デッドエンド
自殺未遂を止めろ
スパラキシス(すばらしき)一日になるといいな」
商売道具の花を見つめながら、特に何も無く平凡な一日が過ぎていくのに、私は花の名前にかけたダジャレを言って自己流の験担ぎをしているの。この独特なダジャレは義母の蒔さんが時折口にしていたもので、今私は真似してみている。蒔さんならこう言うかな、言うよね、たぶん。っていった具合にね。
あのね、一年前の冬、私は風邪気味で寝ていた、ふかふかのベッドに横たわって。雨が降っていたせいか、客も来ないし、蒔さんは悔しそうに花を撫でながら、「売れなくても気にしない、へこた蓮華草」と言いながら店を閉めたわ、ふふっ。蒔さんはきりたんぽ鍋を作ろうと、近所のスーパーにきりたんぽの材料を買いに行ったの。それで、えっと、見えなかったのか、いや、見ようとしなかったのか、腐った車が蒔さんを轢き逃げしたのだった。はーあっ、詩瑛ちゃんったら、風邪引いちゃって。卵酒用に日本酒と卵も買った、壁にぶつけて二個割れたのはむかつくけれど、早く帰ろう。白い水仙がきれいだね、まあ茉莉花の方が私は好きなんだけど。祭りかって空耳に聞こえて、なんか面白い。冬に茉莉花の祭りを開いて、一部の地方ではクリスマスと並ぶ程の知名度の祭りにしたい。私が発信地。いつか資金を貯めて、大量に茉莉花を購入し、駅前の広場かなんかで飾ってみたいな。駅前の一角がすっかり白に埋まって。大量の茉莉花。盛大な祭りかと人々は勝手に予感。ひょえぇ、これは何ぞと集まる人々。そこにぐんぐんの紳士が、「茉莉花の祭りかぁー、ダジャレから思いつくとは、粋だね、面白いユーモアのあるほんわかとした女性だね。毎日楽しく爆笑の嵐に違いない、胡蝶蘭を君に贈るよ。結婚用の花としてはベタ過ぎるかな?というか、あえて結婚式まで控えといた方が良いかな」ああ、ダメだダメだ、訳の分からない妄想を広げてる場合じゃないよ。妄想を振り切り、よいしょとペダルを踏み、前に漕ぎ出した蒔さんがふわりと宙に浮く。すぐに圧倒的な鉄の固まりの重みがのしかかって、すぐに彼女の何もかもを無くす、無情に永遠に。
二時間経っても、四時間経っても、帰ってこない蒔さんにてっきり私は本屋で花の本を読み漁り、夢中になっているものだと思っていたわ。花にかかると、十時間は休憩を挟みつつも軽く喋り続けられるくらい、蒔さんは花を愛していた。有名でない、無名な花ばかりチョイスして、さらにこれはどういう花なのか、原産地は?花言葉は?花の名の由来は?と質問を繰り出すヤワな店員泣かせの花マニアにも、ダジャレを挟みつつ、丁寧に答える蒔さんが妙にカッコよく見えたな、ビギナーな私には。夢中になって花の本を読んでいるものだと思っていた。テテテテと会計を済ませ、片手に「ベゴニアの執念」とか、そんな感じの珍妙なタイトルの小説が入った本屋のビニール袋を持って。突然の電話。しぶしぶ渋い茶を飲んで、受話器から聞こえてくる音声に耳を澄ます。空間が硬直した。絶望と諦念が染み込んだ、気色の悪い包帯で心の芯をぐるぐる巻きにされたような。
蒔さんの葬式の翌日に私は事件現場を見に行った。花を供えようとは思わない。直接届けられるなら届けたいし、ひき逃げしても捕まらず、恬然としている犯人の車が通過したこの道路。ふぬけの傍観者ばかりのこの道路。不正がまかり通るここよりも、墓に花を供えたい。流れた血液と卵液が混じり合ったのか、奇怪な色の染みになっていた。スーパーを出た時点で雨は止んでいて、悲しい染みは流されることもなく残ったということか。その染みを蒔さんのお気に入りの花で隠してしまいたかった。さっきと言ってること違うね、私。何でなんだろう。残した跡を踏まれるのが嫌なのか、染みを見ていると蒔さんの苦しむ姿が目に浮かぶようで嫌なのか。それとも、と花を飾ろうかどうかといった気分にさせた理由を考え続けようとしたけれど、虚無的な想いがじわじわ広がって駄目だった。私はしばらく立ち尽くし、行き場の無い感情に煩悶していた。でも、違うな、ここで悩むのはと思い、シャッターに貼った臨時休業の紙をなるべく早く剥がさなきゃ。剥がさなきゃ。私は二度呟いて、店へ駆け出した。
だらんと椅子に座って、カラフルな花を見つめつつ、目の裏から蒔さんが離れなかった。二週間、ずっとこうしている。どうにもならない。って暗い、まるで枯れ気味の菊の花びらをむしり取る感じね、この有様じゃ。紙を破り捨てるように、菊を藪蘭でも良いじゃないのとダジャレを吐いて、無理に明るくしようとして、余計に落ち込んで。葬式の席。実子でも無いし、蒔さんの親戚に反対されるかと思いきや、私が花屋を継ぐことを快く承諾して、優しさを思い出して泣いて。仕事を終え、店を閉めるとき決まっていつも蒔さんは、「チャイブ疲れてるのね」と言って、私はクスッと笑う。手荒れしてひびの入った小さい手。パーマを毛先にかけた茶色のくるくるしたロングの髪も。ダジャレももう聞こえてこない。できれば、一ヶ月でも何ヶ月でも休んでしまいたかった。しかし、そのせいで潰れたと思われるのは困るし、客足が途絶えてしまう。そうすると、蒔さんが蒔いた種を私がおじゃんにしてしまうことになる。どうにかして、何とかしないと。立ち上がらないとね。棺桶に横たわる、うたた寝しているような死に顔じゃなく、へらへらっとしてダジャレを飛ばしまくる元気な顔を思い浮かべて、私は虚空に向かって笑わせてよと言った。それから、蒔さんの遺影を優しく撫で、観念上の鉢巻きを頭に締めた。ぐんっと気が引き締まった気がした。
特に高校に行く気も無く、16歳の頃から店では働いていた。蒔さんは、「学費出すから高校行ってみたら?」と言ってくれたけれど、中学1年生の時に苛められて以来、学校に対するモチベーションは霧消してしまったし、私としては蒔さんと一緒にいれればそれで満足だったの。大多数のどうでもいい人間と接するより、本当に大切な人と過ごしたい気持ちは間違っているかな?最初はぐちゃぐちゃに花を切ってしまい、陰惨無残な感じ、てーんでダメで本当にこの仕事が務まるのか、ああもう、とネガティブな妄想が炸裂し、花の墓場と化した店内で号泣する私と蒔さんが浮かんだりした。三年寝太郎、違った、三年かけて一人前になれたかと聞かれたら自信は無いけど、0.75人前くらいには成長できたのかなあ。もう19歳か、来年成人式か、でも私は行かないで花を売ってよう。それが蒔さんへの恩返し。もう……いないけどね。客は20分に一人来るか来ないか。朝10時から20時までが営業時間で、13時から14時まで昼休み、私は菓子パン食べながら蒔さんの残した本読んでる。可憐な花ね、新しく仕入れたいけど何削ったらいいかなって具合に。一日三十人来れば良い方で、雨の日はだいたい赤字。けっこう売れ残って、ちょっとヤバイ感じだねと花を見つつ、へこた蓮華草と蒔さんの声の抑揚・調子を再現しようと私は真似を相変わらずしている。明るく、柔らかい蒔さんの声色をイメージしながら。しょんぼりした花に水あげて、そういえば蒔さんは花をしきりに撫でてたなと思い出し始めると、あれっ、感情が溢れた水みたいになって、ぐすんぐすん泣いてしまうからガマンガマン。
腰の曲がったお爺ちゃん、帰宅途中のOLとサラリーマンのカップル、自称ミュージシャンと思しき、下唇の下に髭を生やした二十代後半くらいの男に花を売っていく。福寿草、スノードロップ、オレンジで統一したアレンジ物、ヒマラヤユキノシタ。もうそろそろ閉店って時に、高級毛皮着た女。店で一番高い花を買っていきそうね、儲かる儲かると喜んだのも束の間、1本130円のガーベラを5本選んだ。何だ、もっと高価な花を買うかと思っていた私は内心うな垂れていた。でも、こんなことを思っている自分が拝金主義的で浅ましい。女は負と負を足した、やけっぱちな明るさを会話や挙動に漂わせていた。苦労しなくても金が手に入る、私は運に恵まれているからと豪語する女がどこか哀れに見えた。一歩間違えれば、私もこの女みたいになってしまうのか。慢心に注意しないとねって、女を見ながら、もしやこの人は!?とある予感を覚え冷や汗がつるつる滑り、流れる錯覚がした。この世の全てがくだらない、つまらないといった、虚無的な笑いがちらちら見える。
そして、その笑いを一時期の私が常に表していたから、勘でわかるの。絶望的なニーチェの言葉に一番共鳴してしまうような。強い自殺願望が身体中に渦巻いて、ある日爆発し、様々な方法で命を絶とうとする、それは未練の集大成。
「すいません、あなたは今、なんかこう、人生が途轍もなく無味乾燥していて、本当はうんざりしているように見えたんです」
笑い飛ばされると思ったのに。あ、と少し驚いた声をあげ、それからじっと黙っている女。見開かれた女の目が怒りを意味しているのか、驚きを意味しているのか判別不能。覚悟していた通りの気まずい沈黙が流れて。
「あはははは、わかっちゃうんだ。怖い怖い、ねぇ、何で。ねえってば。みすぼらしい私の足跡にみすぼらしい花を飾って、薬を大量に飲んで、ふふっ、楽に死にたかったのに」
今度は私がうろたえる番だったわ。失礼を承知で、嫌な予感を勝手に信じて言っただけなのに。ただ黙っていると、耐えかねて女が口を開いた。
「でも一応やめよっかな。明日時間空いてる?さっきまで死にたがっていた自分が馬鹿みたいでさ、遊びたいんだ。ぱーっと」
このまま放置したら、また女は自殺願望を復活させ、命をすっぱり絶つかもしれない。そう思うと、本来は花屋を切り盛りするべきなのに、この女の誘いを断れる訳でもなく、そもそも自分から女の暗部を詮索し、暴いてしまったのだから、付き合わないのも不義理じゃないか。戸惑いが私の中に埋め込まれた感情メーターを振り切って、やれない気分になった私はうつむきがちになって、接客中なんだからと慌てて顔を上げると能面のような無表情が見つめていて、ヒヤリとして。
明日の13時にね。駅前の時計台の前で女と会う約束をした。自己を一切殺した能面フェイスをやけっぱちスマイルに切り替え、女はケラケラ笑っていた。ケラケラと。
灰色の時計台の陰から女はぬっと出てきて、その時私は背後の女に気付かず、何だ、来てないじゃない。騙された、むかつくと軽く憤っていた。やにわに視界が遮断。社団法人ブラックアウト。私は突然の目隠しにわあっと驚いたよ。こちらが誰ですか、何の用ですかと問うても無言。ははっ、どうせドラマかなんかの撮影だろう、ってんで人々は無関心で私は訳の分からない男か女に誘拐される。あわわ。白昼の駅前で。三十秒ほど経ったところで、ガタガタ震える私の肩にポンと置いて、びっくりした?と聞く女が小憎らしかった。互いに自らの名前を名乗りあって。偽名かもしれないけど。
「栗野詩瑛といいます」
「しえちゃんね、よろしく。胞弊むじなっていうんだ」
ほうへい?と漢字をうまく思い浮かべられないでいる私に、やっぱりわからないよねと呟きながらむじなは携帯をバッグから取り出すと、ぐじぐじ打ち始めた。じぐざぐに動く蒼白い親指。打ち終わったむじなが私の眼前にさっと携帯を突き出す。携帯の画面に映るその苗字は胞子の胞に弊害の弊と、ずいぶん不吉そう、気色の悪い、策略を尽くして人を破滅させるのを無上の喜びにしていそうな感じがして。猛毒の茸が心に巣食っていて、主に生えているのは「悪意」「呪詛」「滅亡」の三種類。それらの毒に蝕まれ、悪役として世界に存在しているのか、むじなよ。いやいや、名前だけで人を判断するなんてのも愚の骨頂かもね、反省反省。「じゃあ行こうか」と言うむじなについて行った。横に並んで、平凡な道を歩いた。駅から離れるように。
和骨董屋の店先。一時間ほど品定めをして、印籠、市松人形、大黒、十手を購入したむじな。総額31万4千500円也。一日の売り上げの約六倍で、今まで生きてきて私はこんな贅沢したことは無いな。しかも現金払い!?大量の札束が眩しくて、羨ましくて血の涙が出そう。ううむ、資産家の令嬢か、または大企業の部長クラス辺りの娘か。だけど、そうして値の張る骨董品を買ったのに、ちっともむじなは嬉しそうではなく、禿げ頭でくたっとした着物姿の店主へ作り笑いを浮かべている。
店を出て、さっそくむじなは十手を取り出すと、ちゃきっと右手にこれを構え与力気分で、不敵な笑みを浮かべつつ、私の背中をつんつん突いてきてうざい。つんつんつんつんつんつんつんつん、ああああっ。私は無実なのに。何もやっていないのに。くるくる回って避けていると、諦めたむじなは十手をそこらに捨ててしまった。ぽーんと。地面にぶつかる瞬間、十手はちゃりちゃりちゃりーん、とは音を立てず、「ひいいっ」と貧弱な男の声で何とも人間じみた悲鳴が十手から発せられたなら、捨てられた十手の悲哀が擬人化されていて面白いけれど、もちろんそんなことはない。ごつっとありきたりな効果音を発して、道路に十手が転がった。買って間もないと言うのに、勝手気ままな態度で貴重な江戸時代の十手を仕入れるまでの禿げ店主の苦労をふいにするような、って一介の花屋の店主の私が骨董屋のシステムなど知る由も無いが、もしかすると、店の品物を盗もうとする泥棒に十手で応戦し、苦闘の末に撃退したといったエピソードがあるかもしれないじゃない。むじなの捨て三宝な行為に好意を抱ける訳は無い。というか、彼女の行為からどこまでも腐りきった下衆な人間だということは容易に想像できる。
人気の少ない脇道を歩く。疲れて立ち止まったむじなの影が染み出した心の闇に見えて、少しブルブル震えた。
夜の河原は肌寒く、しかも今は冬で、こんなことなら途中に服屋にでも寄ってジャンパーでもコートでも買っておくべきだった。芝生に散ったフロッピーディスク、CD、DVDがシュール。これは錯乱したむじなが投げたもので、15分前から涙を突然流し始め、電器店の袋からそれらを取り出し、ビリビリ包装を破いてあはあは泣き笑いながら、最初にフロッピーをシュッシュさせた。むじなは狂気を露にしたのだった。ビビッた私は呆然と見ていた。宙に舞って、きらきら輝きながら、CDが描く鮮やかな残像を。
「私の人生なんて腐ってる。記録するほどの物でもない。あはは、舞え舞え。CDの破片を体中に刺して死んだら記録に残るかな、愚かな記録よねぇ」
とか言っていた気がする。あまりの豹変ぶりに、どうしていいかわからなかった。そりゃそうでしょう。いきなりCDばら撒くんですよ、30枚くらい。今も静かな空間に狂った笑い声が響いていた。むじなの声と共にやがて私の声も狂気を帯びて。となったら楽なのかもしれないけど、正気だ。このまま放置した場合、うるせぇな、うわっ、変な女がCDばら撒いてる、危ねえ、通報しようって近隣住民に通報される恐れがあるし、通りがかった人が警察に私がCDをばら撒かせて暴れさせたのではと嘘の証言をする可能性がないとはいえない。暴走を止めようと思ったが、平手打ちは暴力的で嫌だし、両腕を押さえようとしても抵抗したむじなに突き飛ばされるだろう。私はMDを投げ始めたむじなを抱きしめた。額に思いっきりMDが当たって痛い。私の行動を見て、「レズか?」と的外れで場違いな指摘をする人がいそうだが、人間がそんなに好きではないんだな、これが。同性であれ、異性であれ、愛すことができる人はある点では正常なんじゃないですか。ぽっちゃりした体を抱きしめながら、訳の分からない自問自答をしていたら。
「さっきから見てたけど、何だおい。散らばったゴミどうすんだよ、ええ?嬢ちゃんよ、その頭イカレタ姉ちゃん病院に連れてかねえのか」
右斜め上からタチの悪い50代くらいの男の怒声。坂の上の道路から芝生の私たちを見下ろしている。面倒くさいことになったな。腕の中で泣き続けているむじなを一緒に逃げるために引き離し、手を掴んで走った。覚束ない足取りで遅れつつもついてくる。まだ怒声はわずかに聞こえてくる。声を押し殺して橋の下まで逃げ切った。はあ。ほっとしたら無性にココアが飲みたくなった。橋脚にもたれかけるようにして、うとうとし始めたむじなの様子を見て、ようやく落ち着いたと安心して自販機を探しに行った。
午前1時。眠っていたむじなが目を覚ました。ありとあらゆる物事を放擲した、どろっとした目ではなくて、まともな目。よかった、とりあえず正気に戻ったようで。むじなが眠っている間、手持ち無沙汰な私は携帯の光で起こしてしまわないように彼女から離れて猫のブログを見ていた。可愛い猫に微笑みが止まらない。マタタビを取り扱い商品に含めようか半分本気で悩んだ。捨て猫を拾ったといった日記を見る度、ぎゅうと胸が締め付けられた。野ざらしにされている猫が。ノザラシ?路傍に捨てられ困惑する猫を想像するうち、悲しみと混乱が拡大してきたので、飛び跳ねる猫を真似して飛び跳ねた。そうした物音にむじなが起きてしまったのかもしれないな。追想する私の肩を叩くむじなは錯乱したことを謝ると、まだ行きたい所があるという。日が昇ってからにしないのと説得しても、むじなは立ち上がり、河原の上へと続く階段に向かって歩き出した。住宅街を通過し、たどり着いたのは最近潰れたらしい缶詰の工場前。自販機が孤独に光っている。
「ここなら大丈夫そう。ぐっと刺して、早く私を楽にしてよ」
「し、死なないって言ったのに」
「私が死のうと思ってるのは男に捨てられた訳でもないし、友達に裏切られた訳でもないわ。いつでも超えられない。スポーツをやっても、バンドをやっても上には上がいて、っていうのも嘘。本当のことなんて誰にも言いたくないわ、あなたにも。まぁ、昼間の骨董屋の支払いは借金なんだけどね」
「少しずつだけど、払おうか?」
正直何で私が昨日会ったばかりのこの女に同情をして、甘っちょろい言葉をかけてしまっているが、命がかかってるからで、払うかボケ、さっさと死ねなんて言うことは虚栄心が邪魔をして冗談でも言えない。救いのない現実ばかりで嫌になる。
「あはは、そんな必要ないわ。これから死ぬんだし。借金苦とか思わないでよね。つまらないから死ぬの」
「本当にそう思ってるの」
「うーん、っていうか、もはや意味なんて無いのかな。死んでみたいから死にたい」
そう言って、バッグからナイフを取り出し、私に渡そうとする。私の手で刺し殺させようと思ってるのだろうが、なぜ人の命を握らなきゃいけないのか、必死に首を振って拒絶するけれども、ぐいぐい柄を押し当ててくる。押し当てるのをやめ、右手でナイフを持ったまま、何を思いついたのか空いている左手で私の右腕の長袖をめくる。駄目だ、やめて欲しい、私がこの女の自殺衝動を見抜いたように、女にもかつての私の苦悩を見破る力があったのか?
「あーあ、やっぱりか。あると思ったんだ、リスカの傷。ずいぶん浅いね、大したことないじゃん」
じろじろと腕の古傷を観察し、思慮に欠ける言葉をぶつけてくる女に怒りを覚え、腕を強く振りほどいた。
「いきなり人の傷見ないでよ!!何、あんたに何がわかるの。最低な女ね」
「早く刺してよ、腕をめくって傷を見たのは謝るわ。ねえ、早く刺してよ」
いくら頭に血が昇っていても、女の要求に答える訳にはいかない。私は誰かが止めに入ってくれることを願ったが、真夜中に誰かが通りかかるはずもない。このまま拒み続けても、女はナイフを握らせようとするだろう。
「わかった。ナイフで刺してあげるよ」
女からナイフを受け取るとき、わずかに震えていた。
「腐りきった世の中だけど、それでも生きようとは思わないの」
ナイフを握り締めたまま、女に説得を試みる。
「腐りきった世の中だから、死ぬんじゃない」
私としては女が走りながら刃に近寄って来る前に、禍々しいナイフを足元に転がして蹴飛ばすつもりだった。しかし、素早く私の腕を掴むと彼女は自らの腹部に引っ張る。さらに腕から手に移動して、私の手の上に自らの手を重ね、ナイフを離せないようにする。
「嫌だ……嫌、やめて。私は誰も殺したくない」
女が全体重をかけて、ナイフへ寄りかかる。命が寄りかかる。腹部にめりこんだナイフを持つ右腕が望まざる熱に触れる。飛び散る血飛沫を見ながら、女の自殺の理由は私を破滅させるためだったのか?そう漠然と考えた。
私は人を殺めてしまった。不可抗力とはいえ、半分は殺したようなものだ。ぶん殴ってでも止めるべきだったのに、まどろっこしい手段を取って結局自殺幇助する形になってしまった。花屋の運営が軌道に乗り始めたばかりだったのに。全ての感覚がマヒして、もうどうでもよかった。蒔さんに申し訳ない気持ちで涙が止まらなかった。
「罪悪感に呑まれすぎて、死んでしまうな、君は。僕が代わりに埋めてきてやろう、その死体。でもその前に」
少年の声の後に、ノイジーなギターの轟音。木の幹に、四角形の映像がはみ出るように映し出されている。何だか催眠術にかかったように、この映像を見るしかないといった気分になって、画面を食い入るように見つめた。あらゆる色が放射状に伸びている。その中の白色がみるみる膨張し、白い部屋にぽつんと一つの木製のドアの場面になって。ぐにゃぐにゃと木製のドアが溶けて液体になって、その液体が下から上へ吸い取られるように、まるで逆再生のような感じで酒場のグラスへ戻っていく。グラスは何度も砕けては元の形に戻るのを繰り返し、脈絡もなく画面は真っ暗になった。これで終わりかとぼんやり思っていると、突如おてもやんが目から白いビームを出しながら降りてくる。赤い翼を生やしたおてもやん。目から発射される白いビームが渦になって、その渦が画面をはみ出し、私めがけて飛んでくる。白く染まる視界の中で、罪悪感の代わりに贖罪をしなければならない意識が芽生えた。と思ったら、猛烈に贖罪をする、さっきは自殺を止めるどころか、半ば手助けするような方向へ進んでしまったが、しゃにむに食い止めないとヤバイといった感じで。疲れきって座り込み目を閉じた瞬間、ロレフの残骸という言葉が浮かんで、すぐに意識が野草に溶けてく心地。水のように。
私はベルトコンベアーに寝かされていた。体中が魚臭い、ああ気持ち悪い。ん、どういうこと?無用になったサバとかイワシとかあんきもとかの缶詰工場を少年が勝手に占拠していて、しょうがねえ、かったるいけど通報されて本当のこと言われても困るし、可哀想だ。まず死体片付けなきゃいけないし、ひとまず置いとこう、サバ臭くなっても恨むなよってどこに寝かせるか悩んだ少年はイタズラ心を働かせ、私をベルトコンベアーに寝かせ、ははっ、缶詰や回転寿司の気分を味わえるんだぜ、幸せだろって嘯いたのか。まあ、そんなところだろう。にしても、少年は戻ってこない。声だけしかわからないから、もしかすると少年のような声の少女とも考えられるけれど。あの意味不明な映像は何だったのだろう。携帯は充電切れだし、退屈でひび割れた床をぼーっと見つめていた。扉から射す光がまぶしい。ダダダダダダダダダダダと猛ダッシュな勢いで現れた少年。
「お前イワシ臭いぞ」
立ち止まって軽く私の血圧を上昇させると、また走り出す少年。制服着てればやんちゃな中学生って感じ。
「あの時さ、エロ本探してたら君らがあんなことしてて驚いた。君の罪悪感を消した代償は何もないよ。歴史的な偉人は何の見返りもなく、善行、困った人に巣食ってるダーク取ってソウルを救ってるよね。自殺を止めようっていう僕の発想はひょっとすると偽善的でええ格好しいなだけなのか?でも、自己満足に終わっても良いじゃないか。あなただって人が救いたかったんだろう」
一気にまくしたてる少年。うん、私はかつて蒔さんに救われたように、あの女を救いたかったのだ。狢のように善意を悪意に化かされたけれど。
カミソリみたいに鋭く輝く新月。形自体は似ていないけど、鋭利で刺したら痛そうだなあと思う。凶悪なメロディを持った言葉が胸に突き刺さって、17歳の私にはまだ闇がどす黒く残っていた。洗面所に散った赤い血がアマリリスに変わったら綺麗だけれど、だらだらと血が垂れ落ちるだけだ。そっとカミソリを押し当てる。さっき切った所より2cm下にしよう。傷口から真実が見えるような気がしていた。辛い過去が血液になって流れ去ったらどんなに楽だろう。新しい傷を作ろうと再びカミソリを構えようとした。ガチャッ。扉が開いて、蒔さんが立っていた。歯磨きをしようとしていたのかな。蒔さんは一瞬驚き、穏やかな笑みを浮かべてゆっくりと私の隣に来ると、腕の傷を指でなぞって、「ふふっ、痛いよね。でも、切るのは野菜と嫌いな人との縁くらいにしなさいな」と静かに寄り添うように言った。傷を指でなぞったのは痛みは共有できなくても、傷の感触だけでも知って、そこに傷があることを確かに知りたかったからか。しらたきのように不安定でプルプルだった精神を蒔さんは結んでくれたのだった。押せばすぐに千切れる脆さ、何十本もわさわさあって不気味でこんがらがっている感じも当時の自分を例えるならしらたきじゃないかと思うの、私は。記憶をなぞっていたら、少年が割り込んできて。
「おーい、何を考えてたんだ」
「しらたきみたいな脆さってわかる?」
「訳分からないよ。これからどうする?」
「早く花屋に戻って花の世話しないとまずい」
「ああっ、花屋やってるんだ。お客さんの中で不安定な人がいたら声をかけてみてはどうか」
「わかったわ。っていうか、あなた家はどこなの」
「グミの家とかメルヘン的な答え方をしてはぐらかしたいけれども、道路に立っていたところから記憶が始まってて」
「ってことは住む所がないってこと?」
「まあ、正確には家出したんだけどね」
ホームレスかと思わせて家出少年か。
「で、ふらふら渡り歩くうちこの工場を見つけて根城にしてたんだ」
「そうそう。いやー、ここ寒いし電気もないし、姉さんについてっちゃ駄目かな」
嫌だと即答したかったが、悪そうな奴では無いし、ビラ配りでもさせれば良いかと思い、少年がついてくること、また家に住み始めることをOKした。
一階が店舗で、二階は居住空間。店舗はレジの奥に休憩室みたいな小さい部屋がちょこんとあって、そこに蒔さんの遺影を置いている。蒔さんの部屋は物置になっていて使用不能だし、私の部屋はあり得ないし、リビングを少年にあてがった。明日から店は再開、まだ午後2時だし、暇ね、どうしようってなった私は蒔さんの部屋へ。たまに落ち込んでどうしようもない時、ついつい蒔さんの部屋に入ってそこらじゅうに散らばる遺品を見る。花柄のノート、作文、愛読していた園芸雑誌、花をタイトルにしたCD、ニゲラの種などを見ているとつくづく花が好きだったんだなあと思う。花柄のノートには花を育てていくコツ、ある花の好きなポイントが、「ベロペロネの淡い赤が滲んでいる感じ好きなのよね」というように書かれてるのだけど、学の浅い私にはベロペロネが何の花だかわからず、しばらくクエスチョンマークが満たされて、その言葉の響きから近寄って眺めるやいなや、顔中を舌で舐めようとする人懐っこい花が浮かんできて、シュールな光景に爆笑してしまった。探索を続けていると、花柄でもなく、普通な実にシンプルなノートがあった。今更だけど、読むことを躊躇し、ノートを片手に持ったまま中身を想像した。高校か大学辺りで取ったノートか?でも、名前も教科も書いてないから、個人的な私用に使用したノートだろう。花にまつわるスクラップノートだろうか。または嫌いな花と花の特徴を掛け合わせることにより好きになるかもしれない、つまり、「ボリジの剛毛がもしゃっとなった感じをペンタスくらいにすっきりさせたいのよね」と花に対する個人的な理想・夢想が書かれているのだろうか。悩んだ挙句、ええいっ、蒔さんはこういうこと咎めるタイプじゃなかったし、私は振り返るのだ、憧れの人のノートを見たいのだから見ようって優しく開いた。スローリィにページを。目に入ってきたピンク色の花の写真。六枚の花びらのうち、下三枚に赤い斑点。写真の下には、蒔さんの筆跡で詩が書かれていた。幼児向けの絵本に載っているような、童心に帰らせる素朴な詩。
アノマテカがあるのは
あのまちか
はなびらにあかいてん
ぽつぽつぽつ
みっつついているのはね
さんかいてれたからだるまそう
このダジャレを盛り込まれた詩を子供が聞いたところで達磨草が何だかわからず、親御さんに尋ねる。尋ねられた親はそんなマニアックな花が出てくるとは夢にも思わないから子供の無邪気な質問に狼狽し、「ええっ、うーん。お父さんわからないなあ、達磨チックな草花なんだろうか。それ以前に達磨草と言うからには草なのか?フェイントで花?ううむ、うむむむむむ。花屋行ってこよう」と言って、達磨草を買ってこようとするのだけど、花屋の店員に、「こいつは達磨草すら知らないのか、ははっ、呆れた。お引取り願いたい」となめられ追い払われるのではないかと恐れ、図書館に立ち寄り、事前に達磨草なる面妖な名の花を調べようとする父親。しかし、ページをめくれどもめくれども、全く達磨草にはたどり着けず、発狂しそうな精神を抑え、ついには会社を辞め花屋の店員になり修業を積むことで、達磨草の正体を突き止めようと奔走するそんな涙ぐましい努力をしてしまう父親を想像してしまった。アノマテカと達磨草が生んだ妙ちくりんな悲劇。
それから私はノートを一通り読んで、ほんわかを貯めて心を朱色橙色琥珀色にしてから、部屋を出た。
リビングで少年がひいひい言っていた。一体どうしたのだろう?
「悶絶してるけど、何が起きたの?」
「余りにも、がはっ、ヒマなもんで、だ、台所の唐辛子を舐めて、ごほっ、たら、最初は大丈夫、ああああ、だったけど」
「けど?」
やたら咳き込む少年の顔が真っ赤だ、茹でダコみたいだ。
「辛子やワサビなどと比較するうち、三種の辛味が、ごほごほっ、ぐわぐわ来てこのザマさ」
しょうがないなあと呆れつつ、私はある物を取りに行った。
「ごほっ、氷か、がはっ、こんなんで効果あるのか」
そうよ、氷じゃいけないの?少年は疑わしげな目でマグカップいっぱいに入った氷を見ている。舌を麻痺させたら、まぁ、たぶん辛味をわからなくなるかもしれないと思ったのに。なんとなく効果あると思ったのに、なけなしの気遣いを反古にするボーイだ。
「ここ置いとくから」
私はそう言って、しゅっ、または、さっ、ってな感じにそそくさと自室に戻った。
三週間が過ぎた。出会って3日目の午後3時33分、ビラ配りを終え、戻ってきた少年が切り出した。
「あれっ、姉ちゃんに名前名乗ったっけ、どうだったっけ?」
「ん?まだ聞いてないよ」
少年は天川映と名乗った。映と瑛で漢字が似てるなと思いつつ私も名乗る。
「なんか名前の漢字が似てるよね」
「そうかな、僕にはわからないけど」
どこまでもつれないな。
で、三週間ずっと他愛もない話はしていたけれど、映にむじなの死体はどこへ埋めたのか聞き出せずにいた。というより、映が持っている謎の能力により、罪悪感はすっかり消え失せ、不可抗力だし、まぁ、仕方ない、前に進むしかないって思えるようになって、三週間前の出来事が遥か昔のことのように感じられる。といった状態なんだ、今の私って。おっ。少女が入店したぞ。はて、浮かない顔をしている。映と同い年くらいに見えるその少女の表情は翳りに翳っていて、肩を何千回も撫でれば元気になるかな?なるかな?私は一人の命すら救えねえ屑野郎だけど、やはり救えないままなんだろうかと絶望しかけ、やりきれなくなって俯いた。
「あの子、ちょっと話聞いてみた方が良いのではないか」
映が私の耳元で囁く。その大人びた口調は何なの。14歳のくせに。わかっている、へこたれている場合ではないのは。今の所、傍観者ではいられない。
「こんにちは、今日は学校とかは休みなのかな」
「は、はい。学校は行っていないんです、病弱なので」
「大丈夫よ、私は中学までしか行ってないから。学校は意外とつまらないよ」
「そ、そうなんですか。花屋はいつからやっているんですか」
「16の頃からやってるよ。元気になったらここで働いてみる?」
少女にこんなことを言ったのは社交辞令というか、やる気のないその場限りの言葉でなく、もう一人くらいなら雇える余裕があったからだ。
「そうしたいですけど、体が言うことを聞いてくれないんです」
「良かったらさ、話を聞かせてくれないかな」
休憩室に少女を連れて、映は店番。という訳にいかないのはまだ彼にビラ配りと掃除以外は教えてないからで、店を閉めることにした。早目に教えないとな。
「僕、映といいます。よろしく」
なぜにお前が最初に名乗り出す?まあ、いいか。
「私は一応店長の栗野詩瑛っていうけど、そこの写真の……」
と私は置いてあるはずの蒔さんの遺影を指して紹介をしようとしたのだけど、映が来てからすぐにその遺影を自室に移動させていたのを忘れていた。余程親しくなってから、そのことに触れればいい、今はやめておこうと思った私ははぐらかした。
「いやー、そこの本棚の角度が気に入っていて、写真に撮りたいくらいなの」
映も少女もぽかーんとしていた。自己紹介の話題から、突然本棚の角度の話題にされても困惑されるのは当然だ。
「お前そんなに本棚好きだったんだ」
「まあ、花には負けるけどね」
むむっ、映がフォローしてくるとは。少女は名前を名乗るチャンスを失っているように見える。まずいぞ、これは。
「ごめんごめん。あなたは名前何ていうの」
「由良漣乃です。何から話せば良いのか……」
「大して力になれないかもしれないけど、話してみてよ」
漣乃は陰惨無残な人生を送っていて、父と母は生まれてすぐに火事で亡くなり、12歳年の離れた姉と暮らしているが、男に捨てられ仕事をクビになるなどするうち、姉の精神状態は悪化を極め、リズムを取りながら家具を破壊、漣乃に強引に酒を勧め、嫌がると姉は体に酒をかけつつフラフラ踊り、日中はずっと踊り狂っているという。家庭の経済は困窮し、パンの耳や野草でつないでいるが、正直苦しいといって漣乃は泣いた。
やっぱり私にはできないなと漣乃の話を聞いて思った。ってことは、やはり偽善的で、困っている人に何かお困りですかって尋ねては、うわーん、私にはできないと人助けから逃れる臆病者の屑野郎なのか、私は。ああ、凶悪なメロディがずんずんと迫ってきて、ボリュームが少しずつ上がっていく。もうカミソリは捨てたのに。自分のことだけで精一杯なのに、他人を救える訳もないか。そう私が絶望に呑まれかけ、煩悶していると映の声。
「大丈夫です、どうにかなります。漣乃ちゃんのお宅はどこにあるのかな」
「霙町の方です」
隣町か。映め、安請け合いしてお前の方こそ大丈夫なのか?裏口から私たちは出て、霙町方面へ向かう。空は曇っていた。足が重かった。
15分ほど歩いて漣乃の家に着いた。借家で、家賃を滞納しているが大家が70過ぎの老人で催促はしてこないという。耄碌しているか、余程のお人好しなんだろう。家はしんと静まり返っていて、ダンスミュージックは聞こえてこない。ガラスの代わりにところどころ破れた緩衝材が貼られた玄関のドアを開けて、由良家の中に入った。三和土にはひしゃげた空気清浄機。その脇を通り、廊下に散らばるビリビリに破かれた本やへし折れた筆記具を越え、その半狂人と化した姉が呪詛を唱えているであろう部屋の前で私は自分の運命を呪った。ああああ、面倒くさいことに巻き込まれてしまった。修羅場が待ち受けていると思うと、逃げ帰りたい気分になった。涼しい顔をして映が勢い良くドアを開けた。ぐんぐん部屋に入っていく彼に、そろそろと私たちも続く。ボコボコ空いた壁の穴が強烈で。
「警告の渓谷を、何で渡れないの?そういえば無地のシャツに曼荼羅模様が浮き出てさ、はっきりと見えた。うん、あははは鈍ちゃん、食べすぎよ胃もたれるよ」
虚空に向かって、漣乃の姉は話しかけていた。乱れたパジャマを着て。淀んだ目で。映は私たちに部屋を出て行くように言った。何をする気なんだろうか。30秒ほど経って、悲鳴が聞こえてきた。
「あみょみょ、愚心愚心のジャンボ藻草、だんだららだんだピョウ」
明らかに漣乃の姉はさっきよりも狂気に近づいている。急いでドアを開ける。そこには頭をかき乱し、時計の長針をバウムクーヘンに刺して遊んでいる哀れな漣乃の姉の姿があった。
「はははっ、人間って狂うとこうなるのかな。僕の能力はこういう風にも使える」
「ふざけないでっ、早くなんとかしなさい」
「わかりましたよ。今のはデモンストレーション、準備体操みたいなもんだったんだけど」
映は懐からつまようじを取り出すと、先端が輝きだし、映像を放った。黒い蝶の形した皿に乗ったショートケーキの白がズームアップ。視点を元に戻していくと城壁に変わっていた。そして部屋一面を満たす眩い光。光。光で何も見えやしない。光が止んだ。きょろきょろと私たちを眺め回し、漣乃の姉が口を開いた。
「あら、漣乃の友達かしら。私橙乃というわ。確かに部屋を壊した記憶はあるのだけど、自暴自棄になっていて、昔読んだ小説のシーンを再現してみたかったのかな。でも、まさか本当にやっちゃうなんてね。うっわあ、修理費かかるわね、ごめん、掃除するから外行っててくれないかしら?」
胸を撫で下ろし、私たちは近くの公園に行った。
天晴れなほどに何も無い公園だった。ベンチが中央に置いてあって、座っても何だか落ち着かない。それと、申し訳程度に木が2、3本あるくらい。やる気のない公園だ。公園に着くなり、溜息をついた映は、「ちょっと漫画喫茶行ってくる」と言ってたったったっと行ってしまった。重々しく小さな声で左に座る漣乃が話し出したので、私はすいっとレフトに身体を移動させ、耳を傾けた。
「あの……姉が元気な頃に戻って良かったです。ありがとうございました」
「うん、どういたしまして」
「でも、もう疲れちゃったんですよね。どうせ学校には行けないし……詩瑛さんは生きてて良かったと思いますか」
ガツンとヘヴィーな質問をぶつけられ、メチャメチャに私は悩み、うーん、あれっ、良いことなかったなあと思った。生みの親には虐げられ、14歳の冬休み、花屋の店先をこの少女のようにじろじろ眺めてたら蒔さんに声かけられて、二年くらいはただ店に行く程度だったけど、ある日色々事情を話したらうちに来る?って聞かれ、言われるまでもなく栗野家の一員になった。蒔さんがバツイチだったこともついでに知ったけれど、男の方に問題があったのだろう。にしても、その蒔さんも死んでしまうし、訳の分からない女を構ったばかりに自殺幇助の手助けを結果的にはしたようなしていないようなことにもなるし、ツイてないっちゃツイてない。でも、どっこい生きてるんでえ。生きてんだよ、馬鹿野郎。時間にして5秒くらいで右の自問自答を終わらせ、私は答えた。
「そんなに良いことなんてなかったけど、なんとかなるんじゃない」
もっ、ぜーんぜん良かったと言うのは確実に嘘だし、良くないと言うのも陰気で私を立ち直らせた蒔さんの努力的なものをふいにしてしまう感じがして嫌だった。
「何でそう思えるんですか、適当にあしらっているだけなんでしょう」
「いや、違うよ。なんとかなると思わないとやっていけないよ。不条理なことばかりだよ。大切な人は事故で亡くなっちゃうし、どこにでも悪意はひしめいているし」
「それなら何で」
「大切な人の花屋を守りたいし、おちゃらけた小説の新刊やたわけた歌が聞きたいからかな。明るくバカなことをするのも意外と大変なんだぞ」
漣乃のすべすべとした頬をつんとつつくと、笑った。
公園をゆっくり散歩して、互いの電話番号を交換してさよならをした。心の闇を拭いきれなかったことに気付かずに。
夕食にペペロンチーノを食べ、チッチッ動く時計の針を見ると11時25分を指している。そろそろ寝よう、ああ、でもその前に歯磨きしないとねって洗面所に向かっていた。明日の夕食はペスカトーレにしようって考えながら。留守番電話のメッセージが残されているのか、ピカピカ点滅している赤。暗闇に赤い光が走っていて、怖いって言ってられない、誰からだろう、って再生したら。
「明日の午後2時に家に来てください」
なんてことはない、漣乃からの電話で、さあ、歯磨き歯磨きと受話器を離そうとした途端に聞こえてきたウイスパーボイス。何度も繰り返し再生させ耳を澄まして確認したけれど、やっぱり死にますと言っているように聞こえ、私は眠れなくなってしまった。
睡眠不足で散々な状態になりつつ、映に店番を頼み、ってレジの使い方全く教えてないけど、お釣り用のお金を詰めたウエストバッグは着けさせたし、大丈夫だ、なんとかなるって私は午後1時半の時点で漣乃の家へ急いだ。信号に手間取り、さらにはうろ覚えを当てにして歩いたものの、道を誤り気がついたら午後2時15分。全然間に合ってないじゃない、あわわわと慌てふためきながら来た道を戻り、漣乃の家に行くには右に曲がる必要があったのに、私ときたらそのまま直進してしまっていたのだった。ふうふう息を切らしながら、目的地に着いた、34分か、だいぶ遅れてしまったな。半ば諦め気味に私は緩衝材の代わりにベニヤ板が貼られた、何だか五十歩百歩な玄関のドアを開けた。
熊のぬいぐるみを傍らに置き、泣き腫らした顔で、薬の瓶を持って佇んでいた漣乃。深呼吸してから、「お姉ちゃんが職探しに行っている間に死んだらどう思うかなって」と穏やかな声で言った。正攻法であなたは死んではいけないと止めるのは漣乃に対して効果がないように思えた。多少リスキーだが、自殺幇助の手助けをするように装って、すんでの所で説得を試みる方法がひねくれきった私の考え方からすると、一番届くのではないかと思うのだ。動物虐待はいけませんよと素直に言った所で、世の中には動物を玩具にするクソ野郎がいる。それであえて、動物を虐げて喜ぶ歪んだ男の姿を漫画や小説などの媒体で描くことによって、何だ、ふざけるな、可哀想じゃないかと人々に感じさせ、その作品が反面教師になる。しかし、この場合困ったのはそのまま面白そうだなと模倣する不謹慎な人間もいるということで、反面教師すら意味は無いのか?ちきしょう、頭の中が混乱するばかりだ。頭をフル回転させて、私はこう言った。
「薬飲まなくても大丈夫よ、私が首を絞めてあげるから」
「そうですか……お願いします」
くっと目をつむって、漣乃は私の手を待っている。白い首筋に1,2,3,4,5と左手のそれぞれの指を這わせ、右手の指も同じように合わせていく。10秒も経たないうちに、漣乃の目から涙が零れ落ちて、苦しげにもがいたので私は手を離した。とっとと離して、説得がしたかった。
「も、もう一度締めてください」
「やめとくわ、今ので死ぬ怖さがあなたにもわかったでしょう。生きていく上で首を絞められるようなしんどいこともうざったいこともある。薔薇色どころか灰色だ。嫌な奴ばかりだ。でも、100人に1人くらい、本当に少ないけど、どんなに仕事をミスっても、手首切っても、庇護してくれる人がいる」
「現れなかった場合は」
「楽観的に考えるのよ、とか、きっと現れるはずよ、なんて嘘臭いと思うので私は言いません。孤独でも、悪意どろどろな人間に囲まれるよりはマシなはずよ」
「そういうものですかね」
「たっぷりマイナスより、プラマイゼロだったらいいと思うの」
「はあ」
もう、言葉は無用だ。生気のない目をどうにかしたくて、漣乃の細い体を抱きしめた。 ライトアップされた夜の山、兎が桃色の柱を登っていく。おてもやんと共に。しゅおっと兎は口から放射状に光を吐いた。光は紫の川になって山に流れた。だらだらだら、よく見ると菫色。しゅんしゅんしゅん、川は蒸発して螺旋状の青い道になった。兎とおてもやんはくるくるくる登っていくよ。疲れたら一休みして、いつまでも螺旋を登る。どこに行き着くかわからずに。
私はなぜかシュールな空想をしてしまったけど、生きるってこういうことだ。不可解なことの連続だ。兎とおてもやんが進む螺旋の先は虚無で落ちて死んでいくかもしれないし、すんごい美味い果樹園が待っているかもしれないし、登りきったと思ったら別の山に行き着くかもしれないし。
辛さを吐き出すように、私の腕の中で漣乃は泣いた。強く泣いた。私には背中を撫でてやることしかできないけど。
家を出ると、映が立っていて、店にいるもんだと思っていた私は吃驚した。無人の花屋を訪れ、それがたまたまモラルが低い感じの人で、あれっ、今人いないのか、これはラッキー、花を無料で得た俺は非常にラッキーと嘯き、取られたらヤバイよ。花ではなく、現実的にレジから現金を盗むかもしれないし、ひいいっ、大慌てで店へ走った。映には目もくれずに。
扉は開きっぱなしだし、あああっ、むかつくうと少し狂いかけた私はなんとか冷静さを取り戻し、花の本数をチェックしたが、盗まれてはいないようだった。幸運だ。とりあえず閉店時間まで乗り切って、それから映を問い詰めよう。客を応対できる機嫌ではなくなってしまうし、って私は営業スマイルを存分に発揮し、バリバリ応対した。花を売った。あまり客は来ないけれど。したところ。
いつまで経っても帰ってこない、どうしたんだろうと映の消息を気にしたのはものの一時間くらいで、いなくなってしまったものはしょうがないって、ちゃっと夕食を済ませ、テレビを消し、わしゃわしゃバブルまみれの指でタンポポのスポンジ握って洗い物して、明日の仕事に備えて午後10時に眠った。
私は街にいた。今日は火曜日で毎週火曜は定休日なんだった。スーパーでベーコン、マッシュルーム、卵、キャラメル、蜜柑などを買った。カルボナーラを作り、キャラメルは間食用、蜜柑は蒔さんが好きだったからで、仏壇的なものは無いけど、机に飾った遺影に添えようと思った。町はずれの神社の前に白い猫が捨てられていた。というのも首輪は無いし、ダンボール箱に入っている。ちょうど近くにコンビニがあったから、うまうままぐろ80gを買って、ATMで貯金を崩して、そのまま白い猫を抱き上げ動物病院を探した。っていうと、私が全く悩まずに一連の行動を取ったように思われるだろうが、私だって悩んだ。上手く育てられるか?といった疑問が最初に、養いきれるか?といった疑問が二つ目に浮かんできたけれど、拾おう保護しようと思った。今までは花屋に夢中になるあまり、寄り道もせず帰っていた、といっても、最近変なこと起き続けるし、神社でお参りでもしようかしらんとしていたら、猫が捨てられている。成猫のようだ。
この猫を捨てた人間にはどんな背景があるのだろうか。男の名は堅物実直。サラリーマンで真面目に働くなどしていたが、ある日リストラをされ、その日の銭にも事を欠き、断腸の思いで愛猫を手放した。或いは、凶悪なオーラを纏ったあんちゃんでその名も乱打殴贈。名前からして暴力的だ。あー、飽きたな。まあ、俺以外の誰かが育ててくれるはず、グッバイと猫を捨て平然としているたわけた輩なのか。30分ほど彷徨っていると、胸焼けペットクリニックとふざけた名前の動物病院に着いた。ペットクリニック、長い名前だ、ペクリと呼ぼう。可愛い響きだ。いちいちしょうもない略称を発想している私は馬鹿か? 猫のような顔をしていた。獣医看護士の女性からは肉球先生と呼ばれていた。先生は出だしから、「日給は安いんですよ」と肉球と日給をかけた寒いダジャレを言っていた。奇怪なペクリに来てしまったものだ。白猫の年齢は2歳程、人間でいうと23歳らしい。私より4歳年上じゃないか。牝らしいし、お姉さんだね。
診察を終え、ペクリを後にした。健康状態は少し弱っているものの、病気や怪我などは無いというので良かった。タオルに包み、家まで運んだ。右手で猫を抱え、左手で買い物袋を持つのは体勢が苦しかったが、しょうがない。
その日は私の部屋で毛布にくるまれた白猫が眠るのを確認してから、家を出て奔走。肉球先生に言われたとおり、猫用ミルクを買って与えた。帰り道に猫の飼い方について書かれた本も図書館で借りた。花は猫にとって中毒を起こす危険があるらしく、1階に行かせてはまずいことになってしまう。むむむ。注意しないと。眠る猫の頭を優しく撫で、可愛さに私は震えた。
がりがりがりがりがりがり、ざっざっ、しゃぐしゃぐ、がりがりがりがりがりがり、ざっざっ、しゃぐしゃぐと何かを砥ぐような擬音に、ざじゃーも加わって、何事かと私は眠い目をこすり、ふわあーっとあくびをして、カチッ、電気をつけた。
壁に途切れ途切れ爪あと。あっちゃあ。まぁ、でも起きてしまったことは仕方がない。良いですよ、砥ぎなさい砥ぎなさい。にしても、元気になったなあ、今日で3日目か。爪がシャキンシャキーンだね。私のひざに乗ってきたわ。ぷるぷる震えてどうしたの?と見ていると。おひゃあああ、と私は悲鳴をあげた。あれっ、暖かくなってきたなと思ったら、白猫がしっこをしたのだから。トイレはさすがに躾けようと思いながら、シャワーを浴びに行き、髪を乾かしてスリープ。
「ババロア」か「ホワ」のどちらにしようか悩んで、やっと白猫にホワと名付けた6日目。
ホワが恍惚とし、さらには乱酔しているのはまたたびを与えたから?な7日目。
ふにふに肉球を夢中で触っていたら、ひっかかれて胸の奥と腕が痛んだ8日目。
ペロペロ指を舐められ、不思議な気分になった9日目。
猫に夢中になって、のほほんと暮らしていた。そんな朝。聞こえてきたピンポンの音に訝しむ。
扉を開ける。突然姿を消し、さほど消息を気に留めていなかった映だった。リビングでコーヒーを飲みながら話した。
「あ、帰ってきたんだ」
「どこに行ってたと思う?」
「わかんない&見当がつかない」
「僕も覚えていないんだ。可愛い猫だね、名前は」
「ホワ。ホワイトを略しただけ」
「ふーん。いやー、それにしても可愛い」
映に抱き上げられ、のどを鳴らすホワ。初対面でも懐いてるし、人懐こい子なのかな。
「店手伝わせてくれないかな」
店の業務をほっぽりかしといて、さらにはばっくれた男がこんなことを言っている。野次馬根性なのか、もしくは自分も漣乃の自殺をくい止めようと駆けつけたら、なんか能力使わなくても詩瑛が説得に成功してるし、僕どうしよう、あっ、ちょうど旅したかったんだあ、僕がいなくても花屋も人助けも上手くいくし、って拗ねて姿をくらませた理由を彼に聞こうとは思わない。なぜならどうでもいいから。信用できない、消えてよとも言わない。人手不足で一人でやるのはしんどいと思っていたし、いつまで続くかわからないけど、手伝うと言うのなら利用しない手はない。
「ぜひお願い。困ったことがあったら聞いてね」
いざ、開店時間が来て脇で映が働き始めるのを見ていると、釣り銭を間違える、ぐちゃぐちゃにラッピングする、要領を得ないでたらめな説明をするなどして、てんで戦力にならないと思っていた。ところが、物凄く仕事ができるのだ。10人分の仕事を一人でこなしきる、なんて大げさな言い方だが、私が手出しをすると逆に遅くなるぐらいに、もう完璧だった。おみそれいたしやした、旦那ぁ。いや、それにしても妙だ。得体の知れない能力を自分に使ったのだろうか。無敵にスピーディーな映、もはや出る幕がない私。
冷蔵庫になーんも食べるものはないし、仕事終わりに買いに行くのも面倒くさいってなって、ファミレス。月並みなどこにでもある平凡なファミレス。ファとミの音を抜いたらファミレスだなあなんてアホーな言葉遊びをした。頭の中で。
「ねえ、何でそんなに仕事ができるようになったの」
二人してグラタンを食べ終わって、開口一番に私は聞いた。
「うーん、もう君には読めてるんだろ」
「能力使ってどうにかしたんでしょ」
「ご名答。けっこう便利な能力だよ。なかなかパンナコッタ来ないな」
ウエイトレスが私の頼んだアップルパイを持ってきた。
「お先にいただきまーす」
「どうぞ。良い匂いしてるな、それ」
「シナモン(品物)が良いからね」
「はは、ダジャレか」
「そうよ。でも私、あなたに仕事教えようと思ってたのに、本当ビックリしたわ」
さて、映お待ちかねのパンナコッタがきた。だけど、映は待ちに待ったデザートに手をつけず、何気なく言った。
「あのさ、これから店の仕事休んでもいいよ」
「何を言ってるの?あなたが?」
「違う違う。君がだよ。今まで以上に猫と遊べるし、どうかな?」
うーんと言って、考え込んだ。どこか休みたいと思っていた私の心を映に見抜かれたのだろうか?よほどの仕事人間でなければ、遊んで暮らしたいと思うだろうし、私は甘えてしまっていいのだろうか。そもそも信用しても大丈夫なんだろうか。しかし、やたら疑ってノーと答えても、遊べるチャンスを逃すし、また映に去られたら一人で花屋切り盛りの日々に逆戻りだ。というか、また姿を消さない保証ってどこにもないな。念を押しとこう、無意味かもしれないが。
「本当に任せても大丈夫?消えたりしない?」
「大丈夫でござい。OKでやんすよ」
「語尾が怪しいぞ。やや、疑わしいな」
「どーんと任せて欲しいな。とんと見かけぬなんて言わせないから」
「それで任せられたら苦労しないわよ……まあわかったわ」
かくして映に仕事を任せたものの、店の売り上げを持ち逃げしてトンズラされる、花を無料で客に渡す、前からやってみたかったんだと嘯いて花を撒き散らしながら店の外まで出て踊り狂う、などといった無謀なおふざけを映がするのではとネガティブな妄想にとらわれ、しっかり仕事をしているか、私は時折監視したけれど、映はいたって通常の業務をこなしていて、ありゃりゃ、肩透かしを食らった私は安心してホワと四六時中一緒にいた。猫に生まれ変わった気分だった。
同時に、あはっ、すっかり暇になった私は前から見たいと思っていたおちゃらけた小説やたわけた歌、噴飯必至の漫才やコメディー映画、落語などにどっぷり夢中になっていた。貯金を切り崩し、買い漁ったものの中で吟味した結果、これだよ、これだよとうんうん頷き、思い出し笑いしながら石版に刻んでそれらをメモした。ところで猫は笑うのだろうか。
ひょっとこの面をかぶった女、手に水晶の玉を持っている。水晶には何やら埋め込まれていて、それはぽかーんとした抜け作な男の顔。ぽかーんスペシャリストの抜け作は、天才的に駄目だった。その駄目さに目を付けたひょっとこ女にしゅるしゅる封じられ、世界中を抜け作、アホだらけにしてしまうという彼女の野望に付き合わされている。抜け作水晶をのぞきこんだ者はみな、あひゃーんと言って倒れたかと思うと、15秒66経って立ち上がり、へらへら笑って程よく冷めたカレーを体中に浴びる。カレーまみれのどろどろになりつつ、公園の砂場に石を並べて絵を描く。餅を焼き焦がした人を描くのよ。その人は餅を膨らませて、ぷくーっとした状態で冷凍させぷくーっを保ちたいと思ったのだけれど、火力にまで気が回らず、コゲコゲになっちゃったんだな。その人は無残な餅を握りながら、小作、違った、コサックダンスを踊りたい心境だ。奇怪な絵を生み出し続けさせる、抜け作水晶。物語はその後、ひょっとこ女が生活苦に陥り、で、金に困り、質屋にその水晶を売ってしまい、しかも1円しか値がつかず、憤死するところで終わるのだった。
この「推奨水晶」という、おちゃらけた小説を読みきって、私の頭は抜け作になってしまいそうだった。
藁苞に包まれた納豆の中に手を入れ、さらに深い所に収められたCDを取り出す。納豆にまみれたCDはねとねとでぬらぬらしていて、このままプレーヤーで再生したら、粘つく耳に纏わりついて離れない歌声が聞こえてきそうだ。というのは私の単なる妄想で、たわけた歌なのにまともなケースに入っていてつまらないと思ったのだ、私は。どうせたわけた歌ならたわけた方法で、例えばドーナツは円形でCDと形状も似ている。ドーナツの真ん中にCDを挟んで、噛み付くやいなやガツッとした感触。おや、これはと購入者が固いそれをつまみあげるとCD。斬新で破天荒な発想ねとはならない。なぜなら、面白いからとドーナツにCDを挟んだところで油にまみれ、てかてかつるつるになり、CDを挟んでいたドーナツをその後食べるのも気が引けるだろう。ううむ、却下しよう。次に、CDを入れるケースではなく、届ける人間を特殊にすれば面白いのではないかと私は考えた。ピンポーンと呼び鈴。来客はあまり無いし、通販で頼んでおいたCDかしらと扉をオープン。乱れた髪、血走った目、破れた服とヤバイ三拍子を揃えた女性が立っている。きらりと光る何かを振りかざす。ああ、購入者は狂人に切害されると観念して目を閉じると、何も起きない。ヤバイ女はかっと目を見開いて、「お届け……物だぁ、この野郎ぉおお!!」とCDを投げつけ絶叫し、走り去っていく。しかし、こんなエキセントリックな方法では購入者はトラウマを抱え、CDを見るたびに狂人を思い出してしまって、聞きたがらないだろうし、警察に通報される恐れがあるし、やりすぎだな。却下だな。
しばらくたわけた妄想を繰り広げていた私は手に持っていた「へどもどモモンガ」を再生した。
高級住宅地にへどもど
ぬるい世の中の中の中
ボンクラの悲哀
アイボリーのカーテンに巻かれて
成果主義を蹴散らせ
スクランブル交差点でスクランブルエッグを食せ
もうどうでもいいんですよ
飛びません
50円で飛びます
たわけた歌詞が男と女の歌声に乗って、聞こえてくる。バックににゅいーんと奇怪な音。ぴーひゃらららと笛の音が絡み合っていく、にゅいーんに。だんだんだんだん音楽が私の中に入って、「にゅいーん、ぴーひゃららら。スクランブルエッグのカーテンって奇妙で使っているうちに卵が腐ってまずいよね」と私は歌詞を自己流に変えつつ歌い、50円をもらって飛ぶモモンガをイメージして、ちゅうちゅうと鳴きながら腕を広げてバタバタさせた。そして高級住宅地にへどもどする様を再現して、肩をすくめたりしていたけど、モモンガに感情移入しすぎて切なくなってきたので、CDの演奏を止めた。ピタッ。
ちょっと疲れた私はコーヒーを拵える。おやつにバウムクーヘンも用意して。ゆったりとした時間が過ぎていく。次は何を見ようかな。暖かさで満たされる。
小休止を挟んで、元気を取り戻した私は机の引き出しからアニメのDVDを取り出した。「まろびあい雪原」は熊と妖精が雪原の上をどこまでもまろびあっていくうち、漫才好きなペンギンの国にたどり着いて、圧政を敷く王を退けてほしいとペンギンたちに頼まれ、漫才で王と対決するというアニメだ。
ほろ苦そうな茶色の粉が雪原に散らばっていて、妖精が歩いている。
「ショコラを散りばめたクリームの雪の上、プラムの髪にヒペリカムの髪飾りをつけ、ミルクのコートに身を包んだ妖精はキャラメルのマントをはためかせながら、トコトコ歩いていた」と大人しい女性の声のナレーションがインして。突然世界が傾いて、グラッてなって、まろぶ。転ぶ妖精。どういうわけか、ちっとも苦しくはなく、雪の上を回転しながら進んでいくことが妖精には楽しく感じられた。サイコロの気分で転がっていると、野太い声。
「やあ。君は高野豆腐と木綿豆腐のどっちが好き?」
振り向くと、茶色の熊。雪面に散らばるショコラによく似ている毛色。熊の転がる姿はボーリング球みたい、いや、大玉だろうか、それとも巨岩かな。さて、熊が仕掛けてきた珍問にどう答えよう。
「豆腐よりショートケーキ食べたい」
「そんなことより木綿豆腐食べたほうが良いと思うな、僕は。人と争わずに済む崇高な豆腐なんだよ」
「あら、どうして?」
「揉めん豆腐ってねぇー、ぶわっはっは」
「寒い。そりゃクリームも凍るわ。あー、凍死しそう。羽根がしおれていく、心がむなしくなる、肌のハリが悪くなる。まるでむきだしの鉄の部屋で冷や飯を食べている気分」
「ごはんの温度は?」
「22℃くらい。ってそうじゃない。あくまで例え話、比喩の話よ。さっきよりはキレ良くなったじゃない」
急いで転がらずに、ゆるやかな速度で前に進み続け、ずるずる三ヶ月。熊に鮭を取ってこさせ、昼食に鮭のチョコレート焼きを摂って、ぐるぐる南進している時だった。クリスタル並に透き通ったクリアーな門に熊が正面から激突。妖精は前を行く熊がばたんきゅーになる姿を見て、左に曲がってかわした。
「やっぱり馬鹿ね……大丈夫?」
珍しく優しい声で妖精は熊に声をかけた。しかし、シーンと沈黙が流れるまま。妖精はおいと蹴飛ばしたい衝動にかられた。だけど、か弱い足が粉砕骨折するかもしれないし、痛いからやめておこうと思いとどまり、代わりにペチンと熊の顔をはたくと呻きながら起き上がった。
「ムニャムニャ……そんなに湯豆腐食べられないよ。うーん、湯葉が食べたいな」
「何でそんなに豆乳っていうか大豆製品でまとめてんの?」
「ふっふっふっ、豆腐や湯葉を扱う会社からCMのオファーが来るかもしれないじゃん」「鏡見てから言ってほしいな。あと現金な考え方すぎるよ」
そうして妖精と熊がゆばゆばやり取りしていたところに、トライアングルを持ったペンギンが現れ、「私たちの国へようこそ。私とあなたと貴様の三角形」と言って、トライアングルをチーンと鳴らした。
「何言ってるの。国どころか街がないじゃない」
門の向こうは雪が続いているのみで、ペンギンにおちょくられている気分になった妖精は思わず指摘した。
「ふひゃひゃ。私がトライアングルを鳴らしているうちに漫才をしてみればわかる」
半信半疑で、嘘だった場合はペンギンをどつき回そうと考えながら、妖精と熊が漫才をした。すると、トライアングルが光り輝いて、ほわぁと不思議な音を立てて一旦消滅し、30秒ほど経ってうっすらと三角形が浮かび上がり、門を抜けて進んで見えなくなった。霧で隠す訳でもなく、唐突に白い街がパッと現れていた。
粉砂糖の街並みを歩く。パン屋を右に曲がった所から華やかな雰囲気が消え、建物も先ほどのストリートはゴージャスと行かなくても中の上って感じだったのに、ギリギリスラム街を逃れている下の上といった印象。侘びしくなる。
寄せ集めの建材で作ったって感じの、あちこちつぎはぎだらけの家。ペンギンの家はそんな有様だった。ますます侘しくなる。ボロボロの暖簾をくぐって部屋に入る。床のそこかしこに欠けたり、薄汚れてたりしているトライアングルがまばらに散らばっている。
「さっそくだけど、ちょちょっと王を倒してみてほしいな」
「あっ、はーい。とでも言うと思ったか、このすっとこどっこい」
「圧政を敷くのがげっついむかつく。それであなたたちの湯豆腐のやりとり見てて思ったんだ。王は漫才に絶対のプライドを持っているから、それを打ち砕けばしくしくぐずって退位しちゃう。あわよくば、おこぼれが欲しい。あなたたちには何もあげないで、自分だけが良い思いをしたい。私は正直者だ」
「本当に正直ね。私は正直になってお前の息の根を止めたい」
「そうだね、ペンギンの肉って美味しいかな。僕食べたいよ」
「脅しにかかるとは卑怯な。警備隊に報告して捕らえてもらおうか」
「あなたの目論見もバラしちゃうけどいいの?」
「はっ、よそ者の言うことなど信じないよ。どうだまいったか」
ペンギンに半ば脅迫気味に言い含められ、妖精と熊はかったりぃと思いつつも、従うことにした。
それからパンやうどんをこねたり、夜中にブルジョアな屋敷に侵入し、熊の怪力で豪華な床をベリベリ剥がしとって略奪し、貧相なペンギンの家の床をカスタマイズするなどして暮らしていた。ある日、ドアノブを抜き取る、プールに泥を放り込むといったイタズラをしようと考え、歩いていると呼び止める声。振り向いて妖精と熊は驚愕した。ペンギンからもらった王の写真そのままの、お、王?王が立っているじゃあーりませんか。そっくりさんじゃないよね、モノマネの人だったらどうしよう?フェイク?トゥルー?立ってるよ、キング。私はまだヤングって混乱しつつも腹の中でボケる妖精。
「もしかして王ですか?」
「いかにも。私が王でちゅよ」
「うわー、やっぱり王か。謳歌してますね、王様人生」
「それにしても、珍しい姿形でちゅ。城に来てもいいでちゅ」
ペンギンの置物以外は至って普通な城。城内の右手に銀行、左手にスーパーマーケットがあったりするけど、便利だね。王の間に着くなり、妖精は乱暴に言い放った。
「おい、王。もてなしやがれ」
「おう?粗暴な語調でちゅね」
妖精は思った。ペンギンの言うとおり、漫才で倒したらでちゅでちゅ泣き喚くのか、どういった反応をするのか気になってしょうがない。生姜無い。
「王様、もてなしはどうでもよくなってきたので漫才で勝負願えますか」
「おっ、おう!OKでちゅ」
妖精と熊VS王はどろどろの淀んだ空気が佇む地下室で漫才をすることになる。観客は3人。虚しい気分と戦いながら、ヤケ気味になりつつ妖精と熊は部屋中に辛子を塗られ、熊が様々なミスをして妖精に辛子を直撃させ怒られるといったシュールな設定の漫才をプレイしたのだった。だいたい出会ってからは妖精は熊の右手に両足を持ってもらって、楽に移動していた。この漫才でも熊は右手に妖精をセットしている。そこで熊が机に触れると、想像上の辛子が妖精の右頬にヒットし、「いやぁあああ」と悲鳴を発し、熊が孫の手を取り出して背中を掻こうとして、妖精は辛子まみれの壁に接触。ジェスチャーをする度に、妖精に辛子がヒットして悶絶する。息も絶え絶えに辛子まみれになった妖精が、「私はおでんの具じゃないねん。あほんだら」とのたまい、熊は、「僕はスケソウダラ好きだな。げへへ、あほんだらってどんな鱈だろう」ととぼけ、どつく感じ。
王はというと、15人の家来を引き連れ、その15人がボケ倒すのだから滅茶苦茶だった。
「豚骨ポエム、ははっ、紙が脂まみれなんよ」
「ピントがぴーんと来なくてねぇ」
「絞りきれない雑巾みてぇな顔しやがって」
「あんたこそヘチマみたいな面長な顔よ」
「雪だと思ったらもち米だった」
「味っ噌フォルテって言ったら旨そうじゃないか」
「レインボーちくわ」
「ああああ。とろろまみれの階段を昇れないっ!」
「姉がバケツコレクターで散財をして困っています」
「好きなあの子の趣味がタイル貼りだったでござるよ」
「ラメ入りの洗濯機にしてぇー、冷蔵庫はトラ柄ぁー」
「私掃除機から擬人化したの、ってスーホちゃんに言われて俺困ってる」
「マグカップがおはようと話しかけてくるので私も挨拶を返します」
「切腹の練習をしていたらメイドに介錯された」
「そば、うどん、素麺、スパゲッティ、頭に乗せやすいのはスパゲッティだった」
家来が言い終え、最後に残った王。
「愚弄な民を差し置いて、城がある僕ってラッキーでちゅ」
言わずもがな、ブーイングの嵐。吹き荒れるバッシング。家来のとぼけたセリフももはや漫才ではないが、王が言っているのはただの自慢だし、見下げられた民衆サイドとしてはむかつくのは当たり前だ。
いじけた王はそりに乗って姿をくらまし、妖精はパティシエに、熊は大豆食品会社の社長に就任し、ペンギンの国は誰のものでもなくなった。
ギャグ三昧、猫三昧で半年があっという間に過ぎた。彼岸の明けに蒔さんの妹である茜さんから電話がかかってきた。
「久しぶり。詩瑛ちゃん元気ー?」
「あっ、はい。久しぶりです。そちらこそ元気そうで何よりです」
「もう、他人行儀すぎるよ。今年も行こうか」
「はい、一人だと心細いし、茜さんがいてくれて私は嬉しいです」
「ありがとう。姉さんったら早すぎるわ」
「そうです……よね。車が嫌いになりました」
「大丈夫?スコーンとしてちゃダメよ。明日墓の前でしっかり話聞いてあげるから。ね?」
「何時ぐらいにします?」
「3時かな。姉さんおやつ大好きだったし。真夜中の3時じゃないぞ」
「そうですね、午前3時は怖すぎる。それじゃ昼の3時に」
「うん、久々に詩瑛ちゃんをミルフィーユしたいな」
菓子にまつわるダジャレを言うのは、茜さんがパティシエで、やはりダジャレを好む血を引いているからか。少しでも私を元気付けようと、暗くなりすぎないようにあえて言っているのだろう。
茜さんは先に来ていた。ゴシゴシ涙を拭って、「もう少しデザート食べさせてあげたかったな」と言った。
「モンブランよく食べてました」
「栗野なだけにね。ケーキの中で一番好きだったのかな」
墓前に林檎と、さくらんぼのゼリーを置き、黙祷した。ああ、息ができなくなりそうだ。一緒に店をやりたかったし、まだ知らないことも多くあったし、一緒にいたかったし、まだ教えてほしいことも多くあったし、もっと花のダジャレを聞きたかったし、何より私の負担を減らしてくれた。力になっていた。もう一度生きようと思った。頭を撫でてくれたその手が温かくて、花を見ているときと同じような気分になったのです。少しずつ、柔らかい声や仕草の一つ一つが思い出せなくなっているのが虚しくて、私の中でのあなたの濃度が薄くなっていくのが耐えられない。どうせ誰も自分を見放したままだろうと思っていた。孤独と絶望に苛まれて、自己嫌悪をして、他の人と同じように普通に物事が達成できないのか不安だった。怒られ、小言や皮肉を言われ、嘲られてきた中で、あなたは暖かく見守ってくれていた。枯れそうな花が息を吹き返したような感覚。確かに眩い彩色をあなたは施した。ふとあなたの笑顔が浮かんできて、もう一度目の前でいつまでも浮かべて欲しいのに、もういない。いない。あなたは枯れてしまった花を触りながら、涙をこぼしていたけれど、あなたの挙動の全てから優しさが滲み出ているのはきっとそういうところからなのでしょう。人を虐めて、夢を奪い、動物を捨て、老人を殴り、人の死を不謹慎に笑う、そんな人間ばかりがいるものだと思っていました。しかし、誤りでした。虹を追いかけるような、光を見据えた人間もいるのだとあなたやそこにいる茜さんを見て、実感しました。光は少し翳ってしまったけれど、まだ射しています。ほのかに朗らかな灯が。嘘臭いなと疑いすぎて、暗黒に呑まれてしまう錯覚をして、冷や汗をかいたりすることもあります。古傷がしくしく痛むこともあります。胸が苦しくなって、頭がぼうとして、無様な昔の自分と対峙するのが辛くて、ホワの顔を眺めていると、猫になってしまった気分になって、辛さを忘れられます。でも、時々は過去の自分を蒔さんのダジャレで励ましてやりたくなります。へこた蓮華草忘れてませんよ。しっかり生き抜いて、あなたの元に行く時が来て、新しい花の種類が発見されていたら、その花の名を蒔さんに教えますね。
私が泣き止んで平常に戻るのを待って、「姉さん、泣いているときに花をくれたな。店は今どんな感じかな」と茜さんは聞いてきた。私は言葉に詰まった。店の運営は全て映に任せていて、この半年間、特にトラブルは発生せず、万事快調に進んではいるけれど、断りもなく赤の他人に全てを一存している現状が何となく申し訳なくて、言いづらい。
「横ばいで、順調に行ってます」
「ホッとして良いのか悪いのか。ふふっ、横ばいって。でも下がっていないから良いよね」
店に携わっていないことを隠してしまった。帳簿を見る限りではやや黒字といった状態だった。裏切ってしまったような罪悪感がのしかかって、息苦しい。
「顔色悪いよ?元気出してクレープ」
茜さんの細い腕が私の体を包む。蒔さんによく似た優しい匂いがして、緊張の綻びが解けて和んだ。懐かしくなった。甘えたくなった。寄りかかりたくなった。
「どんどん駄目になっている気がする。どうしたらいい?」
「駄目になんかなってないよ。今は疲れているだけだよ」
言葉が沁みていく。私は本当に駄目になってないのだろうか?明日からは私も仕事をしよう。蒔さんが寂しく花を撫でているような気がする。
「余裕ができたらうちのケーキ食べにおいでよ」
別れ際、茜さんは嬉しい言葉をかけてくれた。今すぐ行きたいけれど、我慢して休んだ分頑張ろう。
色が何色にも集まって、きゅうと胸が締め付けられる。目に映る色が水のように精神に染み込んで感情に変わる。映に仕事を復帰することを伝えると、「わかった。詩瑛ちゃんいないの?と聞かれまくって、答えるの億劫だったし、手間が省ける」と言った。素直な奴じゃないのう。お客さんと会うのも話すのも久しぶりで、値段を間違えたり、水をこぼしたり、蒔さんに教わっていた頃みたいにミスをしてしまった。夕方、橙色の光が射しこんできて、すがすがしく暖かいものがこみあげてきた。彼岸の余韻が残っているのか、涙がつと零れてきて、夕日がにじんだ。ぼやけて絵の具をこぼしたみたいな陽。胸の中に広がるほわほわとした気持ちは、どこか懐かしく貴重なものだった。できればずっとこの橙色で満たされていたい。
幼い私が立っている。女性が私の頬を叩いて、罵詈雑言を投げかける。さらに私の大事にしている花に、女性は口から得体の知れない黒い液体を吐いて瞬時に枯れさせてしまう。何だか悲しくなって、やりきれなくなって、ただただ枯れた花を見ている。失った命を見ている。すると女性は花を握りつぶして、花の部分をちぎり取って、何度も手で丸めて、くしゃくしゃにして捨てて追い討ちをかける。とどめに唾を花に吐いて。荒みきった、見事なまでの悪役、悪女。恐怖と失意を植えつけていった。
嫌なことを考えたくなくて、ボウルの牛乳にしゃっと砂糖を入れてかき混ぜる。ミルクプリンを作る予定だ。白い液体が波打って、踊っているみたい。ホイッパーで泡立てていく。早く、モア早く腕をぎゅんぎゅん動かしていくとそこらに飛び散った。こぼした。うつうつとしたローなテンションは幾分マシになったものの、拭きとる作業の手間が虚しくもあり、苛立たしくもある。ふにゃああと叫び、猫の手を真似して、手をそれっぽく変えて、ロックを聴いている映に突っ込んでいってビックリさせてやろうか。最後の曲だったのか、鳴り終わって静寂が流れる。あくびをして、映はソファーを倒してベッドにしてゴロンと寝っ転がると、「もう寝るから、後よろしく」と言って目を閉じた。うんと答えて、私は出来上がったミルクプリンが冷めるまで小説を読んで時間をつぶして、ようやく冷めた明日の楽しみを冷蔵庫に入れて、自室へ戻った。
眠っているホワを起こさないように、そっーとベッドまで向かう。暖かいベッドの中、私は不安になっていた。あっという間に月日は過ぎていくけれど、蒔さんのような女性になれるだろうか?だんだん運営が立ち行かなくなり、花屋をつぶしてしまったらどうしよう。望んでいるものがなぜか遠ざかっていく。大切な人を思い返すと、色で埋め尽くされて、最後に枯れた花が像を結ぶ。いつも大して踏み込めないまま、面倒を見てもらったりして、良い人だとわかっているのに、唐突に別れが来てしまう。拠り所ができては、すぐに消えていく。時々思い出しては暖かさと虚しさがごちゃ混ぜになる。当たり前にあった空間が急に見知らぬものに変わって、一人きり。どうしようもなく逃げ出してばかりだ。頭が混乱して、考えがまとまらなくなってきた。延々と枯れた花が浮かび上がっては消える。いっぱい花はあるのに、何でいつも枯れさせてしまうんだろう。黒い液体なんか吐かない。ただ、普通に水をあげているのに、ダメなんだ。私はチャンスをことごとく無駄にしてきたなあ。捨てていいものはいっぱいあったけど、大事なものまで捨ててしまった。マイナス方向にずるずる引きずられているのかな。リラックスした、レイドバックな人は意外と少ない。おおらかで一度も怒りもせず、くよくよくんな私に笑いかけて、少女のようなちょっかいをかけて、気さくにさくさく冗談を言って、いつでも守ってくれた。どう育ってきたら、そこまで優しくなれるのだろう。だいたいの人は力で押し通す。押し通された私は無色の心。演歌を歌い、コブシを効かせて怒るとか、怒りの言葉を回文にするとかそういった芸が無い。常に無色の心でうつむいていた。but、でも、素敵な夜に舞い降りた天女みたいな魔術師みたいな蒔さんに出会えたのは不思議なことが起きた感覚だ。よろしくないことだらけ・まみれ・ばかりのこの世界で魔法に触れて立ち直って、またよろしくない状態に戻ったけれど、日々をこなしていこう。後ろ向きになってしまいがちだけど。何にも叶わない気がして、私は何度でも蒔さんにはかなわないなと思わされる。灯を消して、閉じた瞼に咲いた花が浮かんだ。
紅葉した楓が秋の彩りをもたらす。店先に立っていると、前を歩くサングラスをかけた女性が転倒した。その拍子に何かが取れ、転がった。女性に視線を向けると、右腕の肘から先が無い。事故に巻き込まれたのだろうか。私は慌てて駆け寄って、助け起こした。転がった義手を拾った女性はなんとか微笑み、「花見せてくださる?」と言った。映は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに表情を元に戻した。ピンクのカランコエを買って、帰ろうとする女性を引き止めた。力になれるかわかりませんが、話してもらえませんかと言って。お茶を用意して。
「アニメってご存知ですか?」
左手で湯呑を持って、ほうじ茶をすすりながら彼女が言った。ふと「まろびあい雪原」のシュールなギャグが浮かんできてしまって困った。
「はい、少しなら」
「声優をやっているの。隻腕の役をやったことはあるけれど、まさかこんなことになるなんてね。ファンの前で歌うこともあるから、義手がバレるかもしれないし、偏見が怖いわ。発表するのも怖いわ」
「降板になって怪しまれているとか?」
「それはないわ。去年は良い役についてたんだけど、今年は活動のペースを落として、地味な役を選んでいたせいか、ちょうど事故に遭ったとき何の作品にも参加していない状態だったの。ある意味助かったかな」
「大変ですよね、声優の仕事の方はこれからどうするつもりで……」
「どうしたらいいのかわからない。それがわかったら苦労しないっていうかね。共演する子が怖がってしまわないかとか、悪口言われないかとか色々考えてしまう」
「きっとわかってくれる人ばかりですよ」
「人の心の裏側なんてわからないじゃない。ごめんなさい、あなたは不安を紛らわせようとしてくれてるのに」
どんな職業に就いている人でも人と接する必要が出て、彼女の場合は声を失わなかっただけでも救いかもしれないが、どこかに障害を抱えるのは辛いことだ。
「そういえば、あなたたちの名前は?」
彼女に聞かれて、まだ名乗っていないことに気付いた。名前を教えあう。雉家禎子という彼女の名を知って、私は叫んでしまった。
「あの、まろびあい雪原の妖精の声やってましたよね」
「よく知ってるね。2、3年前の、知る人ぞ知るアニメを」
「熊にさんざん罵る言葉を囁くところ好きでした」
「そうそう。辛子を実際に口にしてアフレコやったら、ひいひい言って1日押しちゃった」
それにしても、思わぬところで縁がつながるものだ。唐突に映が、「猫飼ってるんだけど、禎子さんに見て欲しいな」と明るく言った。モブと化していたくせに。ええと答える雉家さんに、さらに映は、「高野豆腐と木綿豆腐はどっちが好き?」と熊の声色を真似して言ったのだった。似ていないけど。いつの間に見ていたんだ、お前はまろ雪を。少し笑って高野豆腐が好きだと妖精の声で答えた。けれど、涙声気味だったのは声優を続けるかどうかの岐路に立っているからか。
黒い座布団の上で寝そべるホワ。ほわほわした白い毛が可愛くて、ん?とこっちをまんまるな目で見ている。じー。金色の星がびゅんびゅん飛んで、無数の花が宙にふわふわ浮いて、どこまでも続く紫色の道の上を散歩していたい。薄桃色の猫の形の雪が降って、地面に降り立った途端に本物の猫になって、桃のような甘い香りを発している。にゃあと鳴くと、花火がちろっと口から出る。ああ!!美しい景色を詰め込んだ猫だな。でもあっという間に走っていなくなってしまう。足跡がキラキラ光って、オーロラみたいなものに変わって地面を走る。猫を追いかけるように。宇宙にそんなロマンチックな場所はないかな。現実世界は世知辛いもので、孤独な猫がさまよい、殺伐とした廃墟みたいな感じだけれど。
「可愛い猫ちゃんね」
雉家さんの言葉で我に返る。
「何か動物は飼ったりしているんですか?」
「ううん。マンション住まいだからちょっとね……」
そう言って彼女は小脇に抱えていた義手を床に置いた。ホワがそれをパンチする。こらこらと私はわんぱくホワを抱きかかえる。
「猫になってみたいな。ふふっ、良い飼い主だといいけど。ええっと……私が事故に遭ったのは……2ヶ月前くらいかな。友達と遊園地に行って、家までの帰り道を一人で歩いていた。いきなり車が来て、いきなり腕に激痛が走って、ベッドの上だった。感覚が無かったけれど、痛すぎて麻痺してるだけだと思っていた」
何も言えなかった。ただ、事故という箇所に反応して、蒔さんの無念を思い出して涙が出た。呼応して、彼女も嗚咽を漏らし始めた。
「握手会の時怪しまれないかな。それにサイン会だって、もうサイン描けないよ。失ったの利き腕だったし……私もう駄目なのかな。嫌だよ、辞めたくないよ。ああ、先が見えない」
「なあ、禎子さん。握手は残った手で、サインの代わりに、あなたは何の花が好きなんだ?ちょっと本取ってくるから待ってて」
これまでに無いほど、熱い言葉をぶつけて映は何かを取りに行った。
「面白い子ね。私なんかにどうするつもりなのかしら」
「さあ。変わったヤツなのは確かですが」
映が取ってきた図鑑を見ながら、むべの項目で雉家さんは、「変な名前。これにしようかな」と言った。それを聞いて、「任しときんしゃい」と妙な言葉使いをしつつ、映はポケットからさっとカッターと消しゴムを取り出し、削り始めた。私は不安な目で、雉家さんは好奇心バリバリな目で見ていた。数分後、映は完成品を見せた。むべか、妙な響きの花だ。白い、たこさんウインナーっぽい形をした花と紫色の実がセットになって中央に描かれている。むべのぐるりをいくつものバネが囲っている。無機質なバネと花のギャップが変だ。どことなくシュールで奇妙だけど、ユニークで面白い絵だ。郁子と書いて、むべと呼ぶのはなぜなのか、蒔さんならわかるだろうか。雉家さんはむべバネはんこを手にとって眺めながら、「なかなかやるわね」と言い、嬉しそうに笑った。
「サイン会でこのはんこを代わりに押せばいいんじゃないかな」
「ありがとう、もし戻れたら使わせてもらうわ」
三十分ほど話して、帰っていく雉家さんを見送った。今までに演じた役は売れない琵琶法師や夢遊病の踊り子、お百度参りをしつつ、壁に穴を穿ち、そこにゼリーを流し込む主婦などぶっ飛んだキャラが多かった。
ランプを集めた夜の街。琥珀色の光源をあてにして、望遠鏡越しに限りなく遠く眺められたら贅沢だなあ。屋根をトントン渡って、空を飛びながら光の中心を見たい。中心に行けば行くほど暖かくなるようでいて、冷たかったら嫌だな。でも、心の中心なんてそんなものなのだろうか。暗闇を照らしている灯をそのまま切り取った、優しい景色は未来にあるのかな。デパートとつながっているだだっ広い橋から賑やかな街を見て思う。不条理な世の中をなんとかやり過ごそう。って、なけなしの力を入れ、デパートに戻った私。
人ごみが嫌いという理由で、閉店間際を狙って雑貨屋に入った。入浴剤や石鹸を買いたい気分だった。桜や柚子の入浴剤も悪くない。花系で森か山かなんかイメージして浸かるのもさ。でも、ちょっとキワモノなチョコレートやプリンのデザート系にするのも乙だね。チョコレートでべちゃべちゃになりながら、どこまでもチョコレートの丘を進んでいく。ぽつぽつ生えた巨大なミントが木みたい。遠くに富士山によく似た山。私はペンギンの石鹸を持って、丘を登っていく。いつまでも川が見つからなくて洗い流せないまま、太陽に溶けた石鹸がぬるぬるして、気色悪さに捨てたいと思うけれど、キレイに洗えなくなるし、くちばしとひれみたいな部分が溶けていて可哀想で捨てられない。ぬるぬるの手。ようやく川を見つけ、石鹸で手を洗おうとするのだけど、ぽちゃんとうっかり落としてしまうんだな。うるる。やってしまった。
「おーい、詩瑛ちゃん?ペンギン好きすぎて変になっちゃったの?」
はっとなって、顔を上げると雉家さんがいるではないか。
「雉家さんは何を買ったんですか?」
「ええとね、みかんのゼリーの入浴剤と、押すとつぶれちゃうピンクのまんまるとかね」
「つぶして中身がこぼれるのを楽しむタイプ?」
「柔らかい感触を楽しんでると、手の中で破裂してしゅわしゅわする」
たわいもない会話をしつつ、「時間ギリギリだけど大丈夫?」と雉家さんに促され、レジで会計を済ませた。大きな葉に買った商品を包めたらエコロジーかもしれないけど、破れたら意味ないな。味気ないな。くだらない発想を広げている。あはは。
カフェオレの穏やかな味。物語で言えば主人公の命を救うために敵にやられていっちゃうクラスの善人か?男性か女性かといえば、女性かな。何でこんな風に擬人化して想像したりするのだろう?できるのだろう?人間って不思議な生き物だな。
「お待たせ、私レモンティーにしちゃった」
レモンティーは少女って感じだね。雉家さんには若返り願望があるのか。向かい合う目と目。顔と顔。
「ねえ、思いつく言葉を並べてみない?」
「えっと、どういうことですか」
「即興で歌詞を作るみたいな」
「あっ、面白いですね」
言葉のセッションをすることになった。雉家さんからどんなフレーズが飛び出すのか、読めない。ジャンケンで私が先に言うことに。
「屋根裏で散った火花、野良猫見てた花火」
「僕がダンボール箱に隠したペンライト」
「ちゅうちゅうちゅうちゅう」
抑揚なくネズミの鳴き声で鳴く私に雉家さんは思わず笑った。
「蛍光灯でチャンバラするの、私」
「ネズミの宴会、終日禁煙」
「それがしの行灯、某メーカー製」
「ちゅうちゅうちゅうちゅう」
自分で考えたとはいえ、恥ずかしい。ネズミが差しかかる度、小声になる。
「もち米まみれの余を照らしたシャンデリア」
Bメロ、サビの前で盛り下がるというか、勢いを落としてメリハリをつける部分をどうしよう。
「万華鏡の家を出る」
「靴下片方だけ履いて」
さて、サビだ。茶目っ気を発揮した雉家さんの歌詞で世界観が崩壊しているが。
「炸裂!煙玉から白い煙」
「目まぐるしく変わる煙模様」
「わっかになって帯になって」
「雲になって霧になったきり」
もはや訳がわからない歌詞になったな。そして、さっき思いついて言ったフレーズはどんどん煙になって消えている。二人して冷めたカフェオレとレモンティーををやっつけて、喫茶店を出た。拗ねたような味だった。
三叉路を右に曲がって、こまごました通りを進むとくすんだ灰色のマンション。オートロックを鍵でちゃっと開けちゃって、1階のエントランスまですいすい。エレベーター、ぐっと上昇。303号室に住まう雉家さん。まぁ、普通の部屋だ。蛇を飼ってたり、なぜかチェーンソーがあったり、五寸釘と藁人形が置いてあったりはしない。
誘われるままに、ここに来た。電話して映には伝えたし、昼のどんよりが引っかかっているのね。熱心なファンではないけれど、彼女の漂わせる妙なオーラに惹かれたのかもしれない。モスコミュールを飲み、すっかり酔っ払った雉家さんの目つきがとろんとして、くてんとして、たらんともしている。うわっ。抱きついてきた。悪くはないけど。暖かいけど。
「ストーブやこたつじゃ熱すぎて、人肌くらいがちょうどいいわ。人工より天然物よ」
抱きつきが強くなる。私はあわわと戸惑いつつ、とりあえず雉家さんの頭を撫でた。美しい髪よのう。抱き合いながら、沈黙が流れた。サイレンスな空間。震える彼女の肩。こぼれ落ちた涙の温度が肩の辺りを伝っていく。最初はかあっとしてる涙が、徐々にひんやりして、でも私の胸の内は熱くなるばかりで。
「人生思い通りにはならないってわかってるけど、こんなことになるなんて思わなかった」
痛いほどに抱きついて、淡々と彼女は呟いた。
「まだ終わりませんよ……終わらせませんよ」
「この先も不幸が終わらなかったらどうしよう。怖いよ、頭がこんがらがるよ」
「失ったものは戻ってこないけれど、声を残していけるじゃないですか」
「その声を失くしてしまったら?」
「う……他の方法でも雉家さんという人間を示すことができるはずです」
「そうかな……そうなったらもう私、弦の無いギターみたいなものよ」
なだめ続けたけれど、立ち直らせることはできなかった。泣き疲れた雉家さんはくっつけていた体を離し、横になって眠った。
ぶつぶつ何かを呟き続ける声。不気味な、静かな怒りに満ちた呪詛だった。
「車炎上してしまえよ……逃げやがって、クソ野郎が。あの日から扉を開けてもずっと扉続きだ。同じ所をひたすらループしている。徒労に終わる、嘲笑される、蔑視される。ああ……治せないかな。ろくでなしでもひとでなしにはなりたくない。でも、荒んでしまいそう」
憂鬱を振り払うかのように、彼女は首を振ると、パソコンを起動させ、昔出演したアニメを寂しげな表情で見ていた。どうしたらといいのかなを交互に呟きながら。私は器用に布団で顔を隠しつつ、時折顔を出して悲しむ姿を見ていた。確実に手を打たないとまずい状況に追い込まれている気がする。しかし、私に何ができるのだろう。できるのだろうか?
翌朝。仕事に戻るか悩んだが、やつれた雉家さんを見てひとりでに口が動いて、「何か手伝えることあったら言ってください。一緒にいます」と言ってしまった。映は電話で、「横領してやる、ははは、うそうそ。ヤバかったら呼べよ、俺を」とごちつつ、心配してくれたからなんとかなるだろう。甘い甘いおしるこを朝食に食べ、今はボサノバをかけながら、アルバムを一緒に見てる。子供時代のそれは三つ編みの幼い彼女で兎の着ぐるみにチョップをくらわせたり、靴べらをマイク代わりにして歌ってたりとお茶目な写真もあれば、線香花火をしてうっとりしていたり、夜空を見て儚げなセンチメンタルな表情をしていたりと可愛げな写真もあった。中学や高校の時の写真が無い理由を尋ねたら、離婚した際に置いてきてしまったらしい。気まずいことを聞いてしまった。話題を変えようと、その頃好きだった男子はボーイは?と問うと、彼女は懐かしそうに話し出した。教室の隅で一人でいるような目立たない感じの人間同士で集まって、その中でも音楽に夢中になっている少年がいて、体育倉庫で弾き語りライブをしたこと。名前は何だったけなと雉家さんは思い出そうとして、でも浮かばず、最初に木琴をぴんぽんぱんぽん鳴らして、最後に「超合金ー♪」と絶叫してアコースティックギターを傍らに置き、マットの上を転がり、意中の女子へダイブしたがヒラリとかわされ、痛みに少年はぐずり始めおいおい泣いたということを話した。トーキング・ヘッズ。さらに少年の歌う歌のテーマが奇抜で信号待ちするじれったさ、雑巾を洗って冷えた手、鶏小屋のエサを探す歌など日常のどうでもいい部分をあえて描いたものばかりだったらしい。ぶっ飛んでいるなあ。
雉家さんがページをぺらぺらめくる。すくすく大人な写真で、イベントでファンに手を振る彼女、共演した声優と肩を組んでいる姿でだんだん今に近づいている。
「写真……増やしていきたいわね」
「そうですね。きっとファンの方も待ってますよ」
アルバムをしまって、彼女はかすかに微笑んだ。その場にカメラが無いのが残念だった。
もう大丈夫だからと言う雉家さんと別れ、夕日色の坂道を下る。いや、柿色かな、蜜柑色かな。でも、そんなことはどうでもいいな。店に着いた私に映は、「今日は休んでていいぜ」と言う。お言葉に甘えて休むことにして、ホワに会いに行こうと廊下を歩いていたら電話が鳴っている。漣乃ちゃんからだった。
「今会えますか」
「うん、行けるよ。久しぶりだね」
「じゃあ7時に釜飯屋で」
なんてやりとりして、手短に切り上げて、おちおち休んでもいられず、指定された釜飯屋へ。漣乃ちゃんは釜飯が好きなのか。
「久しぶりです。何頼みますか」
「私は五目釜飯で」
「わかりました。私はほたて釜飯にしようっと」
そうして釜飯が来るのを待ってると、漣乃ちゃんは紙袋をごそごそやっているではないか。
「あの、詩瑛さんもらってください」
指輪が入っている独特なケースを私に渡した。開けて見ると桃色の花びらの指輪。
「何で私なんかに!?」
「困ったとき助けてくれたじゃないですか。7千円くらいですけど、どうしても渡したくて」
蒔さん以外にプレゼントされたことは無い。力になれたかわからなかったが、こうして指輪を贈られると嬉しい。でも後ろめたいような、どこかためらう気持ちが混ざっているのはあの後一度も彼女の元に行っていなかったからだ。
「お姉さんに渡すべきなのでは?」
そう私が遠慮気味に言うと、漣乃ちゃんは、「いえ、姉さんが何かお礼でもしないとって言ったんですよ」と返した。ならば、もらってもいいのか。
「ありがとう。うん、ちょうどいいわ」
きつすぎずゆるすぎず、しっくり指輪をはめられた。ちょうど五目とほたても来た。会計は私が全額出して、なんとなく漣乃ちゃんの頭を撫でると幸せそうに笑った。
いつぞやの公園にまた来て、色々話した。相変わらず学校には行けないが、絵を描いたり音楽を聞いて毎日を過ごしているという。橙乃さんは本屋でアルバイトをしながら、漫画家を目指しているっていうし。それなりに順調な近況を一緒に伝え合って、それなりの笑顔で別れた。私は申し訳なさと戦っていたのだ。
胸が苦しい。漣乃が自殺をしようとして、こけおどしに首を絞めたことを思い出して、馬鹿なことをしてしまったと思う。今更ながら。トラウマを植えつけてしまったかもしれない。悪夢になって苦しめるかもしれない。指輪を贈られる資格も何も無いのに、こんな人間のクズに。ホワにもなかなか構ってやれない。もっと適した、ふさわしい飼い主がどこかにいるんじゃないか?映もなぜ私についてきたのだろう。別に仲が悪い訳でも無いのに、私は彼に近寄りがたい想いを抱いている。結局私は人を救ったと思い込んで自己満足に浸っているアホな女なのか。いてもいなくても変わらない人間じゃないのか、私は。1秒後も1ヶ月後も10年後も私はダメなままなのかな。守っているつもりで傷つけてしまっていないかな。あっ、そうだ。何で今までひらめかなかったんだろう。死んだら蒔さんに会えるよ、きっと。ダメだったって言って謝ったら許してくれるかな。本当にごめんなさい。そんなことを考えながらベランダに立っている。生きるも死ぬも半分半分。人生の距離感が掴めないまま、ここまで生き延びてきた。乗り出してぼんやり遠い地面を見ていると、がっと体を後ろに引っ張られた。
「おっどろいたなー。まだ早いぞ。まだ、まだまだね」
涙でぐしゃぐしゃな顔をハンカチでごしごし拭かれる。痛いってば。
「な……何で、わかった……の?私はあなたに……ひっく、とんど構わな……のに」
「お前が死んだら、おっぱい触ったりするぞ。それでもいいのか。恥ずかしいポーズとらすぞ、おまけに」
さすがにそれは嫌だ。こんな変態の思い通りになってたまるか。やらしいのにまじめに聞こえるのは状況が状況だからか。映はさらに、「きつめの応急処置をしておくよ」と言って、懐からつまようじを出して映写。ぐん、と意識が遠のいた。
体がスースーする。高速で飛んでいる。自分自身が飛行機になってしまったような。くるり旋回しながら巨大な赤い輪をくぐる。ぴゅーんと上昇して雲を越えて青い空を進んでいく。まっすぐに。虹がすぐそこにあって、七色に輝いて、何もかもが晴れていった。両手を広げて、どこまでも飛んでいけそう。無限に続く世界を。快晴で正解、隅々まで届け。なんて上機嫌になって、めちゃくちゃに飛んでいたらば。夕方をスルーして、なぜか夜。輝く橙色と紫色の水が集まり、次第に緩やかな波になって、漆黒の空を彩った。しゅるしゅるしゅるしゅる、雲の上から降りてきた五人組。銀髪のショートボブはベース、黒髪のウルフカットはドラム。レディー2人はリズム隊。男3人の方はメガネをかけたキーボード、ツンツン立てた茶髪のギター、至って普通なボーカル。ギターの奏でる軽やかでポップなリフに疾走感のある演奏。ボーカルの彼が歌いだす。
短すぎる時を歩く はっきり聞こえてる
迷い道から抜ける ヒントの歌声を
簡単に忘れてしまう前に 何気に口ずさんでおこう
後ずさりして 避けたいことばかりだな
弾めないな スーパーボールみたいには
重たい扉を強く開けて明かりの向こうへ
進んだら陽光のシャワー 生命になって
しんみりとして、しかし力強い歌詞だった。歌い終わるとすぐにベースの女の子を残して他の4人はしゅっとテレポートをしてどこかへ行ってしまった。
「あれっ、他の人たちはどこへ行っちゃったの?」
「さあね、私にもわからんのよ」
二人で地上まで下降していくと、地面が白く発光している。ガラスの床の下に照明を仕込んでいるようなものに似ている。周りに温風が吹き続けて、ピコリーンという音の後に流れ星の絵が浮かんだ。途端に不思議と身体中に力が漲る。駆け出したい衝動を感じた私はこらえようとした。しかし、我慢は毒だし、走ってしまおう。そいで、ダダダダ、ダッシュし始めると彼女も追走してくる。ええい。私は負けじと速度を上げていく。平坦な光る道がどこまでも続いている。これでもかとスピードアップした結果、ついに音速の領域に達した。
「ああーっ!疲れた、やめやめ」
30分ほど駆け回って、彼女が音を上げた。ふうふうはあはあ言いながら、落ち着いたところで彼女が、「ミッツオってーの、よろしく」と握手を求めてきたので、はーいあくしゅあくしゅってノリ良く握手した。そこで止まらず、ノリが良すぎる、というか興奮した様子のミッツオはガッと私を抱き寄せキスしてくる。わああとうろたえつつ、もはやされるがままだ。いつのまにか私たちを囲むように、数十匹の白と水色のマーブル模様の狐が踊っている。楽しげに愉快にステップを踏んでいる。けれど、テレビのスイッチを切ったように突然暗闇が広がって訪れた静寂。辺りに響くフルートの音。木漏れ日を浴びながら私は枯葉の上に寝そべっている。とっても心地よい。脳裏で名前もわからない五人組のバンドの歌がリフレインしていた。飛ぼうとしたけど、能力が消えたのか飛べなかった。それでも良いように思えた。ただカラカラに乾いた枯葉の感触がくすぐったかった。しばらく横になって、まどろんでいると顔に何かが落ちてきた。見慣れた花だった。空から蓮華草が降ってきたようだ。枯葉に紫の蓮華草が入り混じる。蒔さんの声が聞こえて、その方角へ振り向いた途端に部屋の天井が飛び込んできた。じっと天井を見据えながら、夢を思い返していた。
やっぱりだめだ。今じゃないと間に合わない。上の空で一週間が過ぎていって10月になったけど、雉家さんの精神状況はどうなっているのだろう?あれから映は少しずつ私に話しかけてくるようになった。彼がどんなに良くしてくれても、傷つきたくなくて今まで壁を作って遠ざけてたのかな。着実に持ち直してきている。でも、それは蒔さんや映の尽力によるもので、いつかは一人で戦っていくしかないんだろうな。思い出をぎゅうぎゅうに詰めて、最期まで乗り切ったら蒔さんに話そう。笑ってほしい、悲しませる訳には行かないな、やっぱり。黄昏きった街を越えて、国道沿いを歩いて、つぶれた柿の散らばる三叉路で。
不吉な想像を巡らしつつ、303号室の扉を開けると真っ暗闇。呼んでも反応無し。気が動転して、携帯の存在を忘れて、おっかなびっくりな私は手探りで廊下を渡って部屋へ向かう。か細い金色の光が漏れていた。
吊るされた巨大な蝶のライトがパーパーとシャイニング。それ見て放心している抹茶色のドレス着た雉家さん。はて?どうなされました?私に気付くと、一気に喋り始めた。
「蝶に憧れてカランコエ食べようとしたけど、食えたものじゃないわね。ヤケになった挙句、他人に危害を加えるのはヘタレな私には土台無理で、そこまで落ちぶれたくはないし、ヤンデレの二番煎じみたいじゃない。デレが抜けてるか。ただ一日がぼんやり過ぎていく。答えが出ない。もやもやして尖るばかりの心」
「いっそ吐き出してしまえば良いんですよ。喫茶店で歌詞作りましたけど、私は○○だと統一して今の気持ちをまとめてください」
「何が変わるのかしら……私は臆病だ。私は惨めだ。私は無価値だ。私は空虚だ。私は敗者だ。私は根性無しだ。私は愚劣だ。私は不用だ。私はおしまいだ」
「あなたは優しくて、お茶目で、健気で、真摯で、謙虚で、必要で、今は過渡期でこれから盛り返すのよ」
しかし私の言葉は届かなかった。彼女はふふんと鼻で笑って、「嘘よ」の一言で切り捨てた。二言目に、「あの面白い坊ちゃん、連れてきてよ」と言うと、早く出てけとでもいうような態度で私を玄関先までぐいぐい押したのだった。
で、映を引き連れて私はまた来た。リトライが効くうちに。臨時休業はほどほどに。
「お前、楽器弾けるんだー、意外」
さっきマンションのエレベーターの中、映が言っていた。家を出る際、ヴィオラのケースを担いだ私に映が何の楽器か質問してきて、ヴィオラと答えたらさっぱりちんぷんかんぷんな顔をしていた。ヴァイオリンの仲間みたいなものだと説明して、ようやくわかってくれたが。クローゼットの奥深くに眠っていたヴィオラをわざわざ引っ張り出してきたのは、昔読んだ小説に音楽療法士が傷ついた人々を再生させていくシーンがあって、それをなぞらえているのかもしれない。
対峙する映と雉家さん。
「禎子さん、見せたいものがあるんだ」
「ふうん、何かしら?」
ぱーっ。つまようじを取り出し、部屋中を覆う黒のカーテンに映写。エイシャって女の子の名前みたい。慌てすぎて私は肩にかけたヴィオラのケースを床に落としつつ、かっこよくは行かないな、いまいち決まらないなとくよくよしつつ、ぼやきつつ、凹みつつ、3年ぶりに取り出した。構えてすぐ、脳裏をよぎる凶悪なメロディ。少し音を出してみて、尚更凶悪なメロディは、悲しい記憶をフラッシュバックさせる。
「てめえ、下手くそなんだよ」
「あたいらの吹奏楽部にあんたみたいな雑魚はナッシングなの」
「はん、リコーダーに塗るアレを口に塗ってりゃいいわ」
「貴女って唾液を拭かずに放置したピアニカみたいね」
ぐんぐん睨み、キレるにキレ、一番多く浴びた言葉はアウトオブ眼中。イン・ザ・UK。
便座オブ右頬。掃除箱・イン・ザ・教室の隅。アウトしない屈辱の日々。ああああ、ヴィオラ持つたび、手が震えるよ。涙でうるうるだよ。隣の芝生はメタリックシルバーだったよ。ということは何ですか?私は音楽療法を試みたものの、過去の傷的なものに翻弄されるんだす?NO、ちゃうねん。否ですよ。負けない不屈の精神。なんてのは嘘なんだけどね。あはは、そんなものあると思うんですか?そう言う人間に限って、私は御免こうむりたいとかなんとかぬかして、逃げるんじゃないかな。高みの見物を決め込んで、あーあ、そこから誰か飛び降りちゃったよ。硫化水素怖いね、僕は君と関係良化させたいつって、華麗なご婦人とドミノ倒し。そんなものだろう。
気がつくと、叫びながらガシャガシャ私はヴィオラを弾いていた。二本やら三本やら切れた弦が刺さって、血まみれだけど気にしない。気にしてられない。がむしゃらにしゃにむに無闇に演奏する。もはや錯乱状態で演奏と呼べるものかはわからないけど。映は微笑している。画面に見入っている雉家さんもヴィオラに合わせて美しい鼻歌。ヴィオラからふわふわの凪。淡い緑色、草原が広がっている。おてもやんが笑っている。ひょっとこもヴィーナスも弁天もサラリーマンも妖精も奴隷も笑っている。モグラが泣いて、馬が怒って、鳥が嘆いている。草から滴が垂れていた。
三日後。パソコンを起動させ、開くは雉家さんのオフィシャルサイト。大切なお知らせと手書きで書かれた可愛い丸い字の下に、「ファンのみなさんへ、このところ姿を見せずにごめんなさい。これから言うことをよく聞いてもらえたらと思います。7月の終わり頃に交通事故に遭い、私は右腕の肘から先を失ってしまいました。まだ犯人は見つかっていません。一時は声優を辞めることも考えました。だけど、私を待ってくれている人たちがいるのに投げ出せないなと思って戻ってきたんだ。まだ声があるって。残していかなきゃなって。今はただ生きていることに感謝です。これまで通りよろしくお願いします」と報告文が書かれていた。右下の空白には映の贈ったむべバネが押されていた。熱い歌が千曲同時再生され、嘘偽りなく込められた感情が全て溢れ出たような気持ちになった。上手くいけ!好転していくことを切に願う。昨日更新された写真のコーナーには芝生の上で穏やかな笑みを浮かべた雉家さん。それは確かに新たな一歩を踏み出した一瞬だった。
トイレの芳香剤を変えようと、古風に言えば厠、まぁトイレに入ったところ、やや、これはと驚愕したのは無地の白色の壁紙が緑と赤の水玉模様に変わっているからだった。原色がどぎついなあ。派手派手ね。映を呼び出して聞くのは後にして、古いミントの芳香剤をニューカマーのラベンダーの芳香剤に交代させようとした。ちょちょっとね。したらば。「やあ、きみかわいいね。ぼくのなはぶみゃ」
んんんん!?のぞき野郎がいるのかと上下左右、360度、くるくる回って眺め回したが、誰もいないし。
「右から5個、そこから左に14個目が俺だよ。君ならわかる」
わかるか、気色悪う。混乱してきた、何が起きてる?短時間で狂人になってしまったのだろうか。あわわ。ありゃりゃりゃりゃ、とパニックになりながらとっさに水玉模様に触れると、ぽんと音がして壁紙が元に戻った。夢を見ているのかと頭を振ったり、トイレットペーパーを片手に持って、薙ぐようにして空中で紙を乱れさせ遊んだりしていたが、夢ではないことがわかり、正気に戻って、ああ、これは映のドッキリだな、ははーんと納得した。今までに一度も映はドッキリとかイタズラとか仕掛けてこなかったけど、マンネリを解消したいと強く思った映はよし、派手派手な壁紙だとひらめき、今回のドッキリを企画したに違いない。
さっそく、花の水替えを終えた映に話しかけた。
「あのさ、面白かったよ」
「へ?何がだい」
しらばっくれるとは。ポーカーフェイスだね、でも白々しいよ。
「トイレが変なの、あなたのドッキリは見通しよ」
「いやいやいやいや、さっき君がホワに餌を与えに行っている間にさ、橙色の髪の毛の女の子が、髪の左側は薄い橙色で右に行くにつれ色が濃くなってる感じで。その子がお手洗いってありますか?って聞いてきたから貸したんだけど」
「ちぐはぐになってる。落ち着け。で、その女の子は?」
「何も買わず、どっか行っちゃったよ」
不思議な子が現れたもんだ。映に探させよう。「探しに行って」と私が言うと、苦笑いを浮かべつつ「わかったよ、おひねり的な何か後でくれ」と言って、店の向かいに見える坂を駆け登っていった。
2時間ほど経って、へとへとな顔して戻ってきた映。結局その女の子は見つからなかった。努力賞としてつまようじをあげたら投げ捨てやがった。夕食の席に気まずい空気が流れた。ホワをお腹に乗せたまま、ソファーで眠ってしまい、起きると映が床で寝ていた。さすがにひどいなと思って、布団をかけ直そうとして、いや、待てよと私はイタズラ心を発揮、映の布団を取り去って部屋に戻った。
真夜中に目がぼやぼや覚めて、まだまだ寝ぼけまなこな私はきなこ食べたい。蛍光色の猿と一緒に。と意味不明な言葉を撒き散らしつつ、台所までよろよろ来て電気を点け、ちゃってぃー、冷蔵庫の粗茶を取り出そうとして、景色が妙であることに気付いた。床が赤いハート柄が入ったピンクの着物着たおてもやんのパズルになっている。パズルが動いて、一つのパズルの上に折り重なるようになって、できた穴を覗き込むとくねり曲がったティラミス。パズルは一点に積み重なって、ティラミスの空間は3mまで広がった。ちょうど戻り道を失くすようにして。呆然と立ち尽くしながら私は、ああ、奇妙なことばかり起きやがると思い、いっそティラミスの空間へ飛び込んでみようかとも思ったが、くねり曲がっていて不気味だし、何が起きるかわからないし、やめておこうと考え直した。巨大だな。原寸大だとどれくらいだ?食べきれないなとのん気にもなった。
10分ほどティラミスとうず高く積まれたパズルの山を交互に見ていると、突如穴は塞がり、廊下から誰かが来た。おおっと。昼間のウワサに聞く少女だった。確かに薄い橙色から少しずつグラデーションがかって、熟れた蜜柑のような橙色になってる。漫画だったら色を塗るのが面倒な、アシスタント泣かせな奇天烈な髪だ。髪の色同様明るく、どこかイタズラめいた声で彼女が言った。
「お姉ちゃんの困った顔面白かったぁー、もっと困ってぇ」
「……いい子ね、怖い思いさせてあげようか?」
このけったいな女の子をどついたり、押入れに閉じ込めたりしたいというダーティーな発想が浮かんだが、こらえた。あどけない顔立ちからして年齢は13,14歳くらいのローティーン?150cmいくかいかないかの身長。女の子は髪型以外にもツッコミどころが多い。スーツ着てたりとかね。あれ、スーツ?
「そのパリッとした紳士服、いわゆるスーツを何故に着用しておるのだ?」
妙な言葉遣いになっているのは夜中に付きものな変なテンションのせいか。
「きゃはは、お父さんのでありまするー」
「そうでごわすか、わかり申した。ところでそなた、名は何と申す」
「ふぇへえー、レギャと申すでござりごわす」
そうでござりごわすかと返しかけて、そうなのと普通の言葉遣い・テンションに戻し、さっと話を進めた。レギャは自由に幻覚を見せられる能力を持っているらしい。赤緑水玉もハート柄おてもやん&くね曲がりティラミスも幻、まやかし、架空のものだったのか。うん、私の頭は正常だった。医者にそのまま説明したところで、憑き物に憑かれた、モノホンの狂人と思われる。普段、Sheは様々な家の屋根裏に忍び込み、生活しているらしい。どこまで嘘で本当かわからないけど、面倒くさいから本当だと思い込もう。
「で、私の家の屋根裏に忍び込んでたの?」
「誰がこんな家。大きな屋敷の使われていない部屋が最高ぉ」
苛立つどころか、虚しくなってきた私は悲しい短調なメロディを口ずさみながら、オセロの盤面を黒でいっぱいにして、世界は闇に染まったと呟きたくなったけど、夜中だし、眠いし、そもそもオセロが家に無いしやめといた。
「まあ、いいわ。今日は家で眠ってきなさい。こんなで良ければね」
「仕方ない、泊まってやるとするかぁ」
私の部屋に入るなり、スーツを脱ぎだしたレギャ。企業戦士の特攻服の下にはカモシカの絵が入った紫色のメイド服。堅苦しいフォーマルな感じからキュートなカモシカメイドに変身レギャ。ホワは初対面のレギャにも懐いているレギャ。語尾がおかしいレギャ。さっさと寝てしまうに尽きるレギャ。ベッドにもぐり込んできたレギャがほかほかギャレ。語尾は変えないほうがしっくりくるレギャ。うん、もう寝よう。おやすみ。
朝食にブドウのヨーグルトとバウムクーヘンを切って三人で分けて食べた。映は昨日の少女の姿を見つけ心底驚いた表情をして、ええええ言っていたけれど、「よろしく、レギュちゃん」と言って握手を求め、仲良くがしがしシェイクハンド。オーイエー。さっそく私にはこの変な女の子と引き合わせたい相手がいた。
「ああ、詩瑛さん。横のあなたは妹さん?」
「んー、親戚みたいなものよ」
そう言ってレギャに早く名前言いなさいと視線で訴える。
「私レギャって言うのぉ、よろしくぅ」
「漣乃といいます、レガちゃんよろしくね」
微妙に名前間違っているけど、レギャは気付いていないみたいだし、気に留めないでOK。久々に連乃ちゃん家に寄って、3人で紅茶飲んでる。レギャの服はカモシカメイド……ではなく、私の着れなくなった白とピンクのツートンカラーに分かれ、中央に桜餅の描かれた長袖のシャツと、ズボンは若葉色の無地。テレビを見ていると、好奇心を働かせ猫のようにそこいらを探りまくるレギャ。あちゃあ。無闇に許可無く人の家を探索してはダメなのよと注意しようとして、私は椅子から立ち上がろうとした。するとレギャは漣乃の方に歩いて手に持ったパレットと画用紙を見せた。妹を想って橙乃さんが買ったものなのだろうか。学校の図工用にね。ズコーッと転んでしまいそうだよ、私は。
「ああ、絵の具あったかな。筆も無かったかも」
暇だし、この3人で絵を描いたらどうなるかわくわくくわくわしていた。桑の実。
「指で書けばいいのよ」
「そうですね、わかりました。探してみます」
そう言って漣乃はリビングの隣の自分の部屋から道具箱を持ってきて、ガサゴソやっている。道具箱の中が私の感情と直結していて、彼女のガサゴソでむかむかしたり、はらはらしたり、どきどきしたり、ほわほわしたりできたら面白い。出てきたビニールのケースに入った絵の具セットは青と緑と黒が無い。水を入れる容器が無いので紙コップで代用。
さて、指に好きな絵の具を塗ったらそのまま画用紙へゴー。私は茶、漣乃は紫、レギャは赤を選んだ。すぐに題材は思いついた。
プリンターのインクが切れ、街に出かけ買いに行こうとしたら、怪しげな商人に話しかけられ、欲しくもない茶器を買わされたリスは、「ああ、Ah、どうしよう。また妻にどやされる。キレられる。ニードロップされる。小遣い減らされる」と嘆きながら歩いていると道路に開いていた穴に落下。落ちた先は遊園地。床が奇怪で左半分は碁盤のよう。右半分は基盤でサイバーな感じ。リスは基盤の上を歩いて、機械になった気分に浸っているとありふれた人形の女の子が現れ、「一緒に遊びましょう」とメリーゴーランドを指差して言う。くさくさして鬱屈が溜まっていたリスはアレに乗って世界を巡るうちに俺の感情も一巡してまたくさくさ……したらダメなのであって、そこは何?あのー、まあ、上手く感情が変わって、快の方向に向かえば良いよねとリスは思った。くにゃっと曲がった馬の片足から器用にたんたん跳んで、手綱を掴み女王気分の人形。その横にがっしりと手綱を握りぶるぶる恐怖に震えるリス。振り落とされて何度も馬の足がヒットしたら俺ヤバくない?と戦慄して。ばんばらばんばばーん、どこかからかファンファーレが流れ、くるくるぐるぐる進み出す。走り出す。回り出す。いやに甲高い声でリスは悲鳴をあげた。脳がシェイクされる感覚。5分後、虚脱したリスと人形。速度がゆっくりなうちはまだ笑っていたが、けっこう速度が上がってきて残像が見え始めると、「おりたい」と呟いてつぶらな目をつむっていた。その後、観覧車や猫のお化け屋敷に入り、小動物という点ではネズミと大して変わらないし、猫に喰われるのではと身の危険を感じつつ、何事も無く、肩透かしをくらった。でー、今俺は人形とぜんっざいを食べてる。ZENZAI!と叫びながら。嘘だけど。餅が一欠けらぐらいになったところで、物陰からつかつかと妻。何故だい?と思う間もなく、俺の腹に食い込む鉄拳。うおおおおああ。人形は逃げて消えた。妻のパンチは勢いを増して、血反吐が出たよ。真っ赤だね。ルビーに変われば綺麗だね。
そう、私は血反吐を吐くリスを描こうとしたのだ。しかし、妄想に夢中になりすぎて、私が俯いて考えている間にレギャが先に、林檎を描こうと赤いペンを持っている男の姿を描いていた。髪は黄色で金髪風味。漣乃ちゃんは紫色の髪の少女を上半身まで描きかけて、きょとんとした顔で私を見ている。悶絶する演技をしながら私は苦しげに言った。
「ぐああ、遊園地で人形と遊んでたら妻が鮮やかなマシンガンジャブをぉお」
「遊園地?つ、妻?どうしたんですか、詩瑛さん」
イタズラっぽく私が笑うと、もうーと言いながら漣乃ちゃんはぽかぽか肩を叩いた。絵はそれまでにして、また紅茶を淹れてのんびりなひとときを味わっていると、そのひとときが4時間に拡大され、すっかり夕景。うっかりしすぎた。お邪魔しましたを言いかけて、もじもじしていたら橙乃さんが帰宅。夕食にうどんをいただいて、世間話から高校の時の話になって、「高校でどういう思い出とかあった?」と聞かれ、行っていないんですと答えて気まずい空気になって、本屋の話になって漫画の話に着地。橙乃さんは、「漫画描いてるんだけど、見てくれないかしら」と言って部屋から原稿を持ってきて私に渡した。不思議なストーリーで脈絡も無く女性が猫になったり、ちょっとそこまでなノリで月まで行ったりしてしまうものだった。異次元に連れてかれそうになった。読み終わって、「ぶっ飛んでいて面白いです。女性が猫になった状態で月に行って、なぜか表面に海苔が生えていたら、よりおかしくなるかもです」と言って、出かけるときお土産にと用意した信玄餅の存在を思い出して橙乃さんに渡した。風林火山と低い声を作って言いながら喜んでくれたっけな。ばいばーいって家を出て。月が闇を照らして。
昨日で一区切りついたな、明るく騒いで映やレギャを送り出した。片付けていない食器やグラスが感傷を呼び起こす。
朝早く店の前を掃除していた私にレギャは、「じゃあね、お姉ちゃん」と言うので、とりあえず呑みこんで「時々漣乃ちゃんの元に行ってやってよ」とにっこり笑って言った。レギャはふわふわ飛んで着いた赤色の屋根の上から手を振った。
いつものように、仕事を終え店を閉め、お疲れーってコーヒーを淹れ二人で飲んでいた。あのさ、と切り出して、次にお前の頬の柔らかさが好きだとか言うかと思ったら、「旅に出たいんだ、明日から君一人でも大丈夫だよね」なんて突然すました顔で言われてもねぇ。
「えっ、どういうこと?私なんかした?」
「違うよ、色々なとこに行ってみたいんだ」
「そう……元気でね」
「そっちこそ。でもこんなにこき使われるとは思わなかったな」
水を飲み終わったホワを抱き上げ、ひょいと腕を持ち上げて爪を向けるようにして、私は精一杯可愛らしげな声をイメージして引っ掻いちゃうぞと言った。苦しいといけないからすぐに離して。
「はは、君も意外にファンシーな真似をする。もっと早く見たかった」
それから朝まで喋っていた。最初こそ、けっこう真面目に振り返っていたのに映がだんだんおちゃらけ始め、お前って意外と胸あるなとか、口からコーヒー豆が出たらそれを洗って人に売りつけるとか、言動が変になってきた。しまいには倒れる演技をして、足に顔をすり寄せたり、ふーふー息を吹きかけたりしてきたので、私は映の暴走を牽制しようとその顔にビンタをした。思いの外、強くビンタをしすぎて痛みに泣き顔の映。「覚えてやがれ、いつか従わせてやる」と捨て台詞を吐いて、いったん姿を消し、5分後に戻ってきた映は、「旅の途中で珍しい花見つけたら届けるよ、でも俺は君が花を見ている時にはまた新しい地へ向かってるんだ。なんかかっこいいだろ」と言うと、わしゃわしゃ私の頭を撫でて、またなと言いつつ握手して、手を離すと向かいの坂まで歩いていった。遠ざかる映の背中を見ていると、突然立ち止まって振り向き、何かをしている。ん?あいつは何をするつもりだと注目していた。七色の光が溢れ、虹がかかった。カラフルな世界。視界が滲んで、よくわからない気持ちになる。ほんの少し眩しい色が世界に届けていけば良いなと思う。淀んだ色ばかりじゃなくてさ、もっと、もっとね。明るい和音を響かせられたらなあ。きっと、いつかは。
富士山に近い町を茜さんと二人で歩いている。蒔さんの故郷が山梨だとは知らなかった。
「3連休取れたんだけど、詩瑛ちゃんも来る?」
実家に里帰りする茜さんに一緒についてきたのだった。もちろん二つ返事で。一人で寂しい状況にありがたい電話がかかってきたものだ。出かける前にペットシッターにホワは預けてきた。新幹線に乗って初めて別の県へ来た。修学旅行は休んだし、蒔さんも時々電話をしてはいたけれど、詳しくは聞かずに私は甘えるばかりだった。会話よりもふれあいが欲しかったのかな。それに口を開けば花の話題が圧倒的に多かったし、亡くなった後にアルバムで富士山をバックに公園かなんかでピースしてる蒔さんの写真を見たことがあったけれど、静岡なのか?山梨なのか?と思った。どっちかわからなかったのだ。でっかいな、すぐ近くに富士山があるよ。昨日の夜に降った雨でできた水溜りにも映っている。
暖かみのある茶色の家が蒔さんの実家だった。「帰ったよー」と言いながら、居間へ進む茜さんについていく。テレビを見ながら、座布団に座りお茶を飲み、穏やかな声で話す蒔さんのお父さんとお母さん。後ろの私たちに気付き、慌てて会釈をするので私も会釈を返す。
「詩瑛ちゃんじゃない、よく来てくれたわね。蒔から良い子だからいつか連れてきたいって言われてたのよ」
「第二の故郷だと思ってくれ」
「まあ、あなたったら。大袈裟すぎるわよ」
ぽろぽろ涙がこぼれた。じわじわ広がる。心。改めて蒔さんが優しかった理由の一つがわかった気がする。どうしたらいいんだろう?止まらない。欠けていたものがピタリと組み合わさって、確かに満たされたのかな。うん、満たされた。でも、届かないものだと決め付けていたんだ。血のつながりも無いのになんて。違った。この温もりは幻じゃなくて。蒔さんの笑顔が沁みついて離れない。離したくない。むせび泣く私を抱き、背中をトントンと軽く叩くお母さん。胸がいっぱいで、溢れ出した感情をひたすら感じていたかった。
落ち着きを取り戻した私に、お母さんはいくつか積み重なった座布団からウグイスが木に止まって、3連符で鳴いている、ホ・ケ・キョといった感じで。ホーは入れずに、ホ・ケ・キョと3連符で鳴くウグイスがいたっていいじゃない。とでもいうかのような座布団を用意してくれた。私はウグイスの上に座って、耳を傾ける。お母さんが話し始めた娘の思い出話を。
「蒔が高校生の頃だったかしらね。花を入れる容器に凝って、マグカップ、ジュースの紙パック、ダンボール箱に花植えたりしてて、面白い娘と思ったわ。富士山が花で埋め尽くされたら可愛いなとも言ってたわね。あと、河原で失業したサラリーマンの方に花を渡してたわね。本当優しい子だった」
「むむ、そんなことがあったのか。あの子は真心があったね」
「花といえば、エスプレッソ入れる時に、なんていうかわからないけど、花の絵描いてくれたな。姉さん妙に芸が細かいし」
とにかく花に関しての逸話というかエピソードが絶えない。さらに続いていく。
「まだ蒔が小さい頃、庭の金木犀をぼーっと見ていたわね」
「姉さん、よく花のしりとりするの好きだったな。私はお菓子や色だったけど、姉さんがテーマを決めるのは花だった」
おっと、そうそう。そういえば蒔さんは客が来なくて暇だったり、定休日にリビングでコーヒーを飲んでまったりしていたりする時に、「時計草だからウね。しりとりしよ」と振ってきたな。
「茜さん、私も蒔さんとしりとりしてました」
「ふふっ、やっぱりか。ああ、いつぞやの誕生日にアスターのブローチくれたな」
「今もそのブローチはありますか?」
「それがね、どこに置いたかわからないんだ」
「どこか行っちゃうことってありますよね」
お母さんとお父さんは昔の話をしている。茜さんは、「私の部屋に行こう」と言うと、かつて姉妹で使っていた部屋に連れて行ったのだった。
カスタードクリームみたいな優しい雰囲気の部屋だった。どこが?と言われると困るが、淡くまろやかなところというか、ほんわり包み込まれるような空間。記号で言えば○のような。実際に薄紫の丸い机があるしね。ここでも色々な話をしてくれた。夏休みの自由研究で蒔の友達と一緒に山に行き、なんかの花を摘もうとしたら、蜂が出てきててんやわんやに逃げ回り、その時も一緒だったこと。また、ペラペラになってなんとなく可哀想な気がするから押し花は好きじゃないとか、でも食用花を用いたケーキは食べてみたいとか、蒔さんらしくて笑ってしまった。おもむろに立ち上がって、押入れを探す茜さん。フクシアが描かれた筆箱、ノートに書かれた花の落書きなどが名残を感じさせる。カセットを片手に、下に置かれていたラジカセを引っ張り出し、トンと床に置いてカシャッと入れる。日光でラベルが黄色く変色したカセットを。再生され流れ出すのは。
「じゃあ、名前を言ってください」
どことなく若い自分の声にうわあと恥ずかしがる茜さん。
「あたしモリシマアカシア。さわさわの花がしとしとでぽとぽとでぬれぬれでやれやれでつやつやでひやひやでうるうるでまるまるよ」
きらきらした蒔さんの声。ほわほわした気分になる。懐かしいな、慕わしいな、苦しいな。
「異様にオノマトペばっか使いますね」
「あなた、きれいな角してるのね。くるくるしてて、ゆるゆる曲線を描いてる」
「モリシマアカシアさんこそ、って名前長い。モリーこそスカイブルーのローブが良いわ」
サーとカセットのノイズ+沈黙。過去÷愛=懐かしさ。
「モリー、簿記には興味ある?」
「何を唐突に。数字ずらずら並んだだけでいらいらして思考がばらばらになる」
「坂上さん、不思議な映像作るよね」
「うん、シャワーをかけられた途端に風呂嫌いな猫がダッと走り、テーブルの上の青海苔をぶちまけ、猫はWOWと叫び、転げ回って青海苔まみれになっちゃうのよね。でね、椅子の下にもたれた緑の変なぬいぐるみと色がシンクロしていたんだ。本当変なんだよ、そのぬいぐるみ。馬と狸を合わせたようなさ。馬狸が猫パンチをくらってふっ飛ぶシーンが笑えた。しかもふっ飛んだ先に仲間が何匹もいるしね」
「どれも間抜けな顔してて、力が抜ける」
「行く先々に馬狸が置いてあって、カクカク動くし。侮っていた馬狸に囲まれ驚き怖がる猫が可愛かったけど、ちょっとかわいそうだった」
「ハニワと猫とドレッドの男の三つ巴はシュールすぎ」
そこでブツッと音がして、何だ?とラジカセを見つめる。しゃがれた男の唸り声。不気味で茜さんと顔を見合わせていると、「鯛焼きが食べたいのだよ、私は。もしもモノホンの鯛にあんを詰めて出されたらどうしようか。案外ミスマッチするかもしれぬな。反対に鯛焼きの中に鯛の肉がぎっしり詰まっていたら……ほああ、おとろしいのう」と拍子抜けする内容で呆れてテープを止めた。
声や姿を留めておけるというのはかけがえのない意味をいつか生み出すことになる。本当は、大切な人がそこにいるということが何よりも必要だけれど、それが叶わなくなった時に記録があると助かる。でも、残っていなくてもそれはそれで良いんじゃないかな。思い返して、胸が温まる感覚を忘れないでおこう。遥かに染み込んでいく、遥かに。
カセットとラジカセはしまっちゃって、茜さんは苺のお香を焚き始めた。木琴かフルートみたいな楽器が似合いそうな香り。頭の中でFの和音が鳴った。ぼわーんとぬくぬく。
デッドエンド