解夏

1

 僕は昔から夏が嫌いだった。暑いし、ムシムシするし、汗でべたつくし、蝉はうるさいし、ぎらぎらと容赦なり付けては蒸発させようとする太陽も、目に痛い真っ青な空も、無性に鬱陶しかった。だから外に出るたび嫌な顔をする(一応、これでもなるべく表に出さないよう心掛けていたつもりだけど)僕に、和服姿の彼女はいつも「夏樹は夏生まれなのにね」と涼やかに笑っていた。

 彼女の親戚が何代と続く老舗の呉服屋らしく、その影響でか、和装が好きだということや、普段から着ていることは最初のデートで聞いた。
 最近できてちょっとした話題になっている古民家カフェとやらに行くことになったとき、「どんな服でもいい?」と聞かれた。僕はどうしてそんなことを聞くのか不思議に思ったが、待ち合わせ場所に和装で来た彼女を見て合点がいった。世間一般的に着物を着るなんて選択肢をするのはごく少数だろうし、多かれ少なかれ周囲からは浮くだろうから、気になる人はなるはずだ。対する僕は服装に特に何のこだわりももっていなかった。
 夏の浴衣は、こんな暑い中よくそんなカッコできるなと内心思っていたけど、彼女が美しく着こなしたそれはとても綺麗だった。
「休みの日はいつもそういうカッコしてるの?」
「うん」と小さく言った彼女は、少しだけ頬を赤らめて続けた。「……変、かな」
 それまで制服姿しか見たことなかった僕は、初めて見る彼女に見惚れていて。だから返答がワンテンポ遅かったし、声も上ずっていた。
「全然。似合ってる」
 艶のあるなめらかで長い黒髪、色白の肌や、切れ長な目をした彼女をカテゴライズするなら日本美人だろうから、和装は、本当にぴったりだったのだ。ホントはあの時可愛いって言ってほしかったのよと言われたのは、僕らが、もう少し恋人らしくなった頃。
 彼女のクローゼットの中には普段用からよそ行き用の着物、浴衣といった和服がほとんどで、僕たちが一般的に服と呼んでいるものは数えるほどしかなかった。実際、洋服を着た彼女を見たのも多くはなかったはずだ。
 僕たちが付き合いだして初めての夏。夏休みやら期末テストやらというこの時期お決まりのワードの中に、夏祭りが入ってたとき。彼女が「着付けてもいい?」と聞いてきた。一緒に浴衣を着て行きたいのだと言う。彼女の頼みだし、ノーとは言えなかった。
 すると、彼女はこちらを窺うようなものからパッと花が咲いたように顔をほころばせ、奥からいそいそと何枚もの浴衣を持ってきた。
「夏樹にね、似合いそうなやつ借りてきたの」
 えへへ、と笑いながら言う彼女。
 それから、部屋にあった姿見を近くまで寄せると、黒板を見るような真剣な表情で僕に浴衣をあて始める。
「んー……、どれがいいかなぁ。こっち? それとも夏樹はこっちの方が好き?」
「えっと……どっちも同じじゃないの?」
「違う!」と彼女がぷりぷりと怒ったように言った。「全然違うよ! こっちは藍色で、こっちは紺。柄も違うし……ホラ。触った感じも違うでしょ?」
 ずい、と目の前に出された浴衣。だが、どう目を凝らそうと神経を尖らせて触ろうと僕には同じものという判断しかできなくて。でも、それを言うとまた怒られると思ったから、無難に「こういうのよく分からないからきみが選んでくれたら嬉しい」と返した。
「あ、今の。分からないからって私にぶん投げたでしょ」
 彼女がにやにやしながら言う。
 実際そうだから何も言えない。でも、建前で否定した。「そ、そんなことないよ」
「ふーん。……ま、いいや。ほら、もっとちゃんと姿勢よく立って」
「立ってない?」
「立ってない。背中曲がってる」
 そうやっててきぱきと着付けられた僕は、自分で言うのもナルシストみたいだけど、Tシャツにジーパンといういつもの恰好よりかははるかにマシに見えて。目新しさから回ったり、ちょっと気取ったポーズをとったり、袖を持ち上げる僕を見る彼女はくすくす笑いながら言った。
「ん、かっこいいよ。似合ってる」
 それから毎年、近くの神社である夏祭りの日に僕に浴衣を着付けてくれたのは彼女だ。「私の彼氏なんだから浴衣くらい一人で着れるようにならないと」と言われ、何度も教えてもらったけど、不器用な僕にはかなり難しかった。これに比べたら大嫌いな英文読解なんて小学校レベルの問題だ。それでも根気強く教えてくれた彼女だったけど、不格好な僕の着付けを見ながら「もう、しょうがないな」なんて笑って直してくれた。
 ………………。
 …………。
 ……。 

2


 と、言うのは去年までの話。

 灼けるような日中よりかはラクだが、それでも、陽が落ちるか落ちないかの頃合いでも蒸し暑い。僕は、半額になった惣菜やら炊かれたご飯やらを詰めた買い物袋を提げ、スマートフォンを弄りながら帰路についていた。道中、浴衣のカップルやら、並列走行する自転車やらと嫌というほどすれ違い、それらが一段落したところでため息をつく。思い出した。今日は、祭りの日だ。どうりで同僚たちが浮足立ったように定時でそそくさと帰っていったはずだ。
 胸の奥をちりちりと焦がす感情。
 それには気付かないふりで、青になった横断歩道を渡る。
 そろそろ提出用の資料に手を付けなきゃとか、部屋の掃除もしなきゃとか――いい加減涼しくならないのとか。頭にあれこれ浮かぶとりとめもないことをぼんやり考えていた時だった。
 突然、持っていたスマートフォンが非通知を知らせてきた。思わず眉根を潜める。非通知なんて方法でかけてくる電話、誰でも不審がるはずだ。当然無視
しても良かったのだが、つい営業のクセでとってしまった。
「もしもし」
『あ、夏樹? 今どこ?』
 ――心臓が、止まったかと思った。
 それは、僕の鼓膜を震わせたのは、機械を通しているとはいえ紛れもない彼女の声だったから。
『早くしないと、お祭り、終わっちゃうよ?』
 その聞き覚えのある台詞に、僕はハッと腕時計を見た。
 七時半。
 その時僕の脳裏によぎったもの。まるでスライドショーみたいに、網膜に焼き付いた情景の静止画が何枚も切り替わる。思えばそれは、僕の中にいるもう一人のボクが、情報の再確認を強いているようでもあった。
 そこそこ潤っていたはずの口内が乾ききっていた。
 鼓動のスピードが徐々に上がっていく。手汗と震えから、スマートフォンが滑り落ちそうだ。
 今僕が止まっているのか、歩いているのか、そもそも立っているのかすら分からなくなってくる。何でとかどうしてなんて思考がぐるぐる回りながら熱量を増し、やがて回路が耐え切れずにショートした。呼吸の仕方も忘れ、僕はただ、しばらくそこにいた。
 ハッと、我にかえる。
 スマートフォンを確認すると、通話はまだ繋がっていた。かかってきてから数十秒しか経っていなかった。
 僕はゆっくりと息を吐き出す。それから口を開いて。
「うん、……すぐに、行くから」
『そんなに焦らなくても、ちゃんと待ってるからね』
 ぶちっと、乱暴に電話が切れた。
 ツー、ツーという音を聞きながら、僕は、努めて冷静に家までの道のりを無言で歩いた。家に着き、玄関を通り、二階の僕の部屋に向かう。そして、押入れの一番奥から透明の衣装ケースを取り出した。中には藍色の浴衣や浴衣に必要な小物類などが綺麗に仕舞われている。――彼女から誕生日にもらったものだ。これを着て、夏祭りに行こうという約束付きで。
 僕は深呼吸を一つする。
 乱暴に脈打つ心臓が、少し、落ち着いた気がした。
 スマートフォンで適当なワードで検索し、文章や添付してある画像と姿見に映った自分とを照らし合わせながら着付けていく。衿は右前。それから腰紐と帯を結んだ。鏡の中の自分は、あの時より不格好だったけど、それでも一人でしたにしては上出来な方だろう。
 一緒に仕舞っていた下駄を履いて外に出る。
 コンクリートに下駄がぶつかって、からんころんと、乾いた音を立てる。デジャブ。夜道を歩く中、不思議と、まだそんなに遅くない時間帯のはずなのに誰にも会わなかった。
 夏でも、やはり夜になれば気温もがくっと下がるのだろうか。肌に触れる空気はひんやりと冷たい。
 寝静まった住宅街をしばらく歩くと、突然、周囲とは不釣り合いな朱い鳥居が見えた。鳥居は神域と人間の俗界との境であり、神域への入口を示す門なんだとは彼女から聞いた話だ。近付くにつれ、華やかな祭囃子や、にぎやかな人ごみの雰囲気などが色濃くなっていくのが分かる。
 そこに、彼女が居た。
「夏樹!」
 僕を見つけるなり、自分の存在を主張するように手を振っている。――此処には僕と彼女しかいないのにも関わらず。彼女が小走りで近寄ってきて、僕は僕で、そのまま歩みを進めた。
「もう、遅いよ。待ちくたびれちゃった」
 彼女が笑っていた。
 彼女は僕の記憶通りの格好をしていた。艶やかな黒髪は後ろでまとめてあり、花の付いた簪がついている。レトロ調の浴衣と帯、それに同じ柄の巾着と草履。前々日くらいに一目惚れして即決で買ったと連絡がきたものだ。でも、唯一違うところは……。
 僕は言った。
「それ、逆合わせじゃない?」

――夏樹、衿が逆。そういうの逆合わせって言うの。
――ぎゃくあわせ?
――亡くなった人ってさ、白い着物着てるでしょ? 死装束っていうんだけどね。その衿のこと。

 僕の問いに、彼女はふわりと笑った。
「だって、私――――■■■■もの」

3

 ♡

『あ、夏樹? 今どこ? 早くしないと、お祭り、終わっちゃうよ?』
「ごめん、仕事が長引いて! 今家に向かってる! すぐ行くから!」
『……もしかして。一人で浴衣着られなくて嘘ついてる? せっかく夏樹に似合うやつ仕立ててもらったのに、着てこなかったら怒るから」
「ち、違うって! 今日同僚が営業先でポカやっちゃってさ、それで遅くなって――って話はどうでもいいや! ちゃんと着ていく! もうちょっと待ってて!」
『ふふ。冗談だよ、冗談。そんなに焦らなくても、ちゃんと待ってるからね』
 通話時間は一分にも満たない。
 それが最後の会話になるだなんて、一体誰が予想したろう。
 もし、僕が当日までに浴衣の着付けの練習をしてて、まごつかなかったら。もし、落ち込む同僚を励まそうと遠回りして帰らなかったら。もし、あの日謝罪しに行く役目を引き受けずに定時で帰っていたら。――そんなifなんて星の数よりもっと思いつく。
 だって、そうしていたら。
 きっと彼女を死なせることにはならなかった。
 僕は凡ミスですっかりしょげてしまった同僚と話をして帰るためわざと遠回りして本社に戻り、その後処理のための残業をしてから、飛ぶように家に帰った。そして貰ってから仕舞い込んでいた浴衣を引っ張り出し、動画やwebを見ながら着付けを終えた頃には約束の時間をとっくに過ぎていて。だから慌てて待ち合わせの鳥居に向かった。途中、指輪を忘れたのを思い出して全速力(といっても下駄を履いていたからそんなに走れなかったけど)で戻ったのちに。
 心臓が、早く早くと急かしていた。
 遅刻したことへの申し訳なさもかなりあったが、久しぶりに彼女に会えるという高揚感の方が勝っていた。学生の頃は会えないと言っても休日程度くらいだったけど、社会人にもなればそうもいかなかったから。隠し持った指輪の質量感に、さらに気持ちが高鳴る。何度も脳内シュミレーションした流れと台詞を再確認しながら、道を急いだ。
 だが、それは、まるで風船を鋭い針先で割ったように弾け飛ぶ。
 僕が息を切らして鳥居につくと、すでにそこには人だかりが出来ていた。近くには救急車や数台のパトカーが停まっている。誰かが怪我でもしたのだろうか、可哀そうに。そう他人事のように思った時だ。担架に乗せられた人が、群衆の間から見えた。
 血まみれの彼女だった。
 僕は一瞬、ドラマでも見ているのだろうかと思った。垣間見た彼女が僕の彼女ではないと否定しようとした。訳が分からなかった。何故、彼女が血まみれなのか。最後に電話をしてから今までで、一体、何が起こったのか。
 だが、彼女は一人っ子で顔の似た姉妹なんていないし、そうでなくても、恋人の顔を見間違えるなんてことはなかった。だから今目の前で救急車に乗せられたのは紛れもない僕の彼女だった。
 僕は慌てて人波をかき分けて救急隊のところに行き、恋人であることを伝えた。救急隊員は同行を許可してくれた。
 病院に搬送される道中、そして彼女が医者や看護師たちに押されてオペ室に入っていくまで、僕は手を握りながら何度何度も名前を呼んだ。それだけしかできなかった。
 彼女を待つ間、警察から、無差別殺傷事件に巻き込まれたのだと聞いた。他にも数名同じように刺された人がいるのだと言う。単調に読み上げられる事件の概要は、生憎、右から左へ聞き流れてしまってもう思い出せない。
 今でも目に焼き付いている。
 手術中の赤いランプが消え、医者が出てきたところ。そして静かに言われたこと。――手は尽くしましたが……、申し訳ありません。瞬間、知らせを聞き付けてきた彼女の両親の慟哭。
 霊安室で見た彼女の顔は、知らない誰かのようでもあった。彼女と瓜二つの別の女性が亡くなって、そのことに彼女の両親は気付いていなくて、本人はまだ、待ち合わせ場所で僕を待っているんじゃないかって思ったりもした。

 ああ、そうか。
 やっぱり僕は、一年ものあいだ、此処に彼女を待たせていたのだ。

「夏樹。お祭り、行こうよ」
 彼女が手を差し出す。
 健康的な肌色とはとても程遠い、いっそ幽鬼のような白くて細い手。
 にぎやかに聞こえていた音が、人々の声が、ゆっくりと遠ざかっていく。
「いこう?」
 僕は頷きながらその手を取った。
 とても冷たかった。冷たいというより、温度をなくした手だった。

解夏

解夏

夏にまつわる――僕と彼女の話。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-08-15

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 1
  2. 2
  3. 3