大地の歌

Ⅰ 温泉

 十二月に入って野山が根雪に覆われた頃、僕は祖父に連れられて温泉に行った。お風呂上りに冷たいリンゴジュースを祖父に買ってもらうことが、当時まだ小学生だった僕の楽しみだった。
 八甲田山(はっこうださん)東麓(とうろく)に位置するこの辺りには湯量の豊富な温泉があちこちに湧いていて、それを掛け流しにした銭湯がいくつもあった。祖父が僕を連れて行ってくれたのは、そんな銭湯のうちの一つだった。
 湯船に体を沈めると、惜しげなく注がれている淡褐色の柔らかな湯が勢いよく洗い場に溢れ出た。モール温泉と呼ばれる泉質の湯は熱めで、子供の僕は長く入っていられなかったが、祖父は目を閉じてゆっくりとお湯に浸かっていた。

 青森県七戸町は今でも(ひな)びたところだが、新幹線がまだ盛岡駅までしか開通していなかったその頃はなおさらだった。祖父はこの小さな町のちょっとした名士だった。県議会議員を五期務め、一時は衆議院選挙に立候補するという噂もあったらしい。県の観光協会理事や商工会顧問などの肩書きもあった。
 小学校の入学式では来賓(らいひん)席に祖父がいた。新入生の僕は校長先生の話の途中で祖父の姿に気付き、嬉しくなって一生懸命首を伸ばすようにしてそちらを見たのだが、祖父の方はまるで僕に気付かないかのように、表情を変えないまま真っ直ぐ前を向いて座っていた。しかしその日の夕方、家に帰って来た祖父はしっかりと僕の目を見ながら「校長先生が話をしておられるときは先生の顔を見ながら聞くもんだぞ」と厳しい顔でいった。僕が大人しく「うん」といって(うなづ)くのを見届けると、祖父は急にニコリと笑顔になり僕の背中を大きな手のひらでぽんと軽く叩くと、一言「よし」といって部屋を出て行った。それ以来、僕は人の話を聞くときに相手の顔をちゃんと見ることが習慣になった。
 祖父が自宅にいる時にはしばしば来客があった。来客のないときには、奥座敷と呼んでいた一階の和室で座卓に向かって書きものをしたり静かに本を読んだりしていた。そんな時はなんだか話し掛けづらかった。ただ、たまには「普通のおじいちゃん」の顔になって、僕の手を引いて近所の公園や温泉などに連れて行ってくれた。僕が小学三年生になった春に県議会議員を引退してからは、そんな普通のおじいちゃんの顔になることがそれまで以上に多くなり、僕は少し嬉しかった。

 祖父と僕が湯船に浸かっていると隣に入ってきた人が話しかけてきた。
「先生、ご無沙汰しております」
 すこし下卑(げび)た笑いを浮かべいきなり声を掛けてきたその男の方を見て、祖父はほんの一瞬だけ(いぶか)しげな顔つきをしたが直ぐに笑顔になって、「やあ、これはどうもお久しぶりです」と親しげに言葉を返した。
「お孫さんですか?」
「ええ、初めての内孫ですよ。(きよし)、あいさつしろ。何歳(いくつ)になったんだ?」
 祖父に突然そういわれ、僕はもじもじしながら小さな声で「こんにちは」とだけいった。
「お孫さんとお風呂に入れるなんてうらやましいですなあ。うちなんか娘も息子も全然結婚する気がなくて、いつになったら孫の顔が見られることか……」

 男に話し掛けられたときに祖父が見せた一瞬の表情が、僕にはなんだか気になった。それで、しばらくしてその人が風呂から出て行ったのを見届けて、僕は祖父に訊ねた。
「さっきの人は誰だったの?」
 祖父は小さく息を漏らし、半ば独りごとのようにいった。
「さあ、誰だったか……。最近はいかんな、いろんなことを忘れてしまって」

 祖父が無給のものを含めて公の職を全て退いたのはそれから三年ほど経って七十歳を過ぎた頃のことだった。それ以降、我が家に祖父を訪ねる客も少なくなった。そのことが祖父には思っていた以上にこたえたようだ。祖父の顔に表情が乏しくなったのは、その頃からだったような気がする。

Ⅱ 瞰湖台

 僕が中学二年生になった年の五月、十和田湖を見に行こうと父がいいだした。それは少し唐突だったし、大人になりかけの僕にとっては、家族と一緒に出かけること自体それほど楽しいことではなかった。「家で勉強してるよ」僕はそういってみたが、父は「清も一緒にいくんだ」といった。

 父が車を運転し、母を助手席に、祖父と僕を後部座席に乗せて、奥入瀬(おいらせ)渓流沿いのなだらかな坂道を上っていった。途中、道の端で何度も車を停めて、川べりを歩いたり静かに滝を眺めたりした。ブナやカツラの芽が瑞々しく膨らみ、明るい林の下のいたるところで薄紫のキクザキイチゲや真っ白なニリンソウの花が、思わず足を止めて見とれるほどみごとに咲いていた。母は僕にそれらの樹や花の名前をいちいち教えてくれた。足の遅い祖父に合わせて、みんなでゆっくりと歩いた。

 車が銚子大滝(ちょうしおおたき)を過ぎて少し走ると湖畔に出た。林の切れ間から湖面がきらきらと輝いて見えた。さらに山道を上り、やがて瞰湖台(かんこだい)と呼ばれる展望台に到着した。車を降りて、湖を背景に僕たち三人の写真を父が撮った。

 中学に入った頃から、僕は祖父に誘われても一緒に温泉などに出掛けることはしなくなっていた。本当は出掛けたかった。でも、外出先で祖父と一緒にいるところをクラスの友達に見られたりすることが何となく恥ずかしかった。そうするうち祖父は僕を誘わなくなり、するといつの間にか家でも祖父と言葉を交わす機会が少なくなっていた。
 ところがその日、展望台の柵から身を乗り出すようにして湖を眺めている僕に、祖父の方から話し掛けてきた。
「この真下辺りが中湖といって、十和田湖の中で一番深い場所なんだ。ちょっと先の方で左側から半島が突き出しているだろ? あれが中山崎といって、青龍大権現(せいりゅうだいごんげん)(まつ)った十和田神社がある場所だ」
 そういって祖父が指し示したその半島の向こう側から、真っ白な遊覧船がゆっくり姿を現わした。船は濃紺の湖面に白く長い航跡を引いている。三階建ての客室をもったその大きな船が、そこからは広々とした湖の上でまるでちっぽけな玩具(おもちゃ)のように見えた。
「十和田湖は大昔に火山の噴火でできたカルデラ湖だ。湖には周りから流れ込む川が一本もないんだ。でも、湖からはいつもたっぷりの水が()の口を通って奥入瀬渓流を流れ下っているだろ? どうしてだか分かるか?」
 祖父にそう問い掛けられた僕は「分かんない」と答えることしかできなかった。
「この辺りの森には冬になると何メートルも雪が積もるんだ。そして、春先に雪解け水がたっぷり地面に沁みこむんだ。その水が何十年、何百年という年月を掛けて地中を通り抜けて、湖の底から湧き水となって噴き出し続けているんだよ。だから十和田湖は自然の大きな井戸みたいなものだ」

 祖父の言葉を聞いた僕は、湖の底深くに潜む何ものかの気配を感じながら、湖面の遊覧船を見つめていた。少しでも目をそらせば視線を戻したときに船の姿が消えてしまっているのではないか、急にそんな不安に僕は(とら)われた。それで、家族みんなで車に戻るまでの間、遊覧船から目を離すことが僕はできなかった。

 祖父が心臓の手術のため青森市の病院に入院するということを父から聞かされたのはそれから二週間後のことだった。

Ⅲ 井戸

 高校三年の夏、僕は大学受験を控え、毎日のように夜遅くまで勉強をしていた。数学の問題などを解いていると、真夜中の二時を過ぎるころから頭がどんどん()えてきて眠れなくなった。その日も僕は二階の自分の部屋で机にかじりついていたが、やがて夏の空が早くも白み始めた頃、突然、階下から怒ったような祖父の声と何かが割れる物音が聞こえた。僕は驚き、慌てて階段を駆け下りて祖父の様子を見に行った。

 五年前に大きな手術をしてから、祖父はそれまでの二階の部屋ではなく一階の奥座敷で寝起きしていた。階段の昇り降りが辛くなったのだ。
 祖父は座敷に敷かれた布団の上で身を起こし、肩で荒い息をしていた。隣の部屋で眠っていたはずの父と母がその横にしゃがんで、母は祖父の背中をさすっていた。祖父はおびえたような顔をしていた。窓際の花瓶が倒れて割れて、水が床にこぼれていた。僕が父の顔をのぞき込んで「どうしたの?」と目だけで(たず)ねたら、父は「だいじょうぶだ」という表情で僕を見返して、かすかに頷いた。

 昼近くになってから、祖父は何があったのかをようやく僕にも話してくれた。祖父は明け方に目を覚まし、枕を窓の方に向けて投げつけたということだ。枕は花瓶に命中した。窓の外は庭で、そこには井戸があった。
(わし)は毎朝、井戸の水で顔を洗うだろ。今朝も、目が覚めていつものように庭に出て、顔を洗おうと井戸に近づいたんだ。すると井戸の奥から誰かに名前を呼ばれたんだ。『清造(せいぞう)、こっちへ来い、清造、こっちへ来い……』ってな」
 祖父は自分を呼んだ声の口真似(くちまね)をした。低くて不気味な声だった。
「それって……本当のことなの?」僕は思わず口を挟んだ。
「どうかな……。きっと、夢を見ていたんだろうな。夢の中で目を覚ましたような気になって、顔を洗おうとしたんだ。そしたら井戸の中から呼ばれたので、『儂はまだやることがあるんだ』って大きな声を出したんだよ。その自分の声で今度は本当に目を覚まして、枕を井戸に向けて投げたんだ」
「嫌な夢だね。僕もおじいちゃんの声でびっくりしちゃったよ」
「悪かったな。でも、あの時に儂が『まだやることがある』と大声でいって断ったから、こっちの世界に戻ってこられたんだ。もし儂が声に誘われて井戸を覗き込んだりしていたら、そのまま井戸の中に落ち込んで死んでいたはずだ」祖父は僕に本気でそう話した。

 祖父が気味の悪い夢を見た日から一月ほどして、父は業者に頼んで井戸に蓋をしてしまった。井桁(いげた)を取り払って地面を均し、重く無粋(ぶすい)なコンクリートの厚板(あついた)を二枚並べて載せた。厚板の上面が周りの地面と同じ高さになるよう土を寄せたら、そこに井戸があったことなど分からなくなってしまった。「自分もいつ名前を呼ばれるかしれないからなあ」工事を見守りながら、冗談めかした口ぶりで父は僕にいった。

 祖父はそれから毎日、家の周りをゆっくりと散歩し、本を読み、日記を書き続けた。まるで井戸の中から声を掛けた誰かに抵抗しようとするみたいに。

 井戸はコンクリートの蓋の下で今もじっとしているのだろう。夜の夢の中で井戸が重い蓋をはね除けて、祖父や父や、そしていつかは僕の名を呼ぶ日が来るのかもしれない。

Ⅳ 映画

 一浪して、僕は東京の大学に進学した。一人っ子でこれまで少しも親元を離れたことがなかった僕を東京に送り出すことを、母はとても心配したが、父は「これも経験じゃないか」といってくれた。

 大学に合格するとそれまでの厳しい受験勉強からは開放されたが、今まで目の前にあった目標を突然失ったせいで、僕は次に何をしたらよいのかが分からなくなってしまった。授業にはちゃんと出席したが、何を学びたいのかと問われてもはっきり答えられる自信がなかった。何もすることが見つからない時は一人きりで音楽を聴いたり小説を読んだりして過ごした。音楽はマーラーの交響曲をよく聴いた。
 音楽や小説は、そのころの僕を癒し救ってくれていたのだろうか、それとも逆に僕のふさいだ気分を悪化させ長引かせていたのだろうか。あるいはその両方だったのかもしれない。いずれにしてもその頃の僕にとって、音楽と小説が生活の中で一番大きな場所を占めていたことは確かである。

 六月になってさすがにこのままではいけないと思い、僕は大学のサークル活動に参加してみることにした。僕が入ったのは映画同好会だった。そこで玲子(れいこ)と知り合った。彼女は僕と同学年だったが、現役入学なので僕より一つ年下だった。

 日差しの厳しい夏の日、僕の方から誘って二人で映画を観に行った。
 映画が終わって暗い映画館の中から明るい午後の街に出たら、(まぶ)しくて夢から覚めたときのような感じがした。繁華街を歩きながら映画のラストシーンを思い出した僕は、「どんな物語にも終わりがあるなんて、ちょっと寂しい気がするね」といった。
「そうね……。でも、映画の良し悪しはエンドロールが流れている時に一番良く分かるんだと思うな」
 確かにそうだと僕は思った。そして、死は人生の一部だという意味のことを映画の中で主人公の母親がいっていたのを思い出しながら、人生の良し悪しも最後になってやっと分かるのかなと、僕はぼんやり考えた。

Ⅴ 大地の歌

 玲子とはそれから何度も一緒に食事をしたり、映画館、美術館、コンサートなどに出掛けたりした。ある日僕は、自分がマーラーの音楽をよく聴いていることを彼女に話した。
「マーラーは死をモチーフにした交響曲を作り続けた作曲家なんだ」
「ふうん……。でも、死をモチーフにした音楽なんて不健康じゃないの?」
「死について考え続けることは、必ずしも不健康なことじゃないって僕は思うよ。だって、死について考えることは生きることについて考えることでもあるんだから。それにマーラーは死ぬまで創作意欲が衰えず絶えず新しい作品を生み出そうとしていたんだ。マーラーの音楽を聴くと、生きることの意味は何かって絶えず考えさせられるんだ」
 僕がそういうと、彼女はしばらく黙って何か考えているようだったが、急に「ねえ」といった。
「なに?」
「生きることに意味があるのかな?」
 思いがけない質問に僕が答えられないでいると、彼女は笑みを浮かべながら「少なくとも私自身は、何かの意味があって生きている訳じゃない気がする。でも目標ならあるなあ」といった。
「どんな目標?」
「私、高校の先生になりたいの」
 それから彼女は、「私もマーラーの音楽、試しに聴いてみたいな」といった。それで何枚かCDを貸してあげることにした。

 一週間ほどしてから、御礼のクッキーと一緒に彼女はCDを返してくれた。
「どうだった? 気に入った?」
「確かにいろんなことを考えさせられるような気がした。毎日じゃなく、たまに聴くのならいいかもね。でも大地の歌だけはちょっと苦手かな」
「どうして?」
「だって、直接的すぎるもの」

 その夜、下宿に戻った僕は彼女が返してくれた「大地の歌」のCDを聴きながらライナーノートを読み返していた。マーラーがこの曲を作り始めたのは一九〇七年の夏で、当時、彼は四歳の長女を亡くし、自身も心臓の持病が悪化して死を恐れていたと書かれていた。そしてこの曲に使われているハンス・ベトゲの詩が、ドイツ語と日本語の対訳で載っていた。その詩はこんなふうに結ばれている。


   孤独な私の心のやすらぎを求めて
   私は住み慣れた故郷(ふるさと)に向かう
   もう遠くさまようことはないだろう
   その時が来るのを待ちながら、私の心は静かだ

   (いと)しいこの世界に春が来れば
   あらゆる場所に花が咲き、緑は色を新たにする
   見渡す限りどこまでも、そして永遠に!
   永遠に、永遠に、永遠に、永遠に……

Ⅵ 銀杏公園

 僕は大学四年生の時に税理士の資格を取り、卒業と同時に都内の会計事務所に就職した。
「お前が就職したら親としての俺の役目は一段落だな」
 就職後初めて五月の連休に里帰りしたとき、最初の給料で僕が土産(みやげ)に買った吟醸酒を飲みながら、父は僕にいった。

 玲子は大学卒業後、都内の高校で国語の教師になった。大学卒業後も僕と彼女は休日に一緒に食事に行ったり映画を観に行ったりする関係が続いた。そして僕たちが大学を卒業してから三年目の春に互いを互いの両親に紹介し、その年の秋には結婚した。

 玲子は来月に出産を控え、十日ほど前から産休を取って神奈川の実家に帰っている。
「週末はまたそっちに行くからね」僕は彼女に電話でそういった。
「この前の週末も来てくれたばかりじゃない。それより、ちょうど連休だし、たまには青森の実家にも帰ってあげれば? 私、一緒に行けなくて申し訳ないけど」
「君が大変な時に僕だけで実家に帰ってられないよ」
「まだ直ぐに生まれるわけじゃないから大丈夫よ。それに、子供が生まれたらもっと大変になるんだから」
「分かった。じゃあ今週末は青森に帰らせてもらうよ」

 その晩、僕は実家に電話を掛けた。電話口には母が出た。
「今度の土曜日に帰るよ」
「玲子さんのところに行かなくていいのかい?」
「うん、いいんだ」
 そういってから僕は、七戸十和田駅に到着する新幹線の時刻を伝え、駅まで迎えに来て欲しいといった。
 話が一区切りついたとき、母は電話口で、祖父の調子がすぐれないといった。
「調子が良くないって、どんな具合なの?」
「それが……、ちょっと()けちゃってね」

 七戸十和田駅は、今から五年前に東北新幹線が新青森駅まで開通した時にできた駅だ。駅北口のロータリーに父の車は停まっていた。僕は荷物を後部座席に放り込んで助手席に乗り込んだ。
 車は国道四号線を北に向かった。夕暮れ時のせいなのか、道路は少しだけ混んでいた。道のずっと先の方まで距離をおいて立っている信号機が、緑や黄色、赤に明滅した。前の方で車のブレーキランプが点くと、その後の車、さらにまたその後の車と伝言ゲームのように順々にブレーキランプが点いて、やがて父もブレーキを踏んで車の速度を弛めた。
「清は今年、二十九になったんだよな」運転席で前を向いたまま父がいった。
「そうだよ」
「俺の歳のちょうど半分だな」
 そういわれて、父が今の僕と同じ二十九歳だったとき、僕が生まれたんだということに気が付いた。
 もうあと二十九年経てば僕は今の父と同じ歳になり、そのころ僕の子供が今の僕と同じ歳になる。僕はそのことに気が付くと、三人が互いに同じくらいの距離を隔てて同じ道を同じ目的地に向かって黙々と進んでいるような気がした。

 その夜、祖父は晩御飯を食べ終わって風呂に入るとさっさと奥座敷に行って眠ってしまった。僕は父と母と一緒に居間でお茶を飲んだ。まだ十一月に入ったばかりなのに、冷え込んでストーブなしではいられなかった。
 母は、二ヶ月ほど前のある日のことを話し始めた。
「あの日、おじいちゃんは近所の文具店に新しい日記帳を買いに行くといって出掛けたのよ。私が買ってきましょうかっていったんだけど、気に入ったのを自分で選びたいということだったの。帰って来るのが遅いなあって心配し始めた頃、国道沿いのホームセンターから電話があったの」
 ホームセンターは祖父が出掛けたはずの文具店とは違う方向にあった。
「これからうちの店員が清造さんを家までお送りするから、家で待っていて下さいね」ホームセンターの店長からそういわれた母は何が起こったのか分からなかったそうだ。やがて若い店員が軽トラックを運転し、祖父を助手席に乗せて送ってきてくれた。店員がいうには、祖父は家に帰る方向が分からなくなって店の駐車場脇でうろうろしていたのだそうだ。幸いこの小さな町で店長は祖父がどこの誰であるかを知っていたので、わざわざ店員に家まで送り届けさせたのだ。次の日、母は祖父を町内の病院に連れて行った。そこで青森市内の病院を紹介され、それから何度か通院しいくつかの検査を受け、アルツハイマーという診断が祖父に下ったということだった。

 翌日は祖父の通院の日だった。僕は祖父を車に乗せて病院に連れて行った。その帰りに銀杏(いちょう)公園に寄ってみた。
 公園にはイチョウの老木と、その周りに小さなブランコ、滑り台、ささやかな池、そして古びたベンチがあった。イチョウの樹の下には小さな(ほこら)(まつ)られていた。
 空はそのまま宇宙につながってしまったように青く深い。イチョウの幹はごつごつと太く、枝からはいくつもの(こぶ)が垂れ下がっている。風はなく、レモンイエローの葉の繁りは、今日だけは時間が止まってしまったように少しも動かない。しかし、ここ数日間の厳しい朝の冷え込みにさらされて、一斉に散り始める間際にあるのだろう。
 僕がまだ小さかった頃、近所のこの公園に祖父はよく僕を連れてきてくれた。イチョウはあの頃と変わらない。けれども小さくなってしまったように僕には見える。あの頃このイチョウは、まるで天を覆わんばかりの巨木だったはずだ。まだ小さかった僕はこの樹の下でうずくまり、拾った棒切れで地面にでたらめの線を引いて、「これが僕で、これがおじいちゃん」などといっていたのだ。

 僕は祖父の手を引いてベンチに連れて行き、並んで腰を掛けた。
「いい天気だね」僕は祖父の顔を見ながら話しかけた。
 祖父は驚いたように僕の目を見て少し(いぶか)しげな顔つきをしたが、直ぐに表情を弛めて、「おお、清一(せいいち)か……。お前、何歳(いくつ)になった?」といった。
 清一というのは僕の父の名だ。「僕は(きよし)だよ」と思わずいいかけて、ようやくその言葉を飲み込んだ。
「……二十九だよ」
「そうか、もうそんなになったのか……。それで、秀子(ひでこ)さんとは……、その後どうなんだ?」
 秀子というのは母の名だ。祖父が何を気にしているのか分からなかったが、僕はできるだけ当たり障りのないように言葉を選んで、「大丈夫、心配しないで」とだけいった。
「あの子は(かしこ)いな」祖父がいきなりいった。
「えっ?」
「秀子さんだよ。あの子は口数が少ないが、物事をよく見抜いているぞ」
「……そうだね」
「それに……、思いやりの深いところがいい。いい人を見つけたな。大事にしろよ」
 祖父の口から思わぬ言葉を聞いて、僕はなんと答えてよいか分からなかった。ただ、祖父の言葉から、僕は母と玲子がどこかしら似ていることに気が付いた。その途端、自分でも思いがけない言葉が僕の口から出た。
「話してなかったけど、来月、子供が生まれるんだ」
「そうか……。よかったな、清一」
「ありがとう」
(わし)もいよいよおじいちゃんだな」祖父はそれだけいうと、笑っているような、泣いているような顔をした。

 その時、落葉が一枚(ひとひら)、ベンチに座る僕達の目の前に舞い降りた。

大地の歌

大地の歌

悠久の自然の中での人生の儚さや諦念について描きたいと思いました。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-08-18

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  1. Ⅰ 温泉
  2. Ⅱ 瞰湖台
  3. Ⅲ 井戸
  4. Ⅳ 映画
  5. Ⅴ 大地の歌
  6. Ⅵ 銀杏公園