「よかった、子どもじゃない」
 車を降りて、真っ先に思ったことはそれだった。
 自分の不注意で、ひとつの命を奪ってしまったことに変わりはないのに。
 右は田んぼ。左も田んぼ。視界は開けていたはずなのに。
 猫を轢いてしまった。
 驚くほどに傷はない。もしかしたらショックで気絶しているだけでは? そう思い、体に手を当ててみるも、とくとくと脈を打つあたたかさはなかった。
 人ひとり通らない昼下がり。そのまま走り去ったとしても、咎めるものはいなかっただろう。でも、真っ赤な首輪を見過ごすことはできなかった。
 「ミイ」。その文字に続けて、震えるような字で、住所が書いてある。あまり通ることは少ない、隣町の住所。少しの間迷ったのち、猫を抱え上げ、車へ乗せる。ドアを閉め、走り出す。
 コンビニで手土産を買い、お金を下ろす。車に戻ると、首輪の住所をカーナビでで確かめた。

 立派な門。玄関まで続く敷石。この辺りじゃ珍しくないのは分かってはいるものの、足が竦む。抱えた亡骸とは反対に、身体が熱くなる。できれば全部なかったことにして、最初の道まで引き返したかった。
 でも、それではいけない。
 この子を愛してくれた人に怒られて、それではじめて罪が償える気がする。
 玄関のチャイムを押す。しばらくして、髪を後ろで結った、眼鏡をかけた中年の女性が顔を出す。
 猫の亡骸を両手に抱え、腕にお菓子の紙袋を提げて、頭を下げる。
「大変なことをしてしまいました。お金で何とかなるのもではありませんが、償わせてください」
 女性は一瞬、何のこと、と言わんばかりの怪訝そうな目を向けた。そして、ああ、というように、納得した顔で言った。
「その猫ね、認知症のおばあちゃんがね、前にどっかで拾ってきたのよ。勝手に首輪までつけちゃってたのね。でも、気にしなくっていいわ。本人も忘れてるから」
「そんな……。あの、この遺体は……」
「どっか適当なところへ捨てて置いて。賠償はいらないけど、それくらいはしてくれるでしょ? その手土産も、おばあちゃんが食べすぎちゃうから、結構よ」
「レイコさーん、おべんじょー」家の奥から、皺枯れた声が聞こえた。女性は眉間に皺を寄せ、「失礼」と言ってガラガラと戸を閉めた。


 川に手を入れ、爪の間の土を丁寧に落とす。
 本当は、あの亡骸を抱きしめてほしかった。
 そして、泣いて怒ってほしかった。

<終>

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-08-16

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