A MIDSUMMER FAIRY'S DREAM

 じわじわと追いかけて来る眠気を振り切って、ようやく開いた目で辺りを見回すと、もうすっかり暗くなっていた。馴染みの公園も、街灯に照らされている姿を見ると、同じ場所だとはとても思えない。
 どうしてこんな場所で寝ていたのか。理由を思い出せるほどに意識がはっきりして来ると、身体に寒気を感じた。季節は、夏の盛りだというのに。
 横たわっていた身体を起こし、ベンチに座り直す。座ったまま目を閉じたつもりだったが、いつのまにか寝そべってしまったらしい。
 背もたれに腰を預けると、意図せず、星が見えた。
 雲ひとつない、星のために用意されたかのような空だった。
「おはよう」
 一気に、目が覚める。
 猫みたいに全身で驚いてしまったかもしれない。ぜんぜん予想していなかった場所から、その声は来た。
「よく、眠れた?」
 声は、二度目も、やはり上からやって来た。まるで、星に話しかけられているようだった。
 クラスの女の子とは、違う。お母さんのとも違う、女の人の透明な声。もし、真夏の夜の星に住んでいる人がいたなら、こんな声をしているのだろう。
 声の在処を探すのに夢中で答えられずにいると、三度目の呼び掛けが来た。
「う、し、ろ」
 声に従うまま、肩越しに後ろを向く。
 後ろには、公園の中では太めの幹の木があった。
「で、上」
 そして、たどり着いた先に、妖精がいた。
「幽霊かと思った? だいじょうぶ。まだ生きてるよ、今のところはね」
 おかしそうに、妖精が笑う。
「どうしたの? まだ眠い?」
 近所の高校の制服を着ている妖精が、首をかしげる。
「眠い、わけじゃないです」
 いつもならもっと引きずるはずの眠気は、まったく感じられない。どこに消えてしまったのか、いつ消えてしまったのか。そんなこともわからないぐらい、跡形もなかった。
「なら、どうしたの?」
 そんなこと知らなかった。どうしたのかなんて、僕自身にもわからない。
「……どうして、そんなところに?」
 質問に質問を返してしまったことに気づいたのは、言い終えたあとだった。しかし、妖精はそのことを咎めるわけでもなく、考えこむような仕草を見せてから、視線を合わせてくる。
「迷子になっちゃってね。帰れなくなったの」
 妖精らしい理由だ。きっと、好奇心に誘われるまま、あっちにこっちに行っていたら、どれが正しい帰り道なのかわからなくなったのだろう。
 そして、そこには、奇妙な親近感もあった。妖精でも、帰りたい場所に帰れないことがあるのだ。
 妖精は、少しの間僕を眺めてから視線を外した。もう僕に興味がなくなったのかもしれない。安堵と寂しさが入り交じったささやかな風が通り過ぎていった。
 それでも僕は妖精から目を離せずにいたが、首の痛みで、無理な体勢をとっていることを思い出した。名残惜しむ気持ちで、姿勢を元に戻す。目を離せば、妖精がいなくなってしまうような気がしていたのだ。
 そんな僕の不安は、ふたたび星から降って来た明るい声で、あっさりと拭われた。
「君みたいな年の子が、出歩く時間じゃないなぁ。いったい、なにしてるの?」
 妖精の言い方は、叱りつけるようなものではなかった。僕は、あらかじめ用意していた答えを返す。
「星が見たくて」
 相手が学校の先生でも、両親だったとしても変わらない。大人に今日のことを訊かれたら、こう答えるつもりだった。しかし、妖精にどう答えるかなんて、考えていなかった。
 僕は、本当の答えを、口にする。
「星が見たくて、家出してきました」
 前を向いてしまっているので、妖精の顔は見えない。呆れただろうか。それとも、怒っただろうか。
 今日のことを尋ねられたときにこんな答えをいえば、先生はきっと呆れる。両親はかんかんに怒るだろう。
 妖精は──
「夢の中だね。星が見られる、夜の夢。夜の夢の中に、君は家出してきたんだ」
 僕の答えを、僕の知らない答えにしてみせた。
「……よくわかりません」
 素直に返事をする。他に言葉が浮かばなかった。
「どういう意味なんですか?」
 投げ掛けた疑問符に笑い声が返ってくる。
「それは教えられないね。ここにいる理由を聞いたのは私だけど、答えたのは君だから。私は君の答えが持つ意味なんて知らないよ」
「今のは、あなたの答えじゃないんですか?」
「違うよ。君の答えを、私の解釈で表現しただけ。だから、私の言葉の意味は、突き詰めると君の答えの意味と同じということになるの。わかった?」
「……ぜんぜん」
「じゃあ、赤点だね。赤点はわかる?」
「テストで点数が悪いこと、ですか?」
 姿の見えないままの相手が、不思議がるように唸った。
「よく知ってるね。君って、いくつ?」
 その質問を聞いて、すっかり忘れていたことをひとつ思い出す。
「今何時ですか?」
「え? ええと、時間は、十二時少し過ぎぐらい」
「なら、十一歳になりました」
 誇らしい気持ちと先の長さを見据える気持ちを半々ぐらいに感じながら、僕は答えた。
「嬉しそうに言っちゃって」
 妖精が、どうしてか不機嫌そうな声になる。
「誕生日が喜べるのなんて、子供の間だけなんだからね。せいぜい喜んでたらいいわ」
 誕生日に嫌なことがあったんだろうか。妖精は誕生日が嫌いなようだ。
「でも、おめでとう、君。ケーキは用意できないけど、歌なら歌ってあげられるよ。ハッピーバースデイって」
「もう、夜遅いですから、歌ったりなんてしない方が……」
 せっかくの提案を、とっさに否定してしまう。
「ご、ごめんなさいねぇ。でもね、もちろん、私もわかってたのよ、そんなこと。当然ね」
 今にも怒鳴りそうな声音だった。また怒らせてしまったらしい。
「……いいわ。君に誕生日プレゼントをあげる。ただし、物じゃないけどね」
 しかし、一転、妖精はどこか楽しげに新しい提案を持ちだした。
「いったい、どんなプレゼントなんですか?」
 星に問い掛けるように、上方に向かって尋ねる。
 答えを待ちながら耳を澄ましていると、後ろで地面になにかを打ち付ける音が聞こえた。ジャンプして、地面に着地したときのような音が。
「プレゼントは、すぐに箱を開けるより、箱を見て中身を想像する方が楽しめるからね。だから、秘密」
 声が近づいて来る。振り返って手を伸ばせば触れることができそうなぐらい、確かな息遣いが近づいて来ていた。
 ふわりと視界の端が和らいで、妖精が僕の隣りに腰掛けた。
「君、名前は?」
 僕の目を覗き込んでくる。
 妖精の顔立ちがとてもはっきりと見えた。枝の上に座っていたときよりは、妖精っぽくないような気がした。なにが変わったというわけではないけれど。
 しかし、だからだろうか、少し落ち着いた気分で受け答えする気構えができた。
「響です。桧山響」
 僕が名前を告げると、妖精は僕にしか聞こえないぐらいに小さく、僕にしか伝わらないように短く歌った。
「ハッピーバースデイひびき」
 しかも調子外れに。
「なんか、違いませんか?」
「いいの。大事なのは、音符の位置なんかじゃないわ。もちろん、旗の形でもね」
 妖精はさっと立ち上がって、ベンチに座ったままの僕の前に立つ。長くて鮮やかな黒い髪が、夜の波にゆられて羽ばたく。いまにも空に飛んでいって、消えてしまいそうだった。
「さあ、行きましょう」
 夜を裂くように腕を一振りして、妖精が言った。
「……どこへですか?」
「今から、君にあげるプレゼントを受け取りに行くの。門限はもうなくなっちゃったんだから、だいじょうぶよね」
 返事を待たず、背中を向けて軽快に歩いていく。この身軽さが、妖精らしい、のだろうか。すこし、身勝手な大人のやることと似ているような気もするが、もともと行く当てのない家出なのだから、ついていかない理由がない、と自分に言い聞かせる。
 捕まえることは出来なくても、せめて逃げられることのないように。僕は妖精を追いかけ始めた。


 妖精と並んでいっしょに歩いているうちに、ずいぶんと時間が経ったような気がする。僕は目的地を知らないまま、迷子の妖精に付き従っていた。
 もう夜中と言ってもおかしくない時間なのに、通り道では、たまに大人の人とすれ違う。大人になったら、僕もこんな時間を外で歩いて過ごすのだろうか。
「まるで私たち、誘拐犯と被害者みたいね」
 妖精はとても機嫌良く、振る舞いも明るかった。迷子になったことぐらい、ぜんぜん堪えていないのだ。
「たいへん。私、捕まっちゃう」
 そんな言葉も、楽しそうに言う。
「だいじょうぶです。ちゃんと証言しますから」
「そう、ありがとう。でも、それでも捕まったら逃げ出さなきゃいけないから、君も手伝ってね」
「む、無理ですよ。そんな、映画みたいなこと」
「そんなことないよ。かわいい女の子と、一見無垢にみえる少年が一人ずついれば、映画でも小説でも、とんでもないことをやってのけるもの。フィクションより奇なる現実なら、きっと世界征服だってできるはずよ」
「でも、世界征服なんてしようとしたら、みんな敵になりますよ」
「まだまだ青いね。長く生きてれば、自分以外はみんな敵だとわかる日がいつかやって来るよ」
「それじゃ、手を組んだりできないんじゃ……」
「君はひょろくて弱そうだから、敵にカウントしても意味なさそうだからね。私が保護してあげる代わりに、私の片腕になるのよ」
「なんだか、悪役に利用されて捨てられる立場になったような気が……」
「出世したら、自分でいろいろ決められるようになるし、部下だって持てるよ。それまでは、子供でいないとね。なにも知らない振りをした子供で、みんなを油断させるの」
「裏でこっそりみんなを操ったりもしそうですね」
「そうそう。そして最後は高笑いするのよ。もちろん、そのときは私もいっしょよ」
 いちいち表情が豊かな様子につられるうちに、抵抗なく喋ることができるようになっていた。
 初対面で、年上で、高校生で、そして妖精で。声がすぼんでしまうはずのいくつもの要素を、妖精は簡単に取っ払ってしまったのだ。
 妖精は、ほんの少しだけ僕より背が高い程度だが、こうしていると、そのほんの少しがとても大きく感じられた。


 見慣れた商店街の見慣れない顔を歩いて、妖精が足を止めたのはビルだった。
七階建てぐらいのようだ。入ったことがない場所なので、なんのビルかはわからない。
 妖精は、西側非常階段の四階の入口鍵が壊れていることを、ビルの傍らを進んでいる最中に教えてくれた。
「他の誰にも教えちゃダメだよ。誕生日プレゼントなんだから」
 急に声をひそめてくる。よほど知られたくないのかもしれないが、壊れた鍵が直るのなんてすぐだろう。しかし、あまりそんなことを言って妖精の機嫌を損ねるのも良くないので、僕ははっきり頷くだけにしておいた。
 例の場所にたどり着く。幸い、まだ鍵は修理されていないらしい。
 妖精が先行し、慎重に扉を開ける。
 僕はその間、罪悪感を覚えながらも、妖精といっしょに普通でない行動を取ることに冒険心を煽られていた。大人に見つかったりしたくはないけど、なにかがあって欲しいと思うような。
「よしよし、行けるかな」
 いかにも悪巧みをしてそうな顔で、半開きの扉から手招きしてくる。僕は最後にもう一度と、辺りの様子をうかがった。
 遠くにまだ変わらない喧騒が聞こえる。夜が深まったぶんだけ、静けさの勢力が強くなってはいた。
 そんな中に、車の音があった。喧騒に混じっているような音ではなく、もっとはっきりしている。近くの道を走っているようだ。
 少しだけ慌てはじめた鼓動を抑えて、そのまま音の行方を追う。車の音はだんだんと大きくなり──
「は、や、く」
 いきなりグイッと身体を引きずり込まれる。
 意識だけを外に向けてさっきの音をたどると、どうやら無くなっているようだった。通り過ぎてしまったのだろう。
「どっちに行こうかな」
 あまり聞きたくない言葉を聞いたような気がする。
 僕達は真っ暗闇を、妖精が持っていたペンライトを頼りに進んでいた。そんな小さな明かりしかないため、目はすっかり暗闇に慣れてしまっていた。輪郭はほとんどわかるし、物が煩雑に散らばっている様子もないので、転ぶことは無さそ
うだ。
「道、決まってるわけじゃないんですか?」
 そこまで細かい分岐路があるというわけではないが、ここに来るまで何度か左右に別れた箇所を通っている。エレベーターは動いていないようだったし、階段にはまだたどり着いていない。
 この階には、ちょうど学校の教室ぐらいの部屋や、特別教室の資料室ぐらいの部屋がいくつもあった。窓越しに中を見れる部屋もあるようだ。
「うん、迷った」
 薄々、そんな気はしていた。
「……どこに向かうんですか?」
「とりあえずは、上に行こうと思って。屋上の鍵も壊れてるの。偶然ね」
 上というと、やはり階段しかないだろう。今まで行っていない場所、通っていない場所をしらみつぶしに当たっていけばすぐに見つかるはずだ。
「屋上には、なにがあるんですか?」
 今度は、僕が先行することになった。ある程度の道が頭に入っているのに加え、階段の場所もほとんど絞り込めているからだ。
「まだ秘密」
 頭の中の地図を埋めるうちに、お手洗い、給湯室と見つけ、次に階段を見つけた。やっと上に行ける。
「このまま、屋上まで階段を昇れば良いんですね」
 階段の前で立ち止まり、妖精と位置を入れ替わった。
「七階まではね」
 足を踏み外さないよう、手すりを持ったまま足下に気をつけながら階段を昇っていく。さすがに、階段は輪郭だけを頼りに昇るのは危ない。
「問題は、八階に上がるとき──」
 小さい悲鳴があがった。
 倒れかかってきた妖精を、全身を使って支える。
「だいじょうぶですか?」
 なんとか堪えきることができた。
「ありがとう。……でも手際が良すぎるわ」
 体勢を持ち直して、妖精は不服そうにつぶやく。
「君、私が足を踏み外すだろうって思ってたでしょう」
「……すこし」
 妖精は、どうしてか、目線がいつも上に向かっている。通りを歩いていたときなんて、転がっているゴミを次々に蹴飛ばしていた。そして蹴飛ばしたあとは、靴が汚れるのが気に食わないのか、ムスッとした顔をしていたのだ。
 しかし、かといって注意していたらまたそれで機嫌が悪くなっただろうから、そういうわけにもいかなかったのだ。
「まったく失礼ね。そんな、注意力のない子供みたいな扱いして!」
「いえ、そういうわけじゃなくて。暗いから、危ないなって」
「私が傾くよりも早く、支えてたわ」
「偶然です。ちょうど、動きやすい体勢だったんですよ。それに、僕、反射神経良いんですよ」
 先ほどの事故がよほど効いたのか、すたすたと早い足取りであるにも関わらず、妖精は危なげなく階段を昇っていく。話しながらだと、着いていくので精一杯だ。
 しかし、唐突に妖精が足を止めて、一気に僕と妖精の距離が縮まる。その距離、段数にして、僕と妖精の歳の差ほど。
「良い、響? 偶然なんて、どこにもないのよ。起こりべくして起こること以外、なにもない。君もいつかわかる、ううん、知る日が来るわ。それが君にとって良いことか悪いことかは、私にはわからないけどね」
 下手な言い訳は、やはりするものじゃないのだろう。妖精は憮然とした様子で言い捨て、またもや先に行ってしまった。甲高い足音だけが反響して聞こえてくる。妖精にしては、豪快な足音が。
 七階まで昇ったところで、やっと妖精の姿を捉えることができた。階段脇で、壁にもたれかかっている。妖精は僕が近寄ると、「おそい」とするどい声で悪態をついた。
「夜なんて、泡沫の夢よ。あっという間に消えちゃうんだから。階段なんかにつまずいている暇なんてないのよ」
 まるで僕がつまずいたかのような言い分だ。確かに昇るのは遅かったかもしれないけれど、それを障害に手間取るという意味で、つまずくなんて言われてもいまいち納得いかない。
「大詰めね。八階を探しましょう」
 力強い笑み。光を放つようなその表情は、暗闇の中でもくっきりと見てとれた。一瞬、言葉を奪われる。
 しかし、妖精が背中を向けようとしたところで、なんとか呼び止めることができた。妖精に、階段を指差してみせる。
「まだ続いてますよ」
 そこを進めば、まだ上に行けるはずなのだ。
「そっちは屋上。屋上に行く前に、八階に行かなくちゃ。最上階にね」
 そうなのか。と、思わず納得しかけるところだった。
「それって、おかしくないですか?」
 屋上に続く階が最上階だ。つまり、今いる七階が最上階だということになる。
「え、なんで?」
 妖精は心底わからないというようにきょとんとした顔を見せる。
「なんでって。だって、七階と屋上が繋がってるってことは、もう七階と屋上の間にスペースはないってことですよ?」
 言葉を咀嚼するような素振りをしてしばらく、妖精は合点がいったのか、興味深そうに頷く。
「言われてみれば、そうね。君の考えは間違ってないわ」
 しかし、そう言いながらも、妖精は僕に背中を向けて歩き始めた。行き止まり、エレベーターがある方向だ。
 妖精はエレベーターの前に立ち止まり、僕が近くに寄ると、上方にある階数表示をペンライトで照らした。
「『7』でお終い、よね」
 そこには、『B1』から『7』までの表示しかない。このビルの構造は、これに加えて屋上ということになる。
 妖精はふたたび階段に戻り、屋上へ繋がっているはずの階段を昇っていく。
 あとを追った僕は、すぐに違和感を覚えた。
「この先が屋上扉よ」
 段数は変わらない。おそらく、高さも変わらない。
 ただ、上の階に至るまでの踊り場の数が、ひとつ多かった。
「階段も、エレベーターも、ぜったいに次の場所に連れていってくれるとは限らないわ」
 
 あるはずのスペースなんて、簡単に誤魔化せる。階段にしても、通路と繋がっていなければ、そこに階層があることなんてわからないし、エレベーターにしても、階数を表示していなければそれでわからない。
 なにも、階段やエレベーターばかりが、階層同士を繋ぐ手段ではない。
「問題は、どこが八階と繋がっているかよ」
 七階は四階と較べると、ずいぶんせせこましい造りになっているようだった。
通路が少し狭まっていることが一番大きな要因だが、ひとつひとつが小さいからか部屋がやたらと多い。もしかすると、資料庫のような階なのかもしれない。
「でも、どうして八階があることなんて知ってたんです?」
 僕達は端から間取りを確認しながら歩いていた。今のところ、梯子や、べつの階段などは見つかっていない。
「ここで働いている人と、偶然知り合ったの。それで、いつか行ってみたいと思ってたのよ」
「その、いつかが今日なんですか」
「ええ、偶々ね」
 
 おざなりに答えながら、妖精は上を眺めている。手掛かりを探すのに忙しいようだ。
 そういえば、こういうビルには警備員がいたりしないのだろうか、とふいに思い立つ。このビルに入って来てからというもの、とくに気にすることなく歩いたり話したりしているが、誰も出てくる様子はない。もちろん、怒られないならそれに越したことはないのだけど。
「見つからない」
 階段のところまで戻ってくると妖精がため息をついた。どうやら、もう一周してしまったようだ。
「部屋の中なんでしょうか」
「そうなるね。ああもう、部屋が多すぎるわ。ぜんぶ調べる余裕なん──」
 突如、ガラスが砕けるような音が響いてきた。下の階からだ。
 息を止めて、妖精と顔を見合わせる。
「いったい、なにが──」
 無意識のつぶやきが、今度は、人の怒鳴り声でかき消される。意識が下に向く。
 どれだけの金が……、とそう聞こえたが、後半は早口で聞き取れなかった。なんにせよ、尋常でない事態が下の階で起きていることは確かだった。
 途方に暮れて、妖精を見つめる。
 妖精は困っているような、楽しんでいるような、読み取りにくい顔をしていたが、切迫したふうではない。妖精にとっては、迷子になるのとそう変わらない事態であるようだ。
「あいつらより早く、八階を見つけよう」
 妖精が目を合わせてくる。
「……知ってる人なんですか?」
 尋ねると、妖精は可愛らしく笑った。
「私たちが世界征服を企む側なら、あっちはそれを懲らしめる側だね」
 肯定とも否定ともつかない言葉に、そこはかとない不安を抱きながらも、僕は妖精の提案に同意することを告げた。
 僕の答えなど分かりきっていたとでもいうように、妖精は鷹揚に頷く。
「部屋の中を、片っ端から調べていくよ」
「でも、鍵が開いてないんじゃ……」
「だいじょうぶよ」
 僕の言葉には答えず、妖精は近くにあった部屋の扉に歩み寄り、鍵穴になにかを差し込む。カチャリと音が鳴った。
 妖精が静かに扉を開く。
「ほら。開いてるわ」
「いや、いま何かしたでしょう!」
「開いてたのよ。最初から」
 応じる気はまったくないらしい。このまま、どこまでも言い張るつもりだろう。
「できるだけ早くね。追いつかれたら困るから。あと、あんまり音は立てないように。君は賢いから、わかるよね」
 妖精の指示に従い、僕は目を凝らして部屋を見回す。段ボールがかなりの数を積まれたり、机が乱雑に置かれていたりしている。
「ここはハズレかな」
 部屋を調べ始めて間もなく、妖精のつぶやきが聞こえた。
 部屋内に上に繋がるような足場はなく、天井にもとくに変わった箇所はない。
 ここが八階と繋がる要素を持っていたとすれば、この部屋が丸ごとエレベーターになっているという仕掛けぐらいだろう。
「次、右手側の部屋ね」
 妖精が一足先に部屋を出ていく。また「開いてたのよ」をするつもりなのかもしれない。
 本当に、妖精って不思議な生き物だ。
 僕は妖精の機嫌を損ねないよう、心持ちゆっくり次の部屋に向かおうとしていた。入口を潜り、部屋を出る。そこで、閃きが脳裏をよぎった。
 振り返って、部屋を見る。窓の向こうには、ビルがもうひとつある。今、僕達がいるビルと違って、ずいぶんみすぼらしい。しかし、高さは少し低いぐらいなので、外から見れば、並んで建っていてもそう違和感がないだろう。ちょうど、こちらの七階と屋上がほとんど同じ高さだ。
「なにしてるの?」
 後ろから声をかけられて、我に返る。
 見ると、妖精は次の部屋に移ろうとしていた。隣りの部屋はもう終わったのだろう。
「サボってる暇なんかないのよ。わかってる?」
 急かされるままに、僕は妖精の後に続いた。入口を跨ぐと、先ほどと似たような部屋が視界に入ってきた。
 かなり早いペースで部屋を回っていったが、どこにも上の階に繋がるような場所はない。しかし、まだ残っている部屋のどこかにあるはずだと思いながら、また次の部屋に踏み込む。
 そんなことの繰り返しをしているうちに、妖精は、それはもう目に見えて不機
嫌になっていた。
「なんで壁一枚でこんなに駆け回らないといけないの。爆弾があったら思いきりぶつけてやるのに!」
「でも、そうしたら瓦礫が降って来て危ないですよ」
「瓦礫ぐらい、蹴り飛ばせばいいわ。ストレス解消にもなるし、一石二鳥じゃない」
 妖精は過激だ。妖精のイメージが崩れようとするぐらいには。
 次に次にと急ぐ妖精を止める手段は、僕にはなかったが、世界を救う側にはあったらしい。
「────!」
 次の新しい部屋に取り掛かろうとしたとき、大声が建物内を駆け抜けていった。下の階、と呼べるほど遠くない。
 先に部屋へ入っていた妖精に引きずり込まれる。
 妖精は内側から静かに扉を閉め、人差し指を伸ばしてみせた後、なぜか僕の唇に当てた。
 内容までは聞き取れないが、声は聞こえてくる。なにやら揉めているようだ。
罵り合いのように、強い言葉が行き交っている。方向は階段側だ。
 暗闇の中、耳を澄ませている妖精をじっと眺めながら、息をひそめ、スリルを感じて逸る鼓動に心地よくたゆたう。
 ながいながい数瞬間が、過ぎた。
「いい子いい子」
 空間が静寂を取り戻すと、妖精は人差し指を僕の唇から離して、歌うように言った。
「それで、どうするんですか?」
 妖精から視線をはがして、扉を見る。その先にいる人達を見据えるつもりで。
しかし、静けさを取り戻した廊下からは、人の気配を感じない。どこに行ったのだろう。
「あいつらは下に戻っただろうから、もう少し探そう」
 僕の疑問に、妖精が先回りして答えてくれた。
 残りは半分を切ったところだ。どれだけ時間に余裕があるのかはわからないが、出来る限り早く調べる必要がある。
「鍵はぜんぶ開いてるんでしょうか」
「え? どうだろう。まだ調べてないからわからないわ」
 妖精には妖精の事情があるのだろう。
「もしぜんぶ開いてるなら、二手に分かれて見て回った方が良いと思うんですけど……」
 得心がいったのか、妖精はポンッと諸手を合わせた。
「じゃあ、ちょっと見てくるわ。少し、えと、六十秒。それだけ経ったら、右隣りの部屋からひとつずつ回って行ってね。いい? 六十、ちゃんと数えるのよ」
 そう言って、慌ただしく出て行こうとする。最後に「絶対よ」と念を押して、妖精は廊下に躍り出た。
 六十秒をいざ過ごそうとすると、わりと難しい。なにかをして待つならすぐだが、ただじっとしていると結構な長さだ。
 僕は念のため、所持していた小型の懐中電灯と警報器の具合を確認しておくことにした。
 懐中電灯は、問題なく点灯する。警報器は家出する直前に確認しておいたし、今、外から見た限りではとくに変わった様子はない。おそらくだいじょうぶだろう。ただ、なんにせよ、こんな場所で鳴らすような事態は避けたいものだ。
 六十秒を過ぎた程度で、僕は行動を開始した。
 見て回る部屋はことごとく、ここまで調べたものと大差なかった。いい加減に物を放り込むだけしておいて、あとは手をつけていないように思える。もしかすると、最初から整理する気がないのかもしれない。
 天井にしても、あからさまに怪しいものは当然、部屋の様子によって変化している点というものがぜんぜん見当たらない。
 妖精はああ言っていたが、本当に八階なんてあるんだろうかと疑いたくなってくる。屋上、ビルのてっぺんだけを分厚くしただけという可能性もあるのだ。
 それに、たとえ八階があったとして、みんなに見られないよう、知られないようにして、なにをするのだろう。妖精が言うには、悪の秘密結社は僕達だろうから、そういった集まりではないと思う。
 知られたくない──もしかして、ダイエット活動だろうか。それなら納得できる。
 夜な夜な集まる、お父さんお母さんたち。友達や子供たちに知られないよう、今日もダイエットに励む。
「最近、腰回りが危なくてね。ジーパンが入らなくなりつつあるんだよ。妻には笑われるし、子供にはデブっちょだと言われるし、散々だ」
「あたしなんかもっとヒドいですよ。道を歩いてたら知らない人からすれ違いざまに笑われるんですから」
「みんな苦労してるんだよ。僕だって、職場でも家でも悲惨なもんです」
「頑張らないといけませんね」
「ええ」
「まったく」
 そんな和やかなダイエット活動の最中に、妖精が突入する。隣りには僕。
「やっと見つけたわ!」
「おじゃまします」
 驚愕に目を開く、ダイエット活動をしていたみなさん。
「その姿……同士ではないな。どうしてここがわかった!」
「ここまで、嗅ぎ付けられてしまったのね……」
 妖精はにこやかに告げる。
「八階、改めさせてもらうね」
 その宣告に、逃げることも出来ず、立ち尽くす皆さん。
 しかし、その中から、ひとりの壮年の男性が歩み出る。
「ここを手にしたくば、俺を倒すがいい!」
 
 勇ましく構えを取りながら、汗をダラダラと流している男性。おそらく、妖精が八階に踏み込むまで、ダイエットの運動をしていたのだ。
「わかったわ。響、やっちゃって!」
 そんなことを言う妖精。
 ──これは、ダメだ。
 たとえ納得出来たとしても意味不明過ぎるし、あまりに酷すぎる。そんな事態になったら、妖精を全力で止めよう。
 決意を新たに、次の部屋へ向かおうと廊下に出る。すると、妖精がいた。
「あれ?」
 妖精は不思議そうに声を揚げたあと、考え込み、眉をひそめた。ぜんぜん妖精らしくない表情だ。
「ありませんでしたか」
 わざわざ聞くまでもない。たぶん、お互い次の部屋に行こうとしていた最中なのだ。そこで、かち合ってしまった。
「エレベーターの上、だったりするのかなぁ」
 力無くうなだれ、妖精は壁に寄り掛かっていく。そのまま、ズルズルと滑るように床へ座り込んだ。
 隣りに腰を下ろす。妖精は僕を見ようとしなかった。
「また日を改めて、調べたらどうですか。今日わからなかったことも、次ならわかるかもしれませんよ」
 クイズや、テストの難しい問題はそうだ。いざ目の前にしているときは頭をどれだけ捻ってもわからないのに、後になって思い返すと驚くほど簡単だったりする。
 僕が持つ励ましの中では、唯一といっていいほど確かな実感がこもっている言葉だ。
 しかし、どれだけ実感があっても、妖精には届かない。僕の言葉だけじゃなく、誰の言葉でも。
「ダメ。今日しかないもの」
 なんとなく、僕はその理由に気付き始めていた。
 妖精は今日に合わせて動いてきた。今日しか起きないことが、このビルにある。
 今日でなければ出来ないことが、妖精にはあるのだ。
 そして、僕にもそれは言える。
「それに、今日は君の誕生日だからね」
 七階の階段前には、段ボールが積まれていた。中身は僕にはよくわからないが、妖精にはわかるらしい。
 その段ボールを抱えているのか、階段を通して、下から鈍い足音が聞こえてくる。複数、三つぐらいだろうか。先ほどと違って、声は聞こえない。
 壁に身を隠しながらそんな様子をうかがっていると、後ろから妖精がささやいてくる。
「もし捕まっても、私のこと喋ったらダメだからね。素晴らしい兵士はぜったいに最後まで口を割らないのよ。君のこと信じてるわ」
「兵士じゃないですし」
「いいえ、君はもう立派な兵士よ。危険を省みず敵地に乗り込んで情報を奪取してこようっていうんだもの。兵士の鑑よ」
「危険は省みますし、やっぱり兵士じゃないです」
 呪いかなにかの類いのような妖精の言葉に抵抗しながら、やるべきことの算段を立てる。
 僕たちの現在の目的は八階に行くことだが、妖精が言うには、相手の状況がこちらのタイムリミットに繋がるらしい。逆に言えば、相手の状況を掴めれば、こちらは余裕を持って動けるようになるのだ。
 と言っても、まさか直接顔を合わせて「なにをしてるんですか?」と訊ねるわけにも行かない。質問で返されて、捕まえられてお終いだ。それこそ、妖精がささやくような事態になってしまう。
 それを避けるために、僕は相手の動きを追うことにしたのだ。探偵の真似事である。

 階段を昇りきった相手方が、段ボールを階段前に置いて、また降りていく。疲れているのだろうか、足取りが重いみたいだ。
 さっそく追いかけようとすると、腕を後ろに引っ張られた。
 妖精がまたもやささやきかけてくる。
「携帯が二つあったら良かったのに、君持ってないもんね」
「はあ。すみません」
「それは良いんだけど。危ないかもしれないからね。なにかあったら、すぐ戻ってくるのよ。大声で叫んでもいいから。『きれいなおねーさん』って」
「はあ。そうですね」
「冗談よ。助けなんか求めないでね」
「……片腕じゃないんですか?」
「まだ候補だもん」
 酷い言い分をするわりに、晴れやかに笑う。先ほどの意気消沈を見せていた影は、どこに行ってしまったというのか。もちろん、妖精がどちらの状態であっても、僕のやることは変わらないのだが。
「じゃあ、行ってきますね」
「成果を期待してるよ」
 まったく、無茶なことばかり言ってくれる上司だ。

 三人は、結局一階までやって来ていた。次の段ボールを取りに来たのだろう。
 一階と二階は大きなロビーになっている。真ん中辺りに横幅の広い階段と、端にはエスカレーター。一階には、カウンターみたいなものもある。受付だろうか。
 いくら暗闇に慣れたとはいえ、遠くまでは見通せない。気付かれないよう、身を隠し、息をひそめながら三人の後をついていく。
「あと、どれぐらいあるんだ?」
 男の人の声がする。
「あと五箱ね」
「七階まで、歩きであと二往復かよ。とんでもねえ」
 女の人が毅然と答えると、それに先ほどとは別の男の人が食ってかかる。
 男の人が二人、女の人が一人。
「一度引き受けたことをぐちぐち言ってんなよ。うるせえよな、お前、ほんと」
「誰がテメエに言ったんだよ。ただの独り言なんだよ反応すんな黙ってろボケが」
 男の人二人は仲があまりよろしくないようだ。今にも殴り合いをしそうな雰囲気である。
 女の人も、さぞかし困っているだろう。
「黙れ」
 ダメだ。この三人は、三人とも危険だ。まぜるな危険のシールを三人分お揃いで用意する必要がある。
「なにもタダでやってくれって言ったわけじゃない。つまり、私は雇主だ。お前らは私の言うことを余すこと無く受け入れ、迅速に実行しなければならない義務がある。いいか、もう一度だけ言うぞ。動け」
 訂正しよう。お揃いなのは男の人たちだけで良い。あの女の人には触れるな危険のシールが必要だ。
「い、いや、出来れば、休憩なんかを挟んでくれるとうれしいんだが。ほら、ちょうど半分だろ。なあ?」
「ああ、それに、日頃が日頃なもんで、どうも足の具合が……」
 しどろもどろになりながら男の人たちは言い訳のようなものをした。
 女の人は、それを見て、僕にまで聞こえるような盛大なため息をついた。
「……なにか飲み物でも買ってくるわ。なにが良いの?」
 男の人たちは安堵した様子で、買い物に行く女の人を見送っていた。
 去っていく後ろ姿を遠目で見た感じ、あの女の人はずいぶんと背が高いようだ。もしかすると、男の人たちと同じぐらいあるかもしれない。

 なにはともあれ、頃合だ。具体的なタイムリミットがわかったし、ちょうど休憩に入るところのようだから、今のうちに七階へ戻っておこう。
 と、思ったところで、とんでもない事実に僕は気付いてしまった。
 男の人二人は、今、ロビーの入口にいる。自動ドアを開けっ放しにしている状態で、休憩後に持っていくであろう段ボールの脇に腰を下ろしている。二人で会話している様子もうかがえる。
 二人は、まったく動こうとしていないのだ。
 柱の陰で、思案する。
 ここに来るまでは、三人の後を取ることで気付かれずにすんだ。しかし、ここから帰ろうと思えば、二人の視線をかい潜って、エスカレーターか中央の階段を昇らねばならない。いくら暗いとはいえ、なにかが動いていたら、気付かないはずがない。二階にあがるまでが、あまりに難しい。
 彼らが上に向かうのを待つべきだろうか。そうすれば、かなり安全に戻れる。
その代わり、時間は、休憩分と彼らの一往復分が失われることになる。
「……行くしかないか」
 エスカレーターの方は、影が濃い。たどり着けさえすれば良いのだが、問題はたどり着くまでにある。
 通らなければならない道に、やたらと明るい場所があるのだ。月明りがロビー入口から洩れ入っているためだ。通るのは一瞬だが、その一瞬で姿を見つけられれば誤魔化しが効かない。
 そのため、結局使えるのは、中央の階段だけだ。
 身を低くし、影が濃い場所を選びながら、階段へと向かう。男の人二人は、疲れているのだろう。相も変わらず座り込んだままだ。難なく、階段の脇にまでたどり着く。
 あとは、階段端にまで移動出来れば、よほどの失敗をしない限りだいじょうぶなはずだ。
 階段の端に移動するには、一瞬、入口から真正面の位置に出る必要があるので、男の人たちの注意が逸れるタイミングを見計う。
 二人は話しに熱中しているようでなく、なにかに意識が向いているという様子もない。今出ていけば、簡単に見つかってしまうに違いない。かといって、ここでじっとしていれば、そう時を待たずに女の人が帰って来るだろう。そうすれば、さらに階段を通るのは難しくなる。
 動物や、それを偽装できる小道具があれば良いのだけど。
「うぬぁー」
「うわっ」
 口を両手で抑える。斜め後ろにネコがいた。どうしてこんなところにネコがいるんだろう。しかも、すごい重圧感を持った鳴き声をしているのが不気味過ぎる。
「なんか、聞こえたな。猫か?」
「中からみたいだが。紛れ込んだのかもな」
 入口から声が聞こえた。ハッとして、僕は思考を断ち切り、事態の推移を見守る。
「俺は猫も犬もアザラシも苦手なんだ。捕まえたりできないぞ」
「誰もお前に期待なんかしてない。そこで惚けてろ」
「おい、いまお前、皮かぶりだと言ったか? 見せるぞこの野郎」
「言ってねえよ。近寄るな脱ぐな」
 よくわからないがチャンスのようだ。今、ネコを二人の方に向かわせれば、隙が出来るだろう。
 僕は、ネコを捕まえようと近付く。
「うぬろぁー」
 それにしても、なんて変な声だ。ただの雑種だとはとても思えない。もしかして、良いところの純血種だったりするのだろうか。
「鳴いてるじゃねえか。とっとと捕まえて来い!」
「言われなくてもそうする。黙ってろ」
 後ろからそんな声と足音が聞こえる。
 僕はネコを諦め、慌てて物陰に隠れた。男の人がひとりこちらにやって来る。
「お前か。よっ、と。なかなか重たいなお前」
「うぬぉ」
「どうした?」
 ネコがこちらを向いて鳴いているような気がする。しかし、まさか顔を出して確認するわけにもいかない。僕は心臓も止めるぐらいのつもりで気配を消そうとする。
「それにしても、あまり見ない感じの猫だな」
 こちらにやって来ていた男の人は、ネコの鳴き声の方向をさほど気に留めなかったらしい。ネコを抱いて、入口に向かう。
 ひとりが背を向けていて、ひとりがその男の人とネコがどうするのか見ている。今しかない。
 足音を極力なくして、階段端に向かう。咎めるような声はかからない。
 そして、僕は一段目に足をかけることに成功した。あとはこのままサッと昇ってしまうだけだ。
「うなぉ!」
 後ろで、そんな咆哮がした。あのネコだ。
 思わず振り返ってしまう。
「この、待て──」
 ネコを抱えていた男の人がこちらを見ていた。ネコがこっちに向かって駆けてきていたのだ。あまりに間が悪い。
 しっかりと、僕はその目を見てしまっていた。二度とネコで人の注意を逸らそうとは考えないだろう。
「子供? お前、なにをしている!」
 答える理屈はない。階段を駆け上がる。
「待てっ!」
「おい、俺が追いかける。悪人面はすっこんでろ」
「なんだとこのマンモス顔野郎!」
「お前、マンモスを馬鹿にすんなっ」
「うるせえな、とっとと行け! あのガキを捕まえて来い!」
「チッ、お前あとから覚えてろよ」

 三階、四階──。そこで足を止める。七階まで行ってしまえば、妖精まで見つかる可能性があるのだ。
 僕はすこし考えて、給湯室へと逃げ込んだ。ここからなら、階段の様子がうかがえる。
 足音がすぐに追いついてくる。給湯室へ逃げ込んでから、何秒も経たないうちに、男の人は四階にやって来た。
「ここら辺で途切れたな」
 男の人は辺りを見回して、息を吸い込んだ。
「おい、ガキ。いるなら出て来い! 怒ったりしねえから!」
 いくらなんでも嘘だとしか思えなかった。にじみでる雰囲気が「ただではすまさない」と言っている。
「見ろ俺を! こんな好青年はいないだろ! なあ!」
 それはない。彼が好青年なら道行く人の大半は素晴らしい人格者だ。
「……ったく、仕方ねえな」
 呼び掛けから一秒も経たずに、彼は動き始めた。焦れたのだとしたら早すぎるが、そのまま、彼の足は給湯室へと向かってくる。覗き込んでくるだろうか。──しないはずがない。
 僕は、足に力をこめ、廊下に飛び出す。
「あっ、お前、待てっ」
 いくつかの分岐路を抜け、非常階段の方へと走る。
 妖精と何度も歩き回ったおかげで、四階の地図はバッチリだ。
 非常口の扉にたどり着いた僕は、後ろに男の人がいないことを確認してから、扉を開けて、思いきり閉める。そして僕は非常口から離れた。
「出て行ったか?」
 音を聞きつけて、男の人がやって来る。いかにもやる気がない様子だ。
 男の人は、非常口の扉を開けて、すこしの間ジッとする。
「いねえし。小賢しいマネしやがる」
 明らかに、笑った。おかしそうに。
 影からその様子を少しだけ眺めて、僕は静かに階段へと向かった。

 僕たちが別れた場所で、妖精は待っていた。
 報告と称して、男の人たちや女の人の怖さを語ると、妖精は軽快に笑う。
「すごい楽しそう。私も行けば良かった」
「怖かったんですよ。ドキドキしっ放しでした」
「そうね、君はよくがんばったわ。ありがとう」
 ただ、大人を相手に隠れんぼと鬼ごっこをしてきただけだ。わかったことだって、妖精にとってどれだけ価値があるのは、結局のところわからない。それどころか、引っ掻き回してしまったために、状況は悪くなったかもしれないのだ。
 しかし、妖精を笑わせることができたなら、僕にとって、成果としてこれ以上のものはなかった。
 「響、屋上に行こうか」
 七階をまた二人で回って、八階はそれでも見つからなかった。
 タイムリミットは近い。ついさっき、相手方は一往復めの帰り道についたのだ。次来たときが、おそらく、最後。そんな状況で、これからどうしようか、それを妖精と話し合おうという矢先だった。
 七階の一室──八階の真下で、妖精は終わりの鐘を鳴らした。
「迷子になった甲斐があったわ。退屈しなかったもの」
 もしそれを止めたなら。妖精はどうするだろう。僕は、妖精がどうすることを、怖がっているのだろう。
「さあ、行きましょう」
 またそうして、妖精は僕を案内する。僕はなにも言うことができないまま、その後を追う。
 自分に失望する。僕はなんのために家出したのか。星が見たくて、そう言うためだったのに。今日だけはと決意して、今日に望んだのに。
 こんなところについて来てまで、なにを言えるわけでもない。僕はいったい、なにをしたかったのだろう。

 屋上は、ひたすらに広かった。周りの建物より高いこともあって、空と接しているという感じがする。
 星も月も見えた。今日が晴れで、本当に良かった。
「はい、到着! ゴールテープはないけどゴールよ! ああもう!」
 制服が汚れても良いのだろうか。妖精はとにかくいろいろ叫びながら屋上に転がった。
「あの嘘つきー! なーにが存在しない八階は存在するだー! 意味わかんないんだよー!」
 こんなに星が近いなら、どれだけ叫んでも星が吸い込んでくれる。だからだいじょうぶ、だと信じてる。
 寝っ転がる妖精の側に座って、僕は目的もなく空を視線でなぞる。星の名前も星座も頭に浮かばない。勉強して、たくさん覚えたはずだったのに。
「君も寝っ転がったら。冷たくて、気持ちいいよ」
 すっきりした顔で妖精が言う。どうして、妖精はこうも簡単に次から次へと楽しめるのだろう。叫んで外に出してしまったら、悔しかったこともなくなってしまったのだろうか。
「誕生日プレゼント、あげられなくてごめんね」
 生返事をしてばかりだった僕は、その言葉で意識を引っ張りあげられた。すっかり忘れていた。妖精は、僕に誕生日プレゼントをあげると言って、僕をここまで連れて来たのだ。
「本当はさ、私といっしょに数々の困難を乗り越えて、八階にたどり着いて、充実した気持ちを抱えて屋上でハッピーエンドって予定だったのよ」
 そんな計画だったのか。
「ああ、でも、探してても楽しかったから、ぜんぜんダメだったわけでもないかな。君はどうだった? 楽しかった?」
 ──また、脳裏をよぎる。
 僕がその質問にどう答えたら、妖精はどうするのだろう。妖精にどうして欲しくて、僕はどう答えるのだろう。
 先生の前でそうするように。両親の前でそうするように。僕は、なにを言うのか。
「楽しかったって言えー!」
 妖精が叫んだ。
「私が楽しいかって聞いたら、楽しいって言うのよ」
「は、はあ……」
 なんて無茶を言う人だ。
「なんでも、飲み込んでばかりいたら、お腹いっぱいになるでしょう。吐き出せるときに、好きなだけ吐き出しとかなきゃいけないの」
 そういうものだろうか。しかし、妖精は吐き出し過ぎな気がする。口の悪さもだんだん際立って来ているような気もする。
 気分の落差は激しい、やることは過激、口が悪い、妖精っぽくない顔立ち。いったい、どの辺りが妖精なのだろうかと今更になって疑問に思う。
 妖精は言いたいだけ言うと、やはり寝そべったまま伸びをした。気持ち良さそうに目を細める。
「今日は良い夜だわ。『真夏の夜の夢』、なんてタイトルが似合う夜ね」
「シェイクスピアですか」
「なんで知ってるの? 赤点も知ってたし」
「いえ、作品名だけですよ。話は知りません」
 妖精は機嫌良く続ける。
「『真夏の夜の夢』にね、すごい魔法の薬が出てくるの。寝てる人の瞼に、その薬を塗り込めたら、その人が目を覚ましたとき、一番最初に見たものをどうしようもなく好きになるっていう薬」
 僕は、ふいに、妖精を見たときのことを思い出した。
「そんな薬がもしあったら、どうする?」
 胸が揺れた。一瞬、すごい地震が起きたような気さえした。
「私なら、どうしたと思う?」
 妖精はそんな質問を残して、目を閉じた。
 自分で自分がわからなくなった。いったい、妖精はなにが言いたいのだろう。
息がどうしても続く気がしなかった。
 夜の夢の中で、僕たちだけ迷子になってしまったかのようだった。
 胸に手を当て、目を閉じ、深呼吸する。
 きっと、今ごろになって疲れがやって来たのだろう。そういえば、いい加減、また眠気がやって来たような気もする。でも、たとえ今から寝ようとしても絶対に眠れない。なぜかはわからないが、こうして目を閉じても、いつもなら感じ取れる眠気がやって来ないのだ。
 妖精らしくない妖精が、瞼の裏で踊っている。爆弾を持って。
「うわっ!」
 怖すぎる。なんてことだ。思わず、目を開いてしまっていた。
「もうなに? いきなり大声出さないでよ」
 不機嫌そうな声で、妖精が呻く。本当に眠ろうとしていたようだ。
「ごめんなさい、つい──」
 息を呑む。妖精の先、屋上の端の先。
 そこに、隣りのビルがあった。すこしみすぼらしいビル。その屋上が、すこし下の位置に。
「──下だ」
 妖精の腕を掴む。一瞬の閃きは、言葉に出したことで確かな形になっていた。
「ど、どうしたの?」
 驚いた様子で、妖精が目を丸くする。
「七階と八階が繋がってたんじゃないんですよ!」
 妖精はハッとして、屋上を見渡した。下から上にじゃない。
「上から下に行くんです!」
 給水塔に隠されるように、その入口はあった。鉄製の扉が、屋上に寝そべっている。どこか屋上に似合っているような扉だ。
 扉はすこし重かったが、僕と妖精で引っ張るとすぐに開いた。
 扉の下には、短い梯子があった。いざ入ってみると、かなり狭い。階層というより、ひとつの部屋だ。少なくとも、四階の部屋に比べれば息苦しいほどの狭さである。七階の部屋を相手にしたら、際どいところで勝てるだろうか。
 そんな八階には、金銀財宝も、悪の秘密結社も、ダイエット活動の本拠地もなかった。
 ただ、すこしの絵と、彫刻と、空白だけがあった。
 僕には、その価値がわからなかった。八階を見た瞬間、徒労に終わったとさえ思った。
 妖精もさぞ落胆しただろう。なにを探して八階に来たのかわからないが、妖精が絵や彫刻を喜んで持って帰る姿はとても想像できない。そんなことを考えながら、八階を見渡せる位置で立ち尽くす妖精を見つめる。
 妖精はとてつもなく邪悪なのに嬉しそうにも見える、奇妙な笑顔で、左腕を天に向かって突き上げた。
「やったー! 二番乗りー!」
 それは、妖精が手にしたかったものを手にできたという証だった。
「ありがとう、響! 君のおかげだわ」
「いいえ、そんなことは……」
「そんなことあるの。ほら、手上げて。いぇーい!」
 妖精は無理やり僕の手を高くあげると、妖精の手と叩き合わせる。かなり痛い。
「──お楽しみのところ、悪いんだがな」
 いきなり、声がした。後ろ、梯子の方からだった。
「ガキがうろつく時間じ──ぐぶふぉ!」
「どきやがれチキン野郎」
「おい今お前ローストって言ったか」
「一文字も言ってねえよ。黙れ焼き鳥が」
 男の人たちだ。さっきと変わらず、危険さが半端ではない。
 警報器に手を掛ける。こんな狭い屋内で警報器を使うと、それは、ただの大きな音ではすまない。音が反響し合って、異様な音波になるのだ。それこそ、平衡感覚を失うぐらいの。
 妖精にそのことを伝えようと、妖精に視線を送るが、どうにも様子がおかしい。
 妖精は、男の人たちに勝ち誇ったような目を向けていた。
「遅かったね、二人とも。二番乗りは私がもらったよ」
 そういえば、さっきも二番乗りと言っていたが、どういう意味なのだろう。二人の男の人たちは、豪快に笑って、その後肩を竦めた。仲は悪そうに見えるのに、息はなぜかぴったりだ。
「チビはこれだからな。俺がいつお前と競ったんだよ」
「こんな夜遅くまで、ご苦労なこった。もうお寝むじゃないのか」
 妖精の不機嫌さが増していく音が聞こえるような気がする。
「知らないよ、私が勝ちって言ったら勝ちなのよ。あんたたちは負け。これは事実だわ」
 無理やりすぎる。妖精にとっては重要なのかもしれないが、二人の男の人たちは堪える様子がない。三人は、それから言い合いを始めた。主に口を開いているのが妖精みたいだから、わりと劣勢のようだ。
 とくに危険はないようなので遠巻きに三人を眺めていると、間もなくして、やはりというべきか、触るな危険の人がやって来た。
 入ってきて早々、うるさい、の一言で三人を黙らせた。
 女の人は、真っ直ぐ妖精へと近づくと、前に立つなり拳骨を落した。手際の良すぎるその一連の流れに、思わず感心してしまう。
「うあー……」
 頭を押えて、妖精が呻く。あの痛がりようは、かなり痛いときのものだ。
「何やってるの」
 単純な一言を、すくみ上がらせるような声で女の人が言う。
 妖精だけじゃない、僕も、男の人二人も、その張り詰めた空気に取り込まれてしまった。
「……ごめんなさい」
 妖精がボソッとつぶやくと、女の人は拳骨で返事をした。
 妖精は頭を抱えて呻きながら、上を見上げる。女の人の目を見ているのかもしれない。その仕草で、妖精がなにを見てて階段で足を踏み外したのかがわかった。
「あれで、じつは悪いやつじゃないんだ」
 男の人のひとりが、僕の隣りに立っていた。僕を追いかけてきた方だ。
「わかります。だって、悪を懲らしめる人ですから」

 男の人たちの取り成しもあって、女の人はとりあえず落ち着いたのか、妖精の件は保留ということになったようだった。
 しかし、当然というべきか、僕にも矛先は向いた。妖精がなんとか庇おうとしてくれたが、僕にはとくに隠すようなことはない。
「ごめんなさいね、あの子が迷惑をかけたみたいで」
「いえ、そんなことないです。僕、家出中ですし」
「家出?」
 女の人だけではなく、男の人たちも興味を示す。やっぱり、このやり方は間違っていなかったのだと、嬉しいような、空しいような気分になった。
「朝には帰ります、っていう書き置きは残してますけど」
 女の人が、不思議そうに僕の言葉を聞いていた。
「朝に帰るなら、どうして、わざわざ家出を?」
 女の人の目を見る。鋭くて、綺麗な目だった。妖精の目線は、僕には続けるのが辛すぎる。
「星が見たくて」
 そんな下らない理由で──そう思われるために、僕はこの理由を用意して、家出した。
 本当に必要だったものは、たとえ叱られるのだとしても、その言葉を伝えようとすること。
 なんでも良かったのだ。僕は、今日出会った妖精みたいに、言い過ぎるぐらいものを言えたらいいと、そう思ったのだ。
「そりゃ違うだろ」
 僕を追いかけた男の人が言う。
「お前、星なんかそっちのけで、俺を見事嵌めやがったじゃないか」
 もう、星をみたくてなんて理由は、僕の家出には必要なかった。なにより、僕はもう先生や両親に向ける以外の言葉を必要としていた。


「心配かけて、ごめんなさい」
 早朝。家に帰ってのまず第一声に、僕はそう口にした。二人は怒るタイミングを見失ってしまったようで、あまり怒られることはなかった。
 ただ、やはり、こんな時間に二人が起きていたことに心が痛んだ。書き置きがあっても、ダメだったのだ。
「星は見れたのか?」
 そう聞いたのは、お父さんだった。その理由を信じているのかどうかはわからないが、僕は思うがままに答える。
 たった数時間の家出について。
「見れました。星と月と、あと、妖精が」
 お父さんはそのバカバカしい答えに、呆れるでも、怒るでもなく、感心していた。
「『花の妖精』か? 羨ましいやつだ」
 目を丸くしたのは、僕の方だった。
 なにを言ったら、相手がどんな反応するかなんて、想像だけじゃ予測できるものじゃないのかもしれない。そう思わずにはいられなかった。

 夏休みに入るころ、僕は妖精と出会った公園にいた。
 あの日妖精に会ってからというもの、たびたび、こうしてやって来ていたのだ。迷子の妖精が訪れるのを期待して。
 しかし、妖精は姿をまったく見せなかった。あのビルの八階に向かおうとも思ったが、真っ昼間からあんなビルに小学生が入れるわけがない。事実、二度ほど警備員に追い出されている。
 本気で八階に行こうとするなら、夜しかないのだが、それにしたって妖精の「開いてたよ」がないとビルに入ること自体ができない。
 そういう事情で、にっちもさっちもいかない状況なのだ。
 だから僕は、今日も迷子を待っている。

 蜃気楼が見えてもおかしくないぐらい暑い日だった。風は弱く、陽射しは強い、木陰にすら涼をとる余裕がないほどだ。
 僕が座っているベンチには、緑葉の陰がかかって薄暗い。
 あの日、妖精が生まれた木の枝に実る、それはもう青々しい葉っぱだ。虫にはきっと大好評だろう。妖精にはどうだかわからない。
「暑いねー」
 空が、話しかけて来た。もしかすると、見えないだけで、そこにいるはずの星なのかもしれない。
 その声は、思いもかけない場所からやって来た。
「また迷子になったわ」
 花でも、星でも、月でも、夏でも。なんの妖精だったとしても、僕は喜べなかっただろう。
 僕にとって、妖精はそのひとりだけだった。
「木に登るのが、好きなんですか?」
「涼しいのよ。そうでなかったら、わざわざ登ったりしないわ」
「前は夜でしたし、涼しかったです」
「そうね、そうだったかもしれない」
 後ろで、地面に飛び降りるような音が鳴る。
「お姉ちゃんに外出禁止にされて散々だったよ。お母さんたちも、お姉ちゃんの怒り方には驚いてたもの。なんであんなに過激なんだろう」
 ムスッとした顔でまくし立てながら、勢いよく僕の隣りに座る。
「それは、あなたのお姉さんだからじゃないですか」
「それじゃまるで、私とお姉ちゃんが似てるみたいじゃない」
「似てると思いますけど」
「いえ、たとえ似てたとしてもよ。私の方が優しいわ。部下にもね」
 なるほど、もしかすると、あの男の人二人は女の人の部下なのかもしれない。
少なくとも妖精の中ではそうなっているようだ。
「……あれ? 部下って、僕のことですか?」
「とりあえず、君は私の片腕よ。候補から格上げ」
 素直に喜ぶべきなのかどうか、微妙なところだ。
「ほら、着任の挨拶」
 また無茶なことを言う。妖精は、自分の言葉がどれだけ僕を動かしているかなんて、一瞬でも考えたことがあるのだろうか。それがあったとしても、言葉を飲み込んだことが一度でもあっただろうか。
 きっと、ないだろう。これからも。
「挨拶の前に、前の働きへの報酬をもらいたいんですけど、いいですか?」
「そうだね。いいよ。お金と時間と若さ以外なら」
 僕の方が若いです、なんていう反射的な発言を抑える。
 一夜の夢を見せてくれた妖精に言いたいことは、もうとっくに決まっている。
 あの日、目が覚めたとき、僕が一番最初に見た妖精へ。
「あなたの名前と、魔法の薬をひとつください」
 そのあと妖精がどんな表情を浮かべるのか、僕はまだ知らない。

 ──END──

A MIDSUMMER FAIRY'S DREAM

A MIDSUMMER FAIRY'S DREAM

ある夏の日の夜のこと、少年は公園で目を覚ました。 年上で、高校生で、妖精でもある少女と出会った少年は不思議でなんの変哲もない夜を過ごす。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-06-19

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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