負けないでっ 【第三巻】

負けないでっ 【第三巻】

九十四 子育て世代

 振り返って見れば、沙希は義父の浜田に度々辱めを受け、それが嫌で家出同然の形で家を飛び出して、町工場に就職したが、折からの不況で勤め先が倒産、仕事にあぶれて、どん底の生活を強いられていた或る日、池袋のロマンス通りに集まる若者のリーダー章吾と出会い、章吾の紹介で六本木のクラブのホステスとなったが、たまたま客として訪れていた大会社の社長米村善太郎の目に留まって、運良く善太郎の跡取り息子、善雄の妻として迎え入れられて、その後は不自由のない生活を続けていた。善雄と結婚後、希世彦に続いて沙里を出産したが、保育園、幼稚園、小学校と送り迎えや学校などの行事に追われている内に、気が付けば長男の希世彦は中三、娘の沙里は中一になっていた。

 美登里は鎌倉のゆとりのある家庭の箱入り娘として育ち、お嬢様学校を出たまでは良かったのだが、不況で就職難、正規社員として就職が出来ずに派遣社員の道を歩くことになった。所が勤め先で陰湿な派遣虐めにあい、或る日派遣仲間の飲み会の後、一人で新宿の街をぶらぶらしていた時に数名の不良に取り囲まれて、あやうくレイプされそうになった。その時、偶然通りかかった章吾に助けられて、それが縁で池袋のロマンス通りに集まる若者のグループに入った。
 章吾と沙希とはバイク事故を目撃したことがきっかけで、同年代の沙希に出会って仲良しとなった。美登里は学生時代に[ゆるい]着る物などが好きになり、ゆるめのライフスタイルを好んだ。そのため、学校では森ガール、名前が美登里なので、緑の森ガールとあだなされていた。そんな美登里は、自分を救ってくれた強い男、章吾に憧れ慕い、北海道にツーリングに連れて行ってもらった時、洞爺湖湖畔のウィンザーホテル洞爺で一夜を過ごし、ついに章吾のハートを射止めて章吾と結婚した。結婚前、ウィンザーホテル洞爺で章吾から授かった子供は美登里の中で元気に育ち、章吾と結婚後可愛らしい女の子、志穂が誕生した。その志穂は仲良しの沙希の娘沙里と同い年だから、もう中一の可愛い娘に育っていた。

 沙希がどん底生活を強いられて食べて行けなくなり、止む無く新宿百人町界隈で売春の客引きをしていた時に売春婦が一網打尽、警察に捕まった。その中にスペイン人のマリアが居た。マリアはスペイン大使館の職員として来日していたが、解雇されて職を失い、沙希と同様に仕方なく売春の道に迷い込んだのだ。警察から釈放されてからマリアは沙希に再会し仲良くなった。マリアは住む家も失っていて、沙希のアパートに転がり込んで、そこで共同生活が始まった。
 そんなマリアにも、日本人の恋人ができた。章吾の親友のサトル(栗山智)だ。沙希がアパートを引っ越す時に、サトルは章吾と一緒に手伝いに来てマリアと知り合い、サトルの方がマリアを好きになった。
 沙希に誘われてマリアもロマンス通りの仲間入りをしたので、サトルとはデートを重ねることが多くなり、やがて二人はめでたく結婚した。

 婚姻届を出す時に、サトルは初めてマリアの正式な名前を知った。マリアの正式な名前は[マリア エレーロ ポルティーリョ  (Maria Herrero Portillo)]だったのだ。
「随分長ったらしい名前だな」
「あら、スペインじゃ普通よ」
「エレーロとポルティーリョはどっちが日本の苗字なんだ?」
「スペインでは両方共苗字なのよ」
「二つも苗字があるのか」
「いいえ、スペインでは、自分の名前に続けて、父方のお父様の姓、その後に母方のお父様の姓を続けて書く決まりになっているのよ」
「へぇーっ? そうなんだ」
「そうよ。それで結婚すると、日本では栗山智の奥様のマリアは栗山マリアとなるでしょ?」
「ん。そうだ」
「スペインでは自分の名前に続けて誰の奥さんになったかを書くのよ」
「へぇーっ」
「だから、あたしはサトルと結婚したから、スペイン風に書くと正式にはMaria Herrero Portillo de Kuriyama があたしの正式な名前になるのよ」
 サトルは国が違えばこんなとこも違うんだと改めて感心していた。そんなサトルとマリアの間にも子供が出来た。女の子だった。
「日本の方の名前でマリと呼ぶ名前があるわね。この子の名前、マリじゃダメ?」
 それでサトルは親とも相談して漢字で[茉莉]と命名した。茉莉は沙希の娘沙里の一歳後に誕生したので、今は小六だ。スペインとのハーフだし、マリアが可愛らしくて綺麗なので、茉莉はすごく可愛くて綺麗な娘になっていた。
 沙希の知らない所で、善雄が加奈子に産ませてしまった女の子奈緒美と男の子庄司も健やかに育っていた。奈緒美は沙希の息子の希世彦より三歳年下で小六、庄司は小四だった。沙里が中一だから奈緒美は一つ年下だ。

 沙希、美登里、マリアは仲良しで時々お茶したりする間柄だったが、三人共に三十代の子育て世代で、毎日子育てに頑張っていた。
 息子も娘も中学生になったが、最近沙希の仕事だったお弁当作りを沙里がやってくれるようになり、沙希は時間の余裕が取れるようになってきた。そこで沙希は、
「夜間、大学で勉強してみたいんですが」
 と義母の美鈴に相談した。
「それはいいわね。とても良い計画よ。頑張りなさいよ」
 と美鈴は大賛成してくれた。
「希世彦ちゃんと沙里ちゃんのことならわたしに任せなさいよ」
 美鈴は孫たちを幼い頃から随分可愛がり、今では孫の世話を生き甲斐にしているような所があった。
 大学のことを美登里に話すと、
「そうねぇ、あたしは高校を卒業するとはっきりした目標も決めずに何となく大学に入って卒業しちゃったけど、子育てがある程度できてから大学に入った方が本当は自分のためになりそうね」
「あたしは大学に行ってないから分らないけれど、文学や歴史、経済、芸術など幅広く勉強して自分探しをしてみたいななんて思ってるのよ」
 と沙希が言うと美登里も大賛成してくれた。

 夜間に学べる大学は昔は早稲田にもあったが、今はもうやってないことが分った。それで調べてみると青山学院大学では夜間に取った単位だけでも卒業できることが分って、青学から資料を取り寄せて、一年か二年受験勉強をしてから受験することにした。改めて受験勉強をして見ると、忘れていることが多くて大変そうに思えたが、元気を出してチャレンジする気になった。夫の善雄には義母の美鈴が話したらしく、
「大学を受験するんだってな。頑張れよ」
 と言ってくれた。

九十五 子育て・加奈子の場合Ⅰ

 三十歳半ばになって、加奈子は最近都筑がアパートに寄ると連絡をしてきた日は、何故か朝から気持ちが騒いで落ち着かず、心の中で都筑が来るのを待っているようになった。それがどうしてだか、自分でも分からない。兎に角、会いたいと言う気持ちが昂ぶるのだ。
 長女の奈緒美は、早いものでもう来年から中学生だ。奈緒美は加奈子に似て感が鋭い所があった。だから、加奈子が落ち着かない日はきっとパパの都筑が帰ってくる日だと感づいたようだ。その日も、
「ママぁ、もしかして、今日パパが帰ってくるんでしょ?」
「あら、どうして分るの」
「ナオミはママの様子を見てると分るんだ」
「ママはいつもと同じでしょ」
「違うよ。なんかソワソワしてるぅ」
 そう言って奈緒美に見透かされてしまった。加奈子は都筑庄平とはずっと身体を重ねて愛し合ったことはない。けれど、都筑が訪ねてきて家に居てくれるだけで、気持ちが落ち着いて、幸せな気持ちになるのだ。長い間に、いつのまにか加奈子の心の中に都筑が根付いて、今では加奈子にとって大切な人となっていた。激しく都筑を求めて絡み合って、奈緒美と庄司を授けてもらったのは、もう遠い昔の出来事のように思われた。今は激しく求めるのではなくて、心と心が温かくつながっているのを感じているだけで良かった。

「ただいま」
「あっ、パパだ」
 奈緒美は都筑が近付く靴音が聞こえた時、既に都筑が来たと感づいていた。ドアが開いて、
「おかえりなさい」
 と加奈子、奈緒美、庄司の顔が揃っていると都筑は単身赴任先から我が家に帰ってきたサラリーマンのような感覚に包まれた。そこには、法的にはイレギュラーとは言え、都筑にとって楽しい家庭があった。
 世の中では、こんな関係を不倫と言う。だから一旦表に出ればスキャンダルだ。加奈子は自分の過去や都筑の家庭のこと、仕事のことをお互いに詮索しないと言う約束を都筑と暗黙に交わしていた。だから、加奈子も都筑もお互いに全く知らない部分が多かったが、加奈子は都筑の家庭のことを一度でも口にしたが最後、都筑が遠い存在になってしまうと思っていたし、それは都筑も夕鶴伝説のように加奈子が知られたくない部分を詮索すれば、加奈子と子供たちが遠くに行ってしまうような気がしていた。

「あなた、奈緒美ちゃん、来年中学生になるの」
「ん。中学はどこにするか決めたのか」
「それをご相談したいと思って」
「奈緒美は女の子だから中高一貫校がいいと思うけどなぁ」
「そう。あたしも同じ気持ちよ」
「あなたは中学、高校、大学はどうなさったの」
「僕は中学、高校共に地元の公立だよ。大学はT大学の文Ⅱに入って経済学部だったよ。だから全部公立」
 と都筑が笑った。加奈子は初めて都筑の学歴を知った。やはり思った通り一流大学を出てるんだと、なんとなく納得し、奈緒美と庄司の父親として誇らしい気持ちになった。
「仙台で中高一貫で進学校なら公立だけど仙台市立青陵中等教育学校が評判がいいと聞いているけど、どうなんだ? 他に仙台育英もあるけど、僕は青陵がどうかと思っているんだけど」
「青陵ですかぁ」
「ダメか?」
「受かればいいんですけど、とてもレベルが高いそうで、奈緒美が合格するか心配だわね」
「塾には行かせているんだろ」
「もちろんよ」
「奈緒美、ちょっとここに来ないか」
 都筑が呼ぶと、奈緒美が都筑の所に来た。小学校の低学年までは都筑の膝は奈緒美の指定席になっていて、たまに庄司と取りっこになったが、最近は膝に乗って来なくなった。
「中学校、奈緒美はどこに行きたい?」
 奈緒美はちょっと考える仕草をしてから、
「パパとママが決めてちょうだい」
 と答えた。
「青陵はどうだ?」
「うわっ、難しいかも」
「一生懸命頑張って、チャレンジしてみないか」
「パパがお勧めならがんばる」
 それで第一志望を青陵にして、第二を育英にすることに決めた。
 加奈子の世代では大学受験が一番大変だった記憶があるが、今は中学受験の方が親も子も大変なのだ。

 都筑は奈緒美一人の時は養育費として加奈子の口座に毎月二十万を振り込んでいた。だが庄司が生まれてからは、加奈子からシッターに頼むと相当の費用がかかると聞いていたので、奈緒美と庄司の預金通帳を作らせて、そこに夫々二十五万、合計五十万円を月々振り込んでいた。それは今でも続いている。都筑にしてみれば大した負担ではなかったが、加奈子はとても喜んだ。
 最初の間は都筑が仙台に出張してきたついでに加奈子のマンションに寄っていたが、加奈子が経営するクラブ、ラ・ポワトリーヌはビジネスに関わる客が多かったので、日曜日を休日としていた。そのためいつの間にか都筑は加奈子のオフの日曜日に訪ねるようになっていた。都筑は仙台への出張には関係なく、月に一度程度の間隔で加奈子のマンションに通った。ラ・ポワトリーヌの業績は不況にも拘らず順調だった。タレントの発掘事業も軌道に乗り、クラブの方には芸能関係者も増え、シナジー(相乗)効果が出ていた。店がうまく行っている反面、加奈子は最近たまに脱力感と言うか体調が勝れない日が多くなったと感じていた。多分歳のせいと多忙のせいだろうとあまり気にはしていなかったが、最近では毎月一度程度そんな日があった。

 過ぎてしまうと一年間は短い。奈緒美の志望校を決めた時はまだ一年も先だと思っていたが、年が明けていよいよ受験が目前に迫り、奈緒美も頑張っている様子だった。奈緒美は小さい時から加奈子に似て鋭く、頭の良い子だった。それに比べて庄司はどこかおっとりした所があったから、都筑は奈緒美より庄司の方が心配だった。
 中学の試験結果の発表日、都筑は米村工機の決算役員会のため多忙で連絡もできなかった。それで仕事が終わって、夜遅くに加奈子に電話をしてみた。
「奈緒美はどうだった?」
「あなた、合格したわよ。合格よっ」
 加奈子はいつもより相当テンションが上がっていた。勿論都筑も嬉しかった。
「そうか、じゃ今度皆で合格祝いに東京に出てきてもらって、ディズニーランドに連れてってやろう」
 もう午前二時で奈緒美は寝ている時間だ。だが、電話口に奈緒美が出た。
「おいおいっ、まだ起きていたのか」
「だって、パパに報告が終わってないもん」
「奈緒美、よくやったな。おめでとう。パパも嬉しいぞ」
「ディズニーに連れてってくれるんだって?」
「ん。約束する。合格祝いだ」
 都筑は希世彦と沙里の時はどうだったろうと思い出してみたが、今日ほどは感動しなかったように思った。希世彦も沙里も地元の公立に入れたから試験は然程難しくはなく、二人とも大した苦労もせずに入学してしまったからかも知れない。人の気持ちとは不思議なものだと思った。

 その日、ディズニーランドは日曜日なのにそれほど混雑していなかった。仙台から初めて東京に出て来た奈緒美と庄司は修学旅行のような気分だったに違いない。お天気が良く、三月の春風が暖かい日で、親子四人で一日楽しく過ごした。加奈子は持参したデジカメで都筑と子供たちの写真をパチパチ撮っていた。
 仙台に戻って、加奈子は何枚かの写真をプリントした。その中に都筑と奈緒美がツーショットで頬を寄せて写っているのを奈緒美が欲しいと言うのでもう一枚プリントをして奈緒美に渡した。奈緒美は大切そうに写真を受け取って自分の部屋に行った。後日加奈子が奈緒美の部屋を掃除していると、勉強机の上にパネルに入れたその写真があった。

九十六 子育て・加奈子の場合Ⅱ

 奈緒美が中学校に入学するための手続きで加奈子は困った。父親の氏名、職業など都筑に関する記入項目があったからだ。困った理由は奈緒美にどう説明すれば良いか、そのことだった。
 加奈子は世の中で言われている、シングルマザーだ。だから基本的に夫に関する欄は空欄でよい。だが、奈緒美や庄司は現実に都筑と言う父親の存在を知っているのだ。なのに何故書けないのかと奈緒美に聞かれたら説明が難しい。子供の頃からシングルマザーで父親の存在と言うか影がないなら奈緒美も素直に納得しただろう。入学手続き書類を前にして、
「困ったなぁ」
 と思わず溜め息が出てしまった。
 奈緒美はもう中学生だ。この年頃になると、色々細かいことも十分に理解する力を持っている。だから、適当にウソをついた所で直ぐにバレてしまって、突っ込まれたら逃げようが無いのだ。

 加奈子は夕方から出勤だ。それで庄司が外に遊びに出かけている間に奈緒美に話をすることにした。
「奈緒美、ちょっと大切なお話しがあるの。聞いてくれる?」
「えっ、なになに? 改まって、怖いな」
 奈緒美は自分に似て勘が鋭い。
「実はね、パパのことなんだけど、パパとママは正式に結婚していないのよ」
 奈緒美はきょとんとした顔になった。
「ママとパパは夫婦でないってこと?」
「そうなの。実質的にパパはあなたたちのお父様よ。でも法律的に言うと父親ではないのよ」
「それって、本当のこと?」
「いままで、あななたち、小さかったから難しい話はしなかったけれど、本当なの」
 加奈子は奈緒美がどう受け止めてくれるか心配で額にうっすらと冷や汗が出て来た。
「つまりぃ、パパとママは結婚していないのに、子供が出来ちゃったんだ。そう言うことなのね」
 最近の女の子は小学生でもこんな話をさらっと言ってのける。自分の娘ながら、事実をざくっと指摘されて、加奈子の方が慌ててしまった。
「ま、そう言うことね」
「ママ、パパと不倫してるの?」
 こんな風に突っ込まれて加奈子は参った。いくらなんでも母親が娘に、
「不倫してるのよ」
 とはとても言えない。それで加奈子は話を濁らせた。
「そうね、不倫ではないけれど、パパとママはお互いに独立してやっていこうと約束したから結婚をしてないのよ」
「つまり、パパとママは愛人関係だけど結婚しないってこと?」
「この子ったら、どこまで理解してるんだろ?」
 加奈子は心の中で思わず呟いていた。
 加奈子は思い切って自分の気持ち、今までのことを正直に奈緒美にぶつけてみることにした。そうでもしないと、娘の奈緒美と自分の間に不信感が出来てしまうような気がしたのだ。こんな話は現実に直面して見ると思ったよりも難しい。

「ママはね、ずっと独身を続けていたいんだけど、子供が欲しかったの。でも子供は女性だけでは作れないのよ。奈緒美はまだ分らないかも知れないけれど」
「あたし、少しは分るよ。動物でもメスだけじゃ赤ちゃんを産めないって。五年生の時、理科で人のたんじょうって言う題で先生が精子とか卵子の働きを説明してくれたよ。赤ちゃんが誕生するには母体の中の卵子に男の人が持ってる精子をくっつけてあげる必要があるんでしょ?」
 加奈子はなんだか自分の顔がほてってくるような気がしていたが、娘の奈緒美は平然と言ってのけた。これには加奈子は返す言葉を失った。自分の娘のことは良く分かっていたつもりなのに、今までこんな内容の話を家の中でしたことはなかったのだ。それなのに、学校で理科の時間にちゃんと知識を身に付けていたなんて。しかも小学校の五年生の時にだ。

 加奈子は自分の娘の時はどうだっただろうと思い出してみた。自分は理科が苦手であまり真面目に勉強をしてなかった。それで、奈緒美が話したような卵子とか精子のことなんて大学に入って初めて理解できたように思えた。
「だから、女の人が赤ちゃんを産みたい時は男の人に助けてもらうのよ。でも男の人なら誰でもいいってことじゃないわよね」
「そうね、嫌いな男の人とラブしたくはないもんね。そう言うことでしょ?」
 また奈緒美にぐさっとやられてしまった。
「この子、どこまで知ってるんだろ?」
 と加奈子は思った。
「そうね、好きな人の赤ちゃんを産みたいわよね」
「じゃ、ママはパパが好きなんでしょ」
「そうよ。大好き。だから、パパに助けて頂いて奈緒美ちゃんと庄司ちゃんが生まれたのよ。普通は好きな人と結婚してから赤ちゃんを産むんだけど、ママの場合は結婚をしないって約束でパパに助けてもらったの」
「そう? そう言うのを内縁関係って言うの?」
 奈緒美はまた突っ込んできた。
「内縁関係とは少し違うわね」
「どう違うの?」
「内縁関係はね、結婚の届けはしていないけれど、実質的に結婚していることで、法律では事実婚として決められているのよ。その場合、一緒に暮らしていること、家の中のことにお互いに責任を持って分担していること、貞操義務って言うのだけど、ママがパパ以外の人を好きになってはいけないこと、どちらかがお金を借りたときは一緒に責任を持つこと、法律では連帯責任と言うのだけど、その他色々なことが決められているの。パパとママの場合は一緒に暮らしていないし、連帯責任もないから内縁関係ではないのよ」
「ふ~ん?」
 さすがこんな話になると奈緒美も難しい話だなぁと言う顔になった。

「だから、法律的には奈緒美ちゃんと庄司ちゃんにはパパがいないってことになるのよ。なので、学校に届けを出す場合はパパ、つまり父親の欄は空欄にしなくちゃならないの。分った?」
「なんとなくね。でもわかんないな。パパがちゃんと居るのにいないなんて変だな」
「そうよね。法律と実際的なこととは少し違いがあるのよ。でも、奈緒美のパパはずっと一生奈緒美のパパだからね」
「でないと、あたし悲しくなっちゃう」
「大丈夫。奈緒美のパパはずっと奈緒美を守ってくれるわよ」
 どうやら奈緒美は届けの父親欄を空欄にしておくことに理解をしてくれたようだった。加奈子はこれから先、シングルマザーであるがために、子供たちに問題が持ち上がらないか少し心配になった。現在の社会の仕組みの中ではシングルマザーはまだ法律的に保護されていないような気がした。

 難しい話しが終わったとき玄関の方から、
「腹空いたぁ」
 と声がした。庄司が帰ってきたらしい。見ると友達が三人もいた。
「ママ、美味しいお菓子ある?」
 加奈子は咄嗟に思いを巡らせて、
「あ、あるわよ」
 と返事した。
 四人のガキがどかどかと入ってきて食卓の椅子に座った。いつも遊んでいる庄司の友達だ。加奈子は冷蔵庫から昨日買い置いたケーキを取り出して、
「ティー? コーヒー? ミルク? ジュース? 炭酸?」
 といつものように聞いた。
 小学校高学年になると、食欲が旺盛になってくる。最近は三時になると結構まとまった分量のおやつを食べるのだ。
 庄司たちはおやつを食べ終わると潮が引くように揃って庄司の部屋に消えた。

 夕方、奈緒美に夕飯のことを話して、戸締り、火の用心を言いつけて出かけるのが日常であった。
 その日も夕方、加奈子はクラブへと急いだ。クラブではここのとこあまり顔を出さなかった千葉慎二が連れを二人連れて入ってきた。
「順調そうだな」
「はい。しばらくです」
「子供たちは元気か?」
「はい。お陰さまで」
「そう言えば上の子、今年中学校だろ?」
「はい」
「早いもんだなぁ。もうお姉ちゃんだな。あんたに似て美人だろ?」
「美人かどうか、でも大分大人っぽくなってきました」
「そうか、中学はどこにした?」
「青陵に決まりました」
「そりゃ凄いな。うちの親戚の坊主、落っこちたらしいよ」
 加奈子は慎二の妻の真砂子に釘を刺されてからは、慎二とは距離を置いて付き合ってきた。だから子供たちのことは殆ど話をしていなかった。

 加奈子が新人発掘のために立ち上げた株式会社カナ・プロダクションでコーディネーターを勤めている川野が、
「社長、あとで少しお時間を頂けますか」
 と言って来た。
 それで、加奈子がクラブの手隙に川野を呼んで話を聞いた。
「お嬢様、奈緒美ちゃんでしたよね。もう中学生でしょ?」
「そうよ。早いものね。あなたとは奈緒美が生まれた時からですよね」
「奈緒美ちゃん、最近大人っぽくなられましたよね」
「そうなの。小六の頃から急に」
「それで、ご相談なんですが、奈緒美ちゃんをあたしに預けて頂けませんか」
「何かお考えがあるのね」
「はい。奈緒美ちゃんはママに似て器量良しですし、頭もいいみたいですから、最初はモデルとかから始めさせて、できれば歌なんかも、あたし、タレントに育成したいなと思ってるんです」
「学校は?」
「ちやんと通いながらで行けると思います。近々ご自宅にお邪魔してもよろしいでしょうか」
 川野は最近はタレント業界では芽が出るのは早いから、今が丁度良いと言った。
 加奈子は奈緒美の将来を考えて川野に託して見ようと思った。

 三日ほどして、加奈子のマンションに川野がやってきた。奈緒美と長い間話をして後、二人して加奈子の所に来た。
「ママ、あたし、川野お姉ちゃんに教えてもらってやってみたい」
 奈緒美の瞳は輝いていた。
 川野と相談して、手始めに株式会社カナ・プロダクションが主宰しているタレント養成コースのモデル部門で訓練を受けさせることにした。学校が終わり、宿題などを片付けてから毎日二時間程度、週に四日と決まった。
 奈緒美は中学校に通い始めたが、同時にタレント養成スクールにも通い始めてにわかに忙しくなった様子で、疲れるらしく、夜は早めに休んでぐっすりと眠るようになった。
 モデル養成コースでは基本動作と称して立ち居振る舞いの基本から教えているようだ。それで、始めてしばらくすると、奈緒美の動作が垢抜けてきた。やはり早い内から訓練すると素直に身に付くと川野が褒めた。

 奈緒美の初仕事は突然やってきた。養成コースで半年くらい訓練を受けた時、TVのCMモデルとして地元の化粧品会社のローカルのCMに出演することになった。
 CMを撮り終えて、いよいよ放映する段階になって、中学校からクレームが付いた。川野が事前の根回しをしておいたつもりだったのに、話を通して居なかったと言うより根回しが漏れた所がへそを曲げたのだ。[風紀が乱れる]などと訳の分からない理由を付けて放映に待ったを掛けたのだ。公立学校だから面倒なのだ。
 仕方なく、加奈子はクラブの客の市議会議員に頼んで何とか丸く納めてもらった。
「ママと奈緒美ちゃんにご迷惑をかけてしまって、ごめんなさい」
 と川野が謝ってきた。結局TVのCMの放映は予定通り始まった。
 だが、今度はクラスで話が大きくなり、奈緒美が戸惑うことになってしまった。

九十七 子育て・加奈子の場合Ⅲ

 ローカルだが、テレビに化粧品CMモデルとして登場した奈緒美の反響は大きかった。このCMがきっかけで何社からオファーが入り、奈緒美は多忙になった。奈緒美のマネージャー的な仕事は川野とカナ・プロダクションがやってくれたから、奈緒美は川野の指示に従って動けば良かったが、CM一本制作するまでに何回もスタジオに通わなければならず、その日一区切り付くと夜中になってしまう場合もあった。だから奈緒美は頑張ったが昼間授業中に居眠りが出てしまうことも出て来た。
 担任の教師はそんな奈緒美を庇おうとしたが、それが一部のクラスメイトの恨みを買うことになってしまったのだ。恨んだ生徒の親から担任教師を名指しで学校に抗議があって、
「進学校なのにレベルを落す」
 だの、
「周囲の生徒に悪い影響を及ぼす」
 など色々な理由で岩井奈緒美と言う生徒を退学させろと言ってきたのだ。
 意地悪も多くなった。体育で使うシューズに画鋲が入っていたり、トイレで手を洗っているとさりげなく水を掛けられたり、ひどい時は机の上に蜥蜴(とかげ)を入れた袋が置いてあって、授業中蜥蜴が飛び出して大騒ぎになったりした。
 奈緒美を恨む女の子たちは、男子生徒が綺麗で少し名前が売れてきた奈緒美にちやほやするのに我慢できなかったのだ。

 奈緒美はそんなことを母の加奈子には話さなかった。勿論川野にも話さなかった。
 或る日、奈緒美を恨む数名の女生徒に体育館の裏側に連れ込まれて、そこで頬に火が付いたタバコを押し付けられた。
「この傷、どうしたの?」
 川野が聞いても奈緒美は口を一文字にして黙っていた。モデルにとっては顔の傷は致命的な欠陥になる。そのため、川野は少し強い口調で奈緒美に問い質した。奈緒美はずっと我慢していたものが堰を切ったように泣き出した。
「昨日……」
「昨日、どうしたの?」
「学校でチー子たち五人に……」
 奈緒美は躊躇っていた。
「五人に、何されたの?」
「体育館の裏で、火が点いたタバコを押し付けられたの」
「あらぁ、そうだったの」
 川野は話を聞いて慌てた。
「あのぅ、お姉さま、あたしモデルを辞めたいんですけど」
 川野は加奈子に相談した。
「あたし、このことはほっとけないと思います。モデルは顔に傷を付けられたらお仕舞いですから、奈緒美ちゃんの将来を考えてなんとかしなくちゃ……」
 相談の結果警察に傷害罪で訴えると同時に、奈緒美の顔に傷を付けた生徒の親を相手取って損害賠償の訴訟を起こした。

 ことの重大さに学校側では慌てた。傷害の他に校内で喫煙していたことも重なったからだ。事件の情報は地方のメディアでも大きく取り上げられて大騒ぎになった。不良女子生徒の親たちは晴天の霹靂だった。まさか自分達の娘がそんなだったとはと初めて知った親も居た。悪くすると、少年院送りだと警察に脅かされて、親たちは縮み上がった。その中の二人は少し前に、
「進学校なのにレベルを落す」
 などと学校に抗議をした親も居た。
 川野は既にオファーをもらっている企業五社に解約を申し出た。当然解約金などの損害が出るが、全て損害賠償金額に含めた。

 その日から、奈緒美は学校を休んで、東京の腕の良い整形外科医の元で整形手術をしてもらうことになった。初診に出て来た院長は、奈緒美の頬の傷を見て、
「この程度で良かったですね。多分殆ど分らない程度に綺麗に治せます」
 と太鼓判を捺してくれた。だが、完全に治るまで一ヶ月はかかると言った。
 奈緒美は川野に頼んで教科書を持ってきてもらって、遅れ勝ちだった勉強をしていた。

九十八 子育て・加奈子の場合Ⅳ

 奈緒美が診てもらった所は美容皮膚科だ。この火傷跡程度であれば入院せずに通院でも良いと医師は説明したが、川野は入院して治療をするように頼んだ。実家が仙台なので、東京の川野の友人宅から通わせるより楽だったからだ。
「先ず、火傷した所を自然に治してからレーザー光を使って丁寧に施術します。傷は大きくないので十日もあれば治るでしょう。傷口が落ち着いた所で整形しましょう」
 医師の説明だと痛くはないし、仕上がりも綺麗に行くらしい。
「うちには、レーザー照射装置が何台も揃っていて、光線の種類や強さを変えて施術するんです。どんな光線を使うか、強さをどれくらいにしたら良いか、そんなことは経験を重ねないと出来ないのでうちくらい技術のある病院はそう多くはないんです」
 医師は少し得意気に話してくれた。
 川野が訴訟が絡んでいると言うと、医師は施術前、施術中、施術後の写真を証拠として残してくれると説明してくれた。

 治療を始める前に、医師は奈緒美に鏡で傷の様子を見せてくれた。赤く腫れて、少し(ただ)れているような痛そうな感じで、奈緒美はそれを見て見る前より痛みを強く感じた。
「ひどいねぇ。熱かっただろ? 傷口に手を触れちゃダメだよ」
「熱いと言うより痛かったです」
「そうか、そうかも知れんなぁ」
 一週間が過ぎて、傷口が塞がり、周囲が赤く腫れたように少し盛り上がって見えた。
「傷口の周囲のこの赤く腫れた部分はね、毛細血管が普通より増えて赤くなっているんだよ。これをレーザー光線を丁寧に照射して、血管を縮ませてあげると自然に腫れが引いて、周囲の肌と同じような色になるんだ。明日から治療を始めようね」
「はい、お願いします。先生、本当に元通りになるんですか」
「ああ、心配しないでも大丈夫、先生がちゃんと治してあげるよ」
 また一週間が過ぎた。医師は奈緒美に鏡を見せた。
「どうかね?」
 奈緒美は驚いた。火傷の跡の中心部分はまだ跡が残っているが、周囲は綺麗になっていた。
「すご~いっ!」
 奈緒美は嬉しかった。
 更に一週間が過ぎた。入院してから三週間も経つ。医師が鏡を持ってきて見せてくれた。傷口は綺麗に消えていた。
「奈緒美ちゃんは若いから回復力が強いね。この分だと、あと一週間もすれば退院できるよ」
 奈緒美は今の美容整形技術は本当に凄いと思った。鏡の中の自分のほっぺたは、火傷をしたと言われなければ分らない程度に綺麗になっていた。
「こんなに元通りになるんだったら、チー子たちを許してあげてもいいかな」
 と正直、奈緒美はそんな風に思った。もし治療をしていなければ、毎日鏡を見る度にチー子たちを恨んだに違いない。

 奈緒美が入院中、母親の加奈子は一回だけ庄司を連れて見舞いに来てくれた。川野は毎週一回見舞いに来てくれた。学校の友達には言わなかったから、見舞いに来る者は居なかった。けれども毎日ホテルに泊まっているみたいに、快適な病院だったし、看護師(看護婦)たちは何かと奈緒美に優しかったから、淋しくはなかった。看護師の中には奈緒美のお勉強に付き合ってくれる人も居た。
「奈緒美ちゃん、モデルのお仕事をしてるんだってね。これからもお肌を大切にして頑張りなさいよ。あたしたち応援してるからぁ」
 そんな看護師たちの励ましの言葉が奈緒美には嬉しかった。
 退院の日に、川野が来てくれた。奈緒美は医師や看護師たちに丁寧に挨拶をして回った。
「すっかり治って良かったね。もうここには二度と来なくていいように身体を大切にするんだよ」
 医師や看護師の目は皆優しかった。

 川野が費用の計算書を見ると、総額で九十二万五千円となっていた。川野はそれが高いのか安いのか分からなかったが、加奈子から費用はいくらかかってもいいから、きちっと治療をしてもらってくれと言われていたから、計算書を受け取ると何も言わずに現金で支払った。予め百万位はかかると言われていたから、手元に百万円を持ってきたのだ。
「退院祝いに、どこかに行かない」
「あっ、それだったら渋谷の109に行きたぁい」
 それで川野と奈緒美は荷物をコインロッカーに預けて、連れ立って渋谷に出かけた。109で奈緒美が欲しいと言った洋服を治療費の残りで三点買い込んだ。どれも値段は安く三点で二万円でおつりが来た。
 加奈子は都筑には奈緒美の事故を知らせなかった。都筑はドイツの企業との間で持ち上がった買収と事業統合(M&A)の仕事に忙殺されて、もう三ヶ月以上仙台には行ってなかった。

 加害者の親を相手取った訴訟は賠償請求金額が大きかったので難航した。だが、メディアで大きく報道されたことと、傷害事件として警察が調べていることが重なり、五人の親が相談して共同で賠償したいと申し出があり、和解の方向に向かって動き出していた。
 治療が終わって、奈緒美が登校すると、周囲の雰囲気が一変していた。
 先生もクラスメイトもピリピリしていて、ろくに口もきいてくれないのだ。
 更に、メディアの報道関係者が校門で奈緒美の下校を待ち構えていることもあって、川野が裏口に車を付けて送り迎えをしてくれる始末だった。
 奈緒美は学校では友達付き合いはしなくなり、もっぱら勉強に精を出した。けれども奈緒美は淋しくはなかった。カナ・プロダクションで同年代の親しい友達が大勢できたし、CM撮影に出ると大人たちが可愛がってくれたからだ。奈緒美は既に同年代の中学生の過ごす環境とは違った世界に居たのだ。

九十九 子育て・加奈子の場合Ⅴ

 中高一貫校に入学してしまうと、中学生、高校生と言う区別が希薄になる。奈緒美が通っている学校は、二年間ずつ三つの段階に設定されている。つまり、一年(前期)と二年(後期)が基礎固め、三年(前期)と四年(後期)で実力を伸ばし、五年(前期)と六年(後期)で思考力、判断力の醸成と三つの段階を経て卒業させるのだ。だから、普通なら高校一年と言う認識になるのだが、この学校では四年生で、二段階目の後期にあたるのだ。奈緒美は学校に入って一、二年の間はモデルの仕事に絡んで色々なことがあったが、三、四年の間は奈緒美なりに自分のペースで行けるようになり、周囲とのトラブルはなくなり、モデルの仕事も慣れて充実し、多忙になっていた。
 奈緒美は中高一貫校に入学した頃はクラスでも真ん中位の身長だったが、二年目から急に背が伸びだして、五年生(世間の高二)の頃には身長が170cmを少し越えるくらいになっていた。父親の都筑に似て細身でひょろっとしていたが、ヒップ周りやバスト周りは母親の加奈子に似てちゃんとあったから、ヌードスタイルはバランスが取れてなかなかの魅力的な肢体だった。そのため、モデルの仕事のオファーは増えて、更にTV番組への出演、雑誌やファッションショーの他、女優の仕事にまで活動範囲を広げていた。
「この世界では波に乗れる時はどんどん乗りなさい」
 と川野は奈緒美に口癖のように言っていた。そう言われても、奈緒美は公立の学校に通っていたから、特別に優遇されることはないので学校もきつかった。

 奈緒美はカナ・プロダクションのモデル部門を出て、今はアーティスト部門で音楽の基礎から始めて、インスツルメンツやヴォーカルのレッスンを受けていた。子供モデルの時代は奈緒美で出ていたが、活動範囲が広がってきたのを機会に川野は奈緒美の芸名を考えようと言った。モデルの場合は姓名ではなく、名前だけの芸名も多い。
「例えば、根中千恵子が梨花(りんか)さん、上原千夏子がNanami(ナナミ)さん、加藤小雪が小雪さん、野寄リザがLIZA(リーザ)さんのように芸名は名前だけの人ってモデルさんには多いのよ。奈緒美ちゃんはご自分の名前を使って奈緒美でもいいけれど、他の名前にしてもいいわね。何か好きな名前ある?」
「あたし、自分の名前と違うのがいいな。あたし仙台っ子だから、青葉がいいかな?」
「青葉、いいかも。あおばと濁らずにアオハにしたらどうかしら」
「アオハかぁ。じゃそれで行こうかな」
結局[青葉(あおは)]を奈緒美の芸名とすることにした。川野は早速奈緒美を可愛らしく表現したショットを五枚ほど使って[モデル青葉(あおは)]のパンフレット作って、ささやかなお披露目パーティーを開いて顧客や業界関係者にモデル青葉を配布した。モデル青葉の誕生だ。

 奈緒美が十八歳になった時、大手化粧品会社のモデルオーディションに応募してみたいと思って川野に相談した。
「応募してみたら?」
 川野の意見はは積極的だった。応募資格は十八歳以上、プロ、アマチュアを問わずとなっていたので問題はなかった。奈緒美のエントリーナンバーは1357番、聞いた所では二千人以上の応募があったと言われた。だから、奈緒美は落ちるのを覚悟でチャレンジすることにした。
 奈緒美は第一次選考をパスして百名の中に入った。第二次選考で更に十名に絞られて、最後に採用が決まるのはわずか三名の難関だった。百名の中に残ったと報告を受けて、加奈子は奈緒美を応援した。最初加奈子は二千名以上の応募と聞いて、恐らく一次で落ちるだろうと思っていたのだ。奈緒美の新しいエントリーナンバーは36番に変った。二次は百名なので、1番から100番までだ。

 第二次選考の日、加奈子は奈緒美の応援に会場の東京国際フォーラムAに出かける予定をしていた。だが、その日は朝から腹痛がして体がだるく、結局川野に頼み、自分は家で寝ていた。
 夕方東京から電話が入った。川野は興奮気味に、
「奈緒美ちゃん、十人の中に入りました」
 と加奈子に報告した。
「ファイナルの選考会はいつなの」
「十日後の日曜日、武道館だそうです。あたし、信じられない」
 川野の興奮はまだ続いていた。
「選考委員長の桑田と言う方は業界でも有名な厳しい方で、周囲の意見に惑わされず、ご自分できっちり決められるそうです。この業界ではエントリーしているモデルさんが有望と見ると、プロダクションや親から選考委員に何がしかのものが贈られることが多いのですが、桑田さんと言う方はそんなものは一切受け取られないらしいです。ですから、周囲の事前の根回しとかはダメみたいです。なので誰が最後の三人に残りそうかなんて情報は全く取れないらしいです」
 川野は奈緒美がエントリーしている選考会の厳しさを伝えてきた。
 川野と奈緒美はファイナルの選考会の日まで東京に泊まるからと言って来た。比較的宿泊費の安い新宿のワシントンホテルに川野と奈緒美と二人で一部屋を取っていた。

 五日後、いよいよ本番のファイナル選考会がある。奈緒美より川野の方が落ち着かず、気持ちがそわそわしていた。そんな日の昼過ぎ、仙台市立病院から川野の携帯に電話が来た。
「もしもし、岩井加奈子様をご存知ですか」
「はい。いつもお世話になっている方です。どうかしましたか」
「突然ですが入院されました。ご家族の方に連絡はつきますか」
「はい。今娘さんと一緒に東京に来てます」
「それでしたら、恐れ入りますが、当病院までなるべく早い機会にお越し下さいますか」
「わかりました。直ぐにこちらを発ってそちらに向かいます」
 電話を一旦切った。
「奈緒美ちゃん、お母さまが入院されたんだって」
「えっ? ほんと?」
「すぐここを発ちましょう」
 それから川野は何回も加奈子の携帯に電話を入れたが、どうやら電源がOFFになっているようで繋がらなかった。
 仙台市立病院に夕方着いた。受付で病棟を聞いて、加奈子が入院している病室に駆けつけた。加奈子は眠っていた。
 しばらくすると、医師と看護師がやってきて、
「ご家族の方ですか?」
「はい」
「ではこちらへ」
 と看護師が言う方向に医師の後を追った。医師は談話室と書かれた小部屋に案内した。看護師も一緒に来た。
「娘さんですね」
 と医師は確かめるような目で奈緒美を見た。
「はい」
「お父様にはご連絡がつきますか」
「いいえ。父はおりません」
「……?」
 医師の怪訝な顔に、
「岩井さんはシングルマザーなんです」
 と川野が付け加えた。医師は分ったと言う顔で奈緒美に説明を始めた。

「お母さまはお昼に倒れて、ご自分で一一九に電話をされてこちらに来られました。診察したら、膵臓癌と言う病気だと分りました。あなた膵臓癌、分りますか」
「はい。なんとなく」
「正式な病名は浸潤性膵管癌と言います」
「午後調べた所では相当進んでいて、Ⅳ期と言うレベルです。Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳの四段階があって、Ⅳ期になりますと転移が進んでいて手術をしても直せない状態です」
「それで、見通しはどうなんですか」
 と川野が聞いた。
「はっきりとは言えませんが、一ヶ月から三ヶ月、余程持っても半年は持たないと思います」
 奈緒美はそれを聞いて目から涙がポロポロでてきた。
「病状はお母さまにはまだ伝えていません。できれは言わない方がいいと思うよ」
 医師は奈緒美に告げた。
「今日は眠っておられるので、明日またお出で下さい。明日の昼頃ならお母さまと少しはお話ができると思います」
「先生、ありがとうございました」
 川野と奈緒美は医師と看護師に礼を言って病院を後にした。家に戻ると庄司が一人ポツンとテレビを見ていた。大抵夕食の用意がしてあるのに、その日は何もなかったから、奈緒美の顔を見ると、
「姉ちゃん、ママはどうしたの」
 と聞いた。
「病院」
 奈緒美はそれしか言わなかった。
「二人ともお腹空いてない? あたしペコペコ。これから何か美味しいもの食べに行かない」
 と川野は二人を連れ出した。

 翌日、川野と奈緒美は加奈子をお見舞いした。加奈子はやつれた顔をして目を閉じていたが、奈緒美の話し声を聞いて、
「奈緒美ちゃん?」
 と声をかけてきた。
「はい」
 奈緒美は加奈子の手を握ると、もう目が涙で曇って加奈子の顔がボケて見えた。
(たま)さん(川野珠実のこと)、ちょっと近くにいらして」
「はい」
 川野も奈緒美と並んで加奈子の顔を覗き込んだ。
「あなたにお願いがあるの。聞いてくれる?」
「はい」
「あたしに何かあったら、奈緒美をよろしくね」
「はい」
 そう言って枕元のポシェットを引き寄せると、そこから鍵を一本取り出して川野に渡した。
「これはM銀行仙台支店の貸し金庫の鍵なの。これを預かって頂戴」
「はい」
「中に通帳、印鑑、株券、マンションの登記済権利書、あたしの生命保険証書、宝石類などが入れてあります。その管理をお任せしたいんですけど、受けて下さるわね」
 川野は躊躇った。だが加奈子のすがるような目を見て、
「はい」
 と答えた。
「普段、とても良い方でも、お金が絡むと人が変ることはよくあるのよ。ですから、あたしが信用できるのはあなただけよ。奈緒美と庄司が一人前になるまでは、あなたが守って下さいね。この貸し金庫のことは奈緒美とあなただけの秘密にして、どんなことがあっても他人には絶対に話をしないって約束をして下さいね」
「はい。大丈夫です」
「当面は普通預金からこの子たちの生活費を出して下さい。将来足りなくなった時は金庫の中のお金を使って下さいね。奈緒美以外の人が何と言っても絶対にお金のこと、金庫のことは知りませんで通して下さい。それから、カナ・プロダクションの株式はあたし名義の分が90%です。それをあなた名義に書き換えるように弁護士の岡田さんにお願いしてあります。あなた、あたしの後を継いで社長としてやっていって下さいね」
 岡田弁護士とは奈緒美の訴訟の時に何度も会って良く知っていた。
「あたしのお見舞いはいいから、明日は東京に戻って下さいね。最後まで残れなくてもいいわよ」

 オーディションファイナル選考は午後一時から、審査発表は午後三時からとなっていた。当日、奈緒美と加奈子は早めにホテルを出て武道館に向かった。
 ファイナル選考が始まった。武道館の舞台は真ん中で360度周囲から見られる厳しい形だった。前からも、後からも、左右からも全身を常時見られているので舞台に立った十人の女の子たちは殆ど全員緊張していた。奈緒美のエントリーナンバーは7番だった。
 エントリーナンバー6番の女の子はアンジェリーナ・クリヤマとネームカードに書いてあった。隣だったので目と目が合った。ハーフらしい綺麗な子だった。選考の舞台が終わり、十人の女の子は控え室に戻り、午後三時にもう一度全員舞台に上がる。その間三十分程度間があり。控え室で雑談をした。その時、奈緒美はアンジェリーナとメールのアド交換をした。気立ての良さそうな感じのいい子だと奈緒美は思った。
 控え室に、いよいよファイナルの舞台に出るようにアナウンスがあった。その時、控え室に川野が走りこんできた。
「奈緒美さん、お母さまの容態が急変して危篤ですって、今病院から連絡が入りました。あたし一人で行きますから、あなたはここに残って下さい」
 奈緒美は一瞬目の前が真っ暗になり、その場に座り込んだ。
「珠さん、あたしも行きます」
 川野は困ったが母親の危篤だ。オーディションは多分最後の三人には残れないだろうと思った。ならば、病院に行かなければ一生後悔が残る。
「じゃ、奈緒美さん、仕度をなさってぇっ」
 川野は事務局に走って行って係りの女性にことの次第を告げた。
「分りました。代わりの方を出しましょう」
 大きなオーディションでは、応募した者が緊張したりして急に体調を崩すようなことはままあるのだ。それで、そんな時のために、二次選考で残った百名の中から十名とは別に二名を補欠として呼んであったので、二人の内の一人を代役としてステージに上がらせた。
 川野の申し出で、事務局の女性もエントリー番号7番の奈緒美は多分三人には残れないだろうと予測していたのだ。

 ファイナル選考の結果発表がステージの上で始まった。男性の司会は有名なタレントだ。
「会場の皆様、お待たせしました。只今より最終選考の結果を発表させて頂きます。合格者は今日ここにおられます素的な女性の中から三名が選ばれ、選ばれました方々には今後素晴らしいお仕事が約束されます。では発表に移らせて頂きます」
 会場に大音響の音楽が流れて、音がピタッと止まると同時に、
「優秀賞は……エントリーナンバー6番、アンジェリーナ・クリヤマさんです」
 と司会が発表した。会場全体が拍手に包まれる中で、アンジェリーナはトロフィーと賞状を審査委員長の桑田からうやうやしく受け取った。女性の司会者が大きな花束を持たせた。可愛らしいアンジェリーナの頬に涙が流れ落ちていた。
 また男性の司会者が大きな声で告げた。
「優秀賞を獲得された方はもう一名いらっしゃいます」
 また大音響の音楽が流れて、音がピタッと止まると同時に、
「もう一名の優秀賞は……エントリーナンバー2番、ミズホ・サカザキさんです」
 と発表した。アンジェリーナと同様にミズホはトロフィーと賞状を審査委員長の桑田からうやうやしく受け取り花束を抱きしめると頬に涙を流しつつ笑顔で会場の四方に向かって頭を下げた。

 また大音響の音楽が流れて、音がピタッと止まると同時に、
「最後に、最優秀賞を発表します。最優秀賞を獲得された方は……エントリーナンバー7番、アオハさんです」
 と発表した。
「アオハさん、どうぞ前へお進み下さい。アオハさん、どうぞ」
 十人の中の誰も前へ出ようとはせず、手も上がらなかった。
「……?」
 司会は慌てた。と、司会の所に事務局の女性が血相を変えて走り寄った。会場全体が騒然となった。審査委員長の桑田は十名の女の子の顔を確かめるように順に見ていた。
「……?」
 会場のざわめきは一層大きくなった。

百 子育て・加奈子の場合Ⅵ

 大手化粧品会社主宰のモデルオーディションは、結局最優秀賞はナシで幕引きとなった。
 所が、このドラスティックな出来事は芸能誌各社が早くもその日の夕方には大々的に報じたため、仙台のカナ・プロダクションと奈緒美のもとに、大勢の記者が押し寄せた。だが、プロダクションの責任者の川野もモデル青葉も不在だった。
 モデルオーディションは美を競い合う祭典だ。だが[最優秀賞を獲得するはずだったモデル青葉は、美を競うことよりも母親との愛の絆を優先した]と各社の報道は全て青葉に好意的だった。

 急いで新幹線で仙台に戻る車中で、奈緒美は庄司に電話をした。
「お母さんが危篤だって、庄司は知ってる」
「えっ? オレ、知らないよ」
「あたしたち、今新幹線で仙台に向かってる所。庄司も病院に行ってちょうだい」
 その日は日曜日なので庄司は家に居た。直ぐに病院に行くと返事があった。
 川野と奈緒美が病院に駆けつけると、母の加奈子は相変らず目を閉じていた。ベッドの脇で、心配そうな顔で庄司が付き添っていた。
「姉ちゃん」
 普段はめったに泣かない庄司が今日は泣き顔で奈緒美を見た。
 庄司の声に加奈子が目を開いた。だが力尽きたような顔にはいつもの笑みがなかった。川野と奈緒美が顔を近付けると、
「珠さん、奈緒美と庄司をお願いします。奈緒美、お母さんだと思って何でも珠さんに相談してね」
 そこまで言うと加奈子は咳き込んで、苦しそうに額を寄せて目を閉じた。
「パパ、ごめんなさい。子供たちをお願いします」
 都筑は居ないのに加奈子はそう言った。
「奈緒美、パパには当分連絡しないでちょうだい。ママはパパのお仕事の邪魔をしたくないの……」
 最後は聞き取れないくらい小さな声だった。最後の言葉を残して、加奈子は帰らぬ人となった。奈緒美と庄司は涙が涸れるまで、二人してベッドの脇で嗚咽し続けていた。
 こうして、加奈子は短い生涯を閉じて、加奈子の子育ては終わった。
 加奈子は、その時四十二歳だった。

 奈緒美の携帯にアンジェリーナ・クリヤマからメールが届いた。
「アオハさん、どうしちゃったの? あたしと、ミズホ・サカザキさんが優秀賞で三人の中に残ったよ。あなたはどうだったと思う?なんと最優秀賞だったのよ。でもあなたは消えていなくなって、会場は大騒ぎ、結局最優秀賞は該当者無しで終わったわ。惜しいわね」
 奈緒美はアンジェリーナのメールで、自分が最優秀賞をもらえるはずだったことを知った。奈緒美は母が急逝したことをメールで伝え、自分が受賞するはずだったことを川野にも報告した。川野はまだ知らなかったから相当に驚いて残念がった。
 奈緒美は母の携帯を見付けて、アドレス帳から都筑の名前を探し出して、母の携帯から電話をした。だが何度電話をしても、
「電源が切られているか……」
 と虚しいテープの声が返ってくるばかりだった。都筑はもう半年も子供たちの前に姿を見せなかった。奈緒美はこんな時に連絡も付けられない父親に不信感を持った。

 その頃、都筑はドイツを初め、欧州の関連会社を飛び回り、一ヶ月以上海外に居た。加奈子との携帯は電源をOFFにして、会社の自分のデスクの引き出しに入れっぱなしにして置いて来たのだ。
 加奈子の葬儀はラ・ポワトリーヌの社葬として執り行われた。千葉慎二が葬儀委員長として取り仕切り、滞りなく終わった。葬式には、普段付き合いの無い親戚の者も集まるものだ。通夜の時に、奈緒美のおばさん、おじさんに当たるものだと言う男女が大勢居て、奈緒美は驚いた。多くの者は、先日の芸能欄の記事を見て、モデル青葉のことは知っていたが、目の前の奈緒美がモデルの青葉だと分った者は殆ど居なかった。TVのCMに出ていても、メイクされていて、素顔の奈緒美とは直ぐには結び付かなかったようだ。だが、その中で東京から来たと言う遠縁の塚田と言う男と、知らせを聞いて福岡から来たと言う遠縁の今井と言う夫妻がモデル青葉は奈緒美のことだと知っていた様子で、奈緒美に近付いて何かと優しく立ち回った。
 奈緒美が嬉しかったのは、オーディションで知り合ったアンジェリーナとミズホが揃って告別式に来てくれたことだ。葬儀が終わってから三人でお茶をした。二人は残念がっていたが、モデルの仕事を続けて行くことで共通の話題があったから、打ち解けて話ができた。
「時々、また会おうね」
 とアンジェが言い残して、二人は東京に帰って行った。

 葬儀が終わると、ラ・ポワトリーヌは慎二の知り合いの女が乗り込んできて経営陣が全て入れ替わり、加奈子がやっていた株式会社カナ・プロダクションは元々別会社だったので、ラ・ポワトリーヌのステージの使用権を一方的に解約されてしまった。
 川野は仕方なく、銀行からの借入金で雑居ビルの空きスペースの賃貸契約を結んで場所を移し、新しいスタジオを立ち上げた。そのため、カナ・プロダクションはラ・ポワトリーヌと無関係な独立組織となり、川野は社長を引き継いで忙しい日々を送ることとなった。

 中高一貫校の卒業を前にして、先日加奈子の葬儀で会った塚田夫婦と今井夫婦が加奈子が残したマンションにやってきた。塚田と今井はお互いに申し合わせて来たのではなくて、偶然に鉢合わせしたようで、奈緒美の前で口争いが始まった。
 男が奈緒美を指さして、
「オレはこの子を引き取るつもりだ」
 と塚田。
「だったら弟の方はどうなさるんですか? 私達は子供が居ないので姉弟を一緒に預かって養子にするつもりですが」
 と今井。
「勝手は許さんぞ。親戚じゃオレの方が近いんだ。そんなに欲しけりゃ、弟の方だけ連れて行けよ」
 どうやらこの人たちは自分達姉弟を引き取りに来たらしいことが分った。
「あのう、オジサマだかオバサマだか知りませんが、あたしたちはずっとここで暮らします。帰って下さい」
「こんな所で未成年の子供がいつまでも暮らせないだろうがぁ。可愛がってやるからオレたちと東京に行こう。悪いようにはしないよ」
 と塚田が奈緒美の言葉を遮った。奈緒美は突然の出来事にどうして良いのか分からなくなった。

 奈緒美は川野に電話した。間もなく川野がやってきた。
「私は、奈緒美さんと庄司君をお預かりしております川野と申します。お話しを伺いたいと思いますが」
 と塚田夫妻と今井夫妻に挨拶した。
「あんたなぁ、親戚でもない者が親権者とはおかしいぜ。あんたは関係ないから出て行ってくれ」
 と塚田が川野を追い出そうとした。
「何か勘違いなさっているかと思いますが、私は家庭裁判所で認められたこの子たちの親権者です」
 と川野が応じた。
「ウソ付けっ。だったら証拠を見せろ。証拠だ」
 川野は岡田弁護士に電話した。少しして、岡田がやってきた。
「弁護士の岡田です」
「弁護士さんか。オレたちはこの子たちの親戚の者だ。未成年の子供二人っきりじゃ暮らして行けねぇから、引き取りに来たんだ。親戚だからよぉ、家裁に申請すれば直ぐ認可が下りるよ。そうだろ? 弁護士さん」
 岡田は丁寧に応対した。
「実はこの子たちの母親の岩井加奈子さんの顧問弁護士をしておりました。岩井さんの遺言がありまして、死亡後の親権者をこちらの川野さんにお願いしたいと書かれており、家裁に申請しまして、現在の親権者はこちらの川野さんになっております。もし、手荒な形でこの子たちを連れて行かれるなら、親権者の保護義務を発動して警察に告訴、拉致を阻止するようにしますが」
 岡田は丁寧だが有無を言わせぬ顔で塚田の目を見た。
「そうかい、分かったよ。じゃ聞くが、加奈子が残した財産はこの女が勝手に処分したのかよぉ。このマンションも財産だろ?」
「おっしゃる通り、この子たちに代わってこちらの川野さんの一存で財産を処分することができます。ついでに申上げますが、私は現在こちらの川野社長の会社の顧問弁護士もしております」
 塚田は驚いた様子だった。まだうら若い川野が会社社長で顧問弁護士も付いていたからだ。結局塚田は岡田に勝ち目はないと思ったのか、さんざん悪態をついて出て行った。

 塚田は池袋でゲーセンを経営していた。だが女遊びと金遣いが荒く、大きな借金を抱えており、妻は愛想をつかして現在別居中だった。加奈子との関係は加奈子の長兄の嫁さんの末の弟だったのだ。連れてきた奥さん役の女は馴染みのスナックで働いている女だった。
 残された今井夫婦はまだ未練顔をして残っていた。
「実は、私共はここにおります家内の久子が加奈子さんのご実家の親戚の娘でして、直接血の繋がりはないのですが、遠縁にあたる者です。私共は福岡、福岡と言いましても博多ではなくて、有明海に近い八女市郊外の広川と言う所に住んでおります。若い頃から子宝に恵まれず、跡取りが欲しいと思いまして、そんな時たまたまこちらのご兄弟、いやご姉弟の不幸を知りまして、出来ましたらお二人一緒に、ダメなら弟さんだけでも養子に迎えたいと思い、こちらを訪ねました。弁護士さん、どうでしょう? ご姉弟とお話しされて、もし可能なら養子に頂けないでしょうか? 私は近くの広川工業団地の中にある電子部品のメーカーに勤めており、真面目なサラリーマンとして一生を終わるつもりでおります。養子にする場合、できれば遠縁でも私たちに縁のある方が欲しいのです」
 と今井が訪ねて来た理由を説明した。
「誰でもいいと言うわけにはまいりませんものね」
 と今井の妻が補足した。岡田も川野も今井夫妻は塚田と違ってすごく真面目な人柄だと理解した。

「分りました。弁護士さんと子供たちとよく相談して、後日お返事を差し上げます」
 と川野が答えると、今井夫婦は丁寧に挨拶をして立ち去った。川野は生前に加奈子が川野に頼んだ意味をようやく理解できたような気がしていた。
 後日、相談の結果、結局弟の庄司だけが福岡の今井家の養子として引き取られて行くことになった。川野も奈緒美も反対したが、庄司が姉の将来を思って希望したのだ。
「別に海外に行くわけじゃないし、会いたければいつでも会えるよね」
 庄司は遠く離れても別に兄弟は兄弟だからと気にはしていなかった。岡田はこの先ずっと親無しでは庄司君に不利なこともあるから、今井ご夫妻の人柄を見込んでと庄司の意見を押したのだ。
「姉ちゃん、今はスカイプ(Skype) とか携帯とか色々あるからさぁ、遠くに居ても淋しくはないよ。今井さんは大学まで行かせてくれるって言うから、オレ受験勉強して、パパが出たT大か九大を目指すよ。ダメなら近くに久留米工業大学だってあるらしいからさ。だからさ、安心してよ」
 庄司は現代っ子だ。
 庄司が出て行くと、広いマンションに奈緒美だけが残った。奈緒美は母の加奈子が亡くなってから初めて淋しさを感じていた。

百一 子育て・沙希の場合Ⅰ

「お母さま、お兄さまはどちらにいらしたの?」
 沙希の娘沙里(さりぃ)が聞いた。ここのとこ兄を見かけないからだ。沙里は西新井の家から通える都立足立高校を卒業して今年西荻窪にある東京女子大学現代教養学部国際社会学科に進んだ。高校の時は家から自転車で通学できたが、大学は電車で片道約一時間もかかる。だが、通えない場所ではなかった。と言うよりも、沙里は母親の沙希には内緒にしていたが、通学経路が都心を通るので、通学定期券であっちこっち寄り道するのに便利だなんてことも大学を選んだ理由になっていた。
 兄の希世彦は妹の沙里より三歳年上だが、一年浪人して東京大学の理科一類に合格、最初の二年間は渋谷の隣の駒場にある教養学部で過ごして、今年から本郷の工学部電気電子工学部に移った。今は大学三年生だ。希世彦も妹と同じで都立足立高校を出た。

 希世彦が一年浪人したのには理由がある。
祖父の米村善太郎は孫の希世彦と沙里を可愛がっていた。だが、祖父には厳しい面もあった。
 希世彦が高校生になった頃、善太郎は息子の善雄に、
「希世彦は自分の進路を決めたのかね?」
 と孫のことを聞いた。善太郎は孫の進路を親の善雄が決めるのではなく、孫の希世彦自身に自分で決めさせろと常々言っていた。
「彼は僕の後を追って東大に進みたいと言ってます」
「そうかい。東大と言や、そこらの大学と違って足立高校あたりから進むのは厳しいんじゃないのかね」
「難しいですね。しかし、彼が自分で目標を決めましたからやらせて見ます」
「一旦自分で目標を決めたなら、簡単に目標を下ろさせちゃならんぞ」
「それは本人も分っていると思います」
「希世彦はお前の後を継いで将来米村全体を引っ張ってもらわなきゃならん。うちも関連会社を含めると従業員は一万人に手が届く所まできた。一万人も居ると、中にはずば抜けて優秀な者もおる。善雄は能力の低い者が能力の高い者を使えないと言う原則を知っとるな。二流は一流を使えないとは昔から言われていることだ」
「はい。耳にタコができてます」
 と善雄は笑った。
「だからな、希世彦には相当鍛えてもらわんと後を継がすわけにはいかんのだよ。そのことをきっちりと教育しとけ」
「はい」
 時々そんな会話があって、希世彦がいよいよ大学受験をする時に、母の沙希は滑り止めで東大とは別に一つか二つ別の所を受験させろと言ったが善雄は許さなかった。善雄は希世彦に、
「男が一旦目標を決めたら何が何でも突破して難関を乗り越えて行く覚悟と努力が必要だな。そう言う根性がないと米村のトップは勤まらんよ」
 とはっぱをかけた。だから希世彦は自分が目標と決めた東大以外は受験をしなかったのだ。結局最初の受験結果は[桜散る]となり、一年間浪人をしたのだった。そんな希世彦も、今は東大の三年生になった。

 大学三年の夏休み善雄は、
「一ヶ月と少しドイツから始めてヨーロッパ各地の関連会社と客回りに出かける予定だが、近い将来必ず知っておく必要が出てくるから、僕について来い」
 と言って欧州の出張に息子の希世彦を連れて行った。
 そのことを沙希が娘の沙里に答えると、
「へーぇっ? ヨーロッパに一ヶ月以上も行ってるの。いいな、いいな」
 と羨ましがった。
「あなたもクラスメイトと旅行に出かけたら?」
「お母さま、本当にいいの」
「いいわよ。同じ行くなら若い内の方がいいわよ。是非計画を立ててごらんなさい」
 と同意してくれた。沙里はクラスメイトより、子供の頃から親しくしている志穂と茉莉と三人で行けるといいなと思っていた。

百二 子育て・沙希の場合Ⅱ

 希世彦は小学校二年生の時、浜田と言う男と中嶋と言う女に拉致された経験があった。そのため、小、中、高と通学には気を付けていたので、恐ろしい事件以後は何事も無く平凡な生活を続けた。
 その時の祖母美鈴の事件の処理が功を奏して、浜田も中嶋もジエイカ・ザンビア事務所で仕事を続けられることになった。その後、浜田、自称ムジャビ・シラはジエイカの農業支援プロジェクトの一環として、大規模な潅漑工事を進め、完成して、開通時は国家元首ルピア・バンダ(Rupiah Banda)をはじめ、政府高官の列席の下に華々しく開通式を行った。式を取り仕切ったのはNGO―JACAザンビア事務所の農業技術指導工作隊長加藤だった。だが、現地の作業者はムジャビ・シラの活躍と現地人への思い遣りを良く知っていた。そのため、工事の完成に伴ってムジャビ・シラの名前はルサカ中に広まり、有名人となった。
 潅漑工事の成功を一区切りに、加藤は日本に帰国することになった。
「浜田君、僕の後任は君にお願いすることにした。日本の本部にも話は通してある。よろしく頼むよ」
 それで、ムジャビ・シラこと浜田は、NGO―JACAザンビア事務所農業技術指導工作隊長に就任した。
 ムジャビ・シラが育てた機械操作の技術者は百名にもなり、潅漑工事が終わると、ムジャビ・シラはザンビア政府と交渉して円借款により、沢山の農業機械を導入して、作物生産の機械化を進めた。機械の操作は育てた技術者が熟練していて、円滑に仕事が進んだ。
 シラは従来メイズに偏っていた作物を改めて、メイズの他に大豆、レタス、キャベツ、サツマイモ、人参、トマトなど生鮮野菜の栽培にも力を入れた。特に群馬県から移入した高原キャベツは標高の高いザンビアの風土に適していて、作柄が良かった。生産量の増大に伴って、生産物の加工工場も建設した。ザンビアではトウモロコシを製粉した白い粉を主食に使う。それで収穫から製粉、出荷までを一連の工程で処理するようにしたのだ。シラと苦労を共にしてきた現地の作業者たちの収入が増え、皆そこそこ豊かになってきた。そのため、ムジャビ・シラはザンビア政府から功労者として[サー(Sir) ]の称号を贈られた。日本流に言えば、ムジャビ・シラ卿だ。
 ムジャビ・シラはそれを機会にNGOザンビア事務所を退職して、ザンビア国籍を取得、農業生産会社[ザンビア・アグリカルチャー]を立ち上げて自分が社長に納まった。セフレの中嶋麗子は管理部長、柏木は取締役総務部長としてジャイカから引っこ抜き、現地人は全て従業員として採用した。シラは株式の49%を政府に出資してもらい、51%は自分の持分とした。事業は順調に滑り出して、近隣のコンゴ、モザンビーク、アンゴラなどに輸出を行い、日本の大手商社と組んで、トウモロコシ、大豆は日本にも輸出して外貨を獲得した。折からの穀物相場の高騰で、事業は順調に滑り出した。シラは事業の立ち上げに際して、米村美鈴からもらった金をドル建て預金していたのを解約して充当した。美鈴が渡した金が有効に使われたわけだ。

 中嶋麗子はジエイカの職員の年下の男性と結婚、ムジャビ・シラはレイラと結婚した他、イライザも実質的に妻にして二人の妻から合わせて息子三人、娘四人を産ませ大家族になっていた。メイドを二人新たに採用したがレイラは女の感が鋭く嫉妬深い女だったので、イライザ以外の女と交わることができなかった。だがシラもいい年だ。レイラとイライザだけでも持て余す位精力を吸い取られていた。考えて見れば幸せな男だ。
 新しい事業が落ち着いた所で、シラは東京の沙希宛に[ザンビア通信]と言う小冊子と株式会社ザンビア・アグリカルチャーのパンフレットを送った。そして、ムジャビ・シラは自分のことだと書き添えたメモを入れた。

 希世彦が高校二年になった時、沙希はザンビアからの国際郵便を受け取った。浜田からだった。沙希は一瞬悪い予感がしたが、入っていた印刷物を見て驚いた。従業員千二百名の大きな農業生産会社の社長に納まっていたからだ。
「お母さまからお預かりした大金の大半はこの会社に出資して有効に使わせて頂いております。こちらで収穫された大豆やコーンは××商事を介して日本にも輸出させて頂いております」
 と丁寧にメモが添えられていた。沙希は早速美鈴に見せて報告した。美鈴は、あの時に、浜田を警察に突き出さずに置いて良かったと思った。
 一枚の写真も入っていた。可愛らしい黒人の女性二人と子供七人に囲まれて浜田が写っていた。この子たちは、理屈で言えば沙希さんの義理の兄弟ですと書いてあった。だが、沙希は全く実感を持てなかった。

百三 子育て・沙希の場合Ⅲ

 希世彦の妹沙里は祖母の美鈴と母の沙希の両方から可愛がって育てられたから、いわゆる箱入り娘で恐いもの知らず、おっとりとした性格に育っていた。祖母も母も倹約家で大きな会社を持っているのに子供のころから質素な生活スタイルだった。例えば、赤ちゃんは今時紙おむつが普通なのに、沙里が赤ん坊の頃は祖母の浴衣などをつぶして作った昔ながらのおむつだった。だが、沙里が中学に入ってからは普通の家庭と違う所が一つだけあった。海外旅行だ。

 沙希は子供たちの学校が休みになると、祖父の善太郎の勧めで、希世彦と沙里を連れて海外に小旅行に出かけた。
「米村はグローバル企業だ。希世彦はいずれ善雄の跡取りになるし、沙里も子供の頃から外国の色々な所を見て回ると、人生観の幅が広くなるだろう。暇を作って海外に連れてってやってくれ」
 もちろん祖母の美鈴も賛成だった。
 沙希は子供二人を連れて、最初は国内旅行から始めて、国内の各地を一通り回った後、台湾、中国、韓国、ベトナムなどからフィリピン、タイ、シンガポールと範囲を広げ、東南アジアを一回りした所で米国、カナダに続いて欧州の各国を連れて歩いた。南米は遠いので行ったことはないが、オーストラリア、ニュージランドには行った。

 沙希は英語、中国語、スペイン語ができた。それで、希世彦と沙里には子供の頃から外国語を教えた。だから、沙里が中学生になって海外旅行に連れて行くと、勉強も兼ねて進んで旅行先の人々に話しかけて異国の人々と会話を楽しむ癖が付いていた。
 高校生になってからは、幼馴染で同い年の志穂と二人で米国やイギリス、フランス、イタリア、スイスなどに出かけた。志穂の旅費は、理由は分からなかったが、何故か沙里の母、沙希が出してくれた。

 そんなことがあったから、沙里は大学は国際と名の付く学部を志望して、第一志望を上智大学の国際教養学科、第二志望を東京女子大学現代教養学部国際社会学科にして受験したが、第一志望の上智の方は落ちてしまった。それで、今は東京女子大学に通っているのだ。
 沙里が中学三年生の時、母親の沙希は青山学院大学の入試に合格して、学生になった。沙里はそんな母が好きだった。だから、夕方母親が出やすいように、家事も手伝った。母が入学したのは、文学部第二部英米文学科(夜間部)だった。
 沙里は普段は母親と過ごしていて、父親の善雄とはめったに過ごす機会がなかった。父親は兎に角多忙な人で、帰宅が不規則で出張も多く、同じ家で生活しているのに、顔を合わすことが少ないのだ。けれども、幼少の頃は一緒にお風呂にはいったりしたから、父親が大好きだった。

 中学生になって初めての夏休みに、何故か急に軽井沢に一緒に行こうと言われて、父と二人で旅行したことがあった。その時の想い出は今も沙里の心の中に鮮明に刻まれている。
 それに比べて、兄はたまにゴルフに連れて行ってもらう。沙希は不公平だと思っていた。兄の机の上に置いてあるゴルフクラブを持った父とツーショットの写真を見るといつも、
「兄貴はいいな」
 と思うのだ。
 だから、兄の希世彦が一ヶ月以上一緒に欧州各地を回るため旅行に行ったと聞いた時はちょっとやきもちをやいてしまった。沙里はもう一度父と二人で旅したいといつも思っていた。
 子供たちが二人とも大学生になり、母親(祖母)の美鈴が家事をやってくれるので、沙希は楽だった。青山学院大学は母と子供たちに助けられて、娘の沙里が大学に入学した年、無事に卒業した。

 振り返って見ると、大学では色々なことを学んだし、夜間部は同年代の人が何人も居たから良い友達もできた。入る前は家事、子育てと平行して少し無理かなと思ったが、卒業して見ると、思ったより楽だった。それで、子供たちが二人とも社会人になったから、時間が取れそうだったので、米国の大学のサマースクールに行って見たいと思っていた。米国の大学は夏休みが長い。だからサマースクールは一ヶ月以上のカリキュラムが沢山あるのだ。

百四 子育て・美登里の場合

「ママ、あたしの名前、どうして志穂って名前にしたの」
 志穂は小学校の二年生になった時、前から一度知りたいと思っていたことを母親の美登里に尋ねた。人は誰でも自分に名前が付いている。親が命名することが多いが、親以外の者が付ける場合もある。女も男も、特に女の子は自分の名前が気に入っている場合もあるし、嫌いな場合だってある。だが、一度命名されて役所に届けられた名前を後日に変更するのはややこしい。
「あたし、穂を書くのが難しいから、もうちょっと書きやすい名前にしてもらいたかったな。もしかして、パパが付けてくれたの」
 言われて見れば、父親は章吾、母の自分は美登里で、志穂なんて名前がどうして付いたか聞かないと分らない。世の中には、
「名付けられた子供のことを少しは考えたのかよぉ」
 と言いたくなるような馬鹿太郎なんて名前を付ける親も居るって言うではないか。志穂はまだ小二だ。志は良いとして、確かに穂の字は書くのが面倒だ。うっかりすると筆順だってちゃんと規則通り書けるか怪しい。

「志穂ちやんの名前はね、鎌倉のおばあちゃまと四谷のおばちゃまが相談して付けてくれたのよ。鎌倉のおばあちゃまは志津江でしょ。なので、志の字はおばあちゃまがくれたの。おばあちゃまの志津江は元々ひらがなで[しづえ]と言う名前に後から漢字をあてはめて志津江って書いたんだって。こう言うのを当て字って言うのよ。でも志穂の名前には意味があるんですってよ。志は自分の望みとか心に決めるって意味で穂は稲とかすすきの穂のことだけど、それとは別に自分が思っていることが外に出るって意味もあるんですって。なので、志穂は自分の希望が形になるって意味だって言ってたわよ」
「ふ~ん? そうなんだぁ。あたし、願いが叶いそうな名前だなぁ」
 志穂がどこまで理解したのかは分らなかったが一応納得したらしく、美登里はほっとした。
 そんな経緯(いきさつ)があったからかどうかは分らないが、志津江は志穂を猫っ可愛がりに可愛がった。だから、志穂は少しおばあちゃん子だ。兎に角甘えん坊で、美登里に似て泣き虫だ。それに比べて、夫の章吾は強い男で涙っぽい所を見せたことがない。美登里は夫の強さを志穂に少しは引き継いで欲しかった。

 そんな志穂は美登里の仲良しの沙希の娘沙里やスペイン人のマリアの娘茉莉(まり)と仲良しで友達以上、姉妹のような付き合い方をしていた。マリアの娘の名前茉莉は夫のサトルと二人で考えて付けたそうだが、美登里は茉莉花(まりか)がジャスミンの和名だと知っていたから、素的な名前を付けたものだと常々思っていた。
 志穂は美登里に似て、と言うか美登里が何事もゆるめが好きだったせいか、着るものも好むものもゆるいものが好きだった。玩具なんかも、
「あたし、これがいい」
 と不思議とゆるキャラを選ぶのだ。だから性格も癒し系で、志穂は美登里が通った湘南白百合学園と同じ学校の東京九段の白百合学園の幼稚園に入り、白百合小学校、白百合中学高等学校に進んだ。白百合学園は女子校だ。だからクラスメイトは女の子ばっかだったが、不思議と小学校の高学年から他校の男の子の友達が増え始め、中学になってもボーイフレンドの数は両手で数える以上だった。

 父親の章吾は、結婚前は子供なんて好きそうに見えなかったが、志穂が生まれると人が変ったように家の中では志穂を可愛がった。だから章吾が帰宅するとすっかり章吾に纏わり付いて、それは志穂が中学生の年頃になっても変らず、しばしば美登里はやきもちをやく位だ。そんな時章吾は、
「娘と張り合ってどうするの」
 と美登里をからかった。
 父親が大好きな女の子は異性の友達や彼の中に父親のイメージが重なる奴を好きになると言う。逆に父親が嫌いな娘は、異性の友達や彼のイメージが父親とは反対の奴を好きになると言う。また、自分が太めだと細めのすらっとした男の子を、自分がお痩せの場合は得てしてがっしりした奴や太目の彼を好きになると言う。

 志穂は父親の章吾が大好きだ。だから、家に連れてくる男の子たちは決まって体育系の逞しいやつばっかだった。美登里が聞いて見ると彼らは野球、サッカー、陸上などスポーツが好きな子ばかりだ。彼らは美登里に似て可愛らしい顔の癒し系の志穂を皆で大切にしてくれているようで、美登里は安心できた。ずっと女子校なのに、どんな風にして男の子を見つけるのか美登里は未だに良く分らないが、どうやら携帯メールからつながりが出来るらしい。そんな出会いは危険だ、悪いことがあるかも知れないと抑え付けず、美登里はボーイフレンドを出来るだけ家に連れて来させて、自分で会って見てまずい奴ではなかったらお付き合いを許した。幸いなことに小学校から高校まで男の子とのトラブルは一度もなかった。

 そんな志穂もいくつかの大学を受験して、最終的に母の美登里が通った東京千代田区三番町にある大妻女子大学の文学部を選んだ。母子共に同じ学校で、大学まで女子校だ。娘の志穂の進路については、章吾はあまり口を出さなかった。美登里と志穂の好きなようにさせているふしがある。
 高校の頃から、志穂は仲良しの沙里に誘われて海外旅行をするようになった。学生だから贅沢な旅行ではないが、旅費はバカにならない。だが、旅費は全て沙希が持つと予め申し出があった。それを夫の章吾に話すと、
「そうしたら? 遠慮はなしで大丈夫だから」
 と一蹴されてしまった。美登里は章吾と沙希の過去について全部知っているわけではないが、沙希は自分の娘の沙里と分け隔てなく志穂を良く可愛がってくれた。

百五 子育て・マリアの場合

 サトルと結婚してサトルの奥さんになったマリアは元々スペイン人で、日本にはスペイン大使館の職員としてやってきた。マリアは今は大使館とは縁がなく、サトルと結婚をしたのを機会に日本国籍を取ったので、今は日本人だ。
 サトルの一目惚れから始まって、サトルとマリアは恋に堕ちて結婚したが、マリアはサトルより五歳も年上だった。だが、マリアはわりと甘えん坊で可愛らしい所があるから、二人の仲は今も良い。

 米村善雄と沙希の間に誕生した女の子沙里に約一年遅れて、サトルとマリアの間に女の子が誕生して茉莉と名付けられた。茉莉が保育園児の年代は待機児童が多くて、マリアは足しげく空きのある保育園を探し回ったが、どこも見付からず、専業主婦だったため、結局保育園に入れることができずに、茉莉の幼児の頃はもっぱらマリアが家で育てた。東京では珍しくはないケースだ。だから茉莉は保育園を通らずにいきなり幼稚園に入園したので、入園当初は友達に馴染めず、いつも陰で小さくなっていたようだ。

 マリアは出来れば将来茉莉をファッションモデルに育てたいと思っていた。だから、小学校に上がると、クラスの中の大部分の生徒は何らかの学習塾通いをさせるのだが、マリアはそうさせずに、原宿にあるエリーズモデルスクールに応募させた。この手のモデル養成スクールは都内にいくつもあるが、誰でも入れるわけではない。子供といえども応募要綱に従って入学申請をすると、オーディションがある。そのオーディションに合格して初めて受け入れられるのだ。
 モデル養成スクールは将来プロのファッションモデルやタレントになる者を教育する学校だ。だから、最初から芽が出そうにないような子供を預かっても仕方が無い。そう言うことはスクールの性格上、どこのスクールでも大体同じような方針を取っているのだ。茉莉は母親のマリアが言うと親バカ丸出しでおかしいが、幼児の頃からハーフ独特の雰囲気を持っていて、可愛らしく、肌も綺麗だった。夫のサトルが長身なので、マリアは多分茉莉もすらっとした背の高い女の子に成長すると自信を持っていた。

 有名なモデルやタレントになった者の中には、新宿、渋谷、原宿などでスカウトされて芸能界に入って成功したと言う者が多いように思われているが、子供の頃からきちっと養成スクールで基礎を学んで成長した者も少なくはないのだ。
 マリアは茉莉を入学させる前に、スクールの無料説明会に参加申請をして、説明会で概ねスクールの活動状況を理解した。卒業生の中には、今メディアで活躍しているタレントやファッション界で活躍しているモデルが大勢居ることも分った。モデルスクールと呼ばれているが、タレントの育成にも力を入れていることも分った。
 茉莉は母親の勧めでエリーズモデルスクールのオーディションを受けた。結果は一発で合格通知をもらい、小学校二年生の時から通い始めた。勿論、夫のサトルも承知していた。最初、学習塾に比べて月謝が高かったから、サトルの月収では少しきつかったが何とかやりくりしている内に、二年目からCMモデルに採用する話しが持ち上がり、菓子メーカーのパンフレットに登場した。しかも、その年から特待生となり、高い月謝が免除された。

 茉莉の評判は良いとスクール側から話があり、小学校の高学年になると、具体的なCMモデルの仕事が増えた。もちろんギャラは支払われなかったが、経験を積むには積極的に応じた方が良いとスクール側からアドバイスがあった。写真撮影などで一日潰れてしまい学校を休ませることがあったが、茉莉は学校の授業よりも楽しくていいと言っていた。
 茉莉のモデルとしての成長は順調だった。中学に上がると、スクール側から僅かだがギャラが親のサトル宛てに支払われるようになった。中学を卒業する頃には、歌のレッスンも追加されて、スクール側も力を入れて指導してくれた。十五歳になって高校に進む頃にはTVのCMに使われるようになっていた。

 マリアは茉莉の高校進学について仲良しの美登里に相談した。娘の志穂も一緒に話を聞いていた。
「そう、思った通り茉莉ちゃんはモデルとかタレントに向いているわね」
 と最近の茉莉の様子を聞いて美登里は感心した。
「公立だと大学受験を目指す人が多いから、クラスメイトとかとも合わないし、時間も取り難いから、授業料が大変だけど、あたしだったら私立に行くわ」
 と志穂が口を挟んだ。
「そうなの。茉莉も私立、できれば音楽学校に入りたいって言うのよ」
 とマリアは茉莉の希望を言った。
「だったら、池袋から通い易い東邦音楽大学附属東邦高校なんかどうかしら」
 美登里が提案した。
「いいけど」
 と志穂。
「いいけど?」
 とマリアが先を促した。
「東邦は子供の頃からピアノとか音楽のレッスンを受けている人でないと入り難いんじゃないかしら」
「それだったら、茉莉はモデルスクールで最近楽器や歌のレッスンも受けてるみたいよ」
「そうなんだ。じゃ頑張って見てもいいかもね」
 それでマリアはモデルスクールに出かけて相談してみた。

「お嬢様の茉莉さんは、正直言って才能と可能性を秘めています。出来れば音楽学校に進まれるといいですね」
 事務局ではそう言って後押しをしてくれて、推薦状も書いてくれると約束してくれた。
 受験勉強は一つ年上の志穂が勉強の面倒を見てくれて、サボりがちだった中学の学力もある程度挽回した。
 幸いなことに、スクールの推薦状の効果があったのかどうかは分からないが、茉莉は東邦音楽大学附属東邦高校に何とか滑り込んだ。

 エリーズモデルスクールは母体がエリーズプロダクションだ。スクールで頭角を現した生徒の多くは卒業後にエリーズプロダクションの所属タレントとなり、芸能界で活躍している。勿論、別のプロダクションにスカウトされたり志願して移る者もいた。
 マリアは高校生になって、エリーズプロダクションに入るように勧められて、母親のマリアと相談してエリーズプロダクションに籍を置くことにした。

 早いもので、茉莉は高校三年生になっていた。
「あたし、モデルオーディションに応募して見たいんだ」
「突然何よ」
「それと、この際芸名も付けちゃおうかな」
 マリアは突然の茉莉の話に驚いた。
「あなた、もうプロダクションに所属しちゃってるからプロでしょ? そのオーディション、プロも応募できるの?」
「大丈夫みたい」
 と言って茉莉はパンフレットをマリアに見せた。
「あら、有名な化粧品会社じゃない? 簡単には残れないと思うけど。応募者が多くて難しいわよ」
「アハハ、ダメもとよ」
 と茉莉は笑った。

「あたしの芸名だけど、プロダクションのマネージャさんに考えておけって言われたのよ。もしあんたの希望がなければあちらで決めるって言うのよ。あたし、できれば自分の気に入る名前にしたいんだ」
「そうね。ずっと使うなら自分で納得できる名前がいいわね。あなた小学校の頃、茉莉の莉の字は書くのが面倒だから嫌だなんて言ってたの覚えてる?」
「もち、覚えてるわよ。今だってそう思っているんだからぁ」
「ママ、スペインじゃマリアって名前、普通にある名前?」
「そうよ。ありふれた名前ね」
「他にそんな名前ってある?」
 マリアは少し考える風だった。
「アンジェリーナって言うの、割合多いわね」
「アンジェリーナかぁ。それあたし気に入ったな。アンジェリーナ・クリヤマじゃどう?」
「どうして日本の名前にしないの」
「あたしハーフだから、ママの故郷の名前を使いたいんだ」
「そう、じゃ、そうしたら?」
「これで決まりだな。ヨシッと!」
 茉莉は結局芸名を[アンジェリーナ・クリヤマ]と決めて、プロダクション側も了解した。

 大手化粧品会社のモデルオーディションは茉莉が十八歳になってからだったので、募集要項の年齢制限をクリアしていた。それで、茉莉は本気になって応募した。プロダクションのマネージャに話をすると、
「難しいよ。採用は三名だろ? 多分堕ちる確率が高いね」
 そう言いつつ了解してくれた。マネージャは正直無理だと思っていたから、特に問題にはしなかったのだ。

百六 乱れる乙女心

 もう夜の十時を過ぎていると言うのに、先ほどから沙里の部屋に志穂が入った切り出てこないばかりか、
「キャッキャ」
 と笑い転げているような大きな声が階下に伝わっていた。
「あの二人、何をそんなに面白がっているんだろ」
 沙希はとうとう二階に上がって、そっと沙里の部屋を覗いて見た。
 二人してノートパソコンの前に陣取って、なにやら日本語、英語、フランス語をゴッチャにして大きな声で画面に向かってしゃべっているのだ。良く見ると、パソコンの画面の上にカメラのような小さなユニットがクリップで留められていた。それを見て沙希は直ぐに分った。[スカイプ(Skype) ]を使っているのだ。画面にはフランス人らしき青年がパクパク口を開けて話していた。画面の青年も笑っているかと思うと、急におどけた顔を作って、娘達を笑わせていた。沙希はとうとう話しかけた。二人とも画面に熱中していて、沙希が入って来たのに気付かず、沙希が声を掛けるとびっくりしたように二人で振り向いた。
「誰とお話ししているの」
「ああ、彼たちね、先週フランスで知り合った人たちよ」
「一人じゃないの」
「今画面に出てる人のお友達と一緒。全部で三人」
 沙里が画面に向かって、
「ジャンとマルセルを出してぇ」
 と言うと別の青年が画面に出た。
「さっきの人はアルベール」
 ジャンとマルセルは交互に画面に顔を出して、また面白いことを言った。それで沙里と志穂が再び笑いこけた。
 沙希が見た所、三人共映画スターのような感じでなかなかのイケメンだった。彼らも片言だが日本語を使って話をした。フランス語とゴッチャにしている。

 三月から四月にかけての春休みを利用して、沙里と志穂は二人でパリのオルセー美術館に行ってくると七日間の予定で出かけて行った。
 沙里はパリには何度も来ていたし、志穂も二度目だったから、ホテルに荷物を置くと、早速メトロに乗ってサンジェルマンのミュゼドルセー駅で降りて美術館を散歩した。オルセー美術館は元々あった駅舎を使って一九八六年に開設された新しい美術館だが、所蔵されている作品はなかなかのものが揃っていた。沙里も志穂も印象派の絵が大好きで、ここには、モネ、ピサロ、ルノワール、シスレー、マネ、ロートレック、セザンヌ、ゴーギャン、ゴッホなどの絵画が夫々いくつか展示されていた。沙里はこれらの印象派の中でもロートレックが大好きで、オルセーには女道化師や赤毛の女などが所蔵されていた。沙里は旧い映画[ムーランルージュ]を思い出しながら見ていた。

 美術館の中ほどで、ちょっと格好の良い青年が三人立ち話をしていた。その中で一人が先ほどから沙里と志穂の方に時々視線を投げかけていた。イタリアやフランスの青年は女性と見ると親しげに近付いて来たりするが常々、
「深入りすると危険だから、やたらと近付いてはダメですよ」
 と沙希に言われていた。だから沙里も志穂も知らん顔して通り過ぎた。
 昼前に、ドゴール空港からホテルに着いて直ぐに出たのに、美術館を出ると夕方になっていた。
「沙里、お腹空いてない?」
「あっ、空いてる。ペコペコかも」
 それで二人はセーヌ川沿いのカフェに腰を下ろした。パリはまだ寒い。それで二人は建物の中に入り、ギャルソンに案内されてテーブルに付いたのだ。ホテルでちゃんと夕食をとるつもりでいたから、サンドイッチとコーヒーを頼んだ。
 二人は、オルセーで見た作品たちのことを思い出して話をしていた。しばらく話に夢中になっていたが、志穂がふと入り口の方に目を移すと先ほど美術館で視線を投げかけていた三人の青年が入って来るのが見えた。
「沙里、あたしヤバイよぉ。あの真ん中のガッシリした奴、あたしのタイプなんだ。ヤバイなぁ」
 と志穂が呟いて彼等の方を目で指した。
「あら、あたしもヤバイな。あの左のひょろっとした奴、あたしのタイプなんだ。ヤバイよ志穂。どうする」
 沙里も志穂もなんだか胸の中がざわざわするような、背筋に衝撃が走るような気持ちで固まってしまった。

 沙里と志穂はテーブルの上にお金を置いて店をでようとした。その時、ギャルソンがトレーにワインクーラーに入れたボトルとワイングラス二つを乗せて、沙里たちの方にやってきた。二人が立ち上がろうとするのを制して、
「あちらのムッシュからです。どうぞ」
 と言ってテーブルに載せたワインクーラーからボトルを取り出して、グラスにワインを注いだ。沙里と志穂は呆気に取られ、ますます固まってしまった。
「沙里、ヤバイよぉ」
 ワインをプレゼントしてくれた三人のムッシュの方を見ると三人共ニコニコして、一人が軽く手を挙げて、
「どうぞお飲み下さい」
 と言う仕草をした。沙里は軽く会釈をした。
「志穂、どうする? 参ったなぁ」

「こんにちは」
 すっかり固まってしまっている志穂の後ろから突然声がして、二人は飛び上がるほど驚いた。見ると沙里のタイプのひょろっとした奴がニコニコして立っていた。
「こちらにご一緒してもいいですか」
 たどたどしいが、ちゃんとした日本語だ。
「どうぞ」
 沙里はそう答えるしかなかった。
 三人がやってきて、テーブルは賑やかになり、沙里も志穂も次第に緊張がほぐれてきた。彼らは礼儀正しく、見た所金持ちの御曹司みたいで着ている服装も高そうなスーツできちっとしていた。兎に角、話しが面白い。色々な国を歩いているらしく、サウジアラビアやインドの話しまで飛び出した。エジプトのピラミッドの墓泥棒がとっ捕まったリアルな話はとても面白かった。話題が豊富だ。
「紹介します。こちらがジャン、こちらがマルセル、僕はアルベールと申します。僕等は日本にも何回か遊びに行きました。六本木、銀座、新宿、渋谷、それと横浜もいいですね。関西は京都、奈良、大阪、それに神戸が良かったです」
 とお痩せのアルベールが言った。沙里のタイプの奴だ。志穂が好きな奴はマルセルだった。
「ご旅行はいつまでですか」
「あと三日か四日パリの街で遊んでから帰ります」
 アルベールは他の二人の顔を見た。
「僕達はモナコに住んでいます。よろしかったら一日モナコに遊びにいらっしゃいませんか」
 マルセルが丁寧な言葉遣いで誘った。
「明後日にはモナコに戻っています。いらっしゃるなら、モナコの駅からここに電話を下さい。父親のクルーザーでコートダジュールの海岸を見ながらクルージングするのはとても楽しいですよ」
 ジャンが電話番号をメモした紙切れを志穂に渡した。
「僕等は他に行かなければならない所があります。今日はこれで失礼します。明後日、楽しみにお待ちしています。どうぞごゆっくり。ここの支払いは既に済ませてあります」
 そう言って三人は立ち上がり、微笑と共に店を出て行った。

 次の日はブローニュの森に出かけた。凱旋門から1km位の距離なので、ブラブラ歩いても行ける。志穂が森の中にある国立民芸博物館を見たいと言ったのだ。志穂は母親の美登里に似て自然が大好きな女の子だ。
 二日後、沙里は迷っていた。もし志穂が止めようと言ったらモナコには行かないつもりだった。志保も迷っていた。沙里が行かないと言えば素直に止めるつもりだった。でも、心の中で、
「マルセルにもう一度だけ会いたい、マルセル会いたい」
 と言う囁きが聞こえてきた。
「沙里、今日どうする」
「行きたい気持ちと止めようと言う気持ちがゴチャゴチャ。あたしどうしよう。あいつにもう一度だけ会ってみたいなぁ」
「あたしも、あの素的な奴に……」
 もう二人はさっさと出かける用意を始めていた。用意が終わって二人で顔を合わせて笑った。
「あのフェロモンには勝てねぇなぁ」
 千々に乱れる乙女心に二人とも抗えなかった。

百七 東京ミッドタウン

 沙里と志穂は軽装で出た。メトロでリヨン駅まで行って、そこから特急TGVでマルセイユに出た。途中ヴァランスと言う駅に停まるが殆どノンストップだ。フランスは広い。時速200km以上で飛ばすTGVにパリを十時半頃に出たのだが、地中海側のマルセイユに着いたのは午後三時半頃だった。マルセイユからはローカルでモナコ・モンテカルロ駅まではツーロン→カンヌ→ニースの次がモナコだ。
 夕方モナコに着くと駅から電話した。運良くアルベールが出た。
「サリィです。来ちゃいました」
「あっ、待ってたよ。直ぐ駅に迎えに行くよ」
 駅前に大きな赤いスポーツカーが停まると、アルベールが降りてきた。
「今夜は僕の所に泊まって下さい。明日、お天気が良かったらクルージングに出かけましょう」

 アルベールの車が大きな門の前で停まると、門番らしき男が扉を開けた。車は吸い込まれるように進んで玄関のポーチの前で停まった。中からメイドらしき年配の女性が出てきて、うやうやしく車の扉を開けて、沙里と志穂に
「いらっしゃいませ」
 と頭を下げた。
 映画で見たような大きな邸宅だ。通された広間はシャンデリアがあり、復古調の落ち着いた素的な家具が揃っていた。間もなく、ジャンとマルセルが歩いて訪ねて来た。二人とも満面の笑みで沙里と志穂を交互に軽く抱きしめた後、
「どうぞ」
 と言ってソファーを勧めた。沙里も志穂も超緊張して身体が強張っていた。それを見て、アベールがまた面白い話を始めて、緊張をほぐしてくれた。
「あたしたち、お姫様みたい」
 と志穂が呟いた。

 晩餐も凄かった。なにしろ、給仕が一人、メイドが二人も居て、大きなテーブルの奥にはアベールの祖父が、反対側にはアベールの祖母が座り、父母と妹、ジャンとマルセル、それに自分達を入れると十人で食事だ。沙里も志穂も緊張のしっぱなしで、トイレに行きたくてもタイミングが分らずに我慢をしていたのだ。
 晩餐が終わると皆で団欒、ようやく解放されたのは夜の十時頃だった。日本の色々なことを質問されたが、先方の方がずっと詳しくて、能や狂言の話などは二人とも何も答えられずに冷や汗が出るばかりだった。寝室は沙里と志穂と別々で、広い寝室だった。沙里も志穂も勧められるままにワインを飲みすぎて、フカフカのベッドに倒れこむとそのまま眠ってしまった。

「ボンジュール!」
 メイドの優しい声で翌朝目を覚ますと、日は高く昇り、サイドボードの上の時計は九時半を指していた。簡単な朝食が終わった時は十一時近くになっていた。
「お天気がいいから出かけましょう」
 アベールはポロシャツに白いチノパン、上に明るい水色のジャケを着て、靴は良く洗った真っ白なデッキシューズを履いていた。
「素的っ」
 沙里は心の中で叫んでいた。
「二人はハーバーで待ってるから、さっ、出かけよう」
 昨日の赤いスポーツカーで港のモナコ・ヨットクラブと書かれた看板のある建物の駐車場に入った。案内されて波止場に行くと、白い大きなクルーザーが停泊していた。
「ボンジュール、昨夜は楽しめたかい」
 マルセルが志穂に聞いた。
「は、はいっ」
 志穂の声はうわずっていた。
 沙里はアベールに手を貸してもらってクルーザーのデッキに上がった。志穂はマルセルに抱きかかえられるようにして船に乗った。ジャンは操舵席に座って計器類の点検をしていた。
「出るぞっ」
 アベールの声を合図に、ドドドッ、ドドドッと鈍いエンジン音がして、クルーザーはゆっくり岸壁を離れた。海は静かだった。春の柔らかい日差しを浴びて、海面がキラキラして美しかった。

 クルーザーはコルシカ島に近付いた所で錨を下ろした。ジャンが数本釣竿を持ってデッキに来た。釣りをやるらしい。
 少し大き目の鯛のような魚が全部で三匹釣れた。それをマルセルが手際よく開いて、さしみを作ってくれた。皆でワインを飲みながらさしみをつまんだが、すごく美味しかった。沙里も志穂も醤油が出てきて、チューブに入ったわさびまで出て来たのを見て驚いた。
「日本流で食べるのが美味しいね」
 と三人の青年は笑った。
 刺身の昼食が終わって、沙里はデッキの端に腰掛けて遠く対岸に見えるコートダジュールの美しい海岸をぼんやりと眺めていた。いつの間にか隣にアベールが来て沙里と並んで座った。アベールの手がそっと沙里の肩に置かれて、優しく抱き寄せられた時、沙里は心地良い眩暈を感じていた。アベールの胸の鼓動が沙里に伝わった時、全身がゾクゾクする何とも言えない刺激に包まれていた。
「これって、恋だな。あたし、どうかしてるぅ」
 沙里はそんな風に思いながら軽く瞼を閉じて、アベールの温もりに浸っていた。

 その時、反対側のデッキでザブン、キャ~ッと志穂の悲鳴が聞こえて沙里は我に返った。マルセルが直ぐに飛び込んで志穂を抱きかかえてジャンがデッキに引き揚げた。可哀想なことに、水に濡れて志穂の身体が全身透けて見えた。デッキに上がったマルセルが大きなバスタオルで志穂の身体を丁寧に拭いてやっていた。マルセルはしきりに志穂に謝っていた。どうやら二人でふざけていて、志穂が落ちてしまったらしい。志穂はマルセルにされるがままに、うっとりとした顔でマルセルを見上げていた。
「彼女も恋に堕ちちゃったか」
 と沙里は思った。結局志穂はマルセルのスペアのシャツとショートパンツを借りて、その上にジャケを羽織り、不様な格好で出て来た。だが顔は幸せいっぱいそうだった。
 夕方には濡れた志穂のコスチュームも乾き、二人はモナコ・モンテカルロ駅で三人と別れた。
「すっかりお世話になってありがとう。すごく楽しかったわ」
 別れ際にアベールが、
「お願いがあるのですが」
 と言って土産の菓子が入っているような缶の箱を三個差し出した。
「恐れ入りますが、日本でお世話になった友人へのお礼の品物です。ここに住所が書いてありますから、東京に戻られたら、クロネコで送って下さいませんか」
 沙里が受け取ると、少し重いので、多分チョコレート菓子か瓶詰めのジャムかなにかではないかと思った。クロネコとちゃんと言ったので、多分宅急便のことを良く知っているのだろう。
「お安い御用です。帰ったら直ぐに発送します」
 と言って受け取った。三人は全員礼儀正しくて、悪い予想をしたHなことは何もなかった。列車が出発して遠ざかる間、三人の青年はずっと手を振って見送ってくれた。
 夢のような経験をしてから、東京に戻るとすぐにクロネコに預かった包みを持っていって、メモに書かれた住所宛に伝票を書いて発送した。電話番号はメモに書いてなかったので、空欄にして送った。

 二日後の夕方、
「もしもし、及川と申します。先日フランスの友人から預かられた荷物を送って頂き、大変ありがとうございました。沙里さまでいらっしゃいますか」
 と電話があった。祖母の美鈴が出たのだ。
「いいえ、私は祖母です」
「恐れ入りますが、沙里さまはいらっしゃいますか」
「はい。少しお待ち下さい」
「沙里ちゃん、電話よっ」
 沙里は美鈴から受話器を受け取った。
「もしもし、沙里です」
「沙里さまですか。先日はありがとうございました。無事に受け取りました。それで、お礼と行っては何ですが、少しお時間を頂けますか? 軽くお食事でもと思いまして。出来ればお友達とお二人で」
「はい。夕方でよろしければ」
「そうですか。では明日の夜七時に、恐れ入りますが、東京ミッドタウンの四階にあるボタニカと言うレストランにお越し頂けますでしょうか」
「十九時ですね。分りました。友人と二人でお邪魔します」
 約束の時間に、沙里は志穂と一緒に東京ミッドタウンに出かけた。店に入ると及川とか言う男が既に来ていた。三十歳位の感じの良い男だった。三人はモナコでの話で盛り上がり、食事が終わると、バーに誘われたが断って店を出た。
 先ほどから、及川、沙里、志穂が食事をしているテーブルから少し離れたテーブルで二人の男がコーヒーを飲みながら様子を伺っていた。

 沙里と志穂が店を出ると、二人に知られないように尾行を始めた。どうやら身のこなしを見るとプロのようだ。一人はずんぐりで、一人は中肉中背だった。途中で志穂は池袋、沙里は西新井に向かって分かれた。二人の男は目配せして、二手に分かれて尾行した。
 西新井に着いて、家まで歩く途中、沙里はなんだか人につけられているような気がしてふと立ち止まって後を振り返った。だが、誰もいなかった。それで、
「ただいま」
 と言ってそのまま家に入った。

百八 不審な訪問者

 及川に東京ミッドタウンで食事をご馳走になってから、一週間が過ぎた。大学の新学期が始まって、沙里も志穂も勉強が忙しくて、いつも帰りが少し遅くなっていた。だから、土日は寝坊して昼前まで寝ていた。その日も日曜日で寝坊をしていたが、十時半を過ぎた頃、顔つきの悪い男が二人米村家を訪ねて来た。
 チャイムが鳴って母親の沙希がドアモニターを見ると、三十代と四十代と思われる男が二人、玄関口で立っていた。
「どちらさんですか」
「私は津田と言いますが、沙里さんはおられますか」
 沙希は警戒した。何の前触れもなく、人相の悪い男が、こともあろうに娘の沙里を訪ねてきたのだ。沙希は簡単にドアを開けなかった。
「そこで少しお待ち下さい」
 そう言って沙里を起こした。
「眠いなぁ。ママ、なぁ~に」
「あなた、津田と言う男の人、知ってる」
「いくつくらいの人?」
「人相の悪いオジサン」
「そんな人知らないわよ」

 沙希は玄関に戻って、
「大変申し訳ありませんが、娘は面識がないそうです。帰って下さい」
 とドアフォンごしに突っぱねた。
「困りましたな。私らは厚生労働省から来た者です。お手間は取らせませんから、ちょっとだけ話をさせて下さい」
 厚生労働省と聞いて、沙希は男たちを玄関に入れてしまった。日本の主婦たちは、ちやんとした役所の名前を出されると弱いのだ。だから、今でも後を絶たない振り込め詐欺もやたらと警察や中央省庁の名前を(かた)るのだ。
「沙里ぃ、ちょっと降りていらっしゃい」
 眠そうな目を擦りながら沙里が二階から降りてきた。
「突然に済みません。厚労省からきました津田です。こちらは久多良木です。少し聞きたいことがあってお邪魔しました」
「何でしょう」
 心配だから、母親の沙希も一緒に話を聞いた。
「最近フランスから荷物を預かってきませんでしたか」
 沙里はアベールのことだと直ぐに分かった。だが、
「さぁ? そんなことありません」
 と答えた。
「おかしいですな。フランス人から荷物を預かって、日本に持ち帰ったはずですが」
 津田は沙里と沙希を睨みつけるような顔をした。仕方が無い、
「そう言えば、お友達からお友達にと包みを預かってきました。それのことかなぁ」
「それですよ。その荷物はどうされましたか」
「宅急便でお友達の住所宛て送りました」
「何時のことですか」
「十日ほど前ですが」
「送った住所、分りますか」
 沙里はまだ手元にあったメモを持ってきて見せた。
「これ、お預かりしてもいいですね」
 男の言うことはダメ押しだ。断ったら承知しねぇぞと言う脅しのような顔だ。沙里は、
「どうぞ」
 とメモを男に渡した。
「この及川と言う男は前からのお知り合いですか」
「いいえ」
「会ったことは?」
 これじゃ尋問だ。沙希が口を挟んだ。
「あなた、いいかげんにして下さい」
「奥さん、まだ話が終わっていません」
 男は沙希を睨み付けた。
「もう一度聞きます。会ったことは?」
 沙里に向かって念を押した。
「先日会いました」
「初めてですね」
「はい」
「大体話は終わりました。私どもはこう言う者です」
 そう言って津田は名刺を取り出して沙希に見せた。沙希が名刺に目を通すと、男は名刺を引っ込めた。中央省庁の役人は名刺をやたらと他人に渡さない習慣を沙希は知っていたから、かえってそれで信用させられてしまった。
 名刺には確かに厚生労働省地方厚生局麻薬取締部と印刷されており、肩書きに捜査官津田××と印刷されていた。住所も霞ヶ関の厚生労働省だった。
 沙里は母の沙希の横からちらっと見た。麻薬取締部と言う活字が強烈な印象として目に飛び込んできた。
「まさか」
 と沙里が呟くと男は、
「そのまさかですよ」
 と言って、初めて穏やかな顔になった。

「あなたに荷物を預けたフランス人とは面識がありますね」
「はい」
「男? それとも女?」
「男性です」
「名前は?」
「ジャンとマルセルとアベールです」
「三人ですか」
「また会う予定は?」
「はっきりしてませんが」
「会うかも知れない、ですね」
「はい」
「名刺を見てお分かりの通り、私どもは麻薬密輸の捜査をしています。それで今回のことで証拠が欲しいのですが、ご協力頂けませんか」
「協力と言いますと」
「フランス人にもう一度会って下さい。多分、帰りがけに前回と同じで日本の友人に荷物を持って行ってくれないかと頼まれると思います。前回と同様に余計なことを考えずに素直に受け取って帰国して下さい。その時、帰国便のフライトナンバーと到着予定時刻をこの携帯に必ず連絡して下さい。それ以外は何もなさらなくて結構です」
「それって、(おとり)捜査に協力するってことですか」
「囮ではありません。前回通り普通に会って荷物を受け取って帰って来るだけです」

 沙希が口を挟んだ。
「沙里ちゃん、ゴールデンウィークに出かける予定でしょ? 今回だけって条件で引き受けてさしあげたら」
「はい」
 と沙里は返事した。
「では帰国便と到着時刻を携帯にご連絡をお願いするだけで結構です。必ずご連絡下さい。何もしなければそちらに危害が及ぶことは一切ありません」
 約束を取り付けると男たちは引き揚げて行った。
「ママ、アベールから預かった荷物、もしかして中に麻薬が入っていたのかしら」
 沙里は少し怖くなった。
「まだ何の証拠もないし、及川さん、あなたの話では礼儀正しい感じの良い方だったんじゃないの? もし、普通のお土産だったら変に疑うと失礼になるから、今の所気にしなくてもいいわよ」
 沙希は娘をなだめた。

 スカイプでアベールと話をした時に、
「また是非遊びにお出でよ」
 と誘ってくれていたし、沙里はアベールに会いたかったから、四月二十八日からの予定でまた志穂と一緒にヨーロッパ旅行を計画した。今回はイタリアのフィレンツェに行って見ることにした。志穂はあの優しくて格好の良いマルセルに会えると喜んだ。
 スカイプでアベールと打ち合わせをしてから、二人は予定通り成田からパリを経由してイタリアに飛んで行った。
 パリに着くと格安便に乗り換えて、ミラノに飛んで、ミラノからベネッチアへ、それからフィレンツェに飛んだ。ヨーロッパ域内の格安便はミラノからロンドン間でも五千円位だから高くはない。
 沙里はベネッチアには三回目だ。ベネッチアの半島には空港がないから、近くのマルコポーロ空港まで行って、後は鉄道だ。鉄道は終点のサンタ・ルチア駅だから分り易い。昼間は美術館や街を散策し、夜はゴンドラのワンナイトツアー、翌日はサン・ジョルジオ・マジョーレ島に渡って、二日間を過ごした。 翌日はフィレンツェ、フィレンツェにしたのは、沙里も志穂も皮のジャケが欲しかったからだ。フィレンツェでは良い革製品をわりと安く買えるのだ。沙里は皮製の赤いジャケ、志穂は黒いジャケにした。同じデザインを嫌って、二人別々のデザインのジャケにした。街を歩いていると気に入った靴があったので沙里は靴も買った。
「ちょっと使い過ぎたかな」
 そんなことを言いながら二人楽しく街を歩いた。とは言っても、ベネッチアもフィレンツェも治安が良くない。だから当然のこと、沙里も志穂もスリ、置き引き、レイプなどにやられないように細心の注意を払っていた。全身ピリピリと神経が行き渡っていると、見た目隙がない。だから災難に遭う確率はずっと低くなるのだ。

 フィレンツェで二日過ごした後、ジェノバに飛んで、その日はジェノバに泊まった。翌日、鉄道でモナコ・モンテカルロ駅に行った。イタリアとフランスの国境を越えるのだが、チェックも何もなくて、気が付いたらモナコ・モンテカルロ駅に着いた。この前と同様にアベールに電話をすると、直ぐに迎えに来てくれた。
「泊まらずに、直ぐに帰るの」
「はい。明日ドゴール空港から帰りますので、今夜はパリに泊まりたいんです」
「それは残念だなぁ。じゃ、何か食べよう」
 そう言って海岸の見えるレストランに案内してくれた。連れて行ってくれた所は、モンテカルロ側ではなくて、王宮があり、アベールの家のある側のモナコ市の方だった。急な坂道が多く、歩いてなんて行ける場所じゃなかった。レストランと言っても普通の邸宅の作りで、中に入ると豪華な内装で、簡単なメニューには値段が書いてないし、ギャルソンがやってきて口で説明し、注文を聞くのだ。値段を見て注文するような客はいないと見える。志穂は周囲を見回した。上品な家族と思われる人たちが二組居るっきりで静かなものだ。テラスの向うには初夏の海がキラキラと輝いていた。
「こんな所、あたしみたいな貧乏人が来るとこじゃないなぁ」
 志穂はそんな風に思っていた。今日はマルセルの姿が見えないので、がっかりしたことも加わって志穂はすっかり元気を失くしていた。だが、しばらくするとジャンとマルセルが入ってきた。マルセルは志穂を見つけるとそばに来て、挨拶をする前に抱きしめてくれた。顔が近付いた時、キスされるのではないかと身体が震えた。だが、マルセルはおでこにチュッとしてからニコニコして志穂を席に戻して、自分は隣に腰掛けた。ギャルソンが慌ててやってきて、志穂とマルセルの椅子を内側に入れてくれた。

 帰りがけに、
「またお願いしてもいい?」
 とアベールが沙里に頼んだ。
「はい」
「じゃ、これ、この前の人でなくて別の友達に送って下さい」
 そう言って、この前と同じような大きさの包みと送り先のメモを渡してくれた。沙里は言われた通り包みを受け取って列車に乗り込んだ。この前と全く同じ光景だ。三人の青年がいつまでも手を振って見送ってくれた。
 パリから麻薬捜査官が言っていた携帯の番号に電話した。電話は通じた。
「はい。津田です」
「米村です。JL406便、成田に十四時十五分ランディングの予定です」
「分りました。ありがとう」
 電話は切れた。
 成田に着いた。荷物を受け取るために、出てくるのを待っていると、制服を着た係官が近付いてきた。
「米村沙里さんですね。お友達は猪俣志穂さんですね」
「はい」
 沙里も志穂も同時に返事をした。
「恐れ入りますが、お荷物が出ましたら、一時こちらで預からせて頂きます。出国ゲートは自動の方ですね」
「はい」
「では、お荷物は後ほどゲートを出られた所でお返しします」
 荷物が出てくると、係官は沙里と志穂のバッグを二つともキャリーに載せて運んで行った。麻薬捜査官の津田と連絡を取った後だったので、素直に荷物を引き渡した。
 最近は出国時、自動ゲートの使用を登録しておくと、簡単に無人ゲートを使って入国できる。指紋チェックはあるが、早くて便利なので、沙里も志穂も無人ゲートで入国手続きを済ませていた。

 ゲートの入り口でパスポートを入れると、いつもなら直ぐにゲートが開くのに、今日は開かない。
「おかしいな?」
 すると、女性の係官が二人やってきて、
「こちらに来て下さい」
 と年配の方が沙里の腕を取った。見ると志穂も同じだ。
 係官は別棟の取調室と書かれた部屋に沙里と志穂を連れて行くと、別々の部屋に入れられた。
 年配の方の係官の胸には望月、年の若い方には篠塚と書いてあった。部屋の中はがらんとしていて、事務机が一つ、折り畳み椅子が四脚だけだ。
「服を脱いで下さい」
 沙里は言われるまま、上下を脱いだ。
「下着もですよっ」
 きつい声だ。若い方は黙っている。沙里はブラとショーツだけになった。脱いだ物は机の上に広げられて若い方が調べている。持っていた旅行バックの中のものも全部机の上にぶっちゃけて一つ一つ調べた。
「ブラもショーツも取りなさいっ」
「えぇーっ? 裸になるんですかぁ?」
「当たり前でしょ。何をしたのか分っているくせに」
 一体これはどういうことか。だが、沙里は言われるままにブラもショーツも外し、脱いだ。もう恥ずかしくて恥ずかしくて、沙里は乳房と下の方を手で覆った。年配の望月は、「椅子に座って、股を開いて」
 と言うではないか! 沙里は怖くなって言われるままに椅子に座って股を開いた。すると、係官は容赦なく指で女の部分の(ひだ)を広げて覗いた。沙里はこんな辱めを受けたのは生まれて初めてだ。もう恥ずかしくて全身が震えた。
 検査が済むと、望月と篠塚は目を合わせて無いと言う合図をした。
「服を着て下さい」
 沙里は急いで服を着た。
「ラッゲージ、旅行カバンはどうしたの」
「荷物受け取り場所で制服を着た係りの方が来て、一時お預かりして入国ゲートを出た所でお返しすると言われましたから渡しました」
「デタラメ言ってもダメですよ。そんな係りはいません」
「えぇーっ? 確かにいました。友達の志穂も一緒でしたから知っています」
 丁度その時、志穂を取り調べている女性がドアから顔を覗かせて何やらひそひそと話していた。話しが終わると望月は、
「荷物、盗られたのね」
 とそう言った。
「今日の所はこれで帰しますが、何かあればまた呼びますから協力して下さい。ご苦労様」
 と言った。何がご苦労様だ。沙里はむかむかした。なんでこんな目にあわなきゃいけないの?

 パスポートを沙里に返し、望月と篠塚が部屋を出ようとした時、
「あのう、厚生労働省 地方厚生局 麻薬取締部の津田さんと言う捜査官に頼まれたんですが」
 と沙里が話した。
「えっ? 津田?」
「はい。あたし、家に来られた時名刺を見ました。捜査に協力してくれと言われました」
 望月はちょっと思い出す風であったが、
「このままお待ちなさい」
 と言って篠塚を置いて部屋を出て行った。
「問い合わせをしましたら、津田と言う麻薬捜査官は麻薬取締部には居ないそうです。あなた騙されたみたいですね。この件は警察に伝えますから、多分後日警察から呼び出しがあると思いますので協力なさって下さい。分ったわね」
 沙里は狐に摘ままれたように何が何だか分らなくなった。そこに泣き顔の志穂が来た。
「沙里ぃ、あたしもうダメだよぉ。怖くて、怖くて」
 結局盗られたバッグは戻らなかった。

百九 忍び寄る悪逆の罠

 沙希はしばらくぶりに、六本木のクラブ、ラ・フォセット社長柳川哲平に電話で娘の沙里が被った事件について報告した。
「沙希ちゃんが電話をして来る時は、必ず何かあった時だな」
「だって、こんな時、お義父さまは頼りになりますから」
「おいおいっ、たまには嬉しいことなんかがあった時にも連絡をくれよ」
「あら、先月、沙里ちゃんが大学に入学しましたってご報告に伺いませんでした?」
「ああ、来たよ。すっかりおねぇさんになって綺麗になったな。オレの孫かと思うと涙が出たぜ」
 と柳川は笑った。

「話は分ったよ。知り合いの警察関係者に急いで知らせなきゃならんな。どうやら(ぶつ)を横取りされたらしいから、本来受け取るべきだった者が沙里に接近してくる惧れもあるから、しばらく気を付けていてくれ」
「分りました。美登里さんとも話をしておきますわ」
「そうだな。章吾の娘の志穂も危険だな」
 電話をした翌日、柳川から沙希、美登里、沙里、志穂の四人で桜田門の前の警視庁本部を訪ねてくるように指示があった。
「急がなければならん。今日の午後三時でどうだ」
「はい。美登里さんにも連絡して必ず行きます」
 話を聞いた沙里も志穂も脚が竦んだ。成田の出入国管理官、正式には東京入国管理局成田空港支局の管理官だが、さんざん辱めを受けて、まだ立ち直れていなかったのだ。だから警察と聞いただけでしりごみしてしまった。沙希も美登里も娘達の気持ちが良く分っていた。だが、放って置くわけには行かない。嫌がる娘を連れて霞ヶ関まで行った。柳川は待ち合わせ場所に既に来て待っていてくれた。

 皆が揃った所で庁舎に入り、受付を済ますとエレベーターで上の階に上がった。警視庁本庁舎は最高裁の庁舎を設計した岡田新一設計事務所の作品で、地下四階、地上十八階の大きなビルだ。
 エレベーターを降りると、受付から連絡が行ったのか、柳川の知り合いの男が出迎えてくれた。会議室に案内されて、女性の職員がお茶を出してくれた所で男は自己紹介をした。
「私は組織犯罪対策部におります峰と申します。こちらは厚生労働省の麻薬取締部におられます堤さんです。この方は本物ですからご安心下さい」
 と笑いながら隣の男を紹介した。
「では、早速お話しを始めましょう。先ず、昨日柳川社長から教えて頂いたフランス人の友人と言う小山と言う男の住所ですが、ウィークリーマンションでした。この男は既に逮捕して取調べ中です。今までに分ったことは、本名が樋口功三十二歳で、お嬢様が先日六本木で食事をご馳走になった及川と同一人物でした。直ぐにご連絡を頂いたので上手く逮捕できて、大変助かりました。樋口は下っ端の売人で、我々は樋口の背後に大きな組織があると睨んでおります。我々が持っている情報では、最近ごく普通の女子大生や若いOLさんに美術館などで巧みに接近して友達関係になり、彼女達に日本のお友達に宅急便で届けてくれと小さな荷物を渡して麻薬、主にヘロインですが、成田の税関をノーチェックで素通りさせる手口が増えているんですよ。ヘロインなどは通常麻薬探知犬を使って調べると見付かることが多いのですが、彼らはそれを知っていて、薬物から出る臭いが麻薬探知犬では嗅ぎ分けられないレベルまで密封した容器を使い、臭いを完全に消し去って日本に持ち込ませるわけです」
 ここで峰は言葉を切った。
「我々麻薬捜査官は女子大生や若いOLさんの旅行バッグの中までいちいち細かく調べる人員が揃っていません。ですから、正式なパスポートをお持ちで身分の確かな真面目で普通に暮らしておられる方々はチェックが甘くなると申しますか、殆どノーチェックで入国させております。彼らはこの盲点を逆手に取って、今回のような悪事を繰り返しているのです」
 と堤が補足した。

「実は、教えて頂いたフランス人のアベール、マルセル、ジャンの三人ですが、フランスの当局に照会しました所、あの三人はモナコ公国の王族でして貴族なんです。ご存知の通り、現在はアルベールⅡ世が元首、つまり王様で、モナコ市の王宮に住んでいます。モナコ公国はフランスとは独立した警察権を持っておりまして、フランスの警察当局も手を出し難いそうで、日本の受け入れ先をつき止める方が効果的だそうなんです」
 話を聞いている内に沙里も志穂も恐ろしくなってきた。それに、三人のフランスの青年は貴公子みたいだと感じて居たのが本当だったと聞かされて驚いた。あの豪勢な邸宅の御曹司だったわけだ。

 麻薬取締部の堤はさらに続けた。
「先日そちらに名刺を持ってお邪魔した麻薬取締部の者は明らかに偽物です。彼らも恐らく大きな組織で動いているものと思われます。ご存知の通り、空港で働く人々には色々な者がおりまして、正規の職員の他、派遣労働者、アルバイト、関連会社からの出向者などまちまちです。お嬢様のバッグを横取りした係官は多分内部者の仕業だと思われます。内部者が悪事の手引きをしたり内通するのが一番始末が悪いわけでして、当局でもしばしば点検をして警戒を強めていますが、なかなか不法な行為を根絶できないのです。お嬢様がたが出入国管理官に悪人同様のひどい扱いをされたそうですが、調べた所、物の横取りを仕組んだ不法組織との内通者が情報をわざとリークしたようです。なにしろ、到着便と到着時刻、それにお嬢様たちのお名前までリークされていましたので、係官はてっきり薬物の運び屋だと判断して犯罪者扱いをしてしまったようです。誠に申し訳ない出来事でした。人は切羽詰った時、普通では考えられない行動をします。薬物の袋を隠すつもりで咄嗟に飲み込んで、胃袋の中に薬物を入れたビニールの袋が一杯詰まっていたり、女性の場合は、言い難いのですが、下の方に入れてしまって、裸にしても分らないことがままあるのです。ですから、係官はそんな所も調べるのです。恥ずかしかったでしょ? ごめんね」
 そう言って堤は沙里と志穂に向かって頭を下げた。

「ご存知かどうか、数年前からギリシャの財政が悪化しまして、それに伴ってギリシャ国内の治安も最悪な状態です。そのため、最近我々はギリシャルートと呼んでますが、南西アジアで作られるヘロインがバルカンルートを通ってスロベニア、ブルガリア、ギリシャを経由してイタリア、フランスなどに持ち込まれるわけです。陸上で密輸されることもありますが、地中海上で受け渡しされる量が増えております。関わられたフランス人は贅沢なクルーザーをお持ちだそうですが、彼等にしてみれば都合の良い麻薬の輸送手段でもあるわけです。現在地中海海上で受け渡しされている相場は1kg二百七十万円程度で、これを日本の国内に持ち込むと末端価格で約三倍の一千万円位になります。ですから、先日お嬢様が騙されて運んだ量、約3kgは日本では三千万円位になりますから、高級レストランで少し美味しいものをご馳走しても何てことはないのです」
 沙希と美登里、それに沙里と志穂は話を聞いて大体のことは理解した。

「所で、先日そちらに行った津田と名乗る偽者の指紋を取りたいのですが、彼らが何か触った所が分ると助かるのですが。名刺を受け取っていればそれが証拠に使えたんですが、惜しいことをしました。私共麻薬取締部の者は捜査令状も持たずに一般のご家庭で情報を取るようなことは一切ありません。今後同様なことがあって令状も無しに家に入ったら必ず警察にご連絡下さい」
 と堤が言うと、
「警視庁も同じですよ。警察手帳らしき物をちらっと見せられても信用してはいけません」
 と峰が付け加えた。
「さて、お嬢様たちのことですが、荷物を横取りした係官の顔を知っておられるとか、色々不正な情報に関わってしまいました。今後奴等はお嬢様たちの口封じを企むかもしれませんね。私共はそれを少し心配しています。そこでお願いですが、少しでも不審なこと、例えば見知らぬ者に尾行されているとか、そう言った心配が出た時はなるべく早めにこの柳川さんにご相談して下さい」
 と峰が締めくくった。

 最後の峰さんとか言う男の話を聞き終わると、沙里も志穂も背中に冷たい物が流れ落ちたようにゾクゾクして怖くなった。

百十 怯える女子大生

 志穂が通っている所は大妻女子大学の文学部、電車はJR総武線、市ヶ谷駅から十二、三分歩いている。
 一方沙里は東京女子大学現代教養学部国際社会学科、JR中央線西荻窪で降りて二十分~二十五分歩いている。
 二人は先日警察でしばらくの間、不審者の接近や尾行者に注意した方が良いと言われた。
「ママ、警察であんなこと言われたって、あたしたちどうしていいか分からないよ」
「そうねぇ、困ったわね」
 沙希は沙里にそんな風に言われても具体的にどうすればいいのか分らなかった。時を同じくして美登里も志穂に、
「ママ、沙里ちゃんもどうしていいのか困ってるよ」
 と言われ、
「難しいことになったわね」
 と心配していた。
 美登里は沙希と相談した。その結果、しばらく親も一緒に送り迎えをすることになった。時間はいいとしても、交通費はかかる。だが娘達を守ってやるためには仕方が無い。そこで沙希と沙里は当分の間美登里の所に置いてもらい、美登里の家から四人で新宿まで出て、その後は方向が違うので別れて二人づつ学校に向かうことにした。帰りは新宿まで戻る友達に一緒に付き合ってもらうようにしたのだ。友達の都合が悪い時は親が迎えに出るしか方法がない。目に見えない相手に、沙里も志穂もすっかり怯えていた。

 及川に麻薬の取引をさせていた上部の組織は、ここのとこ上りが止まったので早速調べ始めた。沙里からヘロインを横取りした組織は、その後同じ手口で他の女子大生や若いOLがフランスから預かって持ち帰るものを何度も横取りした。そのために、及川と同じ立場で(ぶつ)を宅急便で受け取る役目をしていた及川以外の人間からも上りが止まっていたのだ。
 別の組織の手口は、予めヘロインを宅急便で受け取る男を調べ上げて、彼らの行動を根気良く見張っていた。動きがあれば尾行して、女子大生や若いOLと会ったら、そこから女子大生やOLを尾行して住所を突き止めて、麻薬捜査官に成りすまして訪問し、囮捜査に協力してもらう手口を使った。旅費がない場合は捜査のための経費だと称して必要な渡航費用を渡すのだ。こうして、成田に到着する便と時刻を連絡させて、荷物を横取りするのだ。

 及川の上部組織は上りが止まった者の様子を調べた。及川が逮捕されたことを知らずに、行方不明として追跡を始めた。他の者は締め上げた結果、宅急便が届かないことが分って、騙されて運び屋をやらされている女子大生やOLに接触させて状況を確認させた。所がだ、彼女たちは異口同音に宅急便を受け取る人に会った後、厚労省の麻薬捜査官が訪ねてきたと言った。それで、明らかに情報が取締り当局に漏れていると勘違いしてしまった。彼らの損失はここのとこ末端価格にして累計で五億円にも登っていたのだ。
 沙里と志穂から事情を聞いた厚生労働省麻薬取締部の堤は直ちに東京入国管理局成田空港支局に通報、内通者の洗い出しを始めた。その結果、保税区域に出入りの許可を得ている廃棄物引取り業者(ゴミ処理屋)の派遣社員がロッカーに入国管理局係官の制服を隠し持っていることをつきとめて、締め上げた所、横領したバッグは廃棄物と一緒に空港外に持ち出したことを認めた。だが、その先横領したヘロインがどうなったかは本人は全く知らなかったのだ。その男はバッグの中に何が入っていたのかさえ知らずに、言われた通りの不法な仕事をしていた。仕事の指示はいつも携帯からだったが、携帯は盗品で、更にその都度廃棄されていて、携帯を盗まれた本人も全く関わっておらず、霧の中であった。

 そこで、入国管理局は保税区域に出入りする人間の監視を強めた結果同様の事件は再発を防止できた。
 沙里と志穂が運び屋だとガセ情報を流した者は別に居た。逮捕した情報を流した内通者も携帯の指示に従っただけで、携帯はやはり盗品でその先の経路は霧の中だった。

 及川を追う上部組織の男たちは沙里と志穂の情報をモナコのアベールから得て、早速行動に出た。調べた所、二人の女子大生は親が登下校相当に神経を使っていることが分って、彼らも慎重になった。もしかして、治安当局とつながっているかも知れないと考えられたからだ。彼らが一番恐れるのは実は警察ではない。警察では確たる証拠がなければ容易には起訴できないからだ。だが、彼らが一番恐れているのは税務署だった。多額の脱税を追徴されたらたまらない。彼等にとって最も恐れるのは治安当局と税務署の連携捜査だった。だから、女子大生たちの通学が相当に注意深くなっているのを知って、行動には相当慎重になったのだ。
「及川が万一逮捕されていたら、我々の拠点を移さなきゃならんな」
 と幹部は対策を取り始めていた。

百十一 それは駅のホームで起こった

 警察に注意するように言われて、沙希と美登里が娘達の大学への通学の送り迎えを始めてからもうかれこれ一ヶ月も経っていた。だが、その間何事も無く過ぎ去り、沙希も美登里ももうそろそろ大丈夫だろうと考え始めていた。
 だから、その日も多分無事だろうと思って、いつも新宿駅で落ち合ってから真直ぐに美登里の家に四人揃って帰っていたのだが、その日は新宿で落ち合ってから、西新宿のオフィース街に出て、四人で何か美味しいものでも食べて帰る約束をしていた。
 大学からの帰り道、沙希と娘の沙里はいつものように連れ立ってJR西荻窪の駅に急いでいた。
「沙里ちゃんは今夜、四人揃ったら何を食べに行きたい」
「そうねぇ、あたし焼肉が食べたいな」
「あらっ、お母さんは苦手だなぁ。最近お腹に少しお肉が付いてきたみたいだから、食べたいけどちょっと怖いな」
 母子はそんなたわいのないことをおしゃべりしながら歩いていると、駅はもう直ぐ目の前になった。
 夕方なので、西荻窪の駅は人々で混雑していた。いつものことなので、最近は沙希もそんな光景に慣れた。
 ホームに東京駅往きの電車が滑り込んできた。その日も電車は登りなのに結構込んでいたが、降りる客が少なく、ドアーが開くと自分の身体を押し込むように沙希と沙里は電車に乗った。ドアーが閉まる寸前に、
「すみません」
 と言って沙里と同年代の若い感じの良い青年と、青年の彼女らしき女性が乗り込んできた。沙希と沙里が少し間を空けてあげると女性は、
「恐れ入ります」
 と少し目を伏して挨拶した。
 電車は荻窪→阿佐ヶ谷→高円寺→中野→東中野→大久保といつもの通り走り、大久保を出ると[次は新宿、次は新宿]と車内アナウンスがあった。西荻窪から乗った若いカップルも新宿まで行くらしく、沙希の隣に立っていた。大久保を過ぎてアナウンスが終わったあたりで、急にカップルの女の子の方が顔をしかめて苦しそうな表情をした。
「どうかなさいまして?」
 と沙希が声を掛けると、
「すみません、大丈夫です」
 と女の子は答えた。すると男の方が、
「ありがとうございます。次の新宿で降りますから」
 とフォローした。
「そう、お気を付けてね」
 と沙希は心配顔で二人を見た。

 新宿駅のホームに電車が滑り込んで停まると、開いたドアーから大勢の人がぞくぞくと降り始めた。いつもそうだ。乗客は新宿駅で半分くらい降りてしまうのだ。沙希と沙里が降りる時に、先ほどのカップルも沙希の前をホームに向かって降りた。
 その時、急に女の子が沙希の前で屈み込んで、
「痛ぁ~いっ!」
 と悲鳴を上げた。後から降りてくる人たちはどんどん通り過ぎて行くのだが、沙希は心配になり、
「あなた大丈夫?」
と女の子と一緒にその場にしゃがみこんだ。
「済みません、駅員を呼んできますので、彼女をお願いできますか?」
 と青年の方が沙希に頼んだ。
「どうぞ、急いで」
 と沙希は返事をした。
「あなた、もしかしてお腹に赤ちゃんが居るの」
 女の子は頷いた。
「あらぁ、それは大変ね」
 こんな時沙希の母性本能が出た。沙希は女の子を労わるようにしてその場に居た。いつの間にか周囲を野次馬が取り囲み、沙里も心配そうに母親と女の子を見ていた。

 すると、野次馬の中から、すーっと沙里に近付く若い男が居た。背が高く、真面目そうなサラリーマンのような奴だ。キチットしたダークスーツを着てネクタイもきっちりしていた。
「突然で済みませんが、あなた、米村沙里さんですよね」
 沙里は横から静かに声をかけられて、その男を見た。男は落ち着いた素振りで沙里を見下ろすと、
「猪俣志穂さんをご存知ですよね」
「はい」
「志穂さんに待ち合わせ場所に沙里さんをお連れして欲しいと頼まれたのですが、ご一緒に来て頂けますか?」
 言葉は丁寧だ。それで、
「失礼ですが、志穂のお知り合いの方ですか?」
 と沙里は尋ねた。
「はい、そうです」
 男はそう返事をした。
「済みません、母が一緒でないと」
「大丈夫ですよ。後で携帯にご連絡を入れて下さい」
 それを信じて沙里は男の後を追った。男はホームの階段を降りると西口の方に向かって歩いた。
「直ぐそこですから」
 男は沙里の方に振り向いて行く方向を手で指した。新宿西口交番の前を通り過ぎると、男はタクシーや乗用車が入ってくる道路の側まで歩いた。
 そこに、白い色のBMWが滑り込んできた。男は沙里の腕を掴むと、沙里が何か言おうとした時には後部座席に押し込まれて居た。後部座席にはもう一人男が乗っていた。沙里が押し込まれると直ぐに沙里を押さえ込んだ。沙里を連れてきた男はポケットから注射器を取り出すと、沙里の静脈に注射した。麻酔薬のミダゾラムを使ったようだ。
 沙里は急速に意識が遠のいた。
 白い色のBMWは沙里を拉致して後、首都高4号線から中央高速道に向かって走り去った。

 若い男が駅員を伴って女の子の所に戻った。女の子は痛そうに下腹部を押さえながら彼氏と駅員に支えられながら駅の事務室に向かって行った。
 沙希は我に返って、そばに居るはずの沙里を目で探した。野次馬が散ってしまった後、沙希独り、その場に取り残された。沙希は直ぐに携帯で美登里に連絡を取った。
「あら、遅いわね。待ち合わせ場所の京王百貨店の入り口でさっきから待ってるわよ」
「沙里はそこに居ませんか」
 沙希の声は上ずっていた。
「あれっ? ご一緒じゃなかったの」
 沙希は全身から冷や汗が流れ落ちた。

 駅員と一緒に事務室に行ったカップルの女の子は事務室に入ると、
「済みません。大分良くなりましたので、帰ります」
 と言った。駅員は心配顔で、
「お大事にして下さい」
 とカップルを帰した。駅員は厄介なことから解放されてほっとした様子だ。
 事務室を出てから、カップルは東口の方の改札口を出た。
「タマ、お前演技が上手いなぁ。女優になれるんじゃないのかぁ」
「お世辞もそれくらいにしてよ。あたし頑張ったんだからぁ」
「そうだ、兄貴にうまくオバサンと女の子を引き離したって連絡を入れとかなきゃ」
 そう言って若い男は携帯で連絡を入れた。「一仕事終わったから。これからセックスでもしないか」
「ツヨシは直ぐそれだからぁ。あたし、草食系の彼にすれば良かったな」
 そう言いつつ、二人はスタジオアルタの脇の道を歌舞伎町の方に向かった。
 災難は、忘れた頃にやってくるのだ。

百十二 沙里の行方

 沙希は沙里が行方不明になったことを直ぐに六本木のクラブ、ラ・フォセット社長柳川哲平に電話で知らせた。
「オレの感だが、沙里ちゃんは間違いなく誘拐されたな。直ぐに警察に連絡するから返事を待っていてくれ」
「お義父さん、すみません。よろしお願いします」
 電話をしながら、沙希は美登里の居る京王百貨店出入り口の待ち合わせ場所に向かった。
「そこからだと、新宿駅西口交番が近いだろ? 直ぐに交番に行ってくれ。先方には連絡してある」
 電話は柳川からだった。どうやら警察は事件が起きるのを待っていたふしがある。そうでもないと、人員を増やして捜査を立ち上げるのは難しいのだ。

 沙希と美登里、それに志穂は三人揃って交番に急いだ。交番では既に本部から連絡が入っていて。いちいち細かい説明をする手間が省けた。
 応対した警官は、
「もう直ぐに、本部から捜査員が来ます。お嬢様は今どちらにおられるか見当と言うか心当たりはありますか」
「いいえ」
 沙希がそう答えた時、
「沙希さん、携帯の[いつでも位置確認]で分らない?」
 と美登里が聞いた。沙希は気が動転して、携帯のGPSをすっかり忘れていた。
「そうだ。あたし、どうしちゃったんだろ」
 沙希は警官に向かって、
「直ぐ調べます」
 と答えて携帯を操作した。

 沙里が持っているGPS機能付き携帯には携帯で相手の位置を確認する機能が付属しているのだ。ドコモなどの子供用のGPS位置検知システムは検知できるエリアが狭く役に立たない。だが、この携帯の機能は携帯メールが送受信できる範囲、つまり電波が届く範囲ならどこでも相手側の位置を確認できる。位置情報を知る方法は二つある。一つはこちらから[いまどこにいるの?]とか適当なメールを送信して、相手が受信に気付いて返信すると、返信メールにGPSの位置情報がメールに自動的に書き込まれて送られてくるので、返信を受信すれば、相手が送信した時の位置が分る。だが、誘拐された時は大抵の場合、相手は何もできない。そんな時のために、もう一つの機能として、こちらからメールを送ると、相手の携帯から位置情報を含む返信メールが自動的に送信されるのだ。更に、予め設定しておけば、相手の携帯に着信表示されたり音がでたりせずに密かに相手の位置を確認できる機能が用意されている。有料だが、沙希は新たに携帯四台を契約して自分と美登里と娘達二人に持たせてあった。アップルのiPhoneならiPhoneを探す機能を使えば簡単だが、彼女たちは従来型の携帯を使っていた。

「あっ、分りました。今このあたりです」
 と携帯に出たマップを警官に見せた。
「やばいなぁ、これだと、中央高速の大月ジャンクションを過ぎた所だな」
 そこに本部から捜査員が三名やってきた。警官が報告すると、直ぐに中央高速道の甲府まで、特別警戒の指示を出した。捜査員が、
「もう一度位置を確認して頂けますか」
 と沙希に催促した。
 沙希が調べてマップを見せると、
「おっと、奴等はもう勝沼インターまで進んだぞ。今移動中だ。奥さん、車の種類とかは何も分りませんよね」
「はい。私が気付いた時は既に拉致された後でしたから」
 車種などが分らないとハイウェイパトロールで追跡のしようがないのだ。

 山梨県警では警視庁からの通報で、直ちに中央高速周辺の検問のために警官を送る手配をした。だが、須玉インターを出て国道141号線に少し入った時点で位置は動かなくなった。情報は直ちに山梨県警に送られて、パトカーが急行、連絡のあった位置周辺を捜索した結果、携帯を入れた沙里の通学用のトートバッグが道端に投げ捨ててあった。
 沙里を拉致して逃走する白いBMWは警察無線を傍受していた。
「おいっ、なんでオレたちの居場所が筒抜けなんだ?」
 運転している男が後を振り返った。聞かれた男は沙里のバックの中を調べた。教科書、化粧用ポーチ、財布、携帯などが入っていたが別にそれ以外の変な装置はなかった。だが、須玉インターを降りて141号線に入った時、その位置が正確に警察無線で流れていた。
「おいっ、もしかして携帯じゃねぇのか?」
 言われた男は窓を開けて、沙里のバッグを放り投げた。その後は警察は捨てた場所を探せと指示をしていたから、
「やっぱ携帯だぜ。気付いて助かったな」
 と追尾を振り切ったことを確かめた。

 国道141号線は甲州街道から八ヶ岳山麓に向かって標高の高い高原を走る鉄道で知られている小海線の線路沿いに走る道路だ。清里高原や電波望遠鏡で知られている野辺山高原を通って長野県の佐久市に抜ける。

百十三 三途の川

 三途(さんず)の川とは仏教で地獄の入り口のことを指すようだ。川を渡ると地獄に堕ちて行くのだ。巧妙な手口で拉致、誘拐された沙里は今三途の川にさしかかっていた。
 中央高速道路須玉インターを降りて国道141号線に入った沙里を拉致して逃走する車は、高速道路に設置されているテレビカメラや非公開のナンバー読み取り装置の情報を分析した結果、品川ナンバーのシルバーメタリック色BMW750i、V型8気筒DOHC約4400cc、400馬力の4ドアセダンだと判明して、山梨県警で141号線沿いに聞き込みを開始した。使用されている車両は直ぐに持ち主が判明したが、残念なことに盗まれて警察に被害届けが出ていた。
「くそったれが」
 盗難車の可能性は分ってはいたが、事実を知って捜査担当者は思わず悪態をついた。

 道路脇に投げ捨てられていたトートバッグは東京に照会した所、沙里の持ち物だと確認されたから、警察では、恐らく長野県の佐久方面を目指して逃走中と推測していた。警戒に手間取り、取り逃がした責任を感じて、県警では捜査員を増員して捜査に当たっていた。
 警視庁では、拉致、誘拐はメディアに説明し易い事件ではあるが、本当の目的は麻薬に関する二つの国際シンジケートを一気に壊滅させることであった。だから、シンジケートを追い詰める糸口として。何としても逃走中の組織員を逮捕したかったのだ。
 目撃情報の収集は清里から小海町まで範囲を広げ、更に141号線の長沢、清里、野辺山に検問ポイントを設けて通行する車両をくまなく当たったが、目的の車両は網にかからなかった。
「おかしいな。車が相当スピードを上げて逃げても絶対に検問は間に合ったはずだが」
 捜査員は全員首をかしげた。どうやら佐久方面に向かって逃走中と言う情報がまずかった可能性があった。

 沙里を拉致したBMWは、捜査の網を長沢のずっと手前の箕輪交差点で潜り抜けていた。検問所を設置した頃、BMWはこの交差点を左折して県道長坂高根線に入って、五町田交差点を右折して、八ヶ岳山麓の大泉高原を目指して疾走していた。
 大泉高原は、東京方面から近く、景色が良い所なので、近年別荘地として開けてきた所だが、景気の低迷が長引いて、空き家になっている別荘が増えていた。沙里を拉致した奴等はその別荘地の中のアジトを目指していた。
 別荘に着くと、車は直ぐシャッター付きのガレージに格納された。麻酔薬で眠っている沙里を男二人が抱え込むと、別荘の中に消えた。あたりは林になっていて、休日以外の普段は殆ど人が通らない淋しい所だった。

「今日の夕方、会長が来るそうだ。それまではここで大人しくしてろ」
 リーダー格の運転をしてきた男が若い奴に指示した。
「警察無線じゃ、あちこちに検問所を設けてまだ頑張ってるらしいが、ここでじっとしていれば奴等が見つけることは不可能だな。おいっ、車のナンバープレート、念のため別の奴に取り替えておけ。警察じゃ持ち主を割り出したらしい」
 若い奴がガレージから戻り、
「付け替えた」
 と報告した。新しいプレートは長野ナンバーだった。

百十四 麻酔が切れた後

 アジトにしている別荘に落ち着いたリーダー格の男はいつも世話になっている別荘地に近い高根町東井出に住む老夫婦に電話を入れた。
「また別荘に来ている。頼みたいことがあるんで、直ぐ来てくれんか?」
 老夫婦は常々高額の管理料をもらっているので直ぐにやってきた。
「しばらく俺たち屋根裏部屋に居るからさぁ、サツが訪ねて来たらさ、いつものように適当にあしらってくれよ。来たって知らせるスイッチを押すのを忘れるなよ」
 老夫婦はしたり顔で了解した。

 山梨県警はその後の聞き込み情報によって、犯人が大泉高原の別荘地帯に潜伏している模様だと推定、別荘をくまなく探し始めた。一軒、一軒空き家も含めて虱潰しに調べた。
 当然のことに組織のアジトにも捜索の手が入った。
「こんにちは。警察の者ですが」
 老夫婦は合図のスイッチを押した後、玄関を開けて応対した。
「最近何か変ったことはありませんか? こちらはご自分のお住まいですか?」
 豪華な別荘なので警官は多分管理を任されている者だと最初から決め付けていた。
「はい。わしらはずっとここを管理しとります」
「持ち主は来られますか?」
「年に一度か二度ご家族で泊まりにお出でになります」
「そうですか、ちょっと上がらせてもらってもいいですか?」
「どうぞどうぞ」
 警官は家に上がって各部屋を覗いて異常がないか確かめた。
「部屋はこれだけですか」
「はい。見られた所で全部です」
 若い警官が二人組みだった。もう一人の警官は外回りを一通り点検して回った。だが、錆びたシャッターがきっちり閉まったガレージの中までは見なかった。警官は持っていたリストに異常なしと記録して立ち去って行った。老夫婦はもう一度合図のスイッチを押した。一度押すと屋根裏部屋で赤いランプが点灯し、再び押すと消えるのだ。ランプが消えたらOKの合図になっていた。

 麻薬密売組織の会長の行動は慎重だった。その日の午後三時過ぎに、長野電気工事と書かれた2トントラックが別荘にやってきた。工事人が二人ドアを開けて出て来た。
「こんにちは。長野電気工事です」
 大きな声でそう言って門の呼び出しボタンを押した。老人が一人、せかせかと出て来た。工事人の顔を見て驚いた様子だが、直ぐに普通に戻って応対した。
「どうぞ」
「今日、ここに来る途中警官に何人も出会ってその都度職務質問だ。手間がかかって参ったね。ここにも来たんだろ」
「はい。ついさっき二人組で来まして、家の中やら外やら全部調べて帰りました」
「何か聞かれたか?」
「いえ、別に。異常なしとか言ってました」
「そうかい。いつも済まんね」
 工事人は家電製品の修理に来た様子で大きな工具箱と脚立をトラックから下ろし、脚立を担いで家の中に入った。
「会長、お待ちしてました」
「どうだ、連れてきた女の子は目を覚ましたか」
「いえ、それがまだずっと眠ったきりです」
「お前、またミダゾラムの量を間違えたんじゃねぇのか」
 と沙里に麻酔薬を注射した男を見て会長が聞いた。
「いつもの量なんですがねぇ。おかしいなぁ。そろそろ覚めてもいい時間なんですが」
 結局沙里が目を覚ましたのは明け方だった。

「お嬢さんよぉ、やっと目が覚めたかい」
 沙里は目が覚めると五人もの見知らぬ男たちに囲まれていて一瞬身が竦んだ。良く見ると、男の中に、新宿駅のホームで自分を案内して騙した奴もいた。沙里はお腹が空いていた。
「お水を一杯下さい」
 喉がからからだ。

 若い男がコップに水を汲んで持ってきた。沙里が飲み終わったのを確かめて、
「わしらはな、あんたに聞きたいことがあるのよ。ちょい手荒なマネをして連れて来たが、知っていることを全部話してくれたら生かして親の所に帰してやるよ。けどよぉ、ウソついたり隠したりしたら死んでもらうよ」
 言葉は穏やかな言い方であったが、有無を言わせぬ強烈な雰囲気を漂わせていた。[どうしてこんな目にあったんだろう]と言うことは沙里はちやんと警察に教えられて知っていた。だから慌てずに男の顔を見て話を聞いていた。

百十五 言葉の意味?

「本当に知っていることを全てお話したら、生きて親の所に帰してもらえるのですか」
 会長と呼ばれる男に沙里は聞いた。
「そうよ。殺さないで帰してやるよ。だがよぉ、わしの質問にちゃんと答えろよ」
「はい」
 質問が始まった。
「最初に聞くが、フランス人のアルベールから預かった荷物は一回目はちゃんと及川に送っただろ」
「はい。受け取ったって言ってました」
「なんで二回目はちゃんと送らなかったんだ」
「空港で荷物を渡しました」
「誰に?」
「成田空港で名札を付けた出入国管理官が一時預かると言ってバッグを持って行きました」
「拒否すりゃいいじゃないか」
「拒否出きるのですか?」
「やってみなきゃ分からないだろ」
「それはそうですが、あたしには出来ませんでした」
「中にアベールから預かった荷物が入っていたんだろ」
「はい。あたしのバッグに二個、友達のバッグに一個入ってました」
「友達もバッグを持ってかれたんだな」
「はい」
「大事な物だとは思わなかったのか」
「お菓子かジャムのお土産だと思ってました」
 会長と呼ばれる男は今回の事件のからくりを知っていたから、それ以上沙里には聞かなかった。

「空港で身体検査されなかったか」
「されました」
「どんな風に?」
「ひどいことをされました。言葉では言えません」
「じゃ、わしが代わりに言ってやろう。裸にされてあんたの性器を覗いただろ?」
「はい」
 沙里は恥ずかしくて顔を真っ赤にした。
「なんでそんなことされたのか知ってるのか」
「その時は知りませんでした。後で麻薬を所持していないかの検査だと分りました」
「最近、お袋さんに付き添ってもらって通学してただろ?」
「はい」
「なんでそんなことをしていたんだ」
「あなた方が今あたしにしているように悪いことをされるかも知れないから注意をするように警察の方に言われました」
「わしらがあんたに悪いことをしてるねぇ。あはは、まっ、いいか。警察がそこまで言うなら、警察の奴等に色々話したんだろ?」
「はい。話しました。何も悪いことをしていないのに裸にされたり辱めを受けましたから」
「それだけの理由か?」
「はい。母は人権侵害で告訴できると言ってました」
「告訴ねぇ」
「おかしいですか?」
「いや、推測だけでそこまでやった奴は許せねぇな」
「警察が注意しろって言ったとこが解せねぇなぁ。警察はなんと言ったんだ?」
「はい。知らないうちに麻薬の運び屋をやらされたのだろうと言ってました」
「警察は他に何か言ってなかったか」
 会長が知りたい部分だと沙里は察した。
「それ以上は何も言ってませんでした。何かあれば直ぐに連絡をするように言われていました」
 会長はこれ以上この女に聞いても大した情報はないなと言うような顔をしていた。

「わしはこれで帰る。後はあんたらに任せる。殺すなよ。殺すと死体の始末が面倒だし、奴等に手がかりを教えてやるようなもんだ。この女の頭から余計な情報を全部消したら解放してやれ」
「会長、分っかりました」
 会長と呼ばれる男は、連れてきたもう一人の男を連れて、来た時と同じ工事人の格好で2トントラックに乗って出て行った。途中三軒ほど電気関係で不具合な所がないか御用聞きをやってから、長野の佐久方面に帰って行った。途中あちこちで警察の検問はあったが、御用聞きをして回った先に問い合わせれば分ると説明し、全ての検問を無事に通過した。

「兄貴、その格好じゃどっから見ても女ですよ」
 沙里を最初に拉致した若い男がリーダー格の男を見て笑った。リーダー格の男は黒いトレンカの上にジーンズのミニスカートを履いて、ややヒールの高い黒いパンプス、トップはちゃんとブラでオッパイを盛り上げて、チュニック丈の花柄、ネックと腕と裾回りにレースをあしらったワンピをブラウスの上に重ね着、髪は茶っぽい色のかつら、やや厚化粧をして唇にルージュ、肩からショルダーバッグ、洒落た女物のハーフスモークのサングラス姿に変装していたのだ。アクセも適当に付けていた。
「お前なぁ、からかうのもそれくらいにしとけよ。オレはマジなんだからよぉ。お前等もここを出る時は女になって出ろよ」
 そう言うと別荘の管理人の爺さんに軽トラで国道まで送ってもらい、バスで韮崎に出て、中央本線の韮崎駅からJRで東京に戻った。だから、誰も疑う者は居なかった。

「うふふっ、今日からオレたち二人とあの女子大生と三人だけだな。オレたち、女子大生をたっぷり楽しんでからさぁ、あとはゆっくりとシャブ浸けにしてよ、あの子の頭がいかれたらよ、そおっと外に放り出して誰かに見つけてもらえばいいんだよな」
「そうだ。下にじじいとばばぁが居るけどよ、あいつ等は会長からちゃんと話しが行ってるから、オレたちはやりたい放題よ」
「そうよ。絶対に殺すなよって命令だけどさ、生きて親に返してやりゃいいんだよ。生きてさえいりゃいいんだ」
 残った男二人は、これから沙里を(もてあそ)ぶ相談をしていた。

 沙里が失踪してからまる二日が経った。美鈴と沙希は生きた心地がしなかった。あの可愛らしい沙里が何者かに(さら)われて、警察の努力に拘らず全く手がかりがつかめてなかったのだ。事件が発生してから、章吾の娘志穂の周辺は警察も協力してくれて警戒が厳重になっていた。
 三日経っても、一週間経っても進展がなく、美鈴と沙希は虚しい時が過ぎてゆく地獄のような日々を過ごしていた。気持ちが焦るだけで、全てが空転しているようだった。

百十六 出会いの形

「生きてる間によぉ、色々な奴に出会って、そして別れていくのよ。それが人生ってもんだよな。あんた、そう思わないか?」
「……」
 最初に沙里を新宿駅のホームから連れ去った男が沙里に話しかけた。沙里は黙っていた。麻酔が覚めてから、沙里はようやく自分が置かれている立場を理解した。今自分が閉じ込められている家がどこにあるのかは分からないが、二十四時間交代で自分を見張っていることは確かだ。風呂、シャワーは使わせてくれたが、風呂場の扉の外で見張っているから、恥ずかしいのと怖いのとて、沙里は簡単にシャワーを済ませて出た。食事も老婦人が三度三度部屋に持ってきてくれる。特別に美味しい食事ではないが、食べられないようなものでもなかった。沙里は下着の替えもなく、化粧道具もない。
「あたしが持っていたトートバッグ、知りませんか?」
 と最初に聞いた時、
「捨てた」
 とだけ返事が返ってきた。
 麻酔から覚めた時、沙里はベッドに寝かされていた。今もそのベッドで寝起きさせられている。兎に角、男が見張っていて、少しでも部屋を出る素振りをすると、ドンとどつかれてベッドに倒された。だから、会長とか言う男が去った翌日から同じことの繰り返しで、沙希は脱出を諦めた。

「オレの名前はシロウだ。あっちに居る奴はトシオだ。トシオはオレの兄貴分だな。あんた、名前、なんて言うんだ?」
「……」
「おいっ、昨日も今日も優しくしてやってるのよ。ダンマリやってねぇでよ、名前くらい教えてくれよ」
「さりぃです」
「そうか、さりぃさんか。可愛い名前だな」
 確かに二人とも沙里に対して今まで思ったより優しかった。
「形はどうであれ、あんたとオレは出会ってしまったんだ。そろそろあんたと仲良くしたいんだがなぁ」
「……」
 沙里は黙っていた。
 するとトシオがやってきて、
「あんたなぁ、オレとシロウとどっちがタイプだ?」
 と聞いた。
「あんたがオレたち二人と付き合いたいならそうするけどよ、どっちかが好きなら好きな方があんたと付き合うってのはどうだ?」
「どちらとも付き合いたくありません」
 沙里はきっぱり断った。
「そうは行かないのよ。あんたはどっちかを選ぶか両方選ぶっか選択できないんだよ。分るか?」
 トシオは鋭い目付きをした。沙里は最初に新宿駅で出会ったシロウの方が好感を持てた。それで、
「じゃ、シロウさんにします」
 と答えた。トシオは不満そうだったが、
「おい、シロウ、あんたと付き合いたいってよ」
 そう言って部屋の戸をバタンと閉めて出て行った。

 シロウは背が高いやつだが、筋骨隆々って感じではなく、普通の体格をしていた。鼻が高く、ちょっとイケメンなので、こんな形で出会ってなければ友達として付き合ってもいい感じの男だ。最初の印象通りで、わりとお洒落で、着ている物は垢抜けていた。
「ちょっと話をしないか?」
「……」
 沙里の返事を待たずに、男は身の上話を始めた。両親は生きてはいるが、離婚してて、オヤジは若い女と同棲、おふくろも若い男と同棲、母親に引き取られたが邪魔者で、家の中に自分の居場所がなくて家出をしてブラブラしている内に今の組織に入ったと言った。
 そんなシロウを見ていると、確かに時々淋しそうな表情をする。沙里はその表情に惹かれた。沙里が黙ってシロウの話を聞いていると、シロウは高い鼻を沙里の胸に押し付けて、
「こんな話をしてゴメン。なんとなくサリィさんに話してみたくなったんだ」
 最初は相当の悪だと思っていたのに、こんな話を聞かされているうちに、沙里は少しずつシロウの存在を認め始めていた。

 沙里の胸に淋しげな顔を押し付けていたシロウは顔をあげて、沙里の唇にそっとキスをした。沙里は突然の出来事になんだかドギマギした。どう対応したものかと考えている内に、沙里はシロウに抱きしめられていた。
「サリィさん、オレ、優しくするからよぉ、オレと付き合ってくれよ」
「……」
「ダメか?」
「悪いけど、あたしシロウさんの彼女にはなれない」
 シロウは一層淋しそうな顔をした。そして、沙里を強く抱きしめるとしばらく沙里の背中を撫でていた。シロウはフレグランスを使っているのか、シェービングクリームの香りなのかは分らないが、ほんのりと爽やかな香りが沙里の鼻こうを刺激した。沙里は女子大だから周囲に男が少ないので、こんな風に男性に抱きしめられた経験はなかった。だが、女の本能なのか、何となく心地良い気持ちになっていた。

 シロウの手が、ウエストに下りて抱き寄せられた時沙里は、
「やめて下さい」
 と小さな声で哀願した。シロウの手はためらうような動きをした。
「オレ、サリイさんを好きになりそうだな。サリィさん、今二十歳くらい?」
「いいえ、まだ十九歳です」
「そうか、オレはもう直ぐ二十二歳、大学には行けなかったけど、大学だと四年かな? オレと仲良くしてくれよな。トシオ兄貴と約束したんだ。サリィさんがオレと仲良くなったらサリィさんにトシオは手を出さない。けど、仲良くなれなかったらサリイさんを兄貴に譲るって。だから、仲良くしてくれよ」
 変な理屈だが、沙里はトシオと言う男に身体を触られる位なら、シロウの方がずっとましだと思った。そうして、ついに沙里はシロウと仲良くさせられてしまった。

百十七 偽りの愛

 沙里とシロウはベッドが置いてある二階の寝室で、しかも二人っきりで毎日を過ごすことになった。
「会長からサリィさんを解放してもいいって指示が出るのは多分二ヶ月位先だと思うよ」
 とシロウが言ったとき沙里は思わず、
「えぇーっ? あなたと一緒にずっとここでいるわけ? 早く親の所に帰してよ。お願いっ」
 と手を合わせて頼んだ。結婚している相手でもなければ恋人でもない男と長い間寝室にずっと閉じ込められているなんて、考えただけでもぞっとする。

「サリィさん、オレと仲良くしてくれるんだろ? 直ぐ家に帰されるなんて考えても無駄だよ。今からサリィって呼び捨てにするからさぁ、恋人どうしみたいにしていようよ」
 シロウは悪い奴ではなさそうな気がしたが、気持ち的に恋人にはなれないと思った。昼間はテレビを見たり、トランプをしたり、なんとなく過ごした。外は暑いようだが、部屋は空調がわりと良く効いていて暑くはなかった。会長に[殺すな]と言われたからか、トシオもシロウも無茶なことはしなかった。

 夕食が済んでテレビを見ていると、沙里の後ろに座ったシロウが、
「サリィ、初体験はとっくに済ませたんだろ? Hしようよ」
 と囁いた。沙里はぎょっとした顔で振り向いた。
「そんな顔するなよ」
「あたし、まだだからぁ。結婚するまでしないの。けじめだから」
「へぇっ? まだかよぉ。珍しいな。オレの周りの子はみんな中学か高校で済ませちゃった奴ばっかだよ。サリィはバージンかぁ。優しくしてやるからさぁ、怖がらずにオレに任せとけよ。最初は分らないかも知れないけど、その内いい気持ちになるよ」
 シロウの熱っぽい息を沙里は耳元で感じていた。シロウはテレビを消して、電灯も消した。窓から星明りが射し込んでいた。
 沙里は緊張して固まってしまった。その沙里の身体を、シロウは抱き上げてベッドに横たえた。沙里は海老のように(うずくま)って抗った。
「あたし、絶対に嫌だから」
 シロウは黙って沙里の首筋にキスをした。無理はしない様子だ。だが、少しするとブラウスから順に沙里が着ている物を脱がせ始めた。
「シロウさん、イヤッ、あたしイヤだから」
 沙里は抗ったがシロウは根気良く沙里の服を脱がし、ブラやショーツも脱がして遂に裸にしてしまった。裸にすると首筋から乳房へと舐め始めた。沙里は相変らず海老のような格好で縮まっていた。

 乳首を口で塞がれて、乳首の頂上を舌で刺激され、お尻を手で撫でられた時には、沙里の乳首は固くなり、全身に刺激が走った。シロウに乳房を揉まれ、太ももの内側を愛撫された時には、沙里の理性とは裏腹に、沙里の女の部分は次第に潤ってきた。本能には逆らえず、身体が自然に反応していた。それを知ってか、シロウの指先は沙里の下腹部の叢を彷徨い、感じる部分を刺激し続けたので、沙里は思いも寄らぬ声をたててしまっていた。
 シロウは次第に大胆になり、遂に沙里の股に自分の脚を入れて広げさせて、沙里のその部分にすっかり張り詰めてパンパンになっているペニスをゆっくりと入れた。沙里は一瞬痛そうに顔をしかめたが、シロウに抱きついてシロウにされるままにしていた。シロウは果てずにゆっくりと沙里から離れた時、痛いのか、沙里はまた声を立てた。

「サリィはバージンだからさぁ、今日はこれで止めとく。明日またちゃんとHするから」
 そう言って、そのままサリィを抱きしめて、しばらくするとすやすや眠ってしまった。沙里はそのシロウの顔を窓から漏れる薄明かりで見ていた。
「あたし、こいつに奪われちゃったな」
 沙里は将来結婚を約束してくれる素的な彼に奪われたいと夢を抱いていたが運命の悪戯で夢が壊れてしまった。
 次の夜もシロウは沙里を抱いた。前の夜と違って、沙里の中にシロウの物が入って来た時、沙里は感じるものがあった。
「これがセックスかぁ」
 沙里は箱入り娘だから、学校で習った知識はあったが、実際の男に抱かれてセックスをした時の感覚は知らなかったのだ。

 シロウは毎晩沙里を求めた。沙里もシロウも若いから、毎晩でも苦にはならなかった。回数を重ねると最初に感じていた後ろめたさは次第に薄れていった。
 拉致されてから、十日目頃になるだろうか、シロウが沙里に囁いた。
「セックスよりもっと気持ちいい体験させてあげるよ」
 そう言ってシロウは小さな注射器を取り出した。沙里が驚く顔を見て、
「オレ、麻酔専門の医者に可愛がってもらってさ、注射器の使い方は慣れてるから大丈夫だよ。ほら、手を出してみて」
 そう言って沙里の左手を引いた。
「何か注射するんでしょ? あたしして欲しくないから」
「何事も経験だよ。頭で知っててもよ、実際に身体で感じるのとは全然違うよ。これうんと薄くしてあるから、もしかして効かないかもね。けど大丈夫だからさ」
「何のお薬?」
「オレたちチャイナホワイトとかビッグエイチって言ってるやつよ」
「ビッグエイチ?」
「ん。単にエイチ(H)とも言うけどさ、これ注射すると、エッチの何万倍もの快感があるんだ。なのでビックエッチ」
 とシロウは笑った。もしヘロインと、俗称ではなくて正式名で言われていたら沙里は退いたに違いない。

 結局、シロウの勧めに負けて、
「一回だけよ」
 と約束してシロウに注射してもらった。効き目は直ぐに訪れた。全身何とも言えない快感と言うか幸せな気分に包まれて、沙里はしばらく酔っていた。三時間もすると沙里は元の状態に戻った。
「どうだ? 気持ちいいだろ」
「ん。確かに。言葉じゃ言えないいい気持ちになった」
「じゃ、これからエッチしようよ。さっきと比べればエッチするより何倍もの快感が来るのが分るよ」
 重なるセックスで、沙里はもうシロウと抱き合うのに慣れた。シロウもそんな沙里の気持ちに合わせて沙里を激しく求めた。二人は汗をかきながらベッドの上でもつれ合った。
 シロウは次の日も、次の日もビッグエイチを沙里に注射した。沙里には言わなかったが、薬の量は少しずつ増やされていた。半月もすると、沙里は薬が切れた時、何とも言えない不快感が押し寄せて来るのを感じるようになり薬が切れると、
「ねぇ、あれしてぇ」
 と注射をシロウにせがんだ。沙里はもうシロウとセックスしても何も感じなくなっていた。

「後、半月もすれば、あの女、捨てられるな。もう頭が大分いかれて来ただろ?」
 トシオがシロウに言った。
「おお、大体後半月だとオレも思う」

 沙里が拉致され失踪してから十日ほど過ぎた時、つまり沙里が麻薬漬けにされそうになっている時、六本木のクラブ、ラ・フォセット社長柳川哲平は溝口、池内、鈴木、章吾たちを集めて沙里の捜索について話し合っていた。
「警察じゃ、最初目を付けていた大泉高原の別荘は諦めて、奴等は甲州街道か中央高速に上がって長野か、遠くは名古屋方面に行ったか、蓼科から白樺湖を通って上田の方に逃げたとか考えて捜索をしているようだ。高速道路は監視カメラとナンバー読み取り機のデータを分析した結果どうやら須玉より名古屋方面には行ってないらしいが、他の所は分らないので、現在長野県警の応援も受けて捜査を続けているらしい。だがな、オレの感だが、オレはまだ大泉高原の中のどれかの別荘にしけこんでると思う。それでだ、あんたらでもう一度あの辺りを探ってくれんか。言っとくけどよぉ、サツみたいに虱潰しに調べる必要はねぇ。オレたちの感で臭いとこに絞り込んで重点的にやってくれ」
 皆は納得して具体的な方法を検討した。警察からの情報では問題のBMWの車両が見付かっていない。だから、それを隠せるような別荘が第一の絞込みのターゲットだと言うことになった。万一に備えて警視庁から刑事が一人仲間に入ってくれる約束になっていた。

 検討の結果、シロアリ駆除会社の作業員に成りすまして、三名一組で二手に分かれてセールスで入ることになった。シロアリ駆除で無料点検を申し出れば家の内外を調べさせてもらえる。もし相手が頑なに拒否すれば、そこが臭いってことになるのだ。その場合には時間をかけて内偵するしかない。

百十八 捜索

 クラブ、ラ・フォセットの溝口、池内、鈴木、猪俣(章吾)たちは失踪して行方不明になっている沙里の捜索を始めた。先ず、シロアリ駆除会社と交渉して、ベテランの技術者を二名しばらくの間貸してもらうことにした。
「ご迷惑をかけます。やはり本物の駆除会社を装うためには、どうしても専門知識を持っておられる方がメンバーに入っていませんと」
「それはそうですな。いい加減な説明をしてウソを見破られたら失敗しますからな」
 溝口が刑事をやっていた時代からの知り合いのシロアリ駆除会社の社長は理解を示した。次は中古のワンボックスの車を二台用意して側面に[シロアリ駆除・京浜消毒株式会社]と大きなロゴを書かせた。貸してもらった技術者に指導してもらって、工具、防除液、タンク、コンプレッサー、脚立など普通に常備して持ち歩く機材を二組全部揃えた。服装は灰色のジャンパーにズボンと帽子、それに薬剤から目を保護する防護眼鏡、大きなマスクも用意した。帽子を目深に被り、大きなマスクをすれば、目だし帽を被ったのと同じで相手に顔を知られることがないのだ。メンバーはクラブから四名、警視庁の刑事一名、駆除会社の技術員二名、合計七名が三名と四名の二つのグループに分かれた。
 大泉高原別荘地の地図は、宅配便の配達員や不動産会社などが使っている土地固有の目印が入っている大きな地図帳を二冊用意した。無料点検キャンペーンのチラシも作った。「これだけ揃えりゃ、誰が見ても本物だ」
 と技術者が笑った。

 溝口など四人と警視庁の刑事の五人は、地図を見ながらターゲットを詳細に検討した。その結果、最初に下見をして、車をすっぽり隠せるガレージのある所、隣家と離れている所を重点的に探して地図にマーク入れることにした。これで相当絞込みが出来るはずだ。
 大泉高原のある大泉町は山梨県北杜(ほくと)市の北部だ。面積は広いが、世帯数は二千戸弱で少ない。この内別荘、ペンション、クラブハウス、農作業用小屋などを入れて総数二百位だ。それに隣家と離れた一軒屋の民家を含めても二百五十位しかなかった。

 五人で現地の下見をした所、当面のターゲットは二十三戸に絞り込めた。そこで早速一軒毎にシロアリ駆除無料点検をさせてくれないかと個別訪問した。始めて見ると、実際に点検をお願いしますと言う家があり、一日五軒程度が限度いっぱいで、全部回るのに約一週間を費やしてしまった。
 一軒一軒レ印を付けて行った結果、最終的に怪しいと思われる四軒に絞り込めた。そこで内偵を開始した。先ず生ゴミを点検することから始めた。生ゴミは住んでいる推定人員に対して多ければ要注意だ。次に電気の検針員に化けて、メーターの点検を行った。住んでいる様子に比べてメーターの中の回転盤がグルグル回っていれば要注意だ。人の出入りやかすかに聞こえる声も参考になる。これには高感度の集音マイクを使った。夜、周囲が静かになった時、明かりが漏れる部屋に焦点を当てて集音し、録音すると、後で聞くと耳では聞き取り難い内部の話し声がちゃんと聞こえた。
 捜索を開始して、約二週間が過ぎた頃、四軒の内の一軒の二階から若い女の呻く様な声が収録されていた。
「この別荘は管理人の老夫婦だけだって言っていたよな」
「確かにそう言っていた。建物の敷地に入ってシロアリにやられてないか調べさせてくれと頼んだら断られたよな」
「どうもここが臭いなぁ」
「洗濯物とか、出入りとかもう少し内偵しようや」
 それで、溝口たちはこの一軒にへばりついて内偵を進めた。

 溝口たちは東京の警視庁には了解を取ってあったが、山梨県警には話を通していなかった。彼らが警察無線を盗聴していれば、事前に情報が漏れる恐れがあり、敢えて伏せておいた。更に調べた結果、若い男らしい声も収録されていた。
 捜索開始後約半月が過ぎてしまった。溝口たちは絞り込んだ最後の一軒に踏み込む決意をした。警視庁の刑事に家宅捜査令状を取ってもらい、この時点で山梨県警から捜査員を二名応援に出してもらった。
 本当に奴等が潜んでいるのか分らないが、溝口たちの長い経験が絶対に間違いないと示唆していた。
「サツには関係ねぇが、オレたちにとっては内部の奴等に組織の上の方に通報されると後々始末が悪い。だからよぉ、踏み込む前に電話線を切断して、踏み込んだら真っ先に奴等の携帯とか通信手段を押さえてくれ。それが出来れば半分成功したようなもんだ。建物の構造からして、絶対に屋根裏部屋があるはずだ。そこも上り口を探して踏み込んで早めに押さえてくれ」
 いよいよ当日、総勢九名で突入の体制が整った。警視庁の刑事の合図で全員が飛び込む手筈だ。沙里の捜索に加わっている章吾もこの瞬間緊張していた。

百十九 突入

「こんにちは、先日お伺いしたシロアリ駆除の京浜消毒です」
 溝口と警視庁の刑事が大きな声で言いながら別荘の門を開けてズカズカと中に入った。勝手口から管理人の老婦人が飛び出して来た。
「この前お断りしましたが?」
「旦那様はおられますか?」
「居るには居ますが、話を聞いても同じ返事だと思いますが」
「旦那に用があるんだ。直ぐに呼んできてくれ」
 溝口はドスの利いた低い声で婦人を睨み付けた。婦人が勝手口に戻る所、溝口と刑事は夫人を挟むようにして一緒に勝手口に向かった。何事かと管理人の旦那が顔を出した。その顔の前に、刑事が家宅捜査令状を広げて見せて、
「警視庁の者だ。中を調べさせてもらうよ」
 と捜査を通告した。
「待って下さいよ」
 管理人は抵抗した。
「あんた、この前奥さんと二人だけだと言ったよな」
「今でも二人っきりですよ」
「ウソをつくと偽証罪で現行犯逮捕だよ」
 そう言って刑事は手を挙げた。それが合図で残った七人が門から駆け込んで、四人は裏手に回った。池内、猪俣の二人が勝手口の方に駆け込み、県警の刑事たち二人が玄関を見張った。

 警視庁の刑事と溝口は押し入って中に土足で上がりこんだ。勝手口の先が居間になっていた。異様な物音を聞きつけて、トシオが居間に顔を出した。シロアリ駆除会社の作業員らしき男が二人居間に入ってきた。トシオは土足を見て、
「おいっ、お前等土足じゃねぇか。何しやがるんだ」
 と脅しを掛けた。溝口が近付くと、トシオは飛び出しナイフを出して切り付けて来た。
「ヒュッ」
 と空を切るナイフの先を溝口は体を交して避けざまに男の足を払った。トシオはナイフ使いに自信があるらしく、倒れ際にナイフを突き出して来て、溝口の袖を払った。袖に切り傷が付いて腕が見えるほどだ。溝口は倒れこんだトシオの横腹を蹴った。
「ウウウッ」
 その時、刑事はトシオに手錠をかけた。そこに池内が来て、トシオの洋服のポケットを探り、携帯を見つけて取り上げた。

 章吾は勝手口にあったこうもり傘を持って、二階に上がる階段を駆け上がった。階段の上から攻撃されると不利だ。章吾は経験からこんな時はこうもりが結構役に立つことを知っていた。階下の物音とトシオの声を聞いて、
「兄貴、なんかあったのか?」
 と声をかけながらシロウが階段の上り口に顔を出した。駆け上がってくる男がトシオでなくて、目深に作業帽を被って大きなマスクをした男だったので、
「おいっ、だれだっ!」
 と上がってくる章吾を蹴落とそうと脚を上げた。章吾はその脚にこうもりの柄を引っ掛けると、体重をかけて、思いっきり下に引いた。勝負は一瞬に決まった。男はよろめいて階段の方に足を出したとたん、更に足首を章吾に引っ張られて、ドドドッと階段を滑り落ちた。落ちた所に刑事が待ち構えていて、倒れた所を押さえ付けられて手錠をかけられた。池内がシロウの携帯を探りあて、取り上げた。シロウは凶器を持っていなかった。どうやら尾てい骨を打ったらしく、ケツを押さえて顔をしかめていた。

 章吾は二階に三つあった部屋を全部覗いた。一つ目と三つ目は誰も居なかった。二つ目のベッドの上に女が横たわっていた。髪は乱れ、ブラウスの胸元がはだけ、下はショーツだけの、汗臭い臭気の漂う体は何かを求めて蠢いていた。章吾は変わり果てた沙里の姿を見た。大きなマスクと防護眼鏡を外して、
「沙里ちゃんだろ? オレが分るか?」
 と声をかけたが無表情で何も言わなかった。
 章吾が沙里を抱きかかえてベッドから下ろし、担いで沙里を階下に下ろした。沙里はもがいたが章吾は構わず道路わきに停めてあったパトカーの方に運んだ。パトカーの鍵は開いていた。章吾は後部座席に沙里を横たえるとそのまま沙里を見守っていた。

 池内は三階の屋根裏部屋を見つけた。そこに警察無線の盗聴器(受信機)があったので、電源コードを引き抜いて押収した。他には手帳やメモがあったので残らず証拠品として押収した。
 鈴木はガレージの扉を開けて中に入った。中には誰もいなかったが、長野ナンバーのBMWが置いてあった。型式も追っていた車両と同じだ。鈴木はナンバープレートが付け換えられていることに直ぐに気付いた。自分たちも盗難車のナンバーを換えてしばしば使っているから見て直ぐに分かるのだ。鈴木はガレージの中を探した。
「あったぁ、これだっ」
 棚の上の新聞紙で包んだ物を見て呟いた。棚から下ろして包みを開けると品川ナンバーのプレートが出て来た。
「まちげぇねぇ」
 鈴木は県警の刑事に証拠品として引き渡した。
 管理人の老婦人は刑事たちの隙を見て、どこぞに電話をしようとしかけたが、通信音が全然せず、電話は繋がらなかった。

 犯人逮捕の知らせは直ぐに県警に報告が上り、パトカーが三台現場に急行した。溝口は警視庁の刑事と県警の刑事と三人で打ち合わせをして、沙里が(やく)で相当やられていて直ぐに東京の病院に入れる必要があるからと沙里だけ預かり、東京に戻ることにした。警視庁の刑事は後日逮捕した二人の男と管理人夫婦の身柄を警視庁に護送するように頼んで、溝口たちと一緒に二台の京浜消毒の車で東京に向かった。

百二十 悲しみ

「先生、ご無沙汰しております。突然ですが、先生は薬物中毒治療の専門医、お知り合いにいらっしゃいますか?」
 美鈴は章吾から孫娘の沙里を救出した知らせを受けて、懇意にしている医師に尋ねた。
「薬物といいますと、睡眠薬か何かですか」
「いえ、麻薬のヘロイン中毒です」
「それでしたら、僕の友人が、厚生労働省直轄のNCNP国立精神・神経センターにおります。ここなら専門医なので十分な治療をしてくれると思います。東京都小平市で米村さんの所からは少し遠いですが、どうでしょう」
 医師は麻薬中毒の場合は一般の総合病院ではなくて、専門の病院が良いと勧めてくれた。一時間ほどして、医師は紹介状を持って、米村家を訪ねてきた。
「先生、お世話になります。今日は急ぎますので、後日改めてお礼をしたいと思います」
「善太郎さんからいつも良くして頂いていますから、どうぞお気になさらんで下さい」
 そう言って医師は直ぐに引き揚げて行った。
 美鈴は沙希に出かける仕度をさせた。なんでも下着は着の身着のままらしいので、沙希に沙里の下着まで仕度させた。章吾たちは今東京に向かっていると連絡が入っていたから、急がねばならない。美鈴は国立精神・神経センターの場所を教え、中央高速を途中で降りてもらって落ち合い、揃って病院に直行するように頼んだ。

 中央高速道、国立府中インターで降りると、章吾たちの車は直ぐに分かった。早く着いて待っていたようだ。沙里は既に薬が切れて禁断症状が出ていた。暴れるので、章吾がしっかり押さえていてくれた。
「お話しは後で。直ぐ病院に向かいましょう」
 病院はJR武蔵野線の新小平駅前で、古い地図には国立武蔵療養所と出ている所だ。病院に着くと、既に紹介してくれた医師から連絡が入っていて、直ぐに専門医が応対してくれた。医師は沙里を見るなり、
「これはひでぇなぁ」
 と驚いた様子だ。
「早速入院させて治療を開始しましょう。麻薬中毒は手当てが早い方がいいんですよ」
 それで、付き添いはもう用がないから見舞いに来るなら明日にでもと一同追い帰されてしまった。
 沙希は変わり果てた沙里の姿を見て涙をぽろぽろ流しながら、身体を濡れタオルで丁寧に拭いてやってから、持ってきた下着類に着替えさせた。その間も沙里は母親を見ても祖母を見ても無表情だった。その様子が一層沙希を落ち込ませた。

 人の運命は不思議だ。一生何事も無く過ごす者もいれば、沙希のように波乱に富んだ人生を余儀なく押し付けられる者もいるのだ。沙希は常々自分の子供たちには平穏に過ごさせたいと思っていた。それなのにこんなことになろうとは、つい三ヶ月前までは想像もしていなかった。
 思い出して見ると、フランスで麻薬の運び屋をやらせようと巧妙な手口で接近してきた悪党仲間に娘達がまんまと引っ掛かってしまったことが発端だ。しかも、訪ねて来た偽の麻薬捜査官と名乗る男を見抜けなかった。これは自分の責任だ。その後警戒していたにも拘らず、あの日新宿駅でついうっかり親切心を出してしまったのがいけなかった。その時はどう見ても若い女は本当に突然体調を崩したものとしか見えなかった。だが、後々警視庁で聞いた話しでは、悪い組織の下っ端が沙里を誘拐するために打った芝居ではなかったのかと説明されたことが、今となっては信じられる。あれもすっかり騙された自分の責任だ。沙希は娘を守ってやれなかった悔しさと、変わり果てた娘の姿とで地獄の苦しみを味わされていたのだ。

 翌日、美鈴と沙希は、国立精神・神経センターに行った。医師が案内してくれた小部屋の中の沙里の姿を見て、沙希は声を出して泣き出した。見るに耐えない姿とはこのことだ。
 沙里はがっしりとした椅子に座らされて、足首、太もも、ウエストを縛りつけられて、両腕も椅子の背もたれに縛りつけられて、何とも説明し難い獣のようなうめき声を発して悶えていた。
 沙希が泣き止むのを待って、
「今は食べ物が喉に通りませんから点滴で水分と栄養の補給をしています。椅子に縛り付けてありますが、あの形がもっとも安全です。もしも自由に動けたら、恐らくコンクリートの柱や壁に頭を打ち付けて死んでしまいます」
 と医師が説明した。
「過去の経験ではこの状態がおそらく一ヶ月程度続くと思います。解毒薬の効果で次第に落ち着いて、二ヶ月もすれば自分で食事ができるまで回復されると思います」

 病院を後にしてからも、沙希はまだ涙が止まらなかった。自分の責任だ、自分の責任だと頭の中で沙里の姿と交互になってグルグル回るのだ。美鈴はそんな沙希を見て、今度は沙希がうつ病になったら大変だと心配していた。沙希が感じた程でないまでも、自分が可愛がっていた孫娘だ。美鈴の心の傷も相当なものだった。
 医師の説明通り、一ヶ月が経過すると、沙里の顔に幾分血の気が戻ってきたように見えた。だがまだ無表情のままだ。もちろん話もしないし、医師が話しかけても殆ど反応しない。
 帰りがけに医師が、
「少しご相談があるのですが」
 と呼び止めた。
「はい、何か?」
「大変申上げ難いのですが、お嬢様はどうやら妊娠をなさっておられるようです」
「えっ?」
 美鈴も沙希もそんなことを全く予期していなかった。驚いたなんてものじゃない。
「私の意見ですが、現在薬物の中毒の状態です。子供と母体の双方の安全を考えて早めに堕胎されるのがよろしいかと思います。婦人科は専門ではありませんので、知り合いの婦人科の医師とも相談してどうするかご相談したいと思います」
 美鈴も沙希も堕胎に賛成して、そのつもりで処置を進めて欲しいと願い出た。
「なんで沙里ちゃんがこんな仕打ちに遭わなきゃならないの?」
 沙希はまた涙をポロポロ流して泣いた。泣いても何も解決しないことは分っていたが、兎に角悲しみがこみ上げてきて、抑えられなかった。

百二十一 掻爬

 一度でも流産をしたり妊娠中絶をした経験がある女性なら、医学の専門用語[掻爬(そうは)]と聞いただけでも嫌悪感を抱くだろう。中にはこんな言葉を二度と聞きたくない者も居るに違いない。経験の無い者には分らない失望と諦めと恥辱感の塊みたいな言葉だ。
 NCNP国立精神・神経センターの沙里の担当医は病院の近くの出張手術にも応じているN産婦人科医院の医師の協力を取り付けて、美鈴に連絡をしてきた。連絡を聞いて、美鈴は沙希を連れて指定された時刻に病院を訪れた。対応してくれた産婦人科の医師は院長で男性だった。妊娠中絶手術を行う医師は患者の気持ちを考えて、女医の場合が多いが、今回の手術は沙里の状態を考えて院長が応じることになったと説明があった。院長は、
「必ず印鑑をお持ちになってお出かけ下さい」
 と念を押した。

「ご時世で、中絶される方は結構多いんですよ。簡単に行った場合は二時間もあれば済みます。お二方は流産や中絶のご経験はありますか?」
 と産婦人科医が話し始めた。
「いいえ」
 美鈴と沙希が同時に答えた。
「では、予備知識として少しご説明をしましょう。今は技術が進みましてね、直径が3~4mmで長さが約6cm位の生理用タンポンに似た形のラミセルを子宮の中に入れます。細い物ですから痛みはありません。引き抜き易くするために先端にヒモが付いています。ラミセルは挿入後水分を吸って膨張して子宮の入り口を大きくするのです。子宮の入り口が大きくなった所で、ラミセルを取り出して、吸引機、まあ掃除機のホースの先のような形を小さくしたような物ですが、吸出し口を子宮の入り口から少し入れて、赤ちゃんを吸い出してしまいます。妊娠後八週間前位ならこれで大抵上手く行くのですが、お嬢様の場合は期間的に微妙です。ですから、専用の内視鏡のような道具で中を確認して、吸引で完全に吸い出せてない場合はヤットコのお化けみたいな専用の胎盤鉗子と言う道具を使って残った物を掻き出します。このことを専門用語では[掻爬]と言っています。最初から胎盤鉗子でやってしまってもいいのですが、胎盤鉗子の場合は万が一ですが、子宮の内側に傷を付けてしまう場合がありますので、最初に吸引で行くのが良いと思うのです。掻き出した後、中に残っている物がなければ、それで手術は終わりです」
 美鈴と沙希は神妙な顔で話を聞いていた。
 医師は続けた。
「ご存知かどうか、中絶をするにはご本人の承諾が必要です。伺った所、お嬢様は精神的にまだ正常に戻られていないようですし、十九歳ですので、お母さまのご承諾でよろしいと思います。中絶は日本では私共のような専門医の判断とご本人の承諾がない場合には立派な犯罪行為、つまり堕胎の罪と見做されるのです。お嬢様の場合は早く処置することになりましたので問題はないのですが、妊娠されてから十二週を過ぎますと法律で死産届を提出するように義務付けされています。この場合は胎児を埋葬しなければならず手続きがややこしくなります」
 医師は美鈴と沙希が理解できるようにゆっくりと話してくれて、一息付いた所で出されたコーヒーを飲んだ。
「どうぞ、お二人も」
 と二人にも勧めた。
 産婦人科医が持ってきた書類に必要事項を書いて捺印すると、
「ではこれから手術に入りますので、三時間ほどしたらもう一度ここにお戻り下さい」
 と言って医師は去った。

 三時間少し前に病院に行った。産婦人科医は、
「上手く行きました。取り出した赤ちゃんをご覧になられますか?」
 と尋ねた。美鈴は、
「見せて下さい」
 と言ったが沙希は、
「あたしは遠慮するわ」
 と後込みした。考えてみると、可愛い沙里の胎内に初めて授かった赤ちゃんだ。こんなことがなかったら、大事に、大事に育つのを楽しみにしていただろう。喩え相手が誰の子供か分らなくても、愛する娘が身ごもった赤ちゃんだ。それを思うとまた沙希の胸に悲しみがこみ上げてきて、自然にポロポロと涙が頬を伝った。
「可哀想な沙里と赤ちゃん……」
 沙希はまた地獄のような悲しみの中に居た。

 病院を出ると、美鈴も沙希も無口で歩いた。二人は西武新宿線で高田馬場に出ると、
「沙希ちゃん、美登里さんの所に寄りましょうよ」
 と美鈴が誘った。
「はい」
 美鈴は沙里と志穂が仲良しで、母親の沙希と美登里も仲良しなのを知っていた。多分美登里も志穂も沙里のことをすごく心配してくれているのを知っていた。沙希の悲しみを和らげるためにも、仲良しの美登里に胸の内を吐き出させてしまった方が沙希のためだと思ったのだ。この悲しみは一人で抱えても抱えきれないだろうと思っていた。
 高田の馬場から美登里に電話すると、
「是非寄って下さい。志穂ももう直ぐ学校から戻ると思います」
 と返事が来た。

百二十二 密輸、密売組織

 美鈴と沙希が池袋の美登里の家に着くと、丁度美登里の娘の志穂が大学から下校してきた。沙希の顔を見ると、志穂は言葉を失った。あの朗らかだった小母が呆けたような暗い顔だったからだ。章吾は口が堅いやつで、細かいことを女房の美登里にも娘の志穂にも話してなかったから無理もない。
 取りあえず、四人で夕ご飯でも食べに出ようと言うことになって、池袋の街に出て焼肉屋に入った。美鈴は和食の方が良かったが、若い人たちに合わせて付き合った。

 丁度四人が食事を始めた頃、警視庁では甲府県警から護送されてきたトシオとシロウと管理人夫婦の尋問が始まっていた。
 別荘の管理人の老人は固く口を結んで口を割らなかった。
「しぶといじじいだなぁ」
 尋問に当たった者は愚痴をこぼすほどだ。
 トシオとシロウは下っ端で聞かれたことには素直に答えたが、たいした情報は持っていなかった。だが、管理人の老夫人を締め上げた所、
「どうするか迷いましたが、この際ご協力しましょう」
 と言って意外な話を始めた。

 夫は若い頃暴力団の若頭だったようで、今は足を洗って昔の仲間とは一切付き合いがないが、当時可愛がってやった男が今麻薬の密売組織の会長をしていて、昔のよしみで会長が隠れ家に使っている別荘の管理をしてやっている。自分は会長を子供の頃から良く知っていて、今でも我が子のように可愛いやつだと思っている。現在会長の下には百名位の組員がいて、密輸した麻薬を捌く元締めをやっている。
 自分は昔は暴力団の若頭の女房として組員の世話をしてきたが、世の中が変わって、もうあんな組織がのさばる時代は過去のものになったと思っている。可愛がった会長が麻薬の密売組織を動かしているが、自分は常々堅気の仕事をするように言って聞かせてきたが、麻薬ほど楽に稼げる商売はないと言って耳を貸さない。だから、この際、皆を捕らえて、社会のためになるような仕事に就けるように更生するように指導をしてもらいたい。
 老婦人はたんたんと話をした。話す態度は凛としていて、聞いている担当者は気が付いて見ると、夫人に敬語を使っていた。老婦人が組織の全容を話してくれたので、警視庁では一斉捜査に踏み切り、密売組織本部の家宅捜索をして、大量の麻薬を押収すると共に老婦人が言った通り会長以下約百名の組員を一網打尽に逮捕した。

 警視庁で老婦人について調べた結果、一世を風靡した広域暴力団の組長の愛娘で当時は政財界にも大きな影響力を持っていた××恭子と言う女性だと分って捜査員を驚かせた。
 恭子は現在76歳であるが、しゃきっとした態度から当時の面影を容易に想像できた。
 老婦人の気持ちを汲んで、警視庁では組織を壊滅させた。だが、この組織から麻薬を横取りした別の組織の捜査はあまり進展していなかった。
「奴等は空港の保税区域にまで影響力を持っている所を見ると、空港管理会社の幹部にまで汚染が広がっているんじゃないか」
 とか、
「今回徹底的に叩き潰した密売組織よりずっとでかい背後関係があるんじゃないか」
 とか捜査員の間でも色々な意見が出ていた。
 捜査員の危惧は具体的な形で現れた。警視庁上層部から捜査の打ち切り命令が出たのだ。理由は単純だ。
「密売組織の元締めをつぶしたので、奴等が横流しをする(ぶつ)はもうないので再発しないだろう」
 と言うのだ。これには誰も不平を口には出さなかったが、捜査員の間でグレーな部分が残った。

 こうして、沙里を地獄に陥れた背後の恐怖はなくなった。だが、沙里はまだしばらくの間苦しみが続くのだ。
 事件の概要はクラブ、ラ・フォセットの柳川から米村善太郎に直接報告が上がっていたから善太郎は事件の顛末を知っていた。だが、父親の善雄は長い間海外の関連会社や顧客回りをしており、息子の希世彦は一旦帰国したが直ぐに父と一緒に回るために渡航したので、今回の事件について何も知らされていなかった。
「今は大事な仕事中だから、家庭内のゴタゴタを知らさん方がいいだろう。知ったとしても帰国するわけじゃないから、帰国してから話せばよい」
 と善太郎は妻の美鈴と娘の沙希に言い聞かせた。

 善雄が海外を回っている頃、善雄、別名都筑庄平の息子、庄司は福岡県八女市の今井家の養子として引き取られて、早いもので地元の高校に入学、一年生になっていた。庄司は頭の良い子で、高校でも成績は良く、今井はサラリーマンだから経済的なゆとりはなかったが、頑張って庄司が希望する九大に入れてやろうと思っていた。
 庄司は、夜スカイプを使って時々姉の奈緒美と話をしているようだった。

百二十三 肩ごしの恋人

 沙希は、ここのとこ沙里の事件で頭の中がいっぱいだった。まだ禁断症状が完全に治っていないので、病院に見舞いに行っても会って話をできるような状態じゃない。それで医師と相談して、一週間に一度程度の間隔で見舞いに行くことにした。最初の頃は義母の美鈴と一緒だったが、今は義母と日をずらせて一人で見舞いに行った。
 旦那の善雄はもう何ヶ月も海外に出張していて帰って来ない。大学三年生の息子も一時帰国したが、直ぐにまた旦那の所に戻り、海外に行ったきりで、義父の帰りは遅いので、義母が沙里の見舞いに出かけた日は、殆ど一日一人で家に居た。

 沙里のことでは、あまりにも残酷な経験をさせられてしまったので、一日家に居ても掃除、洗濯が終わると後は虚しい時間が過ぎるばかりで気分がスッキリしなかった。
 そんな状態で一人ぽっちで留守番をしていると益々気持ちが落ち込んでいく。そこで、たまにはDVDでも見て気晴らしをしようと思って、沙里を見舞いに行った帰り道、自宅近くのレンタル屋を覗いて見た。
 レンタル屋の店に入って、ぶらぶらと棚を見て歩いた。レンタル屋を覗いたのは本当に久しぶりだ。あまり沢山のDVDが並んでいると、さてどれを借りようか迷ってしまう。

 旦那の善雄はずっと海外で、考えてみるともう随分長い間夫婦の営みがない。沙希はまだ四十代後半だ。なので、性を捨て去るにはまだまだ若い。沙希の旦那の善雄は結婚した時からセックスは淡白で、沙希の方から求めることが多かった。その旦那も何ヶ月も行ったきりで、時には性的な欲求を覚えることがあるが、さりとて不倫相手を探すつもりはなかった。
 そんな境遇が手伝って、沙希は大人っぽい恋愛ドラマでも見ようかと棚を見て歩いた。
 棚に並べられたDVDのジャケット見ていると、古い映画は時々テレビで放映されるから、既に見てしまった物が案外多いことに気付いた。そこで何気なく最近割合人気があると言う韓国映画の棚を覗いて見た。韓国のものは[韓流ドラマ]と棚に見出しが着いていた。
 見ると韓国物はTVドラマも映画も恋愛物が多い。TVドラマの中にも見たいと思う物がいくつかあったが、TVドラマは数巻が長い物では二十巻以上も連続していて、週に一日位の時間じゃとても見切れない気がした。

 韓流映画の棚を見ていると、[肩ごしの恋人]と言うタイトルに目が留まった。
「あれっ? このタイトル、どこかにあったな」
 そう思いながらDVDを棚から取り出して、ジャケットの裏側を見ると、[原作 唯川恵 肩ごしの恋人]と印刷されていた。
「やはり唯川さんの作品を映画にしたんだ。道理でどこかで見たようなと思ったんだな」
 沙希は独り言を言いながらこのDVDを借りた。唯川恵さんの作品は三十代から四十代前半に何冊も読んだ。いずれも女の気持ちを上手く言い表してくれている部分が多く、共感を持てたからだ。
 借りてきたDVDを義母の美鈴が沙里の見舞いに出かけている日に、ゆっくりした気持ちで見た。見ている内に原作の内容を良く咀嚼して映画化されているなぁと感じていた。
「よしっ、これから毎週義母がお留守の時、DVDを見よう」
 そう思って、次の見舞いの帰りもレンタル屋に寄った。

百二十四 帰国

 沙里が救出されて二ヶ月が過ぎた。沙里の回復は順調で、顔色も良くなってきた。
「思ったよりも早く回復されてます。しかし、もう一ヶ月ほどこちらでお預かりして様子を見ましょう」
 と担当医は言った。隔離棟は全ての窓が網入りガラスで、窓の外側に鉄格子が取り付けられていたから、監獄のような雰囲気があった。部屋の中には何もなく、ガランとしていた。医師は回復の様子を見て、一般の病棟に移してあげましょうと言い、その日の内に個室の良い部屋に移された。内装は良く、中クラスのビジネスホテルに似た室内だった。
「先生、本や身の回りの物を少し持ち込んでも大丈夫ですか」
「もう大丈夫でしょう。看護師が一日に二回か三回様子を見に来ますから、ご安心下さい」
 沙希が沙里に話しかけると、以前は無表情だったが、今は目を沙希の方に向けるようになった。まだ無口で、問いかけても答えは返って来ない。

 家に戻ると、沙希は沙里の大学の教科書やノート、回収されたトートバッグに入っていたiPodや携帯、それに追加した新しい下着類を揃えて翌日病院に行った。三ヶ月も大学に行っていないから、勉強は相当遅れているはずだった。
 荷物を届けた次の日は、美鈴も一緒に行くと言うので二人揃って見舞いにでかけた。
 沙里はおばあちゃん子だ。美鈴の顔を見ると、沙里は初めて微笑んだような顔をした。そんな沙里を美鈴は抱きしめて、ずっとそのままでいた。美鈴は長い間抱きしめていた。
 十五分も経っただろうか、美鈴の胸に顔を埋めてじっとしていた沙里が初めて、
「おばあちゃん、あたし怖い」
 と小さな声で囁き、やがて肩を震わせて嗚咽しはじめた。そんな沙里を、美鈴はずっと抱きしめていた。
 帰りがけに沙里は、
「あたしも一緒に帰りたい」
 と言う仕草をしたが沙希が、
「もうしばらくだから」
 となだめた。沙里は美鈴の手を握ったまま離さない。今度は美鈴がポロポロ涙を流した。気の強い美鈴は家族の前で涙を流すことはめったになかったが、この時はさすがの美鈴も沙里を思う気持ちをこらえ切れなかったのだろう。

 沙里は日に日に回復して、見舞いに行くと少しずつ話をするようになった。
「お食事もきちんと召し上がるようになりましたわ」
 と看護師が沙里の回復が順調な様子を話してくれた。
 そんな時、ニューヨークから夫の善雄から珍しく電話が来た。
「皆元気かい? 長い出張だったなぁ。留守中変ったことはないか? 明日希世彦と一緒に帰国する便に乗る予定だ。二日JFKからで午後一時半のに乗る。Delta173便でNRTに三日の午後五時に着く。迎えは社の者が来るから必要ないよ」
「はい。長かったわね。気を付けてお帰り下さい」
 沙希は沙里の事件については一言も言わなかった。帰って来てから詳しく話をするつもりだ。
 翌日の三日の夕方息子の希世彦から、
「無事に戻った。オヤジと日本橋で美味い寿司を食って帰る。晩飯は要らないよ。多分九時半か十時頃に家に帰るよ」
 と連絡があった。

 善雄が帰国後夜の十二時頃、沙里を除いて善太郎をはじめ家族全員が集まって、沙里の事件について話し合った。
「そんな事件があったのか。そりゃ、沙里のやつ可哀想だったな」
 善雄は事件について初めて聞かされて相当に驚いたようだ。
「明日午前中会社を休んで見舞いに行こう、希世彦、お前も一緒に来い」
 それで次の日に善太郎も一緒に全員で見舞いに行くことになった。長い間海外に出ていると、昔なら会社の様子に疎くなった。だが、今は海外の関連会社とはネットワークで繋がっていて、リアルタイムで役員会に出席することができる。テレビの画面で会議に出席している面々の顔を見ながら報告を聞いて、遠方から指示を出せるのだ。日本の昼間の会議は遠方では時差の関係で夜中になるから寝不足は仕方が無いが、海外を回っていても会社の経営には殆ど支障がなかった。だから、帰国後直ぐに半日休んでもどうってことはないのだ。

 その夜、皆が寝静まってから、珍しく善雄が沙希を誘った。沙希が善雄のベッドに潜り込むと、善雄は激しく沙希を愛撫した。沙希もずっとご無沙汰だったから、自分も善雄を激しく求めた。やはりこうして夫に抱かれると、ここのとこ悩み続きで疲れはてた心が洗われて、沙希の中に久しぶりに幸せな気持ちが戻ってきた。

「大泉の別荘で孫娘を匿っていた男の一人はシロウとか言いましたね。その子に会わせてもらうことは可能ですか?」
 美鈴はシロウを担当している国選弁護人を訪ねてそう聞いた。
「可能です。何か理由をお聞かせ頂けますか?」
「私の人生観ですが、孫娘に直接関係した者の心の中に少しでも恨みが残りますと、何かの折りにまた孫娘が災難に遭うことが多いように思っています」
「はい。おっしゃる通りです。昔からムショを出るとお礼参りなんてありますが、今でもそんなことが時々あります」
「それでご相談ですが、本人に会って見て、更生の見込みがありそうならこちらで面倒を見て差し上げようかと思っているのですが」
「それは大変良いことです。彼は今二十二歳です。まだ若いですし心を入れ替えて堅気の仕事に就いて経済的にも普通に生活ができるようになれば、わたしが見た所、彼を更生させる可能性は十分にあると思います。こう言っちゃなんですが、意外に素直な男で人の情も理解ができるようです。聞いた所、両親が不和で居場所がなく、高校を出て直ぐに密売組織に拾われたようで、売人として動き回ったのは一年半位でしかないのですよ。多分このまま実刑判決がでれば三年間位臭いメシを食わされることになりましょうな。米村さんが彼の将来について助言を下されば裁判所も斟酌するでしょうから、執行猶予付きまで持っていける努力はしましょう」
 美鈴はそれを聞いて、今度面会をする弁護士に同行してシロウと言う青年に会って見ることにした。沙里と身体の関係を持った男だ。そのまま野放しにしていては、いずれ何かの機会に再び沙里に近付く可能性は大きいと思った。それならばいっそのこと自分の目が届く所に置いて可愛がってやった方が安心だ。美鈴は今までも何かあれば禍根を断つ努力を人生訓としてきたのだった。

百二十五 失意

「そうかぁ、もう二年近く仙台に行ってないなぁ」
 米村善雄こと都筑庄平は加奈子との連絡用の携帯を会社の引き出しに放り込んで海外に出かけ、その後帰国をしたが、相次ぐM&A、事業の拡張、製品の不具合による苦情の始末、更に海外出張と後から後から仕事がらみの問題が押し寄せて忙殺されている間に、二年間も過ぎてしまったのだ。引き出しの中の携帯はバッテリーがあがっていた。充電をして、加奈子の携帯にかけてみたがつながらなかった。

 ようやく時間が作れて、仙台に向かった都筑の心は恋人に会いたい気持ちでときめいていた。昼間、仙台の事業所で仕事を済ませて、夕方仕事から解放された時には、足が自然にクラブ、ラ・ポワトリーヌに向かっていた。
「おかしいなぁ。確かここのあたりだったが?」
 二年間も仙台にご無沙汰していたので、記憶違いかもと思って通りを一回り回ってみた。けれども夕方には照明が点いて直ぐに分かったはずのラ・ポワトリーヌの案内板がない。
「恐れ入ります。確かこのあたりにラ・ポワトリーヌと言うクラブがあったのですが?」
 近くのタバコ屋でぼけぇっとしていた年配の婦人に聞いてみた。
「ああ、ポワトリーヌさんね。なんでも一年前だったか、一年半前だったかにクラブあかねに変りましたよ」
 都筑は耳を疑った。タバコ屋の小母さんに礼を言って、
「おかしいなぁ」
 と呟きながら目で四方を探した。ネオンで縁取られた[クラブあかね]と書かれた派手なカンバンが確かにラ・ポワトリーヌがあった同じビルにあった。
 近付いて見ると、中から大きな音響がかすかに洩れ、丁度ドアーから出て来たホステスと思われる女性はミニスカートで上はオッパイが見えそうなまで大きく切り込まれた派手なブラウスを着ていた。更に入り口に客引きの男が二人立っていた。
「まっ、とにかく入って見るか」
 そう呟いて都筑は入り口に近付いた。それを見た客引きの男が、
「旦那、いらっしゃい。お一人さんですか? いい女がいっぱいいますよ」
 と言って中へ入れと誘った。入り口の脇に[四十分五千円ポッキリ大満足間違いなし]などと書いてある。

 都筑は客引きに背中を押されるようにして中に入って驚いた。ミラーボールがいくつもあって、照明はギラギラ、ロック調の音楽がガンガン鳴っている。入り口には数名のホステスが立っていて、都筑に駆け寄ったフロアサービスの男は、
「お客さん、好きな子を選んで下さい」
 と言うではないか。並んでいるホステスは皆ミニスカで上は深く繰り込んで肩を丸出しにしたチヤラチャラしたブラウス姿で化粧もどぎつい。
「こりゃキャバクラだなぁ」
 しかし、都筑は以前のことを知りたくて、一番大人しそうなホステスを選んで奥の方の席に案内されるがままに後をついて行った。席に座ると早速、
「ビール? お酒? ウイスキー?」
 と聞かれた。
「ビールがいいな」
 すると大きなジョッキが運ばれてきた。
「あたし、何か頂いてもいいですか? ここは五千円ポッキリで飲み放題ですが、女の子の飲み物は別計算なんです」
 と言った。つまり女の子が飲んだ分は別勘定で請求するわけだ。表の掲示には間違いはないが、五千にプラスしていくら請求されるのか分ったものじゃない。都筑は、
「いいよ。好きな物を飲みなさい」
 と返事した。
「嬉しい、じゃカクテルをおごって下さい」
 薄明かりで顔を見ると二十歳前後で若い。この手のキャバクラはアラフォーの女でも平気で二十代などと言うが多いのだ。
「ちょっと聞きたいんだけど」
「どうぞ、あたしで分ることなら」
「ここは元ラ・ポワトリーヌって言うクラブがあったとこだろ?」
「はい。そう聞いてます。お客さん仙台の方ですか?」
 都筑はそれには答えず、
「少し詳しい話が分る人いないかなぁ?」
 と聞いた。女は少し考える風で、
「ここの子、皆若いから知らないかも」
 と答えた。都筑は諦めた。こんなに変ってしまったんだから、後で加奈子のマンションに行って本人に確かめれば済むことだと思ったからだ。

 女の子と話をしようにも、自分の娘位の年だ。だからたわいもない話題でつないだ。こんな所で安い酒をいつまでも飲んでいるより、早く切り上げて加奈子のマンションを訪ねようと思った。だが、ホステスの女の子が引き止めた。
「あたしもう少し頂いてもいいですか?」
 どうやらノルマがあるらしい。都筑は、
「いいよ。好きな物をどんどん飲んで」
 と言ったものの、話題が途切れて続かない。すると女の子は、
「おじさま、ちょっと触らせて」
 と言って都筑のズボンのチャックをサツと下ろした。照明は暗く、隣の席からは見えないようになっている。女の子は手を都筑の股に忍ばせてまさぐり、都筑のなにを指で摘まんで愛撫し始めた。これには都筑は驚いた。
「おじさま、あたしにいっぱいおごって下さったから、あたしの気持ち……どう?」
 気持ちとは裏腹に都筑のなには勃起し始めた。
「わるいけど、まだ行くとこあるからいいよ」
 都筑はそっと女の子の手首を掴んで断った。

 精算すると。結局一万四千五百円も取られた。
「むちゃくちゃな店だなぁ」
 そう思いながら都筑は加奈子のマンションの場所を言ってタクシーを走らせた。
 来馴れたマンションに着くとチャイムを押した。中から、
「はい。只今」
 と返事があって、扉が開いた。加奈子の顔が見られると心を弾ませて来たが、顔を出した女は年配の主婦のような女性だった。
「勧誘なら家は用がないですよ」
 女が閉じようとする扉を手で押さえて、
「岩井さん、いらっしやいますか?」
 と聞いた。
「……」
「あのぅ、ここ岩井さんのお住まいではないですか?」
「何かのお間違えじゃありませんか? 家は伊藤です」
「あれ? おかしいな」
 都筑の当惑した顔を見て、
「岩井さん、もしかして以前ここに住んでおられた方かしら?」
「最近このマンションに移られたんですか?」
「最近でもないですが、もう一年半位になるかしら、このマンション、売りに出てまして、私たちが中古で買って引っ越して来たんですのよ」
「そうだったんですか? 大変失礼しました。最後に来たのが二年前位ですので」
 都筑は、
「以前住んでいた方がどちらに越されたか分りますでしょうか?」
 と付け足したが予想通り、
「何も知りません。不動産屋さんにでもお尋ねになられたら?」
 女性は素っ気無く答えた。
 都筑はがっかりして重い足を引き摺ってホテルに戻った。

百二十六 断念

 東京に戻っても、善雄は加奈子が消えてしまったことが気がかりになっていた。大きな会社の責任者ともなれば、自分の個人的な都合で行動するのは経営者失格だと常々思っていたから、誰が聞いても納得するような理由でもなければ、自分のことは後回しにしていた。だから、気にはなっていたが、次の仙台への出張の機会まで加奈子の失踪について調べることを棚上げにしていた。
 二ヵ月後に、機会が訪れた。仙台事業所の仕事が終わって夕方、都筑は元加奈子が住んでいたマンションの伊藤家を訪れて、マンションを買った不動産会社を教えてもらった。不動産会社と言っても大手ではなくて、街の不動産屋らしいことも分った。場所は定禅寺通りに面した雑居ビルの一階だった。行って見て分ったが不動産屋があった場所はコンビニに変わっていた。仕方がない、近くの酒屋に寄って聞いてみた。
「ああ、あの不動産屋さんねぇ、不景気で倒産されたみたいですよ」
 結局情報はそこでプッツリ途絶えてしまった。あのマンションを売って、別の所に引っ越したのだろうと思い、もしかして、同じ不動産屋から別のマンションを買っていたかもと淡い期待をしていたのだ。

 可愛がっていた奈緒美と庄司はどこに消えたんだろう? 子供たちだって自分を探しているのではないかと思うと、何とも辛い気持ちになった。父親として情け無い。だが、都筑はずっと都筑で通し、勤め先などについて一切話をしなかった。だから、子供たちが、[都筑庄平]の名前で探しても都筑庄平は世の中に存在しない架空の名前だから、子供たちにとっても探しようがないのだ。問題は加奈子だ。携帯に加奈子専用の自分の携帯番号をアドレス帳に入れてあるはずだ。なのになぜ連絡がないのだろう? 長い間ご無沙汰したのは自分だから、加奈子に愛想を尽かされてしまったのかも知れなかった。
 あれこれ考えて見たが、自分の方もこれ以上探す糸口が見付からない。それで、都筑は捜索を断念した。恐らく街の探偵を雇っても、こんなに情報が少ないのでは探した結果は同じだと思われた。

 モデル青葉(あおは)こと奈緒美はしばらく一人で居たが、マネージャーの川野珠実と同居するようになり、まだ未成年だったので、岡田弁護士と相談して、川野の養女となった。それで、戸籍上は川野奈緒美となった。庄司は福岡の八女市の今井家の養子となり名前が今井庄司に改まった。
 モデル青葉は大手化粧品会社のオーディションで最優秀賞に選ばれながら、母親の急死で受賞を棒に振ってしまったが、そのことがきっかけで、大手の広告代理店やプロダクションから相次いでオファーが来た。
 そこで川野は東京六本木にカナプロダクションの小さな支店を開設して、青葉専任のマネージャーを置いた。仕事場所は全て東京だったので、奈緒美はマネージャーの武藤千春と共同で南青山に小さなマンションを借りて同居生活を始めた。
 川野との歳の差は十歳くらいだったから、奈緒美はなかなか川野をお母さまと呼べず、川野を[たまさん]と呼んでいた。
「奈緒美ちゃん、お仕事、ちゃんとやってる?」
 川野は十日に一回くらいの割合で東京の事務所に来るといつも同じことを聞いた。

 奈緒美は次から次から押し寄せてくる仕事に忙殺される日々を迎えるようになった。既に三本、関東地方の民放から青葉出演のCMが流れていたが、他にもファッション誌やあちこちのイベントなどから沢山仕事が舞い込んだ。そんな中で、初めて受けた大手化粧品会社のオーディションで優秀賞をゲットしたアンジェリーナ・クリヤマと親しくなって、二人ともオフの時、美術館を回ったり、ライブにいったり、食事をしたり、ショッピングをしたりするのが楽しみになっていた。
 アンジェリーナ・クリヤマはスペインのハーフだが、日本で生まれ育ったので日本語は普通にしゃべれた。二人とも背が高くモデルらしい身のこなしが身に付いていたので、街を二人揃って歩くとしばしば振り返って見られる。普段は目立たないようにサングラスをしたり、顔を知られないようにしていたが、それでも時々バレてサインをせがまれたりした。

百二十七 新たな出会い

 都筑庄平、本名米村善雄は、加奈子、奈緒美、庄司の行方は分らずにいたが、約束通り毎月奈緒美と庄司の預金口座に養育費を振り込み続けていた。海外に出かけて不在中は秘書に頼んで毎月欠かさずに振り込ませた。
「待てよ、もしかしたら銀行で消息が分るかも知れないなぁ」
 だが、最近の銀行は個人情報の漏洩防止の管理が厳しく、何も教えてもらえなかった。子供たちが生まれてからずっと振込み続けているので、かれこれ十八年間も経ったから今まで振り込んだ金は総額にすると、奈緒美と庄司の分を合わせて一億円以上になっているはずだ。

 善雄の息子希世彦はオヤジ善雄の海外出張のお供をして帰国後、大学生活に戻った。教室は工学部電気電子工学科だ。工学部の学生も最近は女性が多くなったが、電気電子工学科に限って言えば、女性は少なかったし、皆頭は良いけれど中には女性として見た場合魅力に乏しい者もいた。そんなこんなで、電気電子工学科の学生は外でコンパをする時は教室外の女性と一緒のことが殆どだった。
「おい、米村、あんたが帰国していつもの仲間が全員揃ったから今度の休みに飲み会をやることにしたよ。あんたもモチ出るだろ?」
「今の所大丈夫だ」
「それでさぁ、全員必ずガールフレンド同伴ってことにしたんだ」
「そうか、いつもは女子大に声をかけてるのに、今回は止めたのか?」
「最近マンネリだからさぁ、トッツァンがそうしたいってんで決まったんだ」
 トッツァンと言う奴はオヤジ顔でいつの間にかそんなあだ名が付いた奴だ。

 女性同伴のコンパに、希世彦は妹の沙里と同い年の志穂をたまに誘うことがあったが、沙里の事件があった後なので、沙里の親友の志穂を誘わず、代わりに最近モデルになったサトル小父さんの娘茉莉に電話して都合を聞いてみた。
「ああ、その日だったら大丈夫よ。希世彦さん、運がいいわね」
 茉莉からOKが出た。所がしばらくして茉莉からまた電話が来た。
「その飲み会って女性は一人しかダメなの?」
「特に決まりはないよ。二人でも三人でもいいよ」
「じゃ、あたしのお友達の青葉(あおは)って名前のモデルさん、一緒に行くから」
「分った。幹事に言っておく」
 結局希世彦は茉莉とアオハとか言うモデルの二人を連れて行くことになった。

 いつも飲み会は工学部から歩いて直ぐの池之端か湯島界隈の飲み屋だった。その日は湯島の和食屋だった。
 希世彦が茉莉とアオハを連れて行くと、クラスメートは全員驚いた。なんたって二人とも最近メディアに登場した人気上昇中のモデルだったからだ。
 アンジェリーナとアオハのことは全員良く知っていた。二人とも普段はスケジュールがビッシリで、いくら東大生だからと言って簡単には誘いに応じてはもらえない。着飾った二人は飲み屋の店内に居た他の客からも視線が飛んできた。そう言う場面に二人とも慣れているらしく、気にもせずにコンパの仲間たちだけを見ていたので、それが仲間たちに好感を持たれた。飲み会が始まると二人とも引っ張りだこで、希世彦は他の奴が連れてきた女性と飲んでいた。
 一次会が終わるといつも店を変えて二次会に付き合うのだが、その日は茉莉とアオハに気を遣って、
「僕はこれで失礼させてくれ」
 と言って一次会が終わった所で希世彦は抜け出た。
「アオハさんはどちら? 近くまで送ります。茉莉も一緒にいいだろ?」
「あたしは六本木です。近いから大丈夫です」
 とアオハは言ってから茉莉と何か話をした。
「希世彦さん、この後ご予定あります?」
 と茉莉が聞いた。
「僕? 僕はお二人を送ったら真直ぐに家に帰る予定だよ」
「じゃ、六本木で三人でもう少し飲みませんか?」
「いいよ」
「じゃ、決まりね。アオハが今日せっかく誘って下さったのに希世彦さんと全然話をしてないから申し訳ないですってよ」
「そんな、気を遣わなくてもいいよ。じゃ、六本木に行こう。ミッドタウンでいい?」
「はい」
 今度はアオハが返事をした。

 タクシーを呼び止めて、三人は六本木に向かった。
「ミッドタウン・イースト、リッツカールトン側に停めて下さい」
 タクシーを降りると、希世彦はリッツカールトンのエントランスからエレベーターに乗って、四十五階で降りた。茉莉もアオハも勝手が分っている様子だ。三人はレーベルと言うワインバーに入った。茉莉は母親がスペイン人なのでワイン大好き派だと知っていた。それで希世彦は、
「アオハさん、ワインが苦手なら店を移りますが」
 と聞いた。
「いえ、茉莉の影響で最近よく頂きますから」
 とアオハが答えた。そこにソムリエがワインリストを持って近付いてきた。
 希世彦はリストに目を通した後、
「九十八年物のクロ・エラスムスはありますか?」
 と聞いた。
「カタローニャですね。申し訳ありません。切らしております。カタローニャでしたら、クロ・モガドールがあります。同じ赤の辛口ですが、いかがでしょう?」
「あ、それでいいよ」
 ソムリエは二〇〇一年物のボトルを出してきた。
「希世彦さん、あたしに気を遣って下さったの?」
 と茉莉がわざわざスペイン物を注文してくれたのでそんな風に言った。
「いや、日本ではボルドーとかフランス物が多く出回ってますが、僕的にはスペインのワインもなかなか美味いと思っているんですよ」
 アオハはワインを飲みながら、希世彦に色々なことを聞いた。音楽の話、絵画の話、先日出かけていた海外諸国であったことなど。希世彦の話題は豊富で楽しかった。

 最近女性の間で、価値観、金銭感覚、雇用の安定など男性を見る物差しとして3Kがあるが、アオハが受けた希世彦のイメージはそれらのどれを取っても好ましいものだった。
 東大工学部の学生であることには然程関心がなかったが、細身ですらっとした体型だが、なよなよとはしていない所にも好感が持てた。
 ワインバーは十時までだったので、三人は十時少し前に店を出た。
「あたし、ここから歩いて帰ります」
 そう言ってアオハとはミッドタウンで分かれた。希世彦は茉莉を家まで送って、
「上がってお茶でも」
 と言われたのを断って真直ぐ家に帰った。

百二十八 気がかり

「今日はぞっとするようなやつは居なかったなぁ」
 モデルの青葉は自宅に戻って、シャワーをやって部屋着に着替えてからぼんやりとテレビを見ながら、今日の東大生とのコンパのことを思い出していた。青葉の周りは華やかなことが多い。タレント以外でも目立たないカメラマンの中にだって、良く見るとなかなか素的なやつがいる。青葉は気持ちが通う彼が欲しかったが、業界の中では表面上のお付き合いなら感じの良い奴は居るには居るが、深く付き合うには難しい面があるし、出来れば業界には関係の無い普通の男を彼にしたかった。最近そんなことを考えていたから、今日は茉莉の誘いに少し期待していた部分があった。
 誘ってくれた米村希世彦は茉莉の幼馴染だと聞いていたし、もしかして茉莉が想っている人かも知れなかったから最初から自分の彼になんてことは考えていなかった。だが、ワインバーで色々な話を聞いている内に、感性と言うかフィーリングが自分と良く合っていて、側に居てなんとなく安心できるような余裕のある雰囲気を持っていた。
「希世彦さんて、茉莉の恋人かなぁ。今度聞いてみよう」

「茉莉、昨日は誘ってくれてありがとう。楽しかったよ」
「そう。よかった。つまらなかったらどうしようって思ってた」
「久しぶりに気晴らしできたよ」
「それで、アオハはあの中で誰か気に入った人が居た?」
「うーん、残念だけど、ずっと付き合いたいと思った人は居なかったな」
「アオハは理想高くないのに珍しいね」
「理想が高いってどう考えたらいいのか分からないけど、気に入る気に入らないは気持ちを通え合えるかそうでないかってことかなぁ?」
「そうねぇ。気が合うことが一番大事だわね。一番困るのは付き合ってるとこっちが疲れちゃう人かな?」
「そう、そう、そうだよ」
 青葉は茉莉に電話して昨日のお礼をいいながら、いつものようにおしゃべりをしていた。
「ところでさぁ、希世彦さんて、茉莉の恋人なの?」
「えぇーっ? 違うよぉ。そんな風に見えた?」
「だって幼馴染でしょ?」
「ん。あたしの母と彼の母親がすっごく仲良しで、それで子供どうしも仲がいいんだよ」
「異性として考えたことはないの?」
「幼馴染ってダメね。会うと兄貴のような気持ちになってさぁ、多分恋人にするのは気持ち的に無理だな」
「そうよね。なんとなく茉莉の気持ち分るよ」
「アオハは希世彦さんのこと、気になるの?」
「ん。ちょっとね。できたらもう一度会いたいな」
「そうなんだ。学生のくせに忙しいらしいけど、今度会ったら言っておくよ」
 しばらく間を置いて茉莉が言った。
「アオハ、どうしても会いたい?」
「ん」
 そう返事をして青葉はなんだかドキドキした。

百二十九 初デート

 奈緒美のために、茉莉が希世彦に連絡してくれた。
「希世彦さん、先日はご馳走様」
「美味しいワインが飲めて満足した?」
「大満足よ。ママに話したら、今度あそこに母も連れてって欲しいって言ってたよ」
「じゃ、僕のおふくろも誘って行こうか?」
「ママにそう言っておく。ママは喜ぶと思うよ。それはそうと、一緒に連れてったアオハだけど、希世彦さんとデートしたいんだってよ」
「えっ、僕でいいのか?」
「その僕と彼女もう一度会いたいんだって」
「光栄だなぁ」
「都合の悪い日ってある?」
「ん。ここのとこ学校を大分サボったから、単位が不足しててさ、今大変なんだ」
「全然都合つかないの?」
「十一月の下旬なら何とかなるかな?」
 茉莉は希世彦の都合を聞いて、アオハに連絡した。
「希世彦さんの都合の良い日で、アオハ、時間を取れる日ある?」
「マネージャと相談するから後で電話する」

 モデルのアオハから連絡が入って十一月二十三日のお休みなら一日OKと言って来た。
「希世彦さん、アオハの携帯の番号を控えてよ。あとは直接彼女と連絡とりあって好きにやって下さいな」
 茉莉は自分がキューピッド役なんてバカバカしく思って突き放した。
「僕が直接?」
「そう」
「参ったなぁ。僕、そう言うの苦手だなぁ」
「何言ってんのよ。あたしになら気楽に電話してくるくせに」
「そりゃ、茉莉は昔から良く知ってるし、妹みたいなもんだからさぁ」
「希世彦さんって、意外にシャイな奴なんだ」
「僕みたいなのをシャイって言うのか?」
「そうよ。自分のことになると全然ダメなんだからぁ」
 と茉莉は笑った。
「頼む、もう一度だけアオハさんと調整してよ。時間とか場所は僕がセットしておくから。茉莉も当然一緒に来てくれるんだろ?」
「バカねぇ、あたし希世彦さんの保護者じゃないんだからぁ。デートに保護者を連れてくなんて聞いたことがないよ」
「参ったなぁ。まっ、いいか。その時はその時だな」
 結局もう一度だけ茉莉はキューピッド役を押し付けられてしまった。

「母さん、次の二十三日勤労感謝の日、母さんの車、一日貸してくれない?」
「あら、珍しいわね。どこかへ遊びに行くの」
「ん。ちょっとデート」
「へぇーっ? デート? 彼女でもできたの?」
「彼女じゃないけど、茉莉が紹介してくれた女の子だよ」
「名前、なんて言うの?」
「アオハ」
「変った名前ねぇ」
「芸名らしいよ。本名は聞いてないから分からないなぁ」
「で、どこに連れて行くの?」
「横浜にしようと思ってる」
「そう。気を付けて行ってらっしゃい」
 こんな話しが出ると、母親は気になるものだ。それでつい色々聞いてしまってから、
「しつこく聞いて拙かったかな」
 などと後から後悔するのだ。

 希世彦は以前何回か行ったことがある。JR根岸線の関内駅から歩いて五分位の所にあるジャズクラブ、ファーラウトに連れて行ってやろうと思った。夕方十八時半からなので、少し早めに行って、山下公園や外人墓地界隈をぶらぶら散歩してから行けば良いと思った。
 アオハには当日のお昼に六本木ミッドタウン、ガーデンテラス二階のキュイジーヌ フランセーズ JJで待ってるからと茉莉に連絡してもらった。念のため自分の携帯の番号をアオハに教えておいてくれと頼んだ。
 初めてのデートなので、スーツにネクタイ姿にした。待ち合わせのレストランには十二時少し前に入った。予約を入れておいたが、
「連れがきますから」
 と注文は後にしてもらって、コーヒーを頼んだ。

「ハァーイッ! 希世彦さん」
 アオハは希世彦の顔を見つけると手を上げてニッコリして声をかけてきた。
「やぁっ」
 希世彦はテーブルの向かい側に座るように目で示した。
「この前は美味しいワインをご馳走下さってありがとうございました」
 アオハは眩しそうな目で希世彦の顔をを見ながら先日の礼を言った。
 アオハに断って、希世彦はランチのコース料理を頼んだ。注文を取りに来たボーイに前菜はスープ、主菜は仔羊背肉のローストにしてくれと頼んだ。
「この前お話した時、ジャズ、お嫌いではないと聞いてますので、この(あと)横浜にあるジャズのライブハウスに行く予定ですが、よろしいですか?」
 希世彦が後の予定を話すと、
「あら素的ぃっ」
 と同意してくれた。
 食事が終わって、駐車場に降りて、そこから高速に乗り湾岸線を走って横浜に向かった。天気が良く、横浜ベイブリッジからの景色は良かった。アオハを見ると、ちょっとハイになっている様子で楽しそうだった。

 みなとみらいに着くと、アオハは赤レンガ倉庫を見たいと言うので近くに車を停めて赤レンガ倉庫のあたりを散歩した。山下公園まで倉庫から数百メーターあるので、一旦車に乗って移動した。歩いてもどうってことはない距離だが、アオハがハイヒールを履いてきたので気遣ったのだ。
 山下公園のベンチに座ると、二人はしばらく目の前の港の景色を見ていた。不意に、
「この景色、いいなぁ」
 とアオハが呟いた。
「貨物が少ないのも観光にはいいのかもね」
 と希世彦が応じた。
「これで少ないのですか?」
 山下公園の海に向かって右側はバース(船舶が停泊する岸壁)になっていて、倉庫が立ち並んでいる。
「韓国の釜山に行ったことはありますか?」
「いいえ」
「釜山港のコンテナターミナルは凄いですよ。船舶の往来が多くて横浜とは比べ物にならない位です。荷物の出入りも多くて活気があります」
「そうなんですか。あたし海外にあまり出たことがありませんので。CMの撮影でたまに南の島やパリ、イタリアの都市などに行きましたが、お仕事なので行って撮影が終わったら直ぐに戻るので全然知識がありません」

 山下公園の後、外人墓地界隈を少し歩いたら、夕方になった。
「店が開くのは十八時半からですが演奏は二十時からですので、ぼちぼち行きましょう。ライブハウスは軽食を取れますが、中華街でラーメンでも食べて時間をつぶしますか? それともライブハウスでは飲み物だけにして中華料理をちゃんと食べますか?」
「どうしようかな。お腹はあまり空いてないんですけど、口が食べたいって言ってます」
 とアオハは笑った。
「じゃ、ちゃんとした中華にしましょう」
 そう言って希世彦は大きな店構えの中国料理店に入った。
「横浜の中華街は店構えは豪勢でも食事はわりと安く食べさせてくれます。遠慮なさらずに、お口が食べたいと言うものを何でも注文して下さい」
 と希世彦が笑った。
 食事が終わった頃は十九時を過ぎていた。ライブハウスは夜遅くまでやっているが、帰りがあまり遅くならないようにと早めにしたのだ。

 ライブは外人のジヤズピアニストでとても良かった。アオハはずっと音に吸い込まれるように聴いていた。
 希世彦は運転があるので、アルコールは取らなかったら、アオハも希世彦に合わせてジュースにした。二十一時少し前にライブハウスを出ると、希世彦は駐車場から車を取ってきてハウスの前に着けた。
 夜の横浜ベイブリッジはライトアップが綺麗で良かった。都内に入ると東京タワーもライトアップされて綺麗に見えた。六本木に近くなった頃、
「希世彦さん、お嫌でなかったら、またドライブに誘って下さい」
 とアオハが言った。
「こんなドライブでよろしければ」
「今日は凄く楽しかったです。じゃ、約束ですよ。お願いっ希世彦さん」
 最後は甘えるような声だった。

百三十 あたし、恋人ができたみたい

「たまさん、あたし恋人ができたみたい」
 モデル青葉はちょくちょく養母の川野珠実に電話をする。希世彦とデートしてマンションに戻ったアオハは義母と話をしていた。
「今度仙台に帰ったとき話すつもりだけど」
 と付け足した。珠実はアオハ(奈緒美)の実母、加奈子が経営していたタレント養成スタジオ[カナ・プロダクション]を加奈子の死後引き継いで社長をしていた。
「そう、良かったわね。どんな方?」
「まだ知り合ったばかりだけど、東大工学部の学生さん」
「へぇーっ? どこで知り合ったの?」
「お友達アンジェリーナの幼馴染。アンジェから紹介してもらったの」
「じゃ、安心ね。いつも言うように芸能界は怖いとこだから、つまらないことでスキャンダルとか個人の情報を悪用されないように気を付けるのよ」
「はい。分ってます」
「マネージャーの千春さんには彼と会うことを話してあるの?」
「はい。もちろん。あたし、たまさんに言われた通り、お仕事以外でおでかけする時は、ちゃんと変装して、尾行をされてないか確かめるとき電車をわざと乗り換えたり、出入り口が二つ以上あるお店を通って入った所と別の所から出て(うしろ)を確かめるとか慎重にやってるよ」
「それなら安心ね。また彼と会うことがあると思うけど、ルポライターとかには十分用心しなさいよ。彼らはしつっこいし、ピラニアみたいな奴だから」

 アオハのことを希世彦がどう思っているのかまだ分からない。けれども、アオハは今は片想いでも将来きっと希世彦に自分の方を見てもらうように頑張ろうと心に決めた。
 マネージャーの武藤千春は自分より七つ年上のお姉さま的存在だったが、個人的なことには首を突っ込んでこない所が良かった。千春も独身だし、今は六本木の同じマンションで共同生活をしているが、アオハも千春のプライバシーには首を突っ込まなかった。千春はこちらから質問したり相談したりしない限り、個人的なことにはノーコメントだった。彼女だって二十代後半の年頃だから恋人は居ると思うが、まだ見たことはなかった。
 千春は仕事のことには厳しい。余程の理由でもなければいつも仕事優先でダメッ! とはっきり言ってくれた。アオハは曖昧な言い方より、はっきりとイエスかノーと言ってくれた方がさっぱりして気持ちが良かった。だから、二十三日のデートも千春がOKしてくれなきゃ実現していなかった。

 あれから十日ほど過ぎて、午後から仕事が切れたので、アオハは千夏に断って仙台の家に帰った。帰り道、銀行の貸し金庫に寄った。貸し金庫の中には母が残してくれた財産が眠っていた。現金や預金通帳、それに母が生前大切にしていた宝石類なども入っていた。全て岡田弁護士が遺産相続の手続きをしてくれたから、今はアオハ自身の財産だ。義母の珠実も貸し金庫のことは知っていたが、
「自分は一切関わらないから奈緒美の好きになさい」
 と言って金庫には関わらなかった。
 母のお墓は母の実家の墓と一緒だとは知っていたが、行ったこともなく、場所も忘れてしまったから、アオハはこの貸し金庫を母の想い出の場所と決めていた。ここに来れば、母が愛用していたアクセがいっぱいあって、母の匂いが残っているように思っていた。
 その日、アオハは貸し金庫の前で独り呟いた。幸いなことに貸し金庫のある部屋にはめったに他人が入ってこない。
「ママ、あたし、素的な恋人ができたみたい。彼と上手く行くように、ずっと見守って頂戴ね」
 そう言いながらアオハの中に母の想い出が蘇ってきて涙が出た。
「ああ、それから庄司だけど、今九大の受験勉強で頑張ってるって言ってたよ。九大は九州じゃ一番難しい学校なんだって言ってた」
 貸し金庫室を出ると、アオハはマンションに向かった。
「ただいまぁ」
「早かったわね」
 予め連絡してあったので珠実は帰宅していた。
「しばらくぶりだから、外に食べに出ない?」
「いいわよ」
 二人は連れ立って定禅寺通りの三越デパートの少し先にある(たくみ)と言う焼肉屋に行った。この店は美味い仙台牛を食べさせてくれる。

 珠実は奈緒美の初めての恋人について色々聞いた。実の母ではないが、やはり間違いがあってはいけないと心配していたのだ。奈緒美は加奈子に可愛がられて育ち、どちらかと言えば箱入り娘みたいな所がある。男性にも免疫が殆ど無いから悪い男に騙されやしないかと、最初聞いた時には一瞬アオハの気持ちも考えずに警戒してしまった。多分娘を持つどこの母親でも同じ気持ちになるだろう。
 アオハの報告を聞き終わると、
「あたしが会ってあげるから、その内お家に連れていらっしゃいよ」
「まだそこまで親しくなってないけど、いいわ、今度会った時誘ってみる」
 と奈緒美は答えた。

百三十一 沙里、その後

 沙里を麻薬中毒に陥れたシロウと言う青年は、山梨県警から押送(護送)されて、新宿警察署の留置所に監禁されていた。沙里の祖母、米村美鈴はシロウの国選弁護人に同行して新宿警察を訪ねた。面会の手続きを取ってシロウと面会することになったが、シロウは大人しく出て来た。
「こちらは君がヘロインを注射しまくって中毒になってしまったお嬢さんの祖母にあたる方だ」
「……」
 シロウは伏目がちに美鈴を見て軽く頭を下げた。
「この方に何か言うことはないのかね?」
 シロウはしばらくの間黙っていたが、やがてボソッと呟くように、
「オバサン、すみませんでした」
 とまた頭を下げた。今度は丁寧に下げた。
「謝る所を見ると、あなたご自分が悪いことをしたと思ってるのね」
「……」
 シロウは口では答えなかったが、こくんと頭を下げ頷いた。背が高くちょっとイケメンで淋しげな顔をしている。
「お名前は何て言うの?」
「馬渕志郎です」
「馬渕は馬の渕?」
「はい」
「シロウはどんな字?」
「志望校の志と良いにこざとの郎です」
「志郎さんね。いい名前だわね。志を持つ男よ」
 シロウは少しはにかんだような顔をした。
「あなた刑務所で罪を償った後どうなさるおつもり?」
「考えてません」
「名前が泣くわよ」
「はい」
「前科者は世の中に出てもなかなか雇ってくれる所がないわね。そんな時はどうなさるおつもり?」
「さぁ。やっぱ今までと同じようなとこで雇ってもらうっかないです」
「頑張って真面目なお仕事をしたいとは思わないの?」
「オレみたいな奴にはチャンスなんてないっすから」
「もしチャンスがもらえたら?」
「そりゃちゃんとした仕事をしたいっす」
「わたくしは、たいしたことはできませんが、これでも警察の方々とこちらの弁護士さんと相談して、あなたがきっちりと更生するお気持ちがあるなら少しは応援して差し上げること位はできるのよ。今日はあなたの気持ちを聞いてみたくて面会をさせて頂いたの」
「……」
 志郎は美鈴の顔をじっと見ていた。今度は伏目勝ちでなくて、真直ぐに美鈴を見ていた。美鈴は青年を慎重に観察していた。
「どう? 頑張るお気持ちを持てそう?」
「はい」
「分ったわ。男はウソをついてはいけませんよ」
「はい。ウソではないです。よろしくおねがいします」
 美鈴は弁護士に向かって、
「後ほどご相談させて下さいな」
 と言って面会を終わりにした。

 美鈴は馬渕志郎の件について、国選弁護士と柳川哲平に会合の席を設けて、そこで相談した。相談の末。
「分った。志郎とか言う男、こっちで面倒を見てあげましょう。沙里ちゃんと顔を合わせないように源さんのとこでどうかこっちで相談しておきます。志郎の刑については略式起訴(略式手続き)で行くように警察と調整してみるよ」
 柳川はそう答えた。
「略式で行けますか?」
 と弁護士が質問した。
「わたしに任せてもらえますか? 多分大丈夫ですよ」
「どんな形になりますかな?」
「警察の考えることだから。わたしじゃいい加減な答えしか出ませんが、多分執行猶予付きで罰金で済ますことは可能でしょう」
 弁護士は少し不思議な顔をしたが黙っていた。
「出てきたら直ぐわたしの所で引き取ります。米村さんの目には狂いがないですから、多分わたしの所で叩きなおしたら結構使える男になると思いますよ」
 柳川は自信あり気に答えた。
 柳川が言った通り略式起訴が行われて、裁判所から略式命令が下りた。結局罰金三十万円、執行猶予五年となり、命令が下りた日に馬渕志郎は柳川が懇意にしている大久保の源さんの所に引き取られた。身元引き受けは柳川がやった。こうして馬渕志郎は真面目に働き始めた。
 それから一ヶ月ほど経って、美鈴は源さんの同意を得て、源さんの所でやっている割烹で志郎と会った。
「この度はお世話になりました。その節は大変なご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
 予め源さんから言われていたのか、志郎は美鈴に畳に頭をこすり付けてきっちりと挨拶した。顔を上げると志郎は美鈴を尊敬するような眼差しで見た。
「あなた、改めて見るといい男ねぇ」
 と美鈴が言うと志郎ははにかんだ顔で照れ笑いをした。
「ちゃんと真面目に働いとるから、いまのとこ、米村さん、なんの心配もないですよ」
 と源さんは笑った。

 志郎と会ってから約三ヵ月後、十一月の半ばに沙里は退院した。大分以前の可愛さを取り戻したが、時々遠くを見て考える風な所が増えていた。
 沙里の母、沙希の所に栗山智(サトル)から、
「沙里ちゃん退院したんだってね。良かったなぁ。それで、章吾と相談したんだけど、沙里ちゃんの快気祝い、気持ちがサッパリする広々した所に皆で出かけてバーベキューパーティーをやりたいんだけど、沙希さんはどう思う? 出来れば二十三日の休日がいいね」
 と電話が来た。サトルはアウトドアー派で、四駆の大きな車を持っていて、何かあるとキャンプだとかバーベキューだとか言ってくるのだ。
「いいんだけど、二十三日はダメよ。希世彦の都合が付かないのよ」
「そう。珍しいね。またどうして?」
「デートだって」
「へぇーっ? 誰と?」
「あなたの茉莉ちゃんに聞いてよ。茉莉ちゃんが紹介した人らしいわよ」
 それで一週間ずらせて十一月最後の日曜日に皆で出かけることになった。場所は善雄が最近買った箱根の別荘になった。庭が五百坪ほどあり温泉も入れるし丁度良い。善雄は多分ダメだろうから、沙希、章吾、美登里、智、マリア、希世彦、沙里、茉莉、志穂の九人だ。

百三十二 希世彦の彼女

「母さん、車ありがとう。ちやんと洗車して満タンにしておいたよ」
 アオハとのデートが終わって、希世彦は母に車を返した。息子が母親の車を借りたら、普通は洗車して満タンで返すなんてことはめったにない。レンタカーのように、ちゃんと満タンにしたことは希世彦の性格を表していた。
「それで、茉莉ちゃんが紹介してくれた人、どうだったの?」
 母の沙希は車のことよりも、希世彦がデートした相手のことが気になっていた。可愛い息子のお付き合い相手だから母親が気にならなかったら不思議だ。
「綺麗な子だった」
「女子大生?」
「進学せずにモデルになったみたい」
「美女は目に極楽、財布には困り者、そんな感じしなかったの?」
「ああ、まだ良く分らないけど、そんな風には見えなかったな」
「恋は盲目」
 沙希は笑った。
「僕、恋なんてしてないよ」
「一目惚れってあるじゃない?」
「僕は一目惚れはしないなぁ」

 理工学系の学生が皆そうだとは言えないが、希世彦は物事を論理的に考える性格があった。女に惚れるのは理屈ではない。感性の世界の賜物だ。だが、希世彦は偶然の出会いに期待するようなことはなくて、相手の女性と話をしながら、ひとつひとつ丁寧に自分の考えを話し、話の中に見栄や誇張、逆に遠慮したり(へりくだ)ったりすることはなかった。女性から見れば、自分の言ったことをひとつひとつ丁寧に考えてくれて、誠実な答えが戻ってくれば、好感を持てるに違いない。だが恋に落ちるには、気持ち的に相手に迫る勢いも必要だ。でないと、女性から見れば、物足りないと感じてしまうだろう。
 もしも、彼がここで一押ししてくれれば、自分は相手の男にされるがままになってもいいと思って、それを待っていても、男が一押ししてくれなければ、熱い気持ちがそこで萎えてしまうのだ。希世彦はそんな女心に疎かったのだろう。今まで何人かの女友達と話をしたことはあるが、相手の女性とは友達以上のお付き合いに発展したことはなかった。

 そんな性格の希世彦の中にも、モデルのアオハに今までとは違った印象を抱き始めていた。先ずアオハは自分と性格が似ているのか、希世彦の話をひとつひとつ良く聞いて、自分の考えを話してくれた。だから短い時間の間にアオハのことを良く理解できたように思っていた。今まで話をした女性は全て東大生と言うことが頭の隅にあるらしく、話の端々にそんなニュアンスが出ていた。アオハは違った。大学がどこだとか、そんなことにはあまり関心がないようで、大学のことなど殆ど話題にはならなかった。東大生だから頭がいいとか、将来就職口に困らないだろうとかそんな内容の話は一言も話題にせず、今をあるがままに生きていこうとする気持ちが話しの底流にあったように感じていた。それは希世彦自身が初めてのデートだと言うアオハに望んだことでもあったのだ。
「アオハって子は僕が感じた通りの子だったよ」
 この最後の会話の裏側を沙希が理解したかどうかは分らないが、希世彦が女性についてそんな風に沙希に話をしたのは初めてだったので沙希は、
「おやっ?」
 と思った。

 十一月最後の土曜日の夜、希世彦がそろそろ寝ようとした所に携帯の呼び出し音が鳴った。相手はアオハだった。
「遅くにごめんなさい」
「丁度寝るとこだった。大丈夫だよ。何?」
「希世彦さんの声が聞きたくなったの」
 希世彦は、ふふふっと軽く笑った。こんな場合女性が何を感じたいと思っているのか、晩生の希世彦は気付かずに笑ってしまったようだ。それで、
「それだけ?」
 と聞いてきた。
 多分アオハの期待した答えとは違っていただろう。
「あのう、急なんですけど、明日の日曜日、ご都合はいかがですか?」
「ごめん。明日妹の快気祝いでみんなで箱根に行く予定なんだ」
「ご家族でですか?」
「ん。あなたを紹介してくれた茉莉も一緒だよ」
 一瞬だが、アオハは茉莉に嫉妬を覚えた。
「そうなんですか。箱根かぁ、いいな」
「また時間が空いた時が出たら教えて下さい」
「残念ですけど、またご連絡します。おやすみなさい」
 電話を切ってから、アオハは心の中にぽっかりと空洞が出来てしまったような気持ちになった。

百三十三 お仕事だから

「アオハさん、来週の火曜日、撮影のお仕事が終わってから、S化粧品の宣伝部長さんとの会食のお席に同席して下さらない?」
 アオハにマネージャーの武藤千春が声をかけた。
「あら、いつもは千春さんがお相手をして下さってる方でしょ?」
「そうよ」
「今度の会食、どうしてもあたしが出ないとダメなの?」
「ええ。お願い。部長さんの話しだと来年の計画を説明したいので、新しいコンセプトとかについてモデルさんにも聞いてもらいたいんだすって」
「じゃ、お断りは出来ないのね」
「先方ではアオハさんにはどうしても出て欲しいんですって」
 これじゃ、ダメ押しじゃないか。アオハは気が進まなかったが、お仕事じゃ仕方が無いので同意した。

 希世彦は学生だが父親が副社長を務める日本橋三井タワーにオフィースを持つ○○ホールディングスの[企画部付き]の肩書きを持っていて、会社から月々給料を受け取っていた。○○とは普通は名前をはっきり出さないために××会社とか○○商事とか表すものだが、○○ホールディングスは正式な社名で○○を[まるまる]と読ませていた。小型回転機器を主製品とする米村工機の持ち株会社で回転機器をイメージして○○と名付けられていた。社長は創始者の祖父米村善太郎だった。善太郎は工機の会長で、息子、つまり希世彦の父の善雄が工機の社長を務めていた。
 希世彦は会社から受け取った月給三十万弱を学費や交際費として自由に使っていた。
 丁度アオハが宣伝部長の接待に引っ張り出された日、希世彦も父に命令されて、先日海外旅行中立ち寄ったマレーシャの関連会社の社長が来日していたために、夕方オフィースのある三井タワーの上層階にあるマンダリンオリエンタル東京のレストランでの会食に付き合うことになっていた。それで、学校の授業が終わると、希世彦は日本橋のオフィースに出向いていた。

 会議が終わって、父と、希世彦の上司にあたる企画部長と三人で三十七階にあるフレンチのレストランに客を案内した。食事が終わると、
「これからバーでちょっとやるから、希世彦は先に帰りなさい」
 と父に言われて、一人でレストランを出た。エレベーターホールに向かうと希世彦は、
「おやっ?」
 と思った。先日デートしたアオハと言う女性と四十歳位の男が二人でエレベーターが来るのを待っていたのだ。希世彦は顔を合わすと気まずい思いをすると思って、二人がエレベーターに乗り込むまで少し離れた所で待っていた。やがて二人がエレベーターに乗り、扉が閉まったので希世彦もエレベーターに近付いた。何気なく通過階を示すランプを見ていると、エレベーターは三十五階で止まった。しばらくそのままだったので希世彦がボタンを押すとエレベーターは三十七階に戻ってきた。三十階から三十六階はホテルの客室だけだ。それで希世彦はアオハが男と一緒にホテルの部屋に行ったことを知った。アオハはモデルだし、先日会ったばかりだし、希世彦はそんなこともあるんだろうと特に気に留めず、自分はエレベーターで地下一階まで降りて、そのまま地下鉄の駅に向かった。

 火曜日に、アオハは千春と共に先方が指定してきた日本橋の三井タワーに向かった。マンダリンオリエンタル東京の三十七階にある広東料理を食わせるレストランだった。
 宣伝部長はアオハが同席したのですごく機嫌が良かった。
「ここの料理、美味いだろ?」
「はい」
 アオハは先日デートに誘ってくれた希世彦が連れてってくれた横浜の中華街のレストランの方がずっと美味しかったと思ったが、部長に合わせて、
「はい」
 と答えたのだ。料理が美味い不味いは個人差があるから部長の趣向を押し付けられたような気がしたが顔には出さなかった。
 食事が終わりに近付いた頃、千春の携帯が振動した。
「恐れ入ります」
 と言って千春は席を外して電話に出た。千春は席に戻ると、
「済みません、急用ができまして、お先に失礼させて頂きます。アオハさん、お食事が終わったら部長さんに失礼のないように駐車場までお送りして下さいな。それが終わったら先にお帰りになってぇ。部長さん、ごめんなさい」
 そう言って先にレストランを出た。

 食事が終わると部長は、
「そうそう、まだ来年の計画を話してなかったね。資料をこの下の部屋に置いて来たからちょっと付き合ってくれないか?」
 そう言ってアオハと一緒にレストランを出た。アオハは会計に行くと、既に支払いは千夏が済ませていた。
 部長はエレベーターで三十五階に降りると、部屋に案内した。アオハは説明を受け資料を受け取ったら帰るつもりでいた。だが甘かった。部長は、
「ちょっといいだろぅ?」
 と言ってアオハのウエストに手を回して抱き寄せた。アオハは、
「困ります。お仕事が終わりましたら直ぐ帰らせて下さい」
 と抗った。だが止める様子はなく、アオハのヒップに手を当てて、エッチな行為を始めた。
 アオハは咄嗟にヒールの(かかと)で部長の足の甲を踏んづけた。
「イテテェッ」
 部長がひるむ隙にアオハはドアーを開けて外に出た。一目散にエーベーターホールに走るとエレベーターのボタンを押した。部長が追いかけて来たらどうしようと思ったが、後を追いかけては来なかった。

 翌日千春に報告した直後に宣伝部長から電話が来た。長い、長い電話を終わると、
「来年、ダメになったわね」
 と千春はぼそっと呟いた。
「アオハさん、気になさらなくてもいいのよ。あんな助平な宣伝部長、切れてあたしもせいせいしたわよ」
 と千春は言った。千春の話しだと、どうやら以前に何回か千春が相手をさせられたらしい。
「ねちっこくて、いやらしい奴よ」
 千春は投げやりにそんな風に言った。
 その日も千春はアオハ一人残して来たのである程度予想はしていた。あの嬉しそうな顔をしていた部長が何も無くてアオハを帰すはずはないと思っていたがやはりそうだった。だから、マンションに戻ってその夜アオハが部屋に閉じこもって出て来なかったので、あるいはアオハが部長にひどいことをされてしまったのかとも思っていたのだ。

百三十四 2回目のデート

 十二月に入った。アオハはもう二週間も希世彦に会ってない。たった二週間と言えないこともないが、希世彦を想うアオハの気持ちは二週間は長かった。この二週間だって、アオハは殆ど毎晩希世彦に電話をかけていた。言う事は決まっていた。
「希世彦さんのお声を聞きたくて」
 相変らず希世彦の応対はアオハの恋しいと思う気持ちを察してくれている様子ではなかったが、希世彦の声を聞くだけでもアオハの気持ちは落ち着いた。
 ようやく次の日曜日お休みを取れそうなので早速希世彦に電話をした。
「希世彦さん、次の日曜日ご都合はいかがですか?」
「大丈夫だと思う。またドライブがいい?」
「会って下さるなら何でもいいです」
 このアオハの返事の意味を希世彦はどれくらい理解しただろうか? 多分希世彦には通じていなかったかも知れない。
「じゃ、僕の方で考えておくよ」
 アオハはその瞬間から次の日曜日が待ち遠しくなった。

 誰でも、待つ時は長く感じるものだ。だが、不思議なことにあとで振り返るとあっと言う間にその日が来たように感じる。
 アオハはその日の仕事が終わると、毎日後何日で会えると楽しみだった。あと何日と数えている間に、日曜日はやって来た。
 土曜日の夜中に希世彦に電話をすると、希世彦はアオハからの電話を待っていた様子だった。
「初めて待ち合わせたレストランに十一時半で如何ですか?」
 アオハは六本木ミッドタウン、ガーデンテラス二階のキュイジーヌ フランセーズ JJを決して忘れることはなかった。
「はい。楽しみにしてます」
「下はスカートでなくパンツ、暖かくして来てよ」
「はい」
 日曜日、アオハはきっかり十一時半に待ち合わせのレストランに入った。希世彦はちやんと来ていた。
「こんにちわぁ。待った?」
「今来たばかりだよ」
「そう、良かった」
 アオハは最初と変らない希世彦の顔を見て安心した。

「夜、少し遅くなってもいい?」
「はい。大丈夫です」
 十二月に入ったばかりなのでそれほど寒くはなかった。それで希世彦は関越高速道を走って水上あたりまで行ってみようと計画していた。
 昼食が終わってすぐ二人は出かけた。希世彦は四駆の大きな車に乗ってきた。
「ああ、この車ね、茉莉のオヤジさんに頼んで借りたんだ。万一路面が凍っていても、スタッドレスの冬タイアを履いてるから大丈夫なんだ」
 だが高速道は乾燥していて、水上あたりでも所々道路脇に融け残った雪がある程度だった。
 道は混でいたが、谷川岳山麓のロープウェイがまだ運転している時間に着いた。暗くなる前にと二人は直ぐにロープウェイに乗って山の上の方に上がった。山の中腹から上はすっかり雪に覆われていて、スノボーやスキーをやる若者が大勢いた。
「ソリを借りてちょっと滑ってみる?」
「はい」
 ゲレンデに出てソリを借りて二人して乗った。希世彦は急斜面を避けて傾斜がなだらかな雪面で滑ったのでスピードは出なかったが、アオハは久しぶりに雪を見てはしゃいだ。滑る時はしっかりと希世彦に抱きついて、二人一緒に転んだ時は少女のように笑いこけた。

 最終のロープウェイで下って車に戻った時は辺りは薄暗くなっていた。
「日帰りの温泉に浸かっていかない?」
「困ったな。あたし下着とか持ってこなかったですから」
「着替える下着がないとダメ?」
「そんなことはないですけど」
「じゃ、水上温泉で一風呂浴びてから帰ろうよ」
 アオハは希世彦に従った。
 帰りの道路も渋滞していた。アオハは希世彦と色々話ができるので、渋滞してかえって良かったと思っていた。希世彦は先日見たアオハのことをあまり気にはしていなかった。普通ならあれこれと邪推をしがちだが、希世彦は本人が話さなければ改めて聞く必要はないし、見ただけと実際あったこととは内容が違うことが多いから誤解の元になるので、疑うならむしろ直接聞いてハッキリさせた方が良いとも思っていた。希世彦は人と人との交わりで信頼にヒビが入るのは好ましくないと常々思っていた。
 だが、たまたまアオハの仕事のことが話題になったとき、
「アオハさんのように綺麗な方はお仕事以外でも誘われることが多いでしょ?」
 と聞くと、
「いいえ、マネージャーさんが対人関係の面倒なことは全部やってくれますし、個人的に会う場合でも一応マネージャーさんを通しますからたとえお誘いを受けても拙い時はマネージャーさんがお断りしてくれます。なのでお付き合いする機会はあまりないです」
 と答えた。
「じゃ僕と今日デートしているのは例外?」
 と聞くと、
「いいえ。マネージャーさんに了解を頂いています」
 と答え、
「そうそう、先日大手化粧品会社の宣伝部長さんとマネージャーさんと一緒に会食した時の話しですけど、マネージャーさんに急用ができてあたしと部長さんだけになったの。そうしたらホテルのお部屋でお仕事の説明をするからと言って部屋に誘われて、あやうくHなことをされそうになって、あたし、希世彦さんとのお付き合いがあるし、必死にお断りしましたけど、相手が強引で、それで困ってしまって、咄嗟にヒールで部長さんの足を踏んづけて何とか逃げて帰りました」
 と付け加えた。
「大変だったね」
「そんなこと初めてだから必死でした」
「お仕事に差し支えなかったの?」
「おおありです。来年のお仕事を断られました」
「マネージャーさんに叱られたでしょ?」
「いいえ」
「仕事がらみでそんなことをする奴は許せないですね」
 と希世彦は答えながら、将来父の会社を自分が引き継ぐとして、部下にそんな奴がいないか心配になった。そんな評判は手を回して客から聞き出すのが良いのだ。だが、それは部下を信用しないのと背中合わせだから難しい問題だと思った。それと同時に、見たことだけで邪推をせずに、話は当事者からきちんと聞いて見ることがとても大切だと改めて知らされたような気がした。

「あら綺麗!」
 車が都心に入るとあちこちでクリスマスのイルミネーションが美しく輝いて綺麗だった。希世彦は六本木でアオハを降ろすと池袋に向かった。別れぎわ、アオハが手を差し延べた。希世彦が軽く握ると一瞬アオハは顔を赤らめた。希世彦の手のひらにアオハの柔らかい手の感覚がいつまでも残った。
 アオハとデートして二日後、
「希世彦、水曜日の午後時間を空けられないの?」
 と母の沙希に聞かれた。
「多分空けられる」
「じゃ。渋谷に沙里と付き合ってあげてよ」
「えっ?」
「沙里ちゃん、洋服買いたいんだって。ボディーガードよ」
 と母は笑った。
 渋谷で買い物をした後、原宿にも寄ってくれとつき合わさせられた。表参道を青山通りに出て、青山のブティックも見て歩いた。
「代官山も行きたいけど今日は止めとく」
 希世彦は半日沙里の買い物に付き合って夕方帰宅した。

 アオハはその日マネージャーの千春と一緒にタクシーに乗って渋谷から青山通りを通って赤坂に向かっていた。丁度表参道の交差点で赤信号になり、道行く人をぼんやり見ていたアオハは突然緊張した。横断歩道を希世彦が歩いて来てタクシーの前を通り過ぎる所だった。アオハはタクシーを下りて希世彦に声をかけようとした。だが希世彦の腕に絡み付いて、希世彦に楽しそうに話しかける自分と同年代の女の子が居るのを見て体が凍りついたようになり、声をかけなかった。アオハは見てはいけない光景を見てしまったような気持ちになった。
「もしかして、あたし希世彦さんに弄ばれてるのかなぁ」
 その夜は希世彦に電話をしないで眠ってしまった。

百三十五 もどかしい気持ち

 最初のデートの後から、希世彦がそろそろ寝ようかなと思っている時に、タイミングを計ったようにアオハから可愛らしい声で、
「お声を聞きたいから」
 と電話が来た。所が最近それがぴたっと止まり、電話が来なくなった。そうなるとおかしなもので、今まであまり気に留めていなかったのに、何かあったのかと心配になるのだ。あるいは急に気が変って、自分に興味がなくなったのかとか余計なことまで考えてしまうのだ。
 アオハのことは希世彦の心の中ではまだはっきりと自分の恋人だと言う意識はなかった。それなのに、ここのとこ気になるのだ。一週間が過ぎ、十日が過ぎても電話は来なかった。だからと言って希世彦は自分の方から電話をする勇気はなかった。
 アオハはアオハで悩んでいた。あの日自分と同い年くらいの綺麗な女性が希世彦の腕に絡まりつくようにして楽しく話しながら横断歩道を歩く姿を見てしまったからだ。考えてみると、希世彦に心を決めた女性が居るのか聞いてなかった。けれど、希世彦のような素的な奴なら、既に恋人が居ても不思議じゃない。そう思うとデートの時の色々なことが思い出されてしまう。二回目のデートの別れ際にアオハが差し延べた手をそっと握ってくれた。アオハはその瞬間ドキドキした。だが、希世彦が自分の身体にそんな形で触れたのはその時が初めてで、希世彦は積極的に自分を包み込もうとするような仕草はなかった。アオハは希世彦はシャイな奴だと思って、いずれは抱きしめてくれる時が来るだろうと思っていたが、もしも、あんな素的な恋人が居るなら、そんなことはこれから先もないかも知れないとまで思ってしまった。

 父親が大好きな娘は、恋人にも父親の面影を重ねて見たりするものだ。アオハは毎日父親の都筑庄平に会いたいと思っていたし、機会がある毎に父親の消息を捜し求めていた。それが、希世彦に会って見ると、彼の中に何となく都筑の面影のような所があって、それですっかり希世彦を好きになってしまったのだ。それに、希世彦は礼儀正しく、何事もきっちりしていて話を聞いていてとても楽しい所もアオハにとって好ましく、尊敬できる人だと思っていた。
 今夜も希世彦に電話をしたい気持ちと、恋人が居る人にしてはいけないと言う気持ちがない()ぜになって、アオハはもどかしい気持ちを持て余していた。
「希世彦さんの声を聞きたいなぁ。でもご迷惑で嫌われたらどうしよう」
 アオハの悩みは増大して、その夜もなかなか眠れなかった。

 後二週間もするとクリスマスだ。希世彦はクリスマスイブにはアオハとデートして、二人で街を歩きたかった。
「プレゼントも用意しなくちゃ。アオハには何がいいかなぁ」
 そんなことを考えると、ここのとこぷっつり連絡が途絶えているアオハの可愛らしい声を聞きたくなるのだ。母親の沙希はさすが敏感だ。
「希世彦、最近悩みことでもあるの?」
 希世彦は母親に心の中を知られてしまって返事を一拍遅らせてしまった。
「べつに……」
 沙希は希世彦が、
「べつに」
 と答えた時は何かあることを知っていたが、それ以上は突っ込まなかった。
 クリスマスイブを一週間後に控えて、とうとう希世彦は我慢の限界に達した。それで、夜寝しなに、思い切ってアオハに電話を入れた。
「はい、アオハです」
 と可愛らしい声が返ってくると思ったが、
[電源が切られているか、電波の届かない……]と。
「くそっ、やっぱなんかあったんだな。仕方が無いか」
 それで希世彦は電話を諦めた。
 丁度希世彦が電話をした時間、アオハは撮影のスタジオに居て録画撮りの最中だった。アオハは仕事中は携帯の電源を切っておくのを習慣にしていたのだ。仕事中に携帯の呼び出し音が鳴ると気が散って集中できずに、最初の頃、しばしばそれでNGを出してしまったので、今はその習慣を徹底していた。

百三十六 プレゼントの品

「アオハに何をプレゼントしようかな?」
 希世彦はクリスマスのプレゼントに悩んだ末、日本橋大伝馬町の靴屋に就職した高校時代のクラスメイトに電話した。
「須藤君、ご無沙汰してます」
「どう? 大学の方は順調?」
「ん。単位不足でもがいてるよ」
「お前みたいな秀才でもか」
「アハハ、凡人の悩みだよ。ところでさ、僕が考えた変な靴、君に作ってくれって頼んだら引き受けてくれるかなぁ」
「いいけど、納期はもらえるのか?」
「クリスマスプレゼントにと考えてるんだ」
「おいおいっ、そう言う話は早く持ってこいよ。あと一週間じゃきついなぁ」
「ダメか?」
「今日こっちに来られるか?」
「ああ、直ぐ行くよ」
 希世彦は自分で考えた絵を持って直ぐに家を出た。
 希世彦は靴メーカーに就職した須藤が勤めている店に着くと早速自分で書いた絵を広げて説明を始めた。
「履く人は僕の友達のモデルさん。彼女の話しだと、写真撮影とか録画撮りの時に時々待たされることがあるらしいんだけど、大体脚を出していることが多いらしくて、寒いんだって。それでさ、こんな風に魚釣りをする時に使うゴム長みたいにさ、脚のももから股まで覆うような超ロングブーツが欲しいんだ。内側は柔らかい羊、ラムの毛皮がいいね。サイズはブカブカでもいいよ」

 須藤は絵を見てしばらく考えていた。それで、
「米村のアイデアはいいけど、使う目的から言えばブーツでなくて、靴を脱がないでも簡単に履けるパンツがいいんじゃないか?」
「そうか。それでもいいな」
「パンツだとサイズが必要だな。分るか?」
「正確じゃないが、ウエストは65センチ、ヒップは88センチ、股下はヒールの高い靴はいてるから、そうだなぁ、僕が77センチだから、75センチくらいでいいよ。股上は24~25センチ」
「それくらいデータがあれば作れるよ。両脇はウエストから裾までオープンファスナーだな。スノボのオーバーズボンみたいな感じだな」
「けつに左右大き目のポケットを付けてくれ」
「分った。問題は納期だな。兎に角頑張って見るよ。表は真っ白のバックスキンって感じだな」
「ん。頼む」
「予算は?」
「かかっただけ払うよ」
「お前らしいな。出来るだけ良い材料を使って普段でも使えるように作ってやるよ」

「出来たぞ」
 靴屋の須藤から電話があったのは二十四日のお昼だった。
「ありがとう。直ぐ取りに行くよ」
 行くと靴屋とは言え皮の扱いに慣れているらしく綺麗に仕上がっていた。内側は感触の良い羊毛でふかふかしていた。多分はいたら暖かいだろうと思った。須藤は申し訳なさそうに十八万円を請求したが希世彦は、
「君の頑張り料も取ってくれ」
 と言って二十万を支払った。

 希世彦は今まで何度かアオハに電話をしてみたが、電源が切れていないのに電話に出てくれなかった。だが、何か都合があるのだろうと思って。プレゼントだけは用意した。
 結局クリスマスイブの二十四日午後も電話を取ってくれなかった。二十四日夜、最後の電話を入れたが無視されたようだ。希世彦は女性からこんな風にされたのは初めてだった。それで、自分に何か落ち度でもあったのかと悩みながら、二回のデートのことを思い出してみたが、これと言って気付く所は何もなかった。
「クリスマスイブなのに、今年はでかけないの?」
「……」
 母の沙希にそう言われて、希世彦はどう答えて良いものやら、黙っていた。
 その夜、寝しなに、もしかしてと期待をしたが、結局アオハから電話はこないで、イブは虚しく過ぎ去ってしまった。希世彦はもうアオハのことを諦めた。

「あたし、どうしよう」
 アオハは希世彦から何回も電話が来たが、既に恋人が居る人とお付き合いするのは良くないと自分に言い聞かせ、我慢して電話を取らなかった。だが希世彦を思う気持ちは日毎に強くなって、電話が来るとなんとも言えない遣る瀬無い気持ちになって落ち込んでいたのだ。

百三十七 新年会

「アオハ、元気」
「元気って? ……元気よ」
「なによその返事。大丈夫なの?」
「大丈夫よ」
 モデルのアンジェリーナはしばらくぶりに仲良しのモデル、アオハに電話した。クリスマスが過ぎるとあっと言う間に正月が過ぎた。
「お正月休みの間に仲良しの二人と一緒に東京ディズニーシーを見た後でホテルのレストランで新年会やるんだけどあなた来られない?」
「何日?」
「急なんだけど、明日の一月三日」
「大丈夫だけど、お正月でも開いてるの?」
「年末年始無休だそうよ」
「じゃ、あたしも行くわ」
 それで新年会は女四人でやることに決まった。

 三日当日、十時にJR京葉線舞浜駅南口改札口で待ち合わせをすることになった。四人は約束時間に集まった。茉莉がアオハに志穂と沙里を紹介した。
「こちらが志穂さん、こちらが沙里さん。あたしたちより一個年上のお姉さま。今年成人式だよね」
「お姉さまだなんて、茉莉はちっともそう思ってないくせに」
 と志穂が笑った。アオハは沙里の顔を見て驚いた。驚いたと言うより何か悪い人と会ってしまったような、そんな気持ちがした。だが顔には出さなかった。目の前に居る沙里は忘れもしない、昨年表参道の交差点、青山通りの横断歩道を希世彦に腕を絡めて楽しそうに歩いていた希世彦の恋人ではないか。アオハは偶然の悪戯を呪った。
 抑え切れないほどの気持ちでいるアオハは三人のあとを追ってディズニーシーに入った。アオハの中ではほんの少しだが、前を歩く美しい沙里に嫉妬を覚えていたのだ。
 アトラクションは無かったが、割合混雑していた。ディズニーランドもディズニーシーもあちこち回って歩くと直ぐに一日潰れてしまう。
 その日も少し回った所で直ぐにお昼の時間になった。
 お昼は地中海料理を出すカフェ・ポルトフィーノに入ってシーフードドリアの他に夫々好きなデザートを注文した。志穂と沙里はチョコレートケーキ、茉莉とアオハはレアチーズケーキ、ラズベリーソースにした。

 楽しくおしゃべりをした後で、また園内を回り、一通り見終わってしまうと夕方五時を過ぎてしまった。園内は照明で明るいが、一月なのでもう外は薄暗くなっていた。
 アオハはいつもより口数が少なかった。さりげなく沙里を見ているとなかなか素的な奴だ。これじゃ希世彦の恋人でもおかしくない。そう思うと益々口が重くなった。
「アオハ、体調悪いの?」
 気付いた茉莉にアオハはクビを振って否定した。
 四人は揃って近くのディズニーアンバサダーホテルの中のレストラン、エンパイアグリルに入った。カリフォルニア料理と書いてあったが、どうやらメキシカン的な料理らしい。四人は一番安いムーンライトディナーと言うコース料理を選んだ。
「今日希世彦さんがちょっと顔を出すって言ってたから、そろそろ来ると思う」
 と茉莉がアオハに言った。
「えっ?」
 アオハは胸を締め付けられたみたいに驚いた。
「何よ、今日のアオハ、ちょっと変。彼から聞いてないの?」
 アオハはどう答えていいものやらドギマギした。アオハは希世彦が恋人の沙里と仲良くする所なんか見たくもなかった。この場に自分の居場所がないような気持ちにもなっていた。
 茉莉はその様子を見て、アオハが皆と一緒に希世彦と会うのが恥ずかしいのだろうと思ってそれ以上は言わなかった。

 食事は五人分注文した。丁度テーブルに前菜が出て来た時、希世彦は沙里に聞いていたレストランに入り、キョロキョロ女たちを探した。
 いち早く沙里が希世彦に気付いて立ち上がると、
「お兄ちゃん、こっち」
 と少し大きな声を出した。すると、テーブルの客の視線が一斉に沙里に集まり、沙里は顔を赤くして着席した。
「お兄ちゃん」
 と声をかけた先をアオハが見ると、丁度こちらを見た希世彦が居た。
「えぇーっ? お兄ちゃん? 希世彦の恋人だとばっかり思っていた人がお兄ちゃんだなんて、あたしどうしょう。まさか希世彦の妹だなんて全然想像もしてなかったな」
 アオハは心の中で呟いて、背中に冷や汗が出て、顔から血の気が引くのを感じていた。同時に今まで電話にも出ずに居た自分を呪った。
「なんてバカなことをしちゃったんだろう。あたしってダメだなぁ」

 希世彦の席はアオハの隣にしてあった。茉莉が気を遣ったのだ。希世彦はテーブルの所にやってくるとアオハに、
「やぁ」
 と声をかけた。
 だが、その後は希世彦はアオハの視線を避けている様子でアオハから目を逸らせ、一言もアオハと話をしなかった。
 アオハはもうどうしたらいいのか、希世彦にどう接すればいいのか分からなくなって、料理の味まで分らなくなってしまった。
 最後のコーヒーになった時、
「僕、このあと友達と会う約束があるから」
 そう言って、希世彦は早々と席を立った。とうとう最後までアオハとは視線を合わせなかった。
 席を離れてレジを済まし遠ざかる希世彦の後姿を見て、アオハは自分の運命の悪さに打ちのめされていた。
 四人が席を立って、沙里と志穂がレジに行くと、
「お食事代は既に頂いております」
 と言われた。兄貴が気を利かせてくれたらしい。
 茉莉は今日のアオハと希世彦はやっぱ変だと感じていたが、希世彦は昔からシャイな奴なのでそのせいかとも思った。

 六本木のマンションに戻ったアオハはものすごく落ち込んでいた。希世彦にどう謝れば良いのか言葉さえ見付からずに夜なか過ぎまでベッドで泣いた。泣き終わると、仙台の義母、川野珠実に電話をした。

百三十八 悩むアオハ

「たまさん、あたしどうしたらいいのか、分からなくて……」
 アオハは珠実の声を聞いたらまた涙が出て来た。
「電話じゃダメね。千春さん、居るんでしょ?」
「はい」
「ちょっと代わって下さらない?」
 アオハはマネージャーの千春の部屋に行くと、携帯を千春に渡した。千春は、
「ええ、ええ。分りました。何とか調整します」
 と答えた。どうやらアオハにお休みを取ってあげられないかアオハの仕事の日程について話をしたらしい。
「アオハさん、明後日と次の日、二日間お休みさせてあげるから、仙台に帰っていらっしゃい」
 千春はアオハに二日間お休みをしていいと話した。正月が明けると、春以降のCM用の写真撮影や録画撮りの仕事のスケジュールがビッシリと詰まっていたが、千春は日程のやりくりができそうな所と言えばこの二日間しかないと思い、明日クライアントと調整するつもりでアオハを休ませることにした。

 久しぶりに仙台に戻ると、アオハはそれだけでも何故か気持ちが落ち着いてきた。マンションに帰ってきたが、生憎珠実は留守だった。合鍵で入ると、メモがあった。
「奈緒美へ……。お昼には戻ります。食事を済ませたら一泊旅行に出かけるから仕度をしておいて下さい」
 と綺麗な字で書いてあった。珠実はとても綺麗な字を書く。アオハの部屋はきちんと掃除がしてあって、住み慣れた部屋に居るとさらに気持ちが落ち着いてきた。
「ただいま。待たせちゃったわね」
 いつもの明るい珠実の顔がドアーから入ってくると、アオハは珠実に抱きついた。
「たまさん、ごめんね」
「いいのよ。さ、お昼ご飯にしましょう」
 アオハは珠実の養女で珠実は義母だが、こんな時はやはり身内が居てくれるとありがたい。

 アオハと珠実は仙台駅から新幹線のこまちに乗った。こまちは盛岡から秋田新幹線に折れて、乗ってから一時間半ほどで田沢湖駅に着いた。珠実は田沢湖駅でタクシーを拾うと、
「乳頭温泉郷の妙乃湯まで行って下さい」
 と告げた。バスも出ているのだが、寒いし待っているのが面倒なのでタクシーにしたのだ。雪道を約一時間ほど走ると渓流沿いの一軒屋、妙乃湯に着いた。
 夕食まで少し時間があったので、二人でお風呂にでかけた。アオハは雪景色を見ながら浸かる露天風呂は心も身体も清めてくれるような気がした。
「ここのお風呂、いいでしょ?」
「はい。すごくいいわね」
 のんびりと露天風呂に浸かりながら、珠実はアオハの悩みを聞いてやった。

 東大生の希世彦はアオハの消息不明の父、都筑に似た所があって、感じの良い人なので、自分としてはすっかり好きになってしまったが、偶然に恋人らしき女性と楽しそうに歩いている所を見てしまって、それからは希世彦と連絡を取るのをためらってかかってきた電話にも出ず、ひどいことをしてしまった。それが年明けの新年会で恋人らしき女性にばったり会ってしまって、その女性が希世彦の実の妹だと分って、自分が誤解して希世彦にひどいことをしてしまったので、好きなのに連絡ができないで悩んでいる。希世彦は自分がひどいことをしてしまったので、新年会で会っても口をきいてくれなかった。どうしたら誤解だったことを伝えれば良いのか分らない。今は電話をしても取ってくれなくて、連絡もできずに毎日悲しい思いをしている。
 そんなことをアオハは珠実に包み隠さずに話した。
「そうだったの。誤解って怖いわね」
「たまさん、どうしよう?」
「そうねぇ、直接会って話しができる機会があっても、うまく言えずにまた誤解されてしまったら困るわね。希世彦さんと言う方を紹介してくれたアンジェリーナさんに全部お話しをして、彼女から希世彦さんにお話しをして頂いたら?」
 夕食が終わって、また温泉に浸かって、布団の中に入ってからもアオハは珠実に話し相手になってもらった。すっかり気持ちが落ち着くと、その夜はぐっすり眠れた。

 少し気持ちが晴れて、アオハは六本木のマンションに戻ると、その夜茉莉をお茶に誘った。
「要は、希世彦さんに謝る機会を下さいってことね。新年会で会った時変だなぁと思ったんだけど、そんなことがあったんだ」
 茉莉は話を聞き終わると、希世彦に電話をした。
「今どこに居るの?」
「そう。じゃ、六本木まで来ない? 場所はアークヒルズのウルフギャング・パック・カフェ。希世彦さん、夕食まだなんだ。こっちで食べたら?」
「希世彦さん、一時間くらいしたら来るってよ」
「どうしよう。うまく謝れるかなぁ」
「アオハ、すっかり自信を失くしちゃったね。彼のこと好きなんでしょ? あたしが応援してあげるわよ。あぁーぁ、キューピッド役は辛いなぁ」
 と茉莉は笑った。

百三十九 恋しい思い

「確か、六本木アークヒルズのウルフギャング・パック・カフェとか言ってたな」
 希世彦はぶつぶつと独り言を言いながらメトロの六本木駅で降りた。大学の図書館で調べ物をしていたら茉莉から、
「来てね」
 と電話があって、調べ物を途中で止めて六本木に向かった。
 カフェに着くと客で混んでいた。テーブルを一つずつ目で追うと、奥の方の席に茉莉が居た。隣に座っているのはアオハに違いない。アオハの姿に希世彦は少し緊張してテーブルに向かった。
「多分正式にお付き合いをお断りしますとか言うのだろう。もうとっくに諦めたからどうでもいいや」
 そんなことを思いながらテーブルに近付いた。
「茉莉、遅くなって済まん」
「いいのよ。急に呼び出したのはあたしだから」
 隣のアオハは緊張した面持ちでやや俯き、希世彦と視線を合わせなかった。
 希世彦はウエイトレスを呼んで、
「ホットコーヒー」
 と頼んだ。
「アオハが希世彦さんに謝りたいんだって」
 いきなり茉莉が切り出した。
「謝らなくてもいいよ。僕はアオハさんのこと、今は何とも思ってないから。用件はそれだけ?」
「そうよ」
「そうか、じゃ、改めて謝ってもらわなくてもいいから、僕はこれで失礼させてもらうよ」
 希世彦が席を立とうとした。
「ちょっとぉ、待ちなさいよ。アオハの話も聞かずに帰るなんて失礼よ」
 珍しく茉莉の目じりが吊り上がった。
「失礼はお互い様だろ? 僕は話すことは何もないから帰るよ」

 その時、アオハが顔を上げた。目を真っ赤にして、ハンカチで頬を押さえて、
「希世彦さん、本当にごめんなさい。あたし、すっかり誤解しちゃって」
 希世彦は女に泣かれるのはメッチャ苦手だ。それでさっきまでの勢いを削がれてしまった。
「アオハがね、去年の暮れに希世彦さんと沙里ちゃんとが原宿の方から表参道の交差点を渡っているのを見たんだって。希世彦さんと沙里ちゃん仲がいいでしょ? だからさぁ、沙里ちゃんをてっきり希世彦さんの恋人だと勘違いしたんだって。アオハは真面目だから、恋人が居る人と付き合っちゃまずいと思って、それで電話を受けなかったんだってさ。分った?」
 希世彦は茉莉が言っている意味を直ぐには呑み込めずに、
「それってどう言うこと?」
 と聞き返した。
「つまりぃ、アオハは希世彦さんのこと大好きなのにずっと我慢して電話を取らないでいたんだって」
「……」
 希世彦は茉莉の話をやっと理解した。だが直ぐにはどう答えたものか分からなくなった。
「黙ってないで、アオハに何か話をしてあげたら?」
「……」
「希世彦さんは肝心な時にダメなんだからぁ。乙女心を分ってあげてちょうだいよ」
 希世彦は益々何を話せばいいのか、どんな風に言えばいいのかすっかり戸惑ってしまっていた。冷や汗が出て来てしまって、ポケットからハンカチを取り出した。
「じゃ、あたしこれで帰るから。キューピッド役はここまでよ。後はアオハと良く話し合ってちょうだい。今夜は希世彦さんのおごりだからね」
「おいっ、ちょっと待ってくれよ」
 と慌てて希世彦が制したが遅かった。そう言い終わると、茉莉はさっさと帰ってしまった。
 取り残されたアオハと希世彦はしばらく何も言わずにじっと座っていた。
「コーヒー、冷めちゃったな。アオハさん、もう一杯頼んでもいい?」
 希世彦は間が持たずにそんなことを言った。
「はい。お願いします」
 アオハは消え入るような小さな声で返事をした。
 希世彦はアオハの泣きべそを見たのは初めてだった。それで、
「アオハさんの泣きべそ、可愛いね」
 なんてことを言ってしまった。アオハは一瞬身を固くしたが、初めて希世彦の目をちゃんと見てから顔を赤らめてまた俯いてしまった。
 こんなシチュエイションは希世彦はすごく苦手だった。だから、どう言っていいのか、どんな風に話せばいいのか全く戸惑って虚しく通り過ぎ行く時間を持て余していた。

百四十 鼻血

「おいっ、ちょっとあんた。さっきから見てるとよぉ、女泣かせやがって、そう言うの見てるとむかつくんだよなぁ」
 二十歳前後の男三人連れが希世彦のテーブルに来てからんだ。六本木も紳士的な奴からチンピラまで色々な人種が居る。外人も多く、真面目なビジネスマンが多いが、何をやってる奴か分らないような妖しい奴も結構多い街だ。三人のチンピラは日本人らしく、酒に酔っている様子だ。
 希世彦が振り向くと、不良っぽい顔の奴が希世彦を睨み付けた。
「綺麗なねぇちゃんよぉ、こんな野郎ふっちゃいな。オレたちと遊ぼうよ」
 ともう一人がアオハの腕を引こうとした。
 希世彦がアオハをかばおうと椅子から立とうとした時だ、睨みつけてる奴が足で希世彦が座っている椅子の脚をはらった。椅子は倒れて希世彦は床に転がった。そこに蹴りが来た。顔面を靴がかすって、希世彦の鼻からぱっと鼻血が飛び散った。続く蹴りは希世彦の横腹に食い込んだ。
「うううっ」
 そのまま希世彦は気を失った。

 章吾とサトルは六本木のクラブ、ラ・フォセットの仕事を済ませて、アークヒルズを通ってクラブに戻る所だった。丁度ウルフギャング・パック・カフェの所を通る時、何かもめてる奴が居て、周りに人が集まっていた。たまに見る風景だから、
「またなんかやってやがるな」
 と言いながら章吾がちょっと覗いた。サトルは嫌がる女の腕を引っ張って連れ去ろうとしている二人の男を見ていた。
「あれっ? あの子茉莉の友達のアオハじゃねぇか?」
 サトルは早かった。つつつっと二人の男に近付くと無言で一人の足をはらい、同時にもう一人の脇腹に一発ぶちこんだ。パンチを食らった男は蹲まり、もう一人は床に倒れたが直ぐ起き上がってサトルに向かってきた。格闘技をやっているらしく、身のこなしが軽快だ。しばらくサトルと向き合って相互に隙を見ていた。
 解放されたアオハは希世彦の側に駆け寄り鼻血で顔を赤くして倒れている希世彦の顔をハンカチで拭き始めた。希世彦に蹴りを入れた男は章吾にぶちのめされて既に床に倒れていた。章吾は警察の馴染みの警官に電話した。
「分った、直ぐ行く。やった奴三人を逃がさないようにしてくれ」
 警官は直ぐに来る様子だった。

 警官は思ったより早く着いた。三人居た。
 それでサトルと向き合っている男を最初に取り押さえ、手錠をかけた。三人のチンピラは警察に連行された。普通は当事者の希世彦とアオハも連行するのだが、章吾の話を聞いて、二人をその場に残し、三人だけ連れて行った。
「茉莉の友達のアオハさん? だったよね」
「はい。アオハです。小父さま、ありがとうございました」
 サトルが声をかけるとアオハに間違いないことが分った。
「普通の人はこんなにいっぱい出た鼻血を見ると卒倒しそうになるけど、鼻血は大丈夫だよ。脇腹の方が問題だね。救急車を呼ぶほどじゃないから、介抱してあげれば気が付くよ」
 と章吾がアオハに言った。
「アオハさんのマンション、六本木だったよね」
 サトルが聞くと、
「はい。歩いて行ける距離です」
 とアオハが答えた。
「じゃ、僕等が希世彦君を抱えて行くからマンションで介抱してあげて下さい」
 今度は章吾がアオハに言った。
「希世彦の自宅にはオレが連絡を入れておくから心配しないでいいよ」

 希世彦をアオハのマンションに運び、ベッドに横たえると、章吾とサトルは帰って行った。
 アオハは独り残された。それで、ベッドの上で昏睡している希世彦の顔をタオルで丁寧に拭いた。しばらくすると、鼻のあたりと唇が赤く腫れてきて、ほっぺたのかすり傷の周りも赤く腫れてきた。アオハは切り傷用の消毒液で傷付いた部分を消毒して、化膿止めの軟膏を塗った。
「こんなでいいのかなぁ?」
 アオハはこんなことは初めての経験なのでどう治療すればいいのか分からなかった。

 夜中の二時過ぎに、千春が帰ってきた。見ると泣いたらしく目を腫らしている。最近彼と上手く行ってないらしく、今夜も悲しい思いをしてきたのかも知れなかった。
 千春はアオハに事情を聞くと、お湯を沸かしたり、傷口を確かめたりして手伝ってくれた。希世彦はまだ眠り続けていた。

 明け方、パタッと言う音にアオハがはっと気が付くと、どうやら希世彦が目を覚ました所だった。アオハはいつのまにか希世彦の側で居眠りをしてしまったらしい。
 希世彦はあたりを見回してから、
「もしかしてアオハさんのマンション?」
 と聞いた。
「はい」
「すまん。どうやら気を失ってしまったみたいだ。いてててっ」
 希世彦は少し動いて直ぐに顔をしかめて脇腹に手をやった。アオハは脇腹にも怪我をしているのを知らなかった。急いでシャツをめくり上げると、脇腹に内出血のアザができていた。
「傷むの?」
「ん」
「気が付かれたら、今日病院に行くように茉莉のお父さまが言ってた」
「茉莉のお父さん?」
「はい。もう一人の方とご一緒にあなたをここまで担いで運んでくれました」
「僕達をやった奴は?」
「警察官が三人いらして連れて行きました」
 アオハは新年会で会った希世彦の妹の沙里に電話をした。

百四十一 病院で

「沙里さんをお願いします」
 アオハが沙里に電話をすると、母親の沙希が出た。沙希と沙里の声色(こわいろ)が似ているので、アオハは電話の相手が沙里の母とは気付かなかった。
「沙里さん、おはようございます。実は昨夜栗山茉莉さんとお兄さまの希世彦さんと三人で六本木でお茶してましたが、悪い人にからまれて、お兄さまが大怪我をされて、夕べ茉莉さんのお父さまともう一人の男の方に助けて頂いて、お兄さまは今あたしのマンションに居ます」
「あらぁ、ご迷惑をおかけして済みません。それで今の様子は?」
「昨夜は気絶されたまま眠っておられましたけれど、明け方に意識を取り戻されて、蹴られた横腹が相当痛むようなんです。これから病院に連れて行かなければならないのですが、あたし一人ではどうしていいのか分からなくて」
「分りました。娘と一緒に直ぐにそちらにお伺いします。場所はどちらでしょう?」
 アオハは電話の相手が沙里の母親だと気付いた。それで間違いを詫びて自分のマンションの場所と電話番号を知らせた。

 一時間ほどすると、四十代半ば過ぎと思われる沙里の母親と沙里がアオハのマンションを訪ねて来た。母親の沙希は内出血している希世彦の横腹を見て、直ぐに御成門の東京慈恵会医科大学附属病院に電話をした。ホステス時代に沙希が知り合った医師がいたので、沙希は医師に概要を説明した。
「直ぐ病院に行きましょう。希世彦、あなたご自分で歩ける?」
「なんとか」
「沙里ちゃん、タクシーお願いね。アオハさん、今日お仕事でしょ? どうぞこの子に関わらずにお仕事を優先して下さいな」
 沙里は、
「はい」
 と言ってタクシーを拾いに出ていった。アオハは、
「あたしもご一緒します」
 と答えると横から千春が、
「アオハさん、今日は外せないお仕事がありますから、ここはお願いしてお仕事の方をお願いします」
 と言った。アオハは、
「そんなぁ、あたし……」
 と言ったが千春はそれを制して沙希に向かって、
「ではあたしの携帯に病院からお願いします。夜は必ず伺います」
 と付け加えた。

「先生、ご無沙汰しております」
 沙希は長い間の無沙汰を詫びて息子の希世彦の怪我の状況を内科部長の医師に説明した。
「ママの結婚式以来ですね。相変らずお美しい。息子さんですか、随分大きくなられましたね。えっ、そちらがお嬢様?」
 医師は沙里の方を見た。
「ママに似て美しい娘さんですな」
 そう言いながら、
「どれ?」
 と希世彦の横腹の怪我を見た。
「これはひどい」
 結局内臓も一通り検査してその上で治療方針を立てたいので一日か二日検査して、一週間程度入院になるだろうと説明があった。
 沙希は入院手続きを取って、希世彦を入院させた。アオハには沙里が連絡した。

 夕方遅く、アオハが見舞いに来た。沙里は帰った後で、沙希が付き添っていた。
「あのう、お母さまいかがですか?」
「一週間くらい入院ですって」
 アオハは希世彦に近付いて、
「まだ痛むの?」
 と聞いた。希世彦が頷いた。病院に見舞いに来ても、希世彦はまだ痛いらしいし、お茶や食事の世話をするわけでもないのでやることがない。ぼぉーとしていても仕方が無いので、沙希に話しかけた。
「初めてお目にかかります。あたし、モデルをしておりますアオハと言います。本名は川野奈緒美と申します」
「そう、可愛らしいお名前ね。アオハさんは芸名ね。どうしてアオハなの?」
「あたし、生まれも育ちも仙台で仙台っ子なんです。それで青葉城の青葉なんですけど、濁らずにアオハがいいと思ってアオハにしました」
「モデルさんだけあってお綺麗な方ね。最近テレビのCMに出ていらっしゃるわね」
「はい」
 アオハは恥ずかしそうな顔をした。
「希世彦と昨年二度ほどデートなさったのはあなた?」
「はい。とても楽しかったです」
「そう? 心に決めた方はいらっしゃらないの?」
「はい」
「希世彦もいい方だって言ってたわよ」
 沙希は最近どうやらこの子と上手く行ってないらしいとうすうす感じていたがそのことには触れなかった。
 沙希がご両親も仙台ですか? と聞こうとした時、
「こんばんわぁ」
 と言いながら章吾と警官が入ってきた。
「沙希さん、えらいことになったね。たまたまサトルとオレが通りかかったからいいようなものの、あやうくアオハさん、奴等にレイプされるとこだったな」
 すると警官が、
「私どもは調書を作らなければなりませんので、息子さんに少し尋ねますがよろしいですか?」
 と許しを請うた。
「どうぞ何なりと」
 警官は相手とは知り合いか、あかの他人かとか、相手が絡んできた理由などについて一通り質問して去って行った。章吾はその場に残った。

「アオハさんは栗山のとこの茉莉が希世彦君に紹介したんだってね?」
「はい。たまたまですけど」
「たまたま?」
「はい。茉莉さんとは仲良しで、たまたま希世彦さんの大学の飲み会に一緒に行かないかと誘われて、そこで初めて希世彦さんに会いました」
「茉莉の話しだと誤解とか何とか言ってたな」
 アオハは顔を赤らめて恥ずかしそうに、
「はい。沙里さんが妹さんだと知らず、たまたま妹さんと親しくして歩いていらっしゃる希世彦さんを見かけて、沙里さんをすっかり希世彦さんの恋人だと思い込んでしまいました」
「アハハ、そう言うことかぁ。希世彦君は女性を二股にかけるような奴じゃないから安心していいよ」
 と章吾は笑った。脇で聞いていた沙希は、
「なんだそう言うことだったのか」
 と最近元気がなかった息子の恋煩いの原因を理解した。
「小父さん、もうその話は止めてよ。僕、恥ずかしいよ」
 と突然ベッドの上で希世彦が話を遮った。
 アオハだけ病室に残して、沙希と章吾は連れ立って帰って行った。アオハはだまって希世彦の顔を見つめていると、
「アオハさん、悲しませてごめんね」
 と希世彦が初めて詫びた。この一言は今まで落ち込んでいたアオハの気持ちを元気付けてくれた。
「あたしこそ、ごめんなさい」
 希世彦がそっと出した手を、アオハはいつまでも握っていた。いつのまにかアオハの頬に一筋の涙が零れ落ちた。

百四十二 蛭《ひる》と呼ばれる男

 昨夜は希世彦の手をそっと握った時に感じたあのドキドキ感を、アオハは今朝も忘れていなかった。昼間はCMの録画撮りで多忙だった。と言っても、屋外の寒い所で待たされるのも仕事の内に入っていた。スタッフは気を使って毛布を持ってきたり、車の中がいいと言ってくれるのだが、人の出入りが多く、寒いのは同じだ。春以降に放映する予定のCMなので、服装は初夏、短めのワンピで脚のももから下はパンストだけ、防寒のガウンの裾から入る凍えるような冷たい風がアオハの下半身を冷やした。
「病院に行けば、希世彦さんに会える」
 寒さに震えながら、アオハは夜また希世彦に会えるのを楽しみにしていた。
 その日は、仕事が終わるのが待ち遠しくて、早く希世彦の見舞いに行きたいと言う気持ちがアオハの頭の中を駆け巡っていた。
 ようやく仕事が終わると、アオハは急いでマンションに戻り、普段着に着替えてマンションを出た。
 常々千春から尾行に気を付けるように言われていたが、その夜は希世彦のことで頭がいっぱいで、尾行に気を付けることをすっかり忘れていた。

 芸能界のゴシップ記事専門の腕利きのゴシップライターに[蛭]と呼ばれている男が居た。本名は小林一樹(かずき)で、駆け出しの頃はイッキ、イッキと呼ばれていたが、一度吸い付いた芸能人から決して離れないしぶとい奴なので、業界では蛭と呼ばれるようになった。
 蛭は最近何人かのモデルの愛人関係のゴシップを嗅ぎまわっていた。アオハもブラックリストの中に入っていたが、今までに三度も尾行をまかれて、完敗続きだった。
 アオハが御成門の東京慈恵会医科大学附属病院に足早に向かっている時、蛭は密かにアオハを尾行していた。
「やっこさん、今夜はオレサマの尾行に気付いてないらしいな」
 蛭はほくそえみながらアオハの後を追っていた。
「あれっ? 病院じゃねぇか」
 病院に入るアオハを見て、蛭の好奇心は一気に高まった。
 アオハが病室に入ったのを確かめて、蛭は見舞い客風にそこらをキョロキョロした後で、入り口の患者名が書かれた札を見て、名前をメモした。蛭は芸能界には詳しかったが、[米村希世彦]と言う名前には全く記憶がなかった。
 蛭は気付いていなかったが、少し離れた場所から病室の入り口をじっと監視している男が居た。蛭が名札を確かめてメモしている間に、男は蛭の顔写真を何枚か撮影していた。

百四十三 蛭の始末

 六本木のクラブ、ラ・フォセットの溝口の所に、馴染みの警官から連絡があった。
「先日猪俣さんのご協力で逮捕した若い三人組ですが、一番年長の男がMDMA(通称名エクスタシー)を所持してましてな、薬物不法所持現行犯で起訴しました。他の二人は薬物の陽性反応が出ましたが、入手経路の解明目的で泳がせるつもりで釈放しました」
 それで社長の柳川と相談して、当分の間釈放された二人の報復を警戒して、希世彦の病室に近付く不審者を警戒することになった。
 いつもの通り池内、鈴木、章吾の三人が張り付くことになり、その日から病院の病室付近に二人、玄関を出た所に鈴木一人が分担して監視に当たっていた。

 昼間は沙希と沙里と志穂が見舞いにやってきたが何もなかった。夕方遅く、モデルのアオハと思われる女が見舞いにきた。池内と章吾が監視を続けていると、アオハの後を追うように不審な男が現れた。男は最初キョロキョロあたりを警戒している様子だったが、何も無いと見て、希世彦の病室を覗き、その後で入院者の名札の氏名をメモしているようだ。
 メモが終わるとしばらく病室の中を覗っていたが、コートのポケットから小型のデジカメを取り出すと、病室の中をパチパチ撮影してその場を立ち去った。池内は男をつけた。男は上手くやったとにんまりとした顔でエレベーターに乗り階下に降りる所だ。池内は別のエレベーターに乗り後を追った。思ったとおり、一階の出口の方に向かって歩く男の後姿を確認して、外に居る鈴木に連絡を入れた。
「今そっちに歩いて行くコートの男を確保してくれ。オレも直ぐに行く」
「了解」

 昨日同様にアオハは希世彦の病室に入った。希世彦は目をつぶって休んでいる様子だったが、アオハが近付くと目を開けて微笑んだ。
「まだ痛むの?」
「痛みはだいぶ引いた」
「そう、よかったぁ」
「アオハさんには色々迷惑をかけたな。ごめんね」
 アオハは希世彦の[ごめんね]がすごく嬉しかった。
「早くよくなって下さい」
「ん」
 そう言うと希世彦が昨夜のように手をそっと出した。アオハはその手を両手で包み込むようにして握った。
 と、突然変な男が病室の中を覗いて、手を握るアオハと寝ている希世彦をデジカメでパチパチ取り始めた。
「どなたですか? 勝手に写真を撮らないで下さい」
 だが遅かった。男は数枚写真を撮るとさっさと逃げるように立ち去った。
 アオハはその時気付いた。いつも千春にあんなに厳しく言われているのに、その日は尾行をまくことをすっかり忘れていたのだ。
「あたし、どうしよう」
 先日暴行されたばかりだ。だから男を追う元気はなかったが、希世彦の手を握っている様子をパチパチ撮られて心は穏やかではなかった。

 鈴木は後から追ってくる池内の姿を確認すると、男とすれ違いざまに男の腕を取った。男が何か言おうとしたその瞬間後頭部に池内の手刀がヒットして頭がくらくらしたが、間をおかずに前から鈴木のパンチが鳩尾(みぞおち)に炸裂して男はその場に膝を折った。
 池内と鈴木は手馴れた動作で周囲に居る者には殆ど気付かれず、池内と鈴木が両側から男を支えて鈴木が乗っていた車に押し込んでも誰も気にする者はいなかった。具合の悪い者を介護して歩く姿は病院では珍しい光景ではないのだ。
 車に押し込むと素早く男の両手両足を縛り上げ、タオルで目隠しをして直ぐに車を発車した。池内は章吾にメールを入れた。

[確保]池内から章吾に連絡が入った。いつもチームを組んで活動している仲間だから、章吾はそれだけでその後の池内と鈴木の行動は手に取るように分っていた。
 他に車が来ない場所で、鈴木は車を停めて、男が持っていた携帯のSIMとマイクロSDのカードを抜き取り、ポケットの中を全て調べた。財布の中から名刺やキャッシュカード、クレジットカードを調べ、デジカメのSDカードを抜き取った。男はもがいて、
「何しやがるっ」
 と喚いたが二人は無言を通した。名刺を見ると××出版、記者と言う肩書きだった。
 池内は男の口を手で割って、強い睡眠薬の液体を男の口に流し込んだ。男がむせたが気にせずに飲み込ませた。男が液を飲み込む間に、
「余計なことをすると次は命がないと思え。お前は常に監視されている」
 と印刷したA4の紙を内ポケットに押し込んだ。用紙にはもちろん指紋は一切付けられていなかった。

 鈴木が新宿方面に走っている間に男は眠ってしまった。甲州街道に入り、西新宿でワシントンホテル側に右折して、そのまま直進、角筈橋を渡った次の交差点を右折して直ぐの新宿中央公園の脇で車を一時停車して、二人は男を降ろして公園のベンチに横たえると、目隠しと手足を縛った紐を取り去った。男はまだ眠っていた。
「あいつ芸能記者だな。おれ達が警戒しているヤロウとは関係がねぇな。凍え死ぬ前に目を覚ますだろう」
 そう言いながら池内と鈴木は御成門の東京慈恵会医科大学附属病院に戻った。

百四十四 蛭の復讐

 昼過ぎに、珍しくクラブ、ラ・フォセット社長柳川と母の沙希、それに妹の沙里が一緒に希世彦の見舞いに来た。希世彦の状態はかなり回復して、もうベッドから降りて独りで歩けるようになっていた。痛みは引いていたが、医師は内臓に少し損傷があり、内出血が完全に止まっていないのでもう少し入院を続けるのが良いと言った。
「おいっ、マゴ(孫)、いつまでもくたばってるなよ」
 柳川はいつもの毒舌で希世彦を励ました。遠くで監視していた池内と章吾は、
「社長が来るのは珍しいね」
 などと雑談を交していた。今日は不審者の接近もなくのんびりとした一日だ。

 アオハは夕方マンションを出る時、あの日以来尾行に気を付けていた。
「自分達の写真を撮った男、あの後どうしたのかな。千春から小言ももらってないし」
 アオハは池内たちがデジカメで撮影した画像を押収したことを知らされていなかった。今夜も尾行に十分注意して病院に来たから大丈夫だろうと思った。
 希世彦が大分回復して、最初は手に軽く触れてくれたのが、今はちゃんと握ってくれるようになり、それがすごく嬉しかった。希世彦の手に触れるとそこから電流が走ったみたいにアオハは感触を全身で感じて幸せな気分になれた。幸い、アオハが見舞いに来た時は柳川や沙希は引き上げた後で、二人っきりで居られるのが良かった。その日も希世彦と手を握り合って、互いに目を見詰め合っている時に、病室に入ってくる人の気配を感じて、アオハはさっと手を引っ込めた。そんなアオハを見て希世彦は笑った。
「具合はどうだ?」
 入って来た老人を見て、アオハは軽くお辞儀をした。
「ご心配をかけました。大分良くなりました」
 希世彦が老人に答えると、
「そうか、それを聞いて安心したよ」
 とアオハの方に目を向けた。
「アオハさん、祖父です」
「初めまして。アオハと申します」
 ちゃんと顔を見るとなかなか貫禄のある素的な老人だった。

「章吾、今入った男は誰だ?」
「ああ、あれは米村の会長の善太郎さんだよ」
「善太郎さんの話は聞いていたが見たのは初めてだな」
 池内は初めて善太郎を見たようで、米村家とラ・フォセットの付き合いが長いのにと章吾は不思議に思った。
 善太郎はアオハと希世彦とを見て、
「お友達かい?」
 と言った。
「ああ、この人はモデルさんで最近お付き合いを始めたんだ」
「そうか、どこかでお目にかかったと思ったが、テレビのCMで拝見して覚えてたようだな」
 と善太郎は微笑んだ。
「お仕事は忙しいかい?」
「はい」
「そうか、それはいい。所で、この後ご予定はあるのかね?」
「いいえ」
「そうかい。じゃ、希世彦、この方に帰りにちょっとお茶でも付き合ってもらおうかと思うがいいかね?」
「おじいちゃんなら安心だからいいですよ」
 と希世彦は答え、
「お父さんは?」
 と聞いた。
「あいつは忙しい奴で、また海外に出かけたよ。しばらく帰ってこないそうだ」

 病院を出ると、玄関にすぅーっと黒塗りの乗用車が入ってきて、運転手が降りて後部のドアを開けて一礼した。善太郎が乗り込みながら、
「一緒に乗りなさい」
 とアオハに勧めた。アオハは素直に善太郎の隣に乗った。
「丸ビルにやってくれ」
「新丸ビルでなくて丸ビルですか?」
「そうだ」
 運転手は車を出した。丸ビルまでは近い。その間、善太郎は優しい目でアオハの横顔を見ていた。
「沙希が言っていた通りなかなか良いお嬢さんだな」
 善太郎は心の中でそんな風に思っていた。丸ビルに付くとエレベーターで三十六階に上がった。
「夕食はまだだろ?」
「はい」
 善太郎はMと言う洋食屋に入った。窓側の席だった。皇居を見下ろす夜景が綺麗で、フルコースのフランス料理も美味しかった。
「希世彦とはもう長いのかね?」
「いいえ」
「好きなのかい?」
「はい」
 善太郎がストレートに聞いてくるのでアオハは顔を赤くした。
「希世彦の会社の話は聞いてるかい?」
 アオハは東大生だと思っていたのに会社の話しと聞かれてとまどった。
「東大に通っていらっしゃると思っていましたけど」
「ん。大学に通っているが、彼は父親の会社の社員でもあるんだよ」
「希世彦さん、そんなこと全然お話にならないので知りませんでした」
「父親の善雄が社長をやっていてね、彼は跡取り息子だから、在学中から会社の仕事を手伝わせているんだよ」
「そうなんですか?」
 善太郎はアオハに会社の仕事について概要を説明した。アオハはそんな大きな会社の跡取りだと知って驚いた。

 食事が終わって、善太郎は六本木のアオハのマンションの前まで送ってくれた。
「今夜はご馳走様でした」
 アオハは走り去る黒塗りの車に向かってお辞儀をして見送った。
 車のテールライトが見えなくなって、マンションのエントランスに入ろうとした時、建物の影から男が一人飛び出して来た。背の低いずんぐりとした男はアオハの腕を掴むと、
「この前はひでぇ目にあわせたな。ちょいお礼をさせてもらうぜ」
 見ると男は先日病院で写真を撮った奴だった。アオハは何も聞かされていなかったから、ひどい目にと言われてもそれがどんなことか見当も付かなかった。
 ただならぬ殺気を感じて、アオハはポケットに手を突っ込んで、ポケットの中の緊急ボタンを押した。警備会社と契約しているGPS付きの非常押しボタンだ。
「早くきてぇ、早くきてぇ」
 アオハが心の中で叫んでいる間、男はぐいぐいとアオハを引き摺るように繁華街の方に引っ張って歩いた。
 その時、警備会社の男が二人、走ってアオハの後を追って来た。

百四十五 アオハに迫る危機

 蛭ことゴシップライターの小林一樹は先日アオハと米村希世彦とか言う男が手を握り合っている写真を撮って病院を出た所で知らない男に拉致されてひどい目に合わされたばかりか、肝心の写真を盗られ、おまけに携帯のSIMとSDカードも抜かれ大損害を被った。しかも寒い夜に新宿の公園に転がされていたのだ。その腹いせにアオハを尾行したが、まかれてしまって、仕方が無くアオハのマンションの出入り口が見える物陰でアオハの帰りを待ち伏せしていた。
「またこの前みたいにやられてちゃ、ヒル様の名折れじゃ」
 と思って、今夜はいつも可愛がっている若い男を五人潜ませていた。

 案の定、夜遅くアオハが戻ってきた。ヒルはアオハの腕をとると、嫌がるアオハを引き摺るようにして男たちが潜んでいる方に向かった。
 そこに、警備会社の警備員と思われる二人の制服を着た男が追いかけてきて、ヒルからアオハを引き離した。アオハの非常通報で駆けつけたのだ。だがヒルはにたにたしていて余裕があった。警備員がアオハを保護したのはつかの間で、警備員が後を振り向くと性質(たち)が悪そうな若者が五人も来て取り囲んでいた。
 警備員は訓練を受けている。警棒を振り回して防戦した。だが相手も手に手に棒を持っていた。しかも五人もだ。防戦している隙に、またアオハを奪われた。アオハは五人の中の一人と最初にアオハを連れ去ろうとした男に引っ張られて行く所だ。警備員二人ではどうにもならない。

 ヒルはアオハをビル陰に連れ込むと、若い男に、
「このねえちゃんに悪戯してやれよ。オレが写真を撮るからさぁ」
 とアオハに淫らなことをするように頼んだ。男は待ってましたとばかりに、アオハを壁に押し付けて、ワンピの裾から手を入れて、アオハのパンストの中に手を突っ込んだ。その様子をヒルはパチパチと写真を撮った。
 男の手が、アオハのそこをもみ始め指を入れようとした時、アオハが急に大きな声で悲鳴を上げた。男は悲鳴に構わず指でアオハの感じ易い部分を刺激始めた。アオハは思い切り太ももを絞めて抗ったが、男の力には敵わない。それで男にいいように玩ばれていた。

 付近を通りがかったパトロール中の二人の巡査の片方がアオハの悲鳴を聞き漏らさなかった。
「おいっ、そのビル陰で女の悲鳴が聞こえたぞ」
 巡査二人が走り寄ると若い女が男に悪戯されていて、もう一人が写真を撮っていた。巡査は最近多いポルノのネタ作りだと思った。それでヒルと若い男を婦女暴行の現行犯逮捕をした。
「あなたも署まで一緒に来て下さい」
 そう言われてアオハは巡査の後を歩いていると、巡査が歩きながら携帯無線機で連絡を入れた。アオハが前を見ると、血を流した警備員が二人倒れていた。襲った四人の男たちの姿は見えなかった。アオハはマネージャーの千春の携帯に連絡を入れた。
 警察でアオハは婦人警官にどんな悪戯をされたのか具体的に聞かれた。アオハが恥ずかしそうに説明をすると、婦人警官は直ぐに席を立って、二人の男の取調べ室に行って取調官に耳打ちした。
「分った」
 婦人警官から話を聞いた取調官は、
「おいっ、お前手を出せ」
 と言って白いティッシュで若い男の指を丁寧に拭き取った。
「お前なぁ、お××こに指入れてねぇって言ってもこいつはウソをつかねぇぞ」
 そう言って男の指から採集したアオハの精液の付いたティッシュをヒラヒラさせた。男は観念したようだ。

 アオハの通報で飛んできた千春は警官にアオハがモデルをしておりスキャンダルは困ると頭を下げて情報が外に出ないように頼んだ。ヒルが撮影していた写真も絶対に外部には出さないで欲しいと頼み、調べが済んだら自分の前で画像を消去するか、メモリーを欲しいと頼んだ。
 六本木界隈は有名な芸能人が多い。それで、警官は写真が外に流出すれば相当の損害が出ることを理解していたので、千春に協力すると約束してくれた。アオハの説明で、警備員を倒した四人も手配されたようだった。
 アオハは千春の顔を見ると安心したのか泣き出した。婦人警官はそんなアオハを労わるようになだめ、
「もう大丈夫よ。あなたがされた悪戯のことは決して外部には漏れないようにしますから安心して下さいな」
 と言った。

負けないでっ 【第三巻】

負けないでっ 【第三巻】

  • 小説
  • 長編
  • 恋愛
  • サスペンス
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-08-15

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著作権法内での利用のみを許可します。

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  1. 九十四 子育て世代
  2. 九十五 子育て・加奈子の場合Ⅰ
  3. 九十六 子育て・加奈子の場合Ⅱ
  4. 九十七 子育て・加奈子の場合Ⅲ
  5. 九十八 子育て・加奈子の場合Ⅳ
  6. 九十九 子育て・加奈子の場合Ⅴ
  7. 百 子育て・加奈子の場合Ⅵ
  8. 百一 子育て・沙希の場合Ⅰ
  9. 百二 子育て・沙希の場合Ⅱ
  10. 百三 子育て・沙希の場合Ⅲ
  11. 百四 子育て・美登里の場合
  12. 百五 子育て・マリアの場合
  13. 百六 乱れる乙女心
  14. 百七 東京ミッドタウン
  15. 百八 不審な訪問者
  16. 百九 忍び寄る悪逆の罠
  17. 百十 怯える女子大生
  18. 百十一 それは駅のホームで起こった
  19. 百十二 沙里の行方
  20. 百十三 三途の川
  21. 百十四 麻酔が切れた後
  22. 百十五 言葉の意味?
  23. 百十六 出会いの形
  24. 百十七 偽りの愛
  25. 百十八 捜索
  26. 百十九 突入
  27. 百二十 悲しみ
  28. 百二十一 掻爬
  29. 百二十二 密輸、密売組織
  30. 百二十三 肩ごしの恋人
  31. 百二十四 帰国
  32. 百二十五 失意
  33. 百二十六 断念
  34. 百二十七 新たな出会い
  35. 百二十八 気がかり
  36. 百二十九 初デート
  37. 百三十 あたし、恋人ができたみたい
  38. 百三十一 沙里、その後
  39. 百三十二 希世彦の彼女
  40. 百三十三 お仕事だから
  41. 百三十四 2回目のデート
  42. 百三十五 もどかしい気持ち
  43. 百三十六 プレゼントの品
  44. 百三十七 新年会
  45. 百三十八 悩むアオハ
  46. 百三十九 恋しい思い
  47. 百四十 鼻血
  48. 百四十一 病院で
  49. 百四十二 蛭《ひる》と呼ばれる男
  50. 百四十三 蛭の始末
  51. 百四十四 蛭の復讐
  52. 百四十五 アオハに迫る危機