わたしの「素敵な絵」

 油絵はよく燃える。
 火を付けた瞬間、キャンバスの表面をヘビが這うようにして炎が伝い、あっという間にキャンバス全体が炎で包まれる。油の焦げたにおいが鼻を刺激し、真っ黒な煙がもやもやと上空に昇っていく。
 美術部に所属している私は、描き終えた絵を校舎裏の廃棄場でこっそり燃やしている。
 ゆらゆらと黒い煙が出ているのを見ると、心がすうっとする。私の中の焦りや汚い感情が、じわじわとはき出していけるような気がして、心地が良い。


 高校が嫌いな私でも、美術部で画筆を握っている時間だけは幸せ。教室の面倒くさいやりとりに頭をひねるよりも、自分の作品をどのように描こうか、どのように表現すれば良いのか、そんなことを考えているのほうが、何倍も楽しかった。
「あ、みやちゃん。新しい絵、調子よさそうだね」
 放課後、美術室に入ると、さっそく山本春子ちゃんが話しかけてきた。
 肩にかかるセミロングで、ふわりとしたパーマをかけている春子ちゃんは、校内でもそれなりに可愛らしい部類の女の子だけれど、こんな陰気な私なんかと仲良くしてくれる。一見、明るくて派手な見た目の彼女と、髪も染めず化粧もしない私が一緒にいると、周りから驚かれることが多いけれど、絵に関する話をすると気が合うのだった。
「うん、まあ。春子ちゃんは相変わらず?」
 私は聞いた。春子ちゃんはここのところ、スランプだと言って油絵を描かない。
「うん。今日もデッサン」
 春子ちゃんは右手に持った鉛筆を掲げた。
「スランプだからね。うまく描けないときは画筆を持たないことにしてるんだよね」
 絵を描く人って、繊細だと思う。友達のなにげない一言だったり、初めて見る他人の絵に影響されてしまったりする。だからこそ自分の中にあるルーティーンを守ったり、他人からしたらくだらないと感じるようなゲン担ぎを命がけで守ったりする。
「ねえ、みやちゃん」
 私が自分の油絵セットを取りに行こうときびすを返したら、後ろから春子ちゃんに呼び止められた。
「なに?」
「私は、みんなが何と言おうと、いつもみやちゃんのこと応援してるから。がんばってね」
 ふわりと髪の毛を揺らして、春子ちゃんが言った。
 私は頷いた。
「ありがとう」


 薄暗い準備室に入る。シンナーと石膏とほこりの香り。カバンをロッカーの中に入れ、ブレザーを脱いで絵の具まみれのパーカーに着替える。髪の長い子なら結ばなきゃいけないけど、私はショートカットなので前髪をピンで留めるだけ。ロッカーから油彩に必要な道具を取り出す。画筆、絵の具、パレット、油壺。二つ折りして保存しておいたパレットを開いて、
「うわ」
 思わず声が出た。昨日パレットの上に作った色がぐちゃぐちゃに崩されている。
 まただ、と思う。
 ここ数ヶ月の間に、こういうことが多々起きるようになった。
 だれの仕業かなんて知らない。たぶん、美術部員のだれかなんだろう。
 手洗い場に置いてある洗浄液をパレットに垂らし、ぐちゃぐちゃになって固まった絵の具を溶かしていく。それぞれの色はきれいなのに、混ざり合えば混ざり合うほど、色は汚くなる。ボロぞうきんで表面をぬぐい、蛇口をひねるとそれぞれの色が衝突して黒ずんだ色がゆらゆらと排水溝に流れていく。
 春子ちゃんは私に敵が多いことを心配してくれている。
 別に敵を作るつもりなんてなかった。毒にも薬にもならないいち生徒であるつもりだった。誰かの悪口を言うでもなく、意地悪をするでもなく、ただひたすら一人でいただけ。干渉することを避けていただけ。
 だけど、それでもやっぱり輪に馴染もうとしない人間が、他人から良い印象を持たれないのは、仕方が無いことなのかもしれない。
「顔立ちがはっきりしてるから、無表情でいると冷たく感じるんだと思う」
 前に、春子ちゃんが私の顔を見て言ったことがある。
「みんな怖いんだよ。みやちゃんが黙って教室にいると、怒ってるみたいに見えるもん」
 怒っているだなんて滅相もない。私はひたすらに、自分の感性が人との交流で変わっていくのを恐れていただけ。私の中にある「色」が、様々な色のクラスメイトと交流することで、ぐちゃぐちゃに混じって黒に近づくのが怖かっただけなのだ。
 けれど、それはやっぱりクラスメイトたちの目には見下しているように映ったのかもしれない。
 気がつけば私の周りには敵が増えていた。クラスだけではない。おなじ美術部のメンバーでさえ、私のことを嫌う人が出てきた。
 これまでは無視とかですんだけれど、最近はこうして、目に見えるところで『ジャマ』をされることもある。
 ——周りの皆がなんて言っても、私はみやちゃんのことを応援してるから。
 そのことを、春子ちゃんは心配してくれている。
 だけど、私はその『ジャマ』がどうして行われるのか、きちんと理解しているつもりだから、あんまり気にしていない。こういうとき、可愛らしい人は、嫌いだと言われたら、私だってあなたのことが嫌いだときちんと答えるんだろうけど、本当に私は、可愛くない。こういうところが、多分嫌われる理由なんだろうなと、ちょっとだけ思う。
 パレットの上をきれいに洗い終えると、私は油絵の道具を全て持って準備室を出た。


 キャンバスに下書きをして、定着剤をかけて乾くのを待っていると、春子ちゃんが私のもとにやってきた。
「あれ、昨日の続きじゃないの?」
 春子ちゃんが私の絵をのぞき込んで、意外そうな顔をした。
「うん。なんか一日おいてみたら熱が冷めちゃって」
 私はそう言った。本音では無かったけれど、あながち嘘でもない。昨日調合した色が誰かのせいで台無しにされて、再び色を作らなきゃいけないと思うと途端にやる気がそがれたのだ。
 ああ、あるよね、と春子ちゃんは答えた。作品に対する熱意が突然失せることを、春子ちゃん自身も知っているのだろうから、深くは聞かなかった。
「相変わらず上手だね」
 春子ちゃんは私の下書きをみて言った。今日は有名な画家の模写をしていた。
「ありがとう」
「そういえばさ、みやちゃんが描いてた絵ってどこにあるの? このあいだ、見たくなって準備室探たんだけど、見つからなくて」
 どきっとした。けれど、感情を表に出さないのは昔から得意だったから、私は無表情のまま嘘をついた。まさか焼却炉で燃やしているなんて言えない。
「あれ、処分したの。家に置いてたんだけど、親戚の子が遊びに来たときにクレヨンで落書きしちゃって」
「えー、そうなんだ」
 春子ちゃんは、半分残念そうで、半分どうでも良さそうな口調で呟いた。
 どうやら彼女は本当に思い詰めているようだった。


 下塗りを終えて、私は筆を置いた。ぐぐぐと伸びをすると、固くなっていた背中がボキボキと音を上げる。
 今日はうるさい部員が来ていないから、美術室はとても静か。窓の外から運動部のかけ声や吹奏楽部の音色が聞こえて、黙々と絵を描くこの空間が、何とも言えず好きだった。
 ふと教室の後ろを振り返ると、春子ちゃんは教室の隅に机を並べて、その上に仰向けになっている。
「こんなの初めて」
 私が近寄って声をかけると、春子ちゃんは腕で顔を覆ったまま、うめくように言った。
 私もむかし、全く絵が描けなくなるほどのスランプになったから、春子ちゃんの気持ちは分かる。もう一年ほど前。私がこの高校に入学した頃のことだ。
「そのときはどうやって抜け出したの?」
 私がそのことを伝えると、春子ちゃんはそう聞いた。
「時間が解決してくれたかも」
 まさか、絵を燃やすことで抜け出しただなんて言えるわけがない。あの廃棄場は私だけの場所で、春子ちゃんにも知られたくない。
 春子ちゃんは立ち上がると、風景画を描くと言ってスケッチブックを抱えて美術室を出て行った。一時間ほどして帰ってくると、スケッチブックにはなぜかテニスコートの絵が書かれていた。
「ねえ、私の絵って、どうなのかな」
 春子ちゃんは自分の風景画をじっと見ていた。珍しいなと思った。春子ちゃんは他人の評価が作風に影響することを酷く恐れる人だったから、誰に対しても感想を求めたりなんてしたことがなかった。
「——えっと、」
「あ、いい。やっぱりいいや」
 私の気持ちを察したのか、それとも途端に怖くなったのかは分からないが、春子ちゃんは私の言葉を遮った。なにそれ、と私は言いながら、心の底ではホッとしていた。春子ちゃんの絵について何かを言おうとしたら、きっととんでもない失言をしてしまうような気がした。



 春子ちゃんは天真爛漫だと思う。言い方を変えれば、純粋。自分や、周りの人を斜に構えてみたりしない。
 彼女は友人が多い。もちろん、彼女は気遣いが上手だし、場の空気を読むことにも長けている。そういう繊細さを持ち合わせているし、彼女自身、自分が気遣いの上手な人間であると信じていると思う。
 そしてなにより、彼女は決して『いい人』ではない。
 世の中にはひねくれた人がいて、友達が多い彼女のことを妬んで嫌う人も校内には当然いる。そういう人に対して、春子ちゃんはちゃんと不満を示す。露骨に無視もするし、あなたのことが嫌いですよという態度を目に見えるように取る。嫌いな人の陰口も当たり前のように言ってしまう。そういう無邪気さを、彼女は持っていた。
 部活からの帰り道。バス停で定刻のバスを待っていると、ずっと浮かない顔をしていた春子ちゃんが言い出した。
「そういえばさ、先週美術館に行ったんだけど、見ちゃったんだよね。あの人の作品」
 春子ちゃんは声のトーンを落として言った。目を細めて、右の口角をつり上げる。いっつもそう。春子ちゃんが人の悪口を言うとき、いつもこんな顔をする。
「みやちゃん、見た?」
「ううん、見てない」
「正解。あの絵は見ないほうがいいよ。私、あの人の絵を見てからなんか調子悪いもん」
 春子ちゃんは自嘲気味に笑った。
 あの人というのは、私たちが入部した年に部長をしていた三宅先輩のことで、今は東京の美大で絵画の勉強をしている。私はあんまりコンテストとかには詳しくないけど、三宅先輩はハイペースで作品を描いてはコンテストに応募して、そのうちいくつかが賞をもらって都内の美術館に展示されたりもしたらしい。
「なんか間違ってるんだよね。感性に頼って、才能があることを披露したいんだろうけど、スベってるっていうか。もうすこし考えて描けば良いのに、頭使わないから佳作止まりなんだろうね」
 佳作でも十分すごいよ、と思ったけれど、そこは私も薄笑いを浮かべて、確かにね、と言っておく。
 バスはまだ来ない。雨が降っているから渋滞に捕まっているのかもしれない。
 春子ちゃんはその後も、延々と三宅先輩の絵のダメなところを指摘し続けた。色の統一感がないとか、パースの基礎ができてないとか、多作だから練り込みが足りないとか、そもそもセンスが無いとか嫌みくさいとか。
 そうなんだ、と私は答えながら、相変わらずつり上がった春子ちゃんの右の口角を見ている。私は三宅先輩のその絵を見てないから、春子ちゃんがどれだけ批判してもあまりピンとこない。
 私は、春子ちゃんの顔を見て、醜いな、と思った。もちろん口にはしないけれど。早くバスが来て、彼女の意識が別のところに向いてくれたら良いのに、と思う。
 春子ちゃんの悪口を聞くのが、私は嫌だった。
 いや、正確には、春子ちゃんが他の誰かの悪口を言っているのが、嫌なのだ。

  * * *

 夏休みの半ば、春子ちゃんと私は東京の美大のオープンキャンパスに行った。
 私はその美大には興味が無かったのだけど、春子ちゃんの方から誘われたのだ。その美大には演劇や映像などさまざまな体験授業が受けられて、私は半日の絵画コースだけ体験した。
「どうだった?」
 午前中の授業と説明会を終えて、春子ちゃんと学食に行った。春子ちゃんは新しい発見があるかもと言って、午後に演技コースや脚本コースなども体験するらしい。
「まあ、普通だった」
 私は学食のカレーを食べながら答えた。美大の授業って、もっと奇抜で自由なものかと思っていたけれど、思っている以上に、普通でしっかりとしたカリキュラムが組まれていた。受験を目指す進学校となんら変わらないような気がした。
 美大は高校とは違って変人が集まるのかと思っていたけれど、大して普通の人ばかりだった。彼女たちはきっと受からないだろう。私はそんな気がした。当たり前のような感性で、常識的な考えしかできない奴らばかりで、高校のクラスメイトと大して変わらなかった。
 午後の授業が始まるまでしばらく時間があったので、私達は校内を少し歩くことにした。在学生の作品が展示されている教室があって、私たちはそこに入った。
 展示されている作品は、どれも上手だ。彫刻にしても油彩にしても水彩にしても、みんな技術はものすごく高い。
 のんびりと眺めていると、最後の展示品の箇所にとても魅力的な絵が三つ、展示されていた。美大の普通さにがっかりしていた私の心に、少しだけ光が差し込んだ気がした。
 この美大にも、こんな絵を描く人がいるんだ。
 私の後ろからやってきた春子ちゃんが、すぐに気付いた。
「あ。これ、三宅さんの絵だ」
「え?」
 額縁の下にあるプレートには、確かに三宅先輩の名前が描いてあった。三つ全て。
「本当だ。ここ、三宅先輩の通ってる学校だったんだね」
 私が振り返ると、春子ちゃんはまるで親の敵のような顔をしてその三つの絵を見ていた。苦々しげに、
「クセが強いからすぐ分かるよ。筆の使い方が雑なんだよね。色飛びしてるもん。そう思わない? この場所とかさ」
 確かに荒削りといえば、そうなのかもしれない。でも、私にはその雑破な色使いすらも、魅力的に見えた。私の記憶の中にある先輩の絵より、技術的にもセンス的にも、かなり向上していた。なにより驚いたのが、描き終えた日付が三つとも同じだったということだ。もしもこれが本当に同じ日に描き上げたのだとしたら、それは本当に、才能と言うしかない。
「これ、三つも展示されてるって事は、先生たちにも認められてるってことだよね」
「でも私は、好きじゃない」
 春子ちゃんはすぐに答えた。
「ああ、行こ行こ。嫌なもの見ちゃった。最近せっかくスランプから抜け出せそうになってきたのに」
 首を振ってため息をつく春子ちゃん。彼女の右眉は、相変わらずつり上がって、口元をゆがめている。
 その横顔を見て、春子ちゃんがわざわざ地元からほど遠いこの美大のオープンキャンパスに参加した理由が、この三宅先輩なんだということに、今更ながら気付いた。
「そうだね。行こう」
 私はそう言って、教室を後にした。
 春子ちゃんにそんな顔をさせてしまう三宅先輩の作品が、私は憎かった。

  * * *

 秋になって、私の絵がコンテストの最優秀賞に選ばれた。
 街の新聞社が主催の小さなコンテストだったけれど、賞がもらえたという事実はありがたい。とりわけ、芸術というのは個々の感性によって変わってくるので、客観的な肩書きが付くというのは大きな証明にもなる。
 一番乗りで美術室に乗り込んだ私は、返品された作品の中から私のものを取りだし、わざと美術室の目の付く場所にかけておいた。いかにも「見てください」という感じだと嫌らしく思われるから、一応その上に埃よけのビニールをかけておく。我ながら策士だなと思う。普段はこんなことしないけれど、そんなことをしてしまうほどに、私はその絵に自信があった。
「おめでとうっ」
 十分ほどトイレで時間を潰して美術部に戻ると、私の絵を春子ちゃんが見ていた。私に気付くと私の手を取って、
「絶対みやちゃんだったら選ばれるって思ってたよ。私は他の作品よりも、みやちゃんの絵が一番好きだったし」
 春子ちゃんは私の姑息さなんて気付いてすらいないようだった。
「すっごく素敵な絵」
 私の作品を眺めて、春子ちゃんは言った。
「やっぱり、私はみやちゃんの絵が好き。見てて安心するもん」
 彼女の天真爛漫な笑顔は、本当にかわいい。本当に本当に本当に、かわいい。
 一歩間違えたら、人を殺してしまうくらい、かわいいのだった。
「ねえ、私が賞をもらって、嬉しいって思う?」
 私がそう聞くと、春子ちゃんはキョトンとした顔をした。そして、お前は何を言っているんだ、という口調で、こう言った。
「当たり前じゃん。だって私、みやちゃんのこと、ずっと応援してたのに」
 春子ちゃんの右眉を見て、私は俯いた。
「そっか」


 部活が終わり、一緒に帰ろうと春子ちゃんは言ったが、もう少し余韻に浸りたいからと私は一人で美術室に残った。
 美術室の木造の丸椅子に腰掛け、私は自分の絵を見つめる。
 これまで、一年以上続いたスランプから、だんだん抜けることで描けた絵。中学校のころのように、何も考えずにこころのままに描けた、私の自信作。
 ——すっごく素敵な絵。
 あっさりと、春子ちゃんにそんなことを言われてしまう、私の自信作。
 私は俯いた。鼻の奥にツンとした痛みがして、そのまま感情があふれ出てしまいそうなところを、グッと唇を噛みしめてなんとか堪える。
「あーあ」
 ぼそっと呟いたつもりだったのに、ひとりぼっちの美術室にはよく響いた。当てつけのように、ちょっと大きめの声でもう一度呟く。
「あーあ」
 好きだって言われちゃった。
 春子ちゃんに、好きだって、言われちゃった。素敵な作品。裏の無い笑みを浮かべて、嘘も偽りも無い様子で、当たり前のように言われちゃった。
 ——私、みやちゃんのこと応援してるもん。
「あーあ」
 悔しくて、悲しくて、心が張り裂けてしまいそう。
 今回こそ、春子ちゃんに「嫌い」って言ってもらえると、思っていたのに。
 私の作品を見て、苦虫をかみつぶしたような顔をして、悔しそうに舌打ちをして、そして「まあ、私は好きじゃ無いけどね」と右眉をつり上げて醜い笑顔を作ってくれると思っていたのに。
 別に、コンテストの結果なんてどうだっていい。こんな小さなコンテストで賞をもらうことなんか、私にとって些細なこと。芸術の世界で食べていきたいと親を説得させる良い材料にはなってくれるけれど、所詮その程度。
 私の作品が優れているのは、私が一番知っている。私には他の人に無いセンスがあって、それは他の応募者よりも優れていることを、別にこんな田舎の小さな新聞社に認めてもらわなくても私は知っている。
 私が本当に認めて欲しいのは、そこじゃない。
 田舎の新聞社でも、クラスメイトでも、美術部のメンバーでも、顧問の先生でも無い。
 私は春子ちゃんに認めて欲しかった。
 嫌いになってもらいたかった。
 春子ちゃんは、三宅先輩の絵を嫌いだという。わざわざ美術館まで行って、いちいちその絵を確かめて、どこがダメなのか、何が嫌いなのかを探しにいく。大嫌いな先輩が通っている大学のオープンキャンパスに行っちゃうくらい。
 私は、春子ちゃんが三宅先輩の絵をわざわざ見に行って、嫌いなところを挙げる気持ちが分かる。それは、私が春子ちゃんに対して全く同じ気持ちを抱いているから分かる。
 私は春子ちゃんの絵が嫌い。
 嫌い。大っ嫌い。
 だって、私よりも才能がある人の絵を、あっさりと「好きだ」と言えるわけがないのだから。
 今でも忘れない。高校に入学したときに春子ちゃんが描いた絵。それを見たときの衝撃。
 私はずっと、中学の時から絵には自信があった。勉強も友達関係もなにもかもそっちのけで、この世の中に私にしか書くことができない絵があるとずっと思っていたわけで、ベッドの中でも風呂の中でも授業中でも絵のことを考えているわけで、他の誰とも違う私だけの表現の方法があるってずっと信じていた。世界中の誰よりも上手な絵を掛けるって、自分のセンスにはどこまでも自信があった。
 なのに、
 私より遙かに優れた絵をあっさりと描いてしまう友人のことを、「すごいね」って、素直に認められるほど、私は強くない。
 悔しいし、反発もしたくなるし、憎たらしいとも思う。
 私は春子ちゃんの絵を見て、しばらく絵が描けなくなるほどの衝撃を受けた。何をするにしても、どんな絵に挑戦しても、春子ちゃんの絵が頭に浮かんで、筆が進まなかった。私よりも優れた絵を描く人がいるのに、私が描く意味ってなんだろうって、ベッドに入っても眠れなかった。
 なのに、春子ちゃんは私の絵を見て「安心する」って言う。自分は三宅先輩の絵を見てスランプになっているくせに。
 そんなの、不公平だ。
 もしもこれが、わざとだったら良い。私を悩ませるために、皮肉としてわざとあんな発言をしたのならまだ可愛げがある。でも、そうじゃない。春子ちゃんが皮肉を言うとき、彼女はもっと醜い顔になる。あんな無邪気な笑顔を浮かべない。
 私の絵にも、言って欲しい。「みやちゃんにはセンスが無い」って。パースの基礎がなってないって、自分の方がよっぽどいい絵が描けるって、右の眉毛をつり上げて、醜く口元をゆがめて言って欲しい。
 こっちは「嫌いだ」と否定しなくては心が保てないほど、春子ちゃんの絵を意識しているのに。
 これじゃあまるで、——まるで、相手にされていないみたいじゃないか。


 放課後の廃棄場はいつものように閑散としている。
 夕焼けが終わり、夜の顔を見せ始めた空に野球部の締めの挨拶が響き、遠くから吹奏楽部の合奏の音がする。だらりと生ゴミをくちばしから垂らしたカラスが、パチパチと音を立てる炎を興味深げに眺めている。
 油絵はよく燃える。
 キャンバス上で踊るように炎が舞い、私の「素敵な絵」が真っ黒な煙を上げる様子を、私はぼんやりと見つめている。

わたしの「素敵な絵」

わたしの「素敵な絵」

春子ちゃんは私の絵を「素敵だ」って言ってくれる。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-08-17

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