入ってもらって嬉しいよ」
 借りたトヨタのレクサスは間もなく有名なリンカーン・トンネルを抜けてニューヨークのミッドタウン(マンハッタン島の西端)に出た。そのまま半島を行くと途中フェリーを使うことになるので、大陸側に折れて、コネティカット州のスタンフォードから海岸沿いに走った。
 スタンフォードまでは道路が混雑していたから、希世彦は無言を決め込んで運転に集中した。ルート95をニューへィブンを過ぎると道路が空いてきた。
「美玲はお父さんが僕を気に入らなかったら、僕との付き合いを止めるつもりだったの?」
「希世彦さん、意地悪だなぁ。あたしの気持ち、分ってるくせにぃ。あたし、パパが反対してもずっと希世彦さんを好きだよ」
 ミスティクと言う町を過ぎたあたりで、ルート95は海岸から離れて内陸に延びていた。小高い山を登ってワイオミングで峠を越えると、昼過ぎにロードアイランドのクランストンに着くはずだ。それでワイオミングで休憩した。
「お昼ご飯、クランストンでいいだろ?」
 クランストンは大きな街だ。
「ちょっと小腹が空いたな」
 と美玲は笑った。
「クランストンでオマール海老(ロブスター)を食べようか?」
 ボストンやクランストンはアメリカオマール海老料理が普通にある。
「あ、いいわね」
「でかい奴は体長が1m位のも居るんだってね」
「そうなんだ。大きい海老だなぁって思ってたけど、そんなに大きいのがいるの?」
「ん。それでね、凄く獰猛な奴で喧嘩をするんだって。だから、水揚げされた奴は全部ハサミをゴムで止めちゃうんだ」
 二人はクランストン市街でオマール海老料理屋を探して入った。アメリカの料理は何を食べてもボリュウムがある。それで、腹いっぱいになった。
「ここからボストンまでは50マイルくらいだから、予定通り夕方には家に着けるな」

 美玲は若いが、それでも長距離ドライブをしたのでかなり疲れた様子だった。それで、美玲を送っていくとそのままレンタカー屋に寄って車を返した。
 翌日美玲から、
「体調が良くないから学校を休むから」
 とメールが来た。
「疲れたのか?」
 と返事をすると、
「生理」
 とだけ書いた返事が来た。
「もしかして、昨日は無理して我慢をしていたのかなぁ?」
 と希世彦はぼんやりとそんな風に思った。

二百四 晩夏……私を思い出して

 美玲は大学で日本文化、東洋文化などを学んでいた。
「今度の日曜日、映画に付き合ってよ」
 美玲は希世彦を誘った。
「今日本でヒットしている日本映画が上映されているの。それを見に行きたいの」
 と付け加えた。
「たまにはいいね。付き合うよ」
「そう言ってくれると思った」
 美玲は嬉しそうだった。映画館は久しぶりだ。
「何て言う映画?」
「晩夏」
「面白そうだな」
「日本で大ヒットしてるんだって。あたし、お友達に聞いたの」
「映画館の場所は?」
「Museum of Fine Arts」
「ああ、ボストン美術館だね。あの中のシアターで時々日本映画もやるんだよな」
「そうみたい」
 ボストン美術館はアメリカ三大美術館のひとつで、ルーブル、エルミタージュ、メトロポリタンに並んで世界の四大美術館の一つにもなっている。ここのシアターでは、一般興行では見られない邦画も上映されるので、マニアの間では有名になっていた。
 上映は夕方からだったので、日曜日、お昼前に美玲をピックアップして、レストランで昼食をとり、ケープコッド国定海浜公園まで足を延ばした。希世彦がなぜその日はオープンカーを借りてきたのか、美玲はプリマスを過ぎてから納得した。海岸沿いに半島を走るドライブウェイの景色は美しく、風がとても気持ちが良かった。美玲の軽くカールした髪の毛が風になびいて、サイドミラーに写る美玲自身一層チャーミングに映っていた。
 夕方、ボストン美術館に戻ってきた。
 シアターはほぼ満席だった。希世彦は[晩夏]はどんな内容だろうと楽しみにしていた。

 パンフレットを見て、希世彦は呼吸が止まりそうになった。主演女優[アオハ]と印刷されていたからだ。それで、勢い映画への関心が希世彦の心の中ではむちゃくちゃ高まった。
 粗筋(ストーリー)を読むと、その夏、恋に破れた女性が独り淋しく旅に出た。行き着いた先は海岸の美しいリゾート地、そこで女性は傷付いた心を癒すために楽しく過ごそうと努力する。そんな姿を遠くから見つめている青年実業家がいた。彼は事業に行き詰まり、心機一転新たな事業に乗り出す決意で美しいリゾート地で明日を目指してチャージしていたのだ。ある日、その女性が落としていった赤い革表紙の手帳を拾い、届けに行く。手帳に何が書いてあるのかとこっそり開いて見ると、真っ白で何も書かれていなかった。
 手帳を届けたことがきっかけで、女性と知り合うのだが、女性は素っ気無く男を帰してしまう。失恋の傷口がまだ塞がらない女としては男は懲り懲りだったとしてもおかしくはないのだ。それを知らずに男は女性に一目惚れする。
 男の熱心なアプローチに、やがて女性は遂に折れてくちずけを許してしまう。女性がどこか心ここにあらずと知りながら、青年実業家の男はすっかり女性の虜になり、とうとう海岸の叢で全裸で抱き合う所まで漕ぎ着ける。
 その光景は、一九五五年に公開されて、今は名画の一つになっている、キャサリン・ヘップバーンが扮するジェイン・ハドスン主演の映画[旅情]をモチーフにしたようなシーンがあり、美しい夕日に向かって全裸で立ち尽くす女性のシルエットが幻想的で印象に残る。
 恋に溺れた青年実業家の愛は続くが、夏が終わりに近付いて女性はふと、自分がこんなことを続けていても傷ついた傷口は塞がらないことに気付いて、男の元を去ろうと決意する。
 駅まで追いかけてきた男を振り切って、女性は去って行くのだが、いつまでも手を振って見送る男をみている間に、女性は実は自分も青年実業家に恋をしてしまっていることに気付くのだ。だが、列車はどんどんと遠ざかって、やがて男の姿が見えなくなる。頬を止め処なく流れ落ちる涙を拭きながら、赤い革表紙の手帳に男を想う気持ちを書き綴る女性の姿が痛ましく哀愁が漂うラストシーンで映画は[完]となる。

 映画が始まった。最初のシーンで全裸の男女が美しい海岸の叢で激しく抱き合って愛し合う光景が大写しになった。
 希世彦はアオハと恋人どうしだったのだが、まだアオハの全裸を見せてもらったことは一度もなかった。アオハがこんなに美しい肢体の持ち主だったとは知らなかった。そんなアオハを激しく侵す男を許せないと思った。確か、アオハは顔が見えない濡場の映像は別の人の映像と差し替えられると言っていたが、画面を見る限りアオハだ。
 女優を恋人に持てば、いつかはこんな場面に出くわすだろう。だが、希世彦は割り切れない気持ちになっていた。最近何度電話をしても無視され続けていることも希世彦の腹立たしさに輪をかけていた。
 最後の方の美しい夕日に向かって立ち尽くす全裸のアオハのシルエットは解説に書いてあった通り、シーン全体が幻想的で美しかったが、希世彦の心の中には他人に見せたくないと言う気持ちが充満していた。

「あの夕日の場面、あこがれちゃうなぁ。すっごく綺麗だったね」
 美玲にそう言われたが、希世彦は急に無口になって、むっとした顔をしていた。美玲は希世彦の異変に気付いた。それで、なにか話をしようと思ったが何も言えなかった。ビーコンヒルの美玲の下宿に着いた時も希世彦はむっつりとして何も言わなかった。走り去るオープンカーの赤いテイルライトを見ながら、美玲はなんとも解せない気持ちになってしまった。
 その夜ベッドに入ってから美玲は、
「あたしの何がいけなかったの?」
 と独りしくしく泣いた。

二百五 無言の恋

 アオハ主演の映画[晩夏]にこんなセリフがあったのを希世彦は思い出していた。
 熱心に詩織(アオハが扮する女性)を口説く青年実業家の男が、
「僕はね、貴女への思い、貴女への恋に命をかけてるんだ。もしも、貴女に受け入れてもらえなかったら、僕はこの世に生きていても意味が無い。だからダメなら死んでしまおうと思ってるんだ。恋と結婚とはイコールじゃない。世の中には命をかけて結婚する人はいないんだ。なぜか分りますか? 結婚は幸せをかけるものだからですよ。命をかけるものじゃない。だから幸せになれないと思ったら結婚を止めて、自分を本当に幸せにしてくれる人をもう一度見つければいいんです。でも、真実の恋は、ダメなら別の人と恋をし直すなんてことは出来ないんだ。本当の恋は一生に一度しかないんです。だから貴女への思いが叶えられなかったら、僕の恋は終わりです。もう一生こんな気持ちになれることはないんです」
 詩織は男が軽い気持ちでナンパしているとはとても思えなかった。男の後には引けない真摯な気持ちがストレートに詩織の胸を(えぐ)り、それで唇を許してしまった。映画のシーンはそんな展開で進んでいた。

 希世彦はこの映画を見て、自分を好きになってくれたのに受け入れてやれなかったヨンヒが敢え無く自殺してしまった意味が分ったような気がした。やはりヨンヒは自分に命がけの恋をしていたのだ。だから、自分との恋愛が上手く行かなくなって、生きていても意味がないと思ったのだろう。そして、今も自分が気持ちを捨てきれないでいるアオハへの思いの意味を、この映画を通して、アオハが無言で教えてくれているようにも思えた。
「希世彦さん、もしも本当にあたしに恋をしていらっしゃらなかったのなら、どうぞ死なないで下さい。その代わり、命がけで好きだと思える素的な方が現れたら、どうか命をかけて恋をして下さい。一生に一度の恋ですから」
 それで、希世彦はアオハへの思いが命がけのものだったのか、もう一度振り返って考えていた。
「やっぱ、僕の気持ちは中途半端だったかも知れないなぁ。アオハ、ごめん」
 この時、希世彦はアオハへの気持ちを少しは整理できたように思った。

 週末、希世彦は改めてボストンから韓国の仁川国際空港に飛んで、レンタカーで直接忠清南道に向かった。誰もいないヨンヒの墓の前に跪くと、
「ヨンヒ、ごめんな。僕はヨンヒが本当に僕を愛してくれていたことを今になって分かったんだ。僕がもう少し早くヨンヒの気持ちを理解してあげてたら、たとえ結婚できなくてもヨンヒの気持ちをしっかりと受け止めてあげたと思う。本当にごめんね」
 何度悔やんでももう戻らないヨンヒに向かって、独り手を合わせて声を出さずに泣いていた。男泣きだ。

 ボストンに戻ると、自分の気持ちが整理できるまで、希世彦は勉強に集中していた。美玲から来たメールに、
「しばらく勉強に集中したいから」
 と丁寧に返事を送った。美玲は、
「分りました。頑張って下さい」
 とだけ言って来た。
 希世彦はもちろん、自分の過去の女性関係については一切美玲には話をしなかった。

 美玲は希世彦が映画を見た直後から急に態度が変ったことを不審に思っていた。けれど、一度好きになってしまった希世彦に何があっても信じていこうと心に決めていた。だから、ぐじゃぐじゃした嫌味や訝るようなことは一切書かずにメールをしたのだ。
 美玲は、
「あたし、前から想っていた人だから、絶対に疑ったりしないから」
 と自分に言い聞かせていた。
 ある程度気持ちを整理して、希世彦は美玲に、
「逢いたい」
 とメールを送った。美玲から直ぐに返事が来た。メールの向こう側で飛び上がって喜ぶ健気な美玲が見えるようだ。

 その日は電車でパブリックガーデンに出かけた。ボストンにはいくつかの公園があり、芝生の上で寝そべったりできるボストンコモンと呼ばれる公園の隣がパブリックガーデンだ。パブリックガーデンはボストンコモンと違って植物園なので、基本的に芝生の中には入れない。その代わりに良く手入れの行き届いた花壇があって、花が綺麗に咲き乱れている。
「ウワーッ、綺麗!」
 美玲は感嘆の声をあげた。
 ガーデンの中に大きな池があり、スワンボートが浮かんでいる。希世彦と美玲は一緒にスワンボートに乗って楽しんだ。二人乗りではなくて大勢の子供たちと一緒だ。子供の頃ロンドン郊外で育った美玲は周囲の子供たちに冗談を言ってすっかり子供たちの人気者になっていた。こんな場合欧米人は人見知りする者が多くはなく、若い母親たちも子供たちと一緒になって美玲と笑い合っていた。
 ガーデンの池の対岸にはちょっとした木立があり、その一角は恋人達の溜まり場みたいになっていて、カップルたちが寝そべったりベンチに腰掛けたり夫々思い思いに愛し合っていた。希世彦と美玲はそんな中をブラブラと散歩をして歩いた。

「ちょっと座って休もうか?」
「はい」
 二人は空いたベンチを見つけて座った。
「この前映画の後、気分を壊してごめん」
「いいのよ」
 美玲はそれ以上何も聞かなかった。聞いてしまって、良くない話なら気まずいし、希世彦が話したくないことをわざわざ聞くつもりもなかった。
 しばらくの間、二人は周囲の男女をぼんやりと見ていた。
「僕たち、ボストンで知り合ってから大分経ったね」
「はい」
「美玲はこのまま僕と今の関係を続けていてもいいの?」
「いいよ。あたし、希世彦さん大好きだから、お友達を解消されたら悲しくなっちゃう」
「死ぬほど悲しくなりそう?」
「希世彦さんて、たまに意地悪になるのね。あたし、希世彦さんに振られたら死んじゃうかも」
 希世彦はじっと美玲の目を見つめた。澄んだ綺麗な目をしていた。
 希世彦はそっと美玲の手を握った。付き合い始めてから手を握るのは初めてだ。希世彦に応えるかのように、美玲も手を握り返してきた。もう片方の手で、希世彦は美玲をそっと抱き寄せた。美玲は少し身体を固くして希世彦に身を寄せてきた。希世彦の顔が近付くと、美玲は軽く瞼を閉じた。希世彦が唇をそっと美玲の唇に重ねると、美玲はずっと我慢してきたことが突然弾けたように希世彦の唇を求めてきた。
「ずっと美玲を大切にするから」
 この時、希世彦は自分の本当の気持ちを伝えたかった。
「ありがとう。あたしも。本当のことを言うと……」
「……」
「あたし、男の人とキスしたのは初めてなんだ」
「じゃ、今のがファーストキス?」
「はい。すごく嬉しかった」
 希世彦は今度こそは恋人の気持ちにちゃんと応えようと思った。

二百六 永遠の命

 都筑庄平こと米村善雄は、その後月に一度か二度のペースで仙台の川野珠実のマンションを訪ねていた。訪ねる時は事前に連絡して、仙台で逢うことにしていた。珠美も娘の奈緒美も普段は六本木に居るのだが、都筑はあえて仙台で逢いたいと言った。珠実はもしも都筑が希世彦の父親であったなら明らかに不倫だと分っていた。だから、黙って都筑の願いを受け入れた。
 都筑が仙台のマンションを訪ねて来た時は、珠実はいつも都筑の愛撫を期待した。都筑の愛を受けるには間隔的に少し間が開きすぎると思ったが、決して無理を言わなかった。それがお互いの関係をいつまでも続けていける条件だと思っていた。坦々と続く大人の恋だ。自分のその部分に入ってきた都筑のものを感じている時、脳裏を刺激する性の歓びと同時に、大きなものに守られていると言う安心感をいつも持つことができた。

 奈緒美は義母の珠実が都筑と抱き合うことを認めていた。だから、いつも邪魔をしないようにした。けれど、もうとっくに二十歳を過ぎているのに、お風呂に入る時は都筑と一緒に入れてもらっていた。変態的だと思う者も居るだろう。だが、奈緒美も珠実も他人がどう思おうと気にはしなかった。都筑は自分の娘に淫らなことは決してせず、愛娘として接していた。だから奈緒美はいつも安心して父親の裸に接することができた。お風呂の中で、都筑の腕の中でじっとしていると、とても安心できて、心が癒された。三人で温泉に行った時は大抵家族風呂に三人で一緒に入った。そんな時は、都筑は奈緒美と珠実をふたり共抱きしめてじっとしているのを好んだ。時には都筑に抱きしめられながら奈緒美と珠実は冗談を言い合って笑いこけた。
 こうして、都筑が訪ねて来た日は母子揃って家族水入らずで幸せな一日を過ごせたが、奈緒美も珠実も一抹の不安を感じていた。それは、都筑がまた前触れもなく失踪してしまいはせぬか、自分達の知らない場所で病に倒れてしまいはしないか、それが心配だった。奈緒美も珠実もこんな幸せがずっと続くように永遠の命があればいいと思っていた。
「あなた、健康診断を受けていらっしゃるの?」
「ああ、定期的に人間ドッグで診てもらっているよ」
 最近では都筑が仙台を去る時の珠実の口癖になっていた。普通の夫婦でも、妻は夫の健康をいつも気にするだろう。けれども、奈緒美と珠実の気持ちは普通の夫婦以上だったように思われた。不安定な関係の間では相手の健康に一層敏感になってしまうのだ。

「来月からまた半年位海外にでかけるんだ。しばらく来られないけど、日本に戻ったら必ず寄るから」
 奈緒美も珠実もできることなら一緒について行きたいと思った。
「途中で帰国されることはないの?」
「ああ、多分帰って来ないな」
「あたしたち、たまに押しかけて行ってもいいかしら?」
「そうだな、仕事はわりと忙しいから、事前に日程が分れば一日か二日空けることはできるよ」
 その時都筑は、最近時々沙希が来るし、希世彦と一緒のこともあるから、相当上手く日程を調整せねばならんなぁと思った。都筑はどんなことがあっても奈緒美と珠実の関係を沙希や希世彦には知られてはならないと思っていた。

 夫の善雄がまた海外に出張してから一ヵ月半が過ぎた。それで、沙希は最近時々夫の善雄が海外に出かけている時に自分も出かけて行って二、三日一緒に過ごすようにしていたので、また出かけようと思っていた。そんなことを始めてから、沙希と善雄はセックス、つまり夫婦の営みをすることが暗黙の了解事項となっていた。だから、しばらく間を置いて、夫に愛されたいと思った時、沙希はそれを楽しみにして海外の夫の仕事先を訪ねて行った。多くの場合、善雄の仕事先に近い観光地で落ち合ってプチ旅行をすることが多かった。
 偶然とは悪戯なものだ。沙希が善雄の所に出かけたいと連絡を入れた時、善雄のもとに奈緒美と珠実から逢いたいので行ってもいいかと連絡が入った。善雄は妻の沙希を後回しにはしたくなかったが、都合を聞くと奈緒美の仕事がらみで奈緒美の方も日程を動かせないと返事をしてきた。善雄は困った。
「参ったなぁ。上手い具合に十日位ずれてくれると助かるんだが……」

二百七 海外ロケ

 二〇一〇年から羽田空港から国際線が飛ぶことになって、今では都内からヨーロッパへ行く者の大半は羽田を利用していた。
 アオハ主演の新しい映画はローマが舞台で物語が展開される筋書きで、都筑が海外に出張して丁度一月半ほど過ぎた時にイタリアの海外ロケが決定した。撮影のスタッフたちは準備があるため一足先に出発していたが、主演女優は別行動でスタッフより遅れて出発する計画になっていた。
「今度のロケ、一週間の予定ですけど、その後四日か五日間自由行動をしてよいように交渉しておいたわ」
「じゃ、ロケが終わったらパパに会いに行けるのよね」
「そう。ママも楽しみよ」
 ロケに必要な個人的な衣装や小物は既に国際貨物便で送ってあった。撮影に使う衣装は全てスタッフが手配済みだったから、マネージャー兼母親の川野珠実と娘の奈緒美は旅行バッグだけの軽装で出かけることにしていた。
 いよいよ出発の日になった。珠実は母の日に奈緒美と希世彦がプレゼントしてくれたルイヴィトンのエレジーと以前から使っている小さな旅行カバンを持って出かけた。

 奈緒美がパリ往きの出発ゲートで並んでいると、後から声をかけられた。
「奈緒美さん? ですよね」
 奈緒美はサングラスをかけて、つば広の帽子を被っていたから、簡単には見付からない。だが声をかけた女性はアオハではなくて、ちゃんと自分の本名で声をかけてきた。それで奈緒美は振り向いた。そこに、にこにこしている沙里の顔があった。奈緒美は口に指一本を立てて、
「シィーッ!」
 と言った。周囲にバレると五月蝿いのでそうしたのだ。沙里はそれを直ぐに理解した。
 珠実は希世彦に妹が居るのは知っていたが、こんな場所で出会うとは予想してなかった。
「ママ、こちらが希世彦さんの妹の沙里さんよ」
「あら、お話しは聞いてましたけど、可愛らしい方ね。初めまして。どうぞよろしく」
 珠実は目の綺麗な沙里を見て会釈した。
「お独り?」
「いいえ。母とお友達の志穂さんが一緒です」
「どちらへ?」
「パリ、その後はロンドンです。父に会いに行くんです」
 それを聞いて珠実も奈緒美もどきっとした。もちろん顔には出さなかった。
「あなたは?」
 と沙里が奈緒美に聞いた。
「お仕事でイタリアです」
 沙里は気を利かせて奈緒美の名前を言わなかった。
「もしかしてロケ?」
 そう聞くと前後に並んでいた者がギョッとして奈緒美達を見た。
「まずい」
 と思ったのか、沙里は奈緒美の腕を取ると、
「ちょっと来て」
 と母の沙希の方に引っ張って行った。

 沙里が奈緒美を引っ張って来たのを見て、
「あらぁ、お久しぶり」
 と沙希も志穂も奈緒美を見た。
「人が聞いている所じゃまずいから、こっちへ来て頂いたのよ」
「同じ飛行機?」
 と志穂が聞いた。
「どうやら一緒の飛行機みたいよ」
「お仕事?」
 と志穂が聞くと沙里が、
「イタリアでロケなんですって」
 と奈緒美の代わりに答えた。志穂が、
「あたし、一度ロケの現場を見たかったの。ついていっちゃいけない?」
 と聞くと、
「ちょっと待って、ママに聞いてくる」
 と言って奈緒美は一旦珠実の所へ戻った。
 ややあって戻って来ると、
「OKですって」
 と志穂に答えた。
「小母様、一緒に行ってもいい?」
 と志穂が頼む目付きで沙希に聞いた。
「奈緒美さんがいいなら、ご一緒させて頂きましょう」
 と沙希が言うと、
「やったぁ」
 と志穂がガッツポーズをした。沙希は珠実の方に行ってなにやら話しをしてから戻ってきた。
「じゃ、あたしたち、予定変更するわよ」
 と言った。

 珠実は偶然に沙希たちと一緒にイタリアまで行くようになってしまって戸惑ったが、ここは素直に応じた方が後々のために良いと思って同意した。
「奈緒美さんはロケの後でパパに会うんですって」
 と沙希に報告した。
「あらそう。それは楽しみね」
 と沙希が奈緒美の顔を見て言った。奈緒美のパパ、都筑が自分の夫の善雄と同一人物かも知れないなどとは沙希は夢にも思っていなかった。まだ知らなかったのだ。
 出発を待つ間、娘達三人は楽しそうに話をしていた。沙希は珠美に、
「お世話になります。お仕事の邪魔になるようでしたら、どうぞご遠慮なく言って下さいな」
と言って、
「イタリアですってね。あたしたちは夫がいま向うで仕事をしておりますので、皆で押しかけて行く所です。お嬢様のお仕事のお邪魔にはなりませんか?」
と念を押した。
「米村様はどちらまで?」
 珠実が聞くと、
「最終的にはロンドンで会う予定です」
 と答えた。

二百八 ローマにて

 奈緒美も珠実と一緒に、沙希、沙里、志穂はパリでローマ直行便に乗り換えてローマに乗り込んだ。沙希は、ホテルは奈緒美たちと別のホテルにした。だが夜は奈緒美たちが遊びに来て、ディナーは一緒だった。夕食後奈緒美は志穂と沙里が泊まる部屋にやってきた。それで沙里と話を始めた。
「明日はいよいよロケでしょ?」
「そうよ。でももう馴れてるから大丈夫」
「どんな映画?」
「テレビドラマよ」
「映画とテレビは違うの?」
「一番違うのは予算かな? テレビドラマは映画より制作費が少ないことが多いわね」
「どんなドラマ?」
「ラブストーリーよ」
「相手役の俳優さんはどんな方?」
「ああ、今回はイタリアの男優さん」
「相手が外国人だと緊張しない?」
「リアルのラブだったら緊張するかも。でもお仕事だから割り切ってるの」
「奈緒美さん、まだお兄ちゃんと付き合ってるの?」
「この頃、お仕事が忙しいから全然会ってない」
「ラブストーリーの撮影の時、お兄ちゃんのこと気にならない?」
「そりゃ、なるわよ。最初の頃はラブストーリーはすごく嫌だったな。でも最近は割り切ってる。女優だから仕方がないもの」
「お兄ちゃん、まだ奈緒美さんのこと、想ってるみたいよ」
「分ってる。あたしも辛いよ」
 沙里は女性として奈緒美の悩みが分るような気がした。

 翌日からロケが始まった。奈緒美の相手役は沙里たちも顔を知っている有名な男優だった。最初はスペイン広場、続いてヴァチカンのサン・ピエトロ広場に移動した。カメラマンはクレーンの上で身体をベルトで縛り付けて縦横に異動して撮影していたが、すごい重労働に見えた。男優がならず者から相手役の女優アオハを守るシーンではクレーンからワイヤーをたらして身体を吊り下げてアクション場面を撮影するのだが、初めて目の前で見ると男優も随分危険な演技をするものだと感心した。クレーンや照明などすごく大掛かりな撮影だが、ローマでは見慣れた者が多いらしく、観光旅行者と思われる人々が主で現地の野次馬はそれほど多くはなかった。

 その日のディナーは相手の男優さんを交えてスタッフに囲まれてパーティー式にやるそうで、沙里たちは遠慮した。
 翌日の午前中、パラティーノの丘でのロケを見て、そこで沙里たちは奈緒美たちとお別れをして、午後はローマ市内の観光をした。チェコでの事件以来、沙希は沙里と志穂の単独行動を許さなかった。
 茉莉の母親のマリアのお陰で、三人共スペイン語が達者だった。それでローマではスペイン語で話をした。イタリア国内ではスペイン語はイタリア語と共通点が多くて、半分以上話しが通じたから特に不便はなかった。見た目東洋人と分る女性からスペイン語で話しかけられると、大抵のイタリア人はあれっ? と言う感じで驚いた目をした。沙里はそれが面白かった。ローマは観光ズレしていて、スリ、置き引きなどいかさまな奴が多いから、三人は常に周囲に気配りをしていた。そうすると、悪い奴から見ると隙がないのだ。だから一度も変なことは起こらなかった。

 翌朝三人はローマ・フィウミチノ空港をロンドンに向けて飛び立った。沙希が夫の善雄に事前に連絡を入れていたので、善雄はロンドン・ガトウィック空港の到着ロビーに出迎えに来てくれていた。ローマから二時間半で着くから時間的にそう遠くはない。日本からロンドンに向かうとヒースロー空港に着陸するのが普通だが、欧州域内を飛ぶフライトは着陸料金の関係でロンドン郊外のいくつもある空港のどれかが使われることが多いのだ。ロンドン・ガトウィック空港はヒースローに次ぐでかい空港だ。善雄は妻の沙希たちの顔を見ると最初に、
「トラブルはなかったか」
 と聞いた。やはり心配なのだ。
 ロンドン市街の北の方メルボーン駅から歩いて直ぐの所にリスたちが遊ぶ緑豊かな広い公園がある。リージェントパークだ。このリージェントパークの北側は小高い丘になっていて、そこにハムステッドと呼ばれる落ち着いた住宅街がある。
 善雄はその住宅街の中の、小さな家具付きの家を借りていた。小さなと言ってもこの辺りでは二百坪も三百坪もある庭付きの家が普通で東京ではあまり見られない余裕のある住宅街だ。近年ロンドンは金利の関係で住宅価格が高騰し、家賃は随分高いと言っていた。

 沙里と志穂は家に入ると、
「素的!」
 と満足げに喜んだ。その夜はメイドが作ってくれたディナーを皆で楽しんだ。
 翌日は三人共寝坊をしていた。遅い朝食を済ませお昼前、
「公園を散歩しておいでよ。森の中のリスたちを見いてると半日位はすぐにつぶれるよ。このあたりは治安が良いから安心していいよ」
 と父の善雄が勧めたので、沙里と志穂は散歩にでかけた。
「沙里ちゃんたち、二時間以上は戻って来ないよ」
 そう言うと善雄は沙希を寝室に誘った。
「あら、昼間から?」
「久しぶりに会えたんだ。いいじゃないか」
 メイドは朝食の後片付けを終えると家に帰って行った。通いで家事手伝いに来てくれているのだと言う。多くは移民が多いのだが、善雄の所はめずらしく白人だった。
 沙希は久しぶりに善雄の愛撫を受けて燃やされた。昼間だと言うのに閑静な住宅地で静かだった。営みが終わって気持ちが鎮まってから、沙希はシャワーを使った。
「僕等も散歩に出ようか?」
 それで、沙希は簡単に身だしなみを整えると善雄のあとをついて公園にでかけた。
「ほら、あそこ」
 善雄の指指す方を見ると、少女のように沙里と志穂がリスを追いかけて戯れていた。

二百九 疑惑

 ロンドンに着いて三日目、沙里と志穂は二泊三日でスコットランドの方に出かけた。最初アイルランドへ行ってみたいと言ったが、治安の関係で父の善雄が許さなかった。それで往きは早朝七時発グラスゴー往きの列車にロンドン・キングクロス駅から乗った。景色の美しいエディンバラにはお昼前に着く。日本の旅行客はロンドンまでは行くが、スコットランドまで足を延ばす者は多くはない。英国は伝統的に鉄道網が発達していて、列車の本数も多い。ただ、運賃は高い。
 沙里と志穂は車窓を流れる景色に見とれていた。英国はからっと空気が澄んだ感じではなく、なにかうら寂しい景色が続いていた。
 列車は思ったよりも速く、九時前にヨークに着いた。エディンバラ・セントラル(中央駅)に十一時半に到着すると、二人は直ぐに街に出た。困ったことに同じ英国なのに、普段通じている英語がうまく通じないのだ。日本で言えば、関東以西の者が東北の田舎に行って、東北弁で話をされて意味が良く分らないのに似ている。父の善雄が予約してくれたヒルトン・エディンバラ・グローブナーは直ぐに見付かった。ホテルでは勿論沙里たちの英語は普通に通じた。
 以前から話は聞いていたが、道を聞いても、レストランでも人々はとても親切で暖かい感じだった。色々な人種が入り混じったロンドンとは大違いだ。
 二人は、着いた日はエディンバラ城や王立スコットランド博物館を見て歩き、その後は市街をぶらぶらと散策して過ごした。翌日はタクシーを半日チャーターして、エディンバラ郊外を案内してもらった。運転手もスコットランド人らしくとても親切な奴で、二人は安心してスコットランドの田園風景を満喫できた。
 午後、二時半の列車に乗って、今度はマンチェスター方面のウェリントンまで行った。着いた時は六時少し前だった。六時半発の列車にウェリントンで乗り換えると、七時前にビートルズの故郷リバプールに着いた。ここでも父が予約しておいてくれたホテルは直ぐに分かった。リバプールの町中では沙里たちの英語は普通に通じた。
 リバプールは港町で大きな街だ。それで
「ここに一泊じゃつまらなかったな」
 と二人は後悔した。帰りは午後四時頃リバプールを出ると、七時前にはロンドン・ユーストン駅に着く。往きとは違う駅に着くのだ。

 リバプールの少し北に湖水地方と呼ばれる所があって、大小の湖が点在していて景色が良い所で有名だ。だが、二人はそこへ行く時間がなくて残念がっていた。
 翌日ロンドンに着くと父の善雄と母の沙希が迎えに来てくれていた。
 沙里たちが旅行中、善雄は昼間仕事に出かけて行ったので、残された沙希は一人ぼっちだった。掃除、洗濯、食事の支度はメイドがやってくれるので、沙希は金持ちの奥様のような扱いを受けた。メイドは四十歳くらいの女で、息子が二人居ると言った。それで、沙希は昼間公園を散歩したり、ロンドンの中心街まで足を延ばしたり、久々に独身気分を味わってきた。
 夜、メイドが帰ってしまうと、沙希と善雄は恋人どうしのように愛し合った。異国の地で独身時代に戻ったような感覚がした。

 沙里たちが戻った次の日、沙希と娘達二人はパリで二日か三日ゆっくりしてから東京に帰ると言ってロンドンを後にした。
 沙里たちが去った日の夕方、善雄の携帯に珠実から連絡が入った。明日パリのホテルに泊まっているので迎えに来て欲しいと言うのだ。善雄は奈緒美と珠実を南仏プロバンスに案内したいと言っていたからだ。
 善雄はもちろんOKを出した。

「あれっ? あそこで車に乗ろうとしている人、奈緒美さんじゃない?」
 ホテルのロビーから外を見ていた志穂が突然沙里にそう言った。沙里が志穂が指す方を見ると確かに奈緒美と川野小母さまだった。
 それで二人はホテルのエントランスに向かって駆け出した。
 沙里と志穂が車の側に近付いた時、車はスタートしていた。やがて奈緒美たちの乗った車は遠ざかって見えなくなってしまった。
「あのう、違うとは思うけど、荷物をトランクに積んで運転していた人、沙里のお父様に感じがすごく似ていたな」
 志穂がそう言うと、
「あたしも、運転席に乗る所をちらっとみたんだけど、感じがお父さんに似ていたな。服装がお父さんの普段と全然違うし、髪形も違っていたから見間違えかも知れないけど」
 と同感した。それで、ホテルの部屋に戻ってそのことを母の沙希に話をした。
「そう、奈緒美ちゃんたち、どこかにお出かけされたのね」
 その時は沙希は大して気にもせずそう答えた。善雄が普段履いたことがないGパン姿で、上はラフなジャンパーだったそうだからだ。

 偶然とは悪戯なものだ。昼間夫が仕事中は緊急の用でもなければ今まで電話をしたことがなかったのに、沙希はその日に限って何気なく夫の携帯に電話をした。所が電源が入ってなくて通じなかった。仕事中なので多分電源を切ってあるのだろうと思ったからだ。だが、沙里の話があった後なので、自宅のメゾンに電話をすると、会って来たばかりのメイドが出た。
「旦那様は三日か四日大陸の方に行ってくるからとお出かけになられました」
 大陸とはもちろんヨーロッパ大陸のことだ。
「おかしいな。善雄は何も言ってなかったのに?」
 沙希の心の中にかすかな疑惑の気持ちが芽生えた。

 善雄は、その時、車を追って駆けて来る沙里と志穂の姿をバックミラーではっきりと捉えていた。だが停まるわけには行かない。それで、車を加速して逃げるように走り去った。背中に少し冷や汗が流れた。もちろん、珠実にも奈緒美にも何も言わなかった。その時、珠実の手がすぅーっと伸びてきて、ステアリングの上に置いた都筑庄平の手を握った。

二百十 [永遠の命]の本当の意味

 都筑はパリでレンタカーを借りて、奈緒美たちが泊まっているホテルに迎えに行った。距離を走るので速度が出せて燃費が良いハイブリッド車のベンツを借りてきた。Sクラス、排気量3・5リットルのV型6気筒エンジンを搭載しているから静かだ。
 都筑はホテルのエントランスで危うく娘とバッティングする所だったが、逃げるようにスピードを上げてルートA6に乗り、リオン方面を目指して快走していた。フランスはルートA6のように片道二車線ある道路は時速110kmまでスピードを上げられる。パリからリオンまでは日本で言えば東京から名古屋位の距離がある。
 A6に乗って間もなく、隣の助手席の珠実の手が伸びて、ステアリングを握る都筑の手に自分の手を重ねて軽く握った。日本と逆の左ハンドルだから、都筑の右手にだ。都筑はステアリングから右手を離して、珠実の手を握り返した。珠実は身体をずらせて少し都筑の方に寄せた。都筑は黙って珠実の膝に手を移した。後部座席の奈緒美はそれを知っていたが見ぬふりをして外の景色を眺めていた。しばらく会ってないので、自分と同じようにママもパパが恋しいのだろうと思ったからだ。

「パパ、どっちに向かってるの?」
「南仏に行く予定だからとりあえずリオンの方向だよ」
「あのぅ、お願いがあるんだけど」
「何?」
「南仏じゃなくてスイスのローザンヌは遠いかなぁ」
「少し距離があるから夕方までなら行けるよ」
 奈緒美が都筑と珠実にリクエストを出した。
「ママ、ローザンヌの方に行ってもらったらダメ?」
「奈緒美ちゃんが行きたいならいいわよ。もしかして彼と行った所?」
「そう。パパと一緒に行きたいの」
 すると都筑が聞いた。
「彼って、前に話してくれた奈緒美の恋人の希世彦君とか言う青年のことか?」
「はい。あたし、今は彼と付き合ってないけど、あたしの一生の想い出の場所なの」
「そうか。いいよ。ママもいいんだろ?」
 と話を珠実に振った。
「ローザンヌなんて素的じゃない? あたしはOKよ」
「じゃ、きまりだ。リオンからジュネーブまでは100kmと少しだから、リオンまで行けば二時間とかからないよ。ジュネーブからレマンコ湖畔をローザンヌまで走っても50km弱だから、リオンからローザンヌまで150km位だね」
 途中二回休憩して、予定通りの時刻にリオンに着いた。
「少し遅いけど、ここで昼食にしよう」
 と言ってリオン市街に乗り入れて、レストランに入った。食事が終わると、都筑は携帯の切ってあった電源を入れて、どこかに電話をした。それからまた別の所に電話をかけた。話している言葉はフランス語だった。
「パパ、フランス語話せるの? 素的」
 と奈緒美が言うと、
「ホテルに予約を入れたんだ。友達にモーベンピックホテル・ローザンヌが湖畔が見えて素的だからと勧められた。予約は取れたよ」
 都筑はまた携帯の電源を切ってしまった。

 夕方早めにホテルに着いた。しっとりとしたとても良いホテルで、部屋も湖畔が良く見える良い部屋だった。
「ママと奈緒美は同じ部屋がいいだろうと思って二部屋にしたよ」
 とカードキーを珠実に手渡すと、
「ダメダメ、ママとパパは一緒のお部屋だよ」
 と奈緒美が否定した。珠実は困った顔で都筑を見た。
「じゃ、奈緒美には悪いがそうするか」
 と都筑が答えた。正直な所、珠実はその方が良かった。
 ホテルのディナーはとても美味しかった。食事が終わって部屋に戻ると親子三人集まって団欒となった。
「パパ、明日はねピュイドゥー・シェブレと言う村に行ってくれない? ママも良く知ってる武藤千春さんに電話をしたら、農作業で昼間は忙しいけど、夜は空けとくですって」
「そうだったの? 千春さんに会うの久しぶりだわね。千春さんと言う方は以前奈緒美ちゃんのマネージャーだったんですよ。色々あって日本を離れてローザンヌの葡萄農園に落ち着いたようなの」
 と珠実が都筑に説明した。

「あたしたち、今日のような幸せな日々がずっと続いて欲しいと思ってるのよ。ね、奈緒美ちゃん」
「そうよ。だからパパには神様から永遠の命を授かっていつまでも元気にしていてもらいたいの」
 と奈緒美が久しぶりに都筑に抱きついて、
「パパに何かあったら、あたし死んじゃうからぁ」
 と甘えた声を出した。
「花言葉に[永遠の命]ってのがあるらしいね。その本当の意味を知ってる?」
 珍しく都筑の口から花言葉なんて言葉が出た。
「あたしはね、いつまでもずっと愛して行けるように生きていて欲しいって意味だと思うんだけど」
 と奈緒美が言うと、
「それって少し意味が違うよ」
 と都筑が遮った。
「人間は歳を取れば自然にお爺さんとかお婆さんになってさ、いつまでも生きては行けないよね」
「そりゃそうね」
 と珠実が相槌を打った。
「だから、男は自分の命を継いでくれる子供を女の人にお願いして産んでもらうんだよ。そうすれば自分の命は子供にバトンタッチされてね、続いて行くんだよ。パパの命は奈緒美と庄司にバトンタッチしただろ? だから、パパの命を引き継いだ奈緒美が今度は素的な彼と一緒になって子供を産んで、次々に命をつないで行くんだよ。それが[永遠の命]の本当の意味なんだ。だから、この花言葉は恋愛の意味を表す大切な言葉なんだ。奈緒美は今は希世彦君とか言う人と付き合っていないと言ったよね。でも、パパとしては奈緒美が本当に好きになってこの人の子供を産みたいと思うような素的な彼を見つけて結ばれて欲しいんだよ。頼むよ」
 都筑は優しい目で娘の奈緒美を見た。
「あたしも、あなたの子供を産みたくなったな」
 と珠実が言った。一瞬都筑は困った顔をしたが、
「奈緒美が構わないならいいんだけど、それに珠実は出産には年齢の問題もあるんだろ」
 と答えた。
「ママがパパの子供を欲しくて、パパがママに自分の命を継いでくれる子供を産んで欲しいと思うならあたしはそれってすごく素的なことだと思うわよ」
 と奈緒美は珠実の気持ちを肯定するような返事をした。

 奈緒美が部屋に戻った後、珠実は都筑に抱きついてキスをした。
「あたし、会いたかったわ」
 シャワーを使ってから、珠実の求めに応じて、二人はベッドで激しく抱き合った。
「あなた、あたし、本当にあなたの子供を欲しくなっちゃった」
 珠実ははにかむような顔で都筑を見た。
「本当に産みたいと思っているのか?」
「はい。年齢的にはギリギリですけど、今夜の話を聞いていて、あなたを愛する意味が分った様な気がしたの」
「僕は嬉しいけれど、大丈夫かなぁ」
「あたし、頑張って見る」
 都筑は今まで珠実とセックスをする時は避妊に注意をしていた。
「前に話をしたけど、僕には妻が居るから、生まれても認知はできないよ。それでも欲しい?」
「はい。なくなった奈緒美の母親と同じ条件でいいって覚悟を決めています」
 都筑はその夜、避妊をしないで珠実の求めに応じて珠実と激しく愛し合った。女が男の子供を産みたい気持ちになっている時に愛し合い、一つになれるのは最高だ。珠実を愛撫しているうちに珠実が頂点に達してしがみついて来た時、都筑も珠実の中に射精した。珠実はとても幸せそうな顔をして、繰り返し押し寄せる心地の良い波動にしばらくの間目を閉じてじっとしていた。この時、都筑も珠実に自分の子供を産んで欲しいと心からそう思っていた。

 翌日、奈緒美の道案内でピュイドゥー・シェブレに行った。果てしなく続く広大なブドウ畑を見て、珠実が感嘆の声を上げた。
「景色の素晴らしい所ね。レマン湖も綺麗」
 千春は珠実に再会すると涙を流して喜んだ、珠実はその時千春が何年もかけて、失恋した心の傷をすっかり治したと思った。
「パパ、こっちに来て」
 奈緒美にせがまれて、葡萄畑の中の石垣の所についていった。そこは一際景色が素晴らしく、深呼吸をすると命が洗われるような気持ちになれる所だった。そこで奈緒美と一緒に腰を下ろすと、奈緒美は足をブラブラさせながら、
「実はね、この場所はあたしのファーストキスの記念の場所なの」
 と恥ずかしそうに言った。
「あたし、パパにもここでキスして欲しいんだ」
 都筑は黙って奈緒美を引き寄せて抱きしめると奈緒美のおでこにキスをした。その様子を上の方から珠実と千春が見ていた。
「あそこはね、奈緒美さんが希世彦さんとファーストキスをした記念の場所なのよ。素的でしょ?」
 と千春が小声で珠実に話した。
「そうだったの」
 珠実は娘の奈緒美の気持ちが良く理解できた。今でも心の中では大好きな希世彦に我慢をして会わない代わりに、父親の都筑と一緒にここに来たことで自分の気持ちを整理しようと努力している姿が傷ましそうに見えた。

 ローザンヌに二泊してから、アルプスの麓の町グルノーブルに出てグラン・メルキュール・グルノーブル・プレジダンと言う長ったらしい名前のホテルに投宿した。ローザンヌの二日目の真夜中、珠実は都筑の話し声がするので目を覚ますと、隣の続き部屋で都筑はノートパソコンを開いてなんだか国際会議をしている様子だった。都筑の仕事の内容を今まで全く聞いていなかったが、その時、都筑がインターネットの向こう側の日本の会社の人たちに向かってあれこれ的確な指示を出している様子で、ビジネスマンとしての都筑が今まで見せていなかった側面を覗き見た気がした。珠実はもちろん邪魔にならないように黙って寝ているふりをしていた。
 ホテルでは毎夜都筑と珠実は身体を重ねた。
「妊娠したら、ちゃんと連絡をしてくれよ」
「はい。必ず。あたし、なんだか嬉しくて。奈緒美ちゃんのことがあって、一生子供は持てないって諦めていたのよ」
「子供、好きかい?」
「好きよ。今までは他所様のご子息を育てるばかりでしたから、自分の子供が出来たらどんなにか嬉しいかと思っていたのよ」

 都筑と一緒にスイスから南仏をドライブしてパリに戻って来た時、奈緒美と珠実の旅行は終わった。
 パリで別れると、都筑はロンドンに戻った。珠実と奈緒美もパリから羽田に戻り、しばらくぶりに六本木のマンションに帰ってきた。

二百十一 聞いてはいけない会話

 東京に戻って、珠実はローザンヌの二日目の真夜中、都筑の話し声を思い出していた。珠実にとっては、風のように来て、直ぐに去っていく都筑を何か得体の知れない男だと思っていた。だから、今まで一度は、
「どんな仕事をなさっていらっしゃるの?」
 と聞いてみたい気持ちはあったが、それを聞いてしまえば都筑と約束をしたお互いのルールに違反して、都筑は自分達の所へは二度と現れなくなってしまうのではないかと畏れて、聞き出す勇気がなかった。
 その夜の会話は、断片的だがはっきりと覚えていた。スカイプのような形の電子会議なので、相手側の受け答えもはっきりと聞こえていた。
「来年度の設備投資金額を積み上げておいてくれと頼んだが数字は出たのか?」
「はい。積み上がっております。一千五百六十になりました」
「連結子会社も含めてかね?」
「含めた数字です」
「君は厳しく査定をやったのかね?」
「はい。自分なりに相当厳しく目を通してあります」
「すまんが三日以内に一千四百まで圧縮できないか検討してくれ」
「難しいですが、やってみます」
「実はな、英国の精密部品を製造しているBKが業績を落として、買い取らんかと言う話しがあるんだ」
「BKと言えば百年以上も歴史のある老舗じゃないですか?」
「よく知っとるな。その通りだ」
「では買収資金ですな」
「そうだ。最低四百五十は必要だ。財務部長と資金繰りを良く検討しておいてくれ」
「分りました。設備投資資金を百六十億カットが目標だとすると別途三百はひねり出す必要がありますね」
「そうだ。財務の神崎君が首を縦に振らんようなら、僕に直接電話をするように伝えてくれ。同席の諸君も今日の話はまだ水面下で交渉中の案件だから、外部に漏れんように十分気を付けてくれ。今日の会議はこれで終わりだ」
 口々に、お疲れ様などと言う声が聞こえた。珠実は話しの中の数字が億円単位であることを最後の方の会話で知って驚いた。相当大きな資金を扱っている様子で、普段自分達に見せるあの優しい顔の都筑とは思えない内容だった。会社の名前などは勿論何も分からなかった。大きな企業のトップかあるいは役員をしているのだろうと思った。
 珠実は聞いてしまったことを絶対に都筑には知られまいと思い、都筑がベッドに戻ってきた時、タヌキ寝入りをしていた。
 珠実の横にそっと入ってくると、やがて都筑は眠ってしまった。

 アオハ主演の晩夏と言う映画をみてから、希世彦はアオハにメールをしたり電話をしたりするのを止めて、美玲のことだけを考えるようにした。そうしてみると、気持ちが随分楽になった。
 妹の沙里たちが欧州旅行をしている頃、希世彦は何度も美玲とデートをした。活発で明るい性格の美玲も希世彦が誘うといつも会ってくれた。
「僕の父が日本に戻っている時、一度東京に帰って美玲を紹介したいんだ。一緒に来てくれるよね」
「もちろんよ。でも、緊張するなぁ」
「僕の実家に来てもらって、多分美玲が驚くと思うから先に話をするとね、僕の実家は小さな家で、そうだなぁ、日本の普通のサラリーマンが住んでいる程度の家なんだ」
「あたし、家の大きさなんて全然気にしないよ」
「そうだといいけど、大抵の友達はびっくりするんだ。祖父と祖母は一階の六畳間で寝起きしていて、両親と僕は部屋は別だけど、やはり両親は六畳一間で寝起きをしてるんだ」
「随分狭いのね」
「すごく狭いよ」
「母は洋服を買うとクローゼットとかが必要になるからって、改まった所へ行く時はドレス、バッグ、アクセなんか全部レンタルで間に合わせるんだよ」
「うちのママとは確かに違うわね」
「でしょ? それで、子供の頃友達に言われて、どうしてこんな狭い家に住んでるの? って聞いたんだ」
「そうしたら?」
「そうしたら、普通に生活するのにこれで十分だからなんて言われちゃった。だから、もしもだよ、もしも美玲と結婚して美玲と一緒に暮らすようになったら、今僕が使っている六畳一間で我慢してもらうことになりそうなんだ」
「そうなの。じゃ今から覚悟をしておくわ」
「ん。たのむ」

 希世彦は美玲にもう少し丁寧に説明した。
「僕の父は関連会社を含めると従業員が三万名以上も居る結構大きな企業を経営してるんだ。祖父は会長」
「すごぉい、そんなに大きな会社?」
「ん。世界中に関連企業があるよ」
「お客様を狭いお家に呼ぶの?」
「そう聞くと思った。身内とか親しい人以外は呼ばないよ。どうしてもって時は箱根か軽井沢の別荘に招待するんだ」
「なんか変」
「変だろ。それで祖父がこんな話をしてくれてさ、米村家の家訓だから良く理解しとけって言われた」
「どんな話?」
「お爺ちゃんが言うには、大分前に百五十年以上もの歴史を持っていて絶対に倒産しないと思われていたリーマンブラザーズと言う銀行がつぶれたでしょ?」
「はい」
「どんなに大きな会社でも一つ間違えればあっと言う間に潰れてしまうことがあるんだ。だから自分達の会社だって例外じゃない」
「その通りね」
「それで、万一潰れても家族が細々と暮らしていける最低限のものは何が何でも守り通す。そうすれば家族が路頭に迷うようなことは絶対にないって言うんだ」
「そうだと安心だわね」
「でしょ? だから、今僕が住んでいる家は会社が倒産しても人手に渡らないようにしてあるんだ。大きな家に住んでいると住民税や電気代なんか余計にかかるからどん底だと苦しいよね。けれど小さな家なら税金は殆どかからないし、電気代も少なくて済むわけだから、簡単には潰れないんだ」
「そうだったの。良く分ったわ」
「携帯電話、北欧のN社が世界シェアNO・1だったよね」
「昔はね」
「所がアップルからiPhoneが発売されて一気に人気ががた落ちして、株価は暴落するわ、資金繰りは悪くなるわで一時危なくなったんだよ。だから技術開発に遅れると大会社でも潰れちゃうことは普通にあるんだ。お爺ちゃんの考えた家訓はね、そんな状態もちゃんと考えてあるんだって」

二百十二 我慢出来ないよ

 希世彦も美玲もハーバード大学の定期の試験期日が迫って学校のことで手一杯で長い間会わないで居た。それでも美玲は毎日欠かさずにメールをしてきた。内容は学校のことが殆どで美玲の女友達の様子や下宿での出来事などたわいもない話ばかりだが、言葉の端々に美玲が希世彦を想う気持ちが散りばめられていた。
 十二月の半ばようやく試験が終わって二人とも落ち着いた。
「クリスマスにニューヨークの実家に帰りたいんですけど」
 と美玲の希望が出て、クリスマスイブは美玲とニューヨークで過ごし、二十四日の夜に美玲の実家、ニュージャージ州ガーデンステイツのメイプルウッドに行く予定にした。ニュージャージと言ってもガーデンステイツはニューヨークの目と鼻の先だ。
「しばらくぶりのニューヨークだからさ、早めに出て少しゆっくりしない?」
「いいよ。何日に出る?」
「そうだな、二十二日に出るってのはどうかな」
「じゃ、二十二日の朝お迎え、お願いね」
「美玲はお正月の予定は?」
「まだ決めてない」
「じゃ、東京の僕の実家に来ないか」
「いいよ。お正月だから、希世彦さんのパパもいらっしゃるんでしょ」
「多分」

 希世彦はニューヨークヒルトンタワーズに二十二日から三日間宿泊の予約を入れた。ニューヨークのホテルはいつも混んでいるが運良く予約が取れた。それで、二十二日の夜はブロードウェイのWINTER GARDEN THEATRE でやっている[マンマ ミヤ]の前売りチケットをゲットした。マンマ ミヤは映画にもなった有名なミュージカルだが劇場でもロングランになっている。次の日の二十三日夜はオフ・ブロードウェイで東十五番街にあるDARYL ROTH THEATREでやっている[フェルザ・ブルタ]の前売りチケットをゲットした。
「これで良しっと」
 うまく前売りが買えたので希世彦は自己満足していた。
 二十二日は直ぐにやってきた。朝から快晴で十二月にしては珍しく暖かで、下宿のあるビーコンヒルの家並みが綺麗だった。希世彦は以前借りたトヨタレクサスハイブリットと同じ車種を借りてきて美玲の下宿で彼女をピックアップした。今日は洗濯のきいた真っ白いワークシャツに赤いデニムのショートパンツ姿で、希世彦が気に入っているポニーテールにしていた。腕には淡いピンク色のロングのコートを抱え、パンツとお揃いの赤いデニムの少し大き目のトートバッグを肩にかけていた。美玲はこんな格好が良く似合っていた。ショートパンツから出ている脚線がとても綺麗だった。
「希世彦さん、時間が正確ね」
「アハハ、ビジネススクールの学生らしくな」
 美玲が世話になっている下宿の夫人も美玲の旅行バッグを持って一緒に立っていた。この夫人とはもうすっかり顔なじみだ。
「ミズ・ソフィア・デイビス、おはようございます」
「良いお天気ね。お気を付けて行ってらっしゃい。ミレイの彼、いつ見ても素的よ」
 と並んで挨拶をする希世彦と美玲に微笑んで見送ってくれた。希世彦はバッグを受け取りトランクに入れた。

 前と同じで往きは有料道路を使った。それで、予定通り午後ニューヨークに着いた。ニューヨークヒルトンタワーズは大きなホテルだ。開演は八時と決まっているからまだ時間があるし、ホテルからブロードウェイは近いから車をホテルに置いて歩いて散歩に出た。どこかのレストランでゆっくり夕食を楽しめば丁度良い。
 思った通りミュージカル[マンマ ミヤ]はすごく良かった。美玲がすごく喜んでくれて、それが嬉しかった。
 公演は途中休憩を挟んで二時間半もかかったが、面白くてあっと言う間に終わったような気がした。南仏が舞台のドラマだが、希世彦はボストンのクラスメイトと最近ヨットでセイリングを楽しんでいるので、そんなシーンのあるこのミュージカルが気に入った。
 ホテルに着くと〇時近くになっていた。ツインで同じ部屋だが美玲は、
「恋人だからその方がいいわ」
 とかえって喜んだ。シャワーを済ますと、最近はすっかり慣れたキスをかわした。お休みのキスだ。

 翌日は遅い朝食を済ますとセントラルパークを散策してから、美玲の希望でメトロポリタン美術館に入った。セントラルパークはすごく広いし、美術館を出た時には夕方になっていた。
「食事を済ませて行けば丁度良い時間だな」
 開演は午後八時だ。
 フェルザ・ブルタを見るから美玲に、
「Gパン姿にしてくれないか」
 と言っておいたので、美玲は素直に旅行バッグからGパンを引っ張り出して履いた。フェルザ・ブルタはアーティストと観客が一体となって音楽に合わせてみんなで踊りながら盛り上げると言う斬新的なミュージカルだったからだ。
 開演が始まると大音響と刻々と変る照明に合わせて一時間以上皆で熱狂的に踊りまくり希世彦も美玲もくたくたになる程発散した。
「疲れたぁ」
 ホテルに辿り着くと美玲は大の字にベッドの上で仰向きに倒れこんだ。その上に希世彦も重なって、キスをした。ミュージカルの興奮からまだ醒めず、二人は抱き合ってキスを続けた。

「美玲が欲しい」
 キスの後、希世彦が美玲の耳元に囁いた。この時、希世彦は初めて美玲を抱きたいと思った。
 美玲はしばらく黙っていた。今までされたことがない首筋に、希世彦の唇が移って、愛撫を始めたが美玲は抗う様子もなく希世彦にされるがままで目を閉じていた。
 やがて、
「待ってぇ、シャワーしてくる」
 と美玲が呟いた。希世彦も美玲も踊りまくって汗をかいていた。美玲に続いて希世彦もシャワーで汗を流した。ベッドに戻ると、ホテルのガウンを羽織って美玲はベッドに潜り込んでいた。
 部屋の明かりを消して、希世彦がそっと美玲の脇に滑り込んで美玲を抱きすくめた。それから、希世彦はゆっくりと美玲のガウンを肩から脱がせた。美玲はガウンの下には何も着けていなかった。希世彦は初めてふくよかな美玲の乳房を愛撫し、尖った乳首を舌先で愛撫した。

二百十三 それぞれの恋人

 クリスマスイブ、美玲の両親渡辺憲次と玲子は二人を歓迎してくれた。ロンドンから長男の玲乎(レオ)と嫁さんもやってきていて賑やかなイブとなった。希世彦は美玲には安くはなかったがシャネルのキャビアスキンピンクのチェーンショルダーバッグをプレゼントに買っておいた。淡いシャネルピンクが美玲に似合うと思ったし、教科書を二冊か三冊入れて歩ける大きさも気に入ったからだ。美玲の母には同じシャネルの店であまり高くないゴールドのチェーンベルトを買っておいた。何にでもコーデできるから無難だろうと店員に勧められた。父の憲次には本マホガニー製のペーパーナイフを買っておいた。マホガニーは現在ではワシントン条約によって取引が制限されているので手に入り難いのだ。そんなことを知らない者にとってはどうってこともないただの木のペーパーナイフだが、さすが憲次は知っていて喜んでくれた。
「済みません。お兄さんと奥さんがいらっしゃるとは聞いてなかったので何もプレゼントを用意していませんでした」
 希世彦が頭を下げると、
「いいですよ、僕等も用意してないから、気にしないで下さい」
 とかえって恐縮した。義理の姉の敦子は
「美玲ちゃんの彼、素的な方じゃない」
 と喜んでくれた。

「お正月に美玲さんを僕の実家にお連れして両親に会って頂く予定です。もしご都合がよろしければ、ご一緒にいらして頂けると嬉しいのですが」
 と一応聞いてみた。
「残念だが、前から決まっている予定があってね、今回はパスさせてもらうよ。いずれご両親にはこちらからご連絡をして会いたいと思うのでよろしくお伝え下さい」
 と憲次は答えた。
 パーティーが終わったのは十二時近くだったが希世彦は、
「ニューヨークヒルトンタワーズに部屋を取ってありますし、明日は一緒にボストンに戻りますから」
 と断って美玲を連れて出た。

 章吾の娘志穂と沙希の娘沙里は同学年だ。二人は違う大学に通っているが、来年四月には四年生になる。
 そんな志穂と沙里に最近付き合っている男ができた。志穂の彼は専門学校を卒業後アルバイトをしながらジムに通っていてボクサーを目指していた。最近はリングに上がって試合に出ることもある。体格の良いイケメンの奴で、近藤元(こんどうはじめ)と言う名前だった。アルバイトは最初建設現場の仕事をしていたが、仕事が不安定の上、仕事が回ってこなくてあぶれてしまうことが多かったので父の章吾に頼んで今は章吾の仕事の下働きをしていた。彼は章吾と一緒に仕事をするようになってから収入が増え安定してきたため、ジムの方も力を入れていた。
 沙里の彼は慶応の経済学部の四年生、一浪したため沙里より二歳先輩だった。女にもてる奴で、沙里は捨てられないように結構気を遣っている様子だった。
「好きになったんだから仕方がないわよ」
 これが最近の沙里の口癖だ。彼は山本修と言う平凡な名前だった。

 正月は兄の希世彦が久しぶりに帰って来ると連絡があったので、兄も一緒に沙里と志穂と茉莉が二日に集まる約束になっていた。志穂の彼、元は志穂と一緒に来る予定だったが修は、
「僕は遠慮しとく」
 と沙里の誘いを断ったため、沙里は落ち込んでいた。
「ねぇ、ねぇっ、兄貴、彼女を連れて来るんだって。ハーバードで知り合った女の子であたしたちより一こ上らしいよ」
 と志穂に話したら、
「どんな人か楽しみだわね」
 と志穂も会えるのが楽しみだと言った。沙里の家は狭いので、志穂の家か茉莉の家かどちらかに集まる予定だったが、どっちにするのかまだ決まってなかった。
 サトルは娘の茉莉に、
「うちに集まってもらったらどうだ」
 と勧めた。茉莉は仕事柄芸能人の男友達は沢山いたが、恋人として付き合っている男はまだいないようだった。

 希世彦は三十一日に美玲を連れて帰ってきた。希世彦が言っていた通り狭くてみすぼらしい家だったが、美玲はそんなことは何も気にしなかった。
「狭い所で驚かれたでしょ?」
 母の沙希はそう言って美玲を出迎えた。
「いいえ、事前に希世彦さんから伺っていましたから」
 美玲は持ち前の明るい表情で微笑んだ。沙希は内心どんな娘かと心配していたが、会ってみてとても感じの良い子だったので胸を撫で下ろした。長男と結婚をすれば一緒に寝起きをすることになるのだから、どこの母親だってその感情は同じだろう。
 祖父の善太郎、祖母の美鈴、父親の善雄、母親の沙希、妹の沙里、全員が美玲を歓迎してくれたので、美玲は直ぐに打ち解けることができた。一番不安だったのは初めて彼の家族と対面する美玲だっただろう。会うまでは、美玲は心の中の不安と戦っていたのだ。

「今の米村を始めた頃はね、板橋のボロ家で、これが(美鈴のこと)生まれたばかりの善雄を背中におんぶして会社の仕事を手伝ってくれたんだよ。希世彦の母さんの沙希はね、そんな善雄と世帯を持つ前は安月給で三畳間の家賃も払えない位苦労をしてきたんだよ。美玲さんや希世彦はそんな親の苦労を知らないから、せめてこの家位は粗末で狭いままにして、質素な生活を忘れないようにと思っているんだよ。人間はね、誰でも一度贅沢な暮らしに慣れてしまうと、環境が変って貧乏になってしまった時に立ち上がれなくなるんだな。貧乏になってもなかなか贅沢を止められないんだよ」
 大晦日、年越し蕎麦を食いながら、善太郎は美玲に言い聞かせた。多分最初が肝心だと思ったのだろう。美玲は善太郎は人格者だと感じながら素直に聞いていた。
 その夜、テレビで除夜の鐘を聞きながら、美玲は狭い沙里の部屋で一緒に寝た。妹の沙里は優しく接してくれたし、とても良い感じだったので、美玲はこれからもずっと希世彦と仲良くして行けると確信していた。

二百十四 娘たちの集い

 元旦、希世彦は美玲を連れて板橋の小豆沢町に出かけた。ここには米村工機の事務所があり、基礎研究部門が入っている。希世彦は美玲に見せておきたいと思った。特に理由があるわけではないが、米村家の菩提寺、龍福寺があるので、久しぶりに訪ねてみたいとも思っていたのでついでに寄ることにした。
 龍福寺は室町時代末期に建立されたらしく、真言宗智山派の旧い寺だ。
 美玲は短大に通っていた頃、東京に住んでいたが、しばらくぶりなので、電車に乗りたいと言った。それで二人は電車で出かけた。西新井駅まで歩いたが、
「懐かしいなぁ」
 と高校、短大時代を思い出している様子で、西新井駅のホームに上がると、
「昔クラスメイトと希世彦さんに憧れてキャッキャはしゃいでいた自分が、今その希世彦さんの恋人になってるなんて信じられない」
 と涙ぐむほどだった。
 板橋の龍福寺は小さな寺だが良く手入れの行き届いた庭が綺麗で、長い間海外生活をしていた美玲の目には新鮮に映ったようだ。住職が出てきて、
「明けましておめでとうございます。米村のお坊ちゃんが訪ねて見えたのは珍しいですな。今年はお二人ともきっと福がきますよ」
 と喜んで、客殿で御薄(おうす)と和菓子を出してくれた。広い畳座敷に座らされて、美玲は心持緊張している様子だった。帰りがけ、
「坊ちゃんの許婚でいらっしゃいますか」
 と住職が尋ねた。
「まだ決まっていませんが、多分そうなりそうです」
 と答えると住職は、
「あの方のお顔にはとても良い相が出ておりますなぁ」
 と庭を見ている美玲の方に目をやって囁いた。
「では失礼します」
 と住職に挨拶をして美玲の方に行くと、
「あたし、正座に慣れてないから足が痺れてしまってまだなんかおかしい」
 と顔を歪めた。
 時間が少しあったので、米村工機のメインファクトリィに寄って見るつもりで電車で西台駅まで足を延ばした。元旦なので工機の正門は閉まっていたが通用口で守衛が出てきて、
「お久しぶりです。おめでとうございます。今年もよろしくお願い致します」
 と丁寧な挨拶をした。
「お休みですが、ちょっと中に入れてもらってもいいですか」
 と言うと守衛は、
「どうぞ、わたしが案内しましょう」
 と言ってもう一人の守衛に断り、じゃらじゃらと鍵束を持って出て来た。工場を少し回って出て来たら一時間も過ぎていた。
「随分大きな工場だわね」
 と美玲は驚いていた。
「国内には仙台にここよりもう少し大きな工場を持っているんだ」
 と希世彦が説明した。希世彦はいずれ美玲と結婚すれば知っていてもらいたいことだと思っていた。

 沙里が年末に、
「お兄ちゃんが戻っているし、お正月二日、志穂とか茉莉とかみんなで集まるの」
 と沙希に報告すると、
「どこに集まるの」
 と聞かれた。それで、
「多分茉莉の家ね」
 と答えると、
「大勢でしょ? 美玲さんも一緒でしょ?」
 沙希が聞いた。
「もちろんお兄ちゃんも志穂の彼も一緒」
「沙里ちゃんの彼は来ないの?」
 沙里は痛い所を突かれたと思った。
「一応誘ったんだけど、なんか別に予定があるみたい」
「沙里ちゃん、そんなことを言っているとダメよ。お正月なら普通は恋人を優先するものよ」
 と念を押されてしまった。この時、沙希は今娘が付き合ってる青年とは先々うまくいかなくなるかも知れないと感じ取った。女の感だ。
「箱根の別荘が空いてるから、一泊、お泊りでみんなでお出かけしたら?」
 と沙希に言われて、
「そうか、別荘がいいわね」
 と母の提案を受け入れて早速志穂と茉莉にメールをした。直ぐに[賛成]と返事が来た。

 箱根の話を聞いて、栗山智は娘達が集まるなら章吾とドライバーをしてやって、その足で伊豆の稲取温泉に行って釣りをしようと思って章吾に掛け合うと直ぐに決まった。それで箱根往復はサトルと章吾が車を出してくれる約束になった。そうなると、母親達、美登里、マリア、沙希は暇だ。それで母親達三人は揃ってお出かけをすることに決まった。
 母親の沙希に言われて、沙里は付き合っている山本にメールを入れた。
「箱根の別荘なら行くよ」
 と返事が来た。どうやら沙里の親と顔を合わせるのを躊躇ったらしい。それで沙里はメールで場所を教えておいた。
 仲良しが箱根の別荘に集まって、お昼は希世彦が志穂の彼の元に手伝ってくれと頼んでバーベキューパーティーにした。大勢集まると結構楽しいものだ。
 汚れた食器などの後片付けは女性たちがやった。美玲も一緒にお手伝いをした。
 部屋割りを書いた紙を沙里が持ってきた。
「お兄ちゃんは美玲さんと同じ部屋でいいでしょ?」
「沙里たちと一緒じゃダメなのか」
「お兄ちゃん、そんなことを言ってると美玲さんに振られちゃうぞ」
 と沙里はからかった。
「美玲さん、僕と一緒でもいいのか」
 と話を美玲に振った。
「沙里さんが考えて決めて下さったのだからいいわよ」
 と沙里の顔を見てOKをした。
 夕方食事前に沙里の彼の山本修がやってきて、一層賑やかになった。
 夕食後団欒となった。茉莉は独りだったが、他の者は皆カップルだ。だがカップルどうしくっ付いて話をすれば場がしらけてしまうのを志穂も沙里も分っていたし、美玲も希世彦と距離を置くように気を遣っていた。そんな中、山本はしきりと茉莉に接近しようとしていた。沙里はとりたててそれを止めようとはしなかったが、アルコールが入ったこともあって少し他の者にも不快感を与えてしまう位だった。茉莉はテレビや映画で良く出てくる今や人気者のモデル兼女優だ。普段街中ではマネージャーやガードマンに遮られて直接接触できるような存在じゃない。その綺麗で魅力的な女優茉莉が目の前にいて気楽に笑え合えるのだ。だから特別に近付きたくなっても不思議ではないのだが、沙里をほったらかしにして茉莉に近付くのは良くないと皆心の中では感じていた。

 山本は翌朝、朝食が終わってもメアドを教えてくれとか何かと茉莉に纏わり付いた。
「山本さん、ちょっといいかなぁ?」
 元が山本に声をかけた。
「僕ですか?」
 と山本は怪訝な顔で元を見た。志穂の彼の佐藤元は山本の腕を取ると玄関から外に出て別荘の裏手に引っ張って行った。
「あんたさぁ、沙里ちゃんの彼だよなぁ」
「そうですけど」
「昨日からオレは気になってんだけどよぉ、あんた茉莉ちゃんにちょっかい出し過ぎるんだよ。うぜぇくらいによぉ」
「僕は別に」
「このやろう、ウソは休み休み言えよ。さっき見てたら茉莉ちゃんが嫌がってるのによぉ、メアドを教えろとかさぁ」
「……」
「あんたなぁ、沙里ちゃんがそれを見てどんな気がするか分かってんのかよぉ」
「……」
「おいっ、何とか言えよ」
 元は山本の胸倉を掴んで締め上げた。元は六本木のクラブで章吾の手伝いをしている。だから、仕事柄女の裏側のごちゃごちゃした感情のもつれについて普通の男より敏感だ。おまけに格闘技をやっていて体格が良い。慶応ボーイのお坊ちゃんなんぞ脅すのはどうってことはなかった。締め上げられた山本は見る見る顔面が紅潮して、続いて蒼白になり冷や汗を流していた。
「おいっ、沙里を大事にしなかったらこのオレが承知しねぇからな。しっかり覚えておけよ」
 そう言うとようやく山本から手を離した。元に凄まれて山本は小刻みに震えていた。恐らくこんな風に扱われたのは初めてだったのだろう。小さな声で、
「すみません。分りました」
 と答えると、
「おいっ、なにびびってんだ。普通に答えろよ」
 と元が蹴りを入れる仕草をすると、慌てて後ずさりして尻餅を付いた。まだ身体は震え、顔は青白かった。
 元は手を貸して山本を立たせると、何事もなかったかのように山本の肩に腕を回して表に出た。元は山本の顔を覗くように見ると
「これから仲良くしようぜ」
 と言った。山本は小声で、
「はい」
 と答えた。お昼前に、
「身体の調子が悪いから」
 と言って心配する沙里を置いて、山本は帰ってしまった。

二百十五 波紋

 志穂の恋人元は、沙里が連れてきた山本修を脅したことを志穂と母親の美登里に正直に話した。元は不義理なことが大嫌いでしばしば出過ぎだと思われるような行動をとってしまうのを志穂は知っていたが、志穂はそんな元の正義感を持つ性格が好きでもあった。だから、志穂は元に文句を一言も言わなかったが美登里は、
「沙里ちゃんの気持ちを確かめずにしてしまったのは拙かったわね」
 とたしなめて、直ぐに沙希に電話をした。
「沙里ちゃんのことでちょっとご相談があるの。あなたと沙里ちゃんとご一緒にご都合の良い時にいらっしゃらない」
「あら、そんな話があるなんて珍しいわね」
 元が山本を脅したことは志穂以外には話さなかったから誰も知らないのだ。
 沙里は山本が、
「体調が悪い」
 と言って早めに帰ったのを気にしていた。それでメールを何回も送ったが返事がなくて、電話をしても取ってくれなかったから、
「なんか、おかしいな」
 と思っていた。今までは不機嫌な時でもメールにはちゃんと返事をくれていた。

 志穂や沙里が章吾の家に集まって話を始めた。
「あいつ、沙里が居るのに茉莉さんに色目を遣ったから、オレは我慢できなかったんだ」
 と元は弁解した。
「あなたって言う素的な恋人が居るのに、山本さんの行動、あたしたちも許せないわよ」
 と志穂。あたしたちと言うのは志穂の他の茉莉や美玲も含まれている。
「わたしはね、お正月のお誘いに最初山本さんが来ないと沙里が言うものですから、ちょっとおかしいなと思っていたのよ。普通なら親が急病とか特別な理由でもない限り、自分の大切な人からの誘いを断らないものよ。ですから、山本さんの心の中に迷いがあるなと察してましたよ」
 と沙希が自分の考えを言った。
「お母さん、あたしの気持ちも考えないでああだこうだと言われるとあたし辛いなぁ」
 沙里が初めて口を挟んだ。
「確かに、山本さんを好きになった沙里ちゃんの気持ちは複雑だわね。でも小母さんはお母さんの意見はもっともだと思いますよ。ずっと仲良くしていきたいと思っても、そんなじゃ長続きはしないわね。今でも山本さんのこと好きなの?」
 と美登里は沙里に意見した。
「あたし、今でも好きです」
 沙里は話を聞いて、どうして突然山本がメールの返事もくれなくなったのか、理由(わけ)が分った。
「一度好きになった人を簡単には諦められないことは分るわよ。でも、ここに居るみんなは沙里ちゃんの幸せを思って言っているのよ」
「それは分ってます」
「で、これからどうするの」
「あたし、別れられない」
 沙里はきっぱりと言った。本人がそんな気持ちでははたで何を言っても始まらない。それで、その日は皆消化不良の形で別れた。

 期末試験で忙しくなる二月の半ば過ぎに、山本との別れ話をかたくなに拒んだ沙里の気持ちが明らかになった。沙里の様子がおかしいので、沙希は無理に沙里を産婦人科に連れて行った。検診結果、
「ご懐妊です。おめでとうございます」
 と医師に告げられた時、沙里はポロポロと涙を零した。医師や看護師は嬉し涙だと思ったようだ。
「箱根にお泊りした時よね? そうでしょ」
 診察室を出た所で沙希が聞いた。沙里は泣きながら頷いた。
「あたし、山本さんにあたしをちゃんと見ていて欲しくて、許しちゃったの」
「でも、あれ以来会ってもくれないんでしょ」
「……」
 沙里はキッと唇を結んで遠くを見る目が潤んでいた。
「山本さんのお家、どこだか分るわね」
「はい」
「帰ったら教えてちょうだいな」
「はい」
 沙希は兎に角一度山本と山本の親に会って見るつもりでいた。家に戻ると、沙希は母の美鈴に相談した。
「分ったわ。最初沙希さんが訪ねてみなさい。それで埒が明かなかったらあたしが出て行くわよ」

 希世彦と美玲は七日にボストンに戻って行った。美玲はたった一週間だったが、希世彦のことが色々分ってとても良かったと思っていた。お父さんの善雄さんも優しくてとても素的な方だったし、お爺ちゃんもお婆ちゃんもいい人だった。お爺ちゃんは人格者だし、一番気に入ったのはお母さんだった。もう五十歳に手が届く歳だと思われるのに綺麗で若々しかった。だから、希世彦と一緒に帰る飛行機の中で、目を閉じて休んでいる希世彦の横顔を見て、どんなことがあっても、ずっとこの人と一緒に居たいと心から思った。そう思うと幸せな気持ちがこみ上げてきて、(あと)二年半、ボストンでの大学生活が終わったら早めに結婚してもらいたいと思った。女は一生この人に自分自身を預けてもいいと思った時、躊躇なく結婚と言う文字を受け入れることが出来るのだ。

 二月下旬のその日、沙希は沙里に聞いた山本修の住所の大体の位置を地図で調べて、家を出た。髪をとかさず、素っぴんで、何度も洗って色落ちした綿のスカートにブラウス、靴は使い古して踵が磨り減ったパンプス、無地のよれよれのコートとわざと貧乏臭い格好をして出た。どう見ても下町の商店街で買い物をするオバサンだ。
 山本の住まいは五反田から少し歩いたワンルームマンションだった。場所は直ぐに分かった。チャイムを鳴らすと運良く山本は居た。ドアーを少し開けて顔を出した山本に、
「米村沙里の母です。ちょっとお話しがあります」
 と告げると山本は怖いものを見たような顔をして、慌ててドアーを閉めようとした。沙希はドアの間に足を入れて閉まらないようにして、中を見た。目の前に女物の小さなスニーカーが乱暴に脱ぎ捨てられていた。
「女の子が居るんでしょ」
 沙希は怖い顔をした。山本はこくんと頭を下げて認めた。
「用は直ぐに済ますわよ」
 沙希は構わずドアーを開けて中に入った。ベッドの上に裸だった女の子が慌てて毛布をまとって、怯えた顔で沙希を見ていた。
「あなたの実家の電話番号と住所、お父さんの名前をここに書きなさい」
 沙希はメモ用紙とボールペンを差し出した。
「僕は関係ないっす。なんで教えなきゃならないんですか」
 と山本は開き直った。
「あなたねぇ、娘はあなたの子供を身ごもったのよ。それでも関係ないと言えるっ!」
 沙希が目を吊り上げると、
「僕の子だとどうして分かるんですか」
 と言うではないか。
「あなたと話しても仕方がないわね。早くここに書きなさいっ!」
 ベッドの上の女の子は、
「怖っ」
 と呟いた。沙希の有無を言わせぬ剣幕に、山本は渋々住所、電話番号、父親の氏名を書いた。
「あなたの態度によっちゃ、訴えて裁判を起こしますよ。覚悟をしておきなさい。いいわねっ!」
 沙希は携帯を取り出すと、書いてよこした電話番号に電話をした。デタラメを書いてよこすことはままあることだったからだ。
「もしもし、山本さんのお宅ですか」
電話の向うで、
「山本です」
 と答えたらしい。
「ご主人か奥様はいらっしゃいますか」
 と聞くとどうやら母親が出た様子だ。
「私、息子さんの修さんとお付き合いさせて頂いております娘の母親です。娘が懐妊致しまして、近々その件でご相談に上がりたいと思います。ご都合の宜しい日を03―××××―××××にご連絡をお願いします」
 どうやら先方は晴天の霹靂、相当驚いた様子で、事態を察して丁寧な受け答えに変ったようだった。沙希は電話を切ると、
「今聞いていた通りよ。生意気なことを言うと承知しませんよっ!」
 と睨んだ。女の子は多分二十歳前後だろう。話の内容を理解したのだろう、震えていた。

二百十六 どら息子

 沙希は娘の沙里を連れて、この前と同じ貧乏人の格好をして、山本修から聞きだしたメモを頼りに新幹線に乗って新大阪に向かっていた。
 昨夜、先日電話で話をした山本の母親から電話があって、
「手前どもでご心配をかけながら遠路お越し頂くのは失礼ですが、もしご都合がよろしければ明日主人が在宅しておりますのでお出で願えませんか」
 と丁寧な連絡が来た。沙希は、
「早い方がよろしゅうございますから、明日そちらへ向かいます」
 と承諾した。

 大阪は梅田からJR紀州路快速に乗り換え、和歌山でJR紀勢本線・御坊行に乗り継いで箕島と言う駅で降りた。
「お母さん、あたし和歌山は初めてよ。なんか旅っていいなぁ」
「そんなことを言っている場合じゃないでしょ。今日は大切なお話のために来たんだから」
 山本の住所は和歌山県有田市となっていた。箕島駅から有田川に向かって二十分ほど歩くと電話で聞いた通り山本修の実家は直ぐに分かった。大きな屋敷だった。
 修の母親は小柄で気さくな女だった。来訪の挨拶を済ますと、
「さ、どうぞ。今お茶をお持ちします」
 と洋風の応接室に通された。家は旧い日本家屋だったが、応接だけ改築したようだった。出されたお茶をすすっていると、
「やぁ、遠い所をすんませんなぁ」
 と言って山本の父親が入ってきた。恰幅の良い六十歳前後の男だった。母親もついてきた。山本は沙希のみすぼらしいいでたちをじろじろと見た後で、
「わしはこんなもんです。よろしゅうに」
 と名刺を差し出した。肩書きに有田市長とあり大き目の活字で山本修太郎と印刷されていた。
「人口三万と少し、わしがここの市長をやっとります。ご存知かどうか分りまへんがな、この先の有田川が海に出たとこは和歌山下津港ですね。ここは漁港じゃあらしまへんで、コンテナターミナルになっとります。毎日ぎょうさんのコンテナがガントリークレーンで揚げ降ろしされとります。主にK石鹸の工場から出る荷物ですわ。コンテナターミナルは和歌山ではここだけでっせ」
 山本は少し自慢げに説明した。
「天気がよろしい日はな、ここから目と鼻の先の徳島がよう見えますね。徳島へは南海フェリーも出てますのや」
「あたしたち、和歌山のこちらの方は初めてですの。景色のよろしい所でございますわね」
 と沙希が話を合わせた。
「おいっ、修、帰っとるんやろ? 連れてこいや」
 と母親に言うと、母親は大声で、
「オサムッ」
 と奥に声をかけた。沙希の顔を見て、照れ笑いをしながら修が入ってきた。

「じゃ、本題の話をしますか」
 と修と沙里の話しに入った。
「うちはこれの上に娘が三人、これは末っ子ですね。女ばかりに囲まれて育ったさかい、ひ弱な奴で、押しが足りんとこもありますがな、お人よしのええ性格も持っとります。長女の婿が市会議員になりましてな、将来わしの跡を婿に継がせようと思うとります。そやから、これには東京でしっかり勉強させてもろたら、わしの跡取りをせんでもええから、自分の進みたい方に進んでもええと言うとりますんや」
「こんな可愛らしい綺麗なお嬢はんと付きおうとるなんて、今回初めて知りましたが、わしに似て女にだらしないとこが欠点ですな。若い頃はわしも家内に苦労ばかりかけとりますから」
 そう言って笑った。
「それでですな、今回お嬢はんが懐妊されたちゅう話しですが、息子は身に覚えがないと言うとりますんや。ほんまにうちの修の子でっか?」
 そこで沙希が聞き返した。
「山本さん、親として本当にそう思っておられるのですか? つまり私共がありもしないことを言っていると」
「いや、わしはな、息子を信じて、息子の言うことが正しいと思うとりますんや。違いますか?」
 そこで沙希は病院から出してもらった診断証明書を取り出して見せた。
「医師が申しますには、娘の受胎は正月早々だそうです。娘は丁度その頃箱根に一泊の新年会に出かけまして、もちろんそちらの修さんも一緒で、二人で同じ部屋で一晩過ごしました。娘はその時修さんにせがまれて許してしまったと言っております。新年会は私共の身内同然の者たちで、男と言えばうちの長男と友人の娘の恋人と修さんの三人だけで、外部からの出入りのない所ですから、修さん以外に夜中に娘と接触した者はおりません。修さん、ウソは許しませんよ。男は正直でないと大成しません」
 沙希の目は吊り上がっていた。沙希の勢いに押されて修太郎は息子に、
「おまえ、こちらはんの言うことに間違いはないか?」
 と問い質した。修は、
「そうかも知れないけど良く覚えてない」
 と呟いた。これには修太郎が怒った。
「おまえ、これは大事な話や。男が女となにしておいて覚えてないなんてことはないぞ。わしはな、今でも若い頃過ちを犯したことを全部はっきりと覚えておるんや。ウソはいかんぞ」
 親父に怒鳴られて修は白状した。
「すみません。沙里さんを抱きました」
「ばかもんっ!」
 修太郎は息子を一喝した。

「息子の言うことを信じてデタラメを言うたのは謝ります。これこの通りです」
 修太郎はテーブルに両手をついて深々と頭を下げた。
「それでですな、ご相談ですが、米村さんはどうしたら良いとお考えですかな?」
「娘は今でも修さんを好きだと言っておりますの。ですから、二人を結婚させて子供をきちっと育てさせたいと思っております」
 沙希ははっきりと言い切った。
「堕すことはお考えになっとらんのですか」
「全く考えておりません」
 沙希は怖い顔をして修太郎を見た。昔は女たらしだったと自分で言うくらいだから、何人もの女を泣かせてきたんだろうと思った。
「それでですが、息子さんを私どもの婿養子として預けていただけませんか?」
 これには修太郎の妻が眉を寄せた。それで、
「自分の責任をいい加減に考えてウソを言うような息子さんには大事な娘を嫁には出せません。修さんは私共で預からせて頂いてきっちりと鍛えます。女にだらしのないのは許せませんから」
 沙希ははっきり言い放った。修太郎は沙希の後へは退かない剣幕に気おされて、
「それでは仕方がありませんな。そちら様に預けましょう」
 と答えた。修太郎の妻は賛成ではないようだったが、渋々承知した。
「では手続きがございますので、後ほど私共の顧問弁護士を差し向けます。よろしいですね」
「米村はん、怖い人だね。息子をきっちり鍛えなおして下さい。所で、こんなことを言っちゃなんだが、息子を脅した男が居るそうですな。何でもクラブに勤めているとか。そんな男が将来わしらに関わることはないでしょうな? こう見えても政治家は人気商売ですからな、良くない噂は困りますのや。ご主人はどんな仕事をしておりますんや?」
 修太郎は改めて品定めをするように沙希の貧乏臭い服装をじろじろ見ながら質問した。

「主人は普通の会社員です。人様に恥じることはなにもありません。それから、クラブに勤めている近藤元と言う青年ですが、曲がったことが嫌いな真面目な良い青年ですよ。勤めているクラブは私の父がやっております。そこらのいかがわしいキャバクラなどとはまったく違いますよ。東京の政財界では有名なクラブです。和歌山では県知事のNさん、大物衆議院のNさん、参議院のSさんなど皆様お客様で私も良く存じ上げています。財界では先ほど話が出ましたK石鹸の専務のKさん、常務のTさんなども存じ上げております」
 沙希の話を聞いて、修太郎の顔色が変った。
「その話はほんまの話しですかな?」
「私共は息子さんと違ってウソは申しません。本当の話ですよ」
「そうですか、それはそれは。わしら田舎の町の市長ではなかなか()うてもらえんような先生方ですな。そちら様と親戚付き合いをすることになりましたら、どうぞよろしゅうにお願いしますよ」
 話を聞いて修太郎の妻も沙希を見る目が変わった。政治家は人脈が極めて重要な職業だ。沙希は急所を知っていたのだ。相手をねじ伏せるにはどう言う手を使うかちゃんと心得ていた。それで、話はまとまった。後は弁護士に頼んでおけばきっちりまとまるだろうと思った。

 交渉が終わって帰り道、
「お母さん、ありがとう。修さん、これからどうするの?」
「どうするもこうするもないわよ。生まれてくる子供のためよ。ちゃんと結婚して子供の幸せを考えなくちゃね。それが子を持つ母親の務めですよ」
「修さん、家に来るの?」
「そうよ。母さんの息子として今のだらしない性格をきっちりと鍛えなおすつもりよ。沙里ちゃんも覚悟しておきなさい」
「なんか、あたし子供を堕すことになるかと思って悲しかったけど大丈夫よね」
「あたりまえじゃない。修さん、母さんがしっかり面倒を見れば良い旦那様になるわよ。ああ言う家庭で大事に育てられた男は根は優しいものよ。沙里が好きになった人だから、仲良くして行くのが一番よ。生まれてくる子供のためにもね」
「今夜、京都にでも泊まろうかしら?」
 沙希が言うと、
「あ、あたしもおねだりしようと思ってた」
 と沙里は喜んだ。沙里は顔には出さないが、娘は今回のことで相当悩んだだろうと思った。やはり一泊して労ってやるのがいいだろうと思った。母親の愛情だ。

二百十七 誤算

 沙希と沙里が帰った後、
「あんた、なんで修を簡単にあげるなんて言わはったん? うちは反対やで」
 山本修太郎の妻、弥生は修太郎に念を押した。
「ああ、あの米村とか言う勇ましい女なぁ、うちの県の偉い先生方を知っとるとかはったりを噛ませよったけどなぁ、あれはみんなウソや。弁護士を差し向けるとか言うとったがな、弁護士が()よったらな、五千万とか一億とか慰謝料をふっかけて来よるよ。わしはなぁ、そんなもん払うつもりはないんや。もし払わなならんとしてもや、せいぜい五十万か百万を握らせてやりゃ手をひくでぇ。あの女はな、娘使ってあちこちの金持ちそうな息子にちょっかいだしてな、関係がでけたら慰謝料寄越せと難癖つけて人様から金を取っとるのや。あんたもあの女の着とるもん見たやろ? あれ見たら今日まんまを食う金もない感じやったわ。その内町の弁護士とか言うて、いかさま弁護士が来よるから直ぐに分かるわ。診断書やけど、あんなもん小銭を渡せばデタラメ書く医者がおるんや。わしがあんなもんで騙されるかいな」
「そうでっかぁ、そんならええけど、修は出さんどいてや」
「分っとるがな。ま、スキャンダルは困るからな、揉めへん程度にうまいこと納めてもらわんとな」

「あんた、二、三日中にこれ調べてくれんか」
 修太郎は秘書を呼んで沙希が渡した住所と電話番号のメモを渡した。
「何を調べるんですか?」
「ああ、うちの修が悪い女にひっかかってな、今脅されてるんや。それでや、場合によっちゃ警察に突き出してやるつもりやさかい、住んでるとこに間違いないか、家族、旦那は普通の会社員やと言うとったが、ヤクザに関係ないかそこいらを調べて欲しいんや」
「東京ですな。東京まで行かせてもろてもいいですか」
「かまわん。きつちり調べて来てや」
「分りました」
「ああ、忘れとった。六本木のクラブ、ラ・フォセットがどんなとこか調べといてや。経費は少し使ってもええけどな、遊んできちゃあかんでぇ」
 翌日修太郎の秘書は東京に出かけた。

「只今帰りました。先生えらいことでっせ」
 秘書が東京に出張した報告にやってきた。
「なんや、やっぱりヤクザが絡んどるのか」
「いやぁ、調べてみてびっくり仰天ですわ」
「なんや、早ようちゃんと説明してくれんかいな」
 秘書の調査報告に拠ると、米村家は業界では堅実経営で有名な米村工機のオーナーで、売上高は一兆円近くあり、連結決算対象企業全体で三万人以上の従業員を抱えていて、他の企業と違って殆ど正社員ばかりだと言う。
「東京の銀行の調査部に知り合いが居まして、調べてもろたんで間違いはないです」
 主製品は回転機器で主力の工場は東京と仙台に大工場があり、関連会社の工場が九州佐賀、広島、大阪、名古屋にあると言う。傘下の関連会社は全世界に沢山あり、米村家はそれらを統括している○○ホールディングスのオーナーでもある。山本家を訪ねて来た沙希と言う女性は社長米村善雄の正妻で沙里と言う娘は社長令嬢に間違いない。長男は東大工学部を卒業後、現在ハーバードのビジネススクールに留学している。
「それでですな、衆議院議員のN先生の東京事務所を訪ねたら、上手い具合にたまたま先生がおられましてな、米村さんのことを聞いてみたんですわ。そしたら、先生は祖父の善太郎さんを良くご存知で、大きな声じゃ言えませんが、昔政治資金としてぎょうさん裏金を融通してもろうたそうで、政財界でも相当信頼されておられる大物だから大事にしてやと言われましたんや」

「クラブの方はどうやった?」
「先生、それはすごいとこでした。わたしら田舎もんは敷居が高こうて入れんようなとこですわ。政財界の大物が社交に利用しとるとこだそうで、わたしはちょっと覗かせてもろたんですが、居心地が悪うて、直ぐに出ました。金を払おうとしましたらな、受け取ってもらえませんでしたわ。普通は有名人の紹介なしでは入れてくれんとこだそうですわ。N先生の話しじゃ、そこに入れてもらえるようになったら、一人前やと言われました」
「N先生の紹介で入れてもろたんか?」
「もちろんです。先生に会えへんかったら中に入れまへんでしたやろな。そのクラブには別組織がありましてな、政治家や財界人のパーティーを取り仕切っている団体があって別嬪さんを大勢抱えているそうで、政財界に相当深く関わってるんやそうですわ。それを束ねている男は猪俣章吾と言う者で、息子さんが脅されたとか言う若いもんはその猪俣さんの娘さんの彼だそうです。わたしも聞いて驚きましたわ」
「N先生が言うには、令嬢を汚した慰謝料を払うなら十億や二十億じゃ済まんだろうと言うてました。山本さんが田畑を売り払っても追いつかんほど金を積まにゃ納得してもらえんやろて言うとりました」
 報告を聞いて、山本修太郎は真っ青になった。そんな大物に下手なことをすればどえらいことになると思ったからだ。米村沙希の話には全くウソがなかったことも分った。

「弥生、修は米村さんの所に出さなきゃならんな。修はどえらいとこのお嬢さんに手を出してしもうたんや」
「あんた、それどう言うことや?」
「こないだ来はった米村はんの話しな、あれ全部ほんまのことやった。秘書にきっちり調べさせたから間違いはないやろ。米村家はな、どえらい資産家やった。着てるもん見て判断したわしが間違ごうとった」
「おいっ、修、ちょっと来いっ」
 修太郎は息子の修に概略説明をした上、
「あんたは米村家の婿養子になってもらうぞ。山本家のためや。覚悟しときや」
 と印籠を渡した。

「お母さん、あたし、修さんのとこに嫁入りしたかったなぁ」
「母さんがどうして修さんを婿養子すると言ったのか分ってるの?」
「だらしないとこを鍛えてあげるんでしょ」
「沙里ちゃん、あなた結婚したら主婦になるのよ。もう少ししっかりしなくちゃ。山本家に嫁入りしたら、沙里ちゃんは不幸になるわよ」
「どうして不幸になるの」
「嫁いびりって言葉は知ってるでしょ」
「ドラマに出てくるような?」
「そう。修さんは、沙里ちゃんに子供を授けたのに、最初身に覚えがないなんて無責任なことを言ったわよね」
「あたし、ショックだった」
「ショックなんてものじゃありませんよ。卑怯な人よね。そんな人のお嫁さんになって、あちらの家に入ってごらん? 修さんは絶対に浮気をするわよ。沙里ちゃんがそれに怒れば、あちらのお義母さんは必ず修さんの肩を持つわよ」
「旦那様が浮気したのに?」
「世間とはそう言うものよ。おまけに姉が三人も居るでしょ? 四人の大姑、小姑に朝から晩までいびられて、沙里ちゃんは掃除、洗濯だけのお手伝いさん、結局虐めに耐え切れなくなって、出戻りになるわね。可哀想な若奥様のドラマが一本書けるわよ」
「それで婿養子にしちゃうの」
「婿養子って制度は法律的には今はないのよ。昔家長制度があった時代の名残りね。今は沙里ちゃんが婚姻届を出す時に米村姓で届けを出せばいいの。でも、それだけでは養子にはならないのよ。養子は養子で別に養子縁組の手続きをするのよ。結婚か養子縁組かどっちの手続きが先でも構わない定めになっているの。要はその手続きをきちっとしてから修さんを母さんの息子にしてしまうのよ。そうすれば手元に置いて浮気しようにも目を光らせて浮気できなくするわよ」
「修さん、逃げ出さないかなぁ」
「母さんは簡単には逃しませんよ」
 母の沙希は悪戯っぽい目で娘を見て微笑んだ。

 数日後山本家に恰幅の良い紳士が供を二人連れて訪れた。沙希が向かわせた三人の弁護士だ。それで、養子縁組の手続きは滞りなく済んで、修は山本修から米村修に変った。山本修太郎は三人の弁護士に気圧されて、文句の一つも言えず全てお任せで実印をついてしまった。秘書に調べさせたことで米村家に対して最初から受身であったのだ。
 手続きが終わった所で沙希が顧問弁護士を連れて山本家を訪ね、修の身柄を貰い受けて東京に帰って来た。沙希はビシッと身だしなみをしており、黒塗りの大きな車を玄関先に横付けした。最初に訪問した時とは別人のように貫禄があり、山本の妻の弥生も変りように驚かされた。修自身も沙希にペコペコして何の抵抗もなく車に乗せられてしまった。
 東京に戻る車中で、
「修、今日からあなたはわたしの息子ですよ。我侭や贅沢は許しませんよ」
「はい」
 沙希は家に戻るととりあえず修を希世彦の部屋を使えと指示した。
「沙里と結婚するまではこの部屋を使いなさい」
「はい」
 修は思ったより素直だった。その日から、修は米村の次男としての生活が始まった。
 修が住んでいた五反田のマンションは解約され、翌日から修は西新井から三田に通うことになった。
「あなた、結婚をすれば沙里とこれから生まれてくる子供を養わなくちゃなりませんね」
「僕、まだ学生だから無理です」
「あなた、そんな自覚もなくて沙里と結ばれたの?」
「まさか子供が出来るなんて考えてもいませんでした」
「そんなことも考えずにしたの」
「すみません」
「今日は学校が終わったら直ぐに帰ってきなさい。仕事口を案内しますから。いいですか、あたしの言いつけを守らなかったら承知しませんよ」
「はい」
 沙希は学校が終わった後は修を章吾に預けた。
「びしびし鍛えて下さいな」
「任せて下さい。半年過ぎたら大分違って来ると思うよ」
 結局修は沙里以外の女の子と遊んでいる暇がなくなった。章吾が怖くて時間をごまかす余裕もなかったのだ。

二百十八 オデットとシモーヌその後

 昨年の三月に、ザンビアに住んでいる浜田の娘オデットとシモーヌが日本にやってきた。沙希は美鈴には相談をしたが、夫にも子供たちにもアフリカ娘のことは話をしていなかった。二人を目の届く西新井のマンションに住まわせて、東京工学院日本語学校への入学手続きをした。定員二十名で相当狭き門だったので、ホステス時代の人脈を使ってどうにか入学をさせた。三月に入学申請をしてから、入国手続きなど面倒な手続きがあり、入学式は十月になった。四月の入学式に間に合わせるには、半年前の九月に申請をしなければならないのだ。二人は片言だが日本語が話せ、日本語の読み書きもある程度できたので、入学試験は合格した。オデットとシモーヌは母親が違うので顔は似ていないが、浜田の血が入ったハーフなので、可愛らしかった。東京工学院日本語学校は渋谷、新宿に出やすい千駄ヶ谷にあるので、二人の女の子は遊べる場所に近く大喜びだった。沙希は一週間に一日の割合で彼女達の面倒を見た。日本語学校を卒業後は日本の大学の入試を受けさせる予定で、来年の二月か三月、いくつかの大学の入試を受けさせる予定で居た。

「沙里ちゃんに会わせたい人が居るの」
 珍しく母の沙希が秘密めいた顔で娘に話した。
「男性? それとも女性?」
「女の子二人よ」
 沙里はオデットとシモーヌが住んでいるマンションに連れて行かれた。沙希は二人が女子大生になったら、沙里に少し手伝ってもらおうと予定していた。

二百十九 結婚式

 山本修太郎は米村修、沙里の結婚式の招待状を受け取った。出欠を聞いてきたのだ。本来ならば自分が全て取り仕切るべき結婚式なのに、今回は息子の脇の甘さを突かれて、息子は修太郎の手の届かない所に持っていかれて、姓まで変った息子からの招待状を受け取るはめになって悔しくて仕方がなかった。
「くそったれのどら息子めっ。オヤジに大恥をかかせおって。女と遊ぶならもっとうまくやりゃなあかん。あのアホがぁ」
 招待状は三人の娘達の所にも届いていた。聞いてみると、娘達も全員出席に○印を付けて送り返したと言っていた。もちろん、修太郎も弥生も出席に○を付けて送り返した。
 一週間ほど経って、正式な招待状が届いた。着席図表も入っていた。場所は上野精養軒と印刷されていた。
 修太郎は出席者一覧を見て驚いた。N代議士の名前があったからだ。しかも自分の方の親戚は全て排除されていて、自分達夫婦と三人の娘だけだったからだ。新郎関係では知らない者ばかりだ。それもそのはず、大学の恩師、クラスメイトたちばかりだったから無理もない。
 新婦の方はと言えばこれも自分が知らない者たちばかりだ。総勢七十名、コンパクトな結婚式だと思われた。米村家の長男の結婚式なら、こんなものじゃないだろう。息子がこんなことになる前は修太郎は最低でも二百名は呼んで盛大な結婚式を考えていた。だから悔しさがまたこみ上げてきた。

 六本木のクラブ、ラ・フォセット社長柳川哲平のもとに、電話がかかってきた。和歌山出身の衆議院議員N代議士からだった。
「社長に頼まれた件だが、米村さんのとこから招待状届いたのでどうやらうまく行ったようですな」
「思った通り有田から先生の所に問い合わせがあったでしょう?」
「ああ、さすが、社長の狙いは確かですな。山本市長の秘書だと言う男が来ましてな、断るなら持っている田畑を売り払っても足りん程の慰謝料を払わにゃ納まらんぞと脅かしてやりましたよ」
「このお礼はその内に」
「いやぁ、お礼をされる程のこともありませんや。地元では威張っとっても、しょせん小物の政治家ですわ。腕をちょい捻るなぞわけもないことですな」
 哲平は海千山千のしたたかなN代議士を上手く利用した。

 結婚式は上野精養軒で滞りなく進んで、修と沙里は晴れて夫婦になった。二人は相談して神前結婚にした。
 新居は沙里の実家から歩いて五分位の所の小さなアパートを沙希が借りてくれた。米村家は質素を重んじる家風だと修は沙希からこってり説教を喰らって、納得していた。家の近くには怖い義母が居て、学校が終わると夜半まで仕事で章吾と元にしごかれ、唯一夜中に家に帰って沙里に愛されることで癒されていた。結婚する前、米村家に養子としてもらわれて来た当初は適当に遊んで、頃合を見て逃げ出して沙里の奴を捨ててやろうなどと思っていたが、今では牙を全部抜かれて沙希の言うなりになっていた。終日、目一杯勉強と仕事で埋まり、ストレスが溜まったが、毎晩沙里に癒されて、今では浮気をしようなんて元気はどこかへ飛んで行ってしまった。
 二人は揃って大学生だ。なので学生結婚をしたのだ。沙里のお腹の子供は順調で、最近は大分腹が出っ張ってきた。修は最初の頃と変って、今では毎晩沙里のお腹を撫でて、
「早く元気に出て来いよ」
 と産まれて来るのを楽しみにしているようだ。修は来春慶応の経済学部を卒業予定で、沙里は来春四年生になるが、出産しても卒業するまで頑張ると張り切っていた。
 そんな修と沙里の知らない所で斉藤留美と言う女が泣いていた。
「あんなにあたしを愛して、将来まで約束してくれたのに、突然五反田のマンションを引き払い、大学でやっと捕まえても知らん顔する修、きっとあの怖いオバサンになんかやられたに違いないな」
 留美は初めて沙希が修のマンションを訪ねた時、ベッドの上で裸で震えていた女の子だった。
「修、あたしね、いつも遠くから修を見守ってるからね。あたしのこと、忘れないでね。何かあったら、あたしのとこに絶対に帰ってきてね」
 留美は修を思い出す度にそんなことを呟いた。最初の内は修は留美を諦めきれないでいたが、章吾に洗脳されていく内に次第に大人になって、今では留美と愛し合った日々がずっと昔のことに思えるようになっていた。クラブの裏方をしていると、女と男の絡み合いの汚い部分も見えるようになって、昔の自分が男女関係について幼稚(うぶ)だったことを反省させられていた。

 そんな修の、知らない所で、美鈴と沙希は相談して決めていた。つまり、沙里の夫になった修をいつまでも柳川の所に預けているつもりはなかった。いずれ善雄に頼んで会社経営の技術をしっかりと叩き込んでもらうつもりでいたのだ。

二百二十 三十九歳の初産

「川野さんは、お若く見えますが、今三十八歳なんですね」
「はい。いつの間にか」
 川野珠実は産科医に言われて、少しはにかんだ顔をして答えた。ローザンヌのホテルで、都筑にもらった子供はお腹の中で順調に育っていた。
「出産する時は三十九歳かぁ」
 医師は珠実に言うでもなく独りで呟いた。
「実はね四十歳以上で出産される方は高齢出産と言われていましてお若い頃よりは難産になるケースが多いんですよ。川野さんはまだ四十前ですが、一応気を付けて診て行きましょう」
 それを聞いて珠実は不安になった。確かにそんな話を良く耳にするからだ。
「先生、わたしの場合も難産になる可能性が高いのですか」
「まだ今は何とも言えません。臨月になったら慎重に診ましょう」
「高齢ですと、どうして難産になりやすいのですか」
「難しい質問です。お産の時は子宮の周りにある平滑筋という筋肉の働きで、ものすごい力で赤ちゃんを産道から押し出すのですが、高齢になられると、平滑筋の力が弱くなって順調に押し出せなくなるのも原因の一つと考えられています。原因は体質により様々ですから、一概には言えません」
「そんな時はどうするのですか」
「帝王切開をして赤ちゃんを産道を通さずに取り出すことになります」
「なんか怖いな」
「怖がることはありません。手術は簡単で安全ですよ。お産が始まってからどうしても自力で産めない時は緊急に帝王切開をすることもあります。この場合はお臍の下あたりから陰部に向かって縦に執刀するのですが、お腹の中心に切開手術の後が残ります。それで、緊急帝王切開の場合はダメですが、お洒落な方は傷跡が見え難い横方向に執刀する方法を選ばれる方が多いです。この方法ですと、陰毛の上端あたりを切りますので、術後傷跡が目立ちません。川野さんの場合は臨月になってから判断して、帝王切開をする場合は横切開にしましょう」
 医師は簡単な手術だと言ったが、初めてなので珠実はまた不安になった。

 臨月になった。担当の産科医は、
「川野さん、慎重に検討させて頂きましたが、やはり帝王切開の方が安心です。よろしいですか」
 と聞いた。
「はい。よろしくお願いします」
 珠実はそう答えるしかなかった。お腹の赤ちゃんは順調で、最近はしばしば暴れてお腹を蹴ったりするようになっていた。
 珠実は不安だった。こんな時、いつも都筑が一緒に居てくれればどんなにか気持ちが楽になるだろうと思った。珠実は[孤独]を感じていた。
 手術の日が決まったので、来てもらえるかどうかは分らなかったが、一応都筑の携帯にメールを入れておいた。返事が来た。
「分った。手術の日に病院に行くよ」
 珠実はとても嬉しかった。仕事で行かれないと十中八九そう返事がくるだろうと思っていたからだ。

 珠実が出産のため入院する日、米村善雄は妻の沙希に、
「急に用が出来て出かけるぞ」
 と言った。急にと言うのは珍しい。善雄は計画的に行動する男で、大抵の場合予め予定を知らされていたからだ。
「急とは珍しいわね。どちらへ?」
「仙台だ。場合により三日か四日かかるかも知れない」
 仙台には工機の工場があり時々出かけるので沙希はなんの疑問も抱かなかった。それで、
「分りました。お気を付けて」
 と送り出した。都筑はいつものビジネススーツ姿で出かけた。
 手術の前日、珠実は洒落た産婦人科病院に入院していた。奈緒美が心配顔で付き添っていた。仙台に着くと、都筑は床屋に寄って髪型を変えてもらうと、ホテルに一室をキープした。部屋でビジネススーツを仕舞いこんでカジュアルな服装に着替え、淡い色のサングラスをかけると鏡を見た。米村善雄が都筑庄平に変身した。もう二十年以上もそうして来たのだ。
「よしっ」
 都筑は珠実が教えてくれた病院に向かった。
「どうだ?」
 珠実は見舞いに来た都筑の顔を見ると、今までの不安な気持ちが吹っ飛んでいつもの明るい笑顔に戻った。
「来て下さったのね。ありがとう」
「当然だろ。女性にとっちゃ、出産は大事業だよ。赤ちゃんは元気か?」
「とても元気そう」
 その日は夜珠実が眠るまでずっと付き添っていた。
 看護師がやってきて、
「恐れ入りますが、ご主人様はあちらの控え室にいらして下さい」
 と言った。この病院はホテル並の作りで、控え室は普通の総合病院と違ってホテルのロビーのような感じでバーのようなカウンターで飲み物のサービスもある。都筑はコーヒーを頼むと備え付けの経済新聞を持ってきて読み始めた。

「ご自分でなさる方もおられますが、お腹が大きくて大変なので私がします」
 看護師はそう言うと珠実に股を広げさせて、髯そり用のカミソリで陰毛を綺麗にそり落とした。
「後でシャワー室でお身体を綺麗にしておいて下さい」
 看護師はそう言うと出て行った。
 翌日点滴を済ますと、分娩室に連れて行かれて、分娩台に乗せられた。
「ちくっとしますが我慢して下さいね」
 看護師は膣に尿カテーテルを挿入した。
「横になって下さい」
 珠実が素直に横になると、
「膝を抱くような姿勢で」
 と看護師は言って珠実を丸くなる形で横に寝かせた。麻酔の専門医が入ってきた。
「下半身だけですから心配は要りませんよ」
 男性の麻酔医は優しげに小声で囁いた。背後から腰に大きな注射針で麻酔薬が注入された。珠実は痛かったが我慢した。直ぐに下半身が麻痺して、感覚がなくなった。

 産科医が入って来ると、
「では始めます。直ぐに終わりますよ」
 と言って執刀を開始した。下腹部でジョリジョリッとする感覚を覚えた。別に痛くはなかった。
 十五分か二十分経っただろうか、いや、十分位かも知れない。突然赤ちゃんの激しい泣き声がした。下半身麻酔なので、泣き声ははっきりと聞こえた。
「男の子ですよ」
 と看護師の声が聞こえた。この瞬間、珠実は自分が母親になったと思った。愛する都筑の子供だと思うとこみ上げてくる気持ちに自然に涙が出た。手術が終わると病室に戻された。
「夕方麻酔が切れると痛みますから」
 と痛み止めを飲まされた。
 病室で都筑が待っていてくれた。
「男の子だったな。産んでくれてありがとう」
 都筑の大きな手で握られると珠実はまた目が潤んだ。
「明日赤ちゃんと対面できるそうだよ。母子共に無事で良かった」
 都筑は嬉しそうだった。夕方奈緒美もやってきた。
「パパ、今夜中ママと一緒?」
「そうもいかんだろう。ママが眠ったら帰ろう」

 珠実が眠りに就いてから、都筑と奈緒美はマンションに戻った。
「今夜はパパと二人っきりだな」
 奈緒美は意味深なことを言った。
「歳の離れた弟だけど、可愛がってくれよ」
「もちろんよ。あたしもすごく嬉しいんだからぁ」
 ここのとこ都筑が来た時はいつも一緒にお風呂に入るのが習慣になっていた。
「奈緒美、いつまでもパパにべったりじゃなくてさ、そろそろ素的な彼を見つけろよ。パパが手伝ってやってもいいぞ」
「あたし、パパよりも素的な男でないと嫌だからね」
「パパより素的な奴はそうはいないぞ」
 と都筑は冗談を言った。本心は早く奈緒美に彼が出来て落ち着いて欲しいと思っていた。

二百二十一 複雑な家族

 川野珠実の産後の回復は早かった。出産後二日目には自分で歩いてトイレに行けた。傷口はまだ痛んだが医師の話では、
「無理をすると手術の痕が治り難いが、大事にすれば動いた方が良い」
 と説明された。それで、珠実は傷をかばいながら、なるべく動くようにした。都筑が仙台に逗留して四日目になった。
「仕事をいつまでもほったらかしにはできないから仙台を離れるが、何かあったらメールを下さい」
 都筑は珠実にそう告げた。珠実はこのままずっと居てもらいたかったのだが、そんなことは無理だと承知していた。
「お見舞いにいらして下さってありがとう。奈緒美ちゃんが居ますから大丈夫です」
「お戻りになられる前に、この子の名前、あなたの名前をそのまま頂いてもいいかしら」
「えっ、僕と同じ名前にするのか?」
「あたし、そうさせて頂きたいの」
「川野庄平かぁ、ま、語呂はいいね。呼びやすい」
「届けは非嫡出子(ひちゃくしゅつし)となるが珠実は納得してるんだろ?」
「はい。最初からシングルマザーとして育てるお約束ですから」
「心苦しいがそうしてくれ」
「ご迷惑はおかけしませんから」
 法律上非嫡出子で出生届けを出せば、子供は母親姓で、母親の戸籍に入り、親権は母親になるのだ。だから珠実の子供は川野庄平となり、父親の欄は空白になる。
「後々心変わりして、認知をして欲しいと言われても、それは出来ないことも分ってくれているね?」
「はい。分ってますわ」
「所で、珠実が庄平と呼ぶと僕と息子の両方がはいと返事をするようになるよ」
 都筑は冗談まじりに言ってみた。
「大丈夫よ。息子は庄平ちゃん、あなたは庄平さん」
 と珠実は笑った。
「なんか変な気持ちになるなぁ」
 と都筑も笑った。
「確か出産後十四日以内に届けを出す決まりだったから、退院してから届けを出すといいね」
「はい」

 東京に向かう新幹線の中で、都筑庄平は自分の家族は複雑になってしまったものだと思った。東京に帰れば、希世彦と沙里の父親で、仙台に行くと奈緒美と庄平の父親、それに今は九州の今井家に養子として引き取られた庄司、子供が五人にもなってしまった。妻の沙希には希世彦と沙里しか居ないことになっているし、仙台の珠実には奈緒美と庄平と庄司の三人だけで、自分の家族については何も話をしていなかった。その関係を全て知っているのは自分だけだ。そんなことを考えていると、自分が死んだ後、子供たちはどうするんだろう等と余計な心配までしていた。
 都筑は、珠実には約束はしていないが、庄司と同額の養育費を今月分から支払ってやろうと思った。奈緒美と庄司の分を合わせて今まで欠かさずに振込みを続けていた。その手続きは友達付き合いをしていて信用できる弁護士に基金として相当額を預けてあり、万一自分が急逝しても支払い続けてもらうように頼んでいた。勿論妻の沙希や祖母の美鈴には絶対に内緒だ。
「あいつに、また一人息子が出来たから頼むと言えばからかわれるだろうなぁ」
 と独り笑いをしてしまった。基金は年率1%の運用益を目論んで運用益で永遠に支払い続けられるようにしてあり、まだ余裕があるので、新しい息子の庄平の分を追加してくれと頼めばよいだけだった。

二百二十二 スキャンダル(Ⅰ)

「兄貴、俳優のKを知ってるだろ」
「オレたちの若けぇ頃、女を泣かせて有名だったあのいけすかねぇ野郎か」
「そうだ」
「Kがどうしたんだ?」
「茉莉がKにやられたらしい」
「おいおいっ、それってほんまの話しかよぉ」
「本当の話だ。それで兄貴に相談に乗ってもらいたくてよぉ」
「いつの話しだ?」
「最近の話しだ。多分明日のテレビ、新聞で大騒ぎになるかも知れんなぁ。あの野郎、茉莉に断りもなしに今夜リークしたって情報が入ったんだ」
「だったら、直ぐにガードしてやんねぇとヤバイぜ。直ぐオレのとこに茉莉を連れて来いよ」
 サトルはクラブの仕事が終わって、先ほどから栗山智の兄貴分の猪俣章吾に相談をしていた。もう夜中の二時を回っていた。
「ちょっと待て、沙希ちゃんに相談してみるよ」
 そう言って章吾は直ぐに沙希に電話をした。
「あら、こんな真夜中に珍しいわね」
「ちょい緊急なんだ」
「どうかなさったの」
「サトルのとこの茉莉ちゃん、どうやらスキャンダルに巻き込まれたらしいんだ。それで、沙希ちゃんとこの別荘をしばらく貸してもらえないかなぁ?」
「いいわよ。箱根? それとも軽井沢がいい?」
「近いから箱根がいいね」
「いつから?」
「一時間後にはこっちを出たいな」
「そりゃ、急だわね。管理人、起きてくれるかしら? 兎に角、直ぐに管理人に連絡を取ってみるから、二十分か三十分時間を下さいな」
「ありがとう。連絡を待ってるよ」
 会話はサトルも聞いていて、大体の内容は分ったらしい。
「マリアさんと茉莉ちゃんに仕度を頼んでおいてくれ。車はダチに頼んで速いのを四、五台用意するよ。オレたちの車じゃパワー不足だな」
 章吾が何を言っているのかサトルには分った。

「で、サトルはどうしてもらいたいんだ?」
「あの野郎に[自分の言ったことはすべてデタラメでした。世間をお騒がせして済みませんでした]と、こんな風にメディアの前で詫びを入れさせてぇんだ。でないと茉莉に傷が付くからさぁ」
「茉莉ちゃん、まだバージンだって言ってたよなぁ」
「ああ、今まで彼を作らなかったし、結婚するまでバージンでいたいなんて健気なことを言ってた」
「じゃ、そのバージンをあの中年男に捧げちゃったわけだな」
「そうだ。オレは父親として我慢ならねぇんだ」
「茉莉ちゃんはオレにとっても娘同然だからさ、オレも許せねぇな」

 サトルは直ぐに妻のマリアに連絡を入れた。
「茉莉、帰ってるか?」
「今帰って来たわ」
「大至急一ヶ月位沙希さんとこの別荘に泊まるつもりで出る仕度をしておいてくれ」
 マリアはこんな時は今まで必ず夫の言う通りにしてきたから、素直に仕度に取り掛かった。章吾は池袋のロマンス通りのグループの仲間にも手を貸せと連絡を入れた。
「ちょい走りのいい車四台に分乗してオレのとこに来てくれや。それから族(暴走族)の頭に頼んでよぉ、バイク二十台位でアシストを頼んでくれや。集合場所はおれんちの近くの公園前だ。午前三時半だ、よろしくな。それでよぉ、ワンボックス一台を今直ぐに先に出してよぉ、中央高速の釈迦堂PAでさ、待っていてくれないか?」
「兄貴、分りました」
 相当無理でも彼らは章吾の頼みを断らなかった。電話の相手をした男は今までも何回かそうして章吾のバックアップをしてきたから、何をしたいのかちゃんと呑み込んでいた。

 サトルが家に帰ると、家の周囲に既に五人か六人芸能レポーターらしき男女が(たむろ)していた。サトルが家に入ろうとすると、いきなり呼び止めてICレコーダーを目の前に突きつけてなにやら喚いた。ビデオカメラを担いだ奴も居た。サトルは無視して無言で家に入った。マリアと茉莉は既に仕度を整えて待っていた。
「これから車で章吾の所に行く」
 サトルはマリアと茉莉を連れて、玄関口から堂々と車に乗り込むと、悠然として車を出した。乗る時にレポーターが食い下がってめいめい喚いたが全て無視をした。車を出すと、後ろからぞろぞろと車が四台、バイクが一台後を追って来たが金魚のウンコみたいにそのまま追わせて章吾の家まで行った。章吾とは合流する時刻を打ち合わせてあり、ピッタリの時刻に到着するように道路を迂回して時間調整をしていた。多分後をつけている車の連中は不審な行動に見えたに違いない。

 章吾が家に戻った時には既に仲間の車が三台とバイクが数台来ていた。ダチに頼んだ車は既に玄関前に停まって待機していた。章吾は、
「急に頼んですまねぇ。目的と場所はここに書いてある」
 とA4の紙を夫々に渡した。章吾はサトルが来る前にリーダーに目的と要領を指示した。
 車四台は章吾の家の前から一緒に出る予定だ。章吾は公園前に既に集まっている仲間の所に行った。頭の男に会うと、
「バイクは首都高5号線の護国寺ランプの上がり口で待っていてくれ」
 と頼んだ。それで、バイク仲間は全員集まると先に出発した。

 茉莉が移動していると連絡を受けたレポーターは同業者に連絡を入れたたらしく、最初車四台、バイク一台だったのが、車が七台、バイクが三台に増えていた。
 茉莉を乗せた車が章吾の家に着くと、章吾は玄関前に停まっていた白いベンツにマリアと茉莉を乗せ変えた。レポーター達が群がってきたが、集まった仲間たちがしっかりとガードをしてくれたので、近づける者は居なかった。サトルが乗ってきた車がどうやら置き去りにされる様子を見てレポーターの一人が慌てた。そいつは、サトルの四駆の車の後ろを見て何やら探していた。そのレポーターの肩を後からポンと叩く奴がいてレポーターはギクリとして振り向くと、そこに茉莉の父親らしい男が立っていた。
「あんたのお探し物はこれだろ?」
 サトルは小さなケースみたいな物をレポーターに見せた。レポーターは飛びついて取ろうとしたが、サトルはひょいと交わしてそのケースを向かいの家の屋根に投げ上げた。尾行に使うGPSの端末だった。
「後で、あの家にお願いして回収してくれや」
 レポーターは諦めたようだ。

 マリアと茉莉が乗り込むと車四台はゆっくりと走り出した。四台の他に章吾の車には美登里と志穂も乗って後を追った。慌てたレポーターたちも急いで後を追った。普通は急加速して走り去ることが多いのだが、章吾はそうはせずに、とにかく普通の速度でゆっくりと護国寺のランプの方に向かった。途中信号で停められて、一台が遅れたが前の車がゆっくりと走り、遅れた車も合流した。護国寺ランプから首都高5号線に上がっても60kmの法定速度でゆっくりと走り、少し遅れてバイクの集団が続いていた。竹橋ジャンクションで折れて、皇居下のトンネルに入り首都高C1に入ると間もなく三宅坂(みやけざか)ジャンクションで首都高4号線に入った。五台の車とバイク集団は4号線から中央高速道路に向かって走っていた。

 中央高速に入ると、レポーターが乗ったバイク三台は後から来た暴走族に囲まれて、結局相模湖ICで高速を下ろされてしまった。なにしろ(たち)が悪そうな暴走族相手では三人のレポーターは手出しを出来ずやられてしまった。前を行く車は坦々と女優茉莉を乗せた車を追っていた。
 中央高速道路には山梨の甲府に出る少し手前に距離が長い笹子トンネルがある。笹子トンネルに入って直ぐに、レポーター達の車の前を走る五台の車の内三台が急に散らばって、二車線を三台が並列で走り出し、道路を塞いでしまった。三台はスピードを落として60km程度でゆっくりと走っている。女優茉莉を乗せた車ともう一台女を乗せた車は急にスピードを上げて見る見る姿が遠ざかって行った。トンネルの中の二車線を三台で塞がれては追い越しは不可能だ。後に続くレポーターたちは口々に、
「このやろう、嵌めやがって」
 と悔しがったがどうにもならない。

 スピードを上げて走り去る章吾の車と白いベンツは釈迦堂PAで待っていたワンボックスカーに女性四人を乗り換えさせて、章吾の車の運転を待っていてくれた男に交代させて、茉莉を降ろして空になった白いベンツと共にそのままPAを出て甲府方面に向かって走った。章吾が運転を代わったワンボックスは直ぐ先の一宮御坂ICで高速を降りると、一般道の国道137号線御坂みちを河口湖に上がって、箱根を目指してゆっくりと走っていた。もう尾行してくる車は一台もなかった。
 レポーターたちが追う前を走る三台の車は笹子トンネルを過ぎると急にスピードを上げて、甲府方面に走った。三台に追いつけるレポーターの車はたった一台しかなかった。やがて前方に白いベンツが確認された。何とか追いついたレポーターはたった一台しかなくて、有頂天になっていた。所が、前を走る五台の車は甲府昭和ICで降りると直ぐに登り方向の高速に上がって、そのまま池袋の護国寺まで戻ってしまった。護国寺で高速を降りて、それぞれがバラバラに走り去ったが、白いベンツには男二人しか乗っておらず、女優茉莉はどこかに消えていた。せっかく有頂天になって追いついたレポーターは彼らの巧妙な手口に騙されて愕然としていた。

 マリア、茉莉、美登里、志穂の四人が章吾と一緒に箱根の別荘に着くと、沙希が沙里と一緒に先に来て待っていてくれた。女達六人が久しぶりに集まれて皆楽しそうにしていた。
「オレ、仕事あるから電車で帰るよ。車は適当に使っていいよ」
 章吾はタクシーで小田原へ降りて、電車で池袋に帰って行った。茉莉はみんなに守られて心の安らぎを感じていた。昨夜、父のサトルが戻るまではどうなるのかと怖くて怖くてどうしたらいいのか分らなかったことを思うと、今はみんなに囲まれてとても幸せな気分になれた。

二百二十三 スキャンダル(Ⅱ)

 昨夜と言っても十二時を回っていたからその日だが、六本木のクラブ、ラ・フォセットのホステス(あや)は仕事が終わった後、用心棒の栗山を探していた。
「サトルさん、まだ帰られてないっす。チョイここでお待ち頂けますか」
 サトルの子分の勇輔が絢をその場で待たせた。五分ほどすると、駐車場の方からサトルが戻って来た。
「兄貴、絢さんが話があるそうです」
 サトルは絢が待っている事務所に入った。
 サトルは池袋の酒店の役員もしていて、クラブに来るのは週に三日か四日だったが、たまたまその日はクラブの仕事をしていた。
「女優の茉莉さんって、確かサトルさんの娘さんですよね」
「そうだけど、茉莉が何かしたのか」
「今日俳優のKさんが来てました」
「ああ、来たのはオレも知ってるよ。あいつ、しばらくぶりだよな」
「はい。ここのとこ人気が落ち目でお金の廻りが悪いらしいです」
「だろうな。それでKが何かしたのか」
 サトルはKが絢に手を出したのかと思った。
「Kさん、ママに言われてあたしが受け持ったんですが、なんだか胡散臭い芸能レポーターとご一緒で、秋に公開する予定の映画[冬月(とうげつ)]で女優茉莉さんの相手役として共演するそうで自慢されてました」
 冬月は冬の季節と言う意味だが、冬の夜の月と言う意味もあるのだ。
「冬月の話はオレも娘から聞いてるけど、業界ではまだ秘密扱いだって言ってたな」
「それはKさんも言ってました。なので、一緒だったレポーターにはまだ極秘だからこのネタは高いぞなんて言ってました」
「アハハ、ヤロウ、それで小銭を稼ごうって腹だな」
「実は……」
「実は?」
「ええ、その後の話を聞かされて、あたしもビックリしまして」

 映画冬月は女優アオハ主演で大ヒットした[晩夏]にあやかって、今度は女優茉莉主演で雪国で繰り広げられる濃密な愛欲の物語を企画、制作する芸能プロダクション肝煎りの作品で、制作費七十五億円はこの手の映画では突出している大掛かりな企画だった。
 女優茉莉の相手役俳優の候補として清純派、熱血派、熟成派の三人の名前が挙がったが、検討を重ねて、熟成派のKに白羽の矢が当たったのだ。Kは四十代後半だが、若い頃はラブストーリーで名を馳せ、度々のスキャンダル騒ぎで人気が落ちた今でも三十代~四十代の女性に根強い人気がある。今は美人女優Mが奥さんで、一頃の悪い噂を払拭するために夫婦でテレビに出演するなど、貞節な亭主を演出するのに躍起になっていた。
 所が、Kは映画冬月の撮影で度重なる女優茉莉との愛欲のシーンを演じている間に、悪しき企みが脳裏に閃いた。KはMと離婚する気はさらさらなかったが、映画の上映が発表される直前に相手役の若くて美しい茉莉に恋をしてしまって、今の妻と別れて彼女と新しい生活をスタートさせたいと発表して一気にメディアの露出度を上げて昔の人気を取り戻したいと計画した。それで、撮影中持ち前の手練手管でうまく茉莉を東北の温泉旅館に連れ込み、仕事の話ではないと知って嫌がる茉莉を強姦してしまったのだ。
 だが、Kは六本木のクラブで、こともあろうか、酔っ払って同席していた芸能レポーターに女優茉莉と結ばれてしまって、今は彼女との恋に夢中だと漏らしてしまったのだ。それを聞いたレポーターは一大スクープだと舞い上がり、同席したホステスの絢も驚いた。

 絢はその時の様子を細かくサトルに報告した。話を聞いてサトルは相当に怒った様子だった。
 翌日、サトルと章吾はクラブ、ラ・フォセットの社長柳川哲平にことの次第を報告、助けてもらいたと願い出た。もちろん柳川はOKした。
「栗山はあいつにメディアの前で、[酔っ払って頭の中の妄想を漏らしただけで、話は全てデタラメで、事実は一切なかった。相手役の女優さんの名誉を汚してしまったことを深くお詫びし、今は悪かったと反省している]てな具合に世間様に向かって詫びさせればいいんだな?」
「はい。それだけでいいです」
「慰謝料とか金の話はナシでいいんだな」
「はい」
「分った。直ぐに行動に移そう」
「オレらも何かしなくていいんですか?」
「バカ、お前らは昨夜から今日にかけて、芸能界の奴等に顔が割れてるだろ? お前等は表に出ねぇ方がいいだろう。章吾は組織を使ってKの脱税の裏を取れ。Kは浅沼の爺さんに頼んで脅しのネタを作ってやるさ。芸能プロダクションにはオレのダチを差し向けて脅しをかけてやる」
「分りました。世話になります」
「スキャンダルを潰すのは結構難儀な仕事だ。俳優なんて(やから)は女とくっ付いたり離れたりするのは普通にあることだからさ、名誉毀損で訴えても(らち)があかねぇんだ。それより刑事事件に巻き込むのよ。そうすりゃ当分大人しくしてるだろ。強姦で引っ張ることもできるがな、そうするとあんたの娘さんにも傷が付く。だからよぉ、強姦罪はナシだな」
 柳川は脱税だけでは弱いと考えてもう一手、荒業を考えていた。

「Kさん、お久しぶりです」
「可愛いあんたが電話をしてくるのは珍しいね」
「聞いた話ですと、今大きなお仕事に取り組まれていらっしゃるそうね」
「そんな話、どこから聞いた?」
 Kは昨夜の話がもう昔付き合っていた沙耶花(さやか)にバレたのかと一瞬構えた。
「話はお友達の登紀子さんからよ。彼女は今でも業界通よ」
 Kはほっとした。
「で、電話をして来る所を見ると、なんか僕に用があるんだろ?」
「急に会いたくなったのよ」
「それで?」
「あたしね、新宿に隠れ家みたいな所を知ってるの。是非ご案内させて。お酒を飲みながら昔話なんてしたくない?」
 Kはむらむらと昔美しかった沙耶花の肢体を思い出してOKを出した。
「お車をお迎えに出すわ。あたしと一緒の所を誰かに見られたら有名なKさんにご迷惑ですものね」
 Kはそんな沙耶花の気配りが昔と変わってないなぁと思った。
 迎えの車はKのマンションの玄関口に横付けされた。妻のMには仕事だと言ってあったし、運転手付きの黒塗りの車だったから何の疑いもしなかった。新しい大仕事に取り掛かってから、最近俄かに付き合いが多くなっていたのも手伝った。
 Kの車は新宿の淺沼組の別邸の門を潜った。玄関から女優の沙耶花が笑顔で出迎えてくれて、Kは奥の間に通された。既にご馳走の仕度が整っていて、襖の隙間から隣室に延べられた布団がちらっと見えた。Kは食事の後を考えると急にワクワクしてきた。

二百二十四 スキャンダル(Ⅲ)

 なかなかの美人の女将が座敷に入ってきて丁寧に挨拶をしてから、
「何になさいますか」
 と尋ねた。勿論アルコールのことだ。
「ビール、ワイン、日本酒、そこそこの在庫がございます」
「へぇーっ、ワインも置いてるの?」
 Kは昔から酒好きだ。
「あなた、今でも日本酒が一番ですの?」
 沙耶花が聞いた。
「そうだなぁ、やはり日本酒にしよう」
「お冷? それとも熱燗になさいます?」
 と女将が聞いた。
「ぬるめにしてくれ」
 Kは猫舌だったのを沙耶花は思い出した。料理は京懐石、一口食べて、
「なかな味がいいな」
 とKは呟いた。
 酒が少し回った所で、沙耶花は昔Kが絶好調だった時代の話を持ち出した。
「あの頃は、僕は何でもできると思ってたな」
 Kは昔を懐かしむようにして上機嫌だった。沙耶花はその頃Kと関係を持つようになって、いつも人目を忍んで逢瀬を重ねていた。沙耶花もその頃の上手なKの愛撫を思い出して、心ならずも身体の奥底が熱くなっていた。
 食事が終わって、茶が出された。
「今日は楽しかったわ。いらして下さってありがとう」
 沙耶花が立ち上がる様子を見せると、Kは落ち着かなくなった。
「沙耶花、久しぶりに抱きたいな」
 沙耶花は困った顔で、
「あなた、今美人で可愛らしいMさんがいらっしゃるでしょ」
 とじらした。男はじらされると余計に征服したくなるものだ。沙耶花はそこを狙っていた。狙い通りだった。Kも立ち上がると沙耶花の肩を抱いて、
「いいだろ? 頼む」
 と言いながら奥の間に連れ込んだ。先ほどちらっと見た通り、布団が延べてあった。Kは沙耶花を抱きしめるとキスをして、そのまま布団に倒れこもうとした。
「乱暴はよしてぇ」
 Kは早速沙耶花のブラウスに手をかけて、ボタンを外しにかかった。
「どら、エステとフィットネスでキープしている綺麗な身体を見せてくれ」
「分りました。でも、あなたも裸になってちょうだい。その後であたしも脱いでたっぷりとお見せするわよ」
 それで、沙耶花はKのシャツを脱がせ、パンツのファスナーを下ろした。Kのその部分はもうパンパンに張り詰めて臨戦態勢になっていた。それを見て、
「あら、恥ずかしい。あなた、まだまだお若いわねぇ」
 と沙耶花は指先でKのその部分にそっと触れた。
「嗚呼、早くやらせてくれよ。僕、もう限界だよ」
 Kはすっかりその気になっていた。

「ちょっとおトイレ」
 沙耶花はKの耳元で囁くと、そっと襖を開けて出て行った。真っ裸で突っ立っていると男は手持ち無沙汰でたまらない心境になる。
 おまけに、息子は勢い良く突っ張っているのだ。そんなバカ男の姿が鏡に映っていて、Kは落ち着きを無くした。
 襖がす~っと開いて、大男が五人部屋に入ってきた。
「なんだ、お前らっ!」
 Kが大声を立てると、
「Kさんよぉ、ちょい大人しく言うことを聞いてくれや」
 そう言うと素っ裸のKをビデオカメラで撮影始めた。
「おいっ、何をするんだ。沙耶花、沙耶花はどこに行った」
「ああ、先ほどまで居た女ねぇ、もう帰ったよ」
 Kは唖然とした。カメラはいきり立つKの顔から下の陰部までばっちりと撮って、陰部をズームアップして撮っていた。
「あんた、女とやりてぇんだろ? 女が居なくなったら、自分でやるっかねぇよな。やれよ」
 リーダー格の男が命じた。
「オレは女に不自由してないんだ。そんなことはしないよ」
「大人しくやれよ。オレを怒らせるなよ」
 男は飛び出しナイフを取り出して、カチッと刃を出した。
「言う通りにしねぇと、あんたの顔、血まみれになるぜ。映画にゃ、当分出れねぇけど、いいのかよぉ」
 Kは男が冗談ではないことは分っていた。観念して、陰部を自分の手でしごき始めた。
「そうよ、もっと真剣にやれよ。汁がよぉ、飛び出すまで見せてもらうよ」
 Kの前でビデオカメラが回っていた。
 撮影が終わると、Kは半身裸のトランクス姿で門の外に蹴り出された。
「チクショォッ!」
 Kは急いで服を着ると新宿駅の方に駆け出した。
 Kの人生でこんな屈辱的なやられ方をされたのは初めてだった。兎に角悔しくて悔しくて仕方がなかったが、なぜ突然嵌められたのか思い当たることは全くなかった。考えてみると、この何年かは大人しくしていたから、人の恨みを買うことなど何もなかったのだ。
「おかしいな。なんで僕なんだ? もしかして沙耶花のジェラシーかなぁ。いや、あれほどまでやるとは考えられんなぁ」

「社長に話しがある」
 映画冬月の製作プロダクションの受け付けに胡散臭い男が現れた。
「アポはお取りでしょうか」
「アポ? いつから社長はそんなに偉くなったんだ? オレさまに会うのに社長のアポなんか要らねぇよ」
 男は受け付けの女性を振り切って中に入った。
「困ります」
 受付嬢の制止を振り切って、男は社長室に入った。
「アポもなしでよく入れたなぁ。お前さんは誰だ?」
「噂のケンとはオレさまのことよ」
「よく知らんがケンさんよぉ、何か用かね」
「ああ、聞いて見てあんたが腰を抜かす情報を持ってきてやった」
「情報?」
「ああ、ことと次第、あんたの出方によっちゃ、あんたが命をかけてる冬月の製作費七十五億が灰になるよ」
「何の話か分らんねぇ」
「俳優Kが終わりになるって話よ。あんたとこの目玉商品だよ」
「あれがどうかしたのか?」
 プロダクションの社長はしらをきった。朝方からメディアの人間が押しかけてきて、今夜Kを連れて記者会見をする約束でどうにかお引取りしてもらったばかりだった。それで、この男も朝方の記者と同じネタで押しかけて来たと思っていた。既に昼の芸能ニュースでも流されて、芸能界ではちょっとした話題になっていた。ニュースでははっきりとは報道されてはいなかったが、[俳優Kが離婚?]と[?]マーク付きの見出しで流れた。社長は早速Kと連絡を取ろうとすると、今朝車が迎えに来てどこかへ出かけて所在が分らないと言う返事だった。

 ケンと言う男は懐から一枚の紙を取り出して、テーブルの上を滑らせて寄越した。
「これは何だ?」
「表を見てわかんないかよぉ?」
「何のリストだ?」
「Kの脱税リストよ。トータルで五億二千万」
「それがどうした。そんなもんどこへでも持って行ってくれ」
「Kが強制捜査されてよぉ、脱税容疑で逮捕されても構わんのだな」
「ああ、勝手にやってくれ」
 社長は内心穏やかではなかったが突っ撥ねた。この手の胡散臭い野郎にはちょっとでも弱みを見せたら負けだ。
「分った。言う通りにするぜ。ついでにこいつもネットで大々的に流してやるよ。あんたが喜ぶようにおまけ付きだ」
 そう言って写真を三枚テーブルの上を滑らせた。俳優Kと誰が見ても分る素っ裸の写真で、男の局所、ヘヤーもはっきりと映っていた。最後に見た一枚の写真はKが自分の手で自分の竿(さお)(陰茎のこと)を握って喘いでいるような顔をしかめた写真だ。これには社長も動揺した。
「おいっ、ちょっと待てよ。おまけがでか過ぎやしねぇか?」
「動画も流すからよぉ、もっとでかいぜ」
 社長は顔面が蒼白になり、遂にケンに屈した。
「条件を言ってくれ」
「最初からそういやいいのにさぁ」
 ケンはニタニタしてもう一枚紙を滑らせて寄越した。
「これは何だ?」
「今夜記者会見するよなぁ」
「その予定だ」
「その席でよぉ、Kにここに書いてある通りしゃべらせてもらいてぇのよ。言っとくが一語一句この通りだぜ。もしも書いてある通りでなかったらよぉ、それに質問で違うことをいいやがったら、今夜夜半にはネットで大々的に流れるからな、その積りで居てくれよ。ああ、忘れてた。オレさまのお車代は十万ポッキリでいいぜ。現金だ」
「他に慰謝料とか損害賠償金はいいのか」
「オレさまの親分はもらわんでもええと言ってたな」
「その親分さまにわたしの方から直接話をさせてもらえるのか」
「あんたがこの条件を完全に呑むなら構わんよ」
「分った」
 そう言うと社長は電話機を押し出して電話をするように勧めた。ケンは電話をした。相手は浅沼組の組長だった。

「社長さんかいな。ウチの者がなんぞ失礼をしましたかな」
「お名前は存じませんが社長様でおられますか」
「いや、淺沼組組長の浅沼だ」
 それでプロダクションの社長はヤバイ筋からだと分った。
「ケンさまの出された条件ですが、私共はその通りに致します。どうかお手柔らかにお願いします」
「俳優のKさんとやらに、紙の通りしゃべらせるんだな?」
「はい。一語一句間違いのないようにきっちりと話をさせます」
「あい分った。それでよろしゅうに。あんたはんがきっちり約束守ってくれたらなぁ。わしらも仁義があるさかい、今後あんたはんの方には一切迷惑はかけんで、安心してくれや」
「組長様、おっしゃる通りに致します。必ず致します。それでは失礼致します。明日にでも少々ですが、お礼をお持ち致します」
 社長はハンカチを取り出して額の汗を拭った。それで財布から十万円を抜き取って茶封筒に入れるとうやうやしくケンに差し出して、
「ご苦労様でした」
 と深々と頭を下げた。

 昼のニュースを見て飛び上がってびっくりしたのは茉莉の映像を使っている広告会社数社の関係者だった。それで午後一番にスポンサーの担当者を呼んで、CMから茉莉の映像を取り外すかどうかで侃々諤々(かんかんがくがく)議論を戦わせていた。事実なら早急に他のタレントと差し替えねばならず、茉莉ほどの人気者の人選にも難儀した。結局、
「兎に角、夕方の記者会見を見てから決めよう」
 と言う結論となった。広告業界全体で茉莉が所属しているプロダクションに支払っている金は年間五十億円を越えていたのだ。

二百二十五 スキャンダル(Ⅳ)

 俳優Kが行った記者会見の内容は、多くの関係者の予測に反するもので、業界の関係者を驚かせた。
 Kは、
「多量に酒を飲み、酔った勢いで頭の中の妄想を口走っただけで、事実無根、相手の女優アンジェリーナさんと関係者には多大なご迷惑をかけたことを深くお詫びしたい。今後このように皆様を混乱させることがなきよう深く反省している」
 と言う内容で、記者の質問にも繰り返し事実を完全否定してしまった。
 過去に五人も六人も若い女性に手を出してスキャンダル騒ぎを起こしてきたKのことだから、業界の関係者はまたしても、
「新しい恋人ができた。今の妻Mとは離婚したい」
 などと言う不倫騒ぎを期待していたのだ。
 昔から火のない所には煙は立たぬと言う諺がある。記者たちは、Kに何かあったと勘ぐったが、結局全くのデタラメでしたとしか回答を得られなかった。
 夕方七時からの記者会見を注視していた女優アンジェリーナの映像を使っている広告代理店の関係者は皆胸を撫で下ろした。
「いやはや、デタラメで良かった」
 異口同音だ。

「浅沼さんよ、あんたの仕事は確かだねぇ。スキャンダルは処理が難しいんだが良くやってくれた。改めて礼を言うよ」
 六本木のクラブ、ラ・フォセットの社長柳川哲平は浅沼組組長に礼を言った。章吾とサトルも同席して哲平と一緒にテレビを見ていたが、章吾は思わず、
「やったぁ」
 と拍手までしてしまった。サトルは社長に何度も頭を下げていた。
 同じように、箱根の別荘で女六人がテレビに釘付けになっていた。
「茉莉ちゃん、良かったじゃない」
 母のマリアが落ち込んでいた娘の茉莉を励ますように言った。所が茉莉は複雑な顔をして、嬉しそうではなかった。
「本当のことを言うとね、あたしKさんを好きになってたかも知れない」
 これには母親のマリアばかりでなく、沙希、美登里、志穂、沙里も驚いた。
「あたしね、Kさんに妻と必ず離婚してあなたを幸せにして見せるからって言われたの。あたしはKさんの言葉を信じようとしていたの」
 それを聞いた沙希がキッパリと言い放った。
「茉莉ちゃん、まだ子供だわね。Kの甘い言葉に騙されたら決して幸せにはなりませんよ」
 沙希が現役のホステスだった頃、当時羽振りの良かったKは度々クラブ、ラ・フォセットに遊びに来ていたので良く知っていた。その時の記憶では、Kはウソつきで、いい加減な奴で女に責任を取らない最低の男だ。映画や舞台の上ではいつも仮面を被っている。だから、多くの女性が甘いマスクと演技に騙されてしまうのだ。
 沙希はKの過去の女性とのスキャンダルについて、知っていることを茉莉に話してやった。美登里も良く知っていて補足をした。
 沙希と美登里の話を聞いている間に、茉莉はしくしく泣き出した。そして、
「あたし、今までそんなこと何も知らなかったの」
 と弁解をした。
 そんな茉莉の肩を優しく労わるように母親のマリアが抱いた。茉莉は母親の胸に顔を埋めて長い間泣いていた。
 翌朝茉莉は昨夜と打って変って明るい笑顔で起きて来た。どうやら茉莉は心の整理をしたようだった。
「茉莉ちゃん、少し利口になったようね」
 と美登里がマリアと沙希に言った。
「志穂ちゃんも沙里ちゃんもまだまだだわね」
 と母親達三人は顔を合わせて笑った。

二百二十六 スキャンダル(Ⅴ)

 俳優Kの問題はひとまず決着が付いたと世間では思われていた。だが、沙希は今までの経験から、まだ全然決着を付けていないと思っていた。茉莉が所属しているプロダクションからは、
「いつまでも隠れているわけにも行かないので、そろそろ皆さんの前に顔を出されてはどうですか」
 と茉莉の携帯に連絡が届いていた。茉莉が顔を出せば、当然のこと、今回の騒ぎについて芸能レポーターたちはコメントを求めるだろう。そんな時にどう答えるか茉莉の中できっちり整理をしておく必要もあった。
 二日ほど経って、プロダクションの担当者が人目を避けてこっそりと別荘にやってきた。
「どなたかに尾行されませんでしたか」
 沙希が訪れた担当者に聞いた。
「はい。こう見えても僕は今までに何度も修羅場を潜り抜けて来ましたから大丈夫です」
 茉莉の担当者は思ったより歳が若くなかなかの好青年であった。
「まだお若いのに、そんな苦労をされましたの?」
 一番心配をしているマリアが尋ねた。
「はい。女優さんのマネージャーの仕事の半分はトラブルから女優さんを守ることだと思ってます。特にメディアの毒牙から守ることです。すごく難しい仕事で、茉莉さんの前の女優さんの時は一度しくじってボコボコにされたこともあります」
 青年は思い出すように頭をかいて照れ笑いをした。
 青年は居間に通されて女達に囲まれ居心地が悪そうに見えた。
「丁度良い機会ですから」
 そう言って沙希が話し始めた。
「今回のことでは俳優のKさんはご自分では納得されてないと思うのよ」
「どうしてそう思われるのですか」
「あたしはKさんがお若くて勢いがあった頃何度もお目にかかってよく存じ上げています。あの方は今回茉莉さんを利用してご自分の人気を取り戻すつもりだったんじゃないかしら」
「僕もそんな気がしていましたから、あの記者会見を見てびっくりしました」
「Kさんがあんな内容で記者会見をしなければならなくなった経緯、何か不自然に思われませんか」
「確かに不自然でした」
「ですから、彼ご自身、まだ納得されていないと思うのよ」
「そう言われればその通りです」
「あなたがKさんだったら、茉莉さんのことをどんな風に思いますか」
「自分があんな屈辱的な記者会見をさせられたのに、肝心の相手の茉莉さんから何も連絡がなかったら腹が立ちますね」
「そう、そこよ。そこが大切な所よ。今、あなた会見をさせられたとおっしゃいましたね?」
「推測ですが、何か外部から圧力があって、Kさんが所属しているプロからあんな風に言わされたのではないかと思って」
「さすが茉莉さんのマネージャーさんね。裏側は良くは知りませんが、多分あなたのおっしゃる通りよ」
「じゃ、今頃Kさんはむしゃくしゃしてるんだろうなぁ」
「そう。悔しい思いをしていると思うわよ」

「人と人との関わりでは、ちょっとしたことで恨んだり恨まれたりするわよね」
「はい。よくあることです。特に芸能界では競争が激しいですから、人の足を引っ張るとか蹴落とすとか、そんなことで陰謀を張り巡らせるとか罠を仕掛けるとか、すごく多いです」
「わたしはね、人様に恨まれないようにすること、とても大切だと思ってますのよ。特に女どうしの場合は恨みが元で嫌がらせや虐めを受けることって多いわね。ですから、人様から恨まれたり妬まれたりしないように普段からきちっと対処すべきだと思ってますのよ。それが自分の幸せに跳ね返って来ますものね」
「そうです。男の場合も同じだと思います。政治家や大学の先生の間だって、やられたらやりかえすなんてこと普通にありますよね」
「あなた、まだお若いのに、見かけによらずしっかりなさってるのね」
 沙希が褒めると、
「そりゃ、人気女優茉莉さんのマネージャーですから」
 と青年は答えた。
「それで、あなたはKさんに対してどう対応なさるお積り?」
「僕は茉莉さんとKさんが円満にお仕事を続けられる環境を立て直すことが第一だと思っています。まだ映画冬月の撮影は続いていますから、少なくとも制作の打ち上げまでは仲良く仕事ができるようにしこりをほぐしておくことが大事だと思っています」
「そうよね。でも、Kさん、簡単には折れませんよ」
「それで頭を抱えているんです」
「Kさんはどうしたら折れてくれると思います?」
 先ほどから話を聞いていた茉莉が口を挟んだ。
「あたし、Kさんに会ってお詫びすれば何とかなると思うんだけど」
 茉莉の意見に沙希が釘を刺した。
「ダメよ。茉莉ちゃん、まだ分ってないわね。あなたが悪いわけでもないのに、どうしてお詫びをするの?」
「つらい思いをさせてしまったから」
「それならお詫びではなくて、励ましてさしあげればいいのよ。個人的にそんなことをしても何も意味がありませんよ。公の場所、例えば記者会見の席上とかではっきりと言わなくちゃダメですよ。個人的に会ったりしたらまたあなたは騙されてしまいますよ」
「Kさんがどうしてこんなことを起こしたのか分りますか」
 沙希は青年に聞いた。
「人気を取り戻したいのと違いますか」
「人気を取り戻して、周囲の方にちやほやされるようになれば、それでいいの?」
「人気が戻れば仕事ももらえますから」
「大事な所はそこよ。でも、悪いけど、今回のことであの方は終わりだわね。おおウソ付きだと世間に向かって白状したようなものですから、大きな所はもう相手にしないわよ」
「ですよね」
「聞いた話しでは、今は多額の借金をかかえて、奥さんの収入でどうにか食べさせてもらっているようね」
「するとお金が一番効き目があるんですか」
「その通りよ。でも、一千万とか二千万ではもらっても嬉しくはないわね。追い込まれている借金の一部を返せば何も残りません」
「ではどうすれば?」
「今回に限って、今ある彼の借金の肩代わりをして差し上げる和解条件、これしかないわね」
「僕、どれくらい借金しているのか知りません」
「あら、そんなことも調べずにKと茉莉を共演させるお仕事に乗られたの?」
「うかつでした」
「まだまだ修行が足りないわね」
 青年は沙希の突っ込みにかなり参っていた。

 沙希は一枚のA4用紙のコピーを青年の前に出した。数字ばかり並んだ表がプリントされていた。
「これは?」
「三日前までのKの借金のリストよ」
「これってどこから手に入れられたんですか」
「そんなことより、これをあなたの所の社長さんにお見せ頂いて、あなたの会社でどこまで負担できるか聞いてみて下さいな。この数字は間違えのないものよ」
 そのプリントを胸ポケットにしまうと、青年は帰って行った。
 青年マネージャーは社に戻って、社長にリストを報告した。
「あのバカ、こんなに借金を抱えていたのか。それでうちの茉莉を利用したんだな。悪い奴めが」
 プロダクションの社長はKが所属するプロダクションの社長に電話を入れた。
「ちょっと確かめてもらいたいことがあるんだが、こっちに来てもらえませんか」
「Kのことですな?」
「察しがいいね。その通りですよ」
 その夜、二社の社長が相談した。もちろん青年マネージャーも同席した。
「FAXで送った数字、K本人に聞いた上裏を取ってもらえましたか」
「やっこさん、こんなに借金を抱えてるなんてわしも知らなんだ」
「そうだろう。オレも驚いたよ」
「で、どうだった?」
「貸している方の裏をほぼ全部押さえた。間違いはないようだ」
「うちの茉莉と和解する条件で、こいつをうちで全部肩代わりしてやろうと思うんだが?」
「金額が大きすぎやしませんか」
「あんたとこのKがうちの茉莉に手を出したんだから、本来ならうちであんたとこに肩代わりを頼みたいとこだがね、それじゃ和解にはならんだろ?」
「そりゃそうだ」
「こんな大金、あんたとこで全部処理出来るのかい?」
「大変だがね、茉莉さんはうちのドル箱だから仕方がないだろ」
「すまん、恩に着るぜ」
「それでだが、茉莉を記者会見させるつもりだが、その席でこの件を世間にオープンにするがいいか?」
「おいおいっ、この金額をそのまま公表されちゃKも立場がねぇだろう。全部肩代わりしてやる位で勘弁してやれよ」
 それで茉莉の記者会見の予定が決まった。

 青年マネージャーが別荘を訪ねて来た日から数えて一週間後、茉莉の記者会見が行われた。人気女優の茉莉なので、二百名もの記者が集まりKの場合とは対照的だった。その席で茉莉は、
「自分はKさんに演技など色々と教えて頂き勉強になっていますが、これからもお仕事を通じてご指導をお願いしたい。個人的な関係の噂が出て困っておりましたが、Kさんの方でキッパリと否定して頂き感謝しています。これからも個人的なお付き合いは致しませんがお仕事の方では変らずご指導下さることを期待しております」
 と言う内容だった。プロダクションの方から、
「Kさんにはこれからも大きな仕事に邁進して頂きたく、この際応援する気持ちでKさんが今抱えられておられる金銭的な負債を全て当プロで肩代わりさせて頂くことに致しました」
 と補足した。当然負債金額について質問が出たが、個人情報だからと回答は拒否された。
 記者会見の前々日、茉莉が所属している芸能プロの社長に沙希が会い、芸能プロが一億円を負担し、残額は全て沙希が持つことで合意されていた。勿論Kに借用書を書かせた。
 沙希はこれで、Kの恨みは概ね解消されたのではないかと思った。Kの負債状況については、柳川社長と沙希側の弁護士とで密かに調べ上げたものだが、それについては一切どこにも漏らさなかった。

二百二十七 撤退

 茉莉の記者会見が終わって、別荘に集まった者は撤退することにした。章吾は毎日美登里に様子を聞くために電話を入れて来るので、別荘を引き払う時期が来たことを知っていた。
「おい、修、明日学校をサボれよ。サボっても大丈夫だろ?」
 章吾が米村修(旧姓山本)に言った。
「はい。大丈夫です」
「明日な、修の母ちゃんたちを迎えに行くから一緒に来いよ」
「昼頃、オレの家に来い。場所は分ってるな」
「はい。分ってます」
 別荘に茉莉と一緒に隠れている間、沙里も志穂も大学をサボっていた。やっと明日から登校できそうだ。修は女房の沙里がいない間、ずっと夜はマンションで独りで居た。沙里が居ないと、家に帰ってもすることがない。大学の方は卒論をまとめてしまうと、学校に出てもあまりすることがなかった。クラスメイトは就職難でまだ行く先が決まらず、毎日足を棒にして就活をしている者も居たが、修は義母の沙希から、
「あなたは就活をなさらなくてもいいですから、今の仕事をしっかりとやりなさい」
 と命じられていたので、章吾の手伝いはきっちりとこなしていた。沙里との結婚生活が少し慣れた所で突然沙里が居なくなったので、しばらくぶりに独身気分で優雅な気持ちになれた。いつもは義母の怖い目が光っているし、女房に頭が上がらなかったから、家に居る時はなんか頭を押さえつけられているような気分の時もあったのだ。掃除、洗濯なんて産まれてからしたことがない。結婚してからは沙里がやってくれるので、沙里が居ない間に汚れ物は溜まるし、部屋の中は散らかるはで(やもめ)暮らしに逆戻りしてしまった。

 翌日、丁度十二時頃、修は章吾の家に行った。
「おい、インスタントラーメン食えよ」
 それで章吾と二人でインスタントラーメンをすすった。インスタントを食うのはしばらくぶりだ。しばらく食べていないと案外美味いものだなぁと思った。
「じゃ、出かけるぜ。免許証、持ってきたか?」
「あ、持ってます」
 ラーメンを食い終わると、章吾の車で出かけた。平日で高速は思ったより空いていた。
「箱根の別荘ですよね」
「そうだ。お前が元に螺子を捲かれたんだってな」
「元兄貴にやられました」
「おまえ、あの頃と変ったなぁ」
「いえ」
「変ったよ。ちょい芯が強くなったな」
「章吾さんに鍛えられましたから」
「人間はよぉ、生まれ育った性格は完全に変るってこたぁねぇのよ。けどよぉ、人の道って言うもんが分ってくれればいいのよ」
「最初元兄貴と会った時に言われたこと、今でも覚えてます。僕、間違ってました」
「おお、そうよ。それが分っただけでも相当の進歩だな」
「いいか、おまえ、これからも沙里ちゃんを大事にしねぇで他の女に色目を遣ったら、今度はオレが螺子を捲いてやるからな」
「もう、昔みたいなことはやらないっす」
「世の中よぉ、大学を出て学があるくせに、人間として見りゃ最低の奴、結構居るんだよなぁ」
「はい。最近そんなことが分かってきました。クラブに遊びに来る人たちを見ていて勉強になってます。世の中で名前が通ってる偉い先生でも女に対して最低な奴、最近分かるようになりました。反対に尊敬できる人もおられることも分りました。クラブみたいなとこだと、性格が出ますね」
「そうだ。金持ちでも心が貧乏な奴、金はそれほど持ってなくても心は金持ちの奴、一番偉いのは大金持ちで心も大金持ちの奴だな。そう言う偉い先生は聞いてみないと金持ちだってことが分らないよなぁ」
「今は章吾さんの言ってる意味が良く分ります」
「おまえも、そこんとこをしっかりと身に付けとくことだな」
「はい」
「兄貴は金持ちじゃ……ないっすよね」
「あはは、オレか? そうだなぁ、貧乏でもないよ」
 そう言って章吾は笑った。
「僕、章吾さんのことで分らないことがあります」
「オレはいつもそのまんまだがなぁ」
「章吾さん、普通のサラリーマンみたいな仕事をされてますけど、時々億単位の金を動かすって元兄貴が言ってました。本当ですか」
「ああ、本当だ。今自分で自由になる金は、そうだなぁ百億に少し手が届かない位あるよ」
「それって冗談じゃないですよね」
「オレが冗談を言うかよぉ」
 普段全く贅沢をしていない章吾が本当にそんな大金を動かせるなんてとても信じられなかった。沙里の家もそうだ。貧乏たらしい家に住んでいるのに、箱根の別荘は大金持ちが持っているようなものだし、必要なら懐の心配をしないで気前良く金を出すなど常識を外れている所が多い。

 そんなことを考えているうちに、別荘に着いた。
「沙里ちゃん、今夜は修とここに泊まって行けよ。明日小父さんの次郎と言うダチに借りているワンボックスを修に返してきてもらうから、それに二人で乗って東京に帰ってこいよ」
「小父さま、構わないんですか?」
「修は明日は夜クラブに出てもらえばいいよ。今夜は休みだ」
 それで、章吾は沙里と修を別荘に残して、女達五人を乗せて東京に帰って行った。

「お腹の赤ちゃん、元気か?」
「はい。元気よ」
「この別荘、二度目だけど、僕等の想い出の場所だな」
「修さんと結ばれたとこだから」
 と沙里はちょっと恥ずかしそうに答えた。
 修は別荘の管理人に改めて沙里と結婚しましたと挨拶をした。管理人夫妻はそんな修に丁寧に挨拶を返した。
「沙里ちゃんの彼、最初にここに来た時と随分変ったわね」
「ああ、落ち着きのあるいい男になったな」
 修が引き揚げた後で、管理人夫妻はそんな会話を交わした。

 夜は初めて沙里と修が寝た部屋で寝ることにした。
「お腹に赤ちゃんが居ちゃHは無理だよな?」
「あら、気を付けてすれば、あたしは大丈夫よ」
 修は何故かその夜は沙里が欲しくなっていた。
「僕が沙里の上にってのは上手くないから、沙里が横になってさせてくれよ」
 沙里お腹に子供が出来てからは修とHをしてなかった。それで、しばらくぶりに沙里も修にしてもらいたくなっていた。
 修はベッドの上に沙里を横向きに横たえると、
「沙里、行くよ」
 と囁いて沙里を背中から抱くように沙里の背後に横たわった。沙里は修にされるがままに大人しく横たわっていた。修は沙里の背後から静かに自分のものを沙里の中に挿入した。そうされてみると、沙里はとても気持ちが良かった。修は沙里に無理な動きをさせないように気遣いながら、沙里の乳首を刺激し、乳房を愛撫し始めた。自分のその部分に背後から修を受け入れ刺激されつつ修の手が大きくなってきたお腹をさすってくれた時、沙里は次第に気持ちが昂ぶって背中に修の愛を感じながら登りつめた。

「小母さま、長い間お世話になりました。茉莉ちゃん、もう大丈夫みたいです。また遊びに来ます」
 沙里は管理人の夫人にそう挨拶をして別荘を出た。
 横浜インターを過ぎた辺りから東名高速は渋滞し始めた。午前中に家に着く予定が午後一時頃になった。修は沙里を降ろすと、一人で池袋の次郎さんと言う人に車を返しに行った。
「僕、車を返したらそのまま六本木に行くから」
 そう行って出かけたので、修が帰って来るのはいつもの通り夜中になると沙里は思った。

二百二十八 アオハの恋 Ⅰ

 青森市の対岸は下北半島が抱き込む陸奥湾の入り口で、脇野沢と言う。脇野沢は少し東の川内と共に江戸時代湊として栄えた所だ。
 佐々木三郎は脇野沢の湊から西に行った平舘海峡に面している下ノ崎で林業の傍ら細々と農業を営んでいる佐々木家の三男として生まれた。佐々木家は元禄時代越前三国湊から移り住んだ商人が興した船問屋小針屋の末裔富岡九兵衛の妻の実家で小針屋の援助があって、昔は下ノ崎界隈では幅を利かせていたらしいが、戦後輸入木材に押されて家業が凋落、祖父の九兵衛が亡き後、三郎が誕生した頃は貧しい農家であった。
 佐々木三郎は脇野沢の湊に近い脇野沢小学校、脇野沢中学校を下の崎から約6kmある道を自転車で通学した。夏の季節は良いのだが、ブリザードの激しい厳冬季の通学はそれは厳しいものがあった。脇野沢村はむつ市に入るのだが、高校はなく、もしも高校に通うなら約20km先の川内まで通わなければならなかった。川内には大湊高校川内校舎があるのだ。長男の一郎は高校まで通わせてもらえたが、三男の三郎は通わせてもらえず、中学校を卒業すると盛岡の地元では中堅の土建会社に運良く就職した。三郎は土建会社に勤めながら、盛岡駅近くにある盛岡第一高等学院の通信教育で高校卒業資格を取った。丁度高校卒業資格を取得した頃、国や県の公共工事が大幅に削減されたあおりを食って、勤めていた土建会社が倒産、三郎は仕事を失った。
 折からの不況で盛岡に居ても仕事がない。仕方がないので三郎は東京に出た。あてはなかったが、東京ならなんとか食っていく道があるのではないかと思ったのだ。しかし、考えが甘かった。僅かな蓄えを元手に毎日就活に走り回ったが、大学生でさえ満足に仕事にありつけない世情で、手元の蓄えも底を突いてしまった。それで仕方なく派遣社員として大手土木工事会社の下請けの土建会社に入った。

 派遣された土建会社で仕事をして見ると、派遣社員はまるで物扱いで毎日奴隷のような力仕事の連続で、周囲は日本人が半分、残りは東南アジア、ブラジル、イランなどからの出稼ぎ労働者だった。盛岡の頃には技術を教えてもらえたが、ここではそんなことはまったくないのだ。それで三郎は三畳しかないボロアパートに帰ると疲れた体に鞭打って、土木施工管理技士の資格を取るために勉強を始めた。土木施工管理技術検定制度は、法律に基づいて国土交通大臣指定機関である建設管理センターが実施する国家試験で、この資格を取ると土木工事の安全管理の指導、仕様書の策定、見積もり積算など広く土木工事を管理する仕事に就けるのだ。一級と二級があって、一級資格は高卒の場合実務経験が十年以上が条件だ。そこで四年半の経験で受験できる二級を最初に取得して、続いて一級にチャレンジをすることにした。

 土木施工管理技術検定試験は極めて難しい。大学の土木建築学科を卒業しているなら多少は助かるが、三郎の場合、盛岡の土建会社で教えてもらった知識くらいであまり役に立たなかった。それで工業高校用と大学用の専門書を買い込んできて必死に勉強した。三畳間のボロアパートじゃ、テレビなんてものはない。三郎は小さな携帯ラジオでニュースを聞く程度の余裕しかなかった。新聞は通勤電車の網棚に放置されたものを拾ってきて昼に弁当を食いながら読んだ。仕事場は工事現場だから都内のあちこちに変った。だが、三郎にとってはその方が色々な場所の事情が分って好都合だった。
 必死に勉強した甲斐があって、二十四歳になった時、めでたく二級に合格した。共に祝ってくれる者がいないので、三郎はビールとおつまみを買って来て、その夜、独りで淋しく合格のお祝いをした。
 二級の資格取得を、三郎は派遣会社と派遣先の土建会社に報告した。すると間もなく土建会社の課長がやってきて、
「準社員でよければうちに来ないか?」
 と誘ってくれた。いきなり正社員として採用は出来ないと言われた。けれども、今の奴隷生活を抜け出すために三郎はその場でOKした。

 土建会社の準社員になると、給与の手取りは少し減ったが、現場の労務者十人から十五人のグループの監督、技術指導、安全管理を任されて、三郎はグループの親分的な仕事ができるようになった。三郎は元々ガキ大将的な性格があったから、たちまちグループの労務者に尊敬されて、兄貴とか親分と呼ばれるようになった。
 だが、建設不況の真っ只中で、日程管理、原価管理について毎日のように上から厳しい指示が飛んできた。三郎は耐えた。一番気を遣ったのは怪我人を出さないことだ。そのため、作業が始まる前と後での点検を全て自分の目で確実に行った。土木工事は夜間の場合が殆どだ。だから、しばしば睡魔と闘っていた。そんな厳しい日々が続いていたが、三郎は次の目標、一級の資格を取るための勉強をスタートさせていた。

 その日は朝から雨で、道路はぬかるみ、地下の土木工事は流れ込む雨水をポンプで汲み出す作業に忙殺されていた。夜間だから工事中の標識や照明灯も特に注意をして点検した。だが魔がさすことはあるものだ。工事前に作業員が誤ってマンホールの周囲に設置したガードと照明灯の一部を外してしまったのだ。
 作業員はその部分は工事がほぼ完了したので、マンホールの蓋を閉じるものと思ったらしい。だが、雨水の汲み出しがあって、普段なら蓋をしてしまうマンホールから排水ホースを出したままで蓋は開いたままだった。

 ドサッと言う鈍い音の後に、
「キャーッ」
 と言う女性の声がした。三郎は驚いて声がした所に駆けつけると、やや身体の大きい女性が泥まみれになって倒れていた。マンホールに続く横穴の底だ。どうやらマンホールから落ちたらしい。場所は六本木の本通から少し入った所だ。懐中電灯で照らすと、顔をゆがめて苦しむ女の顔が浮き上がった。三郎は必死になって抱き起こして、直ぐに119番に通報した。

二百二十九 アオハの恋 Ⅱ

 通報を受けて、救急車が間もなくやってきた。三郎は仕事を普段から片腕に使っている労務者に、
「後をよろしく頼む」
 と言い置いて、自分も女と一緒に救急車に乗り込んだ。救急車は走り出すと直ぐに救急病院に連絡を取っているようだ。最初は六本木に近い虎ノ門病院に連絡を取ったが断られ、続いて三田の中央病院に連絡を取ったが断られたようだった。三度目に連絡を取った西新橋の東京慈恵会医科大学附属病院でOKが出て、救急車は向きを変えて西新橋に急行した。
 女は相変らず顔をしかめて痛そうにしていたが、髪の毛や顔が泥水で汚れて顔の感じは良く分らなかった。
 病院に到着するとすぐに救急病棟に搬入された。三郎も女が持っていたと思われるバッグを持って一緒に付き添って行った。皮のバッグも泥水に浸って汚れていた。
 三郎は医師に呼ばれて、事故時の状況を説明させられた。
「女性の身元は全く知りません」
 と答えると、看護師が三郎が抱えていたバッグを取り上げて中を調べた。
「財布から免許証が出ました。お名前は川野奈緒美さんです」
 と報告した。三郎は名前を頭に叩き込んだ。自分の責任で他人を怪我させたのは初めてだった。看護師に住所と電話番号も教えてもらった。それで、
「自分に連絡をさせて下さい」
 と頼んで電話をした。
「はい。川野でございます」
 と女の声が戻ってきた。三郎は事故の場所、搬入した病院、事故の様子を細かく説明した後、
「大変申し訳ありませんでした」
 と謝った。

 川野と言う女性に連絡を入れてから、二十五分ほどして婦人はやってきた。婦人は直ぐに医師に面会してなにやら話しこんでいた。検査が終わると、川野と三郎の所に医師と看護師がやってきて、怪我の状況について説明があった。頭部は精密検査をしたが異常はなく、左手首の骨折、右足首の捻挫、手に軽い傷があるが、他は特に異常な所はないと説明してくれた。骨折と捻挫があり、完治するには一ヶ月以上必要だが、入院は十日余りで済む見通しだと言った。顔には全く傷がなく、不幸中の幸いだったと補足説明があった。
 女は直ぐに個室の特別室に移された。いつの間にかガードマンが二人来て、病室のドアーの前に立ち、部外者の入室の監視を始めた。
 病院から外部への通報はなかったようだが、救急隊員が有名な女優アオハだと気付いて友人に漏らしたらしく、聞きつけた芸能記者が病院を訪ねて来て、翌日の朝刊に小さく掲載された。三郎はそんなことを知らなかったが、川野は事態を予測して記者を病室に入れないようにしたのだ。

 三郎はガードマンに顔を覚えてもらったらしく、翌日仕事前に見舞いに立ち寄ると黙って通してくれた。
「痛い思いをさせて済みませんでした」
 三郎が奈緒美に謝ると、
「あたしもぼけっとしてましたから」
 と嫌味は言わなかった。
 三郎は朝一番で事故を課長に報告した。被害者の名前を聞いて課長の言葉が厳しくなった。
「うちは損害賠償に応じる力がないから、佐々木、お前がちゃんと解決をしろよ。下手に会社を絡めたら承知しないぞ」
 と脅しとも取れる話しがあった。三郎は普通のOLか何かだと思って居たが、課長は有名な女優だと分ったらしかった。三郎は即刻クビになると覚悟をしていたが、
「三ヶ月間10%減給だ。安全義務違反、監督不行届きだ。本来ならクビだが、社長のご好意で減給ですんだ。ありがたいと思え」
 と叱られた。

「自分は夜間の作業です。貧乏なのでお金では償えませんが、仕事前に毎日お見舞いに来ます。自分の気持ちです。追い返さないで下さい」
 奈緒美は土木工事現場の責任者だと言うこの青年の朴訥(ぼくとつ)な物言いに好感を覚えた。それで、
「いいわよ」
 と答えた。側に川野が居て、
「あなた会社で責任を取らされるのでしょ?」
 と聞くと、
「いえ」
 と青年は顔を暗くした。その顔を見て川野は察したが、青年はそれ以上は何も言わず、すまないと言う顔で奈緒美こと女優アオハを見ていた。青年の勤め先の土建会社からは見舞いには来ず、見舞いの品物も届けられなかった。三郎に言った通り会社は関わりたくないようだった。奈緒美にしてみれば、つまらない見舞い品が届いたり、顔も知らない小父さんが次々にやってくるよりは、この青年だけの方が良かった。
 翌日は川野から連絡を受けて、茉莉、沙里、志穂が三人揃って見舞いに来た。川野が後から病室に入ると茉莉が、
「こんな時管理責任者は大変でしょ」
 と慰めてくれた。三郎はきまりが悪そうに首を横に振っただけだった。三郎はこの女性の周囲の人は皆良い人だと感じていた。見舞いに来ても三郎は軽く頭を下げるだけで一言も話をしなかった。
「あの方、なかなかいい男じゃない? あたし、あんなシャイな感じ大好きよ」
 と茉莉が言って、皆で笑った。

 二日後、三郎が病室に入るとまた茉莉に出逢った。
「感心な方ね。毎日いらっしゃるんですってね」
 と声を掛けられ、
「自分の不注意ですから」
 と三郎はぼそっと答えた。
「川野さん、有名な女優さんよ。あたしも女優。良かったらこれ見て下さいな」
 そう言って茉莉は映画のチケットを三郎に渡した。
「あたしが主演」
 三郎は手渡されたチケットを見ると[冬月特別試写会]と印刷されていた。チケットは二枚あった。三郎は、
「自分、忙しいので時間がありませんが、これは見ます」
 と答えて一枚だけ取ってもう一枚を返した。
「あら、彼女といらしたら?」
 と茉莉が言うと、
「いえ、独りですから」
 と答えた。そんなやりとりをベッドの上で奈緒美は黙って見ていた。

 病室の外で騒ぎがあり、ガードマンの制止を振り切って大きな男が病室に飛び込んできた。男は茉莉の顔を見ると、
「丁度いいや、ついてるなぁ」
 と言うなり、奈緒美にICレコーダーを突きつけて質問を始めた。
「茉莉さんも後でインタビューするからよぉ」
 男は嫌がって顔を背ける奈緒美に無理に答えさせようとした。どうやら芸能記者のようだ。三郎はそんな男の不躾な態度に我慢ができなくなった。三郎はICレコーダーを持つ男の腕を掴むと捻り揚げた。
「おいっ、このやろう、何をするんだ」
 男がむきになった。
「あんた、この方が嫌がってるだろう?」
 三郎は低いドスの利いた声でそう言うと男の鳩尾にパンチをぶち込んだ。鈍い音と共に男はウウッと蹲った。三郎は男の後衿を掴んで病室の外に摘まみ出した。そこにはガードマンが二人蹲って倒れていた。

二百三十 アオハの恋 Ⅲ

 奈緒美が入院後一週間が過ぎて、左手と右足首に白い包帯をぐるぐる捲きにしたギプスで固定されていたが、ベッドから降りて歩行することを許された。奈緒美はちょっとだけ病室の外に出てみたいと思ったが、午後三郎が見舞いに来るのでその時まで待とうと思った。義母の珠実は子育て中なので、一日おきに見舞いに来た。その日は珠実が来ない日なので、三郎が来てからベッドを降りてみようと思ったのだ。今までトイレに行く時はベッドを降りたが特別室で部屋専用のトイレがあり廊下を歩く必要はなかった。
 いつものように三時頃三郎が見舞いに来た。入って来ると、珍しく甘い香りがした。見ると三郎は手に金木犀の花を抱えていた。
「あらぁ、いい香り」
 奈緒美がそう言うと、三郎ははにかんだような顔をして、
「来る途中、庭に咲いていたのを切ってくれたので」
 と答えた。三郎はポケットからサバイバルナイフを取り出すと、窓際においてあったペットボトルを器用に真ん中で切って花瓶代わりにして金木犀を飾った。

「あのぅ、あたしちょっとだけ病室の外に出たいんですけど」
 そう言うと、三郎は奈緒美のつま先にスリッパを押し込み、手を取ってベッドから降ろしてくれた。ギプスをした右足に手をかけた時、
「痛くない?」
 と聞いた。奈緒美は三郎の目を見て頷いた。
「ちょっと待って」
 奈緒美は引き出しからサングラスと大きな白いマスクを取り出して顔を隠した。三郎は、
「有名人は大変だなぁ」
 と思ったが口には出さなかった。
「行きましょう」
 三郎がそう言うと奈緒美は、
「はい」
 と答えた。ドアーを開けると警備員が、
「どちらへ?」
 と聞いた。
「その辺を一回り」
 三郎が答えると、
「お供させて頂きます」
 と言って警備員も少し離れてあとをついてきた。奈緒美が振り返ると、ドアーの外の左右には花束が所狭しと置いてあった。病室に入れないでくれと頼んだので置き場所に困って病室の前に並べたらしい。三郎はもちろんそれを知っていたが何も言わなかった。

 三郎が土方で鍛えた逞しい腕を奈緒美の脇の下に回して優しく支えてくれたので、奈緒美は安心して身を預け、楽に歩けた。自分も腕を三郎の太い胴に回した。
「本館の屋上に出て見ませんか」
「屋上に上がれるの?」
「案内板を見たらコインランドリーがあるみたいなので、誰でも出られると思います」
「じゃ、そこに連れてって」
 三郎はエレベーターで屋上に連れて行った。 天気が良く、周囲の風景は素的だった。少し北の方に日比谷公園、その先に皇居が見えた。南側は直ぐ前の眼下に芝公園、その先が東京プリンスホテルの広い敷地、ホテルの先に増上寺の塔頭(たっちゅう)が見えた。
「この病院、いい場所にあるわね」
 奈緒美はしばらく周囲の景色に見とれていた。
 奈緒美はこの時、横で支えてくれている佐々木さんにもう一度こんな風にしてもらって歩いてみたいなぁと思った。そう思うと散歩が心地良かった。

 部屋に戻るまで誰にも邪魔をされなかった。病室に入ると、
「トイレ、大丈夫ですか」
 と三郎に聞かれ奈緒美は、
「行きます」
 と答えた。トイレのドアーを開けると、三郎はさっさと室外に出た。奈緒美が用をたしてトイレを出た時、三郎が入ってきて、奈緒美をさっと抱きかかえた。自然な流れるような動作に、奈緒美が呆気に取られているうちに、奈緒美は静かにベッドに下ろされた。こんな風に男に抱き上げられたのは初めてだ。前に希世彦に抱き上げてもらったことはあったが、こんな感じじゃなかった。兎に角、抱き上げられた瞬間、とても心地良かった。
 夕方三郎が退室する時、
「今日はありがとう」
 と奈緒美が言うと、三郎は少しだけ微笑んで返した。

 次の日も屋上に連れて行ってもらった。その日は珠実が来ていて、珠実も一緒に屋上に出た。三郎は仕事前なので、いつも作業服上下、靴はセイフティー長靴(ちょうか)を履いていた。仕事前なので洗濯してある作業衣は清潔だった。パジャマ姿の奈緒美を抱くようにして土木作業服を着た男と一緒に歩く姿を見て、珠実は思わず笑ってしまった。
「ママ、なんかおかしい?」
「二人、お似合いよ」
 珠実はからかったつもりだったが、奈緒美は別の意味に取った。
 病室に戻って、奈緒美は今日はママが居るから昨日みたいに抱き上げてベッドに寝かせてもらえないと思っていた。だが、三郎は昨日と同様にひょいと奈緒美を抱き上げて静かにベッドに横たえた。珠実が見ているので、さすがに奈緒美は腕を三郎の首には回さなかった。
「佐々木さん、ありがとう」
 奈緒美はちゃんと名前で呼んでみた。三郎はいつもの通りちょっと微笑んで部屋を出て行った。

 入院してとうとう十日目になった。
「佐々木さん、長い間毎日来て下さってありがとう。明日退院できるそうです」
 三郎が来ると、奈緒美はお礼を言った。
「ご迷惑をかけてすみませんでした。明日何時ごろですか?」
「十一時頃だと思います」
 その時、茉莉が見舞いに来た。
「明日退院だってね」
「茉莉ちゃんにすっかりご心配かけちゃってごめん」
「いいのよ。お友達だから遠慮ナシよ」
 それで、茉莉は三郎に聞いた。
「あなた律儀な方ねぇ。所で、携帯のメアド、交換しない?」
「あ、自分は携帯持ってないです」
 と三郎が答えた。
「今時?」
「はい」
「会社とかの連絡はどうしてるの」
「会社の携帯です。個人使用は厳禁です」
「じゃ、ご自宅の電話番号教えて?」
「すみません、電話ないんです」
「外からご連絡が必要な時はどうすればいいの」
「めったに必要な時はないです」
「困ったわね」
「……」
 三郎は黙り込んでしまった。その会話を聞いていた奈緒美が、
「茉莉ちゃん、完敗だわね」
 と笑った。茉莉はちょっときまりが悪そうに、
「あたし、北京原人に遭遇したみたい」
 と言って照れ笑いをした。三郎は申し訳なさそうな顔をしていた。茉莉は、
「お大事に」
 と言って、仕事があるからと先に帰って行った。三郎も、
「では明日お手伝いのつもりで早目に来ます」
 と言って帰った。

 翌日十時半に三郎がやってきた。
「十一時頃の予定でしたけど、少し早くなりましたの。丁度良かったわ」
 珠実が男手が出来たので助かったと言う表情で三郎に、
「早速ですけど、これお願いね」
 と言って着替えを入れた大きな旅行バッグを目で示した。
「奈緒美さん、ここで待っていて下さい。こいつを降ろしたら直ぐに戻ります」
 そう言って三郎はバッグの他に風呂敷包みをもって階下のタクシー乗り場へ急いだ。タクシーに荷物を預けると、三郎は病室に戻った。奈緒美は大人しく待っていた。
「じゃ、行きましょう」
 いつものように三郎は奈緒美を抱きかかえるようにして階下に降りた。
「ギプスが取れるまでご自宅の方にお見舞いに伺ってもいいでしょうか」
 と三郎は珠実に尋ねた。
「あら、お見舞いは今までで十分よ。あなたの誠意、良く分りましたから」
 と珠実が答えると、
「ママ、来ていただいて、あたしこの方の顔を見るとなんか安心できるの」
 と奈緒美が珠実に甘えるような声で囁いた。
「じゃ、もうしばらくお願いね」
 三郎は頷いた。
「奥様、ここの精算書見せて頂けませんか」
「ああ、治療費ね、ご心配なさらなくても大丈夫よ。この子の生命保険、オプションの交通障害特約を付けてあるのよ。それで殆どカバーされますから、お気になさらないで」
「そうなんですか。助かりました」
 三郎は多額の治療費を珠実に立て替えてもらって月賦で支払うつもりでいたのだ。

二百三十一 アオハの恋 Ⅳ

 奈緒美が退院してからも、佐々木三郎は六本木の奈緒美のマンションに見舞いに通った。工事現場が移動する度に、マンションを訪れる時間は変ったが一日も欠かさずに見舞いに来た。見舞いに来ても特に何かをするような用がない。土木施工管理技士の一級資格を取るために猛勉強をしている三郎にとってはかなりの時間的な負担だったが、三郎は自分の管理不行届きで発生した事故なので、弱音を吐かなかった。現場に出る前に見舞いをしていたから、いつも定刻に現場に出る三郎親分がまさか女優アオハの見舞いに毎日通っているなぞとは誰も知らなかった。事故当時は新聞を見た仲間が、
「気付かなかったが有名な女優だったそうだ」
 と言いふらしたので一時その話題で持ちきりになったが、今では口にする者は居なくなっていた。三郎は被害者の女性が退院したと課長に報告をしたが、治療費、休業補償、慰謝料などの損害賠償の問題が発生しなかったので、三郎の対処を評価してくれた。その話は社長まで上がって、三郎は社長に呼ばれた。
「佐々木君と言ったな」
「はい」
「今回の事故だが、有名な女優さん相手で苦労しただろ」
「会社の名前はご指示に従って一切出していません」
「それは分っとる。だがどうして賠償問題が出てないんだ?」
「分りません」
「分りませんって、相手は怒ってないのか」
「別に」
「わしにはそれが分らんなぁ」
「最初に自分は貧乏なので金銭的な償いはできないが毎日見舞いに来ますとお願いしたからじゃないかと思います」
「それで、君は毎日見舞いに通ったのかね」
「自分の責任ですから当然です」
「退院して、今は片付いたのかね」
「いえ、今も毎日見舞いに通ってます。相手の方がもうよいと言うまで続けるつもりです」
 社長はこの時、この準社員の態度に感服したようだったが、
「分った。ご苦労だが君の思うようにしてくれ。どうしても相談したいことがあれば、わしに直接言って来い」
 と言った。三郎は一礼して退席した。

 約一ヵ月後、奈緒美のギプスが取れて次の週から仕事に復帰できると言われた三郎は、
「ではお約束でしたので、自分はこれでお見舞いを終わりにさせて頂きますがよろしいでしょうか」
 と珠実に申し出た。
「長い間ご苦労様。あなたのお陰で、娘は気持ちも落ち着いたようですのでそれで結構です」
 と頭を下げてくれた。三郎も頭を下げて、ようやく見舞いに通わないで良いことになった。
 三郎は次の日から約束に従ってぷっつりと見舞いに来なくなった。自宅に見舞いに来てもらっている間に、奈緒美は三郎の住まいの場所を聞き出していたが、電話がないので連絡は出来なかった。
 茉莉の話しに拠ると、映画冬月の試写会には確かに独りで来たそうだが、試写会が終わって食事に誘おうと思っていたのにさっさと帰ってしまってそれっきり会えず連絡も取れないと残念がっていた。
「あいつ、あたしのタイプだったんだけどなぁ」
 茉莉はそんな風に言っていた。

 三ヶ月があっと言う間に過ぎて、三郎の減給処分はなくなった。三郎は相変らず工事現場を転々としてその場その場をきっちりと取り仕切っていた。
 そんなある日三郎の上司の課長が社長に呼びつけられた。
「なんとかと言う女優の事故の件だが、結局会社は一銭も賠償金を払わずに済んだようだな。間違いないな?」
「はい」
「わしはな、厳しく言うたがある程度は覚悟をしとったんじゃ。だがきっちりと後始末を付けてくれたようだな」
「はい」
「それで、実はな、先日こっそりとあの佐々木とか言う青年が取り仕切っている現場を視察したんじゃ」
「それでしたら私に言って頂ければご案内しましたが」
「バカッ、それじゃいかんのだ。わしはな、普段のありのままの姿を見たかったんだよ」
「どうでした?」
「わしはな、あいつに惚れ直したよ。あいつの部下の労務者がな、あいつを何と呼んでいるか知ってるか」
「組長とか呼んでましたか?」
「お前、そんなとこに目が通っとらんのか」
「すみません」
「皆に親分とか兄貴と呼ばれているんだ。あれは会社の上下の関係を越えとるなぁ」
 社長は現場の光景を思い出すように話した。
「越えていると言いますと?」
「人間どうしの固い絆よ」
 課長は意外な顔をした。
「そう言えば、彼の所は労務者が一人も辞めてないです」
「そうだろう。この世界は外人の出稼ぎが半分や。他の現場じゃしょっちゅう辞めるやつが居て、人事に聞いたら補充を毎日のようにやってるそうじゃないか? 人事の課長も不思議だと言うとった」
「確かに、佐々木君の統率力は私も認めます」
「そこでや、あいつをこれからあんたの片腕として可愛がってやれよ」
「今でも可愛がってますが」
「バカもん、もう少し取り立ててやれちゅうとるんじゃ。まだ準社員だろ?」
「はい」
「あんた、それでも可愛がってやってると言えるのか?」
「来月から正社員だ。いいな。人事の課長にも言うてある」
「ありがとうございます」
「わしに礼を言うてどうなるんや? 正社員にしたら、現場を二つ三つ預けて見い。あいつはええ仕事をするぞ」

 三郎は四月から正社員に昇格して給料も上がった。その代わりに、現場を二つか三つ任されて今までより相当に多忙になった。三郎は耐え抜いた。資格試験の勉強時間が少なくなり、今まで借りていた三畳間のボロアパートを引き払って、掛け持ちしている現場の両方に近い場所にあるウイークリーマンションを借りることにしたのだ。身の回りの荷物は大きめのダンボール箱二個に納まる程度しかない。布団もせんべい布団だから、圧縮すると小さくなる。だから転々と変る現場に合わせて移動するのは簡単だし、通勤時間がかなり短縮できた。借りて見ると、ウイークリーマンションはやや割高だが、最初から設備が付いているし、敷金、礼金もないので移動には都合が良かった。

 三郎が見舞いに来なくなってから、あっと言う間に約半年が過ぎた。奈緒美は時々三郎のことを思い出すと淋しくなった。
「今、お元気にお仕事をなさっているのかしら? もう一度逢いたいなぁ」
 それで休みの日に、奈緒美は以前聞いていた三郎のアパートを訪ねて見ることにした。
 御徒町から2kmほど歩いた台東区三筋界隈を散々探し回ってやっとアパートを見付けた。小さなボロアパートだ。だが、探し当てた部屋には別の男が住んでいた。仕方なく近所の人に尋ねると、アパートはピープルと言う不動産屋が管理をしていることが分った。
 ピープルの場所をどうにか聞き出して、上野駅に近い東上野の雑居ビルにあるピープルを訪ねた。
「佐々木さんねぇ、二ヶ月前に引き払ってその後はわたしらの方じゃ全然分らんですわ」
 と応対したオヤジが言った。奈緒美は途方に暮れて、一旦諦めてしまった。
「きっとあたしに縁がないんだわね」
 とそんな独り言を呟いていた。

 それから大分過ぎたある日、中野サンプラのイベントに出た帰り道、タクシーに乗って早稲田通りを走っていた。タクシーが上落合の交差点の赤信号で停まった時、何気なく窓の外を見ていると、舗道を三郎らしき男が歩いているのを見かけた。
「運転手さん、ちょっと降ろして下さい。直ぐに戻りますから待っていて頂けませんか」
 それで奈緒美はタクシーを降りると三郎の後姿を追った。三郎は身体が大きくて歩くのが速い。奈緒美は必死で追いかけたが、メトロ東西線の落合駅に向かって階段をどんどん下りて行って、人ごみに紛れてとうとう見失ってしまった。

二百三十二 アオハの恋 Ⅴ

 男のことを想えば想うほど、不思議なことに慕う気持ちが増幅してしまうのは若い乙女心だ。
 奈緒美は次の休みの日にも、三郎に逢いたくてこの前見かけた上落合周辺の工事現場を探して尋ねて歩いた。自然に向かってしまう気持ちに抗うことはできなかった。
 ようやく探し当てた工事現場に三郎の名刺に印刷されていた土建会社の名前を見付けた。
「ちょっとお伺いしますが?」
 若い作業員に話しかけるとポルトガル語らしい言葉で返事が返って来た。奈緒美が英語で聞いても、日本語で聞いても首をかしげるばかりで埒が明かない。押し問答をしていると、日本人らしい年配のオジサンが地下トンネルから顔を出した。
「ああ、佐々木さん、親分ですね。今夜は来ませんよ。今三箇所の工事の監督をされてますから、そうだなぁ、明日はこっちかな?」
 奈緒美が困った顔をしていると、
「何かお(ことづけ)でもあれば伝えておきます」
 と言ってくれた。
「では、申し訳ありませんが、川野と言う女性が尋ねて来た。連絡を下さいとお伝え下さいません?」
「ご連絡先は?」
「分ると思います」
 そこに若い労務者が顔を出した。
「あれっ? もしかして有名な女優さんのアオハさんと違いますか」
 と聞いたので奈緒美はちょっと微笑んだ。奈緒美はそれ以上騒がれると困るので、年配の男に、
「よろしくお願いします」
 と頼んで立ち去った。

「親分、川野さんご存知ですか」
「ああ」
「昨日ここに来て、親分に連絡をくれって伝えてくれと言ってました」
「ありがとう」
 昨日奈緒美の伝言を聞いた年配の男が三郎に伝えた。
 翌朝仕事帰りに公衆電話から三郎は奈緒美に電話をした。
「お久しぶりです。お元気ですか」
「怪我のことで何か?」
 三郎は怪我の後遺症か何かだと思っていた。
「怪我はもうすっかり治りました」
「そうですか。もう痛みませんか?」
「はい。大丈夫です」
「他に何かご用件でも?」
「はい。一度お目にかかって頂けません?」
「何かお話しでも?」
 奈緒美は話が噛みあわないので困った。それで、
「実は、あたし、三郎さんに逢いたいの」
 と単刀直入に言った。
「……」
 電話の向うで躊躇する様子だった。
「逢って頂けません? ダメですか」
 奈緒美は自分の気持ちが伝わらないと思ってあせった。奈緒美は三郎からの電話を心待ちにしていたのに、こんな展開に戸惑っていた。
「ダメではないですが、時間によります」
「佐々木さんのご都合に合わせます」
「では日曜日の午後、いかがですか」
「逢って下さるんですね。どこへ行けばよろしいでしょうか」
「では新宿駅の南口、JRの券売機の前で十三時にお待ちします」
 ようやくデートの約束が取れて奈緒美はほっとした。

 三郎が日曜日の十三時に券売機の前で待っていると、奈緒美がやってきた。背が高く綺麗な人なので目立つから三郎は直ぐに分かった。逢うと直ぐに、
「どこか静かな所へ連れてって下さらない」
 と頼んだ。
「いきなりですかぁ」
 と三郎が笑った。奈緒美はその笑い方をとても爽やかに感じた。
「御苑に行きませんか?」
 御苑は南口から歩いて直ぐだ。奈緒美は三郎の後を御苑に向かった。日曜日なのに、意外に空いていて驚いた。もちろん部分的には人の往来は多い。だが、少し奥まった所へ行くと、案外人が来ないで静かだった。混雑する新宿駅の目と鼻の先なのにと奈緒美は思った。人通りが殆どなくなった所で、三郎が奈緒美の脇の下に腕を回して、病院で介護してもらったように抱きかかえるようにして歩いてくれた。奈緒美はそれがとても嬉しかった。
「あのぅ……三郎さん……でしたよね」
「はい。三郎です」
「三郎さん、今でもお独り?」
「彼女が居るのかって言うご質問でしょ」
「ええ」
 奈緒美は内心ドキドキしていた。[居ます]と言われたらどうしようと。だが、三郎は、
「居ませんよ」
 と答えた。
「よかったぁ。じゃ、これからはあたしと付き合って頂けません?」
「……」
 三郎はちょっと考える風だった。
「川野さん、無理だと思います」
「あら、どうして?」
「先日病院で沢山の花束を見た時、自分とは生きている世界が違うと感じました。つまり行きずりの一時の恋人役ならしますが、真面目にお付き合いするには、自分は川野さんに似合っていないと思います」
 奈緒美は意外な返事に戸惑った。
「確かに、あたしはモデルとか女優をしています。でも、それは自分の職業だと思ってますのよ。もしあたしが普通のOLさんでしたら良かったのでしょ」
「ご実家がお金持ちじゃないOLさん」
「それってあたしではダメってことですよね」
「はい。自分には釣り合いが悪いです。自分は今すごく貧乏ですから、多分早々にご不満が出るんじゃないかと思います」
「例えば?」
「デートの場所とか、食べ物とか、プレゼントとか」
「それならあたしは最低で大丈夫よ。あたし、芸能界の方、好きになれないんです。皆さん、三郎さんとは逆で、逢うと背伸びしているとか、見栄を張る方が殆どなんです。あたし、お金がなくても三郎さんのような方が好きです」
 奈緒美はこうなったら正直に当たって砕けるしか道はないと思った。

「分りました。じゃ、こうしましょう。これから先、何度かお逢いして、と言っても日曜日以外はダメですが、もし奈緒美さんが合わないなと思ったり、自分があなたは合わないなと思ったら、今のように正直にお話をして綺麗にお別れをしましょう。それでもいいですか」
「嬉しい。あたし頑張ろうかな」
「いえ、頑張ってもらっては困ります。逢う時はお互いに自然体で」
「分りました。約束よ」
「ん。約束」
「どこかでコーヒーでも飲んで、今日はお別れでもいいですか?」
「はい」
 それで、二人はスタバでコーヒーを飲んで別れた。僅かな代金だが、三郎が支払った。
 奈緒美は、
「あたし、三郎さんに絶対に背伸びをさせないから」
 と分かれた後で呟いた。
 御苑でデートしてから、その後月に二回か三回デートをした。奈緒美はデートを重ねる度に次第に三郎を慕う気持ちが強くなる自分を感じていた。それは希世彦の時と違った新鮮な気持ちだった。希世彦とデートをしている時は希世彦に背伸びをさせないようになんて気遣いを全くしていなかった。それだけでも気持ちの上では大きな違いだ。
 この前のデートの時、三郎は一級土木施工管理技士の資格を取るために勉強をしていると言っていた。なんでも凄く難しい国家試験で自分は中学校しか出ていないが、一級を取れば、土木業界では大卒クラスの資格ができるので、今より仕事の幅が広くなるのだと言っていた。奈緒美はそんな彼に何も応援をしてやれないが、気持ちだけでも精一杯応援をしたいと思った。

二百三十三 アオハの恋 Ⅵ

「しばらくだったね」
「お互いに」
 奈緒美は久しぶりに茉莉とお茶をしていた。
「奈緒美、半年前毎日奈緒美のお見舞いに来ていた男の人、その後連絡ないの?」
「あら、どうして」
 奈緒美は今その男、三郎と付き合い始めていたので、突然茉莉から聞かれて内心動揺した。
「冬月の特別試写会の切符をあげて、彼、来てくれて、試写会が終わってお食事を一緒にしようと思ってたら、彼居なくなったのよ。さっさと帰ってしまったみたい」
「それで?」
 今度は逆に奈緒美が聞きたくなった。
「あたし、逢いたいんだけど、連絡できなくて。連絡方法、何か知ってる?」
 奈緒美は穏やかでなかった。でも親友には隠しごとはできない。それで、思い切って告白してしまった。
「実は、最近彼と付き合ってるの」
「ほんと?」
「茉莉にウソは言えないでしょ」
「なんだ、がっかり。あたし、彼に目を付けてたのにぃ」
「ごめん。茉莉の気持ち知らなかったから」
 実は奈緒美は茉莉が彼に気があることをうすうす知っていた。病院で会った時、しつこく連絡先を聞いていたからだ。
「あたし、奈緒美も知ってると思うけど、彼に出会う前、不倫騒ぎを起こしちゃって、ちょっと落ち込んでたのよ。そんな時彼に出会って、あたし、神様がくれたチャンスだと思ったんだ」
「そうだったわね。不倫騒ぎ、大変だったんでしょ?」
「あたしのプロダクションの社長と希世彦さんのお母さまが話し合って、プロダクションで一億、米村の小母さまが二億五千、合わせて三億五千で不倫相手の俳優さんの借金を全部肩代わりして円満解決」
「随分大金だわね」
「不倫相手の俳優さん、自分の借金を何とかしなくちゃならなくなって、あたしを利用してスキャンダルを起こそうとしたみたいなの。それを小母さまが見抜いて一肌脱いで下さったの」
「よくそんな男に惚れたわね」
「今言われると恥ずかしいけど、あたしってすっかり騙されていたな」
「所でお見舞いに来た彼、もう抱いてもらったの」
「茉莉、なんかすごいことをさらっと言えるんだね。まだ全然よ。キスだってまだだもん」
「じゃ、奈緒美は今でもバージン」
「そうよ。だから、あたし男の人にされた時の感じ、まだ分からないのよ」
「映画晩夏じゃすごいラブラブのシーンあったじゃない? それを見てしまうと奈緒美がバージンなんて信じられないなぁ」
「あれは演技よ」
 奈緒美は気持ちが複雑と言う顔をして笑った。

「あたし、不倫相手の俳優さんに誘惑された時ね、演技に行き詰って自信を失くしてたんだ。それで、こんな時男の人が欲しいなと思ってたのよ。女ってそう言う気持ちの時って危険ね。それでその俳優さんの誘惑に負けちゃった。でもね、利用されてるなんて知らなかったから、彼に抱かれている時は、なんか彼にめちゃくちゃにされてもいいなんて、心から愛してたな。彼との関係がダメになって、女って経験しちゃうと淋しい時不思議と男が欲しくなるみたい。丁度そんな気持ちの時、あなたの彼に病院で出会ったのよ」
「実はあたしも。今クランクインした映画の監督さんに誘惑されそうになって、あたし、業界の人と付き合いたくなかったからどうにか振り切って、それでむしゃくしゃしながら雨の中を歩いていてマンホールに落っこちてしまったのよ。お見舞いに来てくれた現場監督さんの男の人、すごく真面目そうな人で、芸能記者が病室に侵入してきた時なんか、鮮やかに打ちのめして助けてくれたでしょ、なので、あたしすっかり彼に惹かれちゃってた」
「奈緒美もその時男が欲しかったんだ?」
「そうよ。茉莉と同じような気持ちだったかしら」
「それで、彼を恋しくなったんだけど、連絡方法が分らなくて半年過ぎちゃったの」
「じゃ、どうして逢えるようになったの」
「あれはきっと神様のお導きだわね。ある日偶然に街で彼を見つけて、後を追って、その時はダメだったけど、工事現場をようやく探し出して、それで連絡を下さいってお願いしたのよ」
「へーぇっ? そんなことがあったんだ」
「そうね。彼を探していた時、今思い出すと自分でも不思議なくらい、身体が動いてしまって、必死になってたわよ」
 奈緒美は照れ笑いをした。

「それで、奈緒美ちゃんの彼ってどんな感じ?」
「思った通り、正直なやつで、見栄をはったり背伸びしたりしないわね。あたしそこが大好きなのよ」
「そうね、男の人って女を前にすると見栄を張ったり、自分の実力以上に見せようと背伸びする人多いわね。特に芸能界は極端に言えばそんなやつばっかだわね」
「でしょ? あたしは贅沢とかそう言うのでなくて、自然体で付き合ってくれる人がいいの。彼はいつも自然体ね」
「でも、それだけじゃダメよね」
「そう。シャイなのはいいけど、内側に秘めた力強さを持ってないと、なよなよした男は好きになれないな。それに彼って会う度に少しずつ大きくなるって言うか男としての貫禄が備わってくるのよ。そんなとこも大好きよ」
「奈緒美ちゃん、今は希世彦さんと別れたの」
「ええ。今でも好きなんだけど、色々あって、お付き合いをしない方がいいと思って、あたしから避けたのよ」
「へーぇっ? 知らなかった。あたし彼に振られたんじゃないかと思ってた」
「どうしてそう思えたの」
「だって、こんなことを奈緒美ちゃんに言ってもいいのか分らないけど、半年以上前に希世彦さんアメリカから新しい彼女を連れてきて、あたしたちに紹介したのよ。すごく可愛らしくて綺麗な女の子だったわね」
「そう? あたし何も知らなかったわ」
「将来結婚するみたいだった」
 奈緒美は希世彦の話を聞いて淋しくなった。もし、今自分に三郎が居てくれなかったら、かなり落ち込んだかも知れないと思った。

「米村の小母さまってすごい人ね。希世彦さんが彼女を紹介してくれた時、沙里ちゃんも箱根の別荘に彼を連れてきていたんだけど、その時、沙里ちゃん、彼と初体験してしまったらしいのよ。それで懐妊までしてしまって、その時、米村の小母さま、彼の実家に乗り込んで言って、養子として彼を奪って帰ってきたらしいのよ」
「奪って?」
「そうよ。相手方とは色々あったらしく、彼も煮え切らないやつでどうしようもない、女にだらしない男だったんですって。それで、私の方で鍛え直すとか言って強引に養子縁組を決めてしまったんですって。相手の家じゃ長男だし、姉が三人居るらしいけど、男は彼だけですもの、普通は養子には出さないわね」
「あなたどうしてそんなに詳しいの」
「ああ、沙里ちゃんに詳しく聞いたのよ」
「今も沙里ちゃん、その彼と付き合ってるの」
「付き合ってる所か今は沙里ちゃんの旦那様よ。でも、章吾小父さまがしごいたらしくて、今では女に色目を遣うなんてこともしなくなって、しっかりした男に変ったみたいですって」
「米村の小母さまは男を見る目に狂いがないわね」
「あの方、ご自分では何もお話にならないけど、あたしたち位の歳の頃、男ですごく苦労されたんですって」
「そうなんだ。希世彦のお母さまとして何度もお目にかかりましたけど、そんな素振りは全然感じなかったな」
「人は見かけによらないってことね」
 茉莉と色々話をしたが、奈緒美は希世彦に彼女ができたと聞かされて、自分も少し気持ちが楽になったと思った。

二百三十四 アオハの恋 Ⅶ

 都筑庄平が仙台に来ると連絡が入ったので、奈緒美は無理を言って三郎に、
「仙台に絶対に来て」
 と頼んだ。奈緒美は三郎を都筑に見てもらいたかったのだ。愛する父親に、自分が大好きで恋をしている三郎を紹介したいと言う気持ちは強かった。三郎は今まで付き合って見て、奈緒美が一度も我を通したことがなかったので、一度くらいは奈緒美の頼みを聞くべきだと思って、仕事の調整をして休みを取った。三郎は感心なやつで、自分が監督している現場のグループの中から必ず右腕になってくれる男を選び出して常日頃から、
「人間いつ死ぬか分らんもんだ。だから、自分が居なくても仕事が回るようにするって大切なことなんだ」
 と皆に言っていた。だから、三郎が監督するどの現場にも右腕になる奴がいた。もう一つ三郎の感心な所は、外国語だ。
「人と人とが本気に付き合えるためにはよぉ、相手の言いたいことを分ってやるってこと必要だよな。だから、ここじゃ色々な国から来ている者の寄り集まりだがよぉ、皆できるだけ言葉を覚えろよ。オレも努力するからよぉ」
 そんな気持ちを仲間にいつも言っていた。だから、三郎のグループでは皆が努めて相手の国の言葉で話し合えるように頑張っていた。それが労務者どうしの結束を強めていたのかも知れない。

 奈緒美に呼ばれた日、三郎は仙台に向かった。奈緒美のマンションは教えてもらっていたし、奈緒美の義母の珠実ともお見舞いの時以来すっかり親しくなっていた。だから、しばらくぶりに珠実に会えるのも楽しみだった。
 マンションでは、既に都筑も来て三郎を待っていた。
「奈緒美は僕の実の娘だ。大事にしてやってもらえないか? 訳があって、父親だと公に名乗り出てはいないが、父親には変りはない」
 庄平は三郎にそう言って奈緒美をよろしく頼むと言った。
 三郎は自分の生い立ちや今の仕事について概略庄平と珠実に説明した。見舞いの時に珠美に何度も会ってはいたが、自分の生い立ちについては今まで何も話していなかったのだ。
 庄平は三郎が中学しか卒業していないが、通信教育で高卒の資格を取り、その上で二級土木施工管理技士の資格を取ったと説明を受けた時、三郎は気概のある青年で将来性も十分だと好感を持った。
「奈緒美、なかなか立派な恋人じゃないか。パパは気に入ったよ」
 と奈緒美に言って、三郎の方に向き直った。
「三郎君、君は大手のゼネコンの下請けの土建会社に勤めていて、日本じゃ公共事業の予算がバッサバッサ切り落とされて苦労しているだろ?」
「はい、まあ」
「だがね、将来に悲観をすることは全くないよ」
「公共事業が十年前のように戻るってことですか」
「いや、日本はもう見込みがない。このまま公共事業が復活するとは考えられんね」
「どうしてですか」
「それはね、簡単なことだよ。日本は諸外国に比べてインフラの整備が充実してしまったってことだよ。だからこれから大々的にインフラの整備をする必要がないんだよ」
「でしたら、どうして将来性があるんですか」
「いいかね、もし君が一級の土木施工管理技士の資格を取ったとしよう。そうすると必ずヘッドハントのオファーが来るよ。国内はダメだが、今海外、特に中国を始めブリックス諸国じゃインフラの整備に何兆円もの巨大投資をしているんだよ。道路、空港、港湾、鉄道、送電、橋梁、兎に角行ったことがあれば具体的にどんなにすざましいか分かるんだ。凄いよ。彼らの国では労務者は何とでもなるんだ。だが施工技術、施工設備、施工管理に詳しい技術者は相当の高給を出しても来て欲しいんだよ。日本は世界的に施工技術、施工設備、施工管理のどれを取っても勝れたものを持っているから彼らは日本人の技術者のヘッドハンティングに凄い興味を持っているんだよ」
 三郎は目から(うろこ)、庄平のグローバルな見識に尊敬の念を抱いた。

「それでだ、君は今色々な国から来ている労務者を管理していて、言葉を覚えるのに熱心だと言ったね。そいつは将来君の宝物になるよ。例えば中国語が少しできるなら、今直ぐだって中国に渡って大きな事業に関われるチャンスは十分にあるんだよ。もちろん責任者としてだ。だが、僕は君の将来を考えると、個人的なヘッドハンティングには応じてもらいたくないな」
「個人的でないと、他にどんな?」
「今君が勤めている土建屋は大手の下請けをやってるだろ?」
「はい」
「大手は多分君の会社に仕事を丸投げしてるだろ?」
「丸投げに近いですね」
「そこだよ。発展途上国のヘッドハンターの奴らはね、大手は狙ってないんだな。下請けをやって実質的に仕事をやってる所の技術者を狙っているんだ。だが、彼らが狙っているのは人間だけじゃない。企業をまるごと買い取るってことも考えているんだよ」
「買収、M&Aですか」
「そうだ。ビジネスの世界じゃ先読みも大事だね。受身でなくて攻めた方がずっと貰いが多いんだよ。だから、君が一級の資格を取って落ち着いたら、中国、ベトナム、インドなんかの土建会社と合弁で新会社を立ち上げて海外に積極的に出てもらいたいんだよ。もう国内の下請けは止める時期に来てるんだよ。世界は君が思っているよりずっと発展が進んでいるんだよ。かって日本の製造業は世界一だったんだが、最近は中国、韓国始め海外の企業にどんどん買収されて、日本人は日本の会社だと思っているのに、実は資本と経営は海外に行ってしまってる会社が沢山あるんだよ。どうだ、夢が膨らんだか」
「はい。お義父さん、とても参考になりました。なんかやる気が出ました。これからもっと頑張って、いま勤めている土建屋をもっとでかくできるような気になりました」
「そうか、期待してるぞ」
 奈緒美は父の庄平と恋人の三郎の話を聞いていて、思わず嬉し涙が出てしまった。
「あたし、絶対に三郎さんに付いて行こう」
 奈緒美は三郎を庄平に引き合わせて良かったと思った。義母の川野珠実もとても喜んでくれた。それに、三郎が自然にお義父さんと庄平を呼んでくれたのも嬉しかった。
「どうだ、今夜温泉にでも皆で行こうか? 東北の温泉はいいぞ。あっ、君も東北人だったな」
 それで、庄平は以前泊まった秋保温泉の旅館に二部屋予約を入れた。

「今直ぐにでも奈緒美さんに結婚して下さいと言いたいのですが、将来結婚をするお約束をさせてもらって、実際に結婚するまで二年か三年待って頂けませんか」
 秋保温泉で食事が終わってから、三郎は庄平、珠実、奈緒美を前にして手をついて頭を下げた。
「どうだろう、奈緒美、男には一生の間に何度か自分をかけて戦わなければならないことがあるんだ。三郎君は今一級資格を取得するため、必死に勉強をされているんだ。三年も待てばきっと良い結果が出るから、それまで結婚をお預けにしてくれないか」
 父の庄平が奈緒美に三郎を理解してやれと言った。
「じゃ、今日奈緒美ちゃんと三郎君の婚約成立でよろしいわね?」
「はい。婚約指輪は高いものは買えませんが、東京に戻りましたら買っておきます。奈緒美さん、自分の都合で待たせてごめんね。この約束、必ず守るから」
 今までの二十何年間の奈緒美の人生でこの時が一番幸せな瞬間じゃないかと思った。
「あたし、三郎さんが結婚して下さるまで何年でも待ちます」
「奈緒美さん、すまない。これからも大切にするから待っててくれよな」
「はい。あたし、超うれしくて……」
 奈緒美は言葉を詰まらせて嬉し涙でくしゃくしゃな顔をしていた。

 都筑庄平は奈緒美をそっと呼んで、
「今までパパと風呂に入ってくれてありがとう。今夜からはその役目を三郎君に譲るから、これからは奈緒美の好きにしなさい」
「分りました。パパ、ありがとう」
 それで、その夜は庄平と珠実、三郎と奈緒美とで部屋を別けた。
 三郎と部屋に入ると、
「あのう、ここの旅館お部屋毎に露天風呂が付いているの。あたし、三郎さんと一緒に入りたいな」
 三郎は突然奈緒美がそう言ったので驚いた。
「結婚する前だけど、そんなことをしてもいいの?」
 正直、三郎は女性との付き合いは奈緒美が初めてで、こんな場合どう対応すれば良いのか分らなかった。
「一緒にお風呂に入ってもHするのでなければ昔東北では普通にあった混浴のお風呂と同じよ」
 奈緒美はそんな風に言った。それで、
「奈緒美さんがそうしたいって言うなら、僕は構わないよ」
 と三郎は同意した。
 初めて見る奈緒美の肢体はとても美しかった。三郎は独り東京に出て来た時のことを思い出して、まさか自分の人生がこんな展開になったなんてとても信じられず夢ではないかと思った。湯船に浸かっていると、奈緒美が隣に入ってきて、三郎に身体を預けて、三郎の腕を取り自分の身体に回した。
「あたし、三郎さんにこうしてもらってるとすごく安心な気持ちになって落ち着くの。これからも時々こうして抱いていて頂戴」
 と甘えた声で囁いた。三郎は結婚するまでは彼女のために童貞でいてあげようと思った。

 夜寝静まってから、奈緒美は隣室からかすかに珠実の泣くような声が漏れてくるのを聞いて、自分も身体の奥底が熱くなるのを感じた。
「もう寝ちゃった?」
 隣の三郎に聞くと、
「ん? 眠れないのか?」
 とまだ起きている様子だ。
「あたし、我慢できそうになくて……」
 三郎は困った。だが、奈緒美の柔らかい手が伸びてきて、三郎の下腹部に触れたとき、三郎も我慢の限界を越えてしまった。奈緒美の誘いに応じて、三郎は奈緒美と身体を重ねてしまった。頭の中では結婚まで童貞のままでいようと思って居たが、本能には抗えなかったのだ。

二百三十五 レイヤーマスター

「希世彦を美玲さんと一緒に夏休みの内に、そちらへお邪魔させましょう」
 希世彦の父善雄と母の沙希は美玲の両親である渡辺憲次、玲子に会いに夏休みの間にニューヨークへ行くと連絡してきた。
「本来は私共がそちらへお邪魔するのが筋ですが、二人共こちらですから、お言葉に甘えさせて頂きます」
 それで、善雄と沙希はニューヨークに飛んだ。
「後二年、美玲さんがご卒業されましたら直ぐに二人を結婚させたいのですが、宜しいですかな?」
 そう善雄が切り出すと、
「ご立派な息子さんにもらって頂けるなら当方も異論はありません。大変良縁だと思っております」
 と憲次は申し出を快諾した。それで、希世彦と美玲の婚約が成立した。

 暑い夏が過ぎて、希世彦はハーバードのビジネススクールの予定の教科を全て消化して、MBAの資格を取得、めでたく卒業した。卒業と同時に、米村工機の臨時取締役会で、希世彦は技術担当取締役に推挙され、めでたく工機の取締役に就任した。同時に○○ホールディングスの取締役会でホールディングスの取締役にも就任した。
 工機とホールディングス合同の役員会で、希世彦は取締役就任記念講演を行うことになった。講演の題目は[レイヤーマスターと当社の戦略について]であった。

 関連企業のトップも招待されて、世界の各国からも関連企業の役員が集まり、出席者は総勢五十名を越えた。世界中から集まるので、講演は当然英語のスピーチだ。国内の工機、ホールディングス及び関連企業のトップを合わせると三十名位居た。工機の役員の中で希世彦を幼少の頃から知っている者、高校、大学時代から知っている者が合わせて十名位居たが、全く知らない者もいた。知らない者の中には、
「どうせ二世か三世のぼんくら息子だろうから、適当にお付き合いで聞いておけばいいや」
 などと思っていた者も居た。事実政界では二世、三世議員が首相になりだらしなく退任をしてしまったのを何度も見せられているから、世襲はダメだと思っている者が居てもおかしくはないのだ。
 希世彦の講演が始まった。前置きに続いて、希世彦は先ず、
「デコンストラクション」
 について説明を始めた。
「この言葉は元々哲学の新しい概念を生み出す手法として考えられたものでありますが、つまり、従来の概念を分析して分解し、改めて組み直すことにより新しい概念を創り上げる手法です。これを新しいビジネスモデルを創り上げる手法として導入し、現在ビジネス界の潮流にまでなっております。例えば現在のP社は昔N電器として発展しましたが、発展の原動力となっていたのはN電器の製品を専門に販売する約三万軒ものNショップを傘下に作り上げたからですが、近年自社の系列に関係のないY電機のような量販店が台頭してNショップを中心とするビジネスモデルでは立ち行かなくなって、デコンストラクションの手法によってビジネスモデルを再構築して業績を挽回した例があります。N電器の時代には価格より系列店の販売力が重要だったのですが、メーカー系列に拠らない量販店の台頭により、価格力や技術力で業績に差が出ることになったわけです。デコンストラクションは細かく分けるとオーケストレーター、パーソナルエージェント、マーケットメーカー、レイヤーマスターと呼ばれている概念に分けられています」
 役員の中にはデコンストラクションなどと言う概念を初めて聞かされた者もおり、次第に希世彦の講演に耳を傾ける者が増えてきた。

「オーケストレーターと言うのは、例えばパソコンが世の中に出始めた頃は、国内のパソコンメーカーが傘下の下請けから部品を調達して組上げ、市場に出す、クローズなバリューチェーンで成り立っておりました。今はどうでしょう? 当時と同じやり方をしている所はありません。(つぶ)れてしまったか、バリューチェーンを再構築したメーカーだけが生き残っていますね。IBMPC、この言葉はこの会場におられる方々には懐かしい言葉でしょう。現在のパソコン製造の源流です。コンパック、現在はヒューレットパッカードですが、コンパックやデルは従来日本のメーカーがやっていた方法とは違って世界中から最も安いパーツを取り寄せてパソコンを作る、つまり自分の所でバリューチェーンを作るプロデューサーとしての役割を担う形にビジネスモデルを変えてしまって成功されたのです。マアゾンから参考書やCDなどを買った方がおられるでしょう。アマゾンは従来物(じゅうらいもの)を提供するメーカー側が構築していたバリューチェーンを、末端の購買者がそこに入り込めるようにするために、個人に取って便利な代理店の役割をビジネスモデルにしてしまって成功した例で、昔日本にあった御用聞きのようなもので、これをパーソナルエージェントと呼んでいるのです」
 ここで希世彦はハンカチを取り出して額の汗を拭いた。出席者の中には、そんなことはとっくに知っていると言う顔の者やゴチャゴチャと面倒な説明に疲れた顔をしている者もいた。希世彦は聞き手にお構い無しに次へ進んだ。

「最後に、今日の主題でありますレイヤーマスターですが、この言葉を既に良くご存知の方もおられますが、初めて聞く方のために、少し説明をしますと、業界の中のバリューチェーンの一つの階層ですごく強いやつのことをレイヤーマスターと言うのです。当社の製品の中には、業界のシェアが70%を超える強い製品が百五品目あります。ですから、シェアが高くて当社がその分野で独走しているような場合、当社がそのバリューチェーンの階層のレイヤーマスターであるわけです。分り易く言えば、マイクロソフト社はOSの世界で業界シェアが90%もあり、OSの分野のレイヤーマスターです。パソコン用マイクロコンピューターの世界ではAMDを抜いてインテル社が業界のNO・1であることはご存知の通りで、インテルもパソコンのマイクロプロセッサー分野のレイヤーマスターだと言えます。どうですか? レイヤーマスターの意味がご理解できましたか?」
ここで希世彦は言葉を切った。
「さて、競争社会で、常にレイヤーマスターであり続けるためには何が必要だと思われますか?」
 希世彦が出席者の顔を見回すと、当てられちゃ困ると下を向く者、余所見(よそみ)をする者が何人も居た。皆顔に、
「おいおい、オレを指名するなよ」
 と書いてある。下手な回答をすれば役員会での点数に関わるからだ。
「どなたかにご説明頂いてもいいのですが、ここは私が説明を続けましょう」
 そう言い終わると、いままでだらけていた会場の空気がいっぺんに引き締まった。中にはやれやれと言う顔の者も居る。
「当たり前のことですが、業界で常にレイヤーマスターであり続けるためには、コンペティター、つまり競争相手企業より遥かに多い生産数量にものを言わせて、常にコストを優先して戦うのです。勿論地道な技術開発により、コストダウンに平行して機能の改善にも手を抜けません」
 ここで希世彦はまた一呼吸置いた。皆はそうだそうだと言う顔をしていた。
「さて、業界で常にレイヤーマスターであり続けるためにもう一つ重要なとがあります。何か分りますか?」
 また皆の顔を見た。皆、
「おいおい、先輩に質問をするなよ」
 と言う顔をしていた。
「もう一つの重要なことは、標準化であります。これは最初に話しましたこと以上に重要です。当社の強い製品百五品目の内で、グローバルスタンダード化を果たした品目が何品目あるか正確に分りますか? 当社の役員ならそんな数字は皆様そらんじているでしょうが、関連企業からもご出席頂いておりますので、ここで正確な品目数を申上げましょう」
 ここまで説明すると、
「どうせ二世か三世のぼんくら息子だろうから」
 と最初からバカにしていた役員の認識は変った。そんな役員に限って自社の製品について数字を正確に掌握していないのだ。
 希世彦は続けた。
「百五品目の内、グローバルスタンダード化に成功した製品はたったの七品目しかないのです。他の九十八品目は当社独自のスペックつまり当社の規格がデファクトスタンダードとして認められているのです。しかし、今のまま安心していてはダメです。そのため、当社の社長は最近海外の顧客や同業者を足しげく訪問して、現在デファクトスタンダードとして認められている物をグローバルスタンダードに格上げすべく努力をして参っております。これを達成するには顧客や同業社の技術者に(あまね)くご理解を頂かないと不可能です。それで、ドイツ、イギリス、フランス、イタリアを始めヨーロッパ諸国、アメリカは勿論ブラジルやロシア、東洋では中国、台湾、フィリピン、シンガポール、インドなど社長は足を棒にしてまで精力的に活動をして参っております。その甲斐あって、来年中には現在の七品目に加えて十品目程度のグローバル化が達成できる見通しであります」
 ここまで説明して、どうにか工機グループがどう言う戦略で市場に働きかけているのか理解されたようで、感心した顔の者も現われた。
 希世彦は更に続けた。
「回転機器の業界で現在もっとも関心が高い分野をご存知ですか?」
 また質問だ。会場がどよめいた。
「皆様ご存知の通りそれは電気自動車用のパーツです」
 やはり質問をすると一気に空気が引き締まるものだ。会場が静かになった。
「小生は学生時代に、工機の基礎研究所の皆様のお手伝いをして、電気自動車用のエンジンに代わる車輪駆動モーターの開発に携わって参りました。ご存知の通りそこで開発された製品は既に自動車メーカーに採用されて実用化の段階に至っております。自動車が今日のように発展したベースとなった技術はもちろんレシプロエンジンです。しかし、もう一つ重要な技術が存在していることをご存知でしょうか? それはディファレンシャルギャーの技術です。つまり差動装置(さどうそうち)に関わる技術です。この技術の発展がなければ、現在のような高速、長距離走行に耐える自動車は生まれなかったと思います。車がカーブを曲がるとき、カーブの内側の車輪と外側の車輪の回転数が違うので、それを左右違う回転数にしてやるのがディファレンシャルギャーであるわけです。ですが、前輪か後輪を駆動する自動車なら大きな問題はないのですが、四輪駆動になりますと、前後の車輪の負荷のバランスを取って無理な力がかからないようにしてやる必要があり随分技術開発が行われて来ております。所がです、ぬかるみや凍結など道路の路面の状態は様々で、片方の車輪が氷の上に乗り上げて滑って空転してしまうなど山ほどの問題をクリアするためにも技術開発が進められてきました。空転問題を解決するリミテッド・スリップ・デフ(LSD)の分野で、トルク感応式として、スーパーLSD、ボールテックLSD、ヘリカルLSD、シュアトラックLSD、機械式LSD、セレクティブLSD、トルセンLSD、クワイフLSD など多くの技術が開発されており、回転感応式として、オリフィスLSD やビスカスLSD が開発されております。更に現在では色々なセンサーからの信号を使って電子的に車輪のスリップをコントロールするアクティブ制御式も開発されております。もしも、車輪毎にモーターで駆動する自動車を設計するとして、このスリップや車輪の負荷のバランスをどのようにして解決しますか? 今工機の基礎研究所では、従来のディファレンシャルギャーの技術に拠らずに独立して四輪の駆動をコントロール可能にするメインモーターのテストモデルが完成しております。もし実用化に成功すれば、ディファレンシャルギャー周りのパーツが不要になって軽量化が進み、自動車メーカーの大幅コストダウンに貢献できるのです。そこで、この業界のトップランナーである工機グループはこの最新型の車輪駆動モーターを近い将来グローバルスタンダード化するように努力すべきであると思い、ここに提案させて頂く次第です。この新型モーターの市場規模予測は年商数千億円、近い将来一兆円ビジネスに進展するでしょう。ですから、これを工機グループの次世代の大きな柱に皆様と力を合わせて育てましょう。ご清聴、ありがとうございました」

 講演が終わると、会場は拍手喝采となった。特に海外から招いた客から講演の内容に高い評価が下されて、
「どうせ二世か三世のぼんくら息子だろう」
 からと軽く見ていた役員の頭をすっかり洗い直してしまった。
 講演を聴いて希世彦の成長ぶりを一番喜んだのは祖父であり会長でもある善太郎だ。社長の善雄が度々海外に長期出張するので、社長は遊びに出かけているのだろうなどと揶揄していた役員も認識が一変した。

二百三十六 イクメン Ⅰ

「子育てに協力的な旦那様のこと、イクメンって呼ぶんですってね」
「ああ、そうらしいね。僕もイクメンになるのかなぁ?」
「そうね、あなた、修偉(しゅうい)ちゃんのことになるとまめだから」
 沙里が修の子供を出産して、もう半年になる。男の子だったので、背が高く大きく育って欲しいと言う願いを込めて修偉と名付けた。

 米村修は沙里が懐妊した当時はどうしようもない女にだらしない男だったが、米村の養子になり、義母の沙希、小父さんの猪俣章吾、章吾の娘志穂の恋人の近藤元たちに厳しくされて、すっかり骨を抜かれて、今では女房の沙里一筋でキュートな女を見ても以前のように色目をつかうこともなくなった。その修が沙里のお腹が大きくなって来た頃からしきりと赤ん坊に関心を持ち、子供が生まれてからはすっかりパパ面になって、子供を可愛がった。
 修は六本木のクラブの仕事をしていたから、出勤は夕方だ。毎晩帰宅が遅いので午前中は就寝していたが、昼食後勤めに出るまでの間は息子の修偉にべったりだった。その変り様には祖母の美鈴、義母の沙希まで驚いていた。
「修さんは以前とすっかり変わったわねぇ」
 最近美鈴は口癖になっていた。
 そんな修を見ていて、沙里は不満だった。沙里はやはり男は家庭を大事にする必要はあるが、子供べったりよりは仕事や勉強に熱心で居て欲しかったのだ。沙里は専業主婦だ。だから仕事を持つ母親に比べて時間的な余裕があった。それで、修に細かい家事、子供の世話をしてもらわなくとも自分できっちり出来る自信があった。

「あなた、イクメンなんて言われていい気にならないで下さいな。あたし、男がちまちましたことに夢中になるのはあまり好きでないのよ」
 沙里の話に修はむっとした様子だ。
「それって、修偉をほったらかしにしてもいいってこと?」
「そうじゃないですが、ほどほどにして下さいな」
 結婚して、修から見ると沙里も変った。このごろはすっかり女房気取りで修のすることに何かと気に障ることを言うのだ。それは些細なことではあるが、度重なると男にとってはうるさくなるのだ。
「ウゼイなぁ」
 と言ってしまいたくなる位だ。
 新婚夫婦では、こんな所は結構難しいのだ。子供が出来てしまうと、自分が夫にどんな風に映っているのかなんて考える余裕がなくなって、始末が悪い。夫婦が気付いた時には、特に妻が自覚した時には既に手遅れで溝が深くなっていたりする。親兄弟と同居している場合は、時には親とか兄弟からそれとなく指摘されて気付くこともあるが、沙里の場合は実家の近くにアパートを借りて夫と子供の三人暮らしだから、沙里が自分でどんな風に夫に接しているのか客観的に見られる機会はあまりない。

 その夜は、修は珍しく泥酔して帰ってきた。沙里がどうにかベッドまで引き摺って行って寝かせた時、
「この家に帰ってくると、何か息が詰まるなぁ」
 と酔っ払った目で沙里を見て言った。
 沙里は今までにそんなことを言ったことがない修だから、多分酔っているからだろうと聞き流してしまった。だが、それがいけなかった。
 深夜に帰ってきて昼まで寝ていた修は、その日は食事もしないで、修偉の顔も見ないで、さっさと家を出て行った。いつもは沙里が見送るのだが、それすら振り切ってすたすたと出て行ってしまった。
 その夜、いつもの帰宅の時間になっても修は帰って来なかった。午前三時を過ぎて、沙里は心配になった。それで、志穂に連絡を入れた。
「あなたのパパ、もうお帰りになられてる?」
 眠そうな声で志穂が、
「あら、パパならいつもの時間、二時少し前に帰ってきたわよ。今は眠ってるけど」
 それを聞いて沙里は心配になってきた。
「どうかしたの?」
 志穂に聞かれて、
「うちの人、まだ帰らないの」
 と言ってしまった。電話の向うで、美登里小母さんと志穂が話している声が聞こえた。

二百三十七 イクメン Ⅱ

 沙里の所に章吾から電話が入った。
「修君は仕事が終わるまで一緒に居たよ。何かいつもと違って無口でさ、ぶすっとしてたな。何かあったのか?」
「それが、出るのはいつもは夕方なのに、昨日に限ってお昼に起きると何も言わずご飯も食べないですっと出て行ってそれっきりなの。何か気に障ることでもあったのか思い出しても分らないのよ」
 沙里はそう答えた。
「分った。オレの方でも気を付けているけど、とりあえずお母さんに報告しておくのがいいね」
 大抵の女は子育てに夢中になっていると、旦那のことに疎くなるのだ。だから、自分が旦那の心を傷付けていても気付かないのだから始末が悪いのだ。これは日本に限らず世界中どこに行っても同じらしい。

 朝になった。
「お母さん、修さんが昨夜から家に戻らないの」
「突然どうしたの?」
「あたし、なんか理由(わけ)が分からなくて……」
 沙里は母の沙希に昨日からの様子を話した。
「沙里ちゃん、電話じゃダメよ。お茶呑みにこっちにいらっしゃいよ」
 それで、沙里は修偉をおぶって実家に帰った。普通なら、婿が失踪すれば大騒ぎになる。婿が出向きそうな実家をはじめ、親戚、友人などあちこちに、
「うちの修がお邪魔をしてませんか?」
 と問い合わせる。それでも消息が分らなければ、警察に連絡をしたりする。転落事故か? 交通事故か? 自殺か? それとも事件に巻き込まれたか?
 沙希は章吾に様子を聞いた。それで娘の沙里に言った。
「原因は沙里ちゃん、あなたよ」
「ウソぉ、どうしてあたしなの」
「沙里ちゃん胸に手をあててじっくりと考えて見てごらんなさい? 修さんは必ず沙里ちゃんの所に戻ってくるから、あなたは待っているだけでいいわよ。騒ぎ立てないことだわね」
「……」
 沙里が返事できない様子で、沙希はちょっといらついた。
「沙里ちゃんッ! いつから母さんの娘でなくなったの? 自分のことも分らなくなったらおしまいよ」
「……」
 沙里は母の言っている意味を理解できなかった。

「ダメねぇ。久しぶりにお説教をしてあげるから、そこにお座りなさい」
「……」
 沙希は娘に話し始めた。
「修さんをうちで引き取って養子にして、あなたと結婚させた時、あなたにどんなことがあっても、いつも修さんを大事にして癒して差し上げなさいと言ったはずよ。修さんは章吾小父さんと元さん、それからお六本木のおじいさまに男として仕事人になるように厳しく鍛えて下さいとお願いしたのよ。母さんがあなたを見ていると、結婚当初は沙里ちゃんは言いつけをきちっと守ってたわね」
「はい」
「それで、修さん、性格が変わったでしょ?」
「はい。人からよく言われます」
「修さんは外に出ると皆から鍛えられて、きっと気持ちは毎日ボロボロだったはずよ。神経の細い男なら耐えられなくて挫折するわね。でも、修さんは母さんが見立てた通り、辛抱強く耐えていたわね。でもね、彼だって人間よ。一日中しごかれてボロボロになって家に帰って、また奥さんに小言を言われたらどうなるの? それじゃ一日中と言うか年中気持ちが張り詰めっぱなしで逃げ場がなくて参っちゃうわね。そう思わない」
「だと思います。やっぱ、あたしが悪かったみたいかも」
「最近、イクメンとか言って子育てを熱心に手伝う男が増えているでしょ? あなたどうしてだと思う?」
「それは社会で女性に対する姿勢が変わって来たからでしょ? 生活も男女対等にとか」
「流れとしてはそうよ。でもね、別の見方がありますよ。男も女も仕事に出ると、昔は家族的な会社が多かったし、女性社員が少なかったでしょ? だから、適当に生き抜きができたし、経済全体が成長軌道をまっしぐらで、お給料も会社の従業員も年々増えて、大勢の働く人たちが皆将来に希望が持てたのよ。でも今は経済成長が止まって、人間関係がギクシャクするわ、仕事はノルマ・ノルマできついわでお勤めをしている人たちは昔と違って息抜きが出来ず、心がボロボロになりやすい社会だわね。だから家庭に戻ると、男は家事を手伝ったり育児を手伝ったりして、息抜きをしてるのよ。赤ちゃん相手だと癒されるでしょ? おまけに男は女性化してなよなよしたのが増えてるし。修さんが修偉ちゃんにべったりなのは一日しごかれて疲れた心をそれで癒されているのよ。それが分らないで子育ても程ほどになんて言われたら、息を抜く所がないわね」
 沙里は母親の考え方が少し分ったような気がした。

「母さんはね、男に朝食や夕食の仕度をさせるのは反対よ。奥さんが病弱なら仕方がないとして。世の中は育児休暇を男も取れるように仕組みを変えてしまったけれど、母さんは大反対よ。男が赤ちゃんのおむつを取り替えたり、ミルクをあげたりするなんて、女は男にそんなことをやらせちゃダメよ。日本の国がダメになっちゃうわね。どうしてだか分る?」
「あたし、わかんないなぁ」
「先ず、基本的に男には闘争心がなくちゃダメね。企業だって今では世界中の同業者を相手に戦っているのよ。戦いに破れた企業は市場から退場してもらうしかないのよ。戦いに負けたら惨めよね。国全体で考えると国力よ。闘争心のない男たちがいくら頑張っても戦いに負けるわよ。つまり国力が弱体化して、国全体が貧乏になるわね。だから、女が強い男を好きになって、女が男の闘争心に期待したら、子育てや台所の仕事はさせないわね。昼間社会で思い切って戦って頂いて、夜は家庭でゆったりとくつろいでもらって、子育てや家事は全部女の自分がするわ。昔はね、戦争でなくても、戦う男を支えることを銃後の守りと言ったのよ。今ね、お父さんや希世彦は常に海外の競合相手を念頭に入れて戦ってるから、中国、インドなどの新興諸国では社会全体が先進国に戦いを挑んで頑張ってる時勢を良く知ってるのよ。そんな新興諸国では育児休暇を一ヶ月も取って戦いの手を休めるようなおバカさんは居ないそうよ。男に戦わせて、女はそれを支えているのよ。タダでさえ最近は日本の企業はあちこちで戦いに敗れていると言うのに、その現実を直視せずに男がなよなよしてたら日本は早晩ダメになるわよ。今、中国の富裕層が日本の企業の株を買い、日本の都心の高級マンションを買っているのを知ってるわね。日本の男たちがぼけぼけして子育てとか家事なんかしている間に気付いた時には外国に国の美味しい所を全部取られてるわね。男の子はね、父親の背中を見て育つのよ。それは今も昔も変らないわよ。家の中で奥さんに細かいことをぐずぐず言われている父親を見てどんな男の子供が育つと思う? 父親は家の中ではでんと座っていて、外に出れば競争に打ち勝つ、そんな強い父親像を見て育って欲しいわね。日曜出勤をして、仕事を間に合わせなければならない時に、奥さんが子供のために日曜出勤を取りやめて授業参観に出て下さいなんて言うのは最低よ。そんな姿を見て子供が育って欲しくないわね。修偉ちゃんは、パパは会社の仕事が忙しいから授業参観に来られなくて当たり前だと思うような子供に育てて下さいな。善太郎お爺ちゃん、お父さん、六本木の哲平お爺ちゃん、章吾小父さん、サトル小父さん、それに希世彦さん、あたしたちの周りは皆強い男たちよね。修さんも強い男になりつつあるわよ。ですからね、沙里ちゃんは修さんが帰ってくるまで静かにお待ちしていなさい。帰ってこられたら、何も聞かずに精一杯優しくしてあげなさい。きっと結婚当時の修さんに戻ってくれるわよ。男の優しさはね、女のご機嫌を取って何かと世話をやくこととは違うわよ。か弱き女を守ってくれる優しさが本当の優しさよ」

 母の話を聞いて、沙里は自分が贅沢だったと反省した。それで家に戻ると修の帰りを待った。三日過ぎて、ひょっこりと修が戻ってきた。沙里は何も聞かずに精一杯優しくした。
 翌日出掛けに、
「沙里、昔の可愛い沙里に戻ったな」
 修はぼそっとそんな風に呟いた。休みの時に修が修偉の世話をするのは修の勝手に任せて沙里は何も言わなくなっていた。家の中のことで修の足りない所は自分がカバーしてあげようと思っていた。
 そんなことがあってから、少し経って、父の善雄が修を呼んだ。
「長い間柳川社長の所の仕事を手伝ってもらったが、そろそろうちの会社の仕事をやってみないか? 最初から役員と言うわけにはいかんが、将来重役になるつもりで頑張ってもらいたいと思っているんだ。沙里と相談をしておいてくれ」
「分りました」
 修はこの時、自分は養子で軽く見られていると思っていたが、それは自分の誤解だったと気付いた。

二百三十八 イクメン Ⅲ

 前日、修は妻の沙里にイクメンだの子育ては程々になどと小言を言われてむしゃくしゃしていた。自分は世間で言われている自分の赤ん坊を世話するためにわざわざ仕事をサボる育児休暇なぞには関心はない。毎日帰宅は二時近くだ。だから息子、と言っても赤ん坊だがいつもとっくに眠ってしまっている。けれど疲れて帰宅した時、顔を見るだけで気持ちが癒されたし、男として妻子を養っているんだと自覚できて、誇らしい気持ちにもなれた。翌日昼過ぎに起きて、夕方出勤までの間は出来るだけ家族と一緒に居てやろうと思い、特に息子の修偉の世話をして可愛がった。
 結婚して修偉が誕生するまでは、妻の沙里は自分が戻るまでちゃんと起きて待っていてくれて、疲れて戻った亭主を癒すように何かと気を遣ってくれたものだ。だが、出産してからは、以前と違って帰宅すると眠ってしまっていたり、起きている時は風呂に入りたければ勝手に沸かして入ってくれ、食事は食卓の上の物を適当に食べてくれ、食べたらたまには食器を洗え、三回に一回位はトイレの掃除くらいはやってくれ、部屋が散らかっているから明日出かけるまでに掃除をしてくれ、汚れ物は脱いだら洗濯機に放り込んでおいてくれ、兎に角命令と小言が多くなり、毎晩帰宅してそんなことをぐずぐず言われて面白くないからさっさと寝床に潜り込むと、以前は疲れていても抱いてくれたのに最近はご無沙汰だわねなどと言う。これじゃたまったもんじゃない。セックスなんて、たとえ結婚してからだとしてもだ、妻を可愛いと思った瞬間にやりたいと言う気持ちが自然にそうさせるものだが、小言を言われてむしゃくしゃしている時にしても、ちっとも気持ちよくない。まして義務的にセックスをするなぞ論外だ。
 そんなことが重なっていい加減に嫌気がさしている昨夜、イクメンだの子育ては程々になどと小言を言われて遂に修は切れた。妻の沙里に手を挙げるようなことはしなかったが、昼過ぎに起きても食欲がなく、そのまま家を飛び出したのだった。

 [夫の浮気の原因は]なんてことはネツトで検索すれば四百万件ぐらいはヒットする。一般に男に問題があると言われるが、修のような心境の時に、目の前に自分の気持ちを理解してくれる女が現れたら気持ちが傾いても不思議じゃない。そんな男を救える女は美人でなくてもよし、金がなくてもよし、多少年上や年配だって構わない。太っていたって構わない。救いを求める男は、女の心が優しく美しいと感じればぐらっと傾くのだ。
 家を飛び出した修の前には残念ながら修の気持ちに耳を傾け、理解してくれる女は現われずに、大師前駅近くの牛丼屋で牛丼大盛りおんたま(卵を乗せる)で+10円、390円を食って腹一杯になった所で近くのネットカフェにしけこんだ。修はそんな自分を惨めな奴だと思った。人も羨ましがる慶応大学の経済学部を卒業してこのざまだ。ネットカフェでアクションドラマのビデオ一本を見終わると、もう通勤時刻になっていた。学生時代は何もすることがない雨の日は、女の子を呼んで戯れながらビデオを見たものだが、結婚してからはそんな余裕など全くなかったので、久しぶりにDVDを見ると新鮮な気持ちになれた。

 昼過ぎに沙希は美登里に電話をした。
「修さん、大丈夫ですか?」
 美登里も心配してくれている様子だ。
「旦那様、もうお目覚め?」
「丁度今起きた所よ」
「修のことですけど、そっとして置いてやろうと思ってそれをお願いするために電話をしたのよ」
 章吾に代わった。
「沙希さんは多分そう言ってくるだろうと予測していたよ」
 と章吾は笑った。
「修君はな、僕が見ている限り、最近は昔と違って大人になったぜ。ほっといても問題になるようなことをやらかさないと思うな」
 沙希は安心した。
 そんなことがあって、修が六本木に出社しても、章吾も元も普段と変わらない付き合いをしてくれて、何も聞かなかった。修はしばらく家を空けて沙里にも考え直す時間を作ってやろうと思った。それで、その夜はカプセルホテルにでも泊まろうと思っていると、章吾に声を掛けられた。いつもは章吾より早く帰るのに、その日は最後までのろのろとしていたから感のいい章吾に気付かれたようだ。
「おいっ、たまには付き合えよ」
 章吾に言われて素直に従った。

 夜の一時過ぎだ。こんな時間、女が居る酒場は風営法がきつくなったお陰で営業している店は先ずない。閉店にしておいて、こっそり馴染みの客と遊ぶスナックもあるが、警察に踏み込まれたらお仕舞いだ。
「こんな時間に開いてる店、ファミレス以外にあるんですか」
 修が聞くと、
「いいから、黙ってついて来いよ」
 そう言って章吾はタクシーを呼んだ。
「お前、二日か三日、家に帰らんつもりだろ?」
 タクシーに乗って突然章吾に聞かれて、慌てて正直に、
「はい」
 と答えてしまった。どうやら章吾はお見通しらしい。修はたいしたものだと思った。
 タクシーは築地の方向に走っていた。隅田川沿いの勝鬨橋と佃大橋の間に聖路加ガーデンが建っている。その近くの広い空き地に最近建った高層マンションの前でタクシーは停まった。マンションはセキュリティーが厳しく、章吾はカードを差込み、指紋照合を済ますと通用口の錠がカチッと下りた。三桁のテンキーを押すと、頑丈なスライドドアーがすぅーっと開いた。章吾と修が入るとドアーは直ぐに閉じた。章吾がエレベーターの▲ボタンを押すとドアーが開いた。章吾は修が乗り込んだのを確かめると、六十二階の番号ボタンを押した。エレベーターはかなり高速で、あっと言う間に六十二階で扉が開いた。エレベーターホールの前に左右に回廊が伸びていて、左に行って五番目のドアーの前でチャイムを押した。中から、
「皆さんお待ちしてましたのよ」
 と綺麗な女性の声が聞こえて、ドアーが開いた。そこに居間のような広いフロアーが広がっていて、奥のテーブルを囲んで女性が四人楽しそうにおしゃべりをしていた。超高級マンションだ。ドアーを開けてくれた女性を入れると五人になる。六本木のクラブのホステスではない顔の女性ばかりだ。章吾は馴れ馴れしく、
「最近調子はどうだい?」
 と聞いた。一番年長の女性が、
「ここのとこ、故障者が出なくて順調ですわ。お客様もまずまずだわね」
 と答えた。

「こいつ、オレのとこでラ・フォセットの手伝いをしている修、米村修だ。よろしく」
 章吾はそんな風に女性たちに紹介した。章吾は一番若い向井雛(むかいひな)と言う可愛らしい女性に目配せをすると、雛は修の隣に座った。ショート丈の短いスカートからすらっとした綺麗な脚線を見せて、修に寄り添ってきた。修は緊張した。女性たちはラ・フォセットのホステスたちと同様に化粧が上手で皆シャキッとしてキュートだった。章吾は年長の女性となにやらひそひそ仕事がらみと思われる話をしていた。先ほどから固くかしこまっている修を横目で見ると、
「修、ここにいる人たちは皆仲間だから友達だと思って気楽に付き合えよ」
 と促した。向井雛には予め章吾から言い含めてあるらしく、先ほどから修にぴったりとくっ付いて修が、
「ビールがいい」
 と言ったのでグラスとおつまみの料理を持って来た。
「さ、どうぞ。あたしも一口頂こうかしら」
 そう言うと雛は自分のグラスにもビールを半分ほど注いだ。
 時計を見ると二時半を過ぎていた。
「明日があるから、お開きにしようぜ」
 章吾が言うと女性たちは散らかした飲み物や料理を片付けて、まだ食べられる物は冷蔵庫にしまい、手分けしてキッチンを片付け、テーブルの上を綺麗にした。女性たちは皆手さばきが良く、片付け終わると、じゃまた明日と言って帰って行った。章吾も女性たち四人も引き揚げて行って、修と雛が取り残された。
「僕も帰ります」
 と言うと雛が修の腕を取り、引き止めた。
「章吾さんから今夜はあなたと過ごすようにと言われてますのよ。お聞きになられてない?」
「いや、何も」
「そう。ご遠慮なさらないで。三日もしたら、奥様に返して差し上げますから二晩あたしとここで楽しくしましょうよ」
 雛は魅力的な女性だ。修は章吾の気遣いに感謝した。

 雛は修にお腹が空いてないかと聞いて、修が空いてないと言うとシャワーを勧めた。広いシャワー室から出ると下着やシャツが用意してあり、
「これに着替えて下さいな」
 と雛は勧めた。
「今日脱がれた物はお洗濯をしておきますから、三日目に元通りになられてお帰り下さいな」
 と言った。
 寝室には大きなダブルベッドが据え付けられていて、高級ホテル並みだ。修は勧められるがままにベッドに入ると、後から雛が潜り込んできた。可愛らしい女性で、修は彼女に抱きつかれて野獣に変ってしまった。雛を激しく愛撫して果てると、
「あたしもすごく良かったわ。明日もして下さいね」
 と甘えた声で囁いた。雛は勿論修のものに手際よくコンドームを付けてくれたから修は安心して雛を抱けた。
「あたしのお仕事も夕方からよ。ですから、明日はお昼過ぎまで眠りましょう」
 雛は修の腕を枕にしてしばらくするとすやすや眠ってしまった。翌日一時頃目が醒めると、雛の熱い口付けがあった。洗面道具などは全て整えてあって、シェービングとシャワーを済ますと仕度してあったシャツやパンツを着た。
「あら、修さんとてもお似合いよ」
 雛の笑顔の先を見ると朝食(昼食)の用意が出来ていた。
 修が夢のような一夜を雛と過ごしたとき、家では沙里が夜明けまで修の帰りを待って待ちぼうけを食っていた。

二百三十九 一日妻

「雛の携帯に電話をして開けてもらえよ」
 そう章吾に言われていたから、仕事が終わって、昨夜雛と一夜を過ごした超高級マンションに戻ると言われた通り雛の携帯に電話を入れた。
「今戻った」
「あら、時間通りですわね。お帰りなさい。今錠を開けますから。内側のドアーの開錠暗証番号は321ですから。お部屋、お分かりになりますよね」
「ああ、部屋は覚えている」
 修がセキュリティーゲートの前に立っていると、カチャッと音がしてゲートが開いた。入るとゲートは直ぐに閉じた。内扉のテンキーで321Ent を入力すると、スライドドアーが開いた。昨日の通り六十二階にエレベーターで上がって、正面を左に折れて五個目のドアー脇のチャイムを鳴らすと、
「お帰りなさいませ」
 と雛が出迎えてくれた。
「お疲れでしょ? 直ぐお風呂になさいますか? それともお食事が先?」
 それで、
「食事が先がいいな」
 と答えると雛は修が着ている上着を脱がせ、
「いま仕度しますから、少し待ってて下さいな」
 と修の服をしまうとキッチンに消えた。間もなく雛はキッチンからワゴンに乗せた夕食を運んできた。冷えたビール、揚げたての天ぷらその他色々乗っていた。
「おまたせ。あたしもご一緒に頂くわ」
「お疲れ様。雛も仕事だったんだろ?」
「そうよ。少し前に戻ったの」
 軽く乾杯をして料理をつついた。
「美味しいなぁ。これって全部雛の手料理?」
「まさか。少しは出来合いの物を使ってますわ。でも殆どはここに戻ってからささっと作りましたのよ」
 修は手際の良さに驚いた。

 食事が終わると、修が一服している間に、雛は手際よく後片付けを済まして、湯殿に修の着替えを持って行った。とてもまめだ。
「お風呂、沸いてますわよ。直ぐに入られますか」
「そうだな、明日も仕事だから直ぐに入るよ」
「お背中を流しますけど、あたしもご一緒に入ってもいいかしら」
「ああ、僕も雛の背中を流してあげるよ」
 これじゃまるで新婚さんだなと修は心の中で笑ってしまった。
 明るい所で初めて見る雛の身体はとても綺麗であまり大きくはないオッパイは整った可愛らしい形をしていた。ヒップはキュっと絞まっていて形が良いし、肌がとても綺麗だった。本当はじっくりと目を楽しませてもらいたいのだが、じろじろ見ちゃ拙いと思って、修は遠慮がちにちらちらと覗き見をした。そんな修の視線を感じているらしく、
「あまり見られたら恥ずかしいわ」
 と恥じらいの仕草をした。
 風呂から上がってちょっとテレビの深夜番組を見ていると、湯上りの雛が修の隣に来て座って、修に寄り添ってきた。昨夜よりも修の性欲はむらむらと湧きあがってきた。
「寝ようか?」
「はい」
 修がベッドに入ると直ぐに雛も脇に滑り込んできた。修は子羊を襲う狼のように雛をむさぼった。

 修と雛の激しい情事が終わって二人で抱き合っていると、雛が話しだした。
「一日駅長さんとか、一日署長さんてあるわよね」
「ん」
「あたしね、一日妻もお仕事の一つなの」
「一日妻って今夜みたいに?」
「そうよ。あたし、今夜は修さんの若奥様に成り切ってますのよ」
「そう? 今は僕、雛みたいな奥さんが欲しいなって思ってる」
「嬉しい。あたしでもいいの?」
「勿論だよ。雛は最高だよ」
「あたし、章吾さんがおやりになられている組織の人間なの。あたしたちの組織にはあたしみたいな女性が二百名位働いているのよ」
「へぇーっ? そんなに大勢?」
「あら、章吾さんに聞いてない?」
「今初めて聞いたな」
「あたしたちのお客様は政財界の大物と言われる名前の通った方々が殆ど、そのお客様が連れてこられた方々もお客様ね。そんな人たちはお仕事でサラリーマンの何倍ものストレスが溜まるみたいなの。それで、そんな方々をせめて一日だけでもアットホームな雰囲気でおもてなしをするのよ。お仕事の内容はホステスとは違うわね。こんなマンションにお連れして、大事な旦那様としておもてなしするのよ。もちろんお客様の中にはとても素的な奥様もいらして、あたしたちよりも全てにわたってベテランの奥方もいらっしゃいますけど、そんな奥様がいらしても、あたしたちのおもてなしをとても喜んで下さるの。不思議でしょ?」
「それでいつもセックスなんかもしちゃうの?」
「ご年配の方が多いからセックスなんてなさらない方が多いわよ。あたしたちは売春婦じゃありませんからセックスを売り物にはしてないのよ。夫婦みたいにお互いの気持ちが合って、じゃ今夜しようか? なんておっしゃったときだけ奥様と同じように旦那様に尽くすのよ。あたしたちには組織の基本的な訓練があるのよ。先ず家事ね。お料理、お掃除、お洗濯は当たり前、それに加えて簡単なマッサージ、茶道、華道なんかも基礎訓練があるわね。洋服ばかりでなくて、和服がお好きな旦那様には和服で応対しますし、そんな時はマンションの和室でくつろいで頂くのよ」
「ここにも和室あるの?」
「あらぁ、そこの奥のお部屋、畳敷きのお部屋よ。あたしたちの組織で持っているマンションは皆必ず和室がありますよ」

 修は自分の知らない世界があるものだと感心しながら雛の話を聞いていた。
「あたしたちのお客様は責任の重いお仕事で疲れた方々ですから、できるだけ癒して差し上げて翌日さっぱりとしたお気持ちになられて送り出してさしあげるのよ」
「組織の訓練、どんな方が先生をしているの?」
「家事は長年大きな世帯をきりもりなさってきた方が先生。厳しいわよ。アイロンのかけ方から、洋服のほころびをお直ししたり、台所仕事じゃ糠漬けの仕方とか。作法もすっごく厳しいわね。ですから、あたしまだ若いですけど、普通の女の子には絶対に負けない家事の実力があると思います」
「それは僕も認めるよ。雛の手際の良さ、昨日から感心しっぱなしだもん」
「男性ってお年を召されていても、あたしの膝枕でお耳の掃除をして差し上げるととてもいい気持っておっしゃるのよ」
「それって男なら誰でも好きだよ」
「そうみたいね」
「お茶とかお華、習うの?」
「そうよ。仲間の女性は全員茶道、華道のお教室に通わされるのよ」
「通わなかったら?」
「先生が抜き打ち検査をなさって、落第したら組織から追い出されてしまうのよ」
「そこまでして、今の仕事をしたいの?」
「一度このお仕事をすると、このお仕事にしがみついていたい気持ちになるのよ。自分でも不思議だけど。一つはお給料ね。あたしたち、平均毎月手取りで百よ。今時こんな美味しい仕事は他にはないわね」
 修は今の自分の給料と比べて驚いた。
「二百名も居るんだろ?」
「ええ」
「それは凄いな。二百名全員の給料、掛け算すると手取りで二億、支給額だと三億を越えちゃうよなぁ。スゴッ!」
「章吾さんにそう言ったら?」
 と雛は笑った。
「このお話し、修さんはあたしたちの仲間だからと章吾さんが紹介されたのでお話をしましたけど、仲間以外には絶対に秘密よ。お客様にはそんな話は聞かれても絶対にしないわね。もちろんいくら稼いでる? なんて聞く下品なお客様もいらっしゃるけど、上手く煙に捲いちゃうのよ」
 と雛は笑った。
「あたしね、章吾さんて、謎の人物だと思ってるの。先輩の話しだとこんな大金を動かしているのに、以前、ご結婚なさる前はおんぼろの軽自動車、住んでいる所も超安いボロアパートでだったんですって」
「章吾先輩は本当のお金持ちかもね」

 話し終わると、雛は眠くなったようだ。それでも修が眠ろうと言うまで我慢して起きているのを見ると健気に感じた。
「疲れただろ? ぐっすり眠れよ」
 修が言うと嬉しそうに、
「おやすみなさい」
 と言って修のホッペタにチュッとして布団に潜り込んだ。直ぐに雛の可愛らしい寝息が聞こえてきた。修は直ぐには寝付けず、今日の雛の不思議な話を思い出していた。
「奥様のプロかぁ。そうだ、雛はプロなんだ。日本の家庭を持つ女性で[奥様のプロ]と言う意識を持って家事を切り回している者は何人いるだろうかと思った。男は会社や役所に出ればその道のプロとして誇りを持って仕事をしている者は多い。家事だって、雛の言う通りだとするとプロと言うか誇りを持てる仕事振りはあるはずだ。考えて見ると、女房の沙里も結婚当初は感心するほどよくやってくれていた。それがいつの間にかおかしくなってしまって、プロどころか責任感のないアルバイトか派遣のような家事の切り回しだ。最近は切り盛りと言うよりサボって家事の仕事を放棄してしまっている」
 自分の家では祖父母が父母に厳しかった。特に自分の母親には厳しく、母は今思い出して見ると随分頑張って家事をこなしていたように思えた。父は小さな町だが市長で人の出入りが多い。それにも関わらず不平も言わずお客様が大勢の日だって父の世話も良くやっていた。日本の女性にはそんな凄い所があったのに、最近どうしてそんな伝統が忘れ去られてしまったんだろうか? 多分核家族化してしまって、教えてくれる人がいなくて、家事の基本すら理解できていないんだろうなぁと思った。雛は相当厳しく躾けられているらしいけど、周りの大部分の若い女性たちは躾けられた経験すらないんだろうと思った。そんなことを思っているうちに、修もいつのまにか夢路を辿っていた。

「あなたぁ、そろそろよ」
 前日と同様に雛のチュッで起こされた。時計を見ると一時を回っていた。起きて食事を済ませて、書斎と思われる部屋でテレビを見ながら一服していると、雛が新聞と日経ビジネス誌を持ってきた。
「少しお時間がありますから、あたしが家事をしている間、お仕事のお勉強なんていかが?」
 おかしなもので雛にそう言われるとなぜかやる気が出てしまって、新聞にきっちり目を通してから雑誌を読んだ。読み終わって部屋の書棚を見るとビジネスや経済の書籍が沢山あった。修は経済学部出身だ。それで、改めて真面目にいくつかの本を取り出して目を通し始めた。
「今日も精一杯お仕事をして疲れて帰って来て下さいね。あたしが癒して差し上げますから」
 書籍を読んでいる間に、いつの間にか出勤の時刻になってしまっていたのに雛に声を掛けられるまで気付かなかった。居間に行くと綺麗に掃除されて全て整っていた。
「雛、愛しているよ」
 修はごく自然にそう言うと、
「愛して下さってもいいですけど、あたしに恋をしちゃ許しませんよ」
 と雛は悪戯っぽい目で笑って、チュッとしてくれた。

 仕事が終わってマンションに戻ると、昨夜と同様に雛は優しく迎え入れてくれた。
「残念ですけど、あたしとは今夜限りですわね。明日はすっきりとしたお気持ちで奥様の所へお帰りになって下さいね」
 その言葉で、修は現実に返った。最後の雛との夜も修は野獣のようになって雛を愛した。
 その日は修が章吾に連れて来られた日に着ていた下着や洋服が調えてあり、修はそれを着て仕事に出た。生憎雨だったが、雛はちゃんと雨具も用意して渡してくれた。
「三日間心づくしにもてなしてくれてありがとう。奥様が旦那にすべきホスピタリティはどうあるべきか、それから家事の値打ちと言うか大切さを教えてくれてありがとう。雛とのことは多分一生忘れないと思う」
 修は心から雛に礼を言った。修を見る雛の目が潤んでいた。
 仕事に出ると章吾に呼ばれた。
「修、ちょい勉強になったか?」
「先輩、すごく勉強になりました」
「お前、今日から沙里ちゃんの所へ帰れよ。沙里ちゃんに優しくしてやれよ」
「はい」
 だが、修はまた家に帰れば沙里にどこへ行ってたのかとか色々ぐじゃぐじゃ言われるのかと思うと気が重くなった。その顔を見て、
「修、大丈夫だよ。沙里ちゃんだって根っこは育ちがいいんだ。ちゃんと反省しているから安心して帰れ」
 と章吾が言った。修は全てお見通しだと思って改めて章吾を尊敬して見た。

 その夜と言うか二時少し前に家に戻るとまだ明かりが点いていて沙里は起きて待っていてくれた。
「お帰りなさい。お疲れでしょ? 直ぐお風呂になさいます? それともお食事?」
 修は拍子抜けして沙里の顔を見た。
「修偉ちゃん元気よ。お顔をご覧になりますか?」
 修が部屋に入ると沙里は着替えを手伝ってくれた。修は新婚の当時を思い出していた。
 その夜、修はごく自然に沙里を欲しいと思った。沙里もそんな修に応えて、二人は激しく愛し合った。
 翌日出掛けに、
「沙里、昔の可愛い沙里に戻ったな」
 修はぼそっとそんな風に呟いた。

二百四十 土建屋三郎

 仙台近くの秋保温泉の旅館で女優アオハと土建屋の佐々木三郎は恋人になって初めて体の関係を持ったが、その後アオハは懐妊しなかった。アオハと三郎はその後もデートを重ねてはいたが、アオハも三郎も多忙で日程の調整が付かないことが多かった。不思議なもので、逢いたいのに逢えないでいるとアオハは三郎を慕う気持ちが益々強くなった。親が認めてくれた恋人どうし、婚約もしていたから、運良くデートをした時にはアオハはいつも三郎に抱いてほしいと頼んだ。アオハが有名人だと言うことはもう三郎はよく分っていた。それで、デートの終わりには芸能ルポライターなどの尾行に十分に気を付けながら、転々と居場所を変える三郎のマンションで愛し合うようになった。アオハは三郎に余計な出費をさせない気遣いもしていた。

 三郎は二級の土木施工管理技術検定を合格してから直ぐに勤めている土建会社の専任の主任技術者になったので、専任の主任技術者経験が一年以上と言う受験資格条件を満たし、二級合格後の実務経験三年以上が過ぎた年の七月に学科試験を受けてなんとか合格した。
 試験はきわめて難しかったが、必死に勉強をしたために滑り込めたのだ。学科に続いて十月に行われた実地試験にも合格、三郎は晴れて一級土木施工管理技術者の資格を取得した。アオハと婚約してから二年半が過ぎていた。
 二級に合格した時は、三畳一間のおんぼろアパートに缶ビールとつまみを買って来て、独りで淋しい合格祝いをした。だが、今は恋人のアオハが居てくれたので、一級の合格祝いは奮発して都内のホテルのレストランでやった。勿論食事が終わってから、そのホテルの一室で抱き合った。
「長い間待たせてごめん。やっと奈緒美と結婚できるよ」
「じゃ、早速予定を立てなくちゃ」
「お父さんのご都合があるから仙台で挙式しよう」
 三郎は都筑の都合を配慮してそう言った。これには奈緒美はすごく嬉しかった。

 一級に合格した年の四月に三郎は若くして課長に昇進していた。三郎が勤める土建会社は㈱三橋土木工事で社長は三橋龍(みつはしりゅう)、通称ミツリュウと呼ばれていた。一級合格通知を持って三郎がミツリュウを訪ねると、社長は満面の笑みを持って迎えてくれて、
「よっしゃ、わしが役員、管理職を全員集めて祝賀会をやったるぜ」
 と言った。三郎はそんなに大げさにやってもらわなくともと辞退したが社長は聞かなかった。会社では一級の合格者は初めてだし、三郎が居れば、国の大きな公共工事に直接入札できるのだ。だから社長が喜んでもおかしくない。
 三橋土木工事は大きな会社ではない。役員と管理職全員集まっても十七名だ。ミツリュウはいつも接待に使っている料亭の女将に頼んで、その日は店を借り切って祝賀会を開いてくれた。
 年が明けて三月に、三郎と奈緒美は仙台駅に近い仙台セント・ジョージ教会で挙式した。義母の川野珠実も奈緒美も父の都筑庄平が確証はないが、希世彦の父の米村善雄と同一人物だと気付いていた。それで、奈緒美は友達の茉莉だけ招待して、沙里や志穂は呼ばなかった。人気のモデル兼女優アオハとして挙式をするなら、都内のホテルなどで盛大にやるべきだろう。だが、奈緒美は家族を中心にこじんまりと身内だけで挙式をすれば良いと思っていた。勿論、九州に居る弟の今井庄司も呼んだ。三郎の関係では青森の脇野沢の両親と兄弟の他は三橋龍と自分の同僚三名、それにいつも片腕として仕事をしてくれている部下数名だけだった。結婚式には都筑も出てくれて、とても良い感じの挙式になった。
 新婚旅行は、奈緒美のたっての希望でスイスにした。三郎は細かい理由は知らなかったが、ローザンヌに元自分のマネージャーだった女性が居るので三郎と一緒に行きたいとせがんだ。三郎は新婚旅行なぞ奈緒美が行きたい所ならどこでも良いと思ったので、全て奈緒美の好きにさせた。
 新居は、六本木のマンションの一軒置いて隣が空室になったのを幸い、そこを借りた。三郎は現場監督の仕事より会社の事務的な仕事が多くなったので、六本木なら丁度良かった。

 四月に、三郎が三橋土木工事の部長に昇進したのを機会に、奈緒美は義母の珠実に相談して記者会見を行った。都心のホテルの一室を借りたが、芸能関係の記者が二百名以上集まって厳しい質問が飛んできた。女優アオハの結婚相手が、都内の土建屋の部長だと説明されて、出席者は一様に驚いたようだった。三郎は出席していなかったから、
「綺麗なアオハをかっぱらって行った奴はどんな奴だ」
 と騒がしくなった。それで芸能誌の見出しに[土建屋三郎]と言う活字が躍った。
 記者会見の後、しばらくはアオハの周りは騒がしかったが、一ヶ月も過ぎると静かになり、思った通り結婚を発表したら仕事のオファーも減った。それで、アオハは美味しい仕事以外は断って、仕事量を減らしてなるべく家事にかかる時間を多くした。

 土建屋三郎は部長に昇進すると、かねて都筑から指導を受けていた海外進出の模索を始めた。国内の工事では都の仕事で大手が見向きもしない規模の小さな工事を積極的に受注した。今までは大手の下請けをしていたのである程度規模は大きかったが、小さな工事でも役所から直接受注すると元請けとなり、傘下の土建屋を下請けに使うと結構利益が出た。それを足がかりにして、地方都市の公共下水道の受注にも力を入れた。地方都市ではまだまだ公共下水道が整備されてない都市があるのだ。
 部長になってから、三郎は貫禄が出て来た。部下を数名従えて現場を視察して回る三郎の姿を奈緒美は見たことがなかったが、なかなかの風景であった。そんな姿を三橋龍はちやんと見ていた。それで、近い将来、自分の跡取りは三郎にしようと決めた。
 秋に、奈緒美が懐妊した。三郎はそんな奈緒美を大切にして無理をさせないようにと仕事を絞るようにさせた。それで奈緒美は次第に専業主婦のように家事に専念することが多くなった。都筑の息子の庄平も可愛らしくなってきて、珠実と親子で子育てを楽しむようになった。

二百四十一 想い出の場所

「近頃の政治家は一体何考えてるんや。低迷している消費を拡大させる言うて、サラリーマンにもっと休暇をやって、遊びに行かせて金を使わせるのがええとかぬかしやがって、デフレ対策に休暇を増やしてやるなんてアホなことを真面目な顔をしてほざきやがる。給料もろくに上がらんのに休暇ばかり増やして遊びに行かせても金を使う奴はおらんぞ。全く馬鹿面さげた代議士ばかりじゃ。日本の国は滅びるぜ。中国、ベトナム、韓国、台湾、わしらの回りの国じゃ休まんでせっせと稼いでいるのに、日本のサラリーマンが休みばかり取ってて奴等と戦えるはずがねぇのにな。世の中の景気が良くなってよ、先々給料やボーナスが増える見通しがあればだ、お前等金を使うな言うてもな、借金して家や車を買う奴は増えるし、遊びに行って金を使う奴が増えるんじゃ。それには皆休まずに働かないかんのに、仕事をサボらせることばっか考えとる。呆れてものが言えんなぁ」
 先ほどから六本木のクラブ、ラ・フォセットの社長柳川哲平は溝口と猪俣を前にして憤懣やるかたなしと言う顔で政治に悪態をついていた。最近、クラブ、ラ・フォセットの売上が伸びず、いらいらしているのだ。

「中国人の中には昔から商売上手な者が大勢居てな、最近、日本で中国人観光客を増やすために、ビザの発行条件を大幅に緩和したんじゃ。そうしたら、奴等は今どうしとると思う? 今な、奴等は日本の旅館やホテルの買収に乗り出してるんだ。中国人が日本にやってきてよぉ、泊まる所は中国資本の入った日本旅館だぜ。あっちから中国人のスタッフを連れてきよるから、中国人は泊まり易いわな。あいつら頭がええ。日本に遊びに来て日本人の旅館に泊まらせずに、奴等の息のかかった旅館に泊まらせて、儲けが出たらごっそりと中国に持っていってしまうのよ。うちでも最近は中国系のお客さんが増えたなぁ。それで、オレと古くから付き合いがある王朝偉がな、お前のとこに出資させんかって言うてきとるんや。うちもお客さんに合わせて中国人の綺麗なお姉ちゃんを入れとるから同じようなもんよ。(ワン)さんとこから金出してもろたら、その内ラ・フォセットもワンさんとこに取られてしまうわい」
 溝口も章吾も今の時世、不景気なのに増税するとかおかしな話が飛び交っているのにうんざりしていた。
「そう言や、米村のとこの希世彦は近々結婚するそうやないか? 希世彦はオレの孫や。章吾、もう日取りは決まったんか?」
「嫁さんになる渡辺美玲はあっちの大学を卒業して明日日本に来るって話は聞いてます。親がニューヨークだから、日本に来ることになるみたいです」
「あれも今は工機の役員になって偉くなったもんだな」
「美登里の話じゃ希世彦は忙しいらしいですよ」
「それはそうと、あんたとこの志穂ちゃん、(はじめ)とはあんばいよういっとるのか?」
「元のやつ、どうなってんのか親の自分にはあまり話をせんのです。娘の志穂も。まぁ、上手く行ってると思ってますが」
「結婚する日が決まったら早めに教えろよ」
「社長、分ってますよ」

 希世彦は新任の取締役として多忙だったが、今日は美玲が日本に来るので、十五時三十分までに成田に迎えに行く予定をしていた。ユナイテッド航空で、第一ターミナル南ウイング、五十七番ゲートだと記憶していた。希世彦は昼過ぎに最近買った自分の車で十二時過ぎに会社を出た。
 最近買った車はBMW M6カブリオレ、セバンブロンズメタリック、フルオートマチック・ソフトトップ、5000cc五百馬力の贅沢なやつだった。住んでいる家にミスマッチばかりか母親の沙希に、
「返していらっしゃいっ!」
 と怒鳴られた。希世彦は工学部出で一つ位自慢できる玩具が欲しいとか言って、怒る母を説得した。勿論祖母の美鈴も猛反対したが、居合わせた祖父の善太郎が、
「わしの歳まで大事に使うなら良い物に触れてみる趣味として許してやってもいいじゃないか」
 と肩を持ってくれた。大きな企業の役員が私用で乗る車としてはそれほど贅沢な車ではないが、米村家の家訓に合わなかったのだ。

 十六時過ぎに、疲れた顔をして、美玲がゲートを出て来た。手を挙げた希世彦の顔を見つけると、嬉しそうに小走りにやってきて抱き付いた。
「疲れただろ?」
「ええ、少し」
 駐車場から車を出してきて美玲の荷物を後部座席に放り込むと、
「家に帰る前に、美玲と初めて出逢った場所に行こう」
 と言うと、
「あ、あたしもそう思ってたわ」
 と喜んだ。
 十月早々だから、オープンで走るには丁度良い気候だった。走り出すと少し涼しいが気持ちが良かった。空港から東関東道に乗って、宮野木ジャンクションから東京へは向かわずに反対方向に折れて館山自動車道に入り、大分走った。やがて富津竹岡インターを下りると直ぐに内房線の竹岡駅に出た。ソフトトップを閉じて、駅前の雑貨屋のオバサンに頼んで空き地に駐車させてもらうと、希世彦と美玲は並んで海岸の方に歩いた。希世彦の手が美玲の手に触れると、驚いたように美玲は希世彦の顔を見たが、美玲は希世彦と手をつないだ。夕暮れの海は静かで綺麗だった。
 二人は砂浜に腰を下ろすと、寄り添ってじっと対岸の景色を見つめていた。10kmほど離れた対岸の三浦半島久里浜の横須賀火力発電所の煙突から白い湯気が立ち昇り、夕日に照らされて綺麗だった。希世彦は左脇に美玲の身体の温もりを感じながら目の前の砂浜に目を移すと、四年以上も前に、膝上丈の白いウォーキングショーツの上に淡いピンクの半そでシャツ姿で、ポニーテールが似合っていた美玲がその海岸で一人で子犬と楽しそうに戯れていた光景を思い出していた。
「あの時のコロちゃん、まだ飼ってるの」
「まさか。あたし、ニューヨークに発つ時、親戚の叔母さまに引き取って頂いたの。もう大きくなってるみたいです」
「可愛かったな」
「ええ、とても」
 美玲もその時の光景を思い出しているようだった。
 希世彦が少し美玲の肩を引き寄せると、美玲は希世彦に顔を近づけて目を閉じた。
 誰も居ない静かな砂浜で、長い間唇を重ねて抱き合っている希世彦と美玲の姿は、前方から射す夕日の光りに黒いシルエットとなって周囲の景色に溶け込んでいた。

二百四十二 希世彦の結婚式

 十一月三日に米村希世彦と渡辺美玲の結婚式の日取りが決まった。米村家の跡取り息子の結婚式とあって、最初から盛大な結婚式を行うつもりで希世彦と美玲は父の善雄と母の沙希に相談して場所や招待客など細々としたことを決めた。新郎の希世彦側は二百五十名、新婦の美玲側は五十名、合わせて約三百名を予定していた。日本に来てから、美玲は西新井の希世彦の家で家族と一緒に暮らしていた。結婚後も狭い希世彦の家で家族と一緒に暮らす予定で、美玲は事前に様子をよく聞かされていたから違和感はなく、祖父母も両親も可愛がってくれた。
「僕は仕事がメッチャ忙しいから青山のブライダルコンシェルジェに相談して、これだけの人数が楽に入れる式場をセットしてくれ」
 と言って美玲に任せた。美玲は義母となる沙希にお願いして一緒に青山に出かけた。出かける前に、祖父の善太郎と祖母の美鈴は、
「費用の方は全部持つからわしらの思い出になるようにしてくれ」
 と頼んだ。善太郎も美鈴も高齢になり、孫の結婚式が楽しみだ。自分達の時代には何も出来なかったから自分達の分まで入れて華やかにして欲しい、大金を抱えてお墓に行っても仕方がないとなどと言う。沙希が、
「お義父さま、どれくらい出して下さるの」
 と聞くと、
「かかっただけ全部わしが出すから心配せんでいい」
 と笑った。
「これくらいの人数ですと、お一人二十万として六千万もかかりますよ」
 と心配すると、
「一億でも二億でも構わん」
 と言う。沙希はそれじゃと美玲と相談して一応夫の善雄に電話をすると、
「希世彦の結婚式はな、うちの会社と関係のある政財界人へのお披露目、跡取りの希世彦をアピールするのが目的だから、そのつもりで贅沢な式にしてくれ」
 と言って来た。美玲は、
「お義母さま、そんなに贅沢にならなくともいいです」
 と心配をすると、
「美玲ちゃん、人の一生は浮き沈みがありますから、出来る時は盛大にしておくものよ」
 と言った。美玲は父親が金融会社の重役だが、子供の頃から質素に生活をしてきたので、結婚式にそんなとてつもないお金を使うのがもったいないと思っていた。

 ブライダルコンシェルジェの担当者は久々の大きな式を引き受けることになって、張り切っていた。あれこれ話し合った結果、
「帝国ホテルか椿山荘(ちんざんそう)のどちらになさいます?」
 と問われて、検討の結果広い庭園があり、歴史的にも由緒のある椿山荘に決めた。
「両家のご家族とご招待者の名簿をお預かりさせて頂きましたら、後はすべて当コンシェルジェでアレンジさせて頂きますのでご安心下さい」
 担当者は全て任せてくれと言った。女優の茉莉が友人の有名アーティストの出演をアレンジしてくれたので、アーティストとの調整も含めて全てブライダルコンシェルジェが準備をやってくれることになった。世の中はよくしたもので、予算さえ用意しておけば、挙式をする方はエスカレーターに乗ってぼんやりしていてもちゃんと挙式ができる仕組みになっているのだ。
 美玲の方の招待客は二十名ほどが親族で、三十名ほどは短大時代とハーバード時代のクラスメイトだった。短大は国内だから普通に問題はなかったが、大学のクラスメイトは世界中に散らばっているので大変だった。それで、義母の沙希がフォーシーズンズホテル椿山荘東京に部屋を取るように勧めてくれた。このホテルは最低一泊五万もする。三十名だとそれだけで百五十万、食事も入れると予算が二百万にもなるのだ。美玲は目玉が飛び出す思いだったが義母は、
「あなたはお金のご心配はなさらなくてもいいのよ」
 と言ってくれた。

 困ったことに、茉莉が紹介してくれたアーティストは若い女性に超人気のグループで、ライブチケットがなかなか取れないらしい。それで招待客から、
「娘がどうしても一緒に披露宴に連れてってくれとせがむのだが、実費はお支払いするので披露宴に娘を連れて行ってもいいか」
 と問い合わせが相次いだ。美玲が希世彦に相談すると、
「元々僕等の披露宴は広告宣伝みたいなものだから、希望者は全員OKを出して増えた分はコンシェルジェに言って調整してもらいなさい。費用はこっち持ちでいいよ」
 と答えた。それで当初三百名で予定していたのに、披露宴は四百名に膨れ上がってしまった。アーティストに支払うギャラ、興行諸経費がものすごくて、予定額が一億円近くにもなった。アーティストばかりでなくて、興行スタッフや会場の設営費がバカにならないようであった。

 結婚式当日はクラブ、ラ・フォセットの社長柳川が張り切っていて、持ち前の要領で取り仕切り、プロの司会者も振り回される始末だった。大々的な有名アーティストのライブさながらの会場で、招待者の娘達がはしゃいで盛り上げていて、招待客の長ったらしい祝辞は事前に最長二分以内とぶった切られて、希世彦たちの結婚披露宴なのか、ライブなのか分らないように兎に角型破りの結婚式になってしまった。
 二次会は若者ばかり集まって、フォーシーズンズホテル椿山荘東京のレストランでやった。美玲のクラスメイトはほぼ全員、それに希世彦のクラスメイトや友達が大勢集まって色々な国の言葉が飛び交いおかしな雰囲気になっていた。勿論茉莉や沙里、志穂も一緒だった。
 そんな中で、茉莉と沙里の顔色が冴えなかった。
 茉莉は、最近カメラマンと恋に堕ちたのは良かったのだが、実はカメラマンには奥さんが居ることが発覚して悩んでいたのだ。またまた不倫だ。
 沙里は沙里で、西新井のマンションに住んでいて日本に留学中のアフリカの小娘たち、オデットとシモーヌが二人ともほぼ時を同じくして懐妊してしまったのを知って愕然としていた。二人とも、
「いろいろな男とやりまくったから、誰の子供かわかんない」
 と言うのだ。これには母の沙希も頭を抱えてしまった。彼女たちの言葉が下品なのは多分遊び友達が良くないのだろうと思われた。

二百四十三 茉莉の不倫の相手

「ママ、あたしって、どうしてこうなっちゃうんだろ」
 マリアは娘の茉莉から、新しく好きになったカメラマンが、実は奥さんが居ることが分って、その話を聞いていた。前に恋愛関係になった俳優Kの場合にも奥さんが居て完全に不倫関係だった。Kの時は沙希が大金を使って穏便に解決してくれて別れさせることができた。それが、あれから半年も経たぬのにまた不倫話が持ち上がり、さすがのマリアも参ってしまった。娘の茉莉は不倫を好んでいるわけでなくて、恋人になってくれる男が欲しいのだ。男から見れば、そんな茉莉の純粋な気持ちに隙が見えたのだろう。だからカメラマンは上手く誘惑すれば簡単に堕ちてしまうと思ったのだろう。そして、事実そうなってしまった。茉莉はスペイン人の母の血を引いて情熱的で、一度燃え上がってしまうとそのまま突っ走ってしまって、身体を許してしまうのだ。マリアは夫のサトルに相談した。サトルは一人娘の茉莉をすごく可愛がっていて
「そのカメラマンのヤロウをぶっ殺してやる」
 と怒った。そんな夫が怖くなって、マリアはまた沙希と章吾に相談した。恋愛関係になっている男女の中に他人が入り込むのは難しい。だが、たった一人の愛娘に傷を付けられたのだ。それを黙って見過ごすわけには行かないのだ。

「あなたが好きになったキャメラマン、どんな方?」
 マリアは娘の茉莉に聞いた。
「名前は柴田裕嗣(しばたひろつぐ)って言うの。歳は確か二十六歳って言ってたわ。背の高さはあたしより少し低いな。飾りっけのない人で、あたし、そこに惹かれたのかも」
「どこに住んでいるの」
「まだ教えてもらってないから分んないな。世田谷の方って言ってたよ」
「好きになったきっかけは?」
「CMの撮影、彼はあたしの担当なの。それでいつも写真を撮ってもらう時、なんか相性がいいのかなぁ、あたし、彼に指示された通りにして撮ってもらって、仕上がった写真を見ると全部素的に撮れてるのよ。彼ったら、気持ちがぴったり合うからだって言うのよ。あたし、彼に撮られている間に、いつも彼に裸の身体を見られて、触られているような気持ちにさせられて、なんか興奮してしまうの。彼って、それだから仕上がった写真に魅力が出てるんですって。それで一ヶ月前くらいだったかな? 撮影が終わって、あたしまだ興奮が醒めてなくて、そんな時、彼に静かな所でワインでも飲まない? って誘われて、少し酔ってしまって、気付いたら二人とも裸になって抱き合ってた。彼、とても優しくて、気が合うし、好きになってしまったの」
「それから何回ラブしたの」
 聞いているマリアは自分でも恥ずかしくなった。だが、今後のことを思うと、大切な話だから聞かないわけにはいかなかった。
「五回、確か五回抱かれた。いつもお仕事が終わってから」
 茉莉も顔を赤く染めていた。

「どうして不倫だと分ったの」
「結婚してって言ったら、結婚してて、奥さんが居るって告白されちゃった。あたし、その時、一瞬目の前が真っ暗になって、口がきけなくなっちゃった」
「子供さんは?」
「居ないみたい。奥さんは絵を描く人らしくて、パリに行ったきりずっと帰って来ないんだって」
「じゃ、今は独り暮らしされてるの」
「そうみたい」
 マリアが沙希と章吾に茉莉のことを相談した。
「章吾さん、あなたのネットワークでそのカメラマンと奥さんのこと、調べられない?」
 沙希はマリアの話を聞き終わると章吾に聞いた。
「こう言う話は、相手がウソを言ってないか、事前に良く調べてから交渉だわね」
「国内は調査する上で問題はないです。奥さんの方はパリ在住なら、日本大使館とパリに住んでいるこっちの仲間の線の両方から調べて見ます」
 沙希はそのカメラマンがウソをついてないなら、一応信用して今後のことを交渉してみたいと思った。もしも、少しでもウソがあれば、茉莉には可哀想だが慰謝料を取って男を切り捨ててしまおうと考えていた。どっちにしても、章吾の調べが終わってから動こうと思った。

 沙希はマリアと茉莉を伴って、問題のカメラマンに会っていた。カメラマンは見た目は真面目そうだったが、魅力に乏しい男だった。茉莉がどうしてこんな奴を好きになったのか分からないが、彼が撮影したと言う写真は、確かに茉莉が言うようになかなかの出来だった。
「あなた、茉莉のことをどうなさるお積り?」
 柴田裕嗣は冷や汗を拭きながら、
「妻子がある身で、関係を持って済まなかったと思ってます」
 と答えた。
「あなた、済まないと言って済むと思っていらっしゃるの?」
 沙希の目じりは吊り上がっていた。
「僕がどうすれば納得して頂けるのでしょうか」
 沙希は開き直った裕嗣にむっとした。
「相当の慰謝料をお払いになるか、奥様と離婚されて茉莉と結婚するしかないわね」
 裕嗣は困った顔をした。
「あなた、覚悟を決めて茉莉を抱いたんじゃなくって?」
「茉莉さんはちょっとした遊びのつもりだと思ってました」
「あなた、そうやって今まで色々な女と関係を持ったんじゃありませんこと?」
 これには裕嗣はむっとした表情で反論した。
「僕は妻以外の女性と関係を持ったのは茉莉さんが初めてです。ウソじゃないです」
 沙希はこれ以上裕嗣を追い詰めても何も出ないだろうと思った。章吾の調査結果が出てから、もう一度この男と会わねばならないだろうと思った。
「今日の所はこれくらいにしておきますが、あなたご自身、この次に会うまでに、どうすれば良いか良くお考えになっておいて下さいね」
 と締めくくった。裕嗣は、
「分りました」
 と答えた。

二百四十四 アフリカ小娘の不倫

 沙希はザンビアに住んでいる浜田に電話をした。
「お久しぶりです。娘さんのオデットちゃんとシモーヌちゃんのことですが、困ったことになりまして」
「沙希さんには世話になりっぱなしだな。困ったこととはどんなことかね」
「オデットちゃんとシモーヌちゃん、ほぼ時を同じくして二人共お腹に赤ちゃんが出来ちゃったのよ」
「へぇーっ、本当か?」
「はい。産婦人科の医者に診せましたから間違いはないですよ」
「そうか。それは嬉しいね。それで直ぐ産まれるのか」
「まだ二ヶ月位ですから、産まれるのは当分先だわね」
「兎に角、おめでたい話だ」
「ですが、彼女達、誰の子供か分らないと言うのよ」
「へぇーっ? やった相手が分らないのか」
「そうなの。あたしも空いた口が塞がらないわよ。何人もの男と関係をしたらしくて、それで誰の子供か分らないんですって。あなたの子供らしいわね」
 沙希は少し皮肉を言った。
「おいおい、それは昔の話だよ。今はお行儀良くしてるぜ。なんたって、ザンビアじゃ名士だからな」
 と浜田は大声で笑った。
「それで、どうなさいますか」
「元気な子供を産ませたいね。こっちは人手不足、血縁のある者なら男でも女でも大歓迎だよ」
「二人とも学校はどうするの」
「中退させてこちらに送り返してくれよ。できれば娘をやった男も一緒に送ってくれると嬉しいね」
「ですが、誰の子か分からないのよ」
「そんなことはどうでもいいよ。兎に角、娘が結婚したい男を選んで一緒にザンビアに送ってくれよ」
 浜田は娘達を物みたいな言い方をした。
「分りました。こちらで適当に処理しますから、そちらへ届けた男の子たちはあなたがきちっと対応して下さいな」
「それは任せとけ。野郎が日本に逃げ帰らないようにしっかりと捕まえておくよ」
 浜田はまた豪快に笑った。

「あたしはいつもいつも後始末をする役回りだわね」
 と沙希はアフリカからやってきた二人の娘を前に、独り言を言いながら、
「あなたたち、今までエッチをした男の子を明日全員呼びなさい」
 オデットとシモーヌは、
「はぁーいっ」
 と答えた。沙希が女の人生で大変なことを話題にしているのに、二人とも悪びれた様子もなく、けろっとして明るく返事をしたので、沙希は拍子抜けした。
「ここじゃ狭いわね。小母さんが良い所を考えてあげるわ。いいわね」
「はぁーいっ」
 二人はさっきと同じ返事をした。
 沙希は六本木のクラブ、ラ・フォセット社長の柳川に電話をして、ことの顛末を概略説明してから、
「明日、そちらの広い会議室を貸して下さらない」
 と頼んだ。
「可愛い娘の願いごとなら何でも聞くぜ」
 と柳川はOKしてくれた。それで、沙希はラ・フォセットの略図を書いて二人に付き合った男の子全員に連絡をして必ず来るように頼めと指示した。
 約束の時間の十時前後に、オデットとシモーヌとエッチをした男の子たちが集まった。場所が六本木でクラブ、ラ・フォセットと聞いて、それが効いたらしい。
 集めてみると、オデットの彼が全部で五人、シモーヌの方は七人も居た。彼らは何で呼ばれたのか良く分らずに、みな何のことかと訝しげな顔をしていた。なまじっか余計な説明なぞしない方が良いと沙希は考えて、
「絶対に会いたいから来て」
 と誘えと言っておいたのだ。だから、彼らの大部分はまたオデットかシモーヌとクラブで遊んでからエッチが出来るものと期待してのこのこやって来たのだろう。クラブの入り口で章吾たちがお客様のように丁寧に会議室に案内をしてくれたまではいいのだが、会議室に入ると知らない若い男たちがうようよ居て、帰ろうとする男も居たが、溝口が会議室の入り口で凄みをきかせて帰らせなかった。
 全員揃った所で沙希はオデットに、
「あなたの五人の彼の中で一番好きな男の子を選びなさい」
 と言うと、オデットは下を向いている男を指さした。続いてシモーヌにも同じことを言うと、シモーヌはちょっとイケメンの男の子を指さした。沙希は、
「そこの方、お名前は?」
 と聞くと、
「池部です」
 と答えた。下を向いていた奴だ。続いてイケメンの男の子に、
「あなた、お名前は?」
 と聞くと、
「鰐淵靖男です」
 と答えた。
「今日はお集まり下さってありがとう。今お名前を聞いた池部君と鰐淵君以外の方はどうぞお帰りになって下さい。出口で交通費を差し上げますから受け取ってお帰り下さいね」
 と沙希が言うと、皆ぶすっとした顔で席を立った。溝口や鈴木などクラブの用心棒が目を光らせているので、皆余計な口はきかずにさっさと出て行った。
「池部君と鰐淵君、近くへ来て下さいな」
 沙希は二人を近くに呼び寄せた。
「あなたたちにお話しがあります。ここに居る娘達のお腹に赤ちゃんが出来たのよ。あなたたちの子供よ」
 それを聞いて二人とも明らかに動揺していた。
「今日はね、男としてきっちり責任を取って頂くためにお出で願ったのよ。責任を取るって意味分りますよね」
 男二人はドギマギしていた。
「なんとかおっしゃいよっ」
 沙希の目が吊り上がった。沙希が目を吊り上げて話すと有無を言わせぬ迫力があった。
「どうすればいいんですか」
 鰐淵が聞いた。こいつはどうやらちゃんとした家庭の息子らしく、話し方が丁寧だった。
「決まってるでしょ? この()と結婚なさい」
「……」
 鰐淵は困り果てた顔をしていた。
「あなた、生娘とエッチして赤ちゃんができたら出来ちゃった結婚するしかないでしょ」
 沙希はたたみ掛けた。すると池部が、
「分りました。オレ結婚します」
 と答えた。
「ご両親はどちら?」
 鰐淵は名古屋市中村区だと答えた。池部は岡山県、高梁市(たかはしし)に母が居ると答えた。父は亡くなりましたと付け加えた。沙希は二人の実家の電話番号を聞くと、その場で電話を入れて確かめた。二人ともウソは言ってなかった。
「では、近日中に弁護士と一緒にご実家を訪ねてお話しをさせて頂きますから、ご実家の方にきちっとご連絡を入れておいて下さいね。分ったわねっ」
 沙希は念を押した。
「あなたたち、この娘たちの他に彼女が居るのでしょ」
 沙希は(かま)をかけた。二人とも、
「はい。居ます」
 と正直に答えた。
「その彼女には可哀想だけど、別れて下さいね。不倫をしてしまったのですから文句は言わせませんよ。どうなの? 約束ですよ」
 二人とも困り果てた顔をしていたが、
「はい」
 と小さな声で答えた。

二百四十五 アフリカ小娘と結婚 Ⅰ

 オデットが結婚したいと選んだ池部は池部寿朗(いけべとしろう)と言う名前で、岡山県高梁市の市立高梁中学から県立高梁高校に進んで、卒業後大学受験をしたが落ちて浪人生活をしていた頃、父の池部士朗が急病で他界したと言う。卒業当時高一だった妹が一人居る。
 経済的理由で、寿朗は母と相談して将来カリスマ美容師になりたいと、東京の専門学校に行かせてもらうことになった。学費以外の生活費はアルバイトで何とかする条件だった。母の池部千鶴は息子の熱心な気持ちに折れて、寿朗を東京に出した。寿朗は東京に出ると、どこに通うか自分であれこれ調べた結果、夜間部があり自分が目指す方向に合っていると思ってハリウッド美容専門学校を受験した。
 一般入試もあるのだが、自分験しのつもりでAO(アドミッション)入試にチャレンジをした。寿朗は目立たない容姿で決してイケメンではないことを自覚していたが、女性を美しく見せる感性と手先の器用さには自信があった。それで、受験前に、六本木六丁目にある学校を訪ねた。すると受付の女性が丁寧に説明してくれた。美容師学校らしく、受付の女性はとても美しく、地方から上京してきた寿朗はそれだけで夢の世界に一歩足を踏み入れた気持ちになって興奮していた。
「あなた、AO入試ってご存知?」
「いえ、詳しくは知りません」
「普通の入試はいきなり受験すればいいんですけど、AOの場合は一般の受験者と違って、入学願書をお出しになられてから、試験日より少し早くに入学前事前学習と言う形でこちらの学校の美容の特別カリキュラムを受講していただくの。そのご経験を活かして選抜試験を受けて頂いて、合格すれば入学を許されるのよ。頑張って下さいね」
「はい。ありがとうございました。オレ、頑張って絶対に合格します」
 寿朗は受付の女性があたかも試験官であるかのようにガンバルポーズをして見せた。それを見て、その美しい女性が微笑んでくれた。寿朗は全身に震えがくるほどその女性に魅せられてしまって、
「オレ、絶対に合格して、この人に合格を報告するぞ」
 と思った。
 寿朗は運良く美容専門学校の選抜試験に合格した。有名な美容専門学校なので、競争倍率が高く、難関だが、見事に一発で合格した。四年制と二年制があるのだが、経済的な理由で二年制にした。
 あれから二年、寿朗は夢中で取り組んでいたので、二年間はあっと言う間に過ぎた。昼間は色々なアルバイトをして生活費を稼いでいたから、遊んでいる暇はなかった。卒業を目前にしたある日、六本木の学校を終わって帰り道、黒人の魅力的な二人の女の子に呼び止められた。
「すみません。お話ししてもいいですか」
「えっ? 何か?」
「あのぅ、西新井にはどうすれば帰れます?」
「ニシアライ?」
 寿朗は一瞬何のことか分らなかった。
「ニシアライって東武伊勢崎線の?」
「そう。そこに帰りたいの」
 寿朗はこの二年間アルバイトで色々なことを覚えた。それで直感的に携帯の時刻を見た。
「あれぇ、この時間だともしかして、もう電車はないかも」
 そう言って二人と一緒にメトロの改札口に降りて駅員に聞いた。
「お客さん、もう終電は行った後ですね」
 寿朗は二人を見て、
「名前、何て言うの?」
 と聞くと一人が[オデット]もう一人が[シモーヌ]と答えた。寿朗とアフリカ娘との出会いだった。
「仕方ないなぁ。狭くても良かったら僕のアパートに泊まったら?」
 寿朗がそう言うと二人はぱっと明るい顔になって、寿朗についてきた。寿朗が住んでいるアパートは中目黒にある小さなワンルームだった。メトロ六本木駅からは六本木―広尾―恵比寿―中目黒なので三つ目で近い。
 その夜、知り合ったオデットとシモーヌを自分のベッドに寝かせて、寿朗は床に毛布を敷いて寝た。翌朝はアルバイトで朝が早い。 それでアパートに着いてシャワーを終わると直ぐに眠った。翌朝簡単な朝飯を食べさせてから携帯のアド交換を済ますと一緒にアパートを出て駅で別れた。オデットとシモーヌとはそれっきりだった。だが、それから一週間も過ぎた日にオデットからメールが入った。
「また電車がなくなったの。泊めてくれない?」
 寿朗は六本木駅で落ち合った。今度はオデット一人だった。
 オデットと二人でマンションに着いて、前と同じようにシャワーを済ませてオデットをベッドに寝かせ、自分は床に毛布を敷いた。すると、
「トシィ、ここで一緒でいいよ」
 とオデットが誘った。
 寿朗は魅力的な黒人娘と同じベッドに入って落ち着かなかった。なかなか寝付けないでいると、
「トシィ、眠った?」
 耳元でオデットが囁いた。
「ダメだ。オレ、下で寝るよ」
 するとオデットが抱きついてきた。
「いやぁ、一緒に寝てぇ」
 黒人独特のふくよかな胸、引き締まったヒップ、寿朗は我慢が出来なくなった。オデットは寿朗が貸した大きなシャツの下には何も着けていなかったし、下はショーツだけだ。
 オデットに脚を絡まされると、寿朗は限界になり、オデットを抱きしめて、ショーツをずり下ろして自分のものをオデットの中に入れた。オデットは、
「気持ちいい、あたしトシィ好きだよ」
 と囁きながらやがて夢中になって寿朗を求めた。寿朗はオデットの中に射精して果てた。こうして、二人は結ばれてしまったのだ。
 それからは、オデットから毎日のようにラブメールが届いた。寿朗は今彼女だと思っているのは美容学校のクラスメイトでお茶くらいしかしたことがなく、身体の関係がある彼女を持ったのはオデットが初めてで、オデットと結ばれる前は童貞だった。だから、自分の恋人だと思って丁寧にメールを返信した。
 その後二回、二人は寿朗のアパートでセックスをした。抱く度に、寿朗は次第にオデットが好きになっていた。

 沙希は寿朗とオデットを伴って、弁護士と一緒に新幹線に乗り、岡山を目指していた。沙希は色々寿朗から話を聞いて、一度だけ自分の髪を寿朗にやらせてみた。それで、学校を出たら寿朗の独立を応援してやってもいいと思っていた。自分の資金力から店を出させるなんて大したことではなかったが、それよりも沙希は寿朗の鮮やかな手さばきを体感してみて、才能を認めていたのだ。
 岡山の高梁市の寿朗の実家を訪ねると、母だと言う池部千鶴はすごく恐縮していた。話を聞き終わると、
「こんなことになってしまって、結婚をさせるしかありません。どうぞよろしくお願いします」
 と逆に沙希に息子のことを頼んだ。
「随分簡単に済みましたわね」
 沙希は弁護士に話すと、
「私の出番はなかったですな」
 と弁護士は笑った。
「学校を卒業なさったら、直ぐにオデットとお母さまとご一緒にアフリカに行きましょう。旅行費用はあたしか先方で持ちますからご心配は要りませんよ。もちろん、妹さんもご一緒にね。あちらに着いたら直ぐに結婚式を挙げますからそのつもりでいて下さい」
 寿朗は素直に同意した。

 寿朗のことが落着すると、
「鰐淵君の方は難しそうよ」
 と沙希は弁護士に言った。
 調べた所、鰐淵靖男は名古屋市中村区で飲食店を経営する鰐淵靖人と言う男の一人息子だった。靖男は中学、高校とスポーツに熱心で体格が良く、イケメンだったから、小学校の時代から女の子にはもてた。大学は世田谷の小田急線祖師ヶ谷大蔵に近い日本大学商学部で高校時代勉強が出来なかったので推薦入学で入ったのだ。父の鰐淵靖人は息子の入学のために、かなりの金額を積んだ。
 鰐淵靖人は息子が学校を卒業したら、今二店舗を持っている飲食店を息子に継がせるつもりでいた。

二百四十六 アフリカ小娘と結婚 Ⅱ

「うーん、鰐淵をどう言う手で攻めるかだな。最初を間違えると、せいぜい慰謝料三百か五百で手打ちに追い込まれる可能性が高いなぁ」
 先ほどから沙希と弁護士、それに大事を取って柳川が馴染みにしている刑事に休暇を取ってもらって、鰐淵靖人を攻める手立てについて相談していた。刑事は警視庁の村田長治(むらたちょうじ)と言うベテラン刑事だ。
「強姦の線が一番脅しが効きますぜ」
 長治は強姦の線が効果的だと言った。
「なに、仮に、相手の鰐淵靖男が否定してもだ、シモーヌが無理に靖男のチンポコを突っ込まれたと言や、強姦罪は成立しますぜ。裁判でどんな結果が出るかなんて考える必要はありませんな。我々は裁判以前に強姦で告訴するぞと脅かしてやるわけだから」
 経験者の長治が言うことには現実味があった。
「そうね、鰐淵靖人と息子を上手くザンビアまで連れ出してしまえばこっちのものですわね」
 沙希は今までにもいくつもの難題を解決してきたから独自の感が働いた。
「昔から喧嘩をするなら自分の土俵に引き込んでやれと言いますな。相手の土俵で喧嘩をすれば勝ち目が減りますからな」
 弁護士の斉藤勉が沙希の意見に同調した。斉藤は以前俳優Kの不倫騒ぎでも力を貸してくれた男だ。米村工機の顧問弁護士の一人だが、経済的な事案と言うより、嫌がらせや民事訴訟された時の対応が主な仕事で、警察にも顔が広く、揉めごとの解決には力をもっていた。

 検討の結果、刑事が言う強姦罪で攻めて見ることにした。それで、沙希はシモーヌを呼んで、
「あなたはね、エッチしたら嫌だと言うのに鰐淵君に無理にエッチされたのよ。今回鰐淵君を逃がさないでしっかりと捕まえるには、強姦されてしまったと言い張るのが一番いいのよ」
「強姦って?」
「ああ、言葉を知らなかったわね。強姦と言うのはね、シモーヌちゃんが嫌って言うのに無理に鰐淵君が自分のペニスをシモーヌちゃんの中にインサートしたってことなの。意味が分る?」
「ああ、それってレイプのことでしょ?」
「そう、その通りよ。シモーヌちゃんは誰が何を言っても、あたし鰐淵君にレイプされましたと言うのよ」
「分りました。あたし、絶対にそう言います」
 どうやら[レイプ]と言う単語がシモーヌの脳みそにしっかりとセットできたらしいのが分って沙希は第一関門突破だと思った。
「シモーヌちゃんのお腹の赤ちゃんは鰐淵君の子供よ。それもきちんとお話をしなくちゃダメですよ」
 沙希は念を押した。
 沙希は鰐淵靖男に電話をして、
「三日後に、こちらの弁護士さんと一緒にあなたのご実家に伺いますから、あなたも帰省して待っていて下さいな。分った?」
 沙希の剣幕に押されて靖男は渋々、
「分りました」
 と答えた。
 靖男に電話してから三日後、沙希はシモーヌと弁護士と刑事の四人で新幹線に乗り、名古屋を目指していた。
 名古屋駅に着いて、鰐淵靖人に電話をすると、店の方に来てくれと、概略目印を教えて来た。言われた場所にタクシーを飛ばした。
 今は大抵のタクシーはGPSナビゲーターを搭載しているから、住所さえ分れば確実に連れてってくれる。目印は聞いてはいたが使わずに済んだ。

 鰐淵靖人の店は二十席位の規模の洋食屋で、昼過ぎだったが客の入りはそこそこ良かった。沙希が店の扉を開けると、
「いらっしゃいませ。何人様でいらっしゃいますか」
 と女性の店員が明るく声をかけた。
「あたしたち、お客様でなくて、こちらの社長さんに用があるの」
 店員にそう告げると、
「じゃ、奥の事務室へ行って下さい」
 と指さした。沙希たちが事務室と思われる開けっ放しの入り口に行くと、奥から鰐淵らしき年配の男がちらっとみて、立ち上がってやってきた。
「あんたら、会いたくない客だがな、仕方にぇぃ、忙しいから要件だけ言って帰ってくれ」
 と睨み付けた。息子の靖男の姿は見えなかった。
 突然客席にも十分に聞こえる大声で、
「おいっ、要件を言おう。あんたとこの息子がなぁ、ここにいる外国の資産家のお嬢さんをレイプしたんだ。強姦だよ。こちらさんが告訴をしたいって言うんだがな。わしはこういうもんだ」
 刑事の村田だった。村田は胸の内ポケットから警察手帳を出して見せて、
「東京から来た警視庁の村田だ」
 と言った。
「おいっ、あんたの息子の鰐淵靖男を強姦罪で告訴していいんだな。告訴となると息子は逮捕だ。外国の資産家のお嬢さんだからな、国際問題になるぜ。わしらはこちらのお嬢さんの許可をもらってだな、記者会見をすることになるな。あんたとこの息子の顔写真が新聞テレビをにぎやかにしてくれるぜ。鰐淵靖人の長男、鰐淵靖男、強姦罪で告訴される。ってな具合にな。強姦罪はな、最低でも三年、長くて二十年、刑務所のメシを食ってもらうことになるぜ。それでもいいんだな」
 村田は故意にでかい声を出した。それで客席の何人かは何事かと覗きに来た。
「おいっ。待ってくれ。強姦したなんて聞いてないぞ。黒人の女に結婚をせまられてるから、何とかしてくれと息子が言ってたが話しが違うじゃないか」
「あんたの息子がだな、自分に都合の良いことを言っても常識的には通らんのだよ。裁判所はな、女性の言い分を尊重するのよ。やられた方は弱い立場だから当然だよな。女が男を強姦するって罪は法律にはないのよ。強姦罪の被告人は男と決まってるのよ」
 村田は凄みをきかせた。
「あんた、告訴だの逮捕だの、そう言うのは靖男が可哀想よ。ちゃんとお話しを聞いたら」
 奥の隅で先ほどから話を聞いていた女が靖人に口添えをした。どうやら女房らしい。

二百四十七 アフリカ小娘と結婚 Ⅲ

「おいっ、コーヒーを四つ、いやわしの分も入れて五個持ってきてくれや」
 と店の女の子に声をかけた靖人の態度が変わった。先ほどから立ち話で門前払いを辞さぬ勢いだったが、目の前のソファーを目で指して、
「そこに座ってや」
 と言った。四人が座った所に店員がコーヒーを持ってきて、一体何があったのかと興味深そうに周囲の様子を見た。
「話を聞かせてもらいましょか」
 靖人が聞いた。そこで沙希が説明を始めた。
「こちらのお嬢さんは私の親戚の娘さんで、シモーヌちゃんと言います。日本に留学に来ている間、私共でお預かりしている大事なお嬢さんです。ここに産婦人科の診察証明がありますが、この子はそちらさんの長男の靖男さんに強姦されて子供を懐妊しております。この子と息子さんが身体の関係を持ったことは既に息子さんがお認めになっております。アフリカのザンビア国のこの子の父親と話をしました所、致し方がありませんので、息子さんと結婚させることを希望しております。もし息子さんとこの子の結婚に同意して頂けますなら、強姦については不問とさせて頂いて、早急に挙式をさせたいと考えております。ですが、もし結婚させることに同意頂けない場合は強姦罪で息子さんを訴える覚悟でおります」
 沙希はそこで冷めたヒーヒーをすすった。
「強姦したなんて息子から聞いてないぞ。お互いに好きでやったんだろ?」
 靖人はシモーヌを見た。
「レイプだよ。レイプされたの」
 シモーヌが答えた。
「往生際の悪い人だな。本人がそう言ってるだろ?」
 刑事の村田が凄んだ。それで靖人は観念したようだ。
「結婚ねぇ。うちの靖男は一人息子でさ、大学を出たら跡を継がせるつもりだから、その娘さんがこの店の仕事を出来るかなぁ?」
 すると沙希が遮った。
「無理ですよ。この子は大金持ちのお嬢さんで家にはメイドが十人も居るんですよ。実家に帰れば家事一切は全てメイドがやりますから、小さな飲食店の手伝いは無理ですよ」
 靖男は意外だと言う顔をした。
「貧しいアフリカの国で、信じられんね」
「ではこうしましょう。先方は挙式を自国でやりたいと言ってますから、一度ご両親と一緒にアフリカに行くことにしましょう。もちろん私も付き添いで同行します。今の話がウソか本当かご自分の目でしっかりと確かめて下さい。今日はこちらに私共の顧問弁護士さんに来て頂いております。婚約とアフリカでの挙式に同意する内容の書類に捺印頂いて、後日アフリカへ渡航する日程などをご連絡しましょう。そちら様のパスポートが整いましたら直ぐに渡航します。渡航費用その他の経費は全額先方で負担をするそうですから、ご両親と息子さんは何も持たずにいらして頂いて結構です。おそらく一週間程度の滞在になりますから、パスポートなどを用意しておいて下さい。先ほどから刑事の他のもう一人の落ち着いた男は誰だろうと思っていた靖人に顧問弁護士だと紹介されて、鰐淵靖人は気分的にすっかり沙希のペースに乗せられてしまった。
 結局弁護士が用意してきた[結婚及びザンビア国での挙式に関する同意書]と言う堅苦しい書類に署名、捺印をさせられて靖人は、
「そちらさんの言う通りにしますわい」
 と投げやりに独り言のように呟いた。牙を抜かれてしまった虎みたいなものだ。

 帰り際、靖人と女房は揃って店の出入り口の外まで出てきて、頭を下げた。
 タクシーを呼び止めると、四人は名古屋駅へ向かった。新幹線に乗り込むと村田のために沙希は缶ビールとつまみを買って来た。遅いお昼になったが駅弁も買い込んだ。
「上手く行ったなぁ」
 と村田。
「村田さんの脅しが効いたんですよ。日本人は警察と聞くとビビリますからなぁ」
 と弁護士の斉藤。
「あたし、ヤスと結婚できるんだよね」
 とシモーヌ。沙希はシモーヌに、
「そうよ。準備が整ったら、オデットちゃんも一緒にみんなでアフリカに帰って、直ぐに結婚式を挙げましょう。お父さんが楽しみに待ってるわよ」
 と言うと、
「じゃ、あたし、明日からお土産をいっぱい買わなくちゃ」
 などと言う。人の苦労も知らずにこの子ったらと沙希は苦笑した。

 鰐淵靖人から、
「パスポートの準備が整った」
 と連絡が来た。沙希は関空からドバイ経由でザンビア・ルサカ往きのアラブ系のエミレーツ航空のチケットを買った。池部寿朗と母親の千鶴は岡山だ。鰐淵靖男と鰐淵夫妻は名古屋だ。なので、関空から飛び立つことにしたのだ。沙希は弁護士の斉藤に同行を依頼していた。オデットとシモーヌを合わせると全部で九名だ。沙希は少し予算を弾んでビジネスクラスにした。長距離の飛行なので大事を取ったのだ。新幹線、新大阪駅で待ち合わせをして、皆揃った所で梅田の新阪急ホテルに移動して、そこから関空までのリムジンバスに乗った。沙希と弁護士以外の者達は皆海外旅行とあって楽しそうにしていた。あんなに抵抗した鰐淵靖人も空港に着くと先頭に立って一同を引率していた。
 アラブ系のエミレーツ航空は世界でも大きな航空会社で、ビジネスクラスとなればサービスも良い。アラブ人の若い綺麗なスチュワーデスに靖人が色目を遣うので、女房のクミにももをつねられて、
「イテテテェ」
 と悲鳴を上げて皆を笑わせた。
 定刻に飛行機はドバイに向かって飛び立った。快晴の良い天気に恵まれて、オデットは寿朗と、シモーヌは靖男と隣り合わせの席でもうラブラブの雰囲気になっていた。ドバイで飛行機を乗り換えて、一行はザンビアの首都、ルサカに向かった。

 ルサカの空港に無事に着陸して入国手続きを済ませて到着ゲートを出ると、白い手袋をした運転手が二人、一行を出迎えてくれた。運転手の案内で車寄せに出ると、真っ白の大きなリムジーンが二台停まっていた。テレビでは時々映像を見てリムジーンを知ってはいたが、まさか自分が乗るとは靖人は思ってもいなかった。アフリカは貧しい国と言う過去のイメージとは打って変わって、空港から少し離れて近代的な高層ビルが立ち並び、東京や名古屋と変らない光景に靖人は驚いていた。
 沙希に近付く女性が居た。中嶋麗子だった。彼女はすっかり落ち着いた年配の婦人になっていた。
「米村の奥様、ご無沙汰しております。さ、どうぞ、弁護士の先生とご一緒に私が浜田さんの屋敷までご案内致します」
 そう言うとリムジーンの後ろに停めてあったニッサン製の車のドアを開けて案内した。
 リムジーンは街中を通り過ぎて、やがて小高い丘の上にある浜田邸の門を潜り抜けた。三千坪もあろうかと言う広い庭の奥に大きな屋敷が建っていて、玄関の前は噴水のあるロータリーになっていた。絵で見るような光景だ。あたりはルサカの富豪が住む高級住宅街で、大きな邸宅が転々と散らばっていた。
 リムジーンが邸宅の玄関前に停まると、メイドが十人整列しており、その奥に白髪の混じった、でっぷりとした貫禄のある紳士と、両脇に二人の黒人の夫人が立っていた。紳士はもちろんムジャビ・シラこと浜田で両脇の夫人はオデットとシモーヌの母親のレイラとイライザだった。
 オデットとシモーヌはそれぞれ寿朗と靖男の手を取るとお姫様のような感じで、会釈するメイドたちの列の真ん中を歩いて、
「パパ、ただいま」
 と浜田に抱き付いた。

二百四十八 アフリカ小娘と結婚 Ⅳ

「遠い国までよく来てくれたな。感謝するぞ。鰐淵靖男君、池部寿朗君、二人ともなかなか立派な青年じゃないか。うちの娘達が選んでくれた花婿だ。大事にするぞ。バタバタするが、結婚式は二組合同で明後日に挙げよう。今日は遠路疲れただろうから、食事が済んだら風呂に入ってもらってゆっくり休んでくれ。なに、部屋は沢山あるからうちに泊まってもらおう。明日はわしがやってるファームに案内しよう。鰐淵ご夫妻と池部夫人もわざわざお出で頂いて感謝だな。明日ここに戻ったらゆっくりと話をさせてもらおう。じゃ前祝に乾杯じゃ」
 浜田は上機嫌だった。沙希と弁護士も晩餐は一緒にした。
 シャンデリアが明るく輝く広い食堂で、メイドが次々に運んでくる料理で大きなテーブルが一杯になった。
「うちの食事は日本の有名なレストランでシェフをやってた旦那が作ってくれるから、美味しいと思うぞ。青年たちよ、腹いっぱい食ってくれ」
 一同が満腹になった所でデザートが運ばれてきたが、靖男も寿朗ももう腹いっぱいでとても食べられそうになかった。

 次の日は大きく[Mjavi Farm Lusaka] と書かれたジープが五台、玄関先のロータリーに横付けされて停まっていた。浜田は乗馬ズボンに長靴と言ういでたちで皆が集まるのを待っていた。レイラとイライザもおめかしをして見送りに立っていた。
「途中悪路があるからそのつもりで、奥様方は助手席がいいね。鰐淵の旦那はわしと一緒に乗ろう」
 一番目に浜田と鰐淵靖人、助手席に沙希が乗った。二番目には靖男とシモーヌ、助手席に鰐淵クミが乗った。三番目には池部寿朗とオデット、助手席に千鶴が乗った。四番目に弁護士とファームの職員、五番目には警備隊員が自動小銃を肩にかけて乗り込んだ。
「さ、出るぞっ」
 浜田の大声を合図に五台のジープは走り出した。途中までは良く舗装された道路だったが、その先は簡易舗装はされているががたがた道で、ジープが飛ばすので時々尻が跳ね上がる位に踊った。
 三十分程走ると前方に[Mjavi Farm Lusaka]とでかいカンバンが出てきて、その先に大きなゲートがあった。ジープが到着すると五人警備員が銃を構えて立ち、浜田の顔を確認すると[気をつけいっ]の姿勢で直立して敬礼、挨拶をした。五台のジープが走りこむとゲートは閉じられた。広大な野菜畑の中を走り抜けて、小麦、トウモロコシ、綿花など色々な植物を栽培している畑を通り抜けると広大な水田が広がっていた。水田を通り過ぎると先方に大きな白い二階建ての工場が見えてきた。工場の一角に高さ30m位の監視塔があり、警備員の姿が見えた。
 農園の道路を走っている間に三台の装甲車と八台の大型トレーラーとすれ違った。
「あれはファームの自主警備隊の装甲車でロケット弾とランチャーも装備してあるんだ。ヘリの攻撃程度なら撃墜するに十分な装備だ。トレーラーは後のコンテナに農作物の加工品がぎっしり詰まっていて出荷をしているんだ。鮮度が大事だからな、仕分けや加工、包装が終わり次第どんどん仕向け地に搬送するんだ」
 と浜田が説明した。
 途中の畑では耕作機械が点在していて、大勢の農夫が働いていた。日本の田畑とは大違いで相当に機械化されている様子だ。
「このファームには総勢五万人も働いているんだ」
 と浜田が説明した。

 工場はかなり大きな規模で、ここで農作物の仕分けから加工まで一貫した作業が行われていて、相当大勢の作業者が働いていた。
「この工場の中だけで二万人も働いているんだ」
 と浜田が誇らしげに説明した。ものすごく大きな工場だ。こことは別に酪農製品を加工している工場があってな、そっちでは一万人位が毎日働いているんだ。
 工場の出荷口には大型コンテナを運ぶトレーラーが二十台以上止まっていて、その二階はコントロールセンターになっていた。
「ここでは全世界に向けて荷動きをコントロールしていて、ファーム内の気象、地面の状態、地象だな、そんなものを全部集中管理してるんだ」
 一同は先ほど見えた監視塔に案内された。塔に登ると、ファームが三百六十度一望に見られた。鰐淵はコントロールセンターで相当に驚かされたが、ここで見る農園の広大さにまた驚かされた。農場を縦横に走る光った線は潅漑用の水路で、10kmも離れた河から水を引いていると言う。兎に角広い。
「うちではオリーブ畑もあるし、葡萄畑もあるんだよ。当然地ビール工場やワインを造っているワイナリーもあるんだ。そんな離れた場所の情報を全部さっき見たコントロールセンターで一元管理をさせているんだよ。あんたの国じゃこんなでかいファームを見たことがないだろ?」
 鰐淵はただただ頷き感心するばかりだった。
「ずっと遠くに高層マンションが沢山建ってるだろ?」
 浜田は皆を集めて説明した。
「ああ、見えます」
「あそこはな、ムジャビタウンでな、うちの殆どの従業員が住んでいてな、農場までは無料の巡回バスが出ているんだ。高層マンションは社宅だ。従業員五万、家族を合わせると三十万人が暮らしているんだ。ルサカ全体の人口が約百三十万人だからな、ルサカ市の人口の約四分の一はうちの社員と家族だ。市の協力で立派な街を作ったんだ。行けばすごいぞ。スーパーや公園、遊園地、映画館、東京に負けない規模で、うちの製品の消費者でもあるんだ。地産地消だよ」
「へぇーっ、凄いですね」
 と寿朗が驚いた。

 ファームから戻った靖男も寿朗も今見てきた規模のでかさに興奮が収まらないでいた。こんなどえらいファームのオーナーの令嬢と結婚することになろうとは夢にも思っていなかったのだ。鰐淵靖人は名古屋の店で沙希が兎に角現地を見てからウソか本当か確かめて下さいと言った、あの自信あり気な顔を思い出していた。
 一同にチーズやヨーグルト、バターやパン、クッキーやケーキ、牛乳やコーヒーが出されて、
「コーヒー以外は全部うちのファームの製品だぞ。一部は日本に空輸もしてるんだ。さぁ、色々食って品質の良さを確かめてくれ」
 と浜田が説明した。
「うちのファームにはヨーロッパ、アメリカ、もちろん日本もだ、そんな国々から優秀な農工業の技術者たちが大勢現地人と一緒に働いているんだよ。日本人も何百人も居て、家族を合わせると千人を遥かに越える人たちが居るんだ。日本人会も出来てるぞ。おいっ、寿朗君、君は美容師だそうだな。わしが資金を出してやるから結婚したら、こっちの一流ホテルの中に店を出せ。結婚したら直ぐに開店準備に取り掛かれ。いいな。あんただけじゃ人手が不足だ。あんたの学校のクラスメイトを何人かこっちに呼べ。いいか、一流の美容サロンを出すんだぞ。ネイルアートやエステまで考えておけ。日本人のサービスは質がええ。それを売りにするんだ。いいな」
 突然浜田にどでかい事業計画を突きつけられて寿朗はドキマギしていた。
「寿朗君、この際にだ、お母さんもこっちに来てもらってだ、オデットと生まれてくる子供と皆で幸せに暮らせよ。住まいはわしが用意してやるぞ」
「はい。母さん、一緒に住んでくれるよね」
「あたし、言葉がダメだから」
 千鶴の尻込みする様子を見て、
「大丈夫。日本人会じゃ毎日昼間っから茶のみ友達が大勢おしゃべりに集まっているからそこに入ってゆっくりと現地語を覚えりゃいい。わしの哲学だがな、ファームでは義理と人情を大事にしているんだ。人の悪口を言う奴はつまみ出すから、皆親切で悪口を言わない者ばかりだよ。農園内ではウソをついたり人の物を盗ったりする者はつまみ出して追い出すことにしているからな、性悪はおらん。ユートピアじゃよ。警備隊は外から攻撃してくる窃盗団を阻止するために置いているんだ。誤解をするなよ。わしはな、正直者は得をする社会を創る努力をずっとしてきたんじゃ。あんたらの国では人の足を引っ張ったり、意地悪したり、罠に嵌めるやつが結構おるだろ? ムジャビタウンにはな、そんな奴はおらん。もしおったら摘まみ出してしまうんじゃ。三十万人もの人間がな、平和に暮らすためにはそれ位厳しくして丁度ええんじゃよ。日本じゃ老人を大事にせずに、年寄りが大勢行方不明とか言うとるだろ? わしはな、隣人を大事にして家族では年寄りを大事にするように厳しく指導しとるからな、社宅に住んでいる者は皆大家族で年寄りを大事にしとる。だからな、泥棒や殺人、嫉妬や強姦、そんなクズみたいな事件は殆どないんじゃ」
 と浜田は誇らしげに話した。

「所で、鰐淵の旦那、あんたはちまちましたちっこい食堂をやってるそうじゃないか? 日本じゃデフレで値引き競争が激しいだろ? 違うか?」
「そりゃ、厳しいもんですわい」
「あんたなぁ、そんな店、畳んで奥さんとこっちに来いよ。わしが資金を出してやるから、ムジャビタウンやルサカの市街に何十店もチェーン店を出せよ。食材の殆ど全部、うちのファームで提供できるぜ。牛、ブタはうちで出せるし、世界中の食材はムジャビタウンにある、うちの関連会社の輸出入会社が間に合わせてくれるぜ。あんたも稼いで良い暮らしをせなあかんぞ。娘と婿のためじゃ。いいな。必ず来いよ。あんたの爺さん婆さんが生きてるなら一緒に連れて来いや」
 鰐淵はファームを見せられて浜田の言うことを信じられると思った。
「分りました。国に帰ったら早速店を畳んでこちらの世話になりますわい」
「よっしゃ、これで決まりじゃ」
 横で話を聞いていた鰐淵クミの目も輝いていた。
「明日は結婚式じゃ。盛大にやろうや。千鶴さん、クミさんも息子さんの晴れ舞台だからな、そのつもりで頼んだぞ」
 と浜田が二人の顔を見た。

二百四十九 アフリカ小娘と結婚 Ⅴ

 結婚式はカテドラルで行われた。浜田(ムジャビ シラ)の親戚はいないが、レイラとイライザの親戚の者が大勢出席した。池部千鶴、鰐淵夫妻と合わせて三十名ほどだった。
 その昔、英国人の入植者により開発が進んだザンビア、とりわけルサカ市に住む住民はクリスチャンが多いのだ。
 式は予定通り進行して、池部寿朗とシラ・オデットと鰐淵靖男とシラ・シモーヌはめでたくカップルとなった。
 挙式が終わると、一同はタージ・パモジ・ホテルの披露宴式場に移動した。タージ・パモジ・ホテルは五つ星のクラスで、市内にある大きなインターコンチネンタルホテルよりも格式が高い。披露宴には市長、警察署長、外務大臣、産業大臣、日本大使館からザンビア大使他各界の要職にある人々が列席して二百名にもなり盛大に行われた。浜田はザンビア国からサーの称号を授与されていて、昔で言えば貴族だ。その貴族の令嬢、昔で言えば姫がめでたく結婚をしたのだから、各界のお歴々が顔を揃えるのは当然と言えた。千鶴と鰐淵夫妻には通訳が付けられたので、お歴々のセレモニー、祝辞の内容を聞くことができた。鰐淵靖人は出席者の顔ぶれに度胆を抜かれた。もし日本で息子の靖男の結婚式をやるなら、こんなに各界の名士が顔を揃えるなんてことはあり得ない。
 披露宴も滞りなく終わった。一同は浜田の屋敷に戻ると、レイラとイライザの親戚を交えてまたパーティーとなった。親族紹介と言うわけだ。
 言葉が通じないが、オデットとシモーヌが間に入って通訳をした。
 沙希と弁護士は挙式が終わった所で空港に直行して、日本に向けて飛び立った。

 その夜親戚の者たちが帰った後で、浜田は新婚夫婦と千鶴と鰐淵夫妻を集めてこれからのことについて話をした。
「今日からここに居る者は全部わしの家族じゃ。前に言った通り家族を大事にするのが我が家の家訓じゃ。皆仲良くしてくれ。寿朗と靖男は新婚旅行はイタリアだったな?」
「はい。四人一緒です」
「十分楽しんで来い」
「はい」
 四人が口々に返事をした。
「オデットとシモーヌは流産せんように十分に気を付けてくれ。君たちが帰るまで、新居の手配をしておく。この屋敷の近くに用意をするように命じてあるから、帰った頃にははっきりしとるだろう」
「千鶴さんと靖人さんクミさんは新居に同居してもらうよ。それぞれ住む家が決まったら下見に行って家具や調度品のリストを作ってわしに出してくれ。この地域は足の便が悪い。使う車もどれにするか決めておいてくれ。新婚の二人にはわしがプレゼントをするから、あんたたちの使う車だ。リストが出来たら全てわしの会社に揃えさせよう。新居が決まるまではここに住んでくれ。新居が決まって、新婚さんが戻ったら、一度日本に帰って身の回りを整理してからこっちに来てくれ。移民の手続きはわしがやるから心配せんでいい」

 帰りの飛行機の中で弁護士の斉藤がぽつりぽつりと話し始めた。斉藤は若い頃から米村工機の顧問弁護士をやってきて、米村家の家族とも深い関わりを持ってきた。
「あなたのお義父さんの浜田さんは立派になられましたなぁ」
「どうしようもない男でした」
「昔、希世彦君が、確か小学校の二年生でしたな、あの時中嶋麗子とつるんで希世彦君を拉致誘拐した時、わたしはね、浜田は刑務所に送られるか、さもなくば柳川社長の指示で殺されていてもおかしくはなかったと思いましたよ。あなたのお義母さんの美鈴さんは立派な方です。あの時、浜田を生かすも殺すも美鈴さんの胸の内一つで決まりましたな」
「はい。義母(はは)は昔から人を見る目が確かでした」
「中嶋麗子さん、ルサカで久しぶりにお目にかかりましたが、彼女の一生も美鈴さんの胸の内で決まりましたな。あの方も今では落ち着いてきちっとされていました」
「そうですね。あたしをライバルみたいに見て、随分ひどい意地悪をされました。義母の美鈴は人の恨みを残さないと言う信条を持ってますから、その気持ちが通じたのでしょうね」
「浜田さんは悪運に強い男です。ザンビア国奥地の銅・コバルト鉱山に奴隷として柳川に飛ばされた時に、良くぞあそこから逃げ出せたと、わたしは今でも彼の運命に不思議なものを感じています」
「そうですね。浜田が日本に舞い戻ったと聞かされた時は、正直あたしも冷や汗が出ました」
「人の人生には出会いも大切ですね。浜田さんがNGO-JACAザンビア事務所の農業技術指導工作隊長の加藤さんと出会ったのも運命でしょう」
「そうですね。でも、運命を切り開いたのは義父(ちち)浜田の努力もあると思います」
「何事も自分の経験を有効に活かすことができるかどうかってことですね」
「はい。彼の今の姿はJACAザンビア事務所にきっかけがありました。今にして思えば何年もかけて潅漑用の運河を作り上げた、その努力は凄いと思います」
「そうですね。あの広大な農地を造り上げるまで、浜田さんは血の出るような苦労をなさったのでしょう。当時はあのあたりは砂漠も同然の不毛地帯でしたから」

 関西空港で乗り継いで羽田空港に着いた時、珍しく希世彦と美玲が出迎えてくれた。弁護士の斉藤はモノレールで帰った。
「お母さま、お疲れ様でした。オデットちゃんとシモーヌちゃんはご無事にご結婚なさいましたの」
「なかなか盛大な結婚式でしたわよ」
「お母さまは面倒なことをお引き受けされて、ちゃんとまとめられること、あたし尊敬します」
「希世彦さん、それにしてもこの車、随分乗りにくい車だことね」
 沙希は希世彦がこのおかしな車を買った時
「返して来なさい」
 と叱ったのだ。後部座席は狭くて乗り心地が悪い。
「こんな車が千七百万もするなんて信じられないわよ」
 沙希はぶつぶつ言ってはいるが、怒っている様子ではなかった。
「あら、この車、お友達が見ると皆様素的な車って言って下さいますのよ」
 美玲は夫の希世彦の肩を持った。
「お父さんは家に居た?」
「いえ、オヤジは昨日仙台に行くと言って出ました。二泊して明日には戻ると言ってました」

 その日、川野珠実は息子の庄平を連れて仙台のマンションに戻っていた。奈緒美は佐々木三郎と結婚して六本木のマンションに住んでいたが、夫の三郎は最近大手のエンジニアリング会社Tエンジニアリングの技術者と一緒にベトナムに出張していた。Tエンジニアリングは上水道のシステムでは国内のトップ企業であるが、近年経済成長の著しいベトナムのインフラ整備事業で特にベトナムが力を入れている水道工事に関して現地の大手、tasbo と合弁企業を立ち上げる話しが進んでいたのだ。
 この合弁のニュースがTエンジニアリング筋から株式市場に流れ、㈱三橋土木工事の株価が急騰し業界を賑わせていた。

 珠実は久しぶりに息子の庄平と穏やかな日を過ごしていたが、そんな時、都筑庄平から電話が来た。
「明日仙台に行くが逢えるか?」
 珠実はここしばらく都筑と会ってなかった。
「あっ、大丈夫です。楽しみだわぁ」
 珠実の声のトーンが上がっていた。
 都筑庄平こと米村善雄は仙台工場の用を済ますと、一直線に珠実のマンションに向かった。しばらく珠実の肌に触れていなくて、愛する珠実を思うとそれだけで気持ちが昂ぶった。息子の庄平にも会っていなかった。随分大きくなっただろう。
 都筑が珠実のマンションを訪ねて玄関を入ると直ぐに珠実と熱いキスを交わした。珠実も余程恋しかったと見えて、都筑に抱きついたまましばらく離れなかった。
「しばらく留守にして悪かったな」
 結局都筑は二日間珠実のマンションに泊まり愛し合った。
「あたし、もう一人あなたの子供が欲しいの。ダメ?」
「ちゃんと育てられるのか?」
「こちらのプロダクションの業績が順調だし、あたしの後継者がしっかりやって下さっているから、あたしが子育てで少し手を抜いても大丈夫よ」
「そうか。ならもう一人産んでくれ。今度は珠実のようなキュートな女の子だといいな」
「そう思いながらして下さいな」
 その夜はいつも以上に愛し合い、都筑は珠実の中に熱いものを授けた。都筑は沙希に内緒で不倫をしていたのだが、不倫をしていると言う意識はなかった。ここでは米村善雄でなくて、別人の都筑庄平になり切って珠実を愛したのだ。

二百五十 奈絵、そして出会い

「お姉ちゃん、しばらく」
 そう言って、奈緒美の六本木のマンションにひょっこり今井庄司が訪ねてきた。奈緒美は庄司と会うのは久しぶりだ。
「お姉ちゃん、結婚したんだってね」
「メール、読んだのね」
「ん。結婚式には出れなかった。ごめん」
「いいのよ、お父さんがね、呼ぶとせっかく今井家の跡取りとして落ち着いたのに気持ちを乱すから呼ばなくていいって」
「僕なら、そんなこと全然構わなかったのに」
「どう? 今井さんに可愛がってもらってる?」
「ん。子供が居ない家だったから、一人息子として大事にしてもらってるよ」
「所で、どうして急に東京に出て来たの?」
「僕、来年卒業だからさ、就活だよ」
「目標あるの?」
「毎年求人が少なくて厳しいからさ、入れそうなとこを探しに来たんだ」
「九大の秀才でも難しいの?」
「教授の話しだと、昔は教授の方に企業から良い学生を回してくれって沢山申し込みがあったそうだけど、今は全然だって。最近は有名大学からと決めないで広く募集をして、人物本位で採用を決める所が多くなったんだって」
「そう。大変だわね。頑張ってね。今日はお泊りするとこ決まってるの」
「まだ決めてない。どこかのビジネスホテルに泊まるつもり」
「だったらここに泊まりなさいよ」
「旦那様にご迷惑じゃない?」
「バカねぇ。義理のお兄さんじゃない。彼もきっと歓迎してくれるわよ」
「じゃ、泊まるよ」
 奥の部屋で寝ている赤ん坊を見て、
「可愛いもんだなぁ」
 と呟いた。
「女の子でしょ?」
「そうよ」
「名前は?」
「奈絵よ。奈良の奈と絵具の絵で奈絵」
「母さんの名前の字、もらったんだ」
「あたしの名前の一文字をあげたのよ」
 と奈緒美は笑った。奈緒美は庄司と話している間に、昔弟の庄司と一緒に母の加奈子と楽しく暮らしていた頃のことを想い出して目が潤んだ。

 夜遅く、三郎が帰ってきた。玄関の靴を見て、
「誰か訪ねて来てるのか」
 と聞いた。
「お仕事、お疲れ様。実はね、今日ひょっこりと弟の庄司が訪ねて来たの。それでお泊りさせたのよ」
「そうか。もう寝たのか?」
「まだ起きてると思いますけど」
「じゃ、こっちに呼んで一緒にビールでも飲みたいな」
「庄ちゃん、お兄さんと話をなさらない?」
 庄司はにこにこして部屋から出て来た。
「初めまして。庄司です」
「話は聞いているが、養子に出て今は今井君だってね」
「はい」
 庄司は就活で東京に出て来たと説明した。
「僕のとこに引っ張りたいが、土建屋じゃなぁ、奈緒美、どこか適当な所、あてはないか?」
 奈緒美も久しぶりにやってきた弟と一緒にビールに付き合っていた。
「あたしは芸能関係ばかりだから、いいとこはないわよ」
「そうだな。一応オレも考えておくよ」
 三郎は初めて会った妻の弟を頼もしい奴だと思った。
「来週からオレは一週間位ベトナムに行くんだ。オレは留守だが、君は何日でも泊まっていってくれよ」
「ベトナムですかぁ」
「ベトナムはな、中国に続いて最近は景気がいいんだよ。今回はハノイとホーチミンの両方に行く予定だがね、北と南に1000kmも離れているんだ。もちろん移動は飛行機だけどな」
「治安とかは大丈夫なんですか」
「ベトナムは比較的良い方だな。けどな、どこの国でも悪い地域はあるもんだよ。特に繁華街は観光客狙いの窃盗が多いらしいね。田舎に行けば、皆親切で良い人が多いね。日本と同じで農耕民族だから基本的に穏やかで親切な人が多いね」

 次の日に、仙台に戻っている義母の珠実から電話があった。
「都筑お父様から、お父様の取引先の米村工機と言う会社に、奈緒美ちゃんの弟の庄司さんに是非入社試験を受けさせたらどうだろうかとお話しがあってね、奈緒美ちゃんに伝えておいて下さいって伝言があったの。あなた弟さんにご連絡取れる?」
「あらぁ、グッドタイミングね。彼、丁度今就活で東京に出て来ていて、あたしの所に泊まってるのよ。昨夜もね、三郎さんとどこか良い所がないかって話しが出たのよ。伝えておくわよ」
「奈緒美ちゃんの元彼、たしか米村工機じゃなかった?」
「そうよ」
「元彼の希世彦さんとはまだお話しできる状態なの?」
「ええ、たまにメールをしてるわよ」
「そう? だったら元彼にお話しをしておくといいかもね」

 希世彦と美玲が結婚してから、早いもので一年半が過ぎていた。美玲は二ヶ月前に可愛らしい女の子を出産、美由布(みゆう)と名付けられて、順調に育っていた。美玲は結婚後外には出ずにもっぱら専業主婦として家事と子育てに専念していた。
 来週から希世彦は中国とベトナムに出張する予定だと言っていた。そんな時、珍しく奈緒美から電話が入った。
「米村でございます」
「もしもし、奥様でいらっしゃいますか」
「あら、その声、もしかして奈緒美さんだわね。あたし、母の沙希よ」
「あ、ご無沙汰しております。お変わりありませんか」
「相変らず元気よ。ご結婚なさったんですってね。お子様は?」
「娘を出産しました」
「そう? おめでとう。で、珍しいわね。何かご用でも」
「はい。希世彦さんはまだお帰りになられてないのですか」
「まだね。今夜も遅くなるらしいわよ」
「実はあたしの弟の庄司の事なんですが、来春卒業の予定で就活で今こっちに出てきてますの。それで工機の入社試験に応募させたくて、希世彦さんにお願いしたいと思いまして」
「確か九大の工学部でしたよね」
「はい。如何でしょうか? 応募して大丈夫でしょうか」
「あら、奈緒美さんの弟さんなら大丈夫よ。あたしから希世彦と人事部長に話をしておきます。まだ弟さんはこちらにいらっしゃるの?」
「はい」
「では明日にでも、誰を訪ねれば良いかご連絡をさせて頂くわ」
「ありがとうございます」
 庄司の話しは希世彦の妻の美玲にも沙希が伝えた。
 翌日沙希から板橋の本社の人事部長を訪ねるように奈緒美に連絡が入った。それで、庄司は奈緒美の話しの場所に出かけた。

 夜希世彦から奈緒美の携帯にメールが入った。
 [今日人事部に連絡を入れて庄司君の面接に立ち会ったよ。なかなか好青年じゃないか。それで、即決で内定を出したから、是非工機に入社するようにと奈緒美から庄司君に頼んでおいてくれよ]

 奈緒美はこんなに簡単にことが運んで良いものかと思ったが、今でも信頼を寄せている希世彦からこんなメールをもらって嬉しかった。最近奈緒美は涙もろくなった。久しぶりにメールを受け取って、希世彦と付き合っていた頃のことを思い出してしまって、また目が潤んだ。
 希世彦はその年、父親の善雄の補佐役として、米村工機の副社長に昇進していたのだ。だから、人事権を持っていたから即決で庄司の入社の内定を出したのだ。希世彦の頭の中では、技術部に配属して今力を入れている電気自動車用の駆動モーターの開発部署に配属させたいと思っていた。中国とベトナムには技術部長を連れて行く予定だ。それで、庄司のことはその時に部長にも話を通しておこうと考えていた。

 週が明けて、希世彦は技術部長を伴って、上海に飛んだ。上海にある中国系自動車会社上汽通用五菱と上海VWに寄るためだ。中国では自動車の保有台数が急速に伸びて、近年大気汚染が著しく、その対策として電気自動車の普及に力を入れている。時間があれば、上海地区にあるGMにも寄る予定をしていた。
 上海での商談が終わると、上海からの直行便で空路ベトナムのハノイに飛んだ。上海からハノイまでは、距離的に成田から上海に行くよりも近い位だ。上海でもハノイでも米ドルが流通しているので、希世彦は円をドルに換えて持参していた。ベトナムの通貨はドンだが、一ドルが約一万九千ドンにもなるので、細かい金は現地通貨のドンを使わざるを得ない。
 ベトナムは長い間社会主義経済政策を敷いてきたから、自由経済ではなかったが、影響力の大きい旧ソ連が自由化され、中国も自由経済が広まってきて、一九九五年頃から国際社会に市場を開放するに至ったので自由経済を取り入れて間もないのだ。
 希世彦たちが乗った飛行機は飛び立ってから二時間もかからずにハノイのノイバイ国際空港に着陸した。入国手続きを済ますと、空港からタクシーで、市街にある日本大使館に近い大きなホテル、デウーに直行した。

 通常商談はこちらから客先のオフィースに出向くのだが、希世彦は敢えてそうせずに、客先のキーマンをホテルに招くことにしていた。一流ホテルでは国際会議や学会が催されることが多いので、プレゼンテーションの設備が整っており、料理やアルコールも揃っていて、商談後の接待にも都合が良いのだ。客の希望によってはエステもあれば宿泊もできる。
 ハノイではビナスキと呼ばれているスアンキエン自動車工場社と韓国のヒュンダイ自動車と提携しているタインコン社の二社と商談を予定していた。二社がバッティングしないように、日をずらせてアポイントを取っていた。
 スアンキエン自動車工場社は完成車の組立ラインの他に自動車部品も手がけている。それで、米村工機はこのスアンキエン自動車工場社と電気自動車用駆動モーターの製造工場を合弁で立ち上げる計画を進めていた。
 近年、中国では経済成長と共に各地で賃上げ闘争が広まり、沿海部の労働市場がタイトとなったため、米村工機では中国との合弁事業を次第にベトナムにシフトする計画であった。
 ハノイのノイバイ国際空港には、韓国ソウル郊外の仁川国際空港から貨物の直行便があり、ベトナムで生産した電気自動車用駆動モーターをハブ空港の仁川国際空港を経由して中国やヨーロッパ各国に輸出する構想で希世彦は動いていた。わざわざ経費の高い日本を通す必要がないのだ。

 商談は二社共に予定通りまとまった。ホテルで豪勢な晩餐の接待を終わって客を見送る段階になって、一社の事業部長がなにやらぐずぐずしていた。それで、希世彦は技術部長に指示して客用に部屋をキープした上、
「部長、もう少し付き合って下さい」
 とバーに案内して、そこでルームキーを手渡した。
「後でバーアイ(彼女)を行かせますから楽しんで下さい」
 と補足した。ベトナムでは中国と同様に賄賂がはびこり、近年取締りが厳しくなっているが、私企業の場合にはまだまだ贈収賄の慣行が残っているのだ。バーアイと言ったのは勿論夜伽の女のことだ。
 ハノイの近郊には史跡が多く、観光で訪れた者には見る所が多くて一週間では足りない位だが、希世彦たちは疲れて翌日はホテルでのんびりと過ごし、次の日にホーチミンに飛んだ。ホーチミン(旧サイゴン)では、
Vinamotor 社とビナスキと接触する予定であった。希世彦はハノイと同様に五つ星のソフィテル・サイゴン・プラザに部屋を取り、客先のキーマンを招いた。ここでも商談は予定通りまとまった。
「武田さん、疲れましたなぁ。仕事は今日で終わりです。これから繁華街にでも出て、食ったり飲んだりしませんか?」
 希世彦は自分より十歳も年上の技術部長に声をかけた。
「副社長は若いから元気がありますね。お供しましょう」
 それで二人は街に出た。

 希世彦が泊まっているホテルの界隈は静かな所で歓楽街がない。それでタクシーでドンコイ通りに出た。
「飲む前に腹ごしらえをしますか。空きっ腹じゃ……」
 と希世彦が言うと、
「ホテルの高級料理でなくて地元の料理を食いたいですね」
 と武田が同意した。屋台がいっぱい出ていたが、衛生面を考えて、二人はレストランに入ると、牛のボーラロット、網焼きの牡蠣ハウヌォン、ハノイで食べた米の麺フォーボータイなど一皿ずつ六品の他にスープや蓮の葉でくるんだソイガーラーセンを注文した。ベトナムは総じて日本人の舌に合う味付けでどの料理も美味しかった。腹ごしらえが終わると、女の居る飲み屋に入って飲むことにした。酒は中国や日本の銘柄が多く、ベトナムのものにはありつけなかったが、しばらく女の子とおしゃべりをしながら飲んでいた。
「そろそろ帰りますか」
 勘定を済ませて店の外に出た。

 店を出た所で男三人に取り囲まれた。彼らはなにやらほざいているのだが、二人ともベトナム語は分らないので何を言っているのか分らない。それで、彼等を無視して通り過ぎようとすると、一人がいきなり武田を殴って、武田は舗道に倒れこんだ。突然にパンチをくらったので防御のしようがなかったのだ。男は希世彦も殴ろうとした。希世彦は咄嗟に相手が伸ばしたパンチを避けて相手の腕を払った。その直後別の男が後から羽交い絞めをしてきた。前から殴ろうとする男を希世彦は足で蹴ったので、相手は倒れこんだ。すると別の男がカチッと飛び出しナイフを出して飛び掛ってきた。希世彦は羽交い絞めを解くと、後を向きざま後ろの男を殴り飛ばした。手の拳がが痺れるように痛んだがすぐに前向きになって前の男と向き合った。一人の男が倒れている武田の背広やズボンのポットをまさぐっているのが見えたが、二人を相手にそれどころじゃない。男が振り回しているナイフが希世彦の左腕をかすって、背広の袖が切れて腕から鮮血が噴出した。また後から羽交い絞めされて、前の男に背広のポケットの中の紙幣を抜き取られた。希世彦も武田も用心して財布もパスポートもホテルのフロントに預け、当面の飲み食いに必要な金しか持って出なかったので盗られたのは金だけだ。
 所が奴等は何やら喚きながらポケットばかりか身体検査のようにあちこち探している。
「何も持ってねぇっ」
 と怒鳴ったが通じない。
 騒ぎを見て通りかかった二人の男が助けに入った。日焼けしてどす黒い顔の体格のがっしりとした男がベトナム語で怒鳴りつけると、ナイフを持った男の腕をねじ上げて、路上に落ちたナイフを遠くに蹴り飛ばした。男は相手の鳩尾にドスッと鈍いパンチを浴びせて倒すともう一人も殴り飛ばした。残った一人は一目散に逃げ去った。そこに公安(警察)が二人走ってきて日焼けした男を取り押さえようとした。男と連れの男が公安にベトナム語で何やら話をすると、公安は希世彦の怪我を見て何か言った。日焼けの男が何やら説明すると、公安は倒れている襲った男二人に手錠をかけて引き立てて去った。

「日本の方ですか? 災難でしたな。この辺りは日本人から白昼でも金品やパスポートを強奪する悪い奴が居るんですよ」
 そう言いながら、日焼けの男は自分のYシャツの袖をビリビリッと破き取るとそれで希世彦の腕をしっかりと縛った。希世彦の腕はドクドクと出た鮮血で真っ赤になっていた。
「なぁに、人間は牛乳瓶一本分位血を流してもどおってことはないです。これで大丈夫でしょう。ホテルに戻られたら消毒をしておいて下さい」
 豪快な男だ。
「ちょっとそこの酒場で飲み直しをしませんか?」
 日焼けの男が言ったが信用できないので希世彦は躊躇った。武田もようやく立ち上がり同じように躊躇った。
「ああ、オレは日本人、こう言う者です」
 と日焼けの男が名刺を出した。隣の男を見て、
「こちらはtasbo 社の技術部長のチャン・ディエン・キェットさん、通称チャンさんです。ご安心して下さい」
 と言った。希世彦はtasbo 社を知っていた。それで誘いに応じることにした。

 日焼けした男の名刺を見ると佐々木三郎と書いてあった。希世彦は背広のポケットの底でくしゃくしゃになった自分の名刺を差し出した。佐々木と言う男が血が少し付いた名刺を見て、
「米村工機の副社長さんでしたか」
 と工機は知っていると言う顔をした。
 四人は佐々木が案内した酒場に入った。

「アメリカと言う国はどうしようもない国でね、ホーチミンは昔はサイゴンと言ってとても良い街だったそうですが、ご存知のベトナム戦争で自分達が不利になると、二百万人もの失業者と百万人もの戦災孤児や私生児、貧苦と犯罪とを置き土産にしてさっさと引き揚げたそうです。米兵が居た時代には歓楽街があちこちに出来て、麻薬、売春窟、窃盗などがはびこって、ひどいことになってしまって、最近ようやく落ち着いたようですが、まだまだ今日のようなチンピラが絶えないようです。彼らは同じようにアフガンやイラクでも引っ掻き回して立場が不利になると悪い置き土産を残してさっさと引き揚げるようです。アメリカは本当にけしからん国ですね。今日あなた方を襲った奴等の狙いは金の他にパスポートやクレジットカードを狙っていて、それを持ってないかと喚きやがったんですよ。パスポートは偽造用に結構奴等の世界では高額で取引されているようです」
 と佐々木が言った。
「株式会社三橋土木工事と言うと、土木工事が仕事ですね。何でまたこちらへ?」
「ああ、日本じゃ公共工事が先細って将来展望が持てませんからね、こちらのtasbo 社と組んでベトナムの水道工事やトンネル工事をやろうとしている所です。ご存知の通りベトナムは今好景気で、インフラの整備に巨額な投資を続けています。我々は日本に閉じこもっていないで世界の市場に打って出ようとしてるんですよ」
 と笑った。
「そうですか。じゃ僕のとこと似たようなものですね」
 二人の話を聞いていて、武田も次第に落ち着いてきて話に割り込んだ。
「佐々木さんはまだ独身ですか?」
 と武田が聞いた。佐々木はベトナム語で先ほどから会話を適当にチャンに通訳していた。するとチャンが、
「He has a beautiful wife」
 と言った。
 チャンの話しを聞いて佐々木は財布から写真を一枚取り出した。
「オレの自慢の女房ですよ」
 それを見て希世彦は驚いた。紛れもなく写真の女性は奈緒美だったからだ。

二百五十一 男の気遣い

 自分を救ってくれた佐々木と言う男が、
「オレの自慢の女房ですよ」
 と言って見せてくれた写真の女性が、自分がかって愛して、今でも忘れ切れないでいる奈緒美だと知って、希世彦は驚くと同時に動揺したが、男として見ても快男子の佐々木が彼女の夫で、奈緒美を大切に思ってくれていることを知って安堵した。だが、奈緒美と自分の関係を少しでも知られてお互いに気まずくなってしまいたくはなかった。それで、
「佐々木さん、とんだ所ですっかりお世話になりました。お世話になりついでに、ホテルまでのタクシー代をお貸し願いませんか? 東京に戻りましたら、またお目にかかって、その時に改めてお礼とお返しをさせて下さい」
 と早々に引き揚げることにした。これは男としての気遣いだ。
「そうですか? 無理にお引止めするのは無粋です。では東京で改めて飲みなおしをしましょう」
 佐々木はさっぱりとした性格らしく、希世彦の申し出を快く受けてくれた。希世彦はそんな佐々木の性格に好感を覚えた。旅の途中に偶然に出会った男だが、将来良き友になるだろうと思った。

 タクシーでホテルに戻るとフロントに話をして、腕の怪我の応急手当を頼んだ。武田と別れて自分の部屋に戻って、汚れた背広を脱いでいるとチャイムが鳴った。
「誰だろう? ……どうぞ」
 と言ってドアーを開けると、そこに物静かな可愛らしい女が立っていた。希世彦が怪訝な顔をすると、
「ナースです。お怪我の治療に参りました」
 とその女が告げた。流暢な日本語だった。ベトナム人の中には日本人と区別が付かないほど日本人っぽい顔立ちの女が居るものだ。その女がそんな感じだった。言われてみなければ日本人と間違えてしまうほどだった。
 その女は汚れた背広やシャツを丁寧に脱がせてくれた。
「消毒をする前にシャワーでお体を綺麗になさるといいです」
 と言ってシャワー室に手招きした。女は希世彦が着ていた物を全て脱がしてしまった。希世彦はサービス過剰でナースの職務を逸脱していると思った。それで、
「自分でやりますから。ベトナムではナースがこんなことをするの?」
 と聞いた。
「いいえ。でも……」
 彼女は言いかけて黙ってしまった。シャワーで怪我をしている部分を丁寧に洗い流してから、彼女はボディーシャンプーを使って背中まで流してくれた。彼女が洗い終わると希世彦はバスタオルを下半身に巻いて男の部分を隠した。どうも様子がおかしい。
 希世彦がベッドに腰を下ろすと、彼女は持参した黒い皮のカバンから消毒剤や止血剤、それにガーゼや包帯を取り出して手馴れた手付きで怪我の治療をしてくれた。
「ありがとう」
「いいえ」
 カバンに薬や包帯の残りを仕舞いこむと、ナースはどうしたことか自分のワンピースになっている看護服のボタンを外してさっと床に脱ぎ落とした。彼女はブラとショーツ以外に看護服の下には何も着けていなかった。顔が可愛い上、制服を脱ぎ捨てるとナイスバディだ。希世彦はどうなっているのか訳が分らずに、ただ彼女の美しい肢体を見ていた。
「恥ずかしいから見ないで下さい」
 冗談じゃない、自分の前に立って制服を脱ぎ捨てたら、見るなと言っても自然に目が行く。
 彼女は室内灯を絞ると、下半身にバスタオルを巻いただけの希世彦の隣に座って、
「いけないことをしてごめんなさい。あたし、ナースのお仕事の他にアルバイトで男の方にサービスをしてお金を頂いています。お嫌でなければ、あたしの身体を好きになさって下さい。お願いします」
 希世彦は彼女の体の温もりを脇に感じながら、喉がカラカラに渇いてしまった。
「何か飲みましょうか?」
「ええ、頂くわ」
 それで希世彦は冷蔵庫から缶ビールを二本取り出し、プルを開けて一本を彼女に渡した。
「幾らでサービスをしてるの?」
「普通10ドル頂いてます」

 全く予期せぬ展開になって、希世彦は戸惑っていた。
「あたしのような感じ、お嫌いですか」
「いや、可愛らしいし、とても綺麗なボディだよ」
「よかったぁ。断られたら、あたし恥ずかしくてどうしたら良いのか分らなくなりそうだったの」
 彼女は希世彦に寄り添うようになって、バスタオルの隙から細い手を入れて、希世彦のものを握った。希世彦のその部分は、自分の意思には関係なく、たちまちにょっきりと立ってしまった。顔がほてり、どう対応すべきかまだ迷っていた。
「こう言うのは初めてですか」
「ああ、初めてだ」
「セックスはお嫌いですか」
「嫌いではないが、自分の女房以外の女性としたことはないね」
「あらぁ、あたし、そんな方尊敬します」
「僕はね、お金で女を買うことは嫌いなんだ。だから……」
「あたし、ナースの資格を持っていますが、他に整体と鍼灸の資格を持っていますのよ。ここでは普通はマッサージ師としてアルバイトをさせて頂いていますの。日本の男性はマッサージで伺ってセックスにお誘いして、今まで断られたことはないです。ベトナムの男の人もセックスは好きですが、日本人もお好きな方が多いですね」
 静かな話し方でチヤラチャラした所がないのが希世彦は気に入っていた。それで、
「それじゃ、10ドルは差し上げるから簡単なマッサージだけでいいよ」
「あらぁ、こんなになってしまって、このままじゃ我慢できないのと違います?」
 話し方は静かだが、彼女は希世彦のすっかり元気になってしまった部分を刺激した。
「いいよ。我慢するから」

 図らずも、おかしな展開になってしまって、希世彦はまだ戸惑っていた。
「あたし、あなたに抱いて欲しくなってしまったの。今まで自分の方からそんな気持ちになったことがなくて初めてよ」
 そう言いながら彼女は希世彦の手を取って自分のショーツの中に誘った。希世彦の手が彼女の毛深い中に触れると確かにその部分は相当に潤んでいた。
「ああ、あたしの方が我慢できなくなってしまったわ。お願い、してぇ……」
 余程希世彦は好かれたらしい。彼女は喘ぐような声でねだった。
「お互いに手で愛撫するだけにしないか?」
「ダメぇ、お願いだから抱いてちょうだい」
 希世彦は参った。相手は見ず知らずの初対面の女だ。だが、仕方がない、希世彦は女を自分の膝に抱き上げると、乳房を愛撫した。女は次第に喘ぎ声が激しくなり希世彦に夢中になって抱きついて来た。希世彦は自分の手で女のその部分を愛撫して結局女をエクスタシーの状態に導いてやった。女は放心状態でしばらく黙って希世彦に腕を回していた。少し時間が経って、
「意地悪ぅ」
 と女は流し目で希世彦を睨んだ。

 希世彦は女の制服を取り上げると女に着せてやった。自分もパジャマを着て、10ドル紙幣を二枚渡して、
「10ドルは治療費。治療、ありがとう。気を付けて帰りなさい」
 と言うと、彼女はポケットから小さなネームカードを取り出して、
「今夜はありがとう。あたし、あなたのような方に出会ったのは本当に初めてよ。あたし、あなたに恋してしまったかなぁ。今度ホーチミンにいらっしゃった時にはここにご連絡下さい。あたし待ってますから」
 そう言う女の目から涙が零れ落ちた。希世彦は彼女の気持ちにウソはないように思った。

二百五十二 茉莉の不倫の相手 Ⅰ

 章吾は茉莉の恋人柴田裕嗣のことについて、手元で使っているルポライターあがりの通称カツ、本名望月勝吉(もちづきかつよし))に頼んで調べさせた。
「ちょい時間がかかりますぜ」
「いいよ。とことん調べてくれ。特にかみさんのことも頼む」
 カツは仲間二人と三人で聞き込みと張り込みを始めた。不倫調査の探偵と同じで骨の折れる仕事だ。
 柴田裕嗣の女房はパリに行ったきり帰って来ないと言っていたが、一応近所の聞き込みなどをして調べた。柴田本人は出かける時刻は日によりまちまちだが、アパートから殆ど毎日のように仕事に出かける様子だった。

「柴田さんの奥さんねぇ、前は月に二度か三度見かけましたがね、この三ヶ月位は顔を見ないわね。待ってればその内顔を出すんじゃないかしらねぇ」
 噂好きの近所のオバサンたちはそんな風に言った。
「顔を見れば区別できますか?」
「出来ますよ。あたしたち、ずっとここに住んでいて以前から時々見てますからね。二年前位までは挨拶だってしたわよ」
「そうよ。見かけはぶすっとしてますがね、あれで可愛らしい声なのよ」
 と別のオバサンが付け加えた。
 カツは気長に待った所、情報をくれたオバサンから携帯に写真を添付して[柴田さんの奥さん現れました]と連絡が入った。
 どうやら[パリに行ったきり帰って来ない]なんてウソのようだ。そうなると、カツたちは俄然ファイトが出てきた。ウソの裏には必ず隠しごとがあるのは長年の勘で分っていたからだ。
 連絡を受けて、カツは柴田の奥さんがアパートから出てくるのを待っていた。
「おい、出て来たぞ」
 そう言い合うと三人はバタバタと柴田の女房の所に走りより、
「ちょい用があるんだ。顔を貸しなよ」
 そう言うと彼女の腕を捕まえて建物の陰に停めておいたワンボックスの車に引っ張り込んだ。

「あんたパリからいつ帰ったんだ?」
「……」
「おいっ、返事をしろよ」
「あたし、パリなんて行ったことがないわよ。いい加減にしてよ」
 柴田の女房は思いの他落ち着いていた。普通人相の悪い男たちに車に連れ込まれたらびっくりして落ち着きを失くしてしまうはずだ。
「じゃ、ここに帰って来ねぇ時はどこにいるんだ」
「そんなことあんたたちに関係ないでしょ」
「痛い目に遭いたいのか」
「アホな男どもねぇ。痛い思いをするのはそっちよ」
 カツはいつもと勝手が違うことに気付いた。それで、下手に出て聞き出すことにした。
「いつも泊まりの仕事をやってるんだろ?」
「まぁそんなとこね」
「どこの仕事やってるんだ?」
「あなたたちねぇ、あたしに聞きたいことがあるならもう少し優しく丁寧に聞きなさいよ。そうしたら少しは教えてあげますわよ」
 カツたちは彼女のペースに嵌められてしまった。
「分りました。奥様、いつもどちらへお出かけですか」
「そう、そんな風に最初から礼儀正しく聞きなさいよ。どうしようもないクズみたいな男たちだけど、やればちゃんとした口のききかたができるじゃない」
「すみません。一応聞かせて頂いたら直ぐに……」
「言われなくても直ぐにさよならさせてもらいますよ」
 近所のオバサンたちは可愛い声だと言っていたが、とんでもない。学校の先生が生徒を叱るような口ぶりで可愛いどころか憎ったらしい口のきき方だ。
「柴田裕嗣さんの奥さんですよね」
「あなたたちっ!、そんなことは調べた上であたしに近付いたのと違うのっ」
 目じりを吊り上げた。
「旦那の浮気、知ってますよね」
「あなたたち、探偵?」
「ま、そんなところです」
「あたしにそんなことを聞いてどうする気?」
 話しが噛み合わない。
「奥さん、旦那に浮気されて腹が立たないんですか?」
「バカねぇ、あいつの浮気は一度や二度じゃないですから、いちいち腹を立ててたら身が持たないわよ」
 そう言って彼女はカラカラと笑った。

「今の浮気相手、知ってますよね」
「知ってるわよ。それくらい分らなくちゃ今の旦那の女房は務まりませんよ」
「参ったなぁ」
「何に参ってるの?」
 どうやら彼女はカツたちを手玉に取って楽しんでいる感じになってきた。
「奥さん、旦那より年上ですよね」
「それを知りたいの?」
「まあ、知りたいです」
「バカも休み休みね。そんなくだらないことを知りたくて、あたしをこんなとこに連れ込んだの? 知りたきゃ教えてあげますよ。五コ年上よ。情報をあげたから十万位で勘弁してあげますから、ここに出しなさい。出さなきゃ後の質問には答えませんよ」
 カツは切れた。
「おいっ、このアマァッ。こっちが下手にでりゃつけあがりやがって」
「じゃ、今日はここまでね。帰らせてもらいますよ」
 彼女は異様に落ち着いている。カツは女の小指を掴むとひよいと曲げた。
「いたぁ~いっ。あんたがその気なら、こっちもやるわよ」
 と言い終わるか終わらないか、彼女は空いた方の手をカツの股ぐらにさっと入れて、カツのキンタマを思い切り掴んだ。
「いてぇっ、何するんだ」
「あんたが先に手を出したじゃない? 指から手を離しなさいよ」

 女は修羅場に慣れている様子だった。カツが手を離してちょっと隙を見せた弾みに彼女は携帯を取り出してどこかへ電話をした。
「ケイ、強い奴を五人か六人、あたしやられてんのよ。えっ、家の側のワンボックス」
 カツは素早く携帯を取り上げて、
「おい、車を直ぐに出せ」
 と仲間に言った。
 カツたちのワンボックスは直ぐに発進したが、前方から住宅街の道なのに猛スピードで走ってくる4WDの車と間一髪ですれ違って走った。すると4WDは急スピンして方向を変えて追って来た。4WDは直ぐにカツたちのワンボックスに追いつくと、後ろからガツンと追突を食らわせてきた。振り向くと五人か六人サングラスの男たちが乗っていた。どうやらわいわいと笑っている様子だ。
 カツは、
「甘かった」
 と反省したが、既に遅かった。4WDは執拗にワンボックスの後にドカン、ドカンとぶつけてきて、その度にワンボックスはスリップして体勢を立て直すために、運転をしている仲間は汗をかいてハンドルにしがみついていた。
 女は後ろを振り向くと手を振っているではないか。
「このやろうっ」
 カツは頭にきて女をぶん殴って座席に倒した。女は口から血をながしながら、
「威勢のいいのももう少しよ。もうちょっとしたらあんたたち、あたしに土下座するわよ」
 と言ってせせら笑っている。カツはもう一撃女をぶん殴った。後の4WDは執拗にドカン、ドカンとワンボックスの後部にぶっつけ続けていた。

二百五十三 茉莉の不倫の相手 Ⅱ

 カツは後からぶつけてくる4WDのナンバーを良く見て、しっかりと記憶した。後で何かの役に立つだろうと思ったからだ。尚も4WDは執拗にガツン、ガツンとぶつけてくる。実にしつっこいが、後の車に乗っているサングラスの男たちは虐めを楽しんでいるかのように笑いながらぶつけてくるのだ。カツが車種を見るとおそらくT社のランドクルーザーのようで、前側のバンパーは元々ゴツイ車だが、どうやら更に改造してがっちりとしたバンパーに取り替えられている様子で、こっちのワンボックスの後は恐らくベコベコになっているだろうと思ったが、相手の4WDは見た目は全く損傷がないのだ。どう見ても勝ち目がないが、停まったが最後、後の奴等に半殺しにされることは目に見えていた。だから、カツは、
「車を停めろ」
 とは言わなかった。

 だが、道路がカーブに差し掛かった時、ついにワンボックスは後から当てらてスリップした弾みに電柱に激突して停車してしまった。案の定、後の奴等がばらばら車から降りてきてこっちにやってきた。奴等は手に手に鉄棒を握っていた。その瞬間、カツの背中に冷や汗が流れた。
「しぶといヤロウだ。降りろっ」
 と言うなり鉄棒で窓ガラスを叩き割った。ガラスが飛び散った窓から手を突っ込んでドアーを開けると、カツと仲間の二人はワンボックスから引き摺り降ろされた。奴等の中の二人が、倒れている柴田の女房を抱きかかえると、
「姫、大丈夫ですか」
 と言いながら後の4WDに連れて行った。

 カツが想像した通り、奴等は容赦なく鉄棒で背中、腰、腕、脚を殴りつけた。何故か頭には一撃も食らわせなかった。仲間の二人はたちまち足の骨を折られて路上に倒れて悶えていた。カツが仲間をちらっと見た瞬間、腿に一撃を喰らってカツも路上に崩れ落ちた。
 奴等は徹底していた。ワンボックスのハンドルを叩き壊し、更にカツたち三人が着ている洋服や下着まで剥ぎ取って真っ裸にしてしまった。
 その上で脇腹に蹴りを入れ、靴で顔を踏みつけた。カツは意識が遠ざかりやがて意識を失った。
 カツたちが気が付いた時は病院の病室で、三人共、体中包帯だらけで腕や脚にギプスが着けられていた。
「おい、気が付いたか? お前等ボコボコにのされたらしいな」
 カツのベッドの脇に章吾が立っていた。
「柴田の女房と言う女ははすげぇやつだ。オレたちの脅しをかけても、蛙の面に小便だったな」
「襲った奴等の手がかりはねえのか」
 カツはしばらく考えた末、
「追突しやがったランクルのナンバーは品川300む××××だったな」
 章吾は直ぐに携帯から警察に電話をして問い合わせた。直ぐに警察から返事が来た。
「前からわしらも内偵してるんだがな、教えてくれたナンバーのランクルは錦糸町の美和グループ所有の車だ。美和は広域暴力団の傘下に入ってるからよぉ、ちょい手強いぜ。傷害で告訴するのか」
「待ってくれ、今の所は告訴は考えてねぇよ」
「何かあったらまた相談してくれ」
 電話は切れた。
 章吾は浅沼組長に電話を入れた。
「組長、ご無沙汰してます」
「元気にやっとるのかね」
「はい。お陰様で」
「所で何の用だ」
「組長、勘がいいですね」
「バカ言え、お前が電話をよこす時は何かあった時に決まってるだろ」
 と組長は笑った。
「錦糸町の美和グループの頭と頭の女について調べてもらえませんか」
「美和かぁ……」
 ややあって、
「奴等は仁義もなにもあったもんでねぇ。広域を傘にしてよぉ、やりたい放題暴れとるらしいぞ。また何でそんな奴等の所に首を突っ込んだんだ」
「わたしが下に使ってる情報屋が頭の手下にボコボコにされまして、今病院です」
「そうか。分った。わしのルートで調べさせてみる」
 電話は切れた。

「やられた後のことを少しは覚えているか」
 章吾がカツに聞くと、
「いや、なぁんも記憶がねぇんだ」
 とカツは答えた。
「奴等がお前等を襲っている間に、現場近くの住民からサツに通報があってよぉ、パトカーが急行した時に奴等は逃げたんだ。お前らはな、救急車でここに運ばれたらしい。警察でお前等の財布から身元を割り出してよぉ、オレのとこに連絡をくれたんだ」
「この病院はな、奴等の縄張りの中だからさぁ、今池袋の方の病院に移してくれと手続き中だ。それでよぉ、今お前等に見張りを付けてる」
「すみません。へまやっちまって」
「たまには、そう言うことはあるさ。気にするなよ」

 浅沼組長から電話が来た。
「頭は綾部次郎と言う男で、こいつの下に現在二十三名の組員が居るようだ。頭の下にリーダー格の男が居てよぉ、通称ケイと呼んでるらしいが、熊谷圭介と言う名前らしい。問題の頭の女だがな、名前は香、線香の香だ。この女は元はカメラマンをやってる柴田と言う奴の女房だったらしいが、博打で頭に取られて頭の女になったのよ。まだカメラマンと付き合ってるらしいけどよ、女がカメラマンの男を使って強請り、たかりをやってるらしい。あんたの抱えている問題だがな、その女に強請りをされてんのと違うか」
「組長、全部読めました。まだ強請りはないですが、恐らくこれから強請りをするつもりだったんだと思います。お手数をおかけしました。後ほどお礼に伺います」
「お礼なぞ要らんがな、たまにはこつちに来てよ、酒に付き合えよ」
「ありがとうございます」
 章吾は組長の話を聞いて、柴田の女の手の内が分かったように思った。だが、相手は質が悪い暴力団の手下だ。どうするか対応を良く考えて見ることにした。

 章吾の下の情報屋の三人は、予定通り池袋の整形外科医院に移した。移す時には当然のことながら、警察に相談をして手続きを取った。彼らは事件の当事者だったから当たり前だ。こう言う根回しを章吾はきっちりとやってきたのだ。だから、今では警察からも信用されていた。
 落ち着いた所で、章吾は沙希を呼び出して事件の状況を詳しく報告した。
「さすが章吾さんだわね。良く調べができましたね。あたしもね、そんなことを少し考えたのよ」
「自分の考えを言ってもいいですか」
「あら、遠慮なさらないで」
「相手は質の悪い暴力団の下っ端だからなぁ。今回金で解決したとしても、弱みを見せたら最後、奴等は骨までしゃぶっても飽き足りないで、とことん強請ってくるように思うんだ」
「で、どうすれば?」
「近々、サトル、マリア、茉莉を交えて話をしてはどうかなぁ」
「そうね。章吾さんの言うことが正しいわね。あたしには腹案があります。みな揃った所でお話しをしましょう」

「マリア、お元気?」
「茉莉もサトルも元気よ」
「茉莉ちゃん、まだ柴田とやら、カメラマンと付き合ってるの」
「あたしは別れなさいと何度も言ってますが、茉莉は彼に恋してしまって、まだ切れてないのよ」
「困ったわねぇ。お腹の赤ちゃんは順調なの」
「ええ」
「茉莉ちゃんにはとても可哀想な話ですけど、お腹の赤ちゃん、堕すことも考えておいて下さらない? あなた方ご家族のご都合の良い日に、できるだけ早くにお話しをしたいの。考えておいて下さらない。明日でも明後日でも、早い方がいいわね」
 マリアは沙希の話を聞いて不安になった。それで、夫の智に電話をして相談した。
「ああ、話は章吾から聞いたよ。茉莉、可哀想だけどとんでもない詐欺師にひっかかったようだな。家に帰ったらまた相談するよ。まだ茉莉には伏せておいてくれ」

二百五十四 茉莉の不倫の相手 Ⅲ

 その日、米村家の箱根の別荘に栗山智、妻のマリア、娘で女優の茉莉、猪俣章吾、妻の美登里、娘の志穂、米村沙希、娘の沙里の八人が、茉莉の恋人のカメラマン柴田裕嗣について話し合うために集まった。
 沙希が話しの口火を切った。
「章吾さんが調べて下さった所、茉莉ちゃんには可哀想な事実が浮かび上がったの。茉莉ちゃん、良く聞いて下さいね。これは茉莉ちゃんの将来の幸せにとって、とても大切な話しよ」
 沙希が茉莉の顔を見ると、もう茉莉は目に一杯涙を貯えていた。
「先ず、章吾さんから説明して下さらない?」
 それで、章吾が後を続けた。
「オレの下で使っている情報屋の望月勝吉と言う男に頼んで柴田の周辺を調べさせたんだ。そうしたら、柴田の女房はパリに行ったきり帰って来ないなんて真っ赤なウソで、柴田より五歳年上の女房の香は、下っ端暴力団の頭、綾部次郎と言うならず者に博打で取られて、今は綾部の女になってた。パリなんて一度も行ったことがないと言ってたらしい。んでさぁ、女房の香は綾部をバックに柴田をけしかけて、今までに何度もスキャンダル事件をでっちあげて、有名な女優とかタレントを強請って、大金を巻上げてきたらしい。今、その強請りのターゲットを茉莉に合わせて着々とスキャンダルのネタを作っていることが分ったんだ。多分近々茉莉を脅してくるだろうな。要は茉莉ちゃんは詐欺にひっかかったわけよ」
 ここまで聞かされて、茉莉はワッと泣き出した。それを志穂と沙里がなだめた。マリアも娘の不幸を聞かされて、
「信じられない」
 と言いながらハンカチで目を押さえて泣き出した。

「他人事とは思わないで、志穂ちゃんも沙里ちゃんも良く聞いてちょうだい」
 沙希が続けた。
「この国ではね、奥さんが居る男性が未婚の女性を甘い言葉で誘って不倫をしてもね、姦通罪で訴えることができないのよ。昔は日本にも姦通罪と言う法律がありましたけど、今は廃止になって、未婚の女性が騙されてHをされてしまっても訴える法律がないのよ。レイプされた時は強姦罪で訴えることができますが、お互いに同意の上でHをして、後から相手に奥さんが居ることが分っても、女性はやられ損で泣くしかないのよ。分った? ですから、男性からのお誘いには慎重に考えて簡単に身体を許してはいけませんよ」
 沙希は娘達の顔を見た。
「結婚している女性が他人とHをすれば不倫だわね。でも、不倫も姦通と同じで罪として訴えても法律がなくて罰せられないのよ。ですから世の中では不倫が意外に多いのよ。妻が夫の不倫を訴えたくても罰する法律がないから、離婚をするしかないわね。相手が不倫をした証拠があれば離婚はできるのよ。でも相手を罰することはできないのよ」
 続けて章吾が、
「茉莉ちゃんの問題はね、柴田が奥さんに茉莉ちゃんを誘惑しろとけしかけられていたことなんだ。こんな場合、茉莉ちゃんは警察に訴えることができなくて、柴田に離婚をしてと頼んでも奥さんは絶対に離婚をしないし、奥さんのバックに居る暴力団がスキャンダルをばらすと脅してきたら、解決する方法は相手の口封じに大金を渡す以外に方法がないんだよ。分るか?」
 マリアと茉莉が頷いた。
「恐喝されていると警察に告訴することはできるけど、それじゃスキャンダルを世間に公開するのと同じだからそれも出来ない状態なんだ。奴等は大金を受け取って一時的には黙っていてくれるが、直ぐにまた別の奴がやってきて同じように脅して大金を巻上げて、結局茉莉ちゃんがボロボロになってお金がなくなるまで搾り取るんだよ。怖いことだよ」
 章吾が説明を終わると、
「じゃ、あたしたちこの先どうなるのかしら? 暴力団に苛められて逃げ回るしかないのかしら」
 とマリアが不安そうに聞いた。
「人が脅しに強くなるってどう言うことか分る?」
 沙希がマリアと美登里を見て言った。
「気持ちをしっかり持って、脅されても負けないようにすることかしら?」
 と美登里が答えた。
「美登里さん、ご自分の弱み、分かりますか」
「あたしの弱み? そうねぇ、お金持ちじゃないことかな?」
「マリアさんはご自分の弱み、分かる?」
「脅されたら直ぐに泣いちゃうとこかな?」
 それを聞いて夫のサトルが、
「分ってねぇなぁ」
 と呟いた。それで章吾が続けた。
「人間はな、自分の弱い所を突かれると誰でも相手の脅しに屈するんだよ。だから何が自分の弱みか分かってないと強くなれないんだ」
 沙希が説明した。
「人は誰でも守りたいものを持ってるわね。中には自分の命をかけても守りたいものってあるでしょ?」
 するとマリアがぱっと明るい表情になって、
「分った。あたしの弱みは茉莉だわ。あたし、茉莉に何かあったら命がけで守りたいもの」
「そう。やっと分ったわね」
 と沙希が言った。
「人の弱みはね、自分が守りたい人や地位、財産、名誉が全て脅してくる相手から見ると弱みに見えるのよ。茉莉ちゃん、あなたスキャンダルで脅された時、何を守りたくて怯えるわけ?」
「女優としての今の地位とか名声かしら」
「正解!」
 とサトルが手を叩いた。
「じゃ、その守りたいものを失くしてしまったら?」
 沙希が聞いた。
「女優を辞めるってこと?」
 茉莉は困った顔で答えた。
「そうよ。今直ぐにでも辞めなくちゃ。そうすれば相手から見て茉莉ちゃんの弱みが消えて脅せなくなるわね。相手が脅してくれば、堂々と恐喝罪で訴えることもできるわね。でも、まだ弱みが残ってるわね?」
「まだぁ? あたし分んない」
「茉莉ちゃんの家族よ。サトルさんとマリアさん。ご家族に何かあれば、茉莉ちゃんは悲しんで泣くでしょ?」
「はい。じゃどうすればいいの?」
「人間はね、家族を否定することは普通はできないのよ。なので、この弱みだけは仕方がないわね」
「若い頃のあたしはね、守りたい物を何も持たず、あの頃は強かったわね。命だって惜しくなかったですから」
 と沙希はマリアの顔を見た。マリアは頷いた。あの頃はマリアも強かった。それで、
「人はどん底の時が脅しには一番強いわね」
 と同意した。

 翌日、茉莉はマネージャーと所属のプロダクションと相談して電撃的に、
「女優、モデルを引退して普通の女性として生きて行きます」
 と記者会見をして発表した。このニュースは業界を驚かせ、メディアを通して全国的に流された。もちろん、茉莉は柴田とも別れた。
 数日後、匿名の男から、柴田との不倫をネタに脅しの電話があったが、
「こちらは全然気にしませんから、どうぞご自由に」
 と答えた所、結局何も起こらなかった。元女優がカメラマンと不倫などと言うニュースを流しても、相手が取り合ってくれなければ一銭の金にもならないし、騙されたと言われたら詐欺で立場が逆転するのだ。

二百五十五 茉莉の三度目の恋

 芸能界からの引退宣言をした茉莉は次の日から普通の女の子としての生活が始まった。先ず、母親に付き添ってもらって堕胎について医師会指定の産婦人科を訪ね、お腹の赤ちゃんを堕してもらった。現在では母体の保護か強姦されたなど特別な理由がある時は堕胎を許される場合が多いのだが、法的に正当な理由もなく勝手に妊娠中絶することは堕胎罪として刑法に触れる。だから、沙希の助けを借りて念のため弁護士に事由書を作ってもらって医師に提示した。茉莉の場合は柴田にレイプされたと説明されていた。
「こんなにご丁寧にされなくとも、今では簡単に堕胎をしてしまう女性は多いですよ。産んでも育てられないなどと簡単に堕ろすことを考えてやってくる若い子が大勢居ますが、法律的にはそんな理由で中絶をすると建前は刑法で罰せられます。ですから、理由なんて後から適当に付ける乱暴な方も結構おられます」
 と言って医師は笑った。
 手術が終わってから、茉莉はお腹の赤ちゃんを殺してしまったことにすごく悲しみ大きなショックを受けていたが、母のマリアになだめられて、どうにか落ち着くことができた。気持ちが落ち着いてくると、引退を発表した一昨日までは、仕事のスケジュールがびっしりと詰まっていたのに、全て予定をキャンセルしてしまうと、朝起きてもすることがなく、一日ぼんやりと過ごすと、なんだか頭が変になってしまうような気がした。一人娘だし、モデルと女優業で十分な蓄えができたので、お金に困る心配はなかった。

 二度も恋愛に失敗してしまうと普通は、
「もう男なんてこりごり。一生独身で暮らす方が楽だわ」
 と男に未練がなくなってしまう者が多いのだが、茉莉の場合は、俳優Kとの時も、カメラマンの柴田との時も相手の男性からひどいことを言われて別れたのではなくて、茉莉自身は相手に未練があったし、相手の男も別れるのを残念がったので、別れた後も、茉莉は恋人が欲しいと思っていた。
 それを察して母親のマリアは夫のサトルや友人の沙希に、
「茉莉に相応しい良い方を見付けてくれません?」
 と頼んでいた。サトルは池袋のロマンス通りに集まる大勢の女の子や男の子を知っていたが、茉莉の将来を託せるような丁度良い男が居なかった。一方沙希は自分の付き合いの範囲で茉莉の相手に丁度良い年頃の息子を持つ知人についてあれこれ調べていた。

 沙希がホステス時代に客として親しくなった長谷川と言う医師がいた。長谷川とは沙希が引退して米村家の嫁になってからも交際は続いていた。専門は内科だ。今は東京郊外にある大きな病院の院長をしていた。
 その長谷川には息子が三人居た。長男は医師となり長谷川の病院で心療内科部長をしていた。二人目はミュージシャンとなり、アメリカに渡ったきり帰ってこないと言っていた。末の息子は確かまだ二十代半ばで、独身だと聞いていた。
「医学の道には進まずに、学校の先生になっちゃったよ」
 と聞かされていた。それで、沙希は長谷川医師に電話をしてみた。ご無沙汰の挨拶が終わって、
「所で、末のお坊ちゃまはまだ独身でいらっしゃいますか?」
 と聞いてみた。
「ああ、そろそろいい嫁さんを見つけてもらいたいんだがね、近頃の男は三十歳を過ぎても一向に結婚する素振りも見せないのが多くてね、それをいいことに、まだいいよなんて親を心配させてるよ。沙希さん、もしかして縁談話でも持ってきてくれたの? まさか、そんなことはないかぁ」
 と長谷川は笑った。
「それが、そのまさかのお願いなんですよ」
「そうか、そりゃ嬉しいな」
 それで、沙希は茉莉の今までの経緯(いきさつ)を詳しく話した。こう言う話は不都合なことを伏せて、後で分ってごちゃごちゃするよりも、最初から洗いざらい話をして納得の上の方がよいのだと沙希は思っていたからだ。
「そうか、過去のことは構わないんだが、後々糸を引いてトラブルにはならんかね」
 子を持つ親なら誰だってそれくらいの心配はするのだ。
「大丈夫だと思いますわ」
「そうか、沙希さんがそう言うなら信用しよう。じゃ、息子に話をしておくから進めてくれないか」
「今息子さんはどちらへ?」
「言ってなかったか。(たかし)は子供の頃から歴史好きでね、国立博物館の学芸員をやっとるんだ。卒業した学芸大学の非常勤の講師もやっとるらしい」
「そうでしたか。先生の息子さんは皆様優秀でいらっしゃいますね」
「おいおい、僕と沙希さんの間じゃお世辞は抜きにしてくれよ」
 それで長谷川は二日後お見合いの日程の候補日を知らせてきた。

 長谷川貴と栗山茉莉とは新宿の京王プラザホテル本館四十四階のフランス料理屋アンプローシアでお見合いをした。長谷川夫妻と栗山夫妻、それに紹介者の沙希も同席した。
 長谷川貴は学芸員らしく真面目そうな感じの良い青年だった。貴はお見合いの相手が有名な女優茉莉で、会って見るととても綺麗な女だったから、病院の院長の息子とは言え自分には過ぎた相手だと思って居たが、話をして見ると飾りっけのない明るい女性で話も合ったので、その場でお付き合いをしたいと言って両家の両親を驚かせた。茉莉も気に入ってお付き合いしたいと言う貴の申し出を即座に、
「お受けします」
 と答え、話は順調に進んだ。
 茉莉は暇だったから、お見合いをしてからは週に二日か三日デートを楽しんだ。それで一ヶ月を過ぎた頃、長谷川家から正式に婚約の申し込みがあり、婚約に引き続いて結婚式の予定まで決まってしまった。
 茉莉は貴を愛するようになり、貴も茉莉の気持ちに応えてくれた。だから、過去に色々なことがあったけれど、今は茉莉にとってはとても幸せな日々が続くようになった。三度目の正直と言うが、この時茉莉は三度目の恋にすっかり堕ちてしまっていた。茉莉はバージンではなかった。それで、二人がすっかり親しくなった時、結婚前だったが、貴の求めに応じて茉莉は貴に抱かれた。両親が快く認めてくれた恋人との一夜は、何の心配事もなく、茉莉は心地良い陶酔の世界に導かれ、そしていった。貴も燃え上がった茉莉の情熱に包まれて、そして果てた。

二百五十六 小さな記事

 人は誰でも、一所懸命に生きていれば、月日の流れが速いと感ずるものだ。米村希世彦と妻の美玲、米村修と妻の沙里も毎日忙しくしている間に子供も大きくなってきた。恋愛で周囲を騒がせた栗山茉莉は博物館の学芸員長谷川貴と結婚、長谷川茉莉としてやはり忙しい日々を過ごしていた。茉莉のお腹には新しい赤ちゃんが出来ていた。勿論貴の子供だ。
 佐藤元と付き合っていた猪俣章吾の娘志穂は茉莉の結婚式に続いて挙式して、めでたく佐藤志穂となっていた。二人の間にはまだ子供は居ない。
 ついこの間まで、恋だの別れだのとバタバタしていた子供たちはもうすっかり大人になって、それぞれが落ち着いた暮らしをしていたのだ。振り返って見ると歳月の流れは速い。
 希世彦が米村工機に入社を勧めた女優アオハの弟の今井庄司は米村工機に入社して、予定通り技術開発部門に配属されて、今では希世彦の直属として自動車用回転機の研究開発に携わっていた。入社にあたり、勤め先が東京だと言うことに今井家の両親は難色を示したが、希世彦が福岡県八女市の今井家に足を運んで庄司の義父を説得して東京に引っ張った。社長の米村善雄は来なかったものの、副社長の希世彦がわざわざ訪ねたことで義父は折れた。

 そんな庄司が、早朝出社して溜まった書類に目を通している希世彦に英字新聞を持ってやってきた。
「副社長、おはようございます」
「おい、二人だけの時は副社長じゃ堅苦しいから兄貴とか呼べよ」
 挨拶代わりに希世彦がそう言って笑い、
「朝早くから何か用か?」
 と聞いた。
「実は、昨日の新聞ですが、この記事を見て下さい」
 と希世彦の前に英字新聞を広げた。下の方の隅に赤いマジックで印が付けられていた。
「日本の新聞を沢山調べてみましたが、外国の小さな事件なので日本では報道されていませんでした」
「どれ」
 と言いつつ希世彦が目を通し始めた。
 読み終わると、希世彦の顔色が変った。記事は次のように書かれていた。
 [昨日午後三時頃、モンテカルロからモナコ方面に海岸沿いの道路を通過中のヴォワチュール・ド・レベ社製の乗用車がカーブに差し掛かって曲がり切れず、道路脇のガードレールを突き破って海岸に転落、幸い乗っていた中年の夫妻は軽傷で命に別状はなかった。事故調査の結果、スピードは出ておらず、ハンドルを切っても曲がりきれなかったとの報告があり、車両に不具合があった可能性を当局では重視して調査を続行している……(以下略)]

 庄司は丸の内まで行ってフランスの日刊紙も買ってきていた。記事の内容は大体同じだったが、フランスの新聞の方が取扱がやや大きかった。
 希世彦は直ぐにフランスのベンチャー企業ヴォワチュール・ド・レベ社のCEOに電話をかけた。
「モンテカルロで起こった御社の製品の事故の件だが、我々は注目しているんだ。何かあったら知らせてくれ。我々は御社を全面的に支援したい」
「分った。ありがとう。だが、あれは運転操作ミスだと考えているんだ」
 フランスの自動車メーカーと言えば、シトロエン、プジョー、ルノーなどが頭に浮かぶが、ヴォワチュール・ド・レベ社は電気自動車製造のベンチャー企業として自動車業界に出て、今や飛ぶ鳥を落す勢いで急成長をしており、三強の仲間入りをして四強と言われるまでになったが、業界では近い将来売上でプジョーを抜くのではないかと言われているのだ。その電気自動車の重要パーツである差動装置不要の車輪駆動モーターは米村工機のベトナム工場から大量に輸出しているのだ。フランス語の[ヴォワチュール・ド・レベ]は[夢の自動車]と言うような意味だ。それを会社名にしていた。
 ヴォワチュール・ド・レベ社では客の運転操作に問題があったと捉えている様子だったが、希世彦はそうは思わなかった。それで庄司と共に社長の善雄に報告した上、技術開発部門の早朝会議を招集した。
 会議の結果、希世彦は庄司を連れてフランスに飛び、技術部長とスタッフ数名はベトナムの工場に飛ぶこととなった。
 フランスに渡り、希世彦はヴォワチュール・ド・レベ社のCEOと一緒に事故調査委員会を訪ね、事故現場のモンテカルロにも行った。モンテカルロあたりの海岸沿いの道路は道幅が狭く急カーブが多いのだが、スピードを出していなければ危険な道路ではない。希世彦は事故現場でスリップの様子などを詳しく調べて写真に収めた。
 その結果、どうやら車輪の駆動系に問題があるように思えた。事故調査委員会でも、運転操作と車両の機能の両面から調査を進めていると言っていた。
 希世彦は既にベトナム工場に出張している技術部長と連絡を取って、ヴォワチュール・ド・レベ社に納入している製品の出荷台帳と品質履歴を調べる時のためにロット毎にサンプリングして保存してある製品の細かい分析を指示した。また並行して作動テストを改めて入念に行えとも指示した。

二百五十七 試練

 希世彦の予測は的中した。初めて新聞記事を見てから約一週間を過ぎた頃、欧州各地でカーブを曲がりきれずに事故を起こした電気自動車が続出して、新聞やテレビで大きく報道された。事故を引き起こした車はいずれもヴォワチュール・ド・レベ社製だった。モンテカルロの事故を調査中の欧州委員会 (EU Commission)の調査チームは直ちに増員をして、本格的な調査を開始した。既に希世彦が訪問していた事故調査委員会から、今度は参考人として呼び出された。希世彦の報告を受けて、社長の米村善雄もベルギーに飛んだ。
 欧州委員会はベルギーの首都ブリュセルにあるベルレモン・ビルを拠点に、EU全体の主として政治経済の大きな問題を処理し、必要により立法化するなどヨーロッパの政治経済の(かなめ)だが、EU内で発生する社会問題にも幅広く対処している米国の連邦委員会のような機能を持っているのだ。勿論自動車に関わる規制処置も欧州委員会傘下の組織により決定されるのだ。

 この日、ヴォワチュール・ド・レベ社の株価が暴落して、世界中の株式市場の話題となった。慌てたヴォワチュール・ド・レベ社のCEOは希世彦に連絡をしてきた。
「参った。君の意見が正しかった。早急に対策を立てねばならんので、至急本社に来てくれ」
 だが、希世彦は欧州委員会で缶詰にされていて、それどころではなかった。
 缶詰にされていた希世彦を父親の善雄が解放してくれて、代わりに善雄が缶詰になった。
「お前に飛び回ってもらわんと、今回の問題は解決せんだろう。今井庄司君と一緒に取り組んでくれ」
 こんな厳しい事態に対応するのに父の口から[今井庄司君と一緒に]と入社して間もない社員の名前が出て希世彦は、
「おやっ?」
 と一瞬訝ったが、そんなことを深く考えている余裕がなく、
「はい。分りました」
 とだけ答えた。
 ベトナムに出張している技術部長の武田から希世彦に連絡が入った。
「どうやら原因らしきものを見つけました」
「分った。直ぐにベトナムに飛ぶ。そっちに行ってから詳しい説明をしてくれ」
 希世彦はそばに居た庄司に、
「おいつ、直ぐにベトナムに飛ぶぞ。航空券を手配してくれ」
 と指示した。
「兄貴、任せて下さい」
 庄司は直ぐに航空券の手配をして戻ってきた。

 その夜、希世彦と庄司は上海往きの飛行機の中に居た。上海で乗り継いでホーチミンまで行く予定だった。
 ホーチミンに着くと、Vinamotor 社と合弁で設立したYone-Vina Motor Inc.に直行した。既に連絡を受けて、技術部の者が空港まで出迎えてくれていた。
「設立当初から副社長に厳命されて、ロット毎に品質サンプルを保存していましたのが、大変役に立ちました。副社長のお考えが良く理解できました」
 会社に到着すると早々に関係者全員が会議室に集まり、技術部長が説明を始めた。
「調べました所、今年の二月以降に生産された駆動モーターとそれ以前の物とで素材に大きな違いがあることが分りました。今回欧州で事故が発生した車両は全てヴォワチュール・ド・レベ社が二月以降に製造した物であることを製造番号から確認しております。つまりですな、一月までは日本国内の金属メーカーで製造された米村規格の磁性素材を使用しておりましたが、コスト削減のために、二月からこちらの資材購買部門で欧州の金属メーカーに製造を依頼した素材に変更したのが原因のようです。本社の技術部に素材の調達先を変更したと連絡がなかったことは、連絡組織の問題で深く反省しております。欧州で製造された素材の分析表を比較検討しましたが、データ上では違いは全くありませんでした。そこで、日本の調達先に問い合わせを致しました所、先方の技術担当者は組成が全く同じでも、製造工程により磁性の特性に大きな差が出て、また経時変化(時間と共に特性が変化すること)にも大きな違いが出るはずだと申しておりました」
 技術部長はハンカチで汗を拭った。
「それで、製品の比較テスト結果はどうでしたか?」
 と希世彦が質問すると、
「加速テスト(時間軸を圧縮して試験回数を増やして行うテストのこと)を実施しました結果、制動時に大きな電流を流しますが、欧州製の素材の物は電流による発熱が早く、発熱により磁性が劣化して制動力が日本の素材を使った物に比べて著しく低下することが分りました。急カーブを旋回する場合、カーブの内側の車輪に制動をかけて、差動装置を使用した場合と同等以上の性能を出すことが我が社の駆動モーターの特徴でありますが、その機能が悪いとカーブを旋回する機能が著しく低下して、カーブを曲がりきれずに事故に至る可能性が高くなります。更に、磁性の劣化が著しく、長く乗っている間に旋回機能が低下して、急カーブでなくとも旋回機能が悪くなることも判明しました」
「良く短期間にそこまで調べてくれました。感謝します」
 と希世彦が労を労うと、
「皆一日二時間か三時間しか睡眠を取らずに殆ど徹夜続きで頑張ってくれました」
 と部長が補足した。だが、その言葉を聞いて希世彦は不快感を露わに、
「徹夜を続けてもやるのが当たり前です」
 と言った。それを聞いて武田部長もキツと顔色を変えた。会社のトップの言葉とは言え余程気に障ったのだろう。すると、
「副社長、会社の存続に関わる大事件ですから徹夜は当たり前と言えますが、やはり気持ちを一つにして頑張ってくれました方々には素直にお褒め頂きたいです」
 と珍しく庄司が部長をフォローした。
「いずれにしても、今回の事件の発端はレアメタル相場の暴騰が原因ですな。副社長のお気持ちは分りますが、我々もおおいに反省をしておりますので、これからどう対応するかと言う議題に移らせて下さい」
 と部長が希世彦をなだめる目付きで次へ進もうと提案した。

「二月以降、ヴォワチュール・ド・レベ社へ出荷した台数は百六十万個、自動車台数で四十万台にもなります。ヨネヴィナ(Yone-Vina Motor Inc.)の製造能力は最大一日五万個、従って百六十万個を製造するのに約一ヶ月かかります。国内の金属メーカーには既に必要量の生産を依頼しておりますが、当面一ヶ月二十万個分が精一杯で、そちらの方からの制約が厳しいです」

 その夜、以前に投宿したホテル、ソフィテル・サイゴン・プラザに帰ってから希世彦は英文の報告書をまとめあげて、ブリュッセルに居る父であり社長の善雄に報告書をメールに添付して送った。
 この一週間、希世彦も必死で方々を駆け抜けてきた。報告書を送り終わってやれやれと思うと、急に疲れが出た。
「そうだ、前に会った女の子に頼んでマッサージをやってもらおう」
 それで以前に会ったナースの連絡先に電話を入れてみた。電話は通じなかった。だが十分ほどして、
「あっ、そのお声、前に会った方ですね。あたし、会いたかったぁ」
 そう言うと、
「三十分ほどして部屋に伺います」
 と言って電話は切れた。
 約束通り彼女は訪ねて来た。彼女は、
「あたし、アレクシアです。あなたのお名前教えてぇ、ねぇ、いいでしょ?」
 とねだったが希世彦は答えなかった。アレクシアはフランス系の名前だ。
「疲れているんだ、マッサージをしてくれ。代金は幾らだ?」
 と言うと、
「ただでいいよ」
 と彼女は答えた。
「ダメだ、ちゃんと支払うよ」
「じゃ、五ドル」
 それで、
「先に払っておくよ」
 と十ドル紙幣を渡した。彼女はお釣をよこしたが、
「釣はいいよ」
 と言った。

 希世彦がベッドで横になっていると、アレクシアは明かりを暗くして裸になって希世彦の上に跨ってマッサージを始めた。マッサージは上手だった。それで希世彦がうつらうつらしていると、突然パジャマを剥ぎ取られて裸にされた希世彦に彼女は抱きついてきた。
「ねぇ、あたしを愛してぇ。あたし今夜は帰らないからぁ」
 と耳元で囁いた。希世彦は本当に疲れていた。それで、
「すまないが、終わったら帰ってくれないか?」
 と抱き付いたアレクシアを抱き上げてベッドの下に降ろした。
「もう、意地悪なんだからぁ」
 彼女は諦めて服を着た。帰り際に、
「あたし、あなたを大好きになって恋してるの。今度日本に呼んでちょうだい。あなたにいっぱい愛されたいの」
 と言うなり希世彦にキスをした。
「おやすみなさい」
「おやすみアレクシア」

二百五十八 死闘

 三万名もの従業員とその家族の生活を背中に背負って、希世彦はこんなに厳しい思いをしたのは初めてだ。
 米村工機の事故原因調査報告を受けて、ヴォワチュール・ド・レベ社は二月以降に生産した自社の電気自動車四十万台を対象に欧州委員会の許可を受けてリコールに踏み切った。現在世界の自動車業界では四十万台のリコールは特別に突出した台数ではないが、財務基盤の弱いベンチャー企業にとっては死活問題になる規模だった。リコールに関わる出費については、米村工機側が全額負担をする方向で進められたため、ヴォワチュール・ド・レベ社の出費予想額は多くはなかったが、顧客の信用が落ちて、キャンセルが増え販売量が激減したのが痛かった。それで、ヴォワチュール・ド・レベ社はYone-Vina Motor Inc.と親会社の米村工機を相手に巨額の損害賠償訴訟を起こした。Yone-Vina Motor Inc.にはそんな巨額の賠償に応じる体力がなく、結局米村工機が長年しこしこと積み上げてきた積立金を取り崩して対応するしかなかった。
 リコールに対応する出費と、ヴォワチュール・ド・レベ社への賠償金を合わせると、工機の積立金ではとても充当できず、善雄は善太郎と相談して数社の子会社の売却を決意した。
 一度大きな不具合を出すと、長年積み重ねてきた信用はあっと言う間に消えて、ヴォワチュール・ド・レベ社以外に納入していた自動車用駆動モーターの受注も減少して、ベトナムのYone-Vina Motor Inc.は操業を続けて行くことが難しくなった。従業員の大幅な解雇を実施して事業規模を縮小して乗り切るか、従業員全員を含めて、工場丸ごと同業他社に売却するか決断を迫られ、善雄も希世彦もすっかり疲れ果てていた。
 コストを優先するがあまり、技術部と連携して十分な評価をせずに、資材購買部門の担当者の一存でメーカーを変更したがために、会社の存続を妖しくするような事態になって、購買担当の当事者たちは早々に辞表を出して会社を去って行った。

 そんなある日、都筑庄平こと米村善雄は、疲れ切った顔をして仙台の川野珠実のマンションを訪れた。しばらくぶりにやってきた都筑を、息子の庄平を抱いて、珠実が出迎えた。
「あなた、随分お疲れの様子ね」
「ああ、ここのとこ徹夜続きで僕の歳には厳しかったな」
「そう。奈緒美は居ませんけど、ごゆっくりなさってぇ」
 都筑は自宅よりも、珠実の所の方が心身ともにリラックスできた。それで一日休みを取ってやってきたのだ。
「庄平ちゃん、シッターさんに預けますから、久しぶりに二人だけで温泉にでも行きましょうか」
「庄平を連れて行かなくてもいいのか」
「あたし、なんだか恋人同士になりたい気分なの」
 それで、二人は秋保温泉のいつもの旅館に部屋を予約してでかけた。
 都筑と珠実は温泉に入る時は二人一緒にはいるのが習慣になっていた。それで、その夜も二人は一緒に露天風呂で身体を伸ばしてゆっくりと浸かっていた。都筑はしばらくぶりに珠実を見て、自分と同名の息子、庄平を出産してからも型崩れしていない珠実の肢体を綺麗だなと見とれていた。お腹は二人目の子供を身ごもっていたから、少し膨らんではいたが、それを割引すればまだまだ二十代後半と言って人を騙せそうな感じだった。
「お腹の赤ちゃんは順調かい?」
「ええ、順調よ。あなた女の子が欲しいって言ってらしたわね」
「ああ。男、男もいいけどね、女の子だったら珠実に似て可愛らしくなると思ってさ」
 ベッドに入ってから、都筑は珠実のお腹の子に負担にならないように気を付けながら珠実を抱いた。幸せな夜だった。

 仙台で穏やかな一夜を過ごして、少し気持ちも体調も楽になった都筑は、新幹線で東京に向かった。東京駅で下りて、ホームを歩いている時、突然激しい頭痛に見舞われて、都筑はホームの上でばったりと倒れこんだ。
「もしもし、旦那さん大丈夫ですか?……」
 と言う人の声を聞いたような気がしたが、それが最後で、都筑はそのまま意識を失ってしまった。

二百五十九 身元不明の遺体

「もしもし、こちらは三井記念病院でございますが、米村様のお宅でしょうか」
 夕方病院から丁寧な話し方で電話が入った。
「はい、米村でございます」
「恐れ入りますが、若奥様はいらっしゃいますでしょうか」
「沙希ですか? それとも美玲ですか?」
「あ、失礼致しました。沙希さまをお願いいたします」
 電話には祖母の美鈴が出た。
「沙希さん、三井記念病院からよ」
「もしもし、お電話を代わりました。何か」
「内科部長室の東と申します。今部長に代わります」
 丁寧な女性の声だった。沙希はそれで誰が電話をしてきたのか直ぐに分かった。先方の電話に医師が出ると、
「もしかして、野村先生でいらっしゃいますか」
 と沙希の方から尋ねた。
「さすが、沙希さんは勘がいいね。野村です。しばらくご無沙汰しています。お元気でしたか? 経済新聞を拝見しますと、今ご主人の工機は大変なことになってますな」
 沙希は米村工機の苦境を心配して電話をくれたのだと思った。リコールが報道されると、沙希の所に何人も電話をしてきたので、沙希はそんな内容だと思った。それで、
「ご心配下さいましてありがとうございます。工機は今期は何十年ぶりにか赤字決算になりそうです。先生はじめ大勢の株主様には大変なご迷惑とご心配をおかけして申し訳ございません」
 沙希が答えると、
「ご主人、さぞ大変でしょう。お元気にやっておられますか?」
 と聞いてきた。
「はい。お陰さまで。ここのとこ仕事で疲れた顔をしておりますが」
「今日はご在宅ですか?」
「長い間ベルギーの欧州委員会に缶詰にされてまして、ようやく帰国して、昨日から仙台にでかけております。今夜帰ると連絡がありましたが、まだ戻っておりません」
「何時ごろご帰宅の予定ですか」
「もうとっくに戻って良い時刻ですが……」

 野村医師には年に二回か三回箱根の別荘を貸しており、米村工機の株主であることから、以前からたまに夫婦で会食をしたりしていたので、米村善雄と妻の沙希とはわりと親しい関係であった。
 東京駅に近い東京都千代田区の救急医療病院は、駿河台にある駿河台日本大学病院、三楽病院、富士見にある東京逓信病院、そして秋葉原に近い神田和泉町にある三井記念病院の四つがある。東京駅からは少し遠いが、中央区には銀座通りを海側に行った明石町に有名な聖路加国際病院がある。
 東京駅から119番に知らせがあり、救急隊員が急行、ホームで倒れたと言う男性を駅から運び出して、最初日本大学病院に受け入れを申請した所断られ、二番目に申請した三井記念病院でOKが出て、救急車はそちらに向かった。救急患者搬入口から病院内に運び込んだ時も男性は意識不明の状態だった。
 病院では受け入れ後直ちに検査を行った所、くも幕下出血だと判明、手術に回された。手術の時点ではまだ心拍はあったが、術後心肺が停止して死亡が確認された。病院では男性の衣服を調べて身元の確認を行ったが、身元が分るものを何も所持しておらず、財布の中には現金が三十一万円入っていた他にはカードその他何も入っていなかった。ポケットには他に仙台発東京往きの新幹線のグリーン車の特急券と乗車券が見付かっただけだ。

 病院ではグリーン車を使っていたことから、男性は地位のある者だと見て、警察に連絡、身元の割り出しの協力を要請した。
 脳外科の手術が終了したが手遅れだったと報告を受けた野村内科部長は、普段は死亡してしまった場合報告を聞くだけにしていたが、何故かその時に限って患者を見に行った。
「あれっ、この人、もしかして米村工機社長の米村さんじゃないかね?」
「先生、ご存知の方ですか?」
 看護師の顔が明るくなった。
「実は、身元が分らずに、今警察に協力依頼をお願いしました所です。間もなく警官がこちらに来ると思います」
「いや、僕の記憶じゃ間違いなく米村さんだなぁ。電話をして聞いて見るよ」
 そう言って内科部長は足早に出て行った。
 野村は沙希に電話をすると、仙台に出張と聞いて、死亡した男が工機の社長だと確信した。それで、
「沙希さん、念のためですが、病院まで至急お越し下さいませんか」
 と自分が見た新幹線の切符や顔の感じなどを話した。

 沙希は美鈴に断って、大急ぎでタクシーを拾って三井記念病院に向かった。
 沙希が病院に着くと、野村が待っていてくれた。遺体を安置してある部屋に行くと警官が三人看護師に色々尋ねていた。
 野村は、
「この方の奥様と思われる方に来て頂きました。遺体を見せてもらいますよ」
 と沙希を遺体のそばに案内した。
「あなたぁっ!」
 沙希の悲鳴に近い声が室内に響き渡った。沙希は野村と警官の方を見ると、
「この人は間違いなく私の主人です」
 と言うなり遺体にすがって泣き伏した。
 野村が沙希をなだめて、沙希が病院で必要な処置が終わり次第遺体を米村家で引き取ることに同意した後、野村は沙希と一緒に部屋を出て、内科部長室に案内した。そこで沙希は美鈴や息子の希世彦に電話で連絡をした。
「沙希さん、ご自宅までわたしがお送りします」
 そう言って野村が沙希を西新井の自宅まで送ってくれた。

 米村工機の社長が急逝したことは翌日の朝刊、テレビなどで大きく報じられた。連日ヨーロッパで起こった電気自動車のリコール問題が大きく報道されていた最中の急逝なので、ビッグニュースとなったのだ。その結果、その日の東京株式市場では米村工機株の大量売り注文が殺到して、株価は前場ストップ安まで急落した。こんな時に会社の大黒柱が倒れたのだから当然と言えた。
 その夜、希世彦は祖父の善太郎に呼ばれた。
「どうだ、本来なら善雄のあとを引き継いでお前が工機の社長を務めなきゃならんのだが、わしはな、お前にはまだ荷が重過ぎると思うとるが。工機も世帯がでかくなってな、善雄を中心に権力構造が出来上がっとる。お前がそれを引き継いで自分中心の組織に造り替えるには時間がかかるんと違うか?」
 希世彦は祖父の言う通りだと思った。希世彦は技術と製造にはかなり自分の力を及ばせる自信があった。だが、財務、営業、人事方面ではまだ自分の力が及ばない不安があったのだ。善太郎はそこをちゃんと見てくれていた。
「お爺ちゃんの言う通りです。今はリコールに全力で当たらなければならず、とても他のことまでは神経が回りません」
「だろうな。よし、しばらくわしが社長をやってやろう。明日重役を集めて緊急の役員会をやろう。なに、今夜わしが財務担当の下村君に話をしといてやる。お前も明日は早めに会社に出ろ」
 善太郎は今年八十五歳になるがまだ気力が衰えていなかった。

 翌日の役員会で全員一致で善太郎が会長兼社長を務めることが決定した。それで十時に記者会見をして世間に発表すると、直ちに株式市場にもニュースが伝わり、前日売り一色だった工機の株式は買戻しが殺到して、午前中ストップ高を付け、株価は元に戻った。善太郎は業界でも評判の辣腕家だ。その善太郎が陣頭指揮をとると言うのだから、株価は戻して当然と言えた。
 連日へとへとになって帰宅する希世彦を妻の美玲は必死に支えた。特に義父の善雄が急逝したので、美玲は夫の希世彦の健康にも気を配った。
 希世彦は健気に自分を支えてくれる美玲の気持ちをありがたいと思った。自分の調子が最悪の時に心から支えてくれる女性には男性なら誰でも感謝の気持ちを持つものだ。
 米村工機の社長米村善雄が急逝したニュースを川野珠実と佐々木奈緒美はテレビのニュースで知った。それで、奈緒美は仲良しの茉莉に電話をすると、やはり希世彦の父親が急逝したのだと確認できた。本来なら葬儀に出なければならないのだが、珠実も奈緒美も何故か億劫な気持ちになっていた。ニュースに拠ると、仙台から東京に戻った所で倒れたと言う。乗車時刻から、珠実も奈緒美もこの時、都筑庄平は間違いなく米村善雄と同一人物だと確信したからだ。それで珠実と奈緒美は相談して、落ち着いてからお墓参りをしようと言うことにしたのだ。

二百六十 苦境を乗り越える

 リコールの処理は、技術的な改善方法が確立して、監督省庁の認可を受ければ、後は必要な資金調達と時間があれば解決するのだ。資金を調達する目処が立てば、回収、補修に当たる作業員を増員して時間軸を短縮することも可能だ。不具合の処理は迅速に始末することが最も肝要だ。希世彦は技術畑の出身だが、高校生の頃から父の善雄と祖父の善太郎に指導を受けてきたから、そんなことは良く理解していた。だが、実際に資金調達をするとなるとなかなか難しい。自分が思う通りに会社の財務部門が動いてくれないのだ。こんな時、
「亡くなってしまった父ならどんな風に始末を着けただろうか」
「兎に角だ、ああしたらどうだと言えば、出来ませんと答える。ならばこうしたらどうだと言えば難しいですと答える。財務の奴は副社長の自分に向かって上から目線で答える。困ったものだ、あいつ等には今会社がどんなに苦境に置かれているのか分ってないようだ。せめてこんな風にしたら如何でしょう? くらい前向きに考えてもらいたいものだ。出来ない、ダメだと言っている間に会社が本当に傾いたらあいつらはどうするつもりなんだろう?」
 今日財務部で何時間も会議をやって、押し問答をして、希世彦はつくづく自分の無力さを感じて一人ぼやいていた。
「これじゃ、日本の官僚機構と同じじゃないか」
 その夜、珍しく希世彦は昼間の押し問答について善太郎に話をした。
「こんな状態じゃ会社が潰れてもあいつらは出来ませんなんて言ってるんじゃないかなんて感じました」
 善太郎は孫の希世彦の報告とも愚痴ともとれる話を黙って聞いていた。

「希世彦、お前はな、どうすれば財務の連中を動かせると思うかね?」
 散々愚痴をこぼした後なのに、善太郎の目は優しく、自分を励ましてくれているように感じた。
「僕の勉強不足です。もっと勉強して論理的にあの連中を追い込まないと動いてくれないように思います」
「ははぁん、お前の話を聞いとると、社長は全てのことに精通していないと務まらんと聞こえるが、そう思ったのか?」
「あいつらの顔を見ていると、そんな風に感じました」
「希世彦、製造とか技術はな、お前の論理が正しければ従ってくれるんだよ。だがな、人事や財務、それに営業に居る連中はな、論理では動かんのだよ」
 善太郎は微笑みながら、
「お前はそこのとこをマスターすれば一人前だ」
 とまた微笑んだ。
「じゃ、どうすれば動いてくれるんですか」
「何も言わず、何もしないでも動いてくれる時は動いてくれるもんじゃよ」
「財務なんてそんな所なんですか?」
「そうじゃない。そんな所でないと財務は務まらんのだよ」
 希世彦は祖父が言いたいことを理解できなかった。
「わしがこの会社を始めて、早いもので六十年も経った。会社の寿命は三十年なんて言うからな、よくぞ六十年も続けてこれたものよと思っとるんだよ。六十年も経てばだな、組織が自然に老朽化するんだよ。分るな?」
「はい」
「老朽化したら、どうすれば良いか、それは森に行けば自然が教えてくれるもんだよ」
「自然がですか?」
「そうだ。森に行けば、大きな古い樹木が朽ちかけているのもあるだろう。だがな、良く見ると、根元に種が落ちて新しい新芽が出てるんだ。樹によっては、根元の方から新しい芽が出てな、それが元気に育ってだ、古い大木を切り倒すと根元の新芽が太陽の光をいっぱい浴びてだ、どんどん成長して、また大木に成長するんだ」
 希世彦は黙って祖父の話を聞いていた。
「うちの会社もそろそろ大木を切り倒して新しい芽を育てる時期に来ているんだよ。今回の大きなリコール事件もだ、良く考えてみろ? 組織が腐ってそれが表に出たと理解するのが正しいんじゃ。分るか?」
「はい。分ります」
「これは何もうちの会社ばかりじゃない。日本の官僚組織もだ、何十年も経って老朽化してるんだ。年金の金で役にも立たん贅沢な箱物をいっぱい作ったり、ろくに仕事もせん年寄りを天下り先で遊ばせていっぱい税金を垂れ流しとる。これは腐っとる証拠じゃよ。そこでだ、腐った大木をバッサリと切り倒してだ、新しい芽を育てにゃならんのだよ」
 希世彦は祖父の言っていることが次第に理解できるような気がしてきた。

「五十人や百人の中小企業ならな、今回のようなトラブルは起こらん。だがうちは膨れ上がって三万人の大所帯だ。だからな、新芽も育たん内にだ、老朽化した大木をばっさばっさ切り倒してしまったらな、元も子も失ってしまうじゃろ?」
「はい」
「だから、希世彦、お前がやることはだな、新芽を育てることじゃ。だがな、お前が納得できるまで新芽の成長を待っている暇はないじゃろう。それでだ、今の腐った組織を動かしながらだ、地道に新しい芽を育てろ。分ったかな」
「はい」
「それでだ、最初に話をしたお前の悩みだがな、これは新芽が育ってからも必要なことだから言うとくが、組織を動かす力はな、人事を動かす力じゃよ。それでだ、今から人事部長の時任(ときとう)君に話をしておくから、電話が来たら夜遅いがこれから一緒に酒でも飲んでこい」
 善太郎は言い終わると時任に電話をした。

 間もなく希世彦の携帯に時任から電話があって、
「赤羽駅前のふれあい酒場と言う店にお出で頂けますか」
 と聞いてきた。希世彦は妻の美玲に断って家を出た。酒場に着いた時は十時半を回っていたが、
「一時までやってるから時間を気にせずに飲みましょう」
 と時任は笑った。
「お母さまはその後お元気ですか」
 勿論夫が急逝したので気遣っての話しだ。
「最近元の元気を取り戻したようです」
「それは良かった」
 会社で人事の相談をすることはあるが、時任と酒を飲むのは初めてだった。酒を飲みながら、時任は善太郎に言われたらしく、会社の人事権や人事の動かし方について丁寧に話をしてくれた。同時に、社内の人脈について細かく説明をしてくれたが、希世彦が知らなかったことが多く、改めて人事部長の凄さを認識した。やはり三万名もの世帯を動かして行くためには人を知ることから始めなければならないのだと痛感させられた。
 希世彦は会社の金のやり繰りは財務部長を相手に話を付ければ良いと思っていたが、実は的外れだったことも教えてもらった。工機の財務部長は、実は○○ホールディングスの財務担当重役に頭が上がらず、希世彦がいくら質問しても即答が難しいことも分った。
「それならそれと、僕に正直に話をされれば良いのに」
 と希世彦が言うと時任は、
「人の心はそんな単純なものではありません。副社長にそんなことを言えば、自分の立場が丸つぶれになります。希世彦さんが事前にホールディングスの財務担当重役に根回しをして、工機の財務部長にそれとなく口添えをしてもらっておけば、工機の財務部長も楽になるでしょう。ですが、希世彦さんから根回しをしたことは内々にしておくのが要点ですよ。人を動かすとはそう言うものです。誰が実権を持っているのか、サラリーマンはそんなことに敏感です。くだらないように思えますが、そうじゃない」

 それで希世彦は翌日ホールディングスに出向いて、祖父の善太郎に同席してもらって、財務担当重役の筒井と話をした。筒井は米国の大学でMBAを取得しており、希世彦と話しが合った。それで、子会社を十社整理して、売却資金を全て今回の不具合対策に投入して再建を図る方針で話しがまとまった。
「筒井さん、ありがとうございました。僕からご相談したことは伏せておいて下さい」
 打ち合わせが終わると、
「おい、希世彦君、昨夜は大分勉強をしたようだな」
 と言って善太郎は笑った。

 不思議なことに、前日長時間やりあって決着が付かなかった資金の工面について、夕方財務部長の方から副社長室にやってきて、希世彦が思っていた通りの案を説明した。
「昨日は失礼な話をしまして、ご気分を損なわれたかと心配しておりました。この案でしたら、何とか必要な資金を二十日後には用意可能かと存じます。ご承認頂けましたら、財務部でしっかりと取り組ませて頂きます」
 それで希世彦は、
「僕の方も少し言いすぎました。これからもよろしくお願いします。とても良い案ですので早急に進めて下さい」
 と応じた。
 この時、希世彦は昨夜祖父が話をしていた
「何も言わず、何もしないでも動いてくれる時は動いてくれるもんじゃよ」
 と言った意味が少し分ったような気がした。

二百六十一 懐疑

 自分の夫の行動に無関心な主婦でも、夫が出勤や出張で家を出る時、普段背広のポケットに携帯、財布、定期券などを入れていることぐらいは知っているものだ。沙希は夫の善雄の背広のポケットの中を調べたことはなかったが、それでも大体何を入れているかぐらいは分っていた。夫の背広をクリーニングに出す時は、大抵何かポケットに残ってないか一応調べはしていた。時々飲み屋のマッチ、駅前などで配られているティッシュなどが入れっぱなしになっていることはあったが、取り立てていわゆる変な(もの)が入っていたことは結婚して以来一度もなかった。

 だが、夫が東京駅で倒れた時に、身元が分るものを何も持っておらず、危うく身元不明人として警察に届けられる寸前であったことに何か割り切れないものがあった。おかしい。財布の中だって、いつもは現金の他にクレジットカードや銀行のキャッシュカードを入れており、それに名刺入れや運転免許証なども大抵は持っていた。それなのに、倒れた時は財布の中には現金だけしか入ってなかったそうだ。不思議に思って、自宅や会社の机の引き出しの中を調べて見たら、カードやいつも使っていた名刺入れ、それに運転免許証は会社の引き出しの中から出て来た。
「これは何か特別な事情があったとしか思えないわ」
 引き出しの中に無造作に放り込んであったカードや免許証を見つけた時、沙希は思わずそんなふうに呟いた。

 夫、米村善雄の葬儀はリコール騒ぎで多忙な時だったが、社葬で執り行われた。葬儀委員長は祖父の善太郎が引き受けた。葬儀が終わって、善雄の遺骨を板橋の小豆沢町にある米村家の菩提寺龍福寺の墓に納骨を済ますと、沙希は夫が普段使っていた背広を整理して、必要なものはまとめてクリーニングに出すことにした。それで、何着かの背広のポケットに何か残っていないか調べていると、一着の背広の内ポケットから一枚の古びた写真が膝の上に落ちた。
「あら?」
 沙希は写真を拾い上げて表を見た。そこには若い頃の善雄が写っていた。左右に女の子と男の子がニコニコ笑って写っていた。背景を見ると、どうやらディズニーランドのようだ。
「この子たち、誰かしら?」
 沙希は女の子の方はどこかで見たような気がした。しばらく思い出している内に、ハッと気付いた。
「この女の子、きっとアオハさんの少女の頃だわ。どうしてこんな子供の頃から善雄さん、一緒に写真を撮ったのかしら?」

 写真は沙希が全く知らなかった世界のことのように思われた。
「そう言えば、倒れた日は仙台から東京に戻る途中だったわ。仙台、仙台、仙台……」
 沙希は仙台に夫が出かけた時のことを思い出していた。
 若い頃、善雄が仙台から戻ると、背広に不思議とディオールのプアゾンの匂いが残っていた。プアゾンは沙希がホステス時代、ライバルの加奈子が使っていて、強い香りだったので良く覚えていた。それがある時から仙台から戻った善雄の背広から香りが消えていた。その後大分月日が経ってから、今度はたまにほんのりとランコムのトレゾァに変った。それがどうしたことかこの二年か三年はトレゾァの他に資生堂の[すずろ]に似た香りが残っていることが多くなった。
 沙希にはその理由が分らなかったが、フレグランスの香りはホステス時代に積極的に覚えたので少し自信があった。

 義父の善太郎と息子の希世彦の話を聞くと、工機のリコール問題については必要な資金の手当てが出来て、どうやら乗り切れる見通しだと聞いていた。このトラブルで売却したり株券を買い取ってもらったりして関連子会社十六社も失ったが、自動車用以外では業績が上向いていて、会社全体で見ると僅かな赤字決算で済みそうだとも言っていた。
 会社が大変な状態はどうにか切り抜けて、落ち着いてきた様子を見て、沙希は一度仙台に行ってみようと思った。仙台には東京事業所に次いで主力の工場があり、そこへも寄ってみようかと思っていた。
 沙希は仙台のマンションのことを以前奈緒美から聞いていた。それで電話をすると、珠実が出た。
「あら、珠実さん、しばらくです。奈緒美ちゃんもそちらですか?」
「いいえ、あの子、近頃はすっかり三郎さんの奥さんになってしまって、事前に言っておきませんとこちらへは帰って来ないの」
 電話の向うでかすかに子供の声がした。

「お邪魔でなかったら、一度そちらにお邪魔させて頂きたいのですが、いいかしら」
「奥様、こちらへいらっしゃいますの? うちは大歓迎ですわ。ご都合のよろしい時にいつでもどうぞご遠慮なく遊びにいらして下さい」
 珠実と約束をした日、沙希は新幹線で仙台に向かった。最初仙台の事業所(工場)に行くと連絡を入れておいてくれたので、仙台駅に会社から迎えの者が来ていた。沙希が初めて見る仙台の工場は、売上高こそ東京事業所には及ばなかったが、広い敷地に東京より大きいと思われる立派な工場が建っていた。工場に着くと事業部長、総務部長などがぞろぞろと数名従って、工場を一通り案内してくれた。沙希は多忙の中、客でもない自分の接待は必要がないと断ったが、事業部長がどうしてもと願い出て、せめて昼食をと仙台市内の老舗割烹魚長に案内してくれた。
 食事が終わって、
「これから真直ぐに東京に戻られますか」
 と所長が尋ねたので、
「いいえ、ちょっと知り合いの家にお邪魔してから帰ります」
 と答えると、
「そこまで送らせて下さい」
 と言う。沙希は、
「たまにこちらへ参りましたので少し街中を散歩しながら」
 と断った。所長は申し訳なさそうな顔をしていたが、素直に工場に戻って行った。

 先ほど昼食を食べながら、夫の善雄の仙台での行動について所長にそれとなく聞いてみたが、いつも寄り道をせずに真直ぐに東京に戻られますと言う以外にたいした情報は得られなかった。だが、善雄が東京駅で倒れた当日と前日について、所長は何も知らなかったらしく口を濁した。そのことが沙希の心の中に芽生えた懐疑心を煽った。
 街中を一通り歩いて、沙希は地図とあの写真を片手に持って、マンションのある場所を探していた。沙希は少しでも善雄が歩いた街の様子を記憶に残しておきたいと思いながら、所長の話や写真のことなど考え考え歩いていた。

 なんてことだろう。沙希は青葉通りの大町交差点をライオンズタワーの方向に、考えごとをしていたせいか、赤信号に変ったのも気付かずに横断歩道を横切っていた。その時、[プワーッ!]と言うけたたましい警笛に驚いて横を見ると、目の前に大型トラックが迫っていた。沙希はその時、運転手の驚愕した顔をはっきりと見た。だが、沙希の意識はそこまでだった。

二百六十二 事故

 けたたましい警笛、同時に急ブレーキの大きな音、横断歩道の上で立ち尽くす年配の婦人に向かって大型トラックがスリップをしながら接近する様を、舗道を行き交う人々はスローモーションの動画を見るように見ていた。次の瞬間、婦人は地面の上を転げ回る子犬のように、道路の上を転がって、停まった所にトラックの前側バンパーが突っ込み、トラックは停まった。もう少し停車位置が前だったら、婦人はトラックの前輪のタイヤに押し潰されて、内臓が飛び出す惨事になっていただろう。
 倒れた婦人は身動きがなく、トラックのバンパーと路面に挟まれる格好で横たわっていた。と、運転席から運転手の男が飛び出して、なにやら大声で喚いていた。どうやら救急車を呼んでくれと叫んでいる様子だ。
 道路は後続の車両がどんどん溜まって、交差点一帯が騒然となっていた。
 やがて救急車がサイレンと共に到着して、トラックを少し後退させて婦人の身体を持ち上げ担架に載せると、手際よく車内に運び込んで立ち去った。その時、救急隊員は、倒れている婦人が持っていたと思われるハンドバッグを拾い上げて救急車に載せた。また、抱え上げた時、婦人は手に一枚の写真をしっかりと握っていて、救急隊員はそれに気付いたが、手から写真を外さずにそのままの状態で搬送した。

 救急車に続いて赤色灯を点灯しサイレンを鳴らしてパトカーが到着、交通整理と現場検証を始めた。
 トラックに跳ね飛ばされた婦人、米村沙希は地下鉄河原町駅近くの仙台市急患センターに運び込まれた。
 医師の指示で看護師が婦人の身元を調べた。今では大部分の女性は携帯電話を持ち歩いているので、身元を確定するのに然程難しいことはないが、携帯が普及していなかった時代には、女性は案外自分の身元を証明するものを所持しておらず、身元の確認が難しかったようだ。沙希は携帯の他にハンドバックの中に健康保険証の写しを入れていた。それで直ぐに身元が確認された。
 仙台からの電話を祖母である沙希の義母、美鈴が受けた。美鈴は仰天して、直ぐに孫の希世彦、嫁の美玲、孫の沙里、夫の修に連絡を入れた。希世彦は、
「今は仕事で出られない、後で電話を下さい」
 と美鈴と美玲に話した。それで、美鈴は沙里と美玲を連れて三人で仙台に向かった。
 病院に着くと、沙希は目を閉じて眠っていた。担当した医師は、
「強い脳震盪でまだ意識は戻りませんが、検査の結果脳には特別な損傷が認められませんでしたので意識が回復すれば、命は大丈夫でしょう。左太ももの骨折、それに体中あちこち打撲傷が認められましたので、回復されるまで相当時間がかかると思います。今は動かしてはいけませんが、少し落ち着いてくれば東京の病院に移されても大丈夫だと思います」
 と言った。

 その夜、美鈴たちがホテルに部屋を取って病室を出た後に、
「米村さん、米村さん、分りますか」
 と言う深夜巡回にやってきた看護師の声に沙希は意識を回復した。天井の白い壁を背景に、目の上ににこやかに微笑む看護師の顔があった。意識が回復した所で、看護師が仙台市急患センターに運び込まれた経緯を説明してくれた。自分の置かれた状態を把握すると、沙希は、
「看護師さん、あたしが持っていた写真、お心当たりありません?」
 と聞いた。看護師は一瞬怪訝な顔をしたが、
「もしかしてこれですか?」
 とベッド脇のテレビ台の下の引き出しからビニール袋に入っている写真を示した。
「ああ、よかった。大切な写真なのよ」
「お孫さんですか」
「いいえ、知人の子供です」
 沙希は写真をビニール袋から出してもらって、もう一度確かめるように見た。それで見終わると写真を枕の下にそっとしまった。

 沙希の意識が戻った所で、沙里は志穂、茉莉、奈緒美たちに電話で連絡をした。それで、翌日から大勢見舞いにやってきた。
 一渡り見舞い客が途絶えた時、川野珠実と佐々木奈緒美が見舞いに来た。
「いらっしゃるとご連絡があったのに、待てど暮らせどお見えになられませんでしたので、急用かなにかで東京に戻られたのかと思っておりました」
 珠実はそう言って突然の事故に驚いたと話した。
 その時、沙希は資生堂の香水[すずろ]の香りを感じた。
「珠実さん、お使いの香水、もしかしてすずろ?」
「さすが沙希小母さまですね。あたし、テレビのキャスター時代に先輩に教えて頂いて以来、ずっとすずろを使ってますのよ」
「そう? お高い香水よね」
「はい」
 奈緒美が、
「あたしにとっては義母(はは)の香りです」
 と微笑んだ。その時、沙希の鼻腔に[ランコムのトレゾァ]の香りが入ってきた。
「あらぁ、奈緒美ちゃんはトレゾァよね」
「すごぉ~いっ、小母さまのフレグランスの知識、尊敬します」
 奈緒美がそう言った時、沙希の頭の中では亡くなった夫、善雄の背広に移っていたかすかな香りのことを思っていたのだ。

 沙希は枕の下から事故でしわしわになった一枚の写真を取り出して、奈緒美に見せた。
「この女の子、奈緒美ちゃんだわね?」
「あつ、この写真どこから見つけられました?」
 沙希は写真の出所には答えず、
「奈緒美ちゃんの子供の頃でしょ?」
 と聞いた。
「はい。パパにディズニーランドに連れて行ってもらった時のです。男の子は弟の庄司、真ん中はパパの都筑さんです」
「都筑さんとおっしゃったかしら、この方あたしの亡くなった旦那にそっくりよね」
「はい。瓜二つと言うか、本当にそっくりで、希世彦さんに初めて見せて頂いた時、あたし、びっくりしました。希世彦さんにお付き合いして頂いてた時、二人で取って置きの写真の見せっ子をしましたの。その時あまり良く似ているので二人ともびっくりしちゃって」
 すると、
「この写真の方、今はあたしの旦那様の都筑庄平さんに間違いはありません」
 と珠実が口を挟んだ。すると奈緒美が、
「あたし子供の頃からパパと一緒にお風呂に入れてもらってるの。それで、パパのおへそのそばとかお尻ぺたのホクロの位置、はっきりと覚えてますから、お腹とお尻を見せてもらったら、顔が似ていてもパパかパパじゃないか直ぐに分かります」
 と付け加えた。
「あたし達、最近はいつも都筑さんと三人でお温泉に入りますからあたしもちゃんと覚えていますのよ」
 と今度は珠実が言った。この話を聞いて、沙希は長い間夫の善雄に連れ添ってきたが、そんなことは知らなかった自分にはっとした。
 考えてみると普通の主婦で旦那が裸の時に身体の隅々を良く見ている人は案外少ないのではないかと思った。夫婦が夜身体を交える時は大抵明かりを消すから見られないし、普段外から見える部分以外は殆どしげしげと見る機会がないのだ。
 男は女体を見ることに興味を持つ者が多い。だから女房の身体だって案外良く見ているものだ。それに比べて、女は羞恥心も手伝って、相手が旦那といえども身体を良く見ていない者が多いように思われるのだ。

「新聞で拝見しましたけど、旦那様、お亡くなりになられましたよね。ご愁傷様です」
 と珠実が葬儀にも行かず失礼をしたと謝った。
「新聞の記事には東京駅でお倒れになられた時、所持品がなくて一時身元が分らないと書いてありました」
「そうなの。たまたま知り合いの医師がおりまして連絡を頂き助かりましたのよ」
 と沙希が答えると、
「そのお医者様も奥様もお顔で旦那様と認められましたのでしょ?」
「そうよ」
「お顔だけですの?」
 沙希は珠実が変なことを聞くと思った。すると、
「あたし、もしかしてその方都筑庄平さんかも知れないと思いましたの。仮に、あたしがその場に居合わせてお腹とお尻を確かめてホクロの位置と大きさが記憶と一致していたら、あたしの旦那様ですと遺体を引き取ったと思いますの」
 その話を聞いて沙希は愕然とした。もしそうなら、自分の夫の善雄は行方不明になってしまう。
「都筑さんとはご結婚はいつでしたの?」
「都筑は奈緒美のパパですが、その後あたしの旦那様になって頂きました。でも、あたしシングルマザーを希望しましたから、入籍はしておりませんのよ」
 今は葬儀が終わって灰になってしまった善雄のお腹やお尻のホクロなんて確かめようもない。沙希は目の前に立っている妖艶な珠実を見て、ほんの一瞬だが恐ろしい女だと思った。

 珠実が敢えてこんな話を持ち出したのには理由があった。もし自分の旦那の都筑庄平と沙希の夫だった米村善雄が同一人物だったと認めてしまうと、自分と息子の庄平、それに今お腹の中にいる赤ちゃんと奈緒美と弟の庄司にも影響を及ぼし、自分は陰で暮らす女になってしまう。しかも、沙希の旦那をつまみ食いした不倫女にされてしまうのだ。だから、心の中では同一人物だったと薄々気付いてはいたが、どうしてもそれを認めたくなかったのだ。もし不倫が明るみに出てしまえば、沙希だって苦しむに違いない。だから、絶対に認めてはいけないと思っていたのだ。

 沙希を跳ね飛ばしたトラックの運転手ははねた女性がこともあろう米村工機の社長夫人だと知らされて慌てた。トラックは仙北ロジスティクと言う運送会社のもので、米村工機は仙北ロジスティクの大口顧客だったばかりでなくて、自分は工機の仙台事業所に製品を引き取りに行く途中の事故だったからだ。それで運転手は運送会社の社長と一緒に謝りに工機の事業所長の千葉誠を訪ねて行った。驚いたのは工機の事業所長の千葉だ。聞けば市内の老舗割烹魚長で昼食の接待を済ませて別れた直後の事故だったのだ。それで、千葉は運送会社の社長と一緒に病院を訪ねた。沙希は身体中包帯だらけでベッドに横たわっていたが、頭の方は正常に戻っていた。
 見舞いを終わって千葉たちが引き揚げる時沙希が、
「千葉さん、ちょっと」
 と呼び止めた。千葉は、
「自分ですか?」
 と言う顔で振り向いた。
「あなた、ちょっと残って下さいな」
 千葉は運送会社の社長に、
「先に帰ってくれ」
 と言ってベッドの側に戻った。
「先日は美味しい所にご案内下さってありがとう」
「お気に召されましたら良かったです」
「所で千葉さん、あそこお高いんでしょ」
「はい。普通の店よりは」
「お勘定はあなたのポケットマネー? そんなことはないわよね」
 と沙希が笑った。
「はい。月々まとめて経費で落とさせて頂いてます」
「そう? あたし、あれからあのお店に戻りまして、お勘定を済ませておきましたわよ」
「えっ? 奥様にそんなことをさせましたら社長に顔を向けられません。困りましたな」
 すると、沙希は千葉の顔をちょっと睨んだ。
「株主として言わせて頂きますとね、個人的な用でお伺いしましたのに、あんな接待をなさって会社の経費を使うような経営者はクビにしますよ」
 と悪戯っぽい目をした。これには千葉は慌てたなんてものじゃない。心臓が凍り付きそうになった。
「あなた、今会社がどう言う状態になっているのかご存知よね」
「はい。まぁ……」
「関連子会社を十六社も、つまり身を削って建て直しをしている最中よ。今期は創業以来初めての赤字決算の見込みですわよね。幹部ですから、聞いていらっしゃいますでしょ」
 すると千葉は突然病室の床に跪いて、土下座をして、
「奥様、申し訳ありません。私が間違っておりました。これを機会に身を引き締めますので、どうかお許し下さい」
 と謝った。
「先ほど社長に顔向けできないとおっしゃったわね」
「はい。とんだ失言でした」
「分ったならいいわよ。あたしの義父はそんなことは気にしませんよ。むしろ身内の接待をしなかったなら、その方が喜びますよ」
 先ほどからの怖い顔は消えて、
「分ったならどうぞお帰りになって」
 と優しく促した。この時千葉はあらためて沙希を怖い女性だと思った。

二百六十三 最終章

 沙希が仙台で事故に遭ってから、二年が過ぎた。半年前には善太郎が他界し、続けて妻の美鈴も跡を追うように他界した。善太郎は享年(きょうねん)八十八歳、美鈴は八十四歳だった。振り返って見ると、戦後板橋で鍋釜を作っていた父親、善兵衛(よしべえ)の跡を継いで、回転機器市場で世界的企業にまで一代で育て上げた男の生き様は見事なものであったが、そんな善太郎を支えた妻の美鈴は銀行員から一転中小企業の社長夫人となったのが地獄の始まりで、新婚旅行にも行けずに毎日運転資金を借り回るスタートを強いられた泣き笑いの人生だった。
 孫の希世彦は世間を騒がせた電気自動車のリコール問題を無事に乗り切って、善太郎の死後、米村工機と○○ホールディングスの社長に就任し半年が過ぎた。世界の景気もようやく回復の兆しが見え始めて、米村工機は再び成長軌道に乗りつつあった。

 そんなある日、沙希は激しい頭痛と嘔吐に襲われ、嫁の美玲に付き添われて病院に運ばれた。検査の結果、
「脳内出血で危険な状態です。このまま入院させて下さい」
 と医師が告げた。驚いた美玲は希世彦と沙里に連絡をした。二日後手術は終わったが、
「もう無理のようです。ご家族を集めていただいた方がよろしいでしょう」
 と医師に死が近いことを知らされた。それで子供たちは沙希の病床に釘付けになっていた。

 夕方ふと意識を取り戻した沙希は力ない声で希世彦、沙里、修、美玲を枕元に呼び寄せた。
「母さんもそろそろお父さまの所に行くことになったの。みんな立派に育ってくれてありがとう。人はね死んだ後、もう一度生まれてきたら、別の人生を送ってみたいと思う人と今まで歩んできた人生をもう一度歩きたいと思う人が居るわね。あなたたちはどっち? 母さんはね、できることなら、もう一度同じ人生を生き抜いてみたいと思っているのよ。あなたたちも兄弟仲良く助け合って悔いのない素的な生き方をして下さいね。母さんはお父さまとあなたたちのお陰でとても幸せでしたよ……」
 そこまで言い終わると沙希は静かに息を引き取った。沙希の波乱に満ちた人生の幕が下ろされたのだ。享年六十歳、高齢化社会では早い死だった。
 子供たちは母の沙希に抱きつくようにして嗚咽を続けた。沙希の死因は二年前の事故が原因だろうと医師が説明した。

「やっぱ間に合わなんだかぁ。残念」
 そう言って柳川社長、章吾、サトルが病室に入ってきた。
「おいっ、沙希ちゃん、親のオレより先に逝くやつがあるかぁ。この親不孝娘がぁ」
 珍しく柳川は目頭を押さえていた。章吾たちに続いて、美登里、マリヤ、志穂、茉莉、元たちも入ってきた。皆思い思いに沙希に話しかけていた。
 葬儀は沙希の生前の希望で内々に執り行われた。葬儀には沙希が生前色々と世話をやいた人たちが列席したが、川野珠実と佐々木奈緒美の姿はなかった。

 葬儀が終わって三日経った時、遠くアフリカから浜田ことムジャビ・シラ、レイラとイライザ、中嶋麗子、鰐淵靖男、池部寿朗それにオデットとシモーヌたちが揃って米村家を訪ねてきた。もちろん、沙希のお悔やみに来たのだ。
 浜田は沙希を弔った後、皆で日本の観光旅行をするんだと言った。
「沙希さんにプレゼントをしてもらったようなもんだよ」
 浜田は相変らず脂っぽい日焼けした顔で笑った。

 沙希のことが一段落してから子供たちが皆で集まろうと言うことになって、久しぶりに米村家の箱根の別荘でバーベキューパーティーをした。
 米村希世彦と妻の美玲、米村修と妻の沙里、近藤元と妻の志穂、長谷川貴と妻の茉莉、そして夫々の子供たち。賑やかなパーティーとなった。
 希世彦は佐々木三郎にパーティーのことを話して、是非奥さんと一緒に来て欲しいと頼んでいた。それで、パーティーが始まる直前に妻の奈緒美と子供を連れてやってきた。
 一方、子供たちが全員箱根に集まると聞いて、それではと親たちも集まることにした。章吾はシンフォニーの東京ベイクルーズに予約を入れておいた。十名以上集まるので、個室が良いと考えて特別室エロイカを予約した。久しぶりに皆が集まって、米村善雄、沙希を偲んで一杯やろうと言うわけだ。章吾、美登里、サトル、マリア、それに溝口、鈴木など六本木の仲間も呼んだ。全員六十歳前後、昔は初老は四十歳過ぎを指したが、今は六十歳前後でも初老の男女と言っても良いだろう。溝口は非番のホステスを三人連れてきた。その話を聞きつけて、
「どうしてオレを外すんだ」
 と笑いながら柳川社長夫妻も加わった。
 親の組と子供の組と別々のパーティーだったが、どちらのパーティーも盛り上がって楽しい一時となっていた。
「こないだ沙希さんの弔いにやってきた、浜田と中嶋なぁ、やっこさんたちも立派になったなぁ。アフリカに奴隷として送り込んだ時にはよぉ、まさかあいつが生きて戻って来れるなんて想像もしてなかったぜ」
「兎に角、俺たちは随分色々な仕事をやってきたなぁ。沙希さんもだが、死んだ美鈴婆さんなぁ、あの人は偉かったな。なんたってどうしようもないヤツラを立派に育てたんだからさぁ。あの婆さんの偉い所は人の恨みを作らないって哲学だったな。たいしたもんだぜ」

 美登里やマリアは色々な事件を薄々は聞いていたが、それでも章吾たちの話の内容は興味深いものだった。
 沙希が他界して一年も過ぎた米村善雄の命日に、珠実と奈緒美、そして弟の庄司は揃って板橋の米村家の菩提寺龍福寺に墓参りに出かけた。
 奈緒美と庄司は口には出して言わなかったが、自分達の父親都筑庄平が米村善雄だったと分っていた。もちろん珠実も自分の旦那様が善雄だと分っていた。墓前に花を活け、墓石に水をかけてから、三人は静かに亡き夫、亡き父に語りかけるように合掌していた。墓の周囲には日々草のピンクや白い花が沢山咲いていた。

 奈緒美がお参りを済ませて立ち上がった時、背後から肩にそっと触れる者が居た。奈緒美が振り返ると、そこに優しく微笑んでいる希世彦の顔があった。奈緒美は驚いて無意識に
「お兄ちゃん」
 と言った。希世彦は微笑んだまま黙って頷いた。
 希世彦はかって愛し合った奈緒美が何故自分を避けるように去って行ったのかその後理由が分った。愛する奈緒美と自分は異母兄妹だと分ったのだ。その時の悲しみは大きかったが、今はその悲しみも癒えて、素直に愛する妹だと信じることができた。

 希世彦はそっと奈緒美の手を引くと奈緒美を抱きしめた。希世彦の胸にかって恋人として奈緒美を愛していた時の奈緒美の気持ちが伝わってきた。
「お兄ちゃん、ごめんね」
 奈緒美は目にいっぱい涙を溜めて泣いていた。希世彦は小刻みに震えている奈緒美の背中を優しく撫でた。
 希世彦と一緒に来た美玲は奈緒美のことを聞いて知っていた。希世彦と奈緒美が抱き合っている姿を珠実と庄司は何も言わずに見つめていた。
 奈緒美は長い間恋人として希世彦に愛された日々を思い出して、希世彦の胸に顔を埋めて嗚咽した。
「お兄ちゃん、本当にごめんね」

  【了】


本書はフィクションであり、登場人物その他特に断りのないものは全て架空である。

負けないでっ 【第五巻】

 この小説を書き始めた頃、電気自動車は米国のベンチャー企業が実用化に漕ぎ着けたばかりであったが、2016年現在ついに実用化の時代に入ったと思われる。技術の進歩は早いものである。主人公沙希の息子が祖父から引き継いだ回転機の専業メーカーである米村工機は時代の波に乗ってこれからも発展を続けて行くだろう。

負けないでっ 【第五巻】

  • 小説
  • 長編
  • 恋愛
  • サスペンス
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-08-25

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  1. 百九十 可愛い心
  2. 百九十一 蛍《ほたる》
  3. 百九十二 心臓が喉から飛び出す
  4. 百九十三 失意
  5. 百九十四 心の変化
  6. 百九十五 明美、その後
  7. 百九十六 秘密
  8. 百九十七 相性
  9. 百九十八 過去の恋人
  10. 百九十九 拒否する心
  11. 二百 生涯の友情
  12. 二百一 豊かな感じで美しい人
  13. 二百二 帰国子女の悩み
  14. 二百三 恋の火
  15. 二百四 晩夏……私を思い出して
  16. 二百五 無言の恋
  17. 二百六 永遠の命
  18. 二百七 海外ロケ
  19. 二百八 ローマにて
  20. 二百九 疑惑
  21. 二百十 [永遠の命]の本当の意味
  22. 二百十一 聞いてはいけない会話
  23. 二百十二 我慢出来ないよ
  24. 二百十三 それぞれの恋人
  25. 二百十四 娘たちの集い
  26. 二百十五 波紋
  27. 二百十六 どら息子
  28. 二百十七 誤算
  29. 二百十八 オデットとシモーヌその後
  30. 二百十九 結婚式
  31. 二百二十 三十九歳の初産
  32. 二百二十一 複雑な家族
  33. 二百二十二 スキャンダル(Ⅰ)
  34. 二百二十三 スキャンダル(Ⅱ)
  35. 二百二十四 スキャンダル(Ⅲ)
  36. 二百二十五 スキャンダル(Ⅳ)
  37. 二百二十六 スキャンダル(Ⅴ)
  38. 二百二十七 撤退
  39. 二百二十八 アオハの恋 Ⅰ
  40. 二百二十九 アオハの恋 Ⅱ
  41. 二百三十 アオハの恋 Ⅲ
  42. 二百三十一 アオハの恋 Ⅳ
  43. 二百三十二 アオハの恋 Ⅴ
  44. 二百三十三 アオハの恋 Ⅵ
  45. 二百三十四 アオハの恋 Ⅶ
  46. 二百三十五 レイヤーマスター
  47. 二百三十六 イクメン Ⅰ
  48. 二百三十七 イクメン Ⅱ
  49. 二百三十八 イクメン Ⅲ
  50. 二百三十九 一日妻
  51. 二百四十 土建屋三郎
  52. 二百四十一 想い出の場所
  53. 二百四十二 希世彦の結婚式
  54. 二百四十三 茉莉の不倫の相手
  55. 二百四十四 アフリカ小娘の不倫
  56. 二百四十五 アフリカ小娘と結婚 Ⅰ
  57. 二百四十六 アフリカ小娘と結婚 Ⅱ
  58. 二百四十七 アフリカ小娘と結婚 Ⅲ
  59. 二百四十八 アフリカ小娘と結婚 Ⅳ
  60. 二百四十九 アフリカ小娘と結婚 Ⅴ
  61. 二百五十 奈絵、そして出会い
  62. 二百五十一 男の気遣い
  63. 二百五十二 茉莉の不倫の相手 Ⅰ
  64. 二百五十三 茉莉の不倫の相手 Ⅱ
  65. 二百五十四 茉莉の不倫の相手 Ⅲ
  66. 二百五十五 茉莉の三度目の恋
  67. 二百五十六 小さな記事
  68. 二百五十七 試練
  69. 二百五十八 死闘
  70. 二百五十九 身元不明の遺体
  71. 二百六十 苦境を乗り越える
  72. 二百六十一 懐疑
  73. 二百六十二 事故
  74. 二百六十三 最終章