革命バンザイ!

大昔に書いたので今読むと古いな、って感じです

 大型複合施設の中を一人の青年が歩いている。速足で店の前を通りすぎ、エスカレーターを昇ったり降りたりを繰り返していた。時刻は12時半。どの店も食事を求める客で店内はごった返し、すんなり入れそうな店はない。あるしゃぶしゃぶ店などは、メニュー表を片手に持つベビーカーを連れた若い母親や、カップルや老夫婦が店の外まで列をなし、店員が順番に案内するのを辛抱強く待っている。「焦がしハンバーグランチ」の大きな看板を店の前に設置したある洋食店などは、店内に見晴らしの良いテラス席が設けられているが、そこにも多くの家族連れの客で賑わっている。フードコートの前を通りがかってみると、そこはうんざりするような人混みで、保育園かと見まがうばかりの幼い子供の群れ、気怠い表情の若い母親や、スマートフォンをいじりながら麺をすする若い父親でごった返し、一つの空席さえない有様だった。
 青年はため息をついて大型複合施設の地下の食料品売り場へ行き、イートインストアという簡易的な食堂で簡単に食事を済ませようと思ったが、そこでも小さな子供を連れた親子連れや、老夫婦でほとんどの席は埋まり、店員は店の前で中の様子を伺う青年になど目もくれず、忙しそうに走り回っている。ある韓国料理店だけがらがらで、青年はようやくテーブル席についたが店員にカウンター席に移れと言われて頭に来て店を出た。青年はその勢いで施設を飛び出し、すぐ隣の似たようなデパートに入った。
そのデパートは一階から五階までレディースファッションフロアで占められ、六階のみが半分だけメンズファッションフロアという構成であった。七階にはグルメフロアがあり、八階には映画館がある。青年は一階正面玄関のすぐ左手にあるエレベーターの前に来てボタンを押した。
 五分ほど待っただろうか、エレベーターは地下三階から順番に上に昇って来て、ようやく一階に着くと扉を開いた。エレベーターの中にはやはりベビーカーを連れた若い夫婦や、高校生ぐらいのカップル、女の子同士の四人組などで敷き詰められていて青年は乗ることを躊躇ったが、しぶしぶ隅っこの小さなスペースに肩を狭めて乗った。エレベーターは二階、三階、四階と律儀に止まり、なかなか上へ昇ってくれない。青年は下を向いたり上を見て階数表示のモニターを凝視したりしてその時間を耐え忍び、七階で降りて再びため息をついた。
 七階もさっきの大型複合施設と同じようなもので、自然食バイキング店、テキサス風ハンバーガー店、カフェレストランをうたうチェーンのファミリーレストラン、ステーキ店、ラーメン店など店内は客でごった返し、ランチピークの真っ最中であった。客のほとんどは映画目当てと思われる大学生ぐらいのカップルや若い夫婦で、青年にないものを当然のようにすべて持っている人々であった。青年はそのような客の海の中にたった一人で潜り込む勇気がなく、仕方がなく食べ飽きたラーメン店の前に来た。『またラーメンを食うのか、おれは』青年はそう考えて店の入り口の横にあるショーウィンドウの中のラーメンの模型を見た。それはラーメンの上にチャーシューが一枚ではなく三枚であるか、ホウレンソウが乗っているのかいないのかぐらいの違いしかなく、値段は全部千円弱程度。どれ一つとして食べたいと思うラーメンがなかった。そもそももう三日続けて昼はラーメンなのだから、いいかげんに食傷であった。『ラーメンなんかもううんざりだぜ』青年はそう思って半ばヤケクソで踵を返した。『ああ、どうするんだ。どの店にも入れねえ』青年はフロアの中の店を全部確認したが、どれも満席ウェイティング中か、幸福そうなカップルやきゃあきゃあと騒ぐ子供で誠に騒々しく、男一人で入る勇気は持てなかった。
 時刻は午後一時を回っていた。青年は腹ペコのままごちゃごちゃとした街の中を歩いていた。道にもカップルや友達同士で遊びに来たと思われる大学生や高校生が楽しくお喋りしながら歩いている。一人で歩いている人間は一人もいない。『みんなどこでどうしてるんだろうなあ』青年は下を向きながら考えたが、あまり下ばかり向いていると人にぶつかるので、顔をあげて周囲の人々との距離感を測りながら歩くしかない。すると自然と自分より幸せそうな人々の群れが目に入る。話したこともなく、見るのも初めての人々なのに、なぜか青年には『こいつらはおれより絶対幸せだな』と確信が持てるのだった。そしてその観念は、いつも耐えがたい苦痛を伴う孤独感を生じさせた。青年は安物のショルダーバッグからイヤホンを取り出して音楽プレーヤーをオンにしてせめて音を遮断して歩いた。
 道行く人々すべてが現代風のファッションで誇らしげに着飾り、髪の毛を染め、耳にはピアスをし、色とりどりの靴を履いて街を歩いている。青年の服装はといえば、ぴったりとした細身のTシャツに破れジーンズをブーツインし、髪の毛は黒くぼさぼさとしていたが、それはワックスをつけて整髪し「ツンツンヘア」を意識していたのであるが、傍から見れば単なる寝癖であった。しかも耳にはピアスをし、左手の中指には大きなごてごてとした緑色の石が付いた奇妙な指輪をはめていた。手首には金と黒のチェーンをブレスレット代わりに巻いている。それが青年にとって精一杯のお洒落だった。夏の炎天下でアスファルトの上で雑踏にもみくちゃにされながら歩き回ったので、青年は体中汗だくになり、曲がりなりにも整えた「ツンツンヘア」は、もともと猫っ毛の青年には維持が難しいのに、汗の重みと湿気でへたりこみ、単なる髪の伸びた汗だくの不気味な男という様子となっていた。「髪の毛短い方が似合うよ」と色んな人に言われるのであるが、青年は頑なに短く髪を切ろうとはしなかった。別に反発していたわけではなく、単に自分を客観的にみることができないだけであった。青年はこの髪型が自分に似合っていると思っていた。しかし湿気や汗で髪がへたり込むのは大嫌いだった。
『どいつもこいつも浮かれたツラしやがって、畜生』
 青年は舌打ちしながら歩きいつしかデパートやアパレルの路面店が立ち並ぶ一画を抜け、けやきの木が並ぶ並木道へと来た。そこは「けやき通り」と呼ばれ、居並ぶ店のほとんどが美容院や化粧品店などで占められていた。青年はそこでいつも食べる「うぇすたん」という名前のステーキハウス店の前に来たのだが、臨時休業の張り紙を読んでしばし炎天下の中、途方に暮れた。『おいおいどうするんだよ……』青年は前にもこういうことがあって結局家までの道のりを歩き、コンビニ弁当を買って部屋へ帰ったということがあった。あの時の虚しさや徒労感は忘れられないが、最近はあまりに頻繁にそういうことがあるので、個々の記憶は実に曖昧となっていた。
 青年は「けやき通り」をとぼとぼと歩き、そこでも何組ものカップルとすれ違った。先ほどよりも年齢層が幾分変化しており、大学生風のカップルや社会人風のカップルが多くを占め、高校生や夫婦や子連れは少なかった。青年は自分と年齢層が近くなった分余計嫌な気持ちになった。この「けやき通り」はいつもそうで、落ち着いた街並みとおしゃれな雰囲気のせいで、若いカップルに大層人気があるデートスポットだった。ましてや一人で歩く男など一人もいないのであった。
『やってられねえ……やってられねえ……』
 青年は呪詛のように心の中で繰り返し、ポケットに手を突っ込んで鋭い目付きで蟹股で歩いた。「けやき通り」を抜けると途端に人もまばらな、その代わり大型トラックや乗用車が行き交う大通りに出たので、青年はそこを道なりに進んだ。ここまで来るとほとんど店は無くなり、コンビニさえほとんどみなくなる。青年は今日も昼食を食べそこなったことをいじけた気持ちで認め、一人ぼっちで炎暑のアスファルトの上を一時間ばかり歩いた。
 自分の部屋の最寄りの地下鉄の駅を通り過ぎ、コンビニの前を素通りした。青年は何も食べる気が起きなくなっていた。気持ちは怒りと虚しさと徒労感で暗く沈んでいた。横断歩道を渡ってふと雑居ビルの一階の「はなまる食堂」ががらがらで、苦もなく店の中に入れそうなことに気がついても、青年は店に入らなかった。この店の「唐揚げ定食」にせよ「焼き魚定食」にせよ「チキン南蛮定食」にせよ「生姜焼き定食」にせよ、既に食べ飽きていた。ショーウィンドウに並ぶ蝋でできた見本を見ているだけでうんざりした。青年は大きくため息をついた。
 青年は食欲を失っていたかもしれないが、腹が空いていないわけではなかった。本能や体の生命維持を司る脳のある部分が「何か食え、血糖値が下がってる。たんぱく質を取れ、筋肉が減少するぞ。ビタミンを取れ……ああだこうだしろ、なんたらかんたらだぞ……」と命令しているわけである。青年は少し前までそれらの命令をすべて無視する覚悟であったが、空腹感は耐えがたく、喉の渇きがそれに拍車をかけ、ものの十五分で強圧な命令に屈しようとしていた。しかし、「はなまる食堂」だけは御免こうむる……。刹那、そんなことを考えながら立ちすくんでいたら「はなまる食堂」の隣の小さな細長いビルの入り口に、小さな立て看板が置いてあるのが目に入った。『軽食・コーヒー、おいしいナポリタンあります』そう書かれていた。青年はビルの入り口の階段の奥を覗き見て、その薄暗い雰囲気、人気のなさ、真夏だというのにひんやりとした空気感に、ごくりと唾を飲んだ。食欲を覚えたからではない。都市のど真ん中のビルに不似合いな、異様な静けさにひるんだからであった。
『これはこれでなかなか入りにくいなあ』青年はそう考えたが、脳からの「何か食え」という命令はどんどん強まって行くばかりで、階段を昇るだけなら誰も見ていないようだし、と一段一段ゆっくりと踏みしめながらおっかなびっくり昇った。
 階段を昇りきるとガラスの引き戸があって、だだっ広い店内の様子が透けて見えた。客は一人しかおらず、ウェイトレスも暇そうに立っているだけだった。時計を見ると午後の三時に近い。がらがらなのも当然かと思い、ようやく青年はその店の中に入ろうと思うことができた。それゆえに青年は把手を掴んでガラスの扉を開いた。
ちりんちりん、と涼しげな音が鳴り、大きなマスクをつけた異常に痩せた背の高い女の店員が「いらっしゃいませえ」とやる気なさげに声をあげた。青年は隅っこの席に座ってメニュー表を見た。店員が水を持ってきて、ゆっくりとした動作でテーブルの上に置こうとしている。青年は即座に『ゆっくり置いてやってるんだから、ゆっくり置いてる間にさっさと注文を言えよ』というウェイトレスの心の声が聞こえたので、急いで「ナポリタン」と言った。
「コーヒーは今お持ちしますかあ?」
 ウェイトレスは間延びした声で注文を伝票に書きながら、青年の顔を見もせずに言った。
「はい」
 青年はそう言ったあと「あ、やっぱりあとで」と言った。ウェイトレスは、はあい、とまたしても間延びした返事をした。大学生ぐらいの年頃の茶髪の女で、青年が今一番話をしたくないタイプの人間だった。正確には自分の姿を見られたくない、というほうが近いニュアンスとなろうか。理由はうまく説明できないが、青年は咄嗟にそう思った。
 炎暑の中を歩き回ったので、青年は汗だくで顔は真っ赤だった。店内の鏡面で覆われた柱に映る自分の姿を見て青年は呆然とし、水を一気に飲んで額の汗を腕で拭った。『水がもう一杯欲しいな』と思い、ウェイトレスの方を見たが、ウェイトレスは窓の方を見たり厨房の方を見たり、店の出口を見たりテレビを見たり、髪をいじりながら下を向いたりしていたが、決して青年の方は見なかった。『クソッタレ』青年は舌打ちをしたが、すいませえん、などと言ってウェイトレスを呼ぶ気にはならなかったので黙って我慢した。
ナポリタンが運ばれてきたので青年は早速それを口にしたが、空腹だった割に美味と感じることは困難だった。いかにも塩辛い味付けで、炭水化物を無理やり固めてトマトケチャップと塩を塗りたくっただけという風情の、とんでもなく不味いナポリタンだった。しかも、それは外食特有の似たような調味料や香辛料の味がして、初めて食べたとは思えない、新鮮味にまったく欠ける味だった。ウェイトレスはナポリタンの皿を持ってきたときも下げるときも、青年のコップが空であることに気づかず、水を注ぎに来なかった。青年はウェイトレスが、コップが空であることに本当に気づかないのか、気づいているのに水を注ぎに来ないのか、どちらなのか考えた。いずれにせよ、この仕事をするには不適格なように思えた。青年は考えているとだんだん腹が立ってきた。
『だいたい、あのとき韓国料理のイートインで食べていればこんな思いをせずに済んだのに』青年は最初に入った大型複合施設でのことを思い出した。あのときも愛想のないウェイトレスに、店内に他に客は一人もいないのにテーブル席からカウンター席に移れと命令され、頭に来て店を出る羽目になったのだ。他に客がいないのになぜカウンター席に移らねばならないのだろうか。青年は少し前のことを蒸し返しては一人で苛々しながら荷物をまとめた。
 店内は公共放送のご当地グルメ番組が気怠く流れていたが、やがて三時になるとニュースに切り替わり、硬質な表情の男のアナウンサーが無機質にニュースを読み上げた。
「今朝日本時間未明、ドイツ南部のミュンヘンで男が銃を乱射し、地元当局の発表によれば少なくとも三十八名が死亡、九十名が怪我をしました。男は銃を乱射しながら、神は偉大なり、を意味する『アッラーアクバル』という言葉を叫んでいたという情報もあり、当局がイスラム過激派による犯行の可能性もあると、逃げた犯人の行方を追っています。この事件による日本人の死傷者はない、ということです。ヨーロッパでは、つい三日前にも南仏で自動車を使用した爆弾テロにより、花火を見に来た客、八十名が死亡した事件が起きたばかりです……」
 青年はニュースを聞くでもなく聞き、見るでもなく見ていた。アフターのコーヒーは運ばれてこない。ウェイトレスは心底暇そうに鏡面の柱に映った自分を見て髪の毛を整えている。青年はそれを見てあっという間に現実に引き戻されて嫌な気持ちになった。
「ねえねえ、君」
そのとき、店の反対側の隅っこの席で座っていた中年の男性客が声をかけてきたのて青年は驚いた。最初は自分に声をかけたとは思わなかった。他人に唐突に話しかけられるなんて、そうそう頻繁にあることではない。男はツーブロックの髪型で長い前髪を左側に流し、銀色の横長い楕円形の眼鏡をかけ、アイロンのかかった清潔そうなポロシャツを着て、七部丈のジーパンにブラウンの革靴を履いていた。そしてタバコを片手に持ち、煙を蒸気のように盛大に吐き出した。
「君だよ君」
 男は吸殻で溢れそうな灰皿を持って青年のテーブルまで歩いてやってきた。
「座ってもいいかな?」
 青年は「あ、ちょっと」と手を挙げたが、それは拒否を示すのか了承を示すのか傍目にはわかりにくかった。男は「悪いね」と気にもとめずに座った。そして「水お願いします」とウェイトレスを呼んで水を持ってこさせた。ウェイトレスはあからさまに訝しむような目で二人の座るテーブルへ水を持ってきた。男は「ありがとうございます」と爽やかに礼を言った。青年は呆然とそれを見ているしかなかった。
「なあ、君。なんであいつらあんなに必死で戦ってるんだと思う?」
 青年は『あいつら』が誰を意味するのかしばし考えた。そして、それがどうやらさっきのニュースのことを言っているのだと感じ『こいつ多分危ないやつだ』とようやく考えた。
「それにしてもあの店員だけど。あの顔色の悪い糸目のマスクの娘」
 男は声を潜め、横目でウェイトレスをちらと見やってから話し始めた。
「あの娘、今にもぶっ倒れそうな顔してるだろ? 明らかに貧血気味だね。客の水を世話する体力も甲斐性もないに違いないよな。まあ、もっとも僕が店員でも、君のグラスが空っぽだって気づいても水を注ぎには来ないかもね。なんでかわかるかい? 君、すっげえ形相だぜ。顔は赤いし汗だくだしね。そもそも表情に険がある。しかも、鋭い目つきだね。めちゃくちゃ怒り狂ってるのが傍目にも簡単にわかるぜ。早い話、ちょっと怖いんだよ。女の子だったらなおさらさ。あのマスクちゃん、要は君にびびってるのさ。わかってた? 絶対目を合わせないだろ? 君が怖いのさ。素知らぬ顔で知らんぷりしてるだろ? それは彼女が女だからさ。女はなにかといつでも演技ばかりしているものだよ。まあ、僕の言うことが正しいか間違っているかはどうでもいい。問題はマスクちゃんが水を注ぎに来ないことに対して君がムカついているってことだよ。そうだろ? だったらそんな顔しないで、汗を拭いて優しい声で『こっちに来て、水を注いでよ、れいらちゃん』って言えばいいのさ。ああ、あの娘は『れいら』という名前なんだ。キラキラネームというやつかな? アニメみたいだが、本名のようだよ。まあ、そんなことはいい。とにかく優しい声で『こっちに来て、水を注いでよ、れいらちゃん』って声をかけるんだ。すると彼女は『怖そうな人だったけど案外優しいのかな』なんてころりと騙されて猫が膝の上に乗るみたいに君のところに来て、黙ってただで水を注いでくれるだろう。それで君もムカつかずに済むし、彼女も君が怖くなくなって、次来た時にはいちいち呼ばなくても水を注ぎに来るかもしれない。みんな幸せ、世界平和だな」
 男は青年に一切口を挟む余地を与えずに、文字通り新しく掘り当てられた温泉のように一気に喋った。青年のうんざりしたような顔にもめげず、にやにやしながらこう締めくくった。
「僕が言いたいのは、記号のように見えるあのウェイトレスも、実は人間だってことだ。色々なことを考えているし、機械みたいに同じことを繰り返すだけのように見えて、客を値踏みしているし、機嫌がいいときも悪いときもある」
 沈黙が流れた。グラスの中の氷がからんと音を立てた。横目で『れいらちゃん』を見たら、彼女はこちらを見ていてあれほど合わなかった目が合った。『れいらちゃん』はすぐに目をそらした。あたかも前髪を払うようなしぐさであくまで自然を装って。
「何を話してるんだろうって、考えている顔だな。あの娘はぶっきらぼうな機械のようでいて、案外素直ないい娘だと思うよ。割と思ってることが顔に出るタイプだ。まだ子供なんだよ」
 甲斐性がないと言ってみたり、素直ないい子だと言ってみたり、男の話はとりとめもなく、しかも不快であった。青年は両腕を組んで男を上目で見据え「おっさん、どっか行けよ」と言った。青年としては精一杯の虚勢であった。びびっていないふりで相手に敵意をあらわす。これは日本社会ではなかなか難しいことだ、内心、青年はそんなことを考えていた。目の前の男が頭のおかしな暇人であることは間違いなかったが、急いで立ち去ろうとしなかったのは、それが男の矜持に反することのように思えたからだ。青年にはこういう場で露骨にびびっていないふりをしなければならない、と思う程度にはプライドがあったのである。
「いやあ、いいねえ、やっぱり。怖いようで怖くない。怖くないようでいきなり殴りかかってきそうでもある」
 男はまったく引くそぶりも見せず、相変わらずにやにやとしていた。
「僕は君のような人が好きなんだよ。だから声をかけたんだ」
『何言ってるんだ?』のしかかってくるような非日常的恐怖に怯えたのは青年のほうだった。『こいつアブない人だ……』そう思ったので、青年はすぐにショルダーバッグを手元に手繰り寄せ、財布を出して席を立とうとしたが、その時「お待たせしましたあ」と『れいらちゃん』がアフターのコーヒーを運んで来たのでタイミングを逸してしまった。「ああ、どうもぉ」となぜか男が礼を言った。そして「ほらほら、ミルクは? 砂糖は?」と青年に訊くのだった。
 青年は黙ってミルクを入れ、ガムシロップはそのままにしてストローを突っ込んで飲んだ。
『苦い』
 青年の表情のわずかな変化にどう気づいたのか、次の瞬間、男はおかしそうに身をのけぞらせて笑い「苦いコーヒーだろぉ?」と言った。わけがわからなかった。何が何やらわからぬが、自分は見知らぬ中年の男に笑われている。カズヤはしばし呆気にとられ、そしてようやく言った。
「迷惑なんですけど」
 胸はどきどきと高鳴っていた。手が震えていることを悟られまいと拳を強く握った。
「まあ、そう言うなよ。君だって、どうせ話し相手なんかあんまりいないんだろ?」
 男は開き直ったように真顔になり、足を組んでタバコに火を点けた。
「おれだっておんなじだよお。おれの話なんかまともに聞く奴なんかいやしねえんだ。だからいいだろ? ちょっとだけ。どうせ君、無職なんだろ? 時間は腐るほどあるわけじゃんよ」
 男はタバコをスパスパ吸いながら面倒臭そうに言った。男の言葉に青年は憤慨し、その日一番の激情にかられた。
「あんたなあ! おれは機嫌悪いんだからさあ! どっか行ってくれよ、頼むから!」
「あれ? 本気で怒っちゃった! ごめんな。無職だって言い当てられるのってムカつくもんね。わかるよ」
 男は両手を広げておどけて見せた。
「なんでおれが無職だって、そう思うんだよ!」
 青年は顔を近づけて、小声だが鋭い声で問い詰めた。男は意を得たりとにやにやしている。
「そんなことか。こんな土曜日の三時過ぎに顔真っ赤にして歩いてきて、クソまずいナポリタン苛々しながら食ってるような童貞野郎は無職に決まってるだろう。企業は童貞野郎だけは絶対取らないもんなんだよ」
 青年はあまりのことに一言も言い返せなかった。呆然と口を開けて男のにやにや顔を見ていた。
「というのはジョークだ。君の服装かな? なんか歳の割にガキっぽいな、と思ってね。大学生みたいだよな。でも、大学生には見えない。どう見ても二十代の……半ばは過ぎているよね。それに、大学生は一人で三時過ぎにナポリタンなんか食わないし、そもそもこの手の店には入らないもんだ。というか、無職かどうかなんてどうでもいいんだよ。マジでどうでもいい。ほんっと僕はただ売りことばに買いことばで適当に言っただけだよ。秘密を暴いてやろうとか、推理がうまいとか、そういうことを見せつけようとかそんなことも思ってないよ。マジで仕事とかなんでもどうでもいいんだ。君がほんとに無職だろうが、刺身の横に丸めたツマを並べる仕事だろうが、そんなことは本気でどうでもいいんだよ。僕が得意なのはね、たった一つだよ。僕は人よりも小さな変化にすぐ気がつくってだけなんだよ。人間の脳は変化に対してある閾値を超えると初めて『ああ、いつもと違うな』って意識が芽生えるものなんだけどさ。その閾値の高い低いは結局個人差なんだよ。敏感な奴もいれば鈍感な奴もいるし。一般に男は鈍いって言われるだろう? 女の髪型に気づくとか気づかないとかさ。……まあ、でもくだらねえよなあ。髪切ったかどうかなんて、いくら鈍い奴でもだいたい気づいていると思うんだけどな。それをいちいち話題にするかしないかの違いだと思うんだよな。男はそんなことはいちいち話題にしないんだ。僕が言いたいのは、男が鈍いって断言するのは考えようってことさ。僕は実際かなり小さい変化でもすぐ気がつくよ。最近はそれが特技かもなって思っててね。そんなわけなんで、君がすごくね。鬱屈してて苛ついてて、暴力の瀬戸際をおっかなびっくり綱渡りしてるなってのがすぐにわかって面白くてね。ま、それで話しかけたんだ。僕は思ったことはけっこうなんでもすぐ喋ってしまうタチなんで、正直に話しちゃうけどね」
 男の話はあまりに長かったので、常にまとまりに欠けていた。よくこれだけ息継ぎもせずに話せるものだ。青年はだんだん怒りも収まり、感心していた。『えっと……。結局なんの話だっけ?』青年は目を白黒させた。そしてしばらく考えた。男が黙っている間しか考える時間がないものだから、それこそ必死で考えた。しかし、結局よくわからなかった。そして最初の疑問に戻った。このおっさんはなんなんだ。なんの話をしているんだ……。
 青年は急いでコーヒーを飲み終えた。ごぽごぽとストローから音がした。
「おっさん……。残念ながらなあ。おれは無職じゃねえんだよ。ちゃんと働いてる。いつもなら土日は仕事なんだが、今日はたまたま休みだったんだよ。こんな時間に飯食ってるのは店が混んでて入れなかったからだし、汗だくのは単に外が暑いからだ。おっさんの推理は全部でたらめだ。まったく少しもかすってない。何の意味もないヨタ話だ」
「ああ、そぉう」
 男は感心したように頷くと、タバコを灰皿の上の吸い殻の山に突っ込んで火を消した。
「タバコの火ってのはさあ、真新しいきれいな灰皿で消そうとすると案外てこずるんだよね。こうやって吸い殻の中に突っ込むと、何の力もいらねえ。酸欠ですぐ消える。見た目は悪いが、灰皿はこんもり吸い殻が山になってるほうが消しやすいんだ」
「はあ?」
 青年は眉をひそめて馬鹿にしたように言った。
「何の話だよ?」
「何って……」
 男は心底不思議そうな顔で答えた。
「ただの話さ」
 再び沈黙が訪れた。男は再びタバコのケースに手を伸ばして一本取り出し、何か考え事をしているような顔で、ケースをぽんぽんと叩いた。
「君はなんか誤解してるな。僕は推理小説の真似をしてるわけじゃないんだ。ただ会話してるだけだよ。イギーポップが出てる『コーヒー&シガレッツ』って映画知らない? 君タバコは吸わないの?」
 青年は少し迷って「ん……吸う」と答えた。男が口にした映画は青年のお気に入りだった。ただ単にコーヒー飲みながらタバコを吸って、意味のない話を延々するだけのゆるい映画だ。
「じゃあ、君もやんなよ。僕はコーヒーを注文するために今かられいらちゃんを呼ぶからさ」
 そう言って男は手を挙げ、『れいらちゃん』を呼んだ。青年は『れいらちゃん』の平板な胸元にひっかかった名札を盗み見た。そこには「木下れいら」と書かれていた。
「おっさんは、この店の常連なんすか?」
 青年はズボンの右ポケットからタバコのケースを取り出して、箱の中から赤い百円ライターとタバコを一本取りだした。
「コーヒーお代わりね」
 男は『れいらちゃん』が注文をメモして戻って行くのを見届けてから「こんなクソ店の常連だとか言われるとだせえなあ」と言った。「まあよく来るよ」
 男は少しばかり照れくさそうな顔であった。青年は徐々に警戒心が解けるのを感じた。
「キャスターマイルドね。おれも前それ吸ってたよ」
 男は青年が火を点け、バニラの甘い香りが漂ってくるとすかさず言った。
「なんでマルボロに変えたんすか」
「村上春樹読んでたらなんかこれ吸いたくなっちゃったんだよねえ」
「ああ、わかるっす。村上春樹って登場人物のモデル、全部自分ですよね」
「水泳と筋トレと」
「ジャズとクラシック! ……でもオタク」
 青年はすかさずそんな言葉を重ねた。乾いた笑いが店内に響いた。
「昔、キャメルがココナッツ風味のタバコ出してたの知ってる? あれも吸ってたよ。キャスターより三十円ぐらい高かったけどね」
「マジすか。おれも時々吸ってました。すぐ販売中止になりましたよね。タスポ作りました?」
「あんなもん作るかって! コンビニで上等さ」
 そんな調子で二人はだらだらとルーズな会話を続けた。男は名を〝ヤハラ〟と名乗った。
「君は?」
「カズヤです」
「で、ぶっちゃけ仕事は?」
「ショップです。眼鏡の販売です」
「常勤?」
「いや、バイトなんすよ」
「へえ」
「ヤハラさんは?」
「僕は文筆業だよ。ライターみたいなもんだな」
「へえ、すごいっすね」
「彼女は?」
「女友達はわんさといますけどねえ。彼女は大学出てからまったく。急激に相手にされなくなりました。やっぱり男は金持ってないと駄目なんすかね」
「まあ、そりゃあ言えるな」
「で、なんで今日はおれに声を? ほんとにさっきの理由ですか?」
 ヤハラは少し考えていた。今日一番長い沈黙だった。彼は時折このようにして黙り込んだ。何かを考えているようでもあるし、質問が本当に聞こえないかのようでもあった。
「ヒトラーの言葉でさ」
 長い沈黙の果てに彼は唐突に口を開いた。
「『信用できるのは敵を殴れる奴だけ』ってなかったっけ?」
「さあ」
 カズヤは曖昧に首を傾げた。
「『役に立つのは』だったかなあ、『敵』じゃなくて『人』だったかも。それを考えていたんだ」
 ヤハラの顔ににやにやとした笑みが戻った。
「君は、ぶん殴れそうだなあって思ったんだよね。しかも、殴った後に後悔とかしなそうだな、って思ってね。それでいて多分繊細だし、怒り狂っているようでいて、我慢強そうだなって思って。小さいことに気がつく性格なもんで、そういう風に思ったんだな、きっと」
 ヤハラはどこか他人事のような口ぶりだった。或いはどこか遠い世界のことを語っているかのようでもあった。カズヤはタバコをふかす彼の横顔を茫然と見ていた。視界の片隅で『れいらちゃん』がこちらを見ているのがわかった。


「ねえ、ところで眼鏡の販売なんてお仕事は、お洒落だし、ちょっと楽しそうだねえ?」
 ヤハラが仕切り直しとばかりに話を切り替えた。彼はまだまだ話し足りないようだ。
「まあ、仕事は楽しいっすよ。かわいい娘もたくさんいますしね」
「客が?」
「いや、同じ店のスタッフですけど」
 ヤハラはにやりと笑って何度も頷いた。
「いいねえ、青春だ。彼女はできないのかい?」
「まあ、なんか……」
 カズヤはこんもり盛り上がった灰皿の上でぽんぽんとタバコの灰を落とした。
「店の娘とはだいたいデートしたし、友達を紹介してもらったりとかはするんですけどね」
「へへえ、それだけ聞くと、君は立派な『リア充』というやつだ。使い方あってるかな?」
 ヤハラは心配そうな顔で確認した。カズヤはええ、あってると思いますよ、と答えた。
「まあ、デートには行くんですけどね。ランチしたり映画観たり酒飲んだりとか」
「それ以上進展しない?」
 ええ、とカズヤは答えた。そしてタバコを吸って大きく煙を吐き出した。カズヤの表情は暗かった。
「イタ公になりきったつもりで積極的に行かないとねえ」
「はあ、まったく。職場の娘に手を出すってのは勇気が要りますよ」
「まあ、これは僕の個人的な意見だけど」
『れいらちゃん』がコーヒーを持ってきたので、ヤハラは迷うことなくガムシロップとミルクを全投入しながら言った。
「それはまあ、うまく行かねえよなあ」
「だいたいわかっちゃいるんすけどね」
 カズヤはだいたいヤハラが何を言おうとしているのか理解できたのでそう応じた。
「ほかにめぼしい娘がいないというわけかい?」
「いや」
 カズヤは少し迷って割と最近、出会い系サイトに入り浸って色んな娘とデートを重ねたことを話した。
「まあ、それはまあ、アレだろ?」
「はあ」
 と、カズヤは言って、少し間を置いてアレなんすよ、と暗い顔で呟いた。
「まあ、うまく行ってないのはわかったよ」
 ヤハラはスプーンでミルクとガムシロップをかき混ぜたコーヒーを美味そうに飲んだ。
「ところで、れいらちゃんはどうなの?」
 ヤハラは顔を近づけて意地悪そうににたにた笑っている。
「どうって……」
 カズヤはマスクをつけて綿棒のように立ちすくむ『れいらちゃん』をまじまじと見た。
「簡単な顔すよね、なんか」
 他に感想が浮かばなかった。『れいらちゃん』は顔の七割が白いマスクで覆われていて、前髪は切りそろえられたおかっぱのような茶髪のセミロングで、背は高いが異常に痩せていた。わずかにのぞく肌は白さを通り越して蝋人形のような土気色で、生命力がほとんど感じられない。はっきり言って異性として色気を感じる部分は皆無だった。唯一細い手足が見ようによっては「スタイルが良い」と言えないこともない……。カズヤの感想はそんなところである。
「ところがねえ」
 ヤハラはさも残念そうに言った。
「あの娘、性格はかなり良さそうなんだよねえ」
 二人の間にほんの数秒ではあるが『間』が空いた。
 そして二人は次の瞬間には大笑いしていた。三十秒ぐらい狂ったように腹を抱えて笑い転げていたが、やがてひいひい言いながら、ヤハラが「けっこう優しそうなんだよねえ」と付け加えてまた大笑いした。

「いやあ、なんでっすか? 何が……どんな事件があったんすか?」
「ちょっと話したことあるんだよね」
「よく話しかけましたね!」
「いやいや! 話しかけられたんだよね。僕はしょっちゅうここに来て仕事しながら飯食ってコーヒー飲んでるんだけどさ。いっつも人が少なくて空いてるし、長時間いてもあの娘もあの通りだし、文句ひとつ言われないし、あてつけがましく水ばっかり注ぎに来られても気が散るだろ? だから、ちょうどいいあんばいなわけ。僕にはね。で、その日はけっこう遅くまでパソコンかたかたならして原稿書いてたんだよ。最後に食事したのは、昼過ぎにまずいナポリタン食っただけだよ。時刻は夜の九時を回ってた。僕はタバコ噛んで貧乏揺すりしながら、けっこう苛々していたんだよね。その時あの娘がいきなり声かけてきたんだ。他に客もいなかった。いきなり傍にマスクつけた蝋人形みたいな女が近寄って来たらびっくりするだろ? まあ、僕はびっくりしたんだよ。率直に言って『わあ!』と叫んじゃったわけ。すると『お腹空かないんですか?』って訊くんだよ。僕はアドレナリン出まくってたからさあ。腹なんか空いてなかったんだよ。それにその時書いてた原稿がさ、ロシア革命直後に、レーニンってやつが戦時共産主義っていう人工的な飢餓をテロに利用した話でさ。もう飯食えなくてひどい目にあった人の話を延々書き連ねてたわけだよね。もう飯なんか食ってたらさ。なんか酷い罪悪感なんだよね。テレビで大食い野郎がハンバーガーとかどんぶり飯とか食いまくってるだろ? 腹が立ってくるんだよ。なんでこんな飯も食えずに死んだような人もいるのにさあ、僕らは何不自由なく……ってまあ、僕が言いたいのは、そういう話を延々れいらちゃんにしてやったんだよね。もうブリーフケースから雑記帳なんか引っぱり出してさ、図なんか書いてさ、歴史年表とか人物の相関図まで書いてさ、わかりやすく説明してやったんだよね。ロシア革命と、その後起こった酷い内戦と、テロリズムの手段として使われた飢餓の話をさ。これ以上ないぐらいわかりやすく、馬鹿にでもわかるようにね。まあ、こう言ったらなんだけど、あのぐらいの歳の娘が興味持つような話じゃないだろ? そんなことに興味持つ女の子なんか、この世にはそうそういないよ。天空の城だの空から降ってきた美少女を自分の部屋に連れ込むよりありえない現象さ。あれって監禁罪だよね? ああ、そうじゃなくて、れいらちゃんときたらさ、そんな話をさあ、あの糸目にマスクに土気色のいつもの顔色で、ふんふん、ふんふん、って黙って聞いているんだよね。『えぇ?』とか『ひどい』とか相槌まで打ってくれる有様だよ。こんなのおっさんは誰でも調子に乗っちゃうよね? 調子こいて喋り続けてたら、十時になってマスターみたいな人が『閉店だから』って。帰ってよね、って促してきたわけ。まあ僕はそこで我に返って、『ああ、僕は疲れてまたおかしなことを』ってちょっと自己嫌悪だったんだけどさ、れいらちゃんがあの糸目で僕の顔をじっと見て、あの無表情のまんまぬぼおっと『わかりやすかった』って言ったんだぜ……」
 ヤハラはそこまで一気に話すとぷっと吹き出し、カズヤはそれにつられて椅子がひっくり返りそうになるほど笑い転げた。カズヤは震える声で「め、め、めちゃくちゃいい娘じゃないっすか」とやっとのことで言った。二人は再び笑い転げた。
『れいらちゃん』は何ら表情を崩さず笑い転げる二人に我関せず、といった様子でいつもの調子を崩さなかった。ヤハラの話が聞こえているかはわからない。しかし、彼女はいずれにせよなんら二人に興味を示すことなく、どこ吹く風で立っていた。
「れいらちゃんと飲み行くしかないんじゃないですか?」
 カズヤは冗談のつもりでそう言った。
「それがねえ……」
 ヤハラは急に真顔になった。
「次また店来たらさ、またあの調子なんだよなあ。取り付く島もないというか。話しかけられる雰囲気じゃないというか。僕のこともう忘れたのかなあ? と思うぐらいだったさ。今日もなんにも会話してないし」
「はあ……。乙女心ってのは複雑怪奇っすねえ」
「本当に」
 二人は一転しんみりとして黙りこくった。ヤハラがずずずっと音を立ててコーヒーを飲む音が店内に響いた。
「おれも……」
 カズヤはタバコを吸い殻の山の中に突っ込み、もう一本出して火を点けた。
「おれも、出会い系でわりといい娘に出会ったんですよ。整形外科クリニックの受付やってるって言ってたかな。もうおれはヤれればなんでもいいと思ってたんです。もうヤっちまえばいいんだって。自分の心を黒く染め上げてことに及ぼうとしたんすよ。でもねえ、その女、すっげえデブで。しかも香水つけ過ぎでめちゃくちゃ臭いんすよね。でも性格はすっごく穏やかで優しくておれのどうでもいい話を真剣に聞いてくれるし、何よりおれを気に入ってくれてたみたいでした。まあ、向こうもまんざらでもなさそうだったし、ホテルに行ったんすよ。普通なら、誘うことさえ勇気がなくてできないのに、もう、向こうもその気になってるって丸わかりだったんで大船に乗ったつもりで誘ったんですよ。すると案の定二つ返事でオーケーで。お互いシャワー浴びて抱き合ったんですよ。まあおれも巨乳好きなんで、おっぱいだけ見ていようと神経を集中させておっぱいを揉みしだいて、なんとなく次は乳首でも舐めるところなのかな、と思って乳首舐めたら、もうすげえしょっぱいんすよねえ。変な臭いするし。香水とはまた違った嫌な臭いで、体臭だったんすかねえ。乳首もいくら舐めても嫌な味しかしなくて吐きそうになりながらあそこも舐めて、いれようとしたんですけど勃たないんですよねえ。ゴムつけるのに手間取ってたら萎えちゃって。ありゃ最悪ですよ。性格は何も言うことなかったのになあ。なんでうまく行かないんでしょうねえ。ほんと、すいませんこんな話」
 カズヤはそう言ってうなだれた。
「それはしょっぱい話だねえ……」
 ヤハラはタバコを片手に足を組み、眉をひそめてその話を聞いていた。そしてもう一度、文字通りしょっぱい話だ、と呟いた。
「まあ……でもそういう話は誰にでも二、三度は経験があるんじゃないかなあ。気を落とすことはないよ。どっかにいい娘がいるだろうし」
「いやあ……おれにはもう無理ですよ。金ないですし。お先も真っ暗だし」
 カズヤは疲れ果てたような顔で下を向いた。
「ううむ、怒り狂ってる間は現実を忘れられるものだが、あまり真っ正直に受け止めちゃだめだよ」
 はあ、とカズヤは適当に相槌を打った。
 店内は、コーヒーとタバコの臭いが絡み合い、酷い匂いだった。
 二人はしばらく黙って店内で流れる公共放送を見るでもなく見ていた。テレビは最近ブームとなっているスマートフォンのアプリについて特集を組んでいる。そのうち、時刻は四時を示し、ニュース番組が始まった。
『次のニュースです。今朝未明、神奈川県在住の〇〇さん宅に男が押し入り、三女とその母親と祖母を次々に刺しました。祖母と母親は病人へ運ばれましたが間もなく死亡が確認されました。三女は意識不明の重体です。男は黒いシャツにジーパン姿、背は高かったということです。警察は三女の元交際相手、オリハラシンジロウ容疑者が何か事情を知っていると見て行方を追っています』
「またストーカー殺人かねえ」
 ヤハラがぼんやりとテレビを見ながら言った。カズヤは「はあ」と相槌を打った。
「ま、女にモテない相手にされない人種もいれば、こうしてやっと手に入った女に執着して殺人事件まで起こす奴もいる。男というのは本当にどうしようもない生き物だよな。知ってるかい? 犯罪者ってのはね、ほとんど全部男なんだよ。女もいないわけじゃやないけど。でも男が圧倒的に多いんだよ。古今東西どこでもね。僕が不思議だったのは、なんで犯罪を犯すような種族の形質が、綿々と子孫に伝わったのかってことなんだけど、人間もしょせん、自然の中の動物の一種に過ぎないと思えば、それは明らかなわけだ。こういう風に雌に執着して、気に食わないことがあったらその雌を殺してまで確保しようとする個体が、すんなり諦めてため息ばかりついている個体よりも、有利に子孫を残してきたからこそ、なんだろうか? でも君みたいに、土壇場で諦めてしまって『もう無理っすよ』とため息ばかりついている個体もちゃんと存在しているんだから、どっちが有利に子孫を残せるのかは環境によるってことなのかな……。ん、言っててなんだか自分でもよくわからなくなってきたな。君はどう思う?」
 カズヤは唐突に話をふられて目を白黒させた。
「おれは、こういうストーカー野郎はイレギュラーじゃないかと思うんすけどねえ。なんか頭の病気とかもあるんじゃないっすか。脳のXY遺伝子の配列が犯罪者は普通の人とちょっと違うとかなんとか、そんな話をどこかで読んだかなあ。そう考えたら、犯罪を犯すような自分を制御できなくて、あとさき考えられないような奴は、一種の知的障害なんじゃないすか。病気というか障害というか」
 カズヤも言いながらよくわからなくなってきた。
「障害、イレギュラー説か。それも確かにありうる話だ。でも暴力的で粗暴な男を『男らしい』とかなんとかあそこを濡らすクソ女もいるよう気がするけど」
 カズヤは頷いた。「確かにいますね」
「猿でも熊でも、体がでかくて喧嘩が強ければ、より競争に勝利しやすく、餌や資源を他の奴らよりも先んじて手に入れられるわけだろ? そうなると雌はその資源を目当てに、その雄と交配して、子供を産んで育てるわけだ。結局資源を持っている男がモテているわけだ」
「確かに金持ちがモテるのは真理ですが、じゃあなんで顔が関係するんですか? 男の顔の良し悪しが生存に何の影響を与えるんですか?」
「僕の考えでは、恋人として付き合うのと、結婚して子供まで産むことを考えるのとでは、女の求める基準が違うんじゃないかな。結婚相手は金や資源。恋人には顔とか趣味とかそういうのが大事なんじゃない? まあこれは適当なヨタ話だけど」
 カズヤはいまいち納得できなかったので、眉をひそめて首を傾げた。ヤハラも自分で言っていてどこか納得のいかない顔だった。
「顔は、今の社会では地位をあらわすと思うんだ。いい顔をしている男と付き合えば、自分の価値が高いような気がするだろう。そうやって他の男に『いい女だな』って思ってもらいたいんじゃないかな。それに顔は遺伝子の程度を表すとも聞く。左右対称な顔は遺伝子が綺麗で、より優秀な子孫を残せるとかなんとか」
 ヤハラが少し間を置いてから再び口を開いた。
「結局、より多くの資源や金を持った、いわば『高スペック』な男を捕まえるための戦略ということっすか?」
「まあ、早い話が……」
 ヤハラの視線は天井を泳いだ。
「でも、女は理屈じゃないすよね」
 カズヤはタバコを吸い殻の山に突っ込んだ。
「うん、確かに。理屈で捉えるのは無理なんじゃない? 女はほんとわけわからんよ」
 二人はなす術もなく黙り込んだ。ニュースは都知事が汚職で辞任に追い込まれたきり、カメラの前に姿を現さないことを伝えていた。
「おれ、もう一杯コーヒー頼もうかな」
「ああ、飲みなよ。すいませえん」
 ヤハラが『れいらちゃん』を読んでくれた。
「コーヒーお代わり。二つね」
『れいらちゃん』は無表情で伝票に追加の注文を書き込み、踵を返した。
「このクソ都知事、退職金二千二百万円なんですって。おまけに夏のボーナスまで貰うつもりでいやがるそうです。数百万も。桁違いだ」
カズヤの目は憎しみで濁っていた。
「たまげたねそりゃ」
 ヤハラはテレビの画面を見た。
「汚職で、しかも任期の途中で辞任して、ちゃんとボーナスも退職金も出るだなんて、やっぱり特権階級ですよね」
 カズヤの言葉にヤハラは身を乗り出した。
「いいこと言うねえ。こういうのはね、結局法に任せても駄目なんだよ。唯一の解決策は銃殺刑さ」
 ヤハラは右手でピストルを形作ってこめかみに当て「バン!」と言った。
 カズヤは頷いた。
「なにしろ、この社会のルールを作ってるのはこういう特権階級の豚どもだからね。徹頭徹尾、自分らに有利なルールを作っていて、滅多なことでは犯罪に問われないし、ちゃっかり退職金は分捕っていくしね。税金なんて自分の小遣いぐらいにしか思ってない連中さ。愚民が飢えようが肉体労働者が仕事中に死のうが、びた一文財布から出す気もない。考えてるのはいかに甘い汁を吸うのか、奪うのか、もらうのか、掠めとるのか、そればっかりさ。この都知事がやったことも、一応合法なんだってさ。問われてるのはモラルの問題なんだって。週末のたびに家族連れて温泉地でのんびり過ごしておいて、宿代は全部税金。他にも漫画は買う、美術品を蒐集する、自分の家の家賃まで税金で払う始末だ。それで違法じゃないんだって。だから逮捕もされない。退職金とボーナス掠め取ってしばらく家にこもってりゃ、世間もすぐ忘れる。それまで豪遊するだけ。豚野郎め」
 ヤハラの顔からにやにやが消えていた。怒りにとりつかれたかのように、目は血走り、悪口は止まらなかった。しかし、カズヤとておおむねヤハラと同意見だったから、頷きながら一緒にこう言った。
「豚野郎」
「豚野郎」
 ニュースはいつしか終わり、天気予報へと変わっていた。
「政治の話はムカつくこと以外何もないっす。話したいこともないですね」
「答えが決まってるからだよ。やるべきことも一つだ。政治家は全員引っ捕えて銃殺刑。それ以外考えなくていい。皆殺しにすべきだ。断固。然り。当然」
 コーヒーのお代わりが運ばれてきた。二人は再びタバコに火を点けた。

「ところでさ、僕の友達に、変わった奴がいてね。そうだな、本名言うのもあれだし、コジマくんってことにしようかな」
 ヤハラがまた話し始めた。カズヤは頷きながら聞いた。
「コジマくんは、いわゆる介護士ってやつでさ。老人ホームみたいなところで働いているらしいのね。見た目はぱっとしないブ男なんだよ。痩せっぽちで背も高くないし、全然ぱっとしない。介護士だから給料も安い。でも、なんでかは知らないけど、異常に女の子の好みにうるさいのよ。それで、キャバクラ通いなんかして毎月給料のほとんど全部を本名も教えてくれないお嬢に貢いでるんだよね。それだけでもおかしいのに、奴ときたらさ、キャバクラのお嬢に金の管理までされてるんだよ。ある日、奴と飲みに行ったんだけど、メールが来たからってがちゃって携帯開いて、何やら長々字打ってるのね? なにしてんのかな、って思うじゃん。人が目の前にいるのにさ。十五分も下向いて字打ってるの。それで『何してるの?』って訊いたんだよね。すると、『今日使っちゃったお金を報告してるんだ、ここっていくらぐらいになるかなあ』って訊き返してきたのよ。意味がわかんねえじゃん。え? なに? って。報告? 誰に? 詳しく聞いてみたのね。すると、『これがおれを心配しとるがじゃあ』ってその時『龍馬伝』にハマってたらしくていきなり小指立てて土佐弁で言い放つわけ。なんだこいつ? こいつこのツラで彼女いるのかよ、って僕も軽く敗北感を覚えたわけなんだけどさ。詳しく聞くと、さっき言った通り、キャバ嬢に金の報告をしてたってわけ。お嬢はコジマくんの給料の手取りがいくらか正確に知っていて、あといくら残ってるから、この日はおいで、この日もおいで、この日も烏龍茶だけなら来れるでしょって、来る日を全部指定しててね? コジマくんはそのお嬢の言われるがままに店に通ってたってわけさ。しかも、原チャリ乗ってさ。べろんべろんに酔って飲酒運転で帰ってくるのよ。で、翌日は仕事して……そうやって生きてるらしかった」
 カズヤはへえ、と相槌を打ち、馬鹿な野郎もいるもんですね、と返した。
「馬鹿なんだよ。馬鹿は馬鹿で確かなんだけどさ。そいつすげえ面白いやつなんだよね。映画の『宮本武蔵』を気に入ったからってさ、ある日いきなり日本刀を買っちゃってさ。安いわき差しだけど、本物だからさ。ちゃんと斬れるし突けるし、人殺せるし。道端で抜いたり、意味もなく持ち歩いたりしたら文句なしの銃刀法違反だよ。現行犯逮捕さ。それをあいつは家の中で抜いたり見てるだけだと物足らないからってさ。酒飲みながら夜の街を抜き身のまんま歩いてたらしいんだよ。んで、カップルとか見かけたら、睨みつけて追いかけ回してたんだってよ。完全にアウトだろ? 僕も、『あのさあ、そういうことしたら捕まるよ』ってそう諭すしかないじゃん? するとものすごい勢いで目を泳がせて、『いやいや、そんなことしてない! 本当はやってない!』って首をぶんぶんブン回して否定すんの。それがまためちゃくちゃリアルでさあ。こいつ多分本当にこういうことしてるんだな、って身がすくむ思いだったさ。やっぱり案の定、刀持って出歩くのが病みつきになってたみたいで。ゴミ出す時にまで腰のベルトにさして出かけるほどになってたわけよ。怖い話だろう?」
 カズヤは腹を抱えて笑いながら話を聞き「捕まんないんすか、それ?」と返した。
「それが捕まんないんだわ。警察って何にもしないよな! 人が死ぬまで何にもしねえ! 人が死んでからやっと動く。葬儀屋と同じさ。ああ、でも警察は人が死んでも何にも動かないこともあるんだぜ。なんせコジマくんは、自分の職場の老人ホームでさ、呆けた爺さんをぼこぼこに殴り倒して蹴り入れてさ。血だらけになって倒れたのを布団に包んで隠してたらね、朝になったらその爺さん死んでたんだって。殺しちゃったんだってよ。殺人だよね、これ? でも老人ホームにいる年寄りって身寄りがない人もけっこういるらしいのね。その爺さんも運良くか悪くかはわかんねえけど、身寄りがなかったわけ。よって被害届も出されず、そのまんま」
 にわかに信じられない話だった。
「ええ? それでも警察動かないんすか?」
 へらへらしながら聞いていたカズヤは、思わず真顔になって訊き返した。
「動かなかったらしいよお。それが泣ける話でよお。その爺さん、身寄りがなくてさ。唯一の知り合いが昔から通ってたキャバクラのママだったんだって。その人が身元引き受け人になってくれたらしいんだけど、その人は被害届なんか出さずに『この人はこういう死に方をすると思ってた』って言ったらしいのね。どんな事情があったかは知らねえけどさ。これは殺人じゃん? でも被害届がないからって警察は捜査さえしなくて、施設もどこにもなんにも届け出もせぬまま、うやむやで終わったらしいんだけど。まあ、コジマくんは『頼むから、お前とりあえず辞めてくれ』って施設長に頭下げられたらしいよ。まあそんな感じで奴はまだぴんぴんして同じ仕事を続けてて、最近は日本刀にハマってるわけ。泣けるよなあ」
「どこが泣けるんすか……。めちゃくちゃ怖い話ですよ」
 カズヤは椅子の背もたれにどしんと仰け反り、腕を組んだまま言った。
「だってさあ」
 ヤハラがタバコに火を点け、ため息とともに煙を吐き出した。
「だってその爺さんさ、コジマくんの未来の姿みたいなもんじゃねえ? 身元引き受け人がキャバクラのママだけだなんてさ。コジマくんは未来の自分を殺したんだよ。その罪を背負って生きていくのさ」
「罪を背負ってったって。捕まってないんでしょ?」
「まあ、でも未来の自分を殺した……いかにも示唆的じゃないか? シェイクスピアの戯曲にありそうな、すげえ悲劇だよね。文字通りの意味で、コジマくんにはもう未来がないわけさ。てめえで殺しちまったんだから。それでね、後日談だけど、『そもそもなんでおまえ、その爺さんをボコろうと思ったわけ?』って聞いてみたのね? するとさ、なんて言ったと思う? 『おれの好きなキャバクラにいるような娘たちは、こんな爺さんに金で弄ばれて、ひどい目にあってるんだ。毎日泣いているんだ。敵を討ってやる!』ってある夜いきなり思ったんだって。それでたまたま目の前で湯呑にお茶注いでたその爺さんが運悪くターゲットになっちゃったってわけ。すごい話だよな。その身元引受人のママの言葉が、また不気味な光を放って思い出されて……。思わず震えたよ。こんな話ってほかにあるかい?」
 カズヤは目をつむってかぶりを振った。
 そして心の中で『うまくおとすなあ、この人』と考えた。本当の話なのだろうか? あまりにうまくできすぎている。
 しかし、本当の話だったらとんでもないことだ。カズヤは判断がつかず黙るしかなかった。ヤハラはそんなカズヤの顔をじっくり観察していた。二人はその後、黙ってコーヒーを飲み、タバコを吸った。灰皿の中の吸殻は今や溢れんばかりに盛り上がっていた。


「ねえねえ、ところで、カズヤくんはなんかオタク趣味はないのかい?」
 午後四時半。ヤハラが再び口火を切った。外はまだまだ夏空が広がり、人々が道を険しい顔で行き交っている。うだるような暑さに違いない。店内は程よく冷房がかかっており、快適そのものだ。
「オタク趣味っすか?」
 カズヤは目を白黒させた。「なんすか、突然」
「僕は仕事柄、そういうものの批評文を書いたりもするんだけどさ。映画も好きだ。君はどうかな、と思ってね」
 カズヤはしばし何を話すべきか考えていた。
「おいおい、気楽に頼むよ。別になんでもいいんだ。話のタネになればいいんだよ」
 ヤハラは焦れたように体を揺すって笑っている。
「映画はおれも好きですよ。音楽も、いろいろ聞くかな」
「音楽の話は難しいんだよな。なぜかはわからないけどね。例えば今、僕がお気に入りのCDの名前を挙げるとするだろ? まあ、大抵他人とは趣味がかぶらないんだ。よしんばかぶったとしてもさ。『ああ、あれは名作だよね、おれもあれにはハマったよ。三曲目なんか最高。で、他にお勧めある?』って、すぐに話が終わっちまう。なぜかはわからない。僕は経験上いつもそうなんだ。楽器が弾けねえからかなあ? 他人と音楽の話で盛り上がるのは、好きなラーメン店を当てあいっこするのと同じぐらい難しいし、不毛だ。趣味がかぶったところで哲学も思想もポリシーも全然かぶらない。でも映画は違う。映画は具体的にどのシーンのこのセリフが好きで、ラストシーンまで持って行くあのシークエンスがたまらなく好きだ! ゾクゾクするよ! とか、具体的に話せるし、好きな映画がかぶれば大体意見や考え方も自然と似てくる。まあ、だから映画は怖い。人間の深層に知らぬ間に影響を与えるからね。映画の話はほんとに盛り上がる」
 カズヤはこのわずかな時間でヤハラの話をうまく聞き流す方法に習熟していた。彼は話が脱線ばかりしているが、結局言いたいことやメインテーマは最後に固められている。彼の話は無数に脱線するが、辛抱強く待ってさえいれば必ず一つの結論に戻ってくるのである。その最後の部分を聞けばいいのであって、途中は上の空で聞き流しても構わない。最初は全部の言葉をちゃんと拾おうとしたから大変だったが、今はそう考えながら聞いていた。
「確かに、映画の話は音楽の話より大抵盛り上がりますね」
 カズヤはヤハラの意見に適当に同意した。そう言われてみれば、音楽の話は他人としてもあまり盛り上がらないかもしれない。しかし、それはカズヤにとってあまり興味のあるテーマではなかった。
「よし、そうだな。じゃあ言論の自由についての話をしよう」
 ヤハラは突然話を変えた。
「言論の自由?」
 カズヤはぽんぽんと話題が飛ぶヤハラを見て、まるで自分の母親のようだと思った。母親はいくつもの話題を同時並行的に続けることができ、あっちに飛んだりこっちに飛んだり、気分で話題を切り替えることが得意だった。母親によれば、女は男よりもこういうことが得意なのだという。昔、恋人にこの話をすると、その恋人はこう言った。『女は、右脳と左脳をつなぐ脳梁というジョイントのような部分が男よりも太いの。男よりも脳が小さい分効率的に働くんだよ。だから違う話をいくつも同時に続けられるの』と。
 恋人はカズヤより二つ年上で大学の先輩だった。カズヤと同じ学部だったが、彼女の学科コースは卒業時に看護師の国家試験を受験することができた。看護師育成コースだったのだ。カズヤはといえば、臨床心理学コースで何の役にも立たない無名の資格を除けば、卒業しても何の見返りも特典もなかった。そのことに気が付いたのは大学時代の無邪気な空気が徐々に薄れ、冷静に将来を考えるようになった三年に進級する少し前ぐらいの頃で、カズヤはそれまで何の考えも将来の展望もなく、講義をサボっては遊びほうけていた。友人たちと飲み歩くこともあれば、その恋人と過ごすこともあった。時には恋人に隠れてコンパに行ったり、そこで出会った娘とメール交換をしてこっそり会って秘密の関係を結んだりもした。カズヤは、自分は大学時代はまあまあモテるほうだったんじゃないかと考えている。遊び慣れていたし、何より見知らぬ女の子に話しかけ、楽しませて笑わせることは、カズヤにとって難しいことではなかった。カズヤは同年代の女の子が喜びそうな話題を友人や大学の先輩やその彼女、恋人、新しいガールフレンドから柔軟に吸収し、新しいネタを仕入れたらそれがどんなに取るに足らない話題だったとしても、面白おかしく加工して、さもおかしな話しであるかのように語って聞かせた。だいたいカズヤの話を聞いて笑わずに冷静さを保てる娘はいなかったし、カズヤは自分の話を楽しもうとしない女の子をまったく相手にしなかった。彼のほうから追うということはほとんどなかった。カズヤは三回生に上がる少し前には、どんな女の子でも笑わせられるという自信を持っていたし、彼はそういう意味で女の子たちの間で少し有名になっていた。気安く話すガールフレンドも増えていたし、男友達も多かった。また、彼は虚勢を張るということの意味を理解していた。同年代の女の子がうっとりするような話題(それは大抵音楽の話題だった)を熱心に研究し、服装にもこだわった。大抵の人間はカズヤと付き合うことで自分が知らない様々なことを教えてもらえる、と錯覚し、憧れの念を持った。しかし、カズヤは大学の勉強に関してはろくすっぽ努力しようとせず、出席を取らない講義は一度として受講しなかった。その時間を人より長く寝たり、DVDを観たり、本を読んだり、音楽を聞いたりすることに使っていた。
 ところで、彼の同級生でハスダという男がいたのだが、これはカズヤとはまったく正反対の男だった。心理学などという何の役にも立たない学問を真面目に勉強し、院に進んで修士を取ると話していた。講義はすべて完璧に出席していた。定期テストの成績も良かった。彼は背が高く端正な顔立ちで、物静かで優しげな男であった。しかし、逆にいうと彼は無口で、臆病で、内向的な人間と見なされていた。それでも同級生の女の子は(あるいは別の学科の女の子も)、それとなく彼と関係を持とうとした。休み時間にいつも机に突っ伏して寝たふりをしているハスダに、思い切って話しかける女の子はあとを絶えなかった。なんとか仲良くなろうとしているのがはた目にも明らかにわかった。それは彼がとても優しそうな男だったからだと思う。カズヤはたまに大学に来ては静かにモテているハスダを見て感心していた。カズヤが考えたのは、とりあえずハスダと仲良くなれば、ハスダに話しかけにくる女の子たちを相手にコンパを開くことができるんじゃないか、ということだった。カズヤは型にはまった人々の行動の裏の欲望を見抜くことに精通していた。彼は何故かそういうことが人より得意なのだった。そして実際、カズヤは暇な時間にはハスダに話しかけ、音楽や映画や漫画の話をし(なぜならハスダにはそのジャンルの話ししかできないのだった)、自分の知っている音楽や映画や漫画の話しを語って聞かせた。彼と仲良くなることは造作もなかった。彼は決まりきった退屈な学友を除けば、これといって話し相手もおらず、いつも暇そうにしていたからだ。彼はいつも卑屈にこう言った。「僕ってひきこもりだから」二言目にはそう言って自分をおとした。カズヤがいくらコンパに誘おうが、彼はそういった浮ついたことには一切興味を示さず「僕にはそういうのは無理だよ」と苦笑いするのであった。カズヤはいつしかハスダの消極的な姿勢に愛想を尽かし、仲間に引き込むことを諦めた。
 その後、大学卒業を間近に控えた秋、カズヤは一度だけハスダと会う機会があった。大学の帰り道だった。正確にいえば電車の中でたまたま会ったのである。そして、どういう成り行きだったかは覚えていないが、そのまま途中の駅で降りて昼食を一緒に食べたのである。ハスダは相変わらず物静かで控えめで謙虚な人間であったが、在りし日に比べると口数が多く、表情が柔らかで、瞳にありありと希望の火を灯らせていた。ハスダは大学院への進学が決まったことと、ずっと同じサークルでつかずはなれずの仲を育んできた薬学部の女の子と、ついに付き合うことになった、と話した。とても控えめに。自慢するような響きは一切なく、彼はいつものようにとても物静かで、自然にそのことを話した。そのおかげで、カズヤはその話をとても自然なこととして受け入れることができた。感情をかき乱されることもなく。ああ、そうか、と聞いた。カズヤはといえば、惰性で受けた大学院への受験は失敗し、就職も決まっていなかった。将来への不安はいまやのしかからんばかりに常にそこにあって、カズヤを苦しめた。一日は長く一週間は風のように過ぎていった。長く付き合った恋人はカズヤより早く卒業すると看護師として病院に就職し、ほどなくして『好きな人ができたの。その人は医師で、あなたとは別れたい』と彼に言った。正確にいうと、彼女は新しいボーイフレンドが医師であることを積極的に語ろうとはしなかった。そして新しいボーイフレンドができたことも積極的に語ろうとしたわけではなかった。しかし、彼女のわずかな表情の変化やよそよそしい態度が気になって、カズヤのほうから尋ねたのだった。カズヤもまた、人の表情や態度のわずかな変化にすぐ気がつくことができた。すぐに恋人は医師の彼氏ができたことを認めた。『まだ研修医だけどね』彼女は一通り泣いて見せた後、明るい表情でそう言った。

「最近はインターネットやら、SNSやら、どんな人間でも平然と評論家気取りで言葉や情報を発信できるけど、このことについてはどう思う?」
「どうって……。いいことなんじゃないっすか?」
 カズヤは思いがけず浮かんだ昔の恋人の記憶の断片に、しばしセンチメンタリズムに囚われていたが、すぐ我に返って答えた。ヤハラは意味ありげににやりと笑った。
「皆が皆、瞬時に情報共有。便利な世の中だ」
「何が言いたいんです?」
「僕はこう思うんだ。人々はインターネットで情報も共有してるけど、だいたいは感情を共有してるんだって」
 カズヤはヤハラが続きを話すのを待った。
「それも大抵は負の感情さ。喜びは滅多に共有されない。怒りとか、憎悪とか、悲しみとか。嫉妬、恐怖、劣等感、見栄、自己顕示欲、他者に認められたいという感情……」
「まあ、否定はしませんよ」
「なんでそうなのかなあ、と思ってるんだ」
「なんでとは?」
「なんで他者の喜びを自分のことのように感じられないのかな? それができれば、人類は完全に幸せになれる。すべての問題は瞬時に解決する」
 カズヤは鼻で笑った。
「おかしいかい?」
「おかしいも何も」
「そんなわけない?」
 ヤハラはくすくすと笑っている。
「そんなことができるなら、おれも今日の昼、炎天下を歩き回って三時過ぎにやっとまずいナポリタンを食う、なんてことはなかったでしょうね」
 カズヤは冷笑している。ヤハラは大きく頷いた。
「そう! できないんだよ。なのに感情を共有するツールだけはどんどん発達してるわけだ。これがどれだけ危険かわかるかい?」
「そう言われたらそんな気もしますね」
「他人の不幸は蜜の味。でも他人の幸福はただただ、嫉妬心をくすぐり、劣等感を深め、焦燥感を煽るだけだ。SNSで今日のランチとかいって旨そうな飯の画像をアップする主婦とかいるだろ? 恋人や友達の話をそれとなく挿入し、自分はまともな休日を過ごしている、一人ぼっちでネットばかりしているわけじゃない、一緒に出かける相手がいる……。そうやって猿のくせに猿じゃない猿じゃないってアピールに必死な奴らっていっぱいいるよな? ただの見栄だってみんな知ってる。でもみんな真似せざるを得ない。馬鹿にされたくないし、自分は人より幸せだって思いたいからね。そんな見え透いたアピールでも、見た者は不快な気分になる。『おれは部屋で一人でオナニーばかりしてるのに、こいつらときたら楽しそうに旨そうなもの食いやがって、このヤリマン女が!』って。思うだけなら三秒で完了する。なんなんだろうねえこれは。ムカつくためにインターネットをしているようなものなのに、みんなインターネットがやめられない。自分が他人とどれほど違っていて、どれほど同じなのか。確認せずにはいられない。孤独で、不安だからさ。群れからはぐれた猿が、他の猿が何しているのかどうしても気になる。つまりインターネットはそういうものなんだ。他人の生活を、考えを盗み見る。そして怒り、嘆き、嫉妬し、憎悪する。孤独や不安を緩和する代償に、人間は感情をかき乱されることを選ぶ。つまり結論は……なんだと思う?」
「人は孤独を緩和するためにインターネットを利用し、その結果見知らぬ人間に対する憎悪がいつのまにか感染する、って、そういうことかな?」
「その通り! カズヤ君はめちゃくちゃ頭がいい! 僕が見込んだだけはあるよ」
『君は頭がいい』という誉め口上は大抵、お高く留まった人間が見下した人間に向かって放つ言葉だ。カズヤは苦々しく思ったが、年上の人間にそう言われると悪い気がしないのも事実だった。
「君ねえ。だいたい、今がどんなに危険な時代かって、君わかってるかい? 今はね、無差別殺戮の大義を神が保証してくれる、とんでもない時代なんだぜ? 例えばさ、百円ショップに行くだろう? それで百八円で包丁買ってくる。君、バイト暮らしで貧乏ったって百八円ぐらい持っているだろう? そして歩行者天国に軽トラに乗って突っ込むんだよ。それでさ、『神は偉大なりぃ!』 って叫んでごらんよ。君は今日から革命に身を捧げる聖戦士さ。一人でも多く、できれば惨たらしく、妊婦さんや子供を襲って殺すんだよ。人種? そんなもん無関係さ。場所? そんなもんどこでもいいんだよ。歩行者天国は立派な場所だよ。ここを血の海に変えてやるとする。そうすれば評論家が難しい顔して「ソフトターゲットを狙ったテロ行為です」だなんて言ってくれる。本当の君は時給八百円で刺身の横に丸めたつまを並べる仕事に嫌気がさして、テレビをつけたら『リア充』といい女が幸せです、幸せです、ってぐだぐだごねてやがるから、ムカついて暴れただけなんだよ? そんなのはみんなわかってる。みんなお前が煮詰まってヤケクソになっただけだってことぐらい知ってる。でも今はね、『神は偉大なり!』って妊婦の腹を刺しながら叫べば聖戦に参加できるんだぜ。これがどんなにクズどもにとって甘美なことかわかるだろう? 被害が大きくなって世界が報道したら、かのテロ組織の日本支部が勝手に犯行声明を出してくれるさ。皆「そんなもん、この国にあったのかよ?」ってずっこけて笑い転げるだろうさ。最初はね。でも、殺された二十九歳の美人ママの顔写真を見る、腹の中のクソガキもくたばったって報道されると皆黙り込むとも。ああ、これはテロだってね。紛れもなくテロだってね!」
 カズヤはヤハラの熱のこもった演説をタバコを吸いながら黙って聞いていた。コーヒーを飲もうと思ったが、既に今日二杯目のコーヒーは飲み干してしまっていた。カズヤはお代わりを呼ぶのも面倒に思えたのでとりあえずそのままにした。そして『このおっさんは言い方や表現が無闇に大げさだなあ』などと考えていた。
「ちなみに『神は偉大なり』のくだりは『国際共産主義万歳』でも『祖国統一万歳』でも『戦争反対』でも『憲法改悪反対』でもなんでもいい。崇高ぶった口上を選ぶべきだ」
「つまり単なる劣等感や社会憎悪に駆られた卑劣な犯罪だというのに、理想に準ずる革命戦士を装うことが簡単だって、そういうことですか?」
「ま、そういうことかな」
 ヤハラは一転どうでも良さそうにコーヒーカップを手に取った。そしてその中にすでに何も入っていないことに気が付くと迷わず『れいらちゃん』を呼んだ。
「コーヒーを……君は飲む?」
 カズヤは頷いた。
「二つください。あと水も。あと灰皿交換してもらっていいですか?」
『れいらちゃん』は「はい」と相変わらずの無表情で言って、何度目かもわからぬコーヒーの注文を伝票に書き加えた。
「言論の自由の話に戻るんだけど」
 ヤハラはタバコに火を点けた。『れいらちゃん』が灰皿を交換し、テーブルを布巾で拭いた。
「ナチスのホロコーストってあるでしょ? ユダヤ人の迫害のあれ。ガス室とか。あれって本当に六百万人死んだと思う? 日本のネットユーザーは右向きの頭の悪い野郎がたくさんいるだろ? 南京大虐殺は捏造だとか、従軍慰安婦はデタラメだとか、大して根拠もないのにがなり立てる。ホロコーストもそれと同列なんだよ。あんなもんは戦勝国の捏造だって、したり顔、物知り顔で済まそうとする馬鹿がいる。でもそういうのに限って物知りどころか何も知らないはったり野郎さ。ドイツやオーストリアや、欧州の各国ではホロコーストを否定すると逮捕されちまうんだぜ。民衆扇動罪だの侮辱罪だの、罪状はそれぞれだけどね。でも極右の論客ってのは、自分も言論弾圧が大好きなくせに、こういうことを知ると『官憲が言論を封殺し、議論さえも封じ込めようとしている』って被害者ぶったテーゼを拡散しようとするんだ。『言論の自由があるのに!』って。でも、日本人の大抵は言論の自由は、何でも言っていい権利だと思ってる。それは大いなる勘違いだ。言論の自由があるったって、言っちゃいけない言葉もある。それは民族・宗教間憎悪を煽るような言動だ。よく聞くだろ? ヘイトスピーチってやつさ。日本人は言論の自由があるから『朝鮮人を犬のように撃ち殺せ』なんて言っても全然問題ない、と思ってる。けっこう良識のある、学の高いような人間でも、そんな間抜け野郎がひしめいているんだ。ヘイトスピーチは駄目なんだよ。今の時代は特に。さっきの話につながるんだけど、憎悪や恐怖は容易に拡散されるからね。だれだれがどれそれに権利の侵害を受けている、レイプされている、収奪されている……って情報はすぐに国中に駆け巡るし『だから反撃せよ』ってところまで簡単に接続できるからね。言論の自由があるったって何でも言っていいわけじゃない」
 複雑な人物だ。カズヤはそう考えた。さっきは特権階級を撃ち殺せ、だなんて言っていたのに。人種や宗教のヘイトスピーチは拒否するのに、階級憎悪は容認するなんて筋金入りのマルキストのようだ、と思った。しかし、皮肉なことに、カズヤはどちらかといえばヤハラの意見に共感していた。正確に言えば、ヘイトスピーチの話しにはあまり興味が持てないが、いい気になった金持ちはぶっ殺してやりたい、とは思っていた。浮かれたツラした自分より幸福そうな人間、金と欲に塗れた社会をすべて破壊してやりたい、とはどこかで思っていたかもしれない。といっても、カズヤにはそれを実行する勇気も気力もさらさらなかったし、憎悪は正確にいうと一時的なもので、いつもいつも怒り狂っているわけではなかった。何もする気が起きず、無気力に沈んでいることの方が多かった。それは努力に対する見返りの少なさや、生活苦による疲労が原因だった。自分でもそれがわかっているのに、いかんともしがたい。そんな永遠に終わりのない迷路の中にいるかのようだった。
「表現の自由にも同じことがいえる」
 ヤハラはなおも話し続けた。『れいらちゃん』がコーヒーのお代わりを持ってきてテーブルの上に置いた。
「いくら表現の自由があるからって、最近のアニメやAV産業はどう考えてもおかしいと思わないかい? 女や女性的なものはすべて売り買いが合法なんだぜ。金持ちがいい女を囲って、それができない奴もAVでも百円で借りてくれば、簡単に人間を人間が性的に収奪し、尊厳を剥奪する様を見ることができる。そしてそれを見ながら性器をしごく。豚にも劣る畜生だ! 誰がこれを否定できるんだい?」
「アニメもひどいすよね。外国からは、しばしば児童ポルノと間違われるそうっすね」
 カズヤはコーヒーを飲みながら相槌を打った。ヤハラは膝を叩いて大きく頷き、なおも興奮してまくし立てた。
「そう! 欲望というものは制限をかける必要がある! 管理しなければ! 無制限な欲望は退廃をもたらすし、欲望の究極形態は人間が人間を消費することだ。パゾリーニの『ソドムの市』は見た?」
 カズヤは頷いた。「ええ、見ましたよ」
「強姦し、辱め、クソを食い、最終的には殺す。全部快楽のためにね。一部の特権階級が奴隷を消費する。世にも恐ろしい映画だよな。あれより怖い映画はない。ところが日本のアニメ産業はあれよりも更に退廃している。だいたいストーリーは『美少女』のアイコンが男に奉仕し、消費され、嬲られるだけ。男の望むままのことを言い、男がうっとりするようなことばかりするよう強いられている。人間性のすべてを剥奪され、まるで便所に流すトイレットペーパーみたいに消費される」
「《絵》だからしょうがないと言う人も」
「とんでもないことだよ。本当にそうならそんなものが快楽をもたらすわけはないんだ。《人間》なのさ。少なくとも《人間》の代わりではあるはずだ。《人間》であるからこそ人間性を奪われる光景に快楽を覚えるのだから。そんなことをいう奴は自分のマスかきのネタを奪われないためだけに必死になって、奴隷階級がどれほど苦しもうが知らん顔だ。さっきのニュースの辞めた都知事とどこが違う? 自分が奪い、貪り、快楽を味わうだけ。行動原理は豚と同じだ。銃殺刑以外にどんな解決策がある? この国のために今できる愛国的行為があるとするなら、こういう輩のための強制収容所を全国に建設することだ。容赦なく跪かせて銃殺刑にするべきだよ! ほかにどんな解決策がある?」
「落ち着いてください……」
「アニメや漫画のキャラクターを思い返してごらんよ。あの『非実在慰安婦』たちをね。顔は幼稚園児みたいなのに、体はいやらしく凹凸がついていて、いかにも『これは商品です』と言わんばかりだろう? 妄想するだけならいいよ。でもそれを表現の自由だとかいって映像や本にして売りさばいて金に換える、買った奴は一年中それ見てマスをかく。飽きたら別のを買ってくる……。豚よりひどい。豚に失礼なぐらいだ」
 カズヤは、ヤハラが話すうちにあまりにも興奮してきたので苦笑いした。
「まあまあ、喉が渇いたでしょう? 一服やってくださいよ」
 ヤハラの額には汗が光っている。彼は荒く息を吐きながらコーヒーを飲み、呼吸を整えようとタバコを吸った。
「まあ、オタクの話しも、言論の自由、表現の自由の話しも、おおむね共感しましたよ。随分回りくどいようにも思いましたがね……。いや、悪い意味ではなくて、ちゃんと一つのテーマに集約されてるなって、関心したぐらいでして。そうですね……。こう考えると、民主主義ってのは本当に最悪っすね。でも最悪だけど他のどれよりも一番ましだと。そういう政治家もいたっけなあ……」
 カズヤはヤハラを落ち着かせようと曖昧に話をにごした。
「チャーチルだろ? まあそりゃあ、奴が民主主義政権の代表だったからそう言っただけさ」
 ヤハラはあまり納得が行かないようだったが、先ほどの興奮は徐々に影を潜め、落ち着いた表情でゆっくりと呼吸している。そして、コーヒーを飲んだ。

 時刻は五時をまわった。テレビは夕方のニュースを急ピッチで流していた。
「これ、すごいよな」
 ヤハラが店の隅に天井から吊るされた、古いブラウン管のモニターを指さした。画面はバイエルン州の主要都市ミュンヘンで発生したテロ事件の模様を伝えていた。三時ごろに同じニュースを見た時も衝撃を受けたが、あれから新しい情報は入っていないようだ。犯人は依然捕まっていない。
「さっきの話しってこいつのことでしょ?」
 カズヤが楽しそうに画面を見つめるヤハラに尋ねた。
「ん……。まあ、僕が言いたかったのは、こんな風に銃を乱射したり、南仏みたいに爆弾がなくても、包丁一本でやれちゃうという怖さかな」
 ヤハラは画面を見つめたままだった。
「こいつらってこんなやり方で本当に目標を達成できると思ってるんすかね?」
「できるさ。でなきゃやんないよ。というか、こういう武力に訴えるやり方が一番手っ取り早い。近道ともいえる」
 ヤハラが視線をカズヤに戻した。
「もっというなら、暴力に訴えなきゃ何も達成できない。それが民主政治というものだ。マイノリティーは泣く泣く同調するか、口では反対だ、と言いながら受け入れるしかない。本当に目標を達成したいなら、信念を込めた銃なり爆弾なりで敵を殺すことだ。それができないなら結局何もやり遂げられないだろう」
 カズヤは黙ってヤハラの言葉を聞いていた。
「思想の高みに到達する唯一の手段は、その思想のために死ぬことだ、ってね。知ってる?」
「いえ」
「カミュの『正義の人びと』」
「なるほど」
 カズヤは交換してもらったばかりの灰皿にタバコの火を押し付けた。
「新しい灰皿は火が消しにくい」
 ヤハラがそのしぐさを見ながら言った。
「しつこく火が残りますね」
 カズヤはごしごしとこするようにして火種を消した。
「テロリズムへの免疫がない社会では、恐怖の刻印は長く残る、ということもいえる。衝撃が大きいし、何より対策ができていないし、必然被害も大きくなる」
「ヤハラさんは左翼なんですか? それとも無政府主義(アナキスト)というやつですか?」
「僕に思想なんかない」
 ヤハラは笑った。
「暴力にも反対だ」
「でも、政治家は銃殺するべきだって、さっき言いましたよね?」
「思うのと本当に企むのは違うさ」
 ヤハラもタバコの火を消した。
「だが、暴力が甘美だな、近道だな、という風に思うことは多いね。君は違うのかい?」
 カズヤは返事をせぬまま腕を組んで考えた。視線は自然とテレビに向いた。
「暴力は何の解決にもならないって、何度もそう教わりました。学校やあらゆる場所で」
「それは欺瞞だ。本当は暴力は目的を達成するための一番有効な方法で、唯一の解決策になることもある。暴力でしか問題を解決できなかったことは、歴史を振り返っても数多い」
 ヤハラはなおもこの話題に食い下がった。
「例えばどんな?」
「ヒトラーをどうやって暴力以外の方法で排除できたというんだい? ヒトラーはユダヤ人もスラヴ人も殺すか追放するつもりだった。原爆を持てばためらうことなく使っただろう」
 カズヤは心の中でヤハラの言葉の意味を吟味した。有効な反論は何一つ浮かばなかったが、何か腑に落ちないものがあった。どこかそれは使い古された陳腐な例えのように思われたからである。
「なんだか腑に落ちない顔だね」
 ヤハラがカズヤの表情のほんの微妙な変化に気付いた。
「例えを変えようか。暴力で問題が解決した例を。僕はさっきも話した通り、ロシア革命についての記事を書くことに追われていたんだ。ロシア革命は三百年続いたロマノフ王朝を打倒して労働者と農民の……つまりプロレタリアートによる独裁を成し遂げたわけだ。一九一七年に二月革命、十月革命と経て、旧帝政派や極左セクト、東方正教会やウクライナ農民軍などの反体制派との過酷な内戦に突入した。途方もなく長い話を短くまとめよう。ロシア革命は徹頭徹尾暴力で問題の解決を図った。反体制派には容赦なくテロルを行使し、無関係な市民を無数に処刑し、農民から食べ物を略奪して大量に餓死させた。聖職者にも大量テロルを行い、坊主は銃殺され、追放され、イコンや聖遺物は全部略奪されて国外へ売り飛ばされた。民主的な手段なんか考慮もされなかった。テロルの手を緩めようとする官僚がいれば、次銃殺されるのは彼の番だった。皆が皆を攻撃し、旧秩序を徹底的に破壊したんだ。こうしてロマノフ王朝で栄えた旧悪は一掃された。既存の秩序や道徳も全部形骸化した。代わりに台頭したのがゴロツキや犯罪者、今でいうストリートチルドレンやニート、貧乏人たちだ。レーニンは、もとはといえばニートだった」
「解決したっていうんですか? それは」
 カズヤはようやく口をはさんだ。
「もちろん、ボリシェビキ……ロシア共産党の粛清や処刑はレーニンが死んだ後も、スターリンの代になってからも強烈だった。国の重工業化と農業の効率化をうたってウクライナの農民から穀物を根こそぎ奪い取って五百万人餓死させた。その次は国内のポーランド人とその関係者。次は秘密警察や官僚、党員、軍にも粛清の手が及んだ。ほとんど全部無実だったといわれてる。公式に行われた銃殺刑はなんと七十万件。取り調べ中の拷問や強制移送の過程で死んだ人間、移送先のシベリアやカザフスタンの収容所で死んだ者の数、どっちも不明だ。何人死んだかもわからない。国中がテロルに晒され、国が滅んだ……かに思われたが」
 ヤハラはまたタバコに火を点けた。
「連邦全体が満身創痍の時に、ヒトラーが不可侵条約を破って三〇〇個師団を送り込んできた。ああ、あれこれ戦史を語るのはやめよう。結論を言えば、最終的にはソ連は勝ってしまった。ヒトラーをやっつけてしまった。粛清に次ぐ粛清で、国は弱るどころかむしろ強靭に生まれ変わっていたんだ。暴力が問題を解決した。結局戻って来たけど、そういう話。駄目?」
「駄目ってことはないですが」
 カズヤは思わず吹き出した。
「わかんないのかい? ニートが作った帝国が、暴力だけで世界を救ったって例になると思うんだ」
 ヤハラの顔は真剣だった。冗談を言っているようには見えない。
「さすがにそれは飛躍じゃないっすかねえ」
 カズヤは苦笑いしたままそう答えるのがやっとだった。
「そうかあ……。わかってもらえないのは残念だな」
 ヤハラは本当に残念そうにため息をついた。時刻は五時半を過ぎようとしていた。


 しばらく二人は黙ってコーヒーを飲み、タバコを吸いながら座っていた。見るともなしにニュースを見て、まだ明るい店の外の青い空を眺めて過ごした。
「男ってのはさ」
 ヤハラが窓の外を見たまま言った。 
「結局、仕事と女だよな。その二つだ。その二つがうまく行ってりゃいいが、駄目な場合、ほんと困ったことになる」
 カズヤも窓の方を見ていた。歩道を大学生ぐらいのカップルが楽しげに会話しながら歩いている。カズヤはそのカップルを見ていると羨ましいやら嫉妬に身を焦がされるやらで、あっという間に心が暴力の瀬戸際に追いやられてしまうのであった。カズヤは為す術もなくため息をついた。
「何をどうごちゃごちゃ言ったところで、結局そんなもんなんすかね」
「またコジマくんの話し、していい?」
 唐突にヤハラはそう言うと意地悪そうに笑った。カズヤはええ、と少し驚いて答えた。
「コジマくんはさ。ものすごく不細工なんだけど、ちゃんと働いているのね。介護士っていってもちゃんと働いていればそれなりにもらえる。仕事はバイトでも勤まるような内容らしいけど、ああ、これはあいつがそう言ってたんだけどさ。まあ責任は重いし危険だし汚いしで、なりたがる奴は多くないんだ。給料もめちゃくちゃ安い。でも独身の男が生きていくぐらいは楽勝さ。まあ何が言いたいかというと、コジマくんは仕事はちゃんと続けているから、まあまあ金はある。キャバクラに貢いでいるけど、その合間に適当な女の子とデートする機会ぐらいはあるんだな。それで、僕はあいつをそんなに昔から知っているわけじゃないけど、それでもあいつが色んな娘とデートしていたのは知っているよ。あいつは普段は人懐っこくて優しい性格だから、女の子にはまあまあ人気があるんだよ。信じられないかもしれないけどね。宗教団体に騙されて五千円の数珠を買っちゃったり、自己啓発セミナーに勧誘されて冬山に監禁されて金取られたりだとか、冬のボーナスもらったその日にダチをキャバクラに連れってって一晩で使い果たしたりとかね。僕にも定価十二万円の自転車を一万円で売ってくれたりもした。ま、人が良いというか、すごく馬鹿なんだな。頭が悪いんだよ。でも、頭ってちょっと悪いほうが女の子にはモテる気がするんだ。性格が単純で素直で情熱的で……。スポーツ選手にはそういう野郎も多いだろ? 下手に知恵が回る、悪賢い男は……」
「結局『金と資源』なんでしょ? さっきそう言ってたでしょうが」
 カズヤは興味ないとばかりに吐き捨てた。ヤハラが、まあまあ最後まで聞いてくれよ、と彼をなだめようとした。 
「その話は理屈では理解できないかもね、って終わったんだったろ? 女の子は優しくておもしろい男が好きなんだよ。それもまた間違いない」
「おれもねえ、大学の頃はまあまあモテてたんですよ!」
「それはわかるよ! 君は笑ってさえいればすごく端正な顔立ちだ。きれいな顔だよ。肌がきめこまやかでね。まるで女のようだ。でも、あまりに生活が行き詰まってるからなのか、最初に言ったけど顔に険がある。怒ってるように見えるんだ。それはよくないよ。女の子が一番敬遠するのは、そういう怖そうな人、何考えてるのかよくわからない人、だ。単純でいつもにこにこ笑っていればそれだけで十分なんだが、まあ皆人生に色々と背負うものがあるから、そうも行かない。長い長い話を一言でまとめよう。君はもっと笑ったほうがいい」
 ヤハラはそう言うと満足げな様子でケースからマルボロを取り出して火を点けた。そして、ま、ま、君も君も、と言った。カズヤは言われたままにキャスターをくわえて火を点けた。店内に微かに甘いバニラの香りが漂った。
「笑ってたんですよ」
「え? なに」
「おれはねえ、よく笑う子だったんです。母もそんな風に言ってましたよ。『あんたはあんなにいつもにこにこして、まるで天使のようだったのに、なんだってそんなにいつもふてくされた顔でいるんだい!』ってね。いつしか笑えなくなったんです。そんなおれがね。大学に入るとよく笑うようになったんですよ。大学は楽しかったですからね。友人もいっぱいできたし、とびっきり可愛くて最高に優しい年上の恋人ができましたしね。彼女はおれの笑顔が何よりも好きだって言ってくれましたよ。おれが笑うと彼女もいつも嬉しそうに笑顔で応えてくれました。どこに行っても、満面の笑顔を作ることで簡単に女の好意を搾り取ることができましたよ。それにおれはもっともっと機関銃のようによく喋る男だったんだ。いろんな雑学をいっぱい知ってたし、話題も豊富だった。まるで今のあなたみたいにね! でもいつの間にかできなくなった。話せなくなったし笑えなくなったんだ。大学を卒業して社会に投げ込まれてから! 社会がこんなに辛いなんて誰も何一つ教えてくれなかった。ある時ね、おれは最初に入った会社、まあファミレスの社員だったんですけどね、バイトのおばさんに『茶碗蒸しを家で作れるなんてすごいですね』って話しかけたんです。ファミレスで茶碗蒸し作るのがルーティンになってたんですけど、あれは専用の蒸し器や、あらかじめ調合してある卵スープがあるから簡単に短時間で作れるんですよ。家でどうやって作ればいいんだか、おれは全然知らなかったんです。だから何の他意もなく、素直にそう話しかけただけだったんです。でもそのババアなんて言ったと思います?『そんなの作れるに決まってるでしょ? あんたあたしを馬鹿にしてるの?』ってぬかしやがったんだ! 見下したような顔して。おれが新入社員でまだ何にも仕事ができないからって下に見て馬鹿にしやがって。そんなことが毎日続けられたんです。大学四年も通って、結局やることは皿洗い! 野菜を切るだけ! 高熱の油を交換して、ババアのご機嫌取って嫌味を言われるだけ! それを一日十五時間! ねえ、おれが悪いんですか? そんな会社を三ヶ月で辞めたおれは屑なんでしょう? 誰ももう雇ってくれないし、おれの経歴を知るとみんなゴミを見るような目でおれを見る。へらへら笑ってられないでしょう? こんな有様でも笑わなきゃならないんですか」
 カズヤは一気にまくし立てた。驚いたのはヤハラのほうだった。急に堰を切ったように話し始めたのだから。しかし、ヤハラは最初こそ驚いたような顔をしていたが、徐々に冷静さを取り戻し慈しむような目でカズヤを見ながら、うんうん、と頷きながら話を聞いていた。カズヤは荒い息をついた。
「おれは手取り十四万っぽっちで毎日十五時間働かされて、ババアに給料泥棒だって軽蔑され続けたんだ!」
「君は悪くない。君は悪くないが、君のような人間は日本社会では生きられないようになっているんだ。じゃあどうする? このまま腐ってるかい?」
 ヤハラが諭すように言った。カズヤはヤハラの奇妙な問いかけに一瞬で我に返った。
「何が言いたいんです?」
「壊すしかねえだろう? こんなクソな社会は。おれも君みたいなもんさ。社会からあぶれてつまはじきにされたんだ。馬鹿にされて軽蔑されて、見下されて使い潰されそうになったのさ。みんな敵だった。どいつもこいつも僕を嬲り殺そうとよってたかって攻撃してきた。僕はただ生きようとしていただけだったのに。君の人生は僕の人生そのものだ。君の怒りや悲しみが僕には手に取るようにわかる。まるで物体としてそこに存在していて、手でつかむことができるかのようにね。表面をさすって形を言い当てることもできるだろう。僕は君が何に怒り悲しみ苦しんでいるのか、よくわかる。僕も同じ苦しみを味わったからなんだ」
 カズヤは茫然とヤハラの顔を見た。二の句が継げず、ただただ、茫然と。ヤハラの顔はこれ以上ないぐらい真剣だった。彼の眼鏡の銀色のフレームまでもが生真面目に光っていた。
「あなたは一体なんなんだ……?」
「何度も言ったろう? 暴力しかねえんだよ。暴力以外に何の解決策がある? 君を馬鹿にした奴ら、殺そうと追い込んできた奴ら、収奪しようと囲い込んできた奴らに目にもの見せてやるために、僕らができることなんてそういくつもないんだよ! このままどん底で怒りに打ち震えて人生を終えるのかい? もう一度笑える日がきっと来るさ。君が嫌いな奴らをみんなぶっ殺すんだ。包丁一本でできると言ったろう? やれるんだよ今の時代は。崇高な大義を持っているふりでもすれば、憎悪や怒りを保証してくれる何かが、君にもすぐに見つかる。探すんだその対象を。神でも国でも共産主義でも……何でもいいんだ」
 ヤハラは何本目かもわからぬタバコを灰皿に押し付けた。
「何をするつもりなんですか……?」
「革命だよ」
 ヤハラはカズヤの顔にくっつかんばかりに顔を寄せ、小声でこう言った。
「あのでかいロシアを完璧に破壊したのは、たった一人のニートだったんだ……」
「あんたいかれてるよ!」
 カズヤは思わず仰け反った。
「いかれてなんかいるもんか。僕はクソ冷静だ。いつかやるしかねえんだよ。同志だっている。同じような志しの仲間は日本中にいる。僕らが狼煙を上げれば彼らも必ず決起する。今日、今、この瞬間やるんだ」
「な、何を言ってるんだか、もうさっぱり……」
 カズヤはもう笑うしかなかった。
「あのなあ。僕は全然冗談は言ってないつもりなんだが」
 ヤハラは憮然とした表情で口を尖らせた。
「でもおれは、今おれがこんな風に行き詰まってるのは、全部自分のせいだと思ってるんですけど」
「なに!」
 ヤハラはあからさまに不快そうな表情で訊き返した。
「なんで!」
「いや、おれ、大学の時、ほんと遊んでたし、勉強しないでほっつき歩いてて、就活やるのも遅かったし、いつまでも将来のこと決めあぐねてて……」
 カズヤはしどろもどろに言葉を重ねた。
「あのなあ! 大学の勉強なんか社会じゃなんの役にも立たないんだよ。サボってたからってなんだっていうんだ! 君がなにをどうしたって、君が今日この場で行き詰ってる未来は変えられなかったさ! 彼女だってその歳で時給八〇〇円で、できたはずがないだろう! 君は人生で最善を尽くした。それでもこんな風に汚辱にまみれているんだ。自分が全部悪いだって?」
 カズヤは、汗だくで「ああ」とか「うう」とか、言葉にならない声を発していた。
「よく考えてごらん。そう思い込まされてるんだよ。君は、社会に自分を責めるようにって、洗脳されているんだ。君はなにも悪くない」
 ヤハラはなおも説得を重ねた。
「いやあ、参ったな。正直に言ってもいいですか?」
「なんだい?」
「おれ今無職なんすよ」
「なんだ! 眼鏡屋云々はなんなんだい?」
「半年前までは眼鏡屋だったんですけどね」
 カズヤはぽりぽりと頬をかいた。
「じゃあ、可愛い子が多いという話は?」
「その当時勤めていた店は、確かに可愛い子が多かったです。話した話しに嘘はないです。でも、その店は潰れてしまって、今おれは無職なんすよ……」
「いきなり、無職だと見抜かれて見栄を張りたかったというわけかい。まったく。それがどうした!」
 ヤハラは吐き捨てた。
「僕だって無職だ!」
 カズヤはそっくり返って大笑いした。
「しかも生活保護中だぞ!」
 ヤハラも耐えきれずに笑い始めた。
 店内が爆笑の渦に包まれる中、『れいらちゃん』は二人を冷めた目で見てため息をついた。その時、からんからんと気持ちの良い音がして、二人組の客が店に入ってきた。若い男と女で、どう見てもカップルであった。『れいらちゃん』は二人のところへ水を運んだ。
「なにをためらうんだ? やるっきゃねえだろう?」
 ヤハラは急に真顔に戻って言った。
「言っておくけど、僕はここの勘定だって払う金ないんだからな!」
「やるったって、なにをするつもりなんすか」
 カズヤは呆れ果てて訊き返した。
「革命の狼煙を上げるんだよ。手始めにここを襲うんだよ」
 ヤハラが囁くような小声で言った。そして、懐に忍ばせた文化包丁を見せた。
「本気?」
 カズヤはぎょっとして尋ねた。
「言っとくけど、僕はやるよ。君が参加しないなら君も僕の攻撃対象だぞ!」
「落ち着いて落ち着いて。やらないとは言ってないでしょう?」
 カズヤは周囲を目線だけで見渡した。『れいらちゃん』と、今入って来た客、そして奥にいると思われる調理担当の人間(マスター?)……。
「どんな作戦?」
「簡単だよお。『パルプフィクション』見なかったの? いきなり叫ぶんだよ。『てめえら! 動いたらぶっ殺すぞ! 床に伏せやがれ! 順番にこのバッグの中に財布を入れるんだ!』」
「バッグっておれの? おれは『ハニーバニー』じゃねえよ?」
 カズヤは驚いて尋ねた。
「僕がバッグをどこに持っているというんだ? カンガルーみたく腹の中に隠してるとでも?」
「客って二人だけじゃん!」
「あの糸目女もいるだろが!」
「いや、財布は持ってないでしょ?」
「レジの金があるだろ? 他に客が来たらどうする? 今すぐやるんだよ! よし、じゃあ何にする?」
 ヤハラが嬉しそうに瞳を輝かせて訊いた。
「何って何が?」
「かけ声だよ。『神は偉大なり!』がポピュラーだけど、僕らはイスラム教徒じゃないしなあ。君ひょっとしてムスリムだったりしないよねえ?」
「ち、違うよ」
 カズヤは大慌てで否定した。
「『国際共産主義万歳』は古すぎるしな……。ここはちょっと曖昧に『自由万歳』とかにしようか!」
 ヤハラは活き活きとした目で、今にも包丁を振りかざして叫びだしそうな勢いだった。このままでは完全に共犯者である。カズヤは自分がどうするべきか考えた。とりあえず時間を稼ぐ方法はないのか?
 からんからん、再び音が鳴った。他にも客が入って来た。「いらっしゃいませえ」。『れいらちゃん』の無機質なかけ声が店内に響いた。からんからん、からんからん……どんどん客が入ってくる。時刻は六時を回っていた。ディナーを求める客が次々と店を訪れているのだった。
「ほら、君がもたもたしてるから!」
 ヤハラが悔しそうに包丁を懐に隠した。
「いや、もしやってたらやばかったでしょうが」
 カズヤはほっと胸をなでおろした。
「そ、そんなわけで、おれ帰ろうかな……」
「あ、裏切るつもりか? 君」
 ヤハラは鋭い目付きでカズヤを睨んだ。
「言っておくけど、君がもしここで席を立つなら、僕は君だけでも間違いなく殺すからな」
「ええ? なんで?」
 カズヤは思わず訊き返した。
「裏切り者は粛清だろうが! そんなの当たり前だ!」
 ヤハラの目は据わっている。
「おれ入党した覚えないんですけど……」
 カズヤがなにを言っても無駄だった。いまや、ヤハラの攻撃性のすべてはカズヤに向いていた。彼の手は懐の中の包丁の柄を握っているに違いない。カズヤがもし席を立てば、間違いなく彼は刺すだろう。
『こんなところで、同じ無職に殺されるなんて、そんなの嫌だ……』
 カズヤはヤハラに睨まれたまま身動き取れずに長い時間を過ごした。

 店内に満ちた客は、徐々に引いていった。時刻は九時になろうとしていた。気がつくと、店内には他の客は一人もおらず、再びカズヤとヤハラとれいらちゃんの三人になっていた。
「さあ、どうするんだ?」
 ヤハラはなおもカズヤを問い詰める。
『このおっさん、結局一人でやる勇気がないだけじゃねえか……』
 カズヤは呆れていた。そして口をあんぐりと開けてヤハラを見た。ヤハラは汗だくで、ふうふうと息は荒く、懐の文化包丁を必死の形相で握りしめている。
 なんで革命が強盗の真似ごとなんだ、いや、強盗が革命の真似ごとなのか? カズヤは考えれば考えるほど頭が混乱するのを感じた。三時からこの店にいるのだ。疲労は限界だった。どうすればいいのだ。
「わかったよ、おっさ……」
「お腹空かないんですか?」
 カズヤが諦めてヤハラの狂気を受け入れようとしていたまさにその瞬間、『れいらちゃん』がいつの間に傍に来ていて、小さな顔に不釣り合いなほど大きなマスクをかけ、漢字の『一』のような糸目で二人を見つめ、そう訊くのだった。

「ナポリタン二つ!」
 これ幸いといきなり絶叫するカズヤを見て、れいらちゃんは文字通り眉ひとつ動かすことなく「はい」と言って伝票に新しい注文を書き加えた。
 心臓が驚きと不安で早鐘を打つように鳴っている。カズヤの呼吸は荒かった。
「『ナポリタン二つ』じゃねえよ。どういうつもりだ? 僕はコーヒー代払う金もないって言ったろう?」
 ヤハラはあからさまに不快そうな顔をして言った。
「いや、腹ごなしは必要かな、と思ってるんですけど」
 カズヤはどうにかそれだけ言うと、気持ちを落ち着けようと再びタバコを吸った。そして、れいらちゃんが与えてくれたわずかな時間を利用して、どうにかこの場を切り抜ける方策を考えようとした。ヤハラは据わった目で懐の包丁を握ったままカズヤを睨み続けている。
「ま、まず革命の狼煙を上げるのはわかりました。でも革命がなんでこの茶店を襲撃することになるんですか? あのウェイトレスは我々と同類の貧困層ですよ。こんなところでバイトしてるんだもの。それを殺すなんて、あんまりじゃないですか? そんなんじゃ理想も信念も誰にも理解されないでしょう!」
「君はわかってない! 革命というのは単なる純然とした『破壊そのもの』なんだよ。我々が慣れ親しんだ旧秩序、友人、家族、恋人、会社、公共のあらゆるもの、それを破壊することが革命なんだ。逆に理想や信念に囚われてはいざという時に判断が鈍ってしまうし、躊躇ってしまう。そんなことでは無慈悲な破壊を遂行できない。だからこそテロリズムは、相手が誰であろうと何であろうと容赦なく殺し、破壊し、叩き潰すのだ。殺戮の後に残るのは、人間性が純化されるという希望だけだ! 破壊し尽くされたあとにどんな新秩序が築かれようと、我々はそれを傍観せねばならない。破壊の後にまで口を出す必要はないのだ。だからこそ無慈悲にこの場にいるものをすべて殺し、店を焼き払うことができる! 金は奪って次の作戦の軍資金とする。どうだい、納得できたかい?」
 ヤハラは異常な早口でだいたい以上のようなことをまくしたてた。
「あなた、さっきは暴力は反対だって……」
「革命家は目標のためならば嘘だってなんでもつくんだよ! よしさっきのかけ声の話だけど、ここはシンプルに『革命万歳』にしようじゃないか」
 めちゃくちゃだ。しかし、カズヤの言葉が喉から絞り出されることはなかった。れいらちゃんがナポリタンを二つ持ってこちらに近づいてくるのが見えたからだ。説得はやはり不可能だ。ならばいったいどうすれば……。カズヤはナポリタンと共に運ばれてきたフォークを握りしめた。
『説得が不可能なら、実力行使か……?』
 しかし、カズヤはこのフォークでヤハラの目ん玉を貫いたあとの状況を頭の中で入念にシュミレートした。ヤハラは血を流して店内で悲鳴をあげるだろう。れいらちゃんは一通り悲鳴をあげたら警察を呼ぶだろうな。そのあとは警察官が来て、おれは尋問される。なんでこんなことをしたんだ? いやいや、こいつは危険人物でして。どう危険なんだ? いやいや、包丁を持っていまして。
 警察はカズヤの言うことを信じるだろうか? 警察は人が死ぬまで動かない、いや、時には死んだって動かない。コジマくんの話が脳裏をよぎった。神奈◯県警をそんなに信じていいものだろうか? 逆に傷害罪でヤハラがカズヤを訴えるかもしれない。カズヤは逮捕されるかもしれない。少なくとも勾留はされるだろう。もしも、ヤハラが目の負傷の治療費を求めて裁判を起こしたら、いったいいくら払う羽目に? 目が治らず後遺症として残ったら、いったいいくら払えばいいというのか!
 カズヤは考えた挙句、握りしめたフォークでナポリタンをかきこんだ。なんてしょっぱいナポリタンだ! なんてしょっぱい人生なんだ!
 見ると、ヤハラも同じようにナポリタンを鬼気迫る表情で食べている。皿からピーマンがこぼれようが、口の周りが吸血鬼のように真っ赤になろうがお構いなしだ。カズヤはしばらく手と口を止めてヤハラの食いっぷりを見ていた。そして、ふとよぎった疑問をぶつけた。
「ひょっとして久しぶりの食事ですか……?」
「三日ぶりの食事だ」
「三日!」
 カズヤは思わず叫んだ。
「ウクライナの農民に比べれば……大したことはない」
 カズヤはそのままヤハラの食事風景を文字通り口を開けて見ていた。
「あんた、飯を食いたいのか、テロをしたいのか、いったいどっちなんだ? というか、腹が減ってただけ? ひょっとして」
「馬鹿にすんな!」
 ヤハラは顔を上げて叫んだ。口から玉ねぎとピーマンと小麦を固めた赤い塊が盛大に吹き出し、カズヤの顔にべっとりとはりついた。
 ヤハラはそのまま何も語らず再びナポリタンを食べ始めた。そしてじきに皿の上はきれいになった。そして、紙ティッシュで口の周りを吹き、コーヒーを飲み、タバコを吸った。
「はあ、生き返った……」
「あんた、腹減ってただけなんだろ……?」
「馬鹿にするなと言ったはずだよ? 僕はタマなし扱いは好かん」
 ヤハラの瞳に先刻までの冷酷さが戻った。カズヤはごくりと唾液を飲み込んだ。
「共産党はね。テロに飢餓を利用したんだ。常に人民を飢えさせ、思考力を奪い、反抗するための気力を削いだのだ。そして支配をやりやすくした。残忍な政権だよ」
 すました顔で眼鏡まで拭き始めたヤハラを見て、カズヤは心の奥底から呆れた。
「あんた、さっきまで共産党のやり方を大絶賛してたじゃねえの……」
「そういう支配のやり方もあるということだよ! 事実、彼らのそのテロルによる統治は見事なものだった。七十年以上、反体制派をテロルによって抑えつけながら、スプートニクまで飛ばしたんだぞ!」
 もはや何を言っても無駄であった。『でも結局滅びてるじゃないのよ』。カズヤは心の中でそう反論したが、あえて口には出さなかった。
 ヤハラは顔を赤くして少し気まずそうにしていた。そしておもむろに席を立ち、「じゃあ、僕はもう行くから。閉店も近いし」
 カズヤは口をぼんやりと開けたまま彼の顔を見た。
「ナ、ナポリタンを注文したのは君のはずだ! だから勘定を払うのも君だ! コーヒー代は、その……ついでに払っておいてくれたまえ」
 ヤハラはそれだけ言うと踵を返し、そそくさと店を出て行った。カズヤと『れいらちゃん』はそれを呆然と見送った。あの男がなんだったのか、答えられる者はいなかった。

「六千九百十二円でぇす」
 れいらちゃんの機械的な声が店内に響いた。
 六千九百十二円……。消費税の八パーセントがまた懐に痛い。
 無職なのに七〇〇〇円近くも他人に奢ってしまった。カズヤは自己嫌悪と喪失感で押しつぶされそうだった。
「あの人、いつもああやってたかってますよ」
 れいらちゃんがレジから釣銭を出しながら言った。
「八八円のお返しでぇす」
 カズヤは半ば魂が抜けたような心持ちで釣銭を受け取った。
「ありがとうございましたぁ」
 カズヤはいったんは店を出ようとしたが、振り向いてれいらちゃんのところに駆け寄った。
「なんで早く教えてくれなかったの?」
 半泣きで尋ねるカズヤに対し、れいらちゃんは困ったような顔で笑った。正確にいえばマスクをかけているので表情の動きはよくわからなかったが、その糸のような細い目の端っこにある目じりがかすかに垂れ下がったように思えたのである。
「でも、あの人おもしろいんですよ。物知りで。けっこう、優しいし」
 カズヤはしばし固まったあと無表情で「あ、そうなの」と言った。
「前にロシア革命のことを、すごく丁寧に教えてくれたんです。全然知らないことばっかりだったけど、教え方が上手というか、すごくわかりやすかった」
 彼女は女性としては低い声で、蠅が止まるかというようにゆっくりと説明した。
「そ、そんなものに興味あるんだ……」
「興味はなかったんですけど、そういうことを面白おかしく語ってくれたんで。でも、その後もよく来るけど、話したのはその時一回きりなんですけど」
「ひょっとして、あいつのことがちょっと気になるの……?」
 れいらちゃんの目尻がさらに下がった。それは蕾が柔らかく花ひらいたかのような、素敵な優しい笑顔であった。カズヤはため息をつきながら首を振った。
「あいつ生活保護なんだよ?」
「そうなんですか? 心配です。それでいつもお腹空かせてるんだあ」

「ありがとうございましたぁ」
 カズヤは店を出た後、放心状態で家路を歩き、川のそばの土手のふちをふらふら彷徨っていた。川の横には大きな公団があって、一つ一つの部屋に穏やかな灯りがともっている。日は暮れても夏の夜は蒸し暑く、不快な汗が背中を伝った。カズヤは今日という一日にいったいどんな意味があったのだろう、と考えた。あまりの疲労に眩暈がして、泣きたい気持ちだったが涙は出なかった。カズヤは満天の星空の下で、明日の昼は大人しくカツ丼でも買って自分の部屋で食べよう、と心に決めていた。そうと決まったら、閉店間際の割引されたカツ丼を買っておくか。カズヤはいつも利用する業務用スーパーへ向けて走った。

 彼は走りながら、眼鏡店で勤めていた時に、一番仲良くなった娘を思い出していた。その娘は『まりか』という名前で、異常に大きな瞳と高い鼻を持ち、ぷっくりした唇で誰がどう見ても文句なしの美人だった。カズヤよりも五つ歳下で、眼鏡の扱い方が下手で、仕事では何の役にも立たなかった。『まりか』はいつも仕事中に絵を描いていた。絵が描くのが好きで、絵本作家になるとカズヤに話した。カズヤは『まりか』があまりに歳の割に幼く、仕事ができないものだからあまり好きではなかった。しかし、『まりか』はカズヤに興味を持っていたのか、様々なことを(それこそ本当にありとあらゆることを何百も!)質問した。カズヤは仕事をこなしながら『まりか』の質問に答えることが日課になっていた。『まりか』はユニークで温かみのある絵を描いた。いかにも子供が喜びそうな可愛らしい絵で、それでいてどこかの高架下に落書きされているような、ストリートグラフィティのような現代っぽさもあった。しょっちゅう『まりか』はカズヤのデフォルメされた似顔絵を描いてカズヤに見せ、そのたびに感想を訊いた。カズヤの目にはどうしても上手な絵だとは思えなかった。カズヤはもっと、写実的で現実的に描かれた、写真のような絵を上手いと思っていたからだ。そこで、彼はろくに絵を描いたこともないのに『まりか』の似顔絵を描いて彼女に渡した。『まりか』はカズヤが似顔絵を描いている間、緊張したような顔であまり動かないようにしていた。そして自分もカズヤの絵をまた描いていた。カズヤの描いた似顔絵は大してうまい絵ではなかったはずだった。右目と左目の大きさが違っていたし、線も雑だった。同僚の他の娘はその絵を『気持ち悪い』と笑った。しかし『まりか』はそれを実に長い時間、仕事中としては考えられないほど長い時間、じっくり隅々まで見て「嬉しい。宝物にする」と言った。そして店のチラシの裏に描いたその安っぽい似顔絵を、大事にポケットにしまって持って帰ったのだった。カズヤは『まりか』の描いた自分の似顔絵の所在を、一枚として思い出せないというのに。
 一度だけ、『まりか』と夕食を食べて映画を観に行ったことがあった。そして、映画を観た後は二人で一緒にイルミネーションを見た。しかし、カズヤが思い出せるのは、そのデートがうんざりするほど退屈で、何一つ胸躍るようなことはなかったということだ。無理やりキスするぐらいのことできたかもしれないが、そんなことする気はまったく起きなかった。ただ、その日は退屈だったとしかいえない。店の他の同僚たちは、カズヤと『まりか』がいよいよ付き合うんじゃないかと噂していたらしかった。しかし、そうはならなかった。店の売り上げは慢性的に低く、じきに潰れて店員はすべて解雇された。そして、『まりか』と会うことも二度となかった。
 しかし、一度だけ『まりか』が夢の中に現れたことがあった。彼女は屈託なく笑っているが、決してカズヤに気付くことはない。相変わらず楽しそうに絵を描いているが、それはカズヤの似顔絵ではなかった。カズヤは呼びかける勇気がなくて、彼女が自分に気付かないかとわざとらしく目の前を通ったり足音をたててみたりもしたが、彼女は決してカズヤに気付かない。そんな夢だ。
 絵本作家になれたのかな。
 カズヤはそんなことを考えながら走っていたが、息があがったのでまた歩いた。さっきまで一面の星で覆われていた空には、いつの間にか大量の黒雲が忍び寄り文字通り天を覆いつくしていた。雨が降るのか。蒸し暑い。汗がとめどなく額やこめかみを伝った。もしもう一度、夢の中で『まりか』が現れたら話したいことがあるような気もするのだが、どんなに心待ちにしても、彼女はもう訪れない。

                                 (了)

革命バンザイ!

色々詰め込みすぎていて微妙な内容。小説を書き始めた時期に習作として2週間ぐらいで書きました。

革命バンザイ!

ぼっちの男がぼっちの男と出会い、煙草とコーヒーをやりながらヨタ話を延々とする話。

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-08-18

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