ジルヴォンニード
出会いはやがて奇跡へと
ほんの少し昔の話をしてもいいかい?
ある少年が魔法を世界に持ち込んだ日から始まったお話。
その魔法は誰にでも使える奇跡の象徴だけれど、ある時を境にそれは突然と姿を変え、やがて誰も見向きもしなくなっていった。
――1945年、零戦時に現れた悪意の体現者。彼の暴走によって塵と化した箱庭の世界。
大衆が焦がれてやまない強大な力を、誤った使い方で悪用したばかりに起きた悲劇。当然、彼らはそんな悪夢のような存在を崇める筈などなかった。
ある者はそれを奇跡ではなく災厄と呼び、ある者は悪魔の操る呪術とまでも呼んだ。魔法はもう、大衆の願いを叶える希望ですらなくなっていた。
だからこそ、僕は神秘の力を呪詛に変えた彼を激しく憎んだ。
僕の恋焦がれていたあの子の力を穢した、悪魔の存在。その者の遺した禍の負債で、どれだけの人が傷ついていることか。
彼は知らないのだ。自身の大罪が生んだ、余波に巻き込まれた者たちに刻まれた呪いと苦悩を。癒えない傷は腐り果て、蝕まれた痕は化け物の証として虐げられてきた彼らの孤独を、知る者は少ないだろう。
なぜなら、このお話自体がおとぎ話に近いものなのだから。
それでも知りたいと願う君にだけ、こっそり教えてあげる。あの子の力が世界に伝わったのはほんの数十年前。
その名は赦さざる禁忌の魔法、ジルヴォンニード――
幸せの意味が理解できないうちは、あなたはまだ幸福という証なのよ。
少女の声が反響する。まるで濃霧の果てから呼ばれているような、そんな遠い響きだった。その言葉は過去の記憶か、未来からの警鐘か、もしくはこの場で放った少女の詭弁か。
――だとしても、なぜこんな時に伝える必要があったのだろう。
「これが……幸せだっていうのかよ……」
こんな熾の集塊が禍々しく飛び火するような戦場で幸福論を語るなんて、あまりに馬鹿げている。ひび割れた地べたの上でたそがれている今だって、ほら。木も、人も、家も、道も……何もかもが燻されて、茜色の空とともに猩々へ呑み込まれていくのに。
そんな馬鹿なと魂の底から叫びたかった。けれど流す涙も枯れ果てた。意識が惨憺たる紅焔の景色に焼き尽くされたしまった以上、喉を振るわすこともままならない。指先の感覚も地と溶接されたようにまるで無くなり、歩みだそうと叱咤する足もおぼつかない。
何もかも、あの焔に侵蝕されてしまった。知覚も、体感も、遠い日の記憶さえも――
涙の意味を忘れて一つの歳次が経った頃。
アムステルダム行きの列車が軋みを立てて運行する中、イリヤ・シャルナクは紙面に広がる蘭語の媒体を指でなぞりながら車窓の空を仰ぎ眺めていた。
車内にイリヤと車掌以外の姿は見当たらない。ほぼ貸し切りとなった客車の旅。人との関わりを極力避けている彼には助かる相談だ。
ゆったりとした揺れの中で一望できる空を独り占めにできて、時間という枷に囚われる事無く安らげる……そんな場所は何としても保持したかった。
戦闘機が耳障りな騒音を立てながら列車の真上を駆けていくようなご時世、何が起こるか分かったものではない。未来の行く末を秤にかけた戦いが今、世界を侵し続けている。
膝元の紙媒体すら信じられなくなるような、何もかもが疑わしきこの世の中。せいぜい頼みになるのは日付だけだ。公刊で裸体のスクラップが記載されるほどに情報の社会も倫理の意識から離れ始め、浮ついた外側の世界が独り歩きしているらしい。
取り繕われる自己の尊厳。継ぎ接ぎだらけの人間。すべてがハリボテとボロの布切れで張り巡らされた世界。まるで血と硝煙のはびこる何処かを思い出す。
そして柔な肉体を持ち、つたなく柔軟な思考の利かない海馬と、表だけの出来事しか許容できない幼稚な胸の内。未熟なヒトの子の代表格。自身でさえも棄てたいと考える嘘っぱちの人形。
そんな投げやりな思考も、十代の少年が持ち合わせるにしてはあまりに展望の見受けられないものだった。きれいに膜の張った星を相手にこのような斜め向きの構えでは、日々の溜まったフラストレーションも壺からあふれ出るというもの。やはりそこは空洞の広い庭と割り切り、一歩引いた目でこの荒廃とした世界の行く末を見届けていくしかない。
そう、世界は果てのない空っぽの箱。自分は……例えるならば、使い捨てのガラクタだ。己の人生に具体的な展望も意志もない、成り行きだけで生きてきた無機質なネジ。何らかの型にはめ込めない限りは未来など約束もできない、使用待ちの部品だ。
そして動いている人間はゼンマイ仕掛けの機械人形。それぞれに巻かれた数なりの耐用期間があり、不完全な肉体を組み立てる為のパーツを探し求める様は、まさしく生き物としての理にかなっているのではないか。
動力が落ちればバッテリーを替え、構造に不備があれば修理し、年季が入るとともに錆びついていく。もっとも人間の完全なるプログラミング能力には、さしずめガラクタもガラクタ同然といったところ。
互いの長所欠点を補剛していくのが人間ならではの機知というもの。それが出来ないのも、また人間。
――要するにイリヤは、大の人間嫌いであった。
愛する誰かに酷な裏切り方をされたわけでも、信じていた意志が崩れ去ったわけでもない。自分が忌み嫌う世界にも、何かしらに思いを馳せる希望はある。
ほんのひと欠片ではあるけれど、それでも確かな光は窓の先にある。少しの翳りもない青と、陽がところどころ差し込み萌ゆる木葉。たゆたう水のせせらぎ。懐かしい故郷の香りをくすぶる情景に酔いしれることは、彼にとっての数少ない娯楽と、安らぎ。
そして錯覚する。此処が自分の帰る場所ではないかと。
自分の居場所をやっとの思いで見出したとき、そこで彼は思い出す。ここぞとばかりに限って、自身の持ち場を荒らそうとする火種の豪雨を。
自分が忌避してやまない安穏の侵蝕を。繰り返していくうちに何度我を忘れ、何度我に返った事だろう。何度流れない時の動きに油断し、失意に落ちて打ちひしがれた事だろう。
要するに不意を突かれた隙に訪れる一瞬の変化が、何事にも代え難い恐怖なのだ。幸福から一転する滅びの対価が。
得るものより失うものの数と価値があふれ過ぎた彼の事だ。同じ人間が人間をけなすという不条理やエゴにも、本人なりの事情がある。彼に限った話ではなく、万物の怒りや絶望に対して――
誰も居ないのであれば、最前列に居座って他の客の乗り降りに気を配る必要がなかったのではないか。後列のテラスでくつろぐ機会を逃し、少しもったいなかったと嘆く。それでも十分な気分転換だ。
そろそろ中央駅が近づいてくる頃だろう。先日まで宿泊していたアルクマールから発って半刻が過ぎようとしている。期待と不安に胸を躍らせつつ、イリヤは到着の時を待った。
車窓越しに浮かぶ景色も車内の静けさも真下で軋む車輪の駆動音も今はただ、彼ひとりだけのもの。
そのためか、少し油断していたらしい。ほんの不注意で腕輪に提げていた鈴の根付けを落としてしまう。途端、視界が玉響とともに暗転する。
――どんなに重い咎を背負っても、必ずキミに逢いにいく。
ぐらりと視界が歪んだのを合図に、聞いたことのない男の声が響き渡った。まどろみから一気に現実に戻ったイリヤは、思い出したように急いで鈴を拾い上げる。
列車はすでに止まっていた。安堵した彼は到着に気付かず、ずるずると窓の下にへたり込んだ。
「……誰だい、あんた」
ある夢を見ていた。
道会った旅人に惹かれ、そしてその旅人に看取られながら朽ち果てていく自分の夢を。
それは自らに訪れるであろう畢生の終幕なのだろうか。だとしても気掛かりに思う事はない。何も憂慮する必要はなかった。人は誰しも、一生の耐用年数を持ち備えているのだから。
世には摩訶不思議な話がある。なんでも、心から会いたいと思う人の夢を見るとその想いが届きづらくなるのだそうな。そこで青年はかつて先人から飽くほど聞かされてきた詩を思い出す。
――天地を揺るがす時の波動、人と人は生と死を折り返し、時と時は繰り返す。それは噴き立つ熔岩のように。
空と地は行き渡ってはその輪廻を描き、真理の螺旋は構築される。それは先人たちが築き上げた文明のように。
やがて強欲な人間は自らが造り上げたモノもろとも崩し、破壊の限りを尽くす。かつての歴史も、自然の摂理も、全ては虚実という歪の奥底へと。
やがて狡猾な人間は愛しき者もろとも常闇の淵へ突き落とし、籠絡と懐柔に溺れさせた果てに暴虐の限りを尽くす。かつての朋友も妻子も、全ては混沌という禍の中軸へと。
そうした過程と軌跡を経て、刻の線路は続く。運命と銘打たれる錆びついた車輪で、その轍を残しながら――
戦時中の今に当てはめるとすれば、あながち間違いでもなかった。人間は本当に欲深な生き物になったものだと、この詩を想起し、そして年数を重ねていくにつれ変貌の一途を遂げる瑞西の街を歩くたびに実感する。
とはいえ今となっては遠い故郷の話だ。意に介する必要もなければ、憂うこともない。
ここはマインツの森深く、人知れぬ道さかいの教会。――内部の深奥に位置する礼拝空間に、十字架のような意匠と『Um sustenance sieben Sterne…』などと彫刻で記された柩棺が設えられていた。
まるで吸血鬼が眠っていそうな卦体で如何わしいそれを寝床にしている青年は、漏れ出した日射しを受けて微睡みから遅々と覚醒し、柩の蓋を押し気怠げに起き上がって群青の空を仰ぐ。教会の天蓋は昨夜から開け放たれたままだった。
「……眩し」
容赦なく差し掛かる陽光に目を眇めながら、端に置いてあった二挺の得物をくるりと回し、緩慢な動作で扉へと向かう。
最後に扱った時から相当のブランクを経ている筈だが、おぼつかない方向感覚も久々に握った銃把の感触も、さして支障には至らない。それもまた“いつもの”腐った世界へ出向くだけだ。
冷たいノブに手をかけ、拝廊の扉を開いた時、青年はこの世界において何の理を思い知らされるか――答えは、道中の旅人が握っていた。
ある話を思い出していた。
旅人が死神と出会うとき、それまで平行していた世界は滞留する。停止した時空はいつしか歪な変化と改悪を遂げ、世界は廃退の一途を辿る。二人の邂逅どきには、妄想が世界の大半を覆い尽くし、被された景色は混迷を露にする……
となっているが実際、行人の身である自分はどうなるのだろう。出立の前日まで、その伝承を耳にする機会は頻繁にあった。その旅人が人間であれば、果たして相手は……とんでもない際物だったりしないだろうか?
最もそんな夢物語のような事は有りもしないだろうが、一抹の懸念と不安とともに、彼は行く。旅の無事を願うお守りの腕輪と、形見の鈴を手にして。
最初の舞台はアムステルダム中央駅のターミナルセンター。そこは多くの旅行者や観光客が行き交う盛況の地であると共に、数々の出会いが交錯する運命の場所とされていた。
彼が聞いた話の出所はまさしく、この広場だったのだ。
しかしこの弾幕と雨霰の交錯する世知辛いご時世に運命などと……一体、誰が銘打ったのだろう。駅前の垂れ幕には『Welkon,op het plein van de ontmoeting!』と掲げられているが、そんな綺麗事を謳ったところでどうせ飛び交うのは軍人の怒声か、銃弾といったあたりが妥当だろう。信じる馬鹿はいない。
春のせせらぎに沿って、A7線のホームへ乗り継ぐ乗客らがめったやたらに押し寄せていく。その中で一人の小柄な少年が人々の喧騒に気圧され流されながら受付へと進む姿が見受けられた。
――彼の目指す先はユトレイト。奇しくも、のちの運命となる場所。
少年はソ連の田舎からはるばる、知人に会うためにアルクマールを経由して此方の駅へと降り立った。機内のセキュリティに少なからず信憑性を欠く地元の鉄道から北欧のフェリーを伝い、不慣れな言語で海馬を酷使させた甲斐があったというものだ。
人混みの渦にもみくちゃにされながらも無事に駅内へ入ることのできた彼は、狼狽するあまり切符の発行口に硬貨を投入しかけたり、改札で太腿を引っかけたりするなどの下手を打ったが、どうにかホームへと到着する。行先を間違えてないかなどの確認も、もちろん怠らなかった。
首元に提げた時計を上着から出すと時刻は出発間際で、発車直前の列車へ慌てて猛然と駆けていったが、生憎その列車には扉がない。
「次の駅はユトレヒト、ユトレヒト駅――」
車掌のアナウンスが駅全体にこだまする。こんなに全力で走るのも久しぶりだ。出発合図から突如の警笛に驚いた少年は勢い余って点字ブロックの凹凸に足を引っ掛けて転倒し、ホームの外側へと投げ出される。
遺憾な事に発車開始の警笛が悲鳴を上げ、列車は車輪を廻しついに走行を開始した。
少年の身体が可動した車体へ激突するかと思われた、その刹那。
「――大丈夫?」
列車の警笛が朝日の下、咆哮する。顔を見上げた先には空に流れていったキャスケットと、少しばかり幼さを残した穏やかな笑顔があった。
「危機一髪だったね」
風圧と車輪の軋みで何と言っていたかは聞こえない。しかし、その表情が安堵によるものとだけは分かった。
男は少年を引き揚げて、にへりと笑う。
「キミ、ユトレヒトを伝ってドラハテンまで行くんだろ?」
もはや問いかけさえ耳に入らない。なぜ此方の目的を把握しているのかという疑問すらとうに失せて、今の彼には見知らぬ人物から話かけられること自体への動揺を隠すので精一杯だった。
「旅は道連れ世は情け、ってね。目的は同じだし、だったらユトレイトまで一緒に行こうよ」
男はその端正な容貌に不相応な茶目っ気のある笑顔で、少年の眼を見据える。
「そういえば、まだ名乗ってなかったね。オレの名はアルス。――冥府より馳せ参じた、“死神”さ」
アルスを名乗る彼の双眸を垣間見た。その深々とした精彩に吸い込まれそうになったところで少年はふと我に返り、今まで停滞していた時間を取り戻す。
きっと、堅気の者ではないだろう。穏和に微笑む死神の、まるで世界の深遠を覗き込むような若草色の眼差しが決してフィクションではないことを強く主張している。
少年は一瞬たじろいで、差し出された手に己のそれを重ね合わせた。
「えと……イリヤっての。まあ、その……よ、よろしく」
ただの挨拶なのに人の発する声として成り立っているかもわからない。
握った手は思いのほか冷たく乾いていて、まるで此方からその体温を吸収して生命活動の粮糧にしているかのようだった。よく見ると罅割れて傷だらけなのに、それでもイリヤは気づかない。
ただ彼の、イリヤからしてみれば異様な情調に圧倒されるばかりだった。
「こちらこそよろしくね。――運命の旅人さん」
運命を繋ぐ警笛が猛獣の如く吠え上がる。運命を繋ぐ車輪が火花を散らし始まりの刻を告げる――
「運、命……?」
イリヤは自身に語りかけるようにそっと呟いた。その言葉の孕む意味を復唱し、解釈し、斟酌し、汲み取って、どうにか大脳の中枢で処理しようとする。
人だか人ならざる者だか判らぬ、謎めいた死神との。
「そ、運命。――死神同伴の片道切符は高いよ、旅人のイリヤ」
短くも壮大な旅の予兆を。
アルスは微笑して、硬直し当惑するイリヤを背に奥側の席へ足を進めた。
果たして彼は、死神という穏やかでない響きに慄いたイリヤをからかい、敢えて挑発するような物言いをしてきたのか。あるいは偽りでなく、本当に死神なのか……いずれにせよ、この男から他人事では済まされないような四囲の情勢が漂っていたのも事実だ。
――運命の秒針が開幕の時刻を示す。これにて、ジルヴォンニードが始動する。
20世紀初頭、まだ人知によって凌辱されていない頃の空と景色。
戦乱の世中にも関わらず、車窓から顔を覗けばこんなにも生命力溢れる爽気を体感できると誰が想像できただろう。このように晴れ晴れした陽を浴びるのも、随分と久しい。
先ほど発ったばかりのアルクマールにしても同じことだが、長年田舎暮らしのイリヤにとって初めて踏みしめるオランダの大地は、牧歌的絵画の世界であった。
ユトレヒト行き列車の隣を、鳥の群れが白い羽根を漂わせながら羽ばたいていく。アムステルダムからユトレヒトへ続く車道からの景色は、実に圧巻といわざるを得ない。
――蕭。まどろみの中、鈴の音がささやかな目覚めの刻を告げる。欠伸を噛み殺し、さまよう視線が真っ先に捉えたのは、スウェットパーカーの袖下に隠れた鈍色の鈴。
今は亡い恋人より授かったそれはチェーンに連なっており、銀の腕輪に重なる形で小さな存在感を誇示している。ルーン文字のフェオを象ったチャームと共に、鈴は持ち主の旅路を見守っていた。
……この鈴と引き換えに支払った代償は、あまりにも筆舌に尽くしがたいものだったが。
そんな業火の記憶を振り払い、彼は暇潰しに小鈴を手のひらで転がし始めた。昔の憧憬なんて、今は不要だというのに。
もといえば全ての回顧を捨て、ただ今は故郷のために為せることを探さなければならないはずだ。戦渦に見舞われた故郷を建て直したいと願った彼はとある事情で故郷はおろか、国から出ていかなければならなかった。法に厳正な国柄であったため、後ろめたい事情があるのも否めない。
だが何よりも、過去のしがらみから逃避するための旅だった。そう決めたうえでも、対面で足を組み新聞を読む人物をあしらう気にはどうしてもなれない。
「キミはドラハテンへ何しにいくの?」
「ほぇ……ふぇあ!?」
いつの間にか読み終えていたらしく、閉じた新聞を隣の席へ投げ出したアルスは、開口一番そう問い掛けてきた。
それまで車窓の景色を眺めるなり、新聞で鼻から下まで隠れたアルスの顔を訝しむように凝視して暇を持て余していたイリヤは、彼の唐突な疑問符に動揺する。
思いのほか素っ頓狂な声が喉を衝いてしまい、相も変わらず温良だが掴みどころのない眼差しを見せていたアルスはそんな彼の様子に小さく笑みを漏らす。
「あ~、んーっと、軽く一人旅? ……のつもりなんだけど、さ。ほら、あそこは風車とチューリップの名所だろ」
どもりながらきょろきょろと、イリヤは此方へ質問してきた人物の容姿をいま一度見回した。――しかし整った顔立ちだ。
切れ長な眉間と、丸みを帯びた輪郭。そして中肉中背のイリヤと比較すると大柄にも見える恰幅の良い骨つきは、まるで昔話に登場するような樵を連想させる。
実際に斧などを持たせたら本当に似合いそうだと、イリヤは考えていた。アルスは先ほど自身を死神だと名乗った気がするが、彼が鎌を振り下ろす様子を想像して、不思議なくらいにしっくりときたものだ。
「なるほどね。単にチューリップだけならオランダ全土どこに行っても同じだけど、特にドラハテンは最高だな。景色は綺麗だし、空気も清涼で。……けどさ」
彼は、車窓から頬杖をついてこれまた呆けているイリヤに視線を移してきた。若草の清新な色合いをもつ双眸を此方に向けられては、おちおちまともな会話も出来たものではない。彼が何かを言い澱ませているのには気付いていたが、あえて咎めなかった。
「オレ、どうやらキミの一人旅を邪魔したみたいだね……すまない、こんなくだらないお喋りに付き合わせてしまって」
歳の近い子とこんなふうに話すのって久しぶりだから、感覚が少し分からないんだ。
そう言って困ったような笑顔を見せられると、さすがに多少の罪悪感が募る。何だか邪険にしてしまったようで、フォローの言葉が見つからない。
「ぁあ……いやいや良いよ変に気ぃ遣わなくたって! 弁解はヘタだけどとりあえず聞け! お前がいきなり一緒に行くなんて言い出すもんだからフツーに動揺するっしょ?」
憂色を含ませて微笑むアルスに、やや必死こいた語調で弁解の意を示す。イリヤは人の遠慮を聞き入れない人間だ。しかし、初対面の人間と上手く話すのはあまり得意ではない。今もこうやって、旅先で出会った初めての相手とちぐはぐな会話を繰り広げている。
「確かに今どきの男子なら一人旅に憧れるとは思う。けど近頃の欧州は全面的に治安が良くないからね。いつどこで何が起きるか判らない。――戦争はすでに渦中だから、キミの旅がどうか平穏無事に進むことを祈ってるよ」
自身と向かい合う席に座するのは、くすみがかった赤い短髪を無造作になびかせた翡翠の双眸。ヒトの形をとった人懐っこい磁器人形。これに酷似する人形があると言われたら、きっと誰も信じて疑わないだろう。
「へ? うん……っと。随分と親切なんだな。このご時世珍しいったらありゃしない」
「あ、ははは。そんなことない、キミだってこのご時世に一人旅なんて物珍しいもんさ……オレも一度、パーッと自由になってこの世界の各地を放浪したいもんだよ」
彼のためらいがちな語調と視線が、イリヤの表情と感情を居た堪れなくさせる。
「…………」
「うん?」
「ぶぉっファ!! おま……っ、お前さんなぁ、今の間はなんだよ! ヤケに意味ありげじゃねーか! ったく、何考えてんだか分からねー御仁だぜ」
「よく言われるよ、それ。そのせいで友達なんて、今まで出来た試し無いから。……一応、ナチスの軍人だからね、オレ。この紋章を見てくれれば一発で分かると思うけど、コレを見た人間はほとんど怯えるか石を投げるかの反応しか見せない」
神妙に掲げられたのは右腕の袖下にあしらわれた黒い十字架の紋章。かの軍を知る者にとっては最も忌まわしき、凶徒の輩。卍の忌み字、ハーゲンクロイツ。
もし自分が連合の狗であったならどうするのかと茶々を入れたい気持ちはあるが、アルスは至ってこちらの国柄には気づいていないらしい。
「なんとなく日本人くさいキミなら分かってくれるかと――」
「我是従共産主義陣営。請不要犯了一個錯誤」
わざとらしく口を尖らせてイリヤは反駁する。その年相応の膨れっ面に苦笑したアルスは、ごめんごめんと平謝りして軽くその場を流した。道理で異様にかしこまった口調の日本語も、此方を枢軸側である日本人と誤解していたわけだ。
「大丈夫。少なくともオレ自身、ナチスの思想に興味はない」
「なんだそうか……だったらあの赤い腕章ないのも頷けるわな」
アルスは国防軍より派遣された海軍の使者であったらしい。オランダ偵察の案件を任せられた彼は、偶然にもユトレイトへ野暮用があったのだという。
「にしても、なんか変なヤツ」
「はへっ? あ……そう、かな」
ヒトの子にしては異様な気配を彼から感知しているイリヤは、率直に皮肉を零した。アルスの物柔らかな眼差しからは、軍人らしさはあまり見受けられない。
が、軍人である故に今こちらへ示す表情や仕草が本来の性格と乖離しているものだとしたら……それこそ、この男への好奇もいっそう涌き出てくるものだ。
「もし俺が連合の人間だったら、今ごろドえらい地獄絵図になってんぞ」
「あはは。それは不注意だったね」
緑と聞けば人は翡翠や、エメラルドグリーンなどの宝石の色を連想させるだろう。しかしイリヤの脳裡を過ったのは、若草や新芽のように瑞々しく、それでいてどこか人里離れた深林の如く原始的な、深淵たる緑だった。
興隆と退廃。相反する意味合いながら、それらの言葉ほどアルスという死神に釣り合う表現は恐らく、無い。
「もうすぐ着くみたいだよ」
運命の歯車が火花を飛散させ、歯軋りを立てて急加速する。
「あ、ほんとだ」
アルスの言った通り、前列の車窓から煉瓦造りの駅舎とプラットホームが見えてきた。
「……風が徐々に近づいてきた」
「ほわぁ! ちょ、いきなり立つなよぉ!?」
アルスが車窓を一瞥して呟くと、突如席を立ってイリヤを瞠目させた。外ハネした赤い髪が風に煽られて浮揚する。彼は車窓の外気に手を差し出し、人差し指で空気に弧を描く。
途端、それまで平行に沿っていた風が不可視の束になり、アルスの指に絡みついた。
――イリヤはというと、開いた口が塞がらず、ただ彼の指と風に揺れる糸を前に凝然とするばかりだった。
「フフ……今日は天気が良いから、この子たちも喜んでるみたいだ。――どうしたの。これが珍しいのかい?」
彼は風を絡めた自身の指を、イリヤのこめかみに触れるくらいの至近距離に引っ張っていく。そのまま空気を弾くかのように、一振りで音を鳴らした。
「!! ――ッ!?」
ヒトの身では視認すら叶わない不可思議な現象に声も出ない。風は確かに自分の耳許をくすぐるように舞い踊っている。
「ね、なにこれ? ……何コレ!?」
横流しの長髪をまとめていた紐が取れかけ、イリヤはそれを慌しい手つきで結い直す。残りの一束であるため、紛失するのはどうしても避けたかった。
「風の防御魔壁をね、お遊び用に凝らしてみたんだ。これで判ったろ? オレがヒトならざる異形の化け物だってことがさ」
やはり、そうか。
アルスの佇まいからはヒトという格式を逸脱した、形容できない悪魔めいた情緒があった。イリヤもまた彼のただならぬ風情を察していた。
ハァ? ボウギョマヘキぃ!? といって遠慮なしに疑問をぶつけたイリヤに、アルスはごまかしにも似た笑顔で返答する。
「ちょ、この風うっとうしいからいい加減止めろ!」
「でもさすがに例外だね。まさかここまで強く吹き続けるなんて思いもしなかった」
「聞けよ人の話!」
「どうやらキミの事をえらく気に入ったみたいだよ。世の中珍しいことがあるもんだ」
「だからってめでたくもねえし、お前人のコトからかってんのか!?」
しかも、もう着いてるっつーのに! と、もてあそばれたことへの吃驚と怒りが一気に込み上げてきて、小腹の立ったイリヤは自分でも驚くほどに声のトーンを張った。
「とにかく楽しかったよ。ドラハテンへの旅がキミに楽しい思い出をもたらしてくれること、心から願ってる」
そう言って彼は風をおもちゃにしながら破顔した。反省の顔色は窺えない。むしろ恰好のオモチャと巡り会えてご満悦のようだ。突然の超常現象を目の前にして驚く合間に、列車はすでにホームへと降り立っていたらしい。
「ど、どうも……」
丁度良い雰囲気で締めくくられ、イリヤは切り返す間もなく適当に返事をするしかなかった。
「それじゃあ、良い旅を」
手を振りながら降りていくアルスの背を呆然と見届けたイリヤは、しばらく甲板と線路の間で立ち尽くす。
風のようにふと姿を現し、ふと行方をくらませた男。瞬きをした瞬間にはすでにホームからも姿を消していた。彼がこの世界に存在しない異形の者だという確証を得られたような、たいへん奇妙な気持ちだ。
「……おかしなやつ」
イリヤもそろそろ歩廊から降りようと、次の乗り換えに向けて時刻表まで足を進めた。彼が降りるのを待っていたらしく、丁度ホームに足をついた途端に発車のベルが鳴る。
予期せぬ場所で予期せぬ刻に、その存在すら疑わしい魂の管理者と出会い、言葉を交わした。思えば自分に訪れる平穏が日の目を見ることは、この時点で明白だったのだろう。
だってほら。アルクマールの出立から自分を付きまとっていた戦闘機が、ついにその本性を現したのだから。
「なんだありゃ――」
それは地響きにも似た、重々しく耳が熱せられるような残響。あの時もっと早くステーションを降りるか、様子を見て車内に残っていたらと後悔せざるを得なかった。
吹っ飛ばされるかと身構えた瞬間、宙に浮いている感覚に顔を上げると、自身は何者かに抱きかかえられているらしい。
黒煙が視界を覆い尽くすなか、目を凝らすとつい先ほど別れたはずのアルスが自分を抱えて反対の線路側へと速やかに後ずさり、爆風を間一髪のところで避けてくれていた。
「大丈夫かい?」
狐につままれたような面持ちで彼を見上げると、アルスは駅舎の屋根まで飛び上がり、向かい来る戦闘機の群れに鋼鉄の得物を差し向ける。
「左弾、解放――Bestatigte das Ziel.」
若草色の双眸が禍々しく閃き、この瞬間を待ちわびていたドライゼがこれまでの鬱屈とした気分を晴らすように火を噴いた。
彼の左手をくぐって発せられる光の円刃。それを魔方陣だと理解するには、イリヤの頭はいまだに混迷の渦中をさまよっていた。
彼の銃口に睨まれた哀れな戦闘機たちは瞬く間に塵芥と化し、人が乗っていた形跡すら残さず無残に砕け散る。照準を残りの一機にあてがった彼は、囁くように呪歌を紡いだ。
「Ich bin leer Bote……」
そう呟いた間に機体はドライゼの冷徹な矢弾に貫かれ、逃げる間もなく空中の塵に混じって墜ちていく。
機銃掃射の痕が生々しく残るホームの石畳にかつて機体だった残骸の塵埃がはらはらと落ち、それまで戦闘機の騒音でざわめいていた鉄路が一気に静まり返る。幸い怪我人や犠牲者はいなかったようで、ホームに残されているのはイリヤ達だけだった。
「怪我はない?」
自身の腕からイリヤを降ろし、ドライゼを提げたまま彼は問いかけてきた。そのドライゼもまた光の粒子になり、アルスの手首に巻きついたかと思えばそれはみるみる手錠のような鎖の腕輪へと形を変えていく。
その様子を目にして呆気にとられたイリヤは彼の物案じが耳に入らずに、ただ物々しく錆びついた枷を凝視するばかりだった。
「お、おぅ……」
Um sustenance sieben Sterne……綴り刻まれた言葉の深い意味までは斟酌しかねるが、最後の弾丸が発せられる刹那に呟かれた一節と何かしら関連付けられるのだろうか。
「でででも、このままだといつ落っこちるか分かったモンじゃねーから、ま、ままた降ろしてくんねーかな?」
屋根の上にいるということをすっかり忘れていたイリヤは、見下ろすと瓦とつま先が目と鼻の先になっているのに気づき、遠回しにアルスへ助けを求める。
「? あぁゴメンゴメン」
彼の訴えに気付いたアルスは再びイリヤを抱え、ターミナルまで移動して再び降ろす。着地の衝撃に怯んだイリヤは思わずみっともない呻き声を上げた。
「うぉおお!? っ、もっと丁寧に扱えよ!」
高いトコは苦手なんだよ! と冷汗混じりに袖を上げるイリヤ。山肌に積もった残雪がいまだに目立つ季節とはいえど、ユトレヒトの昼間は卑湿とした熱気が絶えない。
「あはは、好んで高台に上るような奴なんてオレくらいしかいないさ」
冗談めかしておちゃらけるが、先程まで動物のように駅中を飛び回っていた自身への皮肉な気がしてならない。しかしこの暑さに辟易していたのは自分だけではないようで、アルスもまた襟をぴらぴらと上下させ団扇代わりにして茹だる熱気を凌いでいた。
「とはいえ多分、この騒ぎでユトレヒトの駅は封鎖だろうし、ドラハテンまでは徒歩で行くしかないみたいだね」
徐々に駆けつけてくる警備員の大群を尻目に、彼は他人事のように呟く。
それまで彼に睨みを利かせて見上げていたイリヤは、彼の用事はユトレヒトにあったのではないかと思い当たり、即時に切り出した。
「そういやお前、ユトレヒトに何か用があって来たんじゃないのか? なんかその物言いだと今からでも付いていきそうな雰囲気醸し出してんだが……」
お節介な彼のことだ。危険な目に遭ったばかりのイリヤを一人にするわけにはいくまいと、自ら護衛役を買って出る腹積もりなのだろう。
「まさかそんな図々しい真似はしないよ。こういった事が続くと危ないんじゃないかって少しは考えたけど、どうしても迷惑なら無理強いはしない」
いくら野暮用といえども軍から直々の下知が発せられたならば、それを後回しにするのは軍人としてあまり望ましい行動ではないだろう。けれどこの風変わりな御仁は、自身の都合もお構いなしに何かとイリヤを気にかけようとする。
どうやら損得勘定という概念が彼の頭の中に存在しないようだ。おめでたいものである。
「……でもそういうお前自身はどうしたい?」
「そう、だね。本音を言うとさ、いっそ仕事なんて放っぽりだしてオレもドラハテンまでの旅路を豪遊したいなーなんて。といっても軍人の大半がコレだから今の軍隊は衰退してるんだって、世間には皮肉られるわけなんだが」
地べたにしゃがみこんで煉瓦の隙間に映える三消草をいじって遊ぶ死神は、ため息混じりに笑みを漏らす。
「本当の自由なんて、どこにも在りはしないね」
白い花でぽんぽんと煉瓦の地面を叩く所作はまるで大きな小学生の様である。――けれどこの小学生は一つ、小さな勘違いをしている。
今の呟きはまるで此方を思う存分に振り回している自らの立場を自由でないと言っているかのようだ。イリヤはこの時点ですでに、彼のペースに辟易しているというのに。
言葉を選ぶのも億劫になって、思わず率直な本音が喉を衝いて出た。
「そんなに行きたいなら、やるべきこと全部すっぽかしてでも行きゃいいだろ。べつに俺はそっち側の人間でもねーし、少なくとも此処じゃ誰も咎めやしねーよ」
簡単な事だ、悩むより先に望めばいい。戦争が終わればどうせ後は自由なのだから。
「……本当に?」
虚を衝かれたような面持ちでアルスが顔を上げる。死神もこんな間抜けな面を見せるものなのだと、内心イリヤは感心した。
「あとはお前次第だけどな」
至極単純な話である。今のご時世、上に立つ者の権威など在って無いようなもの。どのみち解消されるしがらみならば、最初から切り断ってしまえば早い。
暫し考える素振りを見せたあと、アルスは静かに首肯して立ち上がる。
「ウィーリンガーウェルフなら、徒歩でも2時間とそう長くはかからない。そこからアウテ・ラントの通りを伝えば石橋が見えてくる。その橋を渡ればドラハテンはすぐそこだ」
そう言いながら手に持っていたのは周辺の煉瓦の隅で自生していた白詰め草を輪にしたものらしいが、花冠にするには本数が足りなかったらしい。
「死神同伴の片道切符、ようやく使う時が来たみたいだね」
花冠は諦めたのか、アルスの手には二人の腕が通りそうな大きさの草輪が握られていた。
いびつに捻じ曲げられた茎の束がイリヤの腕を絡めとる。手首へと下がった草輪はアルスの手錠と同じような、底知れぬ圧迫感を醸し出していた。
「……ハァ?」
まるで「お前を逃がさないぞ」と食虫草に指を銜えられたかのような気分だ。
死神の発する言葉の意味に首を捻るもつかの間、イリヤは言われるがままアルスに、盛況の広場まで手を引かれていくのであった。
澄み渡る青天。青天に相反する朱色の煉瓦で敷き詰められた地盤。青天の下で並立する石造りの建築物。民衆の喧騒が近づくにつれイリヤの眉間が徐々に険しさを増していく。
アルスに連れられるがままやってきたのは、ユトレヒトの中心部に位置する噴水公園。
とはいえその広さはとても百貨店の1軒2軒で収まりきれるように狭小ではなく、もはや広場といっても差支えないほどの規模であった。
――これ、本当にドラハテンまで着くんだろうな?
しかしどう取り繕っても人混みは苦手だ。喧しく狂ったようにはしゃぎ立てる烏合の衆と空気を共有していると考えただけで、言わずとも知れた吐き気が込み上げてくる。
先刻からの突発的な事故の連続と、素性の知れぬ死神に振り回されてきた事への疲労が蓄積されて、イリヤの口から思わず深い溜息が漏れた。
「そろそろ昼頃だし、何か食べに行かない?」
その溜息を空腹と察して自分の身を案じてくれるアルスにそこそこの感謝と、痒いところの間近を擦られたような、惜しいと言いたくなる気持ちが半々だ。
「別にいいケド。……奢れるほどの金は持ち合わせてねーぞ」
「大丈~夫、勘定はオレに任せて。さ、行こっか」
出発の合図代わりに肩を抱かれ、怪訝に皺を寄せて彼の横顔を窺うと、いかにも楽しそうに鼻歌を鳴らしながら足取りを弾ませていた。そのため歩調が狂って何度も転びそうになるが、その度に騎士の如くエスコートされて何とも度し難い気分になる。
死神同伴の旅路も案外ラクではない。……第一、男同士で手を繋いで寄り添って街を駆けていく旅など決して楽しい訳がない。
ふと立ち止まった先に小さな露店が広場のメトロポリスを囲んでいるのが見え、アルスはイリヤの手を引っ張りながら並々とならぶ店先へ駆けていった。
「わ、ちょ! 待ーてーよっ!」
「彼処なんか良いんじゃない? ねぇ、行ってみようよ!」
「おい! 引っ張んなって、コラ! ああもう、お前の好きにしろよ……ったく」
突拍子な彼の行動についていけないイリヤはもはや、諦めにも近い様相を表し始めている。
しかし芳しい匂いにつられて気持ちの行き所が右往左往していくのも確かで、焼菓子売り場へ立ち寄った途端にはいつの間にか大らかな心に戻っていた。
「おじさーん! ワッフルサンドのLサイズ3つと……キミは何がいい?」
「んーとじゃ、ハチミツがかってるこれで。……いいのか?」
ためらいがちな視線を送りながらサンプルに指をさすと、アルスはニッコリ笑いながら店員に呼びかけた。
「ハニーワッフル1つ! いいよいいよ、気にしないで。他に欲しいものがあったら遠慮なく言ってよ」
初対面の旅人に惜しげない笑顔で飯を奢る彼の器量に驚かされつつそれを甘受してしまったのも、食欲を前にして本来の意地が発揮できない人間という証拠故だろう。
露店から離れた草むらのベンチで腰掛けて、芳醇な湯気をまとう包みを手にしながら雑談していると、イリヤはふと思い立った疑問を口にした。
「思ってたよりイメージが軽いというか……人間よりも人間くさいっていうか」
横目でそう問いかけると、アルスは心当たりのなさそうな面持ちで此方を向いてきた。
「そうかい? どうやらキミとオレとでは人間に対する価値観が大分違うみたいだね。……好意と嫌悪の差が特に」
浮かない顔で呟いて、アルスはより深くベンチにもたれ掛かる。
「そりゃあ、お前は死神を名乗ってんだから多少はヒトとの思考が違って当たり前だろうよ。特にお前は人類の墓守を謳ってる割にゃ、ずいぶんと人間くさいじゃねーか」
彼の事を誰にでも対等に接する善人とばかり認識していたイリヤとしては、その否定的な意見に意外な側面を感じずにはいられなかった。
翌々考えてみれば友達が出来たことがないなどと言っていた気もするが……それが一重に真実ならば、人間という存在を好意的な視点で捉えられないのは無理もない話だろう。
如何なる事情であれ、本人が語るまでこれ以上の答えを追究するのは避ける事にした。
「オレって、そこまで冷酷な生き物に見えるかな……? 冷酷は間違ってないかもしれないけど、さすがに人間ほどってワケじゃ……」
「いや。話が噛みあってないぞ。俺が言いたいのは人間という動物の在り方うんぬんじゃなくてだな……」
自然な流れから生じたイリヤからの素朴な問いかけにどう答えるかを神妙に考え込むアルスと、人間らしさについての考察ではなくアルスという人物を単純に評価しただけのイリヤとの間に、ちぐはぐな疑問の線が交錯した。
「え。だって人間は残酷で、私益のためにしか動かない打算的な生き物だろ?」
ならびに、人間のことをこの世で最も恐ろしい化け物と彼は称した。対し、イリヤ自身は彼の認識における人間という生物を自分と同じ存在と認めることができなかった。
――この男もまた、自身と同じ闇を抱えているのではあるまいか。僅かながら期待を抱いてしまう自分はもしかしなくても不謹慎な生き物なのかもしれない。
「皆がそうとは一概には言えねーだろ。少なくとも、お前の画に描いたような人間の像と俺を一緒くたにされちゃ堪ったモンじゃねーぜ」
だがきっと何かしらの苦労を積んできたのは間違いないだろう。彼の両手に刻まれた無数の傷痕と青痣が、幾ばくか憶測のつきそうな負の深層を物語っている。
イリヤの周りには軍事関係者が多数で、彼自身も何度かは減退していく軍隊の実態について聞かされていた。アルスという男もまた、凋残の一途を辿るばかりの趨勢に翻弄されてきた者のひとりに過ぎないのだろうか。
「あはは。まあ適当に流しといてよ。……それにしても、キミは人間なのに優しいんだね。オレのくだらない話に乗っかってくれるなんて、よほどの物好きかそれこそ聖人君子の器くらいのもんさ」
「別に暇だからさして気にならねぇ。そういうお前こそ、死神にしては人が好すぎるんじゃねーの?」
ここまで居心地の良い思いをさせられると、自身はこの死神の掌で踊らされているのではないかと無意識に疑り勘ぐってしまう。
今までこういった手合の者には決して近づく事すら恐ろしくて出来なかったのに、気忙しいきらいのある彼に対してアルスは現在もこのようにうまく波長を合わせている。
「そんなことないってー。たまたまオレがそうしたかっただけに過ぎないよ」
諧謔を弄するようにイリヤの言葉を否定する死神からは、相手の警戒心を爪で一枚ずつ剥いでいくようなフランクさがあった。
「でも助かった。シニガミって口にしてみりゃカッコいいけど取っ付きにくそーな先入観があったからさ」
それに美味いモン奢ってくれる奴に悪い奴は多分いねぇからな。と続けたイリヤは、心を開いたのかと誤解されないように小さく愛想笑いを零した。
「死神がカッコいい、か。……ねぇ、キミはどこから来たの?」
最後の一口を豪快に飲み込んだアルスは、ベンチから背中を浮かせてイリヤに問い質した。
気恥ずかしさに耐えかねて話題を変えようとしている辺り、満更でもなさそうなのが透けて見える。あまり触れられたくない話題だったが、隠す理由も特にはない。
「どこって、俺は台北の……まあいいや、一年前にソ連から台湾に移住したんだ。前住んでたトコは……スターラヤルッサ。少数民族の暮らす村」
早くから両親を亡くしたイリヤは叔父の住まう台北のもと、車掌見習いとして駅に身を置いていた。今ではその叔父も逝去し、度重なる戦渦で存在する意義すら失われた駅に留まる理由もなく、イリヤは知人に新たな駅舎を斡旋してもらう手筈となっていた。
それが件の、ドラハテンまでの旅程にさかのぼる。
「ああ、聞いたことあるよ。ソ連の辺境にある、水力発電が盛んな場所」
「詳しいんだな」
「ちょうどオレも1年前に訪れたことがあるんだ。……ちょっとした偵察でね」
含むような沈黙の意味を理解できず、立ち上がって伸びをする彼の横顔をただ眺めるしかなかない。
「さて」
「? ほーひゃふぃひゃほは(どうかしたのか)?」
未だ菓子を頬張っていたイリヤに微笑みかけると、彼はまたイリヤの手をとって広場の先へと走り出した。
「えぇっ!? ちょちょちょ、またかよーッ!? てか食い終わってねーよ!」
「定時のスプリングラーまであとどれくらい掛かるかな……」
背後から浴びせられる非難もなお知らず、アルスは風の向くままに駆けていく。そんな彼のペースに、イリヤの体力はもう限界寸前までキテいた。
「ぅおおおおおおおいいっ!?」
シャツの下に提げていた懐中時計を引き上げると、時針は12時の目盛を指す頃合いとなっていた。秒針が重なったと同時に、広場周辺から吹き上げてきたスプリンクラーのカーテンが出迎えるように二人を囲う。
「すっげぇー……こんなのまだやってたんだ!」
戦時中とはいえ、由緒ある有数の広場が大勢の人で賑わっているのは変わらない。この広場に似た場所を通りかかるたびに、当時は深い溜息が途絶えなかったものだ。
しかし立錐の余地もない人だかりではないかと腹を括っていたが案外、白昼のユトレヒトは閑散としていてイリヤの懸念は杞憂に終わった。
食べ終わるや否や広間の奥まで引っ張り回される始末となったが、長距離を走り抜けて汗ばんだ体に、車軸のように降りしきる噴水の飛沫はちょうど心地良いのかもしれない。
「こんな風に街を走り回ったの俺、初めてかもしんねぇ」
さっきの憔悴とした形相からはまるで想像がつかぬほどはしゃぎだすイリヤに、人の感情の機微はこんなにも目まぐるしく変わるものなのかとアルスは苦笑する。
「オレもだよ。こんな風に誰かと街を見て回ったり食べ歩いたりするの、初めてなんだ」
「そりゃ意外だな。お節介なお前の事だからてっきり、目に付いた人間みんなこういう風に引っ張りだして振り回しまくってんのかと思ってた」
それにお前の容姿なら女10人くらいは元が取れそうだしな。冗談を交わしながらも水浴びに興じてすっかりびしょ濡れになったが、そんな二人はお構いなしで湿り気を帯びた芝生で寝転んだ。
頭上を駆け巡る水のスクリーンが燦然とした陽射しと重なり、思わず目を眇めるほどの輝きを放つ。如何わしい存在にここまで干渉して振り回されるのも、たまには悪くない。
このままずっと浴び続けていたかった。15分にはこの水の庭園もお開きとなる。もし世界が戦火に包まれる未来から逃れられないなら、いっそ自身を取り巻く水の精に清められながら逝きたいとも、ひそかに思っていた。
「そんな軟派な真似はしないさ。だいいち初対面の子にここまで干渉したことなんて今まで一度もなかったし、それに……オレは嫌われ者だからね」
これまた意味深長に、死神はこちらに微笑んでみせた。穏和な顔立ちに誠実な人柄、どちらも大衆を惹きつけてやまない要素でありながら、自分と近い年まで彼はどういった半生を送り続けてきたのか。
さもイリヤには関係のない事柄だと知りながらも、人は未知なる事象に対し非常に貪欲な探究心をもつ生き物である。それを一番よく理解しているイリヤだからこそ、個人の出生や生い立ちに関する言及は極力避けてきた。
「……そうは、見えねーけど」
含むように呟いたアルスの言葉を否定するまでには、イリヤの胃と心はすっかり満たされていたらしい。なにせ物音には人一倍敏感なイリヤが、噴水の音にかき消された伏兵の気配に気付けなかったぐらいなのだから。
「へ? ごめん、スプリンクラーでまったく耳に入ってこなか……っ」
本当は射水機のせいでないことを、アルスも十分に理解していた。なるだけ気づかないふりをしていたかったというのも、正直な気持ちだ。
水の壁を越して映っていたのは数多な機銃を携えた戦闘機の数々。その様はまるで青天を覆い尽くす鴉の大群のようである。
「……あーあ。やっと忘れられるところだったのに」
彼の声音に凄然たる温度を感じ取り、イリヤの背に底知れない寒気が走った。
忘れる? いったい何を? 考えるよりも先に、奴らは此方の都合も知らぬまま一斉に高射砲の火花を散らせていく。
おそらく自身を狙っていると思われる慎みのない地上砲撃が広場を蹂躙し、賑わっていた民衆の嬉々とした喧騒が阿鼻叫喚の図へと一変する。
だからこそ聞き逃さなかった。アルスが悪態をついた直後、小声でひそかに「初めて友達が出来ると思ってたのに」と呟いていたことを。
散り散りになった彼らには目もくれず、ただイリヤのみを捕捉する北のアカ――心当たりは幾つかあっても、大抵すぐに解決できるような問題ではない。
だが此方に置かれている状況をまったく知らないであろうアルスにとってはあくまで、空軍からの奇襲は偵察の妨げでしかない。ましてやそんな彼に自身が連合の標的となった経緯を説明することなど尚更できなかった。
「いよぉ~久しいお客さんじゃねえかい、これぁまたぁナチスの手先ときたもんだぁ~」
いつの間にか地上でも包囲されていたらしい。潜伏兵を先導していた大男が、下卑た笑いを浮かべては開口する。
――汚らわしい。一目見ただけで直感した。貧民街を彷徨する、あらゆる欲望に飢えた野獣へボロ切れの服を着せたような男だ。イリヤの知る世界にこういった手の浮浪者は決して珍奇でも異端でもない。
“ナチス……ナチス、ドイツ”
ふと、かつて自身のいた“あの世界”へ戻ってきたような気分になり、思わず男から目を逸らした。過激な独裁政治の指導者。非情な大量殺戮の輩。それに便乗する酷薄な兵士諸君。
――まるで“あのとき”と同じではないか。
イリヤがぶつぶつと言っている傍らで、アルスはというと無言で男の挨拶を聞き流し、漆黒のアームカバーを填めた両手にそれぞれ種類の異なる拳銃を納めていた。
先ほどまで鎖をじゃらつかせていた手錠が見当たらないということは、やはり何らかの手順を踏んでそれらを銃器に換装させていたのだろう。
「ここはぁ~いっちょ、おらと遊んでいかんかぁい? オニーサンたちよぉ~~~っ」
どしり。と地響きがして、予期せぬがたつきによろめくと、アルスがドライゼを握っている腕で抱きかかえてくれた。同時にアルスは男を睨み据えて、
「邪魔したからにはその命ひとつで支払ってもらうわけなんだが」
これ以上オレの時間を無駄にしてくれるなよ……その優しげな容貌からは想像つかない大きな舌打ちにイリヤが委縮すると、「ごめんね、キミに向けたやつじゃないから安心して」とアルスが断りを入れてきた。
「んおおぉ? ずいぶんとデカいクチを叩くモンだなぁこのお坊ちゃんはぁ~」
また地響きが鳴った。傾く平衡感覚にもういちど舌打ちすると、イリヤを脇に抱えたまま拳銃を交差させてアルスは迎撃の構えに移行する。
「待、おい、ちょ、おまっ! そろそろ降ろせ――」
長年その燃費と効率の凶悪さから忌避されてきた、小銃を握り戦場を駆る者にとっての妙技・二挺拳銃の構え。まさか娯楽映画以外で目にすることは到底有り得ないと思っていた。この死神の非現実的な側面を一際引き立てるのも、その技巧のひとつだろう。
先刻助けてもらった際にも目にした回転式拳銃の派手な光沢と、初めて姿を現した自動拳銃の不気味なシルエットに、イリヤは非難を忘れて深く息を呑んだ。
どちらも正規の品では本来考えられない質量で、降ろしていると銃口が地につきそうな程の大きさもある。
「あ・れ・ま・かっくぃいいねぇ~オニーサンよぉ。シニガミのお役目すっぽぬかして騎士サマ気取りかぁい? いやぁあ実に気前がぃいこったなぁ~~~Fuck of!!」
低劣な罵倒を大音響で叫ぶと同時に、地響きで生じた破片が男の周辺を囲った。
それらはみるみる青い光を帯びていき、見覚えのある文字列が大男を取り囲む。アルスがドライゼを構える際に発した光の原理とまるで同一だ。
――こんな奴に、形見の鈴を渡すわけにはいかない。
眉を顰めながら、腕輪に結び付けていた鈴を握り締める。
「虚空に吼えろ! 『ドラグーン』ッ!!」
奴らを地獄のブタ箱にブチ込めってんだぁああああああッ!!
麁陋な雄叫びを上げながら煉瓦の地面に突き立てられたバズーカから、噴火の如きひしめく爆音が広場中に轟いた。
同時に上空からのミサイルと潜伏兵からの狙撃も相まって、四面楚歌の跳弾が一斉に飛び交っていく。15分が経過するまで止まらない噴射も今では障害物に過ぎず、その視界も大いに制限される。
それらを避けつつ、一歩飛び退って地割れの衝撃を逃れたアルスは、庇うように彼らとイリヤの線に立ちはじめた。
「大丈夫。キミに手出しはさせない」
カチリ、と、レバーコックから安全装置の外れる音がした。
「今回は事情が事情なんでね。もちろんお前たちには死んでもらうけど、楽して死なせる訳にもいかないな」
その照準に宛がわれた者は、退廃と腐朽の一途を辿るという。
「オレの座標に近寄る者は、誰であろうと伐り殺す」
たいてい危険が及ぶばかりで損な役回りでしかない密偵任務が3日と続いてよく穏便に事の運んだものだと、アルス自身も内心驚いていた。
それもそのはずアルスの階級は中尉と、将校クラスの使い走りでしかない。そんな彼が今回のユトレヒト偵察の下知が賜ったのには、理不尽としか形容できない理由があった。
不幸事で軍を去った上司と不正事で軍を追われた部下の肩代わりとして、今までは参謀本部が受け持つはずであった仕事が、すべて支部の一つであって特段変わった位置づけをされていない普遍的部隊に過ぎない彼の支局へと一気になだれ込んできたのである。
特に彼の所属していた部隊――カールスルーエ支局にカタギの人間はお世辞にもおらず、裏社会からのし上がってきた前科者の吹き溜まりであったため、その信用の程はお察しの通りだった。
故に掴まされた、軍の狗という配役。むろん便利屋扱いをこの世で最も嫌う本人が認めるはずもない。
この鬱屈とした状況を一刻も早く打開するため、アルスは自ら憎まれ役を買ってでた。
――その旨は、悪の体現者を振る舞うことで、世界中の敵意を此方に集中させる――といったもの。
行き場を失くした自分へ道を与えてくれた街に報いるためならば、たとえ外道に成り下がろうとも構わないという、彼には断固とした一心があった。
……イリヤと出会う、少し前までの話であるが。
「鎌の代わりなんていくらでもある。だがアンタは自動拳銃ナシであっても十分さ」
不慣れな者には両手で扱う事すら困難を極めるであろう拳銃を、しかも片手一対で繰る二挺拳銃は反動の大きさと装填の手間を鑑みれば酔狂かつ無茶苦茶な荒業にすぎないが、この男に限って言えば話は別だ。
「アンタとの遊戯は、左手だけでカタをつける」
何せ彼は音に聞こえた銃撃手。その異名も、『Bitter Feind gesäten streuen Gerechtigkeit Unglück』
アルスとオランダ軍の伏兵らによる、矮小な規模ながらも熾烈な激戦――イリヤはこの時、直面する。彼らの戦いと、その意義に。
「そういえば知っていたかぁい? 先とまた先の爆撃テロぉ。あれは俺様の手先の仕業だぁってことをよぉ」
「知らない筈がないよ。アンタらの事は全部ウチで調査済みさ、何もかも。部下にやらせてばっかで、自分自身は何も把握してないんだろ?」
続けざまに吹き上げる礫の風を避けながら彼は口角を上げ、その端正な表情を不敵に歪ませた。腰元で、二挺の得物をお手玉のように遊ばせながら。
「それに先ほどからこの子を付け狙ってたってコトも、すでに」
召喚された術式はまるでこの碧落の頂のように碧く、目映い光を迸らせていた。白昼にもかかわらず、その様子はまるで降り注ぐ流星にも似ている。
光が不意に当たっても、その箇所が火傷することも溶けることもなく、光だけが仄かな温かみを残したまま雪のように消えていく。召喚士の冷えた声音とはうって変わって。
「酷い言いザマさなぁ。ま、俺様も他人サマのこたぁ言えねえがァ~」
男も男で泥酔したような蕩けた眼差しを向け、にやついた笑みを飛ばす。
「この“依り代”があるからにはなァ~~~ビャアアアアアアアアハッハッハ!!」
「……依り代?」
依り代――それは、心に深い闇を持つ者だけが所持をするとされる、伝説の神器。
「世の中にはありとあらゆる超常現象をいとも簡単に操れる人が、少なけれど存在する。その人たちがそういった現象を起こす際の動力源となる、あのアサルトライフルみたいな供物などを指すんだ」
首を傾げるイリヤに、アルスは短く注解する。術式を張り巡らしながら答える彼の横顔は深甚たる表情を孕んでいた。その意味するところを何となく察したイリヤは手元に転がる鈴を一瞥しながら、これ以上の穿鑿は避けようと小さく頷いた。
「おしゃべりは終わりだこったなァ~~~」
間の伸びた口調からは想定できない速さで男は依り代のEA-llを構え、二人に威嚇の射撃を浴びせた。発振されたバレルから術式が展開され、そこから穿たれる弾丸は魔力を帯びて、自我をもったように二人を追尾し始める。
アルスはそれを難なく潜り抜けるが、イリヤは慌てふためき、へどもどしながら、フィニッシュといわんばかりに勢いよく吹き上げる水柱の間に紛れ込んでどうにか追撃をしのいだ。肩が触れそうな水面下の距離だったが、鈴も腕輪もどうにか無事だった。
「びゃはっはははっははははははははははあははッ!!」
「……ッ!?」
その轟音もさることながら、周囲の煉瓦や建物に穿たれた弾痕がEA-llの威力を知らしめており、水柱に隠れるように尻もちをついたイリヤは無意識のうちに唾を飲む。
蹄を立ててEA-llが啼く都度に、年期がかった煉瓦の敷地が震撼する。あれだけ壮大なブツを繰り出されては、近隣の住民も堪ったものではなかろう。
「アンタみたいな無法者が一丁前に依り代なんてね。どう考えても誰かから貸し与えられた一品としか思えないよ」
「うぉっとおおおお? バレちまったからにはァ、しょうがねぇなァ~~~っ??」
駿馬の如く嘶き、不躾な侵入者を蹴散らさんと疾駆する散弾の豪雨がアルスのもとへ一直線に降りしきる。
無論これしきの銃撃で尻に帆をかけるような彼でなく、涼しい顔で銃弾をかわしつつ自身の拳銃を交互に可動していき、その恰幅の良い体を身軽に躍らせる。
そうとうな場数を踏んできたのだろう。あれだけ剛強な肉体を俊敏に動かすとなればすさまじき運動量が必要になるが、彼は息ひとつ上げず、疲れをものともしない。
「開帳――Proper Hilfe, Bestatigung」
より高く跳躍して、ドライゼを握る手に力を込める。その時ふと、アルスの左目が禍々しく耀いたような気がした。
「あいつの目、なんて書いてやがんだ……?」
昏く澄んだ殺意を迸らせる左目の虹彩と瞳孔には、まるで機械のように数値と文字が一気に流れていた。その目がドライゼの影で隠れたかと思うと、銃口から翡翠色を帯びた術式が発され、徐々に広がっていく布陣から、のべつ幕なしに星々が落とされた。
「Sieben Sterne,Sperrfeuer――背天の者に、七星の慈悲は非ず」
無作為に乱射しているようでいてアルスの挙措に一切の無駄がなく、照準に捕捉された者は皆、慈悲無き回転式拳銃と自動拳銃の餌食となっていった。
肉片を散らせ、臓腑をばら撒いて……彼の戦い方はイリヤの想像以上に狂暴で、野蛮だ。水飛沫に血潮が混ざり、煉瓦が何によって湿り気を帯びていくのも分からない。
銃把を握る彼の手に張られた術式にも、返り血が滴っていた。いずれ術式が解ければ粒子と化すのにも関わらず、彼の狂猛な光を帯びた双眸と歪んだ口元が、半透明な装甲のよりリアルで冷たい質感を醸し出していた。
「しぶとい坊っちゃんだぁ~はっはッは! EA-ll! おらに見せてみろぉ、千年懸けて研ぎ澄ました鋭爪の底力ってやつをヨォ!!」
それに対抗した男はバズーカよろしく巨大な図体のEA-llを真下に叩きつけ、馬の遠吠えに等しき銃声を悠久の大地に轟かせた。彼の周囲の煉瓦は粉々に粉砕され、朱色の粉末が舞いに舞う。それだけで広場は散々なのに、この男は自重を知らなかった。
「ゴオオオオオォォォォ――」
天地を揺るがす、益羅男の雄叫び――そのような謳い文句、今の時代となっては荒唐無稽と呆れられるか、嘲られるかのどちらかだろう。いったい何度、世界を滅ぼせば気が済むのかと。
しかし男の咆哮、そのけたましさは明らかにこちらの常識とは規格外の次元にあった。それまで快晴であった蒼穹が灰塵の形相を顕し、重々しい混沌の強雨を喚び起こしたのだ。
ただの偶然にしてはあまりに咆哮のタイミングと一致し過ぎている。否、むしろアルスとしても偶然であってほしかった。天候を思いのままに変化させるという概念はもはやヒトとしての可能性を完全否定し、神の領域にまで到達しているではないか。
「お前の銃、大丈夫か?」
気遣わしげにイリヤから声をかけられ、大丈夫だと頷いた。おおかたの実包には防水加工が施されているのが常だが、ここまでの大湿気ともなれば数分たりとも持つまい。
射水機のハンデも相まって、少なくとも3分あたりが関の山か。それまでにあの駄馬を仕留めることができれば良いのだが。
ウォーターコールが止むまでに要する時間はあと12分。これでは割に合わない。
噴水の上に飛び上がって跳躍を繰り返すことでEA-llの鉤爪から間一髪のところで直撃を逃れ、男が装填に入るのを見計らい、アルスは鎖で繋がれたレーンの上を飛び跳ねながら体勢を立て直した。
左手の回転式拳銃の装弾数は最大で6発まで。幾ら数々の激戦を潜り抜けてきた歴将のガンスリンガーといえど、弾数に乏しい回転式拳銃で男のアサルトライフルに拮抗するのはとてもではないが難攻不落に近しい。
高速装填の利く自動拳銃ならまだしも――しかし、機巧があまりに緻密で複雑なため、より慎重な扱いが問われる。特に当時の九ミリ経口は一歩扱いを過れば即座に暴発する、限りなく危うげな機構であった。
「全く、天候を変えるなんて冗談じゃないね。――死神を前にして、あまり意味は為さないシロモンだけど」
不敵な憫笑はどうやら彼のステータスらしい。アルスは空薬莢を棄て、照準の先にあるアルカイックスマイルを見届けて乾いた笑いを零す。
ガチリ、と乾いた音を立てて彼は銃を回した。
「オレも本気、出しちまおうか」
言うが早く、アルスは愛銃が収まったままの両掌を交差させて、漆黒の妖気をその身に纏わせる。半透明な光を放っていた装甲が黒さをみせ、先ほども目にした碧い光が詠唱文の帯を糸のように紡ぎ、まるで鎧のように彼の周囲を纏った。
網羅される術式装甲。重ね着するように搭載された刻文のループ。
まるで近未来のような外装をもちながらも、木鉄の銃と垣間見え隠れする鋼鉄の拘束具が、退廃と興隆の対比を司る死神の滑稽な均衡をもたらしていた。
「イリヤ、キミはちょっと離れてて。下手にオレの『瘴気』へ近寄れば、マトモな精神じゃいられなくなる」
その瘴気に足を踏み入れた者は、理性を奪われて怪物に成り果てると云う。
黒い粒子が徐々に碧へと色を変えていき温かな光へと変化していくにもかかわらず、不気味な様相がかえって増したのは、彼の双眸と口元が限りない愉悦に歪んでいたからだろう。
「――我が導くは屍山血河の極まりに有り。其の魂を肉片ごと嘆きの地に還さん」
冷然と告げて瞼を閉ざすアルスの様相はまさしく、儀式を奉ろうとする魔術師のそれだ。
彼の纏う瘴気は、術者の能力を最大限に飛躍させる代わり、立ち入った者を“身体の養分を枯渇させ、干からびるまで”発狂させてしまう。
「術式装填。――Anfangen」
発案者がヒトでない異形の者だけに、如何なる殺戮兵器よりも質の悪い魔法だ。中世ヨーロッパにおける、神秘の概念――しかし豊富な類の兵器が開発された今となっては、衰退の一途をたどる過去の文明に過ぎない。
現在のところ邪道とされる魔法を実戦で取り入れる積極性も随分と珍奇なものだが、イリヤはそれを見事な手前とみてとった。
そう、この時点で気付くべきだったのだ。瘴気を放出してテリトリーを網羅させた以上、彼の勝利は必然なのだと。
「汝に謳うは忠誠の証、其に紡ぐは終世の祝詞、我の繋ぐは七連の数珠――術式展開、七星連打!」
彼の足下を、地中から7つの柱が突き上げる。飛び散る煉瓦の粉はまるで血飛沫にも似ていた。武骨な柱が光を見せたかと思うと、氷柱から滴る水のように先端から碧の粒子が一斉に漏れだした。
季節外れの蛍のような、そんな幻想的な芸当を見せながらそこに何ひとつ美しさも秀麗さも感じないのは、まさにその蛍たちが火玉となって男を襲い始めたからだ。
「全機散開――Rund um das Ziel」
かの縄張りに侵入すれば発狂すると前述したものの、術者と同じ、狂暴な魔力を得るのとほぼ同義である。
しかしアルスの場合、拳銃で撃ち合う遠距離戦を前提としているため、相手の接近を許すことなく且つ魔神のごときパワーをもってして標的を確実に仕留める事が可能だ。
正確で秀逸な魔法を繰る、死神を名乗る軍人――新たな魔導の可能性を、イリヤは再認する。形式は違えど、イリヤの故郷にも古により伝来する魔導を為して得られる奇跡があった。
……今では、遠い昔の話であるが。
「こりゃあ、おったまげたぁな! 小っさな兵士からこーんなおっかないオーラが満ち溢れてらぁ~おらも負ける訳にはぁ、いかねぇさ~ッ!!」
竜騎士の権威をほしいままに蹂躙するサムは高らかに嘯いた。混沌の蒼穹にEAーllの火玉を打ち上げる弾が青の軌道を描き、谺した。
「吠えろ、ドラグゥゥゥゥゥン!!」
突如の豪雷に顔を上げるや、アルスとイリヤは天空が裂ける刹那を目の当たりにする。大袈裟ではなく、確かに暗黒の空洞が真円を描いて二人の真上に顔を覗かせていた。
「ビィィアアアァァァァっはっはーッ!! どうだぁい! あまりに強大過ぎて怖じ気ついたかぁい!?」
魔法は斯くもこんな醜鼻たる禍根を生み出せるのか。これは探求心に溢れた魔導を闊歩する者による、創造の結果なのか。それとも研究途上の頓挫による悪夢なのか。ともあれ、相手が三流の成り上がりでない魔法の使い手であることは否めない。
しかしアルスは飄々とした態度を崩さず、むしろその横顔は混迷の戦況を愉しんでいるのかさえ思えた。
「んを? 余裕綽々だねぇ~坊っちゃんよぉ~」
「借り物にしてはあまりに手の込んだ芸当だ。おそらくエイド辺りにでも貸し与えられたシロモンなんだろ?」
「んおおおっ? 随分と察しの良い坊ちゃんじゃねぇかよおおお~~~っ?」
これぁ、ますます面白くなってきたもんだいい~~~! 男の戯れ言を無視しながら、ドライゼの展開をさらに拡張させていく。
「瘴気を纏ったオレの一撃は重いよ。――左弾、解放!」
リボルバーを覆っていた呪符の偽装甲が剥がれ落ち、木鉄の銃の銘柄が剥き出しになる。
――Schmer platzen.イリヤの目視ではそう綴られていた。
「溶蝕律令、ありとあらゆる天則を熔かせ!」
我の意が儘に――ドライゼの撃鉄を起こしたまま自身の周囲に追加の魔方陣を張り巡らし、先述に付随する真言を復唱した。
ひとつひとつの術式の中軸に弾丸を撃ち込むことで、初めて銃弾に魔力の適用措置が搭載され、アルスの魔法としての機能が確立する。
「瓦解、崩壊、灰塵、簒奪、隔絶、消失、轟沈、墜落――失楽の果てに朽ちろ!」
墜ちて、堕ちて、遥かなる高みから落ちて。
ドライゼの引き金を絞り、順を追って呪歌を紡ぐ。二発目以降の銃弾では魔法としての追加効果は解消されてしまう。発泡のたびにリロードを繰り返す手間は掛かるが、魔力解放の恩恵を得たドライゼは高速装填が利き、より効率的な早撃ちが可能となる。
よって一瞬の隙も許すことなく碧眼の死神は、煉瓦の大広場を火の海に変える演舞に踊り狂うことが出来るのだ。
「毀し抉りて潰せ挽き裂け! 相対者に慟哭の呪詛を刻め――裂破溶融!」
果たして〆の一撃は何処へ向けられたものか――飛び出さんばかりに見開かれた男の眼球を見れば、一目瞭然だった。
「な――なんだぁありゃあッ!? あいつ正気の沙汰かよぉおお!?」
何とアルスのパラメラム弾は、虚空の洞穴に穿たれていたのだ。さすがにこればかりは男でなくとも想定の埒外にあった。
「Ich bin leer Bote.Solange ich am Leben bin, werden Sie nicht gespeichert werden……」
「手馴れてる……悪天候に、向かい風のハンデも効いたもんじゃない」
この日、少年は世の理が崩れ去る刹那をはたと見届けることになる。
あれはまさしく“本物”であると。鉄筋積めの高台から、誰何問わず驚嘆の声を上げた。自分が立ち会ってよい場面でないと知りながらも、イリヤはこれから起こりうる騒乱の到来を予期せずにはいられなかった。
「これが、あいつの戦い……」
裂破溶融――彼のドライゼによって貫かれたモノ全てを粉砕し、融き解す銃技。
男の呼び寄せた豪雨は端という間に止み、日輪が燦然と、灰塵の空を照らす。
突如刺し掛かる日射しと、ラストといわんばかりに飛沫を立てる水柱の乱反射に激しい瞬きを繰り返しながらイリヤは、戦場であれば必定の物々しい光景を目の当たりにする。
相手に戦意は無いと見て取ったアルスは、跪いた男に接近してその額に銃口を向けた。あどけなさを残した丸い頬を汚い冷笑で押し上げ、再び銃把を人差し指でつつく。
どう料理してやろうかと挑発するように、落とし前をつけてもらおうかと煽り立てるように、わざと足音を立て、じりじりと詰め寄り、獲物との距離を縮めていく。
――カツンと、それを最後に足音は止まった。
「あ、あァ……あああァ」
残弾は、もう無い。
恐怖心からへたり込んだ男は顎骨を軋み立て、硬直する。アルスの人好きそうな笑みが余計に、男の恐慌を煽り立てていた。
「自ら墓場に出向いてくれてありがとう。これでオレの手間も省けたよ」
きっとそれが狙いなのだろう、若葉のような瑞々しさを放っていた瞳孔はかっ開かれ、先の獰猛さにより拍車がかかっている。徐々に拡大していく濃緑の瞳孔は、まるで残された萌黄の清い虹彩を侵蝕するようで、今にも仕留めにかかりそうな猛獣の佇まいだ。
もっとも彼に照準を捕捉された以上、必然の条理でしかないのだが。
「わ、分かった、わかった! 教えるよ、教授の目的と“兵馬俑”の場所!」
「アンタの口からききたいとは思わないね。大体、オランダ軍の隠匿技術なんて底が知れている。アンタが何も言わなくたって、オレが自力で探しだすさ。それに――」
「わかってる! アンタのお仲間だろ!? 確かに悪かったよ! けど……けどあれは何もおらだけじゃない!!」
保身を貫きたいが為にその口からそぐわぬ泣言を吐き出し続ける彼は、己が無力さを露呈しているも同然の有り様だ。
「ほら。人はそうやってホラ吹いて自分だけ助かろうとするんだ。それも、チームワークが必至の戦場で。これがクリミア戦争なら、ナイチンゲールもお怒りさ」
憫笑の念を隠すことなく立て続けに自弁を垂れるアルスに、男は両肩を震わせて屈辱に耐え、許しを乞う。
「だ、だから謝るよ! すまない事をしたと思ってる! 他にいるんだ、おらの他にも、11人!!」
死神の人差し指が引鉄に絡む。彼が指の関節を曲げるかの可否で、ドライゼを突きつけられた男の命運は歴然と決まっていた。ほんの一押しで、瞬時に。
「その12人のうちの1人ってこったろ? 要は。ならアンタを撃とうが12人の仇敵を1人殺したでカタをつけられる。同じことじゃないのさ。ただ己の不幸を呪いなよ……」
その照準にあてがわれているのは自分ではないのに、銃口から覗く黒い気配にまるで此方が凝視されているかのような心持ちになる。
「お前たちにもオレにも“代わり”なんていくらでも在るんだしさ。今さら足掻いたって無駄だ。すぐ“代わり”がやってくるよ、ほら、すぐそこに」
つくつくと笑い、アルスは撃鉄を起こして愉しげに銃口を擦り付けると、止めの決まり文句を吐いてトリガーを絞った。
――銃声は、聞こえない。不審に思ったイリヤがそれまで耳を塞いでいた手を降ろすと、アルスは何を思ったかドライゼを地に叩き落とし、男の目の前で跪いた。
「Tschüs.Bis Hölle――」
「ガアァァっ!!」
ドライゼの銃口を見てしまった以上、男の死は決定付けられていた。無理もあるまい、アルスの瘴気を前に、ヒトは立ち向かう術を持たないのだから。
しかし男を撃ったのはドライゼでもボルクハルトでもなく、今アルスが突き立てた中指のリングから、いわゆる中石に内蔵された仕込みピストルによるものだった。
呆気にとられたイリヤは思わずアルスの右手を凝視する。中指は、執行完了の合図を告げるかのように紫煙を発していた。
倒れた男には意にも介さず、アルスは弾け飛んだ血と脳漿から避けるように踵を返す。安堵のため息をつきながらイリヤは彼を迎えようとした。
「お、おつかれ――」
その時、二人の間に大きな影が差す。
振り返ると、倒れていたはずの男の眼球、鼻腔、口腔という身体のありとあらゆる穴から電線のような管が飛び出し、カラクリ仕掛けめいた機甲がつぎつぎと積層されていく。
拡張される異形のそれは繭を食い破る蛹のように、徐々に成虫へと姿を変えていった。
ある部分は術式のように凝結する歯車へ、ある部分は煙突のような大筒へ、ある部分は歯車の接ぎ穂へと変形していき、ギアが軋りたてながら可動する様は蒸気機関のような外装を醸し出しているともいえる。限りなく表現を美化させたという上の、前提であるが。
――形容すれば、トルソーに無理やり部品を貼りつけた機械兵器そのものである。
そんな機甲の一つひとつが起動していくたびに広場の空気が一変していくのを、イリヤはひしと肌で感じ取った。
「な、なんだ、あれ……」
「――どうりでそんな事だろうとは思ってたよ」
吃驚で思考が追いつかないイリヤの傍らで、アルスは溜め息混じりに呟く。
元はといえばイリヤが狙われた事によるとばっちりと似たようなものだ。文句のひとつ言おうが罰は当たらない。
本人に直接吐き出さない辺り、何やら気を遣わざるを得ない事情でもあったのだろう。だが彼の零した言葉は単なる愚痴ではなく、どこか推論めいた響きを含んでいた。
「――ヒト型殺戮兵器、ソルダート。長年の財政難を脱するためにソ連から生産された。ホムンクルスを機変改造することによって量産される、倫理から遥か遠く外れた人類の野望と、欲望の結晶。人類の犯した、最大の罰」
兵士の大量動員に銭を削ぐあまり兵器の開発資源に逼迫していたソビエト連邦は、同盟を組んだ連合国による輸入資源より、その永きに渡る赤軍の威光を存続させていた。
空輸に頼らねば銃のひとつ持てやしない祖国の状況を打破するために、ソ連より生み出されたのは戦闘兵器型ホムンクルス。倫理の壁をいとも簡単に破壊せしめた、第一人者だ。
兵士という意味合いをもったソルダートという俗称で呼ばれる彼らは、兵士たちの精液から産出され、本人の血液を加えることでその者と同じ姿のホムンクルスを生み出せるという。
戦争による犠牲を減らすといった、人の都合で増産された命を、人の都合で使い捨てにすることは、真に犠牲を無くす対策として正当性に足るといえるか。
そういった問題が浮き彫りになり、とうの300年以上前より産廃されたそれらの産物は今、こうしてイリヤ達の前に立ちはだかっている。
「どうやら奴は最初から仕込んでたみたいだ。自分が死んだとき、内核の可変装甲が自動的に作動するように仕組まれた措置を」
「は、はあ!? じゃああのオッサン、最初から当て馬だったって事かよ!」
焦りに焦りを生む状況に頭がフレイムバーンしてしまいそうな中、冷静に分析するアルスの神経の太さにも肝を冷やされる。
「というよりかは、ホムンクルスが奴の内部に寄生して待機していたとも」
寄生していた宿主の肉を食い破る様はまるでカンディルを思い起こす。イリヤはその様子に全身が毛羽立っていくのを感じ、身震いした。
「ご丁寧に無反動砲まで積層されているなんて、相手の頭は余程こちらの始末に躍起らしい。あの大筒なんかそう、まるでウチの軍のカールグスタフみたいだ」
淡々と独り言を放ちながら、二挺の銃を構え直してアルスは横溢した悪夢の根源を前に、さらなる展開を張った。
「Wieder anfangen……」
広場を覆い尽くすほどの術式が二人の足下に敷衍していく。煉瓦の敷地を一気に碧の池へと変え、変幻自在にテリトリーを網羅させていった。
「Zielerfassung――術式を拡張する」
機械人形はそれらから逃れるようにギアを起動させ、回転数に比例した速度で後退していく。同時に回転する繋ぎ目から連綿と、機銃が放射され、射水と調和するようにその勢いは増した。
あと2分で止まるかもしれないという微かな期待を寄せつつ、アルスは精密射撃を続けるレーザーとスプリンクラーの垣間を転がり抜けながら、機械人形の急所を見定めようと手当たり次第に雷管を叩き続ける。
「その大砲は飾りかい? 砲塔がまるっきり筒抜けだよ。残念だったね……」
歪んだ嗤笑にありったけの悪意を込めて、アルスは排莢と装填を手早く済ませて撃鉄を起こす。
急所を悟られた機械人形は呆気なく、本体の男ごと粉塵の風に消えていった。
「そ、っか……砲口を撃てば奥の弾薬に直撃して爆発するから、あえてソコを狙ったんだ」
思わぬ盲点を突いたアルスの表情は、男と対峙していた際よりも爛々と昏く耀いているようにも見えた。
しかし、それだけで終わるほどホムンクルスという怪物は柔弱に造られてなどいない。
あろうことか死に際に発した、人の耳で聞き取れる限界に近い高周波数の怪音波に反応して、四方から増援のホムンクルス達が広場に光線を落としながら接近してきたのである。
「……なるほど。まさか砲塔の奥に仲間を呼び寄せるシグナルが搭載されてるなんて、そこまでは気づけなかったよ」
先刻よりも狂気を倍増させた彼の嘲弄に、イリヤは戦慄すら覚えた。何やらこの先、ロクな事が起きない予感がしたからだ。
「ここ最近、ヤワな連中としか殺り合えなくて退屈してたトコなんだ。」
またひとつ、イリヤの心底に懸念が蟠った。
無尽蔵に増え続ける彼らをマトモに相手にしては日が暮れる。とにかく、その中において特に頭角を現す獲物を見つけださなければならない。こぞって標的を付け狙う習性をもつ怪物であるため、リーダー格のホムンクルスを真っ先に葬り帰すのが上策だ。
そのあとは、上手く撒くしか生き延びる手立てはない。ましてやただ観光に来ただけのイリヤを巻き込むのは言語道断。
ならば……死神の名を、いまいちど思い出すのみだ。
「オレに楯突いた輩へ約束される、未来は無い」
その時、黒衣越しにアルスの左腕が脈打つように発光して、装甲がさらに禍々しい輝きを増した。
いくら機械兵器として量産されたホムンクルスといえど、元はヒトを模ったものである。破損を伴えば血は吹き出し、心臓に代わる“核”を破壊されればそれまでだ。
だが彼らにヒトの心は無い。故に社会や倫理といった概念を持たず、ただ目の前の敵を滅殺するだけの存在にしか過ぎない。そういった機構に設計されたのだから、致し方ないといえばそれまでの話であるが。
倫理の概念が欠如しているという点で弁別すれば、アルスとて同じ事が言えよう。ヒトの心裏、常識、理念を持たない彼は、これらの肉人形をひとつの展開で血の溜まり場にする事さえ容易だ。
しかしそんな下卑た真似を許してくれない足枷を抱えていたのも、事実だった。
「おいっ、もうやめ……、っそいつもう息してない! やめろって!」
徐々に大きさを増し、響き渡る制止の声。これが一回目の警告ではなかった。決して無視をしている訳ではないが、殺らなければ殺られる、という瀬戸際で受けるにはいささか難儀な注文だ。
何度も振り返って詫びようとするが、そのたびに迫りかかる歯車の円刃を押しのけていかなければならないので、余計に袖口を血と臓腑で濡らす状況を強いられる。
「おいっ!」
イリヤの叫びに少しずつ苛立ちが入り混じっていく。それは焦りや怒りといった単純なものでない事ぐらい、血の乾いた額から汗を滲ませるアルスとて理解していた。
迸る絶叫、慟哭、阿鼻叫喚から耳を塞ぎ、助ケテクレと許しを乞う者たちを足蹴にして、彼らの核に風穴を通していく。鮮血が糸を引くこの戦場で、情けの意味するものはあくまで死でしかない。
「は。いい気味だ」
それでも自分は外道でなくてはならない。なけなしの矜持が、無意味な意地が彼の不要な闘争心を奮い立たせる。べっとりと鮮血の張り付いた手を裾で拭いながら、さらなる敵を探し出そうとした。
「やめろっつってんだろ!!」
これまでにないくらい声高に叫んで、やっとアルスは怒気迫った制止に振り返る。
びくりと、目にしなくても分かるイリヤの剣呑な視線に気まずさを覚えながらも、念のため辺りを見回した。
「……もう誰も居やしねーぞ」
言われた通り、辺りはすでに鉄錆と硝煙の臭い燻る血戦の跡地となっていた。噴水のコールもすでに終わり、盛況な賑わいを見せていた広場の面影など、どこにもない。
返り血をぬぐうことなく、肩を縮ませながらイリヤの元へ歩み寄る。使用後の拳銃は光の粒子となって何事もなかったように消滅し、鋼鉄の手錠に戻っていった。
先ほどの凶悪な様相が嘘であるかのように、アルスはまるで親から呼び出されて叱責を身構える子供のような面持ちでイリヤを見据える。その顕著な豹変ぶりに鼻白むも、本題はただひとつ。
人を人とも思わない外道の到り。もうイリヤはアルスの皮肉に毒気抜かれることも、感嘆することもない。
「――すこし詳しく聞かせてもらおうか」
ただひとつ言えるのは、それはもう人の発するものと思えぬほど、質す声音が凍えていたことだけだ。
一方で、その一部始終を街の高台から眺望する影がひとつ――メアリィは、アルスの姿を捉えて不服の眼差しで睥睨していた。
「そのまま瓦解してしまえばいいですの……」
「さっきの行動の意図は何だ」
張りつめた殺気を迸らせてイリヤは、苦々しげに眉を寄せたアルスを睨み据える。
「……邪魔者は完全に仕留めないと気が済まない性分でね。気に食わないと思った瞬間に指先が銃把に滑るのさ」
「こりゃあ驚いたぜ。実直な好青年かと思いきや人の迷惑にゃお構いなしのとんだ便佞野郎だったとはな」
あまりにも身勝手な言い分に絶句してしまいそうだったが、イリヤは苦笑しながら続けた。
「あんた、とんだ最低野郎だよ。今まで見てきた奴らなんかよりずっと」
お前は命の重みなんてちっとも分かりゃしないのな。まあ死神なんだから当然か。
声を震わせながら、静かに諭す。アルスの戦う姿を見て目に焼きついたのは、熾の集塊が禍々しく飛び火するような戦乱の地。記憶に貼りついてやまない、忌々しき業火の里。
それを思い起こさせる死と悪夢の標致物。こんな鉄面皮を自分の旅に同行させていたという事実に、ただ言うだけ野暮な吐き気がこみ上げてくる。
「……人を殺す事に対してそんなに理由が必要なのかい?」
苦悶に満ちた表情で答えるアルスの心裏には不審を懐くが、血も涙もない横着の権化に糾さねばならない事が多すぎた。
「お前みたいな道徳の観念の薄い奴らが跋扈してるから、罪のない人間がこんなクソみてえな戦いに巻き込まれたり駆り出されたりするんだろ。そんな人間たちがどんな思いで戦ってるのかも知りもしないで」
お前の無意味な殺戮が、お前たちを動かしてる奴らの唱える平和から遠ざかっていると知りもしないで。
死神を視線で咎めるイリヤの眼は昏い怒りの炎に呑まれていた。射竦められたように肩を張ったアルスは自らの立場を危うくするとも知らないでなお失言を続ける。
「世界の平和を心から望むっていうんなら、その世界に人間なんか別にいなくても良いって事だろ?」
「……だからってそれで解決すんのかよ。人を脅かして、挙げ句嬲り殺しにしてそれで済まされるってんなら、この世界はあまりに救われねぇじゃねーか! いくら、いくら人間が嫌いだからって!」
殴ってやりたい衝動に駆られて拳が不規則に震えを刻む。あんなに狂暴な力を見せつけてきた兇徒に一発食らわそうなどと、我ながら据わった度胸だと自負していた。
何をしでかすか分からない突飛的で、何をやるにも衝動的なこの死神は、人の思想と理念から真っ向にかけ離れた生物だと理解していても。
それでも心の隅では割り切れない気持ちがあった。先ほどまで自分に向けられたあの笑顔はまがい物だったのか。先ほどまで見せていた自分への優しさもすべて、自分を欺くための演技に過ぎなかったのか。
彼の瞳の揺らぎを見れば、迷っている様子も窺えるが……気遣わしげに言葉を選んでいるようにも思えて、イリヤにとってはなおさら、腸が煮えくり返るような逡巡に過ぎない。
「ああ。オレは人間が憎いさ。自分たちの生きた証を高らかに掲げて、他の生物の領域を侵して王様気取りでいるあいつらが憎い。死んで詫びろとすら思ってる」
イリヤを見据えるアルスの眼差しが迷いから覚悟の念に変わったのは気のせいではないようだ。もうどう思われようと構わない。そういった覚悟が見受けられた。
「たしかに嫌いだよ。人間も、オレのような異形の立場を排斥して富を貪り尽くす人間どもも、そいつらがうまくやっていけるような世界も、何もかも全……」
「そんなのただの八つ当たりじゃねーか! 自分の受け入れられない現実を自分の都合の良いように捻じ曲がった解釈をしてるだけじゃねーか!」
アルスの言葉を遮って声高に叫び散らす。とうとう我慢の限界が訪れたようだ。自己中心的で自分勝手で、駄々をこねる子供よりも質の悪い男に、怒りが体中を横溢していくのをひしと感じる。
こんな奴が軍隊の中に。こんな奴がこの戦争に。先の醜鼻を極めるばかりに繰り広げられる血の遊戯を思い出し、もはや眩暈すら覚えた。
「そうは言うけど、人の生まれた意味にはこれといって科学的な根拠がない」
何を言うにも、まずは人類への否定から。自分の事を棚に上げていく彼の眼は仄かにヒトへの絶望と、嘆きの色を帯びていた。
「そんな彼らの命に何の価値がある? 銃弾ひとつで飛び散る命が、どの面下げて地球を我が物にしているんだか。さも自分達が創ったかのようにこの世界を、飼い犬のように――」
「いい加減にしろよ死神ッ!!」
錦上花を添えたような綺麗言に反吐が出そうだった。
少し一目置けば呆気なくボロが出る。今まで接してきた連中もそうだった。心底から信じかけていた男がナチスの手先だと知っても、なお疑わなかった自分が愚かしくて堪らない。
ナチスの輩に、悪意の権力者どもに、良心を求めてはいけないと誰にでも分かりえた条理なのに……なのに、この悪辣な策士の口車に乗った自分が果てしなく許せなかった。
だからこそ、死神に向けるイリヤの眼差しは怒りよりも縋る気持ちの方が大きい。いっそ違うんだと言ってくれ。何もかも嘘なんだと言ってくれ。そうすれば少しでもお前を認めることができるのに――そんな哀願が喉を衝くが、堪えて吐き出さなかった。
「う……ご、ごめ」
「お前のやってる事は戦争じゃなくて殺戮だ! 人が世界を創るとか壊すとか! そんなのお前ひとりが決めて解釈する問題じゃねーだろ! 人間だって、自分達の領土を侵されないようにお前達みたいな無法者から必死に住処を守って生きてる、要は同じじゃねーか!」
アルスの胸倉に掴みかかり、イリヤは激しく反証を唱えた。見苦しいのは承知している。しかし許せないでいるのだ。アルスのヒトの命に対する認識の甘さが、そして無意味な虚勢で己を傷つけている自覚の足りなさが。
「わ、わかってる、わかってるけど――」
「悉く俺を失望させやがって……お前の願った世界ってのは、そんな虚無に満ちた世界なんだな。可哀想に」
こいつは気づいていない。俺の気持ちはおろか、自分の涙にさえ。そんな奴が社会の和に溶け込むなんて荒唐無稽な話、到底ある筈ねえよな。
心の底でせせら笑う。沸点を越すどころか、抑えきれない熱でビーカーごと割れそうだ。そんな煮え滾った感情とは裏腹に、心の奥底は氷のように冷えている。この男への憤怒に、身体がついていけていないという何よりの証拠だろう。
「人の死んだ数だけ地球は救われる……お前が言いたいのはそういうもんだろ? 勘違いも甚だしい! それで人を些末に扱いやがった奴のせいで死んだ命はどうなる? ナチスってのは殺戮を草刈りみてえに思い込んでる脳味噌垂れ流しのイカレポンチしか存在しねぇのか!? どうなんだ! お前は少しくらい屠った分の命だけ遺族の嘆きが敷衍してるっていう可能性を省みろ! それこそお前達にとっての火種みてえなもんだろうが!!」
自棄糞のように訴えかけたところで不毛だが、これで満足するのかといえば無論そうもいかない。彼はなりふり構わず銃弾のようにアルスへ畳み掛ける。
「誰も些末に扱うなんて言ってないよ! オレがナチスの独裁政治に肩入れしてるって前提なんだろうけどオレはそんな奴らとは違う!!」
イリヤの駁撃に対し、アルスはただ空しいばかりの抗弁をもたらすばかりであった。
「黙れ! 何がどう違うんだよ! お前の甘言を真に受けてノコノコ着いてきた俺が馬鹿だった! 戦争は国絡みの生存競争に過ぎねぇ。そこに正義も何もなくて、残されるのは血に飢えた悪鬼たちの呻きだけだ!」
いくら理不尽な指弾を受けても引かないアルスの顔を至近距離にまで寄せ、イリヤはひたすら駁し続ける。瞋恚の炎を白桃の眼に宿らせながら。
「綺麗事だけならなぁ、誰にだって言えんだよ。安易に死ぬとか殺すとか、そういう人として守るべき筋道を軽んじた言葉で上辺を濁してくんな! お前が説こうとしてんのは俺がこの世で一番大っ嫌いな偽善なんだよ!!」
強く揺さぶった反動でアルスに尻餅を着かせる形となったが、それでも構わず血を吐くような勢いで、徒爾も甚だしい辨駁を続ける。その様は泣訴にも等しい。
「そんなの、数えきれないくらいあるのに……オレはどうなるのさ。これでも死ぬ思いでやってるのに、キミはオレの行いが徒労だったとでも言うのかい? キミの嫌がるこんな矛盾の多い世界だって、元はといえばキミたち人間が創ったものなんだよ? 何で人間でもなんでもないオレにばかり責任が……」
「わかってるよ。お前個人の問題じゃないことも。お前自身苦しみ続けてることも。でもだからこそ納得出来ねんだ、答えてくれよ。人を食い物にして至福を肥やすナチスの連中を何で認めた! 何で総統の暴走を見逃した! どうしてお前が……悪魔の横暴に肩入れしたんだよ! どうして人間なんかに頓着しないお前が!」
振り絞って発する声は絶望よりなお深い失意に震えた。不毛、無益、そんな言葉では形容できぬほどの蕩尽が心中を駆け巡る。ただ空しい。こんな幼子のような迷い言に柳眉を立てている自分が何よりも。
「お前の言ってることは全部、目の前の惨事を平然と見過ごせる下衆な人間の懐く幻想と何ら変わりはしねえ。そして俺も……自分じゃ何にもできない。できない俺自身が何よりもずっと許せない。でもな、お前の優しい言葉は俺にとっちゃ刃物も同然なんだ……これ以上、自分じゃない誰かのせいで後悔なんてしたくない」
アルスの肩を掴む手に力が込められる。食い込んだ爪から彼の血が滲む。先のホムンクルスによって引っ掻かれたらしき傷に掠っていて眉を顰めるも、彼は気づかないふりをしてイリヤの震える視線を見据えるばかりだった。
「……たしかに人間なんてクソ食らえだと思ってる。滅んじまえばいいって、ずっと思ってた。けどキミのことだけは友達だって信じてるよ……!」
そういって反論するアルスの眼に、先刻の濁りはない。代わりに迷いの念が感じられる。
「どうして会って間もない人間にそんな上っ面だけの世辞が述べられる! お前のその薄っぺらい戯れ言を俺に信じれとでも吐かすのかよ……冗談じゃねえ!」
イリヤはとうに彼の迷いを見透かしていた。この孤独を脱却するためなら今の考えを捻じ曲げてでも弁解して、免除してもらおうという魂胆さえ。
「……分かるわけねぇよな? お前達の国が起こした戦争で全部失くした俺の気持ちなんか。家族も、家も、故郷も……何もかも奪われた人間の気持ちなんか」
木も、人も、家も、道も……何もかもが燻されて、茜色の空とともに猩々へ呑み込まれていく。そんな惨憺たる光景を目の前で繰り広げられて、思い出すだけで気が狂いそうになる。
なのに醜鼻と醜悪を極めた晩餐の主催者は嗤っていた。泣き崩れるイリヤの前で、先ほどのアルスと同じように恍惚と悦楽に溺れた表情で。沈痛に震えおののくイリヤの手を踏みにじったその者は、彼の母なる聖地であるスターラヤルッサを植民地とした。
皮肉にも、ソ連の強豪勢力が特に集中している領域にその市の名が記されていた。
「失ったものなんてそんなの……オレにだってあるよ」
唇を噛みしめながらアルスは呟いた。端から流れる血を見た時は、さすがにイリヤも手を引きそうになる。迷いまよった逡巡の結果が、弥が上にも吐き出す事となった心の内になろうとは。
「あるからこそ! オレは今だって人間が憎い、オレにもっと力があったなら、今すぐ滅ぼしてやりたいよ!」
決して強い語気ではないが、震えながらに声を絞り上げていた。力に敗れ、力を渇望する者の気持ちは、この男でなければ斟酌はできた。己の無力を嘆いて、力に喘ぐのは、遠い記憶の再生を心願うイリヤとて同じだ。
「そんな奴が、どうしてナチスなんかに……」
だが自分も所詮は人間。だからといって軍に加担しているでもなく、あまつさえ戦争の渦中に入り込んだことすらない。結局は無知な子供でしかないのに、戦乱に巻き込まれたという被害意識だけで、使えもしない力を所望するおこがましさといったら。
それはアルスの招いた誤謬と、イリヤの感じた誤解よりも悲惨だ。
「……オレだって、入りたくて其処にいる訳じゃないよ」
否定しながら鼻をすする音に名も知れぬ違和感を抱きながらも、イリヤは声を絞る。がなり立てるように責めるのはそろそろ止めにして、軽い説教で済まそうとした。
「結局のところ偽善だけがすべてを救う。でもそんな腐れきった概念で、腐れきった世界を這いずりまわるぐらいなら……俺は間違いなく有意義な死を選ぶね」
「だからってオレまでも疑うの!? 確かに図に乗ってたと思うし、会って間もないけれどオレはキミの事信じてたよ! キミを傷つけようだなんてこれっぽっちも――」
「うるさい! なら言い破ってみろよ、証明してみろよ! お前自身の言葉ではっきり言え! 何でお前が泣くんだよ、泣きたいのはこっちだってのに!」
泣いているのかといえば語弊はある。しかしアルスの弁明は涙声に近く、イリヤも唇を切りそうになりながら歯を食い縛っていた。
「……だって、キミがひどい事ばっかり言うから」
「俺だってこんな事したいわけじゃない! お前を否定したくないし、お前と出会わなければなんて微塵とも考えたくない、だから頼むよ! せめて“オレを信じて”とだけでも言ってくれ! でないと……」
戦闘機が唸りを上げるのを聞き咎めたのはイリヤだけではないらしい。込み入った状況下でも、アルスの眼つきにやはり狂いはなかった。が、先刻とうって変わって彼の面持ちに覇気がない。
さすがに言い過ぎてしまったと後悔するが、今はそれどころではなく、徐々に此方へ接近しつつある戦闘機を睥睨する他無い。
「おい、あれ……」
「わかってる。――今日はどうにも横槍が多いな。イリヤ、少し下がってて」
手錠から変換して一対の拳銃を構え、イリヤに避難を催促する彼に、もはや皮肉も笑顔も無かった。
その距離は200メートルわずか。しかし現在手にしている拳銃の性能を鑑みれば、その射程は3分の1にも至らない。魔力解放の行使に頼るのも一つの手だが、それだけの処置で照準を補うのも心許なかった。
「……この距離じゃ届かないか、っと」
拳銃での狙撃を諦め、アルスは自動小銃による遠距離射撃に移行する。亜空間から引きずり出すように召喚したのは、StG44――惜しくも魔力の概念を伴わないが、アルス自身の魔力による補正抜きにしても、最大300メートルの射程を誇るStG44ならば狙いの余地は充分にある。
しかし、飛行機との距離が縮まっていく都度に差し迫るこの焦燥の正体とはいかなるばかりか。相手はたかが4機――だが今のアルスにとってはされど4機、だ。
余計な思考は停止してとっとと撃てば良い話なのだが、自身の内に秘めていた志も信じられる者も不確かな彼にはあまりに酷な請け合いだった。
――なにグズグズしてんだよ、さっさと撃てよアルキョーネ! 心底の己が強く叫ぶ。手に汗が滲み、何より震えが止まらない。
彼の指示通りに後方で先行きを見守っていたイリヤも、彼の異変を察知したのか困惑しつつあった。先の糾弾が、自身が彼を固めた枷になったのかと。
「おい、どうしたんだよ! 早く撃――いや、撃つな!」
「え、ええぇッ!?」
「いま装填してる弾薬、クルツだろ? それだと反動デカくてこっからじゃブレちまう! それにあの戦闘機、みょうちきりんな黒いのぶっ提げてっけど爆薬か何かじゃねえのか!?」
イリヤは咄嗟にアルスの構えるStG44の銃口を塞ぎ、徐々に距離を詰めていくねずみ色の鷹を指差しながら、悲鳴に近い喚声をあげた。アルスは唐突な指摘に動転するあまり、4キロあまりの小銃を落としかける。
此方へ低空飛行で進攻にかかる戦闘機の中で、とりわけ速い1機――機関砲が2門搭載されているところを確認すれば、Yak-9UTだろうか。
大戦中で最も妙妙たる威力と航空性能を発揮したYak-9Uを基盤として近年より初飛行されたものの、我が軍による襲撃を受けて以来、姿を消したと思われる当時の革命兵器の再来による動揺もあっただけに、アルスの募る焦燥はより強まっていった。
もはやイリヤに、戦争に関してどれほどの知識があるかなどと疑問に思う暇はない。これまでには経験しえなかったリスキーな賭けだ。
「爆薬!? じゃあ、どうしたら……キミに聞いたところで何も変わんないか、でも知ってるなら教えてほしい、あの機体に搭載されてる武装ってどんなのがある?」
「ヤークウーテには大抵、前らへんとこに機銃は八個ついてる! とうぜん威力も半端じゃない、一回の総射で軽くこの広場が吹っ飛ぶくらいのな!」
無理難題かと思われたが、予想外にもイリヤは的確かつ冷静にデータを汲み取っていき、これにはアルスも緊迫とした状況下、舌を巻く。
「型はこっからだとよく見えねえが……おしっと、結構ボロくて多分、試作型かプロトタイプだと思う! プロトタイプならモーターカノン搭載で相当ヤバいぞ、撃つならせめて中心部におびき寄せてからのほうがいい!!」
瓦礫を高台代わりによじ上ってイリヤは声高に答酬する。アルスは改めて、先程この少年に糺された理由を看取できた。犠牲は常であると感ずるな。己が行の果てに、その有無が分たれる。イリヤはきっと、そう伝えたかったのだと。
「キミの言おうとしていたこと……なんとなく分かった気がする」
「ん? 急にどしたんだ」
呟いてアルスは真円の地上絵に立ち止まり、4機の追撃を待つ。幸い、後方の3機は汎用型兵器で、あれらは後回しにしても始末できる相手であった。
「まだだ、まだ撃つな――よし、そこだッ!!」
イリヤの助言とともに、指先を引鉄に滑らせる。シーズンシュタット――狙撃を開始する。
「Sturmgewehr――展開する!」
灰の鷹に向けて穿たれた弾丸は碧の軌道を描き、群がる彼らを一網打尽に焼き尽くす。
「やった、か……?」
「いや、新手が来たみたいだよ」
無尽蔵に増殖するホムンクルスがそうであったように、ソ連の空挺部隊はどこまでも執念深い。国絡みで何があったのかと聞きたいところだが、無用な穿鑿でまた彼の逆鱗に触れるような事は避けたかったので、今は口を噤んで打開策を見つけ出すしかない。
どのみちドラハテンまで同行するのだから、今こちらの傍で通過した特急の路線を辿れば、少々の爆撃は凌げるかもしれない。
「ウィーリンガーウェルフ……こうなったら一か八か」
イリヤの手を引き、アルスは駆ける。ちょうど線路を引かれていたのが救いだった。
特急といえど走行途中の列車に飛び乗る事ぐらいは、アルスの天性の運動神経をもってすれば造作もない。問題は道床と枕木の敷き詰められた不安定な足場を走らされるイリヤの持久力だ。身も心もすでにくたくたな彼にとってアルスの更なる危行は罰ゲームにも等しい。
「いてっ、だから引っ張んなっつたろ!」
「ごめん、もう少し耐えて!」
イリヤの怒声におののきながらアルスは彼を右手で抱え、左手で頭頂部に掴まってぶら下がった後、車体の底を蹴って甲板の上に着地する。
「っ、にしてんだよ!」
「! ご、ごめん……」
安堵の溜息をつくと今度はイリヤから腕を叩かれ、思わず反応も声も小さくなる。一瞬の予断も許せぬ状況下、慣性の法則で生じた突風が二人をさらに焦燥へと誘った。
「車内にいる人達まで巻き込んだらどうするつもりだ!?」
「……そう、だね」
こういった人命に関する思考の捻子が切れているために、イリヤでなくとも自身を咎める弾劾の声は大きい。しかし彼からの非難ほど今のアルスにとって耳に痛いものはなく、親に叱られた子供のように黙って頷くことしかできない。
「謝ってる暇があったらあの飛行機の空爆から車両を遠ざけられるように頭使え! お前の脳ミソは人の神経を逆撫でさせるためだけにあんのか!?」
これまで戦乱による被害など見向きもしなかった彼にはイリヤの指摘など自身の意識から遥かに遠い所にあったが、胸の内の孤独から逃れるためにも、多少の同調は不可欠だ。
「本当に、ごめん。――Feuer,Sturmgewehr」
静かに立ち上がり、StG44を構え直す。爪の先まで意識を同化させて、StG44の一部に溶け込み、――目標を掃射する。
「オレに楯突いた輩は、一匹残らず――皆殺しだ」
太鼓の〆より重い打撃音を発し、魔力を伴ったその鉄塊は四方に飛散し、散り散りになった弾丸はまるで岩の礫を思い起こす。隕石のように衝突していく砂礫はまばらになった機体とともに車道の外へと乱離する。
イリヤは呆気にとられる事もなくただ悟ったように消散していく機体の残骸を見下ろす。このように悪夢の集塊を撃ち墜としてくれる人間がもし、あの時の故郷にいたならば。
しかし考えていても仕方がない。自身の無力を嘆くより先に、機銃掃射に続く気弾の来雨から身を守る術を見出さなくては。
「っ!?」
――新たな来客が、気弾の流星群にまぎれて歪力の一打を振り下ろしてきたらしい。
「甲板が……触れてもいないのにッ!」
イリヤとアルスの間を狙ったかのように擲たれた一撃は、ゼラチンもかくやといった具合で、鋼鉄の白板にもはや穴にも近い裂け目を作り上げていた。
ふと、感情の伴わない瞳が此方を凝視しているような錯覚をひしと感じ取る。気弾の出所を探り、辺りを見回すアルスの視線は此方には向いていない。
瞬間、背後から物々しい冷気を感じ、振り返ると無機質な色を宿す双眸と目が合った。
「ご機嫌よう、死神。かのような地にて貴公と再び会いまみえた事、この身に余る光栄だ」
無機質な視線の正体。その矛先はアルスに向けられたものらしく、ありがたみの何一つ感じられない薄情な唇が動くと、アルスはぴたりと足を止め、大空に鎮座する磁器人形を物言わずに見上げた。
重々しい質量を伴った外套を翻らせ、幽鬼の如く形おぼろげに汽笛の真上へ着底する男の素顔はローブの頭巾で隠れてはいるが、その寒々とした榛色の樹脂は遠目からでも覗える。
「見え透いたお世辞をどうもありがとう処刑人。人の傲慢と悪意に呑まれたこのご時勢、アンタはパリでずっと打ち首晒してればよかったのにね」
StG44を召還し、榛色のレジンに厭味を当てこすりながら手錠を変換する。ドライゼとボルクハルトの同時召喚は術者に相当の負荷を伴うが、赤い外套の男とは初戦でないため、片手で丸め込めるような相手でない事を重々と理解していた。
「魂の管理人気取りな殺人鬼がよく言うよ。お前に心などあってないようなもの、どうせそちらの少年と一悶着起こして自身の守るべき確かな意志が消えつつある……といった所だろう?」
男の背丈をも超える剣斧が一閃すると、無骨な鋼刃がイリヤの方へと差し向けられる。攻撃形勢でないと分かるとアルスはしぶしぶとイリヤを庇う手を引いた。
「相変わらず口が減らないね。煉獄の大塔頭も所詮はアカの肥溜めに過ぎないっていう証明かい? お互い軍に飼われている者同士、甲板を這いながら風穴開け合ったって仕方ないと思うんだけどな」
「ふん。笑わせる……だが大総統直々のお達しだ。貴公の討伐命令がソビエト全土の軍部に言い渡されている。お前の命数も尽きたな、アルキョーネ」
ぴくりと、アルスの目尻に皺が寄せられる。風向きに逆らって流れる打撃と、陥没する足場に気を取られたうえに本名まで呼ばれ、焦慮に心身を削ぐあまり派手な舌打ちをした。
「その名で呼ぶなって、最初会った時から、警告したよね……?」
後退しながら展開の構えを取り、ボルクハルトの偽装甲を解いた。黒塗りの鍍金が剥がれ、朴訥とした厚みをもった造形が姿を現す。
「嫌いなんだよ。自分の名前」
今や産廃となった木造カスタム。これぞボルクハルトの真骨頂。
「Um sustenance sieben Sterne……」
しかし詠唱の終わらぬうちに凶荒なる切っ先が一閃、前方に展開していたアルスの装甲を硝子もかくやと打ち破る。男の振りかざした一撃には熱気が宿り、赤熱した刃先から、魔力が横溢した際に生じる粒子が降りていた。
「どちらにしろ怪物である事には変わるまいて」
口の端のみを吊り上げた冷笑。初めて露にした笑みは荒涼とした大地のような乾きを帯び、砂塵のように瞬時と消えた。
アルスの開けた弾痕と男の振り下げで生じた亀裂のせいで、車体は大きく傾き、足場もより不安定となった。機尾を掴んでじっと耐えるイリヤを手招きし、背を抱きながら廃莢を飛ばす。
当然といえばそれまでだが、此方側が向かい風に面している事を計算に入れ、敢えて揺動の挙措を取ったのだろう。装甲を剥ぐ他で、外套の男が直接アルスに剣先を触れさせるような動きを一片たりとも見せていない。
――何の打算もなく威嚇を繰り返しているとなれば、答えはひとつ。
「圧縮した大気を叩きつけてくるなんて、とんだ悪趣味な野郎がいたもんさ。さっきの連中もお前が動員した軍隊だろ? 人間の尊厳なんてクソほどどうでもいいと思ってるオレに奴らが敵うとでも?」
斧尖に熱度が集中していたのは、束ねられた大気を短時間で一気に放出した事による過剰燃焼であったらしく、剣風に接した足場が崩れていくのも甲板が融点に達したからだった。
「どうやらオレはとんだ勘違いをされちまったらしい」
銃把に絡まる鎖から召喚した薬莢を差し換え、魔方陣の描かれた装甲を再び網羅したアルスは解放に向けボルクハルトを構え直す。
「何の根拠も無しに憶測のみで他人にケチをつける……寂しい奴め」
鼻を鳴らして男は失笑した。
「術式形態、拡張――Пожалуйста страдания навсегда」
剣斧の刃区まで染め上がった深紅を、イリヤはただ凝然と見上げた。食らえば骨のひとつ残ることはなく、避けてもこの車体は今度こそ限界を向かえるだろう。落ちても死にはしないだろうが、もうじき特急はアフスライトダイクの石橋に差し迫るところだ。
列車の倒壊を見越したアルスは距離を取って斧先めがけボルクハルトの呪弾を食らわすが、逆風に煽られ掠りもせず、弾は虚しく真横に逸れていった。
「痴情に燻された弾はかくも虚なる力となるか。正義の仇敵と謳われた災禍の死神も、所詮は雛鳥も同然よ」
外套が翻ったと同時に無数の陣が帯の如く男の剣斧を取り巻くと、閃きに応じて八方へ蒼碧の光線を放出する。
「うるさいな。今まで色んな奴と弾幕を交わし合ってきたけども、これほどまでに不躾な男に出会ったのはお前が初めてだよ。エイド」
「どうとでも言え。一匹狼気取りのひよっ子が」
初戦は真冬の飛空挺における、邂逅までさかのぼる頃。初の空戦で舞い上がっていた時に無数のYak-9Uの来襲に遭い、爆撃と同時に振り返ると自身の前で斧を担いだ男が何食わぬ顔で佇んでいた。その能面人形こそが、今こうして対峙しているエイド本人である。
「典型的な悪役みたいな外道もいれば、ただ自分が優位に立ちたいだけで相手を意味も無く見下す奴もいる。けれどお前はどちらにも当てはまらない、まるで“あの女”のように人を不快にさせる事しか脳のない駄犬だ。……そういえばカーネスとかいったっけ。外様のお前を失脚させた英国の指揮官とかいうのは」
ローブ越しに覗く無機質な榛が、初めて沈黙以外の色を見せた。
「その名、二度と俺の前で口にしてくれるな」
榛の双眸が禍々しく発光すると、振り下ろされた剣斧がみるみる融点を超して、熔けた切っ先が人形の足元に零れていく。
「おい……どう見てもマズいんじゃねーのか、あれ?」
アルスの肩を掴む手に無意識に力が込められる。大丈夫だよと抱き返しながら、彼は後退りして男の装甲を静かに見据えた。
「開帳――Для того, чтобы перейти на время суда」
設けられた科刑の場。このまま無事に終点まで辿り着くことは、おそらく無いだろう。融解を始めた剣斧は振り上げされる都度に火花を散らせ、さらなる大気の束をかき集める。
頭巾の下、ふと露わになった端正なポーカーフェイス……エイドはまるで導線の切れた機械人形の様に乾いた笑みを押し上げていた。
「さあ始めようか。――粛清の輪舞を」
溢れんばかりの魔力が刻印となってエイドの腕から首筋を這う。超硬合金すらも熔融する熱の粒子が印から燻されたと同時に、さらなる詠唱を続行する。
素人が不相応な魔力を身に纏えば怪我どころの話ではない。しかしこれだけの熱量をもってしても平然としていられるということは、この歯に衣着せぬ男が相当の腕をもった魔術師という確固たる証拠である。
灼熱を纏う殴打の一撃。回避が間に合わず、イリヤへの被害を極力防ぐため自身の左腕を呈してエイドの猛攻を凌いだ。
「っ、おい!?」
「つくづく悪趣味な男だ……大丈夫、掠っただけだよ。なけなしでもキミに誠意を伝えられるなら、腕のひとつ位くれてやるさ」
苦笑いしながら振り返るが、先の叱責に堪えて生じた憔悴を押し隠しているのが見てとれる。イリヤはその表情に先ほど放った暴言の後ろめたさを覚えつつも、サムとの戦いのように、無力なまま彼の腕でやり過ごすしかなかった。
――無常にも、鈴は答える言葉を持たない。
ふらふらと立つアルスの背を見届ける。石橋に到達したとなれば瞬時の油断すらも危ぶまれ、動きは大幅に制限される。すでに足下は蒼で染め上がっていた。
連戦で息が上がっていく彼の疲労を見抜いていたエイドは、したり顔で剣斧の円舞に興じている。外套の裾が焦げるのも構わず荒れ狂う火花とともに踊り散らす姿を見て、イリヤは自身の地元の蘆笙舞を連想させた。
途切れた詠唱を繋げようと銃把に指をかけ、アルスは九字を切る。矜持も自尊心も粉々にされた今、ボルクハルトの刻銘を紡げぬまま終わりを迎えるのだけは御免だった。
「Tote Ich mochte auch……っ!?」
またしても遮られる詠唱。それも、エイドではない何者かの光槍によって。
「Я посланник чистилище――」
大空の殻を叩き割るような雷鳴。その正体はアルスの真下に突きつけられた大振りの剣刃。
「新手……?」
すんでのところで回避し、見上げると無数の羽根が霜降していた。それもみるみる灰と化し、小さな影が姿を現す。
「いおぅ、ずいぶんと手間取ってんじゃねェかエイド」
幼女の声だ。それも赤い外套で身を隠した人形――アルスは歯を軋りたて、邪魔立てした光槍の出所に向け間髪入れず砲弾する。予想通り残影と化して消え、エイドの手の者だと瞬時に理解した。彼が最初から真っ向な勝負をする気など無い事も。
「おっと、俺サマに楯突くたァ良い根性してやがんじゃねェの?」
再び出現し、人形は得物を拾う。エイドの半尺にも及ばない華奢な体躯を前に、妖精や小人などの可憐な童話の人物を思い起こす。乱雑な言動は抜きしての前提であるが。
「エイちゃーん! よければ私達も手伝ってあげるね~っ」
今度は甲高い娘の声を先駆けに、2体の道楽人形が陣から召喚された。2対の槍雨を掻い潜りながら、人形の正体を暴こうとなおイリヤは彼らを凝視し続ける。外套の中身は人間と同様の原理なのかは定かでないが、彼らは自分の意思で浮遊移動を為せるらしい。
「……これで舞台が整った、っつーコトか?」
さすがに肝の太いイリヤとて、死神を始末する事に躍起な彼の用意周到さに、驚愕と戦慄を隠せない。あるいは……自身の問題で、彼に火の粉が降りかかったのではないか。
「……余計な世話だ」
しかしイリヤの想定とは裏腹に、主の声は凄然たる色を帯びていた。
「え、ひどいじゃないですか先輩ぃ~」
突き刺さったままの光槍の数々を消散させたかと思えば、エイドは自身の戦闘に横車を走らせる眷属らの術式を一寸刻みに解除していた。
味方の支援すら歯牙にもかけない傍若無人ぶりに、イリヤはアルスと同じ匂いを感じて思わず眩暈を催す。こういった独善的な連中に付き合わされて、なんど人生を狂わされてきたことだろう。力添えを無下にされた人形たちに、はからずも同情の念を抱く。
――暇もないようで、遅れて馳せ参じた人形2体の間を鋼鉄の棒杭が交差し、柱の隙間から目を眇めんばかりの光球が迸る。ミラーボールのように光の線を走らせるそれは、みるみる回転を増して誘導放出の熱線へと変貌していった。
「Мы будем резонанс」
我の意のままに――
2人の間を宏大無辺の槍砲が焦がす。ぐらりと傾く車両。とうとう限界を迎えたか――転落した際は結界でイリヤを護りながら向こう岸まで泳ぎきるしかない。腹をくくったアルスはボルクハルトの熱を冷ましながら、ある鉄包を弾倉に挿す。
手にしていたのは7つの弾薬。狙撃を目的とせず、ただ時間稼ぎを主とした玩び物に過ぎない。しかし彼の生き血を詰めた実包はまごうことなき呪詛の鈴なりであって、発砲された鉄塊を取り巻く術式が死の集合体となる。
当然触れたら即死。しかし人かどうかも不正確な肉人形にも効果があればの話だが――それは己とて同じ。死神の名を賜る己に授けられた強靭な肉体も、他人の呪詛に接触すれば血の袋の詰まった柔い皮遇人も同然だ。
しかしこの劣戦、勝負を仕掛けられた時から決まっている。やらなければ自分が死ぬだけでなく、無関係のイリヤまでも巻き込んでしまう。
雷管を叩き、術式が発動するまでの時間は2秒。ロスを補充するためにダミーの実包をさらに追加する。半径7メートルに及ぶ術式の範囲から外れるようイリヤを最前列まで引き入れ、奴らが縄を張った後列の連結器を叩ききらねばならない。
それを2秒で為すとなれば……考えていても始まらないだろう。イリヤの手をとって炭水車両まで駆け抜ける。落光を、槍弾を、すべて潜り抜けていく先にエイドの大気弾が2人を遮り、イリヤを抱えながら前転で直撃を免れた。
「よし、この位置なら大丈夫そうだね……」
ベルトに挟んでいた懐剣を引き抜いて、安堵しながら呟いた。
「よかったら俺、切ろうか?」
意外な申し出にきょとんとするも、アルスはいわれるがままに小刀を手渡す。度胸ある彼に得物を託す事、その行動自体に異存はないが、実行の段階で人形連中の放つ指弾に運悪く当たらないかが気がかりだ。
イリヤとて無計算に動くつもりはない。ただ心無い言葉で彼を責めたてた行為に対する埋め合わせになればと、それだけの事だった。
彼が煙室扉に降りたのを確認し、アルスは慎重に人形たちとの距離を測る。ドライゼの咆哮で牽制し、極力イリヤから注意を逸らすよう次の車両に足を踏み入れ、発動箇所と自点を繋ぐ間合いの拡大を狙った。
エイドの注意はアルスの牽制へと向いている。しかし振り上げる都度に生じる大気の熱がボイラーの過熱器に接触し、不可抗力にも大爆発を起こす。
エイドはこれを好機として煙幕から逃れるように後退する。不明瞭な視界を利用しての不意討ちを狙う腹積もりだろう。そんな胸算に応じる気のないアルスはとっさに車両の下を覗き込んだ。
「イリヤ!」
手すりに掴まっていたため爆風に呑まれる事はなかったが、刃渡りの短いナイフで分厚な管を切るのはさすがに難儀を極める所業だった。
「イリヤ、無茶はしなくていいから……」
アルスの手を掴んだ瞬間に人形たちの光片が飛ぶ。振動で大きく車体が揺れ、危うく鈴を落としかける。
「やっば……」
命に代えても、この鈴だけは何としても保持していたかった。イリヤが腕に提げていたその音玉は、決して災厄から身を守るための魔除けなどではない。
――その鈴こそが、災厄の表象なのである。
当然彼の事情など知るべくもないアルスの怒りは沸騰し、左腕の刻印が疼くのも構わず速攻に転じた。
「よくもやってくれた……Maxime longinquis regionibus, ties placet labefactare auferas」
刻印から流れ出したスペルがアルスの血管をなぞり、強固な術式を築き上げていく。数ヶ月も凍結していた魔力で為せる事などたかが知れている。これは時間稼ぎの手段に過ぎない。
初弾であったが、このような窮地に頻繁に立たされるほど厄に好かれてはいないだろう。アルスの呪詛が底を尽きること、それを意味するのは死。
戦乱と無関係の人間を巻き込む行為に対して何の疑問も抱かなかった自分が、息を荒げて他人を守護するなど前代未聞の事態だった筈なのに。何をするにも利己を求め、見返りのない仕事はしたくなかった筈なのに。
その身を削る行為の先に、自分は何を見ているのだろう。何を見て進んでいるのだろう。
「堕落、転落、没落、低落、凋落、零落、沈落――盛者必衰の理から落ちろ!」
答えなど不要だった。その戦いにおける意味すらも、自分は最初から求めてなどいなかったのだ。
7つの言霊を呪詛の光弾に変え、碧玉の塊をエイドの術式に叩きつける。詛呪をまとった弾丸は、列車を追走する人形には届かなかったが、エイドの堅甲なる術式にヒビを入れる程度の打撃は与えられた。
「珍しくも必死こいて……そんなに大事なら、最初から波風立てずサム達を撒けば良い話だったろうに」
さすがの彼も、この破壊力を前にいつものポーカーフェイスを保つことは困難なようだ。
「撒いたところで確実に逃げ切れる保証もない上に、お前とサムの挟み撃ちにでも遭ったら一巻の終わりじゃないか」
「言っただろう。お達しだと。そんな殺戮性愛者にかける刻など俺に残されてはいない」
こき下ろすようにアルスを睥睨すると、エイドはさらなる熱気を剣斧に絡めて攻勢を示す。
「Слейте в следующем, а затем принять ваше предложение」
光球と斬撃の飛び交う激戦。根負けしなければ4体の人形を下ろす事は容易だろうとタカを括っていたが、ヒトのような鋭敏な動きと機械めいた自律性能に圧され、劣勢の色は増すばかりである。
にやり。と、人形は笑っているような気がした。戸惑ったアルスは背後を取られている事に気付けず、反応が遅れる。それが命取りとなったのは明白だった。
「貴公の死は確定した。――安い命だったな」
アルスの顔が悔しげに歪む。腹部に負った傷は浅いが、散々と甲板に叩きつけられた彼の肉体には数知れない疲労が蓄えられ、まともに動くことさえ困難を極める現状にあった。
たしかに安い命だ。無能な上司にも、慇懃な閣下にも、惜しまれなかった我が身。人類として意味を為さない虚の命。何ならくれてやっても構わない。ただし、その犠牲が……軽はずみな発言で傷つけた、イリヤの心を慰める糧になるのなら。
「Arschloch……イ、イリヤ、ごめん」
先に逃げて――そう紡ごうとした口から血が吹き出しそうになって、自分を庇ったばかりにとイリヤを気遣わせないよう、歯を食いしばって喀血を防ぐ。
瞬間、北の鐘が打ち鳴らされ、その重音は風で耳を塞がれているにも関わらずはっきりと行き届いた。鈍い音がアルスの傷に響いたのか、立ち上がろうとした膝が一気に頽れる。
「じきに時計盤のアレも動く頃合いか……」
彼がおもむろに呟いた途端、アルスは怨嗟を込めた眼差しでエイドを睨み上げた。
「そう怖い顔をするな。可動はしているが、発動してはいない」
赤の広場からの時報がなぜ此方にまで聞こえるのかは定かでないが、おそらくアルスとエイドの因縁に深く関連付けられているのだろう。
もしくは、海域を越えても響き渡るように誰かが細工を施したのか――どのみち優先すべきはアルスの容態の確認である。
「おい! ……しっかりしろ!」
ぐったりと此方を向く気配のない彼の頬を引っ叩く。所々に刻み付けられた浅い傷のほとんどはイリヤを庇った故の香菓の泡だろう。
「大、丈夫……だから」
イリヤの手を押しのけてアルスは双銃を拾い上げる。ふらふらと、おぼつかない足取りで呪詛を紡ぐ彼の横顔はかつてないほどの禍々しさに満ちていた。
しぶとい死神に焦れを覚えた控えの人形たちは光線の集中砲火を2人に浴びせ、鋼板のフィールドから蹴落とそうとする。耐えに耐え抜いてきたがこの車両が倒壊するのは時間の問題だった。ふとドライゼを掴んだ途端に車体が大きく揺れ、バランスを崩して足を滑らせる。
「イリ、ヤ?」
「っ、しっかり掴まれ! そんな怪我で落っこちでもしたらいつ立てるか分かったモンじゃねーだろ!」
牙を立ててイリヤは怒鳴り散らす。汗で滑る手を、震えながら持ち上げようとした。
「で、でも――」
2槍の迫り来る挟撃に気付いたアルスは、イリヤの手をいち早く引き剥がそうとする。
「おやおや、感動ものだねえ」
「つくづくと泣かせてくれるのです」
彼らの双光が2人が握り合う手の間を通り抜け、不安定な足場をさらに揺らす。
「オレの事はいい、早く前列に飛び乗ってそのまま終点まで逃げろ!」
針のムシロにいるような気持ちになり、力の限り叫んだ。自分を拒絶したはずの少年はどうしても此方の言い分を聞いてくれない。そんなの不公平だ、ずるいよ。そう訴えかけるように、アルスは雫が飛び散るのもかまわずイリヤに逃亡を強く催促した。
「んなもん出来るわきゃねーだろうが! お前にはまだ言ってない事も聞いてない事もありすぎんだよ!」
それを言うなら、まだ此方も謝罪の言葉が言い足りていない。本当は強がりだった、人間が自分をどのようなレンズを通して見ようが、この少年だけには自分を信じてほしかった。
その想いに偽りはなかった。足りなかったのは、証拠だけ。
「お前は! ……この世界に復讐したいんじゃなかったのか? 自分を虐げたこの世界を無に帰したかったんじゃねーのかよ。それが嘘だってんならさっきの嗾けは何だったんだよ! 俺によくも言い切ってくれたじゃねーか、こんな世界滅んじまえばいいって!!」
もし嘘なら、今度こそお前を許さねぇからな――
アルスは逡巡した様子で下を向いた。死神とて、あの海に落ちれば這い上がるのは容易でないだろう。手負いならば、尚更そうだ。
嘘でなければ、この世界の在り方を否定しても許されるのだろうか。自分を責め苦に追われる身に投げ落とした人類を拒絶しても、咎められる事は無いのだろうか。
「たしかにこの世界は腐ってる。人も政治も、兵士も王も、みんな腐れきってナパームの蝿が飛び回ってる。でもこんな世界でも、生きようと懸命に明日へ縋りつく人たちがいる」
前へと踏み出すために、独り善がりの幻想を打ち砕く事は果たして可能なのだろうか。
「だから、オレはそんなキミを否定したくない。……キミが死ぬのを有意義だなんて、オレは思わないよ!」
死神は悲痛な声を上げる。考え直せば自らの憐みより他人の肯定を優先する男が、ナチスの妄信者である筈がない。短絡的な偏執で、彼に凝り固まった既成概念を押し付けた自分の無責任な暴言を、この時イリヤは深く恥じた。
「お前って奴は、なんですぐにそうやって……」
「おいおいよぅ。そろっそろ焦れてきた頃合いだぜぃヤローども」
幼女の形をした偶人が展開を広げ、此方に突撃しようと瞬時に姿を消す。しかし戻ってくる気配はなかった。
「散れ。余計な世話だといっている」
目を見張ると邪魔立てされた時から煩わしさを露骨に表していたエイドが指を鳴らして、ついに実力行使に出たらしい。
「うぇええ~強制退還なんてひどいよエイちゃーん!」
「先輩のあほー! イケズーっ!」
文句を言いながらエイドお抱えの使徒達は順次に消し去られる。3体を収めたのち、彼は忌々しげに虚空を睨み据えた。
「これでフィールドは俺の思いのまま……」
光の雨が止んだ隙を窺って、アルスをどうにか引き上げる。その後は傷口に触れ、応急処置を施した。
「ったく、誰かサンに似て傲慢な御仁ったらありゃしないぜ」
死神の強靭な肉体を信用できるならば、このまま死に至る事はないだろう。しかし満足に動けそうな体でもなく、この状況から一刻も早く逃れたくば、後は自分の力をもって振り払うしか生き残る術は残されていない。
――だとすれば、鈴を使うしか道は無いか。
彼は、右も左もわからない自身のために充分と身命を殺いだ。この決着は自分自身の力で片をつけよう。それが、今のイリヤが彼のためになせる唯一の返礼だった。
「死人の遺した力を借りるなんざ、いささか不本意なんだがな」
流れ込む記憶とともに鈴は鳴る。左手に備わった銀の腕輪の下、鈴は健気に道行く人との想いを繋ぐ。ときに虚しく、ときに侘しく鈴は先行く人の無常を悟る。まるでその時代にあたかも存在していたかのように、思いと想いの狭間を潜り抜けて。
アルスの傷に触れた時、未曾有な慟哭の断片が濁流のように脳裏へと押し上がってきた。彼の嘆きと共鳴すれば、この緊迫とした戦況を打開するための鍵となり得るだろう。
――全てはひとつの罪から始まった。わだかまる未練を抱えたまま過ごすぬるま湯の牢獄。科された刑は永遠の孤独。故に生きた証を消したいと願う、切々とした少年の哀訴。
『――独りは嫌だ!!」
誰何の嘆きが谺した。果たしてその記憶は誰のものだったのだろう。果たしてその記憶は本当に因果応報のみで片付けられる闇だったのだろうか。
「この身を、滅ぼしてでも……」
イリヤの動きに気付かないアルスは転げ落ちた得物へと手を伸ばす。しかし酸素を欠いた体では思うように動いてはくれず、銃身にすら届かないで虚空を切っていくのみだった。
これも数多なる命を愚弄してきた男の末路なれば。アルスは目前に迫る死を茫然と受け入れる他なく、守りたかった筈の所在さえも損なわれつつあった。
また家族に恥をかかせてしまう。人殺しの子供を養子に引き入れてくれた、あの温かい家に泥を投げつけるような真似を……もうすでに泥濘の奥底へと沈んだ記憶だった筈なのに。
愛する者達の願いすら溝に棄てるような半生を送り続けてきた。盗むのも、殺すのも、犯すのも。何もかもすべてが自分の生きる為、もしくは欲望の先走った果ての凶行だった。
「また、キミに――」
その決意は誰を救い、何を滅ぼす呪いなのか。その願いは誰を侵し、何を蝕む禍なのか。
――君は誰の幸福と引き換えに、大切な人と結ばれたい?
それは遠い過去の話――そう割り切れたなら、どれだけ気の軽く済んだ事だろう。湖畔を覆いつくす緑に立っていた娘はさながら、おとぎ話の少女のようだ。
エイドの術式が解除された今、こうしてイリヤは現実の域から離れた空間の人物と自由に対面ができる。意識を切り離された現実の彼は、アルスの手当てを行っている最中だ。
イリヤが恋人より授かった力の所有権は、これからイリヤ自身に譲渡される。その決定を取り持つのは、旧友のシエナ。彼女は数奇にも恋人と瓜二つの顔立ちをしていた。
「どうして八卦の力を使いたいの?」
恋人の名を不注意で出してしまった際にはよく激怒されたものだと、イリヤは回顧に耽る。
「いま必要だからに決まってんだろ。ほら。とっととよこせ」
ほい、と手を伸ばすイリヤに、シエナは苦笑した。挙措と同時にうねった毛先が躍るのも、恋人のクレルそのままだ。
「あなたの守りたい人は、もっと他にいる筈でしょう」
それはみだりに振るえる力ではないわ。
冷静に諭す声も同じ。その面影にクレルを重ねながら、イリヤは微笑んだ。
「馬鹿言え。俺の守るべき相手はお前だけだ」
一瞬の間もなくシエナの背を抱いたイリヤは、驚いて半開きになった彼女の隙だらけな唇に深く口付ける。
「だから力がほしい。そしてお前に近づくための鍵を」
「あな、た……そう。ついに辿り着いてしまったのね」
愛する誰かに酷な裏切り方をされたわけでも、信じていた意志が崩れ去ったわけでもない。自分が忌み嫌う世界にも、何かしらに思いを馳せる希望はある。
その希望を、イリヤは彼女だと錯覚していた。
「今のあなたになら八卦の鈴は使えます。あなたはきっと彼を……いいえ、全ての壁を乗り越えられる」
湖のほとりに座り込んだ彼に倣い、手を取った。その目はまっすぐにイリヤを捉えている。
「あなたの力は何を糧に、何を見返りとして振るいますか」
幸福から一転する、滅びの対価。イリヤが何よりも恐れる存在だった。しかし自身のこれからの戦いの末、待っている終わりは優しい未来でないと弁えた上でなら……波乱な運命に身を任せる旅も悪くはない。
「決まってんだろ。そんなの――」
この力の餌はあいつの嘆き。見返りはあいつとの共鳴による力の増幅。
イリヤの目に迷いはなかった。同じ未来が待っている先、戦わずして果てるよりも。こうして彼はつかの間の幸福より、絶え間ない闘争と修羅の道を選んだ。
渡された鈴から彼女の霊力がこもっているような気がして、思わず狂おしいほどの愛しさを覚えた自分は罪深い人間だ。
「俺さ……実はお前のこと、最初はキライだったんだ」
過去を懐かしむように、彼の横顔はすっかり絶え間なく続く地平へと移っていた。
「いつも明るくて、みんなの中心で輝いてて、ちょっぴり羨ましくてさ」
「……え」
戸惑いを見せるシエナの反応を無視して、イリヤはなお続けた。
「ずっとお前みたいになれたらって、そう思ってたのに、憧れはいつしか嫉妬になってて、だから……そんな浅ましい自分が嫌になった」
子供心ながらにおこがましい妬みを続けてきた。それはクレルに対しても例外ではなかった。彼女の聡明さ、シエナの明朗さにずっと、胸の内を醜く焦がされてきた時期もあったものだとイリヤは苦笑する。
「でも違ったよな。お前はみんなの光であるための努力を欠かさなかったし、歩み寄ろうとしなかったのは俺なんだ」
彼女は自身を拒まないイリヤに依存するあまり、周りを省みないこともままあった。厳格な義父から咎を受ける事も決して少なくはない。
「待って、私は、あなたに同じ憧れを馳せて……」
自身と同じ想いだと錯覚していたイリヤの胸中を知るや、その意外な告白に、何よりシエナ自身が目を洗われるような面持ちだった。
「助かったぜシエナ。お前のおかげで、俺はまた同じ過ちを犯さずに済んだ」
湖の光に反射したその笑顔には、一切の翳りもなかった。
「……行ってくるよ、俺」
――友達を、助けに。
「死神はすでに死に体か? なら此方に留まる理由も無い――」
「ちぃと待ちな、オニーサンよ」
立ち上がった先にあるのは風にたゆたう波紋ではなく、石橋を越えてドラハテンへと迫りゆく車体であった。手始めにアルスの出待ちをうかがう人形へ斬りかかり、こいつの切れ味を試すとしようか。
「やめなよイリヤ! そいつは銅剣一振りで敵うような相手じゃない!」
すたすたと歩くイリヤに、アルスは声を荒げる。その声に気づいたエイドは、真っ先に視線を紅の双眸へと移した。
「んなもんやってみなきゃ分かんねーだろ」
「で、でも……」
アルスの警告を無視して列車の繋ぎ目を越え、剣を振りかぶる。言わずもがな、ありったけの力を結集させた銅の剣は、エイドの放った熱気の束を前にして脆くも崩れ去った。
「ういうい。怪我人は黙ってろ、っと!」
無論、銅剣はダミーである。確かな手応えに笑みを隠しきれなかったエイドの不意を、瞬時に突いた一撃は彼の倨傲を砕くのに充分だった。
圧倒的な力に傲り高ぶっていた彼の目が驚愕に開かれる。消し炭にした銅の棒から鎖が伸長し、彼のこめかみを双方の小刃が掠める。精緻な作りの人形にヒビは入らず、流れていく鮮血を再認するかのようにエイドの動きは止まった。
イリヤは最初から、アルスの術式にエイドの装甲を打ち砕くだけの力が無い事を見抜いていた。自己強化の役割しか持たないボルクハルトでは、いかなる威力をもってしても人形すべての光弾をなぎ払うまでに至らない事も。
「ざまぁみやがれ地獄の権化、仲間の一人も大事にしきれねえやつに負けてたまるかってんだッ!」
伸縮性に長けた隠し刃の縛鎖は最後方の車両を巻き込むまでに伸び、限界まで引き上げれば線路外まで飛ばす事も容易い。しかし、滞空を可能とするエイドに足場崩しは無意味と判断したイリヤは一旦引き下がり、向こうの出方を窺った。
「あいにく親切の押し売りといった言葉がキライでね。不快を示したなら今この場でお詫び申し上げよう」
冷徹さを秘めた口許が哄笑に歪む。
「展開をもってしてな」
百千もの術式をまとった一撃を叩きつける事で助走をつけた彼は自ら足場を封じ込め、煙突の端に立つイリヤに突撃する。捨て身の速攻で一列の車両さえ潰した彼の執念にさすがの図太いイリヤも度肝を抜かれるばかりだった。
「Пожалуйста, чтобы читать ваши грехи」
高圧力の塊がイリヤの双刃に押し当てられる。しかしイリヤも負けじと抵抗を試みた。大人と子供とでは当然ながら純粋な力の差も歴然だ。人形の見かけ寄らずな怪力もイリヤに不利を与えるステータスとなるが、ただでは転ばないのがこの旅人の胆力である。
イリヤは鎖で繋がれた長短一体の苗刀のほかにも、多数の隠し玉を用意していた。
「いいか、死神……俺がよしって言うまで目ェ瞑れ」
「へっ!?」
「いーから目をつぶれ! 何度も言わせんな」
「ご、ごめん」
少し怒気のこもった声音に気圧され、アルスは言われた通りに縮こまる。ただでさえ動けないのに、この言われよう。このまま辻風に当たって天に召されでもしたら、ダーウィン賞も吃驚の情けない有り様だ。
「この列車が廃線になったらお前らのせいだかんな。悪く思うんじゃねーぞ……」
不穏な気配を悟ったエイドはもう一列の車両まで後退する。それを無駄と嗤うかのように、鈴は旅人の情念に応じて鼓動を揺らす。災厄を司るそれは相容れぬ存在との力さえも繋ぎ、ときに激しく、ときに儚く奈落に導かれし人の悔恨を悟る。
「シエナ……」
彼女の名を馳せ、腕輪に口付ける。その響きはまるで呪文のようであり、紡いだ自身でさえもどこからとなく勇気が宿るものだ。絆が生んだ力というやつか。
そんな力が存在すれば、きっと勝てるかもしれない。不遜たる磁器人形を打ち砕く事だって出来るかもしれない。
すでに彼女と約束していたのを思い出す。イリヤの決意が死に瀕した恩人をその場で救ったとしても、それはいずれ大切な何かを滅ぼす呪いとなるだろう。鈴に込めたイリヤの願いが誰かの人生を侵し、いつか来る大切な明日を蝕む禍となるだろう。
その覚悟を踏まえてでもイリヤには、前に進まなければならない理由があった。
誰かの幸福を、尊厳を踏み躙ってでも。
「確かに掴み取りたい命がある――!!」
たとえその意志を、独りよがりの妄想だと愚弄されようとも。
「!!」
際限なくうごめく縛鎖がエイドの腕を絡めとり、そのままイリヤの遠隔術式によって最後列まで吹き飛ばされる。彼は自らの動きを阻害する鉄枷を引き剥がそうと躍起になるあまり、イリヤが後列の車両すべてを断線させた事に気付けなかった。
よって加速していく先頭列車が、自身と距離を離していく状況を指を銜えて眺めるしかない。術式の形態を見破られて自身の魔力が使い物にならなくなった今、ある意味では好都合だったのかもしれないが。
朦朧とした意識の中、傲慢の象徴物が敗れ去る様子を注意深く見澄ましていたアルスは、必死にイリヤの姿を捉えようとする。無数の刃を連結させるような功夫めいた動きが、魔力のみに頼りきった力でない事は明白だ。
「あの列車、この距離でどうやって……」
しかし考える間もなく、逃げ撃ちといわんばかりに放たれた高魔力の塊がイリヤの脇をすり抜けて、倒れ伏したアルスに直撃する。
「アル、……っ」
振り返ったイリヤを制する手さえも、徐々に力を放していった。
「ついに現れたか……俺の“宿敵”に相応しい人間が」
今までに前例の無い軽妙な一撃に反応の遅れたエイドは、後尾の輸送機に飛び移って追撃を逃れると、良いものを魅せてもらったといわんばかりの眼差しでイリヤの術式が閉ざされるまでの一部始終を見届けていた。
不思議と何年ぶりかの率直な笑みが彼のポーカーフェイスから零れていた。あの者になら、祖国に眠るクレムリンの許されざる力さえも打ち破れるのではないか、と。
アルスに駆け寄ったイリヤは、脇腹からあふれ出る血を押さえながら、静かに問い質した。
「お前の守りたいモノってのは、何かを犠牲にする価値があるほど尊いもんか?」
叱責と勘ぐられて怯まれないように、なるべく優しく問いかける。アルスは行き場のない表情を湛えてイリヤを見上げた。
「オレの、守りたいもの……」
渡された我が分身。その彫り刻まれた文字の意味を、よりによって最も読んでほしくない人物に問われたのだった。
「Um sustenance sieben Sterne,Tote Ich mochte auch Sie zu treffen. ――お前の逢いたい奴は今、何処にいるんだ? アルス」
思えば初めて、この男に対して見せた純粋な笑顔かもしれない。
「イリヤ……オレの名前、初めて……?」
胸が詰まってあふれる思いはいつしか、止めどない涙と決意に変わっていった。
遠い日の話を思い出した。
村の住人から慕われていた農夫の青年が禍つ神の呪いにふれ、すべてを焼き尽くされて失意に落ちたあの日のことを。
やるかたない憤怒に身を落とし、死神と成り果てたあの時のことを。
そういった意味を踏まえればソ連は、ひとつの想いがすべての物を狂わせるという立証をあの場で果たしたという事になる。おかげで、悪質なマスメディアや財団連中によって彼らの所業が正当化されるという始末に陥った。
それでもアルスは、最後まで希望を捨てなかった。ぶっきらぼうな旅人の叱咤と励ましを得て、自分は前へと進むための踏ん切りをようやくつける事ができる。
それにもう、自分は独りではないのだから。
「おはよう。もうそこらで着くみてーだぞ。オネボウサン」
座席に横柄に凭れ掛かって足を組む。そこで一睨みを利かせて滲み出る凄味といったらもう、やかましい同僚の説教を地で行かんばかりの抑圧感だ。
「お、おはよう……」
びくびくとしながら挨拶返しをする様は死神と形容できないほどに滑稽な絵面であった。冗談交じりに苦笑しながらイリヤはアルスにからかいの応酬を畳み掛ける。
「イビキすごかったぜ。くしししし、よほど気持ちよく眠ってたみてーだな」
こっちはスイッチの切れたお前を運ぶのに難儀したってのによ。
意地悪な笑みを浮かべてきたイリヤに、蒼白となった彼の面持ちは実に愉快である。先ほどはよくも弄んでくれた。今度はこちらから意趣を突いてやろうか……そんなイリヤの悪巧みが透けて見えるような、非常に黒い影の差した微笑だった。
「え、えっと……なんだかごめん」
「なーんでお前が謝るワケだよ? お前さっき赤い服着た人形達に追い回されて、ズテーンておっ倒れちまったっきり動かなくなっちまって、そんでお前に連れ回された列車ん中に逃げ込んだっつー顛末だ。わかったか?」
「え、エイドは……?」
「あー、お前が意識ないって分かったきりそのまま帰っちまった」
冷静になって鑑みれば、エイドがイリヤを狙うという行動自体に何のメリットも無い。戦闘不能となったアルスに止めを刺さなかったのはあずかり知れぬ疑問であるが。
しかしこれだけの被害を出しておきながら車掌から何のお咎めも無しであった事、今も何事も無かったかのように運行し続ける特急列車に比べてみれば些細な問題のようだ。
どうやらイリヤの口添えらしい。こういった計算高さも自身が学ぶべき要素だろうと改めて反省させられる思いでいた。
「まーよかったんじゃねーの? 一件落着ってコトで」
長年と前線に立つことで得た頑強な肉体とはいえ、あれだけ強力な術式の束にさらされていれば致命傷も免れないところである。
イリヤが彼に刻んだのは治癒の術式だが、アルスにこれ以上の重責を感じさせないための配慮として、鈴を揺らして記憶を一部取り去った。
結果、彼は自身の犯した失態に苛まれる事なくのほほんとしているものの、どこか釈然としない面持ちで視線をさまよわせている。
「そ、そっか。そうだよね……んーっ!?」
どれだけおどけても大した反応を見せない死神に暇を持て余したイリヤは、アルスの真似をして風を彼の頭に巻きつけた。
面白いほど跳ね上がる彼の髪と反応を、ひとり満面の笑みで見守った。死神同伴の片道切符も、案外悪くはない。
「ちょ、ちょちょ……ひーどーいよイーリーヤ~~~っ!」
ドラハテンでの用事を終えた頃には、また彼の余興に付き合ってみるのもいいだろう。きっと自分を強く変えられる転機になるかもしれないと、愉快な死神に期待を寄せて。
ある話を思い出した。
死神が旅人と出会うとき、それまで平行していた世界はひとつに集束する。
幾千と、幾億の数に満ちた箱が寄せられ、それぞれの庭に独自の展開がいくら設けられてようと、自らに待ち受けている末路は同じだ。
ドライゼの装甲を木っ端微塵に砕かれて、自身もすでに死の間際の水平線にいる。
旅人の少年と初めて邂逅を果たした駅はもう、長きにわたる戦いの末、とうに線を断たれていた。ずっと手入れのなされていないこの路線は去年の洪水で水没し、復旧の希望はないとみて良いだろう。
それをまるで時の無常を嘲うかのように咲き誇る閖の香り。絶え絶えになった息でようやく吸い出せる空気の甘さに耐え切れず、大きくむせ返った。
風に踊る彼らをみて、線路に張る水面のたゆたいを前に、旅人が揺らしていたあの鈴の響きを思い起こす。
世界に希望の持てなくなった自分に唯一手を差し伸べてくれた存在を、ただ守りたいだけだった。それは世界という大きな箱に目もくれず、自らの妄想で作り上げたに過ぎない庭へ固執していた故の報いだろうか。
自身の守る集落は、いつも戦乱の脅威にさらされていた。
考えもなしに穿たれるナパームに苛立ちを覚えたアルスは、今より強大なる力を時計盤に求めた。思えばそれがすべての元凶だったのだろう。
結果、代償に守るべき故郷そのものを失った。時計盤へと赴いたほんの数日後、アルスの不在を察知したソ連が彼の故郷へと一直線にこぎつけてきた。
彼の戦力を削ぐための、止むを得ない作戦だったと聞く。その作戦に駆り出された兵士のなかには泣き出した者もいるという。
願いの先に生まれた罪を赦せるのは、償いの果てにある地獄でしかない。それを知っていたアルスはただ、贖いの弾丸を注ぎ込むでしか過ちの清算を果たせなかった。冷酷なる仮面を取り繕ったとしても、結局は自らの罪を恐れての逃げでしかなかったのだ。
満ちた月はおぞましいほどの静謐さを湛えながら雲を従えていた。まるで自らの死を待ち望んでいたかのように。
――七つの星を糧に、この身を滅ぼしてでも君に逢いに行く。
それは果たして誰に向けた決意だったのだろう。誰に誓った約束なのだろう。
いつか読んだ物語の死神は、自分の犯した過ちに区切りをつけるために償いの旅に出かけ、孤独という名の牢獄に身を寄せながら生涯、自分の罪を見つめ直し続けたという。
どのみち死神と化してしまった肉体なら、せめて彼らしく逞しい生き方でありたかったものを。最期まで約束した意志を貫き通せなかった自分に涙するだけの、無様な男と成り果てた自分には、何の縁もない話だと気付かされる。
月夜に照らされた水平線に手を伸ばす。何も掴めないのはとうに判りきっていた筈なのに。
「また……逢えるよね」
そんなおとぎ話を、思い出した。
ジルヴォンニード