神は去った

 我々が存在する宇宙はいつ誕生したのであろうか?それを知る手掛かりがある。それは最新の天体望遠鏡による観測である。我々が存在する宇宙はいまも拡大を続けているのである。この拡大を続けているスピードを逆回転させることで、宇宙の始まりを知ることが出来る。どんどん逆回転させると約138億年に、それ以上小さくなれない一点に辿りつく。つまり、この一点が宇宙の原点なのである。この一点については様々な説があるが少なくともこの一点の爆発が宇宙の始まりであることは議論の余地はない。以来延々と宇宙は拡大をいまも続けている。
 我々が住んでいる地球は広大な宇宙の中でいつごろできたのであろうか?約46億年前といわれている。いまや常識ではあるが地球は太陽系の一部である。地球が特別視されるのは我々のような生き物が存在しているからである。しかし広大な宇宙の中で地球に似た環境を持った惑星は数多く存在することがわかっている。つまり地球は特別な存在ではないのである。宇宙が出来てからおおよそ100億年たってようやく地球はできた。そして地球の歴史の中で生き物は徐々に進化をとげてきた。知性や理性をそなえた人類が生まれてまだ間もない。それ以前巨大な恐竜が約1億年以上地球上を闊歩していた。なんともいえない驚きである。しかし、小惑星の地球への激突という悲劇が地球環境を激変させ、恐竜をはじめ多くの大型生物は突然滅んでしまった。その後新たな環境の中、我々の先祖となる生物が生まれ進化していった。恐竜が地球上を闊歩していた期間に比べると人類はまだその半分にも達していない。それを思うと、人類はまだまだ進化の余地があるのかもしれない

 宇宙には様々な法則がある。人類は生き物として初めて知性、理性をもった。そして、それを活用して科学という学問の分野を獲得した。万有引力等初期物理から、素粒子,ニュウトリノと発展し、さらに細かなところまで辿りついている、そして物理の分野ばかりでなく医学の分野でもips細胞等驚くような新たな発見が今も次々と続いている。自然界に存在するこれらの法則こそ神が創造し、宇宙に遺していった、いわば神の御意志そのものなのである。もちろん、生物の進化もその範疇にあることは言うまでもない。
 宇宙におけるあらゆる法則はビッグバンとともに定められたのである。地球の奇跡とも思える環境も生物の進化も定められた法則の内にある。  この厳然たる真実を人間は謙虚に受け入れなければならない。そして、このことが意味することは、ビッグバン以後、神は自然界の法則という御意志を遺してこの宇宙から去ってしまったということである。
、なぜそう言えるのか?もし神がこの宇宙に存在していれば、人間が獲得した科学は意味をなさなくなるかもしれない。新たな法則がつくられた瞬間、いままでの科学は崩壊してしまうからである。神は意味のないことは一切しない。ビッグバンを起こす前に精密この上ない法則をつくりあげ、去っていった。

 世界三大宗教家といえば、キリスト、ブッタ、そして、ムハンマド(マホメット)であろう。
 彼らの教義をつぶさに読んでみると、彼らが生きていた時代に則した極めて常識的教えであることがわかる。いくつか例をあげてみよう。
 ムハンマドの教えの中に、豚肉を食べてはいけない、と言うのがある。これは、何故彼がそう言ったかと言えば、中東の気候に関係しているのである。温暖な気候にいる我々は分からないであろうが、中東の暑さは尋常ではない、冷凍設備などなかった当時の環境の中で、動物の肉、とくに豚肉は最も腐りやすい気をつけなければいけないものであった。豚肉ばかりではなく、他の肉の食の仕方にも細かい規則を設けたには理由があったのである。
 キリストの教えの中にも科学の進歩についていけないミスマッチな事柄が起こっている。ガリレオの唱えた地動説に、キリストの教義と違うと言って起こった宗教裁判などは悲劇の最たるものの一つであろう。また、キリスト教の一宗派に、輸血を禁じているのがある。これなどは、血液に様々な型があることが分からなかった時代の名残りである。しかしながら、彼らはいまだにそれを信じている。
 宗教というものは、第一義的には、心の安らぎを求めるということなのである。それから枝分かれして現世利益、病気の奇跡的治癒等々とずれていった。ほとんどの宗教がこれである。心の安らぎを得る程度に留まっているのであれば実害はあまりない。人間はむしろ、安寧を得るといった観点からすれば利の多いことである。多くの日本人はこの穏やかな宗教心に留まっていて神社にいったりお寺にいったりはてはクリスマスまでやる。
 世界を見渡してみると、日本人のこの行為がいかに特殊なものであるのかわかる。世界の多くの民族が信じている宗教は、日本人が考えるよりずっと厳格なのである。厳格であるがゆえに教祖は神のごとく崇められる。当然のことながら神は万能でなければならない。そして、そこから安寧ばかりではなく多くの悲劇が始まる。いずれの教祖もその時代を生きてく上での偉大な哲学者にすぎない。しかし、その時代の人々にとってはあまりにも進歩的、優れた教えであるがために神のごとくにみえてしまうのである。くりかえす。いずれの教祖もその時代のすぐれた哲学者であり、生活指導者にすぎない。にもかかわらず教えを引き継ぐ弟子たちはその無知さ故に神にしてしまうのである。神にした以上教えは絶対なものになる。あげくの果てに弟子たちは勝手な解釈をし始め様々な宗派をつくりだし、争いだす。キリスト教しかり仏教しかりイスラム教しかりである。イスラム教にいたってはいまだに熾烈な争いをしている。
 ところで、世界を見渡してみて、神を信じてない民族はほとんどいない。神を否定している共産国でさえ民衆の多くはなんらかの宗教を信じているのが現実である。科学が進歩し、昔のように盲目的信仰はないにしても、依然として宗教は多くの人類を惹きつけている。
 現在、深刻なのはムハンマドの教え=イスラム教の教えである。イスラム教の教えの中にある,ジハド=聖戦というものが今日の様々な悲劇を生んでいる。なぜムハンマドは聖戦という教えを入れたかといえば、当時、中東にはキリスト教をはじめとして様々な宗教があり、もし戦かわなければ簡単に自らの教えは葬り去られてしまう状況にあったからである。理由は単にそれだけである。教義には教祖が唱えた時代背景がかならずある。
「いかなる人物といえども、自分の存在した時代に無関係ではいられないのである。」
 
 神はビックバンを最後にこの宇宙から去ってしまった。神が遺したものはこの宇宙を支配している法則=ルールだけだ。ところが、預言者たちはあたかもいまだにこの宇宙に神が居り、我々を見つめているかのようなことを言う。
神が去ってしまった、厳然たる事実を検証することは簡単である。我々に分かりやすい近々の事例を挙げると、先の東日本大震災、先般の御嶽山の災害をみればわかるであろう。
 いずれの事例も、いまだ科学が、神の創ったルールを知るに至ってないが故の悲劇なのである。もし神がいまだに存在するとしたら、なんの罪もない幼い子供たちを災害に巻き込ませるだろうか?この悲劇的事実の中に、いかに屁理屈をこねても宗教が入る余地はない。入るとしても、せいぜい、なぐさめるくらいのものである。
 人類よ目覚めよ、神は去ってしまったのである。、我々がすべきことは、138億年前に神が遺していった自然界の法則を解き明かすことである。、そして、解き明かされた法則には、謙虚に従いそれに沿った生き方をすることなのである。

神は去った

神は去った

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-08-15

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