策略
4月の雨が聡美の家の庭の桜の花弁を散らしたその夜、彼女の部屋の下で誰かを呼ぶ声が聞こえてきた。夕食を終えて自分の部屋に戻った聡美は、細く高いその声を猫の鳴き声かと思っていたが、何度も同じように繰り返し聞こえてきたので耳を澄ました。だがどうしても聞き取れなかったので、窓を開けて庭を見下ろしてみた。月の光が庭の芝生の上に降り積もった白い桜の花弁を浮き上がらせていた。その木の下に一人の中年の婦人が彼女の名前を呼んでいた。聡美はその人の姿を二度見たことがあった。
広い土間の隅で尨犬のラルーが体を丸めて眠っていた。定吉が帰り聡美は土間から離れようとして、ラルーを振り返ると、赤い首紐の端でラルーは起き上がって彼女を見つめ返した。ラルーの空ろな灰色の二つの眼が土間の片隅の暗闇の中に見開かれていた。ラルーは短い声を唸らせた。
一刻の猶予もない。部屋に戻ると聡美は何者かがそう叫ぶのを聞いた。あの事実が青史に知られてしまっては、彼の決意が固まる前に彼をつかまえなければならない。だがそれもすでに手遅れなのだと聡美は放心したように思った。『彼に会って何を言うの。』彼の顔を見て、彼の侮蔑と憤怒の目差しに耐えられそうにもなかった。だが青史に一目会い、誤解を解きたいと願った。『でも理解されるなんて、私の心の中に渦巻いていた情念を。』 聡美は犯罪という言葉の中に社会の外側に滑り落ちる嫌な孤独感を呼び覚ました。
ときとして犯罪は途轍もなく甘美で異常なほどの興奮を呼び起こしもしたが、翌朝すべてが明るみのもとに暴露された後では、陽に黄いばんだ古新聞のように萎縮していた。その上に記された事件と名前は最早当時者の手から離れ、何度も繰り返される愚かな出来事として忘れられていくのだった。だが聡美は暗闇に乗じて気を取り直した。『それでも何も起こらないよりはよいことなのよ。』聡美の部屋の窓の外で闇の底に沈んだ港が穏やかな波音を繰り返し、濡れた夏の夜の大気が風を孕んで流黷いた。
想い惑い躊躇している時間はなかったが、彼女の心の奥に不可解で整理のつかぬ蟠りが決定的な決断へ進むことを拒んでいた。その合点のゆかぬ蟠りが何に起因しているのか明らかだった。それは七月の精神病院事件から続いていた。聡美は繰り返し無意識の闇の底で自問していた。『彼を救うために? 私達の幸せのために? どんな悪徳を取り除いたの?』 青史の心が何物にも執着しないことを聡美は知っていた。彼の意識は常に与えられた観念の暗示によって目覚めた。何にしろ、いまでは姉の奈恵を青史か遠ざけたことを後悔しなければならなかった 。しかしあの時期、自分らの結託にどれ程の功利心が働いていたにしても、その正しさを信じていたのだった。些細な秘密を信念のために地中に埋づめて仕舞うのは私達の常識なのだ。だが自然な感情を無理解のために殺されたときには、青史の心の中に塞き止められていた情動の嵐に、許しを乞うことを拒絶される時には、人は行き着くところまで突き進もうと考える。あるいは、退却するか。このときになって、自分の望みとその性格がよく分かった。いまでは全神経を集中させて、計画を延長させなくてはならない。最初の筋書きに新たな展開を付け足さなければならない。途切れたシナリオの縒り糸を結び合わせて結末を彼女の望みに仕立て上げなければならないと思い始めた。
畳の上に小さなクッションが、その脇に彼女の水色の日記が転がっていた。そしてちょうど彼女の目の高さの白い壁には紺色の制服が吊るされてあった。物音ひとつなく、日常的な暗闇がそこにはあるばかりだった。
再び、暗い外の夏の海から低い汽笛が響いた。そのときに、聡美の心は何か見知らぬ繋がりに気づいた。昼と夜が繰り返され、彼女は知らぬまに成長していき、誰もその成長を止める者もなく、だからこそ彼女は自らの権限をもって、分断された無関係な事実を結び合わせるべきなのだと。彼女はいまやはっきり自覚していた。この若い娘の隠されていた目的と欲望を、そのためにこそ彼女は生きなければならないと。
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