負けないでっ 【第二巻】
六十六 強請(ゆす)りの計画
浜田は、米村工機から二十億円もの大金を奪う計画の策定に頭を使っていた。浜田は沙希に子供が出来たことは知らなかった。だから、もし短期間に片付けるなら、沙希本人を誘拐して身代金を旦那の米村善雄に出させるのが手っ取り早いと思った。だが、善雄が身代金を出し渋ったら、短期に大金を奪うのは難しい。それに、もしも上手くことが運んだとしても、一億円位なら大き目のアタッシュケースで運べるが、二十億にもなると一人では到底運べる量ではない。
「一億位にしとくかなぁ」
もしもだ、善雄が警察に通報してしまえば更に厄介だ。そんなこんなで浜田の計画は支離滅裂だった。
浜田は三食昼寝付きの奴隷生活をしていたが、給料は一銭も出てなかったから、日本に帰るにも旅費がない。着ている物はつなぎの作業服の下に、汗で黄色くなった綿の下着、寒い時に着るジャンパー一着きりだ。おまけにパスポートも無い。だから、今の状態ではザンビア国内でも動き回れない有様だった。
「先ずだ、旅費とパスポートをどうやって手に入れるかだ」
考えれば考えるほど状況は悪いことが分かる。
「しゃがむとケツが丸見えになる今のつなぎの作業服も使えないしなぁ。ま、洋服位は事務所の誰かのやつをかっぱらうとしてもだ、パスポートだけは無いと拙いなぁ」
結局浜田は具体的な計画を立てることはできなかった。それでも日本に帰って沙希に復讐してやりたいと言う執念を捨てることができなかった。
そこで、事務所の警備員が二ヶ月に一回程度ルサカに用で出かけることが分かっていたので、何とか頼み込んでルサカに行く時に車に同乗させてもらう約束を取り付けた。普段浜田は仕事熱心で大人しくしていたから、
「一度だけだぞ」
と念を押されて鉱山の外に出してもらえる機会ができたのだ。
ジープで何時間も走った末、浜田が乗り込んだジープはルサカに着いた。
「お前、ここで何をするんだ?」
日本語ができる中国人が同乗していたので、会話はきっちりとできた。
「街を見たいだけだ」
「観光か?」
「そうだ」
「脱走する気じゃないだろうな。もしもちょっとでも脱走しようとしたら、また鎖でつないでやるからそう思え。逃げたら殺す」
「分った」
「じゃ、一時間やる。一時間後にここに戻って来い」
「分った。必ず戻る」
浜田はルサカの町で解放された。それで、直ぐに日本大使館のある場所を聞いて、ザンビア日本大使館を訪ねた。
「何か御用ですか?」
現地人の受付の女が尋ねた。
「オレは日本人だ。拉致されてザンビアに連れてこられて鉱山で奴隷として強制労働をさせられてるんだ。助けてくれ。パスポートは盗られてない。日本に強制送還してもらいたい」
女は怪訝な顔で浜田の顔を見た上、
「少しお待ち下さい」
と言って奥の事務室に消えた。しばらくすると日本人の男性職員が出てきて応対してくれた。浜田は先ほどと同じ説明をした。
職員は困った顔になった。
「身分を証明する物は何もお持ちでないですね」
「当たり前だ」
「困りましたね。それではあなたが日本人なのか、中国人なのか、韓国人なのかさっぱり分りません」
「オレは日本人だ」
「そう言われましても。警察で指名手配でもされていれば話は簡単なんですが」
「おいっ、オレは罪人じゃないぞ」
「日本に親兄弟とかご親戚の方はおられますか」
それで浜田は、
「実家は埼玉県上尾市愛宕××番地、浜田清一がオレの兄貴だ。電話番号は048-XXX-XXXXだ。照会してくれ」
警察から浜田清一の所に、
「浜田靖男さんをご存知ですか」
と問い合わせがあった。清一は咄嗟に、
「靖男のやろう、また悪いことをしたな」
と感じて
「関係ありません。知りません」
と答えて電話を切った。清一は今までにも何度も借金の肩代わりや万引きなどの軽犯罪の身請け人として苦労させられていた。だから、関わりたくなかったのだ。
ザンビア日本大使館の職員は本国に照会したが浜田清一とここに来ている胡散臭い男とは関係がないことが分かった。それで、
「浜田さん、すみませんがご実家の方からはあなたのことは知らないとの連絡がありました。我が国としては保護しかねますので、どうぞお引取り下さい」
そう言って事務所の奥に消えた。受付の女は申し訳なさそうな顔をしていたが何も言わなかった。
解放されてから一時間以上過ぎていた。元の待ち合わせ場所に戻ると同乗してきた三人の中国人に散々嫌味を言われて、銃座でどつかれてジープの後部座席に押し込まれた。
「どこに行っていた?」
「街の中を歩いていた」
「ウソつけっ! お前がザンビア日本大使館に入ったとこをちゃんと確認してあるんだ。大使館で何をやってた?」
「……」
浜田は一瞬答えに窮した。
「覚えてろっ。帰ったら鎖だ」
浜田は鉱山に帰ると罰だと言われて一ヶ月間足を鎖で繋がれた強制労働に戻されてしまった。
その時浜田は、
「ちぇっ、一生ここからは出られねぇな」
と自分の境遇を悟った。
長男が生まれてから五年が経ち、沙希の長男の希世彦はすくすくと成長して来年は小学生だ。長男の希世彦に二年遅れて女の子にも恵まれた。
長女には沙里(さりぃ)と名前が付けられた。二人とも可愛らしい盛りだ。知らぬが仏とはよく言ったものだ。失敗に終わったとは言え、丁度その頃、浜田は沙希にとっては恐ろしい計画を画策していたのだ。そんなことを全く知らない沙希は最近平和で幸せな毎日を送っていた。
六十七 クラブ ラ・ポワトリーヌ
仙台でクラブ、ラ・ポワトリーヌをオープンさせてから、加奈子の頑張りで、業績は順調に伸びて、丁度二年が過ぎた。その間、加奈子はオーナーの仙北建設社長千葉慎二とは体の関係を続けることを避けていた。原因は恐ろしい慎二の妻、真砂子の目だ。加奈子は慎二が好きだったから、我慢するのは辛かったから、たまには慎二とホテルに泊まることはあったが、最近は殆ど抱き合うことはなかった。
新人アーティストの開拓もそこそこ順調に進んでいた。仙台駅周辺の街頭で活動しているストリートミュージシャンの中から、スタッフの川野珠実が将来伸びそうな若者を引っ張ってきて、クラブのスタジオを使って育成に努めていた。スカウトされたミュージシャンの中から更に歌唱力のある若者を選んで、川野珠実は自分のメディアへのコネを利用してFMやTVの電波に乗せる所まで送り込めた者は数名居た。
仙台と、仙台から一つ北の古川の中間あたりに仙台北部中核工業団地がある。その工業団地の中に、米村工機の仙台工場があった。仙台工場で働く従業員はパートタイマーや派遣社員も含めて千人弱だったから、このあたりの工場としては、かなり大きな規模だ。
米村工機の副社長米村善雄はこの工場に一ヶ月か二ヶ月に一度経営会議に顔を出していた。
善雄は朝、沙希と母親の美鈴に見送られて家を出ると、上野から新幹線で仙台に行った。秘書から事前に連絡が行っているので、善雄が仙台駅を降りると、必ず仙台工場の総務部の者が迎えに来てくれていた。
工場に行き、午後一番から開かれる経営会議が終わり、工場長を連れて工場内を一回り視察し終わると夕方になる。以前はその日の内に仙台から新幹線に乗って東京に戻ったが、最近は仙台駅前のホテルに一泊して、早朝に新幹線に乗り、そのまま日本橋の○○ホールディングスに戻ることが多くなった。
善雄はホテルまで送ってきた会社の者に帰ってもらうと、一人で街に出て夕食がてらちょっと酒を呑む楽しみがあった。
一人で街中で酒を呑んでいると、不思議と話しかけてくる同世代の者がいて、いつの間にか何人かで談笑しながらの酒になることが多くなった。そんな時、善雄は決して本名を使わなかった。酒で集まった素性の分らない者にどこの誰でどんな仕事をしているのかと在りのままをしゃべってしまうと、後でややこしくなったり、名前を利用されたりする惧れがあるから、善雄は都筑庄平(つづきしようへい)と言う偽名を使っていた。姓が都筑と言うのは珍しいので、話題にし易いと、それだけの単純な気持ちで都筑にした。神奈川県から東京にまたがる多摩丘陵東南部の地域は昔から都筑郡と呼ばれていた。都筑は万葉集にも出てくるし、鎌倉時代に整備されて今も残っている鎌倉街道も都筑郡を通るのだ。そんな歴史の話を始めると都筑は酒の肴に使えるのだ。
善雄はいつも小さな居酒屋で飲んでいたが、たまたまその居酒屋で知り合った飲み友達が最近できたと言われるクラブ ラ・ポワトリーヌに行くと綺麗な女性に出会えるなんて話を持ち出した。それで、菜の花が咲き始めて、少し暖かくなった日の夜、善雄はどんな所かとクラブ、ラ・ポワトリーヌの扉を開けてみた。
飲み友達が言っていた通り、ホステスは皆綺麗な子が揃っていた。それで、以後仙台に泊まる時は善雄はラ・ポワトリーヌに出かけることにしたのだ。善雄は父の善太郎のお供で六本木のクラブ、ラ・フォセットに二度行ったことがあるが、ここのクラブの雰囲気はなんとなく六本木の店に似ているなぁと感じていた。
ラ・ポワトリーヌをオープンして二年が過ぎた頃、ひょろっとした、もやしみたいな体つきの若い男がふらっと入ってきた。加奈子は痩せた男は自分のタイプではなかったが、初めてのお客なので、最初は加奈子が相手をして、その後客に合いそうな詩織と言う綺麗な子を付けた。加奈子が思った通り、客は詩織に好感を持った様子で、次からは詩織の手が空いている時は詩織を指名した。
都筑は一ヶ月か二ヶ月に一度ラ・ポワトリーヌを訪れた。物静かで落ち着いていて、支払いにも余裕のある良家のお坊ちゃんタイプなので、詩織は次第に都筑に引かれていった。
「失礼ですが、お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
「僕の?」
「はい」
詩織は珍しく胸がドキドキした。毎日大勢の客の相手をしているのに、そんな風になることは今まで一度もなかった。
「都筑庄平です」
「あら、どんな字を書きますの?」
善雄はそばにあったナプキンにボールペンで書いて見せた。詩織は善雄が内ポケットから取り出した18金ムクのクロス(CROSS)のボールペン、センチュリーシグネットを見て驚いた。普通の人間ならそれがどんな物かは分からない。だが、詩織はステーショナリーに興味があって、気に入った物を集めていたから、善雄が使っているボールペンは買えば二十万円近くもする高価な物だと知っていたのだ。
「このナプキン、頂いてもよろしいでしょうか」
「あはは、下手糞な字だけど」
善雄は微笑んだ。
「お持ちのボールペン、センチュリーシグネットですわね。素的っ!」
詩織がちゃんと言い当てたのには善雄も驚いた。
「詩織さん、よくご存知ですね」
六十八 想定外の出来事
米村工機副社長米村善雄は先月仙台工場を視察して回った。その時、
「工場長、不景気で生産量が減少したにも拘わらず生産ラインを三年前と変えてないのは何か理由があるのですか」
と善雄は工場長に尋ねた。
「はい、副社長。ラインを変更しようと検討しましたが、変更工事費が百万円と少しかかることがわかりましたので、敢えて変えませんでした」
「今のままの場合とラインを縮小した場合のオペレーション経費の差は計算してありますか」
「それは未検討です」
「どうしてですか」
「前年度の経費予算に計上しておりませんでしたから、変更工事費を捻出できず、最初から変更を取りやめたためです」
「工場長、それはおかしいですね」
「おかしいですか」
善雄はいつものことだがむっとした。
「あなた、そのことを一度でもわたしに相談されましたか? それに、机上でシミュレイトするのにお金がかかりますか」
「……」
「黙っていては分りません。どうなんですか」
「次回までに検討させておきます」
「いつもお願いしてます通り、経費節減に横着されては困ります」
父善太郎の代からの社員で、あと二年か三年で定年を迎える工場長はやる気のないやつで善雄はいつもむかついた。それで、今度の役員会で工場長の更迭を考えねばならんと思った。宿題を出しておいた検討結果が気がかりで、翌月も善雄は仙台工場に出張してきた。
経営会議で最初に宿題のことを話題にすると、工場長は気のない態度で説明をして、ライン変更をしないで済むような結論を報告した。善雄は会議直前に配布された資料にざっと目を通した。
「この資料に工場長は目を通されましたか」
「もちろんです」
「おかしいですね。ラインを縮小すれば、人員が浮くはずですが、それが抜けてますね。生産が三割も減って、人員が余らないのは理屈に合いませんが。違いますか」
すると若手の幹部の一人が発言した。
「差し出がましいですが、私の概算では約五十名程度人員が余るはずです」
すると工場長が、
「おまえ、黙ってろ。余計なことを言うもんじゃない。それを言うなら昨日の会議で言えばいいじゃないかっ。余った人間を簡単に解雇するわけにぁいかんのだよ」
と一喝した。善雄は腹が立った。
「工場長! わたしは一度だって解雇を口にしたことはありませんよ。五十名も余るなら、今マレーシア工場に出そうと思っていた新しい仕事を入れることを考えてもいいのですよ。うちは関連会社を入れると数十社ありますから、全体を見て人件費が高くても仙台で生産することだって検討の余地はあります。五十名の人件費は年間でどれくらいになりますか」
と先ほどの若手の幹部の顔を見た。
「はい。総務部の人事係りに概算させましたら、平均一人当たり三百万円でしたから、年間で一億五千万円程度になります」
「そうだね。わずか百万円程度のライン変更工事費に比べると結論はライン縮小が正解だな」
工場長はぶすっとしていたが、他の幹部は全員頷いていた。
「工場長、来月までにライン変更をして下さい。変更工事費の予算は直ぐに稟議に上げて下さい」
工場長は渋々だが納得した。善雄はライン変更と同時にマレーシア工場に出す予定だった新しい仕事のライン構築の打ち合わせのために技術者を東京の本社に出張させるように命じてから、その他の議題を処理して工場を出た。
仙台駅にはいつもより少し早めに着いた。そのまま東京の自宅に帰れなくもなかったが、ホテルの予約が済んでおり、詩織の顔も見たかったから、夕方までホテルで経営資料の検討をした。
夕方ラ・ポワトリーヌに行こうとすると、少し寒気を覚えた。
「可愛い詩織を相手に酒でも飲めば暖かくなるだろう」
とそう思ってタクシーでラ・ポワトリーヌに行った。
開店して間もない様子で客は少なく、善雄の顔を見ると直ぐに詩織がやってきた。
「都筑さん、おはようございますぅ」
挨拶しながら詩織は奥の席に善雄を案内した。
ステージに置かれたピアノで誰かが旧いジャズの曲を弾いていた。善雄は昼間、のらくらした工場長を相手に会議を続けたので、少し疲れが出た感じで、ぼんやりとジャズピアノの演奏を聴いていた。
「都筑さん、今日はなんだか元気がありませんね」
詩織に声をかけられて、はっと我にかえった。
「ん。少し寒気がしてね。詩織さんとお酒でも飲めば暖かくなると思ったんだ」
「大丈夫ですか」
詩織は心配げな顔で善雄のグラスにブランデーを追加した。
「この前の続きですけど」
「続きって言うと?」
「都筑さんのご趣味とかお仕事なんか聞かせて欲しいな」
「詩織さんのご趣味はステーショナリーだったよね。今までどんな物を集めたの」
「あたしのお小遣いの範囲ですから、大した物はありません」
「何か特別な物を集めているの」
「はい。ペーパーナイフです。他の物でも気に入った物があって、どうしても欲しい時は買いますが、大抵はペーパーナイフかしら」
「そう。とても良いご趣味ですね。ペーパーナイフも凝った物はすごいのがありますよね」
「はい」
「ヨーロッパの王朝文化では、ペーパーナイフはステータスシンボルだったそうだから、象嵌とか宝石をちりばめたものとかすごいのがありますね」
「そうなんですよ。あたしのお小遣いじゃとても歯が立たないようなのが沢山あります」
「日本ではペーパーナイフと言いますが、アメリカではレターオープナーと呼ぶことが多いですね」
「そうなんです。あたし、ニューヨークに旅行した時ペーパーナイフを見せて下さいって言ったら首をかしげられて、説明したら、それはレターオープナーのことですねなんて店員に言われちゃいました」
と詩織はその時の様子を思い出すような顔をした。
「フランス語では洋服の服地の裁断をクープと言いますけど、クープは物を切る物って意味でペーパーナイフはクープ・パピエ、つまり紙を切る物って言うようですね」
詩織は都筑と話しが合うので、都筑のことを益々好きになった。
詩織が、
「あたし都筑さん好きになっちゃったなぁ」
と改めて思った時、突然都筑がソファーに倒れこんだ。詩織は驚いた。それで、急いで加奈子の所に行って、
「ママ大変! 都筑様の様子がおかしくて」
と訴えた。加奈子と詩織が都筑庄平の所に戻ると都筑は顔を真っ青にして、ぐったりしてソファーに倒れていた。加奈子が都筑の額に手を当てて、
「あらっ、ひどいお熱」
と驚いた。加奈子は救急車を呼ぶと大騒ぎになり他の客に迷惑がかかるのを恐れて、
「詩織さん、あたしと一緒にあたしのマンションまで来て下さいな」
と言ってガードの男を二人呼んでタクシーまで抱えてもらった。
マンションに着くと加奈子と詩織と二人して都筑を加奈子のベッドに運んで横たえた。加奈子は直ぐにクラブの客でもある内科医に電話をした。
「先生、こんな時間に済みませんが、あたしのマンションまで往診して頂けませんかしら」
「どうしたんだ?」
「お客様が大変なお熱で」
「カナさんの願いなら仕方が無いな。直ぐに行くよ」
十五分ほどして、看護師を連れて内科医がやってきた。
「風邪のようだな。解熱剤を注射しておいたから、三時間位で熱が下がると思うよ。もし下がらなかったらもう一度電話をくれよ」
そう言って帰った。
「詩織さん、ご苦労様。あとはあたしに任せて。あなたはお店に帰ってちょうだい」
詩織はずっと都筑と一緒に居たかったが、加奈子の指示に従ってクラブへ帰って行った。
部屋を暖かくしてから、加奈子は都筑の洋服や下着を脱がして、自分も裸になって都筑を抱いてやった。最初は都筑の身体は熱いくらいだったが、二時間もすると少し熱が下がってきたと見えて全身汗をかきはじめた。加奈子はバスタオルを持ってきて、都筑の身体を丁寧に拭いてやって、また抱きしめて寝た。都筑は加奈子と同年代の青年だったから、何となくそんな風にしてあげたのだ。もし年配のオヤジだったらそんなことはしなかっただろう。
それから何時間たっただろう? 都筑が寝返りをうって加奈子は起こされた。時計を見ると午前三時を過ぎていた。加奈子もいつの間にか眠ってしまったようだった。都筑の熱は下がっていた。
都筑ははっと目が覚めて、そこに裸のママが横たわっているのを知って仰天した。
「……」
加奈子が微笑んだのを見て、
「あっ、済みません、僕、どうなってました?」
都筑の狼狽した表情がそこにあった。
「びっくりなさった? あなた凄いお熱でお店で倒れてしまったので、あたしのマンションまで運んで、こうして抱いてお熱を下げてあげたのよ。お熱、計って下さいな」
そう言って枕元に用意した体温計を都筑に渡した。熱は36度8分まで下がっていた。
善雄はこんな場合、相手の女性にどんな風にお礼を言えば良いのか言葉が出てこなかった。それで、取りあえずベッドの上で加奈子にお辞儀をして、
「大変なご迷惑をかけてしまいました」
と言った。加奈子はそんな都筑を可愛い人だと思った。
加奈子は明かりを消して、
「介抱のお礼のつもりであたしを抱いてちょうだい」
と都筑の耳元に囁いた。都筑(善雄)は最初のうちは抗って抱こうとしなかったが、加奈子の誘いに意を決めたらしく、加奈子を丁寧に愛撫した。加奈子はここのとこ慎二ともご無沙汰で男の肌に触れるのは久しぶりだった。それで自分も都筑を愛撫して、二人は女と男の関係になった。加奈子は都筑が自分の中で射精をしてしまったのを感じてはいたが、気にせずそのままにした。
二人で簡単な朝食を済ませてから、加奈子は自分の車で都筑を仙台駅まで送った。都筑がダウンしている間に名刺入れや免許証を調べることはできたが、加奈子はそんなことをしなかった。だから、加奈子は都筑が偽名だとは知らなかった。
翌日クラブに内科医から電話があった。
「新型インフルエンザの可能性を心配したけど、白だったよ。ママ、安心していいよ」
六十九 厳しい世の中
世界の経済界は金融危機に見舞われてから、徐々に回復しつつあったが、中国、インドなど新興諸国に比べて、欧米も日本もなかなか順調に回復していない。特に日本は忍び寄る高齢化社会のリスクを海外の投資家が敬遠して日本への投資資金が減って、経済全体が低迷してなかなか上昇基調に乗るチャンスが来ないでいた。だが、個別の企業を見ると、上手く新興諸国の市場に食い込んだ企業は順調な回復を見せていた。沙希の旦那の米村善雄が引っ張っている米村工機は、新興諸国市場へのパーツの輸出が好調で数量ベースの生産量は経済危機以前の水準以上に達していたが、金額ベースでは厳しい状態であった。つまり数量は増えるが単価が落ちて売上が伸びないのだ。それで、コストダウンは当面の課題だった。鉄鋼はもちろんのこと、レアメタルの相場が高騰し、人件費の削減が難しいために、コストダウンは容易ではなかったのだ。
それで、善雄は本社東京工場はもちろん、仙台工場の生産ラインを見直して人件費の削減に力を入れたいと思っていた。そのため、ラインの改善に積極的でない仙台工場の工場長の更迭を断行した。
後任の工場長は本社の経営企画室で善雄の補佐役をしている塚田と言う男を起用した。塚田は若い頃は諏訪工場の技術部で小型回転器の開発をやっていた技術屋だ。頭の回転が速い優秀な奴で、入社して間もない頃、善雄が出向した諏訪工場で善雄の先生役を勤めてくれた男だった。塚田は技術屋だが、財務にも明るいことが分って、善雄が副社長に昇格した時にオヤジの善太郎に頼み込んで諏訪工場から引っこ抜いた。以来、塚田は善雄の片腕として米村工機の業績向上に尽力してくれていた。だから、塚田を仙台に出すについては善雄自身、身を切る思いで出したのだ。
「仙台工場に塚田さんを出す前に元の工場長を仙台工場から東京に転出させたいと思いますが、それでいいですか」
善雄は善太郎に相談した。
「お前がそうしたいならそれでいいぞ。東京に来させてどう使うんだ?」
「定年前でやる気のない人です。うっかりラインに回すとラインの士気を落しますから、定年まで経営企画室に置いて僕がしごいてみます。それでダメなら定年延長をしないで退職させるつもりです」
「分った。それでやってくれ」
結局本人のなげやりな仕事の態度は直らず、二年後に元仙台工場長は淋しく定年退職をして会社を去って行った。善雄はそんなことに心が痛んだが、心を鬼にして処理をしたのだ。それを誰かにグチってストレスを解消するようなことはしなかったが、やはり気持ちをどこかでほぐしてもらわないことにはストレスは溜まる一方だった。子供ができる前は沙希が善雄の気持ちのほぐし役をしてくれた。だが、長男が誕生して、続いて沙希のお腹の中に二人目が出来た今、最近沙希は子供のことに精一杯で善雄のことは後回しの状態だった。
多分善雄のそんな環境が善雄の心の中で仙台のラ・ポワトリーヌの詩織の存在を大きくしていた。詩織はホステスにしてはおとなしく控え目な子だった。そんな性格が善雄の気持ちに合っていたのかも知れない。
「都筑さん、どんなお仕事をされていらっしゃるのかまだ教えてくださらないわね」
「あれっ? まだ話してなかったっけ? 普通の営業の仕事だよ」
「うそばっかり。普通の営業のお仕事をなさっておられるにしては余裕がおありね。もしかして営業部長さん?」
「あはは、ただの営業マンだよ」
「仙台には月に一度くらいしか来られないんですか? もう少し来られるんでしたら、オフの時一度ドライブとかに連れて行って下さると嬉しいな」
「忙しくてね、月に一度が精一杯だな」
「今夜は仙台にお泊りになられるんでしょ」
「ん。駅前のホテルに」
「今夜あたしホテルにお邪魔してもよろしいかしら? お話しするだけでいいんです。都筑さんとお話しをしていると楽しくて」
「困ったなぁ。明日から東南アジアとヨーロッパに一週間ほど駆け足で出張なんだ。だから準備の仕事で今夜も多忙だから」
善雄は無理すれば一時間や二時間時間を空けることはできた。だが、自分に対する詩織の気持ちは分っていた。もし夜中にホテルで会えば多分抜き差しならない関係になるような気がした。だから善雄は詩織とはラ・ポワトリーヌ以外では会わないと決めていたのだ。
二ヶ月前、熱を出して倒れた時、ここの加奈子ママと女と男の関係になってしまった。あれはどう考えても偶然の出来事だった。善雄は加奈子と詩織に東京でルイ・ヴィトンのアルマ・ヴォワヤージュMMを買って迷惑のお詫びに渡した。加奈子には医者代も渡そうとしたが、加奈子は受け取ってくれなかった。だが、心の隅でいつも加奈子には済まないことをしてしまったと言う気持ちが吹っ切れずにいたのだ。
七十 フレグランスの香り
「希世彦が五歳、来年小学生だから、あれはもう三年前だったな」
沙希は三年前のことを思い出していた。沙里がまだお腹の中に居た頃だ。その沙里も、もう直ぐ三歳、可愛らしくなってきた。
仙台から戻った善雄は、その日に限って元気がなかった。翌日善雄を送り出すと、善雄の下着を洗濯しようとしたその時、善雄の下着から強い香水の香りがしたのだ。沙希はその香水の種類が直ぐに分かった。マリアが普段使っているクリスチャン・ディオールのオードトワレ、プアゾンの香りだ。プアゾンは彼岸花科のチュベローズや芹科のパクチ、つまり英名のコリアンダーなど癖のある香りを使っているから一度嗅げば忘れない香りだ。
「善雄さん、マリアと会ったのかしら?」
しばらくマリアとご無沙汰だったので、沙希はマリアに電話をしてみた。
「マリア、しばらく。お元気? 子供さんも?」
マリアは自分もサトルも子供も皆元気だと言った。
「沙希、沙希の方は?」
「うちも皆元気よ」
「時間あったら久しぶりにお茶しない?」
それで沙希とマリアは子供連れで池袋のファミレスでお昼を一緒に食べることにした。
「マリア、いきなりだけど、最近うちの善雄と会ってない?」
「あら、ほんといきなりね。会ってないよ。何かあったの?」
マリアとの付き合いは長い。だからマリアは沙希が善雄の男女関係を心配していることを直ぐに察した。
「なんでわたしなの?」
とマリアは沙希の質問の意味を尋ねた。
「善雄の下着からマリアが付けてる香水の匂いがしたのよ」
「プアゾンね。わたしは今でも使ってるよ。でも、プアゾンはありふれたフレグランスだから善雄さんのお友達が使っていてもおかしくはないわね」
「背広とかYシャツだったら、あたしは何も心配しないよ。でも、香りがしたのは下着だったから」
「あら、それは心配ね」
「ここのとこ子供たちのことで忙しくて、あたし、善雄の相手をずっとしてなかったから」
沙希はマリアとは何でも話しができた。
沙希はこの話はそこまでにして話題を変えた。
そんなことがあってから、二ヶ月後に今度は善雄のYシャツからゲランのイディールに似た香りがしたのだ。
「おかしいな。あたし、希世彦が生まれてからずっと使ってないのに、どうして?」
沙希は六本木のクラブ、ラ・フォセットに勤めていた頃、ホステスのまとめ役の澤田から香水について詳しく教えてもらった。その時の知識で生まれて初めて自分の香水を使い始めた。最初はゲランのミツコだった。だが、ミツコの香りはいまひとつ自分に合ってない気がして、章吾と付き合い始めた頃、新しく調香されたイディールに変えた。イディールは理想的な恋愛をテーマに、ライラック、ジャスミン、フリージャ、ローズ、シャクヤク、スズランなどの香りを使った若々しい香りが特徴の香水だった。
思い出すと、沙希は四国、徳島育ちの田舎娘で、高校を卒業するまでは、自分は香水なんてものには一生縁が無いものだと思っていた。だから、ラ・フォセットに応募した時はスーパーで売っているカネボウのオーデコロンを初めて使ってみた。その時は使い方すら全く知らなかった。そんな沙希に澤田は香水のことを分り易く教えてくれた。
「沙希さん、香水のことをパヒュームって言うのはご存知よね」
「すみません。知りませんでした」
「普通、香水と言うと香りのあるもの全体を指す場合と薄め液のアルコールに対して希釈率、香水では賦香率と言うのですが、それが一番高い、つまり濃いのを香水と言う場合があるの。それで、芳香性のあるもの全体を指してフレグランスと言うのよ」
「そうなんですか。それじゃフレグランスの中で一番賦香率の高いのをパヒュームって言うんですね」
「沙希さん、理解がいいわね。その通りよ。ですから、フレグランスは賦香率の高い順に、パヒューム、オードパルファム、オードトワレ、オーデコロンに区別されているの。オードパルファムはオードパフュームとかパルファンドトワレとも言うわね」
「賦香率はそれぞれどれくらいなんですか」
「一般的にはアルコールに対して濃度15~20% をパヒューム、濃度10~15% をオードパルファム、濃度5~10%をオードトワレ、濃度2~5%をオーデコロンと言うの。実際には蒸留水を少し混ぜてあるので、残りがアルコールってことね」
「濃度が薄くなるにつれて香りの強さが弱くなると思っていいんですか」
「そうよ。香りが弱くなれば匂いがする持続時間も短くなるわね」
「持続時間の目安ってあるのですか」
「香水の種類にもよりますけど、一般的にはパヒュームが5~7時間、オードパルファムが4~5時間、オードトワレが3~4時間、オーデコロンが1~3時間と言われているわね。ですから、オーデコロンなんかは殿方と会う前に化粧室でサッとスプレーしたりするのよ。朝お家を出る前にスプレーして、午後男の人に会うとせっかく使ったのが台無しになっちゃうのよ」
と澤田は笑った。
「ちゃんとしたフレグランスであたしにお勧めってのあります?」
「そうねぇ、香りは好き好きだから難しいわね。世間で良く話が出るシャネルの5番、聞いたことあるでしょ」
「はい。小説で読みました」
「シャネルの5番が発売されたのは一九二一年ですって」
「へぇーっ、随分昔なんですね」
「でもパヒュームの世界じゃ新しい方よ」
「そうなんですかぁ」
「一般的に知られているパヒュームで一番古いのはゲランね。今は五代目のティエリー・ワッサーと言う人が調香師だそうだけど、初代の調香師ピエール=フランソワ・パスカル・ゲランと言う方が最初に出したパヒュームはエスプリ・ドゥ・フルールだそうで、ココシャネルの5番より百年位前の一八二八年だそうで、ナポレオンの時代ね」
「そうなんですかぁ」
「有名なパヒュームを歴史の古い順に言うと、ゲラン→コティ→キャロン→ジャンパトゥ→シャネル→ニナリッチ→ランコム→ディオールの順になるかしら?」
「そうなんだ。一番歴史のあるゲランのパヒュームであたしに合いそうなのあります?」
澤田の話を聞いて、沙希はこれから先自分はゲランのパヒュームを使おうと思った。
「そうねぇ、ミツコなんかどうかしら」
「ミツコって日本人の名前?」
「そうよ。わたしはそんなには詳しくないけど、クロード・ファレールの小説[戦場](ラ・バタイユ)に出てくる日本人女性のヒロインにちなんで付けられた名前ですって。ミツコはゲランの三代目の調香師ジャック・ゲランが調香したものだそうで、一九一九年に出たものだから、シャネルの5番より古いわね」
そんなことがあって、沙希は自分のパヒュームをミツコに決めたのだ。澤田はミツコを薬局で買える無水アルコールを使って自分で賦香する方法も教えてくれた。だから、いつの間にか自分の好きな濃度にミツコを薄めて使っていた。その後章吾と付き合うようになってから、同じゲラン社のイディールに変えた。
六本木のクラブ、ラ・フォセットの澤田が沙希にミツコを勧めたのは、多分沙希を官能的にミステリアスなホステスに育てたい気持ちがあったのだろう。
義父の善太郎は肉食系で今まで女性問題で美鈴を悩ませたと美鈴が言っていた。だが、息子の善雄は父親には似ず草食系で女性には淡白な所がある。沙希と見合いをした後も随分長い間抱きしめてくれなかった。だから、ディオールのプアゾンのことを善雄に話をすると、その時は仙台で高熱を出して、医者の手配やら色々と飲み屋の女将さんに迷惑をかけ、女将さんが使っている香水の匂いだと思うと正直に答えられて沙希は納得した。だが、詩織が使っているゲランのイディールについては、
「そんなこと知らないなぁ」
とうやむやにされてしまった。もちろん、加奈子と女と男の関係になったなんてことは善雄は一言も話さなかった。
七十一 男の責任の取り方
仙台のラ・ポワトリーヌのママ、岩井加奈子と結ばれてしまった都筑庄平こと米村工機の副社長米村善雄はラ・ポワトリーヌを訪れる度に加奈子に済まないことをしてしまったと言う後ろめたい気持ちを思い出さされていた。女と男の身体の関係は時により運命に悪戯されたかのように不意に出来てしまうことがあるものだ。
都筑庄平に抱かれたいと思ったその時の加奈子の気持ちは、突然に加奈子の気持ちの中にむらむらと湧き上がった単なる性欲だけではなかったように思われた。加奈子は今までに何人もの男と付き合い関係してきたし、毎晩ラ・ポワトリーヌに遊びに来る男たちを大勢見てきたから、客の男の性格や財力などについて大体分っていた。もちろん、都筑庄平がどんな男かも大体分っていたのだ。
クラブに遊びに来る男たちの多くはちょっといい女だと見ると、だれかれ問わず直ぐに言い寄り、口説こうとする。だが、加奈子が見た所、都筑は女に清潔で詩織が好きで好きでたまらなくていつも都筑に誘いをかけているにも拘らず、詩織と一線を越えることはなかった。大抵の男たちは女の前で見栄を張るものだが、都筑は一介のサラリーマンとは思えないやつなのに聞くと必ず、
「ただの営業マンだよ」
としか答えずに見栄を張ったことがない。だから、加奈子の頭の隅に都筑に対する好意があっても不思議ではなかった。
あの夜、都筑が高熱でぐったりとしていた時、加奈子の中に図らずも母性愛が目覚めたとしても不思議ではなかった。
三十歳を目前にして、加奈子は一人だけ自分の子供が欲しいと思っていた。だが、子供は加奈子のタイプの千葉慎二の子供が欲しいとは思わなかった。もしも慎二の子供を産んだら、恐らくあの慎二の妻の怖い真砂子と一悶着があるだろう。そんなことがあれば、生まれてくる子供が不幸だ。
それで、あの時、都筑に抱いてもらって、加奈子は都筑の子供を欲しいと無意識に望んでいたのかも知れなかった。だから、自分の中に都筑が射精をした時、加奈子は今までに無かった気持ちで都筑のものをを受け入れた。
加奈子が予期した通り、都筑との愛の営みの結果が現われた。昨日加奈子が産婦人科を訪れて診察してもらうと思った通り、
「ご懐妊です。おめでとうございます」
と言われた。都筑と交わる前は加奈子はしばらく慎二はもちろん他の男とも交わって無かったから、加奈子のお腹に出来た赤ちゃんは都筑の赤ちゃんで間違いはなかった。
「都筑様、お帰りになられる前に少しお時間を頂けますか?」
加奈子は都筑が店に来た時にお腹に赤ちゃんが出来たと正直に都筑に話そうと思っていた。
「そろそろ帰ろうかと思いますが、何か?」
「あらぁ、都筑さん、もう帰っちゃうの? もうちょっと一緒に居てぇ」
詩織の甘えるような声が加奈子と都筑の会話に割って入った。
「詩織さん、ごめんよ。そろそろ帰らなくちゃ」
都筑は帰りがけに加奈子に声をかけた。加奈子は、
「どうぞ」
と言って奥の個室席に都筑を案内した。
「お話ししようか、どうしようか迷ったのですが、実は都筑さまの赤ちゃんが出来てしまったんです」
加奈子は十中八九都筑が、
「慰謝料を払うから堕胎してくれ」
と言うだろうと予想してその時の答えも心の中に用意していた。だが、都筑の口から出た言葉は意外だった。
「そうか、やはり出来てしまったんですね」
「はい」
加奈子は、
「くるぞっ」
と都筑の次の言葉を待った。
「ママ、僕の子供を産んで下さるんですか」
意外だった。
「産んでもよろしいの?」
「はい。もちろん。偶然にママとこんな形になりましたが、子供は天からの授かりものですからママさえご迷惑でなかったら産んで下さい。ただ……」
「ただ?」
加奈子は次の言葉を促した。
「僕は結婚してますので、ママと結婚はできません。養育費とか僕でできることは可能な限り応援させて頂きます。元気な赤ちゃんを産んで下さい」
都筑は加奈子の手を取って、優しい目で加奈子の目を見つめた。
加奈子は、気が強いと自分では思っていたのに、どうしてだろう、いつのまにか頬に涙が零れ落ちるのを感じていた。それは一筋の細い糸のように、蛍光灯の光を反射して光っていた。
加奈子は夜半に帰宅して風呂に入りながら、今日都筑がきっぱりとした口調で、
「元気な赤ちゃんを産んで下さい」
と言ってくれたことを思い出していた。まだ膨らんでもいない下腹部を撫でながら、
「パパがね元気に産まれてくるようにって言ってたわよ」
と呟いた。普段強がっていても、やはり三十前の乙女だ。加奈子は独りでこれから産まれて来る子供に向かって呟いている内にまた涙が零れ落ちた。何よりも清らかで優しげに自分を見つめた都筑の眼差しが嬉しかった。
翌月、都筑にどうしてもと言われて、加奈子は自分の普通預金口座番号を教えた。すると、その月から、毎月決まって二十万円が振り込まれてきた。都筑の預金口座からの引落しではなくて、必ず現金で振り込んでくる所がいじらしく思われた。多分このことを誰かに知られてごたごたするのを避けるために手間をかけて現金で振り込んで来るのだろう。
加奈子は都筑の仕事について今まで何も聞かなかった。もしも所帯持ちの一介のサラリーマンなら、毎月二十万円を送金するのは半端なことじゃない。だから、加奈子はそれを都筑の誠意だと受け止めた。
お腹の膨らみが目立つようになってからは、加奈子はお客の前には姿を見せずに事務室で帳簿の整理や細々とした仕事をしていた。お腹の子供は順調に育っている様子で、都筑がラ・ポワトリーヌにやってきたある日、加奈子は自分のマンションに都筑を誘った。都筑は黙ってマンションに来てくれた。
「何かご心配とか困っていることはありませんか」
「困っていること? そうねぇ、あなたがいつも一緒でなくて淋しいわね」
都筑は真面目に申し訳なさそうな悲しい顔をした。
「冗談よ。お気になさらないで」
それを聞いて都筑の顔にようやく微笑が表れた。
「あがって、お茶くらい飲んで下さいな」
「ん」
都筑は遠慮がちにあがってきた。少し落ち着いた所で、突然加奈子は都筑の手を取って自分の下腹部に当てた。
「ほら、随分大きくなったでしょ」
「ママにばかり負担をかけてしまって済まないなぁ」
「いいのよ。あたしがあなたの子供を産みたいんだから」
月日の流れは速いものだ。臨月は直ぐにやってきた。加奈子から入院したと連絡が入り、都筑は東京から新幹線に乗り病院に駆けつけた。
「産まれそうになったら必ず電話を下さい」
と携帯の番号を教えられた。都筑は加奈子との連絡用に新しい携帯を買って持っていたのだ。
善雄の携帯に加奈子から連絡が入って、再び仙台に出かけた。午後からずっと病院で待っている善雄に看護師が近付いてきて、
「可愛らしい女のお子様でした」
と告げた。
「女の子が産まれたか」
善雄は改めて三人目の自分の子供が出来たと思った。
「希世彦、沙里、三人目はどんな名前にするのかなぁ」
と独り言を言いながら加奈子の病室に入って見た。加奈子は横向き加減で眠っていた。産まれた赤ん坊は別の部屋に移されていた。善雄は沙希とは違った表情の加奈子の寝顔を見て、可愛い人だなぁと思った。
七十二 女の子の名前
クラブのホステスが、
「あたし、お腹に赤ちゃんが出来たの」
と付き合っている男に告げれば多くの場合、
「それってオレの子かなぁ?」
とか、
「誰の子か分らないじゃないか」
とか懐疑的な答えが返ってくることが多いのだ。相手の男に正直に告白しているのに、そんな答えが返ってきたならホステスといえども、すごく惨めな気持ちになるだろう。だから、加奈子は都筑から、もしかしてそんな風に言われるかも知れないと一抹の危惧を抱いていた。だが都筑はそんな話は一言も無く、加奈子の話をそのまま受け止めて信じてくれたのが嬉しかった。その時どんなに嬉しかったか、普通に結婚している女性には、その嬉しさの経験はおそらくないかも知れない。加奈子は、その時の都筑の言葉を思い出して、それで思わず涙が出てしまったのかも知れないと思った。
出産して入院している間に、加奈子はこれからの子育てについて考えていた。仙台にも〇歳児から預かってくれる保育園はいくつもある。だが、加奈子の勤務は夕方から夜中までだ。だから、普通の保育園では預かってもらえない。それで退院後、私設のベビーシッターを調べて見ることにした。その結果、二四時間対応してくれそうな所が仙台にもいくつかあることが分った。料金は高い。大抵時間制で夜間の場合は概ね一時間2000円程度だから、毎日一万五千円位は覚悟をしなければならないことも分った。長期契約の場合割安になる。それでも一ヶ月まるまる頼むと月々三十万~三十五万円にもなる計算だ。仕事をしながら、女手一つで子供を育てる苦労が身に沁みて分かってきた。
加奈子は学校を出ると、
「田舎は嫌よっ」
と言って母と喧嘩して仙台から東京に出た。だから、東京に居る間、実家には帰らず、母とも断絶状態を続けていた。そんなだから、刑務所から出てボロボロになって仙台に舞い戻った時、母は加奈子に冷たく、実家の母の所には加奈子の居場所はなかったのだ。それで、普通ならまだ元気な母親に仕事中赤ん坊を預かってもらう選択肢もあるだろう。だが、加奈子の場合はそんな選択肢はなかったのだ。
退院していつまでも仕事を休んでいるわけには行かなかった。それで、方々探し回って、市内で加奈子の条件に合うベビーシッターを探し当てた。
加奈子のお腹が大きくなってきた頃、千葉慎二に懐妊したことがバレてしまった。こればっかりは隠しておけない。
「オレの子じゃないよな」
慎二は真っ先にそんな風に言った。加奈子はむっとして、
「あなた以外に誰が居るの?」
と慎二に言ってやった。案の定、慎二は困った顔をして、
「バカ言えっ、しばらくご無沙汰だったじゃねぇか」
と言い、
「それでどうするんだ? 産むのか」
と付け加えた。やはり慎二は真砂子が怖いのだ。
「あたし、産むつもりよ」
「おいおいっ、オレは面倒見切れないぞ」
「あら、本音が出たわね」
「そりゃそうだ。気を付けていたんだけどなぁ。堕胎すわけにはいかんのか」
「ダメよ。あたし子供が欲しいから」
「誰かと結婚してから産めばいいじゃないか」
「別の男性と結婚してもあなた平気なの?」
「参ったなぁ」
加奈子はこの際慎二を苛めてやりたい気もしたが、先々店のことで慎二の世話にならないわけには行かないので、都筑について話すことにした。だが都筑の名前は出すまいと思った。
「あなたの動揺を見てちょっと脅かしただけよ。この子はあなたとは別の男の子供よ。安心して」
「くそっ、脅かすなよ。で、誰の子なんだ?」
「秘密」
「オレが知ってるやつの子か?」
「さぁ、どうだか。あなたと会ったことはないかもね」
「ま、いいや。店の方、ちゃんとやって行けるのか?」
「それは大丈夫」
「赤ん坊はどうするんだ」
「仕事に影響のないようにちゃんと考えているわよ」
千葉慎二はそれ以上は突っ込んでこなかった。
女の子が生まれて間もなく、都筑から電話がきた。
「母子共に元気?」
「はい、元気です」
「名前だけど、何かいいのを考えた?」
「いいえ、まだです」
「じゃ、直美はどうかなぁ? 素直で美しい」
「ナオミかぁ。いいじゃない」
加奈子はちょっと間を置いて考えている様子だった。
「あのう、ナは奈良の奈、オは糸偏に者、ミは美しいで奈緒美としちゃダメ?」
「ママがいいと思うならそれでもいいけど、どうして奈良の奈なの?」
「何となく好きな字だから」
加奈子は自分の名前を言わなかった。
「奈はあまりいい意味じゃないけど、どんなって意味もあるからいいか。緒は仕事とか事業って意味だから全部続けて奈緒美にすると、どんなことをしても美しいって意味になるからいいと思うよ」
「良かったぁ。都筑さんて物知りね」
「それほどでもないよ」
「奈がどうしてあまり良い意味じゃないの?」
「地獄の果てを奈落の果てって言うでしょ?奈は木に示すと書く漢字の俗字で元々は柰と書いてリンゴに似た果樹のことと転じて疑問って言う意味らしいよ。だからどんな? って意味もあるんだって」
「都筑さんて、変なことに詳しいのね」
「アハハ、学生時代に仏教のお経にちょっと興味があってさ、勉強したことがあるんだよ」
と都筑は笑った。
「じゃ、名前が決まったから、あたし出生届けを出して来ますわ」
「ごめんな。本当は僕の仕事なんだけど、父親にはなれないから本当に済まないね」
「都筑さん、あなたのその誠実なとこが大好きよ」
「おいおいっ、これ以上何も出ないよ」
と都筑は笑った。
加奈子の娘、岩井奈緒美は病気もせずにすくすくと成長し始めた。ベビーシッターに預けるのは午後の五時頃から夜中の一時までで、それまで昼間は奈緒美と一緒だったから、子育てとしては問題がなかった。
加奈子はシッターさんのお陰で、今まで通り仕事に精を出した。都筑はたまに加奈子のマンションに寄って、奈緒美を抱いてくれたりお風呂に入れてくれた。だから、加奈子は都筑のことを遠地に単身赴任している夫のように接することができた。
「世の中にはあたしたちのように夫婦がたまにしか会えないご家庭、案外多いのかも知れないわね。海外に単身赴任して旦那様が年に一回位しか帰れないご家庭もあるそうね」
そんな加奈子の理解を聞いて、都筑は少し気が楽になった。だが反対に、そう言われて見ると、自分のとこの社員の中にも国内はもちろん海外にも単身赴任させている者が随分大勢いるけれど、夫婦生活や家庭はこんな感じなんだろうなと改めて単身赴任をさせている社員に申し訳ない気持ちになった。
美登里のお腹の中の赤ちゃんは沙希の長男の希世彦が生まれてから一年弱遅れて誕生した。女の子だった。だから今は四歳、もうじき五歳になる可愛らしいさかりだ。
七十三 もう一人の女の子の名前
北欧旅行から帰って、美登里は北欧で買い集めた数々のお土産を携えて、挨拶を兼ねて親戚や友人宅を回っている内に直ぐに一ヶ月が過ぎてしまった。それで、二ヶ月ぶりに美登里は自分のデジカメで撮った写真の整理を始めていた。パソコンに向かって、アルバム作成用のソフトにデジカメの写真を取り込んでコメントを付けて編集していると、一日があっと言う間に過ぎてしまう。
こうして写真を改めて見てみると、実際に見ているつもりだった景色が実は良く見てなかったなんてことが良く分る。目で見た記憶がないのに、何枚もの写真に記憶にない景色がくっきりと写っているのだ。
写真を整理してアルバムの編集をしていると、美登里はなんだか気分が悪くなった。
「おかしいな。風邪でも引いたのかしら?」
そう思って色々考えて見ると、月のものがまだないのに思い当たった。
「もしかして、あたし、出来ちゃったのかなぁ?」
美登里はとりあえず産婦人科に行って見ようと思った。
受付で随分待たされた末、医師の診察を受けると、
「あなた、おめでただよ」
と言われた。すると看護師がなにやらパンフレットを沢山持ってきて、
「これをご参考にしてお大事にして下さいね」
と美登里にパンフレットを渡した。この病院ではどうやら育児用品などのメーカーとつるんでいるらしく、言って見ればお客様の囲い込みをやっている様子だ。
美登里は勿論お産のことなど初体験で何も分らないから、沢山のパンフレットをうやうやしく頂戴して帰ってきた。
家に戻るとなんだか疲れがどっと出て、洋服を着替えるとそのままベッドに潜り込んだ。
「美登里、どうしたんだ?」
と言う章吾の声にはっとすると、もう夕方の五時近くになっていた。章吾が六本木のクラブ、ラ・フォセットに出かける時間だ。章吾は結婚してから、大体一日おきの間隔で、サトルが勤めている池袋の洋酒店の手伝いをしていた。ラ・フォセットからもらう給料だけでも生活はなんとかやって行けたが、将来家を買う時の頭金を貯める余裕がないので、アルバイトを始めたのだ。
結婚してから、章吾は夫婦の営みに積極的ではなかったが、章吾に抱かれるのが大好きな美登里に引っ張られて、二人は章吾がアルバイトに出かけない日には朝目が覚めてから、そのままベッドの中で抱き合ってHをすることが多かった。夜は章吾の帰りが遅く、毎晩疲れている様子だったので、自然にそんな習慣になってしまったのだ。けれども、お腹の中に出来た赤ちゃんは医者に言われた予定日から逆算すると、北海道で章吾から授かったことになる。
美登里はベッドの中から眠そうな目をして、
「章吾、あたし、今日産婦人科に行ってきたよ」
「どこか悪いのか?」
「あたし、出来ちゃったみたい」
「えっ? 子供がか?」
「ええ、お医者様はおめだただって言ったよ」
「ほんと。それで男? 女?」
「バカねぇ。まだ分んないわよ」
「そっかぁ、とにかく美登里の身体、大事にしてくれよな」
章吾にそんな風に言われて、美登里は懐妊したことに実感を覚えた。
「あたし、ママになるのね」
美登里は章吾に向かってと言うより自分に向かって呟いた。
出産では沙希が先輩だ。それで、美登里は時々沙希にお茶に付き合ってもらって色々話を聞かせてもらった。もちろん、美登里は四谷の伯母、八重にも、鎌倉の母志津江にもおめでたの報告をした。
美登里からの報告を聞くと、翌日二人して美登里の所にやってきた。
「美登里ちゃん、分らないこと、困ったことがあったら何でも連絡しなさいよ」
結婚にあんなに反対していた母の志津江も懐妊と聞いて、いよいよ可愛い孫の顔を見られるぞと楽しみにしている様子だった。
出産までは、初産の女性の誰もが経験するように、美登里も期待と不安がないまぜになって複雑な気持ちで過ごす日々が続いた。だが、日が過ぎて振り返って見ると、あっと言う間に臨月を迎え、出産予定日近くに、最初に診てもらった病院に入院した。
お産の苦しみは人により随分違うと聞いてはいたが、美登里は安産する体質らしく、大した痛みもなく、直ぐに産まれた。出産時間が夕方だったが、章吾は出勤を遅らせてずっとついていてくれた。
女の子だった。と言っても、出産前に既に医師から、
「女の子だよ」
と教えてもらっていたから、ベビー用品は女の子用で既に一通り揃えてあった。こんな場合間違ったら大変だが、最近はめったに間違うことはないらしい。
章吾は生まれてきた赤ん坊を見て、自分も父親になったかと感動していた。
「美登里に似て可愛くなるぞ」
そんなことを思っている自分を以前想像できただろうか。子供が出来るって、不思議なものだなぁと思っていた。
章吾は美登里が懐妊した時も女の子を出産した時も佐久に住んでいる両親に報告をしていた。戦後新憲法により昔の家制度(家督制度)は廃止されたが、昔の名残りで気持ちの上では息子の母親には息子の子供は自分の孫だと言う認識がある。だが、今では娘が産んだ子供は娘の母親の孫となってしまっているようなことが多くなった。孫を持つ親ならそんな経験を持つ人も多いだろう。中には実母と疎遠になっている沙希のような場合もあるが、孫は娘の母親に懐いてしまい、息子の母親は孫を取られてしまったような気持ちにさせられることが多くなってきたようだ。
美登里の場合も、伯母や母親が章吾の両親よりも近くに住んでいることもあって、母も伯母も自分たちの孫ができたと思っているふしがあった。
それで、いよいよ名前を付ける段になって、母と伯母と美登里の三人で相談して決めてしまった。これには美登里の父親も章吾も入り込めなかった。まして、章吾の両親は蚊帳の外だ。
「あたし、里って感じ好きなのよ」
と美登里。
「お母さんの志の一文字をあげるから使ったら?」
と母親。
「子は流行らないから使わない方がいいわね」
と伯母の八重。あれがいい、これがいいと三人で悩んだ末結局子供の名前は[志穂]に決まってしまい、
「章吾さん、可愛い名前だからこれでいいでしょ?」
と母の志津江に駄目押しされて章吾は、
「それでいいです」
と了解した。実際、章吾は美登里さえ良ければどんな名前に決まっても良いと思っていたのだ。結局章吾の両親は電話で事後報告されて納得せざるを得なかった。
出生届けは章吾が役所に出向いて手続きを済ませた。猪俣志穂の誕生だ。
七十四 都筑庄平の悩み
大きな会社の役員がいくらくらいの給与を受け取っているのか興味を持たれる所だが、多くの企業は公表していないので、統計的なデータは世の中にないそうだ。政府系の法人は最近の世相を反映して公開される所が増えているが、一般の大手の企業に比べると役員報酬は遥かに低い。都筑庄平こと米村善雄は従業員八千名以上の米村工機副社長兼○○ホールディングス取締役で(○○は回転器を中心にグローバル企業を目指すイメージで[○○=まるまる]と読ませている企業名だ)、月収は両社合わせて一千万円を遥かに越えていた。半分は税金で持っていかれるから、手取りは月々五百万円位だった。都筑はその中から毎月百万円を生活費として女房の沙希に渡していたが、旦那の善雄がどれくらいの給与を受け取っているのか知らなかったし、沙希は敢えて知ろうとはしなかった。だから、都筑は自分が自由に処分できるポケットマネーは相当なものだったが、都筑は子供の頃から母の美鈴の教育により、女遊びや無駄遣いはあまりしなかったので、経費で落し難い接待費や部下の面倒を見るために使った残りの部分はせっせと溜め込んで金融機関に運用を任せていた。
岩井加奈子が自分の娘を産んでくれて、その養育費として月々二十万円を加奈子の銀行口座に振り込んでいたが、都筑にしてみれば自分の小遣い銭の範囲だったので、全く負担にはなっていなかった。
「都筑様、あたしもう一人子供が欲しくなりました。赤ちゃん頂けません?」
都筑がラ・ポワトリーヌに寄る前に娘の奈緒美の様子を見に加奈子のアパートに寄ると、突然加奈子にせがまれた。
「うーん……。他の男性にお願いしてはダメなんですか?」
「もう一人生まれれば奈緒美の弟か妹になりますでしょ? だから父親は同じ都筑様がいいと思うの」
都筑は参った。奈緒美は時の運の悪戯で出来てしまったから仕方がないと割り切ってしまったが、次の子はそうは行かない。予め加奈子に産んでもらうつもりでと言うことになる。奈緒美は加奈子がきっちりと育ててくれていて、都筑には養育費以外に何も迷惑なことはないのだ。だが、都筑の心の中では道義的に抵抗があった。
迷い悩むような都筑の困った顔を見て加奈子は、
「あたし、都筑様を愛しています。これって本当です。だからお願い」
と付け加えた。加奈子が愛していると言ったが、都筑は加奈子との身体の関係はあの時以来一度もなかったのだ。
奈緒美は一歳を少し過ぎて可愛らしくなってきた。だから都筑は可愛い奈緒美を見て複雑な気持ちになった。
「今日でないとダメですか?」
「ダメってことはありませんけれど、女は赤ちゃんを授かりやすい日がありますから」
都筑はまだ迷っていた。
「突然ですので、少し気持ちの整理をさせて下さい。来月ではいけませんか?」
加奈子はそんな都筑が好きだった。だから、
「分りました。来月まで待ちます。やっぱりダメなんて言わないで下さいね」
帰りがけに、ママのアパートの郵便受けを偶然に見た。そこに[岩井]と書いてあった。
「ママは岩井と言うのかぁ」
都筑は呟いた。都筑は今までママの本名には興味がなかったので見落としていたのだ。こう言うことには深入りする気がなかったからかも知れない。だが、今日のママの希望を聞いて、次第にママと抜き差しならない関係になりつつある自分を感じていた。沙希の知らない所でこんなことになるなんて、今まで想像もしていなかった。家に帰れば沙希、希世彦、沙里の四人家族だ。加えて奈緒美が誕生して子供が三人になった。それなのに、ママにせがまれて、もう一人増えそうだ。
「困ったなぁ」
仙台から東京に戻る新幹線の中で都筑は一人で悩んだ。
「沙希や母に相談できれば気が楽なんだが、それもできないしなぁ」
都筑は結局翌月ママの申し出に折れた。加奈子のマンションを訪ねる日は既に携帯で打ち合わせを済ませていた。マンションに行くと、奈緒美がいなかった。
「奈緒美はどうしたの?」
「今日はあなたとあたしの大切な日だから、奈緒美はシッターさんに預けたの」
「昼食はきちっとなさったの?」
そんな質問をされて、都筑はママが自分の奥さんのような錯覚を覚えた。
「ああ、東京で済ませた」
夕食まではまだ大分時間がある。
都筑がシャワーを済ますと、奥のベッドから、
「さ、いらしてぇ」
と加奈子の甘えるような声がした。
都筑は、言われた通り加奈子のベッドに上がって、加奈子の脇に身体を滑り込ませた。前に沙希に聞かれたプアゾンの、かすかな香りがした。
加奈子は遊びではない神聖な儀式で跪く巫女になったような気持ちで都筑を迎え入れた。都筑も予め加奈子と交わる覚悟が出来ていたから、そんな気持ちで加奈子をゆっくりと愛撫始めた。
「好き、大好き。あなたのもの沢山ちょうだい」
加奈子は都筑に抱きつくと都筑の愛撫に激しく応じた。やがて都筑は力強く張り詰めた自分のものが加奈子のそこに吸い込まれるように入って行く心地の良い感覚に、次第に気持ちが昂ぶり加奈子の中で激しく加奈子を求めた。加奈子も都筑を求め、二人共自分を忘れてしまったかのように一つになって愛し合った。加奈子がエクスタシーに達して悶えた時、都筑も絶頂に達して加奈子の中で射精した。
加奈子はしばらくの間、都筑にしがみつくようにしていた。その間、都筑も加奈子を抱きしめていた。二人ともこのまま時計の針が止まっててくれればいいのにと思うほどの満たされた時の流れに身を任せていたようだった。
「あたし、都筑様とず~っと一緒にいたいなぁ」
加奈子は都筑の耳元で囁いた。困った顔の都筑を見て、
「大丈夫、ちゃんと帰してあげるから」
と付け加えた。だが、この時加奈子はそんな気持ちになってしまっていた。
「都筑様ありがとう。赤ちゃん、出来なかったら、もう一度して下さいね」
都筑は頷いて、
「今日は詩織さんに会わないでこのまま東京に帰るよ」
と言って加奈子のアパートを後にした。アパートを去っていく都筑の後姿を見送っていると、加奈子の心に淋しい気持ちがこみ上げてきた。しかし、詩織に会わないで帰ると言った都筑の心遣いがとても嬉しかった。
七十五 転機
ザンビア国奥地の銅・コバルト鉱山で強制労働に耐え抜いてきた浜田は、中国人の監視人の隙を狙ってルサカの日本大使館に駆け込んだが、逃亡に失敗して鎖に繋がれた一ヶ月の強制労働の罰をくらって、毎日鞭打ちに耐えてこき使われていた。だが、重機の操作に堪能な人材は鉱山では貴重な存在で、一ヶ月の強制労働だけで許されて、元の仕事に戻された。
「今度同じことをしたら許さねぇ」
監督はきっちりと浜田に印籠を渡した。重機の操作と言っても炎天下の重労働だ。身体の自由はあるが体力仕事に違いはないのだ。
浜田は一生この地獄の鉱山から抜け出すチャンスはもうないだろうと思って、観念して真面目に仕事をしていた。
ザンビアで中国政府系企業が運営する銅鉱山では、一九九八年に労働組合設立を弾圧する事件があり、二〇〇六年には、賃金を支払わないために労働者がデモを行った所、中国人の監督が労働者に銃で発砲して四十六人も射殺した事件が実際に起こっている。そのため、ザンビアでは中国人に対する国民感情が思わしくないのだ。
そんな背景から、中国人が運営する浜田が囚われている銅・コバルト鉱山も奴隷制度を廃止して労働者を人並みに扱うように政府筋から指導が入って、その後、つまり浜田が逃亡に失敗して約半年後に奴隷から鎖が外され、ほんの僅かではあったが賃金も支払われるようになった。月に一日は監視付きで自由行動も許されることになったのだ。だが、これは形式的なもので、鉱山周辺は相変らず私兵の監視兵で二十四時間警戒・監視が行われていた。
鉱山では、浜田たち重機操作グループの者達は一般の労働者より少し優遇されていた。それで、月に一日ある休日に約十名の重機操作グループ員がまとまってルサカに遊びに出る許可が下りた。
浜田たちは鉱山のジープ二台に分乗して朝鉱山を出発してルサカに向かった。飛ばしてもルサカまでは数時間かかるので、ルサカに滞在できるのはせいぜい一時間~二時間しかない。もちろん浜田たちを監視する監視兵がカービン銃を携えて一台に二名、計四名が同乗していた。
賃金は安かったから女を買うほどの余裕はない。だから皆で揃って酒場で遊んでいた。
仲間と飲んでいると、浜田たちの隣で大きな声で日本語でしゃべっているグループがいた。久しぶりに聞く日本語だ。浜田は気になって、話の内容に耳を傾けた。すると皆国(日本)に残して来た家族や住んでいる地域の話しをしていた。
「僕が住んでいた池袋はなぁ……」
浜田は池袋と聞いて思わず隣のグループで話している奴の顔を見た。
「あれっ、あの野郎、もしかして加藤かも知れねぇな」
そう思って良く見ると昔仕事で付き合いのあった加藤の顔とそっくりだ。それで浜田は席を立って隣のグループに近付いた。浜田たちは皆つなぎの番号付きの囚人服を着ていたので、浜田に気付いて皆が浜田を胡散臭そうな顔で見た。
「おいっ、加藤じゃねぇのか?」
「はい、加藤ですが、あなたは?」
「おいおいっ、忘れたのかよう。オレは浜田だよ」
最初は怪訝な顔をしていたがようやく思い出したらしく、
「あっ、浜田君かぁ。どうしてこんなとこにいるんだ?」
浜田が加藤に話をしようとした、その時、浜田の前に銃口がぬっと突き出された。
「話はダメだ」
中国人の監視兵は目じりを吊り上げて浜田を睨んだ。浜田は加藤に、
「今どこに居るんだ?」
と監視兵を無視して聞いた。
「NGO―ジエイカ(JACA)だ」
その直後、浜田は監視兵に銃座で殴られて、気が遠くなりその場に倒れこんだ。浜田が正気に戻った時は、帰りを急ぐジープの中だった。
浜田が正気に返ったのを見て監視兵は、
「お前、酒場で何を話していた?」
と聞いた。
「加藤と言う知り合いに会って挨拶しただけだ」
「それだけか?」
「そうだ」
「今度ルサカに来た時は余計なことをするなら事前に許可を取れ。分ったか?」
「分った。すまねぇ。今度から事前に許可をもらうよ」
それで監視兵は一応納得してくれたようだった。浜田は、
「たしかNGO―ジエイカと言ってたな。うまくするとオレの身分を回復できるかも知れねぇな」
と自分にも幸運が訪れたと感じていた。
七十六 辛抱、辛抱
ザンビアの首都ルサカで偶然昔付き合ったことがある加藤に出会った浜田は何とか加藤とゆっくり話がしたいと思った。だが、グループでルサカに出たのはこれで三度目だが、監視兵が融通が利かない奴で、個人行動をどうしても許してくれなかった。だからNGO―ジエイカを探し出すこともできなかった。しかし、学習効果と言うか、浜田は何度も失敗を重ねてきたから、焦らずに辛抱して気長に行動することにした。いつも狙っておれば、そのうち必ずチャンスと言うか監視兵が隙を見せるだろう。
三度目に、最初加藤に逢った酒場に行くと、酒場のオヤジが、
「これカトウさんからあんたにと預かってた」
と言ってメモが書かれた紙切れを渡してくれた。浜田は現地語を片言話せるようになっていた。
「あんた、カトウを知ってるのか?」
「ああ、あの人はいい人だ。ジャパンは親切だね。みんな世話になってる」
どうやら加藤はこのあたりでは有名人らしい。ジエイカ(JACA)が独立行政法人の国際協力機構だってことは浜田も知っていた。国際協力機構は日本の民間企業よりはるかに給料が良く、航空機で出張する時は幹部クラスはファーストクラスで旅する贅沢がバレて、新政権の事業仕分けで問題になり、やりだまに上がった団体だ。
浜田が受け取ったメモを見ると、
「銃座で殴られて気絶した所を見たよ。それで君が働いてる鉱山についてちょっと調べた。話しがしたいがこちらから連絡を取るのは難しいようなので、機会があったら下記の所に連絡をしてくれ
JACAザンビア事務所
Plot No. 11740A, Brentwood Lane, Longa cres, Lusaka, Zambia
P.O.BOX 30330, Lusaka 10101, Zambia
Tel/Fax:(+260) 211-2545××, 2545× ×, 2548××/(+260) 211-2549××
と書いてあった。
「よっしゃ、電話番号は分った。この次来た時に電話をするか」
浜田は一筋の光が射してきたように感じた。
ルサカに四度目に出かける話しが決まってから。出かける前に監視長に面会を申し出て、
「ルサカに在住する友人に会って話しがしたい。許可を出してくれ」
と頼み込んだ。監視長は、
「ダメだ」
とあっさり却下した。浜田は負けてはいなかった。三度目ルサカに出た時にウイスキーを一本買っておいた。それをそっと監視長に差し出してウインクした。監視長はボトルを無視してそっぽを向いた。仕方なく浜田が一礼して退出しようとすると、向うを向いたまま、
「一度だけだぞ」
とぼそっと呟いた。浜田は監視長にはっきり聞こえるように、
「ありがとうございました」
と最敬礼して部屋を出た。
四度目ルサカに出た時に、浜田は監視兵の一人に、
「三十分ほど友人に会いたい」
と申し出た。監視兵は、
「監視長から聞いている。行って来い。三十分を過ぎたらどうなるか分ってるな」
と認めた。
「分ってる。旧い友人だ」
浜田はメモに書いてある電話番号に酒場から電話をした。運良く加藤は在席していた。
「分った。三十分間だけだな。直ぐ行く」
五分ほど待つと加藤が車を酒場の前に着けた。
「ここで話してもいいか」
と浜田が監視兵の方を見て聞いた。
「構いません」
それで浜田は自分が今どうしてルサカに居るのか手短に説明を始めた。
監視兵は日本語が分るのか分らないのかさっぱり分らなかったが、浜田は日本語で話をした。少し離れた所から監視兵は浜田と加藤の様子を覗っていた。
加藤にもらった名刺の肩書きを見ると、農業技術指導工作隊長となっていた。
七十七 おいしい仕事
「振り返ってみりゃ、オレが鉱山に来てかれこれ六年にもなるなぁ。一緒に鉱山に送り込まれたダチは奴隷仲間の黒人の頭に捕まってオカマにされてよぉ、毎晩女の代わりをさせられて、ケツの穴にヤツラのぶっとい竿を突き刺されてさ、わっさわっさやられている内にエイズをうつされてさ、結局肛門の周りの化膿が止まらずに死んじゃったよ。ま、殺されたようなもんだな。オレは何とか生き延びようとして努力したぜ。ここに来る前に鉱山からダイヤの原石を運び出して一儲けできるって美味しい仕事の話で釣りやがってオレを奴隷としてここに送り込んだヤロウに仕返ししないと気が済まねぇ。だからよぉ、簡単に死んでどうするんだって思ってさ、今まで生き延びてきたんだ」
「銅の他にダイヤもとれるんですか?」
「そうだ。確かにダイヤはとれる。他にコバルトも出るから良い鉱山だな」
「調べたら中国系らしいですが、国営系じゃないみたいですね」
「そうだ。上海あたりの資産家が投資してるって聞いてるな」
「本当に奴隷ですか?」
「そうだ。オレは歴史映画に出て来る奴隷は現代ではあんな惨い場面はねぇと思ってた。だが、オレが働かされてる鉱山は古代ローマとか古代中国では戦争に負けると男も女も奴隷にされて、男は辺地で過酷な肉体労働、女は夜伽つまり貴族なんかの夜の相手をさせられたり召使にされたりしたって話と同じだな。両足に鉄のワッパを嵌められて、わっぱを鎖でつないで逃げられないようにして朝から晩までこき使われてるのよ。ちょっと手を休めると皮のムチで引っ叩かれてさ、周囲にはあいつらと同じ監視兵がごろごろ見張っててさ、逃げられないようになってるんだ」
先ほどから、浜田はジエイカの加藤農業技術指導工作隊長に今浜田が置かれている状況について説明していた。
「今も鉱石を掘り出す仕事ですか?」
「四年間は手掘りでムチに打たれながら採鉱してたな。昨年機械化されて200トンダンプとかパワーシャベル、超大型のブルなんかが導入されてさ、オレは重機を操作した経験があるからそっちに回してもらって重機グループに居るんだ」
「色々な機械を操作出来ますか?」
「こんな辺鄙な所じゃ免許証なんてものは要らねぇ。操作をきちっとできりゃ、それが免許だな。だか
らさ、大抵の機械は動かしてるよ」
「わたしの所でも、現地語が話せて重機の操作ができる技術者を探しているんですよ。主にこっちの現地人の指導が仕事ですが」
「あんたのとこでオレを雇う意志はあるのか?」
「来られたら助かりますね」
「給料は少しは出るのか」
「少しなんてもんじゃないですよ」
「ほんとかよ?」
「本当です。日本の税金でやってますからバッチリですよ。ご存知だと思いますが、ザンビアでは国民の九割以上の人々が一日一ドル、つまり一日百円以下で生活してます。月々の収入が平均で三千円以下です。我々の給料は平均手取りで五十万円もあります。内地に家族が居られて単身赴任の方々は給料の大半を日本のご家族に回しますからゆとりが少ないですが、独身の方々は文字通り独身貴族、貴族みたいな生活をしています。広い庭付きの大きな家を借りて現地人のメイドを数名かかえて贅沢な生活をしている者が沢山います。現地で三年間位仕事をしている間に数百万円預金ができたって話は良く聞きます」
「へぇーっ? それりゃすげぇなぁ。超美味しい仕事だなぁ。メイドって言うから女だよな」
「こちらでは男は内戦で戦死したりして少ないです。女性は大勢いますから召使は女性が多いですね」
浜田は可愛いメイドを数人はべらせて気の会うのとHする事を想像してよだれをたらすような気持ちになった。
「浜田さん、今の仕事を辞められますか?」
「それが問題よ。殆ど無給で働かされてる奴隷はあちらさんにとっちゃ宝物みてぇなもんだからさ、簡単には手放さないだろうな。加藤、オレを日本大使館で身分の証明、つまりオレが日本人だって証明してもらえるか」
「証明ならしますよ」
「分った。地獄の鉱山から脱出を考えて見るよ」
月に一度の休日、七度目ルサカに出た時に浜田はジープに同乗してきた監視兵の一人に
「行きたい所があるんだが、一緒に来てくれないか」
と頼み込んだ。
「どこに行くんだ?」
「街の外れまでだ。そこで友人とちょっとだけ会うんだ。おかしなことはしねぇ。だから、あんたと一緒に行きたいんだ」
「分った」
監視兵は同僚に一言断って浜田と連れ立って歩いた。
ルサカの街は広い。三十分も歩いてようやく家がまばらになり、潅木が所々に茂る町外れに出た。浜田は周囲を見渡した。日中だが人の姿はなかった。潅木の陰に立つと、
「この辺りで待ち合わせだ」
と言って人待ち顔で立っていた。
「おいっ、友達は直ぐに来るのか」
と監視兵が聞いた。
「もう直ぐ来るよ」
そう言って浜田は監視兵にタバコを勧めた。
「ありがとう」
監視兵は浜田が点けたライターの炎に顔を寄せた。
その時、浜田は不意に監視兵の首に腕を回して力いっぱい締め付けた。
「うううっ、何をするんだっ」
監視兵は抗ったが、浜田は体重をかけて監視兵と一緒に地面に倒れこんだ。浜田には失敗は許されない。失敗すれば死があるのみだ。監視兵が首を絞められて気が遠くなりかかった隙を見て、銃を奪って銃座で監視兵の後頭部を一撃した。監視兵は気絶した。監視兵と言っても銃を奪ってしまえばただの男だ。格闘技では浜田の方が勝っていた。浜田は銃と弾丸を詰め込んだ帯を奪うと、監視兵の洋服を剥ぎ取りパンツだけの裸にした。浜田は囚人服のつなぎを脱いで、監視兵が着ていた制服に着替えた。つなぎはライターで火を点けてその場で焼き払った。それが終わると気絶した裸の監視兵をくぼ地に引っ張り込み置き去りにして日本大使館へ急いだ。
大使館の受付に行くと、
「日本人だ。電話を貸してくれ」
と日本語で頼んだ。電話を借りると直ぐにジエイカの加藤に電話を入れた。加藤は外出中だった。一時間ほどして、大使館に加藤から電話が入った。
「浜田様はそちらさんですか」
「そうだ」
「ジエイカの加藤様から電話が入ってます」
電話口に出ると、浜田は加藤に身分の証明を頼んだ。
加藤が大使館に来ると、事務長に浜田の置かれた状況を説明して、浜田が住んでいた池袋の管轄の豊島区役所からFAXで浜田の戸籍謄本を送ってもらい、パスポートの紛失届けと発行届けをやってくれた。
「浜田君、これで君の身分は回復したよ」
「すまん。恩に着るぜ」
それからしばらく事務長と加藤はなにやら打ち合わせをしていた。
「浜田君、ザンビア政府の窓口と打ち合わせをして、君がNGOのメンバーとしてこちらで仕事をできるように手続きをしたよ。明日事務所に来てくれないか?」
「オレのことを鉱山の奴等が探していると思うので、変装でもして奴等の目をごまかす必要があるな。今大使館を出ると奴等に捕まる怖れがあるからすまんけど、洋服とサングラスを用意して届けてもらえないか」
それで、加藤はまた事務長に話をして、今夜は大使館に泊めてくれるよう交渉してくれた。
「持つべきものは良いダチだなぁ」
浜田はつくづくそう思って加藤に感謝した。
翌日加藤はNGOのロゴ入りの洋服一式とサングラス、帽子などを用意して迎えに来てくれた。
NGOの事務所に着くと浜田は変装して加藤と一緒に農業技術指導をしている現地に向かった。加藤は取りあえず当面の経費に使ってくれと前金二十万円を用意して、帰ってくるまでに家も用意しておくように係りの者に伝えてあると話してくれた。浜田はここで何年間か働かせてもらって、金が溜まってから帰国することに決めた。浜田の名前は鉱山で知られているから、NGOでは浜田は[白石]の名前にしてもらった。昔分かれた島崎沙希の母親島崎沙織の旧姓白石を使ったのだ。
七十八 メイズ
翌日は日曜日で休日だ。加藤は、
「浜田君用の家を借りておいたから、明日メイドを募集して一人か二人決めておいてくれ。メイドの募集は今日役所に届けを出しておいたから、明日応募者があんたの家を訪ねて来ると思うから自分で選んでくれ。給料は月一万円にしておいた。ルサカの相場では高いが、これくらい出せばいい子が集まる。家事はメイドに任せて、月曜日から君は仕事に専念してもらいたい。車は高いから取りあえず通勤用に中古の50ccのバイクを回しておく。うっかりすると直ぐに盗まれるから、盗られないように十分気を付けてくれ。ザンビアはエイズの感染率が17%もあって、十人も集まれば一人か二人は感染者だと思っていい。だから、メイドを選んだら病院でエイズの検査を受けさせてくれ。費用は君が持ってくれ」
「何から何まですまん。世話になったな」
浜田は加藤が細々としたことまで面倒を見てくれるので感謝したい気持ちになった。
「言い忘れたが、君の給料は初任給四十万円だ。今後仕事の実績を見て増額するからこれで了解してくれ。最近政府が事業仕分けとかで予算を削ってくるから、一頃より財政がきついんだ」
浜田はザンビアではワクチャ(ZMK) と言う貨幣単位ってことをもちろん良く知っていた。細かい単位はングェー(ngwee) で一クワチャは百ングェーだ。国際為替相場は時々刻々変るのでアバウトだが、一クワチャは0・5英ポンドなので、一ポンドは約百五十円とすると、一クワチャは約七十五円だ。高額紙幣で五十ワクチャーがあるが、百ドル紙幣と同じで貧乏人にはあまり縁が無い。アメリカでもカフェで百ドル紙幣を出すと偽札じゃないかと疑われるのと同じだ。
夕方、加藤の案内で新しく借りたと言う家に着いた。浜田は家を見てびっくりした。腰くらいの丈の塀と門扉に囲まれて広々とした庭に瀟洒な平屋が建っていた。東京じゃ金持ちでないとこんな贅沢な家には住めない。
「家賃はいくらくらいかかるんだ?」
「日本の貨幣で換算すると約四万円だ」
「へーぇっ、四万でこんな家に住めるんか」
「最近はインフレで物価が上がってるが、日本と比べれば安いね」
家を借りる手続きをしてくれた柏木と言う女性が一緒だった。三十歳半ばの柏木は美人ではないが髪をポニーテールにして、Gパンに白いブラウス姿で、清楚なきちっとした感じだった。家の中に入ると洗濯機や冷蔵庫、食器棚など家具は揃っていた。居抜で借りたらしい。
「少し前まで英国の方が使っていらしたようです。ベッド周りだけは新しいシーツなどに取り替えておきました」
と柏木が説明した。リビングにはゆったりとしたソファーがあり、テレビもあった。もちろん電話機もあった。
つい先日まで鉱山で奴隷生活をしていた浜田にとっては極楽だ。
翌日午前中、次々と現地の若い女性が訪ねて来た。全部で二十二名、これには浜田はびっくりした。浜田は現地語を話せるのでコミュニケーションはうまくいった。どの子もまあまあいけてる子で、浜田は誰を選ぼうか迷った。結局浜田のフィーリングに合う子を三人も雇ってしまった。
キャシー(Cassie)、イライザ(E11iza)、レイラ(Laila) の三人だ。三人とも明るい性格の感じで年は二十代だ。もちろん皆黒人だ。
三人を残してあとは全部帰ってもらった。女性が三人も居ると家の中が明るくなった。浜田が使う部屋は寝室と居間だけだ。他に部屋が三つあったから、一部屋づつ彼女たちに割り当てた。三人の内イライザ一人は通いがいいと言い、キャシーとレイラは住み込みでもいいと言うのでそうしてもらった。
「オレの下着を買い揃えてくれ。食料も適当に揃えておいてくれ」
当面の金を渡してしまうと、浜田はそれしか差し当たり頼むことがなかった。男一人しか住んでないから、三人もメイドが居てもやる仕事がない。結局適当に遊んでいてくれと言うことにした。贅沢なものだ。
レイラは料理が得意らしい。夕食を四人で食べるとイライザは帰った。残ったキャシーとレイラと三人でテレビを見て雑談してから浜田は寝室に入って寝た。
翌朝顔を洗って居間に行くと食卓に朝食が作ってあった。キャシーは寝坊して起きて来ないので、レイラと一緒に朝食を済ますと浜田はバイクでジエイカの事務所に向かった。
加藤は既に出勤して机に向かって事務の仕事をしていた。
「おはよう。今日から頼むよ」
浜田の顔を見てにっこりとした。
「ここじゃ何を栽培してるんだ?」
「メイズ(maize) だよ」
「メイズ?」
「アハハ、トウモロコシだよ。ザンビアじゃトウモロコシが主食なんだ。ザンビアは英国の植民地だった頃はローデシアと言ったんだ。だから、今でも英国統治の名残りがあってね、コーンとは呼ばずに英国風にメイズと呼ぶんだ。直ぐに農地に案内するから待っててくれ」
加藤と共に農地に向かった。加藤が言った通り、延々とトウモロコシ畑が続いていた。
「今灌漑用に遠くまで水を取り込む溝を掘っているんだ。君には現地の人にブルドーザーの運転操作を教えながら溝堀りをやってもらいたい」
そう言って地図を渡された。約10km先に流れている川から水を引くらしい。現在約3km工事が終わっている様子だった。浜田は自分が得意な仕事なのでやる気満々だった。
現地に行くと約十名の現地人が水路の岸を固める仕事をしていた。その中から三名を加藤が指名して浜田と一緒にパワーシャベルとブルドーザーを使って工事を進めることになった。皆に白石だと自己紹介した。シラさん、シラさんと皆に歓迎されて浜田は益々元気が出た。
一日重機の操作を教えながら仕事をして、夕方仕事を切り上げた。
「明日、また会おうぜ」
と言って皆と別れてバイクで家に戻った。玄関に女性三人に出迎えられて、浜田はすっかり幸せな気分にさせられた。シャワーを済ますと食卓には既に夕食が並べられていた。四人で食べる夕食は楽しくて良い気分になれた。
七十九 レイラ
「今日病院に行ってきました」
新しくメイドになったキャシー(Cassie)、イライザ(E11iza)、レイラ(Laila) の三人が、
「あたしたち全員グッドでした」
と嬉々とした顔でエイズ検査票を浜田に見せた。
「そうか、それは良かった。だったらセックスはオーケーだな」
浜田が軽い口調で言うと、突然三人の顔色が変り、三人とも固まってしまった。
浜田は慌てた。
「おいおいっ、どうしたんだ?」
「ジャパンの男はレチャー(Lecher=助平)が多いよ。あたしたち、レチャーは嫌い」
彼女たちはキッパリと言い放った。彼女たちは現地語と英語をゴッチャに使って浜田と会話をしていた。彼女たちの話を聞いて、浜田はなぜ急に彼女たちが顔を強張らせたのか理解した。どうやら浜田のセックスの一言に反応したらしい。浜田は、
「悪いことを言ってしまった。ごめん」
と謝った。同時に相当がっかりさせられた。浜田は女たらしのくせに、ここのとこ女抜きの奴隷生活を何年もさせられてきて、正直言って女を渇望していたのだ。エイズ検査が終わるまでと我慢していたが、検査結果が陰性だったら、彼女たちを順番に食べてやろうと思っていたのだ。だが、しょっぱなからあっさりと蹴られてしまった。
そんなことがあった夜、ぼんやりとテレビを見ていると、レイラが起きてきて、コーヒーを淹れて持ってきてくれた。レイラは自分のカップも持ってきた。
彼女たちは二十代前半だから、浜田とは二十歳位年の開きがあって、三人から見ればオヤジと娘の歳の差だ。だから、浜田のセックスの話を聞いていやらしいと思われても不思議ではなかった。
浜田はレイラが淹れてくれた熱いコーヒーを一口すすった。それを見てレイラがにっこりした。
「美味しい?」
「ああ、美味しい」
「シラさんはコーヒーが好き?」
「ああ、好きだ」
レイラは目が大きくくりっとして愛嬌があり、気配りもできるいい子だ。浜田が一人でぼんやりとテレビを見ていたので相手をしてくれるつもりで来たようだ。胸の起伏やお尻の形もめりはりがあってなかなか魅力的なプロポーションをしていた。ソファーで隣に腰掛けてミニスカートからむき出しになっている太ももを見せられて浜田は目線がどうしてもそこに行ってしまうので、自分を抑え込むのに苦労していた。
「シラさん、セックスしたいの?」
「おいおい、突然だなぁ」
「だって、さっきあんなことを言ってたから」
「オレは好きだよ」
レイラは悪戯っぽい顔で浜田を睨み付けた。
「ザンビアの女は皆フェイスフル(Faithful=貞節)なのか?」
「フェイスフル?」
「そうだ」
レイラは少し考えるような顔をして、
「昔は結婚の儀式が終わるまで、男は女の肌に触れてはいけないことになってたんだよ」
「儀式の前に男が女を触ったらどうなるんだ?」
「女に訴えられた男は族長から村を追い出された」
「へぇーっ? 厳しいんだな」
「今はどうなんだ?」
「今は昔のように厳しくはないよ」
「レイラは厳しいんだろ?」
「あたし?」
「そう、レイラ自身だ」
またレイラは考えている風の顔をした。
「結婚の約束をする前は嫌だなぁ」
「セックスは嫌い?」
「まだしたことないから分からない。興味はあるよ」
「イライザとかキャシーとセックスの話をすることあるの?」
「あるよ。時々ね」
「どんな話をするの?」
レイラは恥ずかしそうな顔になった。
「言えない」
浜田はレイラと会話を楽しんでいるうちに、我慢ができなくなってきた。目の前にレイラのピチピチの太ももがあるのだ。それで、ついに手が伸びて、レイラの太ももに触った。
直ぐにレイラのシッペが飛んできた。
「ピシャッ!」
「痛ててぇっ」
レイラは浜田を睨んだ。だが、目は怒ってはいなかった。
「シラはレチャーだよ」
「オレが嫌いか?」
「嫌いじゃないけど、触っちゃダメ」
「シラはジャパンに奥さんいるんでしょ」
「昔結婚してた。今は別れて奥さんはいない」
「ウソをついちゃダメだよ」
「ウソじゃない。ジエイカのカトウに聞いてもいいよ」
浜田が独身だと聞いて、レイラは少し優しくなったような気がした。
「レイラは結婚したら子供が欲しいか」
「もちろんよ。子供、大好き」
「何人欲しい?」
また考える顔をした。
「四人か五人」
「うふぇっ」
浜田がうふぇっと日本語で話したので一瞬レイラは分らない様子で、
「うふぇってどう言う意味?」
と聞いた。
「人数が多いので驚いた。驚いた時うふぇって言うんだ」
「ザンビアじゃ、四人か五人は普通だよ。産んでも死ぬ子が多いから」
「日本では一人か二人が普通だよ。死亡率は低いから」
浜田は、
「貧乏人の子沢山」
だと笑った。
「どう言う意味?」
「子供を育てるのにお金がかかるよね。なのに貧乏な人に限って子供が多いとあざ笑うことだよ」
「シラは子供が嫌い?」
「好きでも嫌いでもないよ」
「好き? 嫌い? どっちなの」
「そうだなぁ、好きの方かな」
浜田は本当に我慢ができなくなって、レイラをいきなり抱きしめた。レイラは少し抗ったがあまり抵抗せずに浜田に抱きしめられていた。しばらくするとレイラの身体が震え出した。浜田ははっとなって、
「レイラ、どうかしたか?」
と聞いた。
「あたし、経験ないから怖くなった」
レイラは泣きそうな声で答えた。
レイラが震えてしまって、浜田はそれ以上進むことをためらって、
「コーヒー、熱いのもう一杯欲しい」
と言った。レイラの顔が急に明るくなって、浜田のカップと自分のカップを持ってキッチンに消えた。
「レイラは可愛い子だなぁ。こうして見ると日本人も黒人も違いはないなぁ」
浜田は独りで呟いた。
さっきレイラを抱きしめたので、コーヒーを飲みながらレイラの肩に腕を回して抱いてみたが、レイラは気持ち良さそうに浜田にもたれかかってきた。
そんなレイラが可愛らしくて浜田はしばらくレイラの肩を抱きながらコーヒーをすすった。
「もう遅いから寝よう」
そう言うとレイラは浜田の頬に唇をあてて、
「シラさん、おやすみなさい」
と言って自分の部屋に戻って行った。
浜田はしばらくほんのりと温かい気持ちに包まれていたが、やがてテレビを消して自分の寝室に入った。
八十 襲撃
NGO―JACAザンビア事務所の加藤は見た目はひ弱そうなやつだが、管理、とりわけ人の管理に才能を持っていた。そうでなければ隊長などは務まらないのだ。
海外でNGO活動に参加する者は、国際貢献に自分の命を捧げたいと言う崇高な理想に燃えて日々活動をしている者も居るが、中には日本で就職にあぶれてやることがないとか、海外で一旗揚げたいとか、浜田のように他所から流れて来たやつとかいい加減な奴も多いのだ。だから、言って見れば色々な性格の人間の坩堝みたいな所がある。
それに加えて、現地で触れ合う人々の中にも性悪な奴は必ず居るのだ。
そんな色々な人間を束ねて目指す方向に上手く導くリーダーには人を上手に扱う才覚が求められる。
「浜田、いや、白石さん、工事現場の人気は良いようですね。先日君と一緒に作業をしているオロンからシラさんは親切で分り易く教えてくれるからありがたいと言っていたよ」
加藤は浜田に近況について話をしていた。オロンは現地人の作業グループの親分格の男だ。荒っぽいやつだが、浜田も荒っぽい所があるのでお互いに分かり合えるものがあった。
「僕が見た所、思った通り浜田さんは人を使う能力がありますね」
「それはどうも」
浜田はちょっと照れくさそうに礼を言った。
「所で、優秀な浜田さんにも欠点があるんだなぁ、これが」
「オレの欠点なんざ探さなくてもごそごそあるぜ。店を出して広げられるほど欠点があるよ」
と浜田は笑った。
「一番の欠点は何だと思いますか?」
「そうだなぁ、金遣いが下手糞と言うか荒いと言うか、兎に角金遣いでいつも失敗するから、それかな?」
「その欠点は大目に見てもいいですよ。他にもどうしようもない欠点があるでしょ?」
大体自分の欠点をちゃんと分っている奴は救いようがあるのだ。だが、浜田は自分の欠点が何か分っていなかった。
「何だろうな?」
「ヒントを差し上げましょう」
「ん。差し上げて下さい」
浜田はまた笑った。
「ヒントは他人に迷惑をかけてしまう欠点」
「分った。オレ、口が悪いし、頭にくると手が出る癖があるからそれか?」
「相手が怪我をする位なら大抵相手にも悪い所がありますから、その欠点はまだ救われますね」
こう言う話に相手を引き込んで、相手の欠点を自覚させるように持って行くやり方が加藤は上手かった。
「なんだろう?」
浜田はマジに考えている顔になった。
「加藤、教えてくれないか」
「他人に言われるとコチンと来るものですが、怒りませんか」
「ああ、怒らねぇ」
「じゃ、言いますが、浜田さんの一番悪い欠点は女好きの所です。嫌がる女性を無理に口説いた経験はいっぱいあるでしょ? 度が過ぎた助平が欠点です」
「怒らねぇと言ったけどよぉ、やっぱハッキリと言われるとむかつくなぁ」
「僕と一緒に仕事を続けたいなら、この欠点だけは絶対に直して下さい」
「参ったなぁ」
事務の柏木と言う女性が席でくすくす笑っていた。それを見て浜田はまた照れ笑いをした。
「浜田さん、これは真面目な話です。僕等の仕事は現地人との信頼関係が最も大切です。彼等の間では噂はあっと言う間に広がります。そのことを頭に叩き込んでおいて下さい。浜田さんは現地人の若いメイドさんを三人も雇ってますね。現地人を雇うことは何人雇っても失業対策になりますから歓迎されます。けれど、彼女たちとトラブルを起こしたら即刻NGOから追い出しますから覚悟をしておいて下さい。農地の現場にも現地人の女性が大勢働いています。彼女たちにも礼節をわきまえて接して下さい。頼みましたよ」
「はい。分りました」
浜田は痛い所を突かれてすっかり加藤のペースに嵌まりこんで、真面目にかしこまって返事をした。
「事務の柏木に軽蔑されるかな」
と思いながら柏木の方を見ると、柏木は顔色を変えて電話応対をしていた。電話が終わると柏木は加藤の所に飛んできた。
「加藤さんと白石さん、大変です」
「何かあったのか?」
と加藤が尋ねた。
「今、警察から電話がありまして、例の組織の襲撃があって、今軍と警察が合同で応戦しているそうです。それで、白石さんの新居も銃撃されたそうで、メイドさんの一人が負傷されたようです。でも警察は危険だから直ぐにはご自宅に戻らないようにして下さいと言ってました」
浜田は鉱山の監視兵から没収したカービン一丁と銃弾を隠し持っていた。それが気になったがどうしようもなくて、加藤には黙っていた。
「ま、物事はなるようにしかならんんか」
浜田の呟きに加藤が、
「えっ?」
と聞き返した。
「いやね、ジタバタしても始まらんか」
と言ったんですよ。
その時、
「負傷したメイドがレイラでなければ良いが」
と浜田の脳裏をよぎった。浜田の心にレイラを想う気持ちが芽生えていたのかも知れない。
八十一 窃盗団
「さっき例の組織と言ったよね?」
浜田が柏木女史に聞いた。
「はい」
「どんな組織だ?」
「この国では、貧困が原因でまともに食べて行けなくなった若者が窃盗団を組織して、度々街の中を荒らしまわるんです。金目の物を略奪してさっと逃げてしまうので、軍や警察の治安組織が取り締まってもなかなか根絶やしができないそうです。と言うか、潰しても潰しても新しい組織ができていたちごっこになっています」
浜田は鉱山の警備兵が二十四時間施設の周囲を厳重に警戒している理由が分った。
「窃盗団は大きな組織ですか?」
「私が聞いてます範囲では、数名の集団が沢山あって、沢山の集団をまとめている上部組織があるそうです。彼等が使っている武器は上部組織から配られているそうです」
「白石君の方が武器には詳しいと思うけど、奴等が使っている武器はソ連製のAK47カラシニコフ自動小銃やRPG―7形ロケット・ランチャーを使うロケット弾です。聞いた話しでは武器は主に隣の国のコンゴから国境を越えて持ち込まれているそうだ。君も知っていると思うがコンゴは長い間政治が安定せず、警備が手薄な国境付近では反体制組織の活動が激しいそうだ。だから、窃盗団の上層部は多分コンゴの組織と繋がっているらしい」
加藤が柏木女史の話しに付け加えた。
「それじゃ、相当でかい組織ですね」
「そうです。日本国内の窃盗団をイメージされたら大間違いです。こちらの窃盗団は軍隊のような感じです」
「オレたちの農園もやられることがあるのか?」
「あります。作業中の畑がやられることはありませんが、食料倉庫や鶏や山羊なんかの家畜がやられることは結構あります」
「人が殺されることは?」
「それはめったにないです。抵抗すればやられますから、襲撃されたら逃げるように指導をしています。彼等は金品や食料が目当てで、抵抗しなければ人を殺すことはしないようです」
警察から、
「一応治まった」
と連絡が入って、浜田はバイクに飛び乗って急いで自宅に引き揚げた。戻って唖然とした。窓ガラスがあちこち銃弾で割られていて、家の中は引っ掻き回されてゴチャゴチャになっていた。どうやら隣近所も含めてこの辺り一帯が襲撃されたらしく、大勢の人が忙しく動いていた。浜田が周囲を見回していると、イライザが泣きそうな顔で出迎えてくれた。
「誰がやられた?」
「キャシーが、キャシーが……」
イライザは嗚咽で喉を詰まらせて後の言葉が出なかった。
「キャシーがどうしたんだ?」
「死にました」
「えっ? 死んだ?」
「はい。頭をやられて」
「レイラはどうした?」
浜田の声に力がこもった。
「レイラは足をやられて、今病院です」
「病院はどこだ?」
「あたし、シラさんと一緒に行きます」
浜田はバイクの後にイライザを乗せて病院に急いだ。
病院にはまだ警官が残っていた。浜田は英語で状況の説明を求めた。
「お気の毒です。キャシーさんは逃げ遅れてオートマチックライフルの流れ弾が頭部に貫通して即死されました。レイラさんは左の太ももに流れ弾があたり、先ほど銃弾の摘出手術を済まされました」
「レイラの命は大丈夫ってことだな?」
「足ですから、大丈夫です」
先に病室に入ったイライザがレイラと抱き合って泣いていた。浜田は側に居たナースに詳しい状況を聞いた。
「シラさん……」
レイラは浜田の顔を見るとベッドの上でしがみついてきた。
「入院の費用はオレが何とかする。今ナースに頼んでおいたからちゃんと治してくれ」
レイラは大きな目からポロポロ涙を流していた。病院では襲撃を受けた負傷者が他にも居てごった返していたので、浜田はレイラを勇気付けると早々にイライザと一緒に自宅に戻った。
浜田が鉱山の警備兵から奪った米国製のM14自動小銃と弾丸は隠して置いた場所にそのまま残っていた。浜田は警察に見付からなくてすんでほっとした。
割れたガラスを片付け、倒された家具を元通りにして一息ついた時は夕方になっていた。ガラスが割れた窓はとりあえず鎧戸を閉めた。
イライザと二人で淋しい夕食を済ますと、イライザは家に帰って行った。浜田は、イライザを見送るとバイクで病院に行った。病室に入ると、レイラは痛そうに眉を寄せて眠っていた。側に年配の女性が居た。
「シラさん?」
女性が浜田に声をかけた。浜田と同年輩らしい感じだ。
「ああ、オレはシライシ。シラだ」
「レイラがお世話になっています」
女性は浜田に深々と頭を下げた。
「もしかして、レイラのママ?」
「はい。母親です。ムジャ・マリィです」
「それはどうも。こんなことになって、オレも悲しいです。レイラが早く良くなるように祈ります」
浜田は胸でクロスを書く仕草をした。レイラの母親はレイラに似て、くりっとした目で、黒人としては美人の部類だと浜田は思った。
レイラの母親ムジャ・マリィはしばらくして帰って行った。浜田は残ってレイラのベッドの脇でぼんやりとしていた。
「シラさん」
後から呼ばれてはっとして振り返ると、そこに柏木女史の顔があった。
「災難ですわね。多分こちらだろうと思って、病院に来ました。お家の方はどうでしたか?」
「盗られる物がないから、家具をメチャクチャにひっくり返されて、窓ガラスが六箇所ぶち破られていたよ」
「そうですか。修繕費は保険から出ると思いますからご心配なく。こんなこともあろうかと思って損害保険をかけておきました」
浜田は柏木女史の手際の良さに驚いて礼を言った。
「ありがとう。メッチャ助かるなぁ」
「転ばぬ先の杖ですね」
と柏木は微笑んだ。柏木の顔を改めて見るとなかなか色っぽい。浜田はこんな時もつい助平根性が頭をもたげた。彼女を抱いて泣かせてみたいなぁと思っていると、
「えっ? 何かおっしゃいまして?」
と柏木が尋ねた。
「いや、大したことじゃないけど、あんたの顔、良く見ると色っぽいね」
浜田は正直に呟いた。
「あら、噂通りの助平さんですね。そう言って女性を口説くのでしょ」
と笑った。浜田は口説けば落せるかも知れないなぁと思ってもう一度柏木の顔を見た。柏木はそんな浜田の視線から逃げるように、
「口説いてもダメですよ」
と笑った。
「キャシーの葬儀だけど、こちらのしきたりを明日にでも教えてよ」
浜田は話題を変えた。
「はい、いいですよ。明日教えてあげます」
それが潮時と見て、柏木は帰って行った。
八十二 臥薪嘗胆
浜田は奴隷生活を強いられている時、いつも[臥薪嘗胆]と言う四文字熟語を忘れていなかった。
「このやろう、覚えてろ、オレをこんな所に送り込んだヤロウを許せねぇ」
浜田はそんなことを言いながら生き延びようと頑張ってきた。今だって、その言葉を忘れてはいない。だが、可愛い黒人の子レイラと出会って、復讐をしばらく置いといてレイラの面倒を見てやろうと心に決めた。
浜田は仕事が終わると夕方イライザを連れて病院にレイラの見舞いに通った。日本の場合と同様に果物や切花を買って行った。そんな義理がたい浜田にレイラは涙を流して喜び、イライザが、
「あたしも怪我をして入院したいな」
と冗談を言うほどだった。
レイラにと買って行った果物や菓子はレイラが他の患者にも分け与え、そのお陰で浜田は病院内でちょっとした有名人になってしまった。ザンビアは豊かな国ではないので、苦労してやっと入院できた患者が多くて、レイラのように恵まれた者は少なかったのだ。浜田は見栄を張るような奴ではなかったから、レイラのことを思って毎日病院に通ったのだが、はたから見れば上級公務員か実業家の娘のように思われていた。
レイラの傷は相当大きく、医師の話では退院まで半月以上はかかるらしい。浜田は家に帰っても特別にやることがない。だから、可愛いレイラを見舞うことが結構楽しかったのだ。
レイラが入院している間に、キャシーの葬儀が行われた。ルサカにも教会があって、牧師が埋葬に立ち会うようだ。柏木女史があれこれ説明してくれたので浜田は大体の様子が分かっていた。当日は彼女も一緒に来てくれた。勿論イライザも連れてきた。
ザンビアでは火葬はしないで、埋葬はすべて土葬だ。教会で、現地語で話す牧師の言葉を集まったキャシーの家族が聞いていた。皆で歌う賛美歌を聴いている内に、浜田の頬に一筋の涙が光っていた。可愛いキャシーと悲しい別れだ。教会で葬儀が終わると、教会の出入り口に棺が運ばれてキャシーとお別れをした。突然キャシーの母親が大声で泣き出した。それを合図にしたように何人かの女が泣き出した。浜田の横に居たイライザも可愛い声で泣いていた。お別れが終わると、キャシーの遺体を入れた木製の棺をトラックに乗せて埋葬場所に運ぶ。トラックはゆっくりと走り、その後にぞろぞろと家族や親戚の者、友人などが歩いて続いた。レオパードヒルと呼ばれる公共の埋葬場所に着くと、墓穴が既に掘ってあった。現地語で話す牧師の説教に続いてまた賛美歌が歌われ、キャシーの棺に土がかけられた。
「可愛いキャシー」
浜田は心の中で、
「こんなに早く逝くのが分っていたらキャシーをオレが奪ってやりゃ良かったな。セックスの歓びも知らないで、可哀想なもんだ」
と思っていた。
レイラの回復は若さのせいか早かった。十日も過ぎた所でリハビリに入った。その様子を見て、浜田は棒切れを探してきて、レイラが退院するまでに間に合わそうと思ってせっせと松葉杖を二本作っていた。
「レイラは当分こいつが要るな」
イライザが、
「シラさん、何を作ってるの?」
と聞いたので、ほぼ出来上がった松葉杖を脇の下に挟んで歩いて見せた。
「シラはレイラに優しいね」
「ばか言えっ、お前にも優しくしてるだろ」
「それはそうだけど、レイラは特別だよ」
やはり女の感は鋭い。女の感は日本の女性の専売特許ではなさそうだ。
医師が示唆した通り半月で退院となった。バイクじゃ無理だと思って、その日はタクシーを呼ぼうと思っていたら、柏木女史が役所の車を運転して手伝いに来てくれた。浜田の心の中では柏木とレイラと二人とも好きになっていた。
「柏木は気が利くやつだなぁ」
浜田は事ある毎に柏木の細やかな気遣いに好感を持っていた。それに良く見るとなかなか色っぽい女だし、Hをして見たくなるのだ。加藤とは関係してないようだが、浜田にはそれが不思議でならなかった。
ザンビアでは女は水浴びやシャワーはやるが、日本のようにバスタブにお湯を張って入浴する習慣がなかった。浜田はキャシーが生きていた時、三人に風呂の入り方を教えた。それで、レイラ、キャシー、イライザの三人は入浴を覚えて、いつも三人一緒に風呂に入りキャッキャと入浴を楽しんでいた。そのため、レイラが退院すると真っ先に、
「シラ、あたしオフロに入りたい」
と言った。
「ドクターがシャワーを使っても良いと言ったか?」
「はい。ドクターはいいと言ったよ」
「じゃ、傷口を見せろ」
そう言ってレイラの左の太ももに巻かれた包帯を解いて傷口を見た。レイラは恥ずかしそうにしていたが、大人しく見せてくれた。左足の太ももの内側の膝寄りの位置にざっくりえぐられたような大きな傷痕が目を射た。
「すげぇなぁ」
浜田は思わず呟いた。
「痛いか?」
「もう痛くない」
傷口は塞がっていた。これなら風呂に入っても大丈夫だろう。レイラはイライザの肩を借りて風呂に入ったが、
「あたし一人じゃレイラを入れられない」
とイライザの顔が風呂の扉から覗いた。
「オレも手伝ってやる」
そう言って浜田は風呂の扉を開けた。レイラとイライザは、
「キャーッ」
と言ったがパンツいっちようの浜田が入って来ちゃダメだとは言わなかった。浜田は真っ裸のレイラを抱き上げるとバスタブにそっと入れてやった。レイラは恥ずかしそうにオッパイと女性の部分を手で覆っていた。
「どうだ?」
「気持ちいい」
すると真っ裸のイライザも一緒にバスタブに入った。浜田は、
「出る時に呼べ」
と言って風呂場を出た。しばらくして、
「シラ、来てぇ」
と二人の声がした。浜田は湯船の中のレイラを抱き上げると、そのまま風呂場の外に出て大きなバスタオルにくるんで拭いてやった。レイラのショーツを履くのを手伝ってやり、レイラを居間のソファーに抱いて運び横たえた。イライザはまだ風呂に入っていた。
「シラは優しい。あたし、シラ大好きだよ」
そう言うと突然レイラの唇が浜田の唇に吸い付いた。これには浜田は驚いた。レイラは小さな声で、
「あたしをシラさんのお嫁さんにしてぇ」
と浜田の耳元で囁いた。この時、不思議なことに浜田は冷静だった。
六本木のラ・フォセットの社長柳川哲平の所に、
「浜田がザンビアの鉱山を脱走したらしい」
と新宿、大久保の淺沼組の組長から電話があったのは数日前だ。
「あそこに送り込んで生きて戻った奴は今まで一人もおらんのに浜田と言うヤロウはしぶとい奴だなぁ」
柳川哲平は珍しい話だと組長に答えた。
「いずれ日本に舞い戻って来るかも知れんな。柳川さんのとこから外務省筋に探りを入れといてくれんか?」
「分った。一応探りを入れておく。また何かあったら連絡をくれ」
それで、柳川はラ・フォセットの客の線から探りを入れると直ぐに返事が来た。
「浜田と言う者ですが、ザンビア大使館でパスポートを再発行したそうで、今はJACAザンビア事務所で働いているようです」
淺沼組の組長の話しでは警備兵を倒して銃と弾丸を奪って逃走したらしいと連絡があり、柳川は現地の暴力組織にでも逃げ込んだのではないかと予想していたので、ジエイカとは意外だった。柳川は外務省筋の情報を淺沼組の組長に連絡した。
「中国人の組織に、この情報を入れますか?」
「いや、入れないでくれ。万一現地で騒ぎを起こされるとジエイカに迷惑がかかり、オレの情報提供先にも迷惑がかかる可能性があるから、当分様子を見ようや」
柳川はそう言って、しばらく浜田の情報を現地の組織には内緒にしておくことにした。
「奴が独りで日本に舞い戻っても、こっちの組織相手じゃ手も足も出んだろう」
組長は浜田一人の腕をへし折る位どおって事はねぇと言う感じだった。
八十三 けりを付けなきゃならんのだ
「加藤、すまねぇが、十日位休みをもらえないか?」
浜田は加藤と酒場で一杯飲みながら日本に一時帰国するつもりで、長期休暇を願い出た。
「十日は長いな。潅漑工事の方はどこまで進んだ?」
「毎日全員で頑張ってる。今5kmと少しまで進んだ。あと半分あるな」
「出来るだけ早く済ませてもらいたいんだがなぁ」
「それは分ってるさ」
「だったらめったに無いことだから休暇を許してやるか」
「済まねぇ。恩にきるよ」
「何処かへ行く予定か?」
「ああ。一度里帰りをしたいんだ」
「えっ? 日本に帰るのか」
「ああ」
「里帰りたって君には帰る里があるのか」
「ない。里帰りと言ってみただけだ」
「帰って何をするんだ」
「あまり突っ込むなよ。男にはなぁ、一生に一度か二度、自分でけりをつけなきゃならんことがあるのさ」
「僕にはそんな大層なことは何もないなぁ」
「あんた幸せなやつだな」
「十日で足りるのか」
「足りる。もし、十日でケリがつかなきゃ、生きてここに戻れんかも知れんなぁ」
「おいおいっ、そんなヤバイことか」
「だから言っただろ。一生に一度か二度だ」
「君、必ず戻って来ると約束してくれ」
「約束は出来ねぇが、戻ってくるつもりだ。もしもオレが戻らない時はオレのとこのイライザとレイラを頼むよ。解雇手続きをして自由にしてやってくれ」
「分った。それくらいのことなら、僕が責任を持ってやる」
「ありがとう」
「所で、一度お前に聞いてみたいと思ってたんだがなぁ」
浜田が加藤に聞いた。
「何を?」
「あんた、単身赴任で国に奥さんと子供さんが居るんだろ?」
「ああ、女房と子供が二人居る」
「里帰りは正月だけか」
「そうだよ」
「セックス、どうしてんだ」
「君らしい質問だな。僕は我慢してるよ」
「よく我慢して居られるなぁ」
「仕方がないだろ」
「あんた、柏木さんと何も無いのか」
「ないよ」
「彼女、良く見ると色っぽいし、口説けば落ちるんじゃないのか」
「おいっ、浜田、君は柏木さんには絶対に手を出さないでくれよな」
「何かあるのか」
「柏木さんは可哀想な女性なんだ」
「可哀想?」
「ああ、若い頃建築デザイナーの彼氏と熱烈な恋愛をしたそうだ」
「やっぱオレが見た通り情熱的なものを秘めてる女だな」
「ああ。だが、彼女の最愛の彼氏が建築現場で監督中に足場が壊れて高い所から落下して、即死だったそうだ」
「それは可哀想なことだったな」
「それからと言うもの、柏木さんは人が変ったみたいに三年間くらい気が抜けて呆けていたそうだ。仕事も何も全てやる気が失せて、一時は彼氏の後を追って自殺しようとしてし損なったそうだ」
「そんなことがあったのか」
「彼女は、たまたま僕の友人の知り合いで、友人から頼まれて、過去の暗い想い出を忘れるためにアフリカまで来たんだよ。今はようやく落ち着いた所だが、彼女には決して過去の話を思い出させないように気を遣ってるんだ」
「そうか、気の毒だなぁ」
「だから君にも彼女の気持ちを大切にしてやって欲しいんだ」
「分った。オレは約束するよ」
「僕の方からも一度聞きたいと思ってることがあるんだ」
「なんだ?」
「先日メイドの一人が大怪我をしたよな」
「ん。一人は死んじゃった」
「聞いた話では毎晩怪我をしたメイドの見舞いに行ってやったそうだな」
「ああ、可愛い子でな、ほっとけなかった」
「それでだけど、その子とはもうやったのか」
「まだだ」
「君にしては珍しいな。もう一人の子ともやってないのか」
「ああ、やってねぇ」
「ふーん」
「現地人とトラブルを起こすなと言ったのはあんただろうが」
「ああ、言ったよ。君が礼節を守っているんで安心したよ。それで、怪我をした子、解雇するのか? 解雇しても問題はないよ」
「オレは解雇する積りはねぇ。あの二人はオレが生きてる限りずっと面倒を見てやろうと思ってる。可愛い娘みたいなもんだからな」
「結婚は考えてないのか」
「考えてはいるが、まだ何も決めてねぇ。所でよぉ、ザンビアは一夫多妻は許されるのか?」
「今は法律では一夫多妻は禁じられているんだ。地方に行くと族長が一夫多妻で女をいっぱい抱えている所も残っているそうだが、ルサカじゃ届けは受理されないね」
「そうか。結婚するならあの子たちをまとめて嫁さんにしてやろうなんて思ってたがダメかぁ」
「ダメだ。届けを出さずに内縁関係を続けてる奴は多いそうだがな、止めとけよ」
「ああ」
「明日からジャパンに十日間位行ってくる。留守中はイライザとレイラは二人で助け合って仲良くしててくれ」
「本当に戻って来るの?」
「オレはウソは言わない。必ず帰って来る」
浜田は二人にそう告げてザンビアから日本に向けて旅立った。
成田に着いたら早速沙希の周辺の観察をしながら、数年前沙希のことで電話をよこした中嶋麗子と言う女を捜し始めた。米村善雄の居る○○ホールディングスに声色を変えて電話をして消息を探った。だが思わしい情報は取れなかった。実は電話を取った○○ホールディングスの事務の女性は中嶋麗子とまだメール友達付き合いを続けていて、消息を知っていた。だが訳の分からない男からの電話だったので、
「全く存じません」
と答えたのだ。浜田は十日後の四月末まではここに電話をしてくれと携帯の番号を教えておいた。それで、事務の女性は麗子にメールを送信しておいた。そのお陰で、浜田は麗子と簡単に連絡が付いた。
「一度お目にかかれませんか?」
麗子はオッパイの下と太ももの付け根に掘られた蜘蛛のタトーを見る度に沙希に対して悔しい思いを持ち続けていた。だから、浜田の話に簡単に応じた。浜田は、
「今夜池袋駅前のスタバで落ち合おう」
と言って詳しい場所を教えた。
夜、浜田がスタバで待っていると約束の時間に麗子はやってきた。
「二日前、沙希ちゃんの義理のオヤジさんがアフリカから成田に舞い戻ったそうだ」
六本木のラ・フォセットの社長柳川哲平から沙希に電話が入った。
「生きて戻って来たのですね」
「予想もしてなかったが、悪運に強い男だね。それで、必ず沙希ちゃんに近日中に接触してくると思うので、何かあったら遠慮せずに僕の所に電話をくれんか」
「はい。分りました。よろしくお願いします」
沙希は悪夢が蘇ったようでその日は落ち着かなかった。義母の美鈴に柳川からの電話の話をすると、
「沙希ちゃんは何も心配なさらなくていいわよ。わたしが相談に乗ってあげますから、お一人の判断で行動をしないようにして下さいな」
と沙希を庇うように話してくれた。
柳川の所には二日前に成田の通関を通ったとその筋から連絡が届いていた。柳川は溝口と章吾はもちろん、鈴木と瀬川も呼んで状況を伝えて、
「何かあれば直ぐに対応できるようにしておいてくれ。今回は治安当局にも内々話を通して協力してもらうつもりだ」
と指示を出した。
章吾はあれから数年経過しているが、浜田ともう一人をアフリカに送り込んだことを思い出していた。帰宅後、
「美登里、沙希さんに関わることでちょっと仕事ができたから、近日中に夜帰宅できないようなことがあるかも知れない」
と章吾は予め美登里の了解を取った。美登里は素直に了解してくれた。
八十四 悪巧み
「しばらくだなぁ、元気にしてたか?」
「○○ホールディングスの受付でお会いしてから、何年になりますか。あれからあたし、あそこを辞めて今はフリーターとかブラブラですよ。あれ以来いいこと全然ナシだわ」
池袋駅前のスタバで落ち合うと浜田と中嶋麗子は話し始めた。
「あんた、まだ米村沙希に恨みを持ってるんだろ」
「あたし、あなたに会って情報をもらってから嫌がらせをするつもりだったんですけど、あなたの代わりにヤバイやつに捕まって、失敗して逆にひどい目に合わされたから今でも恨めしいですよ」
「だったら、オレの仕事を手伝ってくれないか」
「どんな仕事?」
「沙希に小学生になる長男と幼稚園に通ってる娘が居るんだ」
「米村善雄の子供ね」
「ああ」
「長男を利用して沙希から五千万円位出させてやろうと思ってるんだ」
「誘拐?」
「誘拐なんて言うと人聞きが悪いがね、まぁそんなもんだ」
「ヤバイんじゃないですか」
「あの沙希と言う子はな、オレの義理の娘なんだ。親が娘に金を用立ててくれって言うんだからどこぞの知らない奴の子を利用するのとは訳が違うんだ。あの息子はオレの孫でもあるんだよな」
麗子は沙希が浜田の娘だったとは意外に思った。
「でしたら、あたしなんかに手伝わせなくても、普通にお金を出してくれと言えばいいじゃないですか」
「実はな、オレもあんたと同じで数年前ひどい目に遭わされたんだ。あんたが知ってるかどうかは知らんが、米村一家にはバックがあって、そいつらにアフリカに売り飛ばされて奴隷にされてたんだ」
麗子は浜田が次々と信じ難い話しを持ち出すので少し懐疑的な気持ちになった。
「今時、奴隷なんて話しおかしいですよ」
「オレ自身信じ難いと思ってるんだがな、本当の話だ。今でもアフリカの奥地でオレと一緒だった奴隷が働かせられてるよ。二千人も居るんだぜ」
「へーぇっ、そんな話しが現実にあるんですか」
「あるんだ」
「でな、調べてみると、長男は希世彦と言うらしいが、小学校に通ってるんだ。登下校の隙を見て、あんたが沙希の友達だと言うことにして連れ出して欲しいんだよ」
「連れ出してどうするの」
「金が無くて、生きているのが嫌になった。だからさ、借金を返して後を綺麗にして、あんたの長男の希世彦を連れてお前の代わりに一緒に死ぬつもりだ。可愛い希世彦をオレと一緒に死なせたくなかったら五千万円用意してくれないか? そう頼むつもりだ」
「分ったわよ。その希世彦を連れ出してあたしはどうすればいいの」
「オレが沙希と交渉している間、ホテルに部屋を借りて希世彦を預かってて欲しいんだ」
「警察に通報されたらどうするのよ」
「内輪の話だからさ、警察には言わないと思うよ。通報されたら、オレは失うものはないが、沙希はこのことが新聞にでも出ればスキャンダルになるよなぁ。大損するのはあちらさん、米村家だよ」
「あなた、あたしに子供を預からせといて、まさかお金を受け取ったらドロンするんじゃないでしょうね」
「しない。金はあんたと折半だ」
浜田は麗子を利用するだけで、金を受け取ったら沙希に麗子と希世彦が居るホテルを教えて、自分は成田に直行してそのままアフリカに戻るつもりでいた。だから最初から麗子に金をやるつもりは無かったから痛いとこを指摘された。だがそんなことは全く顔には出さなかった。
希世彦は自宅近くの西新井一小に通っていた。最近はどこも登下校は子供たちが揃って集団登下校をしており、登下校時にはボランティアで年配の男女が交差点などで安全確保に努めている。だから、登下校時に拉致するのは極めて難しい。それで、学校が終わってから塾に通っているのを確かめたので、その時を狙う手筈にした。
麗子と打ち合わせをして、協力してくれる約束をしてから、浜田は希世彦が通っている塾の近くで希世彦の帰りを待った。希世彦がいつもの通り友達と一緒に出てくるのを認めると、浜田は希世彦に近付いた。
「ちょっと、希世彦ちゃんだね。携帯を持ってたらお母さんに電話をかけてくれる。オジチャンは希世彦ちゃんの義理のおじいちゃんだよ」
と話しかけた。希世彦が携帯を取り出して電話をした。
「浜田って言うおじいちゃんだよ。お母さんに、そんな人いる? って確かめてよ」
希世彦は素直だった。沙希に電話をすると、
「今ね、浜田って言うおじいちゃんにママに電話をするように言われたの。そんな人知ってる?」
どうやら知っていると返事を受けたらしく
「そう」
と希世彦が答えた所で浜田は希世彦から携帯を取り上げた。
「オレだ。しばらくだなぁ。今、孫の可愛い希世彦ちゃんと一緒だ。少ししたらまた電話をするよ」
と言って携帯を切った。
「希世彦ちゃん、ママがね、一緒に帰って来てだって」
そう言って浜田は希世彦と手をつないで歩き出した。
「僕の家、あっちだよ」
希世彦は家の方角と道が外れた所で道が違うと言った。
「ママがね、西新井大師さまの方に一緒に来てちようだいだって」
と言ってなだめた。そこにタクシーを拾って麗子が後を追ってきた。浜田は希世彦の携帯を道端に捨てると、
「遠いからタクシーで行こう」
そう言って麗子が乗ったタクシーに乗り込み、西新井から尾久橋通りを南に真直ぐ走り、尾久橋を渡って西日暮里に向かい、西日暮里で道なりに左折してJR日暮里駅前のラングウッドホテルにチェックインして希世彦を連れ込んだ。沙希に電話をしてから約二十分後だった。
浜田は自分の携帯から沙希に電話をかけて、筋書き通り、
「今希世彦と一緒だ。金が無くて、生きているのが嫌になった。だからさ、借金を返して後を綺麗にしてさ、このまま希世彦を連れてお前の代わりに一緒に死ぬつもりだ。可愛い希世彦をオレと一緒に死なせたくなかったら明日の午後三時までに五千万円用意してくれないか? 明日の正午にまた電話をするよ」
と伝えた。沙希から、
「分りました」
と返事があった。
「分ったってよ」
浜田は麗子に沙希が五千万円用意することを了解したようだと話した。麗子は浜田に言われて大きめのキャスター付きの旅行バッグを用意していた。
「そのバッグ、丁度いいでかさだな」
「何に使うの?」
「万一の時、この子を入れて運ぶんだ」
麗子は納得した。
「明日の夕方、上野公園で金を受け取る予定だ。受け取ったら希世彦を帰してやるつもりだ。後はあんたとメシでも食って別れよう。悪いけど、明日の夕方までこの子と一緒にここに居てくれ」
そう言って浜田はホテルを出て池袋に戻り、昔付き合っていた友達と打ち合わせをした。友達は宮本と言う博打仲間で、数年過ぎても昔のままだった。
「明日上野公園で昔の知り合いの女から五千万円受け取る予定だ。悪いけど、オレが携帯で指示する通りに動いて、タクシーまで金を運んでくれ。上手く受け取れたら一割の五百を渡すよ」
「五百は助かるなぁ。けどよぉ、五千万円もの札束、重いんじゃないのか」
「これだから貧乏人は困るのよ。万札の束百枚、百万円はたったの110グラムだよ。五千だと5.5kgっかねぇから軽いもんよ。紙袋二つに分けて持ってこいと言うつもりだ」
「へぇーっ、そんな重さしかないのかよ」
「ウソだと思ったら十万位なら持ってるだろ? 実際に計ってみろよ。十万円なら11グラムしかねぇよ」
沙希は美鈴と柳川に浜田からの電話の内容を報告した。美鈴は現金で五千万円明日の午前中に銀行でおろして用意してあげると言った。
「希世彦の命と引き換えですからね、こう言う場合は小細工をしないことよ。分ったわね」
と言った。柳川は、
「明日電話が来たらすぐこっちで動くから沙希ちゃんは家で待っててくれればいいよ」
と言った。
美鈴の指示で、善太郎にも善雄にも直ぐには伝えなかった。
八十五 摘んでも摘んでも芽が出てくる
翌日、お昼に約束通り浜田から沙希に電話が入った。
「金は用意出来たか? 五千万だぞ」
「はい」
「じゃ、三時に上野公園の東京文化会館あたりに金を持って来い。紙袋二つに分けて手で持ってきてくれ」
「はい」
「金を受け取る場所はあんたが上野に着いてから知らせる。希世彦ちゃんの居場所は金を受け取ったら連絡する。金さえ受け取れば危害は加えないから安心しな」
それで電話が切れた。沙希は電話の連絡内容を美鈴に報告して、直ぐに六本木のクラブ、ラ・フォセットの社長柳川哲平にも電話を入れた。柳川は、
「分った。上野公園のどこに金を置けと連絡してきたら、その場所を直ぐに携帯で知らせてくれ。沙希ちゃんの携帯が頼りだ。携帯はバッテリー切れになると困るので、充電は確認しておいてくれ。金は浜田に渡してくれ。沙希ちゃんは浜田が指定した場所に金を置くだけでいいよ。こう言う場合は、普通は金を直接手渡すことはめったにないんだ。多分浜田は公園の何処かに金を置いて、置いた場所から立ち去れと言う筈だよ。浜田は面が割れてるから、浜田じゃなくて別の奴が金を受け取りに来る可能性が高いね。後はこっちの者が希世彦ちゃんの安全を確保してからちゃんと取り返すつもりだ。警察にも応援を頼んであるが、メディアには一切情報を流さないから安心していていいよ。くどいようだが、沙希ちゃんは余計なことをしてはいけないよ。金を置いて来るだけでいいよ。沙希ちゃんに何かあれば対応が難しくなるから、無理は絶対にしないでくれ」
「パパ、いつも守ってくれてありがとう」
「ん。気を付けてな」
沙希が米村善雄と結婚した時から、柳川が沙希の父親代わりになっていた。
「沙希ちゃん、上野公園まではわたしも一緒に行くわよ。少し離れた所で待っているから安心してお金を置いていらっしゃいな」
「お義母さん、ありがとう」
沙里は、
「義母と一緒にちょっとお出かけしますので夕方まで預かって下さい」
と隣の若いお嫁さんに沙里を預けた。美鈴と沙希の二人が出かける用意を済ますと、
「重いわね。二人で一つずつ持って出ましょう」
と美鈴が言い、現金を入れた紙袋は分けて持つことにした。現金は銀行名が印刷された封帯で一万円札百枚で一束になっていた。全部通し番号の新札だ。浜田は警察には知らせないだろうと言う自信と言うか勘があったので、使用済みの紙幣にしろとは言わなかった。誘拐事件では、紙幣の番号から足取りを追跡されるので、普通は使用済みの紙幣を要求するのだ。だから、美鈴は沙希には言わなかったが、浜田が使用済みの紙幣を要求しなかったことから、この事件は案外簡単にかたが付くと思っていた。
揃って上野公園に向かう道すがら、美鈴は沙希に話しかけた。
「沙希ちゃん、植物は種を蒔くか、挿し芽をするかすれば大きく育つわね」
「はい」
「世の中には一つだけ、種がなくても芽が出て大きく育つ物があるのをご存知?」
「さぁ?何かしら?」
「答えは人の恨みね。恨みは摘んでも摘んでも芽が出てくるから始末が悪いのよ。相手が納得して恨みの元がなくなるまで続くわね。人類がパンドラの箱を開けてから、人間社会では至る所に恨みの芽が出るようね。困ったものね。浜田は多分お金が欲しくて希世彦ちゃんを利用したのね。でも、長い間遠方にやられていたから恨みもあると思うのよ」
「沙希ちゃん、しばらく。大変だね」
上野駅で声を掛けてきたのは章吾だった。
「すまんけど、夫々の袋の中にこいつを入れといてくれ」
とプラスチックの小さな箱を2つ渡してくれた。GPSの追跡システムの端末だった。しばらくぶりに見る章吾は以前より少し太ったような気がした。多分美登里の料理が美味しいのだろうと沙希はそんな風に思った。受け取って振り向くと、章吾はどこかに消えていた。
「今文化会館前に着きました」
三時少し前に浜田から連絡が入り、沙希は着いたことを知らせた。
「分った。じゃ、隣の西洋美術館、分るだろ」
「はい、分ります」
「西洋美術館の前に大噴水があるだろ」
「はい、分ります」
「その噴水の所の端に野口英世博士像があるんだ」
「はい」
「その像の脇にベンチがあるから、そこに袋二つを置いてくれ。今おふくろさんと二人だな」
「はい」
「これから先はお前一人で持って来い」
「はい」
「ちゃんと見張ってるから変なことをするなよ。変なことをすれば希世彦ちゃんと一緒に死んでやるからな」
浜田は脅した。
「直ぐに向かいます」
沙希は指定場所を美鈴に知らせた。美鈴は直ぐに柳川に連絡を入れた。
「分りました。金を置かれたら、直ぐに戻っていいです。お二人共くれぐれもご無理をなさらないで下さいね」
美鈴には柳川は丁寧に応えた。
「おいっ、大噴水の前の野口英世博士像の脇のベンチだ。多分金を掴んだら博物館正門前辺りから都道452号で逃げるつもりだろう」
先ほどから章吾と鈴木と警官の白バイがバイク三台で文化会館の筋向いの東京都美術館の建物の陰にエンジンをスタンバイして潜んでいた。
前方を見ると、沙希らしい女性が、重そうに紙袋を二つ持って野口英世博士像の脇のベンチの所にやってきた。沙希は紙袋をベンチの上に置くと直ぐにその場を離れた。美鈴は文化会館前で遠くから沙希の様子を見ていた。
しばらく紙袋はベンチの上に置かれたままになっていた。すると、ホームレスのような汚れた服を着た男がゆっくりとベンチに近付くと、辺りを見回してから、袋の中を確かめている様子だ。男は袋の中を確かめると、さっと袋を二つ抱えて、博物館正門前交差点に向かって走り出した。
八十六 追跡
合わせて五千万円が入っている紙袋二つをホームレスのような汚れた服を着た男が、さっと抱えて、博物館正門前交差点に向かって走り出した様子を白バイに跨った警官と、同じくバイクに跨った章吾と鈴木が見ていた。
白バイの警官が、
「行くぞ!」
と言ったのを合図に、三台のバイクは走り去る男を見ながら、ゆっくりと走りだした。
紙袋を抱えた男が博物館正門前交差点より少し手前に差し掛かった時、交差点から大噴水に向かって歩いて来たGパンの上に革ジャンを着た、わりと背の高い男がいきなり紙袋を抱えた男に飛びついて、もみ合いになった。紙袋を抱えていた男は紙袋を手放して、飛びついて来た男と取っ組み合いを始めた。この様子に気付いた公園を散歩中の何人かが野次馬のように組み合ってる男たちに近付いた。
すると、野次馬の間から別の男が出てきて、素早く紙袋を取り上げて、両手で抱えて博物館正門前交差点を目掛けて走り出した。
それを見て、革ジャンの男も紙袋を取り上げた男を追った。野次馬の中の一人が革ジャンの男に飛びついたが、男に振り払われて、その場に転がった。何が起こったのかと野次馬の人数が増えた。
後から来て紙袋を取り上げて、博物館正門前交差点を目掛けて走り出した背広を着た男を見て、
「あいつ、浜田に違いないぞっ」
と章吾が叫んだ。
「間違えねぇ」
と鈴木も叫んだ。三台のバイクはエンジンをふかして、博物館正門前交差点の方に走り出した。
前方を見ると、浜田と思われる背広の男と革ジャンの男は交差点の横断歩道を突っ切って、走ってきたタクシーを止めて乗り込んで直ぐに走り出した。タクシーに乗り込むと
「成田空港に行ってくれ」
と告げた。
「沙希のやつ、意外にさっさと金を置いたから、お前、やばかったなぁ。もう少しで知らないヤロウに金を持ってかれるとこだった」
「オレもあせったぜ」
タクシーに乗り込んだのは浜田と宮本だった。
バイクが交差点に差し掛かった時、タクシーは走り出す所だった。運悪く、信号が赤に変った。白バイの警官はウィーンとサイレンを鳴らし、赤色灯を点灯した。それを見て右手の車が交差点で急停止した。左手から走ってきた乗用車も急ブレーキをかけて減速した。警官は左右の車を見ながらゆっくりと右折した。章吾も鈴木も白バイの後にぴったりとついて交差点を右折した。
交差点を過ぎると警官はサイレンを止めた。赤色灯だけ点灯して、タクシーの後を追うと、間もなく前方にタクシーを確認した。
タクシーはJRの線路をまたぐ陸橋を過ぎると直ぐに左に折れて直進し、言問通りを右折して言問橋を渡った所で水戸街道を四つ木方面とは逆に右折して三つ目通りを直進した。
白バイは途中で合流する予定の白いベンツが追いついてこないかバックミラーで確かめながらタクシーの後を追っていた。
溝口と瀬川は白いベンツに乗り、柳川からGPS追尾システムの情報をもらいながら、白バイと章吾たちを追っていた。
「見えたぞ。あれだ。間違げぇねぇ」
白バイの警官は後方から追いついてくるベンツを確認した。それでタクシーの側に寄るとサイレンを鳴らしてタクシーに停車するように合図した。何事かと訝りながらタクシーの運転手は車を停めた。警官が白バイを降りてきて、窓を開けるように指示した。警察手帳を見せられて運転手は、
「速度違反はしてないですが」
と警官に抗議の目で話した。
「ご苦労様です。そちらのお客様に用があります。お客様を降ろして頂けませんか?」
運転手は職業柄ピンときたらしい。
「お客さん、降りて下さい」
と後を振り返ってドアを開けた。そこに章吾と鈴木が近付いて浜田と宮本を引き摺り降ろして、みぞおちに一発ずつくらわした。直ぐ後にベンツが停まった。溝口と瀬川が降りてきて、二人の手に手錠をかけるとベンツの後部座席に押し込み、足も縛り上げた。
鈴木が、浜田のポケットを探して携帯を取り上げた。通話記録を調べると少し前に[中嶋麗子]から何度か電話があった。それで直ぐに電話をした。呼び出し音の後に女が出た。
「子供は元気か?」
「はい」
「オレは浜田のダチだ。ちょっとやばくなった。直ぐそこを引き払って、鶯谷のホテルピュア・ジアンに部屋を取ってあるから至急移ってくれ。部屋番号は204だ」
「204ですね。分りました」
メモを取っている様子だった。電話は直ぐに切った。
溝口は白バイの警官に、
「ご苦労様でした」
と挨拶して、タクシーの運転手に料金を尋ねた。溝口は料金を払うと、
「車を出して結構です」
と頭を下げた。タクシーは走り去った。溝口は回収した五千万円を確かめてから、
「オレたちはいつもの倉庫だ。二人は鶯谷に急いでくれ」
と指示してベンツに乗り込み去って行った。白バイの警官は敬礼すると去って行った。章吾と鈴木はバイクで鶯谷に急いだ。204号室は鈴木が今朝キープしておいたのだ。中嶋麗子は希世彦と一緒に、今ピュア・ジアンの204号室に向かっているはずだった。
八十七 慈悲
中嶋麗子は浜田のダチだと言う男から電話を受けた。着信は浜田と表示されたから浜田の携帯からだろうと思って、何の疑いも抱かずに、急いでホテルのタオルを使って希世彦の手足を縛り、声を出されると困るので猿轡をした上、布製の大きな旅行バッグに入れてチャックを閉じた。希世彦は抵抗したが、小学校の二年生だ。麗子の力で難なく押し込めた。バッグはキャスターが付いているから、女手でも簡単に運べた。エレベーターで一階に降りると、チェックアウトもせずに、ドアから外に出て客待ちで停まっているタクシーに乗った。バッグは車のトランクを開けてもらい入れてもらった。
「鶯谷のホテルピュア・ジアンに行って下さい」
そう告げると、
「お客さん、ブラブラ歩いても二十分もあれば行けますよ。歩かれたらどうですか」
と不満そうな顔をした。
「いえ、歩くのは面倒くさいから行ってぇっ」
ホテルの前の尾久橋通りを500mも走るともう着いた。麗子は運賃を払ってトランクからバッグを出してもらって、
「204の鍵をお願いします」
と言って鍵を受け取り、204号室に入った。ラブホだから、顔は見られないしうるさくないから簡単だ。それで部屋に閉じこもったまま浜田を待った。
「うまく行ってくれますように」
と心の中で祈るような気持ちだった。
鈴木と章吾はバイクでホテルピュア・ジアンに着いた。鈴木と章吾はここから別行動を取った。鈴木がフロントに、
「連れが204にもう来てますか?」
と聞くと、
「先ほど入られました」
と返事があった。返事をしたやつの顔は見えない。鈴木は直ぐに204に向かい、ドアーの前で、
「浜田のダチだ。開けてくれ」
と言った。ドアーは直ぐに開いた。章吾は204号室から少し離れた所で待機していた。鈴木は大きなバッグを見て、子供がこの中だと直ぐに察した。で、バッグに目をやり、
「子供は大丈夫か?」
と聞いた。麗子はバッグのファスナーを少し開けて、
「大丈夫みたいね」
と答えた。それで鈴木は希世彦が無事であることを確かめてファスナーを元通り閉めさせた。
「今、浜田が金の交渉中だ。これから直ぐに別の所に移動する。一緒に来てくれ」
と言うと麗子は素直に、協力した。成功すれば大金をもらう約束だから当然だ。ホテルの前の尾久橋通りでタクシーを拾うと、
「言問い通りに出て、清洲通りに交差したら右折して、清洲通りを道なりに走ってくれ」
と告げた。運転手は黙って発進した。章吾はバイクで後をつけた。言問い通りに出た所で、鈴木は麗子の口をこじ開けて注入器で液体を流し込んだ。麗子は抗ったがすぐにぐったりした。麻酔薬のジエチルエーテルだ。麗子が気を失ったのを確かめてから、
「環状線C1に上がって、羽田線に向かってくれ。途中折れて大井南で降りてくれ」
と行く先を告げた。大井南で降りると、大井埠頭の羽田寄りの倉庫の前で、
「ここでいい」
と運賃を払ってタクシーを降りた。麗子はぐったりしていたが、仲間が三人出てきて手伝って、空き倉庫の一室に麗子を入れて床に転がした。もうすぐ麻酔が覚めて起きるだろう。部屋の鍵を閉めるカチャッと音がして、足跡が遠ざかった。タクシーのトランクから降ろしたバッグは事務室で開けられた。手足を解放され、猿轡を外された希世彦は怯えた顔をして辺りを見回していた。そこにバイクでやってきた章吾が入って来ると、
「おじさん」
と希世彦が章吾に走り寄った。章吾は希世彦が幼い頃から遊んでやったりしていたから、希世彦は章吾に懐いていたのだ。
「希世彦君、もう大丈夫だからね。おじさんがママの所に送ってあげる」
そう言って沙希に電話した。
「無事に保護した。希世彦君に代わる」
携帯を希世彦に渡すと、沙希と話をして、希世彦の顔が明るくなった。
「腹を空かせているみたいだから、途中でファミレスに寄るよ」
章吾は溝口に断って、倉庫に置いてあった自分の軽自動車で希世彦を乗せて走り去った。
白いベンツに押し込められた浜田と宮本もジエチルエーテルで麻酔されてこの空き倉庫まで連れてこられ、浜田と宮本とを別の部屋に放り込んだ。宮本の方は手錠の紐をテーブルの足に縛り付けてドアを施錠してほったらかしにしてあった。
部屋に入って三十分もすると、浜田は麻酔から醒めた。
「おいっ浜田、また余計なことをしあがったな」
溝口が睨み付けた。浜田は失敗したことを認めざるを得なかった。警察には絡ませないと思って居たのが甘かった。白バイにタクシーを停められた時は、運転手がスピード違反か何かで停められたと思っていたが、
「後のお客さんに用が……」
と聞いた時は冷や汗が出た。警察手帳は本物だったからだ。それで、自分を車に押し込んだヤツラは、その時は刑事だと思っていた。
目の前のテーブルの上に封帯をした万円札が高く積み上げられていた。本物の紙幣だ。浜田は恨めしそうにその札束の山を見ていた。
「子供は女がヘマして死んだよ。お前は無期か死刑だな」
溝口の脅しに、
「そんなぁ……」
浜田の顔は青ざめ、明らかに狼狽していた。溝口は事務所から沙希に事件の次第を連絡すると、美鈴に代わった。
「ご苦労様でしたわね。あなた方のお仕事は確かね。浜田はまだそこに居ますか?」
「これからちょっとしごいてやる積りです。警察に突き出しますか?」
「そうね、浜田の返事次第では警察にお願いするのがいいわね。後で電話で浜田と直接話をさせて頂けますか?」
「どうぞ。今別の部屋に居ますから、後で代わりましょう」
溝口は浜田が居る部屋に移ってから、美鈴に電話をした。
「奥様、それでは浜田と代わります」
そう言って携帯を浜田に渡した。
「もしもし、浜田さん?」
「そうだ。オレだ」
「あなたわたしより少しお若いようですけど、いい歳して娘に金をせびるなんて、随分だらしがない男だわね。恥ずかしいと思わないの? おまけに子供まで利用して、卑怯よ」
「そうとでもしなきゃ、あんたたち金を出さんだろ」
「当たり前よ。あなたのこれまでの仕打ちを考えると沙希ちゃんがあなたにお金を要求したいくらいですよ」
「それでオレをどうする気だ」
「あなた次第ね。警察に突き出せばあなたが老いぼれになるまで刑務所暮らしだわね。あなた次第では突き出してもいいのよ」
美鈴は浜田を脅した。
「あなた次第とは、どう言うことだ?」
「聞く所に拠ると、あなたアフリカのジエイカ、ザンビア事務所で堅気な仕事をしているそうね。貧しい人々へ献身的に仕事をするのは良いことね。あなたまだそのお仕事を続けたい?」
浜田は沙希の義母が自分の情報を正確に掴んでいるのに驚いた。それで、少し大人しくなった。
「もし、今回失敗しないであんたらから金を盗ったら、そのままアフリカに帰って今の仕事を続けるつもりだったんだが、オレ、失敗したからどうするかまだ考えてない」
「続けたい気持ちはあるの?」
浜田は観念した。それで正直に気持ちをぶつけてみる気にさせられていた。
「続けたいです。出来れば」
「アフリカに戻ったら、もう二度と日本には帰らないと約束できる?」
「一応そのつもりだ」
「そうよね、世の中の情勢は変わるものですから、今は一応としか答えられませんよね」
「ああ」
「そう。あなたはほんの僅かな期間でしたけれど、沙希ちゃんと関わりのあった方だから、あなたがアフリカで真面目にお仕事を続けて行かれるなら、今後一切沙希ちゃんと縁を切る条件を呑むなら、今回だけは許して差し上げて、警察への訴えを取り下げてあげることもできるのよ。今後恨みを捨てると約束できますか?」
「はい」
浜田は初めて、
「はい」
と答えた。
「そう。では、わたしたちはあなたのお返事を信じてあげます。アフリカに直ぐ戻るわね」
「はい。そのつもりです」
「あなたお金が欲しかったからこんなバカなことをなさったんでしょ」
「はい」
「本当はいくらくらい欲しかったの? まさか、五千万円とは言わせませんよ」
「金は欲しかったです。本当は五百位欲しかったです」
「随分ふっかけたわね」
「そのまま積まれるとは思ってなかったですから」
「バカおっしゃい。あなたはどこまでダメ男なの? 可愛いわたしの孫の命と引き換えの条件ですよ。五百位欲しくて、失敗したら場合によっちゃ希世彦ちゃんを殺してしまう場合だってあったんでしょ」
美鈴の話に浜田は違和感を覚えた。
「手伝ってくれた女がヘマして死んじゃったそうで、オレとしても愕然としてます。最初から殺すつもりは全くなかったです」
「そうよね。それが普通の神経よ。義理とは言っても娘の可愛い子供を殺す親はいませんよね」
「はい。本当に残念に思ってます。言葉で謝って許される問題じゃねぇと思ってます。すみませんでした」
明らかに浜田の言葉には一抹の情が含まれていた。
「あなたに死んだと伝えたそうですが、希世彦ちゃんは今戻ってきて、ここで元気にしてますよ」
浜田は仰天して向かい側の溝口を睨み付けた。
「このやろう、はめやがって」
「今なんとおっしゃいました?」
「オレの気持ちも知らずに死んだと言ったやつに一言……」
溝口は浜田を見てニヤニヤしていた。
「ちょっとそこの方に電話を代わって下さいな」
「お前に話しがあるってよ」
と浜田は携帯を溝口に戻した。
「ご苦労様。浜田の気持ちはだいたい察しが付きました。このまま警察に突き出せば浜田は沙希ちゃんを一生呪うでしょうね。わたしはそれは避けたいのよ。それで、現金、まだそこにありますでしょ」
「はい。見せしめに浜田の目の前に積んであります」
「でしたら、その中から十束、一千万円を浜田に渡して下さいな。それから、お手数ですが、浜田がアフリカに向かってちゃんと出国するのを見届けて欲しいのですが、出来ますか?」
「それはお安い御用です」
「じゃ、また浜田に代わって下さいな」
溝口は黙って携帯を浜田に渡した。
「浜田です」
「目の前にお札の山がありますでしょ」
「ああ」
「その中から十束、一千万をあなたに差し上げます。それを持ってアフリカに戻って立派に仕事を続けて下さいな」
「本当ですか? 恩に着ます」
「わたしじゃないですよ。沙希ちゃんから回してあげるのよ。その代わり今後絶対に沙希に恨みを持たない約束を忘れないで下さいな」
「はい。心に誓います」
「いい心がけだわね。所で、あなた日本国民でしょ?」
「もち、国籍は日本です。パスポートも日本国です」
「だったら、憲法で国民に大切な義務を三つ決められているのをご存知よね」
浜田は急に難しいことを言われて戸惑った。
「えぇ~っと。直ぐに思いつきません」
「ダメな男ね。こんなこと誰でも知ってることよ」
「すみません。教えて下さい」
「いいですか、アフリカに行っても忘れちゃダメですよ」
「はい」
「教育を受ける義務、働く義務、そらから三つ目は税金を納める義務。この三つを日本国民の三大義務と言うのよ。分った?」
「分りました」
「じゃ、お尋ねしますけど、一千万円も人様からもらったら?」
「贈与税ですか」
「そう。でもあなた払うつもりはないわね」
「はい」
「ダメですよ。脱税したらまた警察ですよ」
「参ったなぁ」
「一千万を娘からもらったら贈与税はいくらかお分かり?」
「大体5割位ですか?」
「遺産相続じゃないから、計算は簡単よ。基礎控除額が百十万ですから、一千引く百十は八百九十万円に40%が税率よ。ですから八百九十万円に0・4を掛け算すると三百五十六万円、これから税金が控除される額が六百万と一千万の間は百二十五万円ですから、それを引いてもいいのよ。ですから、国に納める税金は計算すると二百三十一万円ね。五割の五百万円も贈与税を払ったら国からお礼の言葉がありますよ」
と笑った。
「へえーっ、二百三十万円くらいでいいんですか?」
「そうですよ」
「でも、あなたそれも払いたくないでしょ」
「気持ちとしては。でも払います」
「あのね、脱税でなくて、世の中では節税ってものがあるのご存知?」
「なんか上手い方法があるんですか?」
「差し上げるのでなしに、お貸しするの。ある時払いの催促なしの条件で」
「そうかぁ、借りたんならいずれ返す金だから税金はかからないんだな」
「分ったら、沙希ちゃん宛てに借用書を書いてそこにいらっしゃる方に渡して下さい。印は無しで、直筆の署名だけでいいわよ」
美鈴は溝口の名前を決して口にしなかった。
「分りました。直ぐ書きます。でしたら借用書と引き換えに一千万円を受け取ってアフリカに行って下さいな。今回の事件では連れの男と女性が居たわよね。連れの男は失敗したんだから報酬は無しの約束でしょ?」
「はい」
「でしたら、ほったらかしでいいわよ。どうせ欲徳であなたとつるんだ悪なんだからほっときなさい」
「はい」
「女性はどなたか知りませんが、いずれわたしが会ってお話しをします。ご縁があってあなたと共謀したのだから、あなたは無下な扱いをしてはいけませんよ。いずれまた会う機会が万一あった時は優しくして差し上げて下さいな。分ったわね」
「はい」
美鈴は共謀した女性が中嶋だと知らされていたが言わなかった。
「沙希ちゃんに借りた一千万円は必ず返す気持ちで居て下さいね。並みのサラリーマンでも二千万円や三千万円は住宅ローンなんかで借りて、一生かけて返すものよ。それを考えると一千万なんて返す気があれば返せますよ」
と美鈴は笑った。浜田は人生でこんな形で説教を食らったのは初めてだった。話が終わった頃には、沙希の義母に少し尊敬の念が芽生えていた。
「大した女だなぁ」
浜田はそう呟いていた。
溝口は借用書と引き換えに百万円の札束を十個浜田に渡した。
「これから成田に直行か?」
「いや、池袋のウィークリーマンションに寄らせてくれ。手間はかけねぇ」
「分った。直ぐに戻ろう」
池袋のマンションに寄ると、浜田はメイドのレイラとイライザ、それに柏木にと買った土産物と紳士服量販店や靴屋で買い揃えた自分の背広や靴、ネクタイ、シャツなどを大型のトランクに詰めて出た。成田で航空券を買うと、夜行便で飛び立って行った。
溝口は同行した瀬川に、
「一件落着したなぁ」
と呟いた。
八十八 儚い恋
「おいっ、宮本。お前等ドジな奴だ。完敗だよ。さっさとどこぞに消えな」
宮本が閉じ込められた部屋に目だし帽の男が三人入ってきて、手錠を外した。ジエチルエーテルで眠らされていたが、もう一時間以上も前に醒めていた。宮本がキョロキョロしていると、
「さっさと失せろ。もたもたしてんと、コンクリ詰めにしてそこの埠頭に沈めてやってもいいぞ」
とケツを蹴られた。
「やべぇ」
宮本は事件の成り行きも分らず倉庫を出ると夢中で大井埠頭を走った。大きい通りを出て、
「一番近い駅に行ってくれ」
とタクシーの運転手に告げた。
「京急かJRかどっちにしますか?」
「JR」
タクシーはJR大井町駅で宮本を降ろした。
「一体どうなってんだ?」
ポケットを探ると財布はあったが携帯は没収されていた。
「クソッ!」
池袋に戻って浜田が居たウィークリーマンションに行ってみたが鍵がかかっていて誰も居なかった。宮本は諦めた。警察に連れて行かれなかったのが腑に落ちなかったが、もうどうでもいいと思った。
「大損したなぁ」
宮本は落ち込んでいた。
宮本を追い出すと、目だし帽の男たちは中嶋麗子を閉じ込めた部屋のドアーを開けた。目だし帽の中の瀬川は麗子の顔に記憶があった。瀬川は麗子に近付くと、麗子が着ている薄手のセーターを捲り上げた。
「何するんですかぁっ。やめて下さい」
麗子は抗った。瀬川は構わず麗子のブラに手を入れて、左の乳房を引っ張り出した。乳房の下に大きな蜘蛛がへばりついていた。
「やっぱお前かぁ。あの時で懲りたと思ったら、まだやってんのか?」
「関係ないでしょっ」
「アホか。関係あるから、こうしてまた恥ずかしい思いをさせられてんじゃないのか?」
瀬川はセーターを下ろしてやると、
「あんたは無罪放免になったよ。今後バカなことは絶対にやるなよっ。もう帰っていいよ」
そう言って、
「足、ねぇだろ? 駅まで送ってやるよ。ここで待ってろ」
と言うと三人共部屋を出て行った。少しすると若い奴がドアーを開けて、
「駅まで送ります」
と言うと車の方に案内した。麗子は素直に従った。JR大井駅前で、
「そこが駅です」
と麗子を下ろした。
「どうなってるのかなぁ?」
浜田のダチだと言うやつと一緒に鶯谷のラブホを出てタクシーに乗った所までは覚えていた。だがその先は全く記憶が欠け落ちていた。しばらく考えている内に麗子はダチだと言った男に騙されたのだと気付いた。勿論沙希の子供がどうなったのか分らないが、無罪放免だと言われた所を考え合わせると、浜田は失敗したらしい。財布や携帯はそのまま手元にあったから助かった。早速浜田の携帯に電話を入れた。電話に誰かが出た。
「もしもし、浜田さん?」
「中嶋麗子さんだな?」
「あたしです」
「浜田はもう居ないよ」
「殺されたんですか?」
「いや、今夜成田から飛んで行く予定だ」
「どこへですか?」
そう言うと電話は切られてしまった。
「あたし、ついてないなぁ。最近何やってもダメだなぁ」
麗子は蜘蛛のタトーをされてから人生が変わったような気がしていた。スーパー銭湯でタトーをしてるとちくられて追い出されたことがあるし、新しい男と付き合って、蜘蛛を知られて振られたことが三度も続いた。その時の惨めな気持ちは忘れられない。そんなことがあってしばらく男と付き合うことはなかった。だが、今日、目だし帽の男に乳房を鷲摑みされた時、自分の気持ちは良く分らないが、ちょっと気持ちが良かったような気がしたのだ。あれ以来、色々なことがあって、仕事もうまく行かず、仕事場の人間関係も上手く行かず、最近荒っぽいことをする男に惹かれる自分を感じていた。世の中には蜘蛛のタトーを粋だと思ってくれる男が居るはずだ。浜田とはHをしなかったから分らないが、浜田ならひょっとして好感を持ってくれるのではないかなんて思っていた。
結局、夢見た大金が一銭も手に入らず、麗子は諦めてまたフリーターの仕事を続け、細々と暮らしていた。
そんなある日の夜、米村美鈴と名乗る婦人から携帯に電話があった。
「もしもし、中嶋麗子さんね?」
「はい」
麗子は美鈴の声と名前の記憶を取り戻した。
「あのう、もしかして米村善太郎さまの奥様ですか?」
「そうよ」
麗子は言葉に詰まった。沙希の子供の誘拐の片棒を担いだ自分が何と言い出せばいいのだろう。
「もしもし?」
美鈴の催促に我に返った。
「はい。先日のこと、何とお詫びを言えばいいのか。あたし睡眠薬で眠らされていて前後が全く分ってないんです」
「聞いてるわよ。近々あなたにお会いしたいの。どう? お時間を取れますか?」
麗子はどう言う風の吹き回しか分らなくなったが取り敢えず、
「はい」
と答えた。
日曜日のお昼過ぎ、美鈴は東京駅駅前の丸ビル三十五階にある寿司屋に誘ってくれた。
「こんな所で食事をするのは何年ぶりだろう」
麗子は日本橋の○○ホールディングスの秘書をしていた時代を思い出しながら、美鈴が指定した店に入った。美鈴は既に来ていた。
「お久しぶりね」
「ご無沙汰しております。あのぅ、この度はどうお詫びを申上げれば良いのか、本当にすみませんでした。ごめんなさい」
「そうね、謝って済むようなことではありませんね。でも、わたしはあなた方を許すことにしたの。どうしてか分りますか?」
「……」
「もしもよ、あなたたちを警察に突き出せば、あなたはおばあちゃんになるまでずっと長い間刑務所暮らしになるわね」
「だと思います」
「あたしたちから見ればとんだ迷惑なことをされたのに、刑務所に入れられたあなたは、何故かあたしたちを恨み続けるでしょ? 違いますか?」
「かも知れません」
「何年か前、あなたがあたし達を貶めようと動き回って、捕まってひどい目に遭わされたそうね」
麗子はこの話を聞いて、目の前の美鈴は全てお見通しなのではないかと思った。この胸とモモの付け根にへばりついて離れない蜘蛛も。
「元はと言えばあなたが良からぬことをなさったのに、このことを今でも恨んでいるんじゃないかしら?」
「はい。恨んでました」
「そんな恨みが悪戯をして、今回浜田が思いついた良からぬ計画に手を貸してしまったんでしょ? 違いますか?」
「そうだったと思います」
「それに、お金も欲しかったのね」
「はい」
美鈴には反論できない威圧感が漂っていた。貫禄と言うか、年の功と言うか。それで麗子は素直に受け答えをしていた。
「あなたがあたしたちを恨むお気持ち、どうしたらなくせるとお思い?」
「分りません」
「正直に答えて下さったわね」
「……」
「人を信じたり許したりするってことは大変なことですよね。でもね、ご自分が幸せになるためにとても大切なことよ。お分かりになる?」
「はい。分ります」
「あなたが、これから先一生恨み続ければ、あなたは決して幸せにはなれないと思うの」
「はい」
「今日はね、あなたにそれを言いたかったの。あなたにも幸せになって頂きたいからですよ」
麗子は自分の幸せを考えていると言われて戸惑った。
「息子の善雄と沙希が結婚することになった時、あなたショックだったんじゃありません?」
「いいえ」
麗子はウソをついた。
「そう? わたしはあなたが善雄を好きだったと思ってましたよ。あなたも女性なら分るでしょ? 女の感よ」
「はい。お慕いしてました」
「普通は密かに心を寄せている男が他の女性と結ばれると分ったらショックを受けるものよ」
「……」
麗子は黙っていた。
「結婚後あなたは異動で仕事場を移されたわね」
「はい」
「あれはわたしの意見を聞いて、総務部で取り計らったのよ。その時善雄が何と言ったか分りますか?」
「いいえ」
「異動させては困ると言ったのよ」
麗子は信じられなかった。
「それで、あたしが三年間待ちなさい。三年間が過ぎたら戻していいわよと言ったの。あたしの気持ちが分りますか?」
「……」
麗子は美鈴の次の言葉を待った。
「母親なら、息子が結婚してからも息子を慕っている女性と一緒に昼間ずっと仕事をしていれば、嫁の気持ちを察してどうにかしたいと思うものよ。それが普通の感覚だわね。わたしは結婚してから三年も過ぎれば戻しても大丈夫と思ったのよ。ですから、もしもあなたがお辞めになっていらっしゃらなかったら、善雄の秘書に戻っていた筈ですよ。女の気持ちをまったく理解しないバカ息子ですが、善雄はあなたの仕事の能力は良く理解していたようよ。それが証拠に、たまにあなたと比べて後任の秘書のことにぐちをこぼすことがあるのよ」
麗子は目の前が真っ暗になったような気がした。
「そうだったんですかぁ」
とようやく声を出すことができた。
「覆水盆に返らずと言いますよね。今となっては全てが狂ってしまって元へは戻せません。でもわたしはあなたに生き甲斐を見つけて幸せになって頂きたいの」
麗子は美鈴の話を聞いて、恨んで仕返しを考えた自分が愚かだったと反省した。
「それで、あなたさえ良かったら、浜田のあとを追ってアフリカに行ってみませんか? 浜田はどうしようもないダメ男ですが、現地では評判が良くて、貧しい人々のために毎日頑張っているそうよ。あなたに、また逢えることがあれば、その時は優しくしてあげなさいと言ってあります。当面の旅費や生活費はわたしが見てあげます。僅かですが、これを使って下さいな」
そう言って、美鈴は用意した分厚い封筒を出して麗子に渡した。
「良くお考えになって、やはりアフリカには行かないと決めたら、余った分はわたしに返して下さい。分りましたね」
「はい」
長い話が終わると美鈴は世間話を交えて楽しく寿司を食べさせてくれた。
午後の三時を過ぎていた。
「ご馳走様でした」
「頑張ってね。幸せになるのよ」
麗子は遠ざかる美鈴の後姿を見ている内に、目から涙がこぼれ落ちるのを感じていた。
八十九 アフリカへ
中嶋麗子は米村夫人に勧められたのがきっかけで、アフリカのザンビアについて書かれた本を買い求めて読み始めた。熱帯性気候で暑い所だと思ったが、首都のルサカは標高が約1200mもある高地で、夏の一月の平均気温が21℃、冬の七月の平均気温が16℃で住み易い所だと分った。読み進む内に、浜田を訪ねて行ってみたくなった。米村夫人が当面の旅費や生活費にと用立ててくれた金は三百万円もあった。麗子の今の年収よりもずっと多い。
「アフリカに行こう」
そう決心した麗子は、身の回りの物を全部処分して、アフリカに行って当面必要だと思われるものだけにした。僅かな家電製品も廃品回収業者に持って行ってもらった。手元の預金はたったの二十五万円と少ししかなかったが、米村夫人の援助を加えるとしばらくは十分生活していけると思った。それで、航空券を買うと成田を飛び立った。麗子は今までの色々なことを全て忘れて、新しい人生を歩んでみたいと思っていた。
浜田は成田からザンビアに飛んでルサカに着くとその足で銀行を三軒回った。空港の税関は浜田がジエイカのザンビア事務所の者だと言うと、荷物をノーチェックで通してくれたから、土産物の中に柏木にと買って来た梅干や海苔など日本の食料品や二人のメイドにと買ったアクセやアップルの16GBiPodなどがあった。他に一千万円の現金が入っていたがノーチェックで通してもらったので助かった。
浜田は三百万円ずつ三軒の銀行にドル建て預金をした。残った百万円はザンビアの通貨ザンビア・クワチャで普通預金にした。浜田が持ち込んだ金は一千万円、約十万ドルだ。ザンビアに対する日本の経済援助は年間約五千万ドルだから、ザンビアに於いては十万ドルはかなり価値があるのだ。
ザンビアを出て丁度九日目に浜田が自宅に戻ると、留守番をしてくれていたイライザとレイラは浜田が無事に帰ってきて、素的なお土産をいっぱい買って来てくれたので二人とも浜田に抱きついて、小躍りして喜んだ。夕方浜田はジエイカの事務所に出て、加藤に無事に戻ってきたと報告した。
「片は付けられたのか?」
「ああ。一生戻って来られない、危ないとこだったが、助かった」
「何か犯罪に絡んだことか」
「あまり話したくないことだが、結果的には犯罪に絡まなくて済んだよ」
「そうか。兎に角無事でこっちも助かるよ。明日からまた現場に出て頑張ってくれ」
家に戻るとイライザとレイラはご馳走を作って待っていてくれた。食事が終わってから、浜田はイライザを呼んだ。
「オレ、レイラと結婚を考えているんだ。レイラと結婚したら、あんたはここから出て行くか?」
イライザは悲しげな顔をして、
「シラ、あたしもお嫁さんにしてくれない」
と答えた。
「難しいんだよな。昔は奥さんを何人も持っても良かったらしいが、今は奥さんを一人しかもらえないようにザンビアの法律で決められているんだってな」
イライザは失恋したような、泣きそうな顔になった。
「困ったなぁ」
浜田は正直、二人とも可愛かったし手放したくなかった。それで、もうしばらくレイラとの結婚のことは棚上げにしておこうと思った。レイラは積極的で明るい性格だが、イライザはどちらかと言うとあまり感情を前に出さない所があった。それで浜田は気付かなかったが、どうやらイライザも自分を好きだったらしいことが分った。ザンビアではティーンネージャーで懐妊する女が多いそうだ。だから、二十歳過ぎの二人はいつ結婚してもおかしくない年齢に達していたからいつまでもほったらかしにはできず、浜田は困っていた。
翌日から、浜田は朝から夕方まで仕事に精をだした。浜田が留守中、思ったより工事は進んでいなかった。やはりリーダー次第で仕事の進みが違うようだ。
数日後、浜田が仕事を終わってジエイカの事務所に戻ると、そこに中嶋麗子が立っていた。浜田は驚いた。
九十 恋する気持ち
「浜田がアフリカへ向けて旅立ったことを手前どもの若い衆が確かめました。これは浜田に一千万を渡した残りです。お納め下さい」
「この度は娘の沙希のことでまたご心配をおかけして済みませんでした」
浜田が成田から飛び立って十日後、六本木のクラブ、ラ・フォセット社長柳川哲平は西新井の米村家を訪ねて、美鈴に報告がてら挨拶をした。
「あなたにはお手数をかけましたね。色々費用もかかりましたでしょうから、今後のことも含めて、この残りの現金はそちらに回しますので使って下さい」
美鈴の申し出に、
「ではお預かりします」
と柳川は受け取った。預かるとは言いようで、もちろん、米村家に返さなくても良い金だ。
「浜田に手を貸した中嶋は元は主人の会社の日本橋の方で善雄の秘書として使っていたのですよ。どうやら誤解がありましたようで、彼女は善雄を恨んでいたようですが、一週間ほど前に彼女に直接会いまして、お話しをしましたら誤解が解けたようです。一昨日、浜田を追ってザンビアに行く決心をなさったようで、こちらに別れの挨拶に来ましてよ」
「そうですか。それは良かった。私もその後彼女がどうなるのか心配をしていました。どうやらこれで一件落着しましたようですね」
柳川は現金を回してもらったことに改めて礼を言って帰って行った。沙希は希世彦のお迎えで外出中だった。
浜田がジエイカ、ザンビア事務所に戻ると中嶋麗子が訪ねて来て驚かされた。
「白石君、彼女は君の友人だってね。こんな美人の友達が居るなんて、やはり白石君は違うなぁ。今朝、君が出た後直ぐに訪ねて来たんだよ」
「麗子、よくここまで来れたな」
「浜田さんを追っかけてきました」
「おいおい、ここじゃ浜田の名前は絶対に口にしないでくれ。浜田はとっくに死んでこの世に居ないんだよ。オレはここじゃ白石、シラさんだから頼むよ」
麗子は訳有りには慣れていてすぐに浜田に口を合わせた。
「所で、住む所、まだ決まってないよなぁ」
「はい。まだです」
「じゃ、当分オレのとこに住めよ」
麗子は白石のバイクに一緒に跨って、白石の家に向かった。白石が若い女性を乗せて帰って来たので、レイラとイライザは唖然とした。
「オレの友達だ。日本から来た。ずっと一緒に暮らすから仲良くしてくれ」
白石が現地語をすらすら話すので、麗子は意外に思った。
レイラとイライザは白石が好きだ。そこに麗子が突然割り込んだので、二人とも恋人を取られはしないかと心配している様子だった。それで、
「レイコはオレのラバーじゃなくてフレンドだから安心しな」
と白石は二人をなだめた。
翌日、白石と麗子は一緒にジエイカの事務所に行った。
「加藤、彼女をここで使ってもらいたいが、枠はあるのか」
「丁度人手が足りなかった所だ。柏木女史の下で事務の仕事をしてもらおう」
「じゃ、決まりだな」
「本国に人員追加の手続きをしておくが、採用が決定するまでは正式職員じゃないが、職員のつもりで仕事をしてくれ」
それで改めて柏木に麗子を紹介した。
「今日は農地の現場を見てもらうつもりだ。仕事は明日から頼むよ」
白石こと浜田は事務所のジープに麗子を乗せて現地に向かった。
白石は麗子を農園や潅漑工事現場に案内して、現地人の作業者たちにも紹介した。皆が白石を、
「シラ、シラ」
と慕っている様子を見て麗子はまた驚いた。随分人気があるらしい。潅漑工事現場では、テキパキと指示を出し、自分も大型の建設機械を操る白石を見て頼もしい男だと改めて浜田を見直した。
麗子が白石の家に転がり込んできてから、直ぐに一週間が過ぎた。麗子は銃撃で殺されたキャシーが使っていた部屋を使うことになり、白石の家は女三人、賑やかになっていた。最初は警戒心を持っていたレイラとイライザもすっかり麗子と仲良くなっていた。
どうしても一緒に風呂に入ろうと誘われて、麗子はレイラたちと一緒に風呂に入った。麗子はタトーを見られたくなかったが仕方がない、彼女達に二匹の蜘蛛を見られてしまった。所が、レイラもイライザも素的だと言って、どこに行けば刺青をやってくれるのかと聞かれてしまった。それで麗子は今まで負い目に感じていたタトーを気にしなくてもよくなり、気持ち的に救われた。
困ったことに、麗子は男の愛撫を、白石は女の肌を求めていた。そんな男と女が同じ屋根の下で暮らしているのだ。夜白石が寝室に入ってテレビを見ているとノックがして、麗子が寝室に入って来た。ふたりは無言だったが、以心伝心だ。白石が麗子の手をそっと引き寄せ、麗子のウエストを引き寄せると、二人はディープキスをした。
「ここじゃまずい。明日は日曜日で休みだ。駅近くのホテルに行こう」
麗子は頷いて部屋を出て行った。
ザンビアは貧しい国だが、それは庶民のことで、駅周辺には繁華街もあり、欧米と同クラスの大きなホテルが沢山ある。主に海外からのビジネス客、観光客、国内の高級役人や富裕層が利用している。
日曜日、
「レイコに街を案内するから」
とレイラとイライザに留守番を頼んで二人は駅近くのプロテアホテル カイロ・ロードに入った。十階建てのビルの大きなホテルだ。ルームチャージが一万三千円で日本国内より安いが物価を考えると決して安くはない。一泊でメイドの一か月分の給料を越えている。
部屋に入ると、直ぐにシャワーを使った後ベッドに潜り込んで求め合った。浜田は奴隷から解放されて以来、女を抱くのは数年ぶりだ。麗子もしばらく男に愛されてなかった。だから二人は激しく求め合った。麗子の乳房の下と太もも付け根の内側に大きな蜘蛛のタトーがしてあったが、浜田は何も言わずに、その部分にも唇を這わせて愛撫してくれた。麗子は浜田の手馴れた愛撫の仕方に酔わされて、直ぐにエクスタシーに達した。ルームサービスで取った昼食を挟んで、二人は二度も燃え上がった。
「オレはエイズは白だ。この国では十人居れば一人は感染者だ。これから先、もし他の男に抱かれるなら十分に注意をすることだな。メイドのレイラとイライザは検査済みで二人とも白だ」
セックスが終わってから、浜田は麗子にザンビアで一番気を付けることだよと話した。
家に戻って、夜寝室に入ってから、麗子は浜田の愛撫の余韻がまだ自分の身体にただよっているように感じて、素的な一日を思い出していた。
麗子の中に、ほんの僅かだが、浜田を恋する気持ちが芽生えてきたようだった。
九十一 二重国籍
浜田はザンビアに骨を埋める覚悟をした。それで、もし現地人のレイラと結婚した時に、ザンビアの国籍を取得しても問題はないか、日本大使館に相談にでかけた。
たまたま応対に出てくれた大使館員は親切な男で、
「あなたのご相談に応じるのは大使館の任務に外れますが、ご参考にお話ししましょう」
と言って個人的な話だと前置きして相談に乗ってくれた。
「白石さん、ザンビアの法律ではこちらの女性とご結婚されてあなたが国籍を取得したいと役所に届け出ればザンビアの国籍が与えられます。具体的には婚姻届を出された時に、国籍をザンビアにして下さいと申請すればいいのです」
「そうですか。簡単なんですね」
「ですが、白石さんは日本の国籍を捨ててザンビア国民になられるつもりですよね」
「いや、自分としては日本の国籍もそのままにしておきたいんです」
「実は日本国籍法では二重国籍を認めてないんですよ。ですから、白石さんがザンビア国民としてザンビアの国籍を取得なさった時に、日本の国籍を失ってしまうんです」
「そうか、やっぱダメなんですか」
「はい。ダメです。日本は伝統的な血統主義の国でして、国籍法の改定が行われるまでは、父親が日本人の子供にしか国籍が与えられない父系血統主義が取られていたんです。それまでは、日本の女性がザンビアの男性と結婚されても、夫のザンビア人は日本の国籍を取れなかったのです。ご存知の通り、国際結婚が増えてきまして父系血統主義が問題になりました。そのために、一九八五年に国籍法が改定されましてね、父母両系血統主義に変りました。けれども、国籍はどちらかの国をご本人が選べるようになっていまして、二重国籍は認められていないのですよ」
浜田は日本とザンビアの両方の国籍が欲しかったのだが、ダメだと分かってがっかりした。
浜田は性に関しては欲張りだ。レイラと結婚してやろうと思い始めていたが、先日図らずも中嶋麗子とセックスをしてしまった結果、麗子の熟した肢体の感触が忘れられなくなった。レイラと結婚してしまえば、多分麗子は身体を許してくれなくなるだろう。だったら、イライザと三人とも恋人の関係を続けようか、そんな虫が良い気持ちが心の中で鎌首を持ち上げかかっていた。自分のものが麗子の中に入ると、麗子のその部分が実に心地良く馴染んで精液を搾り取るように纏わり付いて、浜田の脳みそを刺激した。
「今まで色々な女とやったことがあるが、麗子のようないいのに出逢ったことがなかったなぁ」
などと淫らなことを考えるようになった。そんな浜田だが、昼間仕事をしている時は別人のように仕事に熱中した。農作業や作物の加工作業をする現地の女性は多い。彼女達が並んで立ち仕事をしている後から見るお尻の形を見ていると、最初の間は下腹部がむらむらしたものだが、最近はそんな淫らな想像をしなくなっていた。
浜田達が沙希の長男の希世彦を拉致したことは美鈴に内緒にしておくように言われて、沙希は義父の善太郎にも夫の善雄にも報告をしなかった。ある日偶然希世彦が善雄に、
「この前怖いオジサンに連れて行かれたけど、美登里おばさんのとこのおじさんが助けてくれたんだ」
と話し始めた時は沙希は慌てた。そう言うことには感の鈍い善雄だったのが幸いして問い質されずに済んだ。
そんなことがあったなどとは夢にも思わない都筑庄平こと善雄は、一ヶ月か二ヶ月毎に仙台に出張する度にラ・ポワトリーヌのママの岩井加奈子の元に通っていた。都筑と加奈子の間に生まれた女の子の奈緒美は希世彦より三つ年下の可愛らしい女の子に育っていた。約一年半遅れて男子が誕生した。名前は加奈子が庄司にしたいと言い張って庄司に決まった。奈緒美は来年小学校一年生だ。
最近奈緒美は都筑にすっかり懐いて、都筑は帰る時いつも後ろ髪を引かれる思いがした。
東京の沙希との間に出来た女の子沙里は奈緒美の一つ年上のお姉ちゃんになる。
「人生とは悪戯なものだなぁ。自分はこんなことをしていてもいいのかなぁ?」
都筑は仙台から東京に向かう時、いつもそんな気持ちに悩まされていた。
加奈子とは奈緒美が出来た時一回と、庄司が出来た時二回、合わせて三回しか身体を重ねていなかった。加奈子の所に寄ると、たまには誘うような目で求められることはあったが、仕事と子育てに多忙でその後はなんとなくセックスレスの関係が続いていた。だが、都筑にも加奈子にも不満はなかった。加奈子は子供を二人も都筑からもらって、二人の子供たちの成長に希望と生き甲斐を感じている様子だった。
九十二 セフレ
浜田の名前は靖男だ。浜田は自分の名前が好きじゃなかったから、必要な時以外は名前を口にしなかった。ジエイカで仕事をすることになり、ジエイカの事務所でVISAではなく、Permitで入管管理局に滞在許可申請をやってくれた。Permitの中のEmploymentで許可を取ってあるので、滞在期間は二年毎に延長手続きをしていた。こんな手続きをする場合は日本国発行のパスポートが元になるから、当然の事浜田靖男で滞在許可を取ってあった。だが現地の人々との交流が増え、白石靖男は気に入らず、最近自分で付けた名前、つまり自称「ムジャビ・シラ(Mjavi_Shila)」と名乗ることにした。浜田自身、この名前を気に入っていた。仕事現場でも自宅でもシラと呼ばれているからいつの間にか自分でも浜田を口にすることが殆どなかった。
中嶋麗子はザンビアでも本名を使っていた。彼女もPermitの中のEmploymentで許可を取ってもらったが、浜田の場合と同様に日本の警察で発行された彼女自身の犯罪経歴証明書を取り寄せて添付した。浜田は日本に居る間、色々と悪をやったにも拘らず、不思議に警察沙汰になったことがなかったので、二人とも犯罪歴は無しだった。浜田はかって万引きをして警察に突き出されたことがあったが、兄が相手方と示談をして告訴を取り下げてもらったので前科者になるのを免れた。
麗子は相変らず浜田の家の居候になっていたが、レイラとイライザの手前、家の中では決していちゃつくような素振りは見せなかった。だが、浜田と麗子は月に一度程度の間隔で市街にあるホテルにしけこんで愛し合っていた。麗子は浜田の手馴れた粘っこい愛撫が好きで、抱かれる度に燃え上がった。
その日もホテルでたっぷり楽しんだ後で、
「麗子、オレはレイラを嫁さんにしてやろうと思っているんだ。そうしたら、もうこんな風に付き合ってくれねぇよなぁ?」
と浜田が切り出した。麗子は少し考えてから、
「結婚しなさいよ。ただ、結婚してからも今まで通りたまには付き合ってくれる?」
「麗子がいいってんなら、オレはその方がいいな。結婚してからもオレのとこに居るのか?」
「それはレイラ次第ね」
結局、浜田はレイラと婚約した。それで、レイラは奥方でイライザはメイドのまま、麗子はフレンドとして今まで通り三人の女が一緒に暮らし続けることで皆同意した。麗子は住居費がかからないこと、イライザはメイドの美味しいお仕事を失わずに済む。要は打算の産物だ。イライザは最初から住み込みでなくて通いだったから、夜は不在だ。
ザンビアでの結婚式は日本の教会での挙式と殆ど同じだ。違う所と言えば、結納金がメッチャ高い。しかも花嫁側から金額を言ってくるので、折り合いが付かなければ交渉することになるのだ。レイラの実家は裕福ではなかったから、結納金は日本円に換算すると約二十万円程度を要求したが、裕福な家庭なら百万円を越えることが珍しくないことが分った。それで、浜田は先方の要求通り満額を支払った。メイドの月給が一万円程度だから二十万でも相当な金額だ。
結婚式を控えて、浜田は軽自動車を買った。日本国内で売られているものと違って、ナビや窓の自動開閉装置などは付いていない。だから、値切って新車で六十万円程度で済んだ。
軽が届くと、通勤はいつも麗子と一緒に往復した。レイラもイライザもライセンスを持っていない。それで休日、麗子に教員をやってもらって、二人を特訓した。その甲斐あって、レイラもイライザも運転のライセンスを取得した。日本の運転免許取得と違って手続きと試験は簡単だ。要は交通ルールをそこそこ知っていて、車を動かす(操作する)能力があると認められればライセンスが取れるのだ。
全員ライセンスを取得した所で四人揃って軽に乗り、ルサカ郊外の国立公園にドライブに出かけた。ピクニックだ。レイラとイライザはこの計画に狂喜して、早朝から弁当を作った。
国立公園は治安が良くないらしい。それで、浜田は工事現場で働いている喧嘩の強そうな男を二人、少し金をやって一緒に来てもらった。彼等はバイクで軽の後をついてきた。
公園では六人で楽しく遊んだ。遊んでいる内に連れてきた二人の男はイライザを口説いて三人で林の中の方に散歩にでかけた。残ったレイラと麗子の相手をしてたわいのない話に盛り上がって、イライザ達のことを忘れていた。
「きゃ~っ、き~っ」
突然林の中から悲鳴が聞こえた。イライザの声だ。
九十三 戦い
ムジャビ・シラたちが出かけた国立公園はルサカから車で飛ばして三時間以上離れたカフエ国立公園だ。面積は広大で、日本の四国位はあるらしい。シマウマやアフリカ象、インパラなど野生の動物が棲息している所だから、シラは万一を考えて軽の座席の下に鉱山の監視兵から奪い取った米国製のカービン銃と弾丸十発を隠し持ってきた。
公園は殆ど欧米人が訪れる所で、地元の人間は用がなければ立ち入ることが少ないと言われており、観光で訪れる客には銃を持ったパトロール隊員が随行するような所だった。たまたま野生動物の密猟者に遭遇すると銃撃戦になることもあると言われる物騒な所だ。
イライザの悲鳴を聞いて、シラは車からカービンを取り出してレイラと麗子には、
「そのまま待ってろ」
と言い置いて、注意深く悲鳴が聞こえた方に向かって歩いた。
林の側まで行くと、イライザが悲壮な顔をして飛び出して来た。シラの姿を見ると、転がるように走ってきて林の方を指さした。イライザの半袖ワンピは袖が片方引き千切られていて、胸元がはだけていた。
「シラ、クシュラとワジィがやられてる」
シラは、
「分った。お前はレイラの所に戻ってろ」
そう言うとイライザが指した方に向かって走った。
前方に男が六人、連れてきたクシュラとワジィと対峙していた。彼等は手に短めの蛮刀を持っていた。クシュラとワジィは丸腰だ。二人とも棒切れを持って応戦している様子だった。シラは走った。だが、間に合わなかった。六人の男の一人が蛮刀を振りかざして、ワジィ目掛けて切り込んだ。ワジィは飛びのいて棒で蛮刀を受けたが、腕をやられたらしく、跪いて左の腕を押さえた。
「クソッ、間に合わねぇ」
シラは六人の男の方にカービンを一発ぶっ放した。
「パツーンッ!」
乾燥した銃声がこだまして、六人の男の手前で土煙が上がった。銃声を聞いた男たちとクシュラとワジィはシラの方を見た。シラはもう彼等の近くまで迫っていた。幸い六人の男たちは銃は持っていなかったようだ。シラがもう一発ぶっ放した。
「パツーンッ!」
今度はワジィに蛮刀で切り付けた男の脚に命中した。男はその場に倒れこんだ。残った五人はシラの形相を見て怯んだ。それで倒れた男を担ぎ上げると逃げ出した。
「大丈夫か?」
シラはワジィの傷口を見た。血が滴り落ちていたが傷は深くない様子だった。
クシュラとシラが庇うようにして、三人は急いで麗子たちの居る場所に戻った。三人の姿を見ると女達の歓声が上がった。
「何があったんだ?」
シラが聞いた。
「奴等は白人の観光客狙いの物盗りだ。林の陰に隠れてオレたちを見張っていたらしい。突然奴等が飛び出して来て、イライザを連れ去ってレイプしようとしたんだ。それでオレたちがイライザを奪い返そうとして戦いになった。二人か三人なら勝てたと思うが、奴等はナイフを持ってやがるし六人も居たから倒せなかった。シラに助けられなかったら殺されていたな」
「分った」
「イライザ、大丈夫か」
とイライザの方を見た。
「さっき傷の手当てをして身体を調べさせてもらったけど、彼女は大丈夫よ」
麗子はシラが日本から買って持ってきた救急箱から消毒液でワジィの傷口を消毒して化膿止めの軟膏を塗りながら答えた。クシュラはシラのカービンに触って、
「いい銃だなぁ」
と欲しそうな顔をしていた。
ワジィの傷口の手当てが済むと、四人は軽で、二人はバイクに乗ってルサカを目指して走った。ルサカに着くころには夕方になっていた。
「オレの家に寄って晩メシを食っていってくれ」
シラはクシュラとワジィを引き止めた。夕食は男女六人、楽しい食卓になった。イライザは自分を守って怪我をしたワジィに寄り添って何かと面倒を見た。ワジィは晩生らしく、そんなイライザを眩しそうに見ていた。
女でも男でも、自分の立場が変ると微妙に応対する態度が変るものだ。
シラを将来旦那様として迎える約束ができたレイラはキッチンで夕飯の仕度をしている時も、クシュラとワジィが帰る時も何かと取り仕切るようになった。麗子もイライザもシラとレイラが結婚することに同意していたから、レイラの態度を当然のこととして受け止めていたようだ。
だが、イライザがレイプされそうになり、かすり傷を負ったのを可哀想だと思ってシラがイライザに優しくすると、レイラがシラを目で牽制した。
「女のジェラシーかぁ。おお怖っ」
シラが日本語で呟くと、麗子が聞いて笑った。
「何が可笑しい」
「これから先、シラがレイラの可愛いお尻に敷かれて身動きできないようになるのを想像したのよ」
麗子も日本語で答えた。まだ日本語を十分に覚えていないレイラとイライザは麗子の笑いに吊られて、意味も分らずに笑ったのでシラは、
「女は怖いなぁ」
とまた呟いた。すかさず麗子が、
「今頃分ったの?」
と茶化した。
国立公園でハプニングがあって以来、潅漑工事の方が多忙で毎晩疲れて帰宅したのでしばらくはのんびりできなかった。レイラには
「オレたちの結婚式は工事が終わってからだ」
と言い渡してあったが、夜、麗子が寝静まってから、レイラはそっとシラの寝室に忍び込んできて、シラのベッドに潜り込んでくることが多くなった。
「あたし、結婚式まで待てないよ」
まだ二十歳過ぎ、二十代前半のシラの娘みたいな年頃のピチピチした肢体を押し付けられて、シラは参った。昼間重労働を目一杯やって帰ってくるので、セックスよりも睡眠の方が欲しかったのだ。
負けないでっ 【第二巻】