膨らみの子供たち
額の奥から流れてくる汗は、とめどない瀑布のようだった。剛史は首に掛けたタオルで、顔を拭うとその場で一息付く。川から水を汲んできたウォータータンクを、ようやく荷台に積み終わった所だった。
まだ七月になったばかりなのに酷い猛暑で、しばらく、そのまま休んでいたかったが、すぐに動き出す。止まっていると、セミの声がより一層うるさく聞こえた。赤錆びのあおりを上げて、車体後部から運転席側の扉へ回り込む。サイドミラーに深く刻まれた皺と、白髪交じりの顔が写る。剛史は、自分が酷く疲れた顔をしていることに気が付いた。
席に腰を下ろすと、大きくため息を吐く。しかし、またセミが急かすように声を大きくしたので、仕方ないと言った風に剛史は車を動かした。
古びた軽トラックが川沿いの道を山なりに進んでゆく。五分程で右に折れると、木々の中を穿ったような一車線半程の狭い道が伸びていた。
その道は螺旋に上へ上へと続いている。バックミラーから吊るされた交通安全のお守りが激しく揺れて、ついには紐が切れた。剛史の足元へ転がり落ちたが、意にも解さなかった。
しばらくして、車は砂利の敷かれた開けた場所に出る。駐車場になっているようで、他にも車が何台か止まっていた。彼もそこに車を停めた。
車を降りると、セミに混じって水流の音が聞こえてくる。左手奥に大きなダムの水門があり、そこから響いている音だった。正面には更に山を登る階段と下り坂があるが、彼は右へ進む。そちらに、こじんまりとした神社が建っていた。
石段を登り、鳥居を抜ける。神社の敷地内はこの猛暑の中でも、不思議と涼しく、雑音も遠くにあった。しかし、剛史の方が熱くなっていたので、彼にとっては関係がなかった。
鳥居から社へ続く石畳のちょうど真ん中辺りに、十人ほどが丸く集まっていた。皆一様に目を閉じ、手を組んで、祈りを捧げていた。その中に一人、栗毛の少女を認めると、剛史はそちらへ、つかつかと歩み寄った。
「美代、なにしてる」
そう呼ばれた少女は驚きに目を開いて、声の方へ向いた。周りも同様で、剛史の方へ視線を集めた。彼らは若く、中には髭も生えない子供も居る。
「学校はどうした、抜け出したのか」
「お父さん、これは」
「黙れ!」
剛史は人を掻き分けて、美代の細腕を取った。彼はそのまま踵を返そうとしたが、そこへ声が掛かったので足を止めた。
「美代さんを離してください」
「お前、梶木んとこの息子か、こんなところでなにしてる」
「言っても分かりませんよ」
「言えないことをしてるのか、ええ? 俺の娘をそれに付き合わせてるのか」
「違います、分からないと言ったんです。無駄だから」
「なに?」
剛史はより一層強く、青年を睨んだ。青年はそれを見つめ返す。眼鏡の奥の瞳に、確かな意思が感じられた。
「ここの神社に祀られている神の名をご存知ですか」
「なんの関係がある」
「知っていますか」
「知らん」
「でしょうね」
彼の言い様は剛史の癪に障ったが、ここで青年と口論することの不毛さを悟ると、美代の手を強く引いた。剛史がなにを言った所で聞くような様子はない。
そもそも別にこいつらが、なにをしようとも勝手だ、好きにしてもらって結構。俺は、なにも言うつもりはない。問題は自分の娘が関わっていること。学校に行かず、よくわからない集まりに出るのは非常によろしくない。剛史はそう考えていた。
嫌がる美代を強引に助手席に引きずりこむと、剛史は車を出した。
車は山を下りて、古びた二階建てアパートの隣りに止まった。
「ほら、降りろ」
美代はいかにも不服げに眉を寄せたが、素直に従った。緩慢な動作ながら、制服のスカートをひらひらさせて、アパートの階段を登ってゆくのを見ると、剛史も車から降りた。
階段の先、屋根のある二階廊下の奥で、美代は俯きながら待っていた。その後ろで、塗装の禿げた欄干が西日を照らし返している。それを見た剛史は妙な気持ちになった。美代と自分とに、決定的な隔たりがあるように感じた。
最近の若者は、なにを考えているのか分からない、美代もそうだし、梶木のとこの息子もそうだ。特に俺の息子なんて。俺が子供の頃は違った、確かに親の言うことを聞かないこともあった。しかし、学校にはちゃんと行ったし、隠し事なんてしなかった。親にしっかりと感謝していた。そう、感謝だ。そういう気持ちが見えないんだ、今の子供は。誰がお前たちを暮らさせてやっているのかをよく自覚するべきなんだ。
「鍵はどうしたんだ」
扉の前で立ち止まる美代に言うと、彼女は鍵を取り出してこちらへ見せた。
「居間に座ってろ」
美代が扉を開けて、部屋へ入っていく。言われなきゃ、なにもできないのか、とため息を吐くと、剛史は車へと戻っていった。
ウォータータンクの重みに難儀しながら玄関へ入ると、薄暗い廊下と強烈な熱気が迎えた。彼はまっすぐ進み、右手の部屋に入る。そこは台所で、油で汚れたコンロと流し台があった。タンクをシンクのそばに置くと、流しの蛇口を捻る。しかし、水が出ない。剛史は自分の馬鹿さ加減に呆れた。苦労して水を汲んできた理由を忘れたのか。
「おい! どうして窓を閉めるんだ!」
蛇口の上にある窓は結露が模様のようにぶつぶつ浮いており、長い間閉められていたことを示している。呼び声に誰も答えないことに苛立ちながら、換気扇の紐を引いた。ブーンという音と共に、油で茶色くなったファンが回りだす。窓を勢いよくスライドさせた。窓を開けても外の熱気とカラスの鳴き声が入り込んでくるだけだったが、空気の淀みはマシになった。
居間は廊下を挟んで台所の反対側にある。八畳程度の部屋の中心に足の低いテーブルが置いてあり、美代はそこに座っていた。
陽の指さない部屋に、電気も付けずに座っているので、また剛史は隔意のようなものを感じた。どうして電気を付けないのかが、わからない。
彼女に対面するように座り、剛史が今にも説教を始めようとした時、後ろで窓の閉まる音が聞こえた。慌ただしく台所へ戻ると、妻の洋子がばつの悪そうな顔でこちらを向いた。
「なにしてる」
「いえ、別に」
「窓を閉めただろ、どうしてだ」
「……雄ちゃんが怖がるんです」
「怖がるって、なにを」
カラスですよ、なんでも自分の腕を狙ってるだとか」
「そんなわけあるか!」
一喝すると、剛史は窓を素早く開ける。その後で体を翻して、居間へ戻っていった。
洋子は首筋の汗を拭うと、窓に手をやった。そのまま少し動かしてみたが、ゆっくり引いても音が鳴ったので、窓から手を放した。足元のウォータータンクから水を二杯のコップに注ぎ、盆に載せると廊下へ出た。廊下の奥へ進みだした時に、居間から剛史の怒鳴り声が聞こえてくる。
「どうして学校へ行かない!」
洋子は廊下の突き当りに辿り着くと、扉をノックした。
「雄ちゃん、入るよ」
控えめな音を立てて、開いた扉の先には、窓の閉まった狭く暗い部屋があった。部屋の壁際の布団の上で一人の男で横になっている。頭髪は薄く、目の周りに深いくまがあり、頬はこけて、唇は紫に薄い。青いチェックの寝間着を纏い、母親の方を見つめていた。未成年と紹介されれば、そう感じるし、中年と言われれば、そう思うだろう。
男は枯れ枝のような左手を上げると、母親からコップを受け取った。
「母さん、窓は閉めてくれた?」
声色は意外にも柔らかく、若々しかった。蒸し暑い部屋に流れ込んだ爽やかな風のようだった。おそらく、神社で剛史が出会った青年と同じぐらいの年齢だろう。
母親は首を振ると、父親に止められた旨を説明する。
「雄ちゃん、ごめんね」
「父さんはどうして、わからないんだろう。カラスは僕を狙ってるよ」
男はそういうと、自分の右側へ視線をやった。壁の前、こんもりとした何かがそこにあった。布を掛けられて山のようになっている。その山は二十センチ程の高さと幅を持ち、男の右腕は布の中へと続いている。
奇妙な光景だった、痩せた男の布団の隣りに、大きな丸いものが布に覆われている。時折、呼吸のように布が上下するので、誰かがその中に居るのかと思う。しかし、人にしては半端な大きさだ。だが、獣臭さもなく、かといって医療器具のような感じもしない。
洋子はその方へ憐憫の情を含んだ瞳を向ける。それから、男のそばにあったタオルを手に取ると、静かに部屋を出た。濡れタオルで体を拭いてやろうと思ってだ。
男はというと、布の膨らみに目をやったまま動かなかった。蒸した部屋の中でも、溶けない氷のようにそのままだった。
山中の川で、日課となった水汲みを終えると、汗を拭って、剛史は車へ乗り込んだ。
車をダム側の神社の方へ向かわせようとしたところで、ハッと気が付く。流石に今日はこのまま帰って大丈夫だろう。家から出ないように強く言っておいた。
剛史はそう考えて、家の方向へ車を出した。家は下山してすぐの所にある、坂道に建った古いアパートだ。
備え付けの狭い駐車場へ車を停めると、タンクを抱えて階段を上った。
ちょうど、二階廊下に足を掛けた時だった。剛史の視界へ、ふわりと白いワンピースが舞った。
「どうした」
家から出てきた美代へ、剛史の声が掛かる。あからさまに怒りを含んだ声色に、彼女は驚いた様子だった。しかし、怯むことなく、剛史と正対した。
「ちょっと、お母さんに頼まれて」
「山へ行くんじゃないだろうな」
「こんな服で?」
デニムジャケットにワンピース、足元は粗末なサンダル。とても登山ができるような恰好ではなかった。
「どこへ?」
「どこって、買い物だよ」
「何を買うんだ」
「お父さんには関係ないでしょ」
しばし黙考した後、剛史は呟くように言った。
「あまり人に見られるなよ、学校休んでるんだから」
今日は登校日だったが、吐き気がするというので剛史は美代を休ませていた。
「わかってるっ」
逃げるように横を駆け抜けていった娘を見送りもせず、剛史は奥へ進んだ。
扉を開けると、外よりも濃い熱気が押し寄せてくる。光のない廊下を抜けて台所へ行き、ため息を吐きながら窓を開けた。
「おい、窓を閉めるなって言ってるだろう!」
怒鳴り声を受けて、おずおずと洋子が台所へやってくる。どうやら居間の方に居たらしい。
「何度言ったら分かるんだ?」
「雄ちゃんが」
「雄一がどうした、カラスを怖がる? 気にするな」
「けれども」
「いいって言ってるんだ」
「わかりました……それで、いつお医者さんに診てもらうんですか?」
剛史はそう聞かれて、返事に窮する。さも重大ぶってこう答えた。
「それは、まだ早いだろう。どう説明するんだ、理由も分からんであんな姿を人前に晒すわけにもいかん。
医者に診せたところで治る保証もないだろう。
どうしてもとなれば、隣町の医者を呼びつけることにする」
洋子は不満気に片目を歪めたが、しぶしぶながら頷いた。
「ああ、お前、美代に何を頼んだんだ?
買い物だとか言って、出て行ったが」
「えっ」
洋子の頭に疑問符が浮かぶ。
「私は何も頼んでませんよ」
その言葉を聞いた時、剛史の頭にある想像がすぐに浮かんだ。まさか、あれほど言った、行くわけがない。冷静な反論が脳内を行き交うが、剛史はその想像が本当のことかどうか確かめることにした。タンクを投げると、彼は車を山へ向かって走らせた。
美代の手を強引に引く、そして玄関へ突き飛ばした。美代が痛がりながら、床へ転がる。剛史は乱暴に扉を閉める。果たして想像の通りで、彼女はダムのそばの神社に居た。どうやら誰かの車に乗って上ったらしい。
「どうして言うことを聞かない! なんで行ったんだ!」
彼女の二の腕の小さな傷が薄暗闇の廊下でやけに赤々しい。どこかで擦りむいたのだろう。彼女はその傷をじっと見つめていて、父と目を合わせなかった。その態度が剛史の怒りを増長させる。
控えめな音を立てて襖が引かれ、居間から洋子が出てくる。母は剛史の手を取ると、お父さん落ち着いてと口にした。
「どうしてだ、答えろ!」
「……信じないよ、言っても」
またそれか、剛史は吐き捨てるように呟く。神社で会った青年と同じことを言うので辟易する。
「学校に行きたくないのか」
「ううん」
「あいつらに妙なことを吹き込まれたのか」
父は思い出す。美代が学校へ行かなくなったのは、息子の雄一がああなってからではなかったか。息子も病床に伏す前、学校に行かなかった。かわりにあのダムの横の神社に行っていた。
「あの神社に何がある?
学校より大事なことか、俺の言うことより大事なことか」
「うん」
迷いなく娘は答えた。顔を上げて、しっかりと父と目を合わせながら。瞳の奥に潜む真摯に、剛史は少し気をされた。
「言ってみろ、どうしてあの神社へ行くんだ?」
「皆を助けるため」
またしても曇りのない言葉だった。窓のない暗がりの廊下に差し込んだ光のように、峩々やかしい響きがあった。刹那の内に父は確信する。
剛史は荒々しく美代の首を掴むと、闇の濃い奥へ奥へと足を進めた。娘があちらこちらを床に壁に擦りながら引かれてゆく。追いすがるのは母親で、やめてと叫びながら涙で濁した目を向ける。
最奥へ辿りつくと、乱暴に襖を引いた。八畳ほどの小さな小部屋の中心にあの男が居た。雄一、剛史の息子。
布団に仰臥で、体の右側に布で覆われた膨らみがある。体を起こそうとしたが、すぐに止めてしまった。
「お父さん、どうしたんですか」
顔だけを剛史に向けながら言う。しかし、その言葉は届かなかった。
「助ける! 助けるだと! お前が何をするんだ!」
怒髪天を衝くと言った様子で、赤ら顔の父は叫んだ。
「見ろ!」
あっ、と雄一が呟いた。剛史が素早い動きで膨らんだシーツを剥ぎ取る。
カーテンの隙間を抜けた小さな光が舞台風にそれを照らしている。それは丸々として、震えるように脈打ち、薄い肌色で血管が透けていた。
腕だった、紛れもない雄一の一部。妊婦の腹のように、腕が膨らんでいた。手首から二の腕の辺りまで。
巨大なゴムボールに腕を通したようにも見えた。しかし、そうではない。全てが雄一の腕だった。
「どうするんだ! お前が!」
剛史は布団に乗り出し、美代の顔をそれに近づける。汗とも違う、奇妙な臭いが彼女の鼻を突いた。
「神社に行くのか! 学校に行かないでか! 俺の言うことを聞かないでか! それで助けるのか!」
美代が剛史の手を逃れてカーペットへ転がる。そこへ父が飛びつくと、拳を何度も打ち下ろした。この頃になると洋子は泣くばかりになっていた。両手は顔を覆い、膝立ちの姿勢でいた。
その光景を雄一は止めるでもなく、ただじっと見つめている。氷のように、動かずに。
父に散々殴られたこの日から、娘は家を出なくなった。家がそのまま彼らの家であるまでは。
「梶木の息子はまだ見つからないらしい」
「探したんじゃないのか、山」
「それでも見つからんかった、一週間で捜索隊は解散。
まだ梶木の奴が一人で探してる」
錆びたトタンの屋根の下、大きく開かれた両扉の前で二人の男が話している。一人は剛史で、もう一人は禿頭の年配。
老人の視線は剛史を掠めることもなく、どこか遠くの空の方へ向いている。背筋はピンとしているが、時折腰を摩ることがあるので、なにか気づかわしい事情がその辺りにあるのだろう。
剛史はというと、扉の前に置かれた冷凍箱を覗き込んでいた。ガラスの向こうで、冷気に包まれた氷菓が見える。蓋を押し上げると、その中で一際冷ややかなパッケージを手に取る。雪だるまが波打ち際で、日焼けをしているデザインのものだ。
「ダムの近くに神社があるの知ってるか」
「八十五円。
知っとるよ」
剛史はくたびれた半パンのポケットに手を突っ込むと、百円玉を取り出して、老人の手の平に乗せた。
老人が扉の向こうの影へ消えてゆく。しばらくすると、同じ場所へ戻ってきて、剛史にお釣りを渡した。七枚の硬貨を握りしめる。
「細かいな。
あの辺は探したのか」
「探しただろうな、最近子供らの遊び場になってたようだし。
孫もたまに行っとったらしい」
そう聞いて、剛史は自分の心臓が小さく跳ねるような気持ちになった。いつ、お前の子供はどうだ? と聞かれるかと思うと、気が気でない。
「早く見つかるといいな。
俺もなにかあったら梶木に知らせるよ」
そう言うと、近くに止めてある軽トラに向けて進みだした。一歩ごとに七枚の硬貨が、ポケットの中で擦れあいジャラジャラと音を立てている。それが今の剛史にはなんとなく不安を煽るので、歩みはどんどん早くなった。
「ああ、そうだ」
運転席に右足を掛けた時、後ろから声が掛かる。また心臓が小さく跳ねた。
「お前、使わない浮き輪とかないか?」
「ないけど、それがどうした?」
「孫が欲しがってるんだが、どこにも売ってないそうなんだ」
「ふーん、まぁウチにはないよ」
アクセルを踏んでから、次に車を降りるまで、剛史は海のことを考えていた。なにもかもが解決すれば家族旅行に行くとしよう。まだ今年は行ってない。そうだな。きっとなんとかなるはずだ、医者だっていつまでも休んでるわけではないだろう。使わない浮き輪は、ないはずだ。息子と妻は泳ぎが苦手だから。
「ただいま」
扉を開けると、洋子が玄関へ駆けてくる。あちこちへ跳ねた髪と大きなくま、酷くやつれた様子だった。
「お父さん、どうでしたか。お医者さんに診て頂けるのはいつです?」
掴みかからんばかりの勢いに、剛史は少し体を引いた。
「おいおい、落ち着け」
「いいえ、落ち着いてなんていられません」
更にずいと、寄ってくるのだから、仕方なく父は洋子を自分から離した。両肩に手を置いたまま、話しかける。
「医者はね、夏季休業中だった。
なにせ、もうすぐお盆だろう」
「なら、どうするのですか! あの子たちは!」
今度は本当に胸を掴んだ母が、泣き暮れた朝のような赤い瞳で父を睨む。しかし、剛史は対照的に冷静だった。
「どうって、別にこのままでいいだろ。
俺は、医者に診せる必要があるとも思っていない。
今日はお前を立てて行ってやったんだぞ、これ以上わがままを言うな」
「そんな! 病気なんですよ!」
剛史は頬を上げて、冷たく笑う。洋子を床へ突き飛ばすと、もう一度笑った。
「違うな、親の言うことを聞かないからこうなる。
学校にも行かないで、遊ぶのならば、二人に外へ出るなと俺が言った。
だから、こうなった。
二人はしばらく出られない。
けれども、俺の言うことを聞いていれば自然と治るだろう」
剛史は思い出す。息子も娘も同じだった。いつからか学校に行かず、あの神社へ行くようになった。そういえば、息子が変だと初めて感じたのはいつだったろう。友人の居ない息子が、誰かと遊ぶと言った時だったような。道夫くん? だったか。
「もう分かっただろ? あいつらはああなるべくして、ああなったんだ。
さ、俺は水を汲んでくるから飯を用意しておけ」
剛史はその場に崩れた洋子に構わず、外へ出て行った。扉を後ろ手で閉めた父の背中に、大きな泣き声が掛かったが、それを歯牙にもかけないで、夏の日差しに熱い階段を下りて行った。
洋子は突然泣き止むと、ふらりと力なく立ち上がる。手をぶらりと下げて、まるで幽鬼のよう。足音もなく、闇の廊下を奥へ奥へと進んでゆく。
小さくノックした後で、扉を開ける。
そこに、二つの布団が並んでいた。布団の上には奇妙なゴムボールのようなものが一つずつ置かれている。奇妙なのは、それに四つの枝が伸びていることだった。節のある棒状のものが、一つのそれから四本ずつ。
扉が開くのに呼応するように、ぶるぶる振動する。同時、どこかから声が聞こえてきた。空気をたっぷり含んだような、酷くぼやけた声だった。
「お母さん、ありがとう。
でも、もういいよ」
わっと、また洋子が泣き出して、ゴムボールに縋りつく。
「結局、僕たちだけだった。
道夫くんの言う通りだよ」
今度は別の声で、こちらも同様にぼやけている。
「ごめんね、お母さん。
もう助からない」
それと剛史が出会ったのは、河原だった。いつも水を汲んでいる場所だ。穏やかなせせらぎが、涼しい風を運んでくる。跳ねた魚がしぶきを起こすと、向こうの深いところに生えたシダが濡れて揺れた。
それはゆっくりと、上流からやってきた。大きな桃を連想させた。丸みがあり、肌色をしている。
流れの途中で、岩に引っかかる。すると、腕を使って、器用に体をその上に乗せた。
巨大な球体から人の手足が生えている、そんな姿だった。中心からは、黒髪に二つの瞳に一つの鼻に一つの口と、なんの変哲もない顔が伸びている。あまりに普通な首から上が、あまりに異常な体を有しているので、後からそこだけ取り付けられたような違和感があった。全体は丸い着ぐるみを着ている風にも見える。その着ぐるみは、完全な球体でなく、脂肪で歪な段々を作り、波打つような皺に水滴が沁みている。
剛史の驚きは少ない。何度も家で見た姿だったから。しかし、それが誰かを理解すると、しっかり驚いた。
「お前、梶木の息子だな」
そうか、梶木道夫だ。剛史は思い出す。川を挟んで二人が向かい合った。百六十センチの剛史と、それの目線が横を向くだけでぴったり合致した。
不格好な体に似合わぬ身のこなしで、川をひとっ跳びすると、それはもう一度目を剛史に向けなおした。
「よく僕だと、わかりましたね」
そう、剛史の目の前に居るのは、美代を連れ戻しに行った神社で会った青年だった。
「あまり驚かないんですね。
もしかして、雄一くんと美代さんも僕のようになりましたか」
それは、と言った所で言葉に詰まる。その通りだった。二人の子供は、眼前の彼とそっくり同じような体になっていた。初めは腕にあった膨らみはどんどん大きくなり、腕を通って肩を通って、胸まで辿り着くと、そこで止まった。
これは雄二の場合で、美代は足からだった。しかし、結果は同じ。体で止まった膨らみは、その場で膨張を続けて、次第に胸と胴と腰の境が無くなり、最後には今のようになった。
「それはよかった。
僕だけかと思ったんですよね、この姿になれたのは」
「なに?
お前、なにか知ってるのか」
「知ってるか、ですって?」
そう言うと、道夫は大声で笑った。体を前後に揺らすたび、段になっている脂肪が震えて、水が飛んだ。
「なにがおかしい!」
カッとなった剛史が彼に詰め寄っていく。勢いよく進めた足がいくつかの小石を蹴とばし、いくつかが川へ落ちた。
「言っても、わからないですよ」
「いいから言え!」
「うわっ」
剛史が道夫の足を払った。バランスの悪い体形なので、簡単に後ろにひっくり返る。
「なにをするんですか、野蛮だなぁ」
「言え! 早く言え!」
剛史が石を拾って、顔へ振りかざすので、これにはたまらず、彼も考えを変えた。
「わかりました、言いますから。
でもきっと、わかりませんよ」
そう前置きすると、彼は語りだした。まず最初にこの土地についての伝承から。大学で民俗学を専攻していて、レポート用に自分の家の周りについて調べた時に気が付いたことのだとという。
「つまりね、これは文明のリセットなんです。局地的なね。
それはハイヌウェレのような類型のあるものですよ。
そうして、僕たちは祈りによって生まれたものなのです。
わかりますか、僕らは箱舟なんですよ。
僕と雄一くんと美代さんです、他の子らもそうかもしれない」
剛史には彼がなにを言っているのかさっぱりだった。きょとんとしていると、
「ほら、やっぱり理解できない」
明らかな侮蔑を含んだ言葉が下から飛んでくる。
怒りが収まらなかったので、とりあえず石を振り下ろした。ぎゃっ、と短く叫んで、鼻から血が出た。剛史は片足を持つと、彼を引きずりながら歩き出した。
「ど、どこへ」
「お前の家だよ」
「家ですって?」
また道夫が高笑いする。血まみれの口から、それより赤い口内から、その更に奥から深紅のような笑い声。河原に響き渡って、剛史はたった二人しかこの場に居ないことを強く意識した。
剛史は拳を握りなおす。道夫を黙らせてやろうとした。不快な気分を彼にぶつけてやろうとした。
その時、足元で低い太鼓の音が鳴ったかと思うと、急に剛史の足が宙に浮いた。地面が誰かに叩かれて、その弾みで浮かんだようだった。視界は縦横無尽に激しく揺れ動き、着地してもそのままなので、剛史は異常を察する、地震だ。
荒れ狂う川、けたたましく擦れ合う草木、大急ぎで飛び立つ鳥。山中は混乱の坩堝にあった。
そんな中で、道夫は笑い続けている。相変わらずに。立っていられない振動だったので、這いずりながら、道夫の方へ近づく剛史。彼の元へ辿り着いた時、地鳴りとは違う獅子吼じみた音が遠くから聞こえるのに気が付いた。
なんの音かを考える暇も甲斐もなく、彼らは音の主に飲み込まれる。大瀑布だ、中腹にあるダムが決壊したのだ。
剛史は水の中で、上へ上へともがく。しかし、コンクリートの破片が胸にぶち当たり、口から血混じりの気泡を吐いて沈んでゆく。その横を、道夫がなんの苦労もなく、スゥッと浮かんでいった。
それを見て、剛史は全てを理解する。ああ、このために膨らんでいたのか。
薄れゆく意識の中に、ぼんやりと映像が浮かぶ。洪水に飲まれたアパート、浮かんでゆく子供たちと、沈んでゆく洋子。
諦めたように目を瞑った時、剛史の頭部に折れた木が直撃する。その木を介添えに、剛史の意識は永遠に戻らなかった。
潮の香りの中、ブイのように彼らは漂っていた。一、二、三、四、五、六人が手を繋いでいる。その姿は数珠を思わせた。
水平線の向こうに、陽が飲まれてゆく。道夫が、自分たちを惑星に例えて、これからの希望を語った。雄二は寄ってくる海鳥を追い払うのに必死で聞いていなかった。他の子らも同様に、道夫の話を聞くものは誰一人居なかった。茫然と波に揺れていた。
美代が、ごめんなさいと呟いて泣きだすと、伝播するように皆が泣いた。道夫だけは笑っていた。
彼らと共に運ばれてきたのか、死んだセミが水面にぷかりと浮いている。目ざとい海鳥が、それをかっさらうと、夕陽の空へ舞った。
美代は、毎年夏休み恒例だった家族旅行に行っていないことを思い出した。車で数時間掛けて、遠くの海へ海水浴へゆくのだ。
その時ばかりは、厳しい父も優しく接してくれたし、家族の誰もが楽しそうなので、美代は夏が好きだった。
海鳥がセミを飲み込んでしまうと、夏の終わりを感じて、更に泣いた。
あの鳥の小さな胃の中で、家族の思い出がゆっくりと溶かされていくような気がしたから。
膨らみの子供たち