お盆休みに行きたい場所、第1位!(当社調べ)

お盆休みに行きたい場所、第1位!(当社調べ)

第1部



          * 1 *



「ただいまー」
 お盆休みのため実家に帰省した小陽(こはる)は、面している道路に街灯が少ないために夜の闇に溶け込み気味の玄関を入った。
 本当は、もっと早い時間に来れるつもりでいたのだが、電車が混み過ぎていて、乗る予定だった便の何本も後の便に、やっと乗れたのだ。
 入った瞬間、
(……あれ? )
 玄関に鍵は掛かっていなかった様子なのだが、家の中は暗く静まり返り、イイイイイイイイイイ……と、耳鳴りなのか電化製品か何かの発する音なのか区別のつかない静寂の音だけが聞こえる。
(鍵かけ忘れて出掛けちゃったのかな……? )
 そんなふうに考えながら玄関を上がり、廊下をほんの数歩 進むと、玄関からは階段の陰になって見えないダイニングのガラス扉に明かりが見えた。
 その時、ガラス扉が開き、3つ年下、13歳の妹・星空(せいら)が仏頂面で出てきた。
(あ、いたんだ……)
 星空は、大股早歩きで小陽の脇を通り過ぎ、玄関で靴を履いてドアを開ける。
 時刻は、もう19時過ぎだ。
「っ? どこ行くのっ? 」
もう こんな時間なのに、と驚き、追おうとした小陽の鼻先で、
(っ! )
ドアは閉まる。
(お父さんとお母さんは、どうして黙って行かせるのっ? )
 小陽は踵を返し、父や母がいると思われるガラス扉を入った。
 そこに父はおらず、母がひとり、ダイニングテーブルで食事をしていた。
 その向かい側には、酷く中途半端に食い散らかされた食器類。
 そのうち茶碗と箸が星空専用の物であることから、そこで食事をしていたのが星空であると分かる。
 母は無表情で静かに食事を続け、食べ終えると、フワッと立ち上がり、自分の物と星空の分の食器をまとめ、手に持ってキッチンへ。
 小陽は、母のすぐ傍をついて歩く。
 静かに静かに、やはり無表情で皿を洗い片付ける母。
 やがて片付け終え、キッチン、ダイニング、と、順に明かりを消しつつ廊下に出て、明かりをつけず暗いままの廊下、階段を、まるで幽霊のようにフワフワ……と音も無く歩き、2階の寝室へ、スウッと吸い込まれていった。
(…お母さん……。どうしちゃったの……? )
 小陽の知っている母とは まるで別人のようなその様子に、心配になりながら、ひたすらついて歩く小陽の目の前、母は足元からゆっくりと崩れ、自分のベッドと父のベッドの狭い隙間にペタンと座って正面のサイドボードに腕を伸ばし、上に置かれた木の縁のシンプルなフォトフレームを手に取った。
 そのフォトフレームの中では、小陽が微笑んでいる。
「…小陽……」
 注意深く聞かなければ聞こえないほどの小さな声で、母は小陽の名を呼び、フォトフレームの小陽を抱きしめた。
(ホントに、どうしちゃったんだろ……? )
考えて、小陽はすぐにハッとした。
(もしかして、あの日から ずっとこんななの……? )
 あの日、とは、小陽が、小陽の今いる、そして両親や妹の暮らす この世界、肉体のある人々が生きる、ここ、物界(ぶっかい)で肉体の死を迎えた日のこと。
 そう、先程 小陽は、母の様子を、まるで幽霊のよう、と表現したが、ここ物界で一般的に言うところの幽霊、なのは、本当は小陽のほうなのだ。



 野原小陽は49日前に肉体の死を迎え、肉体の無い人々の生きる世界・心界(しんかい)へ引っ越した。
 今は、お盆のため帰省している。
 四十九日の後に最初に訪れるお盆・初盆だ。
 小陽は生まれつき心臓が上手く機能せず、出生後間もなく、医師から、半年も生きられないだろうと宣告を受けていた。
 それが どうしたワケか、その心臓は16年間も持ち堪えた。
 もちろん、健常者のようには生活できない。ずっと病院暮らしで、たまに許可をとって両親と妹の暮らす家に外泊させてもらう以外は、外に出掛けることも無い。しかも車椅子だ。
 16年も持ったのは、そのためかも知れない。また、ある程度の年齢になった時に、自分の体について きちんと説明されていたのも良かったのだろう。自分でも気をつけることが出来たから……と言っても、隠れてコソコソ夜更かししたりしない、とか、何かをする前には必ず ひと呼吸おくとか、その程度のものだが。

 あの日……。
 朝から検査続きだったためか何だか疲れてしまった小陽は、自分の病室に戻り、昼食をとった後、珍しく昼寝をした。
 そして、ふと目を覚まし、半身起き上った時、
「……? 」
違和感を覚えた。
 体が妙に軽い。
 いつもに比べ、とても楽に起き上がれたのだ。
 首を傾げつつ、ベッド脇に置いてある車椅子に移るべく体の向きを変え、脚をベッドの下におろしてベッドの縁に腰掛ける格好になる。……その動きも軽い。
 もうひとつ首を傾げながら、車椅子に手を伸ばした小陽。
 瞬間、視界の隅、ベッドの上に何か不自然なものがあるのが映った気がし、何の気なく そちらを見た。
(! )
 そこにあったのは、ベッドの下におろしていたはずの脚。
 脚だけではない。きちんと振り返って確認してみると、自分が目を閉じ静かに横たわっている。
 驚いたが、すぐに状況を理解した。
(…わたし、死んだんだ……。多分……。だって、前にテレビで見た。死んだ時、宙に浮いて真上から自分を見下ろす感じ。わたしは浮いてないし真上からじゃないけど、でも、似てる……)
 状況は理解したのだが、
(……)
何だか、気持ちがついてこない。
 何だか実感がわかない……と言うか、何の感情も今のところ無く、「ふーん……」といった感じ。
 とりあえず、しっかり正面から見てみようと、ベッドに横たわっているほうの自分と向き合うべく、小陽はベッドから下りて立ち上がり、
「っ!!! 」
また驚いた。
 フラフラしない。
 床についた両足には しっかりと力が入り、頭のてっぺんまでの全身をバランスよく支えている。
(何っ? この力強い脚はっ! )
 ほとんど歩くことの無い自分の脚。手で何処かに掴まるなどしなければ、本来は立っていられないはず。それが、必要なかったのだ。
 確かめるように、両足でギュッギュッと床を踏みしめる。
 力が漲り、発散しなければ自分が弾け飛び散ってしまいそうに思えて、突き動かされるように無意味に動き回らずにいられず、初めはベッドから下りたその場でピョンピョン跳びはねクルクル回った。次第にノッてきてベッドから離れ、少し広くなっている部屋の入口のほうへ移動し、テレビの中のアイドルを真似て踊る。
 意に反してだが、嫌ではない。
 今まで力が入らず動けなくてもどかしかった。
 両親や星空や看護師たちの、おそらく本人たちにとっては普通な何気ない力のこもった動作のひとつひとつを見るにつけ憧れていた。
 嫌なワケがない。嬉しくてたまらない。
(すごい! 軽い! 力強い! 楽しいっ! )
 もう勢いがついて止まらない。止められない。
 力は発散させるどころか次から次へと湧いてきて、自分自身が純度100%のエネルギーの塊である錯覚さえ起こした。
 ダンスなどでは到底治まらない。スーパーボールのように、四方の壁に向かって行って ぶつかっては跳ね返り、を繰り返す。
(楽しい! 楽しい楽しいっ! )
 特に、窓側と入口側の間の移動が距離が長く楽しい。
 空間を切り裂かんばかりの勢いで、入口から見て左の壁に当たって跳ね返り、小陽は右の壁へ。
(よし! 次は角度的に窓側から入口側のコースに行けるっ! )
 そこを、
「っ? 」
 誰かに正面から抱きつくような格好で受け止められた。
 壁にぶつかったのと変わらない状態なのに跳ね返ることを許されなかった分の衝撃があった。
 小陽を受け止めた人物は、大きく息を吐きながら、小陽の背に回していた手を緩め、体を放す。
 その人物は、眼鏡をかけ白いワイシャツにカチッとしたグレーのズボンを合わせた服装をした、やや小柄な20代前半くらいの真面目そうな青年。
 青年は営業スマイルを浮かべ、
「失礼。何度も声を掛けたのですが、聞こえていないようでしたので、強引に止めさせていただきました」
「あ、はあ……? 」
 小陽は頭の中が「?」だらけで、中途半端な返事になってしまった。
 青年は構わず続ける。
「僕は心界役場住民課案内員で日向三郎(ひなたさぶろう)と言います。…えーっと……」
言葉を完全には途切れないようにしつつ、肩から斜めにかけていた肩掛けとしては大きめの鞄の中をガサゴソ。ややしてA4サイズの紙を取り出し、それに視線を落として、
「野原小陽さん、16歳。現住所、西塔市立病院A病棟803号室。転入事由、心不全」
読み上げてから視線を小陽に戻し、手元の紙の向きを変え、シャツの胸ポケットから出したボールペンと共に差し出し、
「間違いが無ければ、ここにサインをお願いします」
サイン欄を指さす。
 小陽は途惑った。間違いが無ければ、と言われても、と。
(…確かに、わたしは、野原小陽って名前で16歳。この病院の名前は西塔市立病院で、この病室の部屋番号はA病棟803号室だけど……。『てんにゅうじゆう』って……? )
 サインをするしない以前に、とりあえず、てんにゅうじゆう、という言葉の意味自体が分からないため、聞いてみようと、
「あの……」
 小陽が口を開いた、その時、入口のドアがコンコン。ノックされてから開き、
「小陽ー」
大きめの紙袋を手にした母が入って来て、ベッドに目をやると急に小声になり、
「あ、お昼寝? そっか、今日は朝から検査があったんだっけ? 疲れちゃったんだね」
 母は音をたてないよう気を遣っている様子で、手にしていた紙袋の中から洗濯済みのタオル類と下着とパジャマを順番に片手で持てる分だけ出しては、所定の位置に仕舞っていく。
 仕舞い終え、部屋の隅から折り畳み椅子を引っ張って来、ベッドの枕側に置いて、フウッと息を吐きつつ腰掛ける母。空になった紙袋を畳んでサイドボードの上に置いてから、ベッドに横たわっているほうの小陽の顔を間近から覗いた。
 直後、
「…小…陽……? 」
表情を曇らせてガタッと椅子を鳴らして立ち上がり、
「小陽! 小陽っ! 」
横たわる小陽に覆い被さるようにして肩を掴み、揺さぶった。
 母は、今にも泣き出しそうな表情で、枕元のナースコールのボタンに縋るように手を伸ばし、押す。
 すぐさま主治医と看護師2名が駆けつけた。
 駆けつけざまベッド脇から小陽を一瞬だけ見下ろし、看護師2名を振り返って、何やら指示を出す主治医。
 それを受け病室を飛び出して行った2名の看護師は、ちょっともしないうちに大掛かりな感じの機械を2人がかりで押して戻って来た。
 そこからは、泣き顔の母が隅で見守る中、主治医と看護師があれやこれやと動き回り、室内はにわかに騒がしく。
 ややして、大きな動きをしなくなった主治医。
 看護師2名は機械を片付け運び出す。
 静けさ取り戻した室内で、主治医、胸ポケットからペンライトを取り出し、小陽の左右の瞼を押し開いて光を当てた。
 それから、腕時計を確認。
「17時27分。ご臨終です」
「……っ! 」
母が、声になりきらない声で何かを叫び、横たわっているほうの小陽に駆け寄って、その胸の上あたりに抱きつくように覆い被さって顔を伏せ、肩を打ち震わせる。
「…お母さん……」
泣いている母につられて、小陽も泣きそうになった。
 一礼して退室する主治医。
 ほぼ入れ替わりに、
「お姉ちゃーん! 」
その場の沈んだ空気を一掃するような明るく元気な調子で言いながら、入口のドアを開け、中学の制服姿の星空が入って来た。
 ドアを開けるために片手を空ける必要があったのだろう、小さな片手で何とか頑張ってソフトクリームを2個持ち、学校の鞄は小脇に抱えている。
 ドアを閉めてから、星空はソフトクリームを1個、空いているほうの手に移し、ちょっとホッとした様子を見せつつ、
「病院の前のたい焼き屋さんがね、今年もソフトクリームを始めたの。お姉ちゃんの好きなイチゴ味と、今年の新商品のみたらし団子味を買って来たんだけど、お姉ちゃん、どっちがいいー? 」
(へえ、みたらし団子味っ? おもしろーい! )
 小陽は、ごく普通に星空に歩み寄り、
「じゃあ、わたしは」
選ぼうとしたが、目の前で、ソフトクリームは2つとも星空の手を離れて落下。
(あっ! )
 小陽は咄嗟に手を伸ばして受け止めようとしたが間に合わず、ソフトクリームは床に落ちてグシャッとなった。
(あーあ、もったいない……)
 それほど多くないはずのお小遣いをはたいて買って来てくれた星空は、もっとガッカリしてるだろう、もしかしたら泣くんじゃないかと思い、小陽は、恐る恐る星空を窺った。
 すると星空は、ベッドのほうを見て固まっていた。
 星空の視線の先にあるのは、横たわっているほうの小陽と、その傍らで泣く母。
「…お…姉、ちゃん……? 」
 星空は足を引きずるようにして、ゆっくりとベッドへ歩いていく。
 ベッド脇、母の隣まで辿り着き、呆然と立ち尽くして、横たわっている小陽を見下ろす星空。
 30分ほどが経ち、病院の人が連絡してくれたのか、父がやって来た。
 母は相変わらず、横たわっている小陽の上に顔を伏せて肩を震わせ、星空は放心状態。
 父は無言で背後から母の肩を抱いた。
 暗く重たい沈黙が、室内を押し包んでいる。
「…お母さん、星空、お父さん……」
 小陽は悲しくなってきた。父が、母が、星空が、悲しんでいるのを見ていたら、何だか、とても悲しくなってきた。
 先程も、一度は、母の泣いているのにつられて泣きそうになったが、星空の明るさに紛らわされていた。
(皆、わたしが死んで悲しんでる……。わたしが、悲しませちゃってる……)
 小陽は、おそらく1時間半から2時間くらい前、自分が死んだのだと気づいた瞬間のことを思い起こす。
(……わたしは、自分が死んだことを、特に何とも思わなかった。多分、自分がいつ死んでもおかしくないって、いつも思ってたからだよね?
 皆は違うのかな? 皆は、わたしと過ごせる時がいつ終わるか知れないから、きっと長くないってことも分かってたから、わたしと過ごす時間を大切に、わたしに優しくしてくれてたんじゃないの? …悔いの残らないように、悲しまなくていいように……。
 足りなかった? タイミングが悪かった? あるよね、そういう時。わたしも正直、星空がせっかく買って来てくれたソフトクリームを、星空と一緒に美味しく楽しく食べてからがよかった、とか、ちょっと思ってる。
 …何か、悲しいよ……。自分が死んだこと自体は何とも思わなくても、そのせいで皆が悲しんでると思うと、これまで、いつもわたしに優しくしてくれた大好きな皆を、わたしが悲しませちゃってると思うと、悲しくなっちゃう……)
 横たわっているほうの小陽の傍で悲しむ3人を、小陽は、胸を締めつけられるような気持ちで、
(…そんなに泣かないでよ……。分かってたことでしょ? わたし、頑張ったよ? 初めにお医者様から言われてたより、ずっと長く生きたよ? 
 星空みたいに勉強やスポーツで頑張って何かしらの結果を出すようなことは無かったけど、頑張ったんだから、そんなに泣いて責めないでよ……)
ほんの少しの腹立たしさを持って見つめた。
 その時、
「…あの……」
背後から遠慮がちに声が掛かる。
 ハッとし、振り返る小陽。
 そこには、小陽が自分の死に気づいた後、軽くなった体に浮かれて遊んでいた時に突然現れ、日向三郎と名乗った青年。
 おそらく、さっきからずっと、この病室内にいたのだろうが、存在自体すっかり忘れていた。
 忘れてしまっていたことが正直に顔や態度に出ていたか、日向三郎青年は、
「心界役場住民課案内員の日向三郎です」
自己紹介し直した。
(…そこまで忘れてはない……いや、存在を忘れていたくらいだから忘れてたのかもしれないけど、少なくても存在を思い出したのと一緒には思い出してたけど……)
 日向三郎の生真面目な態度が何だかおかしくて、小陽は、ちょっと笑ってしまいそうになりながら、そう言えば、と思いだす。「てんにゅうじゆう」とは何なのか聞こうと思っていたのだ、と。
(……って言うか、その前に「しんかい」って? 地名? 「やくば」は、あの事務手続きなんかをする「役場」でいいの? そこの「じゅうみんかあんないいん」って、何する人? )
 日向三郎の言ったことが、ほぼ丸ごと分からない小陽。そのまま口に出して聞いてみると、日向三郎は答えて曰く、
「心界について説明する前に、まずは、これまであなたの暮らしていた この世界・物界(ぶっかい)について説明します」
「ぶっかい? 」
「はい。人は皆、誰でも、生まれる時には肉体を持って生まれてきますよね? 」
 分かりきったことすぎて、小陽は逆に返答に困り、途惑いつつ、
「……『よね』って、まあ、そうなんじゃないですか……? 」
「はい。そうなんです。……すみません。聞かれても困りますよね? 」
(また、「よね? 」って聞いたけど……)
 心の中で小陽がツッコんだのが聞こえでもしたように、日向三郎はハッと口を押える。
「すみませんっ。多分、癖なんですっ。聞き流してください」
(うん、わかった)
 小陽が頷いたのに頷き返し、日向三郎は、小さく咳払いをひとつしてから、
「肉体を持って生まれる場所は、ここ物界と決まっていて、皆が皆、ちょっと不便な肉体と共に、ここで人生をスタートします。
 肉体は前世での行いに対する一種のペナルティのようなものであると言われています。稀に肉体を持たずに人としてではなく全く別の非常に恵まれた場所に転生する方もいらっしゃるため、そのように言われているのですが、その方は、前世において我が身を擲って世のため人のために尽くすなどされた本当に特別な方ですので、まあ、どちらが通常かと言われれば、肉体を持って物界に転生のほうが一般的なパターンであると言えます。
 ただ、ここで間違えてはいけないのは、肉体は与えられること自体がペナルティであって、どのような肉体を与えられるか、例えば外見の美醜や障害の有無、障害まではいかなくても肩が凝りやすかったり虫歯になりやすかったりする肉体の癖は、ランダムなものであるということ。不便な度合いの大きな肉体を与えられた方が、度合いの小さい肉体を与えられた方に比べ、前世を問題のある生き方をしたのではないということです。前世で犯罪などを犯した者は、物界に転生しない……それ以前に、犯罪を犯したのが物界で生きている間のことであれば、肉体を失った時点で、他の大多数の方々とは行先が別になりますので」
(……)
 小陽は頭がクラクラしてきた。
 今、日向三郎が説明している物界、というのは、これまで小陽自身が暮らしてきた、そして、まさに今いる、この場所のことのはずなのだが、今いちピンとこず、話についていけなかったのだ。
(…わたしが、ずっと病院の中で暮らしてたせい……? 他の、病院の外で生活してた人たちなら、ちゃんと分かる話なのかな……? )
 しかし、この話が、これからの自分にとって大切な話の、まだほんの導入部に過ぎないであろうことを分かっているため、何とか理解しようと一生懸命に耳を傾ける。
「不便な度合いの大きな肉体を与えられていた方ほど、肉体の死を迎えて肉体から解放された時の感動は大きいのではないでしょうか?
 肉体の問題は肉体の問題でしかないため、解放された瞬間、例えば、目の見えなかった方は目が見えるようになりますし、耳の聞こえなかった方は聞こえるように、手足の本数の足りなかった方などは、足りなかった分が現れるんです。高齢になってから肉体を失われた方の場合は、まだ若く元気に動けていた頃の姿と動きに戻ったりもします」
(…肉体の死を迎えて肉体から解放された瞬間、っていうのは、さっき、わたしが自分が死んだことに気づいた時のこと、だよね……? 
 ああ、それでわたしも、今まで重たかった体が急に軽く……?
 ……って、あれっ? じゃあ何で、この日向さんって人は眼鏡なんだろ? )
 それをまた、そのまま口に出して聞いてみる小陽。
 日向三郎は、ちょっと笑って、
「ああ、これは伊達なんです。僕、肉体のあった頃はずっと眼鏡をかけていたので、無いと何だか落ち着かなくて」
言ってから、話しを戻す。
「肉体から解放された後に向かうのが、あなたも今から行く場所・心界です。そこで転生までの残りの人生を過ごします。
 心界で過ごす期間は人によって違い、一般的には、肉体の死亡日から起算して、最短で7カ月。長くて35年です。人を指導する立場である指導階級の資格を得ると大幅に遅れますが」
(転生……。残りの人生……。つまり、肉体の死は、別にわたしの死じゃなくて、わたしの人生は、まだ続いてる。
 わたしが本当にいなくなるのは、いつか転生……他の人として生まれ変わる時、ってこと?
 それで結局、心界っていうのは地名で合ってたんだよね? しかも、今からわたしが行く場所の? )
「僕のような住民課案内員の仕事は、物界で肉体の死を迎えた方を物界まで迎えに行き、無事に心界まで連れ帰って、肉体の死亡日を含めて49日間、その後の心界での生活に困らないよう、行政の管理する転入者研修センターで寝食を共にしながら、心界で生活する上でのルールやマナー、一般常識を教え、就職活動や住まい探しをサポートすることです」
(行政の管理する施設を使うということは、「やくば」はやっぱり、あの役場のことでよくて、仕事内容を聞く限りでは、そこの「じゅうみんかあんないいん」は、おそらく漢字に直すと「住民課案内員」。つまり、役場の職員)
「言うまでも無いと思いますが、念のため。僕が、小陽さんの担当案内員です」
(そうですね。そうじゃないかと思ってました)
小陽は日向三郎の役場の職員である肩書きに、もともと特に警戒していたワケではないが、すっかり安心したこともあり、その真面目を絵に描いたような態度のおかしさに、心の中で親しみを込めた笑いと共にツッコむ。
 同時、
(……? )
そんな自分の気持ちを、ちょっと不思議に思った。
 出会ったばかりの相手に、この安心感。どこがどう安心かと聞かれても困るのだが……。無事に心界まで連れて行かなくてはならないため、この安心させる感じは、案内員という仕事上持っている必要な技能だったりするのかも、と思った。
「仕事上の関係ですが、暫くの間、四六時中一緒にいることになりますので、実のお兄さんに接するようなつもりで、気軽に、サブローとでも呼んで下さい」
「サブロー、さん? 」
「はい」
早速 名を呼んだ小陽に、日向三郎は、営業的にではなく、自然に笑んだ。
「『てんにゅうじゆう』って何ですか? 」
「ああ、本人確認用紙についての質問ですね? 簡単に言うと、肉体を失うことになった理由や原因です」
(あ、そうなんだ。「転入事由」か……。じゃあ、心不全で合ってるんだよね? 多分。お医者様じゃないから、ちゃんとなんて分からないんだけど……)
 小陽は心配になり、
「もし間違ってたら? 」
「転入事由が間違っていても、特に問題無いです。用紙に記載されていることは、年齢にしても現住所にしても転入事由にしても、本人確認のための参考であって、肉体を失ったご本人が、確かに自分のことであると確認出来さえすればいいんです。
 大事なのは、人違いをしないことと、肉体の死を迎えられたご本人に、きちんと納得の上で心界へ来ていただくことなので」
 日向三郎は、ずっと手にしたままではあったが いつの間にか自然と自分のほうへ引っ込めてしまっていた用紙とボールペンを、再び小陽に差し出し、
「サインさえいただければ、もう心界へ出発できますが、会っておきたい方とかいらっしゃいますか? 心界へ行ってしまいますと、肉体の死亡日である今日を含めて49日間はお会いになれませんので」
(へっ? )
 日向三郎の言葉に、小陽は驚いた。
(会えるのっ? それって、49日経てば会えるってことだよねっ? …会えなくなると思ってた……。何か、嬉しいっ……! )
「ただ、出来れば、そろそろ出発したほうがいいです。今日の最終便が20時に出るのですが、それが行ってしまうと、明朝まで待つことになりますので」
「最終便? 」
「心界行きの電車の最終便です」
(へえ、電車……)
 意外な移動手段に、小陽は、また軽く驚きつつ、チラッと壁の時計を確認した。19時15分。
「小陽さんの場合、49日間経った翌日から お盆休みに入ってしまうので、必要なことを全て49日以内に絶対に終わらせなければ、何かと不都合が生じてしまうんです。だから出来るだけ時間を有効に使ったほうがいいと思うので……」
(不都合……)
 20時に出る電車というのが、ここからどれくらいの移動時間のかかる場所から出ているのか分からず、どの程度急いでいるのか、また、何かと生じてしまう不都合がどのようなことかも分からないが、そろそろ出発したほうがよいとサブローさんがいうのなら、と、
「大丈夫です。会いたい人なら、全員、今この部屋の中にいるので」
 すると、日向三郎はホッとした様子で、
「そうですか! よかった! 外国に住んでいる友達に会っておきたいとか言われたら、正直どうしようかと思いましたよ! 」
明らかに機嫌を良くしながら、用紙とボールペンを更に小陽の近くへと差し出す。
「それでは、サインをお願いします」
「フルネームですか? 」
「あ、はい。日本人の方は、ほとんどの場合そうなります。ミドルネームなどがあるお名前の場合は、その部分は省いていただいて結構なのですが」
 日向三郎の返事の「あ、はい」までを聞いてから、後は聞きながら、小陽はボールペンを受け取り、彼が手で支える用紙にサインを済ませた。
「ありがとうございます。では、早速、行きましょう」
 何だかちょっと張り切り気味に言い、小陽から返されたボールペンを元通り胸ポケットに仕舞い、用紙を鞄に仕舞って、入口のドア方向へ向かう日向三郎。
 小陽も、そのすぐ後ろについて歩き出しながら、49日間会えないということなので、もうひと目と、横たわっているほうの自分の傍らにいる家族を振り返る。
 星空は放心状態という感じではなくなっていたが、変わらず、小陽を見下ろし、母は疲れたのか肩を震わせることはやめ、ただ小陽の上に顔を伏せ、父は、母の肩を抱いたまま。
 会えるらしいから また来るね、と小陽は、父・母・星空に向けて心の中で言い、視線を進行方向へ移した。
 瞬間、
(! )
日向三郎がドアを開けずに通り抜けて病室を出て行くのを目にし、驚く。
 驚いたが、
(……そっか、サブローさんは、これからわたしが行く世界の人で、つまり、幽霊だもんね)
すぐに納得し、自分も続こうとした。
 しかし、ドンッ!
 通り抜けられず、ぶつかって跳ね返り、床に尻もちをつく。
 日向三郎が慌てた様子で、やはりドアは開けないまま戻って来、
「すみません! うっかりしてましたっ! 」
床に尻をついたままの小陽に手を差し延べた。
「あなたはまだ、心体(しんたい)として不安定ですので、物界の建物の壁などを通り抜けることが出来ないんです。
 あと半日もすれば、逆に物界の物質には触れなくなって、触るためには訓練が必要なようになるんですけど」
(…心体……? 話の前後関係からして、これからわたしがなるはずの状態のこと? サブローさんが、完全な状態ってことかな?
 通り抜けれないのは、そう言えば そうだ、うっかりしてた……。サブローさんみたいに通れるつもりになってたけど、わたし、さっき自分で壁にわざとぶつかって遊んでたっけ……)
 そこまでで、小陽は、あれっ? と思った。サブローさんは通り抜けられるのに、どうしてわざわざドアのところから出たんだろ? うっかりしてた、っていうわりには、ドアからじゃないと出られないわたしに無意識に合わせて? と。
 日向三郎の手を取り、立ち上がらせてもらいながら聞いてみる。
 日向三郎は考え深げに自分の顎をつまみ、
「無意識……。…無意識は無意識でも、習慣、ですかね……。心界の建物は、心体として安定しても通り抜けることが出来ないんですよ。ですから当然、ドアから出入りすることになるので……。
 だって僕、そう言えば、そんな必要無いのに、この病室に来るのにも、正面玄関を通ってエレベーターに乗ってきましたからね」
「そんな必要無い、って? 」
「外から、一瞬で、この病室内に移動出来るんです。本当は。
 だから、僕ひとりなら、電車の時間も気にしないんですけど。一瞬で行けるので」
(…それって……。漫画やアニメの中で時々やってる、瞬間移動とかテレポーテーションとかいうヤツ……っ? スゴイっ! )
 小陽は驚き、また期待を込めて、
「心体として安定すると、そんなことも出来るようになるんですかっ? 」
「いえ、訓練が必要です」
(…なんだ。ガッカリ……)
「それに、これを活かせるのは物界でのみです。
 小陽さんは、もしかしたら、心体や心体として過ごす心界での生活を、何か特別なもののように想像されているのかも知れませんが、心界は心体が生活するのに適した環境となっていますので、物界で肉体を持っている状態で生活するのと全く変わらないですよ」
(……そうなんだ)
 日向三郎の言ったことは当たっていた。小陽は、心体や心界を特別なもののように考えていた。
(…だって、幽霊なんだよ? 心界は、幽霊ばっかりいる場所でしょ? そりゃ、超人じみた人だけが暮らす特別な感じの世界を思い浮かべるでしょ? まあ、わたしにとっては、今のこのわたし自身は充分超人だけど……。
 あ、でも、このエネルギーが漲ってる感じも物界にいる時特有で、心界に行った途端に治まったりするのかな……? )
「さあ、行きましょうか」
言って、日向三郎は再びドアに向き直った。
 その時、
「これでお母さんは、あたしだけのお母さんだ」
横たわっているほうの小陽側にいる3人の沈黙を破り、星空の声がした。
 小陽が振り返ると、横たわっている小陽から顔を背けている星空の苦しげな表情が見えた。
(…星空……)
 「これでお母さんは、あたしだけの……」その言葉を聞いて初めて、小陽は星空の気持ちを知った。寂しかったのだ、と。
(星空は、いつも元気で明るくて、わたしに優しくて……。
 今日だって、ソフトクリームを買ってきてくれた。昨年の秋、たい焼き屋さんがソフトクリームの販売を終了すると聞いたわたしが「また来年も食べたい」と言ったのを、きっと憶えててくれたんだと思う……。
 寂しかったなんて、全然気づいてあげられなかった……)
 小陽は唇を噛んだ。
 体の弱い小陽は、自分の望む望まないに関係無く、当然の如く母を独占してしまう。
(…そうだ。星空はわたしより3年遅く生まれて……。生まれた瞬間から、下手すると、お母さんのお腹の中にいた頃から、自分のことを後回しにされ続けて、どんなに寂しかっただろう……)
 初めて、そんなことを考えた。
(お母さん、星空を抱きしめてあげて。いい子いい子してあげて。「そうだよ。星空だけのお母さんだよ。今まで寂しかったよね? これからは、いっぱい甘えていいよ」って言ってあげて)
 小陽は期待を込めて母を見つめた。
 しかし母は、
「何て酷いこと言うの! 」
言って、星空に蔑んだ目を向ける。
「お母さん! どうしてっ? 」
小陽は思わず叫んだ。
(星空の気持ちが分からないのっ? そりゃ、お母さんだって、わたしが死んで悲しくて、今はそれで胸がいっぱいなんだろうけど……)
 星空に目を向ければ、凍りついたように母を見ている。
(「何て酷いこと」って……でも、星空が、わたしが死んで良かったなんて思ってないことくらい分かるよね? 星空がそんなこと思うわけないし。
 大体、本当にそう思っていたら、その言葉……「これでお母さんは、あたしだけのお母さんだ」を言うのに、わたしから目を背けたりしない。星空だって、わたしが死んで悲しくて、悲しすぎて、悲しみと真っ直ぐに向き合えずに出た言葉なんじゃないかって、わたしは、そう思うんだけど……。
 それに、星空が寂しい思いをしてたのは事実だし……)
 暫しの沈黙が流れた。
 星空はフイッと母から目を逸らし、
「……お姉ちゃんの代わりに、あたしが死ねばよかったね」
言い捨てて病室を出て行く。
「星空! 」
 小陽は急いで星空の背中を追いかけ、星空の開けた入口のドアを一緒に通って廊下へ出た。
 「お姉ちゃんの代わりに、あたしが死ねばよかったね」そんな悲しい台詞を言わせて、やっと、母も星空の気持ちに気づいたらしく、星空を追う小陽の視界の隅に映った母は、途方に暮れた様子で、その目にはっきりと後悔の色を浮かべていた。
 すぐ後ろについて出たはずが、廊下に出た星空は大幅にスピードアップしたようで、小陽がほんの一瞬だけ母に気を取られている間に随分と遠くまで行ってしまい、その背中は、長い廊下の隅でエレベーターを待っていた。
「星空! 」
 小陽は、この8階にやって来て停まり開いたエレベーターに星空が乗り込むのを正面に見ながら走り、滑り込みセーフ。
 ドアは閉まってしまったが、すぐ後からドアを通り抜けて日向三郎もエレベーターに間に合った。
 星空は、俯き傷ついた獣のような目をして、ドアを正面に静かに力無く立っている。
 小陽は星空とドアの間に割り込み、両腕を伸ばして、そっと星空を包み込んだ。
「星空、ごめんね」
母を独占してしまい寂しい思いをさせてしまったことへの謝罪と、病気の自分を気遣って我慢し、寂しさなど感じさせずにいてくれた優しさに、
「ありがとう」
 姿は見えなくても、声は届かなくても、今の小陽なら、まだ星空に触れられる。
 あと半日もすれば、小陽は、今まで小陽の生きてきたこの世界……物界と呼ばれているらしいこの世界の物質には触れなくなると、日向三郎が言っていた。
 「物質」には恐らく人間も含まれるであろうと、小陽は考える。
 本当にそうならば、小陽が星空に触れられるのは、今だけ。次に会うのは早くても49日後なのだから、その時には確実に触れられない。訓練をすれば触れられるようになるとも、日向三郎は言っていたが……。
「星空……」
 小陽は、やはりそっとだが、深く、更に深く、胸に星空を包む。
 小陽が触れているというだけで、星空側に触れられている感覚があるかどうか分からないが、ただ抱きしめ、「ごめんね」「ありがとう」を、心を込めて繰り返した。
 突然、星空がフッと顔を上げる。
「…お姉、ちゃん……? 」
驚いた表情で呟く星空。
(…星空……。わたしがここにいるって、気づいた……? )
 その時、
「っ? 」
急に、星空を包む小陽の腕や胸から、星空の感触が消えた。
 見た目には変わらず星空を抱いているのに感触だけが消えたので、小陽が首を傾げていると、
「心体として安定したんです」
日向三郎が口を開いた。
「え? でも、まだ半日なんて経ってないですけど? 」
「個人差がありますからね。まあ、それにしても、これは相当早いですが……」
(…そっか……。安定したんだ……)
 納得した小陽の腕の中で星空は再び俯き、
「…気のせいか……。何か、あたし馬鹿みたい……」
呟いて、丁度1階に到着して開いたエレベーターのドアを、小陽を正面から突っ切って出て行った。
(っ! )
 小陽は衝撃を受けた。自分の体を突っ切られるなどという初めての体験に。
 そのため一瞬、ボーッとしてしまってから、ハッとし、
「星空! 」
星空を追って駆け出そうとする。
 しかし、
「ダメです! 」
背後から伸びてきた日向三郎の手に二の腕を掴まれ、止められた。
「もう時間がありません。行きましょう」

 その後のことを、小陽は知らない。
 母の態度に星空を可哀想に感じ追いかけはしたものの、特に心配などはしていなかったこともあり、電車に遅れると困ると、日向三郎に急かされるまま行ってしまったから……。
 心配していなかったのは、まだ中学1年生の星空のこと、感情のままに飛び出して行ったところで、辺りはもう暗い。すぐに心細くなって両親の許へ戻るだろうと考えていたことと、母が星空に言ったことを後悔した様子だったのを見たためだ。
 星空がそう時間を置かずに戻った後、母がきちんとフォローして円く収めるだろうと思い込んでいた。



(もしかして、そう出来なかった? 円く収めれなかった? …それで、もしかして、あの日からずっと、こんななの……? )
 小陽の見つめる先で、母は、ベッドとベッドの狭い隙間に蹲り、フォトフレームの小陽を抱きしめたまま動かない。
「…お母さん……」
 あの日の回想を一通り終えた小陽、時計の秒針の音がやけに大きく聞こえて、ふと目をやれば、23時。
(…もう、こんな時間……っ? 星空は帰って来てるっ? )
 小陽は廊下へとつながるドアを頭だけで振り返った。
(帰って来てない、よね……? 考えごととかしてたって、玄関の音がすれば、さすがに気づくし……。帰って来てない。星空も、お父さんも……)
 父のほうは、小陽が外泊で この家に来ていた時には早く帰って来ていたとしても、本当は普通に、このぐらい遅いのかも分からないが、星空のほうは明らかにおかしい。
(捜しに行かなきゃ……! )
 母に背を向け、小陽は寝室を出た。



          * 2 *



(……? ピンポン……? )
 どこか遠くから明るい調子の高めの音が聞こえ、小陽は目を覚ました。
 寝起きのため今ひとつ状況が掴めず、起き上がることはせずに周囲を見回す。
 ここは、転入者研修センター内の寮から越して来たばかりの、アパートの3階の一室の真新しいベッドの上。
 ピンポン! ピンポン! ピンポン!
 音はなり続ける。
(何の音……? )
 ゆっくり上半身起き上がって音の方向に目をやると、玄関のチャイム用のスピーカー。
 ピンポン! ピンポン! ピンポン!
(あ、玄関のチャイムの音か……)
 続いて、ドンドンドンッ!
 玄関のドアが乱暴に叩かれ、
「小陽さん! いますかっ? 小陽さん! 小陽さんっ! 」
(…サブローさん……? )
 まだ半分以上寝ぼけた頭で、ひとつひとつ状況を確認していく小陽。
(もう研修は終わったのに、どうしてサブローさんが……? )
 ぼんやりと考えながら、偶然、時計に目を止める。その針は、10時半を指していた。
(! )
 小陽はいっきに目が覚める。
(嘘っ! ちょっと、どうしようっ! )
 昨日でお盆休みは終わり、今日はバイト初日。
 49日間の転入者初期研修期間中に面接を受け、採用され働くことのなったファミレス・「お食事処雛菊」本店に、10時までに入ることになっていた。
 大急ぎでベッドから下り、近所迷惑でもあるので、パジャマ姿だが、先ず、日向三郎が大声を上げながらドアを叩き続けている玄関へ。
 ドアを開けると
日向三郎は転がるような勢いで入って来、
「小陽さん! 今日10時からバイトだったんでしょうっ? 時間になっても来ないし、電話も出ないって、こっちに問い合わせがあったんですよ! 」
(電話? )
見れば、電話の、着信があったことを示す赤いランプが点滅している。
(鳴ったんだ……。全然気づかなかった……)
「どうして、まだパジャマなんですかっ? 寝坊ですかっ? 」
 日向三郎の捲し立てる勢いに圧され気味に、
「あ、はい」
小陽は返事。
「すぐに仕度します」
「そうして下さい。車で送って行きます。僕、下で待ってますから、仕度が出来たら下りてきて下さい」



 顔を水だけで簡単に洗い、手早く歯磨きをし、ササッと髪を梳かしてから服を着替え、手提げカバンに財布と筆記用具だけを突っ込むと、靴をつっかける感じで中途半端に履き、玄関を出てドアに外から鍵をかけ……とにかく大急ぎで仕度を済ませた小陽は、アパートの階段を1階まで、いっきに駆け下りた。
 階段を下りてすぐの所に、研修中に時々乗せてもらった見覚えのある白のセダン。日向三郎の車だ。
 小陽は助手席側の窓をコンコンとやりながら中を覗く。
 スス……と静かに窓が開き、日向三郎はチラリとも小陽を見ずに、
「乗ってください」
「あ、はい。失礼します」
 小陽はドアを開けて助手席に乗り込み、
「すみません。よろしくお願いします」
 すると、日向三郎は変わらず小陽を見ないまま、小陽の膝の上に、アンパンと飲みきりサイズの紙パックの牛乳を投げて寄越した。
「朝食、まだでしょう? 僕の昼食用に買っておいた物ですが、良かったらどうぞ」
「ありがとうございます」
「車だと、すぐに着くので、急いで食べちゃってください」
言いざま、日向三郎は車を発進。
 走り出した車内で、小陽は有難くアンパンと牛乳を戴くことにし、牛乳のパックにストローを挿す。
「案内員として担当した転入者の就職先から今日みたいな連絡が入るなんて初めてです。普通、無いですよ。こんなこと」
 話す日向三郎は、終始進行方向を向いたまま。
 運転中なため自分のほうを向いてくれないのは当然なのだが、小陽は、日向三郎が怒っているように感じ、
「…ごめんなさい……」
「別に怒っているわけではないですよ。反省しているんです。僕が、あなたに対して、きちんと必要な指導を出来ていなかったんじゃないか、とか……。
 実は僕、あなたのような年少者を担当するのは初めてだったんです。あなたの16歳という年齢は、通常の転入者初期研修を受けることになる最も低い年齢ですからね。15歳以下の子供の場合は、僕ら案内員と同じ指導階級有資格者の養子となって、16歳になるまで、その前に転生時期が来た場合はその時まで、じっくり育てられるんですよ。
 僕は、他の案内員の担当した歳の少ない転入者を見るにつけ、いつも思っていたんです。通常の研修で済ますことのできる最少年齢を引き上げるべきだって。何より、歳の少ない転入者本人のために。物界では、16歳や17歳は一般的には子供でしょう? それが心界に来た途端に大人と同じ扱いでは可哀想ですから」
 日向三郎は、ひたすら前を向いたまま、淡々と話す。
(……これって、本当に怒ってないの? )
 隣に座っていて、何だか居心地が悪い。



            *



 窓の外を景色が流れる。その景色的に、到着は間もなくだ。
 小陽はアンパンの袋を開け、口に詰め込む。
(ホント、寝坊には気をつけなきゃ……)
 寝坊の原因は、昨日の夜、なかなか寝つけなかったこと。そして、睡眠時間が中途半端になって翌日にちゃんと起きれなくなるくらいなら寝ないほうがいいと分かっていながら、結局いつの間にか眠ってしまったこと。

 なかなか寝つけなかったのは、両親や星空のことを考えていたためだ。



 お盆休みの初日、小陽が実家に到着した直後に家を出て行き23時になっても帰らない星空を捜しに出た小陽は、桜公園の向かいのコンビニの駐車場で星空を見つけた。
 桜公園は、今年の4月初め頃に実家に外泊した際に花見に連れて行ってもらった、見事な桜の大木が1本と外灯が1本、遊具はブランコがあるだけの小さな公園で、実家からは車で1分ほど、健常者ならば余裕で歩ける距離にある。
 その思い出の公園向かいのコンビニの駐車場で、星空は、星空含めて女の子ばかり9名で、たむろしていた。
 星空は楽しそうにしていたが、小陽の目には、それが表面的なものに、無理して強がっているようにさえ見えた。星空以外の8名全員が、おそらく星空より年上で、化粧などしている人もあり、どうにも派手でガラが悪く思え心配になったため、そう感じてしまっただけかも知れないが……。
 星空も他8名も、空が白み始める頃までそこにいて、誰からともなく「そろそろ帰ろうか」と自然に解散。解散後に帰宅した星空は、シャワーを浴び、自分の部屋で眠って昼頃起床。母の用意した昼食を食べるだけ食べて、夕食までの時間、また部屋にこもり、夕食を済ませた19時、前日と同じ桜公園向かいのコンビニ駐車場で8名の少女と集まり、夜明け近くまでを過ごし……。小陽が実家に滞在していた13日から15日までの期間、星空は毎日、それを繰り返し、最終日である昨日・16日も、小陽は、星空がコンビニ駐車場で8名と合流するのを見届けてから帰って来た。
 母は、星空のそんな生活態度について一切触れず、自分と星空の昼食・夕食の仕度に後片付け、食品や洗剤類などのネットスーパーでの買物とその受け取り、着用した服と下着・使用済みタオルの洗濯、といった最低限の家事をする以外は、ずっと寝室に閉じこもって、フォトフレームの小陽を抱きしめて過ごしていた。
 父のことは、一体どうしたのか、小陽は滞在中、一度も姿を見かけなかった。その理由等の情報を、先のような状態の母や星空の言動から知ることなど、出来るはずもない。



(…本当は、帰って来たくなかったんだけど……)
 小陽は口の中のアンパンを牛乳でいっきに流し込んでから溜息をついた。
(星空……。お父さん、お母さん……)
 心配で仕方なかった。星空のことが、父と母のことが……。
 傍にいたからといって何が出来るわけでもないのだが、家族がこんなふうになってしまったのは自分が死んでしまったせいなのだと責任を感じていた。
 しかし規則で、お盆休み期間……つまり、8月13・14・15日の夜以外に物界に泊まるには特別な許可が必要なため、また、今日からバイトが始まることもあり、帰らないわけにはいかず、仕方なく、バイトが終わったらまた見に行けばいいと、無理に自分を言いくるめて、最終の便で帰って来たのだった。

 考えていたって何がどうなるわけでもないと分かっていても、心配で心配で心配で……。考えずにいられなかった。
(死んじゃって、ごめんね……)
 帰省するまで、家族があんなことになっているなど全然知らず、49日間、自分の新しい生活のことしか考えていなかったのが恥ずかしかった。
 自分が死んだせいで家族が悲しみ苦しんでいる間に、自分は、軽く動けるようになった体に浮かれ気味ですらあったことが腹立たしかった。



            *



「はい、着きましたよ」
 日向三郎から声が掛かり、小陽はハッとする。
 いつの間にか窓の外の景色は流れを止め、正面に、以前1度だけ来たことのあるメルヘンチックな洋風平屋。看板には「hinagiku」。雛菊本店だ。研修期間の終わり頃に面接に来、そして、今日からは、ほぼ毎日来ることになるであろう、小陽のバイト先のファミレス・お食事処雛菊本店。
 小陽は、空になったアンパンの袋と牛乳パックを、出来るだけ小さく手早くまとめ、
「ゴミは、そのままでいいです。僕が処分しておきますから」
との日向三郎の急ぎ気味の言葉に甘えてダッシュボードの上に置き、
「ありがとうございました」
急いで車を降りてドアを閉め、その和風な名称に反してファミレスらしく可愛い洋風の建物を、面接時に言われていたのに従い、従業員用の通用口のある裏手へ回る。
 すると、すぐ後ろから、
「僕も行きます。先方に、きちんとお詫びと引き継ぎをしたいので」
日向三郎もついて来た。
(…お詫びと引き継ぎ、ね……)
 遅刻の原因は寝坊。寝坊の原因は、なかなか寝つけなかった揚句に結局中途半端な時間に寝てしまったことで、
(全然、サブローさんのせいじゃないんだけど……)



 日向三郎と連れ立って、小陽は大きく重たい通用口の鉄扉を入り、やはり面接時に言われていたのに従って、通用口を入ってすぐの打ち放しコンクリートの空間の、通用口から見て正面と左右に1つずつあるドアのうち、右手のドアをノックする。
 右手のドアの向こう側は、従業員用休憩室。3畳ほどしかない、そこに、足がパイプのシンプルなテーブルと、それを囲むように4脚の折り畳み式パイプ椅子が置かれ、その時その時の出勤者が仕事の間だけ私物を入れておく目的で設置されている共用のロッカーが壁に寄せて在る。ドアから見て右手奥側に、またドアがあり、そのドアの向こうは半畳ほどしかない店長室。右手手前側に、同じく半畳分ほどしかない、厚手のカーテンで仕切られただけの更衣スペースがある。
 その手狭さ加減に、広々としたレストランの客席で面接を受け、その場で採用された後、初めて連れて来られた時には正直驚いた。
 ノックに応え、休憩室内から、「はーい」と低いが軽めの男性の声。
「野原小陽です。遅れてすみませんでした」
「どうぞ。入ってー」
 失礼します、と言いながらドアを入る小陽。しかし無人。
(? )
 見回すと言ってしまうと大袈裟になってしまうくらい、ほんの少し右へと視線を移動させると、ドアを開け放った店長室の中に、大きな体を押し込めるようにデスクに向かい、何やら書き物をしている、面接時に着用していた雛菊の制服とは違う、白の半袖のワイシャツに黒のズボンという服装の社長兼店長・日向正太郎(ひなたしょうたろう)の姿。
 休憩室入口のドアと店長室の位置、それからデスクの向きの関係上、日向正太郎はほぼ後ろ姿なのだが、すぐに彼であると判別できたのは、そこが店長室なため当然そこにいるのは日向正太郎であろうという予測だけではなく、その特徴的な色素の薄い短髪のせいだ。
 面接後にした、ちょっとした雑談の中で言っていたことに拠れば、大正生まれで実年齢は97歳ということだが20代半ばの外見を持つ彼は、手にしていたボールペンを置き、大きく伸びをひとつ。それから立ち上がって体の向きを店長室入口方向に変え、小陽と目が合うが、その視線は、すぐに小陽を通過し、
「あれっ? 」
小陽の肩の向こうあたりで止まる。
「サブロー君っ? 」
「正太郎っ? 」
 互いにとても驚いた様子の日向三郎と日向正太郎。
「君が、ここの店長だったんだね! さっき電話で、『店長の日向といいます』って名乗ったのを聞いて……。ほら、日向って、そんなよくある名字じゃないだろ? 『あ、同じ名字だ』なんて、ちょっと照れながら、『どうも、野原小陽さんを担当しました、日向ですー』とか名乗り返しちゃったよ!
 それにしても久し振りだね。どれくらい振りかな? 」
「んー……。サブロー君は、お盆休みも、ほとんど帰省って……あれ? したことあったっけ? 俺は必ずしてるんだけど……」
「そもそも僕、正太郎がこっちの世界に来てることも知らなかったよ。いつ来たの? 」
「サブロー君の半年後くらいだよ」
「73年前か……。じゃあ、やっぱり君も、大東亜戦争で? 」
(…知り合い……? )
 小陽は懐かしそうに会話する2人を邪魔しないよう大人しく見守った。
 しかし、そこまでで、
「あ、失礼! 」
日向三郎の視線が小陽に向く。
「あんまり懐かしかったもので……。彼は、僕の長兄の長男で、歳が1コしか違わないから、本当は甥っ子だけど兄弟みたいに育ったんです」
 取り繕うように笑んで小陽向けに説明してから、日向三郎は、次に日向正太郎に、
「ごめん、正太郎。彼女……野原小陽さんのことなんだけど、僕の指導が足りなかったかも知れないんだ。だけど、僕はもう、他の新しい転入者の担当についちゃってるから、お詫びと引き継ぎを、ちゃんとしたくて……。普通なら、就職先にまで、こんなふうに案内員がついて行くなんてことしないんだけど」
(…だから、全然サブローさんのせいじゃないんだけど……)
 小陽はイラッとした。
(何か、同じ話を繰り返されて、責めれられてる感じ……。わたし、寝坊も遅刻も、ちゃんと反省してるんだけど……。
 まあ、今のはわたしじゃなくて店長に話してたんだけど、それでも何か、遠回しに、わたしにも向けられてるような……。
 もう他の転入者の担当についてるのに、わたしのせいで余計な仕事が増えて面倒で、サブローさんが怒っても当然だと思うから、素直に、怒ってるって、迷惑してるって、言えばいいのに、何で、自分の指導が足りなかったとか、自分の責任みたいな言い方するの? 遠回しにチクチク感じ悪い、って思っちゃう……)
 もちろん、自分が悪いのだということは分かっているが、それでも、
「わたし、寝坊も遅刻も反省しているし、サブローさんにも御迷惑をかけて申し訳なかったって、ちゃんと思ってます。だから、そんな嫌味っぽく言わなくてもいいじゃないですか」
言わずにいられなかった。
「そんな言い方されるよりは、まだ、『ガツン』と普通に怒ってくれたほうがいいです」
 日向三郎は、一瞬、凍りついたようになってから、明らかに狼狽えて、
「お、怒ってないって、さっき言いましたよね? 迷惑だなんてことも思ってないです」
「怒ってるじゃないですか。迷惑だとも思ってますよ? サブローさんは。それをハッキリ言ってしまうと、何か都合が悪いんですか? 」
 と、そこへ、
「ガツンッ! 」
大声。
 小陽はビクッ。反射的に声のほうを見る。
 すると日向正太郎が、
「お望み通り、ガツンと普通に怒ってみたけど、どお? 」
イタズラっぽくニヤッと笑った。
 結構強くビクッとしてしまったため、その拍子に息を止めてしまっていた小陽は、思わず大きな溜息。……半分くらいは違う意味の溜息だったかも知れないが……。「ふざけてるの? 」と。自分の言ったことの揚げ足を取られたに近い感じに少しイラッとして……。
 しかし、それまで日向三郎に対して抱いていた腹立たしさとは180度違う苛立ち方をさせられたことに面白さも感じ、それに相応しい気の利いた返答をと、溜息まじりに、
「心にビクッと深く響きました」
「よし」
 日向正太郎は満足げに頷くことで返してから、小陽と同じく彼のガツンにビクッとしたらしい、こちらは固まってしまっている日向三郎を見、
「だーい丈夫だよ、サブロー君。小陽チャンのことは、俺がビシッビシやっとくからさ」
「あ、う、うん」
 日向三郎が頷いたことを確認したようにうなずき、
「新しく担当してる転入者が待ってんだろ? 行ってやんなよ。な? 」
日向正太郎はウインク。
 日向三郎は、もう1度頷き、
「じゃあ、お願い」
すっかり元気を失くして、それだけ言い、小陽の視線はあからさまに避けて背中を向け、休憩室を出て行った。
 日向正太郎が体半分だけ休憩室から出、日向三郎の背中に、
「今度呑もうよ! 連絡するから! 」
 日向三郎は足を止め、顔だけでちょっと振り返り、無言で頷いて、またすぐ前を向いて歩き出す。
 その沈みきった様子に、小陽、
(…言いすぎたかも……)
反省した。嫌な言い方でも、サブローさんは自分のために来てくれたのに、と。
 小陽は休憩室を飛び出し、
「サブローさんっ! あのっ! 」
もう通用口のドアノブに手を掛けていた日向三郎の背中を呼び止めた。が、そこまで。謝罪の言葉が続かない。
(…だって、本当のことだし……)
「…送ってくれて、ありがとうございました……」
やっと、それだけ言う。
 日向三郎は、きちんと全身で小陽を振り返り、作った感じの笑みで、
「バイト、頑張って下さい」
言って、通用口を出て行った。
(サブローさん……)
 小陽の胸がチクリと痛んだ。
 隙間風と共に、これまでの日向三郎とのことが心を吹き抜ける。
 ……出会いは物界。小陽の肉体が死を迎えた時のこと。軽く力強く動けるようになった自分が嬉しくてはしゃいでいるところを、体を張って止めてくれた。……その後の、転入者研修センターで共に過ごした49日間。先生のように、兄のように、そして時には口うるさい母親(小陽の実の母は小陽に非常に甘く、全く口うるさくなどないが)のように。朝の起床は決まって日向三郎に起こされた。心界で生活する上で必要なルールやマナー、一般常識について学ぶ座学では、常に脱線気味になってしまった日向三郎。ハッと気づいては笑ってごまかしていた。日向三郎の車で、社会科見学的に色々なところへ連れて行ってもらった。就職活動やアパート探し、特にアパート探しでは、実際に住むことになる小陽以上にこだわり、不動産屋相手に注文をつけたりしていた。
 本当に、朝、起きてから、夜、寝るまで、ずっと、いつも一緒だった。
 家族のように感じ始めていた。その関係が、これで終わってしまうように思えた。
 日向三郎がとっくに行ってしまった後のドアを、小陽は見つめる。
 と、背後で、
「さて、と」
呼気の混ざった日向正太郎の声。
 振り返って見れば、いつの間にかすぐ後ろに移動して来て、小陽を見下ろしていた。
 小陽は、そう言えばさっき、入室の際に挨拶程度のノリで言っただけで、遅刻のことをキチンと謝っていなかったと思い出し、急いで、
「あっあのっ! すみませんでした! 遅刻してしまって……! 」
 日向正太郎は軽く頷き、流すように、
「ああ、いいよいいよ。1回目は許すことにしてるから。ただし、こんな大幅な遅刻、理由によっては、次は往復ビンタの刑だけどねー」



            *



(…何か……。スカート短い……? )
 日向正太郎から着替えるよう言われて渡された制服に着替え終えた小陽は、更衣スペースの中で固まった。
 雛菊の女子の制服は、白い襟のある濃緑色のワンピースに、白のレースのエプロン。今、小陽が着ている物も、言葉でそう言ってしまえば、それに間違いないのだが、面接時にレストラン店内で見掛けた女性従業員のスカート丈に比べ、明らかに短いのだ。
「着替えれた? 」
 更衣スペースの外から日向正太郎の声が掛かり、
「あ、は、はいっ! 」
小陽は出来る限りワンピースの裾を下へと引っ張りながら返事をする。
 日向正太郎の手で、更衣スペースと休憩室を仕切るカーテンが開けられた。
 日向正太郎は小陽の頭のてっぺんから爪先までを、ゆっくりと一通り眺め、手を伸ばしてエプロンの紐のねじれを直してから満足げに頷く。
 裾を下へと引っ張る手に、恥ずかしさから更に力が入る小陽。
「あ、あのっ、店長! ワンピースのサイズ、違くないですかっ? 」
「いや? 違くないよ? 」
「でも、面接の時に店内で見掛けた方々のスカートの長さと、だいぶ違うような……」
「ああ、外見年齢によって違うんだよ。25歳以下にはミニスカートを支給してる。それ以上は膝丈」
(……そうなんだ)
 ごく当然に決まり事を説明するような口調で返され、納得したと言うより諦めた小陽は、裾から手を放す。
 日向正太郎は、もう一度、満足げに頷いて、
「そうしたら、ここ座って」
テーブル周りの4脚の椅子のうち、最も入口のドアに近い椅子の背もたれ上部に手を掛けた。
 言われたとおり腰掛けた小陽に、日向正太郎は店長室から小さな冊子を2冊、同じ物を出して来、
「はい、これ。マニュアル」
うち1冊を手渡し、
「今日から3日間、1日3時間、これを見ながらオリエンテーションをするから。まず最初の1時間は、ここで、この先3日間のオリエンテーションの内容の確認と、お客様と接することになる場所へ出て行くために最低限必要な接客7大用語や分離礼なんかを教えるから」
言いながら、小陽の向かいの椅子を引いて座る。そうして、ひとつ息を吐き、落ち着いてから、
「じゃあ、まず、表紙を見て」
 表紙は緑一色の地に白抜きの文字で、「Hinagiku Busic Manial」と書かれただけの、ごくごくシンプルな物。
(新人教育のために、わざわざこんな物を作るってことは、結構大きな会社なのかな……? あ、そう言えば店名に「本店」ってついてるから、もしかして、他にもいくつかお店がある? )
「このマニュアルは社外秘だから、社外の人に見せないように。あと、退職時に返却してもらうから。はい、じゃあ表紙開いて」
 表紙を開いて現れたページは、「目次」。大項目として「オリエンテーション」「フロアオペレーション」「フロアサブ作業」「共通オペレーション」「キッチンオペレーション」「機械操作手順」の6つに分かれ、その1つ1つが、またいくつかの小さな項目に分かれている。それを見ながら、先程、日向正太郎が言っていた、最初の1時間にやることの1つ目、この先3日間のオリエンテーションの内容の確認。
 新人は皆、まず「フロア」の仕事から学ぶそうで、レストランでの仕事と聞いて小陽が真っ先に思い浮かべる調理、つまり「キッチン」の仕事を教わるのは、まだだいぶ先の話。次に思い浮かべる、入口でお客様を迎え席へ案内する「ウエルカム」、注文をとる「オーダー」、レジで会計をする「キャッシャー」等も後回し。1日目の今日は、マニュアル大項目の1つ「オリエンテーション」をザッと読み、「フロアオペレーション」の中の小項目「イントロダクション」を参考に、接客7大用語と分離礼を練習してから、出勤の際に毎回行うこととなる「出勤手続き」の説明を受け、皿の持ち方を練習した後、それを活かして、既にお客様の帰られた席から皿を片付ける小項目「ファイナルクリーンアップ」と、ついでに、その席を拭くなどして次のお客様のために整える「セットアップ」と、ここまで。続く2日目は、食事中のお客様の席に伺って食事済みの皿をさげる小項目「ミドルクリーンアップ」と、いよいよレストランの仕事らしくなってくる、お客様の席へ料理を運ぶ小項目「サーバー」を日向正太郎を客に見立ててロールプレイング。出来れば本物のお客様のところへも運んでみる。3日目は、2日目の出来次第だが、「サーバー」を集中的にやってみた後、他の従業員の中に混ざり、それまで学んだことを全て組み込んで動いてみる。……といった感じで進めていくらしい。後回しにした「ウエルカム」「オーダー」「キャッシャー」は、作業への慣れの状況に応じて順次教えられるとのことだった。
 何もかもわからない状態のため、時々心の中でのみ、その時その時に思ったことや特に質問する必要までは無いと思われる小さな疑問を呟きつつ、ひたすら日向正太郎の話に耳を傾ける小陽。
「はい、オリエンテーションの内容の確認は、ここまで。何か質問ある? 」
 小陽が首を横に振ると、日向正太郎は軽く頷き、
「じゃ、1ページめくって」
 1ページめくって現れるのは、大項目「オリエンテーション」。
「ここはザッと読み上げるだけにするから、マニュアルを目で追ってって」
 その中身は、雛菊の経営理念に始まって、遵守事項、防犯・防災対策や緊急事態対応、貸与品について、福利厚生。
「以上。質問は? 」
 首を横に振る小陽。
 頷く日向正太郎。
 続いてもう1ページめくると、大項目「フロアオペレーション」の小項目「イントロダクション」の、挨拶の基本と接客7大用語。
「挨拶の基本は、『笑顔で明るく、お客様の顔を見て』だから、それを踏まえて、接客7大用語をやるよ。はい、立って」
 小陽は言われるまま立ち上がる。
「俺が言うから、繰り返して。『いらっしゃいませ』! 」
 今までに1度も口にしたことの無い台詞。小陽は少し照れながら、
「いらっしゃいませ」
「声が小さあいっ! 」
 日向正太郎にいきなり叫ばれ、小陽はビクッとする。
「背筋を伸ばせ! もう1度っ! 『いらっしゃいませ』! 」
「い、いらっしゃいませっ! 」
 勢いに圧されるように言ってから、
(怖……)
小陽は日向正太郎の顔色を窺う。
 日向正太郎は満足げに笑んで頷き、
「じゃ、次。『ありがとうございました』! 」
「ありがとうございました! 」
「『はい、かしこまりました』! 」
「はい、かしこまりました! 」
「『申し訳ございません』! 」
「申し訳ございません! 」
「『恐れ入ります』! 」
「恐れ入ります! 」
「『お待たせいたしました』! 」
「お待たせいたしました! 」
「『少々お待ちくださいませ』! 」
「少々お待ちくださいませ! 」
 よしよし、と頷く日向正太郎。
「で、挨拶の言葉を言うタイミングとはズラして頭を下げるのが分離礼。うちの店の場合は、言葉の後に30度の角度で下げることになってる。あと、手ぶらの時には手は叉手な」
「さしゅ? 」
「体の前で手を組む。こうして、右手で左手の親指を握って、左手の他の指で右手の指を隠す感じ。位置は、目安としてヘソの少し下くらい」
実際にやって見せながら説明。それから、
「分離礼と叉手で、もう1回、接客7大用語をやってみよう」



 分離礼のタイミングや角度、叉手の位置などを直されながら、もうひと通り接客7大用語を繰り返し練習してから、小陽は日向正太郎に連れられ休憩室を出た。
 休憩室を出る際、日向正太郎は店長室内のデスクに手を伸ばし、その上に無造作に置かれていた黒い布を取った。それは、カーマ―ベストと丈の短いエプロン。店長室のドアを閉めて施錠し、歩き出しながら、手早くそれらを身につけると、あっと言う間に制服姿に変わった。
(…制服姿じゃないって思ってたけど、ベストとエプロンを外してただけだったんだ……)
「接客7大用語は明日までに暗記しておくこと。宿題な」
「はい」
 休憩室を出てほんの数歩右手側、通用口の正面に位置するキッチンへ通ずるドアを日向正太郎に続いて入る小陽。
 日向正太郎はドアを入ってすぐ左の洗面台へ。
「出勤して制服に着替えたら、ここで手を洗う。石鹸を使って、肘まで」
言いながら実演。
「備え付けの爪ブラシで爪の隙間までキレイにしたら、流水で丁寧に洗い流して、ペーパータオルで拭く。洗う前の手で触った蛇口を直接触らないように、手を拭くのに使ったペーパーで蛇口を掴んで水を止めて、ペーパーはゴミ箱に捨てる。はい、やってみて」
「はい」
 たかが手洗いだが、教えられた傍から違うことをやっては怒られると思い、小陽は日向正太郎の動作を細かいところまで思い出しながら、緊張しながら、丁寧に真似する。
 接客7大用語の初めに叫ばれたことで、日向正太郎を怖いと感じる気持ちが心の片隅に刻まれている感覚があった。
 よし、と頷いた日向正太郎に、小陽は、ホッ。
「そうしたら、『アピアランスチェックをお願いします』って誰かに声を掛けてチェックしてもらって。このシフト表の」
洗面台の斜め上の壁に掛けられた、10名ほどの人の名前の書かれた表を指さし、
「俺も含めて太線より上に名前の書かれてる人なら誰でもいいから。とりあえず、今日は俺に」
 小陽は、はいと返事し、
「アピアランスチェックをお願いします」
 日向正太郎は頷き、小陽の正面を上から下へと見、後ろを向かせて見、また正面を向かせて両手を胸の前に出させて爪を見、「OK」。
「OKをもらったら、シフト表の隣のタブレットの画面の中の自分の名前をタッチして、それで出勤手続きは完了。明日からは、出勤時間までに、ここまで済ませといて」
シフト表横のタブレットPCに視線を向けて言う。
 今日の分は、後で、実際に出勤した時間に修正しておくから、今とりあえずやってみるよう言われ、小陽は、画面に縦に並ぶ横書きの名前から自分の名を探し、タッチ。
「そうしたら、こっち来て」
 言われるまま、日向正太郎の後について移動する小陽。
 途中で、コンテナから荷物を下ろしていたキッチン担当の30代前半の外見を持つ女性・赤木絵里(あかぎえり)と、両手に持ったバケツにいっぱいの氷を小走りで運んでいたフロア担当の20代後半の外見を持つ女性・伊東希美(いとうのぞみ)を紹介されて挨拶を済ませた。
 日向正太郎は、「ここが『ドリンク』っていうデザートやアルコールを用意するポジション用のワークテーブル」「ここがキッチンの人がフロアの人に運んでもらう料理を出すカウンター」などと説明しながら歩き、
「ここは『ソート』と言って、使用済みの皿を、洗うまでの間、種類ごとに仕分けて置いておく場所で、そのすぐ横が『洗い場』」
そこで足を止め、体の向きを変えてソートと通路を挟んで向かい側のワークテーブルのほうを向き、
「じゃあ、皿の持ち方を教えるから」
言って、小陽のために予め用意してあったのか、もともとそこが置き場所なのか、ワークテーブルの隅に置かれていた、形も大きさも違う数種類の汚れていない皿を下から大きい順に重ねられているのを手元に引き寄せる。
「うちの店は、料理を運ぶのにも食事済みの皿を下げるのにもトレーは使わずに、直接手で皿を持つ。サーバー……料理を運ぶ時には、最大で4枚。小陽は右利き? 」
「あ、はい」
「だったら、左手に3枚。右手に1枚。こうやって」
言いながら、皿を1枚、右手で取り、左掌を上に向け、
「まず1枚目は、皿が左の手の甲のほうに出るように親指と人指し指で挟んで持つ」
実際にやって見せてから、もう1枚、右手で皿を取り、
「2枚目は、左掌の、親指のつけ根から繋がってるよく動く部分と他の指のつけ根とつながってる部分の境に縁を挟んで、裏を人指し指・中指・小指で支える」
やはり実際にやって見せてから、また1枚、右手に皿を取り、
「3枚目は……」



            *



「お先に失礼します! 」
 皿の持ち方を教わって練習し、それを活かしてファイナルクリーンアップ。ついでにセットアップ……予定としては、そこまでだったのだが、わりと苦労する人の多いらしい、特に女性では7割方が躓くと聞く皿の持ち方が、小陽はスンナリ出来たために褒められ、余った時間で、明日やる予定になっていたミドルクリーンアップまで習って、気分良く今日のオリエンテーションを終え、退勤手続きとして再度タブレットの自分の名前をタッチし、着替えをして、雛菊をあとにした。
 早歩きで向かう先は、駅。昨日、物界から帰る際に自分自身を言いくるめた言葉に従うまでもなく、ごく自然に足が向いていた。



(…あ、雛菊の看板……)
 早歩きで20分ほど。物界の実家へ帰省したお盆休み初日ほどではもちろんないが多くの人で賑わう駅前に、到着した小陽は、駅の真向いのビル、コンビニの2階に、雛菊の看板を発見した。
(やっぱ、他にもあったんだ……。店名に「本店」がついてるくらいだもんね。…じゃあ、こっちは、本店に対して「駅前支店」とか……? )
 そんなことを何となく考えながら、切符を買うべく、小陽は窓口へ。
 すると、窓口の駅員は小陽の周囲をちょっと見回し、
「指導階級の方の付き添いはございませんね? では、許可証を拝見いたします」
(…そっか……)
 すっかり忘れていた。駅まで来れば普通に電車に乗れるような気になっていたが、
(そう言えば、転入者初期研修の時に説明されたっけ……)
 お盆時期以外に物界へ行くためには、指導階級の付き添いか、指導階級の人に書いてもらった許可証が必要なのだ。
 指導階級というのは、定められた研修を受けた後に試験に合格した者が得られる資格で、役場の案内員、肉体の死を迎えた時点での年齢が15歳以下の心体の里親、企業や各種学校・団体の代表等、指導階級の資格を必要とする職業もある。
(…えーっと……。店長は「社長兼」ってことだから、指導階級だよね? )
 また20分もかけて戻るのか、と、内心溜息を吐きつつ、小陽、
「すみません。許可証を忘れてしまったので、取りに行ってきます」
窓口の駅員に言い、踵を返した。
(…他に指導階級の人を知らないし……ううん、知ってるけど、サブローさんがそうだけど、ここからじゃ、研修センターは雛菊よりもっと遠いし、それに……)
 とにかく仕方ない、と、雛菊本店へ。



          * 3 *



「ダメだ」
 バイトを終えて私服に着替え、いつものように物界行きの許可をもらおうと、店長室でデスクワーク中だった日向正太郎に声を掛けたところ、キッパリと断られ、
(…へ……? )
小陽は途惑った。いつもはスンナリくれたのに、と。
 今日は、3日間のオリエンテーション終了後、初めての勤務……つまり、雛菊に通い始めて4日目。
 お盆以降、小陽は毎日、日向正太郎に許可証を書いてもらい、物界へ行っていた。
 毎日行く理由は、考えてみれば、「母や星空のことが心配なためと、肉体の死を迎えた日に病院で会って以降姿を見掛けない父のことも気になっているため」ということになるのだろうが、頭で理由などを考えて、と言うよりは、「行かなければ」という使命感というか、強迫観念に近いものかも知れない。
 日向正太郎は、初日こそ、
「昨日帰って来たばっかじゃないの? 何か忘れ物? 」
などと聞きはしたが、昨日も一昨日も、特に何も言わずに許可証を書いてくれた。
 途惑いと同時に焦りを感じる小陽。「行かなきゃいけないのに」と。
「…どうして、ですか……? 」
 小陽の問いに、日向正太郎は大きな溜息。それから、うーん……と、何かを考える素振りを見せ、
「……そうだな。じゃあ、接客7大用語を言ってみ? お客様相手に言ってるつもりで大きな声で、分離礼もして」
(…7大用語……)
 小陽は困った。初めの2つ、「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」しか分からない。他は、どんな意味の言葉があったか漠然と覚えている程度だ。
「言えたら、許可証を書いてやるよ。ほら、言ってみ? 」
(…どうしよう……。確か、これ、宿題だった……。言えなかったら怒られるよね? )
「ほら、どうした? 言ってみ? 」
 再度促され、小陽は、日向正太郎の顔色を窺いつつ、仕方なく口を開く。
 怒られるだろう、とビクビクしながらなため、自信があるはずの1つ目、「いらっしゃいませ」から、声が小さいと注意され、姿勢なども直され、手ぶらなのだから叉手もしなければと指摘され……なかなか次へ進まない。やっと次の「ありがとうございました」に進んでも、もう、その後は分からないため続かない。漠然とは覚えているので先の2つを口に出して言うことで思い出すかも知れないと期待したが、ダメだった。
 日向正太郎は大きく大きく溜息を吐く。
 小陽はビクッ。
「…あのさあ……。これ、初日の宿題だったよな? 何で言えないの? 宿題、って、意味、分かる? 決められた日までに『必ず』やっておくものだよ? 」
(…知ってる。星空が大急ぎでやってるとこを見たことがあるから。わたしが通ってた院内学級では、『出来れば』やっておくものだったけど……)
「…すみません……」
 日向正太郎は軽く頷き、続ける。
「オリエンテーションだって、無難にこなせたつもりでいるんだろうが、俺が手本を見せた直後に真似してるから出来てるだけで、今日の仕事中の動きを見てる限りじゃ、何ひとつ身についていない。
 こんなんじゃ、次に教える予定のキャッシャーに進めないよ。通常なら、オリエンテーション終了後すぐに教えることなんだけど」
 そこまでで一旦、言葉を切り、溜息を吐いて、更に続ける日向正太郎。
「これから心界で生きていく上でさ、今は、もっと自分のことを大切に考えて、今やるべきことをキチンとやらなけりゃならない時だ」
(それで結局、許可をくれる気は無いんだよね……? )
 小陽は、日向正太郎の長い話に、時間がもったいなくて、イライラを抑えられなくなってきた。「もう言いたいことは分かったから、終わりにしてよ」と。「こんなことしている間にも、早く行かなきゃ」と。
 日向正太郎の説教を聞いていられず、小陽は、
「分かりました! すみませんでしたっ! 」
半ば強引に、その話を遮り、
「小陽! まだ話は……! 」
呼び止めようとする声を背中に聞きながら、雛菊を出た。



            *



(…来ちゃったけど……)
 転入者研修センターの前で、小陽は、白のタイル張りの門柱に手をつき、その陰に半分身を隠すようにして中を覗いては、2・3歩離れ、また覗いては離れ、を繰り返す。
 許可証を書いてもらうのに、日向正太郎がダメなら日向三郎にと考え、研修センターまで来たものの、中に入ることを躊躇われた。
(…何か、気まずい……。あれから会ってないし……)
 日向三郎とは、バイト初日にあまりスッキリしない別れ方をして以来、会っていない。それを、3日振りに会っていきなり頼みごとをしようなど、気まずすぎて……。
 小陽は門に背を向け、溜息をついた。
 そこへ、
「何か、ご用ですか? 」
背後から声が掛かる。
 振り返れば、作業着姿で手にホウキを持った女性。この施設の清掃員だ。
 小陽は、日向三郎への気まずさを拭えないまま、それでも、他に指導階級の知り合いはおらず、許可証を書いてもらえるのは彼しかいないため、
「…あの……。日向三郎さんに……」
 清掃員の女性は、あなたのお名前は? と小陽に確認してから、ちょっと待ってて下さい、と、センターの中へ呼びに行ってくれた。
 軽く息を吸って吐いて心の準備をする小陽。
 しかし、ややして清掃員の女性は1人で戻って来、日向三郎は外出していていないことを告げた。
 これで許可証を書いてもらえる宛てを全て失ってしまった小陽は、途方に暮れながら、女性に礼を言って踵を返すが、
(あ……! )
ふとあることに気づき、センターの門を振り返る。
 と、小陽を見送ってくれていたらしい女性と目が合った。
 小陽は、
「あ、あの……」
ちょっと言いよどんでから、思いきって口を開く。
「あなたは、指導階級ではないですか? 」
 そう、この清掃員の女性がもしも指導階級ならば、この女性に書いてもらえたらと考えたのだ。
 質問の意図など分かるはずのない女性はキョトンとして、
「いいえ? わたしは、ただの清掃員ですので……? 」
 その様子に、ちょっと疑わし気な、怪しい人を見る目つきのような雰囲気が混ざっているのを感じ、小陽は、いたたまれず、
「あ、いいんです! すみませんでしたっ! 」
言いざま回れ右。そそくさと、その場を去った。



            *



(わたし、こんなに、あっち行ったりこっち行ったり、何やってんだろ……)
 雛菊の通用口のドアの前で、小陽は溜息を吐いた。
 許可証を書いてもらえる宛てが無くなったため、仕方なく、もう帰ろうと自宅アパートまで行ったのだが、手提げの中に鍵が無く、ちょっと考えてすぐに思い出したのだ。バイト上がりに着替える際、手提げから落ちた鍵を、拾ったが特に何を思うでもなく手提げには入れず、更衣スペース内の台の上に何となく置いて、そのままにしてしまったことを……。
 それで、鍵を持ちに戻った。
 うんざりしながら通用口を入り、休憩室へ。
 休憩室は無人だったが、少し席を外しているだけなのだろうか? 日向正太郎の在室しない時には常に施錠されているはずの店長室のドアが開いている。
 小陽は初め、鍵を置きっぱなしにした台の上に鍵があるのを認めると腕を伸ばして手に取り、手提げの中に落として入れてから手提げ外側から触って確かめ今度は確実に仕舞い、と、店長室が開いていることなど、知っていながら完全にスルーしていたが、休憩室を出ようと体の向きを変えたところで、
(……)
背後から誰かに呼び止められたような感覚があり、振り返る。
 当然、開いている店長室のドアが視界に入った。
(…店長室……)
 すぐに、その中に許可証の用紙や日向正太郎の印鑑があることに思い至る。
(許可証、今なら……)
 小陽は吸い寄せられるように店長室の中へ。
 仕舞ってある場所は分かっている。用紙が机の上の棚の左端のクリアファイル。印鑑が椅子の正面の平べったい引き出しの中。それらを手早く手元に用意し、日向正太郎が戻って来やしないかと、1度、チラリと休憩室入口を気にしてから、小陽は、丁度目の前にあったペン立てからボールペンを借り、これまで3回書いてもらってすっかり憶えてしまった内容を日付だけ変えて用紙に記入。印鑑を捺して引き出しに仕舞い、ボールペンも元の場所に戻して、
(よし、行こうっ! )
自作の許可証を手に休憩室を出た。
 そこで、
(! )
日向正太郎と鉢合わせた。休憩室の真向いにある従業員用トイレから出て来たのだ。
(…店長……! )
 小陽は咄嗟に許可証を持つ手を背に回して隠す。
 しかし、
「ん? 」
日向正太郎は、いつもより若干早歩き気味に小陽へと歩み寄ると、側面から覗き込む格好で小陽の背面へ手を伸ばし、許可証をヒョイッと取り上げた。
 取り上げた許可証に一瞬だけ視線を落としてから、静かに真っ直ぐに、小陽を見据える日向正太郎。
 固まる小陽。
 そのまま数秒が流れた。
 日向正太郎の右手がスッと動くのを認め、小陽は、
(叩かれるっ! )
ビクッと身を縮める。
 その時、休憩室で電話が鳴った。
 日向正太郎は休憩室内へ。受話器を取り、
「お電話ありがとうございます。お食事処雛菊本店でございます」
 金縛り状態から解放された小陽は、いっきに全身の力が抜け、その場にヘタッと座り込む。
 そのまま上半身を捻って日向正太郎の行った休憩室方向に目をやると、目線より少し上なだけの高さに、許可証。
 許可証は日向正太郎の手にあるものの、その意識が全く注がれていない。
(……)
 いっきに全身の力が抜けた瞬間に拡散してしまった小陽の中の何かが、静かにゆっくりと小陽の中心に集ってくる。
(店長の電話が終わるのを待ってても、きっと、怒られる続きがあるだけだし……。今なら、取れそうだし……)
 集まりきった何かがギュッと固まって、外側へと向かって、強くドンッと動いたのに突き動かされ、小陽は、中途半端に立ち上がって、不注意な日向正太郎の許可証を持つ手に飛びつき、奪い返すと同時に回れ右。体勢も立て直さないままに休憩室入口と、その向こう、打ち放しコンクリートの空間を駆け抜け、通用口から飛び出した。
(……これで、行ける! 物界へ! 星空のとこへ! お母さんのとこへ! )



(……星空! ……お母さん! )
 許可証を大事に握りしめ、小陽は駅へと走る。
(星空! お母さん! )
 背後から感じるものがあり、足は速度を変えずに動かしながら確認すると、かなり遠いが、日向正太郎が追って来ていた。
 その時、やはり遠くで車のクラクション。日向正太郎の真横で見覚えのあるセダンが止まる。日向三郎の車だ。
 日向正太郎が乗り込み、車は発進。いっきに小陽との距離を詰めてくる。
(マズイっ! )
 捕まるわけにはいかない、と、小陽は、もともと全速力だが、視線を正面に戻し、グッと呼吸も止めてしまって走った。

 駅のすぐ手前の歩車分離式信号の交差点で横に並ばれてしまったところで、運の良いことに、日向三郎の車は赤信号に捕まった。
 それを後目に、横断歩道を駆け抜ける小陽。
 日向正太郎だけが車を降りるが、その時には既に、歩行者用信号は赤。日向三郎の車の方向を向いた車輌用の信号も赤いまま。
 その間に駅へ到着した小陽は、切符販売窓口のカウンターに許可証を叩きつける勢いで切符を買い、発車のベルが鳴って今まさにドアが閉まろうとしていた電車に飛び乗った。
 閉まったドアの窓の向こうに、駅に駆け込んで来た日向正太郎の姿。
 動き出す電車。
(……逃げきれた! )
 小陽は大きく息を吐く。同時、さっき許可証を勝手に書いて持ち出そうとしたまでの段階でも叩かれそうになったのだからと、後でものすごく怒られることを思ったが、
(でも、仕方ないよね。行かなきゃいけないんだから……! )



            *



(……? 星空は……? )
 実家に着いた小陽は首を傾げた。
 まだ夕方なのに、星空が家にいない。星空のいつもの行動パターンからすれば、出掛けるのは夕食を済ませてからの19時頃なのだが……。
(……)
 小陽は妙な胸騒ぎを感じる。
(…捜しに、行こうか……)



 実家を出た小陽が真っ先に星空を捜しに向かったのは、星空がいつもガラの悪い8名の少女たちと溜まっているコンビニ。
 しかし、いなかった。
 正直、小陽は、このコンビニ以外に心当たりが無い。
 友達の家とか……そもそも、星空の友達を知らない。学校は、昨年10月の運動会を応援しに行ったため知っているのだが、今は夏休み。通常の学校の授業は無いだろうし、昨日の夜も普通にコンビニで溜まっていた荒れた生活を送っている星空のこと、昨日の今日で急に真面目に部活動とも考えにくい。
(…っていうか、あれっ? )
 小陽はハタと気づいた。
(わたしが行ったのって、小学校だ。昨年なんだから……。中学って、どこだろ……? )
 と、その時、
(? )
 向かいの桜公園から、ごく小さいが、何やら尋常ではない悲鳴のような声が聞こえた気がした。
 公園の中の様子は、背の高い生垣のせいで見えない。
(…何だろ……? )
 コンビニと公園の間の道路を車が通っていることなど全く無関係なはずの小陽だが、わざわざ30メートルは距離のある横断歩道まで行き、渡って、覗きに行く。
 が、怖くて覗けない。何だか、とても嫌な感じがしたのだ。
 吐き気すら覚えて、その場にしゃがみ込む。
 それでも、
(! )
 再び悲鳴を聞き取り、気になって、力を振り絞り覗いた。
 そこで目にした光景は……
「星空……っ! 」
 星空が例のガラの悪い少女8名に囲まれ、暴行を受けている。
 仲良くしているようでも、いつか、ちょっとした何かのキッカケで、こうなるのではと思っていた。
 リーダー格と思われる最年長らしき少女がブランコに腰掛けニヤニヤ嫌な笑みを浮かべて眺める中、まるで土下座でもしているような格好で蹲っている星空の髪を別の少女が掴んで引っ張り上体を起こさせ、直後、また別の少女の足が顔面を襲う。
「やめてっ! 」
 星空と少女たちの間に割って入る小陽。何を考えるでもなく、体が勝手に動いていた。仰向けに地面に転がった星空を庇うべく、覆いかぶさる。
 しかし、続く少女たちの攻撃は小陽の体を通過し星空に当たった。
「やめて! やめて、お願い! やめてっ! 」
 叫ぶ声も届かない。吐き気は、増すばかり。
「やめて! やめてやめて! やめてっ! 」
 そこへ、
「やめろっ! 」
 声と同時、少女のうち1人が後ろから押されたように星空の上に転びそうになったが、転ばず踏みとどまり、バッと自分の背後を振り返った。
 他の少女たちも、一斉にそちらを見る。
 転びそうになった少女の背後には、星空と同じくらいの身長、同じくらいの年頃の、「ごく平凡」というものを絵に描いたような少年。
「…桐谷(とうや)……」
 星空が驚いたように呟く。
 少年は、桐谷というらしい。
 転ばされそうになった少女が桐谷少年に掴みかかり、彼の鼻を頭突きした。
「桐谷っ! 」
 叫びながら体を反転し、上体を反るように起こして桐谷を見る星空。
 鼻を押さえた桐谷の手の指の隙間から、血が滴る。
 頭突きが合図とばかり、別の少女の膝蹴りが桐谷の腹にめり込み、痛みに体をくの字にしたところを、その背中へと、また別の少女の脚が振り下ろされ、と、少女たちの攻撃が桐谷に集中。
 桐谷もその場に崩れた。
「桐谷っ! 」
 再度叫ぶ星空。
 瞬間、
「てめえは助かったとか思ってんじゃねえぞ! 」
 少女のうち1人が両足を揃えてジャンプ。星空の背中に着地。
 星空は一度大きくのけ反ってから、顔を地面に沈める。
 そこからは、殴られる回数を分け合う星空と桐谷。
 桐谷の登場は、ただ星空と殴られる回数を分け合うことになっただけだが、やめてやめてと叫びながら、その桐谷以上に何も出来ない無力な自分に、小陽は、
(わたし、何も出来ない……)
絶望した。
 その時、
(……! )
 いつからいたのか、視界の隅、公園入口に日向三郎を見つけ、小陽はドキッ。
(そんな、まさか……)
 星空か桐谷のどちらか、あるいは両方が死ぬのでは、と。
 静観しているだけの日向三郎。
(…あれ……っ? でも……)
 小陽は気づく。日向三郎が小陽の次に担当している転入者が、まだ49日経っていない。
(サブローさんは、星空や、この桐谷くんって子を迎えに来たわけじゃないんだ……)
 そこまでで、小陽は更に気づく。
(…そうだ……。死ぬからって、肉体が死を迎えるからって、何……? 別にただ今度は、心界で普通に暮らすことになるだけなのに……)
 しかし、そこでまた更に気づく。
(ダメだ……! わたしが死んだせいで、お母さんや星空はおかしくなっちゃってるのに、星空まで死んじゃったら、お母さんはどうなっちゃうの? 桐谷くんとかいうこの子が死んじゃったら、この子のお父さんやお母さんは? )

 すぐ傍にいながら何も出来ずにただ見ているしかない小陽の目の前で、やがて、星空も桐谷も地面に転がった状態で目を閉じピクリとも動かなくなった。
(…星空……! )
 つまらなくなったのか、少女たちは立ち去る。
 小陽は何度も何度も星空に触れようとしては空振りしながら、
「星空、しっかりして! 起きて! 星空! 星空っ! 」
呼びかける。
 星空の反応は無い。当然だ。小陽の声は星空には聞こえない。
 日向三郎が星空や桐谷を迎えに来たのではないことは分かっているが、早く目を覚まさせてあげなければ、この2人の担当の案内員がやって来てしまうように思え、気が急いた。
「星空! 生きてよ! 星空! 星、空……! 」
 何度繰り返しても、星空の反応は無い。
 これまで胸を圧し潰していただけの絶望が小陽の内から外へと活動の範囲を拡げ、濃くて黒い霧のように、小陽を包み込む。
「わたし、何も出来ない……」
「そうだな」
いつの間にか隣に立っていた日向正太郎が言った。
 小陽は、突然隣にいたこと自体と、許可証を勝手に書いて持ち出し、しかも一度見つかって取り上げられたものを奪い返して逃げたことで怒られると思い、ビクッとする。
 だが、日向正太郎は怒るどころか、悲しげともとれるくらい優しく、静かに続けた。
「お前は、いや、俺やサブロー君だって、肉体のある人には何も出来ねえよ」
 反対隣で、こちらもやはりいつの間にか公園入口から移動してきていた日向三郎が同調する。
「小陽さん。一体、何をやってるんですか? 」
内容は説教だが、口調は日向正太郎と同じく悲しげで優しい。
「僕の留守中に、小陽さん、研修センターに来ましたよね? 僕に許可証を書いてもらうために。
 外出から戻って清掃員からそのことを聞いて、許可証なら正太郎に書いてもらえばいいのに不自然だって思ってね、それで、もし次にあなたが来た時には書いていいものかどうか確認するために、正太郎に電話をしたんです。そうしたら、あなたが許可証を偽造して、一旦は取り上げたけんだけど奪い返して逃げたって聞いて、心配になって正太郎と一緒に来たんです。
 ……許可証の偽造は大罪ですよ? 分かってますか? 」
(…大罪……。そうなんだ……)
 特に何を思うわけでもない。新しい情報として小陽の頭が許可証偽造が大罪であることを処理した、その時、
「…う、う……」
桐谷が小さく呻いた。
 桐谷は、力を振りしぼってという感じで星空のところまで這って行き、
「野原……」
その手を握る。
「桐、谷……」
 星空も目を覚ました。
「野原さ、もう、あんなヤツらと関わるのやめなよ」
「うん、ごめん……」
 桐谷の手を、星空は握り返す。
「事情は、よく知らねえけどさ」
 目の前で互いに手を握り合う星空と桐谷を見下ろしながら、日向正太郎が口を開いた。
「物界に毎日来る理由が、この星空って子の心配だったら、こっちの、桐谷って少年に、もう任せちまったらいいと思うぜ? 」
 手はずっと握ったまま、少し照れ臭そうに控えめな視線を交わし合う星空と桐谷。
 小陽は、
「はい、そうですね」
今日のこれまでとは違い、素直に、日向正太郎の言葉に頷く。
(どうせわたしは、星空に……お母さんにも、何もしてあげられないし……)
 日向正太郎は満足げに頷き返し、
「よし、帰るか」



第2部

 
 


          * 1 *



「お疲れ様です」
 仕事からあがり、小陽は、ルールとして決められている挨拶をしながら休憩室のドアを開ける。
「あ、小陽サンっ! お疲れ様ですぅーっ! 」
 休憩室内、入口に最も近い、位置的に入口に背を向ける形になる席に座っていた私服姿の少女・楠本美咲(くすもと みさき)が、明るい声と笑顔と共に、小陽を振り返った。
 その手には、雛菊のマニュアル。雛菊には、3ヵ月毎に昇給テストを受けられるシステムがあり、美咲が入ったのは2カ月半ほど前なため、おそらく、それに向けた勉強だろう。
 勉強に戻った美咲を横目に見ながらロッカーの私物を取り、小陽は、更衣スペースへ入って、仕切りの厚手のカーテンを閉め、着替える。 
 小陽が雛菊に入ってから、もうすぐ丸1年。
 入店後間もなく起こしてしまった許可証偽造の件は、小陽が心界に転入してから、初期研修の期間や間にあったお盆休みの期間を合わせてみても、まだ2カ月にも満たず、心界の法律などに疎かったであろうことや、物界に遺してきた家族が非常に心配な状態にあったとの特殊な事情から情状酌量され、本来ならば消滅刑・物界で生きている間に犯罪を犯した者の肉体の死後に行く地である地獄への流刑に次いで重い終身刑のところを、禁固3カ月と転入者初期研修のやり直しに減刑されていた。
 刑期を終えた小陽は、心を入れ替え……たわけでは特になく、自分の無力さへの絶望から、許可証を偽造して物界へ行ったあの日以降は物界へ行かず、また、自分のしたことで保護管理責任者としての責任を問われ職場雛菊での1ヵ月間の謹慎を命ぜられてしまった日向正太郎への、せめてもの償いの気持ち、そんな目に遭わされながら小陽を解雇しようとはしなかったことへの感謝の念を胸に、決められた仕事を確実にこなしながら、ただ、その日その日を過ごしている。



「おう、お疲れー」
 日向正太郎が休憩室に入って来たらしく、カーテンの向こうで声がする。
「お疲れ様ですぅー! 」
「お、勉強? 昇給テストの? 」
「そっか。感心感心。……そういや美咲、お前、今回が初盆だよな? 明日からのお盆休み、帰省するんだろ? 行き方とか大丈夫か? 」
「はいっ。お父さんもお母さんもお兄ちゃんも、家族全員一緒なのでっ」
「そりゃ心強いな。……って、あれ? その場合、どこに帰省するんだ? 」
「基本はお父さんのほうのおじいちゃん・おばあちゃんのとこでー、途中でちょっと、お母さんのほうのおじいちゃん・おばあちゃんのとこにも顔を見せに行く予定ですっ」
「大忙しだな」
「はいっ。でも楽しみですぅっ」
「そうだな。美咲は普段からしっかりやってるから大丈夫だから、お盆の間くらいはテストのことは忘れて楽しんでこい」
「はいっ。ありがとうございますぅ! ところで店長のほうは? 店長も、もちろん出掛けるんですよね? 」
「ああ。俺は、もうお盆だけでも70回以上行ってるけどな。ま、楽しみは楽しみだけど」
(…着替え終わったけど……。今、出てったら、この話、わたしにも振ってくるんだろうな……)
 楽しげな2人の会話に、小陽は、更衣スペースの中で溜息を吐いた。
 特に急いで帰る用事などは無いが、美咲は、これから仕事のはずで、着替えなければならず、更衣スペースは、今、小陽のいる、ここしか無いため、早めに出なけれがならない。
 小陽はもうひとつ溜息を吐いてから、仕方なく更衣スペースを出る。
 すると案の定、
「小陽も、お盆休みは帰省するんだろ? 」
 日向正太郎が話を振ってきた。
「いえ、しないです」
 最少限だけ短く答え、
「お先に失礼します」
休憩室を出る小陽。
 閉めたドアの向こうから、
「何かー、前から思ってたんですけどぉ、小陽さんって、暗いですよねー」
美咲の声。
(…暗い……? …まあ、いいけど……)



            *



『どーもー! 皆さん、こんにちはー! リョーピンこと、一ノ瀬良介(いちのせ りょうすけ)でーす! 』
 雛菊から自宅アパートへと帰る途中の繁華街では、小陽の通るこの時間、いつも、このパーソナリティーによる陽気なラジオ番組の音声が流れている。
『さて、皆さん! 明日から、待ちに待った お盆休みですねー! 準備はお済みでしょーかっ? ……え? 今やってるところだ。黙ってろ? はーい、申し訳ございません! 実は、私・リョーピンもまだですっ! 番組が終わったら、閉店間際のお店にダッシュします! と、いうわけで! 今日も夕方の3時間、お盆休みの準備のBGMとしてお付き合い下さいっ……【リョーピン・ターイム】ッ! 』
 そう、明日から、ここ心界は、お盆休みに入る。
 お盆休みとは、物界で行われる行事に合わせた4日間の連休で、その行事に参加するべく、心界で暮らす ほとんどの人が、物界へと出掛けて行く。
 その行事とは、祖先の霊を自宅へ招く、お盆と呼ばれる、仏教行事の盂蘭盆が元となった民族行事で、言うまでもなく、連休の名は行事名から取っている。
 小陽は今回のお盆休みを、どこへも出掛けず自宅でひとり、のんびりダラダラと過ごす予定だ。
 それに備え……と言うか、全ての店がお盆休み中は休業してしまうため必要なこととして、普段は遅めの昼食と夕食を兼ねたガッツリめの食事1食分と翌朝用のパンとヨーグルトと野菜ジュースをコンビニかスーパーで買うだけで通り過ぎる繁華街で、4連休に耐えうるだけの食料品を買い込み、テレビやラジオも放送しないためDVDやCDを大量にレンタルし、雑誌も、ティーンズ向けのファッション誌や少女向けの漫画雑誌など自分の楽しめそうなものを何冊か買い求め、と、いつもに比べ、かなり長時間を過ごしている。
 淡々と必要な物を買い揃えていくだけの小陽とは対照的に、周囲の人々は、皆、一様に、どこか浮き浮きした落ち着かない様子だ。
 人出も多く、普段から賑やかな場所ではあるが、今日は特に賑やかだ。
 雛菊も、今日は、買物を終えた人や途中の休憩と思われる人の来店で忙しかった。
 今朝のテレビのワイドショーの情報に拠れば、お盆休みに心界へ残るのは、まだ転入者初期研修の期間中なため出掛ける資格を満たしていない人々や、その案内員。出掛ける先の無い、ごく少数派の人々。そして、残る人々の最低限の生活や医療、通信、交通手段を確保するために当番制で残るライフライン・医療・通信・交通関連の仕事をしている人々だけで、人口の実に97パーセントの人々が物界へ出掛けるらしい。
 番組内でのコメンテーターの見解としては、それだけ多くの人が出掛けるのは、お盆が物界で古くから行われ根付いている行事であるため、かつて物界で暮らしていた心界の人々は、自分が肉体を失って物界から心界へ引っ越したら、毎年、お盆に実家へ帰省しなければという考えを自然に持っていることと、通常は煩雑な手続きの必要な物界への出界が、お盆休みの4日間は簡略化され身分証明書の提示のみでOKなためではないかとのことだった。
 全ての店が休業してしまう心界へ残る人々が、それに備えて準備する必要があるのは当然のことだが、本当のところ、物界へ出掛ける人々がきちんと仕度を整えることこそ重要で、物界のお盆という行事は祖先の霊を招くと言う性格上、少しは心界の人々を受け入れる用意らしいものがあるのだが、所詮は心界の人のことをほぼ知らない物界の人々の用意。物界で何泊もするためには、充分な準備が必要不可欠なのだ。
 小陽自身も、昨年、何も分からないまま日向三郎から言われるままに用意し持ち込んだ物資に、物界滞在中は、とても助けられた。
 心界に残るにしろ物界へ出掛けるにしろ必要となる準備。
 お盆休みを明日からに控えた、この繁華街の賑わいは、そのためだ。



(よし、じゃあ、あとは、昼・夕ごはんを買って、と)
 お盆休みの間の分の買物を終え、あとは、先程食料品を買った店では あえて買わずにいた、帰宅後すぐに食べる分を買うのみとなったところで、
『では、お盆休みに行きたい場所ランキング! 堂々の第1位はーっ! 』
これまでも、ずっと流れ続けていたはずのラジオの音声が耳に入ってきた。
『ドゥルルルルルルルルルルルルルルル ドゥンッ! 』
このパーソナリティの特技であるボイパのドラムロールに続いて発表された第1位は、
『実家』
 やっぱりね、といった結果だ。2位以下は全く聞いていなかったが、これも今朝のワイドショーで似たような話をしていたため、大体の想像はつく。
 近年では、お盆休みに物界へ向かう人々の行き先は実家とは限らず、出界手続きの楽なこの時期を利用して友人同士で有名な観光地への旅行を楽しむ人も増えているとのこと。「しかし物界は心界で暮らす我々みんなの故郷であり、行き先が実家ではなくとも物界であるならば、それは帰省であることに変わりはないでしょう」と締め括って。
 小陽は前述の「お盆休み中に心界に残る人々」のうち、「出掛ける先の無い、ごく少数派の人々」に当てはまる。
 帰省出来る実家が無いわけではない。物界には両親と3歳下の妹が暮らしている。実家ではないが、父方・母方共に祖父母もいる。ただ単に、「行きたくないから行かない」それだけだ。
 行きたくない理由は、昨年の初盆で帰省した際に、あまりにもつまらなかったため。
 行きの電車の中で たまたま近くに座った女性ばかりのグループの、帰省をとても楽しみにしている会話を盗み聞いていて、自分もと、期待しすぎてしまっていたのも良くなかったのかも知れないが……。
 その会話の中に出てきた、海・山・祭りに遊園地、花火、バーベキュー、肝だめし、お盆の御馳走を囲む懐かしい人たちの笑顔……そんなもの無かった。そのうちの、ひとつも無かった。そう、懐かしい人たちの笑顔さえも……。
 お盆休み前にテレビで特集していた「物界の親族の遊びに同行した際に、より楽しむ裏技」なども、そこそこ真面目に見て覚えておいたのだが、完全に無駄に終わった。
(…まあ、星空やお母さんに何もしてあげられないわたしに、そんなもの期待する資格なんて無いんだけど……)
 小陽は溜息をひとつ。
 帰宅後すぐに食べる分を買うべく、コンビニに入り、唐揚げ弁当と味噌汁代わりに味噌味のカップ麺を選んでレジを済ませ、弁当をレジの20代後半の外見の男性店員にチンしてもらい、カップ麺にお湯を注ぐところまでしてから、帰路についた。



         * 2 *



(……)
 目を覚ました小陽は起き上がり、
(……? )
辺りを見回す。
 寝ていた場所は、自宅アパートのテレビ正面に置いたソファの上。テレビの画面は青一色になって停まっている。
 中途半端に閉まっているカーテンの隙間からは、微かに黄味を帯びた青空が見えた。
 時計を見れば、16時50分。もう夕方だ。
 昨日の帰宅後、小陽は、冷めないうちにと、まず、コンビニで買った唐揚げ弁当とカップ麺で、かなり遅めの昼食を兼ねた夕食を済ませ、大量の買物は要冷蔵・凍の物だけを仕舞うべき場所にキッチリ仕舞って、あとは邪魔にならない程度に部屋の隅に寄せておき、シャワーを浴びてから、ソファに陣取り、レンタルしてきたアニメのDVDを見始めた。
 1話25分ほどの長さのものを、全13話分。途中で強い眠気に襲われたが、何となく見るのをやめられず、最終話まで見始めた憶えはあるのだが、結末などはあやふやで……。
(…いつの間にか寝ちゃったんだ……)
 状況は把握した直後、
(……)
 小陽は何となくだが空腹を覚え、
(…何か食べよ……)
立ち上がって、キッチン……と呼んでいいものかどうか、小さな流しと1口コンロが備え付けられ、そこに冷蔵庫と電子レンジを置いただけの、部屋の一角の調理スペースへ。

(どれにしよっかなー)
 昨日の夕方に買ってきて入れたばかりの冷凍庫内の冷凍食品から、小陽は、気分で、
(うん、これかな? )
 シーフードピラフを選び、取り出して、さあ食べようと、「お召し上がり方」の書いてある袋裏側を見る。
 しかし、
「…凍ったままの本品を袋から出して皿に平らに広げラップをかけ、レンジで7~8分間あたためて下さい……」
イラスト付きのそれを声に出して読んだきり、
(…なんか……)
途方に暮れた。
(難しい……? )
 書いてあることが、よく分からないためだ。
(スーパーの店員さんが、これなら料理を作ったことが無くても「裏に書いてあるとおりにするだけで食べられるから大丈夫」って言ってたのに……)
 そのまま立ち尽くすこと数分。
 でも何とかしなければ、と、頭を強く横に振って途惑いを振り払い、意識的に気持ちに前を向かせた。
 お店屋さんは、もう全部閉まっちゃってるはずだし、頼れる人もいないし、このままじゃ飢え死にしちゃうし、と。
 あらためて、「お召し上がり方」とにらめっこ。しょっぱなから問題にぶち当たった。
(お皿、か……)
 普段、売られている時の容器のまま開けるだけで食べられる物しか買わないため、皿など1枚も持っていない。
 ちょっと考え、ゴミ箱から、昨日の夕食のゴミをまとめたコンビニのレジ袋を拾い、中から、から揚げ弁当の容器と蓋、カップめんのカップを取り出して見比べ、カップめんのカップを皿代わりとして選ぶ。
 カップを水道水で流しながら手で擦り洗いをし、ティッシュで拭いて、
(よし、これでお皿は用意できた。次は……)
手ごたえを感じながら、「お召し上がり方」に視線を戻す。
(…袋から出して……。平らにひろげ……)
 その部分を示すイラストでは、口を開けたピラフの袋を皿の上で斜めに傾け中身を皿に出していた。
(で、それを平らにならすんだね? )
 ふんふんと頷きつつ、ほんの少し緊張しつつ、袋を開封。そして皿代わりのカップの上で傾けると、ひと粒ひと粒パラパラの状態で凍っていた中身がサラサラと出てき、自然とほぼ平らにひろがる。それを、カップを軽く揺することで完全に平らにして、
(うん、オッケー)
満足して頷いてから、次の手順。
(ラップ……)
 ラップは無いため、周囲を見回して代わりになりそうな物を探すが、何も無く、
(…仕方ないか……)
諦めて、ラップはかけないままレンジの中へ入れ、
(7~8分……。じゃあ、とりあえず7分で)
時間をセットしてスタートボタンを押した。
 内部の明かりがつき、回り始めるレンジ。
(これで、あとは待つだけ)

 出来上がりを待つ間に、食べながら見るDVDを選んで、すぐに見られるよう準備。
 そうしている間にピラフの良い匂いが漂ってき、ややして、ピーピーピーと、レンジの終わりの音。
(出来た出来た)
 ちゃんと良い匂いがしていたため、期待を込めてレンジへと歩きドアを開けて中を覗いた小陽だったが、
(…どうして……? )
 ピラフはビチャビチャ。全く美味しそうではなく、ガッカリした。
 しかし、すぐに、
(あ、でも、7~8分って書いてあったのに、わたし、7分しかやってないから、時間が足りなかっただけかも)
気を取り直し、もう1分。
 その場を離れずドア越しに覗きながら待ち、ピーピーピー。
 今度こそとドアを開けたが、状況は変わらず。
(…ラップが無いせいかな……? )
 小陽の脳裏を、いつもコンビニで弁当類をチンしてくれる男性店員の顔が過った。
(今まで当たり前だと思ってたけど、あのお兄さん、実はスゴイ人だったんだな……。…そりゃそうか。それでお給料もらってるんだもん。チンのプロだもんね……)
 自分の実力ではここまでだと断念。
(まあ、毒じゃないだろうし……)
 食すべく、テレビとソファの間に置いたローテーブルの上へと持っていき、そこで初めて、
(あ……)
箸やスプーンなど口まで運ぶための道具も無いことに気づき、自分をちょっと嫌になりながら、ゴミ箱から先程拾った袋の中から、使用済みの割り箸を探し、水洗い。
 その時、ピンポーン!
 玄関の、無駄に明るいチャイムが鳴った。
 小陽は、洗った割り箸を手にしたまま玄関へ。
(……? 誰だろ……? )
 小陽には、雛菊の関係ぐらいでしか、ほとんど知り合いがいない。その中に、自宅を訪ねて来るような間柄の人はおらず、知り合いが訪ねて来たと言えば、もう1年近く前にバイトの初日に寝坊していたのを日向三郎が起こしに来ただけ。
 普段訪ねて来るのは、何かのセールスの人くらい。
(…セールスの人だって、今日はお休みだろうし……。ホント、誰……? )
 首を傾げつつ、ドアの、来訪者確認用の穴を覗く。
 覗いた先にいたのは、
(……店長? )
初めて見る私服姿の、日向正太郎だった。
 小陽の返事が無いためか、向こうからでは見えないだろうに、穴を覗き返してくる。
(何だろ……? )
 もうひとつ首を傾げながら、ドアを開ける小陽。
 途端、そこに立っていた日向正太郎は、鼻をクンクンと動かし、
「いい匂い。メシでも食ってた? 」
 日向正太郎の唐突な言葉に、小陽は途惑いつつ、
「あ、匂いだけです。上手に出来なかったので……」
 すると日向正太郎、
「どう? 」
 小陽の肩の向こうを見ながら靴を脱ぎ、小陽の横を通り過ぎて、室内へ上がり込んだ。
 ズカズカと、玄関から部屋へとつながる短い廊下を進む日向正太郎。
(へっ? ち、ちょっと……! )
 小陽は慌てて、その背中を追う。
 廊下の終点で一旦、足を止め、日向正太郎はキョロキョロ。部屋の中を見回した。
 そしてまた歩き出し、真っ直ぐにテレビの前のローテーブルへ。ピラフの入ったカップめんのカップを手に取り、小陽を振り返る。
「上手く出来なかった、って、これのこと? 」
「あ、はい」
「これ、何? 」
「ピラフです」
「は? 」
「シーフードピラフです」
「え? 」
 2回も聞き返され、小陽は軽くムッとしつつ、今度は大きめの声で、ハッキリとした発音を心掛け、繰り返す。
「冷凍のシーフードピラフですっ! 」
「ああ、うん、ピラフなのは分かったけど、ビチャビチャじゃん? どうして、こんなことになってんの? しかも、何でカップめんの容器? 」
 他の部分はともかく、よく思いついたと自信を持てていた部分まで否定され、それ以前に、例え恩人と言えども勝手に上がり込んできたことにイラついていたこともあり、
「別に、どうだっていいじゃないですか。食べれないワケじゃないしっ! 」
不機嫌に言い返して、乱暴にカップを奪い返す小陽。
 それを日向正太郎は、上方向へヒョイっと取り上げ、
「でも、せっかくだから美味しく食べれたほうがいいだろ? 作り直してやるよ」
言いながら、また軽く部屋の中を見回し、調理スペースへ。
(へっ? えっ!? )
 止める間も無く歩き回る日向正太郎の後を、小陽はついて歩く。

 調理スペース正面に立った瞬間、日向正太郎は、途方に暮れたように立ち尽くした。
 ややして、深い溜息をついてから、流しの横に転がったままだった弁当の蓋をサッと洗ってピラフのカップに被せる。
(あ! なるほど! ラップの代わりにお弁当の蓋! )
 感心する小陽の目の前、日向正太郎は、レンジのドアを開け、弁当の蓋を被せたカップを中へ。ドアを閉め、時間を合わせてスタートボタンを押そうとして、
「あれ? 」
手を止め、
「小陽、レンジが生解凍になってる。もしかして、お前が使った時から、ずっとこの状態? 」
(? )
 日向正太郎の言っていることが分からない小陽。
 答えないでいると、日向正太郎はレンジを指さした。
 その指の先には、左右で出っ張っている高さの違う左右に長い形をした1つのボタン。ボタンの左には「生解凍」、右には「あたため」と書かれており、「生解凍」と書かれた左側の高さが低くなっている。
「これじゃあ、ピラフが出来上がるワケねえよ」
 言って、日向正太郎は、ボタンの右側を押して低くしてから、スタートボタンを押し、レンジ内部に明かりがついて回転しだしたのを、よし、と、レンジに向かって確認したように頷いてから、小陽を振り返る。
「これであとは、待つだけで出来るはずだぜ? 」
「あ、ありがとうございます……」
 日向正太郎は、今度は小陽に頷き、
「小陽はさ、全然、料理とかしねーの? 」
「……? はい、しないです。けど……? 」
 今ひとつ趣旨の分からない日向正太郎の質問に対して、首を傾げながらの小陽の返答。
 日向正太郎は、やっぱりな、と、深い深い溜息をひとつ。それから、「台所に物が無さすぎるんだよな。ラップすら無くて、俺、どうしようかと思ったよ」に始まり、「ホント、最近の若いヤツらって……。大体、世の中が便利になりすぎてんだよな」「その便利な電子レンジもまともに使えないって、どういうこと? 」「物界にいた時、何でも全部お母さんにやってもらうとかじゃなくて、ちゃんと、お手伝いとかしてた? 」。
 そんな日向正太郎の言葉を、小陽は、うるさいなあ……と思いながら、右から左へ受け流す。
(何しに来たんだろ? この人……。帰省するんじゃなかったの? )
 日向正太郎の言っていることは、一般論としてはもっともだと思うし、実は、小陽のコンプレックスでもある。生まれてからずっと病院暮らしだった小陽は、本当に物事を知らなさすぎて、そのために生じる他者とのズレを、心界で暮らすようになってから、よく感じる。
 ほとんどの場合は、下手に口を開かないことで、やり過ごせるが……。
 だからこその右から左。ようは、聞いていて面白くないのだ。
 とりあえず、自分ひとり心界で暮らすのに、今のままの自分で何の不自由も無い。学習は、完全なる受け身で、ちょっとずつしてる。例えば、たった今のピラフの一件でも、電子レンジには「生解凍」と「あたため」を切り替えるボタンがあることと、正しく使わなければピラフが出来ないことを知ったし、来年のお盆休みの時にも まだ転生していないようなら、冷凍食品を買う時に、その裏面の作り方を熟読して、必要な物があれば漏れの無いよう揃えなければ、とも思った。
 日向正太郎の言葉が右から左へと流れ続ける中、ピーピーピーと、レンジの終わりの音。
 喋るのをやめ、日向正太郎は回れ右してレンジのドアを開け、中を覗き込むようにしながら両手でカップを取り出し、
「ほら、出来たぜ? 」
言いながら、小陽を振り返りざま、小陽の正面、顔より少し下の位置で、カップに被せてあった弁当の蓋をはずす。
 瞬間、ボワッと立ち昇る湯気とピラフの香り。
 むせ返りそうになる小陽。
 ほんの一瞬の後、落ち着いた湯気の向こうに見えたのは、ふっくら仕上がった美味しそうなピラフ。
(すごいっ! )
 その美味しそうな様に、ただただ、小陽は感動。これまで、ちょっと面白くない気分だったのが、吹っ飛んだ。
「よし! んじゃあ、温かいうちに食え! 」
 小陽の更に近くへと押しつけるように動かされたカップを、
「は、はいっ! 」
小陽は条件反射で受け取り、
「ほら、あっちで座って! 」
日向正太郎に背中を押されるまま、ソファへ移動。

(美味しそう! )
 ソファに腰掛け、テーブルの上に置いたカップの前で、小陽は、まずは行儀よく手を合わせる。いつもはしないが、作ってくれた日向正太郎の手前……。
「いただきます」
 そして、ひとくち。
 ヤケドしそうな熱さに、口をハフッと動かして熱を逃がすと、魚介の香りが鼻を抜け、味が口いっぱいに拡がった。
(美味しいっ! )
 続けて、ふたくち、みくち。
(美味しいっ! )
 ほっこり幸せな気持ちになって、それを味わうように、確かめるように、一旦、箸を持つ手を止め、口を押さえる小陽。
「ウマいか? 」
 不意に声が掛かり、そちらを見ると、テーブル脇に立ったまま満足げな笑みを浮かべて小陽を見下ろしている日向正太郎と、目が合った。
(…店長……)
 一瞬、本当に一瞬だけだが、完全に存在を忘れていた。
 満足げなまま、日向正太郎は口を開く。
「笑った顔、久し振りに見た」
(へっ? )
 小陽は驚いた。
「わたし、今、笑いましたか? 久し振りに? 」
「笑ったよ。スゲー幸せそうに。お前は基本、笑わねえもんな。うちの店に入って数日間は普通に笑ってたから、それ以来振りだな」
(…知らなかった……。わたし、笑ってなかったんだ……。別に、意識して笑おうともしてなかったけど……。
 雛菊に入って数日間は笑ってたってことだから、笑わなくなったキッカケに心当たりはある……心当たりって言うか、間違いなく、あの時……。許可証を偽造して物界へ行って、自分がお母さんや星空に何もしてあげられないって本当にちゃんと理解して、絶望した時……。それまでは、きっと、分かってるつもりでも、本当にちゃんとは分かってなかったような気がするし……)
「おーい。もしもーし? 」
 日向正太郎の呼び声と共に、大きな掌が視界を上下したことで、小陽はハッとする。
 苦笑している日向正太郎。
「冷めないうちに食おうぜ? 」
 小陽は、
「は、はいっ! すみません! 食べますっ! 」
返事だけを急ぎ、せっかくなので、ゆっくり味わって食べる。
 ヨッコラショ、とその場に腰を下ろした日向正太郎に、見守られながら……。



「ごちそうさまでした」
 食べ終わった小陽がカップをテーブルに置き、その上に箸を揃えて載せて手を合わせるのを待っていたかのように、
「さて、行くか」
日向正太郎は立ち上がる。
(…そっか、帰省する前に寄ったんだ……。何しに来たのかは、結局、分かんないけど……)
 きちんと見送ろうと、小陽も立ち上がった。
「ありがとうございました。ピラフ作ってくれ、て……? 」
 小陽が礼を言っている間に、日向正太郎は、窓辺へ行って鍵が掛かっているのを確かめるように鍵部分に手をやってから、もともと閉まっているカーテンを隙間無くピッチリ閉め直し、すぐ見れるよう準備してあったはずが結局見ないまま放置されていたテレビも消し……と、小陽の視界を行ったり来たり。
(? ? ? )
 何をしてるんだろう? と、その行動が不可解過ぎて、思わず見守ってしまう小陽。
 しかし、部屋の照明を消され、もう夕方遅めの時間となっていたことと、たった今、日向正太郎の手によって、カーテンが隙間無く閉められていたこともあって、室内が真っ暗になり、さすがに、
(! )
驚き、
「あ、あのっ! 」
口を開きかけたところへ、今度は、左の手首をいきなりガッと掴まれ、ビクッとして日向正太郎の顔を見上げる。
「て…店長……? 」
 日向正太郎は、そんな小陽の様子などお構いなしといったふうに、手首を掴んだまま、玄関方向へと歩き出した。
 突然引っ張られたことで、よろけ、転びそうになったのを立て直し、
(……何なの? )
小陽は途惑いつつ、日向正太郎の背中を見ながら、手を引かれるまま足を動かす。
 さっき部屋へ上がり込まれた時もそうだが、こんな暗い中で男性に強引に手首を掴まれたりして、恐怖を感じてもいいはずの状況なのだが、不思議と、それは感じない。
 これまで、あくまでも、ほぼ仕事の時間のみだが、共に過ごしてきた経験からか、日向正太郎が自分を傷つけるようなことをするワケがないと、知らず知らず、妙な信頼を持っていたのかも知れない。
 自分自身について、別にどうでもよいという諦めが、心に深く染みついてしまっているせいもあるかもしれないが……。
 部屋に入って来た時に既に確認済みだったのか、ごく自然な感じで、日向正太郎は、玄関の靴箱の上に置いたままにしておいた小陽の部屋の鍵を、靴を履きながら、空いているほうの手で取る。
 手をつないでいることを忘れているかのように、どんどん玄関を出て行ってしまおうとする日向正太郎。
 小陽は危うく土間部分に素の足をついてしまうところだったのを、昨日の帰宅時に脱いだままの状態でその場にあった靴へと、咄嗟に脚を伸ばして、つっかけ、日向正太郎に続いて外へ出た。
 途端、おそらくはドアを閉めるために足を止めて振り返ったと思われる日向正太郎が、
「あれっ? 」
頓狂な声を上げる。
「小陽、お前、パジャマじゃん」
(…店長がうちに来た時から、ずっとパジャマなんだけど……)
 何を今更、と呆れた小陽を、日向正太郎は、たった今出て来たばかりの室内へと押しやりつつ、
「待ってるから、5分で着替えろ」
言って、ドアをバタン。
(ホント、何なの……? )
 玄関のドアを挟んで外側にいるはずの日向正太郎に溜息をひとつ吐いてから、言われたとおり、小陽は着替える。



 着替え終えた小陽が玄関を出ると、日向正太郎は、よし、と頷き、ドアを閉めて鍵もかけ、鍵を小陽に返してから、再び手首を掴み、歩き出す。
 手を引かれるままに階段を1階まで下りきった先、正面に、長さ太さともに小陽の体より少し大きいと思われる、1本の超巨大なキュウリがあった。キュウリには何故か4本の角材が刺さっており、地面との間を小陽の腰の高さくらいに支えている。
 そのすぐ傍まで歩き、日向正太郎は小陽から手を放して、その手をポンとキュウリの上に置き、
「乗って」
(は? )
 言葉の意味はもちろん分かるが、ワケが分からず、日向正太郎の顔を見上げる小陽。
 日向正太郎は、再度、ポンポンッとやり、
「乗って」
(だから、どうしてキュウリに乗らなきゃいけないの? 大体、いくら大きくたって、キュウリはキュウリでしょ? 乗ったりしたら折れるんじゃ? )
 小陽が乗らずにいると、日向正太郎は、ヒョイッと小陽を持ち上げた。
(!? )
 驚く小陽。
 小陽が驚いていることなど全く意に介さない様子で、まるで荷物でも扱うように無造作に、小陽をキュウリの上へと放り投げる、日向正太郎。
 一旦は上手い具合にキュウリの上に乗っかるも、勢い余って、
(っ! )
落ちそうになり、小陽は慌ててバランスをとる。
 そうこうしている間に、日向正太郎は、キュウリの真下に置かれていた大きめの肩掛けカバンを斜に掛けると、すぐさま自分も、小陽に背を向ける格好でキュウリにまたがった。
 途端、キュウリが宙に浮く。
(っ!? )
 小陽が驚いている間にも、グングン上昇していくキュウリ。
「何ですか? これ」
 小陽の問いに、振り返った日向正太郎は、キョトン。
「これ、って? 」
「このキュウリ」
 日向正太郎は首を傾げる。
「いや、別に、普通の『精霊馬』だけど? 」
「しょうりょううま? 」
「精霊馬、知らないの? 」
 頷く小陽。
 日向正太郎は溜息。
「まったく……。これだから最近の若い子は……」
 その溜息まじりの説明に拠れば、精霊馬とは、物界での行事・お盆の際に供えられる物のひとつで、キュウリに割り箸を刺して作った馬と、ナスに割り箸を刺して作った牛。先祖の霊を送迎するための乗物とされており、日向正太郎の実家の辺りでは、迎え用が、一刻も早く帰って来れるようにとの願いを込めてキュウリの馬、送り用が、ゆっくり戻って行けるようにとの惜別の気持ちを表してナスの牛。これは地域によって違いがあり、牛が迎え、馬が送りの地域もあるとのこと。物界にいる親族が精霊馬を用意すると、お盆初日の夕方、物界の親族の暮らす地域の風習に合わせてキュウリの馬なりナスの牛なりが心界へ現れ、現れた時点では一般的なキュウリ・ナスのサイズのものが、乗るべき人が触れることで、乗れるサイズに巨大化するのだという。そして、実際にその巨大化した精霊馬に乗り、物界へ向かうとのことだった。
 小陽は、へえ……と感心。
「物界へ行くのに、こんな交通手段もあったんですね」
「お盆初日に行く時と最終日に帰る時の限定だけどな」
(…そりゃ、そうだよね。普段は指導階級の人の付き添いか許可証が必要なのに、管理しきれなくなるし……)
 そこまで考えて納得しかけた小陽だったが、
(あれっ? )
気がつく。
 簡略化されているとは言え、お盆期間中だって手続きは必要なはず、と。
 そう日向正太郎に言うと、
「ああ、精霊馬でも、駅には行くよ? こっち、心界の駅で手続きして、改札くぐって、物界に入る時にも、ちゃんと物界の駅の改札くぐるし」
(そうなんだ……。好き勝手に自分の家から直接実家とかへ行けるわけじゃないんだ……)
「じゃあ、お盆休みの時にしか乗れない特別な乗物っていうだけで、特に何かイイことがあるとかじゃないんですね? 」
 自分には関係無いが、ちょっと残念な気分になって言う小陽。
 返して、日向正太郎、
「いや、そうでもねえよ? 小陽も去年は帰省したんだから、このお盆休みの時期の電車の混みっぷりは知ってるだろ? もう朝からずっと満員の状態で、電車待ちの列が夕方になっても消えないじゃん。
 駅で改札くぐるって言っても、精霊馬の場合、電車待ちの奴らの列に一緒に並ぶわけじゃないし、まあ、時間が夕方以降に集中するから、多少渋滞はするけどな。でも、俺は今まで5分以上待ったことないし。改札さえくぐっちまえば、電車の中みたいに窮屈な思いをすることもなく向こうの改札に向かって、改札でまた少しだけ渋滞に巻き込まれてから、そこからも、精霊馬に乗ったまま目的地まで行けるし。電車の奴らは、サブロー君みたいに瞬間移動出来る人はいいけど、そうじゃなければ、歩くか、物界の乗物の中に紛れ込んでいくしかないだろ? 」
 小陽は昨年のお盆休みの時の電車のことを思い返す。
(ああ、確かに……。待ち時間が長いから何か時間を潰せる物を持って行ったほうがいいっていうサブローさんからのアドバイスで用意した本を読みながら、途中でお腹空いてお菓子を食べたりなんかもしながら、結局、半日くらい、電車待ちの列に並んでたもんね……。精霊馬だと、その待ち時間が無いんだ……。それに、電車を降りてからも、わたしの実家は、たまたま駅から近いから、何とも思わなかったけど、遠い人は精霊馬で行けたら楽かも……)
「よし、行こう」
 小陽が納得したところへ、日向正太郎が唐突に言い、直後、それまで空中に浮いていただけの精霊馬が、駅の方向へと動きだした。
 小陽は驚き、
(へっ!? まだ、わたしが乗ったままなんだけどっ! )
慌てて降りようとする。
 それを日向正太郎は咄嗟に掴まえ、
「危ねえよ。空の上だって忘れたのか? しっかり掴ってろ」
「だって、店長が行くなら、わたし降りないと」
「何で? 何か用事でもあんの? 」
「いえ、無いですけど……」
「だったら、一緒に行こうぜ? 俺の実家」
(っ!? どうしてそうなるのっ!? )
 日向正太郎の突飛な発言に、思わず、その目を凝視する小陽。
 日向正太郎は優しく受け止め、
「お前、ずっと元気無かったからさ。どうせ自分の実家に帰省しないなら、俺の実家って大勢集まるし、スゲー楽しいから、元気出るんじゃないかと思って、誘いに寄ったんだ」
「…店長……」
 小陽は日向正太郎が自分を気にかけていてくれたことに驚き、同時に、キュンとなる。
(あんな迷惑をかけたわたしを……)
 思えば、日向正太郎は、小陽のせいで罪を負ってしまったことについて、責めるどころか、口にしたことすら一度も無い。
(…大きな人だな……。人間的に、何て、大きな人なんだろ……)
「な? 行こうぜ? 」
 答えを求められ、感激しながら頷いたところで、小陽はハッとする。
(わたし、滞在に必要な物資を何も持ってない! )
 お盆を物界で過ごすにあたって、物資の用意は必須だ。
「あの、店長……。わたし、お盆休みは、ずっと家から出ないつもりでいたので、物界に行ける用意が何も……今、持ってないとかじゃなくて、家にも無いんですけど……」
 行きたい気持ちになっていたのに、これじゃあ行けないな、と、残念に思いながら、上目遣いに日向正太郎を窺う小陽。
 すると日向正太郎、呆れたように、ちょっと怒ったように溜息まじり、
「お前は、一体、誰に向かって物を言ってる? 」
 小陽は、ビクッ。
(何か、怒らせちゃった……? )
 そんな小陽に、日向正太郎は、得意げに親指で自分を指してニヤッと笑い、
「俺様だぜ? ぬかりは無いさ。小陽の分も、俺が持ってるよ」



 駅へ行くと、電車を待つ人の列は、まだ駅の外まで長くつながっていたが、日向正太郎が小陽のところへ寄っている間に、精霊馬の人たちの混雑の時間は過ぎたようで、少しも待つことなく改札をくぐることができた。
 小陽が何度か乗った心界と物界の間を結ぶ電車は、窓の外に景色と呼べるようなものは無く、ただ真っ白だったが、それは、精霊馬では、一見同じようで、全く違っていた。
 改札をくぐって、電車の線路を辿って空中を進み、暫くは、見覚えのある駅前の景色が流れていくが、次第に靄がかかったようにボヤけ、3分も経たないうちに、ほぼ白一色になる。
 電車の中からは、窓そのものが白いのではと思えるくらい平面的に真っ白に見えるのだが、精霊馬では、まるで巨大な雲の塊の中をくり抜いたように不安定な大きなトンネル。そこには、ただ線路があるだけで、おそらく、線路が無ければ、上も下も分からない。物界に近づくにつれ、心体では重力に影響されなくなるため、その感覚は強くなる。
(…なんか、怖い……)
 もしも精霊馬から落ちたら、この白い雲の中へ、底なし沼のように引きずり込まれてしまう感じがして……。
 知らなかったとは言え、よくこれまで平気で電車に乗っていたな、と思った。

 物界の駅に着き、改札をくぐるべく、一旦、ホームに降り立って、ホッとして大きく息を吐く小陽。
 日向正太郎から不思議そうな目を向けられ、電車の線路を辿って空中を進んでいる時に何となくだが恐怖を感じたのだと理由を話すと、
「実際、気をつけたほうがいいぜ? あの雲みたいな壁の中には、中間域(ちゅうかんいき)がウヨウヨいるからさ、落ちたら戻って来れなくなる」
「中間域? 」
「肉体の死を迎えても何らかの理由で物界に残っている人たちを、そう呼ぶんだ。物界に強い未練があって自分の意志で残った人とか、肉体の死の原因が自殺だったために案内員のリストに載っていなくて迎えが来なかった人とか」
(…そうなんだ。自分の考えで残ることも出来るんだ……。じゃあ、もしかしたら、わたしも、もし、肉体の死を迎えた時に、既にお母さんや星空の心配をしてたら、残れることを知ってたら、残ってたかも……)
 そう思った直後、小陽は、あれっ? と疑問を持った。それって、中間域として物界で暮らすのって、すごく大変なのでは、と。
(だって、お盆休みの、ほんの4日間、物界に滞在するだけでも、ちゃんとした用意が必要なのに……。それに、前にサブローさんからされた説明に拠ると、転生するのだって、心界である一定の期間を過ごすことが前提になってるみたいだから、中間域になると転生しないことになって、その大変な生活を、もしかしたら永遠に続けることになるワケでしょ? )
 それを日向正太郎に言うと、
「んー、俺は、そういうの詳しくないから分かんないけど、でも、俺が見かけたことのある中間域は、大変かどうかはともかくとして、漏れなく不幸そうに見えたよ。
 で、不幸だから腹を立てやすいのかさ、中間域って、刺激しなければ特に害は無いって言われてるけど、この間、俺の知り合いが襲われてさ、聞いたら、目が合っただけだって言うんだ。今、通って来た、心界の駅と物界の駅を結ぶ線路のトンネルなんかも乗物を降りちまうとそうだけど、近づいただけで襲われるって言われてる場所も何ヵ所もあるし……。
 もともとは、俺らと全く同じ存在のはずなのにな……。心界に来れなかったこと自体が不幸なのか、小陽の言うように大変な思いをしてるから不幸になったのか、それは分からねえけど」
(不幸、か……。わたしが、もし残ってたら、確実にそうだったよね……。
 暮らしが大変かどうかなんていうのは、心界での今の生活を基準としての、わたしの主観でしかないし、案外、普通にやっていけてたかも。中間域として物界で暮らす先輩に色々教えてもらえたかもしれないし……。
 でも、やっぱ、気持ち的には……。お母さんや星空が心配だからって残ったところで、何をしてあげられるわけでもないし、今は離れてるから目を背けていられるけど、傍にいたら、目を背けることさえ出来なくて辛いんだろうな、って、想像つくから……)



            *



 物界の駅の改札をくぐり、また精霊馬で空へと上昇。西の方角へ。
「あと30分くらいで着くから」
 日向正太郎の言葉に、小陽は、ああ、やっぱり精霊馬は必要かも、と思った。
 精霊馬のスピードは、結構速い。あくまでも体感だが、時速にして80キロは出ていそうだ。小陽の自宅から心界の駅へと向かった時のように空中を行くようだから、障害物は関係無いはずで、それなのに30分もかかるということは、と。

 宵闇に沈んだ地上の建物や街灯には灯りが点り、星屑のように足元に散らばる。
(キレイ……)
 小陽が見惚れていると、それに気づいたか、日向正太郎、
「今日は天気がいいから、もう少し時間が遅くなって空まで暗くなると、星が出て、どっちが地面か分からなくなって、スゴイぜ? 」
(…うーん、それはな……。それって、さっきのトンネルみたいな状況ってことでしょ? それはちょっと……)
 しかし心配には及ばなかった。空まで暗くなるより前に、だいぶ田舎のほうへ来たようで、足元は極端に灯りが減り、底の見えない漆黒の闇となったのだった。
(…これはこれで怖いんだけど……)
 その時、ガクンッ! 精霊馬が大きく揺れた。
(! )
 小さく叫んだ小陽に、日向正太郎、
「しっかり掴ってろ。着くぞ」
 直後、精霊馬は急降下。大きな黒い塊の中へと吸い込まれていく。



(…焚火……? 夏なのに……? それに、誰も傍にいなくて大丈夫? まあ、小さい火だし、燃え移りそうな物も無いし、風も吹いてないけど……)
 精霊馬の降りた場所は、ボコボコとした、一応、という程度の舗装をされた、僅かな傾斜のある道の上。
 目の前には、扉の無い、石柱だけの門と、門の中央の地面の上に、ごく小さな焚火。門の両端から左右へ続く生垣の向こうに、灯りの点った平屋の民家が見える。
 背後には、深く深く真っ暗な森。
 そう、精霊馬を吸い込んだ大きな黒い塊は山で、精霊馬は、その山の中に建つ民家の前に降りたのだ。
 空がまだ、それほど暗くないせいか、離れた場所から見たところの黒い塊内部にしては、意外と明るい。
「よっ」と小さく声を漏らしながら、日向正太郎は精霊馬を降り、馬上の小陽に手を差し伸べる。
 小陽は遠慮しつつその手を取り、地面へと降りた。
 途端、精霊馬がフッと跡形もなく消え、小陽は思わずビクッ。
 そんな小陽のリアクションに苦笑しながら、
「ここが、俺の実家」
言って、
「行こう」
小さな焚火のある門へと歩き出す。
 日向正太郎に拠れば、この小さな焚火は、お盆初日の夕方に焚かれるもので、「迎え火」といい、自分たち心界に暮らす者が迷わずに実家へ帰って来れるようにするために、物界の親族などが用意してくれる目印らしい。
(へえ、そうなんだ……)

 日向正太郎の説明を聞きながら、彼の後について、中央で燃える迎え火を避けつつ門をくぐると、そこから左斜め3メートルくらい先の玄関の前でウロウロしている、見覚えのある男性の後ろ姿があった。日向三郎だ。相変わらずキチンとした印象の服装だが、一応、私服なのだろう。上が半袖の白いポロシャツで、ズボンにはピシッとした折り目が入っていない。
(…サブローさん……? )
 心の中で小陽が呟いたのと、ほぼ同時、
「サブロー君っ!? 」
 日向正太郎が驚いたような声を上げる。
 小陽と日向正太郎のほうを、途惑った表情で振り返った日向三郎は、2人の姿を認めたと思われた瞬間、パッと顔を輝かせ、
「ああ、正太郎! …と、小陽、さん……? 」
 日向正太郎が、小陽が連休に出掛ける予定が無く、最近、元気も無かったため、元気づけようと連れ出したのだと、小陽の一緒にいる理由を軽く説明した上で、ああ、そうなんだね、と納得した様子の日向三郎に、
「でも、珍しいね。サブロー君がお盆に帰省なんて」
「珍しい、って言うか、初めてだよ。僕、心界へ行ってから、かなり早い段階……まだ初めてのお盆休みを迎える前に案内員になって、それからずっと、お盆休み期間は仕事だったから」
 そこまでで一旦、言葉を切り、日向三郎は、ちょっと家の中を気にした感じで、バツが悪そうに作り笑いをし、
「もう姉さんたち、皆、揃ってるみたいだし、70年以上も経って初めてなんて、何となく入りづらくって」
 日向正太郎は、そうか、と頷き、
「きっと、叔母さんたち喜ぶよ」
言って、一緒に入ろう、と、まず自分が、戸を開けないまま通り抜けて左半身だけ玄関の中へ入り、小陽とサブローを待って振り返った。
 それを見て、
(! )
 小陽は驚くが、すぐに思い出す。自分たち心体にとって、物界はそういうものだった、と。
 ほぼ1年ぶりに訪れた物界。そんなこと、完全に頭から抜けていた。
 日向正太郎・三郎は分からないが、小陽自身は、自力で目の前のこの戸を動かすことなど出来ず、中へ入るには、そのまま通り抜けるのが当然なのに……。
「小陽? 」
 日向正太郎に促され、
「あ、は、はい。お邪魔します」
 入口の戸などを通り抜けることは、以前、物界へ来た際に、普通にしていたことなのだが、あまりに久し振りなため、ちゃんと出来る気がせず、ちょっと勢いをつけ気味に、小陽は玄関の中へ。
 入れて、ホッとする。
 日向三郎が小陽のすぐ後に続き、最後に日向正太郎が完全に入った。

 玄関を入って、ほんの1メートル正面には、障子。その向こうからは、複数人の女性のものと思われる明るい笑い声が響き、非常に賑やかだ。
 靴を脱いで玄関の段差を上がった日向正太郎が、また先頭で左半身だけ障子を入って、一旦、頭部だけを完全に向こう側へ通し、
「どうも」
障子の向こうにいるであろう人たちに挨拶。再び玄関側へ頭部を戻し、小陽と目を合わせて頷く。
 それを受け小陽、明らかに向こう側に人がいる状況なため、遠慮がちに、
「失礼します」
そうっと、しかし、また無意味に力を入れてしまいながら、障子を入る。
 障子を入った、そこは、18畳の畳の部屋で、笑い声の主と思われる、外見年齢20代前半から30代半ばくらいまでの、和装だったり洋装だったり、派手だったり地味だったり、間違いなく他所行きだったり恐らく普段着と思われたり、様々な服装をした女性たちが9人いて、大まかに2グループに分かれて座り、お喋りを楽しんでいた。
 入っていきなり、普通に寛げる環境の部屋であったことを、小陽は、意外に感じる。
 現在の自宅アパートと物界の実家以外の家に足を踏み入れたことが無く、他はテレビのアニメやドラマなどでしか、他所の家の内部を見たことの無い小陽が、これまで目にしたことのある家は全て、玄関を上がったら廊下、もしくは、ちょっと広めのホール。その壁面に、他の部屋へとつながる入口がある、という造り。
 玄関を入って、たった1メートル先を、障子で遮られていた時点で、既に、変わった造りだという印象を持っていたが、障子の向こうは当然、廊下が続いているかホールが広がっていると思い込んでいたのだ。
 自分に付き添うようにして全身を部屋へ入れた日向正太郎を振り仰ぎ、小陽がそう言うと、日向正太郎、
「そうか? この辺の地域の古めの家じゃ、わりと当たり前の造りだけどな」
と返し、今、入って来た玄関は、本来、客専用で、家族は勝手口から出入りするのだと補足。それの更に補足で、
「結構便利なんだぜ? この造り。来客があった時は、いつもこの部屋へ通すんだけどさ、玄関とこの部屋さえ常にキレイにしておけば、突然の来客にも恥ずかしい思いをしなくて済むだろ? 」
(…まあ、確かに……)
 部屋には仏壇と、その手前に、低いテーブル(四隅に立てた笹竹の上部に縄を張り、ゴザを敷いた天板の上に、普通サイズのキュウリで作られた精霊馬をはじめとする多種多様な物が所狭しと並べて飾られている)があるだけと、18畳の広さのわりには物が少ないためキレイを保つのは難しくないかも知れないが、
(恥ずかしい思い、って、どういうこと? お客さんを通すのに、汚い部屋だと恥ずかしいの? )
その感覚的な部分が、小陽には理解出来なかった。
 今、この部屋の中にいる人は、お盆で帰省しているのだから、ほぼ間違いなく、この家の身内である中に在って、
(わたしは、客の立場だけど……)
 この部屋は今、キレイに片付いているが、仮に散らかっていたとして、客の自分が、それを理由に、この家の人や、家そのものに悪い印象など持つだろうか?
(だって、突然来てしまったのは自分なんだし、もし前もって言ってあったとしても、自分のためにわざわざ片付けとかされたら、申し訳ない気持ちになると思うんだけど……)
 つい考え込んでしまった小陽の隣で、日向正太郎は、おもむろに後ろを振り返る。
(何だろ……? )
 小陽がそちらに気を取られる形で考えるのをやめた直後、
(! )
 日向正太郎が、顔だけを玄関との境の障子に突っ込んだ。
 自分だって障子を通り抜けて部屋に入っていながら、また驚いてしまい、小陽は溜息。
(……ダメだ、全然慣れない……)
「サブロー君? 」
 障子の向こうで、日向正太郎が口を開く。
 それで初めて、
(あ、サブローさん、まだ玄関にいたんだ)
小陽は、サブローが部屋に入って来ていないことに気づいた。
 日向三郎は、日向正太郎の呼びかけに答える。
「やっぱ、ちょっと気まずくてね……。うん、今、行くよ」
 分かった、と返し、顔を部屋のほうへ戻す日向正太郎。
 ややして、日向三郎が静かに、辺りを窺うように、俯き気味、目だけを落ち着きなくキョロキョロ動かしながら、障子を通り抜けてきた。
 瞬間、
「サブちゃんっ!? 」
 部屋の中の9名の女性のうち、外見年齢30代半ばくらいの、和服をちょっと緩めの印象で小粋に自然に着こなした強面の女性が、吸っている、物界の物とは全くの別物であるため煙の出ない煙草を口から離したタイミングで目を見開く。そして、手にしていた、携帯用灰皿という名のケースに、タバコを仕舞いつつ、立ち上がり、
「ねえ、サブちゃんなんだろう? 久し振りだねえっ! 」
日向三郎に歩み寄った。
 繰り返された「サブちゃん」の語に反応したようで、他の8名の女性の中で7名までが、
「サブちゃん? 」
「サブちゃんだって」
わらわらと日向三郎の周りに集まって来、取り囲む。
 残り1名・20歳前後で飾り気の無い外見を持つ小柄だが活発そうな女性は、低いテーブル近くに陣取って座り、精霊馬などと一緒に飾られている、あんこのついた団子を食べるのに夢中のようだ。
「今、サブロー君を囲んでる人たちが、サブロー君のお姉さんたちだよ」
 日向正太郎が、小陽向けに説明した。
(へえ……! )
 小陽は驚く。
(お姉さんが8人! 店長のお父さんがサブローさんのお兄さんだって言ってたから、お兄さんだっているわけで……)
「サブローさんって、何人兄弟なんですかっ!? 」
「あの8人のお姉さんたち以外に兄貴が2人いるから、サブロー君本人を合わせて11人だよ」
(11人っ! すごいっ! 男女混合だけどサッカーチームが作れちゃう!! )
「長寿の血筋なのかさ、お姉さんたち皆が皆、高齢になってからの心界行きだったから、わりと若めの外見年齢してんだ」
(高齢になってからだから、若い外見……? そういうものなの? ……って、そっか、そう言えば、わたしが肉体の死を迎えて心界へ行くのに迎えに来てくれた時、サブローさんが、自分のお姉さんたちのことじゃなく一般論として、そんなこと言ってたっけ。
 肉体の問題は肉体の問題でしかないから、肉体から解放された瞬間、肉体に関する不自由は無くなる。高齢で肉体を失った人の場合は、まだ元気に動けていた若い頃のものに、動きだけでなく外見も戻ったりする、って……)
 最初に日向三郎に気づいた女性が、
「心界も広いから、全然会わないしねえ……」
日向三郎の正面で、懐かしそうに目を細める。
 日向三郎は、自分の正面のその女性の顔を見つめ、
「…末子(まつこ)、姉さん……? 」
「『? 』って、なんだい。見てのとおりだろう? あれだけ面倒みてやった、わたしの顔、忘れたのかい? 」
 末子、という名らしい女性は、ちょっとムッとした様子。しかし、作っている。嬉しそうに、口元が笑っている。
 返して、日向三郎、
「だって末子姉さん、随分と擦れ……じゃなかった、雰囲気が変わったから」
わざとらしく言い間違えて、甘えを含んで上目遣いにイタズラっぽく笑った。
「言ってくれるじゃないか」
 末子の口調は相変わらず怒っている風。それでも、どうしても口元は笑っていて、弟との再会が嬉しくて堪らないのだと、実に素直に語っている。
 それを隠そうとしたのか、末子は再び煙草をくわえた。
「まあ、97年も物界で生きてりゃ、色々あるさ。平和な心界と違って、物界ってやつは、まったく。…ねえ……? 」
 そこへ、
「正太郎」
 小陽から見て右手方向から、日向正太郎に向けて声がかかった。
 見れば、玄関のほうでない、その向こう側から賑やかな複数の人の声が聞こえることから他の部屋とつながっていると思われる障子の前に、これまで部屋の中で見かけなかった、和服をキリッとキチンと着た20代後半の外見年齢の凛とした女性が立ち、小陽と日向正太郎のほうを見ていた。
 女性は真っ直ぐに日向正太郎の前まで歩いて来、ニッコリ笑顔だが険を含んで、
「こちらのお嬢さんは、どなた? 」
 日向正太郎は、珍しく慌てた様子。
「あ、いや、そういうんじゃなくて、俺の店のバイトの子だよ。物界に帰る場所が無いから、連れて来たんだ」
(…なんか、ホントのことなのに言い訳みたい……。大体、『そういう』って? )
 慌てている日向正太郎が可笑しくて、小陽は、その姿を楽しみつつも、女性からチラチラと向けられる視線が何となく居心地悪く、
(…帰ろっかな……。歓迎されてないみたいだし……)
溜息をひとつ。
 その時、
「大丈夫だよー、良姉(よしねえ)ー」
 遠くから、明らかに小陽のいるほうへ向かって、不愛想な声がかかった。先程から1人で団子を食べていた、小柄な女性だ。
 その声に、日向正太郎を慌てさせた凛とした女性が、そちらを向く。この女性が「ヨシネエ」らしい。
 小柄な女性は陣取っていたテーブルの近くから全く動かず座ったまま、団子で口をモゴモゴさせたまま続ける。
「正ちゃん、全然もてないじゃん。せっかく自分のものになった久姉(ひさねえ)に、ストーカー並みにゾッコンなのが証拠だよー」
 ヨシネエ、と呼ばれた女性は、そうよね、と頷き、険、とまではいかなくなったが微妙に姑根性的なものが感じられる笑顔を小陽に向け、
「失礼しました。私は正太郎の姉の良子(よしこ)です。正太郎が、いつもお世話になってます」
 小陽は、その姑根性を敏感に感じ取り、なんだかなあ……と思いながら、
「こちらこそ。あ、あの、野原小陽といいます」
 良子は満足げに頷き、続いて、小柄な女性を上に向けた掌で指し、
「そして、あちらが妹の幸子(ゆきこ)です」
 良子の手の動きに合わせて、小陽が、幸子、と紹介された小柄な女性を見ると、目が合った。
 幸子が、ニカッと明るく笑う。
(店長のお姉さんのヨシコさんに、妹のユキコさんか……。『ヒサネエ』? は誰だろ? この部屋の中にいる人? どの人だろ? 何か、店長にとって特別な人っぽい言い方だったけど……)
 この部屋の中にいる人だとすれば、日向三郎の姉たちのうちの誰か。答えを求めて、小陽は、日向三郎を取り囲む女性たちに目をやった。
(この人たちは、ユキコさんにとってお姉さんじゃなく叔母さんだけど、わたしも、お母さんの妹のこと、15歳しか違わないから、『ネエネ』って呼んでたし……)
「ちょっと! 」
 突然の大声に、ビクッとする小陽。
 思考を遮られ、反射的に声のほうを見れば、良子が幸子のもとへ早歩きで移動しているところだった。
 幸子の正面まで行った良子は、腰を屈めて、ズイッと幸子と目線の高さを近づけ、
「それは皆で食べるお団子でしょうっ? どうして1人で食べているのっ? 」
(…さっきから食べてたけど、気づかなかったのかな……? )
 良子は身を起こし、
「皆さん、お団子いただきましょう! 」
部屋の中を広く見回しながら全体に声をかける。
 良子の注意が完全に自分から逸れ、ホッとしたようにも見える日向正太郎、
「精霊馬を知らないくらいだから、あの団子のことも知らないだろ? 」
 小陽相手に団子の説明をする。
 団子の名前は「お迎え団子」といい、お盆の初日に物界親族が用意してくれる供物で、2日目にはおはぎ、3日目にはそうめん、最終日には「送り団子」と呼ばれる白い団子が用意されるのだという。
 へえ、色々決まりごとがあるんだ……。きっと、昔からずっと続いてることなんだよね。それって、スゴイな……などと、感心しつつ、きちんと日向正太郎の顔を見てフンフンと頷き、聞き入る小陽。
「ちなみに、それらの並べてある、あのテーブルは、『精霊棚(しょうりょうだな)』」
 と、日向正太郎が仏壇前の低いテーブルを指さしたため移動した視線の先で、目にした光景に、
(!!! )
小陽は衝撃を受けた。
 それは、再び身を屈めた良子の手元。
 精霊棚の上の団子の載った皿の端を掴んでいるように見える形で片手を添えた良子が皿を持ち上げるような動作をすると、物界の物である皿や団子そのものは当然、動かないが、良子の手に実際に端を掴まれて、若干透きとおっているようにも見えるが全く同じ形・同じ大きさをした皿と団子が、精霊棚の上に飾られたままの状態の、もともとの皿と団子の上に現れたのだ。
(…分裂…した……? )
 そう、まさに、数年前に院内学級で見たDVDの中の、細胞分裂のイメージ。
 良子は、その動作を繰り返して、新たに団子を出現させては、良子の呼び掛けで精霊棚の近くへ集まってきていた日向三郎の姉たちに手渡していく。
(…どういう仕組みっ……? )
 小陽の見守る中、団子は姉たちに行き渡り、もう3回、同じ動きを繰り返して現れた3つを器用に全て持った良子は、玄関側の障子付近に立ったままの日向三郎のもとへ歩き、うち1つを、
「はい、三郎さん」
渡す。
「ありがとう」
 日向三郎からの礼に対し、良子は、余計なものを全く含まない非常に感じの良い笑みで返し、座って食べるよう勧めてから、いかにもついでなふうに、小陽と日向正太郎にも渡し、座るよう言った。



(うん、見た目はちょっと透きとおっちゃってるけど、普通のお団子だ)
 良子から勧められるまま……と言うより、雰囲気的には、言いつけを守って(? )その場に座り、日向正太郎・三郎と一緒に、普通に美味しく団子を食べる小陽。
 と、3人の中どころか部屋の中にいる人の中で真っ先に食べ終わった日向正太郎が、おもむろに立ち上がり、
「サブロー君。ちょっとの間、小陽のこと頼める? 」
「ああ、うん。『ヒサちゃん』のとこへ行くの? 」
 日向三郎の問いに、日向正太郎は、はにかんだ様子で頷いてから、他の部屋とつながっていると思われるほうの障子を通り抜けて行った。
 小陽は目で追う。
 障子の向こうは、ここ数分の間に、先程よりかなり人数が増えたようで、更に賑やかになっている。
(『ヒサちゃん』……。ヒサ……。さっきも聞いた名前……。ホント、誰なんだろ? )
 小陽の視線の方向に気づいたらしく、日向三郎、
「だいぶ賑やかになってっきたね。物界の親族の人たちも、もう揃ったのかな? 」
(そっか、障子の向こうにいるのは、物界の人たちなんだ。…じゃあ、『ヒサ』さんも、物界の人……? )


           * 



(美味しかった……)
 普段、自分では団子を買わない小陽が、必要以上に味わっていたために……いや、それはあくまでも小陽自身の実感であり、実際には、『ヒサ』なる人物について思い耽っていた間に完全に手も口も止まってしまっていたために時間がかかった部分が大きいと思われるのだが、とにかく、ようやく食べ終えたところへ、突然、日向家の物界の親族たちのいる部屋との境の障子が、スパンッと、大きな音と共に開いた。
(! )
 小陽は、ビクッ。
 開いた障子から、湯気の立つ温かそうな料理を載せたトレーを両手で支えた、40代半ばくらいの体格の良い女性が入ってきた。
 女性の体越し、向こうの部屋の畳の上に腹ばいになってゲームをしている小学校高学年くらいの少女が、
「もう! うるさいっ! もうちょっと静かに開けてよっ! 」
ツッコみ、すぐ隣で同じく腹ばいでゲームをしていた、若干年下と思われる少女に、
「ねえ? 」
 相槌を求められた少女は、チラッと女性のほうを窺う素振りを見せてから、困ったように曖昧に笑った。
 女性は振り返り、
「あんたたちが、私だけにやらせないで、お手伝いしてくれれば、静かに開けれるけどね? 」
言って、器用に足を使って、ピシャリと、また大きな音をたてて障子を閉める。
 その閉まるか閉まらないかの瞬間に、女性のすぐ後ろについて、苦笑しながら、日向正太郎が戻ってきた。
 女性は精霊棚の前まで進み、手にしていたトレーを、一旦、畳の上に置きつつ膝をついて、棚の上を手早く整理し手前中央にスペースを作って、トレーを置き、合掌する。
 ビクッとしたのから、やっと立ち直った小陽が、
(…びっくりした……。心臓止まっちゃうかと思った……。…って、随分前に止まってるけど……)
溜息を吐いている隣へ、日向正太郎は、腰を下ろした。
「まったく、相変わらずだな。万寿美(ますみ)ちゃんは」
 そして、小陽と日向三郎向けに、料理を運んできた合唱している女性が自分の孫の妻であること、怒られていた少女2人のうち大きな子のほうが、今日華(きょうか)という名前の小学6年生で、万寿美の娘、小さな子のほうが、里桜(りお)という名前の小学4年生で、また別の孫の娘であることを説明する。
 日向三郎は感慨深げに、
「…僕は直接、自分の子孫を遺すことは出来なかったけど、僕が全然、物界へ来ないでいる間に、僕の知らない間に、僕と血の繋がりのある人が、何人も生まれていたんだね……。
 さっきから、隣の部屋が賑やかで、そこにいるのが、この家の物界の親族の人たちだって分かってたけど、考えてみれば、単純計算で、そのうち半数以上の人が、僕と血の繋がりのある人なんだ……」
(孫……)
 小陽は、心に隙間風が吹いたのを感じた。よく分からないけれど、何となく寂しくて、何となく虚しい。
(孫がいるってことは、子供がいるワケで……。子供がいるってことは……。…店長、結婚してるんだ……。知らなかった……)



 日向正太郎の孫の妻・万寿美の手で精霊棚にトレーごと供えられた料理のメニューは、白飯・ナスの味噌汁・アジの開き・カボチャの煮物・キュウリのぬか漬け。
 団子を食べてから、まだあまり時間が経っていないが、せっかくだから温かいうちに夕食として食べるべく、団子と同じ要領で良子がトレーごと分裂させ、部屋の中の心界在住者13名、全員に行き渡らせた。
 これは団子とは違い、キチンとした3度の食事のうちの1回なのだから、ちゃんと皆で食べようと、誰からともない意見により、13人で大きな円を描くように座り、揃って、
「いただきます」

「このナスもカボチャもキュウリも、この家の畑で育てたものなんだ」
 隣に座った日向正太郎の自慢げな調子に、小陽は、
「へえ、そうなんですね。何がどうって言われても困るけど、うん、何か、全然違います。美味しいです」
正直、あまり得意ではないのだが、頑張って口に出して褒める。嘘やお世辞ではなく、本心。ただ、良い意味の言葉ほど、実際に口に出すと薄っぺらく嘘っぽくなってしまう気がして……。
「だろ? 」
 日向正太郎は、満足げにウンウンと頷く。
 日向正太郎が頻りに話しかけるため、まだ思い耽る材料は変わらずあるものの、箸が止まってしまうことなく、小陽は、他の人たちと同じくらいのペースで順調に食べ進められていた。
 その時、それまで小陽の、日向正太郎とは反対隣で食事に夢中だった幸子が、ハッと顔を上げ、鼻をクンクンと鳴らす。
 直後、パッと顔を輝かせ、
「花火! 花火のニオイだ! 久姉たち、花火始めたみたいっ! 」
立ち上がり、外へ出て行こうとしたのか、玄関方向へ1歩、踏み出す。
 それを、
「待ちなさい」
小陽とは反対側の幸子の隣に座っていた良子が、ガッと手首を掴んで止めた。
「まだ皆、食べているでしょう? それに、あなただって、まだ途中じゃない。全部食べちゃいなさい」
「はーい……」
 渋々座る幸子。
 外見は若くても、いい大人なはずの幸子が、花火で、こんなにもはしゃぐのは、心界には物界のような花火が無いためだ。
 そもそも、火が無い。
 料理をしない小陽には関係の無い話だが、雛菊のような飲食店でも一般の家庭でも、調理はIHだし、先程、末子が吸っていた煙草も、吸ったタイミングで先端がキチンと赤く光るように作られているが、火は使っておらず、小陽の雛菊の同僚で物界時代から喫煙者であった人に言わせると、「煙草を模した電池式玩具」なのだそうで、非常に味気ないとボヤいていた。
 花火も、あるにはあるのだが、評判は良くない。小陽は、個人向けの手持ち花火に関してはテレビCMで、イベントなどに使用される打ち上げ花火も、やはりテレビの情報番組やドラマの中で見ただけなので何とも言えないが、心界製も物界製も間近で見たことのある煙草を思い浮かべてみると、その再現度の低さは容易に想像がつく。
(あ、でも、ついこの間やってた新製品の手持ち花火のCMで、 『音と香りを忠実に、そして何と! これまで不可能とされていた煙まで再現!!! 』って言ってたっけ)
 幸子のように良子から怒られないよう、小陽は、しっかりモグモグと口を動かしながら、そんなことを考え、
(花火、か……)
箸で挟んだ最後のひと口の白飯の塊を口に入れ、茶碗の上に箸を揃えて置きつつ、外を気にする。
 一昨年の夏の実家への外泊の際に庭先でした花火が思い出された。
 自分が物界で生きている時で最後の花火。家族の笑顔。幸せな時間。
 …自分が死んで、全て壊れた……。
「小陽? 」
 日向正太郎から声がかかり、ハッとする小陽。
(ヤダ、ボーッとしてた……)
「俺らも行くぞ」
(へっ!? )
 言われて周りを見れば、いつの間にか、皆、食事を終え、ゾロゾロと外へ出て行っているところだった。



 日向正太郎の後に従って障子と玄関を抜け、庭を通って門を出ると、門の外では、老若男女合わせて15名の、全員親族と思われる物界の人々が手持ち花火をし、その回りを囲むようにして、日向三郎をはじめとする、先に外に出て行った日向正太郎の心界親族たちが立ち、花火を楽しむ物界の人々を眺めていた。
 日向正太郎は、日向三郎の隣へ。
 小陽も、そのまま日向正太郎に従い、彼の隣で花火を見る。
 夕食前に日向正太郎の孫の妻・万寿美に怒られていた2人の少女・今日華と里桜、それに今日華に似た顔立ちの15歳くらいの少女が横一列に並んで立ち、やっている花火が終わる度に、年上の少女を差し置いて、今日華が、「次はこれ」「今度は、こっち」と、自分のやりたい花火を手に取ると同時にあとの2人にも手渡して仕切っていたり、少し離れたところでは、高校生と思われる少年が、ひとり、しゃがんで小さくなり、花火の火で地面に絵を描いていたり、2歳くらいの男の子相手に、娘たちを怒っていた時とは別人のような万寿美が、火の点いていない花火を片手、「あーい、イチくん。おばちゃんといっちょに、花火ちまちょーね」などと甘ったるい声を出していたり、と、花火そのものをを見ているのも、もちろん楽しいのだが、それ以上に、花火をしている物界の人々を見ているのが楽しかった。
 物界の人々を見回す流れで、たまたま日向正太郎の顔を見上げた小陽。
(? )
 日向正太郎の視線が、どの花火にも向いていないことに気づき、その先を追う。
 そこには、車椅子に座り、ニコニコ穏やかに笑む、他の物界の人々に比べて目立って高齢の女性。
 その小陽の視線に、今度は日向正太郎が気づいたようで、
「ああ、あれ? 俺の奥さんの『久子(ひさこ)』」
(…『ヒサコ』……。ああ、さっきサブローさんの言ってた『ヒサちゃん』とか、ユキコさんの言ってた『ヒサネエ』って、きっと、あの人のことなんだ……。奥さんか……。やっぱ、特別な人だった……)
 初めて知ったことがあった時にいつもそうするように、久子のことも、新しい情報として処理しようとして、
(あれっ? )
小陽は自分の心に違和感を感じる。
(…何だろ……? 何か……)
 先程の隙間風が再び吹き、しかし、胸が詰まるように苦しくもあって……。上手に処理できない。
「美人だろ? 」
 日向正太郎の問いに、小陽は、処理が未完了のまま、平静を装って頷く。
 日向正太郎は、エッ? と驚き、
「いや、いいって、無理しなくて。あんなバアちゃんだし」
(別に、無理なんてしてないんだけど。顔のパーツひとつひとつが上品な良い形をしてるし、表情も、さっきからずっと笑ってて、本当に、印象の良い美人だと思うけど)
「でもさ、若い頃は、そりゃあ美人だったんだぜ? 」
(……いや、だから、今も美人だって……)
「俺、長男だから、出征前に大急ぎでの見合い結婚だったんだけど、ひと目で気にいっちゃってさ。で、いざ結婚生活が始まると、外見がいいだけじゃなくて、メシは美味いし、よく気がつくし、あまり長いこと一緒にいられなかったけど、すげー幸せだった」
(…そっか、随分前だけど、戦争で亡くなったんだって話を、サブローさんとしてるのを聞いたっけ……)
 小陽は、続く正体不明の苦しさを紛らすべく、分析に励む。
(だから、あんまり長く一緒にいられなかったんだ……)
「心界へ行ってからも、時間の許す限り会いに来たけど」
 日向正太郎の声のトーンが急に落ちる。
「年数の浅い頃は、切なくなるばかりだった。
 俺が心界へ行った後、息子が生まれてさ、ひとりで小さな子供を抱えて大変そうで……。会いに来たって、一方通行だからな。向こうからは俺が見えねえし。
『お疲れさん』って声かけて、茶でも淹れてやって、肩を揉んでやることすら出来ねえ。……まあ、大正生まれの俺が物界で生きていたからと言って、そんなことしてやるとは到底思えねえんだけど、出来ない立場だからこそ思うことだな。
 70年前のお盆に泊まりで来てた時も、夜、息子が高熱を出して、久子は心配で目が離せなくて……。『俺が見てるから大丈夫だから寝てろ』って言ってやりたかった。出来る立場なのにしないヤツらに腹を立てたりしたよ。物界で生きてる友達とかさ、同じように子供が病気で奥さんが看病に明け暮れてる時に、奥さんが自分のメシの用意をするのが遅れたことで怒ってたりして、『そうじゃねえだろ』 みたいな。俺は、したくても出来ねえから。
 ホント、俺は何もしてやれねえ。俺は無力だ、って、切なくなった」
(うん、よく分かる。その気持ち……。…って言うか、店長も、わたしと同じだったのが意外なんだけど……)
 小陽は物界の自分の家族のことを思う。
 自分が死んだせいで壊れてしまった家族。星空を悪い仲間から救ったのは、結局、物界の友人・桐谷だった。
「大きくなったなら大きくなったでさ、ほら、あれ」
 言って、日向正太郎は、その場の中心となって物界の親族の人々を仕切っている、70歳代と思われる男性を指さす。
「あれが俺の息子の静夫(しずお)。今でこそ、皆から慕われる立派なジイちゃんしてるけど、少年時代は、とんでもねえ悪童だったんだ。
 久子は、しょっちゅう学校へ呼び出されたり、警察へ迎えに行ったり、迷惑をかけた相手の家へ謝りに行ったりしてた。
『お父さんは兵隊さんに行って、お国のために立派に命を捧げたのに、その息子が、どうしてこんななんだ』なんて、敗戦から10年経っても、田舎だからさ、まだそんな言い方するオッサンとか、いや、ハッキリ言っちまうと俺の親父なんだけど、息子が悪さばっかすんのは息子自身のせいであって、全然、久子のせいじゃねえのに、いつも責められてた。
 久子が一生懸命頑張ってるのを俺は知ってるから、責められてるとこへ出て行って味方してやりたかったけど、もちろん出来なくて……。すげえ後悔した。結婚しなきゃよかった、って。俺と結婚しなかったら、子供を作らなかったら、久子はこんな苦労しなくて済んだのに、って。
 久子が息子を置いて家出して、既に両親が心界へ行ってる、どこかの優しい男と一緒になってでもくれねえか、って、心の底から願ったりしたよ」
(店長……。ホントに好きなんだな、ヒサコさんのこと……)
 小陽は紛らそうとするも出来ずに苦しくて苦しくて、意識が遠のいてきた。周囲の景色がかすむ。
「でも久子は、そんなことはせずに息子を育てあげて、俺の両親を看取って……。ホント、苦労かけた。全く頭があがらねえよ。
 ……俺が指導階級になったのは、実は、これが理由なんだ。指導階級になって出来るだけ長く心界へ残って久子が心界へ来る日を待って、物界で出来なかった分まで幸せにしてやりたくてさ。
 そろそろなんじゃないかと思って、半年前に、2人で暮らすための新しい家も買ったし」
「ホントに正太郎って、ヒサちゃんのことが大好きなんだね」
 日向正太郎の隣で、それまで全く会話に参加していなかった日向三郎が、聞いていないようで聞いていたのだろう、口を開く。
「ずっと、何十年も、ひとりの女性を想い続けるって、スゴイと思うよ」
 小陽は、もう限界だった。
「そう言えば、聞いたことなかったけど、サブロー君が指導階級になった理由は? 」
「正太郎みたいなカッコイイ理由じゃないよ」
 すぐ隣にいる日向正太郎・三郎の会話が、小陽の耳には遠く聞こえる。先程からかすんだままの視界が、一瞬、大きく揺れた。
 その時、
「コハ! 」
 女性の明るい声が響き、小陽はハッとする。
 ハッキリ戻った視界の、数メートル先の真正面、3人並んで花火を楽しんでいる、向かって左から今日華と里桜、それに今日華に似た顔立ちの少女の陰、ちょっと無理な態勢で、今日華の後ろから、幸子が、明らかに小陽に視線を向け、左手で手招いていた。
 右手は、今日華の花火を持つ右手に重ね合わせるように入り込ませて、一緒に持っている感じになっている。
「コハも一緒にやろーっ? 」
 小陽は思い出す。今、幸子のしていることは、昨年のお盆休み前にテレビで紹介していた、「物界の親族の遊びに同行した際に、より楽しむ裏技」の1つだと。
(…っていうか、『コハ』って、わたし……? ユキコさん、わたしのほう見てるけど……)
 かなりの確率で自分だろうと思いながらも、もしも違うと嫌だな、と考えたのと、自分だったとして、一緒にやっていいものかどうか判断に迷ったため、小陽は、日向正太郎に視線を送って、無言で意見を仰ぐ。
 しかし、日向三郎と会話中の日向正太郎は気づかない。
 そこで、遠慮がちに袖をクイクイッと引っ張ると、気づいた日向正太郎、一旦、小陽を見、それから軽く周囲を見回して、幸子の手招きを認め、頷いた。
 それを受け、小陽は、本当はそんな必要無いのだが、物界の人々にぶつからないよう避けつつ、幸子のもとへ。
「ほら、コハもやってみー? 」
 幸子に言われるまま、小陽は恐る恐る、幸子が手を重ねている今日華の隣、里桜の、花火を持つ右手に、自分の右手を入り込ませる。
(……! )
 驚いた。本当に自分の手で花火を持っているような感覚がある。
(…花火……。2年振り……)
 手元でパチパチと微かな音をたて弾けて映える光の粒、立ちのぼり夜の闇をボンヤリと白く柔らかくする煙の、その香り……。
 感動している小陽の顔を、幸子が覗き込み、ヒソヒソ声で、
「いいタイミングだったでしょ? あんな長々と正ちゃんのノロケ話を聞かされて、飽きちゃうよねー? 」
(厭きる……? わたし、ユキコさんの目から、そんなふうに言えてたんだ……。…店長の話を聞いてて苦しかったのは、厭きてたから……? でも、話はそれなりに興味を持って聞けてた気がするし……。…だけど……」
 小陽は、幸子の言っていることが的外れであると感じながらも、気遣いが素直に嬉しかった。
 気持ちが、フワッと自然に解けたのを感じた。
「楽しいねっ! 」
 幸子が、ニカッと笑う。
 小陽も、
「はいっ」
 自然とつられた。



         * 3 *


「コハ! お肉焼けたってー」
 幸子から声が掛かった瞬間、世界は本来の輝きを取り戻した。
 真夏の太陽の光を、流れの緩やかな水面がキラキラと反射する。しかし、その陽射しほどの熱は感じられない。対岸の近すぎる山のおかげだろうか。
 小陽は声のほうを振り返る。
 心ここにあらずといった感じで他の心界・物界親族の皆に背を向け川辺にひとり佇む日向正太郎を気にしていた結果、小陽まで、同じく、心ここにあらずになっていた。
 小陽の視線の数メートル先で、良子が、バーベキューの網の上の串刺しになった肉を、団子等と同じ要領で分裂させ、幸子に2本、手渡した。
 受け取った幸子は、1本を頬張りつつ、もう一方の手に持った、もう1本を、小陽に向けて突き出す。
「あ、はい! 」
 返事をし、小陽は駆け足で幸子のもとへ。
 今日は、お盆休み3日目。日向正太郎に半ば強引に連れてこられた、彼の実家で、お盆休みを過ごしている小陽は、日向正太郎・三郎と、その心界在住の親族と共に、物界の親族の川遊びに、朝から同行しており、今は昼食のバーベキューの時間だ。
 食材が焼き上がった瞬間を見計らっては、物界の親族たちが手を付ける前に、良子が分裂させ、心界の親族の分を確保している。
 幸子から肉の串を受け取った小陽、
「ありがとうございます! いただきますっ! 」
 しかし、どこから口をつけてよいのか分からない。
 どこからにしても、かなり大きな口を開けることになる、その形状に、一瞬、途惑ってから、幸子を真似て、串を横にしてかぶりつく。
 よく晴れた空の下で、大自然の爽やかな空気の中、食欲をそそる香ばしい香りと、途惑いながらもかぶりついた時の、しっかりとした噛みごたえ、直後に口の中いっぱいに拡がる甘味のある肉汁。
(…おいしいっ……! )
 屋外でバーベキューなど、物界で生きていた期間を含めてみても、初めての体験だ。
「おいしいねっ」
 幸子が小陽の顔を覗き込み、ニカッと笑う。
「もうすぐ、エビとホタテの串も焼けるみたいだよ。あと、トウモロコシもっ」
 すると横から、良子、
「その前にピーマンとタマネギの串が焼けるわよ」
 えー……と、嫌そうな顔をする幸子。
「ダメよ。野菜も食べなさい」
 良子はピシャリと言ってから、コンロに目をやり、
「ああ、ほら。丁度焼けたわ」
言って、ピーマンタマネギ串を小陽と幸子に押しつけるように渡す。
 良子に怒られたくなくて、小陽は、あまり得意ではないが、大人しく食べる。
「ほら、見なさい。小陽ちゃんはエライわねー」
 良子の言葉に、幸子は渋々、ピーマンタマネギ串に口をつけた。
 そうしながら、幸子は良子をチラチラと見つつ、小陽にヒソヒソ耳打ち(内容は無い)して、良子が、
「何ですっ? 」
と怒るのを見て笑う。
 初めての体験……こんなふうに、他人と打ち解けて時間を過ごすのも……。
 お盆初日の花火の時に仲良くなって、それ以降、幸子とは、夜、布団を並べて寝て、2日目の朝に物界の親族たちが墓参りに出掛けるのに心界親族全員で同行した際も、ずっと隣を歩き、墓参りから戻って僧侶の読経に何故か心を癒されている間も、その後の、物界の親族が僧侶を囲んで会食するのを隣の部屋の盆棚に供えられた同じメニューで楽しんでいる間も、自然と一緒にいた。小陽をこの家に連れて来た日向正太郎とは離れて……。
 特に積極的に離れているワケではない。小陽が幸子と楽しそうにしているため、日向正太郎が遠慮して遠巻きに見守っているワケでもない。
 むしろ逆。
 幸子と過ごしながらも、小陽は何となく、ほぼ常に、日向正太郎を目で追っていた。
 日向正太郎の視線は、いつも久子。
 その日向正太郎の姿に、小陽は、自分でも理由の分からない苛立ちを覚え、そんな自分を持て余していた。
 常に久子を見ていた日向正太郎が、今は心界・物界親族の皆に背を向けているのは、ここには久子がいないためだ。久子は、昨日の墓参りで疲れてしまったとかで、家で休んでいる。
 日向正太郎が背を向けているのを、小陽は初め、
「どうしたんだろ? 具合でも悪いのかな? 」
と心配していたが、久子がいないから皆のほうを向く必要が無いのだということと、おそらく久子が心配なのだろうということに考えが至った途端、何故か更にイライラしてきた。
「皆さん、トウモロコシが焼き上がりましたよ」
 良子の声かけで、コンロの周りに集まる心界親族。
 日向正太郎は、やはり集まらない。
 良子が、
「正太郎、何も食べてないわね」
日向正太郎をチラリと見ながら心配げに眉を寄せ、
「これ、正太郎に渡してきてちょうだい。あの子、トウモロコシ好きだから」
例によって分裂させたトウモロコシを、1本、幸子に差し出す。
「えー……」
 幸子はあからさまに面倒くさそうに拒否。
 小陽は良子が怒り出すのを恐れ、
「あの、わたしが渡してきます」
 それに対し、良子、小陽がそう言いだすのを分かっていたかのように、にこやかに、間髪入れずに、
「じゃあ、お願い」



「店長」
 小陽がトウモロコシを手に背後から声を掛けると、日向正太郎は無言で気だるげに振り返った。
 小陽は軽くイラッとし、日向正太郎の胸元へと、強引に押し付けるように、トウモロコシを渡しながら、ほぼ気遣いではなく、
「そんなに奥さんが気になるなら、奥さんと一緒に留守番してればよかったじゃないですか」
 条件反射でトウモロコシを受け取りつつ、日向正太郎、
「いや、そういうワケにもいかないだろ。俺が小陽を連れてきたんだから、ちゃんと見てなきゃいけねえし」
(は? 見てなかったじゃん。完全に背中向けてたし)
 この人は一体、何を言ってんだろ? ……と思った以上に、小陽は、日向正太郎が自分について「仕方なく」といった感じであることに傷ついた。
 日向正太郎の顔を見れず、目を逸らす。暗いものが胸の中を重く渦巻いていた。
「どうして、わたしを連れて来たんですか? 面倒くさいなら、わたしなんて連れてこなきゃよかったじゃないですか。そんなふうに思われてまで、来たくなかったです」
 言ってしまってから、小陽は、言い過ぎた、と思い、口を押える。
 店長は元気の無いわたしを元気づけようとして連れてきてくれたのに、と。
 来れてよかったとは、思ってる。ユキコさんと友達になれたし、初めての色々な体験ができた。店長のおかげだって、ちゃんと感謝もしてるのに……。
 言い過ぎたことへの謝罪の言葉が出てこない。
(何でだろ……。わたし、そういうとこ、あるよね……。つい言い過ぎて、すぐ、言い過ぎたって気づくのに、何でだろう、「本当のことだし」とか「相手だって悪いんだし」とか思っちゃうからかな? 謝れない……)
 恐る恐る、日向正太郎を窺うと、日向正太郎はキョトンとしていた。それから、ちょっと困ったように、
「あ、えっと……。ゴメン、俺、何か気に障るようなこと言った? 」
(…なんか、わたし、馬鹿みたい……。ひとりで勝手に傷ついて、怒って、反省して……)
 小陽は思わず溜息。俯いて、顔だけでなく完全に視界から日向正太郎を追い出し、
(馬鹿みたいで……。恥ずかしい……! )
 ついには、その前から逃亡を図った。
「小陽」
 咄嗟に小陽の二の腕を掴んで止める正太郎。
 とにかく恥ずかしくて、手を振り払い、また逃げる小陽。
「小陽! 」
 日向正太郎は再度、腕を掴んだ。
 再び振り払い、小陽は今度こそ日向正太郎から離れた。



 川べりを上流方向へと向かって、ズンズン歩く小陽。
 突然、目の前に、瞬間移動で日向三郎が現れ、行く道を塞いだ。
「小陽さん、この川の上流には、中間域がたくさんいて、危ないらしいですよ。戻りましょう」
 小陽は足を止め、力なく俯く。
(…戻りたく、ないな……。わたし、何だかすごく恥ずかしい奴じゃん……。こんな、みっともない自分を、他の人に見られていたくない……)
「小陽さん? 」
 日向三郎が、心配そうに小陽の顔を覗き込む。
「……サブローさん。わたし、なんか変なんです。こんな自分、嫌だ……。みっともなくて、恥ずかしい……」
「何か、あったんですか? 」
「……店長がヒサコさんを見てるのを見てて、イライラして……」
 日向三郎は、小陽の小さな小さな声を誠実な態度でキチンと皆まで聞き取ってから、フッと優しく笑み、
「小陽さんは、正太郎のことが好きなんですね」
(へっ!? )
 驚く小陽。
 逆に驚き、えっ? となる日向三郎。
「違うんですか? だって今、小陽さんの言ったことって、完全にヤキモチですよね? 」
(ヤキモチ……? わたしが、店長のこと、好き……? )
 首を傾げる小陽に、日向三郎は驚きを消し、優しい笑みを呼び戻して、うんうんと何度もうなずいて見せながら、
「正太郎を好きというのは僕の勘違いだとしても、小陽さんに、小陽さん自身を大切に思う気持ちを確認出来たので、安心しました」
(安心? )
 小陽の無言の問いに、日向三郎は、もうひとつ頷き、
「正太郎から小陽さんのことを聞くにつけ、心配していたんです。許可証偽造の件での刑期を終えて雛菊に戻って以降、元気が無いって。やるべきことはキチンとこなすんだけど、笑わないし、何事にも……特に、自身の昇給や仕事に無関係のスキルアップには興味や意欲が感じられないって。
 でも、小陽さんが今まさに抱いている感情は、みっともなくて恥ずかしいのは興味だし、それを嫌だと思うのは、何とかしたいという意欲でしょう? それって、自分自身を大切に思えているということですからね」
 と、その時、左足首に、スル……と何かが這うような感触があり、
(? )
確認するべく視線を下に向けようとした小陽。
 直後、ガッ!
 その何かが、そのまま強く絡みつく。
 同時、
(! )
 川のほうへ勢いよく引っ張られ、転倒した。
 変わらず感触のある足首を見れば、
(…手……!? )
 男性のものと思われるゴツゴツした大きな右手に掴まれている。
「小陽さんっ! 」
 日向三郎が慌てた様子で身を屈め、
「中間域です! 逃げましょうっ! 」
小陽の手を取ろうとするが、一瞬早く、小陽は更に引っ張られ、地面を引きずられる格好で川の中へ。
 小陽は水を飲んでしまうことを避けるべく、咄嗟に息を止め、水の冷たさも覚悟する。
 しかし、冷たくない。それ以前に、水に濡れていない。
 その理由に、すぐに気づき、小陽は、呼吸も再開した。
 ここにある水は物界の物質。
 当然、浮力も作用せず、引っ張られる方向が下向きになったのに合わせて、いっきに下降する。
(嫌だ! 怖いっ! )
 小陽は下降を止めようと、川の中の側面から突き出ている岩に手を伸ばすも、掴めるはずもなく、空振り。
 そう言えば、川に入る前に引っ張られた時も、たまたま引っ張られる方向が横だったため、格好としては地面を引きずられていたが、そのための怪我などは無い。
 小陽がもがいている間に、掴まれている感触は増える。初めの1つから、2つ、3つ、4つ……。掴まれている箇所も、左足首だけでなく、右足首、両脛、両膝、両太腿……と、次第に上方向へも。
 5つ、6つ、7つ、8つ……いや、もっとたくさん。増え続ける、小陽を掴んでいるものの正体は、最初に左足首を掴んだものと同じく、手。何故か、手だけ。
 手からつながって何かが存在しているようにも見えるが、黒く淀んで、よく分からない。
 分かるのは、自分が、その黒く淀んだ中に引きずり込まれようとしていること。
 引きずり込まれてしまったら、自分も、淀んだ中から手だけが出ている存在になってしまうかもしれない、と、それまでの、自分の意に反する動きに対しての漠然とした恐怖から、そうなってしまうのは嫌だと、はっきり形のある恐怖へ変わる。
 だが抗えない。強い力で掴まれ、引っ張られる。
 ここは物界。周囲に存在している全ての物が、物界の物質。小陽には触れられない。
 抗うべく力を込めるための取っ掛かりが無いのだ。
 ほんの数秒前までの自分が、触れることの出来ないはずの地面の上に、どうして立って留まっていられたのか、どのようにして歩いたり走ったりしていたのか、分からない。
(助けて! 誰か! サブローさん! ユキコさん! …店長……! )
「小陽さんっ! 」
 頭上で、日向三郎の声。
 見上げれば、すぐ真上に日向三郎の顔。
 日向三郎は腕を伸ばし、小陽の腕を掴むと、引っ張るように力を入れ、反動を使って180度、体の向きを変え、小陽と並んだ。
 日向三郎の脚の、水を蹴るような動きのためか、意に反しての下降が止まる。
「サブローさん……! 」
 小陽は思わず、日向三郎の首に縋りついた。
 日向三郎は、小陽の背中に遠慮がちに両腕を回し、宥めるようにポンポンッとやってから、首に絡められた小陽の腕はそのままに、自分の手だけを離して、少しだけ小陽との間に隙間をつくり、小陽の目を覗いて、
「小陽さん。ここは水中です。泳いで下さい」
(はあっ? )
 日向三郎の言葉に驚き、軽くイラッとする小陽。こんな時に、何を変な冗談言ってるの? と。
 日向三郎は小陽の言わんとすることを察したようで、頷いて見せ、
「僕たち心体は、物界で生きていた頃、肉体という殻を被っていたようなものでしょう? つまり、今、物界で生きている人たちの中にも、心体が存在してる。
 人工物か自然の物かを問わず、物も同じなんです。
 これは、物界の物質に触れられる技能を習得しようとした時の基本なのですが、その物質の中にある、人間で言うところの心体のようなものを意識して、それを動かすイメージを持つんです。ようは、思い込みですね。
 小陽さんだって、さっきまで、普通に地面を歩いていたでしょう? 皆、あまりにも普通に出来ていますが、それも、地面なんだから歩けるはず、という無意識の思い込みから出来ているんです。
 ですから、水中のここでは、泳いでいるつもりになれば、自分の動きをコントロールできます」
 と、その時、背後から、
「サブロー君! 小陽! 」
日向正太郎の声。
(店長……!? )
 振り返れば、遠くに、触れないはずの水を両掌で掻き分けるようにながら、グングンと早いスピードで、小陽と日向三郎に近づいてくる、日向正太郎の姿。
 それを、
「ほら、あんなふうに」
日向三郎は説明に役立てる。
「そうして自分をコントロール出来るようになったら、次は……」
 そこまでで、日向三郎は話を止め、自分の足のほうへ視線を移した。
 つられる小陽。
 すると視線の先では、今まさに、中間域の手が、日向三郎の足を掴もうとしているところだった。
「サブローさんっ! 」
 慌てる小陽。
 日向三郎は、
「大丈夫ですよ」
 落ち着き払った態度で笑みさえ浮かべて言ったかと思うと、中間域に向け、目をカッと見開き口をクワッと開けて、威嚇。
 ビクッと怯んだ様子の中間域。
「次は、中間域も僕たちと同じ心体ですからね。心体同士の、ただの喧嘩です」
 日向三郎は、人指し指で軽く眼鏡を押し上げ、ニヤリと不敵に笑う。
(…なんか、サブローさん、いつもと違う……)
 そう感じた小陽が、そのまま口に出して言うと、
「違いますか? それは、きっと、僕が中間域に対して怒っているからでしょうね。小陽さんに危害を加えられて」
(…サブローさん……)
 小陽は、日向三郎が自分を大切に思ってくれているのを感じ、感動する。
 感動と照れくささが混じった、不思議な気持ち。
「コントロールのコツはお伝えしましたが、いきなりは難しいと思うので、このまま、僕に掴まっていて下さい」
 小陽は何度も頷き、しっかり掴まる。
(だって、わたし、水泳したこと無いし! )
 そこへ、
「うぉーらぁぁぁぁーっ!!! 」
 雄叫びと共に、背後から、足元を強風が吹き抜けた。
(! )
 脚を持っていかれ、小陽は、日向三郎に掴まる手に、更に力を入れる。
 同時、中間域の手が離れ、自由になった。
 いつの間にか、視界前方斜め下の川底に、日向正太郎の後ろ姿。
 たった今まで小陽を掴んでいた中間域の手からつながる黒い淀みは、日向正太郎の正面へ移動している。
 吹き抜けた強風は、日向正太郎だったのだ。
 日向正太郎は、いかにも「そこら辺で拾いました」といった感じの棒っきれを右手に持ち、淀みへ向けて突き出して、牽制している。
 淀みは、まるで日向正太郎を窺っているかのように、ただ縦に伸びたり横に伸びたり。手は出してこない。
(…店長……。わたしがどうすることも出来ないでいた中間域を……。……スゴイ! )
 感心する小陽。
 そのすぐ耳元で、日向三郎は、
「…まったく、正太郎は……。子供の頃から、いつもこうだ。後から来て、美味しいとこを攫ってく」
溜息まじりの独り言。
(店長とサブローさん、仲良さそうに見えるけど、何か確執が……? )
 チラリと、小陽は日向三郎を盗み見る。だが、機嫌が悪いのかと思いきや、日向正太郎を見つめる表情は、どこか誇らしげ。
「せっかく僕が、小陽さんに、カッコイイところを見せようとしてたのに」
「へっ!? 」
 小陽は、誇らしげなまま続けられた日向三郎の思わぬ言葉に、ドキッ。至近距離から、その顔を振り仰ぐ。
 小陽の驚きの声に、
「えっ!? 」
日向三郎も逆に驚き、それから、
「あ、じょ、冗談です。すみません」
取り繕うように笑って見せた。
(なんだ、冗談か。ビックリしちゃった……)
 何故かちょっとガッカリしながら、小陽は、黒い淀みと対峙している日向正太郎のほうへと視線を戻す。
 日向正太郎は淀みへ棒を向けて牽制を続けていたが、突然、緊張を解き、見た目に明らかなほど力を抜いて、
「さて、と……」
小さく息を吐きつつ、手にしていた棒をポイッと捨てた。
(っ!? )
 驚く小陽。
(店長! 何してるのっ……!? )
 驚いたのは小陽だけではない。淀みも、縦横に伸びるのをやめ、警戒しているかのように、ジリッと、僅かだが日向正太郎と距離をとった。
 そんな中、日向正太郎は、右手の親指を立てて自分の背後、下流方向を指しつつ、徐に口を開く。
「あっちの岸の上で、バーベキューやってんだけど、あんたらも、どお? 」
(はあっ!? )
 驚いたのは、やはり小陽だけではない。ザワワ……と、淀みが酷く動揺する。
 同時、淀みの黒色が少し薄くなったように見えた。
 色は見る間に薄くなっていき、動揺を見せた数秒後には、完全にクリアーに。
 黒く淀んで見えなかった、そこにいたのは、外見年齢様々な男女17人の心体。
(…どう、して……? どういうこと……? )
 小陽はワケが分からなかった。
 淀みが、黒く淀んだものに手だけが何本もくっついている1人の異形の者ではなく、中に17人の心体が存在し、何らかの理由で淀んだものに包まれていたものだということは理解できた。疑問は、そうではなく、何故、淀んだものが消えたのか。
(店長……? 店長が誘ったから……? )
「人数は多ければ多いほど楽しいし、行こうぜ? 」
 繰り返し誘う、日向正太郎。
 小陽は、
(…同じだ……)
気づく。日向正太郎の対応が、目の前の、中間域と呼ばれる心体の人たちに対してのものと、自分を、ここ、彼自身の実家へ一緒に行こうと誘った時のものが、同じであると。
(…店長って、皆に同じなんだ……。自分が特別なような気になってたけど……)
 何だか急に、日向正太郎の背中が小さく見えた。小さく見えて、落ち着いた。ほんの少しの寂しさのような感情を伴って……。
 日向正太郎が久子を見ているのを見ていてイライラしたのも、きっと、自分が特別なような気になっていたせい。日向正太郎の存在が、小陽の中で、「自分を特別に思ってくれる特別な人」になっていた。
(すごい勘違い……。わたしって、やっぱ、恥ずかしい奴……)
 そう心の中で呟きながら、しかし、皆に分け隔てないヒーローの後ろ姿に、
(…仕方ないか……)
不思議と温かい気持ちで許せていた。勘違いさせた日向正太郎のことも、勘違いした自分自身のことも……。
 日向正太郎の誘いに、淀みの中にいた心体のうち、彼の正面にいる、それぞれ30代半ばくらいと50歳前後と思われる外見年齢の男性2人が顔を見合わせ、
「…いや、俺たちは……。なあ? 」
「…うん……」
 日向正太郎は、
「…そうか……」
残念そうに頷いてから、
「じゃあ、まだあと1時間くらいはバーベキューしてるだろうし、その後も、夕方まで、そのまま遊んでるからさ、気が向いたら来てくれよ」
そうして、「…ああ……」「うん……」との男性2人の曖昧な返事を受け取り、満足げに頷いて踵を返すと、小陽と日向三郎のいる地点の真下より少し手前で上昇してきた。
 小陽の目の前で止まり、
「小陽……」
気まずそうに遠慮がちに口を開く日向正太郎。
「ゴメン。俺……」
(…店長、わたしが怒ってると思って気にしてるんだ……。確かに、店長のことでイラついてたし、傷ついたのも事実だけど、それって、もとはと言えば、わたしの恥ずかしい勘違いからきてて……。あ、でも、勘違いさせたのは店長だし……って、ダメダメ! この考え方は、わたしの悪い癖だ! …ああ、なんか、頭がゴチャゴチャする……)
 小陽は小さく小さく息を吸って吐き、気持ちを落ち着けてから、
「…あの……。助けてくれて、ありがとうございました。あと、さっきは言い過ぎました。ごめんなさい。ここへ連れてきてくれたこと、感謝してます」
今、どうしても伝えなければならないと思うことだけを選んで口にした。
 日向正太郎は、ちょっと驚いた表情を見せてから、
「おうっ」
ニヤッと笑った。
 けっして、ついでではない……と言うか、実際に小陽を救ったのは、むしろ日向三郎のほうであると、小陽は認識しているが、タイミング的に、ついでと思われてしまいそうと、気にし、かといって、言わないのは余計におかしいと、仕方なく、小陽は、日向三郎にも、
「サブローさんも、ありがとうございました」
 日向三郎は、
「どういたしまして」
ニッコリ優しく笑って返す。
(…この、笑顔……)
 小陽は何だか、胸がキュッとなった。ついでではないと、どうしても知ってほしくて、
「サブローさん……っ! あの……っ! 」
 しかし、どう伝えてよいか分からず、口ごもっていると、
「お? 」
 日向正太郎がニヤニヤしながら、
「何か2人、イイ感じっ? イイ感じなのっ!? 」
 それに対し、イラッとする小陽。
(もうっ! 店長! どうしてそんなこと言うのっ!? たった今まで、わたしを怒らせたと思って気にしてたんじゃないのっ!? )
 そして恐る恐る、日向三郎の反応をチラッと窺う。と、
(……。サブロー、さん……? )
日向三郎は、照れているだけで、特に気分を害した様子は無く、嬉しそうにさえ見えた。
(…サブローさん、わたしとのことを、こういう言い方されて、嬉しいの……? )
 小陽は、ちょっと、くすぐったくなる。



 まだコントロールが不安な小陽が、日向三郎に支えられ、日向正太郎と連れ立って、そのまま川の中を進み、引きずり込まれた地点まで戻ると、その岸に、日向正太郎の心界親族が全員、集まっていた。
 岸へ上がり、日向三郎から離れた小陽に、
「コハ! 」
幸子が、ドーンッとぶつかるような勢いで抱きつく。
(…ユキコさん……)
 続いて、
「小陽ちゃんっ! 」
良子が駆け寄ってきた。
(怒られるっ! )
 小陽はビクッとするが、良子は両腕を伸ばして、幸子ごと小陽を包み込み、
「心配したのよ? 良かった、無事で……」
涙声で言う。
(ヨシコさん……。あったかい……。なんか、とても、あったかい……)



            *



 陽が、大きく西に傾いた。
 そろそろお開きにするか、との、日向正太郎の息子・静夫の言葉に、帰り支度を始める物界親族。
 大人たちが協力し合ってコンロやシートを持ち運べる状態に片付け、高校生以上と思われる少年2人と少女1人がゴミをまとめる。
 ゴミをまとめている大きなお兄ちゃんたちを真似て、イチくん? とかいう名前らしい2歳くらいの男の子も、自分の足下に転がっていた丸まったアルミホイルを拾い、「あいっ」と、たまたま一番近くにいた大人・万寿美に手渡した。
 受け取った万寿美は、目の前のイチくんに言っているにしては、かなり大きな声で、
「わぁ! ありがとう、イチくん! ちゃんとお片ぢゅけ出来て、お利口しゃんねえ! 」
 これは間違いなく、片付けなど自分たちには関係無いという顔で少し離れた場所で遊び続けている今日華と里桜への当て擦りだろう。
 しかし、今日華は万寿美を一瞥しただけで遊び続け、気にした様子の里桜のことも、「(気にしなくて)いいよ」と引き止める。
 万寿美は、大きな大きな溜息。

 すっかり片付け終え、まだ暗くはないものの完全に陽の射さなくなった道を、男性たちが大きく重い荷物を持ち、その他の荷物とゴミを女性たちと大きな子供たちが手分けして持ち、今日華と里桜も、万寿美から強引に、ちょっとしたゴミを持たされて、ゾロゾロと歩き出す。
 その後ろを、小陽と日向正太郎・三郎、日向正太郎の心界親族たちも帰路についた。



 日向正太郎の実家の石柱だけの門の見えるところまで戻ってくると、物界親族の最後尾をプラプラと歩いていた今日華が、
「あっ! 」
突然大きな声を上げ、駆け出しざま、一緒に歩いていた里桜に、
「今日、15日だよねっ? 始まっちゃう! 」
 おそらく、見たいテレビ番組でもあるのだろう。
 今日華の後について、里桜も駆け出し、2人で、前を行っていた物界親族たちを追い抜いていく。
 万寿美の横を通過しつつ、
「もうっ! あんな長い時間、川になんかいないで、もっと早く帰ってくればよかったのにっ!」
文句を言う今日華。
 万寿美は即座に反応。
「あんたたちが片付けを手伝えば、もっと早く帰ってこれたよ! それに、タラッタラ歩いてないで、初めから、どんどん歩けばよかったでしょっ!? 」
 しかし、言い始めた瞬間には、2人は既に後ろ姿。
 その背中を、更に声だけで追いかける万寿美。
「あんたたち! 家に上がる前に、ちゃんと足を拭きなさいよっ! お勝手にタオルを置いてあるから! 」
 返事の無い2人に万寿美が溜息を吐く中、2人の姿は、あっと言う間に門の向こうへ消えた。
 
 その、ほんの数秒後、
「いやあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!! 」
 耳を劈く悲鳴。
(っ! )
小陽は、ビクッ。
 悲鳴は門の向こう、おそらくは家の中から。声の主は、今日華か里桜のどちらかと思われる。
 走って行った2人がふざけ合って発した奇声といった感じではない。本当に、ただ事ではない悲鳴。
 物界親族の男性たちが、一瞬、互いに顔を見合い、頷き合って、荷物を放り出し、ほぼ同時に門へと走る。
 残された女性たちも、足早に男性たちを追って中へ。
 小陽と日向正太郎・三郎、心界親族たちも続いた。
 すると、玄関とは別の入口……お盆初日に日向正太郎から説明のあった、家族の出入口である勝手口だろう、入ってすぐの土間に、人垣が出来ていた。
 人と人との隙間から覗く小陽。
 人垣の向こう、台所に見えたのは、右側を下にした横向きで床に倒れている久子。
「バアちゃんっ! ヒサバアちゃんっ! 」
 今日華が泣き叫びながら久子の背中に縋りつき、その斜め後ろで、里桜が口を両手で押さえ、カタカタと震えて立ち尽くしている。
(店長……! )
 小陽が、すぐ隣にいた日向正太郎を振り仰ぐと、彼からも倒れている久子の姿が見えたのだろう、頷いて見せ、人垣をゆっくりと突っ切り、久子の許へ。
 顔の覗ける位置に、しゃがんで陣取り、静かに見下ろす。
(ヒサコさん……)
 静夫が今日華の肩を後ろからそっと抱き、そのまま暫く、冷静に久子を見つめて、顔を上げ、周りの物界親族の一人一人に、指示を出した。
 指示に従って人垣がバラけ、物界の親族は、静夫と、泣きじゃくる今日華、震えて立ち尽くす里桜だけが、その場に残る。
 それまで人垣に紛れてしまっていたのだろう、人垣がバラけたことで、小陽は、見知らぬ心体の存在に気づいた。
 白いワイシャツにカチッとしたグレーのズボンという、仕事中の誰か……そう、日向三郎と被る服装の、外見年齢30歳前後の男性。
 男性は、人垣がバラけた後に取り残された心界親族に向けて会釈し、姿勢を戻したところで、
「日向さん! 」
驚きの声を上げた。
 その視線の先は、日向三郎。
 日向三郎はニッコリ笑って頷き、お疲れ様、と返した。
 男性は日向三郎に歩み寄り、
「日向久子さんって、日向さんの身内の方だったんですね」
「うん。甥っ子の……ほら、今そこで、彼女の顔を覗いてる彼の、奥さんだよ」
「ああ、そうなんですね……」
 男性が何か言いたげであると、小陽には感じられた。
 日向三郎も同じように感じたようで、
「……どうかしたの? 」
 男性は、ちょっと言い辛そうに、
「…実は、日向久子さんの様子が、ちょっとおかしくて……」
「おかしい? 」
「はい」
「どう? 」
言いながら、久子のほうへと歩く日向三郎。男性は、その後に従いながら説明。
「予定の時刻が過ぎているのに、心体が肉体から出てこないんです」
 日向三郎は、一度、えっ? となり、しかしすぐに表情を戻し、
「山田(やまだ)君は、今回が何回目の案内なの? 」
 男性は、山田、という名で、久子の担当案内員のようだ。
(案内員が来たってことは、ヒサコさんは……)
 自分自身も、現在の自分と関わりのある全ての人も、皆、既に肉体を失って、心体となっているのに、小陽には、まだ、肉体の死というものが、特別なものだった。
 何となく、しんみりしてしまう。泣いている今日華や震えている里桜が、自分が肉体の死を迎えた時の、自分の家族の姿と重なる。
 日向三郎の質問に返して、山田、
「5回目です」
「そう。これまでの4回は、いつも、予定時刻になったら、心体が肉体から出てきたんだね。
 でも、こんなふうに時刻を過ぎても出てこないのも、特に珍しいケースではないよ。高齢の方とか、病気や怪我で病院に入院されている方とか、あとは時間帯で、夜間に多いケースなんだけど、対象者ご本人が眠っているか、眠っているつもりでいるんだ。
 だから普通に、声を掛けるなり体を揺するなりして起こせばいい」
 説明しつつ、日向三郎は、久子の傍ら、日向正太郎が陣取る真向かいに片膝をつき、注意深く観察して、
「……うん、やっぱり問題は無さそうだよ。こんな時、通常なら、僕ら案内員以外の心体が傍にいないことが多いから、僕らが起こすんだけど……」
そこまでで一旦、言葉を切り、
「正太郎」
日向正太郎を見た。
「せっかく君がいるんだから、君がヒサちゃんを起こしてあげて」
 いきなり自分に話を振られ、
「俺っ!? 」
驚く日向正太郎。
「いや、でも……」
 途惑う日向正太郎に、日向三郎は頷き、
「僕が教えるから、その通りにやればいいよ」
「う、うん」
「じゃあ、まず、名前を呼んで」
「サブロー君? 」
「いや、僕じゃなくて、ヒサちゃんの名前」
「あ、そ、そうか……」
 日向正太郎は、頷き、身を屈めて久子の耳元へ唇を寄せ、恐る恐るともとれるくらい、そっと、
「…久子……」
「もっと大きな声で」
「久子! 」
 久子の反応は無し。
「じゃあ、今度は肩を軽く叩いてみて」
 言われたとおり、久子の左肩をポンポン、と軽く叩く日向正太郎。
 久子の反応は無い。
「次は、肩を掴んで揺すってみて」
 日向正太郎は、また言われたとおり、久子の左肩を掴んで揺り動かす。
 すると、
「ん……」
久子から声が漏れた。
 直後、肉体は右側を下にした横向きのまま、心体が、左半身から先に、ゆっくりと肉体から抜け、床へと仰向けに転がった。寝返りをうつような感じで肉体から抜けたのだ。
 肉体からは抜けたものの、まだ眠っている、その姿は、外見年齢20代前半。腰くらいまでの長さのある艶やかなストレートの黒髪に、透けるように白い肌をもつ、顔のつくりの上品な、華奢で美しい女性。
「…久子……」
 日向三郎からの指示ではなく、ごく自然に吸い寄せられるように、日向正太郎は、久子へと両手を伸ばす。
 首の後ろを左手で支え、静かに静かに、上半身を起き上がらせると、久子は、ゆっくりと瞼を開いた。そして、
「…正太郎、さん……? 」
淡い色の薔薇の花びらのような唇で、日向正太郎の名を呼ぶ。
「そうだよ。久子」
日向正太郎は、誠実な態度で答えた。
「長い間、お疲れさん。静夫を立派に育て上げてくれて、俺の両親を看取ってまでくれて、ありがとう」
 久子は涙ぐむ。
「正太郎さん……。ずっと、ずっと会いたかった……。これは、夢ではないのですか……? 」
「ああ、夢じゃないよ。これからは、ずっと一緒だ」
 日向正太郎の言葉に感激したように、何度も何度も頷き、ややしてから、久子は、すぐ傍に横たわる自分の肉体に、ふと目を留めた。
「私は、死んだのですね? 」
「ああ」
「……そうですか」
 納得した様子で穏やかに頷く久子。それから、日向正太郎に支えられるのでなく自力で座る姿勢をとり、自分の肉体に縋って泣く今日華へと、そっと手を伸ばし、髪を撫でる。
「今日華ちゃん。驚かせてゴメンね。こんな所で死んでたら、ビックリしてしまうわね。
 ヒサバアちゃんのために、こんなに泣いてくれてありがとう。優しい今日華ちゃん。ヒサバアちゃんは、今日華ちゃんが大好きですよ」
 急に、今日華は泣き止み、身を起こした。そして、髪を撫でる久子の手の上に、自分の手を載せる。
「どうした? 」
 静夫の問いに、今日華、
「なんか、今、ヒサバアちゃんが、イイコイイコしてくれた気がした」
「……そうか」
 静夫は、ただ頷いた。
 久子は、今日華の手の下から自分の手を静かに引き抜き、
「静夫ちゃん」
今度は静夫に向けて語りかける。
「静夫ちゃんの子供の頃、静夫ちゃんがいてくれたから、お母さん、頑張れたのよ。ありがとう。
 静夫ちゃんが立派に大きくなって、その姿を傍で見ていることができて、いつものことなのに、いつもいつも、嬉しかった」
「…お母さん……」
 呟く静夫。
 今日華が上目遣いに静夫を見、無言の問い。
 答えて静夫、
「ああ、今、バアちゃんが何か言った気がしてな」
 ふーん、と、今日華は頷く。
 そんな2人のやりとりを、愛しげに見つめる久子。
 ややして、久子は日向正太郎を振り仰ぎ、
「正太郎さん。私ね、とても良い人生だったんです。
 いつも正太郎さんに会いたかったけれど、寂しくはなかった。大勢の家族に囲まれて、幸せでした。
 正太郎さんと結婚できたおかげですね。これから、よろしくお願いします」
 日向正太郎は、何の言葉も無く、久子を自分の胸へと引き寄せた。
 久子は安らかな表情で目を閉じ、日向正太郎に体を預ける。
(…店長……。ヒサコさん……)
 大柄で逞しい日向正太郎と華奢で美しい久子が寄り添う姿は、何だかとても絵になって、小陽は見惚れた。

 その時、外で、車の止まった音がした。続いて、車のドアを閉める音と、慌ただしい複数の足音。
 ちょっとの後、おそらく医師であろう白衣姿の年配の男性と、日向正太郎の物界親族の男性の1人が、勝手口から駆け込んで来た。
 白衣姿の男性は、一瞬、足を止め、久子の肉体を認めた様子を見せると、すぐさま駆け寄る。
 白衣姿の男性に、ぶつかるワケが無いが、ぶつかられそうになり、反射的に避けた日向正太郎。久子に、
「騒がしくなってきたし、移動するか」
 頷く久子。
 頷き返し、久子を支えつつ、日向正太郎は立ち上がる。
 と、
「えっ!? 」
久子が、その上品な美しさを持つ外見には、およそ似つかわしくない、頓狂な声を上げた。
「叔母様方……っ? 」
 立ち上がり、目線が変わって初めて、久子は、周囲にいた心界親族に気づいたようだった。
「サブローさんも、良子姉さんも、幸子ちゃんも……!? 」
 日向三郎に関しては、案内員の山田と共に、久子のすぐ近くにいたのだが、たまたま視界に入っていなかったらしい。
「お盆だからな。久子には見えてなかっただろうけど、毎年、お盆には、こうして、ここで皆で集まってるんだ」
 日向正太郎の説明に、
「そう…なのですね……? 」
その部分は理解したらしいが、
「でも……。サブローさんはともかく、皆様、お姿が随分とお若い……」
 日向正太郎は苦笑し、
「久子も、そうだよ」
「え……? 」
 日向正太郎が何を言っているのか分からない様子の久子。
 末子が、手にしていた渋めの和柄のポーチの中をガサゴソやりながら日向正太郎と久子に歩み寄り、
「使うかい? 」
手鏡を取り出して差し出す。
「心界の鏡。物界のじゃ、映らないからね」
 ありがとうございます、と、日向正太郎は手鏡を受け取り、久子の顔が映るように向きを調節。
「ほら、見てみ? 」
 言われるまま、鏡を覗く久子。
「……え? 」
 映っているのは、当然、今現在の、外見年齢20代前半の久子の顔。
「これ……」
 久子は鏡を見れる範囲で右を向いたり左を向いたり上を向いたり下を向いたりして、映っているのが自分であることを確かめ、
「私、ですね……」
「高齢で死ぬと、肉体から出た時に、若い頃の姿になるらしいんだ」
 説明する日向正太郎。
「そうなのですか」
 納得した久子。
 その声に嬉しそうな響きを感じ、小陽は意外だった。
(…若返りたいとか思うようなタイプには見えなかったけど……。まあ、でも、もしかしたら、ある程度の年齢以上の女性なら、無条件に嬉しいものなのかな……? )

 末子に礼を言って、日向正太郎は鏡を返す。
 一緒になって礼を言ってから、久子、
「ところで」
頭をクリン、と動かし、土間に立つ小陽を目線で指して、
「あちらの方と」
もう一度クリン、と動かし、案内員の山田を指して、
「こちらの方は、どなたですか? 」
 答えて日向正太郎、先ずは小陽を指し、
「あれは、サブロー君のイイ人」
(はあっ!? )
 日向正太郎の中で、小陽と日向三郎の関係がそうなってしまっているのか、それとも、面白がっているだけなのか……。
 小陽は、勝手におかしな紹介の仕方をされてムッとしたが、すぐに、
(でも、まあ……)
そうしておいたほうが、夫婦関係の平和のためには良いのだろうな、と、許した。
(だって、『自分の店のバイトの子が行くとこ無いから連れて来た』とか、微妙な感じがするし……)
「そして、こっちが」
 続いて、日向正太郎は、案内員の山田を指す。
 と、山田は自ら、
「心界役場住民課案内員の、山田大輔(やまだ だいすけ)です」
自己紹介。してから、
「すみません。先程、ご主人が、『これからは、ずっと一緒』と仰っていましたが、初期研修がございますので、それは本日から起算して50日目からということになりますので、ご了承ください」
「あ、そうか。ゴメン。忘れてた」
 日向正太郎が頭を掻く。
 小陽には、日向正太郎の隣で、久子が、頭上に「? ? ? ? ? 」のマークを出したように見えた。
(そうだよね。やっぱ、あの案内員の山田さんって人が言ってること、丸ごと分からないよね……)
 うんうん、と、同調する小陽。



         * 4 *



「じゃあ、小陽。気が向いたら、自分の実家を覘いてけよ」
 日向三郎のナスの牛の後ろに跨った小陽に、久子と共に門の外まで見送りに出た日向正太郎が声を掛けた。
 お盆最終日の夕方。久子の肉体の死により、お盆どころではなくなった物界親族の大人たちに代わって、日向正太郎の曾孫にあたる者のうち最年長の少年が焚いてくれた送り火で、小陽と、日向正太郎本人を除いた彼の心界親族は、心界へと帰る。
 久子は、肉体の死の直後に、キチンと死を自覚し、納得もしているため、本当はすぐにでも心界へ行けるのだが、せっかく子供や孫たちが自分のために通夜と葬式をしてくれるということで、小陽の肉体の死の時のケースと違い急ぐ必要も無いことから、もう1日残って、それを見届けてからにすると言い、日向正太郎も、それに付き合うことにしたのだった。
 小陽に声を掛けたのに続いて、日向正太郎は、小声で、日向三郎に、
「サブロー君。悪いけど、小陽のことよろしく」
 小声なのは、久子には「日向正太郎が小陽を連れて来た」のだという設定になっておらず、聞こえると、ややこしいことになるおそれがあるためだろう。
 日向三郎も、ちょっと笑って、
「了解」
小声で返してから、小陽に、
「じゃあ、行きましょう。落ちないように、ちゃんと掴まっててくださいね」
「はい。よろしくお願いします」
 日向三郎の言葉に従い、キュッと背中にしがみつく小陽。
 日向三郎は、ちょっとだけ、背中の小陽に目をやり、優しい笑顔で、確認するように頷いた。
 暗くなり始めた空へ、小陽と日向三郎を乗せたナスの牛が、ゆっくりと上昇する。
 小陽は、名残を惜しんで、日向正太郎の実家を振り返った。
(危ない目にも遭ったり、店長とのことで、ちょっと色々あったりもしたけど、楽しかったな……。
 連れて来てもらえて、よかった。ユキコさんと友達になれたし)
 小陽は、心界に戻ってからも一緒に遊べるようにと、別れ際に、幸子と連絡先を交換していた。……と言うか、早速、1週間後の幸子の仕事が休みの日の、小陽のバイト終了後、会う約束をしている。

「小陽さんのご実家って、どの辺りですか?
 とりあえず、僕の実家はとても遠いので、それよりは駅に近いだろうと思って、駅方向へ向かっちゃってますけど」
 宙を進みながらの、日向三郎の質問。
「あ、はい。それで方向、合ってます。駅から歩ける距離なので。
 でも、いいですよ。寄らなくて……。なんか、気がすすまないし……」
(行ったって、どうせ……)
 行っても、そこにあるのは、壊れた家庭。……小陽が死んだせいであるため、文句を言う資格すら無い。
 だから、今年は初めから、行かないことにしていたのだ。
「じゃあ、家の外から、そっと中を覗くくらいでもいいので、行ってみませんか?
 正太郎にも全く同じことを言われてたみたいですけど、小陽さんが最後に目にしたご実家の様子って、まだ、小陽さんの肉体の死後2ヵ月も経たない頃ですよね? それでご家族が明るく楽しそうにされていたら、逆にショックじゃないですか? 自分がいなくなったことを喜ばれているみたいで。
 1年経って、どんな様子なのか、ちょっと見てみてもいいと思いますよ? 」
(……そんなに言うなら……)



「ここですか? 」
「はい」
 日向三郎と、それから日向正太郎も、あんまり言うので、とりあえず立ち寄ってみることにした小陽。
 もうすっかり闇に沈んだ住宅街に、日向三郎と共に降り立つ。
 と、実家の塀の、すぐ向こう側から、つい最近に聞いた覚えのある、パチパチ……とか、シュー……とかいう微かな音と、立ちのぼり夜の闇を柔らかくする白い煙とその特有の香り。
 塀の上から覗いてみると、
(花火……)
 母と星空が、庭で花火をしていた。
 その時、暗い道を1台の自転車が、小陽と日向三郎のいるほうへ向かって走って来、
「こんばんはー」
 言いながら、実家の門を入って行った。
(あ、あの子……)
 それは、いつか星空を悪い仲間から救ってくれた少年・桐谷だった。
 自転車を玄関前に止め、カゴに入っていたビニール紐製の網入りのスイカを網ごと取り出し、ぶら下げて持って、庭へと歩き、もう一度、
「こんばんは」
 母はちょっと驚いた様子で、
「あ、は、はい? こんばんは? 」
「あっ! 桐谷! いらっしゃーい」
火の点いたままの花火を手に、桐谷に歩み寄る星空。
 星空に頷いてから、桐谷、
「花火にお招きありがとうございます」
母に挨拶し、スイカを差し出す。
「これ、うちの母からです」
 まあ! ありがとう! とスイカを受け取ってから、母、星空に小声で、
「誘ったの? 」
ちょっと冷かすような調子。
 返して星空、照れながら、
「うん。2人より、3人のほうが楽しいでしょ? 」
 そして、照れを紛らすように桐谷に、
「桐谷。まず、どの花火やるー? パチパチ弾けるのとシューシュー噴き出すの、どっちが好きー? 」
 桐谷の手を引いて、未使用の花火を並べて置いてあった縁側へ連れて行く。
 小陽が物界で生きていた頃と変わらない、明るい星空の姿に、小陽はホッとする。
 母が、スイカを切ってくる、と、縁側から上がって家の中へ。
「火、気を付けてねー! 」
 もう中へ入ってしまってから、突然思ったのだろう、外にいる星空と桐谷に向けての母の声。
 母も元気。
(…これなら、来年のお盆は、ちゃんと初日から来たいかも……)



                              * 終 *

お盆休みに行きたい場所、第1位!(当社調べ)

第1部は2015年作品。第2部は2016年作品です。

お盆休みに行きたい場所、第1位!(当社調べ)

肉体の死を迎えた16歳の主人公・野原小陽(のはら こはる)は、「心界(しんかい)住民課案内員・日向三郎(ひなた さぶろう)」と名乗る青年に導かれ、「心体(しんたい)」と呼ばれる、いわゆる魂だけの存在になって、心体の暮らす世界・心界へと引っ越した。 心界・・・そこは、肉体を持つ人たちがごく普通に生活するのと全く同じように、心体たちがごく普通に生活する世界。 しかし、小陽は、自分がそれまで暮らしていた、肉体を持つ人たちの暮らす世界・物界(ぶっかい)に残してきた家族のことが心配すぎて、心界になじめず、大罪を犯してしまう。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-08-16

CC BY-NC-ND
原著作者の表示・非営利・改変禁止の条件で、作品の利用を許可します。

CC BY-NC-ND