妄想の犬

 カラフルな歩道橋が三十橋、ずらっと縦に並んでいた。
 ふふっ、そんな光景広がってたら怖いよ。
 パッとしない、平凡でありきたりでどこにもありそうな歩道橋。やたら多くの種類がある割には味の区別がつかない缶コーヒーのような歩道橋。
 無味無糖な手すりにもたれながら、アイデアが落ちる。
 うーん、そうね。手すりの両端に飾りをつけるだけでも個性は出せると思うの。
 でも、誰もおてもやんや般若を設置しようとしない。百歩譲って土佐犬や秋田犬でもいい。地元の小学生にデザインの公募でもして、その結果、何だかよくわからないオブジェだらけになってもいいじゃない。そう、カワイイ猫ちゃんが口から虹を吐いてたり、黒い卵が入れ子細工というか、マトリショーカのようになっていて、いくつものある卵をパカパカ開けていくと、酔っ払いのゲロのようなモンスターがむしょうに殴りたくなる笑顔を浮かべてたりするみたいな、奇怪な、キモカワイイオブジェができても、私は、あははっ、おもろって思うな。
 しょうもない妄想をしながら、時々通りかかる人や橋の下の女子高生を見つめる。
 よくありがちな人間観察じゃない。もっとこう、ひねくれた見方みたいな? 外見と全く違う、ギャップを想像するみたいな? いや、やっぱり違った。他人を見ていると私は妄想が止まらなくなって、その人になりきってしまうのよ。
 よろめく影が視界に入り、何なのか気になって見上げた。
 禿げ上がった頭、埃まみれの照明の目、錆びたギターの弦の色みたいなスーツ。まだおやつの時間にもならないのに、くたくたしたサラリーマンを見て、彼の勝手口に入っていく。正面にある疲れたサラリーマンというイメージじゃなくて、勝手口的な、意外な一面を妄想するのね。ロマンチストで、どこかズレているところがある男かな。

 僕は湯由ペピーノ。仕事より幻想に溺れてしまう。甘美な海に君と浮かんでいたい。一さじの塩よりも、恋の雪砂糖を散らす。君のことばかり考えていたら、間違えてコーヒーに塩を入れてしまったな。庭に咲いていたこけしと落ちていたひまわりをヒントにして詩を書いた。君の心がくじけて、いじけて、ねじけて、おどける余裕もないとき、この詩を読んで元気を出してくれたらと思う。

 壊れた風鈴を持って
 うつむいてた君
 からからのノドとがらがらの風鈴
 チョコレートの溶ける庭に出てごらん
 ひまわりが笑っている
 ひまわりの顔からこけしが社交辞令している

 書いている途中で、僕が君をビックリさせようと、公園の芝生に入浴剤を撒いて、紫と白に染まった芝生を見て、最初は笑ってた君がきれいねって言ったの、思い出した。その後食べたぶどうヨーグルトのアイスが芝生そっくりで。あれぐらい妖しい感じの芝生だったら、踊り子のようなシスターのようなメデューサが出てきてもおかしくないね。
 もしこの詩が君に喜んでもらえなかったら、岩塩で顔をこするよ。案外、すべすべになるかもね。

 ふぅー、手元に岩塩があったら、すりつけてみようかな。むしろ、通りすがりの人に岩塩マッサージを施そうとしたらどう反応されるだろう。子供だったらきゃっきゃ言ってはしゃぐかも。でもでも、やっぱり顔に岩塩をすりこまれるのはざりざりして痛いだろうし、トラウマがすりこまれて、大人になってエステした時、「ちょっと申し訳ないんですけど、顔のマッサージとか怖いんで、足とか腕辺り多めでお願いします」なんて言い出して、妙な空気にする子に育ったら、私がどうしよう。
 おじいさんだったら、おほほ悶えながら歓喜するかもしれない。逆上してステッキ振り回されるかもしれないが。
 マゾな男性ならば、まぁ、これは簡単に事を運べそうな気もするが、美人局とかに勘違いされ、警戒されちゃう可能性が大かな。
 女同士、はーい、そこのマダムって話しかけて、お願いです、バイトで肉に塩をすりこむためにお前は岩塩マッサージで腕を磨け、なんて言われたもので。私は律儀に説明するけど、おばさんは自分の顔を肉に例えられたと誤解してかんかんに怒る。
 だから、嘘でもマッサージの練習をしていて、無料でしますと言えばいいのだけど、ありきたりすぎない? ひねりたいよね。ね?
 趣味で粘土でリスとかモモンガ作ったりするんですけど、上手くこねられないので、こねさせて。あなたの顔を。ああ、これじゃ相手の女性がヤンママだった場合、「なめてるのかしら? いい子ね、たっぷりいたぶってあ・げ・る」といった内容の言葉を、もっと野蛮に暴力的な口調で言いながら、カバンからメリケンサックやらメリケン粉やらを出して、まず、メリケン粉を私の顔面に吹っかけ、一時的に視力を奪い、メリケンサックでガツガツ殴ってくるかというと、そうではなく、ピタッと鉄の拳を私の頬に当てて、「どーう? 冷たいざんすか?」と鉄の拳でぺちぺち叩きながら聞く。私はまともに答えないで、「何で、天ぷら粉じゃないの!」と意味不明なキレ方をしてみせる。おちょくられて、むかついたヤンママは「静粛にしたまえ」と言いながら、私の口にありったけのメリケン粉を詰め込む。ぶほ、ぐほほ。と、レディらしくない不様な声を発し、目を見開き、金魚の口になっている変顔な私。しかし、さすがにやりすぎたと思ったヤンママは「しばし待て」と言うや否や、猛ダッシュでお茶を買ってきて、私に飲ませる。
 ドジッ子なヤンママであれば、うっかり熱いお茶を私の口に注ぎ込み、ピクンピクン悶える姿を見て、「誠にごめん」と謝るだろう。
 おばあちゃん子、祖母に懐いていたタイプだった場合、「あらあら、熱かったかい? 今度からは気をつけるからね。かりんとう切らしちゃった」みたいなことを言うだろう。
 ヤンママはメリケンサックで脅し、メリケン粉でゲホゲホにさせたことを詫び、私は「大丈夫。もう、顔をあげてよ。おいしいイワシの居酒屋知ってるんだけど、行こう」とか言って、仲直りしてテキトーに街をブラブラ歩いて、甘ったるいバニラのアロマキャンドルを買って、ギラギラした服とか靴とか買うのを横目に見て、カフェでパフェでも食べながら世間話をして、イワシ食って、ばんばん仲良くなる。
 ある日、ヤンママに呼び出され、根性焼きでもされるのかやられるのか、ビクビクしながら会いに行くと「うちな、三日後にレコードになっちゃうんよ。しかも二度と元に戻れないかもしれない。ねぇ、何か物になったことある?」って言うのよ。ないわよ。そんな経験あらへんよ。あらへんちゅうに。
 三日後、本当にレコードになっちゃって、話しかけてもうんともすんとも言わない。仕方なく、レコードを再生するとテクノが流れる。B面はハウス。逆再生するとなぜか彼女の声がしっかりと流れ、アッパーな嬉々とした彼女の声。
「音がまとわりついてサイコー。ここでは音楽がお湯になっている。音楽がジャグジーバスになっていて、いつまで浸かっていても辛くない」
「よくわからないけど、よかったわね」
 そう言っても無反応。くどくど喋り続け、聞き流していると「みるずばむ」と謎の一言を残して、レコードの音が止んだ。すうすう針が溝を渡りきって、あてもなくふらふらしている。
 飽きたので、放置。
 子供の描いた落書きのようなぬいぐるみの陰から、ヤンママの赤ちゃんがにゅっと出てきて、レコードの上に手を置くと叩き始めた。真っ二つレコード。うわあ、ヤバイなと思いつつ、ぼうっとレコードを見ていると、周囲にオレンジのシャワーが降るじゃない。降り終えてヤンママが羽衣着て出てくるじゃない。でも、うふうふ笑いながら、しつこく足払いをかけてきて、私は何度も床に転がる。苦痛に悶えながら。

 妄想をやめ、空を見上げたらお月様。星の小僧はいねえぜ。
 ブラックチョコレートに生クリームを散りばめた街を歩いて、どこにでもある私のアパートを探す。
 ブラックチョコどころか竹炭をかじるような人生だけど、めげない。
 電話帳に載っている職業ほとんどを経験した。しっかし、安売りされている菓子パンの賞味期限より早くクビになってしまうのだった。くすん。
 仕事をするのが苦手で大嫌いで、そんな思念が仕事上に出てきてしまうのか。ドジを踏み、何十回もミスをする。たいてい、何十回行く前に数回のミスで私は自由契約。自由を契約するから、そう呼ぶのかな。十四分二十一秒と今までで最速の失職記録を打ち立てた日、歩道橋の上に立ち、さっそく閉所恐怖症のエレベータガール、先端恐怖症のコック、活字恐怖症のフリーライターになった。
 活字恐怖症というのは、昔耳なし芳一を読んだ人が、全身に字を書き込んだ男の姿を想像して、そのどこか威圧的な雰囲気がホラーに結びついてしまった感じ。
 本来は怨霊から身を守ってくれる代物なのに、頭の中にでたらめな漢字が無数に浮かび、びっしりと視界を埋め尽くされる、指でなぞった漢字の意味が現実に起きるなどの錯覚に悩まされる状況をイメージした。
 アパートに着き、私はパッとしない木製のドアを開けて、中に入る。
 部屋の様子を眺め、あちゃああと嘆いた。
 一ヶ月に一度、ガラッと家具が変わるの。
 半年前から始まり、昭和のレトロ風、メルヘン風、ヒッピー風、と三ヶ月続いて、やる気を無くしたのか、それとも意表を突こうとしたのか、四ヶ月目の部屋はトランポリンと大量の変なシールのみで、頭がウニで胴体は普通にヒューマン、海坊主ならぬウニ坊主が瓜を地面に投げて割ってるパンクなシール。イミフなシール。こっちも意地になって、トランポリンをベッド代わりにして、そんでウニ坊主シールの使い道を半日くらい悩んで、心の中で膨らみきったひらめきの餅がポポーンと破裂したよ。
 時々利用する漫画喫茶に出向き、ウィキペディアでウニの項目のページを開き、画像を拝借して、慣れないワードのソフトに悪戦苦闘しながら、ふざけたチラシを作った。
「我が家のムードメーカー、栗繰モゲフゲが神無月の上旬か下旬辺りに帽子職人になるという内容をわざわざ戯曲形式で伝え、雲隠れしてしまったのです。奇妙な特技を持ったウニで醤油を使って、ころころ紙の上を転がり、字を書けるという能力があるのです。オトメガゼという種類のウニなんですけど、オネエ言葉を喋るかは知りません。モゲフゲの声は中性的だったし。っていうか、ウニならこの際何でもいいです。捕まえてくれた人が多数に渡る場合、抽選で四・五人に粗品(一枚だけ残ったポケティッシュ)をプレゼントさせていただきます」
 行方不明のペットを探すチラシを装っているようで、ただウニをねだっている奇怪文をプラチナが炸裂する高級住宅街の豪邸に百枚分配布した。白昼堂々と郵便受けに入れるのではなく、夜にそろそろとね。私はシールのウニを見ているうちに、ウニが欲しくなってしまった。チラシの問い合わせ先は右隣の空室にしておいたし、どうなの? そこんとこ。 数日後に空室のドアの周りをウニが数珠繋ぎになって、ぶら下げてあるのを発見した。ええっ、どうして!? 嬉しい、超興奮! うにょるにょる、なんて言いながら家に戻り、トングを持ってきた私はウニる。で、ウニるというのは僥倖とか至幸とか、テンションが上昇しまくって、その度合いをメーターで表すとして、もう振り切れちゃうくらい嬉しいとき使う言葉にしたいな。結婚式に乱入してホントウニってる、最高に幸福煮えてる。永遠にウニるように祈ってるからと祝福の言葉を述べれば、そのうちウニるが流行って、新語大賞取れちゃうかも。
 よーし、どんどん、ウニる。
 内心大はしゃぎしながら、トングで至幸を掴み、超興奮しているせいか、つるつる滑って掴めず、何とかくるっと一回転させ、黄金のソレを見ようとして、いやああぁっと私は叫んだ。大金が入った小切手を渡され、ぬか喜びして銀行へ持っていったら、偽造小切手だったみたいな悲しさ。ウニ自体は本物なのだけど、中身がナッシング。根こそぎくり貫かれて、味気ない空洞を見せるばかりの殻を虚しく見つめていた。
 ほうほう、ウニが欲しいか。ははは、小賢しいわ。誰か知らんけど、食べきった殻でもこれ見よがしに送ってやれ。わしはサドだから、このたわけたチラシの送り主が女の子だったとして、あぎゃー、とカニカマ噛みしめて悔しがる姿が今から浮かんできてしまって、ふふっ、愉快だなあと金の女神像の人形でも撫でながら、富豪のおっさんが嫌がらせを仕掛けてきたのかもしれない。いや、絶対そう。
 すっかり落ち込み、うなだれた私は部屋に戻った。まともな家具がなさすぎて、この月は一番不便だった。だから余計にやけっぱちな気分になった。ぽんぽん跳ねつつ、ずんずん沈み込んでしまったよ。
 ウニに気を取られすぎてたね。五ヶ月目はおでん風だった。コンニャクのベッドシーツ、ちくわの抱き枕、昆布の掛け布団といった具合に。
 たぶん、市販はされていないから、手作りで作ったのだろう。でも、ちくわの抱き枕を作りながら情けない気分にならなかったのか? うわ、焦げ具合まで上手く再現してる。あーあ、可愛いなちくわちゃんって感じに私が感心すると思ってたのかな?
 普通にださい。熱く煮えたぎった大根にカラシでもつけて、顔に当ててやりたいが、誰だかわからないし。
 そして六ヶ月目、今月のコンセプトは無国籍って感じで、極彩色のサイケな刺繍布や一枚の長い布を巻いて着る民族服、右隅に猫が描かれたステンドグラス、アルマジロなのかフェレットなのか判然としない陶器の置物、南国の原住民がかぶってそうなお面。それらのカオスな物が今の私の部屋を作っていた。
 どっかのバカによって、いっさいがっさい部屋をいじられる前はもっさい部屋だった。ゴミとして捨てられる寸前のオフィスチェアとそこかしこに竹とおかめが描かれたジジ臭い布団と錆びたハーモニカしか無かった。寂しい部屋だった。けれど、私にはそれで充分なの。ふふっ、欲しいものなんて妄想で作り出せるから。
 最初、おバカさんに部屋の模様替えをやられた時はポリスマンに相談しに行くことを考えたけど、きっと彼らは数十年前の童話絵本を読み始めたり、ハンカチ落としに誘おうとしたりしてまともに応対してくれないだろう。どこの誰がそんな悪ふざけをするのか、理由も原因も推測して答えられない私を見くびって。
 しかし、私は感謝してるんだ。退屈でしかなかった家の中を面白おかしく変えてくれたから、本当に。大馬鹿さん、ありがと。うん、だから今日まで何も抵抗しなかったもの。っつか、ぴったり一ヶ月ごとに変わってくんだから、その日は歩道橋に行かないで部屋にこもっていれば、正体は掴めるのかもしれない。でも、でもでもね、そうしちゃうことでワンダフルな遊びが二度となくなるのなんて、嫌だしー。
 はああああっ、もうっ。戸棚に眠っている自作のコミックソングのデモテープや、「地味な一日一日が集まって、美しいビーズになる」「不幸の石を削って、ちぐはぐに詰まった幸福を少しずつ掘り出せ」なんてキザったい詩、三年前くらいにアングラ劇団にいた頃八百屋に迷い込んだエルフの役を演じた劇を録画したビデオ、狐がたぬきうどんを作っていて、揚げ玉を盛り付けている光景を描いた紙版画、山の芝生を刈って作った歪な水玉模様。そう、水玉模様の芝生というプチランドアート。
 これらの黒歴史を部屋いじりの達人に見られるのは、例えるなら原宿を子供用のパジャマ着てふらつくくらいに恥ずかしい。
 で、私はどれもこれも三ヶ月ごとにトライしては諦め、自分の打ち込める芸術というか夢というか趣味はなくなってきて、ネタ切れだなあってところで、妄想道を開いたのよ。駆け出しの妄想人だった頃、何でなのか、歩道橋以外の場所では面白い妄想は特に浮かばなくて、デパートの屋上や展望台に行ってもダメだった。
 初めのうちは好きな食べ物や触り心地をイメージしたりしていた。あの人はマシュマロが好きで、ふわふわした物をつつく癖がある。こいつは堅パンをよく食べて、ガリガリした物を両手で挟みたいと常日頃思っている。そんな感じに妄想した。
 年齢によって、趣味や好きな音楽が変わるのなら、内なる世界でざわめく妄想も変わってくし、実際変わっていってる。子供の頃は、苦手な授業を受けている時や帰り道を歩いている時に何も光景が浮かばなかった。妄想道は工事中だった。だから、これからが楽しみだね。
 日によって、頭の中で展開されるイメージは劇画チックだったり、アニメだったり、B級映画ぽかったり、ぼんやりした絵本のようだったりした。
 どれくらい、この世にいる人間を妄想できるか、わくわくしている。私は最強の妄ガール。

 困昏チキという、手先の器用なギャルがいて、雷門やモアイやマンドレイクのペーパークラフトを作る特技を持っていた。
 しかし、彼女の母、フメ代はバルーンアートを勧めたがり、母の誘いにチキはいつまでも言葉を濁して、遠回しに避け続けてきたのだが、集中できなくなっていった。ハンバーガー屋のバイトから疲れて帰ってきたある日、チキは床に落ちていた犬伯爵を踏んで割ってしまう。母が三週間かけて苦労して作った力作ということを知っていただけに、チキはタヒるーって言って、思い悩んだ。タヒるとは絶望した時に若者が使う言葉である。
 ナイーブな気分になって眠れないチキはリコーダーを引っ張り出し、暗いメロディを思うさま吹いて、十分くらい即興演奏しているうちにうとうとしてきたので眠った。
 翌朝、娘を起こしにきたフメ代は、ベッドの右隅に置かれている犬伯爵を見つけ、フメ代の頭に犬伯爵か犬中納言のどっちにするか迷いながら作業した思い出が駆け巡り、号泣した。母の泣き声に目を覚ましたチキはごめんね、マザーって謝った。フメ代はトライアングルを鳴らしなさいと言うと、自室に楽器を取りに行った。チキは疑問に思いながら、数分後に戻ってきた母からトライアングルをもらい、チーンと鳴らした。何度か鳴らすと、フメ代が「四角だった気持ちが三角になった。いきなり丸くすることはできないけどね」と言った。彼女としては怒りを四角形に例え、三角形に変わり、ひとまず少しは怒りが治まったよと伝えたのだけど、チキにはフメ代の言葉の意味が全くわからなかった。まあ、でも、とりあえず許してくれてるっぽいと思ったチキはなんとなく母を抱きしめるのだった。
 トライアングルを指にぶらさげ、駆け足で歩くチョコレート色の顔の女子高生を見て、私は右のようなストーリーを広げた。その人になりきろうとする自分を抑え、今日は客観的に妄想したい。
 歩道橋の地面には潰れた桃やビビッドな色調のチラシの欠片が散らばっている。
 向うから歩いてくる美男美女なカップル、男の方が女にプラリネを食べさせていて、私には恋人、フランス語で言うモナムールがいないわって引け目を感じ過ぎて、カップルから逃げるように街をプラプラして、リネンのハンカチでも買いたくなっちゃう。そんで、そのハンカチを小川に架けられた橋の上から落として、ひゅらひゅら飛んで、水面に落ちるのを眺め、アンニュイな気分に浸ったりするんだろうな。
 ほっほろほーん。フルートの音が私の中で鳴った。双眼鏡が漫画のフキダシっぽく頭に浮かんで、そこに次のひらめきの光景が写っていた。

 ピンク色の空に、白と紫のチェック柄の雲が広がっていた。
 大地の上に階段があり、その上にはハートの形をした黄色い木製の板が一キロほど続いていて、板には水晶が埋め込まれ、水のように輝いていた。
 そして、そのハートの上を例のカップルが歩いていた。女は火津杖里という名前で、男からは杖っりょと呼ばれ、高校時代はツェーリーニョとあだ名されていた。男はピン崎フォウ太といい、彼女からはピンちゃん、そして彼の学生時代のあだ名はメガネ下民と嘲られていた。由来はメガネをかけていて、勉強もスポーツも不得意だったからだ。
 カップルはお互いに障害を持っていて、相手の職業が自分の持つ障害で遮られた感覚を特に必要とするものだった。杖里はアロマセラピストで触覚障害を持ち、男装趣味があった。フォウ太はマッサージ師で嗅覚障害を持ち、女装趣味にバリバリハマっていた。だから、杖里がとびっきりのライムの精油でアロマしても、フォウ太には爽やかな香りは伝わらず、反対にフォウ太が疲れた杖里の体をマッサージしても、その優しさは確かな触覚として届かなかった。
 だけれど、二人は二人でいることに満足していた。
 杖里はきらきら輝く水晶に見惚れつつ、フォウ太の手に自分の指を絡ませるようにして握った。繋がる手と手。ゆったり回る世界。
 左側に水色の玉が、右側に橙色の玉がぽつぽつと並んでいた。玉の中身について、ある人は砂糖が入っているとへらへら笑いながら言い、ある人は爆薬が入っているとおっかなびっくりした様子で言っていたのを杖里は思い出した。フォウ太は玉の中につまらない水が入っているとしか思っていなかった。二人はあの玉、何なんだろうと思いつつも、その疑問を言葉にはしないで、下りの階段までたどり着いた。
 草原が広がっていて、目の前に白い池があった。近づいて覗き込むと池ではなく、ヨーグルトアイスのように凍っていた。池の中央にキラリと光る何かがあり、銀貨かな? 気になるねーと思った杖里はさりげなさを意識しすぎて逆に不自然な口調で、「ピンちゃん、あれ何だろう?」とフォウ太に尋ねた。「ふぉうん、そうだねー、気になるねー」と答えた後に、「ちょっと取ってくるから、じゃあ」と言うとフォウ太はヨーグルト池の上を一歩一歩進んだ。大胆な歩調で。
 そして、キラリを拾い上げたフォウ太が「スプーンだよ」と言うと、銀貨かもしくは指輪あたりかな、得するものがいいなと期待していた杖里は内心、ちっ、スプーンかよ。空高く投げ飛ばしてしまえ、と毒づきつつも、平静を装い、プリティな笑顔を作りながら、「ありがとう。気をつけて戻ってきな」とフォウ太をねぎらった。ハイヒールをカツカツ鳴らして戻ってこようとするフォウ太に災難が襲った。といっても、ピキピキと凍った池が割れた訳ではなく、すっ転んだだけだが。
「ああっ、痛い痛いー」と腰の激痛によろめきながらも、杖里の元まで戻ってこようと這う姿は無様さと滑稽さを感じさせたが、杖里はそんなフォウ太の姿を見てカワイイと思った。できれば、頭を撫で撫でして、自分より弾力があり、しっとりしたフォウ太の頬に手を這わせたい。そんなことを考えながら、杖里は待った。二分かけ、人類の進化表のアレみたいに、徐々に立ち上がりながら戻ってきたフォウ太は杖里に言った。
「何でこの池白いのかな」
「さあ。あんた、そのスプーンで掬って食べてみなさいよ」
「まあいいけど。サディスティックだな、杖っりょは」
 フォウ太はしゃがみ込んで、白いアイスを掬い食べた。途端にビクンビクン震え始めたフォウ太に、杖里は「大丈夫?」と心配そうに声をかけた。ガクガク震えながら、「ピキーンと来ちゃってさあ。うん、バニラな味でおいしかった。これはいい」とフォウ太は杖里にスプーンを差し出すので、これを受け取り、バニラ池を掬い、しゃくしゃく食べた。同じように杖里も震えながら、感想を言った。
「なかなかおいしいな」
「甘く優しいバニラの香りが芳醇バーストだよね」
「甘ったるすぎない感じ、優美セレナーデよ」
 かわりばんこにアイスを食べながら、二人は笑いあった。お茶が飲みたくて仕方がなかった。上質の抹茶でも粗茶でも構わなかった。

 そこで妄想が途切れた。お腹が空いてきたな、ゼリーやソーダを味わいたい。空に浮くような、爽快で壮快に弾けられるスイーツなら大満足ね。
 歩道橋を降りて、くねくねの道をだらだらの足で進んでいく。しばらく進むうちに目に入ってきたムルチコローレ横丁と書かれた看板。染料を売る店、画材店、色とりどりの小箱や可愛らしい少女の人形を売る店、これまたカラフルなウイッグを売る店などがあって、私は人形の店とカツラの店に立ち寄り、若葉色の髪を長く垂らし、きゅるるんとした瞳がキレーな人形とクリーム色の小箱を買って、ミルク色のふんわりしたボブのウイッグも手に入れ、その場でかぶった。人の良さそうなウイッグ屋のおばさんはにこやかに微笑みかけ、私は照れながら店を出た。
 で、小箱に人形を入れようとしたのだけど、膝辺りまでしか入らないし、じゃあこの箱何に使うの? 人形を入れるのではなく、自作のハッピか市販のドレスかなんかに着せ替えする際、使わない服をしまうとか? いっそ小箱の中に、食紅で紫に染めた砂を敷き詰めて、黄色の花びらをぽつりぽつり散りばめるなんてロマンチックな飾りつけを施してあげようかと思ったけど、うーん、めんどくさい。
 いくら歩いても、お菓子、デザート、スイーツを置いてありそうな店はなく、どこもかしこもカラフルで少女的なものばかりだ。
 横丁を通過し、古びたビルと本屋の間にある細い道を歩いていくと奇妙な路地裏が現れた。ビルの壁の下半分が水色と橙色に染まっている。路地裏らしくない派手な路地裏で、銀紙で包まれたゴミ箱はギラギラしているし、砕けたクレヨンが道路に滲んできれいだ。建物と建物の間隔が広いせいか、日がさして、路地裏と聞いてパッと浮かぶ影でびっしり隠された光景のイメージとは違った。真逆だった。
 丸い影が地面に写り、ほわわんと揺れてるけど、風船かな? と思って、真上を見上げると、白くて軽い何かが肩に乗っかってきて、鳥かな? 子猫かな? と、それが虫だとは考えないように、なるべく前向きな目で白いヤツを見た。不思議なミラクルな生き物だった。紙のようにひらべったく、全身が毛で覆われたぺらぺらでふわふわなそいつは体を私の顔にすりつけてくるから、くすぐったくてたまらない。ちょっと引き離して、頭をなでながらそいつの顔を見る。点のような目と逆三角形の口が漫画チック。まんまるな体に手と足は生えてなくって、ボールみたいだった。本当にこの生き物は、というか生命体は何者なんだろう。厚み・奥行きが全く無い。
 でも、その癖、ヤツは甲高い声で明るいメロディをハミングする。じっと耳を澄ましていると、「アアアー」と伸びやかなコーラスまでする。歌が終わる頃、ふっと手から離れ、あっ、と思う間もなく、半分澄んで半分濁った空に舞い上がっていった。手紙を何枚も貼り合わせて拵えた箱に入れて飼ったらどうだろうかとひらめいた矢先のことだった。
 自宅に帰ってきた。結局、おやつを食べずに。ハーモニカで変なメロディを吹いたりする癖も、今はどこかのアンポンタンのせいでハーモニカ自体どっかに行ってしまったし。全くもー。
 テーブルや机は無いけど気にしない。床に人形を、フルメリと名付けたこの娘を置いて、ウイッグも取っ払って、小箱に入るくらいの貝を探しに出かけることにした。海へと。
 一面を覆い尽くす黒い鏡に、照明が反射して、夜の虹。私は海じゃない、町外れにあるゆんゆる塔に来ていた。うん、海に行くって言っときながら、よくわかんない塔に行くような女です。あまのじゃくなのよ。
 今、椅子に座って、ゲームに参加している。
 足元にスイッチがある。これを一番多く押した者には珍しいテラコッタとパンナコッタをくれるという。しかし、スイッチを押すのは私じゃないのよ。近くにいる人間の体温を感知して、ひょこひょこ近づく虎のロボットがいて、ランダムに予測不能な方向に動き回ってテキトーに誰かのスイッチを踏むのね。つまりは運の勝負になる。
 左の鏡に赤い星が、右の鏡に桃色の林檎が眩く写っている。虎は私の元に二度来たけれど、左隣の主婦は五回来て、右隣の猫の帽子をかぶった少女には三回来てるし、今のところ勝算は微妙だけど、まあいいか。暇つぶしにやっているゲームなのだし。
 そういえばテラコッタというのはどんな物なのだろう。パンナコッタがぷるんと柔らかい牛乳のデザートなら、テラコッタはそれをパイ生地に包み、固めに焼き上げた新食感のデザートなのかな。
 のんきにそんなことを考えていると、虎が主婦の足元できゃあきゃあ鳴いている。スイッチを踏んだ時、合図のように鳴くのだけど、がおーっではなく、きゃあきゃあ甲高く鳴くのはおかしいぞ。おかしくないか? はしゃぎすぎだと思うな、私は。そんなに嬉しいか。もう祝電打ちなさいよ。お手玉上げなさいよ。たかがスイッチ押しただけではしゃいでいたら、物凄くテンションが上がった時、あんたどうリアクションするん? 虎ちゃんったら、能天気やわー。
 残りの制限時間は一分五十二秒。主婦は十一回で、少女は十二回で、私は五回。負けても、気にしない。賞品もらえなくても、気にしない。第一、その賞品を見せてもらってない。
 私は負けた。ゲームに、そしてテラコッタに。
 賞品を受け取る少女を注意深く見ると、両手に抱えた陶器のカタツムリの置物、あれがテラコッタなんだろうなと思った。とにかく私は充分ゲームに凝ったから、もういいでしょう。肩が凝った。
 それから私は激安の公衆浴場へ向かった。何度か通りかかった時、その公衆浴場の看板に「なんと300円!」と書かれているのを見て、ほーう、安いなと感心し、いつか入りたいなと思いつつ、今日まで先延ばしにしてきた。でも、どうしても気になって気になって仕方がないわ、ってそこまで私の興味を惹いた原因は営業時間を記した箇所の下に「吹き矢」と、公衆浴場に結びつきにくい、場違いな言葉が載っていて、もうはじける好奇心。 しかし、私は気後れしてたのかもしれない。三百円の安さに軽々しく乗って、どこか落とし穴があるかもしれないと。たとえば、風船が並んでいて、割った本数の分だけ入浴できるのだけど、三個だったら三分しか入浴できないとか。または、背中に的をくくりつけ、番頭が鋭い針の吹き矢で何度も吹き、恐怖心に打ち勝てたら、豪華な風呂に入ることができるなどといった、しち面倒臭いセコいルールがあるかもしれない。
 くだらない推測をしながら、てくてく歩いて、たどり着いた風呂屋。緑とオレンジのコンビニ風の看板に「ぽねのじゅ」と奇妙な店名が赤色で描かれている。紫と緑の毒々しいのれんを前に、ガチで吹き矢の的にされるかもしれないと正直に臆した私は後ずさりしかけたが、ふっきふきのふきのとうという言葉が浮かんで、楽天的なムードをいくらか取り戻した私はのれんをくぐった。様々な色のリノリウムの床がつぎはぎに貼られていた。右側には牛柄のソファー。でも、下足箱、靴置き棚がないのよね。どうなってるのかしら。床の配色もどうなってるのかしらと見てみる。三十色はあるのか、とにかく色が多すぎて目が疲れる。妙なのは青色の床にナスがラディシュをおんぶしている落書きが書かれていて、それを誰が書いたのか気になった。野菜が野菜を育てているのがなんともシュールだ。それに、なんでこの組み合わせなんだろう? 廊下を渡り、大きな部屋に入ると、モジャモジャな髪の女性が紫に黒い花が描かれた木製の椅子に座っていた。後ろ髪は植物のツルのように渦巻いて、てっぺんに鶴の髪どめが刺さっている。ぐるぐるした髪にトドメは鶴で、略して鶴ぐる。後ろを向いていて、私には気付かない。あの……と声をかけると、鶴ぐるはビクッと驚き、こちらを向くとうすら笑いを浮かべて言った。
「たまげたわ。あなた、風呂に入りたいの? あなた高校時代弓道部だったでしょ」
「えっ、なぜに弓道部? 罠解き部っていうのに入ってたの」
「何の部なの」
「罠かけ部がね、校内に色々と罠を仕掛けるのさ。凶悪な鬼の人形の背中にモバイルレコーダーを貼り付けてピン芸人のコントを再生したり、昼食の時間に十人集めてターゲットに入れ替わりに話しかけ、異国の初めて聞くような名前の食べ物と交換させたり、『ポンチョを川越に流行らせた功績、パネェよ。次は北千住辺りでイチゴもんぺブーム作ってください』といった、でたらめな賞状を辛口トークした後に渡したり、五日前に賞味期限が切れた、色々なお菓子の詰め合わせをあげたり、人によってはいい気分にもなるし、やな気分にもなる微妙な罠というか、いたずらをする部があって、それを妨害するのが罠解き部なのだ」
「くすっ、変わった部活ね。私だったらそんな罠に困惑しちゃうな。今からあなたにやってもらう吹き矢でマイナス点ばかり取るとアレな風呂に入るハメになるけどあしからず」
 鶴ぐるは物置から吹き矢の的を吊るしたスタンドを取り出し、私の三メートルくらい先にそれを準備した。筒と矢を手渡されたが、吹き矢を吹くのなんて未経験でどうやるかがわからない。
 そこで鶴ぐるに質問しても、彼女は「私もルールよくわかんないんだ。スーッと吸い込んで、ふうっと吹けば当たるよ。大丈夫」と極めてテキトーに言ってのける。まあ、それもそうかなと私もいいかげんになる。矢を吹く前に鶴ぐるに訊ねた。
「まだあなたからどんな種類の風呂があるのか、聞いてなくて気になってるの」
「んー? 高得点だと杏仁豆腐風やきなこ風呂、おこし風呂、柏餅風呂などがあって、真ん中の的以外は全部マイナス点になっていて、痛い風呂に入れます」
「痛い風呂って? 初心者の私じゃほとんどマイナスの部分に矢刺さるよね」
「どうにかなる。ねえ、吹いてみてよ」
 シュッと吹いた一発目。矢はわずかに飛んで、地面に落ちた。二発目も外れた。
「まだ三発あるし、なんなら一発オマケしようか?」
 何度も筒を構え直していると、鶴ぐるがそんなサービス発言をしてきたが、「いいです」と一言断った。気を取り直し、矢を飛ばした。三発目でやっとこさ当たった。と、的を見ると、三十、マイナス十、マイナス二十、マイナス百の順に並んでいるのだけど、矢はマイナス二十の部分に刺さっている。はあっ!? 殺生よ、横暴よ。
 いっそ、マイナス百を狙いまくってやろうかな。そんなことを考えつつも、ちゃっかり真ん中を狙う心は忘れない。でも、四発目はマイナス百だよ。もう、どうあがいてもマイナスにしかならないよ、ぐすん。
 すっかり諦め、五発目を適当に投げようとしている私に鶴ぐるは言った。
「じゃあ、もし真ん中に当たったら自由に入りたい風呂選ばせてあげる」
 ふうっ、と投げてマイナス十に刺さった。だめだった。
 うなだれる私に鶴ぐるは「まあまあ」となだめ、タオルを渡してきたので、これをもらう。
 醤油色の水面に市松人形が浮かんでいて、不気味な感じ。アヒルやクラゲのおもちゃならカワイイけれど、市松人形はなんか違う。ほっそりした目が見る者の心に穴を開け、そこから全てを見透かし、お前はこの程度の人間か、と嘲笑しているような類の笑顔って感じ。この風呂に浮かんでいるこの子の笑顔は子供らしくはなく、虐げられた老婆のようで実に恨めしさがこもっていて、ホラーなんだなあ。ひいいっ。
 しかし、そんな風に怖がってばかりでは市子ちゃん、かわいそうよって勝手に市子と名付けた人形を抱き上げてみた。いやああ、やっぱり怖い。ニコッではなく、にたぁーりってニュアンスの笑い。今度、遊ぼうねと言うのが素直な市松人形なら、市子は今度、もてあそんであげるねと言うような歪んだ言動をするだろう。
 私以外、誰も客がいないっぽい。脱衣場でも見かけなかったし。
 お湯の温度はぬるく、肌がひりひりして、底にはぬめぬめした何かが泳いでいる。タヌキかカピバラが泳いでいるのだろうか。でも、細長いシルエットが見える時点でドジョウである線が濃厚になるけれど、お湯の中ではドジョウ鍋になってしまうよね。生きていかれぬよね。私は底の方に手を伸ばし、それを掴み取ろうとするのだけど、そうしようとするとそいつはぐんぐん加速して、一気に逃げていく。隅から隅へと移動する。
 二十分ほど格闘して、私の手の中に収まったそいつは水中で動く魚のおもちゃだった。妙にデザインが凝っていて、本物の魚みたいだ。目がぎゅるんと出っ張ってるところはハゼに似ている。
 つくづく変な風呂屋だと私は笑った。猛然と暴れるわんぱくなハゼを床に置き、右手を這わせて追っかけると台風になってくるくる動き回って、私の手が届かない範囲まで離れるとのっそのっそ進み、エンジ色の壁にコツンと当たって止まった。
 頭がぼうっとしてきた。アホみたいに市子と暴走ハゼに夢中になっていたら、すっかりのぼせてしまった。よろめく足で風呂を出て、脱衣所を目指した。とろけた頭でいつかおこし風呂に入って、大量のおこしを掬い、それを高得点の風呂に入れてメチャクチャにしたいとイジワルな発想をした。
 着替えを済ませ、大きな部屋に行くと鶴ぐるは私にパッションフルーツの飴をくれた。さっきはなかった、桃が描かれた白いテーブルにバレリーナの人形とちょこんとしたバレエシューズが十足十色、かたっぽだけ置いてあり、人形を支える紫と黄色の台座には阿佐ヶ谷バレリーナと書いてあった。じろじろ人形を観察している私に鶴ぐるが声をかけた。
「あなたと遊びたかったんだ、時間ある?」
「うん、余裕あるけど、そのバレリーナの人形は?」
「これね、面白いよ。揚げている足の靴は外せるようになってるんだけど、ある色の靴を履かせると盆踊りをしながら台座の外に落ちてしまうの」
「普通の靴だと普通に踊るのかな?」
「そう。くるり一回転するわ。負けた方はうぷるぷの実を食べるってのがいいな」
「うぷるぷの実って何?」
「渋くて辛味があって、ちょっと毒があって、幻聴が聞こえる面白い木の実よ」
「毒あんのー? ホントに大丈夫なの、それ」
「お客さん全く来なくて、だいたいヒマだから退屈しのぎにかじるけど、不思議な音や爆笑必死のギャグが聞こえたりして、なかなか良いわよ」
「それなら大丈夫かな。いいわ、やりましょう」
「じゃああなたが先でいいわ。どれか好きな靴を選んで」
 言われるがままに、私は灰色の靴を履かせた。バレリーナは片足を浮かせたまま、優雅に回った。なんとも地味な遊びだった。
「次は私ね。紺にしようっと」
 そう言いながら鶴ぐるは紺色の靴をピタッ。ここでバレリーナが盆踊りしたら、あっけなすぎるよなあ、と人形を見つめていたが、予想を裏切ってシンプルに一回転。
 そういえば、うちのクラスに内藤という小柄で童顔の女の子がいたな。バレエが上手かったけど、バレーも強くて、どっちのバレーも上手いなと言われてたっけ。
 さて、内藤に茶色の靴を履かせる。その内藤ちゃん自体はキンキラな靴履いて、一輪車ビギナーのようなぎこちない回り方で、ある時ひゃああと奇声を発しながら転んだためにみんな笑いを堪えるのに必死だった。しんどそうだった。ミニチュア化された内藤は本物よりキレイに回る。
「あなた、地味な色選ぶのね。というより私が選ぶ色が派手なのか」
 鶴ぐるは赤色の靴を履かせながら言った。やはり盆踊りは踊らない。私はうん、そうねと曖昧な相づちを打つ。
 七色目の、白色の靴を履かせたら、人形の台座の裏側にあるスピーカーから、ぴゃっぴゃーぴゃらろーろ、とマヌケな、酔っ払いながら演奏したような盆踊りが流れ、手を叩くような動きを見せたり、両手をふんわり上げたり、なぜかガッツポーズまで決めるなど、本来の盆踊りにはない妙なアレンジまでして、もつれるように内藤は台座から落ちた。じわじわとそんな落ち方をするところが人間臭かった。内藤ぽかった。
 私は内藤のことは、まあ人並みに好きだった。おちゃめな性格な内藤は昼食の時間に水色に着色したドーナツを持ってきて、そのケミカルな色合いにやや引き気味な友達に「面白いと思ったんだけどなー」と言い、照れ笑いする姿とか作文の時間で出された宿題に原稿用紙ではなく、自作の朗読CDを提出したところとか、ホント好きだわー。良いよ、内藤。
「さあ、君にうぷるぷの実を食べてもらうよ」
 私の肩にポンと両手を置いて、鶴ぐるが無邪気な声で言った。私はふてくされたフリをして、「早く持ってこいよー」と急かす。鶴ぐるは「おーおー、ノリノリだねぇ」とからかうように言って、木の棒をくっつけただけの棚をガサゴソ探って、黒光りする木の実を持ってきた。しかし、ひょろひょろした木の棚に好奇心が止まらないし、鶴ぐるからうぷるぷの実をもらってから、質問した。
「あの、木の棒だけでできてるような棚は何なの?」
「あれは流木で作った棚なんだけど、持ち運びやすくて良いわ。珍しいし」
「あなたって面白いよね、イカしてるよね。それで、この木の実を……」
「おだてても無駄よ。大丈夫、貴重な体験だと思って」
 抵抗感をこらえ、どうにでもなれとやけっぱちになり、ぐいっと口に木の実を押し込んだ。体の中でなんかグネグネしたものが躍動したかと思うと、渋滞して環状七号線辺りで8キロほどぎゅうぎゅう詰めみたいなことになっている。まいった。ただ味は旨かった。 いくら待っても幻聴は聞こえてこない。
 飴をグミで包み、その上をガムで包み、さらにわたあめで包んだ不思議な菓子の話や一枚一枚のシートに世界各国の果物のペーストを塗った贅沢な本「フルーツブック」の話、箱に入れて乾燥させると育つ奇妙な花の噂をして鶴ぐると別れた。
 ごちゃごちゃ並んだアパートと、ペンギンの石像が個性的な神社などがある、閑散としたわき道を歩いている時、甲高い女性の声と酒焼けしたおっさんの声が聞こえた。
「あいつの水ギョーザを生八つ橋にすり替えろ。どーも、シルヴェーヌ突村です。無礼講好きのチャールズさんに今日はオススメのっねー、イチオシの切手を紹介してもらいたいと思います。ランキング形式で。じゃあ、チャールズ、三位からよろしく」
「早くビール飲みたいから、ちゃっちゃっと終わらせるぜ。三位は切手饅頭だ。これはすごいぜ。切手の薄さに切った世界一小さい饅頭だ。俺だったらこんなものは買わずに、ワインを飲むね」
「ちょっとー、チャールズさん。それランク外の商品ですって。スタジオの壁に饅頭押しつぶしてなすりつけないでくださいよ、あははは」
「二位ははがき切手ではがきを模った切手だ。そんで、一位のおまかせ切手は何をおまかせするかって、その相手に応じた音声を流せるんだよな。性別や声の調子、台詞などが全部ぴったり受け取るヤツに合わせる。差出人が好きな相手ならば、おちゃらけたおっさんの声で『エメラルドとルビーで作ったちくわを君に送りたい』とか、そんな冗談を言うだろうね。嫌いな相手だったら老婆の声で延々とグチを聞かせたり、小言で攻撃してきたりするだろう。はは、んな切手ある訳ねえって」
 くすっと笑える部分もあるにはあったが、私はだんだん白けた気分になった。早く家に帰って、部屋の中で米をぱらぱら撒き散らしたい。一暴れしたい。と思いながらも、あえてゆっくり歩いた。夕方から夜までゆんゆる塔やぽねのじゅに行ったりして、くたくたに疲れていたし、耳にだらだら垂れてくる幻聴に酔いしれていたかったからだ。くだらない状況に出くわした際に感じる物悲しさとけだるさに浸ってしまいたかった。退屈な幻聴のつまらなさが頂点に達した。
「くじ引きましたー。今は九時じゃないんですけどね。なんとなくくじ引きたい時ってあるよね。だから九時にくじを引く人が多いのかもね。うーん、よく九時に足くじいちゃうんですよね、私。しかも夜九時じゃなくて朝九時なんですよ。視界良いはずなのにね。おかしいね」
 九時にくじを引くためのくじを作ってやろうか、あと、九文字で埋まる炊飯器の機種名は何でしょうといった、答えづらいクイズでも出してやろうか? くじ子ちゃん。頭のネジがゆるみ、幻聴と対話していると街を歩く人々に気のおかしな人だと誤解されてしまい、どんどん脇に退かれた。切なかった。米とバイ貝とムール貝を撒き、その後にそれらを三列に間隔空けて並べて、エッホエッホ反復横とびしたい気分になった。
 アパートに着いた。とりあえず寝て、急速に休息を取りたくてたまらない。ンフフフー、というハミングの後にシェーリー子とレガート気味に上昇するメロディで歌う幻聴。誰やねん、シェリ子って。でも、爽やかな名前ね。もう、寝たいからいい?
 床にそのまま寝る。だって私は豪快淑女。
 三分くらい横になっていると、うとうとしてきた。けど、スリープ前に最近始めたおまじないというかジンクスというか迷信をし忘れていることを思い出し、壁際まで這って、押入れからオレンジ色の三日月形の何かのケースを取り出した。どんな物を入れるかすらわからないのは、これが前の住人が残していったもので、引越してきて真っ先に押入れを開けたら、見つけたんだな。これを。
 まず、この三日月を逆さにして置いて、窓の付近の床に置かれたフジザクラのブローチを転がし、その途端に素早く三日月を傾けて、器用に動かしてフジザクラが月の上から落ちないように一周できると、明日いいことがあるというおまじない。今までに五回試みたけど、もうすぐで渡りきるってところで、あえなく落ちてしまった。
 今日は疲労でぐでんぐでんな体だし、だめかなと思いながらブローチ花を転がすと、三分の一も行かずに、ひゅーん。やっぱりダメだった。かったるくなった私はへなへな崩れ落ちるように倒れ、再び横になって、淑女らしく手を頬に当てたり、そっと両手を重ねたりして眠った。

 また部屋の新装タイムだよ、まだ終わらないのね。しかも今度は人形のフルメリ用の部屋って感じで私は蚊帳の外。私のキッチンでジオラマが展開されている。それらのものには統一性がなく、風景のあちこちが混沌としていて、砂漠に昭和の街並みがあり、氷山の上にコンビニがぽつんと佇み、巨大な豆腐の食品サンプルの上に無数の和傘がパカッと開いた状態で突き立っている。傘の柄が豆腐に固定されているのね。なんか気になるなぁーって、ひょいと手を伸ばし、和傘を掴んで力を込めたら、簡単に取れてしまったわ。どうしましょ。適当に放り投げておこう。
 芝生に黄色いマグカップが裏返しに置いてあり、フルメリは底の部分に座っていた。さすがに人形自体をいじることはできなかったみたいで、何も変わってない。人形の頭を少女のものから馬面のおっさんに取り替えたり、紫と緑と赤の原色をケバく使ったちゃんちゃんこを着せられたり、目の下に濃いクマを入れ、モーニングスターと呼ばれる星型の鉄槌を右手に持たされたりするなど、そんな災難にフルメリは遭わずに済んだようだ。
 しかし、模様替えマイスターは私の部屋の新装に奇人ぶりかぶきっぷりを発揮したのだ。風変わりでナンセンスな見本だらけになった。ハードカバーの黒い本はタイトルの文字が極端に大きかったり小さかったりで、表紙の方も銀シャリの握りを拡大し、歯ブラシや鉄くず、あきびんやビリヤードの球、ラベルにソースの染みがついたカセットテープが米の中から顔を出し、こんにちわしている。そして、開けない。
 オセロの見本には碁石の代わりに白と黒の胡麻が乗っているし、ペン入れのようなメガネ入れにはメガネがぎっしり入って、固定されているし、六十センチメートルくらいの五段ある枯葉色の階段の模型は一段ごとに少しずつ右にずれていて、自分から身体を右に動かさなければならないふざけた階段だ。老人は転倒必至だ。普通に昇るのも面倒なのに、側転でホイホイ上がりきる小僧がいたら、くす玉割って讃えるだろうな、ベタ褒めするな。
 うーん、面白いのはそんくらいだった。
 ビニール袋やドライアイス、セロハンテープ、トイレットペーパーの小道具サンプルはそれなりに斬新だったが、さっきのイミフで非実用的でがらくたな作品に比べると物足りない。なんか飽きちゃいましたねーと言って、外に出た。
 ブロック塀の上で黒猫が昼寝していた。もふもふして可愛いなあと眺めていると、タヌキが通りかかった。さらにタヌキの背後に茶と白の何かがそっぽを向いていて、警戒されないよう、そろりそろり忍び足で進んだが、途中ではっと振り向いた、オコジョだと判明したそいつは驚いたように固まった。私が鬼女に見えたのか、オコジョはぶるぶる全身を震わせる。いやいや、そんな怖がらんでもええのに。
 そこで親切な天女をイメージした笑顔を浮かべようとしたが、むかつく客にお釣りを投げ渡されても、なんとか作るぎこちない笑顔みたいになってしまい、オコジョは塀の向うに去ってしまった。入れ替わりにアルマジロがやってきたが、多彩な動物を飼っているここはどういう家なのだろうと、家の前をさりげなく通り過ぎるようにして庭を覗いたが、平凡な庭だった。表札と一緒にペット禁止シールが貼ってあり、私の心は無数のハテナで埋め尽くされた。そりゃ、そうでしょう。ファンシーな動物たちを育むナイスな家かと思いきや、動物嫌いな家なんですもん。
 じゃあ、この子たちの居住地はいったい? と首をかしげていると、彼らは互いの背中やお腹をペチペチ叩きあい、じゃれ合いながら、ブロック塀を伝って家へ家へと移動し始めた。私はもちろん追っかける。猫とタヌキとアルマジロを追ってけ追ってけ。ビーバーとカピバラの区別がつかないなんて思いながら走ったが、彼らはすばしっこくて曲がり角で見失ってしまった。あちゃー。
 三十分ばかり探したが、三人組は見つからなかった。きっとゆんゆる塔の近くにあるススキとヤシが生えた空き地に住んでいるのかもしれない。誰が持ってきたのか、ぼろぼろにすり切れたのぼり、それも昭和の匂いがする三、四十年前くらいのものが何本も吊るしてあり、塗装の剥げまくったピエロと狼男の人形が向かい合い、そこだけ異世界の入口という雰囲気をムンムン出していたな。
 おっとりした女性のマネキンには白猫とプリン、爽やかな若葉と青い風の着物の少女のマネキンとカナリアとゆず団子、エメラルドの腕輪はめた婦人はアザラシと抹茶大福といった風に並んでいるが、甘味処でも喫茶店でもなく、なんと服屋なの。そこの店のディスプレーをなんとなく見て、いつもの歩道橋に続く通りをまっすぐ行く。
 いつもの立ち位置でいつものように妄想を浮かべようとした。それなのに、早足で歩くサラリーマンや、とぼとぼ歩くローティーンの女の子やスキップしそうな勢いのおっさんからは景色一つ浮かばなかった。でもね、私が悪いの。不調気味なんよ。
 この前、三人称で第三者的な目線で見たらねー、案外向いてなかったみたいでね、私はその人になりきるのが好きみたいなん。わかってくれたん? 一日中ぼんやりと誰かになって、妄想の中で自由に思い描くのがクセになってる。自分や誰かのありふれた日常を、ぶっ飛んだ幻想で変えてしまいたかった。イェーイ。まぁ、こんな日も珍しくはないんだけどね。また明日頑張ろう。

 昨日と同じ時間に、もう私は既に二回妄想した。ごく普通のOLが口紅を知らない数百年前の祖先に会いに行き、澄んだ川の水を鏡代わりにして口紅の塗り方をレクチャーする話やもんじゃ焼きの主人が六大陸に渡り、ベルギー、モロッコ、ニュージーランド、カナダ、パラグアイ、インドネシアに出向いて、それぞれの味覚に合わせたもんじゃを作り、絶品に舌鼓を打った彼らに弟子にしてくれないかと請われ、そのまま引き連れて帰国。ビザとかそこらへんも何とか取得し、七人の力を合わせた南極もんじゃで大ブレイク、大繁盛の成功を収める話などをひらめいた。
 たわけた妄想から覚め、一休みに左ななめに見える家の屋根の色を見比べ、どの家も青や黒で同じような色ばかりだなと呟いて、何気なく反対側に向き直ると、どこかおかしげなけったいな女性が目の前に立っていた。十秒ほどの間隔で気恥ずかしそうにこちらを上目遣いに見て、しかし無言のままポケットに手を隠したり出したりしてモジモジさせるばかりだ。私は恐怖心に襲われ、一分ほど引いていたが、しつこい客引きのように絡んでくるビビり感を抑え、おちょくったれ、この不気味な女の反応を楽しめと野次馬根性を出して話しかけた。
「どうしたんですか、道に迷ったんですか?」
「いいえ、そうじゃあないのよ。羽赤ハイツで配られる美酒、悶絶グラッパを探しているのね。そもそも羽赤ハイツというのが仲間内での符丁、隠語なのよね。でも、親切な案内人がいて、心の清らかな人をしっかり見抜いて連れてってくれるはずなの。そしてその案内人の似顔絵にあなたがそっくりなの」
 女は終始うつむいて早口にまくし立てたが、私はそんなお酒ご存知じゃないし、うさん臭いこと極まりない女にどう対応していいかわからない。なかなか強者だぞ。
「爆睡グラッパなんて知りませんよ。私はしがない妄想人です」
「ねえ、本当に教えてよ。悶絶人だか知らないけど、私は飲みたくてしかたない」
「っていうか、あなたは何の媒体で知ったんですか?」
「十一年前に拾った大学ノートに書いてあったんですよ」
 なるほど、やはり電波か。拾ったノートの情報というか落書きを鵜呑みにするなんて。
「……わかりました、あなたの熱心さに根負けしました。大阪のですねえ、天王寺にですね、コーポ・ア・カンタレというトコにいってくださいネ。たぶんありますよ、その美酒ネ」
 最初からまともに接する気がない私は、でまかせの嘘でごまかす。道頓堀に飛び込ませたら、この女も正気に戻るだろうか。彼女と一緒にいれば、新世界が見えるかもしれない。はぁああんとリラックスした声を発し、ぽんぽん跳ね回り、「わかってんのう、天王寺」などとダジャレを言いながら、階段の方へ走り出した女は、私に手をフリフリしながら居酒屋と花屋の間の道に入っていった。普段味わえない刺激があったせいなのか、女とは全く脈絡の無い妄想の源が一気に湧いてきた。
 スターフルーツの甘酸っぱい匂い。眼前に黄色がいっぱい。足元は柔らかく、ふにっとしている。果肉の床に、私と雉三郎は立っている。名前に雉がつく割には、ネズミとイノシシを足して二で割ったような顔だし。彼は頭にユニコーンのような角を生やし、胴体はプレッツェルのような形で褐色の毛で覆われている。おかしな形だが、普通に動き回れる。中央がへこんで二つに分かれた部分を足にして歩くのだ。
 私たちの体はスターフルーツを巨大に感じるくらいだから、てんで小さい。
 食い意地の張った雉三郎に半ば強引に誘われ、穴を開けてそこから入った。果実の中に広がる幻想的な景色に心奪われた。白色と水色の星が黄色い果肉の壁に埋め込まれて、キラキラしている。
 スターフルーツの中はところどころが空洞になっていて、曲がりくねった道は複雑に分岐して迷路になっている。時々行き止まりに出くわしたら、雉三郎ががぶりつき、壁を食べて道を作っていく。何本か道を作ると満腹になった雉三郎と交代して、私も壁食べ作業をした。
 最初は壁についていた星をスイカの種の如く取り去っていたのだけど、次第に面倒臭くなって壁と一緒に食べたり、その星単体を食べたりするようになり、白色は穏やかな気持ちにさせ、水色は爽快にさせた。何だか身体が軽くなったと思ったら、地面から足が離れ、ふわふわ浮いている。あはは、空中遊泳ができると喜んだのもつかの間、宙に浮きすぎて頭が天井につかえて、前を見づらいし、果汁が顔にべとべとついて不快だ。ええいっと全身に力を込め、何度か宙返りをして、天井に張り付く体勢になって、上へ上へと爪を立てて掘っていく。雉三郎も水色の星食べて私の後についてきた。
 腕が限界まで疲れた頃、ようやく外が見えてきた。私たちはちょうどまっ平らになっている部分に寝っ転がり、暖かい陽光に包まれて眠った。
 目を覚まし、近くにある枯木に飛び乗り、ゆっくりと木から下りて、黒色の正方形のやけに軽い大地に立つ。体重がかかると、大地の一部が沈む。びっしり何百もその黒い正方形はずらずら並んでいて、重みにヘコむところとか見た目とかが巨大なパソコンのキーボードみたいだ。一つ一つに白いペンで猫が描かれている。しかも表情やポーズをいちいち書き分けていて、バリエーション豊かって感じ。スターフルーツ探索の時に、ぐらぐら揺れたなって思ったら、猫がくわえてここまで運んできたのかもしれないな。
 シマウマと牛のぬいぐるみがぽつぽつ並んでいて、遠くにキラリ輝くものがあって、気になった私たちはカタカタ音をさせながら、先へ進む。輝く何かの元に着いた。
 クリアーな橋がアーチ状に架かっていて、下が透けて見える。橋は短いようで、なかなか長く、進めば進むほど橋の終わりに近づいているという実感が湧かない。二十メートルほどのプチ橋だと侮っていたら、六百メートルもあって仰天するみたいな。
 橋の半分まで来たかもしれないと思った時、ぶわっと橋が眩しく輝きだして、光の渦の中立ち尽くした。少し先を行く雉太郎も「うおっ、眩しっ!」とか言ってる。このまま目を開け続けていると頭がおかしくなりそうだと思った私は目をつぶりながら、再び前に進み始めた。
 しかし、歩きながら疑問に思うのはもし橋が先細りに作られていて、目を閉じながら進むうちに地面に転落したらケガする危険性があるなあと不安になるのである。
 さらに、現実的な災難をイメージすると鋭いトゲの付いた鉄柱が真ん中に刺さっていて、グサグサ刺さって痛い目に遭ったり、こん棒を持ったミノタウロスかゴブリンが立っていて、私はボコボコにどつかれたりするのかなと不吉な方向に考えるとますます不安になった。まだそんなに離れていないだろうと雉太郎を呼ぶと、すぐそこから「何だー?」と反応がある。
「あんた、今目開けてる?」
「何を言ってる、目つぶってたらまともに進めないじゃないか」
「だって、まぶしいじゃないのさ」
「あぁ、まあ何とか目を細めつつ、ほとんど見えてないけど歩いているよ」
「それってあんまり変わらなくない? それに目チカチカして傷めない?」
「んなこと言ったってどうすんだよ。なんとかできんのかよ」
「やな感じ。勝手にすれば?」
「ヘヘヘっ、そう怒るなよ」
 喋っているのがかったるくなって、黙りながら歩いた。そして、ふと思いついた姿勢を試した。よつんばいになって、空を見上げるように上を向いて、這うように進む。
 が、どこまでも光が眩しくて全く意味がないことに気付いた。アホやった。第一、どこを進んでいるのかも把握できないしね。途中で橋が途切れていてもええ、母ちゃん走ってやると私は壊れたテンションで走り出した。橋から落ちることもなく、がむしゃらに走っているうちに暴君な光の気配がすっと消え、一瞬身体が軽くなった。前のめりに倒れ、ううっ、右ひじと左の手のひらにひりひりする痛みが走った。橋が少し途切れていて、なだらかに地面へ続く部分が端折られ、砂利の地面とつながっていない。だから、私はすっ転んだのだ。せめて砂利ではなく、マットを敷いておいてほしかった。橋が足りないなら、うっかり転んでしまう人のためにも安心な配慮をすべきだよね。
 雉太郎が追いつくのを待って、橋に座り込んだ。砂利の上に大量の十手が転がっているのが見える。取っ手についた金や銀や赤のヒモが風に舞ってひらひらしていた。遠くの方には干からびた街が見えた。
 しばらく待って来た雉太郎と干からびた街へ向かった。錆びついた茶色の建物と寂びついた灰色の建物が並んでいる。人も動物もいないゴーストタウンといった様子。
 荒廃した建物の壁に子猫と鳥の可愛らしい絵が描いてある。黒一色に、鉛筆絵っぽいタッチだ。かと思えば、子供が悪夢に出てきた怪物をおぼつかない筆致で再現したような絵が赤と緑のペンキでごしゃごしゃ描かれていて、野蛮で凶暴なパワーに満ちていた。熱にうなされながら筆を動かしたような感じだった。あっちの赤茶けた色の壁には白と紫のマーブルの少女。悲しそうな表情が不気味でかわいそうで、絵がところどころかすんでいたり、消えているのがファンタジーな怨念のようで余計に不気味。例えば、飼っていた愛猫を妖精に連れ去られたみたいなね。
 その絵の建物から三軒右に歩いていくと、白塗りの顔にサーファーが着るウェットスーツを履いた、おかしげな男が建物に向き合うように立ち、傍目から見たらバカにしかみえない仕草をしていた。というのも、男は右手で壁を押さえるようにし、左手で壁を揉んでいるのだ。
 すると、どんどん建物は小さくなり、男と同じ大きさ、高さになったかと思うと、六十センチくらいのぬいぐるみくらいの大きさになって、次の瞬間には男の手にすっぽり入っていた。そんで男はそれを手の中でくるくる丸め、団子状にして足元に転がした。男の手によって街が団子にされていくのを私と雉太郎は憑かれたように見惚れていた。
 ついに、全ての建物を団子にしてしまった。ヤバイ奴だなあ。男は街団子を二つ拾い上げ、無言で私たちに突き出した。怖さもあったが、わくわくする気持ちが上回って、街団子を口にした。まずかった。とても食えた物ではなく、埃と雑巾の匂いがして、ゴムが焼けたようなケミカルな悪臭がした。男は特に私たちに感想を聞く訳でもなければ、反応をうかがう訳でもなく、自分の足を揉むようにして、だんだん玉になっていき、街団子に頭をこすりつけ、頭が一気に小さくなって、玉の中ににゅうと吸い込まれ、そのまま消えてしまった。それから私と雉太郎はその団子を神様として崇めた。
 うわっ、どこからか悪臭が漂ってきた。街団子の匂いによく似た、というかこの匂いが流れ込んできたためにイメージ通りに進ませるつもりが狂ってしまったのだ。ホントは街団子を爽やかなハッカの香りにしようと思っていたのに。匂いから離れるために人一人しか通れない、やたら狭いトンネルをくぐって、両側に住宅地がぽつぽつある急坂を登って、充分に遠ざかっても匂いは消えない。妄想している私に、何だこいつ、とろーんとしてるけど変な匂いの玉でもぶつけてやるかと街団子を投げたヤツがいるかもしれない。
 しかし、なんか被害妄想すぎるし、いくら妄想に夢中になっているからといって、気付かない訳がないだろう。薬屋と酒屋がある一角で、石鹸の匂いとシャンパンの匂いが混じり合い、不快な街団子の匂いが次第に消え、喜びのあまりこれまでの妄想が多少歪んでフィードバック。ランラララアー。
 福助人形が風呂屋の主人で、色とりどりの市松人形に様々なダンスがプログラムされている中、盆踊りをさせたら勝利を収めるゲーム。
 スプーンでスターフルーツをすくって食べたら、それはバニラ池でなぜ食べ物がすり替わったのか混乱する。
 チキはパンナコッタのペーパークラフトを作って、チキ母は公園の芝生にリコーダーを撒いている。
 ジューサーミキサー、ここでよろしいでっしゃろか。ウニ、本当にミキサーで砕くんですか? ああ、砕きたまえ。私の心は砕けないがね。
 トライアングルの溶ける庭に出てごらん。って、どんだけ気温高ぇーんだよ、怖ぇよ。 郵便局員のピンちゃんとシルヴェーヌ突村が昼休みに十手パンと切手パンを半分こにして食べて、内心ピンちゃんは自分の分け前が少なくて、突村にせせこましい苛立ちを覚えていたんだよ。
 ただ虚構の存在のまま消えていく妄想と、現実の出来事がごちゃ混ぜになった。誰が実在して、誰が架空なのかわからなくなってしまった。困った人ね、あなたは。などと、他人事のように言って、おほおほ高笑いした。現実の風景はみるみる変わり始め、湯由ペピーノの庭、困紺チキの部屋、杖里・ピンちゃんというかフォウ太の黄色いハートの板、雉三郎の眩しい橋が同時にパッとここへ出現した。しかし、おなじみのキャラはいない。ただ、風景が広がるばかりだ。
 はて、妄想の登場人物がいないのはなぜなのか、景色が現れ、人物は登場しないのはおかしいと思い、首をかしげているとあら!? どこからか、みんなの声がする。でも、いっせいに喋りだすからさっぱりわからない。どうやら、私の頭の中に留まっているようだ。お願いだから、一人ずつ喋ってくれないかと頼んでも、必ず二、三人かぶってしまい、聞き取れないままだ。
 いつまで経っても、そんなコントの繰り返しをやめず、私はまいってしまった。酒を飲めば、どうにかなるかなと思い、酒屋へ入った。シェリー酒を買い、ぐびぐび飲み干す。体がぽかぽか温まって、私の周りに五本のカラフルな水柱が噴き出した。
 そして、頭の中の住人も酔っ払い、ふざけだした。やはり、同時に何人もがやがや騒いでいるが、今度はそれぞれの声の方向が上手く分かれているおかげか、不思議と聞き取れた。
「雪の中に花を埋めて、願いを込めながら埋めると願いがかなうなんて遊びがあるんだけどね、肝心の花を買うのを忘れていてね」
「あははっ、ダメじゃない」
 フォウ太がみんなに話して、チキが笑う。
「俺の友達のぬぷ男はそそっかしいヤツなんだけど、慌てすぎて毒キノコによる錯乱に注意しましょうとか、ただの注意を考えちゃったんだってさ」
 チキと杖里はキャハハ爆笑する。男達は黙っている。
「濡郎は僕的に花を食ったほうが願いが叶う気がするとか言って、花ムシャムシャ食い始めるしさ」
「ぐはははっ、ピン崎くん面白いね。それでそれで?」
 ペピーノが女性陣と一緒に笑いながら、先をうながす。
「枯恵ちゃんは外資系のIT企業に就職できますようにと願ったんですね」
「えらくまともだな。まともすぎる」
 雉太郎が淡々とツッコむ。内気な図書館員みたいだった。
「基本的にみんな願いが叶わなくて、ぬぷ男は通りがかりの老婆がテングダケ持って歩いているの見て、手をあげて注意しようとしたらタクシーが止まって、その拍子に老婆見失うし、濡郎は腹壊すし、枯恵ちゃんは豆堀工業の事務スタッフ兼塗装工になったしね。でも、一人だけ思い通りにいった子もいるんだよ。そみ美が味噌ケーキ一年分って願ったら、隣に引っ越してきた小金持ちがくれたらしいのさ、すごいよね」
 チキはフメ代が毎月家の屋根の色を塗り替えるが、その都度タニシの絵を描かせるばかりで困るといった話を雉三郎に、ペピーノはアボガドを買ったけれどどんな料理に使うのかわからないといった話を杖里とフォウ太にしていた。私はシェリー酒を三合ほど飲んだ。ううむ、ぐいぐい飲みすぎたな、眩しい橋がエンジ色に光っている。
 いつのまにか、私は橋の上に立っていて、遠くにあったはずの橋が足元にあることに驚く。頭の中では音程の狂ったハーモニカの音がハラホロハラホロとでたらめに吹き鳴らされている。ひとりでに鳴っていて、誰もハーモニカなど持っておらず、踊っているようだ。ドタドタと足音が聞こえ、それからみんなの歌声が聞こえてきた。
「ショートボブのなまはげ、生春巻きばらまいてピース。あなたはふざけてふがしで僕をはたいた。そんで互いのおでこを寄せ合って、ふがしをつぶしたんだ。快活に笑いながら。つくしの雨の中で」
 手拍子をとって、わいわい騒いでいる。楽しそうで、私も混ざりたいが、何せ幻聴のようなものなのだから叶わない。
 唐突にふっと静かになり、エキセントリックな風景は消え、視界に入る酒屋の向いのアパートはトタンの外壁がレトロな雰囲気。一番右の窓からタツノオトシゴのぬいぐるみがぶらさがっていて、尻尾の丸まった部分がなるとになっている。街のもの全てが渦巻いて、私の中をグルグルにしてしまう前に帰ろう。ああ、雲が渦巻いている。うずうずの雲。

 キッチンに広がるジオラマの左上、白いサンゴが浮かぶ桃色の海を閉じ込めたスノードームの土台の裏にボタンがついている。普通のスノードームより、かなり大きく横幅十五センチある水槽くらいのサイズで巨大な水晶玉のようだ。温かい緑茶を飲んで、ヒマに任せてひっくり返してみたくなった。
 もしかしたら、五百円玉か金貨でも貼ってあるんじゃないか。いつも散々に部屋をいじり回すのだから、目立たぬ所にも細工を施している気がした。
 そして、案の定ボタンを見つけてしまった訳なの。サクッと気楽に押すと、水がドバドバ抜けて私は呆然とした。水浸しになった靴下の感触で我に返り、濡れてもうたわーと言いながらタオルを取りに行った。一通り拭いて、全く困ったスノードームだよと嘆きつつ、もう、この子ったらと玉を抱きかかえるとサンゴが壁に偏り、それまで隠されていた底の方に鉛筆画があって驚いた。
 誰が書いたのだろう。毎度、私の部屋の家具を勝手に用意する部屋伯爵の手によるものか? 周りを透明なフィルムで覆うといった防水加工をしているのか、しっかり眺められる。その大人しい風貌に親近感が湧くから、君と呼ぼうか。君は照れ笑いを浮かべ、困ったような眉をしている。どこか頼りない、次から次へと手間のかかる仕事を押し付けられてしまうタイプの女性に見える。でも、私は嫌いじゃないな、そういうの。
 君に名前はまだ無く、なかなか思い浮かばないが、そのうち浮かぶだろう。デパートで買ってきたきのことハムのキッシュでも食べて、明日考えよう。
 さてとキッシュ食べたし、キッチュな服着たいな。無意味にボタンが何十個もついていて、服の中央にはメガネ少年の絵が描いてあって、レンズの部分がせんべいになっている感じ。キツキツなものはダメだよ。
 一休みして、また君を見ると、私の中の印象が大きく膨らんでいった。甘酸っぱい香りがぼんやり漂い、ふんわりした空気に包まれ、夜明けの空のような、素直で飾り気のない人だと感じた。なぜだか急にこの子をテーマにした妄想を大切に考えていきたいと思った。

 前日降った雨の名残で、歩道橋の床の上に残った水溜りがきらめいている。透明な世界に空がきらめいている。私はそこに赤い食紅を入れて、おどろおどろしい湖を作り出し、通りかかる人を驚かせてみたくなったが、いちいち食紅を買ってくるのは面倒なので諦めた。
 合唱コンクールの会場へ向かうのか、女子校の軍団が押し寄せてくる。彼女達の目は不思議そうに私を見ていた。えっ、このお姉さん、何でずっとここに立っているの? とキツネ目の少女。左に立つポニーテールの子があの人何もすることがないのよ。定職も持たずに。だから、のんべんだらりとしてるんだわと私の背後で声ひそめて話す。たぶん、そんな内容だ。
 でも、もしも私が煙草を吸っていれば、バットやアメスピを吸っていれば、好き勝手に噂話をされずに済む。むしろ、なんかカッコイイわよね、あのクールガール。夜勤帰りに煙草吸ってスカッとする姿、見惚れちゃうよね。と、彼女達から好意的に評価されるだろうに。できる限り、明るい方向に考えてウニらないと。私の仕事は妄想なのだからね。
 女子校軍団が去った後、しばらく誰も来なかった。彼女達の中にすごいイタズラっ子がいて、修学旅行で眠っている同級生の顔をドーランで白塗りにメイクし、何人白塗りにできるか試した子がいたら面白いだろうと考えて、一人笑った。
 背が高い女が通りかかった。実際にはあっという間に通過したけれど、スローモーションに感じられた。最近知り合った人などいないのに、昨日か昨日に似た日に会った気がしてならない。よく考えて、あの鉛筆画の女にクリソツだなと思った。モノホンになって、現実に現れてしまったみたいやった。部屋女帝が仕掛けたドッキリ、イタズラの類なのだろうか。それとも、単に何かの偶然なのかもしれない。
 スラリとした長身から、まるで女が富士山から遣わされた精霊のようにも思えた。
 さっき私がじっと見つめていると、女は、いやシェリ子は照れ笑いを浮かべ、うつむいたり視線をキョロキョロさせたりしながら階段を降りていった。うーん、シェリ子ってのはふと思いついた名前なのね。にしても、今までこんなことってなかった。妄想がバンバンひらめいて、頭の中をグルグル駆け抜けている。止まらない。各時代のシェリ子が登場し、石と石を叩き合わせて原始的な音楽を始める者もいれば、手をかざしテルミンのように演奏している者もいる。かと思えば、アロマキャンドル片手にその香りに対応した音楽を鳴らす楽器を使う者もいる。泳ぐごとに、走るごとに、眠るごとに、食べるごとにそれぞれの音楽が鳴り響く。無数のシェリ子が奏でる音楽が集まって、妄想が始まった。
 滑走路に巨大な金太郎飴がストトンと着陸している。遠くて、全く飴の模様は見えない。街はまるっきり普通。
 さて、私はカラオケ店に行かなくちゃなんない。
 といって、歌を歌ったり合コンする訳ではない。じゃあ、何をやるの? バイトなの?いえいえ、人助けなのよね。ヒマだからやるのよ。どこかの誰かが妄想ばかりしているのと変わらないわ。
 受付で店員に通常料金とフリータイムのコースどちらにするか、飲み物は何を注文するのか聞かれ、私はまごまごして上手く決められない。なぜならメニューに書かれている料理全てが理解できないからだ。そしてそれが何故かというと、遥か彼方の僻地、孤島に住んでいた訳ではない。私、シェリ子は富士山の精霊だからである。コーラやグレープジュースなどは空き缶のゴミで知ってはいるが、飲んだことはない。山の水しか飲んでないんだよう。こっちは。モスコミュールだの栗パフェだのわからないんですよ。コーラって何ですかと聞くと、店員は信じられないといった表情をした後、私を外国人と判断したのか、「えっと、イッツコーク」とか言ってる。じゃあそれくださいと言うと、ホッとした顔を見せ、マイクと伝票をそそくさと渡した。
 部屋に着き、数分後、店員がコーラを持って現れた。グラスを傾け、一気に飲もうとしたが、口中を強く刺激する、初めての感覚に驚き、落としてしまった。幸い、グラスは無事だったが、床がベトベトになっちゃった。ミスっちゃった。ああ、早くしないと。ここから二つ左の部屋にターゲットはいるのに。あと、助ける人の名前なんて瞬時にわかってしまう。
 抱野ゆぶやんを主に三人の大学生がたんたかライムという、鍛高譚という焼酎にライムを絞ったものを自作していて、ゆぶやんは材料の用意を頼んでおいた後輩が買い忘れたのを怒り、気まずいムードになっているところだ。そこで私が能力を使い、焼酎とライムを出現させてハッピーにさせたらなあかんねん。
 トイレットペーパー、たららん、汚れた床を拭いて、十五分経ってるのに気付きつつ、ゆぶやんたちのいる部屋に向かった。すっかり気まずいムードは解消し、きゃらこという女性がコミカルなうた歌っていた。U字型に並んだソファーの左手にゆぶやんときゃらこ、右手に後輩の男が座っている。突然入ってきた私に後輩が「あ、あの……部屋をお間違えでは?」と事務的な口調で言った。まだ何か手助けできるかもしれないと思った私はフレンドリーな人格を装い、一人でカラオケするのも寂しいし、良ければご一緒させてほしいと頼んだ。
 すると、ノリノリなゆぶやんが「君かわいいねぇー」と声をかけてきて、歓迎ムード。後輩が演歌とブルースを混ぜたような歌、ゆぶやんがラップを歌い、私が歌う番になったが、歌う曲がないと言うと、ゆぶやんは「そーう? じゃあ適当に入れた曲歌ってみれば?」なんてゲラゲラ笑いながら言い、リモコンをいいかげんに打ち、ワルツのリズムのR&Bが流れ出した。呆気にとられた。しかも歌詞は童謡チックで幻想的でいて、どこか暗いものだった。

 ゆらゆら地上絵 せっせせっせ書こう
 来る日も来る日も絡まる ひもに巻かれ
 ビニールかぶった ねこがにゃにゃん
 どろどろの現実から まもるふくろ

 伴奏のメロディーを聴きながら、やみくもに歌った。
 結局、何ら出来事が起こることもなく、互いの連絡先を教えあって別れた。電話番号を教える際にでたらめを言ったのだが、その時私は15桁数字をあげてしまい、ゆぶやんに「電話番号はだいたい10桁だよ、面白い子だ」とツッコまれた。そして、10桁で嘘の電話番号をでっち上げると、またもやゆぶやんが「聞いたこと無い市外局番だけど、県外なの?」と鋭い質問をぶつけてきたが、「ええ、そうなんです」とか言って適当に切り抜けた。
 次のターゲットは歯乃従江という、ワンルームマンションに住む小学生の女の子の家を拝見したいと思ってるんですけれども、いいよね?
 黒と灰色と茶色のマンションが並んでいるんですけど、従江が住んでいるのは黒だと思いますか? 灰色だと思いますか? いいえ、茶色なんです。だから、何だって感じですよね。すいません。
 オートロックが面倒だ。五分かかるインスタントうどん並に面倒だから、空を飛んで目的の部屋に行こうと思ったが、無理に空を飛ぶと謎の倦怠感に包まれるからやめておこう。肩も痛くなるし。勢い余ってベランダの天井に頭ぶつけるかもしれないし。
 五分ほどマンションの玄関で待っていると、右手に木魚を持ったセーラー服の女性が鍵を挿して、忌々しいオートロックが解除され、扉が開いた。
 305号室が従江の部屋なんです。それで、私はそろそろと入るのです。
 従江は口笛でフニクリ・フニクラのメロディーを吹いて、ベランダから外を眺めていた。 小学三年生だったか六年生だったか忘れたが、彼女は三角形のだるまはないのか、そればかりが気になって学校を休むようになったのだが、性格自体はひょうきんで人懐っこく明るい。
 従江は私の姿を見つけても、警戒するどころかすり寄ってきた。彼女の頭を撫でて、警戒心を解く。従江は見上げるようにして、話しかけてきた。
「お姉さん、だーれ?」
「子供なら比較的簡単に願いをかなえられそうだから、デモンストレーション的なノリであなたに欲しいものをあげるんだよ」
「何くれるのー?」
「っていうか、従江ちゃん的には何が欲しいの?」
「ママ・ケーキっていうおもちゃなの」
「それでケーキ作ったりするんだ、すごいねー。三角だるまはどうなのかな」
「それよりママ・ケーキがほしいの、ほしいの」
「ああ、わかったよ。ちゃっちゃっと出すから、目ぇかっ開いて見ときな」
 失敗するのではないかと恐れる気持ちから荒い言葉遣いになってしまった。従江はきょとんとした顔で私を見ている。撫でると、ふわっとした笑顔を取り戻した。私は両手を合わせ、何かを掬い取るような動作を繰り返す。そうしているうちに、物を出現させる能力が発動するの。どこからともなく桜吹雪が現れ、私の周りを包む。実は妖精が散らしていて、彼らは桜を撒いた後でサービス代を要求する。一回につき、三千五百十五円でクレジット払いだ。せこい妖精だ。かといって、桜吹雪の演出を断るのも殺風景でムードが出ないから仕方なく頼んでいるが。
 閃光が走って、掬う手のひらにその光が収まる。光が止んだあと、私の手にあるのはスパチュラだった。能力が失敗した。がっかりした顔の従江に「お母さん喜ぶよー。大事に使ってね」と言って、足早にマンションから去った。
 それから私は失敗を挽回しようと懲りずに色々な人に声をかけ、人助けをしようとしたが、悲惨だった。文学的な少女と付き合いたいと思っている少年にはマラソンが趣味な少女を紹介してしまったし、プログレが好きなOLに演歌のCDを渡してしまったし、オネエキャラに十五キロのダンベルをプレゼントしてしまった。見事にスカッてる。
 イライラして、シェリー酒をがぶ飲みするようになり、どんどん貧乏になっていった。妖精に金を支払えないままでいると、奴らは桜吹雪の代わりに紅しょうがをばら撒き、人助けを妨害する。私の労力・苦労が台無しだ。といっても、どっちみち失敗してしまうんだけどさ。能力が失敗するか、紅しょうがで相手をべちゃべちゃにして怒らせるかの違いくらいか。
 苦しい財政状況をなんとかするべく、くす玉に紙吹雪を入れるバイト、結婚式にて花吹雪を散らすバイトなどしてお金を貯めようとした。
 しかし、くす玉の方は紙吹雪に接着剤を塗ることによって、少しでも後片付けをしやすくしようと余計なことをして、それらを玉の内側に固めてしまうし、結婚式の方は手が滑って花吹雪を花嫁に一気に落としてしまった。ドジっ子シェリ子。
 へっぽこさん。イケイケにへんげるのはいーつだ、なんて妖精がからかう。へんげるというのは変わるという意味だ。
 私は富士山に赴き、福助人形を二十体埋めた。バイト代をはたいて買ったものだ。どこかバチが当たるような気がしたが、福助人形の持つ幸運パワーが富士山にフィードバックして、山の精霊である私にも巡ってきたらいいなと思ったからだ。これが私流のげんかつぎなの。初めて試すから、このげんかつぎが成功するかはわからないが。
 でも、そんなことはどうでもいいのよ。ああ、じわじわ幸運が溶けている。何もかも上手く行きそうだ。無責任にそう思ってみる。
 福助効果か、私の能力はおはぎが欲しい人にぜんざいを出現させる程度にマシになった。以前の私だったらウツボのマリネや渋柿を出してヒンシュクを買っていただろう。
 私が不思議な力でパッと出した物をプレゼントした時、今まではみんな苦笑いや無表情、怒りをこらえていたり、呆れて口がポカーンとなっていたり、そんな風に私を悲しくさせる表情を浮かべていた。
 しかし、もう違う。私は最高の物ガール。プレゼントされてみんな五分咲きから七部咲きくらいの笑顔を浮かべるようになった。よかったよかった。めでたしめでたし。
 快晴な心で街を歩いていたある日のことだった。周りの人々の背がすっごくスモールに見える。背が縮む奇病が流行っているのだろうかと他人事ながら不安になった。いったいどうしたのだろう。このままでは人々は高さ六十センチのぬいぐるみほどの大きさになり、マグカップほどの大きさへ、そして、しまいには幅が小さくなり、ipodくらいの薄さになってしまうかもしれない。
 ふと空を見上げようとして驚いた。頭上のすぐ上に信号機があるんだもの。二分ほど頭の中が?でいっぱいになり、人々が小さくなったのではなく私が大きくなってしまったことを知る。
 そういえば、なんかおかしかった。街行く人の視線がいつもとなんか違った。まるで都会に出没した猿や熊を見るような、変わったものを見る目。ありがたそうに拝んだり、十字を切ったり、驚きで固まっている人もいる。そりゃあ目の前に三、四メートルの女性がいたら、そんなリアクションを取るのも無理もない。
 この状況がプラスとマイナス、どちらに働くか微妙すぎる。突如現れたなんだかすごい使者という風に崇められるか、得体の知れない危険な怪物と判断されて迫害されるかもしれないし。いーや、大丈夫。ポジティブ思考よ。人助けしやすくなるわ、たぶんきっと。
 半ばヤケになりつつ、ゲイバーならぬレズバーというかオナベバーに向かった。カリスマオナベの魅ノ助という人をオネエに名刺を渡される形で紹介されていて、一度会ってみたかった。私が能力ミスっても、そのオネエは一番優しかったし、背がグングン伸びておかしなことになっている今、普通の人よりはわかってくれるのではないか。
 こうしている間にも、前人未到の珍しさのせいか、パシャパシャ写メール撮るヤツばかりいてむかつく。
 魅ノ助が運営するオナベバー「猛花」に着いた。青と黒の色調で統一された店内。花の形のテーブルがビューティフル。魅ノ助は金髪のウルフカットで凛々しい表情の中に女性らしい柔和な部分が残っているが、パッと見全くわからない。巨大な私の姿を見て、魅ノ助はひいぃと悲鳴をあげたが、すぐに「あ、あれ? ずいぶんでかいんだね。驚いたよ、もう」とまともに対応してくれた。
 店に入ろうとしても、身体の半分の所で店の入口にぶつかるから、仕方なく四つんばいになるとテーブル二個分くらいの面積を占めた。すげえ。
 魅ノ助は苺のカクテルを作って私の前に置くと言った。
「君も大変だな。店に入りづらいし。でも、なんかすごいよね」
「史上最強のモデル体型よ。まぁ、靴が合わなくて素足になるしかないのは不便だけど」「で、君はどんな仕事とかしてたんだ? オネエの味恵に聞いたら物をポンポン出す仕事って聞いたけど」
「うーん、仕事っていうか、なんとなくやっている趣味のようなもののようで、でもポリシーは踏まえてるみたいな? 危険なものは出すつもりはないし、最初の頃はなかなか上手く行かなくてラバが欲しい人にユバ渡してしまうようなミスばかりだったけどね」
「なかなか難しいよね。だけど望みどおりのものを渡せなくても、苦しいときはどんなものでも嬉しいんじゃないの?」
「っていうか物が溢れすぎていて、なかなかたぐり寄せられないのかな、わからん」
「難しく考えすぎだよ。例え木綿豆腐が欲しいのに、高野豆腐だったって場合でも豆腐って点では合ってるんだしさ」
「でも、やっぱり本当にその通りのものを渡したいじゃない? でも、なんか色々頑張った結果違ったものになってしまう場合が多いのよ。とりあえずげんかつぎしたり、腕も磨こうかなって思ってるけど」
「腕磨いてからよ」
「そうかな? でも、それで余計に理想から遠のいちゃったらどうしよう」
「私のこの体もまだ理想に近づいたかって言ったら微妙だ。だけど、少しずつ好きなほうへ変えてきたし、そんじょそこらの男より俺はカッコいいと自画自賛してる」
 なんだか言葉を交わすのが面倒になって、ハグした。すると、魅ノ助は力強いような、しかし優しいようなハグを返してきた。微笑みながら、別れた。
 おっと、強烈なエネルギーが届いてくる。困って迷って、陽気なタンゴの上に暗い歌詞を乗せてしまうような感じ。そのエネルギーをバンバン放っている源を探して歩く。
 何時間歩いたかわからないが、くたくたの身体をうっとうしく感じる頃、平屋の前で立ち止まった。まんまるな形のおかしな形の家。メタリックな茶色の半円形の屋根に銀の外壁が個性的。やはりドアまで丸く作られているようだ。
 しっかし、いちいちドアに身体がつかえるのは不愉快で、庭から入ろうと思った私はスミレが咲いている庭に回り、中腰の姿勢をとって、ガラス戸を叩いた。アラサーとアラフォーらしき女性二人が扉越しに立ち、アラサーのほうは十五年ぶりの友人と会ったような顔をしているが、アラフォーのほうはピカピカ笑ってる。
 アラフォーは戸を開けると、心底嬉しそうな顔をして言った。
「あなた、でかいわねー。でも、神様があなたのような者を遣わして、サービスをしてくれるものだと思ってた」
「そう。じゃあ今度富士山に行ってみることですね」
 二人で話していると、アラサーがおずおずと話しかけてきた。
「何もないところですが、上がってください」
 室内に四つんばいで入ると、白のドレッサー、薔薇のカーペット、テーブルといった最小限の部屋で余裕が無いことを知った。
 互いに自己紹介しあった。なぜか彼女たちはフランス風の人名を名乗った。
 アラサーのデボラは広報の仕事中にセクハラに遭い、ブチ切れて無断欠勤して会社を辞めた。アラフォーのダボラは派遣切りに遭い、食品会社をクビになった。
 ダボラ・デボラは親友の仲で、こうして共同生活しているのもだいぶ昔、まだアオバの頃からである。

 そこでいったん妄想を打ち切る。
 まだ自分はアラサーやアラフォーに程遠いが、いつかはなるわけじゃん? 先のことを考えすぎるとモヤモヤしてくるから、あまり考えないけど。
 各年代でどんな風に妄想が変化していくのか、やはり渋みを増すのか、逆に甘酸っぱいストーリーを考えてしまうのかもしれない。ぼんやり平和に過ごしていたいものだ。
 それにしても、出世魚が成長するにつれて呼び名が変化するように、女の場合も変わっていっていいんじゃない? 十代はワカバ、二十代はアオバ、三十代はモミジ、四十代はヤナギって、葉っぱの状態からネーミングしていったら、四十代でいきなり木の名前になってしまったが。
 ダボラ・デボラの部屋がやけに寂しい感じになってしまった。すっからかんな部屋でずっとやってきていたせいか。
 頭の中でシェリ子たちが動き回ってるから形にしないと。

 ダボラ・デボラはしきりに「働きたくない」と連呼していた。だいたいの家具を売って、きびしい生活をしのいでいたが、ついにお金が尽きて食べ物を何も買えなくなってしまった。めっちゃピンチな時に現れたのが私というわけだ。困り果てている彼女たちのために私は能力で魔法の口紅を出した。家に食べ物が全くないって有様になった時、この口紅を塗ると信玄餅が現れる。優れたコストパフォーマンス、っていうかタダ。ダダイズムに満ちたアイテム。
 能力を使っても、もはや桜吹雪も紅しょうがもなく、何の演出もなかったからいっそ花火を勝手につけて盛り上げようかと思ったが、火事になってしまってはさらに仕事が増えるからやめておいた。
 魔法の口紅もらってから、ダボラ・デボラもちろん大喜び。彼女たちが全く私の能力を疑わないのは、常人離れした常識外れな私の長身が信憑性に味方しているからだろう。しかし、塗る間際になってデボラが迷い始めた。
「甘いものだし太るかも……」
 デボラが十五秒、CM一本が流れる分、ためらったが、どうにかなると思い直し、素直に塗った。途端に彼女の目の前に信玄餅が紫の小皿に盛られた状態で現れた。もう狂喜した。ダボラはまだ口紅を塗っていないが、満面の笑みで「あらやだーうれしー。助かるわー、ありがとネー」と言って、どっどっ足音させながらこっちまで近づいてきて、私の頭を撫でた。今まではその場限りにしか役立たないものを出すことしかできなかったが、ほぼ永続的にずっと役立つアイテムを出せるようになったのはすごいんじゃないか。ヤバイ、私。信玄餅でアラサーやアラフォーが救える。で、何でそれらの年代層かというと、十代、二十代よりは切羽詰ってる部分があるだろうし、お局様と呼ばれるくらいに荒んでしまう前に信玄餅で癒したい。癒し系デザート。いや、別にどんなデザートでもいいけど、なぜか信玄餅なんだよね。
 街頭に立って、アラサーやアラフォーのみなさんと呼びかけた。それだけではシーンとして何の反応もなかった。仕方なく苦し紛れのウソをついた。
「三十代、四十代の女性にしか効かない、特殊なダイエットフードがあります。いかがでしょうかー!?」
 本当に苦しいウソだ。しかし、言葉の力は絶大で私の周りをアラサーやアラフォーが囲み始めた。彼女たちは私を見て口々に言った。「あら? これ作り物?」「ロボットにしては巨大よね」「しっかり言葉喋ってるしね」「私たちも食品会社になめられたものね、いじめがいがあるわ」
 ん? 不穏な言動が聞こえたが、まあ魔法の口紅を贈ればなんとかなるはず。フォーク並びをしてくださいと言って、次々に来る女性たちに親切を渡した。が、細かく色々聞かれる。ティラミスとか出せないの? とか和菓子は和菓子でも大福が良いとか口紅からでてくる菓子への注文もあれば、口紅の色は何色? とかどこのブランド? とか口紅について聞かれてうまく答えられず、まいった。
 最後の女性に口紅を渡すところで、オーケストラの音が鳴り響いた。幸運な雰囲気のメロディー。身体がフッと軽くなり、全身が熱くなっていく。視界が真っ白になっていく。だんだん体温が上昇するにつれて軽くなったはずの身体がだんだん重くなっていく。自分自身が無限に広がっていく。まるで世界そのものになってしまったような感覚。間隔なく、全ての感情と景色が自分の中に入っていく。生命力が躍動して、極限まで膨れ上がり、全身を包んでいたそれはだんだん身体の奥に移り、静かに燃えていく。限りなく遠くにあった言葉や音楽が一つの場所に引き寄せられていく。青い空気が私を浄化していく。誕生したばかりの惑星のような、始まりがある。無数の物を生み出す力が始まっていく。
 全てが元に戻った。
 巨大な山になってしまったようだ。あなたの考えた名前で呼んでほしい。たまには登ってほしい。
 私全体に流れる虹色の泉が夜空に輝いていた。マジ光ってた。

妄想の犬

妄想の犬

歩道橋の上で、決まって妄想をしてしまう女の子のヘンテココメディノベル。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • SF
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-08-14

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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