負けないでっ 【第四巻】
百四十六 パク・ヨンヒ
ソウル大学、社会科学大学経済学部に通うパク・ヨンヒは、韓国の女優キム・ジスに似た知的な感じの美人で、一代で韓国有数の建設会社ヒュンダイ・コンストラクションを育て上げたパク会長の姪だった。パク会長はかねて日本の企業のオーナーと縁組をしたいと考えていたが、姪っ子のヨンヒが日本の男性と将来結婚したいと思っているのを知って、米村工機社長米村善雄が提携先の電子機器会社斗川グループを訪ねたのを機会に会食を申し出た。斗川グループの会長キム・ヘジンはヒュンダイ・コンストラクション会長パク・ジフン同様一代で財をなした男でお互いに気の合う間柄だった。具合の良いことに、米村善雄は跡取り息子の希世彦を連れて来ていると聞いて、キム・ヘジンは是非にと姪っ子のヨンヒも会食に同席させた。
パク・ジフンは初対面で縁談話を持ち出すのは失礼だと思ったが、会食中希世彦が東京大学工学部の学生で、歳がヨンヒより二つ上だと知ってこの機会に是非ヨンヒと希世彦がお互いに知り合える機会を作ってやろうと考えた。ヨンヒはソウル大学の学生で韓国ではエリートだ。だからとても良いカップルだと思っても不思議ではなかった。
それで、希世彦に二日間ソウルに滞在するように勧め、その間にヨンヒに街の観光案内役をしろと命じた。ヨンヒは会食に同席した希世彦に会い、すっかり希世彦に好感を抱いた。
「あたし、ソウル育ちですから、きっと良い案内役ができると思います」
希世彦は韓国語が得意ではなかったが、ヨンヒは日本語を流暢に話した。後で聞いた所、何人かの日本の女子大生と仲良しでお互いに行ったり来たりしていて、自然に日本語を覚えたらしい。
希世彦が六本木で暴漢に襲われて大怪我をして入院している頃、ヨンヒは日本に遊びに来ていた。ヨンヒは希世彦に是非会いたいと思い、希世彦から聞いていた自宅に電話を入れた。
「もしもし、米村さまのお宅ですか?」
「はい。米村でございます」
電話には祖母の美鈴が出た。
「ソウルで米村社長さまとの会食に同席させて頂いたパク・ヨンヒと申します。希世彦さまはご在宅でいらっしゃいますか?」
美鈴は生憎怪我をして入院中だと伝えた。すると是非お見舞いをしたいがかまわないかと言うので病院を教えた。
ヨンヒは夕方大きな花束を抱えて希世彦の病室を訪ねた。希世彦の傷は大方直りベッドから降りて独りで歩けるようになっていた。
「お怪我の方はもう大丈夫ですか?」
「ああ、二、三日中に退院できそうだ」
「退院なさったら是非デートして頂けませんか? 今度は希世彦さんに東京の街を案内してもらいたいな」
「東京に住んでいてもそれほど詳しくはないけど、僕でよかったら喜んで」
「まぁ、嬉しいっ!」
ヨンヒは積極的だった。
ヨンヒは希世彦の病室の中を整理整頓したり、何かと世話をやいた。丁度その時、アオハがいつもの通り病室にやってきた。希世彦に親しげに接するヨンヒと希世彦の関係を訝るアオハの表情を察して、ヨンヒはソウルで希世彦に会い、お友達としてお付き合いをさせてもらいたいと思っていると素直にアオハに説明した。アオハは戸惑ったが顔には出さなかった。
ヨンヒが帰るのと入れ違いに祖父の善太郎がやってきた。
「どうだ、大分回復したようだな」
「はい」
「今出て行った女性は誰だ?」
「ああ、あの方はソウルでオヤジと一緒に会食したヒュンダイ・コンストラクション会長パク・ジフンさんの姪だそうです。ソウル大学の学生だそうですが、たまたま今日本に遊びに来ていてお見舞いに来てくれたんです」
「そうか」
善太郎はそれ以上は聞かなかった。
「今夜またアオハさんを借りるよ」
と希世彦に断って、
「アオハさん、夕食はまだだろ?」
と聞いた。
「はい」
「じゃ、お鮨でもつまんで行かないかね?」
「はい。ご一緒させていただきます」
善太郎は車を[蛇の市]へ、と日本橋室町の鮨屋へ回すように指示した。
「とても美味しいお鮨です」
アオハは善太郎がここの常連だと知った。
善太郎はアオハの生い立ちなど細々したことを尋ねた。アオハは正直に自分の本名は川野奈緒美で、母親は加奈子と言い、父は都筑庄平と言うが結婚はしてなかったのでシングルマザーの加奈子に育てられたが二年前に若くして母親が他界し、父は消息不明の状態なのでマネージャーだった川野珠実と言う女性の養女になったこと、弟が一人居て、今は九州の今井家に養子として引き取られたことなどを話した。善太郎は加奈子と言う名前に遠い記憶があったが詳しい経緯は聞かなかった。と言うよりも、奈緒美が詳しい経緯は何も知らなかったのだ。
翌日善太郎の昔からの付き合いがある男で探偵業をやっている者に調べさせたが、都筑庄平については何も情報がとれなかった。
善太郎は妻の美鈴に、
「希世彦とお付き合いをしているアオハと言うモデルの女の子の素性を調べてみたが、生い立ちには分らない所があるが、素直で気立ての良いお嬢さんだ。わしは将来希世彦と世帯を持たせても構わんだろうと思っているが、あんたはどうかね?」
と聞いた。
「わたしも同じ意見ですよ。家柄ではなくてご本人の人柄が大事だわね。沙希ちゃんも分らない所だらけで善雄と世帯を持たせましたが良かったと思ってるわよ」
米村善太郎は血筋や家柄にはまったく拘る所がなかったが、人柄は厳しい目で見ていた。
百四十七 退院
希世彦は初診の時一週間位と言われたが結果として二週間入院、ようやく退院が許された。退院当日は母親の沙希と祖母の美鈴、それに妹の沙里が揃って病院にやってきた。
「僕、一人でも退院できるのに。母さん、大げさだよ」
希世彦はぶつぶつ言っていたが、それでいて皆が心配して来てくれたのに内心感謝していた。アオハから、
「お仕事で病院に行けなくてごめんね」
と携帯にメールが来ていた。希世彦は一応ヨンヒにも退院するとメールを入れておいた。
久しぶりに家に戻って自分の部屋に入ると、希世彦はなんだか一年も入院していたような錯覚を覚えた。
「ただてさえ単位不足なのに参ったなぁ」
と独り言を言いながらクラスメイト達に、
「今日退院した。明日から登校する」
とメール入れておいた。体調はすっかり回復して、少し太ったみたいだった。
翌日ヨンヒから、
「あと一週間したら帰国する予定なのでその前にお会いできませんか?」
とメールが来た。それで希世彦は日曜日にヨンヒとデートしたいと返事を出しておいた。
東京の街を案内すると言ったって、ヨンヒは何回も日本に遊びに来ているのでどこへ連れて行けば喜ぶのか希世彦には良いアイデアがなかった。
「どこにしようかなぁ……」
考えた末、午後一時にヨンヒの宿泊先のパレスホテルに迎えに行って、それから上野の国立西洋美術館を散策した後、東京駅に戻って丸の内南口からハトバスに乗り、シンフォニーのサンセットクルーズに付き合ってもらう予定にした。客船シンフォニーで東京湾をぐるりと一回りする間に夕食をご馳走するつもりだ。
希世彦は志穂と沙里に付き合ってくれと頼んだが、あっさり断られてしまった。
「おにいちゃんのデートにくっ付いて行ったら笑われるよ。お兄ちゃんは女心に無神経なんだからぁ」
沙里の意地悪っぽい顔がいつまでも希世彦の脳裏にこびりついていた。
当日はお天気が良く、シンフォニーのサンセットクルーズは初めてだと言ってヨンヒは喜んだ。ディナーの時にふとヨンヒの左手首のドレスウォッチに目が行った。見るとジャガー・ルクルトのイデアルだった。ダイアがいくつもはめ込まれているやつで、買えば二百万円位はする。ヨンヒは着ている洋服、履いている靴など全てブランド品で、派手な性格を表しているように思えた。希世彦が見たのをヨンヒが気付いて手を引っ込めた。
「いいものを付けてるね。ジャガー・ルクルトでしょ?」
希世彦がちゃんと認めてくれたのが嬉しかったらしく、ヨンヒはそんな顔で微笑を返して来た。
米村家は貧乏ではなかったが、祖母も母も質素を旨としていたから、沙里も自分もブランド品など殆ど身に付けていなかった。希世彦は洗練されたものには興味があったから知らないわけではないが、ブランド品をチャラチャラするのは好きでなかった。
クルーズが終わって、バスに乗り六本木ヒルズで降りた時は夜の九時少し前だった。
「ホテルまで送るよ」
と言うと、
「あたし、お友達とこれから会う約束がありますから」
とヨンヒは六本木で別れるのが良いと言った。
「じゃ、お疲れ様」
希世彦が立ち去ろうとすると、急にヨンヒが抱きついて来て希世彦の頬にチュッと唇を触れた。突然だったので希世彦がどぎまぎしていると悪戯っぽい目で笑ってヨンヒは逃げるように小走りに立ち去った。
その日、アオハは仕事が終わって、六本木ヒルズを通ってマンションに戻る所だった。その時、遠くから希世彦の姿を見つけて、
「ラッキーッ」
と言いながら希世彦に近付こうとした。だが見るとこの前病院で会ったヨンヒとか言う韓国の女性と一緒だと分り声をかけるのを遠慮した。その時、ヨンヒが希世彦に抱きついてキスをしている所を見てしまった。アオハにはキスをしていると見えてしまったのだ。
アオハの心はキューッと締め付けられたように痛んだ。大好きな希世彦の彼女は自分だけだと思っていたからアオハはすっかり落ち込んだ。マンションにもどってからもあの光景がいつまでも目の前でチラチラしてその夜はなかなか眠れずにいた。
百四十八 女優アオハ
モデルになってから、アオハは何本かのTVドラマや映画に女優として出演してきたが、いずれも脇役だった。そんなアオハにTVドラマへの出演オファーが来た。アオハは乗り気ではなかったが、知名度が上がり、CMの仕事が増える理由でマネージャーの川野が乗り気で仕事を請ける約束になった。
ドラマは人気脚本家の書き下ろしで、粗筋は富豪の美しく可愛らしい令嬢が苦学生に恋をしたが家族の反対に遭い駆け落ちをする。苦学生は恋人の令嬢の助けで学校を卒業後に実業界に入り、失敗を重ねながらも次第に成功の道へと進む。やがて駆け落ちした二人に平和な暮らしが訪れるが、苦学生だった彼が成功と共に次第に気持ちが離れ、新しくできた彼女に傾いて令嬢の元を去って行く。箱入り娘だった令嬢は一人取り残されて自殺を決意するが死に切れず、手を差し延べた名も無い青年に助けられて身も心もボロボロになったまま青年と同棲を始め二人の間に愛が芽生える。しかしリストラで青年は失業し、生活は苦しく、令嬢はついにスーパーで万引きを重ねるようになり捕まって共犯の青年と共に告訴される。告訴したスーパーの大株主が苦学生だった男、自分の元彼とも知らずに令嬢と青年は釈放された後もホームレス同然の苦しい生活を続け遂に生きることに疲れ果てて二人手をつないで心中してしまうと言う切ないラブストーリーだった。
ドラマの随所に激しく濃密なラブシーンがあり、その部分がアオハを尻込みさせたのだが、出来るだけ裸体の露出を少なくするとの約束で出演を押し切られてしまった。アオハは令嬢役で主役だった。相手役の苦学生と令嬢を救った青年役はいずれもイケメンの男優に決まっていた。
ドラマの仕事が入って、アオハは多忙になり希世彦とデートをする時間が殆ど取れなくなった。TVドラマは長編で六回連続放映と決まっていて、録画撮りは約三ヶ月も続いた。
苦学生役の男とは何度も抱き合うシーンがあり、アオハは仕事だと割り切って我慢して演技をしていたが、男優の方は次第にアオハに引かれて、ちょくちょくお茶に誘うようになった。最初の間、アオハは誘いを断り続けたが、そうすると演技がぎくしゃくしてしまい、仕方なく三回に一回は付き合うようになった。そんなアオハの気持ちを理解せずに、男はアオハに恋人のように接するようになった。
アオハは男の態度に困ったが川野に、
「適当に付き合ってやればいいのよ」
と言われて我慢をしつつ男の誘いに従った。
男優は最初の内はお茶するだけだったが、食事をしたりドライブまで強要するようになった。さすがドライブに行くのは断ったが、そこそこのお付き合いは仕方が無かった。
そんなある日、男優と食事をした後、男優はアオハを四谷にあるラブホに連れ込もうとした。アオハが抗って逃げようとする所を男に抱きすくめられて、遂にアオハは警備会社に直結している緊急警報端末装置の押しボタンを押してしまった。
東京は広いと言っても同じ生活圏で行動していると偶然に見られてしまう機会はままあるのだ。
アオハがラブホの前で男に抱きすくめられているその時、たまたま四谷にある大学の女子大生との合コンの帰りで希世彦はクラスメイトと一緒に付近を通りがかった。
ラブホの前で縺れる男女を見てクラスメイトが、
「あいつら派手にやってるなぁ」
とアオハの方を指さした。みなが一斉にそっちを見た。
「あれっ? CMに出てる女の子と俳優の××じゃねぇのか?」
クラスメイトの一人が呟いた。希世彦が見るとアオハだった。希世彦は顔にこそ出さなかったが一瞬ほっぺたをぶん殴られたような衝撃を覚えた。
「まさか」
希世彦は目の前の光景を信じたくなかった。
「最近いつも仕事が多忙で会えないと返事がくるけど、そんな理由だったのかぁ」
とも思った。
希世彦たちが立ち去った後もまだラブホの前でもめていた。そこに警備会社のガードマンが二人走って近付いた。
百四十九 パク・ヨンヒとプチ旅行
三月、希世彦は不足していた単位をどうにかクリアして一息ついた所だった。大学の春休みに、ドイツに滞在中の父、善雄の所に来るように言われていたから、次の週からまた海外出張で多忙になる。丁度一息ついた所で、希世彦はアオハに会って気持ちを確かめたいと思っていた。つい先日、四谷で見てはいけない光景を見てしまって、まだ気持ちが動揺していたからだ。入院中毎晩見舞いに来てくれて、何かと身の回りの世話をしてくれて、その時は自分の大切な恋人だと確かに感じていた。それに、アオハと二度ほど会った祖父の善太郎が、
「希世彦くんはアオハさんをどう思ってるのかね?」
と聞かれた時素直に、
「僕と気持ちが良く合うし、華やかなモデルさんの世界に居るわりには質素で飾り気がない所がいいなと思ってるんだ」
と答えた。
「あの子のご両親の話は聞いているのか?」
「ん。色々あるみたいだけど、僕はアオハさんご本人の性格がいいから別に気にはしてないよ」
「そうか、わしはなぁ、なかなか良い子だと感じたよ。もしあの子に希世彦とは別に好きな男が居なければ、将来希世彦の嫁として来てもらってもいいなと思ったよ」
善太郎はそんな風に言っていた。祖母の美鈴も母の沙希もアオハには好感を持ったようだ。なのに……。
欧州への出張前に、希世彦はアオハに会いたいと思って電話をした。だが、
「あたし五月いっぱいまでお仕事が忙しくて」
と素っ気無い返事だった。それで希世彦はもしかしてアオハが自分を避けているんじゃないかと思った。
「病院ではあんなに優しくしてくれたのに、何でだろう……」
アオハはアオハで六本木で希世彦と抱き合っていた韓国女性の姿がまだ心の中で渦巻いていたのだ。そのことを希世彦は知る由もなかった。
希世彦があれこれ思っている時にパク・ヨンヒからメールが来た。
「大学の春休みでまた東京に来てます。希世彦さん、是非デートに誘って下さい。お返事をお待ちしています」
希世彦は直ぐに返信メールを送った。
「すまないけれど、来週から父の仕事の手伝いでドイツに出張します。明日か明後日でよければ会ってもいいですが」
直ぐに返信が届いた。
「じゃ、明日、明後日京都に連れてって下さい。予定はお任せします。あたし、あなたと一緒にいたいの。今は前と同じ丸の内のパレスホテルに泊まってます」
希世彦は直ぐに京都のホテルに予約を入れようと電話をしてみた。春休みの期間中はわりあい混雑するシーズンで生憎電話をした二軒は満室だった。三軒目のウェスティン都ホテル京都に空室があった。このホテルにはシングルルームはないので、希世彦はデラックスダブルを二部屋予約してからヨンヒにメールを入れた。
「明日十時にホテルのロビーでお待ちします。新幹線で京都へ行きましょう」
直ぐに返事が来た。
「嬉しいっ♡♡♡楽しみに待ってます♡」
可愛いヨンヒが目を輝かせている光景が見えるようだった。
ウェスティン都ホテル京都は東山三条の蹴上にあり、知恩院や南禅寺に近い景色の良い所で、美しい日本庭園に定評がある良いホテルだ。満開の桜には少し早いがそろそろ咲き始める良い季節なので庭園を散策するのもいいだろう。
十時にロビーに行くと、ヨンヒは既に降りてきていて、希世彦を見つけると小走りにやってきて抱きついて頬にチューをした。周囲に人がいるので希世彦は恥ずかしかったがヨンヒは気にもしていない様子だ。その日も有名なブランド品と思われる洋服をまとい、ペンダントのダイヤがキラキラ輝いていた。見た目モデルか女優のように美しく、希世彦はなんだか落ち着かなかった。
「京都は何回目?」
「もう十回目くらいかな」
「今日はどんなとこに行きたい」
「静かな所がいいです。あたし、希世彦さんと一緒にいるだけでハッピーよ」
それで、希世彦は観光客の比較的少ない東山の泉涌寺に案内する予定にした。この寺は天皇家の菩提所で菊のご紋が付いている。韓国は昔から仏教が盛んで、随所に大きな寺があり、多分ヨンヒも寺院の良さが分るのだろうと思った。
新幹線は混んでいたのでグリーンの指定席にした。グリーン車は三割くらい空席があった。希世彦は売店で弁当とビールを買ってヨンヒと一緒に乗り込んだ。京都までは二時間半弱なので、昼過ぎに京都駅に着いた。タクシーに乗ると、
「泉涌寺」
と告げた。
ヨンヒが楊貴妃観音像に見入ってる間に、希世彦は田井中と言う京都から東大に来ているクラスメイトに電話した。上手い具合に田井中は在宅していた。
「今京都に遊びに来ているんだ。すまんけど、夜時間があったら先斗町の飲み屋に案内してくれんかなぁ」
「米村、こっちに来てはるのは珍しいやないか。時間を空けておくよ。後でもう一度電話をくれへんか?」
「よろしく頼むよ」
「あんた一人かぁ?」
「ガールフレンドと一緒だ」
「そやないかと思うたよ」
友人は笑った。
泉涌寺をぶらぶらしている内に直ぐに夕方になった。面倒なので、夕食はホテルのレストランにした。夕食が終わって、
「これからちょっと近くに飲みに行きたいけどヨンヒは出られる?」
と一応ヨンヒの気持ちを聞いた。
「はい。ご一緒します」
ホテルから先斗町は遠くはないので、田井中にホテルのロビーに来てもらって、そこから三人で出かけた。
田井中は[きろく]と言う和風の居酒屋に案内してくれた。田井中の顔見知りの店員が居て、既に席を用意してくれていた。ホテルで食事は終わっていたが、京風の料理をとり三人で楽しく飲んだ。
「米村、普段女っ気があらへんのにこんな美人の、しかも韓国の女性と付き合うてるやなんて驚きやわ」
そう言いながら田井中はしきりとヨンヒに優しく接した。
三条大橋の所で友人と別れ、二人はホテルに戻った。部屋を別々したのは当たり前だから、鍵カードを受け取るとヨンヒは素直に部屋に入った。
「じゃ、明日朝までゆっくり休んで下さい」
「希世彦さんお休みなさい」
ヨンヒがドアを閉めると希世彦は隣室に入りシャワーを使ってからテレビのビジネスニュースを見ていた。
希世彦がビジネスニュースを見ていると、ドアーがノックされる音が聞こえた。
「はい」
ドアーを開けるとホテルの備え付けの浴衣を着たヨンヒが立っていた。
「あたし、眠れなくて」
「そんな格好じゃ風邪引くだろ。さっ入って」
ヨンヒはかすかな香水の香りと共に部屋に入ってきた。
「じゃワインでも飲んで体が温まったら眠るといいよ」
希世彦はルームサービスに電話した。
「ワイン、ロワールものの甘口の白、そうだなぁディディエ・カトリーヌ・シャンパルー、在庫ありますか?」
と聞いた。応対した女性は、
「少しお待ち下さい」
と他の者に電話を引き継いだ。
「お客様、申し訳ありません。カトリーヌ・シャンパルーは切らせております。よろしかったらロワールものでシャトー・クリマンスがございますがそれでもよろしいでしょうか? 二〇〇一年のビンテージですが」
「確か、そいつも甘口の白だったね」
「はい」
「ではそれに合ったちょっとした料理を付けて部屋に届けてくれませんか」
「三十分ほどお時間を頂けますか?」
「いいよ」
ヨンヒが電話を聞いていて、
「希世彦さん、ワインにお詳しいですね。あたし甘口の白好きなんです。どうして分ったの」
と尋ねた。
「ヨンヒさんの好みは知らなかったけど、最初に頼んだワインは香りのバランスが良くて、癒しの中に心地良い睡眠をさそってくれるやつだから。ホテルで勧められたクリマンスは蜂蜜、干し杏、無花果の自然の中の退廃的な香りを持つやつで口に含むとオレンジと蜂蜜の香りが広がって広いお花畑の中で恋人と二人で昼寝をしているような気持ちを誘うから」
と悪戯っぽい目で笑った。それを聞いてヨンヒは、
「あたし、希世彦さんに溶かされてしまいたい」
と抱きついてきた。ふと胸元に視線をやると、どうやらヨンヒは浴衣の下に何も着けていないらしかった。浴衣の間からこぼれ出たヨンヒの太ももが希世彦の太ももに押し付けられて、二人の肌と肌が触れ合うと、希世彦の物が気持ちとは別にたちまちむくむくと盛り上がってしまった。ヨンヒはそんな希世彦の感じ易い先端をさりげなく触ってきた。希世彦は全身がドキドキしてこのままじゃ拙いと思って、そおっとヨンヒを押し戻した。ヨンヒは顔を紅潮させ、なおもしがみつこうとした。その時ドアーがノックされて、ルームサービスのワインが届いた。
「終わりましたら、恐れ入りますがカートをドアの外に出しておいて下さい。ではどうぞごゆっくり」
そう言ってメイドは立ち去った。
「さっ、ワインを楽しんだらお部屋でゆっくり休んで下さい」
料理は量は少なかったがワインにとても合っていて美味しかった。
「最近読んだデータだけど、アメリカとか日本の若い女性の50%強は結婚する前に男性と身体を重ねても構わないと思ってるらしいよ。その中の何割かは結婚する男性とは別の男性と交わっても構わないと思ってるんだって。つまり遊びと結婚は別ってことかな。でもね、韓国とか中国の若い女性は結婚前に男性と交わってもいいと思っている人は二割にも満たないそうだね」
「そうよ。韓国の女性は結婚前に初体験を済ます人は少ないわね」
「韓国の女性は結婚前に初体験したとしてもその時の相手と必ず結婚したいって言う気持ちが強いんだってね」
「そうよ。韓国の女性は自分を初めて抱いた方と必ず結婚したいって言う気持ちが強いわね」
「じゃ、さっきは遊びの気持ちじゃなかったんだね」
ヨンヒはまた顔を紅潮させた。
「あたし希世彦さんのお嫁さんになりたいから」
ワインを飲み終わると、希世彦はヨンヒの肩を抱いて、ヨンヒを部屋に戻した。
「ぐっすり眠って下さい」
希世彦も自分の部屋に戻ると眠りについた。既に夜中の二時を回っていた。
百五十 心の痛み
ここのとこ、アオハは落ち込んでいた。先日ドラマの相手役の男優の無理な誘いに困って、警備会社のガードマンを非常警報端末の押しボタンを押して呼び、相手の男優をこともあろうラブホの入り口で取り押さえてもらった。明らかにそれが原因で、その後の録画撮りではぎくしゃくして演技が思うように進まなかった。相手の男優とはアオハのマネージャー川野と相手方のマネージャーとの間で話し合いが進み、相手がアオハに謝罪することで決着して問題は解決されていたが、男優は相当に傷付けられたらしく録画撮り以外ではアオハにそっぽを向いて口をきかなくなっていた。監督や周りのスタッフは皆敏感で、既に二人の間で何かあったことを感づいていたのだ。
こんな時、女性なら誰でも心を許せる男性に溜まったものをぶちまけて気持ちを軽くしたいと思うものだ。だが、アオハは自分が好きだと思っていた希世彦が病院に見舞いに来た韓国の美しい女性と抱き合っている光景を見てしまってから、希世彦に会って悩みを聞いてもらいたい気持ちが萎えてしまっていた。このもどかしさがアオハの気持ちを一層落ち込ませた。
「あたし、このままじゃ立ち上がれないかも」
アオハはそう思うともう一度だけ希世彦に会って希世彦の自分に対する気持ちを確かめたいと思ったが、先日デートの誘いを素っ気無く断ってしまったのでどうしたらいいのか分からなくなってしまっていた。
色々考えていると益々悲しみがこみ上げてきて、その夜お風呂に入って声を出して泣いてしまった。シャワーと共に涙が洗い流されても心の痛みは流れ落ちず風呂から上がりベッドに潜り込んでからも、また涙が溢れてきた。
意を決して、アオハは希世彦に電話をしたが例の[電源がきられているか……]と言うメッセージが電話の向うで流れるだけで何度してもつながらなかった。
「もうっ、あたしついてないなぁ」
アオハは携帯をベッドの上に放り投げた。アオハは希世彦がドイツに発ったのを知らなかったのだ。
希世彦が欧州に向かって飛び立つ日、パク・ヨンヒは友人の韓国女性と二人で成田まで見送りに来た。連れの女性はヨンヒと同い年くらいで、韓国の女優イ・ジアに似たキュートな女性だった。
「希世彦さん、お気を付けて行ってらっしゃいませ。あっ、お土産忘れないで。彼女のも」
と連れの女性を見た。
「見送り、ありがとう。お土産忘れたらどうしようかなぁ」
と希世彦が笑うと、ヨンヒはキッとした目で希世彦を睨んだ。希世彦はその顔が可愛らしいと思った。
飛行機の中で、希世彦はヨンヒでなくてアオハに見送りに来てもらったら嬉しかったのにと思った。ヨンヒは綺麗だし気配りのできる良い女性だ。自分の気持ちに逆らって、次第にヨンヒが希世彦の心の中に入り込んでくるように感じていた。あっちに行ってオヤジに聞かれたら何て答えればいいだろう、そんなことを考えている内に希世彦は深い眠りに落ちてしまった。
「ベルトを着用なさって下さい」
スチュアーデスに揺り起こされて気が付くと飛行機はフランクフルト・マイン国際空港への着陸態勢に入っていた。
相変らず父親の善雄とのスケジュールはきつく、多忙な日々が続いて、希世彦はアオハやヨンヒのことを想う時間がとれずに居た。ドイツ国内の三社を回り、ベルギーに飛んで一社を回ると、もう帰国する日が近付いていた。
ギリシャの経済危機の影響でもう何年も為替相場が安定しない年が続いていた。国際的な仕事をしていると、為替相場の変動は業績に多大な影響があることを身を持って知らされた。父親の善雄も世界の金融市場の情報を常にチェックしていたので、知らず知らずに希世彦も毎日チェックを欠かさない習慣が身に付いていた。そんな状態だから、アオハやヨンヒのことを想う暇がなくても不思議ではなかったのだ。
希世彦が成田に戻ってくる日にはヨンヒは韓国に帰国していた。次の週から新学期が始まる。教授の話しだと、四年生になったら直ぐに卒業論文のことを考えないと後で苦労をするぞと脅かされていたから、希世彦も新学期が始まったら教授に相談してテーマを決めるつもりでいた。
帰国後希世彦はアオハに電話をしてみた。昼間だったせいか、携帯はつながらなかった。夜寝しなにもう一度アオハに電話をした。だがその日は何度電話をしてもつながらなかった。
それもそのはず、アオハは心労が溜まってその日は仕事はオフだったが病院に入院していたのだ。
「もしもし、希世彦さんですか」
「はい」
珍しくアオハのマネージャーの川野からの電話だ。
「今大丈夫でしょうか」
「はい」
「実はアオハさんのことで折り入ってお話があるのですがお時間を頂けません」
「今からですか」
「いいえ、そちらのご都合に合わせます」
希世彦は予定表を見て、
「明日の夕方なら大丈夫です」
と返事をした。
三十分ほど経って、川野から連絡が入った。
「明日夕方七時に六本木のカフェ貴奈でお待ちします。貴奈は瀬里奈の裏です」
瀬里奈は六本木では有名な牛シャブを食わせるレストランだ。
貴奈は直ぐに分かった。ホテルのロビーを思わせるような割合ゆったりとした店内の奥の方で手を挙げて招く川野を直ぐに見つけた。
「お忙しい所済みません。アオハさん、心労が溜まって、慶応病院に入院させました。ここのとこお食事も満足に喉を通らない状態で」
「そうですか。僕は春休み中ずっと父親の手伝いでドイツに出かけておりましたので何も知らずに済みません」
川野はアオハがTVドラマの撮影で相手役の俳優に四谷のラブホに連れ込まれそうになって、仕方なく警備会社に通報してトラブルになり、その後は演技が思う様に進まずに落ち込んでしまったのだと説明した。更にそれよりも少し前に希世彦が入院した時に写真を隠し撮りしたゴシップライターに襲われた事件も説明した。
「アオハさんとお付き合いしていながら、そんな事件を何も知らずに申し訳ありませんでした」
ずっと希世彦の心の奥底に針のように刺さってチクチクしていた骨が抜けたように希世彦は自分の思いすぎだったことを知らされて一時でもアオハを疑った自分に後悔していた。
川野と一緒に希世彦は慶応病院に駆けつけたが、夜遅かったのでナースステーションで、
「緊急の時以外はご遠慮下さい」
と見舞いを断られてしまった。他の患者への配慮だと看護師は申し訳なさそうに頭を下げた。
翌日午前中、学校をサボって希世彦は慶応病院にアオハのお見舞いに出かけた。病室に入ると、頬がげっそりと落ち込み血の気の無い顔のアオハが居た。
百五十一 マネージャー武藤千春の挫折
「電話ではアオハさんのマネージャーさんとお伺いしていましたが、武藤さんでなくて、もしかしてアオハさんのお義母さまですか」
「そうよ。よく分ったわね」
「はい。アオハさんに以前お写真を見せて頂きましたからお顔を見て直ぐに分りました」
「記憶の良い方ねぇ」
「あ、はい、まぁ……」
「今はお義母さまがマネージャーを?」
「そう。千春さんは小用がありまして、今ヨーロッパへ行って頂いてるのよ」
六本木のカフェ貴奈に呼び出されて、希世彦は千春が待っていると思っていたが待っていたのは義母だったのだ。
「確か川野珠実さまですよね」
「奈緒美ちゃん、ちゃんとあなたにお話していたのね」
「はい。色々聞かせて頂きました」
希世彦は初めてアオハの母親に会ったが、思ったよりずっと若くてキュートな素的な女性だった。
川野は千春のことについては欧州に出張中とだけしか希世彦に話さなかったがゴシップライター蛭こと小林一樹事件の処理で千春は躓いたのだ。
蛭はその日暴行現行犯で警察に捕まっていた。千春は蛭が撮ったアオハの写真を回収しなくちゃならないので、アオハの通報で警察を訪ねていた。そこで蛭とばったり顔を合わせてしまったのだ。千春は業界のゴミのような存在のゴシップライター蛭こと小林の顔を知っていた。
「あっ、お前さん映監のゴリのこれだろ?」
と小指を立てて千春の顔を見ながらニタニタした。
「そうかい、そうかい。そうだったのかぁ。あんた最近ゴリに振られたらしいな。あんな女ったらしの奴とも知らねぇであんた、よう貢いでいたなぁ。アホな女よ」
蛭はゴリのスキャンダルネタを追っていたが、千春がアオハのマネージャーだとは知らなかったらしい。千春が熱をあげていた映画監督は五島龍之介と言う奴で業界では[ゴリ]のあだ名で通っていた。
千春が蛭をキッと睨みつけると、
「あんたなぁ、オレはゴリとあんたの淫らなHのシーンの隠し撮りをぎょうさん持っとるんだ。今度、今日のお礼にネットで公開してやるぜ。楽しみにしてな。ゴリはなぁ、あんたの他に女が四人も居るんだ。そいつらの隠し撮りもみんな持ってるよ。アハハ、楽しみが増えたぜ」
と千春をあざ笑った。
千春はゴリこと五島に少し前極めて淫らな体位のセックスを強要された末、目の前で別の女といちゃつかれて散々惨めな思いをさせられた挙句、
「千春とはこれでバイバイだ。今度また纏わり付いてきたら、もっとひどい目に遭わせるからな」
と言われて振られてしまった。千春はしばらくの間毎日目を腫らして泣き明かした。
千春が五島に愛されるようになったのは十年ほど前だった。その時千春はまだうら若く、五島にも千春の他には女はいなかったはずだった。所が五島の名前が業界で有名になるにつれて、女が一人増え、二人増え、千春はその度に泣かされてきた。今では、自分がどうしてこんな女たらしの男を愛してしまったのか分らなくなってしまったが、兎に角千春は五島一筋に愛してきたのだ。愛は深いほど破綻した時の心の傷は大きくなるのだ。千春は心から深く愛していたので振られた時はいっそのこと死んでしまいたいほどに打ちのめされていた。
最後に五島に無理強いされたセックスは思い出しても身震いするくらい恥ずかしく淫らなもので千春は玩具のように五島に悪戯されていた。もしもそんなシーンの隠し撮りを蛭が持っていたとすれば大変なことだが、今となって思い返すともしかして事前に蛭とゴリが示し合わせてエロな映像を撮影していたとも考えられた。そう思うと千春は取り返しのつかない地獄のどん底に突き落とされてしまったように感じていた。
そんなことがあって、千春はもうアオハのマネージャーは絶対無理だと悟った。それで川野に洗いざらい話をして、
「辞めさせて下さい」
と申し出た。川野は優しかった。
「あなた、まだ若いし人生はこれからよ。二ヶ月か三ヶ月癒しをかねて蛭とか言うウジムシの目が届かない南仏にでも行ってゆっくりなさったら?」
そう言って、
「少ないけど贅沢しなければこれで大丈夫よ」
と三百万円を千春に手渡した。
まだ寒い二月上旬、千春は手荷物も持たずに独り悲しげに成田を飛び立って行った。川野の所にその後千春から一通の封書が届いた。
「川野様には大変ご迷惑をおかけしたのに、手厚いご好意を受け感謝しております。あれから南仏を彷徨った末、スイスのローザンヌの少し東のレマン湖畔のピュイドー近くのブドウ農園のお手伝いとして落ち着きました。
丘の上の葡萄園からレマン湖を見下ろす景色はいままで地上にこんな素晴らしい景色があったのかと驚かされるほど美しく、お仕事の合間に毎日素的な景色に癒されております。長い間苦しめられた恋の悩みから解放されて、今は生きていて良かったと川野様に感謝をしてもしきれないくらいです。ありがとうございました。
このピュイドーの近くの村グランボーは千葉県の長柄町と姉妹村になっており、日本にも理解があり皆様に親切にされ可愛がられております。重い足を引き摺りながら東京を離れましたが、最初三ヶ月と思っておりましたのに、これでは半年以上こちらでお世話になれそうですし、もしかして日本に帰りたくなくなるのではと心配までしております。お暇ができましたら、どうぞアオハさんを連れてこちらへ遊びにいらして下さい。きっと素晴らしい景色がお迎えするものと思います。あ、こちらのワイン、意外に美味しいです」
川野は千春からの封書を読んでいる内にいつのまにか目頭が熱くなり涙が零れ落ちていた。そして、近い内にアオハを連れてきっとローザンヌに行こうと心に決めた。
百五十二 病気の原因
蛭のようなあくどいゴシップライターは懲り懲りだ。川野はアオハを個室に入院させて、警備会社に頼んで二十四時間出入りを監視させた。
消毒薬の匂いが漂う病室のベッドで、頬がげっそり窪んで青白い顔のアオハは白い天井をぼんやりと眺めていた。病室の外を通る人の足音以外はひっそりとしていた。
♪会いたいのに 会えず 独り涙した日々を重ねて
♪いつの間にかあなたは どうして 遠くに行ってしまったの
♪あなたを想う気持ちを どうしたら伝えられるのだろう
アオハは自分で思いつくままに今の気持ちを口ずさんだ。
初めてのデートの待ち合わせ場所、キュイジーヌ フランセーズ JJの店内で初めて希世彦を見つけた時のあのドキドキ感、横浜のライブハウスで、二人で聴いた心が溶かされるようなジャズピアノの調べ。そして、谷川岳の新雪の上でソリに乗って戯れた時の希世彦の子供っぽい笑顔、楽しかった一時がもう一度来るだろうか……。
心の中から消し去りたいと思っていても、楽しかった想い出が一つ一つ蘇って消しても消しても消えないのだ。
「具合はどう?」
病室の扉から、明るい笑顔で義母の珠実の顔がのぞいた。
「相変らずよ」
「そう、希世彦さん、もう少ししたら来るわよ」
「えっ?」
「迷惑だった?」
「あたし、お会いしてもいいのかなぁ」
「大好きなくせに、何言ってるの」
アオハは希世彦が美しい韓国の女性と付き合っていると思っていたから気持ちが動揺していた。
「昨夜ね、彼に会って話をしたの。そうしたら彼ったら、奈緒美ちゃんが別の男性とホテルに入ったと誤解して遠慮していたみたいなのよ」
「ホテルって? あたしが?」
「そう、この前共演中の男優さんに四谷で連れ込まれそうになったでしょ? 偶然彼が見てしまったらしいの。それで随分悩んでいたらしいわよ。誤解だと分って、希世彦さん、昨夜お見舞いに来て下さったんだけど、夜遅かったからナースステーションで門前払いされちゃったのよ」
「でも……」
「でもってなぁ~に?」
「希世彦さん、韓国のヨンヒさんとか言う方とお付き合いされてるから」
「ああ、それも聞いたわよ。何でも韓国に出張中に紹介されてソウル市内を案内して頂いたのでそのお返しに日本に遊びに来た時付き合ってあげたんですって」
「でも……」
「まだあるの?」
「あたし、六本木で抱き合ってるのを見ちゃったんだ」
「どうかしら? 彼は恋人は奈緒美ちゃんだけだって言ってたわよ」
「……?」
「兎に角、もう直ぐ来られるからお話をしてみたら?」
川野は二人とも勝手に誤解しているらしいことが分って改めて恋心とは悩ましいものだと思った。
病室の入り口の所でガードマンと押し問答をしている声がした。川野がドアの外を見ると希世彦とガードマンが入れろ入れないと揉めていた。
「ああ、その方なら大丈夫よ。入れてあげて下さいな」
川野の許可が出てガードマンは、
「失礼しました」
と希世彦にお辞儀をした。
医師が二名の看護師を連れて診察に来た。それと同時に希世彦も病室に入ってきた。アオハは希世彦の顔を見ると胸がつかえて言葉が出なかった。その様子を医師と看護師が眺めていた。
「先生、奈緒美さんは相当悪いのですか」
希世彦が聞くと、
「いや心労が溜まって、一種のノイローゼですよ」
と医師が答えた。
「治るまで長くかかりますか」
「原因の第一は何だと思いますか?」
医師は希世彦を見て微笑んだ。
「さぁ、僕には全く分りません」
すると医師は、
「アハハ」
と笑って、
「第一の原因はあなたですよ」
と答えた。希世彦が怪訝な顔をしていると、
「下衆な言い方をすれば、恋煩いだな」
とまた笑った。それを聞いていた看護師と川野も笑って病室が笑い声で溢れた。希世彦は顔を真っ赤にして恥ずかしそうにアオハを見ると、アオハも恥ずかしそうに目を逸らせた。
希世彦に会えて、アオハは急に元気になった。食欲不振が続いて栄養不足になっていて、今は栄養剤の点滴を受けていたが、医師の話では身体の方は大分回復してきたのでもう大丈夫、後は希世彦がアオハの気持ちを治してあげてくれと言い置いて病室を出て行った。その日は学校を休んで、希世彦は一日アオハの脇で過ごした。
「千春さんから嬉しいお頼りが来て」
「千春さん、大丈夫なの?」
アオハは千春が毎晩遅く戻ると部屋に閉じこもって声を押し殺して嗚咽していたのを思い出した。
「千春さんはフランス語がお出来になるから、南仏にでも行って静養なさいと出してあげたんだけど、スイスのローザンヌに近い葡萄農園に落ち着いたみたいなの。景色も空気も水もとても良い所で、すっかり元気になられたみたいよ」
「そう、よかったぁ。あたし心配してたの」
「それでね、とてもいい所だから、是非奈緒美ちゃんと一緒に遊びにいらして下さいと書いてあったから、あなたの静養をかねて退院したら二、三日行ってこようと思うんだけど、希世彦さん、お勉強の邪魔になりますけど、出来たら奈緒美ちゃんにご一緒して頂けませんか」
と希世彦の方を見て頼むような顔をした。
「いいですよ。学期始めですから大丈夫です」
アオハが退院して直ぐに、川野珠実は奈緒美と希世彦を連れて成田を飛び立った。二年前にアイスランドで起こった火山の噴煙はまだ続いていて日により航空機のダイヤが乱れていたが、幸い成田を発った日は大丈夫らしく、ドゴール空港で降りて、翌日パリから鉄道でスイスのローザンヌに向かった。パリのリヨン駅を早朝七時半頃の直通列車TGVに乗ると、お昼前にはローザンヌに到着した。
ローザンヌ駅を降りると少し日焼けして健康そうな千春が笑顔で出迎えてくれた。農園のトラックを借りてきたらしく、四人乗りのピックアップで日産自動車のタイタンだった。
四人はローザンヌから東へ15kmほど走って葡萄畑が広がるピュイドゥー・シェブレと言う村の農園に入った。千春が世話になっている農家の老夫妻が珠実、奈緒美、希世彦の三人を温かく迎え入れてくれた。
「随分景色の良い所ねぇ」
川野も奈緒美も広大な葡萄畑の先の、雪を頂いたアルプスの山並に抱かれるようにして眼下に佇むレマン湖に溜め息をついて、しばらくこの素晴らしい景色に見とれていた。
百五十三 スイス・ローザンヌから
ピュイドゥー・シェブレの農家で泊めてくれることになった。夕食まで時間があるので、希世彦は奈緒美に、
「ローザンヌの街に行ってレンタカーを借りてくるんだけど、一緒に行かない?」
と誘った。
「はい。ご一緒させて下さい」
奈緒美は嬉しそうな顔をした。
二人は農家の老夫妻に断って、ピュイドゥー・シェブレから列車に乗ってローザンヌに出かけた。駅の近くにレンタカー屋はあった。事務所を訪ねると、直ぐ手続きをしてくれた。
「シトロエンは置いてますか? 車種は何でもいいです」
旅行者相手の店なので、英語で十分通じた。
「ウィ、ムッシュ」
応対した女性は早速電話をかけた。
「十分ほど待って下さい」
待っていると店の前に赤いC4 Picasso(ピカソ)が届いた。日本車で言えばホンダのオデッセイみたいな奴だ。それを借りると希世彦はスーパーに寄って道路地図を買った。
「今日どこを走るか相談しよう。僕のお勧めはモンブランの近くのシャモニーあたりまで行ったらどうかと思うね」
「あたし、わかんないから、希世彦さんがお勧めの所でいいです」
スーパーを出ると、二人はレマン湖沿いの道路をモントルーに向かって走った。景色が良く、途中湖畔の公園を散歩したりしている間に夕方になってしまった。公園を散歩していると、いつの間にか奈緒美は希世彦の腕にしがみついてぴったりと身体を寄せてきた。奈緒美は希世彦と恋人どうしになったと感じつつ希世彦が歩くままについて歩いた。
農家に戻ると、珠実と千春が老夫人の夕食の仕度の手伝いをしていた。
「希世彦さん、手伝って」
と千春が希世彦を裏の納屋に連れて行った。
「そこの棚の上のチーズ、それ、それ、三分の一に切ってあるやつを下ろしてお台所まで運んで下さい」
見ると三分の一くらいに切ったグリュイエルチーズが乗せてあった。隣にはまだ切ってないのが置いてある。希世彦は手を伸ばして棚から切りかけの奴を下ろした。
「うぇっ、重いっ」
10kgくらいあってずっしりとしていた。千春は下の棚に置いてある直径25cmくらいの木枠を抱きかかえた。
「そいつは何ですか?」
「ああ、これもチーズよ」
「もしかしてバシュラン?」
「そうよ。希世彦さんよくご存知ね」
「ママ(老夫人のこと)が今夜はモワチェ・モワチェにするんですって」
「千春さん、モワチェ・モワチェってどう言う意味?」
「ああ、モワチェ・モワチェは半分半分って言う意味ね。ママ特製のチーズフォンデュをご馳走してくれるそうなんだけど、グリュイエルとバシュランを半々にしようってことよ」
仕度が終わると皆でテーブルを囲んで本場のフォンデュに舌鼓を打った。
「すごく美味しい」
奈緒美はいつもより食が進み手作りのパンと一緒にもぐもぐ食べた。ハムやソーセージ、野菜、果物、出された物はみな美味しかった。フォンデュには白ワインを使ったが、千春がローザンヌで買って来た葡萄の絵のラベルが貼り付けられた赤ワイン、ドニ・メルシェを二本テーブルに置いた。
「これ、ここの地元、ヴァレ州のワインだけど美味しいわよ」
と千春が勧めた。農家の主人は無口だがにこにこして皆が楽しく食べているのを見ていた。
仕上がりはママ特製の苺たっぷりのケーキが出た。大きな皿に乗せられたケーキは芸術品だ。これにも珠実と奈緒美が感動の声をあげた。
夜、奈緒美と希世彦は外に出て見た。昼間は暖かだったが、標高が高い所なので、夜は冷えた。だが、満天の星空はとても綺麗で、二人は肩を抱き合って星空を見ていた。
「奈緒美さん」
「はい」
「僕の恋人は奈緒美さんだけだよ。誤解させるようなことがあってごめん」
「あたし、今まで自信なかったな。でももう大丈夫です。あたしも希世彦さんだけだから」
それからは二人とも無言で時の流れを共有していた。
耳元に、奈緒美は希世彦の熱い息を感じた。と、希世彦が両手の手のひらで奈緒美の頬を挟んで引き寄せた。奈緒美の唇に温かい希世彦の唇が重なった。奈緒美はそっと、ちょっとだけ舌を歯の間から出した。その先に希世彦の温かい舌が絡まってきた。その時、奈緒美は全身に電流が走ったような痺れを感じていた。演技ではなく、心から男性の唇に自分の唇を重ねて、こんなに心地の良い思いをしたのは初めてだった。
愛されていると、分っていても、この身で確かめたくなるのが愛
つながっていると、分っていても、つながって欲しくなるのが愛
もう淋しくないと、分っていても、抱きしめて欲しくなるのが愛
奈緒美は誰かが書いた詩の一節を思い出していた。
朝食を済ますと、奈緒美と希世彦は借りてきたシトロエンに乗って出かけた。珠実は自分も連れてって欲しかったが、二人だけにしてやろうと思って遠慮した。
レマン湖畔に出ると、そこからA1ハイウェイに乗ってジュネーブに向かってシトロエンは軽快に走った。車は少なく、ジュネーブ近くになって少し増えたが日本のような渋滞はない。途中バイクが二台追い越して行った。
ジュネーブはスイスだが、その先はフランスだ。ジュネーブからA40ハイウェイに入り少し走った所、ボーンビユのサービスエリアに希世彦はシトロエンを乗り入れて、
「一休みしよう」
と言った。カフェでコーヒーを飲みながら二人は美しい景色に見入っていた。
「もう少しだ。お昼前には着くよ」
希世彦は再びA40に乗り入れるとシャモニーを目指して走った。
サン・ジェルベ近くでA40は終わり、N205号線に入ると景色の良い山沿いに道路は続いていた。N205を10kmほど走ると、美しい山岳に囲まれたシャモニーの街に着いた。道路地図にはシャモニー・モンブラン町と書かれていた。正式にはシャモニー・モンブランと呼ぶらしい。
「あれが写真で良く見るモンブランだよ。このあたりはフランスとイタリアの国境地帯になっていてさ、モンブランはフランスの山だけど、稜線の南側はイタリアなんだ」
希世彦は道路地図を奈緒美に見せて説明した。
雪で真っ白な巨峰モンブランを目の当たりにして、二人はカフェで昼食を食べた。お天気が良く、風で雪が舞い上がる景色は素晴らしかった。
「ゆっくり景色を楽しんで、今夜ここに泊まろうか」
「嬉しいっ!」
希世彦はオーベルジュ・デュ・ボワ・プランと言うホテルのツインルームを予約して、
「さ、もう少し景色をたのしもうよ」
とロープウェイ乗り場の方にシトロエンを進めた。
百五十四 モンブランの想い出
希世彦はホテル・オーベルジュ・デュ・ボワ・プランからピュイドゥー・シェブレの農家に電話をした。
「ミズ・カワノをお願いします」
電話口に川野珠実が出た。
「希世彦です。今夜一晩奈緒美さんとこちらに泊まりますが、お許し頂けますか」
「奈緒美ちゃんの様子はいかが?」
「すっかり元気になられました」
「じゃ、許してあげるわよ」
と川野は笑った。
「お義母さん、ありがとう。明日はそちらに戻ります」
「奈緒美ちゃんに優しくしてあげて下さいな」
「はい」
夕食はホテルで食べた。食事が終わって部屋に入ると、あとは何もすることがない。テレビを見ても英語、フランス語やイタリア語、奈緒美は語学に達者じゃないから見てもつまらない。
「暖かくして外に出てみないか」
希世彦は外に連れ出した。道路には雪はないが、夜になると冷える。冷たい風に曝され、二人は星空を見ながらブラブラと歩いた。
と、[DRIVER]と書かれたナイトクラブの看板が目に入った。希世彦は何気なくそちらの方に歩いて、店の前で止まった。
「覗いて見る?」
「はい」
扉を開けると中から静かなピアノの音が聞こえた。ピアノバーだった。若い女のピアニストがショパンのポロネーズを奏でていた。
席に着くと、
「ワインリストはありますか」
と聞くとウエイターは首を横に振った。仕方が無い、
「お勧めはあるのかい」
と聞くと、
「ボルドーのマルゴー物ならいくつかあります」
と答えた。
「シャトー・デュルフォー・ヴィヴァンは?」
「二〇〇四年物ならあります」
希世彦はそれと適当にオードブルをと注文した。店内は客は少なく静かだった。ワインが来ると、二人は飲みながらピアノを聴いた。
二曲弾いた所で、ピアニストの女性がテーブルにやってきた。
「こんばんは」
突然の日本語の挨拶に希世彦も奈緒美も驚いて女を見た。
「何かリクエストはありますか」
「日本語、お上手ですね」
と奈緒美が褒めると、彼女は流暢ではないが、ちゃんとした発音で、
「こちらには日本からのお客様も多いので日本語の勉強をしました」
と答えた。
「リストの曲、弾ける?」
「はい。少しなら」
「じゃ、次のステージでお願いします。曲目はお任せします」
希世彦がリクエストをした。ショパンが上手だったので、難しいリストも弾けるだろうと思ったのだ。
「ここは冬の寒い間は店をクローズしています。一昨日オープンしたばかりなんです」
女が付け加えると、
「ラッキー」
と奈緒美が相槌を入れた。ウエイターにグラスをもう一つ頼んで、三人でしばらく話をした。奈緒美はすっかり喜んで、しまいには希世彦が話しに割り込む隙がなくなってしまった。話題はファッションやコスメの話しだから希世彦は門外だ。彼女は港町マルセイユ出身で名前はミレーユ(Mireille)だと自己紹介した。
ホテルに戻ると十二時近くになっていた。奈緒美がシャワーを使っている間、希世彦はロビーで新聞を読んでいた。
希世彦は部屋に戻りシャワーを済ますと、
「遅いから、おやすみ」
と言ってベッドに潜り込んだ。
奈緒美も隣のベッドに入ったが、眠れないらしく何度も寝返りをしていた。希世彦がうつらうつらし始めたとき、不意にベッドがきしんで、奈緒美がそっと脇に入ってきた。
「希世彦さん、ごめんね。眠れなくて」
希世彦はそっと奈緒美を抱き寄せて背中をさすってやった。
一時間もすると、奈緒美は小さな寝息をたてて眠っていた。
翌朝希世彦が目を覚ますと、奈緒美はまだ希世彦の脇ですやすや眠っていた。窓から入る光で奈緒美の横顔を見ると少女のような可愛らしい寝顔だった。時計の針は八時半を回っていた。
「そろそろ起きようか?」
奈緒美は眠そうな目をこすりながらちょっと希世彦の顔を見るとまた眠ってしまった。
希世彦がホテルの外に出て一回りして戻ると、奈緒美は化粧を済ませてすっきりした笑顔で、
「おかえりなさい」
と呟いた。
「なんだ、もう僕の若奥様みたいだな」
と言うと奈緒美は恥ずかしそうな顔で笑った。
朝食を済ませて、二人はシトロエンでもと来た道をジュネーブ目指して走った。
奈緒美は食欲が出てきて、朝食も沢山食べた。ノイローゼはどうやら治ってきたようだった。
百五十五 ファーストキス
男にとっては、喧嘩して生まれて初めて相手の頬や顎にパンチをぶち込んだ時のあの痺れるような握りこぶしの感触は決して忘れない記憶として残るものだ。まして、生まれて初めて拳銃やライフルを発射した時に受けた腕や肩の痺れるような衝撃も初体験をした者にとっては一生心に残るものだ。長い間に、二度目、三度目の経験は忘れても、初体験で受けた感覚は誰だって忘れないだろう。
ファーストキスは恋愛の通過点に過ぎない。だが、恋愛経験のある女なら、ファーストキスをした時のあの痺れるような感覚を誰だって忘れないだろう。今日は絶対に来るぞと期待していたのに、キスもなく別れて、がっかりして戻ったあの夜道。そんな経験のある者もいるに違いない。
ファーストキスは突然にやって来て直ぐに過ぎ去ってしまうものだ。それなのに、次からのキスはファーストでなくなるのだから淋しいものだ。だから、女なら誰でも神聖で美しい行為だと思いたいに違いないのに、飲み屋の帰り道の路地の暗がりで突然に唇を奪われたり、ドライブ途中、なんでもない所で突然唇を奪われたり、彼のワンルームマンションの夕闇迫る窓際で突然唇を奪われてしまったり、初体験は自分の期待に沿わずに思ってもいない場所で突然に訪れる。
アオハこと川野奈緒美は、日本から遥か遠くの、スイス・ローザンヌ郊外の片田舎ピュイドゥー・シェブレの広大な葡萄畑の中の石垣に座って足をぶらぶらさせながら、希世彦と並んで満天の星が瞬く夜空に包まれている時にしてもらったファーストキスに満足していた。女ならきっとロマンチックな雰囲気の中で初めて唇を奪われたいと思っている者が多いに違いない。それも予めなんの予告もなく、突然に奪われた方が嬉しいのだ。
アオハは希世彦と初めてデートした時に、希世彦と付き合っていればいずれはファーストキスを経験する時がくるだろうと思っていた。だが、病院に入院するまで落ち込んでしまったとき、一時希世彦とのファーストキスはもう決して訪れないとまで思い詰めていた。だから、ピュイドゥー・シェブレでの初体験は誰にも増して忘れ得ない想い出になった。
あっと言う間に一週間が過ぎて、もう珠実と奈緒美と希世彦は帰りの飛行機に乗っていた。
エコノミー席とは言え、最近の飛行機は以前より前後の座席の間隔が広くなり少しゆとりがあった。三人掛けの座席の窓側に珠実、真ん中に奈緒美、通路側に希世彦が座った。飛び立ってしばらくの間、三人はピュイドゥー・シェブレの農家での思い出話をしていたが、やがて奈緒美は眠ってしまった。意識してかそうでないかは分らないが、奈緒美は希世彦によっかかって安心した寝顔ですやすや眠っていた。
「奈緒美ちゃん、来週からまたTVドラマ撮りの続きのお仕事なのよ。体調を心配してましたけれど、希世彦さんのお陰ですっかり回復したわね。希世彦さん、ありがとう」
珠実は希世彦に礼を言った。
希世彦がスイスに出かけている間に、沙希に一通の外国郵便が届き、続けて電信為替が届いた。ザンビアの浜田ことムジャビ・シラからだった。電信為替の金額は二十万ドルだった。沙希は義母の美鈴に見せた。
美鈴は浜田からの手紙を見て、
「どうしようもない奴だったけど、随分立派になったものねぇ」
と感心した。手紙によると、今では従業員五千五百名を数えるザンビア有数の農業・食品加工会社のトップとして多忙な日々を過ごしているらしい。二十万ドルは日本円で約二千万円弱だ。浜田がザンビアに行く時に美鈴が渡した一千万円のお返しだから受け取ってくれと書かれていた。浜田は元沙希の義父にあたる男だが女にだらしのないどうしようもない男だったのだ。けれども、こうして立派になった男の話を聞いて、沙希は娘の頃に義父の浜田から受けた恥辱の汚れが洗い流されたように感じていた。
末尾に、オデットとシモーヌと言う娘二人が年頃になり、日本で勉強をさせたいので、こんなことを頼めた義理ではないのは重々承知しているが、助けてもらえないだろうかと書いてあった。本人は片言だが日本語を話すことができると書き添えてあった。長男は既に米国に留学させていて、カリフォルニアのスタンフォード大学を卒業させて、将来弁護士にするのだとも書かれていた。
「沙希ちゃん、どうする? あたしは引き受けて差し上げてもいいと思うんだけど」
と美鈴が沙希の気持ちを聞いた。
「そうね、子供たちには責任はないのだから引き受けてあげましょうか」
一応沙希が同意したので、美鈴は浜田に返事を書いて投函した。
希世彦が帰国してから間もなく、しばらくぶりに父親の善雄が帰国した。善雄は長い間海外に滞在していたので本当に久しぶりだった。
帰国すると、善雄は岩井加奈子と言う女性の消息を調べてくれと頼んでおいた探偵を呼び出した。
百五十六 気まぐれな恋
米村善雄が岩井加奈子と言う女性の消息調査を頼んでおいた探偵は何の収穫もなく、手ぶらで訪ねて来た。
「社長、今回ばかりはお手上げですわ。なんたって手がかりを掴んだと思って出かけると全てその先でプッツリと情報が切れてますんや」
善雄はまたもや期待を裏切られてしまった。
長い間海外に出かけていても、毎日情報網でつながっているリアルタイムのテレビ会議で経営上必要な指示はしてきたから、日本に帰っても取り立てて多忙と言うわけではなかった。社長業として大事な決済は自分の代理の副社長に指示を出し代理決済をしてあるので、自分のデスクの上に決済待ちの書類が溜まっているようなことはなかった。
加奈子の消息調査が不発に終わってがっかりしている時、韓国の斗川グループ会長キム・ヘジンから電話が来た。
「米村さん、東京に戻られましたか?」
「ああ、昨日戻った所ですよ。お願いしてました案件はキムさんの所の取締役会を通ったそうで、お骨折りに感謝します」
「今日は個人的な話で電話をしたのですが、今お話して差し支えないですか」
「どうぞ」
「実は以前こちらに来られた時に息子さんにヒュンダイ・コンストラクションのパク会長の姪をご紹介したのを覚えておられますか」
「ああ、覚えていますよ。綺麗な可愛らしいお嬢さんでしたな」
「はい、はい、パク・ヨンヒさんですよ」
「ヨンヒさんが何か?」
「いえね、先日パク会長がヨンヒさんを連れてわたしの所にやってきましてね」
キム会長はそこで一呼吸おいた。
「ヨンヒさんが言うには、韓国に来る日本の男性は女の尻を追っかけるのが好きな助平な男が多いから日本の男は皆助平だと思っていたが、ご子息の希世彦さんに会ってみたら礼儀正しく、助平な所が全然なくて日本の男性のイメージを変えさせられたと言うんですな」
「それはまたどうも」
善雄は何の話だろうと次を促した。
「それで、彼女は希世彦さんに好感を持ちましてな、あれから二度ほど日本に遊びに行ってデートをしてもらったらしいんですよ」
「わたしは息子から全く何も聞いてませんな」
「米村さんは海外に出ておられたので報告する機会がなかったのと違いますか」
「そうかも知れませんな」
「ヨンヒさんは以前から日本が好きだったようですが、ご子息の希世彦さんにデートに付き合ってもらってから、ご子息をすっかり好きになってしまいましてな、希世彦さんと将来結婚を前提に正式にお付き合いさせて頂くように取り計らってもらえないだろうかとヨンヒさんのご両親からパク会長に頼まれたそうなんですわ」
「そんなことがあったんですか。しかしお付き合いとなると息子の気持ちを聞いて見ませんと私からはなんとも言えませんな」
「はい、はい、韓国と日本では子供に対する接し方が違うことは承知しています。一度ご子息の気持ちを聞いて頂いて近いうちに返事をもらえませんか? キム家とパク家は親密な関係ですから米村家との縁組はわたしも大歓迎です」
韓国、特に富裕層では子供は親が決めた結婚相手と結婚する場合が多いのだ。縁組については日本より家系や経済状態について相手方とのつりあいに重きを置かれている様子だった。善雄はパク会長がそんな条件も考えて縁談を進めて欲しいとキム会長に頼んだのだろうと思った。
善雄は息子の希世彦が最近モデルのアオハとお付き合いしているのを全く知らなかった。
家に帰って沙希と美鈴にパク会長の申し出の話をした。
「僕としては良い縁談だと思うがどうだろう」
二人が喜んで同意してくれると思っていたが、話を終わると二人とも眉を寄せて困った顔をした。
「この縁談、何か困ることでもあるのか?」
「希世彦さんは最近アオハと言うモデルさんとお付き合いしているようですよ。彼女に善太郎おじいさまが会って、おじいさまは人柄はとても良いと言ってたわよ」
と美鈴が言った。
「そうか、それじゃ一度希世彦の気持ちを聞いてみなくちゃならんなぁ」
横で妹の沙里が聞いていた。
「お父様、アオハさんはとても素的よ。あたしもグッドなカップルだと思ってるの」
と沙里が口を挟んだ。
希世彦は大学からの帰りが遅くなると沙希に話をして出たので、後日改めてと言うことになった。善雄は自分に今まで一言も報告のない希世彦とアオハとか言う女性の間はもしかして気紛れな恋かも知れないと思っていた。と言うよりも、縁談話しが持ち込まれた時、韓国の斗川グループ会長キム・ヘジンは米村グループにとって重要な取引相手なので、出来れば希世彦とヨンヒの縁談を進めたいと思ったのだ。
自分に関わる縁談話があるなんて全く知らない希世彦はアオハに電話して三回目のデートの約束をした。
「今度の土日、デートの時間作れる?」
「あたし、あなたとのデートなら、時間なくても時間作るわ」
「僕、奈緒美さんのこと、もう少し知りたいんだ。僕のこともあまり話してないし」
「そうね。お付き合いを始めてまだ日が浅いから。これからはあたしもあなたのことを知りたいな」
「奈緒美さん、子供の頃の写真、いっぱいある?」
「写真? 殆どないなぁ」
そう言われて見ると、奈緒美は自分の幼少の頃の写真が殆どないのに気付いた。今までそんなこと全然考えたことはなかったのだ。
「何か一枚あればいいよ。僕もとっておきの一枚を選んでおくよ。今度のデートの時見せっこしようよ。アルバムの方がいいけど、重いから写真一枚でいいよね」
「はい」
百五十七 三回目のデート
その日土曜日と翌日の日曜日は希世彦と三回目のデートの約束だ。アオハは朝からウキウキした気持ちで落ち着かなかった。待ち合わせ場所は最初と二回目と同じ六本木ミッドタウン、ガーデンテラス二階のキュイジーヌ フランセーズ JJに十一時にした。だからまだ二時間もあるのに、見せっこをする写真が決まらない。中学と高校の頃の卒業アルバムとか少しは写真は持っていたが気に入ったのがないのだ。
「困ったなぁ」
アオハは少しあせって持っているアルバムや未整理の写真を次々に見ていた。それで高校に入学した時、仲良しの友達向井悦子と二人で撮った写真にしようと決めた。悦子の可愛らしい笑顔が良く撮れていた。
「よしっ、これにしよ」
アオハは淡いピンクの封筒に写真を入れていつも使っているトートバッグに封筒を落とし込んだ。時計は十時を指していた。マンションから十五分もあれば行けるので少し余裕が出た。
「お義母さん、そろそろ行ってきます」
「あら、今日だったわね。気を付けて行っていらっしゃい。今夜は帰って来ないのね?」
「はい。一応お泊りのつもり」
珠実はアオハの気持ちがすっかり穏やかになり、仕事もなんとかこなしている様子なので、アオハの精神面で、希世彦とのデートは大切だと思っていた。
いよいよ出かける間際に、アオハは何気なく机の上を見た。隅の方に写真立てがいつも置いてあって、そこに子供の頃、父の都筑庄平と弟の庄司と三人で撮った写真があった。ディズニーランドに親子四人揃って行った時、母の加奈子がデジカメで撮ってくれたやつだ。
「あたしってバカねぇ。とっておきの写真はこれよ。これ。何で気付かなかったんだろ。時間を損しちゃったな」
アオハは写真立てから写真を抜き取ると、さっきのピンクの封筒を取り出して、悦子との写真と一緒にして持った。
「お義母さん、行ってきます」
「気を付けてね」
バタンとドアを閉めるとアオハは家を飛び出した。なんだかワクワクして歩く足も軽快だ。
その日、希世彦は寝坊をしてしまった。目が覚めると九時少し前だ。昨夜遅くまで本を読んでいて八時に起きるつもりだったのに失敗した。待ち合わせ場所までは一時間はかかる。シャワーを止めようか迷ったが、急いで風呂場に駆け込んで手短にシャワーを使った。
朝食は母の沙希が仕度してテーブルに並べてあった。
「お兄ちゃん、今日彼女とデートでしょ? 何あせってるのよ」
早速妹の沙里の悪戯っぽい目に冷やかされた。
「寝坊しちゃって時間がないんだ」
希世彦は朝食をガツガツとかきこんで、慌てて自分の部屋に戻った。先週母に頼んで今日と明日の二日間母の車を貸してもらう約束になっていた。
「いけねぇっ、写真忘れるとこだったな」
希世彦は今日持って行く予定にしている葉山マリーナで子供の頃父の善雄とツーショットで撮った写真を持った。日焼けした父に肩を抱かれて嬉しそうな顔で写っている自分、ちょっと恥ずかしいが自分としては気に入っている写真だった。
希世彦は小型船舶操縦士海技免状を持っていた。これがないとクルーザーを操船できない。米村工機では客の接待用に40フィート(約12m)の小型ではやや大きめのクルーザーを所有していた。その日は勿論父の許可をもらっていた。
キュイジーヌ フランセーズに時間ギリギリに着いた。アオハは既に待っていてコーヒーを飲みながらファッション誌を見ていた。希世彦に、
「暖かくしてGパンで来てよ」
と言われていたので、Gパンで上はブラウスの上にGジャンを着ていた。シンプルな格好だが、首に巻いた薄手のシルクのスカーフがかえって目立った。
「待たせてゴメン。珍しく寝坊しちゃった」
「緊張が足りないっ!」
アオハは希世彦をからかった。
「こらっ、アオハさんの前では緊張なんてしないよ」
希世彦もやり返した。
お昼を早めに済ませて、二人は首都高速に上がって葉山を目指して車を急がせた。
お天気の良い日で、葉山マリーナからクルーザーで海に出るととても気持ちが良かった。
三浦半島を海岸からあまり離れない航路をとると、油壺から城ヶ島までは船から見る海岸線が綺麗だ。城ヶ島を過ぎるとどんどんと半島から遠ざかり、やがて房総半島の洲崎が見えてくる。アオハは事前に船酔いし難いと聞いていたが、洲崎を過ぎたあたりから波高が高くなって少し酔って来た様子だった。
「戻ろう」
希世彦の声に、アオハは元気のない顔で頷いた。希世彦はクルーザーをUターンさせて、相模湾の方に戻した。油壺の横を通るあたりから波が穏やかになって、アオハの元気が戻ってきた。希世彦は葉山の長者ヶ崎の沖合いに船を停めて、アオハと二人でデッキで仰向けになった。浦賀水道の方は東京湾に出入りする貨物船などの船舶の往来が多いが、ここは釣り船や漁船が時々近くを通り過ぎるだけで静かだった。突然希世彦がアオハの上にかぶさって、アオハは唇を奪われた。アオハにとってはファーストキスと同じ位に幸せを感じさせられた。
「写真、持ってきた?」
希世彦の問いにアオハはバッグからピンクの封筒を取り出した。
「僕のはこれだ」
希世彦は胸ポケットから一枚の写真を取り出した。最初にアオハが出した写真は友達の悦子と撮った写真だった。
「これ高校生?」
「はい。入学した時の頃」
「アオハって結構大人っぽいね。お友達、可愛い人だね」
「希世彦さんのは?」
希世彦は、
「ジャーンッ」
と言ってアオハに写真を渡した。
アオハの顔色が変った。その横顔を見て、
「なんかおかしい?」
と希世彦が聞くと、
「この日焼けした方、お父様?」
と尋ねた。
「そうだよ。僕は中学生位かな?」
「お父様、あたしのパパとそっくり」
「えっ? ほんとにぃ?」
するとアオハがもう一枚写真を取り出した。
「似てるなぁ。そっくりさんだ」
希世彦も気が動転した。
クルーザーをマリーナに戻すと午後五時近くになっていた。すると、突然希世彦の携帯が鳴った。洋上では電波が届かなかったらしい。
父の善雄からだった。
「まだ海の上か?」
「今マリーナに戻りました」
「道理で携帯がつながらないわけだ。今いいのか?」
「はい」
「実はな、韓国のパク会長が姪のヨンヒさんと日本に来ているらしいんだ」
「……」
「聞こえてるのか?」
「はい」
「明日の夕方食事をする約束になった。おまえ、都合はどうだ?」
「僕も付き合わないとダメですか」
「ああ、ヨンヒさんを京都にお連れしたらしいな」
「はい」
「そのお礼も言いたいそうで、是非同席して欲しいそうだ」
希世彦は明日の夕食はアオハととりたいと思っていたがダメになった。仕方が無い。それで、
「明日の昼過ぎに家に戻ります」
と返事した。
百五十八 静かな夜
葉山マリーナでクルージングを楽しんだ夜、希世彦は葉山ホテル音羽ノ森にツインルームを予約していた。白を基調とした室内は明るく清楚で、オーシャンビューの客室からは湘南の海が見渡せる素的なホテルだ。予算は二食付き、二人で七万円位だったが、内容に見合ったリーズナブルな値段だと希世彦は思っていた。このホテルを希世彦は何回か利用したことがあったが、南フランスのコートダジュールを思わせる雰囲気があって、また来てみたいと思う良いホテルだった。夕食も南仏料理だ。
ホテルにアオハを案内すると、
「あらぁ、素的ぃっ!」
と喜んだ。夕食を終わってから、明かりを消して、部屋に繋がっているバルコニーに出て、二人で並んで遠くの海を眺めていた。月明かりで、ゆっくりと起伏する春の海の水面が、室内に静かに流れるBGMの調べと上手い具合に調和してアオハの心を癒した。アオハはうっとりとして時の流れに身を任せていた。
希世彦はアオハの背後に移って、アオハの後からウエストに腕を回して抱き込んだ。アオハは希世彦に抱かれるままにじっとしていた。背中に希世彦の身体の温もりを感じて、お腹に希世彦の手を感じて、アオハは幸せを感じていた。
二人は一時間もそうして海を見ていた。耳元で、
「寒くなったから部屋に入ろうか」
と希世彦が囁き、アオハは頷いた。バルコニーに出る扉を閉めると、潮騒の音が消えて静かになった。二人はそのままベッドに倒れこんで唇を重ねた。アオハは希世彦の背中を抱きしめて、二人はそのまま抱き合っていた。
「このまま時計の針が止まっててくれればいいのに」
アオハはそんな風に思った。
マリーナのシャワールームで、身体に沁み込んだ潮を洗い流してきたので、希世彦はシャワーを使わずそのまま眠ってしまおうと思った。それで、アオハを抱き上げると、隣のベッドにアオハを横たえて、
「僕、寝るよ。おやすみ」
と言って自分のベッドに潜り込んだ。アオハは今夜は希世彦に愛撫してもらいたいと思っていたが、希世彦に隣のベッドに移されて、ちょっとがっかりした気持ちになった。
しばらくすると、希世彦の軽い寝息が聞こえた。希世彦は眠ってしまったようだ。アオハは今日希世彦に見せてもらった写真の中の父親と自分のパパとの姿を思い出していた。写真を見る限り別人とは思えない位似ていた。ふと、
「希世彦さんのお父様と自分のパパと同一人物かなぁ」
と言う思いが脳裏をよぎったが、
「そんなこと、あるはずがない」
と打ち消した。過ぎた日々を思い出しているうちに、アオハもいつの間にか夢路を辿っていた。
このホテルでは朝食を部屋に運んでくれる。電話が鳴って、
「朝食をお持ちしていいですか」
とフロントから問い合わせがあって、アオハは完全に目が覚めた。
青空の下に広がる海原を眺めながら食べた、バルコニーのテーブルに運ばれてきた朝食はとても美味しかった。夕べ良く眠ったせいか、希世彦は清々しい顔をしていた。
「疲れた?」
「いいえ。こんな素的なデート、これからも誘って欲しいな」
アオハの口からこぼれ出た言葉はアオハの気持ちを素直に表していた。
「帰りは逗葉道路から横横(横浜横須賀道路)を通って東名高速に出よう」
希世彦は少し早めに家に戻らなくてはならないので、東名高速を経由して東京に戻ってきた。
百五十九 縁談話
アオハを六本木のマンションに送ってから、希世彦が自宅に戻った時は午後三時を過ぎていた。今日は夕方韓国から来ているヒュンダイ・コンストラクション会長パク・ジフンと姪のパク・ヨンヒとの会食につき合わさせられる予定になっていた。家に戻ると父の善雄に帰宅の挨拶をした。
「今夜の予定だが、日本橋織音に個室を予約しておいたよ」
「織音と言うと、八重洲の織音ですか?」
「そうだ。あそこなら落ち着いて話ができるだろう」
「はい。和風でしっとりとした所でいいと思います」
「パレスホテルに泊まっているそうだから、六時にロビーに迎えに行く約束だ。会社の車を回すように言ってあるから、希世彦が迎えに行ってご案内して差し上げてくれ。父さんは直接織音に行って待たせてもらうよ」
「分りました」
六時に希世彦がパレスホテルのロビーに行くと、パク会長は既に待っていてくれた。ヨンヒが希世彦を見つけると小走りにやってきた。
「希世彦さんとまた会っちゃったな。嬉しいっ。今夜はご馳走して下さるんでしょ?」
「会長は?」
「あちらです」
そう言ってヨンヒは希世彦をパク会長の所に連れて行った。
「会長、ご無沙汰しております」
「希世彦さんだったね?」
「はい。父は先に行ってお待ちしております。玄関に車を待たせてありますのでどうぞ」
希世彦は二人をホテルの玄関に案内して車を呼んだ。
「どうぞ」
会長とヨンヒを後部座席に乗せると希世彦は助手席に乗って直ぐ車を出させた。織音は東京駅の近くだが道路が混んでいて織音に着いた時は七時少し前になっていた。
父善雄の挨拶が終わると、会席料理が運ばれてきた。四人は食事をしながら、雑談して後、パク会長と父の善雄は経済動向の話をしていた。ヨンヒは興味なさそうにしていたので、ヨンヒの相手は希世彦がした。
ヨンヒはダナ・キャランの新作の袖なしワンピの上に薄手の素的なジャケをさりげなく羽織り、相変わらずジュエリーをチャラチャラさせていた。京都にプチ旅行に連れて行った時、希世彦はヨンヒのドレスアップについて聞いてみた。ヨンヒは、
「韓国のデパートでは、欧米並みのパーソナル・ショッパーが居るのよ」
「パーソナル・ショッパーってどんな人?」
「PS(パーソナルショッパー)は高級デパートとか専門店に常駐していて、お店に来たお客様に付き添いながらお客様のライフスタイルを演出したり、お客様の暮らしのアドバイスなんかもする人よ」
「もちろんお金持ちのお客様に対してだろ?」
「そうよ。彼女たちはどのお客様の担当か、ちゃんと決まっていて、例えばあたしの担当のPSさんは、あたしの趣味を覚えていて、あたしのサイズとか好みなどをちゃんと頭に入れているの。ですから、何かこんな物を欲しいと頼むとあたしの好みの物を探して勧めてくれるのよ。欲しいものがお店になかったら購入代行なんかもしてくれるの」
「洋服だけ?」
「いいえ。上から下まで全部よ」
「インナーも?」
「そうよ。アクセとか靴や帽子もよ」
だから今日のダナ・キャランは東京に行くからとPSに頼んで揃えてもらったのだろうと希世彦は思った。かなり贅沢な生活スタイルだ。
ヨンヒのライフスタイルを思い出しながら、希世彦はヨンヒの話の相手をしていた。正直、ヨンヒのお付き合いをしていると疲れるなぁと希世彦は感じていた。
父の善雄との経済動向の話しが終わると、
「そうそう、今日ヨンヒを連れて来たのは、電話でお伝えした通り、ヨンヒがすっかり希世彦さんのファンになりましてな、どうでしょう希世彦さんにヨンヒと結婚を前提にお付き合いさせて頂けないだろうかと思うのですが、米村さんのお考えはどうでしょう?」
とパク会長は切り出した。
「希世彦、お前はどうなんだ?」
父は希世彦に話を振った。
希世彦はどう返事をすべきか迷ったが、
「ヨンヒさん、一つか二つ質問をさせてもらってもいいですか?」
とヨンヒに聞いた。
「どうぞ、どんなことかしら」
ヨンヒは怪訝な顔で希世彦を見た。
「洗濯とか部屋の掃除はご自分で全部なさるのですか」
この問いにヨンヒは困った顔をした。
「希世彦、失礼なことを聞くんじゃないよ」
と父の善雄が希世彦をたしなめた。
「いや、大事なことですから、気になさらんで」
とパク会長が善雄を遮って、
「ヨンヒ、正直にお答えしなさい」
とヨンヒを見た。
「お洗濯や掃除は全部家政婦がやりますから、あたしはしません。あたしは嫌いではないですが、オマン(母)が家政婦がすることはしてはダメって言いますので。希世彦さんの所も家事は全部家政婦かお手伝いにさせているのでしょ?」
と答えた。
「……」
希世彦は黙っていた。その代わりに、
「ご飯も家政婦さんが炊くのですか」
と聞いた。
「もちろんです」
「ヨンヒさんはご飯を炊けますか」
ヨンヒは顔を赤くした。
「あたし、炊けません」
その会話を聞いていた父は、
「そんな些細なことは簡単に覚えられるだろ?」
と希世彦を見た。
「……」
希世彦は黙っていた。
「韓国と日本ではしきたりの違いもあるでしょう。ヨンヒは郷に入れば郷に従う気持ちでいますから、お付き合いをさせて頂いている間に日本の家庭のことを色々教えてやって下さい」
とパク会長が口添えした。結局二人ともまだ学生だから直ぐに結婚をするわけでもないので、これからもヨンヒさんが日本に来られた時や、希世彦が韓国に行った時にお付き合いを重ねてお互いに理解を深めるようにと言う話でまとまってしまった。
百六十 わがまま
日本橋織音で会食が終わると、希世彦はこれで解放されると思っていた。このまま父親と家に戻るんじゃ、疲れだけが残ってしまう。それで、夜遅いがアオハを呼び出してワインでも飲んでゆっくりした時間を楽しみたいと思っていた。
「希世彦、僕はパクさんとこれからクラブ、ラ・フォセットへ行くから、お前はヨンヒさんをホテルまでお送りして帰っていいよ」
父の善雄がヨンヒを送るように言った。善雄は携帯で妻の沙希に電話をした。
「これからパク会長と一緒に柳川さんの所に行くんだ。あんたにパクさんを紹介しておきたいから、遅いがこれからラ・フォセットに来てくれんか?」
「希世彦ちゃんも一緒?」
「いや、希世彦はヨンヒさんを送ってから家に帰れと言っておいた」
「そうですか。分りました」
沙希は勿論OKをした。仕度をしてから義母の美鈴に断って家を出た。
少し遅れて、沙希はラ・フォセットにやってきた。クラブに着くと直ぐに社長の柳川に挨拶した。
「お義父さま、ご無沙汰しております」
「ここのとこ静かだねぇ。変りはないのかい」
「はい。お陰さまで。希世彦の事件もすっかり片付きまして、今は平和です」
「そうかい。あの時一緒だったモデルのアオハさんだが」
「はい。アオハさんが何か?」
「いやね、うちの溝口から詳しく聞いたんだが、なかなか良い子だそうだね。聞いた話じゃ、希世彦君と付き合ってるそうじゃないか」
「はい。希世彦は好きらしいです」
「そうか。可愛い孫の相手だ。一度オレにも会わせてくれよ」
「分りました。近々お邪魔させて頂きます」
柳川と一緒に、沙希は店に出た。雰囲気は昔と変らずしっとりとして品が良かった。ホステスの顔は若返っていたが、大人しそうな子が揃っていた。今は吉崎琉璃と言う三十前後の女性がママをしていた。勿論大先輩の沙希のことは良く知っていて、沙希が柳川と店に顔を出すと直ぐに気付いて丁寧な挨拶をした。
「米村様、大変ご無沙汰しております」
「挨拶はいいのよ。ここはわたしの古巣ですからね」
と沙希は微笑を返した。
「パクさん、家内です」
「おお、おお、米村さんの奥方に会えて光栄です」
パク会長は愛想が良かった。
「柳川さん、こちらが韓国のヒュンダイ・コンストラクションのパク会長です。韓国の建設業界では力のある方なので、今後何かの時に力になってもらえると思います」
善雄はパクと柳川を引き合わせた。
「韓国のことなら困った時には遠慮なく連絡を下さい」
父の善雄が六本木へ向かった後、希世彦はタクシーを拾ってヨンヒをパレスホテルまで送って行った。
「今夜はお疲れ様。どうぞごゆっくりお休み下さい」
そう言ってホテルを出ようとすると、いきなりヨンヒに腕を掴まれた。
「希世彦さん、意地悪。このまま帰るなんてダメよ」
ヨンヒは色っぽい目で希世彦を見た。
希世彦は先ほどアオハに電話して、
「前に茉莉さんと一緒に行ったリッツカールトン四十五階のレーベルと言うワインバーで待っていてくれないか?」
と連絡を入れてアオハに先に行って待つように頼んだのだ。だから、ヨンヒに引き止められて困ったなぁと思っていた。
「希世彦さん、今夜あたしと付き合って下さい。このまま帰さないわよ」
どうやら日本橋織音で飲んで少し酔いが回っているらしい。
「困ったなぁ。大学の宿題があるんだ。明日までに仕上げなくちゃならないから帰らせてくれないかなぁ」
希世彦はウソをついた。
「うぅん、ダメったらダメよ。あたし、希世彦さんともっと仲良くなりたいの」
ヨンヒの女っぽい媚びるような目をさすがの希世彦も持て余した。
希世彦はいくらなんでもパレスホテルのヨンヒの部屋に行く元気はなかった。仕方なくヨンヒを連れ出してタクシーで銀座に向かった。昔は夜遅くまでやっている店が多かったそうだが、風営法が変り、今では夜中までやっている店は少ない。まして日曜、祭日となると殆どの店は休みだ。希世彦はたまに行くオーセンティックバーにヨンヒを連れて行った。ヨンヒは更にカクテルを何杯か飲んで、希世彦の腕に絡まってしなだれかかってきた。ヨンヒのふくよかなバストの感触を感じながら、希世彦は妹の沙里に助けを求めた。
「済まないけど、銀座七丁目の海東ビル地下一階のバー、リソンスエフ・フロム・日比谷バーって店に迎えに来てくれんかなぁ。頼む。借りは必ず返すから」
「お兄ちゃん、この貸しは高いよ」
と沙里は笑った。
沙里に迎えに来てもらって、ヨンヒをホテルの部屋に入れると、
「沙里、すまん。アオハさんを待たせてあるんだ」
と六本木に回って下ろしてもらった。
希世彦は珍しく走った。リッツカールトンへのエレベーターの押しボタンを押すと、早く降りて来いとあせった。エレベーターが着くと四十五階のボタンを押した。扉が閉まり、エレベーターは上に動き出した。希世彦は額にじっとり汗をかいていた。
アオハは独り、レーベルと言うワインバーで希世彦を待っていた。もう一時間もだ。するとソムリエがやってきて、
「お客様、そろそろ閉店でございます」
と告げた。仕方なく支払いを済ますとアオハはエレベーターに乗った。アオハの乗ったエレベーターが下っている時、希世彦が乗ったエレベーターは上に向かっていた。
百六十一 とまどい
「なんで思うように行かないんだろ?」
アオハに肘鉄を食らった希世彦は脇腹を押さえながら、小走りに逃げるように立ち去っていくアオハの後姿を恨めしそうに見つめていた。
ワインバー、レーベルに息を切らして走りこんだ希世彦を顔見知りのソムリエが済まなそうな顔で見た。
「今日は終わりなんですよ。もしかして女性とお待ち合わせでしたか」
「はい。来ませんでした?」
「いえいえ、一時間以上もお待ちになられて、先ほど帰られました」
希世彦はソムリエに礼を言うと急いでエレベーターに乗ってアオハの後を追った。
希世彦は携帯の電源を切っていた。電源を入れると、未読のメールが三通アップロードされた。いずれも奈緒美からだった。約二十分おきにメールをしたようだった。最初の二通は[待ってます♡]だったが、最後の一通は[ずっとお待ちしてましたがいらっしゃらないようなので帰ります。おやすみなさい]だった。
希世彦はアオハに電話をしたが、今度はアオハの携帯の電源が切られていてつながらなかった。
「クソッ!」
思わず希世彦は悪態を付いた。
アオハのマンションまでは十五分位だ。もう遅いから、多分アオハはマンションに向かって歩いているだろうと思って後を追った。
マンションまで数百メートルの所で、とぼとぼと歩いているアオハの後姿を確認した。希世彦は追いついて小さな声で、
「ゴメン」
と言うなり、アオハの後から抱きついた。
抱き付いた瞬間、アオハの肘鉄が希世彦の脇腹にヒットした。相手が女性でも、突然肘で思い切り脇腹に一発食わされたらたまったものじゃない。希世彦は、
「うううっ、いてぇ」
とその場に跪いた。アオハが痴漢と間違えたのか、希世彦だと分っていていきなり肘鉄をくらわしたのかは分らない。アオハは逃げるようにその場から立ち去り、後ろを振り向かなかった。
希世彦はこんな時どうしたらいいのか分からずにただただ戸惑うばかりだった。
タクシーで家に戻っても希世彦は落ち着かなかった。それで、アオハの義母の珠実に電話をした。寝ぼけた声で、
「はい」
と返事があったが、
「希世彦です。夜分に済みません」
と言うと珠実の声が変わり、改まった言葉になった。希世彦はヨンヒのことには触れずに、仕事で時間が延びてアオハさんに大変失礼なことをしてしまった。電話がつながらないので、お義母さまの方から僕がお詫びを言っていたと伝えてくれないかと頼んだ。
いつもは寝る時間になると決まってアオハから、
「お声を聞きたいから」
と電話が来るのにその夜は来なかった。それで希世彦は疲れてそのまま寝てしまった。
翌日もアオハからは何も連絡がなかった。どうやら完全にすねてしまったのだろうと希世彦は思っていた。
所が、寝坊をして、遅い朝食を食べていると、ヨンヒから電話がかかった。
「明日韓国に戻ります。今日一日空いてますので希世彦さん、付き合ってくれない?」
希世彦は学校に行く予定をしていた。だから気が進まなかったが、仕方ない、午後デートの約束をしてしまった。
「ドライブでもいい?」
希世彦が聞くと、
「あたし、希世彦さんと一緒に居るなら何でもいい」
との返事だ。それで、軽井沢の別荘に連れて行く約束をした。母の沙希は昨夜のパク会長との話を聞いていた。それで、
「母さんの車を使っていいわよ」
と車を空けてやると言った。沙希は、
「希世彦ちゃん、あなたアオハさんとお付き合いしてるのでしょ?」
と聞きただした。
「ん」
「だったらヨンヒさんとのお付き合いはあまり深入りしない方がいいわよ」
と釘をさした。希世彦は分っていたが積極的なヨンヒにかなり引き摺られていた。
ヨンヒと二人で関越高速道を走っている時、アオハから電話が来た。だが、希世彦は電話を取らずに切ってしまった。男女関係に敏感なヨンヒに何やかやと聞かれるのが億劫だったからだ。
軽井沢に着くとヨンヒを、
「馬に乗らないか?」
と誘った。
「いいわよ」
ヨンヒは乗馬が得意だ。それで直ぐにOKした。希世彦は別荘に住み込みの管理人に沙里の乗馬服一式を出してくれと頼んだ。
クリーニングをして綺麗に畳んだ服とブーツや帽子など一式を出してくれた。ブーツは少し小さい様子だったが、ヨンヒは何とか履いて、
「これくらいならOKよ」
と言った。浅間クレールライディングサークルにビジターフリーコースを予約した。ここのクラブは牧草地を自由に走れるので気持ちが良いのだ。乗馬ズボンやジャケなどは全てサイズが合っていた。試着が済むと、自分のとヨンヒの分とを車のトランクに入れて、別荘を出た。
クラブに着いて、乗馬服を着ると、ヨンヒはなかなか様になっていた。練習コースで足慣らしをすると、ヨンヒは思ったより上手で、直ぐに外に出られた。二人は風を切って牧草地を走った。気持ちが良くてヨンヒもご機嫌だった。
二人が牧草地を抜けて潅木の林の中の小道に入ろうとした時、希世彦の前を馬を進めていたヨンヒの乗った馬の直前を林の中から突然猪が飛び出した。ヨンヒが乗った馬は驚いて棒立ちになり、こらえきれずにヨンヒが落馬した。ヨンヒは小道の脇の雑草の上にドスンと落ちて動かなかった。
百六十二 ヨンヒの怪我
その光景を、希世彦ははっきりと見ていた。ヨンヒは棒立ちになった馬の鞍にしがみついたが、こらえきれずに馬の背中を滑るように落ちて、道路脇の叢に尻からドスンと落ちた。そのまま仰向けになって、しばらく動けない様子だった。
猪が走り去って、馬は元のようになって、その場で止まっていた。希世彦は直ぐに携帯でクラブハウスに連絡して救助を求めた。間もなく管理人と医師が四駆の軽自動車に乗ってやってきた。
「腰を強く打ったようだな。直ぐに救急車で病院に運ぼう」
医師がそう言うと救急車の手配をしてくれた。
ヨンヒは中軽井沢近くの軽井沢病院に運び込まれた。希世彦はヨンヒの落馬事故を母の沙希に知らせ、パク会長とも連絡を取って欲しいと頼んだ。
軽井沢の別荘はにわかに賑やかになった。父の善雄がパク会長とやってきて、ややあって祖母の美鈴、沙希、妹の沙里の三人がやってきた。希世彦はずっと病院にいた。
精密検査の結果、骨折などはなく、特に異常はなかったが、腰を強く打撲しているので、一週間程度入院して安静するよう指示があった。今は背骨などの断面写真を撮影するので、医師は細かい部分まで診察できるようだ。
ヨンヒの容態について医師の説明を聞いた父とパク会長は心配はなさそうだと分って、その日の内に東京に帰った。祖母と母と妹は別荘に一泊して明日帰ると言った。結局希世彦だけ軽井沢に残り、ヨンヒが退院するまで看病するはめになってしまった。
精密検査が終わる頃にはヨンヒはすっかり元気を取り戻し、希世彦に迷惑をかけて済まないと何回も謝った。だが、入院中希世彦がずっと看病してくれると聞いて、ヨンヒは喜んだ。
アオハから何度か電話があったが、希世彦は出なかった。ヨンヒの突然の事故で、正直アオハと話をする余裕がなかったのだ。と言うより、アオハと話をすれば、今何故軽井沢に居るのかとか、ヨンヒの事故で一週間は東京に戻れないなど色々話をしないわけにはいかないのだ。希世彦はアオハに誤解される元になるような話をしたくなかったのだ。
入院してから三日が過ぎると、病院の敷地を散歩しても良いと医師の許しが出た。お天気の良い時はヨンヒを車椅子に座らせて希世彦は病院の庭を押して歩いた。車椅子に乗る時、車椅子からベッドに移す時、希世彦はヨンヒを抱きかかえたが、ヨンヒはそれを喜び、必ず腕を希世彦の首に巻きつけて嬉しそうな顔をした。希世彦はとまどったが、こうなっては仕方が無い、割り切ってヨンヒに優しくした。
一週間は瞬く間に過ぎて、退院の日が来た。ヨンヒはもう普通に自分でベッドを降りて歩けるようになっていた。
退院して、その日の内に東京へは帰らずに、一晩別荘で過ごすことにした。もちろん希世彦の部屋とヨンヒの部屋は別々だ。夕食は外のレストランで済ませた。別荘には温泉が引いてあり、二十四時間いつでも入浴できた。ヨンヒと希世彦の他は住み込みの管理人老夫妻が居るだけで静かだった。
希世彦がのんびりと温泉に浸かっていると、静かに扉を開ける音がして、ヨンヒが入ってきた。
「しまった。鍵をかけておけばよかった」
と希世彦が思っても後のまつり、
「希世彦さんと温泉、一緒に入りたい」
とヨンヒの甘ったれる声がした。
「ヨンヒさん、困るよ」
希世彦はヨンヒの綺麗な姿態を見たいと言う欲望をしっかりと押さえ込んで、ヨンヒの方を見ないようにした。
ヨンヒはざっと身体を流してから、ほっそりした綺麗な脚を希世彦の横に入れて、そのまま希世彦の隣に座って湯に浸かった。希世彦は、
「参ったなぁ」
と呟くと同時にヨンヒの身体が希世彦に押し付けられた。絶対絶命とはこのことだ。希世彦は、
「ヨンヒさんごめんね」
と言うなりざばっと湯船を飛び出し、バスタオルを巻いて急いで更衣室に脱いだ下着を取ると自分の部屋に走りこんだ。
百六十三 自己嫌悪
「もう、あたしって。どうしよう?」
軽井沢の別荘の温泉のお風呂で、図らずも希世彦に逃げられてしまったヨンヒは自己嫌悪に陥ってしまっていた。
自分の国、韓国では結婚するまで異性の相手に手も握らせない女性が多いがヨンヒはやや開放的であった。けれど、希世彦と一緒にお風呂に入りたいなんてことは希世彦に逃げられた後で考えてみると、自分でも信じられない浅はかで軽率な行為だった。もしも、希世彦が抱きしめてくれていたら、あるいはそんな気持ちにはならなかったに違いない。
「もう、希世彦さんの顔を平常心では見ることができないなぁ」
考えれば考えるほど、ヨンヒは恥ずかしさに、これから先、どうすればいいのか自分でも分からなくなっていた。
「参ったなぁ。ヨンヒにどんな風に謝ればいいのか、分からないなぁ」
自分の部屋に逃げ帰った希世彦もすっかり落ち込んでしまった。
希世彦は正直なとこ、今はアオハを愛してしまったから、ヨンヒとは友達の関係以上には踏み込めないと思っていた。それなのに突然のヨンヒの行動にすっかり戸惑っていたのだ。
物音で、ヨンヒがしばらくして風呂から出て来た気配は感じていた。だが、気まずくて、希世彦はヨンヒに声さえ掛けられないでいたのだ。
「どっちにしても、ヨンヒを東京まで連れて帰らなければならないしなぁ」
途方に暮れるとはこのことだ。
ヨンヒの携帯にメールの着信音が鳴った。希世彦からだった。同じ屋根の下に居るのに、顔を合わすのは気まずいので仕方が無いと希世彦はヨンヒにメールを送った。こんな時はメールに救われる。
「ヨンヒさん、ゴメン。明朝東京に戻ります。朝、車に乗って下さい」
それだけしか書いてなかった。ヨンヒはどう返信するか迷った。考えた末、
「恥ずかしいよ。でも車に乗せて下さい」
そう返信した。
希世彦は管理人の老夫人に、
「明日の朝食は別々に頂きます。ヨンヒさんの部屋に朝食を運んで下さい」
と頼んだ。婦人は怪訝な顔をしたが、
「分りました。希世彦坊ちゃまもお部屋に運んでいいですか」
と言うので、
「いいよ。ヨンヒさんとは別に僕の部屋にお願いします」
と頼んだ。
翌朝、食事が終わって、車のエンジンをかけて待っていると、ヨンヒが俯き加減にやってきた。管理人夫婦が見送りに出て来た。
「坊ちゃま、お気を付けてね」
夫人はヨンヒには声をかけようかかけまいか迷っている様子だったが、結局ヨンヒに向かって微笑んで手を振った。ヨンヒは助手席の窓を開けて軽く会釈してから手を振った。その素振りは恥じらいの中の少女のようでとても可愛らしかった。
管理人が門を開けると、車は走り去った。夫人は、
「あの二人、何かあったのかしらねぇ」
と旦那に話しかけた。旦那は黙っていた。
関越道の鶴ヶ島ジャンクションを過ぎた所で、ヨンヒがようやく話しかけた。
「希世彦さん、怒ってる? 怒っているんでしょ?」
ヨンヒは恥ずかしそうに顔を真っ赤にしていた。
「怒ってはいないけど、突然だったからすごく驚いた」
「あたしのこと、嫌いになった?」
「まだ結婚の約束もしてないから、これからは絶対にあんなことをしないで下さい」
「希世彦さん、ごめんね。あたし、希世彦さんをすごく好きだから」
ヨンヒは大粒の涙を拭かずに、話し終わると潤んだ目で希世彦を見つめた。
希世彦は黙っていた。それ以上話をすると、話しがややこしくなるような気がしたからだ。
東京に戻ると、希世彦はヨンヒをパレスホテルに送り届けて、そのまま自宅に戻った。ヨンヒと分かれる時、一言も声をかけなかった。ヨンヒにしてみれば、希世彦が無口だったのがすごく厳しかった。こんな場合、何でもいいから一言声をかけて欲しいと思った。
希世彦は家に戻ってヨンヒがすっかり回復したので、本人をパレスホテルに送り届けてきたと母の沙希に報告した。だが、風呂の一件は何も話をしなかった。
ヨンヒは翌日羽田からソウルの金浦空港へ向けて飛び立った。希世彦には何も連絡をしなかった。連絡をすれば、希世彦のことだから必ず見送りに来るだろう。だが、ヨンヒは希世彦と顔を合わせたくなかったのだ。
百六十四 四回目のデート
この十日間くらいの間、アオハは何度も希世彦の携帯に電話をしたり、メールを送ったが、電話を取ってもらえず、メールも無視されてきた。アオハは希世彦に嫌われる理由を考えてみたが、先日ワインバーで待ちぼうけをくわされてどうやらそれ以来希世彦との間がギクシャクしてしまったのだと思わざるを得なかった。あれ以来希世彦から何の言い訳もなく、そのままになっていた。そんなことが重なると、不思議なもので希世彦をすごく恋しくなるのだ。それで、思い詰めて仕事の合間に、思い切って茉莉に聞いてみた。運良く茉莉の携帯につながった。
「希世彦さんの様子? 特に変わったことがあったなんて聞いてないなぁ」
「妹さんの沙里さんに聞いてもらえない?」
「なによ、ご自分で直接沙里さんに聞いてみたら?」
茉莉は素っ気無かった。仕方なしに、アオハは沙里に電話をしてみた。
「兄貴ねぇ、電話に出てくれないの?」
「はい。メールをしてもお返事がなくて」
「今信州に出かけているの。多分何か事情があってご連絡できないんだと思います」
アオハは少し様子が分かって、落ち着かない気持ちをなんとなく落ち着かせることができた。アオハはアオハで、ここのとこCMの仕事が立て続けに入って、結構多忙で昼間は希世彦のことを考えている余裕がなかった。
そんなで悩みまくってるアオハに夜希世彦からメールが着信した。アオハは嬉しくて嬉しくて、でも届いたメールの内容が怖くて手が震えた。
「しばらく電話に出られず、メールのお返事もせずごめんなさい。お仕事は多忙ですか? 先日ワインバーでお待たせしてしまったのも気がかりになっています。怒っていらっしゃらなければいいのですが、お返事をお待ちします」
やはり希世彦は待ちぼうけをくわせたことを気にしているのだ。それを聞いただけでアオハは希世彦を許す気持ちになっていた。
「きっと何かわけがあったのよ」
アオハは独り呟いていた。
アオハはそれでも一言返さないと気持ちが治まらなかった。ワインバーでほったらかしにされて、その上電話もメールもずっと無視されてきたのだ。
「希世彦さんの意地悪。あたし、ずっと怒っているからぁ」
一応許す気にはなっていたが、返事はこんな風に返した。
「今から会えない?」
希世彦からのメールにはそう書かれていた。携帯の時刻は午前一時になっていた。明日の仕事は早い。少し眠っておかないと午後はつらくなるのが分っていた。だが、アオハも希世彦に会いたい気持ちを抑えられなかった。
「どこで?」
と返事した。
「四十分後迎えに行く」
「お気を付けて」
希世彦は母に車を貸してくれと頼んだ。
「あなた、夜中じゃない? どこに行くの」
母の沙希は渋い顔をした。事故でもあるといけないと心配している様子だ。
「ずっとアオハさんに会ってないから」
「明日じゃダメなの?」
「ダメなんだ」
「言い出したら聞かない子ねぇ」
沙希はあきれた顔をしてキーを渡してくれた。どこの家庭の母親だって、真夜中に彼女に会いに行くなんて息子が言えば、一応ダメだと言うだろう。非常識だ。
車を借りると、希世彦は直ぐに家を出た。
二時少し前にアオハのマンションの前に付いた。アオハの義母の珠実が出てきて、
「奈緒美ちゃん、明日はお仕事で出るのが早いの。あまり遅くならないように帰して下さいな」
と言った。
「はい。すみません」
そこにアオハが出てきて珠実の前なのに、希世彦に抱き付いた。
「希世彦さんの意地悪ぅ。あたし許さないからぁ」
言葉とは裏腹に声は思い切り甘えた声だった。
希世彦は車を出すと、東京ミッドタウンのサントリー美術館側の地下駐車場に車を滑り込ませた。地下駐車場は二十四時間営業で、真夜中の時間帯は車の出入りが少なくてシーンとしているのだ。だから誰にも邪魔されずにゆっくり話をするには下手な公園なんかよりずっと良いのだ。おまけにアオハのマンションからは五分とかからない位置だ。
空いた駐車場に車を入れるとエンジンを切った。思った通りあたりは静かで人も車も往来がなかった。希世彦はアオハの顔を見ると抱き寄せてキスをした。アオハのふくよかなバストが感動で波打っているのを感じながら長いキスを続けた。その夜、許されるなら希世彦はアオハと身体を重ねたい欲望がこみ上げてきたが、多分その気持ちはアオハにも伝わっている様子だった。希世彦は恐る恐るアオハのお尻に手を回して抱き寄せ、アオハのふくよかなヒップの感触を感じていた。
唇を離すと、希世彦はワインバーで入れ違いになり、後を追ったがマンションに戻る途中で強烈な肘鉄をくらったことを話した。理由は仕事が長引いたからとウソを言った。
「あたし、前に痴漢に遭ってるから、てっきり痴漢と間違えてしまって。ごめんね。痛かったでしょ?」
と謝った。希世彦は韓国のヨンヒを軽井沢の別荘に案内したが乗馬クラブで落馬して看病に一週間もかかったと正直に話した。
「気持ちはアオハにすごく会いたかったけど、どうにもならなかったんだ」
アオハは先ほどから希世彦と手の指を絡めてお互いに愛撫しあっていた。アオハはそれだけで十分だった。
「今度四日か五日空けられる日があったら教えてくれない?」
「今月は難しいかも。来月でもいいの?」
「ん。仕事がらみだけど、欧州に行く用があって、できれば一緒に行きたいんだ」
「どこの国?」
「仕事は英国とドイツだけど、アオハとはパリで二、三日過ごしたいんだ」
アオハはそれを聞いてすごく嬉しくなって先ほどまで怒っている風に見せるつもりでいたのに、それをすっかり忘れてしまっていた。恋の魔術にかかってしまったのだ。
一時間足らず駐車場で愛し合い話し合った末、希世彦は車を出してアオハをマンションに送ると直ぐに家に戻った。別れ際にまた唇を重ねたが、その様子を珠実は窓のカーテン越しに見ていた。思ったより早く奈緒美を帰してくれたのには希世彦の礼儀正しさを見せられたような気がしていた。
その夜、アオハは安らかな気持ちでぐっすりと眠れた。
百六十五 夫婦の会話
「沙希、来週からまた海外だ。出張の仕度を頼む」
しばらく日本に帰ってきていた夫の善雄が妻の沙希に週明けからまた海外に出かけると告げた。
「あなた、また半年くらい行ったきりでお帰りにならないんでしょ?」
「そうだなぁ。三ヶ月間位とは思っているが、ギリシャの経済危機が再燃して欧州じゃ為替相場がガタガタして治まりそうにないから、また半年くらいは行ったきりになりそうな予感もするなぁ。日程が少し遅れても構わんと言ってあるが、希世彦も欧州に来いと言っておいたよ」
善雄は四月早々に帰国してからまだ一ヶ月位しか経っていないのに、また長期の海外出張だ。義父の善太郎は最近は息子の善雄に仕事を任せているので以前と違って出かける用が少なくなったし、専業主婦の母の美鈴はずっと家に居るから淋しいわけではないが、沙希にしてみれば単身赴任の夫の留守を預かる母子家庭みたいなものだった。最近は旦那が長期間単身赴任をしている家庭も多くなったと聞いているがそんな家庭の妻の気持ちが分るような気がしていた。善雄の話じゃ自分達の会社、米村工機でも大勢の技術者を海外に常駐させているそうなので、他人事とは思えない気もした。そんな社員の奥さんはどんな気持ちで過ごしているんだろう、出張者の中には結婚してから数年しか経っていない社員も居るが、夫婦生活はどうなっているんだろうなどと考えてしまうこともある。
夫の善雄は結婚した時から性生活には淡白な方だ。だが、沙希は人並みに性欲は持っていたから、長い間夫が留守だとたまに淋しい夜もあった。沙希はまだ四十代半ばで、女としてはまだまだ盛んな歳だと言ってもよい。
前回は一年近く行ったきりでずっと留守だったから、当然のこと、夫が留守の間は性生活の方も閑古鳥が鳴いているありさまだった。
その夜、沙希はベッドに入ってから夫の善雄に聞いてみた。
「あなた、海外にご出張中、セックスの方はどうなさってるの?」
「セックス? 適当にしてるよ」
「あら、不潔。外国人の女性とするの」
「東南アジアの場合はね、取引先で気を利かせて夜伽の女性をこっそりホテルに回してくれることが多いね。でもさ、そんな女性と一度もセックスをした経験はないよ」
「そう? ほんとに?」
「ん。そのまま追い返すと回された女性が後で叱られたりすると可哀想だからさ、適当にメシをご馳走したりしてメシが終わったら帰ってもらってる」
「欧米の場合は?」
「欧米ではそんな接待はまずないね」
「じゃどうなさってるの」
「別に……」
善雄はちょっと答え難そうだった。それで沙希は質問を変えた。
「男性って、しばらくセックスをしないと溜まるって聞くわね。それって本当?」
「ああ。確かにしばらくお留守だと出したくなるなぁ」
「そんな時はどうなさるの」
「マスタベーションする奴が多いけど僕は自分ではしないなぁ」
「自分ではって? 他の誰かさんにしてもらうの」
「ん。手でやってもらうことはあるよ。どこの国でもそんなサービスをする特殊な女性は居るんだよ」
「勢いで、そのままセックスしてしまったりなさらないの」
「絶対にしないよ。エイズとか性病を移されたらたまらんからね」
「長い間海外にいらっしゃると、特別に親しくなった女性は居るんでしょ?」
「居るよ。取引先だって女性の社長や役員も居るから、親しくなってオフの時にワインを飲むとか、美術館に一緒に行くとか、ちょっとした小旅行に付き合ってくれて案内をしてもらうことはあるよ」
「じゃ、そんな方とセックスをしちゃうこともあるんでしょ?」
「バカ、セックスはしないよ」
「ウソばっかり」
「ウソじゃないよ。愛情のないセックスなんてしないよ」
善雄はむっとなったようだ。それで沙希は夫の言葉を信用できると思った。
「お付き合いしている内にお互いに好きになったりしないの」
「恋愛って言う意味?」
「そうよ。それで魔がさして抱き合ったりすること、あるんでしょ」
「それって不倫だろ?」
「あなたにはあたしが居るから不倫だわね」
「不倫はしたことがないよ」
「僕の方ばかり聞くけど、沙希はどうなんだ」
「あたし? あたしは真っ白。結婚してからはあなた以外の男性と寝たことはないわよ」
「沙希だって僕の居ない間にしたくなることあるだろ?」
「おおありよ。淋しい時、結構あるわよ」
「どうしてるんだ?」
「いつも我慢してる」
沙希はホステス時代に知り合った医師、弁護士、会計士、あるいは会社の役員など友達付き合いしている男は何人も居て、今でも時々お茶や食事に付き合うことはあった。だから、自分さえその気になればベッドインできる男はいるのだが、今まで一度も不倫をしたことはなかった。
「今夜しようか?」
突然善雄がそっちに話を振った。
「今から?」
沙希はちょっと考えてから、
「明日は二人だけの時間作れる?」
と聞いた。
「そうだなぁ。たまには時間を作ろうか?」
「ほんと? 嬉しいっ」
沙希は思わず夫に抱き付いた。
「お願いしてもいいかしら」
「どんなお願い?」
「あたし、お義父さま、お義母さま、それに子供たちと一緒のこの家じゃ、夫婦の寝室でも本気になれないのよ。なんかどこかで気になっててダメなの。できたら明日ホテルとかに連れて行って下さらない?」
善雄は沙希が言っている意味を理解した。確かに家族と一つ屋根の下では自分だって解放的にふるまうことはできなかつた。
翌日、お昼過ぎに善雄から電話が来た。
「二時頃日本橋に出て来ないか?」
夫は昨夜の話を真面目に考えてくれたようだった。
二時少し前に会社に行って受付の女の子に
「主人を呼んで下さい」
と告げた。ややあって、帰り仕度をした善雄が出て来た。
「待ったかい?」
「いいえ」
「これから京都に行こう」
沙希は驚いた。だが考えてみると新幹線で行けば時間的にそう遠くではないのだ。
京都駅に着くとタクシーに乗った。
「ウェスティン都ホテル京都」
と善雄が告げた。ホテルに着くと沙希は思い出した。
「あら、このホテル、先日希世彦がヨンヒさんをお連れした所じゃない?」
「そうだよ。希世彦に泊まる所のお勧めを三つか四つ教えておいたんだが、結果的にここに泊まったらしいね」
「そうなの。あなたが教えてあげたの?」
「大事なお客様を学生が泊まるようなつまらん所に案内しちゃダメだから僕が教えた」
良いホテルだった。善雄はスイートを予約しておいてくれた。連休前の良い季節でホテルの庭園が綺麗だった。夕食まで間があるので、二人で庭園を散策した。いつの間にか善雄が沙希の手を握ってくれた。沙希は思い切って善雄の腕に自分の腕を絡ませて歩くと新婚旅行に来たような気分になっていた。
夕食を済ませてから、少し早めに部屋に戻った。善雄は突然沙希を抱き上げると、そっとベッドに横たえてキスをしてくれた。ブラウスのボタンを外し始めたので、
「待って」
と言って浴室に駆け込んでシャワーでざっと身体を流した。沙希がシャワーを使っていると善雄も入ってきた。それで二人でシャワーを使った。バスタオルで身体を覆うと、そのまま明かりを消して二人でベッドに倒れこんだ。
静かな夜だった。善雄は沙希の首筋から次第に下の方に唇で愛撫してくれた。こんなに優しくしてもらったのは初めてだ。やがて善雄の舌が沙希の下腹部の柔らかい部分に入ってきて愛撫された時、沙希は知らず知らずに大きな声を出していた。
沙希は善雄を下にして入れ替わると善雄の勃起した部分を口で含んで愛撫した。善雄は沙希の頭を抱えて、
「気持ちがいいなぁ」
と小声で囁いた。再び善雄が上に替わって沙希を愛撫した。沙希は高揚して声を出して気持ちの良さを味わっていた。もう限界だ。
「あなた、来てぇ」
喘ぐような沙希の声に善雄は沙希に感付かれないように、自分のものにコンドームを被せてから、自分のものをゆっくりと沙希の中に入れた。沙希は益々高揚して善雄の動きに合わせて狂ったように善雄を愛した。
善雄の動きが次第に早くなって、沙希はオルガスムスに達して一際大きな声を出した。その時、善雄も頂点に達して射精したようだった。二人はしばらくそのまま抱き合っていた。寄せては返す波のように沙希の中で心地良い余韻がいったりきたりしていた。
また二人でシャワーを使ってからベッドに潜り込んで、二人は早朝まで抱き合って眠った。
善雄はそんな沙希を見て、
「今まで気付かずにごめん。これからは時々こんな風にしようね」
と言ってくれた。善雄は海外の出先にもたまには沙希を呼び寄せてやろうと思った。
百六十六 母の日の贈り物
夫の善雄の長期の海外出張前に、図らずも妻の沙希は結婚して初めて一人の女として普段から愛している夫に思い切り愛撫してもらった。結婚以来二十年以上も多忙な夫を支えて走り抜けてきたが、この歳になって訪れた女の幸せの一時は一生忘れないだろうと思った。主婦なら誰でも、四十歳半ばの自分の年頃になると夫婦の間は倦怠期に差し掛かると言われる。けれども沙希はこのことがあって、新鮮な気持ちで改めて夫に接することができたように思った。京都のホテルで、朝早めの朝食を終わると、夫の善雄はそのまま会社に出勤したので、沙希は東京駅で別れて一人で帰宅した。晴れやかな気持ちで家に戻って、義母の美鈴に昨夜の気持ちを告げると、大層喜んでくれた。
夫の善雄は今から十八年か十九年前に都筑庄平と名乗って、岩井加奈子と言う女性と不倫をしたことがあったが、妻の沙希には黙っていた。加奈子の願いを聞いて交わった証に奈緒美と言う可愛らしい女の子と庄司と言う男の子が誕生したが、三人共突然に消息を絶ち、今も探しているが見付からず、このことは加奈子と二人の子供以外には誰も知らない筈だったから、これからも他人に秘密を漏らすつもりはなかった。世の中の物事は時には知らぬが仏と言うこともあるのだ。沙希はそんなことがあったなどとは想像も付かずに夫の善雄を信頼していた。
その年の母の日は十三日の日曜日だ。毎年母の日が近付くと、希世彦は妹の沙里と相談してプレゼントを決めた。
「お兄ちゃんは今年も肩叩き券を付けてあげるの?」
「ん。この頃使ってくれないけど、子供の頃から続けてるから今更止められないよ」
「今年、お花は何にしようかなぁ?」
「去年からカーネーションをやめてバラにしたけど、最近紫陽花も人気があるらしいよ」
「あっ、それいいかも」
それで二人で花屋に出かけた。行って見ると、人気があるらしく紫陽花の小鉢が沢山並んでいた。
希世彦は目立つ色彩の赤い花を見ていた。すると、
「母さん、淡いパープルピンクが好きだから、これどう?」
希世彦が振り向いて、沙里が手に取った鉢を見ると、確かに素的な色合いだった。
「いいかも。これにしようよ」
花屋には五月十三日の日曜日に取りに来るからと支払いだけ済ませて鉢は預かってもらった。
「米村君、お久しぶり。お元気?」
希世彦の所に、珍しく高校時代のクラスメイトの久美子から電話が来た。
「珍しいなぁ。急にまたどうして?」
彼女は高校を卒業すると美容専門学校に通い、今は地元の西新井でエステサロンを開業していた。
「実はね、今年母の日キャンペーンをやってるのよ。米村君のお母さまお元気でしょ?」
「ん。元気だよ」
「だったらエステ券をプレゼントしてあげない? 去年あたりから母の日のプレゼントに人気があるのよ」
「へぇーっ? そうなんだ」
「あたしたちの母親世代って最近みなお綺麗でしょ? ですからボディケアとかビューティーに力を入れていらっしゃる方、増えてるのよ。それで、エステ券、すごく人気があるんだって」
「高いんだろ?」
「高くはないわよ。あたしたち子供がお小遣いでプレゼントできるご予算って、そんなに出せないから」
「で。どれくらい出せばいいの?」
「五千円コースと一万円コースがあるの。五千円コースが人気ね」
「どう違うの?」
「五千の方は二の腕、背中痩せ重点。一万の方は全身。あたしとか米村君のお母さま世代って四十代でしょ? 女性は四十代になると二の腕とか背中にお肉が付いて体型が崩れ易いの。それでケアをなさる方が多いのよ」
「ふーん? 五千円コースって時間はどれくらいかかるの?」
「普通は四十分位なんですけど、キャンペーンのエステ券の場合は六十分にして大サービス、お徳にしてあるの」
希世彦は母親のそんな悩みなんて聞いたことがないから初めて知った。それでその話を沙里にすると、
「そう言う話はお兄ちゃんには無理ね。クラスメイトの方が言うの当ってるわよ」
と笑った。
「バカにするなよ。それで肩叩き券とセットでどうかなぁ?」
「だったらあたしも一緒でプレゼントさせてよ。お母さん、きっと喜ぶわよ」
それで母の沙希と祖母の美鈴と合わせて五千円のコースを二枚頼んだ。
そんな相談をしていると、沙里に志穂から電話が来た。
「母の日のプレゼント、もう用意した?」
「ん。お兄ちゃんと相談して二人で決めた」
「沙里ちゃん、希世彦さんと仲がいいね」
「一応仲良くしてあげてるのよ」
沙里の抗議する顔が見えるようだ。
「茉莉さんと相談したんだけど、あたしたちの母親どうし、昔から仲良しでしょ。だからさぁ、娘たち三人で温泉一泊のご招待をしたいんだけど、沙里も絶対に加わってちょうだいよ」
志穂は、
「断ったら承知しないわよ」
と付け加えた。
「でも」
「アハハ、予算でしょ?」
「ん」
「そう言うだろうと思った。あたしたち女子大生じゃ無理よね。実はね、スポンサーが居るのよ」
「誰?」
「うちのパパと茉莉のパパ」
「そうなんだ。じゃあたしもOKだな」
志穂の父親は勿論章吾だ。この計画はどうやら章吾と茉莉の父親のサトルが相談して、表向きは娘達に演出してもらって、予算は全部自分達で出すからと話を持ちかけたらしい。
こうして、母親たち、つまり沙希、マリア、美登里と娘たち、つまり沙里、茉莉、志穂の三人、合計六人で一泊の温泉旅行ご招待が決まった。車は章吾が最近買い換えた八人乗りのワゴンを運転手付きで提供する約束になった。サトルも行くと言うので定員八人ぴったりだ。
旅行先は娘達三人が相談して伊豆の熱川温泉の熱川プリンスホテルに決まった。母親三人、娘三人、パパたち二人で三室予約した。母親たちの部屋は展望露天檜風呂付と言う贅沢なのにした。
「アオハさんは母の日のプレゼント、もう決めたの?」
「まだ」
「だったら、まだ婚約もしてないけど、僕と一緒じゃダメ?」
「あたしはその方が嬉しいな。ママもきっと喜ぶと思う」
希世彦はアオハと電話で相談していた。
「何かアオハが考えてるものあるの?」
「今ママが使ってるトートバックがくたびれてきてるから今年はトートバッグにしようかなって考えてた」
「どこのやつ?」
「今使ってるのはルイヴィトン」
「適当なのありそう?」
「そうねぇ。使い易そうなのはエレジーかな?」
「日曜日が母の日だから、それまでに昼間会える日はある?」
アオハはスケジュールを確かめている様子だった。
「木曜日の三時以降なら大丈夫みたい」
「じゃ、その日に六本木ヒルズの店に行ってみない?」
「いいわ。じゃその日に。希世彦さん、悪いわね」
それで希世彦はデートも兼ねてその日六本木で待ち合わせることにした。エレジーは二十万円くらいだから希世彦とアオハの小遣いの範囲で大丈夫だった。希世彦は二十日過ぎから仕事で欧州に行く予定をしていたが、アオハも連れて行く約束だったのでその打ち合わせも兼ねたデートにした。
百六十七 謀計
パク・ヨンヒは韓国のヒュンダイ・コンストラクションのパク会長の歳の離れた妹の娘だから戸籍上は姪になる。だが、パク会長から見れば孫娘みたいなもので、会長はヨンヒが幼い頃から大層可愛がってきた。ヨンヒの両親はパク会長が率いるグループ企業の役員で、ヨンヒは生まれた時から経済的にも愛情的にも良い環境で育てられた。だからお嬢様育ちで結構我がままだった。
極端に言えば、自分の言うことは何でも通り、欲しいものは何でも手に入ると思っていたから、今回希世彦が自分の思うようにならなかったことに腹を立て、メッチャ落ち込んでいたのだ。
希世彦に韓国に帰ると告げず、見送りも無しに戻ってから、しばらく希世彦への恨みを引き摺っていた。だが、ヨンヒはウソを付かない良い性格もあった。
ヨンヒは帰国するとパク会長を訪ねた。
「怪我はすっかり治ったのかね」
と会長に聞かれ、
「はい。すっかり治りました。伯父様にご心配をかけて済みませんでした」
と謝った。
「希世彦さんとはどうだったかね」
「それが……」
パク会長はヨンヒがいつもと違ってしょんぼりしていたから何かあったと感付いていた。それで、色々ヨンヒに尋ねると、ヨンヒは帰りは羽田まで送ってもらえなかったこと、風呂の失敗話などを正直に告白した。
ヨンヒの話をすっかり聞いて、会長はにんまりした。
「ヨンヒ、よくやった。これで決まりじゃ。後はわしに任せなさい」
一昔前は、日本でも血縁関係者で企業の幹部を固めている、いわゆる同族経営の企業が多かったが、良い面もある代わりに能力の無い者が経営の中枢を占める結果ビジネスとして弊害も多く、最近は同族経営の企業は少なくなった。だが、韓国や中国では多くの同族企業が業績を伸ばしており、規模の大きな企業の経営者の間で婚姻関係を持つことには大きな意味があるのだ。パク会長はやや強引とも取れるやりかたで姻戚関係を広げ繁栄してきた。
世界的なグローバル企業として発展してきた米村工機を軸とする企業グループは会長の善太郎の息子、善雄が社長を勤めており、将来は三代目にあたる希世彦が父親を引き継いで企業のトップに座る予定であったから、典型的な同族経営企業なので、そのことがパク会長から見ると魅力的であった。だから、ヨンヒと希世彦を何としても結婚させたかったのだ。幸い姪のヨンヒはすっかり希世彦を好きになり恋をしてしまった様子なのでこの縁談は可愛いヨンヒのためにも頑張ろうと思っていた。
「もしもし、先日ご馳走になったパク・ジフンです。善雄社長さまはおられますか?」
夜遅く電話が鳴って、美鈴が受話器を取ると韓国のパク会長からの電話だった。
「善雄は生憎欧州に出張にでかけまして留守しております」
と答えると、
「そうですか、奥様、いや若奥様はおられますか」
と沙希に代わって欲しいと言った。
「もしもし、家内の沙希です」
沙希が代わると、
「これはこれは若奥様、先日はご馳走様でした。実は息子さんの希世彦さんとこちらのヨンヒとの縁談について折り入ってお話をさせて頂きたいのですが、今よろしいかな?」
パク会長は日本語が達者だった。
「はい。どうぞ」
「信州の別荘で落馬したヨンヒには大変ご心配をおかけしまして、お陰さまでヨンヒはすっかり治ってこちらに戻ってきました。ありがとう」
「もう大丈夫ですか?」
「はいはい、ピンピンしとります。所で」
そこでパクはちょっと間を取った。
「実は言い難い話ですが、別荘であったことについて希世彦さんから何か聞いておられますか?」
「何かと言いますと?」
「いえね、二人が仲良くなりましてね、温泉に一緒に入ったとか」
沙希はそんな話は希世彦の口から何も聞いていなかった。それで驚いて、
「ヨンヒさんがそんなお話しをされましたのですか」
と聞き返した。
「そうなんです。ヨンヒは結婚前ですから普通はそんなはしたないことはしないのですが、別荘で誰も居ないので希世彦さんに一緒に温泉に浸かろうと強く誘われて、ヨンヒもすっかり希世彦さんを好きになってしまったようで、ついお誘いに応じて一緒に入浴したそうなんです。わたしも話を聞いて驚きましたんですが、二人が好き合っていずれ結婚するつもりでお互いに良いと思ったのならむしろ仲良くて好ましいことだと思いましてな」
沙希は気持ちが穏やかでなかった。それで話を一旦打ち切って、事実を希世彦に良く聞いてから返事をしたいと思った。
「突然のお話しですし、まだ婚約もしていませんですし、大切なお話しですから息子に話を良く聞いてから改めてお返事をさせて頂いてもよろしいでしょうか」
それだけ言うのが精一杯だった。
パクは沙希が希世彦から何も聞いていないと言われて、
「しめた」
と内心ほくそえんだ。痴漢話でもそうだが、こんな話は当人以外は誰も見ていなかったことだから女の方が断然有利だ。女の方が無理に風呂に誘われて、身体に触られたと言えば男の方がいくら違うと言い張っても通らないのだ。常識的には一緒に風呂に入ってHをしたって話しになってしまうのだ。もしもヨンヒが嫌がるのを無理にしたとなればレイプって話しに発展してもおかしくはないのだ。
ヨンヒは正直にパク会長に自分の失態として報告した。だからヨンヒの話し通りならば、パク会長の方から沙希に失礼の侘びを入れるべき話なのだ。だが、パクはその話を縁談をまとめる道具として十分に利用するつもりでいた。だから、沙希に話した内容は事実とは反対の違う話しにすり替えられていた。
百六十八 五回目のデート
次の日曜日の母の日を前にして木曜日に希世彦は六本木ミッドタウン、ガーデンテラス二階のキュイジーヌ フランセーズ JJで午後三時少し前アオハを待っていた。アオハとデートをする時の待ち合わせ場所はどうやらここに決まってしまったようだ。人出の多い場所で待ち合わせをするカップルはいちいち探す手間が省けるので、何回かデートをする間に自然に場所が決まってしまう場合が多いようだ。いちいち場所を変えるよりも[この前のとこ]とか[いつもの所で]とか言う方が男にとっては都合がいい。
アオハを待っている間、希世彦は女性の場合はどうなんだろうと考えていた。男はその都度場所を変えるのはめんどくさい気持ちが先に来てしまう。
「女性はもしかして毎回同じ場所より変えた方が新鮮に感じるのかなぁ?」
そんな女の気持ちを想像していると、
「ごめん、お待たせしちゃって」
とアオハが希世彦の所にやってきた。いつものゲランのイディールのかすかな香りが希世彦の嗅覚を刺激した。アオハは以前、
「ママ、産みの親の方だけど、クリスチャン・ディオールのオードトワレ、プアゾンを使っていたの。でもあたしはその香り、強すぎて合わないからママと別のを使ってるの。あたしのは鈴蘭、ジャスミン、芍薬、フリージアなんかを使ってるみたい」
と言っていた。その話を母の沙希にしたら、
「あら、母さんも若い頃、あなたが産まれる前までゲランのイディールを使ってたわ」
と言った。母が使っていたフレグランスと同じ銘柄を偶然彼女が使っているのになんだか希世彦は嬉しくなったので、それでアオハの香りは鼻で良く覚えているようになったのだ。
先日約束していたので、アオハが来ると直ぐに席を立って、ルイヴィトンの六本木ヒルズ店に行った。
「エレジーをお願いします」
とアオハが言うと、店員はちょっと困った顔をした。店員はパソコンの画面を調べてから、
「恐れ入ります。昨日出てしまいましたので、一時間ほどお待ちいただけますでしょうか」
と言った。どうやら倉庫から出してくる様子だ。仕方がない、
「では一時間ほどしてからもう一度来ますのでお願いします」
と希世彦が頼んだ。
「森美術館とTOHOシネマとどっちがいい」
希世彦に聞かれて、
「美術館がいいな」
とアオハが答えた。それで時間つぶしに森美術館に入った。
一時間程度時間潰しをするには美術館は丁度良い。ふたりは久しぶりに美術館の中をゆっくりと見て歩いた。ルイヴィトンの店に戻ると品物を見せた後綺麗に包装してくれた。
「よろしかったらこれにメッセージを書かれては如何ですか」
店員は可愛らしいカードを渡してくれた。
アオハはなにやら小さな文字に♡マークを散りばめて書き終わると、
「ちょっとでいいから希世彦さんも書いてぇ」
とカードとボールペンを差し出した。
「僕はいいよ」
「遠慮なさらないで、ちょっとだけでいいから。ママあたしからよりも喜ぶと思う」
それで希世彦も一言だけ書き足した。代金は五万円をアオハから受け取り、残りの十五万円と少しは希世彦が出した。アオハは全額自分で持つと言い張ったが希世彦は自分も出すからと無理にそうした。アオハはモデルや女優の仕事で最近は相当稼いでいるようだが、無駄遣いをしないでなるべく貯金をしていると聞いていたので、希世彦はアオハにあまり出費をさせたくなかったのだ。希世彦は学生だが、普通の学生と違って父親の会社に籍を置いていて、最近では並みのサラリーマンより高給を取っていたから大切な人のためには少々出費しても何とも思わなかった。
「何か食べたいものある?」
「そうねぇ、お鮨がいいな」
「近くの店でもいい?」
「いいよ。希世彦さんにお任せする」
それで、けやき坂通りのすきやばし次郎と言う鮨屋に入った。時間が早かったので空いていた。かなり値段の高い店だったが、ネタは良く、美味かった。
鮨屋を出るとあたりは真っ暗だった。
「マンションの方に戻ろうか?」
バッグを買って荷物があったので二人は歩いて六本木ミッドタウンに戻った。
「この後予定ある?」
と希世彦が聞いた。アオハは、
「眠るだけ」
と笑った。それでBillboard Liveの四階指定席に運良く空き席があったので立ち寄った。
「ちょっと音を聴いてアルコールを飲もう」
2ステージ目が始まる前だった。その日はヴォーカルグループのジビエ・ドゥ・マリが出演のようだ。夏木マリのグループでブルースを主体に楽しませてくれるらしい。
ライブは良かった。アオハたちのような若者向けではなく、大人の雰囲気だったので
「今夜は僕たちまるでオジサン、オバサンだなぁ」
と笑いながら二人はカクテルを飲みつつ楽しんだ。
「おやすみ」
アオハをマンションの前まで送った所で、希世彦はアオハを抱き寄せて唇を合わせた。アオハの熱い気持ちが希世彦の心に響いた。
家に戻ると、
「今夜もアオハさんと?」
と母に聞かれた。
「ん。六本木に行ってた」
「そう。着替えたらちょっといらっしゃいな。お話しがあるの」
母がそんな風に言うのは珍しい。着替えを済ますと
「何の話かなぁ?」
と思いながらテレビを見ていた母の隣に座った。
「あなた軽井沢でヨンヒさんと一緒にお風呂に入ったんですって?」
単刀直入に沙希が聞いた。
「それって少し意味が違うよ」
希世彦はあの夜のハプニングをありのまま母に話した。決して恥じるような内容ではなかったのだ。沙希は怪訝な顔をして聞いていたが、
「あなたの話しに間違いはないわね?」
と念を押した。
「お母さん、どうしてそんなこと知ってるの」
「パク会長が電話をしてきたのよ。会長の話じゃあなたが悪者だわね」
と沙希が言った。沙希はそれ以上希世彦には何も言わなかった。
百六十九 外交
「さすが、米村家の若奥様は違いますなぁ。切れ者とは聞いておりましたが、わしも脱帽ですわ。ま、うちの可愛いヨンヒをこれからもよろしく可愛がってやって下さる様息子さんにお願いして下さい」
先日韓国ヒュンダイ・コンストラクションのパク会長から沙希に電話があって、婚約前なのに希世彦が別荘でヨンヒと一緒に風呂に入ったことを理由にヨンヒと希世彦の婚約を迫ってきた。その時、沙希は息子の言い分も聞いた上改めて電話を差し上げたいと伝えたが、美鈴と相談の上、先ほどその返事をしたのだ。
「パクさん、先日は即答を差し控えさせて頂き失礼しました」
沙希は開口一番に直ぐに返事をしなかった詫びを入れた。
「どうですか、ヨンヒと息子さん、結婚のお約束をして頂けそうですか?」
パク会長は自信あり気だ。
「そのことなんでございますが、息子にはもう一人の女性とお付き合いさせて頂いておりまして、まだ気持ちが決まらないようなんです」
「しかし、ヨンヒと一緒に入浴をなさった所を考えますと、もうヨンヒにお気持ちを固められておられるのと違いますか?」
沙希は入浴云々の方には話を持って行きたくなかった。誰も見ていない密室での出来事なので、希世彦に不利だと分っていたからだ。
「ご存知だと思いますが、日本が敗戦する前までは、そちらのお国と同様法律で家制度が決まっておりました。その時代、つまり戦前は戸主、つまり家長が家族の婚姻・養子縁組に対する同意権を持つと法律で定められておりましたから、親の同意なしには結婚ができなかったのでございます。それで親同士が子供の結婚について決めれば子供は従わなければならなかったのです」
「今でも親の同意をもらって結婚なさるのと違いますか?」
「日本でも旧い制度を引き摺っていて親の方が法律に無知で親が結婚に反対する場合もあるにはあるのですが、今では親が反対意見を述べただけのことで成人した子供は親がこうしろああしろと言っても聞く必要はないのですよ」
「そんなことが法律で決まっているんですか」
パク会長はそこまでは知らなかったらしい。
「法律よりもっと上の日本国憲法の二十四条に婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本と書かれています。有体に申上げますと、成人した女と男がお互いに合意した時のみ婚姻は成立すると言うことに決まっておりますの。韓国では信じられないでしょうが、日本では親が子供の結婚に口を挟む余地はないのです。こんなことが憲法で決められているのは世界でも珍しいそうですが、敗戦後米国のGHQ (General Headquarters = 総司令部) が日本の国を弱体化する目的でこんなことを押し付けたとも言われております。その結果、日本では核家族化が進みまして、家族の絆と申しますか、家族の繋がりが希薄になりまして社会問題にもなっておりますのよ」
「今のお話ですと、ヨンヒと息子さんがお互いに結婚しようと同意すれば結婚できると言う意味ですか?」
「その通りでございます。親の私ははらはらしながら脇で見ているしかないのですよ」
と沙希は笑った。パク会長は、
「信じられない。信じられない」
と繰り返した。
「これもご存知だとは思いますが、婚前にセックスをして女のお腹に赤ちゃんが出来てしまった場合、戦前なら家長の発言力が強うございましたから、そんな場合社会道徳的に親が二人を結婚させてしまうことができたのですが、今は女か男のどちらかが結婚は嫌だと言えば婚姻は成立しません。そのためか、最近の日本の若者の意識調査結果では婚前にセックスをしても構わないと思っている人が全体の半分くらいも居るのですよ。そちらのお国では確か15%位だそうですから男女関係の倫理観はそちらと日本とでは随分差があります。つまり日本では婚前に一緒に入浴した、しないと言うことは結婚にはあまり関係がないのです。最近は婚姻の届けも出さずに堂々と同棲生活をしている若い方が増えているようですの。わたくしは困ったものだと思っておりますが」
パク会長の狼狽が見えるようだ。
「つまりですな、ヨンヒが息子さんと一緒に入浴したなんてことが分っても親は結婚に口出しできないとおっしゃりたいのですな」
「その通りです。道徳的な問題として一応親として意見は言いますけれど」
これでパク会長が捩じ込んできた結婚を迫る理由は宙に浮いてしまった。
「パクさん……」
「ああ、聞こえてますよ」
「わたくしが感じてますのはヨンヒさんはとても良いお嬢様です。息子の希世彦はまだどなたと結婚をするか心に決めていないようですので、ヨンヒさんがまだ息子を思うお気持ちを捨てておられないようでしたら、二人のお付き合いは続けさせても良いと思ってますのよ。それで将来お互いに好き合って結婚したいと言えばめでたく結婚させることができます」
「若奥様は外交上手ですな。失礼ですが、うちの社員にも若奥様のような方が欲しいくらいです。ヨンヒはどうやら息子さんをすっかり好きになってしまった様子ですから、是非息子さんにはヨンヒを大事にしてお付き合い下さいとお伝え下さい。わたしからもお願いしますよ」
パク会長と話しが終わって、沙希は自分でも現代の結婚観について割り切れないものがあると感じていた。
百七十 年上女の思慕
その年の母の日は十三日の日曜日だ。十一日の金曜日は久しぶりに沙里と茉莉と志穂の三人が茉莉の家、栗山家に集まって明日十二日と日曜日の十三日夫々の母を連れて伊豆熱川温泉に一泊旅行をする打ち合わせをしていた。旅館や車については志穂の父章吾と茉莉の父サトルがしっかり予定を組んでくれているはずだった。
「ママたち三人は昔から姉妹みたいに仲良しだからさ、母親達三人、娘達三人に分かれて部屋は二つ取ればいいだろ? パパと茉莉のパパは二人で別の部屋に泊まるよ」
と章吾が娘の志穂に既に伝えていた。
サトルの車は四駆のごついジープだから八人は乗れない。それで、八人乗りの大きなワンボックスに買い換えた章吾の車を出してもらうことになったので、十二日土曜日の早朝、全員が章吾の家に集まった。
土曜、日曜は伊豆・箱根方面は道路が渋滞する。それを承知で章吾は首都高から東名高速に入り、御殿場ICから有料道路の箱根スカイラインを通って十国峠に出た。思った通り御殿場から先は混雑していなかった。
八人乗りの最後部の座席は乗り心地が良くない。そのため娘達三人が座った。女の子が三人集まればなんとやら、ずっと三人でキャーキャー騒いでいた。沙希は最初はマリアと美登里と雑談をしていたが、箱根から先はマリアが居眠りを始めたのを機会に一人昔のことを思い出していた。
運転している章吾は出会った時は大型バイクに乗っていて、いつも送り迎えをしてくれた。沙希は章吾のウエストにしっかりと抱きついて走っていたあの時が今まででは一番良かったなぁと思った。その後軽自動車、スズキのワゴンRにずっと乗っていた。その頃椎名町の路地で銃撃されて章吾が重症を負った事件は今でも鮮明に覚えている。あれは確かクラブ、ラ・フォセットの同僚だった岩井加奈子が差し向けた、米倉源蔵の息子のならず者の魔神の子分たちだった。章吾が入院してすっかり落ち込んでいた自分を慰めてくれたのは、今マリアの隣に座っている、当時森ガールと呼ばれていた藤井美登里だった。その美登里が自分が好きだった章吾と結ばれて、お嫁さんになって、今は志穂の母親だと思うと、歳月の流れが何もかも洗い流してくれているのだと思わずにはいられなかった。
熱川プリンスホテルで母親達三人が案内された部屋は海が見渡せる展望露天風呂付きで素的だった。部屋に附属している露天風呂はわりあい広くて、それで三人揃って湯船に浸かり、
「こんな母の日のプレゼントなら毎年お願いしたいわね」
などと言い合った。食事が終わると、娘達三人の勧めでしばらくぶりにカラオケルームに入った。母親たちは若い頃よく三人でカラオケに行った時に歌った曲を歌った。娘達は若い娘たちに人気があると言う Tiara、真野恵里菜、インディーズの川嶋あい、いきものがかりの吉岡聖恵や R&Bの西野カナなどの曲を次々に三人で聞かせてくれた。母親達が詳しくは知らないアーティストばかりだった。
翌日は熱川から車で一時間位行った所にある、バガテル公園に行った。丁度薔薇が綺麗な季節で、園内には数千株もあると言う薔薇が見事に咲いていた。昼食は公園の中のレストランで食べた。
「あたしたち、みんなお天気娘ねぇ」
と美登里が言う通り暖かでとても良いお天気で、女たちは美しい薔薇の花を満喫していた。女達が薔薇の花を見ている間、章吾とサトルは園内のカフェに入ってコーヒーを飲んだりして時間をつぶした。
「オレたち、こんなに時間を持て余すことはめったにねぇなぁ」
さすがサトルは待ちくたびれてどうにもならん様子だった。
「明美さん、すまないですけど、明日の土曜日出社したいので届けを出しておいて下さい」
希世彦は二十日過ぎから渡欧する予定なので、訪問先の下調べをするつもりで土曜日に出社したいと思って、アシスタントの甲斐明美に電話で頼んだ。オフィースはセキュリティーが厳重で社員といえども休日はセキュリティーロックがかかっていて、入室ができないのだ。予め届けが出ていて許可が下りている者だけロックが解除されている仕組みだった。
甲斐明美は地元の国立宮崎大学教育文化学部を卒業して教員になるつもりでいた。しかし、一生宮崎で暮らすより、一度は東京に出て都会の空気を吸ってみたいと思い直して、大学四年生の時に親の許しを得て単身東京に出てきて就活を始めた。だが折からの不況でどこも敗退してなかなか決まらず、諦めて宮崎に帰ろうと思った時、○○ホールディングスと言う変った名前の会社から内定通知が舞い込んだ。面接を受ける前は、
「変な名前の会社だなぁ」
と思ったが大きな会社らしいのと、勤務先が日本橋の高層ビル三井タワーだと分って採用試験を受けて見た。故郷の友達に聞かれた時、ドラマに出てくるような素的なオフィースで仕事をしていると言いたいと、実に分り易い単純な理由だったのだ。
甲斐明美はめでたく入社が決まって、日本橋に通い易い江東区の南砂にある高層マンションのワンルームに決めた。マンションからはメトロの東陽町駅から乗り換えなしで日本橋に行けるのだ。
入社すると企画部に配属された。しばらくはお茶汲みとコピーなど雑用をさせられてつまらない毎日だったが、地元宮崎で夢に見た通りの仕事環境に満足していた。それに給料が高く、社食はケータリング会社がやっているレストランで価格のわりには美味しいのが嬉しかった。
明美がようやく通勤に馴れた頃、高校生のような十八歳位の男の子が、
「新しく企画部に入りました。よろしくお願いします」
と部員一同に挨拶して入ってきた。その日のうちに課長に呼ばれて、
「甲斐さん、急な話だが、今日入社してきた米村希世彦君のアシスタントをしてくれないか」
と命じられた。
「えっ、あたしがアシスタントですか?」
と明美は思わず問い返した。
「そうだ。気が進まなければ別の人にしてもいいんだが、甲斐さんなら勤まると思ってね」
と課長は言った。
「何よ、あの青臭い坊やのアシスタントをなんであたしが? この会社、きっと男尊女卑ね。年下のあの坊やがあたしのアシスタントなら分るけど」
明美は声には出さなかったが内心そう思っていた。
「嫌なのかい?」
と聞く課長に、
「いいえ、あたしでよろしければ構いません」
と答えていた。
結局明美の隣に青二才の坊や米村希世彦の席が設けられた。見ると明美の椅子、机より良い物だ。これには明美もいいかげんバカにされたような気分になった。明美は早速[青二]とあだ名を付けた。
「今日から色々お願いしますがよろしくお願いします」
見かけはひょろっとして背が高く頼りない感じだが、話し方はきちっとしていた。
「あ、それから僕は他にやっていることがありますので、当分の間一週間に一日位しか出て来ませんが、見たい資料とかは電話でお願いすることが多いと思いますのでそのつもりでお願いします」
と言うではないか。明美は驚いた。
「こいつ、後から入社したばっかの青二才のくせに一体何様のつもりなんだろ」
とイラついた。本来なら明美が、
「おいっ、青二、そこの資料を取ってちょうだい」
と命令する立場だと思った。
一年もすると、少し希世彦のことが分ってきた。それで課長に、
「アシスタントの仕事はどうだ?」
と聞かれて、希世彦についてもう少し詳しく聞いてみた。すると、
「なんだ、君はうちの社長が米村だと知らなかったのか?」
と聞き返された。
「社長が米村さんだとは知ってます」
「希世彦君は息子さんだよ」
明美は頭を殴られたような気がした。
「そうだったのかぁ。道理で部長や課長が彼に丁寧に説明をするし休んでも文句を言わないわけだ」
心の中で呟くと、
「まだ聞きたいことでもあるのか?」
と言われた。
「余計なことかも知れませんが、会社に来られない日はどこかにお勤めですか」
と聞くと、
「希世彦君は何も甲斐さんに話してないようだね」
「はい」
「彼は東大工学部の学生さんだよ」
と課長は笑った。そうか、それで社外秘の大事な資料も希世彦が希望すれば何でも出して良いと許可が出るのだなと納得した。化粧室で女性社員どうしの噂話で希世彦のことが話題にならなかったのが不思議な気がした。
その時から、明美が希世彦を見る目が変わった。クールな感じの奴で普段仕事以外の無駄口は殆どきかないが、いつも優しく接してくれるし、年下とは思えない頼れるような男だったからだ。東大生だとか、父親が社長で祖父が会長などとは一切今まで言わなかったし、明美にそれを鼻にかけるようなそぶりも一切なかったのだ。希世彦はいつも明美に一目置いていて、礼儀正しかった。物事を頼む時も決してぞんざいではなく、今では希世彦に頼まれれば何でもしてあげたいとまで思うようになっていた。明美は早生まれなので三歳年上だが、今では青二才ではなくて、一人の男として見ることができた。
あれから三年以上経ち、希世彦は大学四年生のはずだ。この二十日からまた欧州に出張するらしいし、明美は社長の息子などと言うことにはあまり関心がなかったが、希世彦の仕事の処理能力や着眼など最近は尊敬できる部分が多くなっていた。明美は自分でははっきり恋だと気付いていなかったが、今では密かに男としての希世彦を想うようになっていた。
「明日の土曜日出社したいので届けを出しておいて下さい」
と希世彦から電話をもらった時明美は、
「あたしも出ます」
と返事をしていた。休みの日に静かなオフィースで一緒に仕事をしたことなど今まで一度もなかった。だが、明美の中では何かわくわくとするものが湧いていた。
百七十一 振り向いて欲しいの
片想いをしてしまって、たまらない程恋しいと想っている相手に、自分の方を振り向いてもらうにはどうしたらいいだろう? 土曜日に出勤する希世彦に、
「あたしも出ます」
と言ってしまってから、甲斐明美はそんなことを考えていた。
「そうだ、土曜日は社食のレストラン、お休みだから希世彦さんの分と二人分、お弁当を作ろう」
そう思うともう何を作ったら喜んでもらえるか、それで頭が一杯になった。
「若い男の子だから、やっぱ美味しい牛肉かなぁ」
それで早速スーパーに行って材料を買い揃えて仕度にかかった。
「あたし、女だから、女の子の気持ちなら分かるんだけどなぁ」
お弁当作りをしながら、明美は色々なことを想像していた。いつの間にか、お弁当を作る自分の隣で希世彦が一緒にキッチンに立って手伝ってくれて、明美の両手が塞がっている時、希世彦がさりげなく後に回って、後から自分を抱きしめて、
「好きだよ」
と耳元で囁いてくれて、もう自分は希世彦に包まれて溶かされてしまいそうな気持ちを抑えて、
「あら、希世彦さんたらぁ。火があるから危ないじゃないの」
なんて。
「いけないっ、あたし何考えてるんだろ」
明美はすっかり妄想に取り付かれた自分に気が付いて思わず苦笑した。だが、そんな風に希世彦のことを考えているうちに、下腹部がじわじわと潤んできてしまった。
明美は二十五歳、もちろんまだバージンだ。お弁当作りをしながら、
「例えば隣の課の同期入社の山根君、普段何となく自分に気があるんじゃないかと感じているが、自分は彼の気持ちを特別に感じたり意識をしたことがないけれど、仮に自分を振り向かせようとしたらどんな風にアプローチして来るのかなぁ」
「ある程度付き合ってからならあたしを落すのに色々な手があると思うけど、最初のとっかかりで自分の気を引いてくれるようなことって何だろう?」
「自分の場合はマメで優しくしてくれるのがいいな。山根君はオレについて来い的な所があるけど、あたしはそう言うのは苦手だなぁ」
「話をしていて、楽しいとか、いつも自分にプラスになる話題とか、自分の気持ちを汲んで話をそっちに持っていってくれるとか」
「でも、あたしが振り向くとすれば、やっぱ言葉とかプレゼントとかの行為じゃないなぁ。側に居てなんとなく安心できる気持ちになれるとか、彼の中にちゃんと自分の居場所があるとか、自分だったらそんなのに惹かれちゃうなぁ」
「男の子でも同じなのかなぁ」
あれやこれやと考えている間にお弁当のおかずが出来上がってしまった。明日朝ご飯を炊いて詰めるだけだ。明美は小学生の時から母親を手伝って一緒に調理をしてきたので料理には自信があった。
明美が出社すると、希世彦は既に机に向かってしきりに資料に目を通していた。そんな姿も素的だ。
「おはようございます」
「あっ、休日出勤の手続き、ありがとう」
セキュリティーロックが外れていたので、希世彦は明美が頼んだ通り手続きを済ませてくれたことに気付いていた。
「休日だから、甲斐さんはわざわざ出て来なくても良かったのに」
そう言う希世彦の言葉には明美への気遣いが感じられて心地良い。明美は給湯室でお湯を沸かしに行った。コーヒーを煎れて戻ると、希世彦が見終わった資料を整理した。資料には沢山付箋が付けてあった。取れかかった付箋をしっかり留めたり、資料番号やページがばらばらになっているのを揃えたりした。周りに目をやると、休日だからか出勤者は誰も居なかった。
「明美さんがそうして整理してくれると助かるよ」
さりげなく言う希世彦の言葉を聞きながら明美は手際よくせっせと整理をした。
「これ全部旅先にお持ちになられるのですか」
「そうだよ。インターネットじゃ検索しても出ない資料ばっかですから」
印刷物は少しまとまると重い。それを全部旅先で持ち歩く希世彦を想像すると明美は出張でもこんな出張じゃ疲れるなぁと思った。
「こんなに持ち歩いてお疲れになりませんか」
「ああ、たまには資料を全部捨ててしまいたくなることがあるよ」
と希世彦が笑った。希世彦は爽やかな笑い方をする。
「あらっ、もうこんな時間」
明美が壁の掛け時計を見ると一時半を過ぎていた。
「昼食になさいません?」
と明美が言うと、
「あと少しだから全部終わらせてそのまま帰ります」
と希世彦から返事が返ってきた。明美はせっかく一緒にお弁当をと思って頑張って作って来たのに悲しくなってしまった。
希世彦は黙々と資料に目を通し、二時過ぎにようやく終わったらしく腕を上げて深呼吸した。
「終わった。明美さんありがとう。コーヒーカップとか後は僕が後始末してから帰りますから、どうぞお先に帰って下さい」
と言うではないか。
希世彦が立ち上がった時、明美は無意識に希世彦の後からウエストに腕を回して抱き付いた。振り返る希世彦に、
「あたしが作ったお弁当、ご一緒に食べて下さい」
と訴えるような気持ちで囁いた。明美はもう胸がドキドキするは、顔がほてって火が点くのじゃないかと思うほどだった。
希世彦は困ったような顔をした。だが、
「そうですか。じゃ一緒にご馳走になります」
と言ってくれた。このまま、
「急ぐから」
などと言われて帰ってしまったら一体自分はどんなにか悲しくて落ち込んでしまっただろうかと想像すると恐ろしくなったが、希世彦が気持ちを察してくれて、明美は思わず涙をこぼしてしまった。それを見て、
「どうかなさいましたか」
と希世彦がポケットからハンカチを差し出した。物事はタイミングだ。希世彦が差し出したタイミングはすごく良かった。気が付けば明美は希世彦のハンカチで頬の涙を拭っていた。ハンカチを出されるのが少しでも遅れたら、そうはならなかったかも知れない。希世彦の問いに、
「あたし、嬉しくて……」
そう答えるのが精一杯だった。
明美は給湯室から熱いお茶を煎れて持ってきた。それで打ち合わせに使っている小さなテーブルに持ってきた弁当を広げた。
「これ、全部ご自分で作られたんですか」
「はい」
希世彦は美味しそうに次々とたいらげて、結局持ってきた弁当箱は空っぽになった。明美は嬉しくてまた涙が零れそうになるのを必死にこらえた。
後始末を二人でやって、手を洗う時、明美は自分のハンカチを差し出して、
「これ使って下さい」
と言うと希世彦は素直に受け取って、それで手を拭った。ほのかなフレグランスの香りが希世彦の鼻腔を刺激した。周囲の点検を終わると二人でオフィースを出た。時計は三時を回っていた。三井タワーのエントランスを出ると、
「たまにはお茶くらい差し上げないといけないのですが、これから人に会う約束がありますので。手作りのお弁当、すごく美味しかったです。ご馳走様でした」
と希世彦が言ってバイバイと手を振った。遠ざかる希世彦の後姿を見て明美は、
「すごく美味しかったです」
と言われたことを思い出しながら、希世彦の後姿が次第にぼやけて見える目をそっと希世彦のハンカチで拭った。
百七十二 迷い
「希世彦、あなたヨンヒさんのこと、どう思ってるの」
週明け、珍しく希世彦が家にいたので、沙希は希世彦の気持ちを聞いてみた。最近モデルさんのアオハとデートすることが多い。母親としては息子の将来のことを色々考えてしまうのだ。
「一言で言えばあまり好きじゃないな」
「あら、どうして? 可愛らしい娘さんじゃない」
「可愛いし、僕のことを好きらしいんだけど」
「けど?」
「ん。言ってしまってもいいのか分らないけど、彼女、すごく贅沢でわがままなとこがあるから。うちは母さんも沙里もお金があっても無駄遣いしないし、僕もどっちかと言うと節約志向かな。そこが何となく合わないんだよなぁ」
「そう? パク会長の話しだと何不自由なく育ったらしいからそうかも知れないわね」
「じゃ、アオハさんは?」
「彼女は僕と同じで、お金は稼いでるらしいけど、あまり無駄遣いはしない方だね。ヨンヒさんと違っていつも一歩譲ってくれるとこが気に入ってるんだ」
「そう。じゃ、ヨーロッパに出かける前にうちに連れていらっしゃい。おばあちゃんと一緒にちゃんとした形で会ってみたいわね。ヨーロッパへはアオハさんを連れて行くのでしょ?」
「ん。連れて行くつもりにしてる」
「じゃ、なおさらね。アオハさんの時間が取れないなら夜でもいいわよ」
「じゃ、彼女と話をして連れてきます」
人は旅に出るとまま大胆になることがある。沙希は二人で外国に出かけている間に希世彦とアオハが男と女の関係になる心配もしていた。
希世彦が出かける二日前に、希世彦から沙希に連絡があり、夕方アオハを家に連れてきた。
「あなたたち、夕食は終わったの?」
「まだです」
と希世彦が答えた。アオハは緊張しまくっていて、なかなか口から言葉が出なかった。
「アオハさん、巻き寿司を作るから手伝って下さらない?」
アオハとは初対面ではなかったので、沙希はアオハと一緒にキッチンに立ってみるつもりでいた。
「あたし、お料理は苦手ですけど」
と言いながらアオハは素直に台所に並んで沙希の手伝いを始めた。沙希は研いであった米を炊いて、アオハと一緒に酢飯を作った。具は予め揃えてあった材料を使って調理して、色別に分けて揃えた。アオハは苦手だと言ったわりには手際よく手伝った。
「あなた、お母さまを早くに亡くされたそうね?」
「はい」
「お料理はよくお手伝いなさったの?」
「母は家であまり調理をしませんでした」
「それにしちゃ色々良くご存知だわね」
「あたしは嫌いじゃなかったから中学生の頃から自分でお料理をしました」
「そうなの? 色々作れるの?」
「凝ったものでなければ作れます。今でも時々キッチンに立って楽しんでいます」
金太郎飴のようにいろんな色の具材を並べて海苔で巻いて太目の巻き寿司を作った。包丁を入れると綺麗な花模様の巻き寿司が出来上がった。
「あっ、可愛いっ」
アオハは嬉しそうに、
「お義母さま、試食してもいいですか?」
と聞いた。沙希が頷くと、アオハは両端のみみの所をつまんで口に入れた。
「美味しいっ!」
吸い物と一緒に出された色々な花模様の巻き寿司を祖父の善太郎、祖母の美鈴に妹の沙里も加わって皆でつついた。質素な夕飯だが、アオハは家族が集まって楽しく食べる夕飯が何て素的だろうと感じていた。
お茶になって、美鈴がアオハに聞いた。
「お母さまは生前どんなお仕事をなさってたの?」
「あたし詳しいことは知りませんが、仙台でラ・ポワトリーヌって名前のクラブの経営をしてたみたいです」
「お父様は?」
アオハはその質問に口ごもった。それを見て善太郎が口を挟んだ。
「アオハさん、いやアオハは芸名だね。本名は奈緒美さんだったね。奈緒美さんのお父さんは都筑庄平さんと言う方だそうだ。わしも奈緒美さんに頼まれて色々調べさせてみたんだが、失踪して未だに消息が分らんのだよ」
「じゃ、お母さんが女手一つでお育て下さったのね」
と沙希が尋ねた。
「はい。苦労してました」
と奈緒美は微笑んだ。奈緒美にとっては思い出すと辛い話なのだ。それを悲しくならないように微笑で返した。美鈴はそのことを察して、
「こんな話、お辛いでしょ? でも希世彦ちゃんの大切なお友達ですからわたしたちも少しは知りたいの。ごめんなさいね」
と付け加えた。
「奈緒美さん、ご兄弟は?」
と美鈴が聞いた。
「弟が一人居ます」
「今ご一緒にお住まい?」
「母が亡くなって、あたし達未成年でしたので、あたしは今の義母の川野珠実の養女として引き取られました。弟は福岡県八女市の今井家の養子として引き取られて行きました」
そう言い終わると、奈緒美の頬に一筋の涙が零れた。美鈴は、
「辛いことばかりお聞きしてごめんなさいね」
と労わった。
「もう聞きません。でもあと一つだけ教えて下さいな」
「はい。どうぞ」
「あなたを産んで下さったお母さまのお名前は?」
と沙希が尋ねた。
「あ、すみません。大事なことをお話してなくて。母の名前は加奈子です。岩井加奈子でした」
岩井加奈子と奈緒美の口から出た時、沙希は耳を疑った。それでもう一度聞き返した。
「岩石の岩と井戸の井の岩井さん?」
「はい。その通りです」
「そう? 岩井さんねぇ」
沙希は平静を装っているつもりだったが、奈緒美に顔を読まれてしまったようだ。
「もしかして母をご存知でした? あっ、そんなことはないですよね」
「ちょっと知ってる方とお名前が似ていて。もちろん人違いですよ」
沙希は心の中がまだ動揺していた。それで話題を変えた。美鈴も沙希に合わせて別の話題に合わせた。善太郎は黙って聞いていた。
たわいのない話しが途切れたのをきっかけに希世彦が、
「もう遅いから、母さん車使うよ」
と言って奈緒美を送って行った。
「ヨーロッパはパリだけでいいかい?」
「あたし、パリは一日だけにして、ピュイドゥー・シェブレにもう一度行きたいな。希世彦さん、お願い。連れてって。あたし、また武藤千春さんの所に行きたいの。それとアルプスにも行きたいな」
「分った。そうするよ」
「嬉しいっ!」
奈緒美はすごく喜んだ。
「じゃ、旅行の計画は決まりだな」
「はい。あたし、すっごく楽しみになってきたな」
「お義父さま、しばらくです」
「あはは、また何か用事が出来たのか?」
六本木のクラブ、ラ・フォセットの社長の柳川は沙希の心を察していつものように、
「どんなことだ?」
と聞いた。
「岩井加奈子さんのことですが」
「久しぶりに聞く名前だなぁ」
「はい。彼女、ラ・フォセットを出てからのこと分りますか?」
「いや、あれ以来何も連絡がないので分からんなぁ」
「仙台のクラブでラ・ポワトリーヌって名前聞いたことあります?」
「何か仙台に関係があるのか?」
「岩井さん、仙台でお仕事をなさっていたなんて聞いたことありません?」
「聞いたことはないが確か彼女の実家は仙台だと聞いていたな。そう言えばラ・ポワトリーヌの噂を一度聞いたことがあったよ。なんでもうちに似た品の良い店だとか」
そこまで聞いて沙希は加奈子に間違いと確信した。女の勘だ。それで、沙希は近い内に一度仙台に行ってみようと思った。
百七十三 母性
希世彦と奈緒美は仲良く羽田を飛び立って行った。一頃は欧州へは成田と決まっていたが、最近は羽田からでかける者が増えた。
奈緒美がしばらく不在なので、川野珠実は仙台のマンションに戻っていた。
あの日、奈緒美の口から出た岩井加奈子の名前は、沙希の脳裏に悪魔の再来のように蘇っていた。沙希は奈緒美の産みの親が、元同僚だった加奈子とは別人であることを願ったが、一方女の勘が自分を殺そうとしたあの加奈子だと告げていたのだ。
「兎に角、確かめてみなくちゃ」
息子の希世彦を思う沙希の母性が沙希を突き動かした。
奈緒美の義母の珠実とは面識がなかったが、奈緒美に仙台のマンションの場所を聞いていた。それで、とりあえず、沙希は珠実のマンションを訪ねて、色々聞いて見ることにした。
珠実はタレント養成所、カナ・プロダクションの社長を勤めていたが、聞けばカナ・プロのカナは加奈子の名前にちなんで付けられたと言った。
「奈緒美さんの実母の加奈子さんのこと、もう少し教えて下さいな」
「どうぞ。わたしが知っていることは全部お話します」
珠実は快く沙希の希望を受け入れてくれた。
「もう二十年近く過ぎてしまいましたが、当時わたくしは地元の某TV局に勤めておりました。加奈子さんが仙台の繁華街の中心地に東京でホステスをなさっていた時代に勤められていたクラブの雰囲気を再現したいと、クラブ、ラ・ポワトリーヌを始められまして、その時に昼間クラブを使っていない時にフロアを有効活用する目的でタレント養成学校、カナ・プロダクションを始められました。わたくしはその時に強く誘われまして、それ以来ずっとこのプロダクションに居ます」
「じゃ、奈緒美さんとは子供の頃から?」
「いいえ。当時はわたくしはアシスタントみたいな形で、他の子たちのことで目一杯でしたから、奈緒美さんが娘さんになられるまでのことは殆ど存じません」
「奈緒美さんがおいくつ位の時から?」
「奈緒美ちゃん、中学に入る頃から急に綺麗になって、それで私が提案してモデルさん目指して養成してみたいと預からせて頂いたの」
「わたしも初めて病院でお目にかかった時、ドキッとするほどお綺麗だったのを覚えていますわ。ほんとうに綺麗な娘さんね」
「はい。東京の大手の化粧品会社のオーディションに応募した時から頭角を現して、ご存知の通り今ではちょっと有名なモデルさんになりました」
「そうなの。わたしも最初にお目にかかった時、あらこの方TVで見たわ、なんて直ぐ分りましたもの」
「所で、奈緒美さんの父親のことはご存知ですか?」
珠実は困った顔をした。
「実はわたくしも探しているのですが、消息が全然分りませんでどうしたら良いのか困っておりますの。奈緒美ちゃんが可哀想で」
「写真か何かありますか?」
珠実は少し考えてから、
「確か一枚だけ、奈緒美ちゃんのお部屋に飾ってあったわね」
そう言って奈緒美の部屋に行った。だが戻って来ると、
「すみません。確かにあった写真ですが、今はその写真の代わりに希世彦さんとご一緒のツーショットの写真に入れ替えられていて見付かりません」
と謝った。珠実が手に持っている写真立てには希世彦と奈緒美が頬を寄せ合って笑っている写真が入っていた。結局都筑庄平のことは何も聞けなかった。
東京に戻ると、沙希は善太郎と美鈴に、
「あの岩井加奈子に間違いありませんでした」
と報告した。美鈴は仰天して、
「意地悪な神様だわね。世の中に女の子はいっぱい居るのに、選りによって希世彦ちゃんが好きになった人が加奈子の娘だなんて、ほんと信じられないわよ」
と言った。
「沙希さん、あなたどうするつもり?」
「……」
義母の美鈴が聞いた。沙希はあまりのショックにまだ心が決まっていなかった。
「このことは希世彦ちゃんには絶対に話してはダメよ」
「分ってますけど」
「けど?」
「あたしが隠していても、母親が加奈子だと名前が出れば、章吾さん、美登里さん、マリアさんには必ず知れると思うの」
「じゃ、みんなに話をして、子供たちには絶対に内緒にしてとお願いするしかないわね」
「はい。でも先々希世彦が奈緒美さんと結婚することになれば、一つ屋根の下でずっと一緒に暮らすことになるわね。一生秘密を抱えて暮らすなんて」
「そんな弱気じゃダメですよ。あなたは母親なんだから希世彦ちゃんと奈緒美さんを守ってあげなくちゃ。世の中じゃ知らなかったために不幸になることと、知ってしまったために不幸になることがあるわね。加奈子のことを知れば希世彦ちゃんと奈緒美さんは必ず不幸になると思うの」
「いっそのこと、事実を話して希世彦にお付き合いを諦めさせようかしら?」
先ほどから二人の話を黙って聞いていた義父の善太郎口を開いた。
「沙希さんと加奈子さんのことは親同士の憎しみだろ? 子供には何の関係もないことだから、母さんが言う通り、沙希さんは希世彦ちゃんを守ってあげなさい。奈緒美さんとは今まで何回かメシに付き合ってもらったけれど、素直で正直でとても気立ての良いお嬢さんだよ。あれは加奈子の血でなくて、恐らく父親の血を引いてるんだろうね。この先、万一秘密が漏れてしまうようなことがあれば、それはその時に考えれば良いことだよ」
沙希は割り切れない気持ちが残ったが、希世彦と奈緒美が既に恋愛をしている様子なので、義父の勧めに応じてこのままそっとしておくことにした。夫の善雄には今後機会を見て話そうと思った。
百七十四 プラハへ
加奈子のことを調べて一息付いた時、沙希に夫の善雄から電話が入った。
「もう眠っていただろ? 夜遅くにゴメン」
地球の裏側の欧州から電話をすると、日本の変な時間に電話が来たりする。
「はい。休んでました」
眠そうな沙希の声だった。
「希世彦は出たか?」
「はい。アオハさんと一緒に出ました。なんでもスイスのローザンヌの方に知り合いが居るとかで、そちらに遊びに行きました」
「沙希はどうなんだ? 時間を作ってこっちに遊びに来ないか?」
善雄は今まで妻をほったらかしにしていたが、出張に出る前に沙希と夫婦の一夜を過ごしてから、これからはたまに出先に呼んでやろうと思っていた。それで電話をしたのだ。
「時間なら大丈夫ですよ」
「そうか。じゃ明後日にでも家を出て、パリを経由してチェコのプラハに来ないか?」
「プラハなんて素的な所だわね。今そちらでお仕事?」
「そうだ。一ヶ月位滞在するのでプラハの市内にレンタルのフラットをキープしてあるんだ」
要は賃貸しアパートと言うかウイークリーマンションみたいなのを借りているらしい。
沙希は美鈴と沙里にプラハ行きを告げると沙里は、
「ねぇ、あたしも連れてってよぉ」
と一緒に行くと言い張った。
「学校は?」
「一週間か十日位なら全然平気。友達にノートを見せてもらうから」
結局沙希は娘の沙里を連れて行くことにした。だが、それだけでは済まなかった。美登里から電話が入って志穂も連れてって欲しいと言うのだ。美登里は自分も連れて行って欲しいが、章吾を一人残して娘と一緒に長期の旅行に出ては章吾が可哀想だからなんて言う。沙希は善雄に対してそんな風に考えたことがなかった。母の美鈴が居るので自分が少しの間家を空けても善雄や善太郎は不自由がない。
沙希は、
「三人で押しかけるけど泊まるのは大丈夫なの?」
と聞くと善雄は、
「そりゃ、大歓迎だなぁ」
とかえって喜んだ。
二日後の夕方、沙希、沙里、志穂は三人揃って羽田を飛び立った。早朝パリのドゴール空港に着くとパリでトランシットしてエールフランスのプラハ往きに乗り換えて二時間弱、お昼頃には眼下にオレンジ色の瓦屋根の家並みが見えて、飛行機は滑るようにプラハ・ルズイニェー空港に着陸した。
入国審査を終わってゲートを出ると、善雄が空港に迎えに来てくれていた。
「お父様」
「小父様」
沙里と志穂が善雄に抱き付いた。善雄は可愛い娘二人に抱きつかれて、沙希が居るのを忘れているかのようだ。それを沙希は幸せの一つの形だと思って眺めていた。
プラハの空港は郊外にあり、地下鉄だと市内まで一時間近くかかる。沙希たち三人は善雄が乗ってきた赤っぽいチェコ製シュコダのオクタヴィアに乗り込んで市内に向かった。どうやら車の方が早く着くらしい。
善雄が借りているフラットは3LDKの造りで部屋が広くゆったりとしていた。
「あなた、こんなに広い所にお一人で住んでいらっしゃるの?」
と沙希が言うと、
「一人だが時々社の者が数人やってきて僕の手料理でビアパーティーをやったりするんだ。泊まっていく奴もいるんだよ」
と笑った。沙希は驚いた。善雄は家に居る時、台所に立ったことがないのだ。自分の手料理を他人に出すなんて信じられない。
「へぇーっ、あなたがお料理なさるの?」
「そうだよ」
善雄はさらっと言ってのけた。
チェコはビールの生産国だ。国民一人当たりのビールの消費量は世界一と言われるくらい、チェコの人々はビールを良く飲む。当然美味しいビールもあるのだ。
夕食は四人で市内のレストランに出かけた。チェコでは肉にポテトやキャベツの酢漬けを添えた料理が普通だが連れて行かれたレストランはハイクラスな所で凝った料理が次々とテーブルに並んだ。
「市内のマーケットで食材を買うとすごく安いけどね、レストランはこれだけの料理が出ると一人当たり100ドル弱で日本とあまり変らない値段だね」
女達は値段を気にするので善雄はそんな風に説明した。
フラットに戻ると翌日のプランを相談してから部屋割りを決めた。善雄が普段寝起きしている部屋に沙希と善雄が、別の部屋に沙里と志穂が寝ることになった。
「プラハは歴史の旧い街だからね、見る所は沢山あるよ」
そう言って日本で出ている観光地図とミシュランの短期滞在用のガイドブック・プラハ版を出してくれた。
「大体行きたい所が決まったら、それをカバーしているワンデーツアーを利用するのが効率がいいよ」
と付け加えた。
翌日、女達三人はプラハ城、カレル橋、旧市街広場の名所を一回りするワンデーツアーを予約して朝から出かけた。善雄は仕事だ。
次の日は沙里と志穂が相談してブルノの街に行きたいと言った。ブルノは昔モラヴィア帝国の首都だった所で観光に良い所だ。鉄道でプラハから三時間位かかるので、善雄が一泊ホテルを予約してくれた。沙希と一緒に娘達を駅に送って見送ると善雄は、
「今夜は二人きりだから市内のホテルにでも泊まらないか」
と沙希を誘った。
「あなたの所でもいいのに」
と言う沙希を制して、
「いや、めったに二人っきりになれないから」
とホテルに泊まることに決めた。
翌日善雄が部屋を取ってくれたホテルは Alchymist Grand Hotel and Spa と言う所だった。東欧の文化を伝えるような内装と調度品を見て、沙希は善雄のもてなしの気持ちに感謝した。
このホテルでは女性を磨くアロマティスト・ビューティ・ファームがあって、一週間ほど泊まりでエステや温泉で心身ともにリラックスさせるプログラムがある。ダイエットも兼ねてケアをしてくれるわけだ。善雄は沙希に、
「一週間くらいここでゆっくりしてみないか」
と提案したが、娘達と一緒だからと翌日から二泊三日にしてもらって、娘達がブルノから帰ってきたら合流して一緒にエステをしてもらうと言った。それで善雄がスタッフに交渉して三人の特別プログラムを作ってもらった。明日から沙希は更に二晩ここのホテル暮らしだ。
最初の夜は沙希と二人だけなので、何も気にしないで夫婦で愛し合った。沙希は善雄の愛撫に応えて燃えた。子供たちが大きくなり、気持ち的に余裕ができた。それで、沙希は若い頃の気持ちで善雄と愛し合った。生活の煩わしいことから解放されて異国の素的なホテルで過ごした一夜は沙希の忘れ得ない想い出となった。
百七十五 つのる想い
恋愛小説では、男を好きになって、恋しくて胸を締め付けられるような思いをする女のことを書いたものは珍しくはないが、自分には一生決してそんなことは起こらないだろうと、甲斐明美は思っていた。なのに、希世彦が欧州に出張にでかけてから、明美の胸の奥底が奇妙に疼いて、あの日、自分の手作りのお弁当を美味しそうに食べてくれた希世彦に抱きしめられて、自分をめちゃくちゃにしてくれているシーンを妄想してしまうのだ。
そんなふうに思い続けている間に、明美は自分の中に今まで気付かないで居た熱い部分が潜んでいるのを知った。
明美は、仕事にかこつけて希世彦に電話をして、ちょっとだけでも希世彦の声を聞きたいと思った。少し前までは、男の声を聞きたいなんて感じたことは一度もなかった。それなのに今はどうだ、声だけでも聞きたいという気持ちが胸の奥から湧きあがってくるのだ。
人は誰でも本当に思っていることは行為となって現れるものだ。相手を毛嫌いしている女は、自分で気付かないのに表情や言葉の言い回しにそれが表れるし、相手を好きだと思っていると、つい自然に動作や言葉遣いの中にその気持ちが出てしまうものだ。
明美は希世彦の声を聞きたい、ただそれだけの理由で、仕事先の海外に何度も電話をした。だが、電話に出るはずの希世彦が、どうしたことかこの三日間電話に出てくれないのだ。そうなると、
「この前差し出がましいことをしてしまって、希世彦さんに嫌われてしまったのかしら」
とか、
「何か体調でも崩されて電話に出られないのかしら」
とか、
「もしかして、携帯を紛失されたのかしら」
とか色々なことを考えてしまう。あれこれ考える度に胸の奥底が疼いてしまう自分を明美は持て余していた。
別荘でのお風呂のことをパク伯父様に話してしまったヨンヒは、あれ以来希世彦から電話もメールも来なくなってしまったのですっかり落ち込んでいた。最近は学校の勉強も頭に入らずにややもすると、
「希世彦さんは今何をなさっているのだろう」
などと希世彦のことを考えてしまう。思い出して見ると、別荘地で落馬して入院した時は、毎日付きっ切りで看病してくれて、とても優しくしてもらった。それが昨日までのことのように思い出されるのだ。ほっそりとした指の大きな手で自分の手を握ってくれて心配そうに自分を見つめていた希世彦のあの優しい目を思うと会いたくて会いたくて仕方がないのだ。
ここのとこ三日も続けて希世彦に電話をしたりメールを入れたりしているのに、希世彦から何の連絡もなくメールの返事も来ないのだ。以前なら必ず直ぐに返事が返ってきたし、少し遅れた時は申し訳なさそうに言い訳をしてくれた。
「やはりパク伯父様が変なことを言ってしまって付き合ってくれなくなったのかなぁ」
ヨンヒはそれでも諦めずに、希世彦の自宅に電話をしてみた。
「はい。米村です。どちら様でしょうか?」
電話に出たのは少し声が違うような気がしたが、希世彦の母親だと思った。
「もしもし、希世彦さんのお母さまですか? あたしヨンヒです」
すると、
「ああ、韓国の方ね。生憎サキは出かけておりますのよ。何かサキにご用ですか」
と返事が返ってきた。
「明日はご在宅ですか」
「それがね、遠くへ出かけておりまして、一週間か十日間くらい戻らないと思いますのよ。ごめんなさいね」
ヨンヒは、
「ついてないなぁ」
と韓国語で呟いてしまった。
「えっ、少し聞き取りにくいのですが」
「あ、何でもありません。ありがとうございました」
ヨンヒはもしかして希世彦が自分に会いたくなくて避けているのではないかと思った。そう思うと居ても立ってもいられなくて、週末東京に来てしまった。ヨンヒは希世彦の家がどこにあるのか知らない。それで大学を訪ねて見た。希世彦が言っていた工学部を訪ねると希世彦の友人だと言う男が来て、
「米村君は当分休むと言って届けが出ています」
と言われた。
「何か理由を聞いておられませんか」
「さぁ、彼は時々授業をサボって休むくせがありますから、僕たちはまたかと思って気にしてないんですよ」
と申し訳なさそうな顔をした。
そうなるとヨンヒはあせった。何としても家を訪ねて居留守を確かめずには気が済まなかった。それで、友人と言う男から自宅の住所を聞いて捜し歩いた。
随分探し回った末、メモにある家を探し当てた。だがヨンヒは信じられないでいた。表札には確かに[米村]と書いてある。だが、普通の労働者が住むような家で庭も殆どないみすぼらしい家だったからだ。ヨンヒが聞いていたのは従業員一万人以上も抱える大会社の社長の息子だ。パク伯父さまの会社よりも規模が大きい国際的な企業のはずだ。なのにこんなみすぼらしい家に住んでいるなんて信じられない。
ヨンヒの所は韓国では珍しくはないが大家族が同じ敷地の家に住んでいて、大きな門を入ると50m位車を進めた先に玄関がある。大きな玄関だ。家もこのみすぼらしい家の少なくとも数倍の大きさだ。敷地だって三千坪以上だ。周囲はどっしりとした土塀で囲んである。それに対して希世彦の家は簡単な丈の低い鉄格子のフェンスで囲ってあるだけだ。敷地もこれじゃせいぜい百坪あるかないかだろう。
「こんな小さな家で、結婚したらあたし一緒に住めるのかなぁ」
それでヨンヒは希世彦の印象がすっかり変ってしまった。見てはいけない物を見てしまったような気がした。
家の前を行ったり来たりしている内に家人と思われる老夫人に声を掛けられた。
「何かこちらにご用ですか」
声は電話に出た婦人と同じ声だった。
百七十六 戻らぬ娘達
沙希はホテルでその日に合流する予定の娘沙里と章吾の娘志穂を待っていたが夜になっても二人は帰ってこなかった。心配になって、沙希は夫の善雄に電話を入れた。
「あなた、沙里たちはまだこちらに来ませんがちゃんと伝えてくれましたの」
「えっ? そっちに行ってるものだとばかり思っていたがまだ行ってないのか」
「なんだか、あたし心配になって」
「そりゃ大変だ」
善雄は慌てた。
沙里と志穂は昼前にチェコの第二の都市ブルノに着くと、モラヴィア美術館、モラヴィア博物館、聖ヤコブ教会など精力的に見て回った。旧い都市で、どこに行っても良い感じだった。街の人々も親切で快適な観光を楽しんで、夕方遅く、父の善雄が手配をしてくれたホテル、インターナショナルブルノホテルに投宿した。
その日の内に売店で土産を買って、翌朝は早起きして、かってナチスドイツが占領時、八万人もの人々をここの地下牢に閉じ込めて拷問したと言われるスピルバーク城へ出かけた。城址を見て回り、昼過ぎに市街に戻ってレストランで昼食を済ますと、二人は旅気分に酔いしれて、旧市街を見て歩いていた。日本のチェコ観光旅行者は最近では年間十五万人近くにもなると言う。だが、殆どは首都のプラハまでで、この素的な街ブルノにまで足を延ばす人は少ないそうで、沙里たちも日本の観光団体に会うことはなかった。
志穂と沙里は夕方の列車でプラハに戻る予定だった。旧市街を二人が気分良く談笑しながら歩いていると、突然子供がしゃがみこんで泣き出した。志穂が駆け寄って、
「どうしたの?」
と子供に話しかけても子供は泣くばかりだ。沙里も志穂もチェコ語(西スラヴ語)が全く分らないのでどうしようもない。チェコは元々多民族の寄せ集めで、スロヴァキア語、ポメラニア語、ポーランド語、ソルブ語などが入り混じっていて、言葉の難しい国なのだ。
沙里と志穂が困っていると、いつの間にか周りに人が集まってきて人だかりとなった。そこに制服を着た警官らしい男が現れて何やらまくしたてた。警官は警察手帳に相当するカードを志穂に見せて、
「ちょっと来い」
と言う仕草をした。言葉は分からないが、どうやら志穂たちが子供を泣かせたと言っているらしい。警官は沙里と志穂の腕を取ってぐいぐいと引っ張り近くの建物の中に連れ込んだ。警官と一緒に数人の若い男たちが付いてきた。志穂が、
「あたしたちは何もしていません」
といくら言っても言葉が通じない。どうしようもないのだ。
警官は志穂と沙里を部屋に連れ込んで、バッグを奪うと[待ってろ]と言う仕草をして鍵を掛けて出て行った。志穂がドアーを開けようとノブをガチャガチャやってみたが、扉は開かない。
「沙里、困ったなぁ」
沙里はもう先ほどまでのルンルン気分が消え去って泣きそうな顔をしていた。
しばらくすると、ガチャッと開錠の音がして、先ほど警官の後をついてきた男たちが四人部屋に入ってきた。彼らは二人に近付くと、志穂と沙里を引き離して壁に押し付けてニヤニヤしながらパンツのファスナーを引き下ろすとショーツに手を突っ込んだ。
「イヤーッ! やめてぇっ!」
志穂も沙里も叫んだ。もがく女を一人が押し付けるともう一人が自分のパンツをずり下ろして男の物をつまみ出して強姦を始めた。一人が終わると女を机の上に押し倒し、バックから攻めた。志穂も沙里も生まれて初めて輪姦されて、ぐったりした所で解放され、男たちは部屋を出て行った。辺りはもう薄暗くなっていた。
泣いてはいられない。志穂と沙里は施錠をしてない部屋を飛び出すと夢中で外に出て助けを求めた。だが言葉が分らない。道行く人々は皆過ぎ去って行く。と、中年の男が近付いてきて、
「メイ アイ ヘルプ ユー」
と声をかけた。どうやら英語が話せるらしい。それで志穂が、
「警察へ連れて行って下さい」
と頼んだ。
善雄は沙希の連絡を受けてから、直ぐに在チェコ日本大使館に連絡すると共に警察に捜索依頼をしてから、懇意にしているチェコ人の弁護士と一緒に飛行機でブルノに飛んだ。
ブルノに付くと空港から直ぐにブルノの警察に捜索を依頼した。その時点ではまだ志穂たちから救助の訴えは来ていなかった。善雄が空港からブルノの市街に着いた時、善雄の携帯に警察から連絡が入った。
「お嬢様お二人を確保しました。直ぐこちらへお出で下さい」
善雄は弁護士と共に警察に急行した。そこに泣いて目を腫らした沙里と志穂が居た。
「最近警官を装って旅行者から金品をまきあげる不法者が増えています。お嬢様から聞いた様子ではそんな奴等の手に引っ掛かったようです。大変申し訳ない」
と署長と思われる男が応対した。チェコでは刑事が着けている楕円形のバッヂと警察官が所持している身分証明カードが使われているが、偽警官は偽造カードを持っていて本物の警官のように騙して所持品の検査をすると見せかけてクレジットカードや現金を奪うらしい。大抵数名の仲間と共謀するようだと説明した。
「財布やパスポートなどバッグごと盗られてしまったようです。加害者は今全力で捜索しております」
善雄は娘達が強姦されたのを知って直ぐに病院に連れて行った。沙里も志穂も女性の部分を検査され膣内を洗浄されて、恐ろしさと恥ずかしさにすっかり落ち込んでしまっていた。
「この国では昔から外敵に征服される度に敵国の兵士に女達が強姦され、女達の間では抵抗せず静かにされるがままにしておれば命は助かると変な言い伝えが出来てしまっております。お恥ずかしい限りですが、強姦に世論が厳しくないのは過去の忌まわしい事実のせいです」
と弁護士が話した。
「最近は随分平和になり犯罪も減りました。今では犯罪はそちらのお国、日本の約1・5倍程度の犯罪件数で落ち着いておりますので、世界の国々から見れば治安は良い方です。お嬢様たちには何と言ってお慰めすればよろしいか、可哀想なことになりました」
弁護士は申し訳なさそうな顔をした。
病院を出るとその夜は弁護士と四人でブルノのインターナショナルホテルに部屋を取った。夜、ホテルの部屋に警察署長と日本大使館員、チェコ内務省の係官が揃ってやってきた。善雄と弁護士が応対すると、
「犯人はまだ逮捕されておりませんが、お嬢様のパスポートの再発行の手続きは直ぐにさせて頂き、明日お届けいたします」
と内務省の係官が代表して詫びを入れた。
善雄と弁護士は夜遅くホテルのバーで少しだけワインを飲んだ。弁護士は、
「余談ですが、強姦した性犯罪者を罰として去勢するって話し、ご存知ですか?」
と話し始めた。
「そりゃ、昔の話しだろ? 今はそんな刑罰は聞いたことがないなぁ」
「実は今でもあるんですよ。強制的ではないのですが、懲役を受けるか去勢を受けるか犯罪者に選ばせるようです。つまり去勢を受け入れたら、オチンチンを切り落とされてから釈放されるってことですな」
「チェコでも?」
「話しに拠ると、米国の一部の州とデンマークやスエーデンなどで適用されているようです。お国の隣国の韓国や私どもの隣国のポーランドでも将来適用するか検討をしているようです。チェコでは過去に九十四名の性犯罪者が完全去勢されたと言う話しがありますが、本当かどうかは分りません」
「完全去勢?」
「ああ、去勢には男の陰茎を切り落としてしまうのと、陰茎も睾丸、つまりキンタマですな、それを両方切り落としてしまう方法があり、両方やっちゃうのを完全去勢と言うんですよ」
と弁護士は笑った。
「他にも化学的去勢と言う方法がありましてな、睾丸萎縮剤を注射して男として生殖機能を無能化してしまうんだそうです」
善雄は去勢をされて女性を楽しませることができなくなったら、男としてどんなにかつらいだろうかと思いながら弁護士の話を聞いていた。だが、もし沙里と志穂を強姦した男たちが逮捕されたら、そいつらを全員去勢してやっても自分の怒る気持ちは治まらんだろうとも思った。
翌日四人はプラハに戻った。沙希の顔を見ると沙里と志穂は抱きついてわんわんと泣いた。結局全てのプランをキャンセルして、直ぐに帰国をすることになってしまった。本当は沙里も志穂もパリで二日間美術館回りを楽しみにしていたのだが、諦めた。
百七十七 パク・ヨンヒの心
チェコから帰国した翌日の夜、沙希は猪俣章吾を訪ねた。勿論章吾の妻、美登里も一緒だ。
「とんでもない事件に遭ってしまって……」
沙希はすまない気持ちで章吾に報告した。
「やっぱ若い娘だけの旅行は危険だな。以前麻薬の運び屋をやらされた苦い経験で少しは用心してくれるものと思ってたんだがなぁ」
「善雄が直ぐに病院に連れて行ってくれて、二人とも洗浄をして頂いたそうですけど、赤ちゃんが出来てしまったらどうしようってそれが心配で」
「そうねぇ、二人とも初めての男がレイプした悪い奴だったなんて可哀想過ぎます。懐妊の確率は高いわね」
と美登里。
「沙希さん、もしもよ、沙里ちゃんが懐妊したらどうなさるおつもり?」
「沙里の気持ちを聞かなくちゃいけないですけど、あたしは絶対に堕させたいわね。だって望まれない子供が誕生するなんて、子供にも不幸よ」
と沙希。
「あたしも堕させたいわね。世の中の娘を持つ母親はこんな場合やはりあたしたちと同じ気持ちかしら?」
起こってしまったことを考えても仕方がないので、沙希と美登里は娘達が懐妊してしまったらどうするかを相談しあっていた。結局、母親としては中絶を勧める方向で気持ちが固まった。
今まで黙って聞いていた章吾が口を開いた。
「二人の意見は分った。その方向でいいと思うけど」
「何かいけないことってある?」
「ん。オレはな沙里ちゃんと志穂の気持ちを良く聞いてから結論を出して欲しいんだ。ホステスの中には客とセックスして、うっかりして懐妊してしまって中絶をする奴、結構居るんだよな。けどさ、中絶した女性は、なんて言えばいいか、精神的に参っちゃう場合を結構見て来てるんだ。赤ちゃんを殺してしまったと言う罪悪感でさ、自殺まで考えてしまった子も見てるからさぁ、オレの気持ちは複雑だなぁ。だからさ、慎重に結論を出して欲しいんだ」
沙希と美登里は章吾の意見はもっともだと思った。
沙希たちがチェコに行っている間に、米村家を訪ねたパク・ヨンヒは迷っている間に美鈴に見付かって、結局座敷に上がってお茶をご馳走になるはめになっていた。
「ヨンヒさんとおっしゃったわね。あなたのお話しは娘から聞いてますよ。遠い所を希世彦のためにお越し下さったのね」
「はい。あたし、希世彦さんに会いたくて仕方が無くて」
「そんなあなたを置いて海外に行ってしまった希世彦も冷たいわね。一言出かけるからってあなたにご連絡をしておけばご心配をかけずに済んだのに」
ヨンヒの目に涙が光っているのを見て美鈴はヨンヒの恋は本物だと思った。
「希世彦さんは、どこにおられるか分かりますか」
「旅先で移動するらしいので、どこにと言われても分らないのよ」
「ご連絡はご自宅には入らないのですか」
「仕事の時は殆ど自宅へは連絡なしね」
「そうなんですか? 希世彦さんの携帯に電話しても取って下さらなくて」
美鈴は希世彦にはそれなりの理由があって電話に出ないのだと思った。それで、この話はあまり引っ張らないようにして、話題を変えた。
「今、学生さんでしょ?」
「はい」
「お勉強の方は大丈夫なの」
「はい。大丈夫です」
「いつまで日本に滞在されていらっしゃるの」
「希世彦さんに会えなかったら帰るつもりです」
ヨンヒは少し考えてから、
「ひとつ聞いてもよろしいでしょうか」
と別の質問をした。
「どうぞ。私で分ることなら」
「希世彦さんは普段はここに住んでいらっしゃるのですか」
「そうよ。うちはお爺ちゃんと私と、希世彦の両親、それに妹の沙里と六人家族なの。みなここに住んでますよ」
「こんな狭いお家にですか?」
その質問に美鈴は少し戸惑った。それで韓国の富裕層は大きな邸宅に住んでいるのが普通だと気付いて、
「ああ、あなたのお国では皆様大きなお屋敷に住んでいらっしゃいますね。日本でも資産のある方々は普通はもう少し大きいお家に住んでいますが、うちは贅沢をしない家訓なので、家訓って分りますか? うちの考え方だわね。それで六人が暮らして行ければ十分なスペースさえあればいいと思っていますのよ」
「お客様がいらした時は困りません?」
「そうね、お仕事関係の場合は大抵人数が多いですから、最初からここへはお招きしないのよ。あなたのようにお一人の場合は構いませんが」
「そんな時はどうなさるのですか?」
「うちはね。そんな時のために、あなたが前にお泊りになった軽井沢と箱根に温泉付きの別荘を持っているの。そこへご案内するのよ」
「そうなんですか? 箱根にも別荘があるんですか」
「あなたがよろしければご案内しましょうか」
「あ、いいんですか?」
「大切なお客様ですから」
美鈴は善太郎に電話をした。その時は皆海外に出かけていて善太郎と二人だけだったからだ。
「そうかい。じゃわしも行くから三人で箱根にでも出かけてゆっくりするか」
善太郎は快諾した。それで夕方早めに車を回すからと言って電話を切った。
四時過ぎに善太郎が帰ってきた。
「直ぐに出よう」
会社で使っている運転手付きの車だ。三人が車に乗ると直ぐに出た。美鈴は管理人に電話で連絡をしておいたので、食事の仕度もしてくれるはずだった。
着いたのは夕方だったがまだ明るく、富士山が見える五百坪の敷地の別荘は広々としていた。ヨンヒは別荘に入ると、
「そうなんだ。こんな立派な別荘があったんですね」
と嬉しそうな顔をした。
「今夜は年寄りの相手じゃつまらないだろうがゆっくり泊まって行きなさい」
善太郎に言われるまでもなく、ヨンヒは一晩泊まるつもりでいた。
善太郎も美鈴もヨンヒは素直な気立ての良い娘だと感じていた。随分高そうな洋服を着て偽物ではないアクセを沢山着けているが、それに負けない位綺麗な娘だった。
夕食は管理人の奥さんが腕を振るっただけあって、贅沢な食事だった。食事が終わって、コーヒーを飲みながら善太郎と美鈴はヨンヒに色々聞いた。ことと次第では跡取り息子の嫁になり、一緒に住むかも知れない娘だ。
「ご両親は健在?」
「はい。母はパク会長の歳の離れた妹で末っ子です。父は婿養子です。父はパク会長の会社の関連会社で建材を扱っている会社の専務取締役をしてます」
「ご兄弟は?」
「会長はあたしのことを一人っ子だと紹介することがありますが、実は兄が一人居まして、今は軍隊に居ます」
「二年間の兵役?」
「はい。ご存知だとは思いますが、韓国では二年間兵役の義務があります」
「あなたは確かソウル大学の学生さんでしたわね」
ヨンヒはソウル大学と言う言葉が出て、少し誇らしい顔をした。韓国は日本よりも学歴社会でソウル大学の学生は特別なステータスとなっているのだ。
「ご卒業後、何かなさりたいことがあるのですか」
「あたしモデルをやりたかったのですが、両親が反対で、それで結婚してからファッションデザイナーのお仕事なんかしてみたいなと思っていますの」
「じゃフランスとかにご留学も考えていらっしゃるの?」
「いいえ、そこまでは」
すると、善太郎が聞いた。
「希世彦のどこが好きなのかい?」
ヨンヒは少しはにかんだような顔で答えた。
「全部と言ってはウソっぽいですけど、今は全部かな。特に優しいとこが大好きです」
「ほう? 希世彦は優しいかね?」
「はい。軽井沢で入院している時、ずっと付き添っていてくれて、その時すごく優しくて、あたし、希世彦さんと絶対に結婚したいって思いました」
「そうかい? そりゃ希世彦は幸せなやつだな」
「それと……」
「それと?」
「お爺様もお婆様も、沙希お義母さまも妹さんの沙里さんも全部好きです」
「ご両親は希世彦との結婚に反対していないですか?」
「特に反対はありません。韓国では家長、今はパク会長ですが、家長の決定に従うのが普通ですから」
「日本でも第二次世界大戦以前は家制度がありましてな、戸主、つまり家長が家族の結婚に大きな力を持っていたんだが、戦後法律が変って今では結婚は本人同士の合意だけでできるんだよ」
「親が反対してもですか?」
「そうなんだよ」
「へぇーっ、信じられない」
「そうだろうね。昔は本家、分家なんてのがあったんだが、今はそれもなくなったんだよ。田舎に行けば少しはそんな考え方が残ってはいるが」
「韓国でも最近戸籍制度が廃止されて個人単位で登録出来るように変ったんですよ」
「そうだったね。あれは確か二〇〇八年からだったね」
「お詳しいんですね」
「戸籍制度は元々は税金を徴収したり徴兵する時のために設けられた制度だから、良い面もあるが悪い面もあったんだよ」
「あたし、希世彦さんと結婚したら日本国籍になるんですか?」
「そうだよ。役所に届け出た時から日本人になるんだよ」
「なんか複雑な気持ちがするなぁ」
ヨンヒは好きだから結婚する所までで、今まで日本の法律についてはあまり考えていない様子だった。
「さ、夜も遅くなったから、温泉にゆっくり浸かって休みなさい」
「はい」
はいと答えるヨンヒは素直で仕草がとても可愛らしかった。
ヨンヒが寝静まってから、善太郎は美鈴にひそひそと話した。
「希世彦は加奈子の娘と付き合っているんだろ?」
「今も二人っきりでスイスへ行ってるらしいわね」
「ヨンヒさんとはどうするつもりなんだろう」
「そんなことわたしに聞いても分らないわよ。わたしたちはしばらく様子見するしかないわね」
百七十八 星降る夜
ローザンヌでレンタカーを借りて、東へ15kmほどの葡萄畑が広がるピュイドゥー・シェブレと言う村に、奈緒美は元マネージャーだった武藤千春を訪ねて、希世彦と一緒に再びやって来た。千春は相変らず日焼けした健康そうな顔で二人を迎えた。
「またお邪魔しちゃった」
「大歓迎よ」
そこに農家の老夫妻も相好を崩して出て来た。
「いらっしゃい」
にこにこした老夫妻の顔を見て、奈緒美は来て良かったと思った。
一服すると、希世彦と奈緒美は前に来た時、夜空を見ながら初めて唇を重ねた想い出の場所に行って、また二人して石垣に腰を下ろして、脚をぶらぶらさせながら肩を寄せ合った。明るい内だったので、レマン湖の湖面が太陽の光を反射してキラキラと美しかった。二人はまた抱き合って唇を重ねた。今度はぎこちなさがなくなって、長い間唇を重ね、お互いの感触に酔いしれていた。あたりには人はおらず、空高く舞い上がった雲雀の囀りが一層気持ちを豊かにしてくれた。二人の様子を少し離れた所から千春が眺めていた。二人を見る千春の中では恋に破れた悲しみがほんの少しだけ蘇ってきて、胸が疼いた。まだ完全に忘れ去ることができなかったのだ。
「ママ、この前のモワチェ・モワチェがまた食べたいな」
奈緒美がおねだりをすると老夫人は、
「そう。じゃ今夜はそれにしましょう」
と仕度に取り掛かった。
スイスアルプスは、4000m級の峰が連なるイタリアとの国境のバリスアルプスの山脈と、やや北の方に平行して3000m級の峰が連なるベルナーアルプスの山脈がある。ベルナーアルプスの東北端に有名なアイガーの北壁がある。
「景色が綺麗なユングフラウ地方に行ってみようよ」
希世彦は奈緒美に明日からの予定を話した。そばで聞いていた千春が、
「お邪魔じゃなかったらあたしも行きたいな」
と遠慮がちに言った。
「いいよ。奈緒美、千春さんとご一緒でもいいだろ? ただし、二泊三日だよ」
「もちろんよ。あたし、お話相手ができていいよ」
奈緒美は快諾した。二泊三日は千春も了解した。翌朝早めに仕度をして、三人は昨日借りたシトロエンに乗り込んでベルンの方向に走り出した。スイスは道路が良く整備されていて、車も少ない。おまけにどこを走っても景色が抜群だ。ピュイドゥー・シェブレの村からレマン湖畔に出ると、フリーウェイのA9号に乗り入れ、途中ベベイでE27号に折れてベルンに向かった。ベルンからA6号線に入って少し走ると、アアレ川沿いのトゥンの町だ。ローザンヌから100kmくらいなので、十時頃に着いてしまった。トウンはスイスでも名の知れた観光地で遊ぶ所は色々ある。ここは城下町で旧い城壁も残っている。
車を流しながら景色を楽しんだ後、トゥン湖で遊覧船に乗った。遊覧船から見る景色はどこを取っても絵葉書にしたくなるような素晴らしい景色だ。
「少し早いけど、お昼ご飯にしよう」
希世彦は四っ星ホテル、クローネのレストランに案内した。
昼食が終わるとまたフリーウェイに乗ってインターラーケンに着いた。トゥンから30kmくらいしかないので、直ぐに着いてしまった。インターラーケンも観光地として有名な所だ。トゥンからインターラーケンまで、道の左側はずっとトゥン湖畔で美しい。千春と奈緒美はおしゃべりもせずに景色を眺めていた。希世彦は遊覧馬車の予約をして、千春と奈緒美に、
「一回り見物して来いよ」
と馬車に乗せた。
千春と奈緒美が戻ると公園を歩いて見ないかと誘った。広々とした公園は良く整備が行き届いていて気持ちが良かった。
「今夜はここに泊まろう。明日はここから登山電車で山に登ろうよ」
希世彦は五っ星ホテル Lindner Grand Hotel Beau Rivage に部屋を取った。同じホテルに二泊予約した。
「千春さんと奈緒美さんは同じ部屋にさせてもらったよ」
部屋を二つ取り、女性二人を一室に割り当てた。
「トリプルでも良かったのにぃ」
と千春が言ったが、
「気を遣わせちゃ悪いから」
と二室にした。ルームチャージはバカ高いが広いゆったりとした部屋で窓からの景色が格段に良い。夕食はホテルのレストランで済ませた。
食事が終わると外は暗くなっていた。
「ちょっと外に出て見ませんか」
希世彦は女性二人に声をかけたが、千春は遠慮した。
奈緒美と希世彦の二人は湖畔に出てベンチに腰掛けた。満天の星と言うが、希世彦は言葉では言い表せないこんな素的な星空を初めて見た。ふたりは肩を寄せ合ってしばらく星の数々に見とれていた。
希世彦は奈緒美を気持ち引き寄せると、奈緒美は素直に寄りかかってきた。そっと唇を合わせると、奈緒美は希世彦の首に手を回して希世彦を求めた。希世彦はしばらく奈緒美の乳房の鼓動を感じていた。
「希世彦さん好き。ずっとあたしを離さないでね」
喘ぐような奈緒美の囁きを希世彦はすごく可愛いと思った。
ホテルの部屋に奈緒美が戻ると、千春の書置きがテーブルの上にあった。
「ビューティーセンターでマッサージをしてもらってます」
と書いてあった。普段力仕事をしているから、こんな時はマッサージが必要なのだろうと奈緒美は思った。ビューティーセンターはどうやら日本人の経営らしかった。
ドアーがかすかにノックされたような気がした。希世彦はドアーの所へ行って、開けた。そこにうつむき加減の奈緒美が立っていた。
「千春さんにお部屋に行きなさいって強く言われて……。あたし……お邪魔でした?」
奈緒美は遠慮がちに呟いた。
「ああ、いいよ。入って」
と招き入れた。どうやら千春に背中を押されたらしい。
希世彦はアップルのiPadでメールチェックをして、甲斐明美に手伝ってもらって用意した資料の一部分を持ってきていたので、それをアタッシュケースから取り出して目を通していた。
「奈緒美さん、少しの間そこのワインを飲んで待っててね」
と言うと、テーブルに座って資料に目を通し始めた。iPadの画面には甲斐明美から少し長いメールが三通も届いていた。希世彦は奈緒美の目に触れないようにメールを閉じてインターネットのニュース画面に切り替えた。以前はノートパソコンを持ち歩いていたが、iPadにしてから軽くなり使い勝手も格段に良くなった。
奈緒美は真剣な眼差しで難しそうな英文資料を読んでいる希世彦を見て素的だと思ったが、仕事の邪魔をするようでやはり部屋を訪ねて来なければ良かったと後悔した。
「待たせてごめんね」
希世彦は仕事の手を休めて奈緒美のそばに来ると、奈緒美の額にチュッとした。奈緒美がまだグラスにワインを注いでいないのを見て、
「遠慮しなくてもいいよ」
と言いながら二つのグラスにワインを注いだ。
「可愛い奈緒美さんに乾杯!」
「なによ、希世彦さんたらぁ」
やっと奈緒美は気持ちが打ち解けて希世彦と一緒にワインを飲んだ。
「美味しいっ!」
「スイスはね、フランス語圏とドイツ語圏に分かれてて、フランス語圏の方はワインだな。ドイツ語圏は勿論ビール」
と言って笑った。
「お仕事のお邪魔をしてごめんなさい」
そう言って奈緒美は早々に部屋に戻って行った。本当は今夜希世彦に抱かれるかも知れないと覚悟をして、少しドキドキしながら部屋を訪ねたのだが、戻る時はすっかり気持ちが落ち着いていた。
部屋に戻ると、
「あら、早いわねぇ」
と千春に言われたが奈緒美は黙っていた。
翌日はインターラーケンから登山電車に乗って、左側にシューニゲ・プラッテの美しい山を見ながらラウター・ブルネンと言う駅で降りた。ここは絶壁に囲まれた谷間でU字形の地形の底に村がある。絶壁の凄さは言葉では語れないほどだ。千春も奈緒美も何度も感嘆の声をあげていた。ここから高い山に登る電車はレールだけじゃ滑って動けないので、全線歯車の歯を長く広げたようなラックに歯を合わせて急斜面を登って行くのだ。クライネ・シャイデックと言う駅に着くと、標高は2000m以上ありかなり寒い。千春と奈緒美は用意してきたハーフコートを羽織った。
ここからいよいよ標高3500m位のユングフラウヨッホに一気に上がる。富士山の頂上近い標高だ。天候が悪いと行けないが、その日は前日に続いて良い天気だった。途中からトンネルの中を走るから景色は見えないが、アイガーの所だけは展望できるようになっていた。終点で電車を降りると氷のトンネルの中を少し登って展望台に出る。
「キャーッ、スッゴイッ!」
千春も奈緒美も我を忘れ、周囲を気にもせず感嘆の声を上げて溜め息をついていた。ここから標高4158mのユングフラウを望む景色は行った経験がないと分からないだろうと思うほど凄い景色だと希世彦も感動を禁じ得なかった。
帰りは来た経路でなくて、ぐるりと一回りしてグリンベルバルトと言う駅を経由してインターラーケンに戻った。
ホテルに戻ると、
「希世彦さん、連れてきてくれてありがとう。すごく良かったよぉ」
と千春が希世彦の手を取って礼を言った。
次の日、昼食を済ませてから車に乗ってピュイドゥー・シェブレの村に戻った。老夫妻は昔一度だけユングフラウを見に行ったことがあると話してくれた。
鉄道でパリに戻ると、奈緒美を羽田往きの飛行機に乗せ、希世彦は父の善雄と連絡を取り合いチェコのプラハに向かった。その後ドイツと英国を回ってから帰国する予定だった。
百七十九 甲斐明美からのメール
甲斐明美は、一途な性格だった。それで、希世彦を想う気持ちで胸がいっぱいになると、もう何としても希世彦とコンタクトをとりたいと、毎日考えていた。携帯に電話をしてもつながらないし、海外のどこをほっつきあるいているのかさえ、連絡がないので分からない。
希世彦はアシスタントの明美との連絡方法を決めていた。出先に個人的な内容の電話連絡は緊急の時以外はしないこと。パソコンのメールは原則として業務の連絡だけにすること。希世彦は携帯のメールは業務用としては使っていなかった。自分が特別と思う人だけに携帯メールアドレスを教えたが、今は希世彦のアドレスを知っている者は母の沙希、妹の沙里、志穂と茉莉、それに奈緒美。この五人以外には知らせていなかったし、自分のアドレスを他人に絶対に漏らさないように頼んでいた。だから、明美は希世彦の携帯メールのアドレスを知らされていなかったのだ。
明美は希世彦の言いつけを守って、今まで個人的な内容のパソコンメールを希世彦に送ったことはなかった。だが、希世彦が海外に出かけてから何度携帯に電話をしても取ってくれず、もう三日も過ぎてしまった。
それで、とうとう自分の今の気持ちをパソコンメールに書いて送るつもりでいた。
会社ではたとえ同僚が誰も見ていなくとも個人的なメールを仕事中に書き込むのは何となく後ろめたい。最近のOLは仕事中に上司に見付からないようにして、個人的なメールをする者は結構多いらしいが明美は今までけじめだと思ってやらなかった。だから、もちろん自宅のワンルームマンションに帰ってから夜自分のノートパソコンからメールを送るつもりだ。メールアドレスは自宅で使っている個人のアドだ。
「もうっ、どんな風に書けばいいのか分んないよぉ」
先ほどから自分のノートパソコンに向かって、明美は独りでぶつぶつ言っていた。希世彦へのメールを書いてみるのだが、気に入らなくて削除しては書き、削除しては書きの繰り返しだ。
そんなことをしているうちになんとなく内容が固まってきた。
「メールって、面と向かっては恥ずかしくて言えないことも、こうやって書けちゃうんだよなぁ。不思議だなぁ。けど自分の気持ちを書くって難しいな。仕事の連絡だとパタパタっと終わっちゃうのにぃ」
確かに業務で連絡メールを書く時はあまり考えずにすらすらと書けてしまう。いつも希世彦に冗長にならないこと。要点を最初に一行か二行で書くこと。連絡内容が多い時は箇条書きにして、大事なことを最初の方に書くこと。などなど指導を受けていた。最初に希世彦にこの話を聞かされた時は、
「この青二才、生意気だなぁ」
と感じていたが、ある時部長と課長から
「甲斐さんの文章は要点をきちっと整理して書かれているのでとてもいいよ」
と褒められて青二才だと思っていた希世彦のことを次第に尊敬するようになったきっかけだったと思い出した。それで明美はそのことを希世彦へのメールに書いてみた。
尊敬している米村さんへ
米村さんをお慕いしています。好きです。大好きです。今のわたくしの気持ちを聞いて頂きたくて初めて個人的なメールを送ります。どうぞお許し下さい。
「最初に要点かぁ。やっぱ要点はあたしがあなたを好きですだな。これしかないよ」
明美はそう思ってメールの最初にはっきりと[好きです]と[気持ちを聞いて下さい]とを書いた。
「女の子のメールらしくないけど、これでいいか」
明美はいつも業務連絡で書いている方法で書いて見た。まず書く内容の要点を箇条書きにしてみた。
1、最初は尊敬すると言うか好きになったきっかけと経緯を書く
2、今の気持ちを素直に書いて見る。年上だが気持ちは年下だと書く。
3、これから[恋人の一人に加えて下さい]とはっきりお願いする。
4、恋人にして頂いても仕事には一切持ち込まないことを約束する
明美がようやく最初のメールを一区切りできる所まで書き上げた時は夜の一時を回っていた。それで最初のメールを送信すると、
「続きは明日にしようっと」
と呟いてパソコンの電源を落とした。
翌日パソコンを立ち上げてメールの着信を確かめたが希世彦からの返信はなかった。明美は会社が終わって、わくわくどきどきして帰宅したのに返信がなくて落ち込んでしまった。だが気持ちを直して続きのメールを書いて送信した。しかし、次の日も返信は届いていなかった。
「あぁ、もぅっ、最初から想いが届かないんだからぁ」
変なもので、そうなると益々希世彦のことを想ってしまうのだ。三日目の夜もメールを書いて送った。だが四日目も返信がなかった。
希世彦が出かけて七日目の夜、つまり明美が最初のメールを送ってから五日目の夜、明美の個人的なアドレスに希世彦から返信が届いていた。
この時ほど嬉しく思ったのは一生を通じてそうはないだろうと明美が思ったほど、明美は嬉しくて嬉しくて独りで泣いてしまっていた。だが、返信の内容が怖くてしばらく読まずにいた。
十五分も経ってから、意を決して、明美は恐る恐る希世彦からの返信を読み始めた。
希世彦は奈緒美と旅行中は二人の時間を大切にしたいと思って携帯の電池を必要な時以外は抜いてしまっていた。せっかく奈緒美と二人の時間を楽しんでいる時に携帯が鳴ったのでは面白くないし、奈緒美も良い気持ちはしないだろうと思った。
インターラーケンのホテルでiPadを開いた時明美からメールが届いていたがざっと目を通しただけで後でゆっくり見ることにした。
パリで奈緒美に別れを告げて飛行機に乗せてから、その日はパリのホテルに泊まって、次の日に父と合流するためチェコのプラハに飛んだ。
パリのホテルで、希世彦はiPadに届いていた明美からのメールを丁寧に読んでから返信した。
メール三通、きちっと読ませて頂きました。
○明美さんのお気持ちは良く分りました。
○今までは同僚として接してきましたので、そんなお気持ちだとは気が付かずにいましたことを謝ります。
○先日出かける前に時間が取れずに食事に誘われたのにお断りしました。その埋め合わせとして、帰国してから時間を取って一度食事をご一緒にしましょう。その時に改めてお気持ちを聞かせて頂きます。
追伸:個人的なメールは送ってはダメですよ。今回は日頃お世話になっているので大目に見ます。
百八十 アオハと明美
奈緒美が帰る予定の日に川野珠実は六本木のマンションに戻って奈緒美の帰りを待っていた。
「ただいまっ!」
元気な顔で帰ってきた奈緒美を見て、旅先で楽しんできたことが直ぐに分かった。母親役をしていると、顔色を見てそんなことが分るようになっていた。
「奈緒美ちゃん、スイスはどうでした?」
「もう、すっごく良かったよ。あんな綺麗な景色、初めて見たなあ」
「そうじゃなくて、希世彦さんと上手く行ったの?」
珠実は上手く行っただろうと想像していたが、聞いて見た。
「ん。優しくしてくれた。でもセックスはしてないよ」
そう言う奈緒美の言葉の裏に、珠美は奈緒美が抱かれるだろうと思っていたのにそれがなくて少し奈緒美の想いが外れたのではないかと感じたがそれ以上は聞かなかった。同時に珠実が聞きたいと思ったことを奈緒美はさらっと言ってのけたので勘がいい子だなぁと思った。
その日以降、奈緒美は一段と綺麗になり、明るくなったようで、モデルの仕事も女優の仕事も捗った。恋が充実すると、女は綺麗になるのだ。マネージャーを兼ねている珠実にとってはスケジュール通り奈緒美の仕事が進んでくれる方がありがたかった。奈緒美の留守中に仙台のマンションに沙希が訪ねてきたことは言わなかった。
希世彦は夕方プラハに着くと父の善雄が借りているフラットに直行した。善雄は希世彦から連絡を受けていたので、フラットに帰っていた。
二人とも晩飯は済ませていたので、ワインを飲みながら話し始めた。
「モデルのアオハさんとか言う子をどこへ連れて行ったんだ?」
「ユングフラウです」
「天気はどうだった?」
「三日間良い天気でした」
「それは良かった。あの景色を見て喜んだだろ」
「はい。めっちゃ喜んでました」
「所で、将来結婚する気か?」
「一応そのつもりです」
「分った。希世彦が好きになったのなら間違いはないだろうと思うが、東京に戻ったら一度家に連れてきなさい」
「お爺ちゃん、お婆ちゃん、それに母さんには家に呼んで会ってもらいました」
「そうか、母さんはこっちに来たけど、そのことを何も話してなかったな」
「僕、まだ学生だし、急ぐ話しじゃないから、多分東京に戻ってから父さんに話すつもりなんじゃないかと思います」
「ヨンヒさんとはその後どうしてるんだ?」
「ここのとこ全然話をしてません」
「気に入らんのか?」
「はい。母さんには言いましたが、贅沢好きでちょっと我侭なとこがありますから、僕の性格には合わない気がします。でも一応友達としてお付き合いは続けるつもりです」
「大事な話しだから、急いで決めないでじっくりと付き合ってから結論を出せよ」
「はい。分ってます」
「他に付き合ってる女性は居るのか?」
「いえ、今の所ヨンヒとアオハだけです。先日僕のアシスタントをしている甲斐さんが……」
希世彦は父親に話すべきか躊躇した。
「甲斐さんがどうかしたのか?」
希世彦は一応話すことにした。
「僕に気があるようです」
「はっきりと、そう言われたのか」
「メールにそう書いて送ってきました」
「今までそんな関係になってたのか」
「いえ、メールをもらうまではそんな気持ちでいたなんて全然知りませんでした」
「彼女、仕事の能力はどうかね」
「最初はうまく行きませんでしたが、最近は指示を良く理解して仕事の捌きも良いです」
「頭の切れはどうだ?」
「特別に切れるわけじゃないですが、平均より良いと思います」
「付き合う気でいるのか」
「今は分りません。東京に帰ってから食事でもして気持ちとか考え方を良く聴いてみるつもりでいます」
「ならいい。希世彦は将来夫婦で会社を背負ってもらわなきゃならんのだから、嫁にする女性は慎重に決めてくれよ」
「はい。分ってます」
善雄は沙里と志穂の事件のことは希世彦には話をしなかった。レイプされたなんて話は親子と言えども必要になってから話すべきでやたらと話を広めるのは慎むべきだと思っていたからだ。
翌朝から三日間チェコ国内の関係企業の打ち合わせに希世彦は父と一緒に出かけた。打ち合わせの内容よりは希世彦の顔を先方に認知させるのが目的だった。そのため、相手側の要人との会食や工場見学などスケジュールはびっしりだった。
四日後、善雄と別れて希世彦はドイツと英国の取引先を回って東京に戻った。希世彦は相手方のアニュアルレポート(決算書)、バジェット(予算書)などのIRレポートには現れない部分を見て回ることに努めた。希世彦は早くから米村工機の現場に入り込んで仕事をしてきたので、学生とは言え、現場に入ると経営レポートには表れていない色々な問題点を見付け出す力を既に持っていた。
東京に戻ると、学校に出た。しばらくサボったので友人達からノートを借り集めて家でおさらいをすることにしたのだ。
帰国して二日目の午後会社に顔を出した。
「お帰りなさい。お疲れ様でした」
「今夜食事をする時間を取れますか」
「はい。大丈夫です」
希世彦の周囲の女性は二人の会話を聞かぬふりをしていたが、耳を澄ませてしっかり聞いていた。希世彦はそれを承知で甲斐明美に普通に話をした。こんな話はこそこそ陰でするより、仕事の延長くらいの感じで普通に話をした方が良いと思っていたからだ。明美の方は内心嬉しいのだが、それを顔に出さずに普通に受け答えしていた。
平日なので、日本橋では会社に近くて会社関係者の目がある。それで、希世彦は銀座、新宿、渋谷、池袋などの繁華街を避けて、明美をアントニオ南青山本店に誘った。
東京では知る人ぞ知る歴史のあるイタリア料理店だ。
「僕は一足先に帰るから」
と明美にメモを渡した。メモには店名と住所、電話番号、それに渋谷からタクシーに乗って、六本木通りを六本木方面へ、駒沢通りとの交差点で降ろしてもらうことと書いてあった。
会社の仕事が終わって化粧室に居ると、同僚が、
「今夜、これからいいことがあるんでしょ」
と明美をからかった。明美は化粧直しが終わると、
「良しっ!」
と自分に気合をかけ渋谷駅に向かった。
渋谷駅前でタクシーを停めてメモの内容を話すと直ぐにスタートした。道路はめちゃくちゃ渋滞していたが、二十五分位で交差点に着いた。普通なら五分か十分で行ける距離だ。
「ここでいいですか?」
運転手はレストランが道路の反対側なので気をつかったのだが、
「ここでいいです」
と金を払って降りた。
店内は天井が高く、お洒落な雰囲気だった。明美が店内を見渡すと隅の方の席で希世彦が手をあげて招いた。
「道路、渋滞してただろ? 早かったね」
「メモを見て直ぐに分かりました」
「食事、勝手にイタリアンにしてごめん」
「あたし、イタリアン好きですから嬉しいです。素的なお店ですね」
「何か食べたい物ある?」
「お任せします」
希世彦はウェイターを呼んでシェフのお勧めを頼んだ。
「ワイン、何がいいですか」
明美は答えなくちゃいけないのかと思って顔を赤くしたようだ。
「頼んだ料理に合うなら赤がいいかな?」
「あたし、分んないわ」
「じゃ、トスカーナの物にしよう。イタリアではトスカーナはワインの産地なんです。美味しいのがありますよ」
と言ってワインリストを持ってくるように頼んだ。リストを見て、
「これにするか」
と言って希世彦は赤の辛口のレ・マッキオーレを頼んだ。
「安いワインだけど、飲みやすいと思います」
「お詳しいんですか?」
と明美が言うと
「月謝をいっぱい払ってきたから」
と希世彦は笑った。明美はコチコチになっている自分に、
「ガンバレ明美」
と心の中で叫んでいた。
食事が終わってから趣味のことなどを希世彦が聞いた。明美は人に言えるような趣味はなかったが、
「お料理とかお花を見るのが好きです」
と答えた。
「音楽とかは?」
「クラシックは苦手かな。嫌いじゃないですけど詳しくありません」
「じゃ、ポップス?」
「はい。普通程度に何でも聞きます」
「他には?」
「詳しくはないですが、フラメンコを一度見てすごく感動しました」
「話しが逸れますが、車酔いはする方?」
「今まで酔った経験ないから、多分大丈夫かな」
「僕は甲斐さんがお酒が趣味ですって言うんじゃないかと思ってました」
と希世彦が笑うと、
「そんなぁ、あたし強い方ですけど趣味と言うほどじゃないですよぉ」
とやや反抗気味に答えた。だが目は笑っていた。
そんなとりとめのない話が続いて、明美は今夜色々打ち明けようと思っていた事柄を結局何も言えないで居た。
「あまり遅くなってはいけませんから、そろそろ出ましょうか」
と希世彦が言った時明美は、
「今夜は言いたいことを何も言えなかったな」
と心の中で呟いた。
「ご自宅の近くまでご一緒に帰りましょう」
と明美のマンションの近くまで送って行った。希世彦はあせらずにこれからも何度か誘って少しずつ明美の気持ちを知ろうと思っていたから、あせる明美とは反対に気楽な気持ちで明美と別れた。別れ際に明美の手をそっと握った。希世彦は明美がかなり緊張しているなと感じていた。
酒に強いはずの明美はワインを少し飲んだだけで、マンションに帰ると少し酔っていた。
「あたしって、ドジだなぁ。肝心のことを何も言えなかったよぉ」
鏡に向かうとそこにすっかり落ち込んでしまった明美が居た。
百八十一 希世彦の悩み
一人の女性とお付き合いをすれば、男にとっては、当然のことながら行動力、エネルギーと金も時間も必要とするものだ。まして恋愛の関係になれば努力と時間や金を気にしているようでは相手の女性が素的と思えるようなお洒落な付き合いは出来ないのだ。女性の立場で見れば、最初新鮮で素的だと思った相手の対応が、時が過ぎるに従って次第にいい加減になるのは、多くの場合相手の男の息切れと疲れに因るのだ。
初めて、アオハと友達以上の付き合いを始めてしまった希世彦はそう言うことが全く分っていなかった。まして、同時に韓国女性のパク・ヨンヒが加わり、更に甲斐明美が加わった状況では、それぞれの女性と分け隔てなく付き合うのはかなり大変なことだと言わざるを得ないのだ。既に恋愛経験のある男でも、複数の女性と付き合うのは大変だし、多分過去に経験があれば最初から一人の女性に絞り込んで付き合いを始めるだろう。
小遣いの潤沢な希世彦は金の問題は全くなかった。だが、大学生と会社の社員を二股にかけている希世彦に取っては、時間の問題は切実だ。それで、最初に万年寝不足が容赦なく希世彦に襲いかかった。アオハとヨンヒと付き合い始めてから、希世彦はいつも睡魔と闘っていた。
「時間が欲しい」
最近希世彦はそんなぼやきを口にするようになっていた。
毎日睡魔と闘っている時、ヨンヒから電話が来た。
「はい、米村です」
「希世彦さん、元気? もうご出張から戻られたの」
「ああ、戻った。溜まった勉強で大変だ」
希世彦は牽制するつもりでそう言った。
「お勉強? そんなの忘れてあたしと遊びに行こうよ。きっとすっきりするわ」
そう言うヨンヒは一体どんな勉強の仕方をしてるんだろうと希世彦は思った。文学部なら少しは楽だと聞いているが、工学部は教科が多くてとてもじゃないけど遊んでいては卒業もおぼつかないのだ。
「すまんけど、今月はデートは無理だな」
「だめだめ、明日羽田に行くから迎えに来て。約束だよ」
ヨンヒはいつも一方的だ。
「仕方がないなぁ、迎えに行くだけだよ」
「フフフッ、会ってからね。あたし、希世彦さんに会いたくて我慢できないよぉ」
希世彦は押し切られてしまった。我侭なヨンヒはいつもこの調子だ。
女と友達以上の付き合いをすれば、女は誰だって相手の男に、
「自分だけ見ていて欲しい」
と思うものだと言うことくらいは希世彦は知っていた。だから、アオハと旅行にでかけた時は携帯の電池を外してしまったし、ヨンヒと一緒の時はアオハからの連絡を無視した。だが、そんなことが普通に通るわけはないのだ。それで希世彦はいつも片方の女性に彼女が納得できる言い訳を用意しておかなければならなかった。万一自宅に電話をされても、祖母の美鈴と母の沙希はそう言うことを心得ていたから、間違っても他の女性と一緒だなどとバカなことは言わなかった。まるで毎回不倫デートをしているようなものだ。
アオハはいつも遠慮がちで、希世彦の都合を優先してくれた。だから、希世彦はアオハとデートをしている時はなぜか気持ちが落ち着いた。だが、ヨンヒとデートをすると、いつも我侭ヨンヒの都合に合わせることになり、疲れた。
希世彦が羽田空港に迎えに行くと、ヨンヒは希世彦を見つけて飛びいつてきた。そんなヨンヒは実に可愛らしい。それで希世彦はいつもヨンヒの希望を受け入れさせられてしまうのだ。
「いつものパレスホテルだろ」
「そうよ」
「じゃ、ホテルまで送って行くよ」
「ダメダメッ、夕食は一緒でないとあたし眠れなくなっちゃうよぉ」
「僕、学校のことで今手一杯なんだ。すまん帰らせてもらうよ」
だが、ホテルに着くと着替えに待たされ、結局夕食につき合わさせられてしまった。
「希世彦さんの、その優しいとこが好きなんだ」
希世彦は、
「何が優しいものか、無理して付き合ってるのに」
そう思っていると、
「食事が終わったら静かな所に連れてって」
と言うではないか。さすがの希世彦も参った。
しかし、ヨンヒと言う女は、男を自分の思う通りに従わせてしまう不思議な力を持っていた。気持ちは逃げ出したいのに、気が付けば、ヨンヒの希望通りつき合わさせられてしまっているのだ。希世彦はそれが癪で仕方がないのだが、可愛いヨンヒに腕を取られ、ふくよかな乳房を押し付けられて甘い声で囁かれると、まるで魔術にかかってしまったようにOKしてしまうのだ。
今夜もそうだ。結局夕食後ホテルの静かなバーで話をするはめになっていた。
「あたし、希世彦さんが居ない時、お家にお邪魔したの。そうしたら美鈴おばぁちゃんが箱根の別荘に連れて行って下さったの。おじいちゃまも一緒にだよ。あそこ素的だったなぁ」
希世彦はそんなことを祖母の美鈴から何も聞いていなかった。
「へぇーっ、そうだったの」
「あたしね、希世彦さんのお家にお邪魔する前まで、パク会長から米村さんは大金持ちだって聞かされていたから、大きなお屋敷だとばかり思っていたの。そうしたら労働者の住宅みたいに小さな家だったからびっくりしたわ」
「小さいのはダメってこと?」
「そうじゃないけど、身分に相応しくないなぁ。あたし、初めて希世彦さんのお家を見た時、なんだか騙されたような気分だったよ。希世彦さんと結婚したら、あたし、こんなみすぼらしい家に住むことになって、これじゃ恥ずかしくてお友達も呼べないなぁと思ったよ」
「だったら僕と結婚なんてしない方がいいよ」
「残念でした。箱根の立派な別荘を見たら気が変わったの。それに軽井沢の別荘も素的だし」
「なんだ、ヨンヒは家と結婚したいんだ」
「希世彦さんの意地悪ぅ、あたしは希世彦さんが大好きだから結婚したいのよ」
ヨンヒは急に小声になった。
「ねぇ、今夜あたしを抱いてぇ。あたし、希世彦さんが欲しいの。ダメ?」
「今日は疲れてるからダメ」
「あたしが泊まってるパレスホテル、誰も来ないからお部屋に来て下さらない? そこでぐっすり眠ったら? あたし、希世彦さんと一緒に居るだけでもいいよ」
「参ったなぁ」
スケベェなオヤジなら涎をたらすような話だ。だが、希世彦はそこまで深入りするつもりは今の所考えていなかった。確かにヨンヒは色っぽくて可愛らしい。だから倒れそうな気持ちを倒すまいと希世彦は自分を抑え込むのに精一杯だった。
結局ヨンヒの色仕掛けを振り切って、希世彦はパレスホテルを脱出した。そう、脱出と言う言葉がこの場合相応しい。
帰り道、携帯の電池を入れてしばらくすると、アオハから電話が来た。
「お声が聞きたくて。もうお休みになられましたの」
「いや、急に外出して、今家に戻る道を歩いている」
「そう。最近お疲れの様子だから、ご無理をなさらないで」
「ありがとう」
「じゃ、おやすみなさい」
アオハからの電話はいつもこんな調子であまり長くはない。希世彦はアオハのそう言う所が好きだった。
ヨンヒが帰って三日後、会社に出た。出張報告を報告書の様式に打ち直す作業を甲斐明美に頼んでいた。
「ありがとう。原稿、誤字と脱字が沢山あっただろ?」
「え、まぁ、少しだけ」
明美は修正点を要領よく説明してくれた。
「じゃ、明日部長に渡しておいてくれないか」
企画部長はその日は出張で不在だった。希世彦の出張は社長特命事項なので、課長を飛ばして部長に報告書を提出する決まりとなっていた。
「甲斐さん、今夜ご予定はありますか」
「いえ、特に」
「じゃ、お茶しませんか」
「はい」
希世彦はお台場のホテル、グランパシフィックの三十階にあるダイニングバーをメモに書いて渡した。台場から明美のマンションまでは遠くないので台場にしたのだ。
明美がゆりかもめを降りてホテルのバーに行くと、希世彦が先に行って待っていてくれた。
「お腹空いてる?」
「はい。少し」
明美は遠慮がちに答えた。
「じゃ、食事を済ませてからお茶にしよう。時間は大丈夫?」
「はい。後は寝るだけですから」
食事は単品にした。食事が終わってから席を夜景が見える場所に変えて、ワインを注文した。
「この前は、あたしお伝えしたいことを何も言えなくて」
「お気持ちはメールで分っているよ」
「でも、メールだとニュアンスと言うか本当の気持ちをお伝えできたかどうか自信がなくて」
「そうだね。やはり甲斐さんの言葉で聞かせてもらう方がいいな」
「あたし、三つ年上ですけど、お気になりません?」
「歳を気にされているんですね。僕は相手の歳のことを考えたことはないですよ。一番大切なのは気持ちを通い合えることかな」
「良かったぁ。あたし大きなハンデだと思ってました」
「もう決まったお相手の方、いらっしゃいますの」
「甲斐さんと同じ[ing]の方はいます。まだ将来のことはきちっと決めていません」
「あたし、米村さんのお友達以上になれるかなぁ」
明美は自問自答のような言い方をした。
「二年とか三年とか長くなるとお年が気になりませんか? もし、二年も三年も待たせてから将来のお約束ができる状態になるって言ったらどうなさいます? それでもお待ちになられるお気持ちはありますか」
「米村さん、まだお若いからあたし覚悟はできてます」
「その時になってお断りするようなことになれば、女性として最初からやり直すのは難しくはありませんか? 今からお約束するのは難しいですので。僕はそこまで甲斐さんにリスクを覚悟してくれとお願いする勇気はないなぁ」
「仮に三年間お待ちするとあたし二十八歳です。おばあちゃんみたいで魅力がなくなって米村さんに嫌われるんじゃないかなぁ。それがあたしの心配です」
「実は、来年大学を卒業する予定なんですが、その年の九月にボストンのハーバードの経営大学院に進めと父に言われています。順調に行って二年間です。それでこんな話をしました。甲斐さんが幾つになられていても、それは構いませんが、結婚話は僕だけでは決められない所がありますから万一お断りしなければならない場合もあると思うのです」
「あちらに留学中は会えなくなりますの? あたし会えなくても耐えられるかなぁ。少し心配」
明美の言葉には本音の部分があった。希世彦は明美のそんな本音を聞かせて欲しかった。それで、
「お互いの愛が深ければ」
と微笑んで返した。
「あたし、米村さんのことをすごく好きです。なので米村さんがあたしの気持ちを受け止めて下さったら、あたしは大丈夫だと思います」
「じゃ、そんなお気持ちでこれからも時々こうしてお会いしましょう。たまには遠出するのもいいし」
希世彦はこれからも明美と付き合っても良いと思った。
一方明美は三年経っても希世彦の心変わりがないことに自分の運命をかけてみようと思った。
百八十二 突然配転の裏側
「甲斐君、突然だが来月から工機の方に出向してくれないか」
朝出勤すると、課長がやってきて、
「ちょっといいかな?」
と聞いた。
「はい、何でしょう?」
と怪訝な顔の明美に、
「ここじゃなんだから、あっちの会議室に来てくれ」
と言われた。甲斐明美はそこで唐突に配転の話を聞かされた。晴天の霹靂だ。
「どうしてでもですか? 最近今の仕事に慣れてきましたから」
明美は一応問い質した。この会社では上からの通達が嫌なら会社を辞めねばならないのだ。それで婉曲に聞いた。
「上からの指示でどうしても行ってもらいたいんだ」
「あたしに拒否はできないのですね。じゃ、仕方がありません」
「一応納得してくれたと言っても構わないかい?」
「はい」
どうせ納得してなくても配転されるのだ。だから素直に応じた方が得に決まっていると明美は思った。
正直な所、明美は納得どころか不満だった。入社した時、勤務先が日本橋の素的なオフィースビルだったのでこの会社に決めたのだ。なので、東京でも田舎の方に勤め先が変るのは会社を辞めてしまいたいほどのショックだった。
「課の人たちには月末が近付いて辞令が出たら正式に話すつもりだから、辞令が出るまでは口外しないように頼むよ。工機の方は人事部長を訪ねれば君の仕事場を指示してくれることになっている」
「米村さんは承知されておられますの」
「ああ、部長から話をしてあるはずだ」
その日、帰宅してからも明美は、
「つい先日希世彦にお付き合いしてもいいよと言われたばかり。それなのに遠くに行ってしまったらあたしどうしよう」
と愕然とした。
「もしかして、あたしが米村さんに気があることがバレて、それで突然追い出されることになったのかなぁ。社内恋愛して結婚した先輩は大勢いるからそれだけの理由じゃおかしいな」
などと色々なことを考えてしまった。
○○ホールディングス社長米村善雄は総務部長に電話をした。総務部長は善雄の片腕だ。一番信頼できる男だと思っていた。
「希世彦のことだが」
「希世彦さんがどうかなさいましたか」
「いやね、企画部に甲斐とか言う女性、居るだろ?」
「ああ、企画部長と相談してアシスタントとして配属した女性ですね」
「そうだ、甲斐さんがどうやら希世彦に気があるらしいんだ」
「そうでしたか。企画部長からは何も聞いていませんな」
「そのはずだ。希世彦も気付かずにいたそうだから周囲の者はまだ知らんだろうな」
「それで?」
「ん。希世彦に聞いた所付き合ってもいいと言ってた。だから将来を考えて工機の人事部長に相談して工機に入れて人物をじっくり見てくれと頼んでくれんか」
「そうでしたか。それなら一肌脱ぎますよ。少し厳しい扱いをして、それで這い上がってくるかどうかってことですな」
「その通りだ。成り行き次第では希世彦の嫁になるかも知れんのだ。間違えると将来希世彦ばかりでなくて工機にも大いに影響があるからなぁ」
「社長、分ってますよ。わたしがきっちりとやりましょう」
若い時のことだが、善雄は沙希と付き合っている時、秘書の中嶋麗子が近付いてきた時に、父の善太郎が中嶋麗子の人物を見たいと言って工機に配転した。その時、
「特別な才能やバックのない普通の女性社員と将来を考えて付き合うなら、その前に人物は確かかきっちりと調べておく必要があるんだよ」
と言った。結局中嶋麗子は自ら会社を去ってしまうことになったのだ。そのことがあったから、甲斐明美には早めに手を打ったのだ。
甲斐明美は予定通り月末に親会社の米村工機に出向した。明美の立場でみれば、無理に出向させられたのだ。
課長に言われた通り工機の人事部長を訪ねて行くと、
「おっ、君が甲斐さんかぁ。工機じゃ厳しい仕事をお願いするが、よろしく頼むよ。もしも仕事が気に入らなくて辞めたくなったら僕のとこに直接願い出てくれ。退職金は特別な金額を用意するよ」
と言って管理部長を呼んだ。
「ホールディングスから出向の甲斐さんだ。あんたのとこの倉庫で仕事をしてもらってくれ」
と頼んだ。管理部長は、
「分りました」
と言って部品管理課へ連れて行った。須藤と言うこわもてのがっしりとした体格の男が明美を引き取った。
須藤は昼休みに課員全員を集めて甲斐を紹介した。全員と言っても二十名にも足らない人数だ。挨拶を済ますと解散した。半分は女性だ。米村工機は派遣社員やパートタイマーは原則雇用しないので、ほぼ全員正社員だった。
「甲斐さんの席ですが、決まった席はありません。私物や作業服、着替えた服はロッカーに入れて施錠して下さい。当分の間データ入力の仕事見習いをしてもらいます」
そう言って金子早苗と言う三十代半ばの女性を呼んだ。
「金子さん、今日からあなたの仕事の見習いとして甲斐さんをお願いします」
結局明美の出向先は金子の仕事見習いだった。
明美は人事部長の話を思い出していた。
「『仕事が気に入らなくて辞めたくなったら』かぁ。これじゃリストラじゃん。あたし、そう簡単には辞めませんからねぇーだ」
明美は鏡に向かって舌を出した。工機を辞めたら希世彦とお付き合いしてもらう接点が益々遠くに行ってしまうように思った。
翌日から明美の新しい仕事が始まった。金子早苗はキビキビと仕事をするし、名前に似合わず男みたいな口のききかたをした。こわもての課長といい勝負だと明美は思った。
「ここの入力の仕事ね、ミスがあったらラインがストップだ。うちらのミスでラインをストップさせちゃったら、現場のライン長に頭を下げに行くんだよ。厳しいよ。この前なんかみんなが居る前で土下座しろと怒鳴られた。あんたこの屈辱感が分る? もしあんたがミスったらあんたを謝りに行かせるよ」
どうやら脅しだけじゃなさそうだ。
十台位同型の入力端末が並べてあって、立ち仕事だ。空いている端末を使うことになっており、自分専用はない。だから、オフィースなんかでよく見かける自分用の端末にメモを貼り付けたり、そんなことはできない。毎日金子と明美は空いている隣同士の端末の前に並んで仕事をした。前の職場とは大違いだ。現場から回ってくるのは書類でなくてネットワークを通じて管理課のボックスに溜まっているデータを画面に出して計算をして解を入力するのだ。データは生産計画や修理計画など数量や期日がちゃんと入っている。それをベースに部品の出庫量を計算するのだが、一日仕事をして見て、なぜアルゴリズムを予め設定して自動計算をしないでワンクッション置いて手入力しているのか意味が分かった。つまり現場では生産計画の変更が頻繁にあり、生産数量を部品ベースに展開する場合、既に出庫済みの数量と照合して修正を加えたり、急ぐ時は現場から別途メモが送られて管理課の仮想のボックスに落とし込まれるので、データ入力する者は常に注意をして調整をしているのだ。明美たちが入力を済ますと、ブロック毎に画面上の入力完了ボタンをクリックすると同時に自動出庫装置、つまりスタッカークレーンのような部品出庫ロボットが作動して、自動出庫された部品が天井クレーンを介して現場の部品供給位置に自動配送されるのだ。入力ミスがあると、間違った部品、間違った数量があっと言う間に無人で現場に跳んで行ってしまうのだ。
「考えてみると恐ろしいシステムですね」
と昼休みに金子に言うと、
「あなた、頭の回転はまあまあね。他所からうちに来て一日でそんな感想を言った人は甲斐さんが初めてよ」
と笑った。
一週間があっと言う間に過ぎた。朝から夕方まで忙しいったらない。仕事中は集中してないとミスが出るので雑談など一言も出来ない。今までの仕事がまるで極楽だ。週末はへとへとになり日曜日は一日家に居て寝ようと思った。最初に脅かされたせいか、明美は緊張の連続でミスがないように頑張った。結局一週間ノーミスで週末金子に、
「あんた、ホールディングスにいたんだって? あんたみたいに容姿端麗で指の綺麗な人はろくに仕事が出来ないだろうと思ってたよ。でもさ、なかなかやるじゃん」
褒められてるのか励まされてるのか分らないが、兎に角金子には一応認められたようでほっとした。
更に一週間が過ぎた時、ロッカーで携帯を開けると希世彦からメールが着信していた。
百八十三 明美の頑張り
米村工機の発祥の地は東京都板橋区小豆沢町だ。この小豆沢町より西に少し行った所に都営地下鉄三田線の西台駅がある。西台駅から約1km北に向かって歩くと東京都と埼玉県の県境の荒川の河川敷に出る。今では緑化が進んで荒川戸田橋緑地と言う緑豊かな運動公園になっている。西台駅と荒川の河川敷の間は工業団地になっていて、大小の企業の工場が林立している。西台駅の一駅先はマンモス団地で有名な高島平駅だ。
米村工機は業績が伸びて小豆沢町の町工場では手狭になって、西台駅近くに米村工機東京工場を建設、現在仙台工場と共に国内の工場の中核となった。小豆沢町は工機発祥の地なので、今でも事務所が残されている。
甲斐明美は、工機の財務関係を預かる日本橋の会社から西台駅近くの米村工機東京工場に通勤することになった。明美はメトロ東西線の東陽町駅近くのワンルームマンションに住んでおり、今まで日本橋へはメトロで四つ目の駅だったから地下鉄に乗ってしまえば十分で日本橋だった。だが、日本橋の一つ先の大手町で都営地下鉄三田線に乗り換えて西台駅までは、乗り換え時間も入れると一時間位かかった。しかも日本橋は九時始まりだったのに、工場は毎朝八時半始まりだからたまらない。朝は早起きして七時前にはマンションを飛び出さないと遅刻してしまうのだ。
大抵の女の子は朝早いのはつらい。今まではお化粧の時間も少しあったし、夕方帰って掃除洗濯もできたから、部屋の中はいつも小奇麗になっていた。しかし、工場勤務になってからは夜帰宅しても疲れ果てて洗濯をする元気がなく、結局汚れた下着などを土曜日か日曜日にまとめて洗濯するようになってしまった。
明美にとって凄く嫌だったのは、満員電車だ。都営三田線は大手町で乗り換えた時は時間が早く空いているが、巣鴨を過ぎるあたりで混み始め、板橋を過ぎると工場への通勤者で超満員になるのだ。すると、毎日のように混雑した車内で明美はお尻を触られた。中には電車の揺れに乗じて意識的に閉じている太ももを割って自分の脚を入れてくる男も居るのだ。ひどいときは太ももの内側に手を入れてくる奴もいる。勿論痴漢だが、明美は大きな声を出すことも相手をぴしゃっと叩くこともできずに、ただただ早く西台駅に着くのを祈るばかりだった。
痴漢専門の私服の刑事が乗り込んでいて、今まで何人も痴漢の現行犯逮捕をされている。逮捕された男たちの大部分は工員だったが、中には部長だの大学教授など、痴漢をするなんて信じられない奴もいた。だが刑事が頑張っても痴漢はなかなか減らなかった。その原因の一つに痴漢された女性の多くは恥ずかしがって告訴をしりごみするのだ。女性専用車両もある。だが、そっちも女装して乗り込み痴漢をする質の悪い男がいるのだ。
残業をしなければ、帰りも電車は混んでいて、帰りは大手町までずっとほぼ満員だった。その間に何回か別の男に尻を触られてしまう。
そんな通勤にも最近は慣れてきた。上司の金子早苗をはじめ課の女性は昼休み社員食堂で一緒に食事をするのだが、食後みんなの雑談に加わって明美も普通に話しに入ることが出来るようになった。金子は課の女性の中では親分的存在で、学校なら番長みたいな感じだ。明美は金子に聞いてみた。
「金子さんのご主人はどちらにお勤めですか」
「あたしの? 追い出したから今は居ないわよ」
明美は拙いことを聞いたと思った。それを察したかのように、
「あたしはね、結婚が早かったの。二十二歳で結婚して二十三の時息子を産んだのよ。だから息子は中学生。亭主は優柔不断の上煮え切らない奴で性格が合わなかったから出てけって追い出してやったわ」
明美がみなの前でそんなことを話しても大丈夫なのかと困惑していると、
「あたしのこの話はここに居るみんなは知ってるわよ。そうだろ?」
皆はうんうんと頷いた。明美は金子の旦那になる男は強い奴かそれとも超弱くて何でもはいはいと従う奴で無いと務まらんだろうと思っていると、
「あなた、彼氏居るんでしょ」
話しが明美の方に飛んできた。
「ヤバ」
と思ったが、
「居るには居るんですが、まだ片想いみたいです」
と答えた。
「うちの課の男性はね、みんな優秀よ。全員大学の工学部出で、コンピューターの仕事のSEが務まるような者ばかりよ」
「普段はシステムの保守が主なお仕事ですよね」
「あなた、ちゃんと見てるわね。その通りよ。待ったなしの仕事ばかりだから頭の回転が良くて知識が豊富でないと務まらないから会社でも優秀な男が配属されてるのよ。でもね、女に対しては最低ね。独身なのに彼女が居ないのとか、四十歳を越しても結婚する気のない奴とか、十人の中で既婚のはたったの三人よ。あなた、今の彼がなかなか振り向いてくれなかったらいい男が沢山いるからいつでも紹介してあげるわよ。あなた位器量良しなら自信を持って紹介してあげるわよ」
言い終わると他の女性たちは、
「そうよそうよ」
と同感した。
「あなた、前はどんな仕事をしていたの」
「学生さんのアシスタントでした」
「なに? それ? 学生って社員じゃない人?」
「いえ、学生ですけど正社員です」
「どこの学生?」
「東大の工学部らしいです」
女性たちが、
「すごっ!」
とか言って驚いた。
「その学生、なんて名前?」
「米村さんです」
「米村と言えばうちの社長が米村よね。無関係の人?」
「あたしも最近知りましたが、社長の息子さんみたいです」
すると女性たちは、
「ああ、あの人かぁ」
と全員知っているようだ。
「皆さんご存知なんですか?」
「高校生の時からバイトでこの工場に来て、うちの課にも少しの間居たのよ。もやしみたいにひろっとしてたけど、なかなかいい男だったわよ」
「今でもいい男です」
「そうなんだ? あなた、そこを追い出されて来たのよね」
「まぁそんなとこです」
「もしかしてあちらでその息子さんと何かあったんじゃないの?」
「そんなぁ、絶対そんなことありません」
明美がむきになると、
「バカねぇ、冗談よ」
と言って金子が笑うと全員どっと笑った。
「顔を赤くした所をみると、案外図星だったり」
別の女性がからかった。だが、こんな話しがもとで、明美はすっかりみなに溶け込むことができたと思った。
仕事はきついが、人間関係の良い職場だ。女の子にとっては、仕事がきつくても人間関係がいいと、結構我慢ができるものだ。だから明美も毎日痴漢に悩まされる通勤を我慢しておれた。
ようやく周囲の女性たちと打ち解けて話しができるようになったとき、夕方退社時に携帯を見ると希世彦からメールが届いていた。
「ご無沙汰してます。新しいお仕事に少し慣れましたか? 来週の土日、お体を空けられるでしょうか? もし大丈夫でしたら箱根の美術館にでも行って見ませんか」
と書いてあった。
「嬉しいっ! ここのとこ何の連絡もないし、職場でからかわれたばかりだったから、もしかしてもうデートの誘いは無いかも」
と諦めかかっていた所だ。それなのに土日と書いてある所を見ると一泊の箱根旅行へのお誘いではないか。
明美は直ぐに返事をしないで、帰宅してからゆっくり返信するつもりでいた。
マンションに戻ると、いつもは疲れがどっと出て何もしたくなくなるのだが、希世彦から嬉しいメールが届いて、すっかり元気が出た。それで夕食を作って済ますと溜まった汚れも物の洗濯までやってしまった。
[米村さま今晩は。お疲れの所嬉しいメールを下さってありがとう。あたし、是非誘って下さい。楽しみにお待ちしています。あたしのお仕事の方ですが、最近ようやく慣れてきて、仕事はきついですが、職場の皆さんとお仕事をするのが楽しいです。金子さんと言う女性がとても親切にして下さっています。米村さんもお身体を大切になさってご無理をなさらないようにして下さい。♡♡♡]
明美はベッドに潜り込んでから希世彦からの携帯メールをまた読んでから返事を送った。今まで携帯のメールアドレスを教えてくれなかったが、初めて携帯からメールをもらった。そのことがなんだかとても嬉しかった。
その夜は、希世彦のことを想うと身体が熱くなった。それでしばらくお台場でのデートのことを思い出していたが、いつのまにか眠ってしまっていた。
百八十四 怪我……大怪我?
偶然なのか必然なのか、人と人との出会いは時により運命に弄ばれているようにも見えるものだ。
昨日の土曜日、希世彦はアオハと夕食を一緒に食べた。ここのとこ、アオハはCMの仕事の他に映画が一本、TVドラマが二本入っていて女優の仕事が多忙で時間が取れず、希世彦が誘っても都合のつかない日が多かった。希世彦も多忙で寝不足と戦う日が多かったから、なかなか都合の良い日がなかったので、アオハに断られても気にはしていなかった。だがアオハはその度に、
「ごめんなさい」
と謝ってきた。希世彦に嫌われるのではないかといつも心配していたのだ。
希世彦としばらくぶりの夕食を食べながらアオハは告白した。
「実は今度の映画出演なんですけど、あたしが主役なの」
「へぇーっ、凄いね」
「それが、映画は有名な作家さんの作品が原作で脚本も業界では名の通った方で映画は大作になるそうなんですけど、三場面、すごい濡場があるのよ。あたし、希世彦さんに申し訳なくて、それじゃ出演をお断りしますと言いましたが、顔が見える場面はあたしで露出を極力抑えるそうなんですが、顔が見えない場面は別の役者さんが代役するそうです。あれをしている時の女性の声、喘ぎ声って言うわね、それはあたしの声でなくて代役さんの声にするからって無理に、どうしてもって頼まれて、断りきれずにお受けすることにしたの。だから、希世彦さん、誤解しないで頂きたいの」
「それでアオハの相手役は決まってるの」
「ええ」
アオハはイケメンの人気のある有名な男優の名前を言った。
「もう引き受けちゃったんだね。だったら僕はどうしろとは何も言えないよ」
「だめ?」
「気持ち的には少し妬けるとこあるけど仕事だから仕方が無いよ。アオハが仕事だと割り切ってるならいいよ」
アオハの額にうっすらと冷や汗が光った。
翌日の日曜日の夜、クラスメイトと新宿でミーティングをやった帰り、仲良しの友達三人一緒に歌舞伎町を通って新宿駅に向かう途中だった。
鬼王神社前交差点を渡って、歌舞伎町二丁目の路地裏を歩いていると、希世彦と同年代と思われる若い男に呼び止められた。女の子ならぐらっと傾きそうなかなりのイケメンだ。
「兄貴、ちょい、いい情報があるんだけど」
希世彦が無視して通り過ぎようとすると、男は脇に並んで歩きながら、
「超イケル女の子が居る店を紹介させて下さい」
と言った。
「女なら足りてるからいいよ」
と希世彦が答えると、男はしつこく食い下がった。
「僕は用はないですから、別の人に勧めて下さい」
と言うと、
「ちょっと寄ってもらうだけでいいんだよ」
男はやや高圧的に言った。
「あんた呼び込みだろ? 呼び込みはやっちゃいけないんじゃないか?」
「何だよ、あんたオレに喧嘩を売るのかよぉ、オレは呼び込みなんか一切やってねぇよ。情報を提供しているだけだろうがぁ」
男はしつこい。友達も、
「彼が嫌だと言ってるんだから勘弁してやって下さい」
と応援した。
「おめぇに話をしてねぇ。うぜぇんだよ」
と友達に言うなり左手で希世彦の右腕を掴んだ。希世彦が振り払おうとすると、男の右手が動いた。希世彦は咄嗟に顔を右に避けたが間に合わなかった。と言うよりも、男の手が早かった。男の拳が希世彦の左頬に炸裂した。ガッ☆☆☆……。希世彦の左頬に激痛が走った。それを見た友達があたりを見ると、丁度警戒中の二人組みの警官が目に留まり、走って行って助けを求めた。
結局男はその場で取り押さえられて、男と一緒に希世彦たち三人も参考人として新宿警察に連行されてしまった。
喧嘩は両成敗と言う。警察では希世彦たちも、手錠はかけなかったが罪人扱いだった。住所氏名を聞かれ、
「あんたたちは三人だ。奴に仕掛けたのはあんたらと違うのか」
と責められた。
「こっちが断ってるのにしつこく呼び込みをされたんですよ」
と言うと、
「どこの店にだ」
と聞かれた。
「それは分りませんが、いい女の子を紹介するからと無理に」
と答えると、
「店も分らないのに呼び込みとは言いがかりじゃねぇのか」
と逆に刑事につっこまれた。一時間も尋問されて、三人はようやく解放された。希世彦の左頬はズキズキと痛み、赤く腫れ上がってきた。希世彦たちが、
「傷害罪だ」
と訴えたが、
「奴とおまえらとどっちが悪いのかまだ確定せんからダメだ」
と蹴飛ばされた。
希世彦は新宿駅で友達と別れてから母の沙希に電話で委細を伝えた。すると、
「兎に角早く帰ってらっしゃい、痛むようなら夜間診療のある外科に行かなくちゃ」
と叱られてしまった。
希世彦が戻って、沙希は怪我の状態を見た。
「ひどいわねぇ。直ぐに病院に行ってらっしゃい」
と先ほど調べた夜間診療を受け付ける病院に行かせた。その上で、沙希は義父の柳川に電話で詳細を説明して、
「警察のお知り合いに相手がどなたか聞いて下さらない?」
と頼んだ。
柳川から直ぐに返事が来た。
「希世彦君を殴った奴は横山哲夫と言う奴で韓国人だそうだ。本名はパク・ジェウクと言うらしい。警察は希世彦たちが被害者だと認めたよ。聞いた話じゃ、パク・ジェウクはソウルの大金持ちのどら息子で、観光でちょくちょく日本にやってきて、風俗で金を稼いじゃ遊びまわっているらしく、今回はキャバクラの女の子とつるんで呼び込みをやってたらしい」
「そんな奴じゃ殴られ損だわね。お手数をおかけしてすみません」
沙希は柳川に謝った。
「希世彦君はどうなんだ?」
「今病院に行かせてます。あっ、ちょっと待って。今電話が入ったわ」
しばらくして沙希は柳川と電話を続けた。
「診察結果左頬の頬骨が少し凹んでいるらしいですけど、命には別状はないそうでした」
「ま、男の子だから、パンチでホッペタが凹んだなら勲章みたいなもんだな」
と柳川は笑った。沙希は大事な息子の災難に笑いごとではなかったが、柳川は胆の据わった男でこの程度の怪我じゃかすり傷みたいな言い方をした。
一時間ほど経って、柳川から電話が来た。希世彦は病院から戻っていた。顔の半分がガーゼと絆創膏で隠れてしまっていた。
「パク・ジェウクを調べさせたよ。二十三歳だそうで、ソウルの大手建設会社ヒュンダイ・コンストラクション会長パク・ジフンの実弟の末息子だそうだ」
「えっ? パク・ヨンヒの従兄弟ってこと?」
「そうだ」
沙希はびっくり仰天した。
「世の中は狭いねぇ。調べさせたとこじゃ箸にも棒にもかからん放蕩息子らしいぞ。親も手を焼いてほったらかしで、最近は金に困って日本の風俗で悪どい小遣い稼ぎをしているそうだ。まあ家族が大勢居ればその中の一人や二人ははみ出し者が居るんだが、そんなとこだな。親戚知人から金を借りまくって踏み倒すそうで、パク家でも困っているらしい」
「パク会長に話しておいた方がいいかしら」
「そんなドラ息子が居るんじゃ、オレなら希世彦の縁談を断るねぇ。従兄弟に理不尽な言いがかりをされて顔を凹まされたなんて運が悪かったじゃ済まされんぞ。あんなドラ息子が親戚に居る家と縁結びをすりゃ、これから先癌を抱えているようなもんだよ」
柳川はキッパリと縁談を断れと言った。沙希は取りあえずパク会長に希世彦の被害を知らせて、夫の善雄が帰国後に相談してから縁談を断ることにした。希世彦と一緒に善太郎と美鈴に報告すると、
「ヨンヒさんには可愛そうだが、希世彦もこんなことじゃ彼女との付き合いを諦めてもらわなきゃならんなぁ」
と善太郎が言った。美鈴は、
「そうねぇ、ヨンヒは良い子だから惜しいわねぇ」
と希世彦に同情した。
柳川の話しじゃ、最近は景気がいまひとつで、風俗業界も客が減って、キャバクラ嬢は客が付かない時間は待機時間と言うが、待機時間が長いと強制的に帰らせるし、待機時間中は時給も支払わない所が増えていると言う。一頃はキャバ嬢と言えばかなり金を稼げたが、最近は客が付かないと収入も少ないそうで、それで、キャバ嬢は待機時間を少なくするため、男とつるんで警察に捕まらないように巧妙な手口で呼び込みをしたり、ブログや携帯電話で客を呼び込むケースが相当に増えているのだと教えてくれた。時給一万とか一万五千は昔の話で、最近は実質は随分低くなったらしい。
百八十五 お礼参り
六本木のクラブ、ラ・フォセット社長、柳川哲平は先ほどから新宿区大久保の淺沼組組長と長い電話をしていた。
「ちょい、また頼みたいことがあるんだが」
「オレのとこはいつでもいいぜ」
「実はな、オレの孫の希世彦が五日前歌舞伎町でキャバの呼び込みをやってた韓国の小僧にホッペタを一発やられてさ、頬骨陥没よ」
「お孫さん、また派手にやられたなぁ」
「韓国野郎はそのまま警戒中のサツに捕まって、傷害罪で本国に戻されたのよ。最初にうちの孫が喧嘩を売ったんじゃねぇかってんで、サツはうちの孫を勾留しやがったんだが、オレが口をきいてうちの孫じゃねぇと納得して釈放だ」
「それでオレに頼みと言うのは奴のお礼参りか?」
「そうだ。怪我だけならどおってことはないんだが、調べさせたらこの韓国野郎はホタルとつるんでるようだ。それで、多分奴はこっちにいる仲間に頼んで何か仕掛けてくるような気がしてな」
「ホタルかぁ。ホタルだけならどおってことはねぇんだ。こっちで話を付けられる。けどよぉ、最近ホタルは中国マフィアとつるんでるようだ。中国が出てくると始末が悪いなぁ」
「分った。じゃ、この件は韓国野郎が仕掛けて来る前に、オレの方の組織を使って少し可愛がってやろう。それで、万一ホタルが動くようなら、その時は改めて始末を頼むよ」
「それがいいねぇ。韓国の国内で始末した方が後々尾をひかねぇな」
柳川は普段から付き合いのある赤豹派(日本流に言えば赤豹組)の会長に電話をした。
「ちょい可愛がって欲しい奴がいるんだが」
「日本人か?」
「いや、あんたとこの国の人間だ」
「組織の奴か?」
「それは分らんが多分どこにも入っちゃいねぇと思う」
「兎は誰だ?」
「ソウルのヒュンダイ・コンストラクションを知ってるか?」
「知るも知らんも大会社じゃねぇか。それとどう繋がってんだ?」
「そこのパク会長の甥っ子のパク・ジェウクって名前の奴だ。オレの家族に喧嘩を仕掛けやがって、奴は新宿警察に捕まって、そっちに戻されたのよ。奴は金稼ぎには悪どい。奴とつるんでる新宿のホタルのチンピラに頼んでお礼参りしてくる可能性があるんだ」
「分った。奴を捕まえて、ちょい可愛がってお礼参りをしたら命がねぇと思えくらい言って脅してやりゃいいんだな?」
「その通りだ。頼む。恩に着るぜ」
赤豹派との話はまとまった。あとは赤豹派に任せた。
早朝、運送会社の一台の宅配便トラックがヒュンダイ・コンストラクション本社正門に乗り入れた。従業員が出社する少し前のこの時間に、多くの運送会社のトラックが建設資材などの搬入で正門を通過するので、守衛は何の疑いもなくそのままトラックを通した。
正面玄関に横付けすると、トラックから運転手と助手が降りてきて、荷台の扉を開くと、傷だらけの使い古しのジュラルミン製の大きな箱を下ろした。運転手と助手は、荷物を玄関口の脇に置くとそのまま走り去った。
始業時間近くなって、受け付けの女の子、カン・セウンはカウンターに花を活けている時に、外の荷物に気付いた。
「もうっ、あんなとこに大きな荷物を置いてぇ。まったく運送会社のやつ、何考えてるんだろ」
ぶつぶつ言いながら荷物を動かそうとしたが重い。女手の自分一人ではどうにもならないことが分って、既に出勤してきた総務部の男子社員を二人呼んできた。
「取りあえず、受付横の邪魔にならない所に運んで下さらない?」
男たちは荷物を持ち上げた。
「重いなぁ、誰宛だろう?」
それで荷物に貼り付けられた伝票を見ると、[パク会長様]になっている。
「これ会長宛てだぞ。何が入ってるんだろ」
一人が言うと、
「もしかして現金、札束かもよ」
ともう一人が冗談を言った。
九時過ぎに、会長のパク・ジフンが出社すると、受け付けのカン・セウンから電話が来た。
「受け付けのセウンです。会長、おはようございます」
「おお、おお可愛いセウンさんか。朝っぱらから何かね」
「あのぅ、会長宛てに大きな荷物が届いています」
「何だろう? 送り先はどこからかね」
「それが、送り主の欄にはわざと読めないように書いたとしか思えない書き方で何か書いてありますが、分かりません」
「分った。じゃ、そっちで荷物を開けて見て中の物が何か報告をしてくれ」
セウンは自分一人では出来ないので、また職場から男を連れてきて縛り紐を解いて箱を開けてもらった。
「キャーッ!」
セウンは悲鳴を上げた。箱の蓋を開けた男も尻餅をついていた。箱を開けると同時に手足を縛り上げられて、腕や顔などそこらじゅう傷と痣だらけの若い男がどさっと倒れてきたからだ。倒れた時に茶封筒が一枚ひらひらっと床に落ちた。パク会長様と表に書かれており、封筒の下の方に真っ赤な豹の絵が印刷されていた。
セウンの悲鳴に総務部の何人かの男女が飛び出てきた。騒ぎに総務部長も受付付近の様子を見た。
「荷物の中に男が入れられていました」
部長は驚いて倒れている男の顔を仰向けにして見た。
「ややっ、この人はパク会長の甥っ子さんのジェウクさんだよ。間違いない」
それで、セウンが拾い上げた封筒を見て、中を覗いた。
「ジェウクが東京で殴った男に何かしたら、ジェウクの命はないものと思え。これは警告だ」
一枚のA4の紙に、ハングル文字がプリントされて並んでいた。部長は慌てて封書を持って会長室に急いだ。
間もなく救急車のサイレンの音がして、玄関で停まった。救急車はジェウクを運び込むと病院に向けて走り去った。
パク会長は、総務部長が持ってきた茶封筒を見て顔色を変えた。過激的行動で恐れられている広域暴力団赤豹派のマークを知っていたからだ。
A4の紙に印刷された文字を読むと、無意識にだが、パク会長の脚が小刻みに震えていた。会長は若い頃地上げ屋ともめて、赤豹派にさんざん痛めつけられてボロボロにされ、命だけは助けてもらった怖ろしい経験があったからだ。手をロープで天井に吊られ、足首をロープで机の脚に縛りつけられて、焼き鏝で背中にじゅーじゅーと烙印を付けられたあの時の恐怖、背中に[罪人]とくっきり浮かび上がった鏡に写る文字。今では整形手術で[罪人]は消してもらったが、大きな手術痕を見る度に思い出してしまうのだ。あの時、自分の背中の肉が焼けて焼肉のような臭気が鼻を突いた。三十年以上も前のその臭いすら、忘れようと思っても未だに忘れられないでいるのだ。
パク会長は赤豹派に睨まれた女が、乳房の下や股の陰部の脇に[淫売女]と烙印を焼き付けられた者を何人も見て来たのだ。
百八十六 誘惑
韓国の大手建設会社、ヒュンダイ・コンストラクション会長パク・ジフンは怖ろしい赤豹派の手を使って甥のジェウクが報復された状態を目の当たりにして、改めて東京の米村家の実力を見せしめられた。
「米村を甘く見ていたなぁ」
それで、姪のヨンヒを呼ぶと、
「ヨンヒや、ジェウクが希世彦君に大怪我させただろ、その仕返しに赤豹派がジェウクを半殺しにしたよ。わしはなぁ、ヨンヒに勧めた希世彦君の家族を甘く見ていたよ」
ヨンヒも韓国では悪名高いヤクザの赤豹派のことは知っていた。
「ジェウクは相当ひどくやられたの?」
「ソウル市内のキャバレーを出た所で捕まって、明洞まで連れて行かれて、そこにある奴等のアジトでやられたらしい。恐らく、殺される寸前まで痛めつけられたらしいな。あいつの胸に[罪人]と言う烙印を焼き付けられて戻された。あの烙印を焼き付けられた時は恐らく死を覚悟しただろうな。ジェウクはもう女を抱けなくなったよ」
キャバレーは地下鉄1号線鐘閣駅近く鍾路二街にある店だ。
「烙印があると女を抱けないの?」
「いや、男の物、つまりだな、オチンチンを切られてしまったんだ。どうしようもない奴だが、わしもそこまでやられると可哀想な気持ちになったよ」
「そうなんだ。ジェウクが可哀想だね」
「だからな、ヨンヒは今後希世彦君とは絶対に関わりを持って欲しくないんだよ。我慢してくれよ」
ヨンヒはついさっきまで、また東京に飛んで希世彦に会いたいと思っていた所だった。こんなに落ち込んでいる会長を見たのは初めてだったから、伯父のショックの大きさをヨンヒも理解できた。
だが、ヨンヒはそれでも希世彦を諦め切れずにいた。恋とは恐ろしいものだ。深ければ深いほど、自分ではどうしようもない気持ちが自分を行動させてしまうのだ。
会長の言いつけを破って、ヨンヒは密かに羽田に飛んだ。今回はさすがに希世彦に出迎えを頼めなかった。
希世彦はアオハを送って行き、別れてから携帯の電源を入れた。アオハとデートをしている間は携帯は邪魔だ。それでいつも電源を切っていた。携帯が立ち上がってしばらくすると呼び出し音が鳴った。
「もしもし」
「もしもし希世彦さん、やっとつながったな。ねぇ、どこに行ってたの」
「ごめん、携帯の電源を切ってた」
「もう遅い時間だけど、今ホテルのバーに居るの。直ぐに来てぇ。ねぇ、あたし希世彦さんにすごく会いたいよぉ」
「遅いから今夜は勘弁してよ」
希世彦はもうヨンヒとは会わないつもりでいたのだ。
「絶対に来てぇ。あたしずっと待ってるから」
「ダメだよ。もう親が交際を断っただろ? 聞いてない?」
「聞いてるけどぉ、あたしどうしても希世彦さんに会いたいの。だってぇ、あたし希世彦さんを好きになってしまったから、簡単には諦められないよぉ」
ヨンヒは甘えるような声でしきりに誘った。携帯の時刻は十時だ。いくら何でも今からじゃ帰りの電車がなくなってしまう。タクシーでもいいのだが、希世彦はそこまでしてヨンヒには会いたくなかった。
「あたし、待ってるからぁ。希世彦さんが来なかったら、あたし死んでしまいたい」
そこで電話が切れた。希世彦は直ぐにかけなおしたが、ヨンヒは携帯の電源を切ってしまったようだ。
「ヨンヒだと、僕、どうして振り回されちゃうんだろ」
希世彦の気持ちはパレスホテルに向かっていた。行っちゃダメだ、ダメだと思いつつ、吸い付かれたように気持ちと身体が動いてしまう。希世彦は母の沙希に、
「どうしてもとしつこく言われちゃったから、今回が最後のつもりでヨンヒに会ってくる」
と連絡を入れた。
「あなた、ずるずると引っ張られちゃダメよ」
「分ってるよ」
「母さん、心配だなぁ」
沙希の反対を押し切って希世彦はパレスホテルのバーラウンジに向かった。パレスホテルは二〇一二年、二十三階建ての高層ビルに建て替えられていた。新しくなったホテルのあるビルは複合施設で一部一般企業向けのオフィースになっていた。
バーに行くとふくれっつらしたヨンヒが一人でカクテルを飲んでいた。希世彦の顔を見ると、ふくれっつらが見る見る笑顔に変わって、目にいっぱい涙を溜めて嬉しそうにした。
「やっぱ来てくれたね。希世彦さん、大好き」
ヨンヒは少し酔っている様子だった。
「あたしね、希世彦さんに最後のお別れを言いに来たんだ。でも、希世彦さんの顔を見た瞬間、別れるのが嫌になったよぉ」
希世彦はジェウクが赤豹派にやられたことを全く知らされていなかった。だが、ヨンヒは希世彦は当然知っていると思っていた。
「希世彦さん、ひどいよぉ。あんなことまでしなくてもいいのに」
「僕が何かしたのか? 何をした?」
「そう? 知ってるくせに言わないんだからぁ。あなたを殴ったあたしの従兄弟、男をダメにされちゃったよ。女好きだから可哀想に」
「……?」
希世彦はヨンヒの話しが全然見えなかった。
希世彦が怪訝な顔をしていると、ヨンヒは話題を変えた。
「希世彦さん、ヤクザのお友達いっぱい居るの」
「顔見知りくらいの人なら居るけど、友達じゃないなぁ」
「やっぱ居るんだ」
「何の話か分らないけど、顔見知りと言っても話をしたことはないよ。だから知らないと言った方が正確かもね」
「ウソ付きっ! あたしウソ付きは大嫌いだよ」
「ウソは言ってないけど、大嫌いになってもいいよ」
「もう、希世彦さんの意地悪」
ヨンヒは酔いが回ったらしく、座っているのが辛い様子で隣に座っている希世彦にしなだれかかってきた。ヨンヒがつけている香水の香りがした。
「酔ったらしいね。出よう」
希世彦はヨンヒを抱きかかえるようにして勘定を済ませてバーを出た。バーは午前二時半までやっているが、時刻は一時半だった。
「ヨンヒ、しっかりしろよ。部屋は何番だ」
仕方が無い。希世彦は酔っ払って足元がおぼつかないヨンヒを抱きかかえるようにしてヨンヒの部屋に送り届けた。ヨンヒをベッドに横たえると靴を脱がせて上掛けを掛けてやり、そっと部屋を出ようとした。
いつベッドから降りたんだろう。希世彦が帰ろうとドアノブに手をかけようとした時、ヨンヒが後から抱きついてきた。
「帰らないでっ!」
祈るように必死に発したヨンヒの声は震えていた。
「今夜、最後のお別れにあたしと一緒に居てぇ」
ヨンヒは泣き声になっていた。希世彦が振り向くと、ヨンヒは希世彦の唇を奪い、腕を首に巻きつけて希世彦が押し戻しても放さないで居た。
ヨンヒのベアトップのドレスのバスト部分が少しずり落ちて、ふくよかな乳房が半分露わになっていた。
ヨンヒはそのまま希世彦をベッドの方に押し戻して、腕を希世彦の首に巻きつけたままベッドに倒れこんだ。希世彦も一緒に倒れこんだ。
「好き、大好き、希世彦さん、抱いてぇ」
喘ぐようなヨンヒの声に、希世彦の下腹部は既に反応して突っ張っていた。
百八十七 甲斐明美
倒れこんだベッドの上で、希世彦の首に腕を回して、希世彦の唇や頬に狂ったように吸い付きまくるヨンヒは、ほっそりとして長い形のいい脚を希世彦の胴に巻きつけた。短いドレスの裾がめくれて、白い瑞々しい太ももが露わになっていた。ヨンヒの、
「抱いてぇ、お願い」
と言う祈るような喘ぎ声はまだ続いていた。
しばらくの間、希世彦はヨンヒにされるがままにしていた。しっかりと首に巻きついたヨンヒの腕を解こうにも解けないのだ。やがて急にヨンヒの喘ぎ声が消えて、腕の力が抜けて、ようやく希世彦はヨンヒの嵐のような愛撫から解放された。そっと身体を離すと、ヨンヒは可愛らしい唇を少し開いて、幸せそうな顔ですやすやと眠りに落ちてしまっていた。胴に巻きついた脚をそっと外すと、めくれあがったドレスの裾の下に淡いピンクの花柄のレースをあしらったショーツが見えた。希世彦がちょっと腕を伸ばして、そのショーツを下げれば、陰毛に包まれた可愛いヨンヒの恥部が見えるはずだ。希世彦の頭の中では、それを見たいと言う欲望と、深入りしてはいけないと言う理性がドロドロの戦いを繰り広げていた。
希世彦は欲望を振り払うように頭を振った後、目の前のヨンヒのめくれ上がったドレスの裾をそっと下ろしてやると、音を立てないようにして、バスルームの鏡の前に立った。希世彦の顔にはヨンヒのルージュが一面に散らばっていた。それをタオルを湿らせて拭い取ると、静かに部屋を出た。ひっそりとした廊下を足早に立ち去ると、ホテルのエントランスでタクシーを拾って、家族が寝静まった家に戻った。
ヨンヒが目を覚ました時は、窓の外が明るくなっていた。三時間くらいは眠っただろうか?
ダブルベッドの、自分の脇を見ると、綺麗に整ったままになっていた。ヨンヒは昨夜のことをおぼろげに覚えてはいたが、希世彦が立ち去ったのは覚えていなかった。昨夜希世彦に会った時のドレスのままだ。ヨンヒはそっと自分のその部分に手をやってみたが、希世彦にしてもらったような気配は感じられず、
「やはり抱いてもらえなかったかぁ……」
とがっかりした。ヨンヒは最後のお別れに希世彦に抱いてもらったら、希世彦のことをすっかり忘れて新しい自分を見つけようと思っていたのだ。
携帯を取ると、希世彦にかけてみた。だが電源が切られていた。
「あたし、完全に振られちゃったな」
ヨンヒはしばらくベッドの上で泣きじゃくっていた。
明美と約束の土曜日が来た。母の車を借りて、希世彦は東陽町の明美のマンションに向かった。
「おはようございます。希世彦さん、コーヒーを一杯飲んでから出かけません?」
明美に誘われて、希世彦は初めて明美の部屋に入った。小奇麗に掃除された小さなワンルームだった。隅のベッドには女の子らしい花柄のベッドカバーが掛けられていた。
朝のコーヒーをご馳走になってから、二人は車に乗り込んで首都高湾岸線を通って横浜方面に向かい、狩場から東名高速横浜ICに向かい、そこから東名で御殿場まで走った。休日で高速は混雑していたが、渋滞するほどではなかった。運良く土曜、日曜は好天の予報だ。
乙女峠のトンネルを潜ると、眼下に仙石原が広がっていた。希世彦の家の別荘は仙石原の別荘地の中にあった。このあたりは、敷地の広い別荘が並んでいる。別荘に着いて呼び鈴を鳴らすと、管理人の奥さんが出て来て出迎えてくれた。
「あら、初めての方ね」
「あ、こちら、友達の甲斐さんです」
「甲斐明美と申します。よろしくお願い致します」
明美は丁寧に管理人の奥さんに挨拶をした。
「電話を頂いていましたから、お昼、食堂に用意してありますよ」
管理人の奥さんは親しげに希世彦にお昼の仕度ができていると告げた。
別荘の玄関から中に入って、明美はしっとりと落ち着いた調度品が並んだ室内に感激していた。そして思わず、
「素的っ」
と呟いた。
「お昼、少し早いけど、昼食が終わってからポーラ美術館に行きませんか」
「はい。よろしくお願いします。夕方、ここの近くを散歩してみません?」
珍しく、明美が少し歩いてみたいと言った。
「いいよ」
林の中のポーラ美術館は予想に反して混雑していた。休日だからかも知れない。希世彦は明美と静かな美術館の中で過ごしたいと思っていたのにあてが外れてしまった。けれど、どこかで見た覚えがあるような印象派の作品が多く展示されていて、明美はとても喜んでいた。
別荘に戻ると、
「夕食まで少し時間があるから、明美さんのご希望通り散歩しよう」
そう言って希世彦と明美は散歩に出た。遠くから仙石原を見ていると樹木があまりないように見えるが、別荘地を歩いて見ると、案外樹木が多い。
「あら、これ釣鐘人参かしら?」
少し歩くとまた明美が立ち止まった。濃紫の花を指して、
「これ、確かうつぼぐさね」
その後も樹木の下の雑草の間に山ほたるぶくろや、まだ蕾の山百合を見つけて明美はすっかり喜んでいた。花を見つけた時の少女のような可愛らしい表情を見て希世彦は、
「明美さんって結構可愛らしいとこがあるなぁ」
と感じていた。
夕食が終わると、明美は別荘の管理人の奥さんに、
「あたし、お手伝いをさせて下さい」
と奥さんが遠慮して遮るのを構わずに汚れた食器を下げて洗い物の手伝いをしていた。希世彦は明美の好きに任せていた。手伝いが終わるとテレビを見ていた希世彦の脇に明美が座った。
「今日はすごく楽しかったわ。誘って下さってありがとう」
元々明美は希世彦が好きだ。だから自然に希世彦に擦り寄る形になった。
「工場の方の仕事、大変だろ? 少し慣れた?」
「はい。異動命令を頂いた時は目の前が真っ暗になるはあなたとも離れてしまうはで、あたし凄く落ち込みました。でも、今は大分慣れましたし、周囲の方たちも親切にして下さるから毎日の出勤が気持ち的に楽になりました」
「がんばれよな」
「はい。頑張ります」
「通勤も大変だろ?」
「通うのは慣れましたけど……」
「なにかあるの?」
「はい。通勤電車で痴漢が多くて」
「えっ? 痴漢? そんなに多いの?」
「はい。毎日痴漢に遭わない日がないくらいです」
「ひどいことされちゃうの?」
「大抵お尻を触られるのが多いわね。時にはこのあたりに手なんか入れてくる男も居るのよ」
明美は恥ずかしそうに手を入れられた部分を指した。
「失敬な奴が多いんだな。我慢してるわけ?」
「仕方ないですもの。最初は飛び上がるほどショックでしたわ。でも最近は割り切ってなるべく気にしないようにしてるのよ」
「男の僕が言うのもおかしいけど、困ったもんだなぁ」
「希世彦さんは……痴漢したご経験……ないわよね」
「バカァ、当たり前じゃないか。あなたみたいな可愛らしい友達がいるのに」
と希世彦は笑った。希世彦の返事を聞いて、明美はなんとなく安心している自分を感じていた。
「芦ノ湖の上に上がって星を見ない?」
「あら、素的。行きます」
管理人に星空を見てくるからと断って、車を出すと芦ノ湖スカイラインに上がった。途中湖畔に下りる別れ道あたりでベンチのある展望台にあがった。周囲には誰もいなくて、ひっそりとしていた。二人並んでベンチに腰を下ろして空を見上げると、星たちがキラキラと輝いて、東京の空では見られない沢山の小さな星たちも見えた。明美は無言で星空に酔っている感じだった。希世彦がそっと明美の肩に手をかけると、明美はそれを待っていたように希世彦に身体を預けてきた。明美の薄い肩の温もりが心地良かった。それで長い間二人は無口になって星空を眺めていた。
二人は別荘に戻ると別々に温泉に入った。明美は広めの湯船が心地良かった。
その夜、一階の広い和室に明美の布団が延べられていた。明美はなんだか落ち着かずに遅くまでテレビを見ていた。
「希世彦さんは今何をなさってるのだろう? もう寝てしまったのかしら?」
希世彦は、
「ここに来るといつも寝る部屋だ」
と言って二階の別の部屋に行ってしまった。明美はもしかして今夜希世彦と同じ部屋かと期待していたが、どうやら外れてしまって布団に潜り込んでぼんやりテレビを見ながら星空のことを思い出している間に眠ってしまった。
明美は、はっと目を覚まして携帯を開いて時刻を見た。七時少し前だ。
「いけない遅刻しちゃう」
明美は寝ぼけて平日と間違えたことに直ぐに気付いて、
「明美ちゃんのバカ」
と自分の頭をコンコンと叩いた。しばらくすると、襖がすぅっと少しだけ開いて、管理人の奥さんの声がした。
「お目覚めなさいまして?」
明美は慌てて、
「は、はいっ」
と答えた。
「洗面道具は化粧室に仕度しておきましたのでどうぞ」
そう言って管理人は立ち去った。廊下でにこにこした希世彦に会った。
「お風呂に入ってこいよ。朝の温泉もいいもんだよ」
「はい」
明美は言われるままに温泉に入った。希世彦の言う通り湯船に浸かって手足を広げると幸せな気持ちがいっぱいに広がった。
その日は湿生花園に連れて行ってもらった。山野草が大好きな明美はお昼過ぎまで時間を忘れて公園の中に居た。
「明美さん、花がお好きなんですね」
「はい。見るのは大好きです」
遅くなったお昼を、芦ノ湖湖畔のプリンスホテルのレストランで済ますと、二人はそのまま真直ぐに東京に戻った。
「希世彦さん、ありがとう。楽しかったです」
マンションまで送ってもらった。走り去る希世彦の車の赤いテールライトを見ながら、明美はお別れに希世彦のホッペタにチュ~ッとして[また誘って下さい]と絶対に忘れずに言おうと心に決めていたのに、そのどちらもできなかった自分の気の弱さに我ながら
「あたしって昔から肝心な所で勇気がないんだからぁ」
と自分の不甲斐なさを恨んだ。
早めに家に戻った希世彦は、夕食後九時のニュースをぼんやりと見ていた。政治・経済のニュースが終わって、社会ニュースに変った。[昨日島根県三保関町の地蔵崎より少し手前の海岸で洋服を着たまま海に入る若い女性を少年が目撃して警察に通報、地元の消防団員等が中心になって捜索したが見付からず、今朝その女性と思われる溺死体が海岸に打ち上げられているのを近くを通った漁業組合の職員が発見、地元警察で調べた結果、この女性が放置したと見られるボストンバッグの中にあったパスポートから、溺死体は韓国ソウル市在住のパク・ヨンヒさんであることが判明しました。バッグの中には本人が書いたと思われるハングル文字のメモがあり、現在警察で捜査中……]
ニュースを最後まで聞くまでもなく、希世彦は愕然とした。
百八十八 疑惑
パク・ヨンヒの溺死事件は米子警察署の担当となり、刑事が早速自殺と他殺の両面から捜査を開始した。パスポートから外務省を経由して韓国の治安当局に照会した所、韓国では大手になる建設会社会長の姪であることが判明、警察でも本腰を上げて捜査に当たった。
先ず韓国からパク・ヨンヒの両親が来日して遺体の確認を行った所、間違いなく溺死者はパク・ヨンヒであると確定した。問題は、ヨンヒのパスポートに挟んであったハングル文字で書かれたメモだ。メモの冒頭に[キヨヒコサマ]と書かれており、パク家側は東京の米村家との縁談が破談になり、ヨンヒが邪魔になって、米村家側の何者かに殺害されたのではないかと主張したのだ。パク会長は傷害罪で東京からソウル警察に護送されたジェウクの身柄を裏口から内緒で貰い受けた手前、ジェウクのことが明るみに出ると拙いので、ジェウクのことは決して口外するなと厳しく指示をしていたから、ジェウクの話は一切持ち出されなかった。
早速米子警察署では係の刑事二名を東京に派遣して東京足立区の西新井の米村家を訪ねた。
生憎希世彦は大学に出かけて留守だったため、母親の沙希が応対した。
「突然で失礼します。息子さんの希世彦さんの土曜日と日曜日の行動についてお尋ねしたいのですが」
刑事たちは丁寧だった。
「それでしたら、私の車で箱根の別荘に遊びに行っておりました」
「お一人でですか」
「いいえ、お友達の女性と二人でした」
「お出かけと帰宅の時刻は分りますか」
「はい。大体ですが、土曜日朝の八時過ぎに家を出まして、帰って参りましたのは日曜日の夜八時頃でした。確か、本人は九時のニュースでヨンヒさんの溺死を知りまして、相当に動揺しておりました」
刑事は[動揺していた]と聞いて元気付いた。
「別荘の他にはどこかへ出かけられましたか」
「はい。土曜日は箱根のポーラ美術館、それから日曜日はやはり箱根の湿生花園に行ったと言っておりました」
「本当に行かれたのか、何か証拠になる物はありますか」
沙希は車の中に美術館、花園とそれに日曜日に昼食を食べたと言うレストランの領収書が置きっぱなしになっていたのを思い出した。いつものことで領収書や入場券を車の中に置きっぱなしにする癖があって、時々掃除して捨ててしまうのだ。だが、今回はまだ車内の掃除をしてなくて残っているのを知っていた。
「ちょっとお待ち下さい」
そう言って車に取りに行こうとすると刑事たちもついてきた。沙希は入場券二枚と領収書一枚を差し出し、
「本人達が往きは横浜ICから東名高速に乗り、帰りは御殿場から東京料金所を通過して首都高の木場ランプで降りたと言っていましたから、警視庁に照会されて高速の通過車両ナンバーと監視カメラの映像とをお確かめになられましたら本人たちが乗った車が、私が申上げた通り通過した裏付けが取れると思います」
レストランの領収書には支払い時刻がプリントアウトされていたが、沙希の説明に刑事たちは、
「これはどうも」
と返って訝った。その顔を見て、
「私の説明がくどいのは、大きな会社を預かっておりますと色々な事件に巻き込まれることが多おございますので常にこの程度のことは用心しておりますのよ。息子も正直に行動を報告する習慣になっておりまして、今申上げましたことはお調べになられたら間違いがないことをお確かめ頂けると思います」
「奥様、さすがですね。連れの女性のご連絡先と別荘に泊まったことを知っている方がおられるか教えて頂けませんか」
沙希は甲斐明美の電話番号と別荘の管理人の連絡番号を教えた。
「一つお願いがあります」
「何か?」
「息子は年頃で甲斐さん以外の女性ともお付き合いをしており、もちろんパク・ヨンヒさんのことは一切甲斐さんにはお話ししておりません。プライバシーの問題ですので、パク・ヨンヒさんの事件との関わりはお話しなさらないようにお願いします」
「そんなことでしたら問題はありません。甲斐さんと言う女性には土曜と日曜の二日間息子さんとご一緒だったかだけ聞けば済むことですから」
そんな話をしていると、
「ただいま」
と希世彦が帰宅した。
「希世彦、ちょっと。こちらは米子警察からわざわざお越し頂いた刑事さんよ。あなたに土曜、日曜のことでお聞きしたいんですって」
希世彦は刑事に、
「これはどうも。お疲れ様です」
と挨拶して、質問に応じた。希世彦は丁寧に受け答えをしていた。
「大変ご面倒をおかけしました。わたし共はこれで失礼します」
そう言って刑事達は帰って行った。翌日、刑事たちは警視庁に寄って必要な情報を得て、借りてきた希世彦の写真を持って箱根に行った。刑事たちはぬかりがなかった。希世彦の写真を示し、別荘周辺の聞き込みを行った所、土曜日の夕方周辺を若い女性と散歩をしていたのを見かけたと言う者が何人も現れた。日曜日は湿生花園の売店の婦人が女性と二人の所を見かけたと証言、プリンスホテルではレストランのフロアマネージャーが二人が昼過ぎに昼食を楽しんでいたと証言した。別荘の管理人は信用できなかったが、その他の証言や証拠と照らし合わせてもウソを言っているとは思えなかった。
帰りの電車で、
「あの希世彦と言う息子は完全に白だな。アリバイは完璧だ」
刑事たちはそんな話をしていた。
一方、米子警察署は境港警察署と合同で他殺の線で地蔵崎から三保関、弓ヶ浜一体を徹底的に聞き込み捜査を行ったが、目撃情報ではヨンヒに近付いた不審者は皆無であると断定、結局自殺と結論付けて外務省経由韓国の治安当局に連絡した。
パク・ジフン会長とヨンヒの両親は自殺と断定されても何か割り切れないものが残った。ジェウクが赤豹派にやられたので、ヨンヒも米村家の息がかかった暴力団などにより殺害された可能性を否定できなかったのだ。パク会長の心はズタズタにされてしまっていた。
百八十九 真実の愛
希世彦が大学から帰宅すると、文机の上に一通の封書が置いてあった。
白い角封筒だ。
「誰からだろう?」
パソコンや携帯のメールを使うようになって、最近はDM以外の封書なんてめったに受け取らなくなったし、自分も手紙なんて出したことがなくなってしまった。だから、封書が届いて、
「何だろう?」
と思ったのだ。
裏を返すと、韓国から送られて来たもので、綺麗な日本の文字で差出人は[諸井雅恵]と書かれていた。机の上のペン立てからペーパーナイフを抜いて、希世彦は封筒を開けてみた。
二枚の便箋とハングル文字で書かれた手書きメモのコピーが一枚入っていた。
[米村きよひこ様]
初めてお便りを差し上げます諸井雅恵と申します。私は日本人ですが、長くソウルに住んでおり、貴方様のかってのお友達のパク・ヨンヒさんの 母親と親しくさせて頂いております。この度、ヨンヒさんのお母さまからの依頼で、彼女の気持ちを日本語にしてお伝えすることを引き受けまし た。失礼がありましたらお許し下さい。以下彼女から伝えて欲しいと言われた内容を日本語にして書き留めました。
ご存知かどうか分りませんが、私の娘、ヨンヒは最近日本で自殺してしまいました。その時にパスポートに挟んでありました娘のメモを読みまし て、一時は内容をお伝えしようか迷いましたが、ヨンヒが恐らく命を絶つ間際にきよひこ様に宛てて書いたものですので、写しをお送りさせて頂く ことに致しました。日本では馴染みの薄い韓国の文字で綴られておりますので、写しの下に友人の諸井さんに訳文を書き足して頂きました。どうか お読み頂きまして、娘の気持ちを少しでも受け止めて下されば、娘も安心して天国に召されることができるように思います。事情がありまして娘の 葬儀にお招き出来ませんでしたが、メモをお読みになって、少しでもお気持ちがございましたら、ご都合のよろしい時にこちらにお出で頂き、娘の 墓に手を合わせて頂ければ娘も幸せだと思います。突然にご迷惑な お話を致しましたことをお許し下さい。
パク・ヨンチル
希世彦は同封されてきたヨンヒのメモの訳文の方にも目を通した。
[大好きなきよひこさんへ]
きよひこさんと初めてお会いしました時は正直に言うとお見合いの相手程度に思っていました。けれど、何度かデートを重ねている間に、あた し、きよひこさんを心から愛しお慕いするようになりました。ソウルに戻ってもきよひこさんのことであたまが一杯で毎日でもおそばに居たい気持 ちを抑えきれず、あのことがあってから、会長に絶対に会うなと言われているのを無視して東京に会いに行きました。と言うか、あなたをお慕いす る気持ちが一杯で気が付いた時は丸の内のホテルに来てしまっていました。その夜、無理にホテルに来て頂いて、きよひこさんを想うあたしの気持 ちを何とか分かって頂きたいと思って精一杯努力しましたが、あたしの愛をお届けできず今絶望のどん底にいます。あたし、あなたと会えないな ら、もう生きていても仕方がありませんので一足先に天国に行きます。どうかお元気でこれからもずっとお幸せにお過ごし下さい。あたし、いつも 天国から見守っています。さようなら、愛するきよひこさん
ヨンヒ
「世の中で、既に結婚した女性、現在恋愛中の女性で、自分の愛する気持ちを旦那や恋人に届けられないと分った時、命まで絶ってしまう女性は何人いるだろうか?」
希世彦は女の気持ちを理解するのが不得手だと自分でも分かっていたし、アオハ以外の女性に心から恋心を持った経験がなかったから、良く分らなかったが、少なくともヨンヒは心から自分を愛してくれていたのだと今になって気付いた。あの夜、狂ったように自分にしがみついてキスをしたヨンヒの心をどうして受け止めてやれなかったのだろうと後悔していた。
「恋愛とは何だろう?」
「結婚とは何だろう?」
「恋愛することと結婚することとは違うことなんだろうか?」
経験の薄い希世彦はそんなことを真剣に考えたことはなかった。
「確かにヨンヒは自分の性格に会わない部分があった。けれども、こんなに心から自分を愛してくれていたヨンヒと結婚するのが正しいんじゃないだろうか? 今愛し合っているアオハが、もしも何かのことで自分との恋が破れてしまったら、アオハは命を絶ってしまうのだろうか?」
ヨンヒのことを色々思い出している内に、一睡もできずに、夜が明けてしまった。
「おはよう。母さん、これ読んでおいてくれない?」
希世彦は母の沙希に諸井さんから届いた手紙を渡した。手紙が届いたことは沙希も知っていた。だから内容が気にはなっていたが、息子に手渡されて読み始めた。妹の沙里が、
「お兄ちゃん、あちしも読んでいい?」
と聞いたので、
「いいよ」
と答えて、朝早く希世彦は家を出た。その日、どこに行く予定もなかったが、広い静かな海岸にでも出て、独りになりたかった。
負けないでっ 【第四巻】