死後の世界ついて

1

生きとし生きる者は必ず死ぬ。このことに例外はない。どんなに注意深く生きようともやがて死を迎える。

 人間は死についていかに対応してきたか? 

死後については様々な考え方があるが、少なくとも宗教心のあるものはその信念の濃淡は置くとして、死後の世界を漠然とはしていても信じている。この地球上で死後の世界を信じていないのは純粋の唯物論者と人間以外の生物ぐらいであろう。人間以外の生物と言ったがこれは正確ではないかもしれない。あるいは信じている生物がいるかもしれないからである。たとえば、象などは仲間が死ぬと弔いと思える行動をとることが知られているからである。もちろん、その行為が死後の世界を信じてるからかどうかはわからない。

 科学というのは人間が持っている理性という武器を使って発展させている素晴らしいものである。言うまでもなく人間が他の生き物と圧倒的に差をつけたのはこの理性という武器をもっていたからである。しかしながら、その科学をもってしても現段階では、死後の世界については分からない。早期に結論を出したがる人は死後の世界などないと言い切りたがる。しかし、科学者が真の科学者であるなら解らないことに軽々と結論は出さないものである。真の科学者ならば次のように答えるであろう。

 「死後の世界があるかどうかは現在の科学では確かめるすべがない。したがって、あるともないともいえない。」と

2

幽霊というのはどこの国にでもある話である。当然どこの国でも幽霊を見たという人達はいる。しかしながら、現在の科学ではそれは錯覚、幻想として扱かわれている。実際、脳科学ではどこを刺激すれば幻想が起こるかまで解っている。結論を出したがる科学者はこれをもって、死後の世界などないとしている。当然のことではあるが、このことと幽霊が存在するかどうかは別問題である。科学者の癖として証明出来ないものは信じないのである、と言うよりは科学者の立場としては、証明出来るまでは信じてはならないのである。しかしながら科学者が信じないことと事実として存在するかどうかは別である。東日本大震災のあと、タクシーに幽霊を乗せたといういくつかの話がある。女子大生が卒論に書いたということで話題になった。

3

 今から述べることは死後の世界がなければ到底説明できない驚くべき事実の話である。

 ヨーロッパのある小さな村での出来事である。その村のある家族に男の子が生まれた。4歳になったある日のこと、妙なことを言い出した。

 「僕は殺されたんだ。隣村の男に斧で頭を割られて殺されたんだ。」と言い始めた。

 初めは誰も相手にしなかったが、隣村から引っ越してきた人が、そういえば何年か前に斧で頭を割られた殺人事件があったと言い出した。人々は半信半疑でその子を連れて隣村に行った。驚いたことに、その子は初めて来たはずの村のことを事細かに知っていたのである。連れてきた人々は唖然としていたがさらに驚くべきことが起こった。ある道にさしかかったとき、突然その子は大声で

 「アッ、あの人だ。僕を殺したのは。」と言い出したのだ。言われた男は一瞬訳が分からず戸惑いをみせていたが、つぎの瞬間、

 「ワァ」と言いながら駆け出した。

 その後、男はつかまり、子供の言うとおり斧での殺害を認めた。

 

 このような、話はどこの国でもあるが、あまり多くはない。しかし、事実としてあるのである。

 先に述べたように、科学は同じ条件のもとでは同じ結果が得られなければならない。これを検証というが、左記の話は検証しようがない。したがって、科学では取り扱うことが出来ない。

4

 生きとし生けるものはすべて、眠る。眠るのは人間をはじめとして動物ばかりではない、植物も眠る。この眠るということを考えてみよう。

 我々に分かりやすい人間で考えてみよう。

 眠っているときは意識はない。意識というのは脳の働きである。あるいは脳を媒介とした働きである。起きているときと眠っているときでは明らかに脳の働きは違う。しかしながら、眠っていても起きているときと同じように血液は脳の中を流れている。生理的には起きているときと眠っているときとは同じなのである。つまり脳が意識を持って働くかどうかは脳自体の働きではなく別の何かが作用していると考えたほうが自然なのである。このことを分かりやすく説明するために、テレビに例えてみよう。  

 テレビの本体は人間でいえば肉体である。頭といったほうが分かりやすいかもしれない。テレビは電気を流さなければ映らない。人間の血液に相当するものである。しかし、電気を流しただけでは画面は出てこない。つまり、電波をキャッチしなければ映らない。人間が起きて活動しているのはきちんと電波に相当する何かをキャッチしているからなのである。眠っているときは、いわば電波が途絶えているときなのである。話を元にもどす。

 脳に作用している何かとは何か?

それは、テレビの電波に相当する生命の本体=意識体なのである。別の言葉で言えば魂とも精神ともいえるものである。

これが眠っているときは肉体から抜け出ているのである。

、抜け出た魂はどこに行っているのか?なぜ抜け出ていくのか?

5

我々がいる世界は広大な宇宙の中にある。約138億年前に、ビッグバンと言われる爆発によって生まれた。このビッグバンによって生まれた世界は基本的に物質の世界である。本来は精神が住むことは出来ない世界なのである。精神が住む世界は全く次元の違う世界にあると考えられる。この宇宙が物質の世界であるというのは、事実広大な宇宙のほとんどは物質で出来ていることからも分かる。物質の最小単位はニュートリノである。あらゆる物質を通り抜けてしまう。このことからニュートリノには質量がないのではないかと考えられてきた。先般ノーベル賞を受賞した日本人によってニュートリノが質量のある物質であることが発見された。このニュートリノは広大な宇宙を満たしていると考えられている。つまり、この宇宙は物質の世界なのである。    


物質が精神を宿し生命体になるには様々な条件が整わねばならないが、わが地球上では約40億年前に生命体が誕生した。以来驚くような進化をとげ、現在に至っている。

 前述したように、生きとし生けるものはすべて、眠らねばならない。それは、この宇宙が物質の世界だからである。肉体は食べ物から栄養をとりエネルギーとしている。肉体は物質であり、食べ物という物質からエネルギーを得ている。それでは精神はどこからエネルギーを得るか?この宇宙から得ることはできない。なぜなら先ほど言ったようにこの宇宙は物質の世界であるからである。つまり,精神はこの宇宙とは次元の違う所謂精神の世界に行かねばならないのである。

 死後の世界があるとすれば、この精神の世界がそれであろう。

6

 死後の世界があるとして、それではその世界はどんな世界なのであろうか?

 死後の世界に行ったという人は洋の東西を問わずいる。西洋では最も有名なのがスウェーデン ボルグ(1688~1772)である。彼は「霊界著述」という膨大な著述を残

している。全容を述べるには紙数がかかりすぎるので簡単に紹介すると、生前の行いはすべて生命体の一部(脳に匹敵する部位)に記録されている、ということである。そして、その行いの反省が、霊界の居場所を決める、というものである。

 日本で有名なのが、平安時代の僧侶、恵心僧都源信(942~1017)である。彼は「往生要集」を著した。この本は主に地獄の有様を書いたものである。

 

 さて、彼らが書いたものが真実かどうかは科学では検証できないが、これまで述べてきたことを考慮すると、あながち妄想と決めつける気にはならない。

 そこで、もう少し彼らの書いたものに

沿って、話を進めてみよう。まず、地獄の話である。

 スェーデン、ボルグにしても、源信にしても、地獄の話はかなり詳しく述べられている。共通しているのは、生前の行いによって決められる、ということである。源信によれば地獄には様々な地獄があり、この世でなした悪に応じたものが用意されている。まあ実におどろおどろしいものであるが、一般人はあまり神経質にならなくともよさそうである。要するに極悪人の行くところなのである。地獄はさておき、天国もあるわけで、実に素晴らしい世界のようである。我々一般人はどうもその中間にある世界に行きそうである。こう説明すると閻魔様かなんかが出てきて無理やり振り分けられそうであるがそうではない。精神界は物質界にいるときとは違い精神の在り様はすべてガラス張りのごとく見えてしまう。隠しようがないのである。そうなるとどうなるか?自分の居場所はおのずと自分が決めざるをえないのである。

 この精神界を分かりやすく例えばなしで説明すると次のようになりそうである。一升瓶に水を入れ、次に泥を入れてかき回す。そうすると、泥の粒子が粗いほうから下に沈んでゆく。一番下が地獄であり、一番上が天国となる。精神の粒子はこの世の行い、心の持ち方によって決定される。精神界は純粋な世界である。ごまかしは利かない。いかに、この世で善良ぶっていてもばれる。いかにこの世で金持ちになっても、あるいは、出世したとしてもそんなことだけでは精神の粒子は精妙になるわけではない。この世では出世もし金持ちになった人間でもその心が邪悪であれば真っ逆さまに地獄へむかっていく。

 この世の自然界には物理的な法則をはじめ様々な法則があるが、精神界にも精神界独特の法則がある。その一つに同類は集まり,異粒子は離れる、というものである。これは、考えてみれば、この世にもあてはまる。類は友を呼ぶ、という諺があるように、気の合ったもの同士が集まる。この世では、あまり気が合わなくともごまかしがきいて仲良しぶって付き合うこともできるが、精神界ではそうはいかない。すべて透けて見えてしまう。住みにくいといえば住みにくいが見方によってはこれほど住みやすい所はないであろう。本当の意味で仲の良いもの同士が付き合えるのであるから。ただ、粒子の粗い世界は悲惨である。常に喧嘩が絶えない。この世では誰かしら仲裁に入ることもあるが精神界では止めるものは誰もいない。常に罵り合い、殴り合いのまさに阿鼻叫喚の世界である。

7

 死後の世界については、科学ではいまだ、その存在を証明できてないが、経験的には在りそうである。

 そこで、誰でも行先は天国に近い所が良いと考えるであろうから、そのことについていま少し述べてみる。

 これまでも述べてきたように、生前の行いや思いによって決定される。言ってしまえば簡単であるが、現実はそう簡単ではない。お釈迦さまは人間には百八つの煩悩があると言い、キリストさまも新約聖書のなかで欲望を抑えることの難しさを述べている。

 神や仏を信じて、煩悩や猥らな欲望を抑えることは、人類の知恵として今も続けられている。宗教はその教えが実害がない程度のものであるうちは、立派に人類の幸福に役に立っており、素晴らしいと言える。しかしながら、誠に残念ながら、キリスト教にしても、仏教にしてもイスラム教にしても、その歴史は戦いに明け暮れてきたのが現実なのである。人間はそう簡単に聖人君主にはなれない動物なのである。このことは教えを広めた人物が悪いのではなく、その教えを受け継ぎ広めていくプロセスの中で様々な人たちが自分の理解が正しいと主張し始めることによって起こる。キリスト教にしても、仏教にしても、イスラム教にしても実に様々な宗派が存在している。人間の我欲のなせるところである。     

 ところで、いまだに毎日と言っていいくらい殺人事件が起きている。自らの親を殺す人、子供を殺す人が後を絶たない。世界を見渡せばどこかで戦争が行われている。

 そして人が人を殺すばかりではない、自然が人を何万人も殺している。東日本大震災しかり御嶽山爆発しかりである。これが、この世の現実なのである。このことは神が無慈悲なのではない。人間がいまだ未熟なのである・

 この世には人間が思い描く、やさしい神なるものはいない。ビッグバン以後神は冷徹とも思える確固たる法則を残して去っていった。

 人間がなすべきことは、神が人間に与え賜うた、理性、知性という素晴らしいものを使って、この世の法則を究明し、それに従って生きてゆくことなのである。わけもなく神を信じても、去ってしまった神は何も応えてはくれない。

 心すべし、自らの心は理性、知性に従って自ら磨くしかないのである。

死後の世界ついて

死後の世界ついて

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-08-15

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