賢者の答え
佐藤先生の舌は奇麗。そう言われて、べーっと舌を垂らした屈辱。
佐藤先生のいうとおりにしてたら女の子に振られてしまいました。どうしたらいいですか?
それは、私の靴箱のロッカーにある朝そっと入れてあった。
四葉のクローバーのあしらわれたメモ帳。
私はぽりぽりと頭を搔き、それを鞄にしまった。
生徒たちの間で、噂になっているホームレスがいる。
彼は「賢者」と言われ、毎日本を読み、生徒達からいらなくなった文庫本などもらっては、試験の問題について教えてやる。
相当に頭がいいというので有名であった。ひとえに、三十代の見目の良い年頃だったからかもしれない。
彼は無精ひげを生やし、今日も木陰で男子生徒相手に何か答えていた。
キンコンカンコンとチャイムが鳴り、学校が終わった。
私はその日の飲み会で、食事中に「佐藤先生は美舌だ」と噂になったことを言われ、やんややんやと拍子を取られて舌を晒すはめになった。
べえっと私が舌を垂らすと、「佐藤先生、本当に綺麗な舌ですねー」と皆に褒められてるのか貶されてるのかわからない心境になり、複雑であった。
こんな芸当、欲しくはなかった。
ケーっと缶を蹴り、歩いていたら、公園の明かりの下で、賢者が本を読んでいた。
私はそろっと近づき、「賢者さん、賢者さん」と呼びかけた。
「うん?」と彼がフードを被った頭を上げ、私を見て、眉をひそめた。
「酔っ払いの相手はしないよ」
違います、ちょっと相談に乗ってほしくて、私はそう言い、朝見たメモを取り出し、彼に見せた。
彼は読んでから、「これは?」と聞いた。
「実はですね、私はここの高校の国語教師を務めているのですが、彼に前日ラブレターなるものの書き方を尋ねられ、それなりにあしらってやったつもりが、返答がこれで」
ふむ、と彼が手元を見る。
「私としては、それなりに真剣に生徒に毎日まじめに答えてやっていたつもりだったんです。仕事もまじめにこなしてた。だから皆私の人となりは知っているはずなのに、私は今日飲み会で舌を晒す羽目になって、なんだか自分が痴女にでもなった気持ちになって、嫌な気分でした。彼は…生徒はまじめだったのかふざけていたのか今はしれませんが、その書き方から見ると…ふざけていますよね」
ああそうだな、と彼は答えた。
「私は、まじめにしていたいんです。そんな、遊びの対象にされたくない。生徒と教師の火遊びを遊ぶような輩にまじめに返答してやっていたのかと思うと、私は自分が偉く阿呆になっていたような気がして、今日だって馬鹿にされたようにしか感じられなくて、…それがすごく、すごく嫌だったんです」
彼は話を聞いてから、「生徒なんてのは、盛りのついた猿みたいなもんだろ、今時分。まじめになる方が、馬鹿だ」と答えた。
「あんたは誰かに愚痴りたかったんだろう。たとえそれが俺でも、真面目に返答をくれる誰かを欲してたんだろう。あんたが今日味わった屈辱は、誰にも言わないでおいていてやる。だからあんたも、引っ掛けられたんだから、それなりに自信を持っていいと思うぞ」
そう言う彼に、私はもっとディープなことを聞いた。
「私は、新しい命を培うことに、反対です。今の人口だけでも爆発的なのに、これ以上無茶をやる連中が増えると思うと、やりきれない。恋愛とは罪悪だと、夏目漱石がこころで言っています。簡単に体を売ってしまえる現代人に、私はうまく、馴染めない。特にそれが、生徒になると、宇宙人を相手にしてるような気持になる。もちろんこんなこと、表立っては言いません。でも、そっちばかり達者な人間に、私は好感を持てない」
彼はメモをひらひらと指で弄びながら聞いていたが、やがてこう言った。
「あんたの人類補完計画には賛成だ。しかし、あんたがたいそうに考えてるだけで、事は簡単だぜ」
それからごにょごにょと、賢者は私に対策を教えてくれた。
次の日、「せんせー、手紙呼んでくれた?」と来た金髪の生徒に、私はすかさず、べーと舌を出した。
その美舌に相手が見惚れている最中に、私は「悪いけど、生徒の火遊びに興味はないの」と三下り半を突き付けて、呆然とする彼を後において職員室に入った。
「佐藤先生、これこれ、見てくださいよ」
女の子の事務員が差し出すスマホには、私の艶めかしい舌を晒した画像が写っていた。
「拡販していいですか」と言うので、「ダメー」と答えて、今日の授業のレジュメを取る。
窓からは相変わらず、賢者が本を読んでいるのが見える。
私は彼に出身大学を聴いて、大いに驚いた昨日のことを思い出し、あれぞ究極の形、とその世捨て人ぶりに感じ入る。
「老後になったら、居酒屋で飲みましょう」
そう約束を取り決めた、これは流れるか、流れないか。
彼にはこの世のすべてが可愛らしく、また煩わしい。
そこに私と言うたまに女の子らしく泣いてしまう不覚を取るものが表れて、彼はどんな思いだろうか。
さやさやと緑が揺れる中、彼の本のページがめくれる。
私は孔子をおさらいしながら、子曰く、と知ったかぶりの入ったその論文を書き上げる。
今日も高校の授業は出来上がりの不出来なものだ。
しかし私が読み進めるほどに、出来上がっていくものになるだろう。
目指すは賢者、と私は女の子らしく泣いてしまった昨日を恥ずかしく思い出しながら、仕事に勤めることにする。
何事も、勉強に限る。
これが彼の回答であり、かつ柔軟に対応しろよ、と助言を受けた翌日のことである。
賢者の答え
少女漫画風に。