俺の妹

sakura yumi

1、同居開始
 スマホのベルで目が覚めた。朝6時。メッセージが一件入っていた。

「お兄ちゃんへ。昼ごろ、そちらに着きます。ヨロシクね」

「やべ。今日来るのだった」慌てて返信をした。
「仕事で留守にしている。管理人に話を通しておくので部屋で待っている事」
と返事をしていると、隣で寝ていた女が目を覚ました。
「先生。おはようございます。朝食でも作りましょうか」女は甘ったるい声を掛けてきた。
「いや、もう帰ってくれ。今日はこれから妹が来る」
「妹?でも先生、天涯孤独だって」
その言葉に返事をするつもりはない。
「シャワーを浴びる。その間に帰ってくれ。君もこれから仕事だろう」
と言うと部屋を出た。熱いシャワーを浴びながら大海林太郎は今日の予定を思い出していた。
 午前中は外来、その後病棟をまわる。担当患者に急変するような患者はいない。急患が無ければ時間通り上がれるだろう。
妹とは2年ぶりの再会だ。今日は外食か出前でもとって。と考えながらため息をついた。

 林太郎は自分の実の親がどこの誰だか知らない。5歳の頃、大海夫婦の養子となり養父母の元、愛情一杯に育てられた。ところが神様のいたずらか、夫婦に実子が生まれた。それが妹の杏南だ。だからと言って粗略にされたことはない。両親は林太郎と杏南、分け隔てなく愛情を注いだ。だが、杏南との歳の差12歳。大学進学と共に家を出た時、杏南はまだ6歳。仲が良いとか悪いとかではなく、杏南との接点があまりなかった。そんな杏南にどう接していいのか分らないというのが本音だ。
 今年杏南は大学生になる。東京へ行きたい。と言う杏南へ両親から出された条件が「林太郎と同居するならば」
林太郎へは事後報告だった。

「親父も勝手に決めてくれる」
林太郎にとって今回の同居は煩わしいものでしかなかった。



2、妹の出現
 大海杏南は兄の家へ向かっていた。その手には大きな鉢が握られていた。150㎝しかない身長では植物で顔まで隠れてしまう。ただでさえ慣れない東京、そして人混み
「歩きづらい。お兄ちゃん家、駅から遠いな」
タクシーに乗ればよいのだろうが田舎育ちの杏南にはそういった発想自体なかった。マンションに着くと兄からのメール通り管理人に言って部屋へ上げてもらった。
そして、引っ越しの荷ほどきに取り掛かった。いやその前に部屋の掃除だ。

「お兄ちゃん、部屋汚いよぉ」

 林太郎の帰宅は夜の10時になっていた。結局急患が運び込まれ、あれやこれやで遅くなってしまったのだ。玄関を開け入ろうとしていると、奥から杏南が出てきた
「お兄ちゃん。お帰り。勝手に片づけさせてもらった。ご飯とお風呂用意できているよ」
2年ぶりにあった妹は全くと言っていいほど変わっていなかった。相変わらず「ちんちくりん」だ。
「ただいま」とりあえずそう言っておいた。こんなセリフを言うのは久しぶりだ。
「やっぱり医者って忙しいのね。こんな遅くまで仕事だなんて。先にお風呂入れば。その間にご飯温め直しておくから」
当たり前のように言う杏南に、またまたびっくりだ。
「それじゃ、風呂入ってくる」と返事をするのがやっとだった。

 湯船に入りながら思った。湯につかったのなど何カ月ぶりだろう。落ち着く。妹と同居など面倒だと思っていたが、なかなか便利かもしれない。

 風呂から上がると夕飯が並んでいた。
「もう遅いから消化のいいものにしておいた。お兄ちゃん嫌いな物とかある?聞いてなかったから適当に作ったけど」
「大抵のものは食べられる。買い物に行ってくれたのだな。助かったよ。掃除もしてくれたようだな」見回せば部屋が綺麗になっている。テレビの横には大きな観葉植物が置かれていた。
「もともと得意だしね。お母さんが仕事復帰してからは、私が家事担当していたの。
お母さん、医者の不養生って心配していたよ。冷蔵庫空っぽだし、やっぱりだね」
その言葉に返事をする代わりに、杏南の作った「軽めの夕食」をいただく事とした。

「おいしい」杏南が嬉しそうに聞いてくる。
「あぁ、うまいよ」杏南は満面の笑みだ。
「一緒に住むについて色々相談したいところだけど、今日はもう遅いから後で細かい事、話そう。お前も今日はもう休め」
「うん。お兄ちゃんにお願いがあるの。部屋を好きに飾っていいかしら」
「俺は寝に帰るだけだ。好きにすると良い。だが俺の部屋はいじるな。重要な書類もあるからな」
「分った。」

林太郎は数日後この言葉を後悔することとなった。



3、 二人の家
気付くと大規模な模様替えがされていた。
「これは一体、なんだ」
杏南と同居してから色々と驚く事ばかりだ。新しい壁紙が張られそれに合わせてカーテン・テーブルクロス・ソファーカバー等々が鮮やかな原色で飾られている。
「好きに飾って良いと言ったじゃない」
「そうは言ったが。これはなんというか。乙女コーティネートか?」
「北欧風インテリアです。お兄ちゃんの部屋はいじってないから。ね、ね、ね」
杏南は楽しそうだ。まだまだ子供ということだろう。林太郎は杏南の頭を撫でながら
「ま、いいか。綺麗と言えば、たしかに綺麗になっているわけだしな」

あと、二人で暮すについて決まり事をした。
1、 門限は9時。遅れるときは保護者である林太郎の許可を得る事。
2、 異性の連れ込みは禁止。
3、 スケジュールを事前に提出する事。

「家事は私がするね。お兄ちゃんのスケジュール見てご飯も用意しておくから」杏南はなんでもない事のように言う。
「無理はするな。俺の予定は、予定通りにはいかないからな」
とは言ったものの昼の弁当まで持たされるようになっていた。それはそれで便利ではある。

こうして二人の同居生活が始まった。



4、 病院にて
 妹との同居も1カ月が過ぎた頃、病院の待合室に杏南がいた。
「おまえ、何している」
「友達の付添。昨日からお腹が痛いとかで、辛そうだったから連れてきたの。今診察中」
杏南の指差した診察室は、山室梓医師(モトカノ)の部屋だ。丁度その時、ドアが開いた。
「大海先生。お知合いですか」興味津々の表情の看護士(モトカノ)を無視して。
「診察終ったのか」と聞くと
「はい。付添の方に入っていただきたいと山室先生が」
「杏南。来なさい」杏南を伴って診察室へ入った。

今さらながら後悔している。モト○○が近くにいると色々面倒な状況になる。
案の定、山室医師も杏南と一緒の私を見て驚いている。

「妹の杏南だ。着き添いだ。で容態は」と手短に説明して先を促すと。
「盲腸ですね。切除した方がいいでしょう。今麻酔科の予定を聞いているところです」
と言いながら目線は杏南を追っている。杏南は診察台で横になっている友人に声を掛けている。

杏南は友人の入院の手伝いでそのまま病室に案内されていった。私も落ち着くまで近くで世話をしてから医局へ戻った。
医局にはもの問いたげな人がいた。山室医師だ。
「で、妹だって」山室医師から一言
「ああ、一回り歳が離れている。今大学生だ。一緒に暮しているよ」
「あなたが人と一緒に暮しているの」山室医師は驚いている。彼女と別れた理由は、一緒に暮したいと言う彼女が鬱陶しくなったからだ。
鬱陶しい?なぜそう感じたのだったかな?と考えていると
「妹となら一緒に暮すのね」チクリと言って来た。
その言葉に返事をせずにいると
「いっそ私と一緒に住まない。今の部屋一人だと広くって」との誘いだ
「君とはもう終わったことだ」と言って、林太郎は席を立った。
「ところで、天涯孤独と言うのは嘘だったの」という言葉が背中に突き刺さってきた。
この質問に答えるつもりはない。そのまま部屋を出た。


 仕事を終え自宅へ帰り杏南の「お帰りなさい」と言う言葉に迎えられた時、なぜかホットした。友人についてはその後両親がやってきて事なきを得たという事だ。

食後ソファーで雑誌を読んでいると杏南が後ろから肩を揉んできた。
「な、どうした」私の慌てた声に
「疲れている。あまり無理しないでね」杏南の優しい労りだ。
「お前は母さんに似ているな。さすが母さんの子だよ」
杏南と一緒に暮し始めて気付いた。杏南といると心が癒されていく。両親の愛情を受けていた頃の気持ちになれるからだろうか。杏南はやはり両親に似ている。養子の自分とは違う。

「お兄ちゃんだってお母さんに似ているよ。医者になったのだって看護士のお母さんの影響でしょ。責任感強いところはお父さん似かな」
そう言われて驚いた。養子である自分は異質なものと思っていた。杏南に「両親に似ている」と言われることが嬉しい。こんなにも嬉しいと思うものなのか。

「でも、全てを呑み込んで無理しちゃうのは誰に似たのかな。たまには吐き出さないと壊れちゃうよ」杏南が付け加えた。
「そうだな、今日は少し疲れた。ありがとう」
「どういたしまして」



5、 夏休みは
 杏南は大学でサークルへ参加した。夏休みはその関係のイベントが沢山あると言う。(どんなサークルだか。よからぬイベントで無ければ良いが)田舎には帰らず、東京での生活を続けると言い出した。

「お父さんたち秋にこっち来るって」杏南からの報告だ。
こちらが帰省するのではなく両親が来るという。父親は9月、60歳の定年を迎える。その後ゆっくり遊びに来る事となった。
「お前の様子を見たいのだろう。心配なのだろう」

「お兄ちゃんが家に帰らないのは私のせい」突然杏南が聞いてきた。
その質問に驚き杏南を見ると、いつになく険しい顔をしている。もしかして
「私知っているよ、お兄ちゃんと血がつながっていない事。私に遠慮しているの。それとも私の事嫌い」
最後は辛そうな声になっていた。
「何を言い出す。そんな訳ないだろう」と言ったものの杏南は全然納得していない様子だ。
「親父に聞いたのか」
杏南は、両親に聞くまでもなく周りの人たちの会話から薄々気付いていた。
「お兄ちゃんは利口なのにね」「お兄ちゃんはカッコいいのにね」自分と比べて出来のいい兄。杏南はそんな兄に嫉妬と憧れを抱いていた。
「中学入学の時にお父さんに言われたの」
「そうか。でも俺が帰らないのは仕事が忙しいからだ。杏南とは関係ない」
「そんな訳ない。だってお兄ちゃん、私が覚えている限り数えるほどしか帰ってきてないじゃない」
林太郎はため息をついた。確かに数えるほどしか帰っていない。杏南とは同居し始めてからの方が長いぐらいだ。

「分った、正直に言う。お前たち家族に不満は無い。大切な両親に妹だ。だが田舎では事情を知っている人も多い。その視線が気になる。自分は異質な者だと言われているようで居心地悪い時がある。」
気付くと杏南が泣いている。
「おいおい、泣くなよ。泣く様なことじゃないだろう」林太郎は慌てて杏南を引き寄せ、頭を撫でた。小児科で子供に泣かれたときの対応が役に立った。

「これで仲直りだな。いいかお前は俺の妹だ。今までもこれからも大切な家族だから分ったな」
「お兄ちゃん、ありがとう」杏南は小さく呟いた。


それからは、お互いの間にあった溝が無くなっていった。そんなつもりは無くとも、お互い遠慮があったようだ。でもこの日を境にそれが無くなっていった。



6、 妹のカレ
夜勤を終え家に帰ると杏南の友人が来ていた。
「その節はお世話になりました」そうあの盲腸騒ぎの友人、名前は杉山春奈。
林太郎は疲れていたのでそのまま自室で休むことにした。

が、隣室からの話し声が気になって仕方がない。女二人キャピキャピ声で楽しそうだ。
「私、ちっちゃいから似合わないのよね」「だったら、こっちにしたら。ほら」「あとメイクはナチュラルに。あ、マニキュアしなよ」「え。だって米とぐのに邪魔だよ」「デートの時に米をとぐの。あなたは」

林太郎は飛び起きた。「デートだと」
結局まんじりともせずにいた。

 いつの間にか友人は帰ったのか、杏南は機嫌良さそうに夕食の準備をしていた。マニキュアはまだ塗っていないようだ。
林太郎は気にはなるが何をどう聞き出せばよいのか分らずにいた。


 2日後、杏南の服装ですぐに分った。決戦の日は今日。
林太郎は病院でいつになく上の空だった。

山室医師から声を掛けられて驚いた。
「何、上の空ね。珍しい」
「いや。今日妹がデートみたいで」言ってから失敗したと思った。何も彼女に言う事ではなかった。
「妹さん、大学生でしょ。デートぐらい当たり前じゃない。なにイラついているのよ」
「イラついてなどいない」
山室医師が声を立てて笑い始めた。
「なんか嫁に出す父親の様よ。あなたでもそんなになるのね。笑えるわ」
林太郎には返す言葉もなかった。



7、大学生デビュー
 杏南は大学入学のために田舎から出てきた。はっきりいて周りから見れば身長150しかないちんちくりんの田舎者だ。入学式を終えるとすぐサークルの勧誘に捕まった。
「君、出身は。あ、俺も一緒だね。こういう時は親睦を深めるために我がサークルに入るべきだよ。いろいろイベントづくしだから友人も一杯できるよ」
という櫻井先輩の言葉につられてサークルに参加した。
確かにすぐに友人ができた。
櫻井先輩。山極先輩。そして杉山春奈は昔からの親友の様に仲良くなった。

だが、櫻井先輩からデートに誘われたのは予想外だった。
女子高卒の杏南は男性と付き合うどころか話すことも殆どなかった。すぐに春奈に相談し、当日の服装からメイクまで指導を仰いだ。

デートは何処へ行き、その後について詳細を述べたいところだが、ここは省略。結局二股だった事が発覚し杏南は人生初の失恋?を味わうこととなった。

家に帰り「泣きたい時に聞く音楽」というCDを聞きながらどっぷり失恋を味わっていた。味わいながらいつの間にか寝ていたのか兄に起こされた。
「こんなところで寝ているとかぜ引くぞ」
「お帰りなさい。気付かなくてごめん。ご飯用意するね」
「いや、今日は食べてきた。メールしたのだが。 お前どうした。泣いていたのか」
聞かれて気付いた。確かに泣いていた。
「CD。このCD泣ける曲集なの」と取って付けたような言い訳をしたが、兄は訝しそうに見ている。
「お兄ちゃん。男性は何故二股とかするの」
さすがに、この質問に林太郎は驚いたようだ。
「お前、なに急に言い出す」
「だって、どうしてなのかなぁ。と思って」
「まぁ。あれだ。男性は子孫を残すという本能があるからな」
林太郎は冗談のつもりだったが、今の状態の杏南にその冗談は通じなかった。
「ふざけている。それじゃその辺の獣と同じじゃない。男なんて隣の家の芝犬と同じよ。雌犬の腰にすぐ乗っかって。馬鹿じゃない。お兄ちゃんなんて大嫌い」
ここまで言うと自分の部屋に逃げ込んだ。相談する相手を間違えた。
ドアの向こうから兄の声が聞こえてきた
「おい、そんな怒るなよ。あくまで一般論だ。もちろん「好き」や「愛」という感情も大切だぞ」
杏南は枕をドアに向かって投げつけた。
「うるさい。この盛りのついた犬」と怒鳴った。



8、初デート
 さすがの林太郎もまずいと思ったのか。妹のご機嫌を取ることとした。
つまりデートに誘ったのだ。

「で、なんで水族館なの」杏南はまだイライラしていた
「涼しくていいだろう。ゆっくりできるし」
杏南としてもいつまでも怒っているわけにもいかない。今回の喧嘩は八つ当たりみたいなものだ。兄とゆっくり過ごすのも初めてという事もあり、ここは楽しむことにした。

気付くと兄より杏南の方が楽しんでいる。林太郎は疲れてベンチで休んでいた。
「お兄ちゃんお手洗い行ってくるね。ついでになにか飲み物でも買ってくるよ。待っていて」と言い、兄を残して歩き始めると、迷子に出くわした。
「どうしたの。お母さんは?」
と話し掛けたがなにも言わずにそっぽを向いている。そわそわしているところを見るとお手洗いに行きたいようだ。近くに親らしき人は居ない。
「おトイレ、一緒に行く」
と手を出すと、握ってきた。子供の手を引いてお手洗いへ向かう事とした。

「すみません。こっちに6歳ぐらいの女の子来ていませんか」
きっと母親だろう。慌てた様子の女性がやって来た
「赤いシャツにジーンズの女の子ですか。その子でしたら今用を足していますよ」
と言いながら個室を指差すと、母親は安心した様子だった。
「勝手をしてすみません。でもそわそわしていたので、先にお手洗いへ連れて来てみました」杏南は心配をさせてしまったこと、勝手をしたことの詫びを言った。
「いいえ、こちらこそお手数おかけして。でも良く分りましたね。あの子、話は得意じゃないのに」
よく見ると母親ではなく、引率者のようだ。胸に名札をぶら下げている。相手は杏南の視線に気づいたのか。
「自閉症児をサポートするNPOです。今日はイルカを見に来たのです。もしボランティアに興味がありましたら連絡下さい」
と言うと女性は名刺を差し出した。女性はその後もう一度お礼を述べると女の子を連れて出て行った。

「NPO法人  陽だまりの家」

この出会いがきっかけとなり杏南はNPOでのボランティアに参加するようになった。


9、 陽だまりの家
 杏南は失恋後サークルのイベントへ参加することは無くなった。退会したわけではないが失恋の相手と会いたくなかったからだ。
学校以外の時間は「陽だまりの家」での活動に参加する事が多くなった。特に夏休みに入ってからは毎日のように参加していた。内容としては施設内での遊び相手、一時あずかり、施設外でのイベント参加等々、毎日が有意義に過ぎて行った。

杏南は看護士である母の影響でボランティアには子供の頃から参加していた。今までの活動は主に老人ホームでの年寄りの話し相手だった。自閉症児は初めてだったがコツさえ覚えれば何とかなるものだ。人間を相手にしているのだから大変ではあるが反面意義のある事だった。
林太郎からも「今の方がお前らしい」と言われていた。
確かに自分でもそうだと思う。

 その日、いつもとは違って「ボランティアに参加するときの心得」という講習会に参加するため大きな会場に来ていた。
「他団体の人との交流も必要よ。色々情報交換できから。大海さんも参加してみなさい」と勧められたのだ。
実際、色々な話を聞けて勉強になった。そして終了後は場所を移して親睦会の開始だ。

「大海さんは大学生ですか」30過ぎぐらいの女性に声を掛けられた。
「はい、I大学に入学したばかりです」
相手の名札には「看護士 黒田晶子」となっていた。
「黒田さんは看護士なのですね」
「ええ、ところで大海さん出身は山梨」
「はい、よく分りましたね。私、訛り強いですか、お恥ずかしい」
「いいえ、もしかしてお兄さんいらっしゃる」
この質問に杏南はビックリした
「はい」
「やっぱり。大海林太郎さんでしょ」
杏南は頷いた。
「以前大学病院でご一緒だったの。元気でいらっしゃる。今は何処の病院に?」
杏南は警戒し始めた。相手の声は懐かしいというより探りを入れている様子だ。
ここで兄の勤務先を言って良いものかどうか考えていた。相手にもその様子が伝わったのだろう。
「ごめんなさい。ちょっと懐かしくなって。でもまだ医師を続けていらっしゃるのでしょう」
この質問に杏南は驚きを隠せなかった。医師を続けているのか?
相手もこの質問はまずいと思ったのかその後は兄の件に触れず、席を立って行った。


 杏南は上京する時、母から言われた。
「この2年ほど林太郎の様子がおかしい。自から家族との関係を切ろうとしている。何かあったのだろう。だが林太郎には遠慮がある。自分からは言えないようだ。」

 2年前と言えば兄が名古屋の大学病院に勤めていたころ。その後何故か故郷山梨へ帰るのではなく東京の総合病院に職場を変えている。つまり、その頃何かあったという事だろうか。
 家に帰ると林太郎はまだ戻っていなかった。杏南は黒田晶子の名刺を手にしながら考えていた。これからどう行動するべきか。
3月この家に来たとき、部屋の状況からして兄の生活は荒れていたようだった。部屋を綺麗にし、食事の管理をすることによって兄の様子も少しずつ良い方に向かい始めている気がする。
しかし、確かに何かがあった。その原因を特定するべきなのだろうか。そうすることが必要だろうか。



10、家族の絆
 兄が家を出たのは杏南がまだ6歳の時、兄との思い出はほとんど無い。しかし、兄が両親にとっていかに大切かを知るには母の言葉で十分だった。

 杏南は母に「なぜ林太郎を養子にしたのか」と聞いたことがある。

 林太郎は病院の待合室に置き去りにされていた。発見したのは当時病院で看護士をしていた母だった。施設へ行くまでの数日、母が林太郎の面倒を見た。
「とにかく可愛くて、愛おしくて、抱きながら結婚したらこんな子供が欲しいと思ったわ」
母は父との結婚後、子供の出来づらい体である事が分ると林太郎を探した。
「どうしても気になる子がいる。もしその子に母と呼べる人がまだいなかったら私が母になりたい」
そう言う母に父は驚きつつも反対する事は無かった。そして林太郎を息子に迎えた。

「絆」「運命」。

この話を聞いたとき、杏南は羨ましいと思った。そこには血縁以上のものが確かにある。


杏南は思案の後、黒田晶子の名刺を他の資料と共にリビングのテーブルの上に置いた。

「それ、今日の資料。お兄ちゃんも見てみたら。参考になると思うよ」
帰宅した林太郎にさりげなく声を掛けた。



11、心の傷
 黒田晶子の名刺を見つけた時、林太郎は心臓が止まるかと思った。結婚まで考えた相手。その後、別の医師に乗り換えさっさと結婚して黒田姓になった女性だ。とっさに杏南を確認したが、講習会での話をしている。その様子からは、何も知らないようだ。
いや、もしかしたら同姓同名なだけかもしれない。と思い直した。

楽しそうに講習会の話をする杏南を見ていて林太郎も嬉しくなってきた。
「お前、卒業後の進路は考えているのか。こっち方面か」
聞かれた杏南は思案顔だ
「まだ考えていない。ついこの前大学生になったばかりだもの。私もお兄ちゃんみたいに頭良かったら医者になれたのかな。でも、その前に血を見るのが苦手だから無理か。
ねぇ、お兄ちゃんはどうして医者になったの」
杏南の質問に林太郎は固まった。なぜ医師を目指したのか。あの頃の熱意、夢、希望。思い出せない。

気付くと杏南が林太郎を見ていた。その目は全てを見抜いているようだった。



12、闇
杏南が玄関を入ると林太郎の怒鳴り声が聞こえてきた
「君たちは赤ん坊を見殺しにした」
「女性の中には望まない妊娠をする人だっているのよ。彼女も家族もそれを望んでいたし。それにもともと助かる見込み無かったじゃない」
「お前、あの時幾らもらった」
兄の冷たい声だ。ここまで聞いて杏南はまずいと思った。内容はよく分らないがこれ以上兄に何かを言わせてはいけない。きっと後悔する。勢いよくリビングのドアを開けた。

「ただいま。あ、ごめんなさい。黒田さんいらっしゃい。お兄ちゃんたらお茶も出さないで」取って付けたような言い方だが、この際どうでもいい。とにかくズカズカと部屋へ入っていった。黒田さんは居づらくなったのかすぐに帰って行った。

兄はソファーに座ったまま固まっている。今まで見たことのない闇が林太郎を覆っているようだ。

「杏南どこから聞いていた」
「見殺しにした。から」杏南は正直に答えた。兄と黒田さんとの間に何があったのか吐き出させるべきだと思った。今回のきっかけは杏南が持ち帰った名刺のせいだ。自分がこうなるよう仕向けたのだ。

「彼女とは大学病院にいた頃付き合っていた。プロポーズもしたよ」
杏南は何も言わず先を促すようにコーヒーを差し出した。
「ある日、妊婦検診もしたことのない女性が運び込まれてきた。すでに出産後で子供は仮死状態だった。子供の蘇生を試みたよ。でも教授に言われた。その必要はないと。もともと助かる見込みは無かった。でも俺は助けたかった、生きてほしいと思った」
林太郎の手が震えていた。杏南は心配になって隣に座った。

「その赤ちゃん、きっと幸せだったよ」杏南が兄の目を真っすぐ見ながら言った。
「誰も望まなかった子供だぞ。女性の家族だって口止めにと金を渡してきたくらいだ」
「でもお兄ちゃんは受け取らなかった」
杏南の目は、全てを見抜いている。
「お兄ちゃんはその子に生きていて欲しかった。それは愛おしいと思ったからでしょ。確かに生きられなかったかもしれない、でも最後にお兄ちゃんから愛された。誰も望まなかったわけではないわ」
林太郎は自分の手を見つめていた。あの時この腕にあの子を抱いた時の事を思い出していた。杏南が林太郎の手を握ってきた。
「助けてあげたかったね」
林太郎は泣き出していた。杏南はそんな兄を抱きしめた。

2年前のあの日、林太郎にとって悪夢のようだ出来事だった。教授からの指示。渡された金。恋人が金を受け取り自分にもそうするよう勧めた。受取りを拒否すると病院での居場所が無くなっていった。色々悔しい思いをした。でも一番悔しかったのは命を救えなかった医師として未熟な自分だった。

林太郎は杏南にすがって泣いた。



13、両親
 杏南にすがって泣いたあの日、林太郎はそれまで胸に痞えていたもの無くなり癒された。両親が東京へ訪ねて来た時には晴れやかな気持ちで迎える事ができた。

「杏南、父さんたちには言ったのか」一応、事前に確認をしてみた。
「お母さんには電話で伝えた。この2年間心配していたから。勝手にごめんね」
今なら分る「なぜ杏南と同居させたのか」そして、杏南は期待通り全て丸く収めたのだ。

 両親が東京へ来た日、杏南は学校と陽だまりの家へ両親を案内した。そして夕食は自宅で酒盛りとなった。
「杏南は女の子だからな、林太郎が面倒を見てくれるから安心だ。悪い虫がつかないよう頼むぞ」との父の言葉。林太郎に言わせれば、自分が杏南に面倒を見てもらっているようなものだ。

父が酒でつぶれた後、林太郎は母と話をした。
「杏南が話したと言っていたけど」
「お前を見れば分かるわ。もう大丈夫ね」母は確信を持っているようだ。
「いつも言っているけれど、私たちに遠慮はしないで、もっと頼ってくれていいのよ。私も父さんもそれが嬉しいのだから」
杏南はやはり母親似だ。林太郎は思った。母も全てを見通すような目をしている。
「杏南に会えてよかったよ。もちろん父さん母さんにも感謝している」
「杏南は特別な子よ。目立つ子じゃないけど、こちらの気持ちを和ませてくれる。魔法にかかったと思うほどにね。老人ホームでも人気者だったわ。今もボランティアに参加しているそうね」
「ああ、大活躍だよ」実際、ご指名が多い様子だ。

「杏南はきっと緩衝材なのよ」母が急に言い出した。
「緩衝材?」林太郎は聞き返していた。
「そ、割れ物を包む緩衝材。でも杏南はその中でも一級品ね。包まれた者は絶対壊れたりしない。居心地抜群でしょうね」
林太郎は納得という顔をするしかなかった。その通りだから。

「母親からすると、杏南に包まれる者もまた一級品であってもらいたいのだけど」
母がキッチンで洗い物をしている杏南を見ながらぽつりと呟いた。



1、 帰郷
 クリスマス、年末と林太郎は休まず働いた。その代り、正月休みは取る事ができた。今年は杏南を伴って二人で帰省することとした。

「林太郎は3年ぶりか、懐かしいだろう」父はもともと天然タイプだ。母が養子を取りたいと言った時も反対する事はなかった。
「美田園さんとこの長男、今年跡を継ぐために帰ってきたぞ。お前仲良かっただろ。せっかくだから会いに行ってみたらどうだ」この言葉も、父は深い意味もなく言ったのだろう。

林太郎は美田園医院の長男、美田園賢司に会いに行くこととした。彼は林太郎が医師を目指すきっかけとなった人物だ。
彼と会うのは10年ぶりぐらいだろうか、お互いの近況を話し合った。
美田園はアメリカのH病院の心臓外科にいたが、結局実家の病院を継ぐために帰ってきたと言う。
「アメリカにいたお前が町医者になるのか。物足りなくないか?」林太郎は聞いてみた
「お前の方こそ現状じゃ物足らないだろう。お前が大学病院を辞めていて驚いたよ。アメリカでもお前の論文は読んでいた。相変わらず敵わないと思っていたが、何があった」
林太郎はこの質問に答えるつもりは無かった。
「林太郎は都合が悪くなると、だんまりだな。昔と変わらない」
美田園は林太郎が家族以外で腹を割って話し合える数少ない人間だ。医師になることについて語り合ったこともある。ここ美田園医院は林太郎の医者としての原点だった。
「懐かしいな。医大に進学するきっかけはここだった」
林太郎がポツリと言った。美田園医院は木造の古い建物のままだった。
「俺はその原点に戻ってきたという事だよ。地域医療も大切だしな」
美田園も感慨深げに言った。


 家に戻ると父親はもう出来上がっていた。母と杏南がキッチンで片づけをしている。
「お兄ちゃんお帰りなさい。なにか軽く食べる」
「いや、食べてきた。美田園に会ってきたよ」これは母に向けての返事だった。
「美田園さんのところは一人息子だからね。帰ってきてくれて安心しているのじゃないかしら。先日も奥さん「うちの息子が」と嬉しそうに話していたもの」
確かに、あの後奥さんに捕まって「うちの息子が」と自慢話をたらふく聞かされた。
「でも、美田園医院が無くならなくて良かったわ。歩いて行ける病院無くなっちゃうのよね。隣のおばあちゃんも良かったぁ、と言っていたわ」
この話からすると美田園は地域住民に望まれて跡を継いだという事だ。林太郎は少し羨ましかった。

 風呂から上がると杏南がコーヒーを入れて待っていた。
「就寝前のコーヒーどうぞ。でも寝る前にカフェイン取るのってどうなの」杏南が笑いながら言う
「もう癖になっているからな」最近では、眠る前に杏南の入れたコーヒーを飲むのが日課となっている。そしてこのひと時が林太郎にとってのリラックスタイムとなっていた。
「杏南が前聞いていただろ。なぜ医師になろうと思ったのか?美田園と話していて思い出したよ。きっかけを」
杏南は興味津々の顔をしている。
「俺、頭良かったろ。成績はいつもトップだった」
杏南は、「自分でそれを言うか」と突っ込みたくなるのを我慢した。とにかく先を聞きたかった。
「美田園の母親が言っているのを聞いてしまったのだ。あんな貰い子に負けてあなたは悔しくないのか、と」
杏南の顔色が一瞬で変わった。
「いや、本当の事だし今じゃ気にしちゃいない。
でもあの時はさすがにショックで。絶対に美田園に負けるものかと思った」
林太郎は笑いながら話している。つらい話をしているようには見えなかった。杏南は先を促すことにした
「だから医大に」
「ああ、あいつより良い大学に行ってやると思ってね。実際あいつよりワンランク上の大学に合格した。合格発表の後、あいつの母親が歯ぎしりしそうな顔で「合格おめでとう」と言っていたよ」
林太郎は笑いだしていた。杏南もつられて笑ってしまった。
「ただ、医師になりたいと本気で思ったのは医大に入ってからだな。名波教授に会ってからだ。脳外科の教授で良い先生だった。あんな人になりたいと思ったよ」
林太郎は懐かしそうな顔をしていた
「名波教授。どんな人」杏南はさらに先を促した
「いつも怒鳴っている人だったよ。周りからは嫌われていた。一匹狼みたいな人だった。権力や金では動かない人だった」
「その名波教授がお兄ちゃんの理想の医師なのね」杏南が続きを言った
「私も名波教授に会ってみたいな。今も大学病院にいるの」
「いや、5年ぐらい前に引退している。もう80過ぎのおじいちゃんだよ。俺も久しぶりに会いたいな」

林太郎にとって田舎は自分が養子である事を思い出させる場所だ。しかし、今回の帰省は「医師としての原点」を思い出させる場となった。



2、 モトカレ
 杏南が期末試験に向けて勉強をしているとメールが送られてきた。
「高熱、助けて!!!!」
杏南に二股失恋を経験させた櫻井先輩からだった。杏南も最初は無視していたが同じメールが再び送られてきた。さすがに心配になり必要だろう物を持って訪ねる事とした。

冷蔵庫は空だ。消化の良い料理を作り、部屋も簡単に掃除しておいた。
「先輩、水分取って下さい。あとお粥作りました」と声をかけると、しきりに礼を言っている。
先輩の病気について兄に相談しようかとも思った。しかし、男性一人暮らしの家に上がり込んでいる。なにか後ろめたい事をしている気がして、黙っている事にした。

翌日もう一度だけ様子を見に訪ねた。前日よりは熱も引き回復しているようだった。
「本当にありがとう。今日はこの後病院に行くつもりだから」と言われた。
「料理を作ってきました。3日分ぐらいはありますから後で食べてください」と言ってこの日はすぐに帰ることとした。

家に帰り試験勉強の続きをしていると先輩からメールが来た。
「インフルエンザだった。予防接種しているよね。注意!!」
今さら言われても遅い。杏南は3日後インフルエンザになり林太郎が勤務する病院に厄介になることとなった。年末受けた予防接種は効かなかったようだ。

「予防接種していても、なときはなるのだよ」林太郎は、処置室で点滴を受けながらぐったりしている杏南に声をかけた。
「お兄ちゃんにうつしてないよね」杏南にとっては兄の体の方が心配だった。
「そんな事は気にするな。今はゆっくり休みなさい」
杏南は処置室でそのまま眠ってしまった。林太郎は杏南に付き添った。

杏南がインフルエンザにかかった時期は試験と重なった。ウイルスが体外に排出されるまでは外出禁止。その間の試験を受ける事ができず、大学1年の締めくくりは散々なものとなった。
「お母さんにこんな成績表見せられない、どうしよう」さすがの杏南も落ち込んだ。
「正直に言うしかないな。また1年頑張って来年こそは単位を落とすなよ。留年なんて洒落にもならないから」
林太郎は冗談めかして言った。

どうしてこうも間の悪い時に病気になるのだろう。
「そういえば、女19歳は厄年だ」杏南が言うと、林太郎は大笑いしていた。
「笑い事じゃないよ」
「じゃ、今からでも厄払いに行くか」


3、 モトカノ
 杏南がインフルエンザにかかった時、最初に診察をしたのは山室医師だった。その山室医師から突然杏南当てに電話が来て会いたいと言って来た。
「なんの話だろう」杏南は不思議に思いながらも病院近くのカフェで山室医師と待ち合わせた。

待ち合わせのカフェには山室医師が先に来ていた。杏南が向かいに腰掛けるとすぐ、山室医師が口を開いた。
「林太郎の事で聞きたいことがあって」
杏南は、林太郎と呼び捨てにする山室医師に驚きを覚えた。
「うちの病院について何か言っていないかしら。不満があるとか」
林太郎が今務めている病院は山室医師の父親の病院、いずれ娘である彼女が跡を継ぐ。林太郎からそう聞いた事がある。彼女は何を聞き出したいのだろう。杏南は訝しんだ。
「兄は家で仕事の事を話しません。個人情報になると言って。ですから私も聞かないようにしています。ですからお答えできるような事は何もありません」
杏南はやんわりと断りを入れたが、相手は不満そうだ。しかし杏南としてもそれ以上何も言うつもりは無い。

少しの間の後、山室医師が口を開いた。
「私たち、以前付き合っていたの。聞いているかしら」
杏南は首を振った
「私としては、一緒に病院継いでくれないかと思っているのよね」
山室医師の声音は勝ち誇った様だ。なぜだろう杏南は「イラ」とした。

「ところで今、恋人いるのかしら」
こう聞くという事は、今は付き合っていないらしい。
「今は知りませんが、私と暮し始めるまではいたと思います」
杏南は正直に答えた。しかし今度は山室医師が「イラ」としたようだ。つまり「杏南と暮らし始める直前」の彼女は山室医師ではない。彼女はもっと以前のモノカノという事だ。
山室医師は聞き出したいことを聞けず、不満そうに帰って行った。

 杏南は考えていた。
兄は今の職場に不満を感じている。転職を考えているのだろうか。でも山室医師は林太郎を引き止めたいと思っている。
今日、山室医師と会ったことを兄に伝えるべきだろうか。
いや、その必要はないだろう。
だが、もし兄が職場を変えるのなら、行先によっては一緒に暮せなくなる。なぜ、そんな大切なことを相談してくれないのだろう。
そもそも、山室医師との関係も聞いていない。いや兄も30過ぎの男性だ。それなりに女性と色々あるだろうし、それを一々妹に報告する義務もない。

杏南は寂しさを覚えた。一緒に暮らし始めてから、兄の傍にいるのはいつも自分だと勝手に思っていた。
「私の勝手な思い込みだったのかな」
一言呟くと、目の前の飲み物に手を付けず、そのままカフェを後にした。



4、初めての喧嘩
 林太郎がマンションに戻ると管理人から声を掛けられた。

妹さんを訪ねて同じ男性が何度か来ている。妹さんはその度に追い返しているようだが、大事になる前に手を打つべきではないか。

「一体どういうことだ」
林太郎はすぐに問いただした。いつになく強い口調だ。
「心配するほどの事ではないわ。大学の櫻井先輩。でも部屋に異性の連れ込み禁止でしょ。だから帰ってもらっただけ」

妹の恋バナなど聞きたくもないが、父の「悪い虫がつかないように」と言う言葉を思い出していた。
「その櫻井何某は、どういう人物だ」
なぜか返事がない。
「なぜ返事をしない」
林太郎の眉間のしわを見て杏南は正直に話すことにした。
「夏休み前、すこし付き合っていた人。もう別れたから」
「それがどうして今頃付きまとっている。ちゃんと別れたのか。何か気を持たせるような事していないだろうな」
林太郎は怒りだしている。杏南に対して怒るなど初めての事だ。
「熱を出して困っていると言われて、彼の家に行きました」杏南が目をそらしながら言う。いつも真っすぐ目を見て話す杏南には珍しい事だ。
「もしかして、あのインフルエンザ」
「試験受けられず単位落としたことを知って、申し訳ないと言ってきて、自分がうつしてしまったからと」
相変わらず杏南は目をそらしていた。林太郎はその様子を睨みつけている。
身長180以上の林太郎が身長150の杏南を睨みつけるのだ。かなりの威力がある。杏南としてもこんな事になるとは思っていなかった。

「まだ、何かあるな。全部言いなさい。俺は保護者だ。知る権利がある」
林太郎はネクタイを緩めながらソファーに腰を下ろした。杏南はキッチンヘ逃げようとしている。
「逃げるな。全部説明しなさい」林太郎の喝が飛んできた。
「こんなことじゃ、お前を一人にしておけない」

杏南は林太郎の最後の一言に噛みついた。
「今のどういう意味。お兄ちゃんこそ何か言うことがあるんじゃない」杏南のいつもの目が戻ってきた。
「俺が何を言うというのだ」
「この家出るの。どこか行っちゃうつもりなの」

二人の睨み合いが続いた。最初に折れたのは林太郎だった。

「正月に話した教授の話覚えているか。紹介しようと言われている。アメリカだ」
杏南は驚いていた
「アメリカに行くの」
「まだ決定ではない。向こうからの返答待ちだ。上手くいけば夏前には向こうへ行くことになる」
余りに突然の話に杏南は返事ができなかった。兄にとって素晴らしい話だ。医療の事は良く分らないがアメリカで腕を磨いてくるという事だろう。大きな飛躍となる。
でも兄がいなくなる。アメリカ、海外、遠いところに行ってしまう。
杏南は兄の隣にフラフラと腰掛けた。
「杏南にも相談しようと思っていた。でもまだ決定ではないし、断ることもできる。お前の卒業まで待ってもいいと思っているよ」
「ううん。だめよ。相手だっていつまでも待ってくれるわけではないでしょ。とてもいいお話でしょ。ステップアップになる。お兄ちゃんの活躍する姿、私も見たい。でもアメリカなのね」
杏南は上の空だ。
「ごめんなさい。突然の事で少し脳内キャパオーバーしている」
林太郎は優しく杏南の頭を撫でた。


5、転移性恋愛
 林太郎の件は相手の返事待ちだ。まずは杏南の問題を解決することとなった。

杏南は櫻井先輩の件について、実害もないし大事にしたくないと思った。
しかし、林太郎は「俺はDVで傷ついた人の治療もしたことがある。こういうことはきっちりケリをつけるべきだ」と言って譲らなかった。

対応として、櫻井先輩と話し合いを持つことにした。林太郎も立ち会うと言ったが杏南は断った。杏南からしてみれば兄にそんな場を見られたくなかったし、兄に迷惑がかかりアメリカ行きが潰れてしまう事を危惧した。

当日は学校近くのカフェで待ち合わせた。人目がある方が良いだろうという判断だ。
林太郎にはぼかして言ったが、杏南は先輩からもう一度付き合おうと言われていた。

杏南にそのつもりは無い。

先輩が来ると前置き無しにその事を言った。
「杏南ちゃんさぁ、そんな固く考えなくたって。今フリーでしょ。だったら取りあえず付き合おうよ」櫻井先輩ははっきり言ってチャラい。

櫻井何某、軽そうな男だ。林太郎は思った。
そう、心配で林太郎はついてきていた。杏南にも内緒で、店舗の目立たないところでこっそり聞いていた。

「櫻井先輩。申し訳ありません。去年なら確かにそう思えたかもしれません。でも今は分ります。それは間違っています」
杏南は冷静に受け答えしている。
「なにが間違いなの」
「お付合いするという事は人と人とが心を通わすという事です。そんな大切な事を「とりあえず」とか「フリーだから」とか、そんな理由で始めてはいけないと思います」
櫻井先輩の顔から笑みが消えた。林太郎も聞いていて自分が恥ずかしくなった。
「そんな考えの今、お付合いしたところで私は先輩を傷つけてしまう。ですからこのお話はお断りします」

櫻井先輩は「ムスッ」としている。納得したのか、それとも面倒と考えたのか、別れを言うとそのまま出て行った。

「お兄ちゃん」
杏南の大声が店舗内に響いた。もちろん杏南は気付いていた。身長180以上の林太郎が隠れようとしたところで無理な話だ。最初から気付いていた。
「悪い。ばれていたよな」きまりが悪いという顔をしながら林太郎が奥から出て来た。
杏南は林太郎に微笑んだ、安心したような顔をしている。
「櫻井先輩の分も含めてコーヒー代、お兄ちゃんの奢りね」

店舗を出ると
「お兄ちゃん今日休みだったの。暇なら、私の大学見学していく。案内するよ」
と杏南からの誘いだ。せっかくなので案内してもらう事にした。

正門を入って右手にホール、左に学食、突当りに礼拝堂、その奥に図書館。杏南は簡単に説明しながら進んでいった。
「せっかくだから図書館でも覗いて行く」と言うと、杏南は図書館に向けて歩き始めた。
だが、図書館は閉館日だった。杏南は兄に図書館を見せたかった。兄はよく本を読んでいる。ほとんど医学書だが、興味があるのではないかと思ったのだが、残念だ。

と後ろから声を掛けられた
「大海さん。休み中にどうしたの」
「刑部教授」杏南も驚いた。心理学でお世話になっている教授だ。
「図書館に来たの。今日は閉館日だよ」教授が言いながら隣の兄を見上げている。
「兄です。学校を案内していて」杏南に紹介され林太郎も挨拶をした。
「教授室に来るかい。お茶ぐらいなら出せるよ」
杏南と林太郎は刑部教授の誘いに乗ることとした。

教授室へ行くと、あたりまえの様に杏南が慣れた手つきでコーヒーを入れた。
「私、ちょっと給湯室行ってきます」と言うと杏南がお盆いっぱいに洗い物を載せて出て行ってしまった。
それを見ていた教授が笑いだしている。
「妹さんには、いつもお世話になっているよ」刑部教授が微笑みながら言う。つまり杏南の方が世話をしているという事だ。
「君の妹さんは世話好きというか、ほっとけない様だね。そしていつの間にか人の心に入り込む。あれは天性の才能だね。勘違いした男が告白しているのを見たことがあるよ」
林太郎は驚きを隠せなかった。ついさっきその現場に立ち会ったばかりだ。
「あれは、ちょっとした転移性恋愛だね」
「患者が医者に恋をするという」医師である林太郎は知っている。実際そうならないよう注意もしている。
「良くご存じですね。でも問題ないでしょう。妹さんはダメ男に恋をする人ではなさそうだ」刑部教授の心理学者としての診断だ。
確かに先もきっぱりと断っていた。
「先生が見たという男性はどういう人ですか」林太郎は聞いてみた。
「図書館で一緒にいるのをよく見かけたね。課題を一緒にしていたようだ。自分の苦手を助けてくれる女性に恋をしたというところかな。
ああ、心配の必要はないでしょう。妹さんの心にはそう容易く入り込めない。きっと彼女が認めた人しか入れないのだろう。」


大学からの帰り道、林太郎は杏南に聞いてみた。
「お前、好きな人とかいるのか」
「いないよ」杏南は普通に答えた。
「杏南の好みのタイプってどういうやつだ?」
「好みというか、恋とか愛とかまだ良く分らない。でも、いつかちゃんとしたいと思うよ。心の奥で繋がるような、そんな人と」
言いながら杏南は恥ずかしくなってきた。
「て、お兄ちゃん何聞いているの。お兄ちゃんこそ彼女は?」と杏南が聞き返した。
林太郎はいつもの癖「だんまり」で切り抜ける事とした。


6、アメリカへ
 林太郎は5月アメリカへ向かうこととなった。マンションも引き払い荷物もそれぞれのアパートへ送った。

林太郎の旅立ち当日。杏南は成田へ見送りに行った。
「あっという間の1年だったね」杏南が思い出に浸るように言う。
「俺からすると意義のある一年だったよ。お前のおかげでまた前を向くことができた」

林太郎は意を決して、一世一代の告白をした。
「杏南。待っていてくれないか。何年かかるのか、何になれるのかまだ分らないし約束もできない。でも待っていて欲しい」

「もちろん待っているよ。お兄ちゃんも決して孤独だなどと思わないで。お兄ちゃんは一人じゃない。いつでも私がいる事を思い出して。お兄ちゃんの帰る場所はここだから」
杏南は自分の胸をポンと叩いた。

杏南からの嬉しい言葉だ。でも林太郎の一世一代の告白はきれいにかわされたようだ。
杏南の心の奥、ただ一人大切な人だけが入り込める場所に、まだ林太郎はいない。

ここはもう行動に出るしかない。林太郎は杏南を引き寄せるとキスをした。30過ぎの男からの心を込めた熱烈なキス。

杏南は突然の事に、ただ呆けていた。

「じゃ、行ってくるよ」林太郎はその場を後にした。


7、エピローグ
 林太郎は最初サンフランシスコの病院に勤務した。その後腕を買われてシアトルの病院へ移った。日本を出てから杏南とは会っていない。メールや電話でのやり取りだけだ。お互い、近況報告をしている。
だが、成田でのあのキスについての触れる事は無かった。

 杏南も大学4年生。就職先について相談のメールが来ていた。
「何をしたいのか。何になりたいのか。悩んでいる。陽だまりの家の活動にやりがいを感じているが、それを「仕事」にするのは違うような気がする」と

林太郎は杏南へどう返事をすれば良いか考えていた。自分自身も今悩んでいる。今まで技術を磨くことに精を出してきたが、結局自分は何者になれたのだろう。どんなに上を目指しても救えない命がある事は変わらない。最近は終わりのない道を走り続けているようで疲れを感じていた。

「杏南に会いたいな。」いつの間にか声に出していたようだ。
「アンナって誰。君の恋人かい」いつの間にか近くに同僚が来ていた。
「最近、疲れているようだ。休みを取ったらどうだ。このひと月、休みを取っていないだろう。頑張りすぎだぞ」

「ドクター・オオミ。お嬢さんが訪ねてきましたよ。受付に来ているそうです」
ナースが声をかけてきた。
「俺に娘はいない・・・」と言いかけ、途中で気づいた。林太郎は受付に向けて駆け出していた。


受付の近く、スーツケースにちょこんと座る女性がいた。林太郎が今まさに会いたいと思っていた人物。杏南だ。
林太郎は杏南を抱き上げていた。
「杏南。杏南。杏南」思わず頬ずりをしていた。
「サプライズ、お兄ちゃん。会いたかったよ」杏南も林太郎に抱き付いた。
「来るなら迎えに行ったのに。でも嬉しいサプライズだ」
「就職先の相談。お母さんに言われたの。林太郎に相談しなさいって」
いつもの杏南の全てを見通す目。今はそこに「愛おしい人」の返事を待つ期待が加わっていた。
「俺に就職するか」林太郎は言った。
「うん」
短い言葉だが林太郎は幸せだった。杏南の心に受け入れられたのだ。

杏南は自分から林太郎にキスをした。林太郎もそのキスに応え

俺の妹

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