リュウの飛ぶ街
遭逢と別離
街にて
きょう、リュウを見ました。大きなツバサを空いっぱいに広げて、南のほうのそらからとんできました。そして、すこし東にまがりながら、とんでいきました。リュウがわたしのま上をとおったとき、いっしゅん、たいようの光がぜんぶなくなったかとおもいました。そのくらい、大きくて、まっクロでした。
「なぁ…」
ヴァルが押入れを前にして、あぐらをかいたまま話しかけてきた。
「なぁにぃ?」
あたしはけダルげにベッドから頭を起こす。そして、お尻で這いずるようにカレのもとへと移動した。
その手許をしばらく見つめ、無言で後ろ頭をかかとでコヅいた。
「いってぇ!」
「なぁに、ヒトんちの押入れ勝手にあさってンのよ!
仮にも女の子の部屋よ。あたりかまわず物色すンなら、今すぐ追い出すからね。」
ダルそうなのは変わらぬまま片足の指先をのばして、カレが手にしていた日記をとりあげようとする。
「ぐぁっ…足つる!」
結局届かずに、軽くノビをしながら、肩ごしに覗きこんだ。
「よりによって、十年以上も前のじゃない。」
ついこないだ十七になったばかりだから、ちょうど十一年前のだ。小学校に入って初めての夏休みの宿題絵日記。
「もう少しまともな絵を描けなかったのか?」
カレの開いたページには、色鉛筆で真っ青に塗りたくった画用紙に黒い影が描かれていた。
鉛筆みたいな棒状の形の両脇にいびつな三角形をつけた物体が、青の中央に描かれている。まわりが青なんだから、空なのだろう。
その程度の絵に拙い文章と字体が連なっていた。
文章部分に書かれたとおり、空を飛ぶリュウに見えなくもない。拙いなりに具体的な描写だ。
「逢って数ヶ月のオトコに…」
いらぬツッコミにイラダった。
「…な、ん、で…」
そして、記憶が泡立つ。
「六歳時分の絵に文句をつけられなきゃなンないのよ。」
郊外の丘の上にちっちゃな女の子が青空を仰いでいる。なんかつまらないことで叱られて、親の制止を無視して逃げだした。たしか、勉強しろって言葉に飽き飽きしたか程度のコトだったはずだ。
雲ひとつない青空。
涙目で仰ぐ青空の先に黒い点が映った。ソレは女の子の方にまっすぐに飛んできた。
きちんと勉強していたから、遠近法という言葉も知っていた。遠くは小さく、近くなるにつれ大きくなる。
小さな点でしかなかったソレが見る見るうちに横長の線になり、線の中央部が膨らんできて、だんだんと形を作っていた。予想どおり翼を広げた姿だった。
しかし、想定外だったのは、遠近法で予測していた大きさでなかったことと、角が二本はえていて、眼が真っ赤だったこと。まるで夕日が二つあるみたいだった。
詳細に想いだす。
小学生の頃は日記を趣味にしていた。
六年間で何冊になったっけ。ありふれたキャンパスノートだったから、かなりの冊数になったはずだ。
「二冊目…?」
表紙に「2」と大きく書かれているのを見て、ヴァルが押入れの中に上半身をつっこんだ。
「一冊目は?」
「ないんだ。なくしたか、実家からもってこなかったンだと思う。」
ということは、意図をもってコレだけを選んだということになる。
絵日記をめくっていくと、いかにも優等生チックな話題がつづられていた。
蒸し暑い夏の夜の花火がきれいだったこと。クラスでキャンプに行ったこと。数年前に亡くなったおばあちゃんのこと。海岸のゴミ拾いについて熱く語られている。
それらを見た限りは、文章能力もあるし、ネタに困ったわけでもなさそうだ。ネタがない日はない日で、読んだ本やニュースについて書かれている。
だからこそ、そのリュウについて書かれたページがだけが違和感があるのだ。
「あ、思いだした。」
そうだ。リュウだ。
ここだけやたら創作じみていたから、気になって持ってきた。
そう考えるのが妥当なのだろう。
「小説でも書こうと思ったのか?」
「違うわ。実話よ。あたしの真実の記憶。
あまりに迂闊な話題だったから、きっと先生に怒られたんだろうね。」
自分の過去を他人事のように話すあたしを、ヴァルは訝しげに見つめていた。
「別にかわいそうな過去でもなんでもないわよ。学校生活になんの問題もありませんでした。先生ウケも、友達ウケもよかったんだから。
記憶の喪失でも、改ざんでもないって。」
ポイッともう一度押入れに放りこんだ。
ほとんど物の入っていない押入れの床にノートがばさりと落ちた。リュウのページが開いてしまったから、つま先で行儀悪く閉じた。
「なぁ、本当なのか?」
「なにが?」
「リュウを視たってこと。」
小さく肩をすくめた。
「そんなこと覚えてないわよ。
っていうか、カンケイないでしょ。よけいなこと訊かないの。」
ヴァルは表情ひとつ変えずに黙りこんだ。
言い過ぎただろうか、と若干後悔しつつ、カレを横目に見た。
なぜだろう。
これ以上触れてほしくはなかった。
「あぁあ、もうこんな時間か。」
あくびまじりに伸びをした。
今日は日曜日。お昼もだいぶまわっていた。学校もバイトもないのをいいことに、久々の休日も寝て過ごしてしまった。
「昨日呑みすぎたもんな。」
ちなみに法律上は酒は飲めない。外呑みができないから、もっぱらヴァルが買い置きしているのを拝借する。
当然、カレとさし呑みになるのだが、ぜったいにあたしが先に酔いつぶれる。ヴァルはザルだから。
「おなか空かないの? どうせ先に起きたんなら、うどんくらいゆでてくれればいいのに。」
軽くブゥたれた。困ったようにあたしを見た。
ホントは知っている。
カレが食するのをほとんど見たことがない。ときどきつきあい程度にあたしの作ったのを食べることはあるが、たいていは酒ばっかり飲んでる。
つくづく落伍者だ。あたしの実家の義父とおんなじ。
午後の陽射しがやわらかく部屋にさしこんでいた。季節は初夏を迎えようとしていた。窓を開け放つと、新緑と土の匂いがした。
「ねぇ、散歩しよう。あたし、公園のパニーニが食べたい。」
あたしの住む四階の窓から見える公園を指差した。
公園前のカフェテリアで作っているパニーニが最高なのだ。このお天気をこれ以上ムダにしたくない。
思いたったら、即行動。
昨晩普段着のまま寝てしまったから、脱いだ服と下着を洗濯カゴに放りこみ、とりあえずそっこうでシャワーを浴びた。身体を無造作にバスタオルで拭きながら、裸のまんまヴァルの前を横切る。
昨日と違うTシャツとジーンズをひっぱり出した。気分的に黒猫の顔がランダムに散らしてある白いTシャツを選んだ。それと七分丈のスキニージーンズ。肌触りが好きだからレーヨン。
こんな自堕落を親が見たら激怒するんだろうな、と苦笑する。
そして、いまだ家って単語に縛られるあたし自身に苦笑する。
「ヴァルは?
シャワー浴びんでいいンスか?」
中途半端に伸びた髪をぐしゃぐしゃとタオルで拭きながら、ふりむいた。
「とっくに浴びた。」
となにやら哲学書のような題名の本を手に立ちあがる。
まだ髪が乾ききってないけど、いいか。
あたしは薄めの文庫本をジーンズの後ろポケットに挿しいれて、ビーチサンダルをつっかけた。
「サイフ持ってくれたぁ? それとカギもよろしくぅ。」
カチリと音がしたのを確かめて、あたしはヴァルの右腕に絡みついた。
暑いなと空を見上げた。
ついでに自分の部屋に目を移したら、隣に住んでる少年がベランダでウチらを見てたから、わざとらしくヴァルに甘えてやった。
バーカ、口元がそう言ってた。
「めずらしいな。」
いつまでも腕にぶら下がっているあたしに、ヴァルがやっぱり淡々と話しかけてきた。
「そう? ジャマ?」
あたしもそれに合わせ平静を装う。
たしかに普段はベタベタしたがらない。
ヴァルはもちろん。あたしも。
でも、たまに欲しくなる。
体温。
それを確認しないと、あたしが生きているのかわからなくなるから。
すっきりと晴れわたった日曜日の公園は、家族連れやらカップルやらでいっぱいだった。
あたしは予定どおり、公園前のカフェでパニーニとオレンジジュースを注文する。
その間、ヴァルはぼんやりと外で待っていた。太陽を背にして、北のほうを眺めているカレに、
「お待たせ。どこ座ろうか?」
と声をかけて、その手を引いた。
一つ木陰のベンチが空いていたから、椅子取りゲームのように勢いよく腰を落とした。
「エルシア、訊いていいか?」
ちょうど北東向きのベンチだったからか、あいかわらず視線は北の山脈。ようやく雪の冠が融けたばかりの稜線はのこぎりみたいだ。
パニーニにかぶりつきながら、しばらく次の一言を待った。どうもあたしの許可を待っているみたい。ちょっと違和感を感じる。
口調はいつもと同じ。淡々とした、感情がまったくもって察することができない抑揚のないしゃべり方だ。
しかたないので、どうぞ、と呟いてみた。
「さっきの日記のことなんだけどな。」
とたん、心が乱れた。
「なによ、まだなんかあンの?」
「いや、覚えてないと言われそうなんだけどな、あれに書かれたリュウってどこで視た?」
サラミとモッツァレラのパニーニをくわえながら、あたしは頭半分ほど上にあるカレの顔を見つめた。
しかし、ヴァルはあたしを見ない。北の山脈を厳しい表情で凝視してる。
「ふーん、そんな顔するンだ。」
なにかに本気で悩んでる顔と思われた。
だからこそ、軽く流してしまいたい衝動に駆られるが、ここはマジメに答えるべき場面なのだろう。
まだ少し大きかったが、食べかけていた残りのパニーニを口につめて、一気にオレンジジュースで流しこんだ。
「ホントいえば全部覚えてるわよ。ヴァルの予想どおりだわ。アッチ。」
あたしは北に連なる山脈のはるか東にピョコンと一つとびでた、山脈の中で最高峰の山を指差した。
「炎天山か…」
口元が歪んだ。
「なんかさ、でっかい身体のリュウがさ、ダレも近づくことができない活火山の、しかも禁忌の山、炎天山に向かって飛んでいった。
なーんてベタな物語、ダレも信じてくれなかったの。
アレから一度も見てないしね。」
「そうか。」
「もう十年前か。まだいるのかな?」
「どうだかな。」
いつものヴァルに戻った。
「ねぇ、ヴァルはさ…リュウっていると思う?」
大陸の東の果てにはリュウの王国があるという。ウチらが住む王国の偉いヒトたちはリュウオウと逢うことがあるという。
だから、いないことはないのだろう。
しかし、あたしの見知っているセカイのヒトビトは、リュウは伝説かおとぎ話の住人だという。
いずれにしても、リュウたちがいいヒトなのかも、悪いヒトなのかも知らない。大きさがどのくらいで、どんな姿で過ごしてて、何を食べて、どんな生活をしているかといったあらゆることを知らない。
未知の存在。
だから、あたしはこの記憶を泣く泣く封印したのだ。
現実を見ろ。義父と母の言葉。
首都で王宮勤めしている義父と王国主神殿光明神官の母。
しょせん、ウチの両親はリュウに謁見できない程度のお偉いさんだったのだろう。あたしの言葉を信じなかったのだから。
「リュウはいる。」
短い断定。
なにに対する返答なのか、聞き逃しそうなくらい小さな呟き。
なぜに断定できるのか問い詰めたくなったが、やめた。
どうせ、たいした気のきいた返事は返ってこないはずだから。
むしろ、この話題をやめたい。
「明日も晴れるかなぁ。」
返答なし。
「明日晴れたら、学校サボろうかなぁ。晴れた日の教室なんて憂鬱だよね。」
返答なし。
「よし。明日、山に行こう。山の草っぱらで昼寝しよ。」
返答なし。
会話を終わらせてはならない。そう思ったけど、ムリだった。
半ば強引にキスをして、黙って後ろポッケの文庫本を読み始めた。
やわらかく暖かい風が萌黄色の葉っぱを吹きぬけるたびに、文庫本の文字がチラチラと明滅を繰り返した。
文字が揺らめき、まったく読めない。
「予感はしてた。」
次の朝、隣にヴァルはいなかった。
緩慢に上半身を起こして、ぼんやりした瞳と頭で無人のフトンを見つめ、部屋中を視線をめぐらせた。ベッドから下りて、バスルームものぞいてみた。
どこにもいなかった。
カレの荷物はもとから一つもない。持ってきたものもなければ、増えたものもない。
カーテンを開けて窓の外を見つめた。
街の高台にあるアパートの四階の窓からは青い空しか見えない。
「晴れたなぁ。」
ぬけるような蒼穹が瞳を射る。
守るように手のひらで顔を覆ったら、とめどなく涙がこぼれてきた。
山にて
俺は上空から彼女のアパートを見下ろした。俺からははっきりと彼女の姿が見える。
しかし、窓辺で空を見上げる彼女が俺の姿を見出すことはないだろう。
「いいの?」
背中から尋ねられた。
「今日、晴れたら山に行こうって誘われたんでしょ?」
「いいんだ。」
「泣いてんじゃない?」
「泣いてるな。」
表情は見えないが、背中に乗っている少女は俺を咎めているのだろう。背中の硬い鱗に何度か衝撃を感じた。
「傍にいるほうが、きっと彼女は泣くことが増える。」
「…了解。何度も話しあったよね。だよね。」
諦観の溜息が聞こえた。
「パパ、準備しておいて。」
続く言葉に、俺は翼を力いっぱいはためかせた。目指すは東だ。
リュウの飛ぶ街