アモルとアマレ
旅立ち -1-
日々のお祈りは欠かさない。私たちが産まれるすぐ後に死んだ、私の弟になるはずだった一人の兄弟がいる。
お墓は、屋敷のすぐ近くにある。お母さまとお義父さまの計らいで、決して豪華ではないにせよ立派なお墓を作られた。
弟の顔は知らない。私が物心をついたときには、お墓が一つだけ作り上げられていた。
お母さまは、私たちがまだまだ子どもだった時に死んでしまった。私たちを産んだときから病弱だったと、お義父さまに聞かされた。
そのお墓は、弟のすぐ横に作られた。同じようなお墓で、桃の花を供えるのが通例になっている。
「ねぇ」
すぐ横で膝を折り、両手を絡めて、祈っていた長女のアマレが声をかけてきた。
とても生意気で、私よりもずっと頭が良くて。その癖に弱虫で、弱虫の癖に喧嘩っ早い私の妹。憎らしいけれど、憎めない。
「お誕生日、おめでとう? これで、ようやく館の外に出ることができますわね」
アマレが妖しく、楽しそうに笑う。常日頃から館の外に出たいと言っていたのだから、この喜びようは私にも理解できる。
私だって、実際に自由に外に出ることが許されたのはホントに嬉しい。どこに行こうか、あの町に行ってみようか。ずっと、考えていた。
アマレともずっと話した。どこに行こうか? あの町に行ってみようか。どんな顔をするだろう? あの悪魔は居るだろうか。
けれども、アマレは楽しそうに言った。それよりも、アイツを探したい。アイツが誰かはわからないけれど、探さないとダメなヤツがいる。
名前も知らないし、顔も知らない。もしかするとこの世界にいないかも知れないけれど、探さないとダメな気がする。
冬の過ぎ去った天気の良い昼下がりの墓地は、暖かさの増しはじめた頃。
二人で手を繋ぎ、一緒に立ち上がる。顔は似通ってもいないし、髪色も違うけれど。お互いの仲は、とても良い。
------
そりゃあ、ママが死んだときにはすごく泣いた。長男のアモルは涙をその時は見せなかったけれど、後日に部屋の隅で泣いているのを見た。
「あんなに強がっていたのに、やっぱり泣いているのね?」なんてバカにしようとしたってのに、結局は一緒に泣いてしまったのは苦い思い出。
少し悔しかったからママの衣装を着せて、アモルをバカにしたのは良い思い出。とても似合っていて、ビックリしたのはヘンな思い出。
「明後日、だね……」
いつかの夜、いつものようにアモルのお部屋に遊びに行ったら、アモルは扉を開けた私を見るや否やそんなことを言った。
その時の明後日と言えば、あたし達の誕生日の日。義理のパパから外に出ることを許される日で、一緒にどこかに行こうと約束している日。
あたしは、あの町に行きたいと言った。アモルも、同じことを考えていた。だから、どこに行くかだなんて最初から決まっている。
そうして向かえた、一六才の誕生日。義理のパパから、顔も知らぬ弟とママのお墓の前で安全を願ってからあの町に行くようにと言われた。
どこか適当な義理のパパ。だけれども厳格で、あたしの理想の男には十分なぐらいの大好きなあたしのパパ。
少し甘えるだけですぐに甘くなってしまう、あたしが好きなパパ。大丈夫、アモルはあたしが守ってやるのだから。
「…………町まで、歩く?」
アモルの、気の弱そうな声が聞こえた。旅立つ日だってのに、アモルはやっぱり女装をしている。
いつかのお遊びでママの服を着せただけだってのに、すっかりはまっちゃって。今やすっかり女装癖。似合ってるから、何も言えないけれど。
「そうね」
弱々しいアモルの手を引っ張る。せっかくの、二人だけの旅路なのだもの。
「大丈夫ですわ、あたしがついていますもの!」
向かう先は、あの町。色んな人にあって、色んなことを見てやる。そしてできれば、あいつにも会えたら良いな、って。
幼少期 -1-
お母さまの部屋は、いつも良い匂いがしていた。香を焚いているわけでもないし、活けているわけでもないのに、花のような匂いがした。
その匂いが好きで、暇があればお母さまの部屋にお邪魔していた。
病弱なお母さまはいつも桃色のシーツで彩られたベッドに座っていたけれど、私を見ると花が開くかのような笑顔を浮かべてくれた。
その日も、いつものようにお母さまの部屋の前で立ち止まる。十にも満たない子どもの背では大きな木製の扉で、身体全体を使ってようやく押し開けることができた。
扉が開くと流れ出す、かすかな花のような匂い。お母さまの香り。お母さまは、その日もベットに腰を掛けて、窓の外を見ていた。
「お母さま……お邪魔します」
流れるような金色の髪。もうほとんどこの部屋から出ることはないから伸び放題で、けれどもきちんと整えられた髪は日の光に当てられて、艶やかに輝く。
お母さまはその時も笑って、私に視線を移した。そう言えばお母さまが泣いている姿とか、怒っている姿とか、見たことがない。
私やアマレが粗相をしてしまったときには、いつもお父さまかメイドさんに怒られていたのだから。お母さまはいつも優しく、私たちを見ていた。
「アモル、どうぞ?」
優しげな声、優しげな表情。左側に少し多く分けられた前髪から覗くお母さまの赤い目が、私を優しく捉える。
歌えばきっと誰もが聞き惚れるお母さまの声が、ふわりと私を包み込む。
後ろの手で扉を閉める。これで誰の目にもはばかられず、お母さまに甘えることができる。この柔らかな香りを、独り占めすることができる。
お母さまとのお話は楽しいものだった。
口数は少なく、あまり話したがらないお母さまではあるのだけれど、夢中になって話す私を見るお母さまは、それだけで楽しそうに見えた。
-----
いつも散らかっているパパの部屋。
床には足の置き場がないほど何かしらが書かれた紙が散らばり、本が平積みにされて積み重なり、いくつかの山は崩れてしまっている。
パパはこの部屋を掃除されることを嫌い、メイドたちもそのことがわかっているのかこの部屋に手を出すことはしない。
もちろんそんな部屋に良い匂いがするわけはなく、かび臭さが充満していた。
「パパ、いらっしゃいますの?」
扉は小さく、軽い。疲れているときも簡単に開けることができるように、特別に軽く作っているのだという。だから小さなあたしでも、簡単に開けることができる。
もうこの臭いには慣れた。本の臭いは嫌いじゃないし、インクの匂いはむしろ好みでさえもある。ママの部屋の花の香りは、もちろん嫌いじゃないけれど。
「……ん……」
パパはその部屋の中央にある机の上に突っ伏し、眠っていたようだった。声を掛けるとその山がゆっくりと動き出す。起こしてしまったか、でも気にしない。
「……アマレか」
無精髭と机に突っ伏した際についたのだろう、インクの染みで汚れた顔。これが貴族であることを、誰がわかるだろうか。
どこかの売れない小説家だと言われた方がまだ納得できる。
「パパ……寝るときはちゃんとベットで横にならなければ、疲れは取れませんわ?」
きっと山積みの仕事の途中で眠ってしまったのだろう。もちろん助手はいる。少年のエルフで、仕事ができる優秀な人。
けれどもここ数日は姿を見せない。理由は知らない。
唯一の助手が姿を見せないから、お仕事は溜まる一方だという。けれども私が手伝おうとしたら、まだ早いと言って拒絶される。猫の手も借りたいはずなのに。
「ああ……ありがとう」
そのありがとうは、はたしてどちらの意味なのだろうか。助言したから? それとも、起こしたから?
なんにせよ、今日はパパとお喋りをすることはできなさそうだった。
一つ目の街 -1-
アモルと名乗った少女は髪は金色で瞳は紅玉のように輝き、どこか儚ささえもを纏う風貌をしていた。
肩まで伸ばした金の髪はどこか人工物のようにさえ見えて、いつも物憂げな表情は可憐さをより引き立たせる。しかしその赤い瞳には確かな力強さを秘めており、普通ではないことを示している。
背は、少し高い方だろうか。少なくともいつも一緒にいるアマレという少女よりかは一回りほど高く、しかし不自然ではない絶妙な背丈をしていた。
そしてその声は、不思議な響きを含んでいた。声変わりのしていない少年の声そのもの、と言えばもっともその声色を表現する上で正しいだろうか。
女性とすれば低く、しかし男性とすれば高い声。ちょうど良く混ざり合い、聞いていて不快感はない。むしろその声色で歌えばさぞかし聞き惚れてしまうだろう、少なくとも私はそう感じた。
「……何の用ですか?」
街を歩いていた二人を呼び止める。二人同時に足を止めて、二人一緒に私を見て、最初に口を開けたのは金の髪の少女の方だった。
理由は、聖職者の身からすれば当然だろう。上手いこと人間に化けているつもりだろうが、悪魔の気配を隠し切れていない。恐らくは悪魔として未熟なのだろう。
しかしまだ私も正体を暴きはしない。それほど悪魔を相手にすることは危険なのだ、確実に勝てる見込みがあるまで、こちらから行動はしない。
「ああ」
何か察したように少女はわずかにだけ上下に頭を振った。
「教会の者、ですか」
まさかこんなにも早くばれてしまうとは思いもしなかった。例えば十字架のアクセサリを出しているとか、紺のローブを羽織っているとか、そんなマヌケはしていない。
いたって普通の待ち人の服装であり、そして呼び止めたのも道を聞こうとする名目だった。しかしこの悪魔はその目論見をあざ笑うかのように、私の正体を見破った。
「……なぜ悪魔がここに?」
普通ならば悪魔がこんな町中にいることはない。それこそ何かしら目的があるはずなのだ、しかしそれを聞き出せるとは思っていない。
質問をした理由も、探りを入れるのが目的だった。何をしでかそうとしているのか、直接的に知ろうとしたわけではない。
「ちょうど良かった、探していたのです」
しかしその返事は思った以上に柔らかで、そして含みを見せない口調だった。もしかすると私を騙そうとしているのかも知れない、そう思うことさえもできないほど素直な口ぶりだった。
-----
アマレと名乗った少女は髪は黒色で瞳は黒曜石のように深く沈み、しかし怪しさを隠しきれぬ風貌をしていた。
短く空気を含んだ黒髪は少女の幼げな顔をより丸く、より可愛らしく引き立たせる。けれども妖しさをも感じるその微笑みは、警戒すべきものに違いなかった。
背は、普通か少し低いぐらいだろうか。横にいるアモルという名の少女が少し高いことも相まって、より子どもらしいと感じられる。
その声もやはり、可愛らしい女児のそれだった。ハキハキと繰り出される言葉には表情に張り付く妖しさの欠片はなく、澄んだ鈴のような色を持っていた。
しかし全身に纏わせているこの気味の悪さはなんなのだろうか。本人は自覚していないかのように幼さを残したかのような立ち振る舞いだが、釣り合いは取れていない。
「ええ、悪魔ですわ? お察しの通り」
道上で話すことではないと、二人に連れられて宿屋へとやってきた。アモルは席を外している。なんでももこの街で会いたい人がおり、その人に会っているのだという。
宿屋はこの町で滞在する拠点だとアマレは言った。二人で過ごすにしては少し狭く、窓は一つで薄暗く、座ることのできるのは二つ並んだ寝台ぐらい。
私は窓を背にして、アマレは私を正面に見て、それぞれ寝台に座って話を続ける。シーツは白いが、はたしてこの安宿のものは清潔なのかどうか、疑問が残る。
「人捜しですか」
二人は人を、というよりは悪魔を探しているのだという。その悪魔は二人と一緒の母体から産まれ、しかし産まれてすぐにどこかへと立ち去っていった、危険な者。
死んだ母からその子を探すように言われ、まずはこの街に到着したのだという。ここには頼ることのできる人がいる、とのことだった。
「そう、人捜しですわ」
なんて言うアマレの表情がさらに固くなる。さっきから固いのは見知らぬ人に、それも聖職者である私と対面しているから緊張しているのだと思っていたが、それは私の勘違いだった。
「……邪魔なさいますの?」
笑ってはいるが、敵意を隠し切れていない表情を浮かべる。相手は悪魔で、私はその敵である聖職者なのだ。今ここで命の取り合いになってもおかしくはない。
しかし私は、なるべく敵意を見せないように表情を柔らかくする。少しでも敵意を見せないように、少しでも緊張をほぐしてくれるように。
「しませんよ、貴女がこの町で何かしでかさない限りは」
アモルは大丈夫だろう。しかしこの子は、アマレは危険な匂いがする。単なる私の勘だった。
幼少期 -2-
アモルが眠っている。普通、悪魔は人間と違って眠ることをしない。
眠る必要がないし、こんなにも不用心な姿を誰かにさらすだなんて、馬鹿げていると思う。
でもアモルはこうしてまるで人間のように、寝台で横になって目を閉じ、寝息を立てている。
とても悪魔らしくないと思う。
-----
「なぜ眠るかって?」
まだ幼かったある日、寝起きで金の髪がボサボサのアモルに尋ねたことがある。
寝ぼけ眼をこすり、暑さを予感させる初秋の日差しを全身で受けたアモルが、首を捻り考え込んだ。
どうして眠るんですの? 悪魔は眠る必要がないのに。眠気はないはずでしょう? と。
「そ……だね、眠らなくて良いはずなんだけれど」
言葉を淀ませる。なぜ眠るのか自分でもわかっていないのだろうか。
「眠気なんかも感じ得ないはずですわ?」
人間は脳と身体を休ませるために眠気を感じ、眠るのだという。
でも悪魔は休む必要がない。貧弱な人間と違って強靱にできてるし、むしろ夜の方が調子が良くもある。
眠るふりをしたこともある。眠り草を貰って飲んだこともある。それでも眠ることはできなかった。
「そもそも眠るだなんて、悪魔らしくありませんわ? 夜はもっと語り合いましょう、その方が楽しいですわ?」
アモルが眠っている間は本を読んだり空を眺めたり、静かに過ごす以外にすることがなくなってしまう。
アモルが起きていたらこの夜もどんなに楽しい時間になるのだろうと思いながら、叩き起こそうとしたこともある。
でもさすがにそれは悪いから、でもずっとずっと暇なのはイヤだから、こうしてアモルに詰め寄ってみた。
アモルは困ったように、眉をひそめた。そのままなにも言わず、数十秒。
遂に言葉を待ちきれずあたしから提案しようとしたら、後ろで扉が開く音が聞こえた。
地面に届きそうなぐらい長い金の髪と、紅玉の瞳。お化粧をする必要もないぐらい完成した顔立ち。
表情は優しく、儚げで、しかし二児の母とは思えぬ幼さを持っている。
そんなママが、そこに立っていた。両手に持っているお盆の上に、三人分のカップが見える。
「あまり、アモルを困らせてはダメですよ? アマレ」
桃色のワンピースの室内着。動きやすいように薄く、裾も膝頭より上にあるからか幼さがより際立っている。
しかしこれでも、あたしたちの母であることに変わりはない。
「困らせていませんわ」
近づいて来るママに顔を向け、はにかむ。
「尋ねていただけですの」
ママは寝台の横に備えられたエンドテーブルにお盆を置いた。
いつもこうして、アモルが起きたらこうして三人でゆったりと紅茶をたしなむ。日課となっていた。
「アモルは私の血をそのまま受け継いでいるみたいですから、ね」
ママがまだ毛布から抜け出していないアモルの隣に座る。アモルはなにも言わず、ママに身体を預けた。
その仕草に嫉妬してしまって、あたしもママに思いっきり抱きついてしまう。桃の花の、良い匂いがした。
右手でまだ眠そうなアモルの肩を抱き、左手は優しい手つきであたしの頭を撫でてくれた。
「元人間の血、ですの?」
ママは元々は人間だった。でも悪魔に見初められ、そしてママも悪魔を求め、その身を堕としたと聞いた。
だからママも夜は眠る。眠る必要はないはずだけれど、人間の頃の習慣が残っているらしい。
でもたまにはママは眠らず、あたしの話をずっと聞いていてくれる。もしくはあたしに昔話をしてくれる。
あたしが生まれた経緯も、包み隠さず話してくれる。
「アモルは悪魔ですが、人間に近いのでしょう。アマレは元々が悪魔ですから、ね」
その話を聞きながらカップに手を伸ばす。もういちど目をこすっていたアモルが、大きなあくびをした。
一つ目の街 -2-
探し人はすぐに見つかった。と言うか、相手の方から私たちを見つけてくれた。カロという名の、出来損ないの悪魔。
何でもお母さまの実の妹で、そしてお母さまの手によって悪魔に作り替えられた人らしい。でもお母さまは悪魔として日が浅いから……失敗、したらしい。
その悪魔が私の名を呼び止めた。振り返ると、微かに青みがかる長い白髪を風に揺らしたお母さまと同じ顔の女性が手を振り、歩み寄ってきた。
「アモルくん、だね? お久しぶり」
カロさんと会うのは初めてではないが、久し振りではある。相変わらず女性的な服装で、なんというかとても可愛らしい。
レースをふんだんに使った桃色で薄手のコートは動く度に良く弾み、膝下まである深い藍色のスカートは少し透けており、その中にまた白色の薄手のスカートを重ねている。
丸い襟で真っ白のブラウスには桃色のリボンが飾られており、青白く真っ直ぐな髪を留めているのは桃の花をイメージした髪留め。
黒いブーツにはモコモコが二つ付いていて、紐の先に結ばれている。
「お久し振りですカロさん……あの、これ……」
何気もない会話。話すことはたくさんあるし、頼りたいこともたくさんある。でもそれよりも先に、頼まれたことがあった。
カロさんは、私たちの育ての親であるお父さまの義理の息子であるブロンディさまの、恋人でもある。ブロンディさんは騎士だから、表だって会うことはできない。
だからたまに、手紙か何かで連絡し合ってたまにこっそりと出会っているらしい。その手紙を渡す役目を、今回は私が役目を引き受けた。
渡されたのは一通の手紙で、宛先も書かれておらずろくに装飾もされていない。それでも手渡すと、カロさんはとても嬉しそうな表情を浮かべた。
「ブロンくんのだね、ありがとう」
ブロンディさまは体格も顔つきも完全に大人のそれであり、まだ少女らしい面影を残すカロさんがくん付けをするのは少し違和感がある。
でも実際はカロさんの方が年上らしい。そうは見えないけれど、悪魔にとって年齢だなんてあまり関係がない話なのかも知れない。
「……僕の家に来なよ、色々と話すことがあるんでしょ?」
はたしてカロさんはどこまで知っているのだろう。その口調はどこか寂しげで、なぜ私が会いに来たのかを察しているような感じでもあった。
カロさんの家はこの近くにある。悪魔であることを利用して、便利屋らしいものをしている。蛇の道は蛇ということ。悪魔払いは悪魔に任せると、都合が良い。
-----
カロさんの家は町外れにあり、防壁よりも外にあった。やはり悪魔である関係上、防壁の中で生活すると何かしらの問題があるらしい。
特に教会の者と諍いが絶えないのだという。悪魔を毛嫌いする教会側とすれば、いくら問題を起こさないとしても悪魔を認めるわけにはいかないのだろう。
折衷案として、こうして防壁の外に家を与えられて、そこで生活している。本人はあまり気にしていないらしい。獣や魔物などは、悪魔を襲わないのだから。
家の中もやはり女性らしい飾り付けで溢れている。人形を集めるのが趣味らしく、それもピエロや球体人形よりは動物をモチーフにしたものが好きらしい。
典型的な女性の部屋、と言うのだろうか。わざとらしいぐらい、もしくは脅迫的なぐらいの女性の部屋は、私は少し落ち着かない。
テーブルの織物も、また細やかなレースで装飾されたものだった。あまり大きくはなく、せいぜい二人が正面に向き合って座ればもう一杯になるぐらいのもの。
靴も脱いで、柔らかな桃色のクッションの上に腰を下ろす。秋風の揺らすカーテンに目を取られ、少し遅れてカロさんが二人分の飲物を持って現れた。
小さなガラスのコップに入れられているのは、白い半固体状のもの。ヨーグルトだろうか、桃の花弁が飾られて、微かに爽やかな匂いが鼻腔をくすぐる。
「……ゼリ姉さん、死んじゃったんだね」
私が何かを言う前に、カロさんが口を開けた。
「ええ」
どうぞ、と薦められてそのヨーグルトを口に運ぶ。控えめの甘さと、少しの酸っぱさ。冷たすぎず、しかし温くもなく、何もかもがちょうど良い。
カロさんは少し寂しそうな表情を浮かべ、ヨーグルトを飲む私を見ていた。その目線を気にしつつも、ヨーグルトを味わう。
「アモルくんを見てたらわかるよ」
机に両肘を付き、目を細める。
「良かった、姉さんは幸せだったんだね」
死んでしまったことに哀しむ様子はなく、むしろ私が健やかであることを喜ばしく思っているような、優しげな口調。
哀しくないのだろうか。尋ねても良いのだろうか。それとも、黙っているべきなのだろうか。あの言葉を伝えて良いのだろうか、そんなことばかりを考えている。
「……先に逝きます、と」
お母さまがカロさんに残した言葉は、その一言だけだった。死ぬ前に、カロさんともう一人の姉さまに伝えて欲しいと言われた、短い言葉。
カロさんはそれを聞いて、涙を流した……気がした。すぐに立ち上がり、奥の方へと行ってしまったから、よく見えなかった。
「あとでアマレちゃんにも会いに行くよ」
奥の部屋から声が聞こえる。
「町にいるのでしょう?」
アマレにはあの教会の者の相手をして貰っている。正確に言えば、アマレが教会の者と一緒にいることを提案した。
今頃は何をしているのだろう。まさか、喧嘩をしてはいないと思うけれど。
悪魔の子 -1-
例えば全員がハッピーエンドを迎えるとか、そうじゃなくても幸せのまま話が続くとか。
そんな都合の良いことばかりなわけがない。
私は死ななければならなかった。
悪魔となり、それも私自ら望んで墜ちて、そして力を振るって幾人も不幸に陥れた。
人も殺した。
町一つの人を、その半数を私の信奉者に変えて、その半数をその手で殺させたこともある。
私自らの手で行った殺人は、確かにない。
でも実際は私の手で行った殺人なのだ。その事実から逃げるつもりはない。
逃げるつもりはないからこそ、こうして苦しんでしまうのだろう。
私は英雄さまに、私の命を助けられた。
その英雄さまの命を狙ったにもかかわらず、その腹に永遠と残る傷と痛みを残したに関わらず、
英雄さまは私を救ってくれた。
きっとそれは「誰も殺さない」「誰も殺したくない」「誰も死なせたくない」。
そんな想いを、確かに実現したのだろう。それだけの力はあったし、だから私は救われたのだから。
でもはたして、その想いはその後の幸せを約束するものだろうか。
生き残った私は、まず自らの罪に押しつぶされそうになった。
死ねば良かった、何度もそう思った。死ねば楽になるのに。あの時にあの刃が私を貫けば、
こんな苦しい想いを持って生きることなんかなかったのに。
でも英雄さまを憎むことはできなかった。私は嫉妬の悪魔。だから、英雄さまに嫉妬した。
その力と想いに、強く嫉妬した。
英雄さまにかくまわれ、私は部屋の中に閉じこもるようになった。
ほとんど不自由のない、ただこの領地の外にだけ出ることは許されないだけの、自由の身。
最初は空虚なものだった。目を覚ませば妹が横にいて、私に何かを話しかけている。
英雄さまも私の部屋に足を運んで、いくつかの本を持ってきてくれる。
見習いの騎士くんも私の部屋にやってきて、話してくれる。
そのどれもこれもが、まるで夢の中の出来事のようで、目が覚めたら私は信奉者に囲まれていて、
少しでもあの悪魔に近づくために、私の手駒を増やすために町に入り込んで、信奉者を増やして。
……でもふと気がつくと、妹が横に座って、私の顔を見ていた。
「ゼリ、お姉ちゃん……? それとも、オーリスお姉ちゃん?」
私の名前はゼリ。オーリスは古い名前で、もうその名で呼ばれることは許されない。
オーリスはもっと綺麗な名前にしなければならない。唯一、人間の状態で残った姉さまのために。
「ゼリ」
短い言葉は、まだ夢うつつだったから。
「ゼリお姉ちゃんね」
カロの言葉。私に作られて、私から他の人を守るように言ったはずなのに、
やっぱり私では完全な悪魔は作れなくて、力を出し切れない出来損ないの悪魔。
私が不幸にした、私の妹。それでも妹は、こんなどうしようもない私を見て、微笑んでいた。
「まだ、食べる気にならない?」
用意されているのは、六つに切られた桃の実。さっきから嗅ぎ慣れた香りがしていると思えば、
英雄さまが贈ってくれたのだろう。
「……それは、食べたくない」
桃は私たち三姉妹にとって、特別な果実。
桃の花として産まれ、二人は果実を成し、残る花は一人だけ。私とカロは、もう枯れ堕ちた。
私は桃の実を食べてはいけない、そう感じた。私は生きていてはならないはずなのだから。
「食べないとダメだよ、ゼリお姉ちゃん」
妹が桃の実の一つを指でつまみ、私の口まで持ってくる。
「お姉ちゃんは許されないけれど……でも、英雄さまが生きていて良いって言ったんだから、ね」
その言葉の意味はわからなかった。けれども、不思議と口元に運ばれた桃の実の欠片は、
口の中に入れる気になることができた。
きっと、ほんの少しだけだけれど、生きようと思えたのだろう。
甘い桃の味が口の中と、優しい香りが鼻腔の中に広がって、きっと、一粒だけ涙を流した。
-----
「幸せになって欲しい」
英雄さまに、私にどうなって欲しいのか尋ねたことがある。なぜ私を助けたのか、聞いたことがある。
答えは単純で、一言か二言だけで済むような物だった。
「私は人を殺しましたよ?」
その頃になると、生きる決心がつき始めた頃だった。その決心を邪魔するかのように、
罪の意識が産まれはじめた。悪魔のころの罪と罰。許されるものではない。
「そうかもしれない」
英雄さまは、口数が少ないおじさんだった。決して冴えず、そこらの浮浪者のような風貌、
英雄と言うには頼りなく、力もない。それでも私にとって、この方が英雄さまであることに違いはない。
「ならば、なぜ!」
口調がどうしても強くなる。私は死ななければならなかった、そう言いかけるのを必死でガマンする。
英雄さまが生きろって言ったのだから、私はきっと生きなければならない。
でも、ならばこの罪の意識はどうすれば良いのだろう。許されるものではない、償えるものでもない。
「俺が、そう望んだから……かな」
自分のためだと、自分のわがままだと、英雄さまは言った。
「もう目の前で誰かに死なれるのは、イヤなんだ」
それが例え重罪人であっても、町を滅ぼした悪魔であっても、どうしようもないわがまま娘としても。
「だからキミは殺せないし、死なせない……」
罪に苦しむかも知れない。俺を憎むかも知れない。それでも構わないから。
「だからせめて、幸せになって欲しい」
英雄さまはそれだけ言って、口をつぐんだ。その時は納得できなかった。
納得できるはずがなかった。貴方のわがままのために、私は苦しまなければならないのか!
そう言いたくて、でも言えなくて……何を言ったのか、覚えていない。
ただ涙を流して、声にならない大声で、英雄さまの胸を必死で叩いて……それだけ、覚えている。
-----
「子どもを産みます」
罪を償うより幸せになる。きっとそれが、私を助けてくれた英雄さまへの恩返しなのだろう。
だから私は、私を悪魔にしたあの悪魔ともう一度であって、そしてとある契約を交わした。
私は人の身を持ち、悪魔の力を持つ希有な存在。
悪魔になりたがる人間は数多くいても、それは本心からではないから悪魔にとって喰われる。
けれども私は、この悪魔に本心から嫉妬し、だからこうして嫉妬を司る悪魔になった。
でも身体は人間だった。だから、悪魔であっても子どもを産むことができる。
「……それは、悪魔の子供かい?」
英雄さまの書斎。妹よりも姉さまよりも、まずは私の英雄さまに報告をした。
「はい」
何も隠さない。隠さないことが、英雄さまを安心させるだろうから。
けれどもさすがに、悪魔の子と聞いた英雄さまは迷ったかのように、頭を抱えた。
きっと、いくつか予想はしていたのだろう。そしてその内の、もっとも最悪の出来事なのだろう。
悪魔の子は、得てして不幸をまき散らす。それは本人の意思と無関係に、である。
そう予言されている。悪魔の子は、悪魔以上の災厄を招くと。
「……その決心は、折れないか」
強く、わずかな間も置かずに頷く。英雄さまは立ち上がり、私の方へと歩み寄ってきた。
背が高い。けれども最近は書斎に閉じこもっているから、肌は白いぐらい。
髪も伸び放題で、髭で顔は汚れている。
「わかった」
英雄さまが、いつかのように口をつぐむ。あの時の私はなにも言えなかったけれど、
今は答えを用意していた。
「予言の子は一人、そしてその予言を止める子が三人」
それならば、きっと私の三人の子は予言の子を止めてくれる。
一人より三人の方が有利である。そんな単純な話だった。一人が失敗しても、あと二人いる。
その内のどちらかが失敗しても、あと一人が成し遂げてくれる。なぜか、確信があった。
「……数の話、か」
英雄さまはどこか訝しげな表情を浮かべ、けれども微笑んだ。
「それがキミの幸せになるのなら……俺は、止めないよ」
その言葉が嬉しかった。てっきり、止められるかと思っていた。止められたら、諦めるつもりだった。
でも許可された。私は子どもを持つのが夢だったから、喜んだ。
これで、あの方との子どもを持つことができる。その子はきっと、予言の子を止めてくれる。
やはり確信があった。
-----
アモルとアマレが産まれ、一人は流れ、一人はどこかへと飛んで行ってしまった。
飛んでいったその一人が予言の子であるのは確かだった。
その子は流れた子の力を奪い取ったはずだった。でも、私には二人の子どもがいる。
この子たちは、やがて旅に出る。
予言の子を探す旅で、二人の妹を探す旅。
きっとそれは険しい道のりだろうけれど、二人ならば成し遂げてくれる。
安らかな二人の顔を眺めて、安心した。きっと私は、その時に初めて幸せになれたから。
悪魔の子 -2-
私の横で服を脱ぐアマレの黒髪が、少しだけ乱れていた。
その日は珍しく、お母さまから外に三人で散歩してみないかと誘われた。
もちろん、ふたりとも二つ返事で、すぐに準備に取り掛かる。
お母さまから何か行動を起こすのは、とかく珍しいことなのだから。
それも散歩、だという。こんなにも寒くなってしまって雪まで降っているのに、
どこに行こうというのだろうか。
「……お母さま、元気にはなりませんのね」
アマレの不安げな声。普段、特にメイドさんの前とかではいつも気丈で、
それこそ自分のほうが立場は上、より高貴な存在だと隠そうともしないような口調や態度
だけれど、私の前ではいつものように不安とか疑問とか、年相応な様子で話してくれる。
自分が高尚な悪魔の娘だということと、相応の力を持っていることを
意識しているのだろう。だから、いつも気を張っている。私から見て不安になるぐらい。
「そうだね」
今この場に、嘘の必要はなかった。慰める必要もないし、認めないなんてありえない。
お母さまは、もう死んでしまう。それは間違いがないことだった。
恐らくはお母さまも理解しているのだろう。
だからこそ、こうして私たちを連れ出そうとしているのだろう。
二人の様子を確認するために。二人であいつを追いかける準備ができているかどうか。
そしてそれは、母も諦めたという意味。
もう生きる気力もないのだろう。あの毒を盛られた料理を食し続けることも、
もう限界なのだろう。この屋敷の主の妻は、お母さまを恨んでいる。
だから食事には常に毒が盛られている。
それはお母さまと、私たち悪魔にはわかっていた。悪魔は、悪意には敏感なのだから。
「……殺せば、早いことですのに……」
でも、アマレも動かなかった。
「覚悟はしていたでしょ、アマレ」
私たちは、所詮は居候。そしてお母さまはあの方のことに感謝している。
たとえ食事に毒を盛られていようとも。残せば良いのに。主人に言えば良いのに。
いつも、綺麗にその食事を食べている。
悪魔だから身体は強靭なもので、ある程度の毒ならば耐えることができるし、
逆にその毒を身体の中に取り込み、栄養……のようなものにすることだってできてしまう。
でもそれはある程度ならば、のはなし。毎度毎晩の食事に毒を盛られていては、
さすがの悪魔といえども、ついに耐えきれなくなってしまう。
お母さまはその毒を食し続け、ついに私たちをこの年まで、外に出ることができるまで
育ててくれた。感謝しようにも、しきれない。
「……いつだと思いますの? アモル」
それはどういう……。尋ねようとアマレの顔を見て……、
ああ、と空気をほんの僅かに震わせた。いつまでもつか、と訪ねたいのか。
悪魔としての力はアマレのほうが勝っている。
だから、その者がどれぐらい生きることができるかなんかは、
アマレのほうがよく知っているはずだった。そのアマレが、私に尋ねている。
お母さまはいつ死んでしまうか、と。
「この冬は、もたないね」
自分でも、随分と冷たく言ったものだと思う。でも、なんとなくわかってしまうのだ。
もう立つことさえもほとんどしなくなった、けれどもいつも綺麗なお母さま。
きっとあの姿のまま、身体の中はボロボロなのに、その様子は決して表に出さないまま、
静かに死んでしまうのだろう。
覚悟している。アマレも、私も。
「冬はもちますわよ」
それは思った以上に強い口調で、でも泣きそうな表情を浮かべながら。
「冬は、もちますの……冬……は……」
何度もつぶやくように繰り返し、徐々に視線が下がっていく。
悪魔は泣かないらしい。少なくとも涙は決して見せないものだと、アマレは言っていた。
だったら、その瞳に貯まる雫は何なのだろうか。
「……そっか」
アマレがそういうのならば間違いなないだろう。冬はもつ。でもそれ以降は……。
左右に首を振り、気づけば止まっていた手を動かす。
早く準備をしなければ。お母さまが待っている。もう歩くことなんかできないはずの身体で。
会話も途切れ、急いで着替える。衣服は室内で着ているものから、外に出るときのものに。
特に今日は雪も降ったから寒くなる。
だからメイドさんたちは、より暖かな格好を用意してくれた。
二人でおそろいの、白を基調にした装飾の少ない服装がいくつも。厚着をしろ、とのこと。
二人で服を脱ぐ。その途中で、何気なくアマレの方へと目線を移す。
アマレはとても女らしく、綺麗に成長した。私にはないその膨らみを見て、思う。
私の成長はもう止まってしまった、とアマレとお母さまから聞かされた。
悪魔が成長するというのは、そういうものらしい。特に私は悪魔と人間のハーフだから、
成長も途中で止まり、そして寿命も身体の強さも、悪魔には遠く及ばない、と。
けれども二人から言われている。私のような、綺麗に混ざりあった存在は貴重だと。
「……綺麗になったよね、アマレは」
私よりもずっと綺麗になった、私の妹。
「アモルも、あたしに負けず劣らず綺麗ですわ」
そう言われて、決して悪い気はしない。けれども私は男性であり、
だからこそお父さまのような存在になりたかった。
それは叶わぬ望みだった。やはりお母さまは悪魔であるがゆえに、こんな風貌なのだろう。
お母さま似であることは嬉しく思う。アマレは、また別の悪魔の姿と似ているらしい。
「……早く準備しましょう? ママが待ってますわ」
アマレの一糸さえまとわぬ身体を見て、いつの間にか手が止まっていた。
アモルとアマレ