太陽の見えない明るい世界

 赤ヒレはこれまで来たことは勿論見たこともない景色に囲まれていた。山の中腹であろう、赤ヒレが立っている左手の方には少しばかり険しい三百メートルほどの山があり、右手の方はなだらかな坂になっていた。その坂のあちこちには目の覚めるような鮮やかな色をしたさまざまな花が咲いていた。一際目立って黄色いタンポポの花が周りを明るくしていた。
 ここはどこだろう?なぜ僕はここにいるのだろう?赤ヒレは記憶をたどろうとしたがどうしても過去のことが思い出せない。周りを見渡した。親子連れで来ている人たちがあちこちに見える。恋人同士と思える人たちも何組かいる。
 突然、「オオッ」とも「ワァッ」とも聞こえる声が沸き起こった。山の方を見ると白馬が何頭か山の頂から急な崖を駆け下り始めた。人は乗っていない。土煙をあげながら右へ左へ曲がりながら下りてくるではないか。赤ヒレは白馬たちの見事な降下劇に圧倒されて立ち尽くしていた。白馬たちは下に降りるとゆっくりと歩き出した。そのうちの一頭が赤ヒレの方に向かって来た。赤ヒレは茫然と立っていた。
「赤ヒレさん、こんにちわ。今日は早かったですね。」
「ええっ。僕のこと知ってるの?」
「昨日ここで会ったじゃないですか。お忘れですか?」
「昨日?」赤ヒレは考え込んだ。思い出せない。どひゃっ。なんとこいつ馬のくせに言葉をしゃべる。どうなってるんだ。
「赤ヒレさん。そんなことで驚いちゃいけませんよ。ここではみんな言葉がしゃべれるのですから。それより昨日約束したこと覚えてないかしら。」
「まったく」。
「そうですか。赤ヒレさんは交通事故にあったから記憶の回路が少しおかしいのかもしれませんね。」
「ええっ、僕が交通事故にあったって?本当ですか?」
「私は嘘は言いません。交通事故にあったから赤ヒレさんはここに来ているのです。」
「ここはどこですか?何故僕はここにいるのですか?」
「いずれわかります。それより約束どおり隣の村にこれから行きましょう。」
「隣の村?」
「そう。隣の村です。」
「どうして隣の村に行くのですか?」
「それは赤ヒレさんが行きたいって言ったかです。」
「僕が、ですか?」
「そうです。赤ヒレさんが隣の村はどんなだろう行ってみたいと。」
 赤ヒレは考え込んだ。僕がどうしてそんなことを言ったのだろう?だいたいこの場所でさえ初めてのような気がしているのに、隣の村へ行きたいとは。しかし、不思議なのはこの白馬である。たしかに会ったことがありそれは彼女が馬ではなく人であった気がする。
「すこし記憶が戻ってきているようですね。」
こいつ俺の心を読んでる。なんてぇ奴だ。
「ところで僕は君をなんてよんだらいいの?」
「赤ヒレさんがニックネームだから私もホワイトホースのホワイトとでも言ってもらうかしら、でもすぐに本当の名前がわかりますわ。」 
「ホワイトか。」「ホワイトさん、僕はどうして隣の村に行きたいなんて言ったんでしょうか?」
「それはこの前来たとき、ほらあそこに座っタンポポと話をしているお爺さん、伯爺さんて言うんですが、その人に隣の村の話を聞いたからですよ。」
「フーン、そう言われたらなんとなくそういうこともあったかしらと思う。」
「あったかしらでなく、あったのです。赤ヒレさんが行きたいと言うから隣村の村長さんに大事な人を連れていきますのでよろしくと伝えてあります。」
「それは失礼しました。怒らないで聞いて欲しいのですが、なにせ記憶がぼんやりしていてよく分からないのですが、伯爺さんは隣村についてどんな話をしていたのですか?」
「赤ヒレさんが研究している課題を研究している人達がいる村だと言ったからです。」
「僕は何かを研究していたのですか?」
「そうです。これからの人たちにとって、とっても大切なことだと伯爺さんは言っていました。」
「そうですか。」赤ヒレはそう言われて、そういえば何か気になることがあるような気がしてきた。それにしても、自分が交通事故にあってここに来たとはどういうことだろう。ひょっとしてここはあの世か?そうだとすると僕は死んだということか?
「赤ヒレさん、先生はまだ死んでません。こちらから見たあの世で生きています。その意味では先生は二股をかけていることになります。いずれはこちらに来なければなりませんが慌てることはありません。今はどちらに居ても本質的には変わりはないのですから。」
(二)
 隣村に行くために赤ヒレはホワイトに跨った。
「隣村は遠いのですか?」
「遠いといえば遠いのですが遠い近いではなくて、なんて言うかほんの少しですが場所の質が違うところなのです。」
「シツ?」
「そうです。質です。」
「シツって、性質の質?」
「こちらの世界では住んでいるところはそれぞれに特徴があるのです。場所の移動は結構大変なのですが、これから行くところはこことあまり質が変わりませんので私が案内いたします。」
「それはどうもありがとう。」と言ったものの何が何だか分からなかった。
 行く道々さまざまな人や動植物に「ホワイトさんお出かけですか。」などと声をかけられた。ホワイトはそのひとつひとつに丁寧に 「はい、隣村まで。」と答えていた。しばらくそうして進んでいくうち人も動植物もいなくなってきた。小高い山を越えると広大な荒涼とした平野に出た。
「赤ヒレさん、ここをいっきに突っ走ります。しっかりと私に捕まっていてください。」
「すごいところですね。なんにもない。この先に隣村はあるのですか?」
「そうです。広大に見えますが入り口はとても狭いので迷ったら最後、そのまま彷徨ことになりかねません。私も一度迷いそうになったことがあります。そのときは伯爺さんと一緒だったので助かりました。伯爺さんに教えてもらったのですが『お前さんは眼を開けているから迷うんじゃ。方向をまずきちっと定め、心の眼だけ開いていっきに走り抜けるのじゃ。』と。」
「それじゃ僕も眼を瞑っていたほうがいいかな?」
「赤ヒレさんは私に乗っているので開いててもいいですが、何も見えないので開いてても瞑っていても同じでしょう。」
 ホワイトは徐々にスピードを上げてきた。赤ヒレは振り落とされまいとホワイトにしがみついた。しばらくは眼を開けていたがやがて開けていられなくなった。
 どのくらい時間がたったであろう、ものすごく長い気もするが一瞬のような気もする。ホワイトは徐々にスピードを緩めていき「着きましたよ。」と言った。
 隣村は海辺にあった。

(三) 
 「とりあえず村長さんに挨拶に行きましょう。赤ヒレさん少し待っていてください。私、挨拶の準備をしてきますので。」と言ってホワイトは岩陰に入っていった。
 しばらくして出てきたのは馬ではなく人であった。しかも女の人であった。赤ヒレは思わず「あっ」と声を上げた。
「あなたはマユミ先生ではないですか?」
「そうです。マユミです。赤ヒレ、あっ、失礼、山田先生の助手をしているマユミです。」
 赤ヒレはスーッとこれまでの記憶が戻ってきた。自分は精神科の研究医で東京の大学病院に勤務しているはずであった。そこでマユミは自分の助手であった。三日前、その日は早朝出勤の日で朝六時に起きて自宅から病院に向かう途中で事故に遇った。
 黄色の点滅している横断歩道を渡っているとき、停まろうとした車を追い越してきたバイクが自分を撥ねた。そこまでは記憶で辿れた
「ふたつばかり質問していいかな?僕は事故に遇ってこの奇妙な世界にいるのは分かる気がするのだが君はどうしてここにいるの?」
「実を言いますと私は十年ほど前、先生と同じ目に遇ったのです。そのとき以来ここに来れるようになったのです。」
「ふぅん。それともうひとつ、どうして君はここで最初に会ったとき馬なんかになっていたの?」
「それは簡単なことです。私が馬が好きだからです。しかも白馬が大好きだからです。ここでは自分の好きなものになれるのです。」と言ったあと、赤ヒレの顔を見ながら、「でも先生といるときは女の子のほうがよかったかなぁ。」と言ってマユミは微笑んだ。
 赤ヒレは納得できない様子であったが、少考したあと真面目な顔で、「まさかこれから会う村長さんというのは、ライオンじゃあないだろうね。」と言った。
マユミはそれを聞いて大笑いしたあと、「人間です。しかも立派な方です。」と言った。
「それを聞いて安心したよ。村長さん、ライオンが好きでライオンにでもなっていたら怖くて話も出来ないからね。」赤ヒレも笑いながら言った。
 しばらく取り留めのないことを話したあと、マユミはここの状況を話し出した。
「ここの場所は前と同じ質を持ったところなのですが精神のバランスが少し悪くなった人達が来ているところなのです。先生が今研究していることと同じことがここでも研究されているのです。」
「そうか、それでここに来て見たいと言ったのですか。わかりました。」
 二人は村長の家に向かいながら話しを続けた。
「いまの病院とここの違いは、あなたから見て何だと思いますか?」
「ここの方たちは、何が精神のバランスを崩しているか自分で分かっていることです。ただ私には分からないのですが、何故それがバランスを崩すことになるのかということです。本人も一時的意味では何がそうさせるかわかっているだけに逆に治りにくいのだと思います。」
「自覚性精神疾患か、たしかに難しい。僕に言わせると普通にみえる人でもそれに罹っている人は結構いるからね。思い込みの強い人はほぼ100%罹っているね。本人は病気でないと思って生きているからまあいいけどね。冷静な人はそれを自覚しちゃうからねー、困るんだな。」
「私も罹っているかしら?」
「君は間違いなく罹っているし僕もそうだ。要するに生きるうえで問題ないのだが、
あとは本人の意識の問題なのだろうと今は思っている。確信はないがね。」
「先生、あちらから歩いてくる二人は私のお友達。どちらもすっごくきれいよ。好きになっちゃだめよ。」
「ここの患者さん?」
「そうねぇ微妙だけど、どちらかといえば患者さんではないわ。ここへ来るのは彼女らの趣味かもしれない。」
 一人は髪を肩まで伸ばしていた。もう一人はボーイッシュな髪型であった。背格好はどちらも160cmほどですらりとした身体もよく似ていた。
 二人はマユミを見て、「お久しぶり、あら今日はデートですか?」と声をそろえて
言った。
「そんなんじゃないの。こちらの方は私の上司で赤、いや山田先生とおしゃるの。」
「まあ、それは失礼しました。私はハナコと申します。」とボーイッシュの方が言った。
「私はユカリです。よろしくお知りおきくださいませ。」と言って二人は丁寧に頭を下げた。
「山田です。こちらこそよろしくおねがいします。マユミさんが言いかけた、赤ヒレとよんでもらって結構です。私もそのほうがしっくりしますので。」
「赤ヒレさんですか。」と言って二人はコロコロと笑った。
 二人から離れたところで赤ヒレはマユミに、
「きれいな人たちだけど、あの二人は死んでしまったの?」と聞いた。
「私たちと同じ、生きてるわ。そのうちあちらで先生もお会いするかもしれないわ。」
(四) 
 村長の家は海辺から少し離れた小高い丘の上にあった。梛林を通ってしばらくすると、50坪ほどの敷地に白い板塀で囲われた家が見えてきた。
「あそこが村長さんの家よ。」とマユミが言った。赤ヒレは考えていたより小さい家だなと思った。マユミはインターホーンを押し、
「マユミです。お約束していた山田先生をお連れしました。」と言った。
「お待ちしておりました。どうぞお入りください。」という声と同時に扉がスーツと開いた。建物はシンプルな平屋建てであったが、白を基調にしたセンスのいい住まいであった。村長は中庭におり、二人を見るとニコニコと笑顔を見せながら近づいてきた。
「やあ、遠いところをお疲れ様です。」と言って手を差し出し握手を求めてきた。赤ヒレとマユミは交互に手を差し出し握手した。年の頃は六十歳過ぎのいかにも好好爺といった感じのする人であった。
「山田さんは精神科のお医者さんとお聞きしておりますが。」
「はい。医者といっても研究医でまだ駆け出しです。こちらのマユミ先生と共同でやっております。」
「そうですか。マユミさんもご一緒になさっていたのですか。いままで何度かお会いしたが今はじめて聞きました。」
「すみません。隠すつもりはなかったのですがまだ始めたばかりなものですから恥ずかしくてつい言いそびれてしまいました。」
「いやいや、謝る事はない。それにしても今回は山田先生、大変でしたな。」
「いやまったく、事故はさておき、マユミ先生にこの世界に連れてこられたのは驚きでした。」
「あら私が先生をお連れしたわけではないわ」マユミは心外だわ、という顔した。
「まあまあ、ここの世界についてはおいおいお話をするとして、とりあえずこれからのことをお話しましょう。」と言って席を立ち、奥からなにやら大部の書類を持ってきた。
「これは私がこれまでここで研究したものですが、お役にたてばと思いまして。」と言って書類をテーブルの上にどさりと置いた。
「そんな貴重なものを私のような者に見せて頂いてよろしいのですか?」
「なあに一向にかまわん。わしゃもう引退じゃ。むしろ君のような若い者に引き継いでほしいのじゃ。と言ってここに定住してほしいということではないがな。」と言ってワッハッハッと笑った。
 コーヒーのいい香りが部屋に満ちてきた。
「どうぞ、お口に合うかわかりませんがおめしあがれ。」と言って奥さんはコーヒーとマンゴウのような果物を載せたお皿をテーブルにおいた。赤ヒレはこれまで嗅いだことのないいい香りに誘われコーヒーを一口飲んで驚いた。ほんのりとした苦味のなかにえもいわれぬ旨みがありこれまで味わったことのない至福感が口の中に広がってきた。思わず「これはすばらしいコーヒーですね。」と言っていた。「そうでしょう。私も最初に飲んだときびっくりしましたもの。この果物がまたおいしいのよ。」と言ってマユミは一口食べて再び「すっごくおいしい。」とくりかえした。奥さんは「お口にあってよかった。」と言ってニコニコと微笑んだ。
「ところで、これはカルテと言ったがお前さんたちの世界のカルテとは随分違う。お前さんたちの世界でいえばこれは生活の記録と言ったほうが近いでしょう。ここの患者さんたちは私らと同じように生活しているのです。その生活を通して私らが彼らを診るのです。」
「彼らは自分が患者であることを自覚しているのですか?」
「ここはいわゆる療養所ですが、自覚してます。強制的にここに連れてこられたわけではありません。自らここへ来た人たちばかりです。ですからちょっと見た目にはまったく正常な人も多くいますしまた本当に正常な人もいます。ここの雰囲気が好きだと言ってきている人もいるのです。入療に特別な制限はありませんからな。」
「さきほど会ったハナコさんやユカリさんは私にはどこが悪いのかまったく分かりません」とマユミが言うと、
「私は彼女たちはもう治っていると思っているのですが、おそらくここが彼女たちにとって快適なのでしょう、。時々ここへ来て楽しくやっているようです。」と村長は言った。
「なるほど、そうするとあまり深刻な人はいないということですか。」
「そうですね、あちらの世界のようなことはないと言えます。言い方を変えますと深刻な状態になるような人はこの世界には来れないとも言えます。」
 しばらく雑談をしたあと、「それでは村を案内しましょうかな。」と村長は言った。 (五)
 車が用意されており運転手がエンジンをかけて待っていた。村長は運転手の脇に乗り、赤ヒレとマユミは後ろの座席に乗った。
 村長は地図を広げ運転手に行く順番を指示した。しばらく順番を変えたりしたやり取りがあったがどうやら決まった。
「なるべくゆっくり走ってくれ。」
「わかりました。」と言って運転手はハンドルを握り返しゆっくりと走り出した。
 小高い丘を海岸に向かって降りていくと海岸線に沿って道路がはしっていた。車はその道路を左折した。十分ほど走ると左手に家並みが見えてきた。おおよそ十棟前後がひとつのブロックを形成していた。それがいくつもある。各ブロックは小道で繋がっているように見えた。松林がいたるところにあった。しばらくして左折して海岸線を離れて行くとひときは大きな建物が見えてきた。全体は丸いドームになっておりドームの屋根は金属の光を放っていた。近づいてみるとそのようなドームが規模は小さいがさらに二つほど並んでいた。まわりは銀杏の木がそこかしかにありいずれもかなりの年数が経ったと思われる大きなものであった。
「これらはここの住民が共同でする作業場であったり遊び場であったりするところです。ドームは主ドームがひとつと付属が二つあり、それぞれ違った機能を持っています。」
「症状に応じてということでしょうか?」
「そうです。ごく大雑把に言えばobsessionというかcomplexというかそれの種類を三つに分けていると言ってもよろしいかと思います。」
「なるほど。complexですか。」赤ヒレはこれまで自分が診てきた経験を振り返ってみた。精神のバランスは他者との関わり方に大いに関係することは分かっていた。他者との関わりの中で自分のidentityをどのような形で表現できるか。それが上手くいかない場合に人は悩む。そこのあたりにどのようにcomplexが関わるか。
 ドームの周辺には小さな公園があり思ったより多くの人たちが椅子に腰をかけていたり散歩をしたりしていた。
「中を見てもよろしいのですが特段のものがあるわけでもないので先を急ぎましょうか。」と村長が言った。
 車はそこを離れしばらく道なりに走ると高台に出た。ぞこは一面農場になっていた。
「ここは農園です。各自自分の好きなものを作っています。私の経験ではこれが一番効果がありますね。植物を育てるということはどうも人との関わりと共通するところがありそうですな。complexが植物の生育によって癒される気がします。育成に自分が関わっているということかな。」
農園にはさまざまな野菜や果物が植えてあった。赤ヒレは空を見上げておやっと思った。雲はところどころにみられるが太陽がどこにも見当たらないのである。
「ところでこの世界に来てから不思議に思うことがいくつかあるのですが、太陽が見えないのにどうしてこんなに明るいのですか?」
「ああ太陽ですか。そうかあなたのいるところは近くに太陽がありますな。実をいえばここでも太陽に当たるものがあるのです。ただ見えないだけです。正確に言えば見えないほど遠いところにあるということです。こちらの世界は次元によって分かれています。その次元を照らすいわば太陽があるのです。もっともあなたのところの太陽とはまったく違うものですが光を放つということでは同じかもしれませんが。その光は次元が下がるほど弱くなります。そういう意味ではここはかなり明るい世界です。それとこちらの世界があなたのところと根本的に違うのはこちらには夜がないことです。」
「えっ、夜がない?」赤ヒレは飛び上がらんばかりに驚いた。
「それじゃぁ眠るのが大変ですね。」
「ここでは眠る必要がないのです。」
「なんですって、眠る必要がない、ですか?」
「そうです。必要がないのです。これを説明するには私では役不足でしょう。今度来る時までに適任を探しておきます。」と言って村長は手帳のようなものを取り出してメモをした。
車は農園をぐるりと一回りしたが、農園で作業している人たちは村長を見ると皆「やあ。」と言って挨拶した。村長はそれにひとつひとつ「がんばっているね。出来はどう?」などと返していた。
「それじゃぁ、これからあなたにいてもらう家にいきましょう。さきほど見た家のひとつです。マユミさんと同じブロックにしておきました。」
「F棟ですね。」とマユミが言った。
「近いほうがなにかと便利でしょう。隣にしておきました。」
「ありがとうございます。しかし、われわれはすぐに帰らなければなりませんのでしょう。そんな者に家はちょっともったいない気がしますが。」
「わかっております。マユミさんもそうですが、これからはあちらに帰っても、こちらに来ようと思えばいつでも来れますので家はあったほうがいいでしょう。」
(六)
 赤ヒレの意識が戻ったのは事故があってから三日後であった。ぼんやりとした意識の回復とともに最初に眼に入ってきたのは母親の顔であった。
「あっ、眼を開けた。」と言う大きな母親の声が耳に入ってきた。次に「康孝、気が付いたか。」という父親の声が聞こえた。
 赤ヒレは起き上がろうとしたが左足に激痛がはしった。思わず「痛っ」と言って顔をしかめた。「まだ動いちゃだめだ。」と父親が言った。
「よかった。よかった。」と言って母親は嬉し泣きしていた。そこへ担当医が入ってきた。
「目が覚めましたか。よほど疲れていたのでしょう。怪我自体は左足骨折と脇腹を少々打撲している程度なのですがよく眠っておられましたね。まあこれでひと安心です。ゆっくり休んで下さい。」と言って脈と熱を看護師に測らせてすぐ退室した。
 
 一週間ほどで退院した。勤務先の大学病院には松葉杖をつきながら出勤した。マユミが早速挨拶に来た。
「いかがですか?」
「ああ、ありがとう。もう大丈夫だ。ちょっと疲れがたまっていたかな。自分の不注意もあるかもしれない。」
「でも車の脇からバイクが出てきたと言うじゃない。バイクの方に注意義務があるはずよ。先生は悪くないわ。」
「そう言えばそうなんだが、いつもの自分であれば立ち止まって確認していたと思うんでね。相手は誠意のある青年で、まあちよっと気の毒になった。痛い思いをして気の毒がってりゃいい面の皮だな。」と言って赤ヒレは笑った。
「まったく先生はお人がよろしいから。用事がございましたら呼んでください。先生の代わりに来られた方と打ち合わせをしておりますので。」と言ってマユミは部屋を出て行った。
 赤ヒレは、何事もなかったかのようなマユミの様子から、あれは夢だったかと思った。しかし、夢にしてはいやにはっきりとしている。ひとつひとつの会話まで覚えている。マユミは何故知らん顔をしているのだろう。やはり夢かもしれない。そこへ院長が入ってきた。 
「大変でしたね。どうですか具合は?」
「ご心配おかけして申し訳ありません。おかげさまでもう大丈夫です。」
「それはよかった。でもしばらくは養生したほうがいい。代わりの先生を頼んでありますので。」
「それはどうもありがとうございます。お言葉に甘えておいおい進めたいと思います。」
「先生が休んでいる間に引き継げると思われる案件は大方は引継ぎをしてありますのでなにかあったら相談に乗ってやってください。」と言って院長は出て行った。なるほどそういえば以前より大分案件は少なくなっていた。入れ替わるように引継ぎをする先生がマユミと一緒に入ってきた。
「こちらは長井先生です。」
「長井です。」
「山田です。このたびは申し訳ありません。先生のお手を煩わすことになりまして。」
「いやいや、そんなことはありません。お身体はいかがですか?」
「大丈夫です。まあひと月もすれば元にもどると思ってます。何かありましたらいつでも来てください。しばらくお世話になります。」
「こちらこそ。優秀な助手がおりますので大方は先生のお手を煩わすことはなくてすみそうです。」と言って長井は笑いながらマユミを見た。マユミは赤ヒレを見ながら、
「そういうことだそうです。赤、山田先生もゆっくり休んでください、」と言いながら「また言いそうになっちゃった。」と言って笑った。長井もすでに山田が赤ヒレと言われているのを聞いていて、「先生は赤ヒレさんと呼ばれてるらしいですね。」と言って大笑いした。
「まったく、僕が何故赤ヒレなのかよくわからないのですがみんなそう言うんですよ。ここのマユミ先生が広めたようですが。」
「あら、それは違いますわ。私が先生に最初にお会いしたとき先生のお友達がおっしゃってらしたからよ。」
「まあ僕は赤ヒレというニックネイムは嫌じゃありませんがね。」
「たしか赤ヒレというのは中国産の魚ですよね。」と長井が言った。
「私、先生のお友達に何故山田先生が赤ヒレと呼ばれているのですか、と聞いたことがあるのです。そうしたら、赤ヒレというのはひれが赤いからそう呼ばれているのですが、とにかく丈夫な魚でほかの魚がやられてしまう環境でも生きている。あいつはそこが赤ヒレみたいだということでわれわれはいつしか彼をそう呼ぶようになったのです。とおっしゃっていたわ。」
「そうですか。それじゃ今度の怪我も早く治るかもしれませんね。」と言って長井は笑った。マユミもくすくすと笑っていた。赤ヒレは憮然としていた。 
 
(七) 
赤ヒレはどうも納得がいかなかった。先日のことが夢にしてはいまだにはっきりと蘇るのである。マユミは何故知らん振りを決め込んでいるのだろうか。そんなことを考えているときマユミが来た。
「ご機嫌はいかがですか?」
「僕は赤ヒレだからね、いつでも機嫌はいいよ。ところで今日都合がよければ夕飯でも一緒に食べない?」
「あら、珍しい、どの風の吹き回しかしら。でも残念だわ。先約があるのよ、私のお友
達と。」
「そうか、いやそれならいい。」
「そのお友達、先生と会ったことある人よ。」
「ふうん。君の友達に会ったことなんかあったけな。」
「お忘れですか?ついこの前でしたのに。」マユミは飄々として言った。ついこの前と聞いて赤ヒレははっとした。
「あっ、ひょっとしてあの二人ですか?」
「そうです。あのきれいな人たちです。」
「そうかやはり夢ではなかったか。すると君はホワイト君?」
「はい。ホワイトです。」マユミはニコニコとして言った。こういう時のマユミは天真爛漫で実にかわいい。時々見せる笑顔である。
「いやぁ、ずっと気になっていたんだ。やはり夢ではなかったか。」赤ヒレは驚きのあまりしばらく呆然としていた。
「私も最初は信じられませんでしたわ。先生はまだ経験が浅いので自由にあちらには行けないと思いますが、そのうちに行こうと思えば簡単に行けるようになると思います。私がそうでしたから。」
「こちらへ帰って来て不思議に思うことがあるのだが、あの世界にいるときとこちらにいるときと身体の重さというか自由さ加減というかそれらがまったく違う気がするのだがマユミさんはどう?」
「あの世界には多分重さはないと思います。」
「重さがないか。しかし質量感はあるよね?現に僕は君が白馬のとき乗せてもらったがしっかりした身体をしていた。」
「あらいやだ、しっかりした身体だなんて。」と言ってマユミは赤くなった。
「おいおい、変な意味じゃぁないよ。質量感の話だよ。」
「わかっております。ちょっとこのところ太り気味で気にしてますので失礼しました。私は専門家でないので自分の感じたことしか言えませんが、こちらの物というか物質もあちらの物も本質は変わらないのではないかなとは思うのですが、先生のおっしゃる通り何故か圧倒的にあちらに行くと軽く感じますね。」
「なんだろうね?」赤ヒレは考え込んだ。
「先生、あまり考えないほうがよろしいですよ。ところであちらに行きたくなったらお声をかけてくださいね。しばらくは私と一緒のほうがよろしいかと思いますので。」
「ああ、ありがとう。ハナコさん、ユカリさんによろしくと言っといてください。」
「あら、しっかり名前を覚えていらっしゃる」
「美人の名前はすぐ覚えるのさ。」と言って笑た。マユミは少々膨れた顔をしたが、
「それじゃ失礼します。これに懲りずにまた誘ってね。」と言って出て行った。
 赤ヒレは再び考え込んだ。
(八)
 ハナコとユカリは幼馴染である。二人とも芦屋の六麓荘に実家がある。六麓荘は阪神間のちょうど真ん中にあり、名前の通り六甲の山麓、海抜200mほどの高台にあった。広さは約40ヘクタールの瀟洒な高級住宅街である。二人の家は近くであった。
学校も小学から高校まではエスカレーター式で同じであったが、大学まで一緒であった。ハナコの家は代々政治家であったが、父親は政治家にはならず日本でも有数な大会社に勤め、社長から会長にまで上り詰めていた。ユカリの家は代々地元の造り酒屋をしていた。二人はなにをするにも一緒であった。二人がそれぞれの個性の違いを意識し始めたのは高校二年の夏であった。夏休みを利用してハワイに行ったときのことである。そこで四人の日本人グループと知り合った。男二人女二人であった。彼らはいずれも東京の大学生でワンダーホーゲル同好会であった。マウイ島のホテルで夕食をしていてたまたま隣り合わせた。ハナコもユカリも一見大人びており、高校生には見えなかった。お互いに声をかけるともなく親しくなった。そして次の日に一緒に行動することが当たり前のように決まった。山に登ろうというのである。明日の集合時間を決めて、別れた。ところが部屋に戻ってしばらくして「ハナちゃん、私、明日行くの止めようかな。」とユカリが突然言い出した。
「どうして?」
「よくわかんない。なんか行きたくないの。」
「それだったら、あのとき言えばよかったのに。」
「そんなこと言える雰囲気じゃなかったじゃない。」
「まあね。たしかに。それじゃ私も止めるわ」
「ハナちゃんは行ってらっしゃいよ。私なら一人で大丈夫だから。」ユカリはそれは困るといった顔をした。こんなことは二人の間で初めてのことであった。少しばかり気まずい空気が流れた。
「正直に言うとあの中の何人か、あまり好きになれそうもない人がいるの。」ユカリが言った。
「そうなの?みんないい人みたいだけど。」
「特にあのよくおしゃべりをしていた子、正子さんて言う人はだめだわ。」
「ああ、あの人ね。たしかに自己主張が強そうな感じね。でもおもしろい人よ。」
「それに、あの丸顔の男の子、正子さんの腰巾着みたいで気持ち悪いわ。」
 ハナコはユカリがここまで好き嫌いを言うのを初めて聞いた。ユカリはハナコが楽しそうに大学生と話しているのが羨ましくもあり少々おもしろくなかったのである。特に正子はハナコとばかり話しをしていてユカリには目もくれなかった。
 その晩眠りについてしばらくすると、かすかにユカリの泣き声が聞こえてきた。
「ユカリ、泣いてんの?どうしたの?」ハナコはベットから起き上がってユカリのところへ行った。ユカリは布団を被ったまま泣いていた。
「どうしたの。泣いたりして。」ハナコはしばらくユカリのベットに腰をかけてユカリが泣き止むのを待った。十分もしてユカリは被っていた布団から顔を出した。顔は涙に濡れていた。ハナコはそっと涙を拭いてやった。
「ハナちゃん、ごめんなさい。私正子さんに嫉妬していたの。だから行かないなんて言ってしまったの」
「そうなの、お馬鹿さんね。」と言ってハナコはやさしくユカリの手を握りながら続けた。
「でももういいの。私も行かないって決めたから。ユカリは気にしなくていいのよ。」
 それを聞いてまたユカリは泣き出した。泣きながらごめんなさいと二度ほど繰り返した。ハナコは小さく「気にしない、気にしない。」と言いながら片方の手でやさしく髪を撫でてやった。しばらくしてユカリも落ち着きを取り戻した。二人は冷蔵庫からパパイヤジュースを取り出しコップに注ぎながら顔を見合わせ、にっこり笑いながら乾杯をして一口飲んだ。喉が渇いていたのであろう二人は思わず「おいしい。」と声を揃えて言った。言ってまたコロコロと笑った。
(九)
 大学は神戸の女子大に入った。二人ともスタイルとフェイスは抜群でいつも一緒であったこともあり、あっという間に学院中の噂になった。二回生になったときハナコは運転免許を取りフェラーリを父親に買ってもらった。それから二人はその車でどこへでも出かけた。明石海峡大橋を渡り香川までうどんを食べにいった事もあった。土曜のある日授業を終えて、いつものようにドライブに出かけた。しばらくしてハナコは白いセルシオが付いてきていることに気づいた。わざと細い道に入ってみるとやはり付いてきた。
「ユカリ、私たち誰かに付けられてる。」
「ええっ、ほんとに?」
「振り向いちゃだめよ、いまバックミラーで見えるようにするからね。」ハナコは脇に乗っているユカリに見えるようにバックミラーを動かした。
「あっ、あの車ね。白い車。」
 ハナコたちは舞子を過ぎ明石に入っていた。
「ユカリ、いつもの喫茶店に行こうか?あの車がどうするか見てみたい気もするし。」
「ムーミンパパね。」
 ムーミンパパは海辺にあった。海辺に面したところはカウンターになっており二人用と四人用に仕切られて六席ほどあった。ハナコとユカリは中央からひとつ右にある二人用の席にいつも座る。海水浴の時期も過ぎ店には二組の客しかいなかった。二人ははいつもの席に座りいつものものを注文した。ハナコはミルクティー、ユカリはマンゴウプリン。
 ここから海辺を見ると左手に明石大橋が淡路島に架かっているのが見える。中央から右手にかけては水平線になっていたがやや右手には水平線から薄ぼんやりと陸らしきものが浮き出ている。おそらく四国であろう。海峡をひっきりなしに漁船が二三艘右に左に走っている。左にはすぐ近くに林崎漁港があり右には江井ヶ島漁港がある。
カウンターに座ると眼の前は松江海水浴場になっており、いくつかの突堤で区切られていた。いまは九月になり夏の賑わいはない。夏を惜しむかのように何人かの若者が波打ち際にサーフィンボードを滑らせて遊んでいた。
「どうやら諦めたようね。」ハナコがそう言ったとき白いセルシオが駐車場に停まるのが見えた。
「あっ、来た!」二人に戦慄が走った。
 二人の男が車から降りてきた。一人は四十歳過ぎ、もう一人は三十歳前後のように見えた。どう見てもサラリーマンには見えない格好をしていた。四十歳過ぎの男は長く伸ばした髪を後ろで束ねていた。若い方は四分刈りで派手なストライブのネクタイをしていた。店に入ってくるとハナコとユカリを確認するかのように見てからひとつ左手の席に座った。二人ともコーヒーを注文した。ハナコとユカリは見て見ぬ振りをしていた。二人とも心臓が大きく鼓動していた。しばらく取り留めの話をしていたが二人とも何を話していたか、上の空であった。
「帰ろうか?」ハナコが言ったとき、四十歳過ぎの男がすっと席を立ち彼女等のほうに歩いてきた。
「突然で失礼します。」男は丁寧に頭を下げ内ポケットから名刺入れを出し、
「こういう者です。」と二人に名刺を差し出した。名刺には(株)K企画 専務 山下雅夫 とあった。
「実は私どもはモデルのスカウトをしておりまして、お二方にはぜひ再来週のオーデションに出ていただきたいと思いまして失礼を省みず後を追ったしだいです。東京までの往復はこちらが負担しますし少々ですが包ませていただきます。」
 思いもかけない話に二人は何と答えてよいやら分からないでいた。いつのまにかもう一人の男も専務の脇に来ていた。よく見ると気の弱そうな顔をして、脇に立っていた。
「急な話で申し訳ない。なにせオーデションが再来週なのでこちらも少々慌てているものですから。出来れば来週までにご返事をいただけるとありがたいのですが。連絡はこの名刺のところの電話にしてもらえればいいです。」
「私たちはまだ学生ですのでお仕事は無理なのじゃないかしら。」ハナコがようやく口を開いた。
「学生のモデルさんは何人もおりますのでその点はご心配は要りません。要するに空いた時間にお仕事をすればいいのです。それにおふた方は神戸ですのでオーデションは東京ですが合格したあとは神戸でのお仕事が中心になるはずです。」
「モデルというのはどのようなことをするのですか?」
「学生さんですので取り敢えずは雑誌のモデルということになります。」
「ところで話は変わるのですがどうして私達に声がかかったのですか?」
「それはこの者が各大学を調査してましてお二方が評判になっていたからです。」と言って若い男を紹介した。名刺には山崎正とあった。
「これからはこの者が連絡役を務めますのでよろしくお願いします。」と専務が言ったあと、山崎はひょこりと頭を下げた。
「こいつは口下手なものであまりしゃべらんのですが仕事はよくやります。」
 ハナコとユカリは山崎のほうを向いて頭を下げてから、
「わかりました。すこし考えさせてください」ハナコはユカリのほうを見てそれでいいでしょと無言の同意を求めるように言った。ユカリは黙って頷いた。
(十)
二人はそれぞれ家族に相談をしたが、ハナコの父親だけが止めたほうがいいだろうと言ったまででたいした反対もなく、結局受けるだけ受けてみようということになった。
 数日後、受けることにしたと連絡すると山崎が出て、旅費等を渡したいので日時と場所を指定してほしいと言った。先般会ったムーミンパパに明日の午後三時ということにした。
 時間通りに山崎は来た。山崎は旅費と謝礼をハナコとユカリに渡したあと、オーデションについてのひと通りの説明を始めた。
「日時と場所はこの案内書にある通り、10月4日の午後1時から、場所は新宿のKホテルです。午後1時ですので前泊の必要はないと思いますので旅費に泊費は入っておりません。それから着てゆくものですが普段着で結構です。審査の内容ですがやはりモデルということですのでそれにふさわしいかどうかということです。あらかじめ準備しておくようなことは必要ありません。審査委員はうちの社長とこの前お会いした専務、それに雑誌社の方が三名の計五名です。審査結果は後日の連絡になりますので審査が終わり次第帰って結構です。大体このようなことですが何かご質問はありますか?」山崎はここまで一気に説明をしてから失礼と言ってタバコに火を付けた。ハナコとユカリは何を質問してよいやら分からずただ案内書を見ていた。しばらくして、山崎はボソッと言った。
「お二方とも受かると思いますよ。それじゃぁこれで失礼します。」と言って出て行った。

 当日、ハナコとユカリはJR芦屋駅で待ち合わせ新快速で新大阪まで行き、東京に十二時丁度に着く新幹線に乗った。昼食は車内販売のサンドイッチで済ませた。定刻に東京駅に着いてそれから山手線で新宿まで行った。Kホテルの会場には同じような年頃の子が二十人ほど来ていた。山崎が言ったように審査員は五人でその中に先般会った山下がいた。一番左端に座っていた。普段着で結構と言われていたのでハナコとユカリは通学スタイルであったが中には明らかに着飾った子もいた。審査は五人づつ一組で行われた。簡単な一般常識と学生生活について各自述べるというものであった。最後に一人づつ審査員の前を歩かされたが、審査はそれだけであった。それでも一組が終えるのには四、五十分はかかっていた。ハナコは二番目の組ユカリは最終の組になっていた。すべての組が終わるまでに二時間半ほどかかった。審査結果の発表は後
日連絡が入ることになっており、審査を終えた人はそのまま帰っていいことになったいたが、ユカリが最終の組になっており最後まで会場にいた。ハナコはユカリが受けている間ホテルのロビーで待っていたが、つかつかと男が寄ってきて「いいですか?」と声をかけてきた。見ると山崎であった。
「どうでした?」 
「よくわかりませんが、皆さんお綺麗なのでどうでしょう、自信ありませんわ」 
山崎はそれには答えず、 「今日お帰りですか?」と聞いてきた。 「明日帰るつもりです。」山崎は黙って頷いて、「それじゃあ」と言って去って行った。ハナコはなんて無愛想な人と思った。 
東京には高校のときにも何度か来ていたが一泊してデズ二ーランドに行くことにしていた。審査を終えて二人は新宿の街に出た。神戸や大阪とは比較にならない人の多さに改めて驚いた。ハナコとユカリはこの人の多さにかすかに戸惑いと不安を感じながら歩いていた。それは一方で新たなものを見る期待であったかもしれない。二人が育った六麓荘は商店街は勿論のことマンションもない、戸建住
宅だけの閑静なところであった。大学に入り、大阪や神戸には頻繁に遊びに行くようになったが、まだそれはそれまでの生活の延長線上にあった。東京にもこれまでも何度か来たことがあるが、それは遊びであり彼女等が生きてきた生活の線上にあった。
 しばらく歩いていて二人はある異変に気づいた。この人の多さに異常に反応しているのである。何故か今日はこれまでとはまったく違う。圧倒的人の多さがこれまでの世界をまったく変えていた。それは実質的多さではなく二人の感覚上の多さであったろう。不思議な感覚に襲われた。それは海水浴場で多くの人の中にいるときとはまったく違う、大海原にポツンと放り出された感じに似ていた。自分だけが浮き上がってしまっている感じである。
「東京ってこんなに人が多かった?」とユカリが不安に耐えられず口火をきった。
「なんか気持ちが悪くなってきた。ホテルに帰ろうか?」
「そうね。ちょっと疲れたのかもしれない。」と言いながらハナコは自分の血の気がスーッと引いていくのがわかった。
 ハナコはスローモウションでも見るかのようにゆっくりと倒れた。すると同じようにユカリも倒れた。
(十一)
 暗いトンネルの中をハナコとユカリは飛んでいた。しばらくすると明かりが見えてきた。明かりは近づくにつれて増してきて一気にストーンという感じで大地に着いた。
 ハナコは一瞬驚きのあまりクラクラッとしたが次ぎの瞬間、「わあ、きれい!」というユカリの声が聞こえた。周りを見ると色とりどりの花々が鮮やかに咲き誇っていた。
「なんてきれいなんでしょう。こんなの初めてだわ!」ユカリは興奮していた。
「ユカリ、ここはどこかしら?」ハナコは不安げに言った。よく見るとあちこちに人がいた。楽しそうな笑い声も聞こえてきた。
「変ね、たしか私たち、新宿にいたはずよ。ここは新宿なのかしら。」まだ記憶がぼんやりとしていた。
「そうね、そう言われてみれば変ね。」ユカリは少し冷静になってきた。すると、女の人がニコニコしながらこちらに近づいてくるのが見えた。
「はじめまして。マユミと申します。こちらははじめてですね?」二人はキョトンとしてしていたが、「ええ。」とハナコが口を開いた。
「初めての方は皆さん驚かれますのでオリエンテーションが必要です。それとここの長老に挨拶したほうが後々なにかと都合がよいことが多いでしょうからこれから案内いたします。」
マユミは淡々と事務的に述べた。述べたあと「ここはすばらしいところですよ。きっとお気に召すと思いますわ。」と付け加えた。
「あっ、ご挨拶が遅れました。私はハナコと申します。よろしくお願いいたします。」
「私はユカリです。」と言って二人そろって頭を下げた。
「こちらこそよろしくお願いいたします。何か先輩面して御免なさい。役目なものですから。」と言ってマユミは親しげに笑った。
「お会いしたばかりなのにお二人とはお友達になれそうでうれしいわ。」
 マユミのこの言葉に二人は安心したかのように緊張がほぐれた。三人は伯爺さんの家に向かった。途中さまざまな花や木がマユミに声をかけてきた。
「お花や木がおしゃべりしてる。」ハナコもユカリも目を丸くした。
「ここではみんなおしゃべりが出来るのです。あのお花たちはもし私たちと同じ人間に戻ろうとすればいつでも戻れるのです。お花になたくてなっているだけですから。あの人たちは花の精と呼ばれている人たちです。いろいろなお花のデザインを考えて過ごしています」
「お花のデザインか、なんかとっても素敵なお話ね。」ユカリはうっとりした顔で聞いていた。
 雑木林を過ぎ小川に架かった小さな橋を渡った。その先に瀟洒な家が見えてきた。
「あそこが伯爺さんの家よ。」とマユミが言った。
「お一人でいらっしゃるのかしら?」ハナコが聞いた。
「奥さまとお二人よ。とっても上品でいい方よ。」
 玄関の前に着いてマユミがブザーを押した。家の中から「はい。」と言う声が聞こえた。
玄関の扉が開いて白髪のお婆さんが出てきた。
「お待ちしておりましたよ。どうぞお上がりください。」と言ってから、家の中に向かって「いらっしゃいましたよ。」と声をかけた。
「どうぞ、どうぞ。」と言う声が中から聞こえてきた。
 応接間に入ると伯爺が少し大きめの椅子にニコニコしながら座っていた。三人は勧められるまま長椅子に腰をかけた。
「マユミさんもお久しぶりですね。お変わりありませんか?」
「はい、お陰様で元気にしております。」
「それはなによりです。ところで今日はどうされました。」
「はい。こちらのお二人が今日始めてこちらの世界に参りましたものですからご挨拶をと思いましてお伺いいたしました。」
「ハナコと申します。」「ユカリです。」「よろしくお願いします。」と二人は言って頭を下げて挨拶をした。
「こちらこそ、よろしくお願いします。」と言って,伯爺は改めて座りなおして聞いた。

「こちらに永住ということですか?」
「いいえ、私と同じです。」とマユミが言うと、
「そうですか、こちらに来るにはまだお若い。それじゃぁこちらの世界についてはおいおい学んだらよろしかろう。まあこちらの世界はいままでおられたとこと比較すると一言で言えば自由だということです。あちらの世界はなにかと不自由なところがあるがこちらは基本的にはありません。ひとつだけあるとすればここにいる人たちの心の有りようがほぼ同じだということです。あなたたちがここへ来られたということはわれわれと心の有りようが同じである証拠です。お二方はまだお若い。人生はこれからがいろいろある。あちらの世界にいてここのレベルを保つのは大変じゃ。はっきり言えばこれから人生のさまざまな経験をされるであろう。いろいろなことで心を痛めたり、苦しんだりするであろうがそれを経てはじめて心の有りようは決まってくる。
特に気をつけないといけないのは男女の仲じゃ。もっとも難しく考える必要はさらさらない。自然体が一番いい。」といっきに伯爺がここまで話したところで、奥さんが口を挟んだ。
「自然体ではなかなかいかないのが男女の仲よねマユミさん。」と言って笑った。マユミもなんと答えてよいやら分からずただ笑っていた。
「ところで、こちらに来たのはなにかあったのかな?」伯爺が聞いた。
「お二人はあちらで突然気を失われたようです。お話を少しばかりしたのですが、原因はよく分かりませんでした。ただ、新しいことが続いてお疲れになったようです。」
 ハナコとユカリはお互いに顔を見合わせて首を捻った。特段疲れるようなことも無かったからである。伯爺はそれを見て原因は別のところにあるのかもしれないと思った。
「マユミさんもご存知のいいところがここにはあるのであとで行かれると良い。ここのいわば別荘地のようなところです。」
「そうですね。でも今日のところはそろそろ帰らないとご両親が心配されているでしょうから、今度またということにしたほうがよろしいでしょう。」とマユミが言うと
「あっそうだ、私たちは気を失ったままなのだわ。」と二人は声を揃えて言った。
「そうじゃ、そうじゃ、また来るとよい。」と伯爺も笑顔で言った。
(十二)
 二人は救急車で近くの大学病院に運ばれていた。持っていた学生証から各自宅に連絡が入りその日のうちに両家の両親は病院に駆けつけていた。病院に着くまでは皆青ざめていたが、医師から「貧血でしょう。」と聞かされて一様に安心したが、二人はその日は眼が覚めることは無かった。眼が覚めたのは翌日の昼過ぎであった。ハナコがまず眼が覚めた。ほぼ同時にユカリも眼を覚ました。両家の両親は医師から貧血と聞かされていて安心していたこともあり静かに雑談をしていた。ハナコとユカリは一瞬自分がどこにいるのか分からず混乱したがすぐに病室であることを認識した。
「おお、起きた。」と言うハナコの父親の声を合図に病室はいっきに和んだ雰囲気になった。「よかった、よかった。」と言う両家の母親の声がハナコとユカリに聞こえた。
 しばらくして医師が看護師をつれて入ってきた。一通りの検診をして
「心配ありません。もう大丈夫でしょう。このまま退院してもよろしいかと思いますが、この際貧血の原因をもう一度調べてみてはどうでしょう。二三日かかりますが。」
「お前たちの都合はどうかな?」とハナコの父親が聞いた。ハナコもユカリも特別な用事はないということでこのまま入院ということで決まった。両親たちはその日に神戸へ帰った。
 二人になり早速ハナコが確かめるようにあちらでの出来事を話始めた。
「不思議よね。こんなことって本当にあるのかしら。」
「ねえ、ハナちゃん。このことは内緒にしておいたほうがよくない?経験した私たちだってなんか信じられないんだもの、こんなことを言ったら気が触れたと思われるわ、きっと」
「そうねー。たしかに信じてもらえそうもないわね。それにありえないことかもしれないけど、二人で同じ夢を見たのかもしれないし」「そうか、夢か、そうかもしれない。」ユカリはぱっと明るい気持ちになった。やはり心のどこかにあの世を信じるものががあった。
 そうこうしているうちに担当の医師が看護師をつれて入ってきた。これからの日程表の説明を受けた。一通りの健康診断とCTスキャナー、MRIがあり最後に心療内科医の問診となっていた。日程は二日間で終了であった。結果は二週間後に判明するので上京してもらいたい、とのことであった。それだけを告げて退ろうとしたとき看護師が、
「今インターン生が研修に来ているので、お気に触ることがあるかもしれませんがよろしくご了解しておいてください。」と言った。
 検査は坦々と進んでいった。ひとつの検査から次の検査までの時間が長く二人ともうんざりしていた。空き時間を利用して二人して病院の外に出て散歩したりして時間をすごしていた。二日目の午後三時頃、散歩を終えて病室に戻ろうと廊下を歩いていると、向こうからインターン生数人がなにやら話しながら歩いてきた。ハナコは見るともなしにインターン生を見て女の人が一人いるなと思ってその顔を見て驚きのあまり思わず「あっ!」と声を上げてしまった。なんとそれはマユミであった。ハナコの声にユカリも驚きマユミを見た。インターン生もなにが起こったのか分からず思わず立ち止まった。一瞬異様な雰囲気が流れたが、
「ここに入院されていたのですか。」とマユミがニコニコしながら近づいていくと、他のインターン生は知り合いに会ったのかという顔をしてまた歩き出した。
「今は忙しいのでお話は出来ませんがあとで病室に行きますわ。何号室ですか?」と聞かれたが、二人は驚きのあまりしばらく混乱状態にあってなんと答えてよいか分からずにいた。ハナコがやっとの思いで答えた。
「305号室です。」
「305号室ですね。わかりました。驚かせたみたいでごめんなさいね。」と言ってマユミは先を行っているインターン生のあとを追った。
 二人は急いで部屋に戻り話始めた。ハナコが切り出した。
「びっくりした。まさかマユミさんがここにいるなんて。これって偶然なのかしら?」
「やはり夢ではなかったんだわ。私なんだか怖くなってきた。」と言ってユカリはハナコのそばに身体を寄せてきた。
「怖くはないわ。マユミさんは悪い人じゃなさそうだし、それよりマユミさんがここに居たことが不思議ね。」
「マユミさん、お医者さんになるのかしら?」
「そうじゃない、インターン生なんだから。それにしても驚きだわ。」
「あとでここへ来るっておしゃっていたわね」
「どんなお話をするのかしら。」
 しばらく二人は取り留めの無い話を繰り返していた。そうこうするうちに部屋がノックされた。二人はドキッとして同時に「はい。どうぞ。」と言っていた。
マユミがニコニコしながら入ってきた。
「お二人とも驚いたようね。無理も無いわ。私も最初はそうでしたから。でも大丈夫よ、あちらの世界を知ったというだけであとは何にも変わらないから。」
「マユミさんは私たちがここに入院しているのを知っていたのですか?」ハナコが聞いた。
「いいえ。ただあなたたちが倒れたのが新宿と聞いていましたのでひょっとしてここかなとは思っていました。」
「それじゃぁここでお会いしたのは奇跡ですね。」とユカリが言った。
「そうね、奇跡かもしれない。」と言ってマユミは笑った。二人もようやく気が和んできた。
「またこちらでお会いしたいので、よろしかったらお二人の携帯番号を教えていただけないかしら?」
 二人はそれぞれの携帯番号をマユミに教えてからそれぞれにたしかめるようにマユミから掛けてもらった。
「それじゃぁまたお会いしましょうね。」と言ってマユミは出て行った。
 その日の最後に問診があった。問診は二十分ほどそれぞれかかった。倒れた日の倒れるまでの行動と倒れるときの状況を話した。ふたりはあちらの世界に行ったことは何も言わなかった。午後の三時に再び二人は診察室に呼ばれた。ハナコは若干赤血球が少ないが正常値内なので気にすることはないでしょうと言われた。ユカリは心臓の弁が通常より小さく、余り興奮状態を長くすることは避けるように言われたが、普段の生活に支障はないでしょう、とのことであった。
(十三)
 赤ヒレはあちらの世界のことを考えていた。何故あの世界が存在するのか。あれは本当に死後の世界なのか。死後の世界だとしてどうして死んでもいない自分とかマユミが行けたのか。質感はあるのに何故軽く感じるのか。一番の疑問はあの世界は眠らなくてよいということだ。何故眠らなくてよいのか。村長がこれらの疑問に答えるのに、誰か適任な人を探しておきましょうとメモしていたことを赤ヒレは思い出した。
 赤ヒレはマユミに連絡をした。ほどなくマユミが来た。
「お呼びでしょうか?」
「すまん。仕事じゃないんだ。明日か明後日、君の都合のいい日でいいのだが夕飯でもどうかと思って。」
「うれしい。このまえお断りしたからもう誘ってもらえないかなと思ってました。私
は明日でも明後日でも結構です。」
「そうか。それじゃ明日の七時にここへ来てもらおうか。ところで食べたいものはあ
る?何でもいいよ。」
「最近お肉を食べてないからしゃぶしゃぶがいいな。」マユミはうれしそうに言った。赤ヒレは手帳を取り出し、行きつけの店から適当な店を選び出し電話をかけた。
「山田です。明日七時半過ぎに二人予約を頼みます。席は出来れば奥の部屋がいい。たのみます。」と言ってマユミのほうを見て頷いた。

 店は赤坂にあった。タクシーを降りて七八分歩いたところに赤坂亭という暖簾がかかった店に入った。案内された部屋は一番奥の四人部屋であった。赤ヒレとマユミは向かい合って座った。しゃぶしゃぶを注文したあとビールで乾杯した。
「彼女たちは元気でしたか?」赤ヒレが口火をきった。
「ええ、とっても。あの子たち、単なるお友達以上に仲がいいわ。少し羨ましいけど、心配なところもある。」マユミは真顔で言った。
「どういうとこが?」
「すんなり男の子を好きになれないんじゃないかしら。」
「ほう、レスビアンということ?」
「そうではなくてなんて言ったらいいのか分からないけど、何かこれから悩むことになりそうな気がする。」
「まあ仮にレスビアンとしてそれが悪いということはないから、もしそうだとしてもいいんじゃないの。」
「問題なければいいんだけれど、やはり男の子が絡んでくるとああいう付き合い方をしていると大変な気がする。」
「君はあの二人が好きなのかい?」
「ええ、勿論お友達として。純粋でかわいらしいのよ。」
「たしかに美人だ。」
「私は同姓だからスタイルがいいとか美人だとかは評価の基準にならないのだけれど、性格がとにかくかわいいのよ。物事を見たまま素直に信じると言ったらいいのかしら、ひねたところがないの。多分育ちがいいのね。」
「そうか、しかしわれわれは職業柄そうはいかないね。」赤ヒレは笑って言った。
 しゃぶしゃぶが運ばれてきたので、二人は用意が出来るまでの間黙って見ていた。
店員は用意をしたあと、一通りの説明をして下がって行った。
「マユミさんと彼女等の接点は?」
「私がインターンをしているときだから、二年前彼女等が医大に入院していたの。そのとき初めて彼女等があちらの世界に来たわけ。彼女等を伯爺さんに紹介したのが始まりね。もう二年も前になるんだ、時の過ぎるのが早いわ。」
「ところでマユミさんにお願いがあるのですが、今度の三連休にあちらに行きたいと思っているのだがどうかなご都合は。」
「あちらでデートか、よろこんでお供しますわ。」
「ありがとう。この前行ったとき村長さんにお願いしていた人に会えたらと思ってね。」
(十五)
 赤ヒレとマユミはユカリを連れてあの世へ行った。暗いトンネルを抜けると徐々に
明るくなりストーンという感じで小高い丘に着いた。赤ヒレはマユミに「また君に乗って行くのかと思っていたが直接に着いたね。」と言った。
「私の馬に乗りたかったかしら。」マユミはふざけるように言った。
「そういうわけじゃないが。」と言って赤ヒレは少々赤くなった。
「こちらの場所の移動は難しいけどあちらからこちらに来るのは簡単よ。ねえユカリさん」
「そうね、眼を瞑ってこちらの世界を想うだけで来れますものね。」
「あれ、今気づいたけどハナコさんは?」
「お仕事が入ったらしいの。ユカリさんはそれで私たちとここへ来たというわけ。」
「そうですか。僕は村長さんのところへ用事がありますのでお付き合いできませんがごめんなさい。」
「いいえ、それはマユミさんから聞いていましたので私にはどうぞお構いなく。」
 小高い丘を降りてしばらくすると村長の家に行く道と別荘へ行く道と二股に道が分かれていた。
「それじゃ僕は村長さんのところへ行きますのでここで。」と言って赤ヒレは二人と別れた。
 
 マユミとユカリは別荘に向かって歩いていたが、ユカリが突然、
「マユミさん私寂しいの。何か分からないのだけれど。」と言い出した。今にも泣き出しそうな顔をしている。マユミは以前赤ヒレに彼女等が心配だと言ったことが脳裏をかすめた。しかしそのことは敢えて言わずに
「どうしたの何かあったの?」と聞いた。
「自分でもよく分からないのだけれど、何か心が空っぽになったみたいな気持ちなの。こんな気持ちになったの初めてでどうしたらいいのか分からなくなってしまたの。」
「そのことはハナコさんにお話したの?」
「いいえ。ハナちゃんは仕事が面白そうで生き生きしているので、こんなお話ししたら
邪魔するみたいで出来ない。」
「ユカリさん、あなたが寂しく思う気持ちはなんとなくわかるような気がするの。私も以前味わったことがあるの。とっても仲がいいお友達がいたの。小学から中学までいつもその人となにをやるのも一緒だったわ。ところが、高校は同じところに入ったのだけれど、進学校なものだから特急クラスとそうでないクラスに分かれてしまったの。私はなにも変わらずにいたのだけれど、その子は特急クラスに入れなかったことにコンプレックスを持って徐々に私から遠ざかってしまったの。顔をあわせると下を向いて黙って通りすぎてしまうことが何度もあったの。あるとき思い切って声をかけたの。そうしたら黙って逃げるように駆けていってしまった。私はその場で声を上げて泣いたわ。その子は自分にとってかけがえのない親友だったし、その子がいることが自分にとって生きてる意味を確認できる存在だったの。うれしいときも悲しいときもその子に話をすることでその感情を確認していた。それが高校に入って突然変わってしまった。心にポッカリと穴が開いたみたいになって夜になるとずっと泣いていたわ。そのとき思ったの。自分はこうして泣いているけど彼女はもっと悲しんでいるじゃないかしらって。そう考えたら悲しみが幾分和らいだのだけれど悲しみがなくなることはなかった。本当につらかった。」 
「私も幼い頃からずっとハナちゃんとなにをするのも一緒だった。東京へ出てきてだんだんと一緒にいる時間が少なくなってきて不安だったのだけれど、最近特にすれ違いが多くなってきたの。以前だったら3連休の真ん中にお仕事がかかってもまず私に聞いてからお返事をしたと思うのだけれどなんのお話もなく決めてた。勿論それが悪いとは思ってないけれど以前だったら一言相談あったと思うの。なにかハナちゃんが変わってしまったみたいで。」ユカリはそう言いながら涙を流していた。
「私と同じね。あの頃のことを思い出すと今でも寂しい気持ちになるわ。ユカリさんもご両親やご兄弟がいらっしゃると思うけど彼らは空気みたいな存在でその時には寂しさを癒すことは出来なかった。きっとこのことは彼等の存在とは別のことなのね。」
「そう思います。」
「私ね半年くらいしてから思ったんだけれど恋愛ってこれに似ているんじゃないかなって。高校に入って自分の中に確実に違ってきたのが男の子にたいする気持ち。中学の時に徐々に芽生えてきたものがパッと花が咲いたみたいに明確に女とは違う生き物がいるんだって。私達って好きな女の子がいたから普通の子より男の子を思う気持ちが表面に出るのが遅くなっていたんだと思うの。生理的には男の子を求めていても精神的に満足していたものだからその気持ちが抑えられていた。ある意味では自然なことなのよ。私は大学に入ってから自然体で男の子と付き合うようになったわ」
「男の子かぁ。」と言ってユカリはハナコのことを思ってみた。自分と接しているときはほとんど男の話はでたことはない。先般冗談で山崎の話がでたがそれは自分が言い出したからであった。しかし、よく考えてみるとハナコが生き生きとしてるのは単に仕事がおもしろいからばかりではなさそうに思えてきた。ハナコの心の中に何か変化が起きつつあるように思える。ユカリはそのことに気づいていたがどうすることも出来ずだだ自分だけが置いてきぼりにされているような気持ちになっていたのである。
「ユカリさん、今は仕方ないのよ。さみしいでしょうが誰もが通る道なのよ。あなたの場合、普通の人より悲しみの度合いがきついのが辛いけど、時が解決するわ、きっと。私がそうであったように。」
「わかりました。マユミさんの話を聞いて少し気持ちが楽になりました。」ユカリは微笑んだ。二人はきれいな花々が咲いている小道を通り松林の中を過ぎてまもなく二人の部屋のある棟に着いた。
(十六)
 赤ヒレが村長の家に行くとすでに村長がメモをしたと思われる人が来ていた。彼の名はアインスタインと言った。赤ヒレは思わず、
「アインシュタインさんですか。」と驚いて言った。
「いいえ、アインスタインです。よく間違えられますが彼は偉大な物理学者ですが私はしがない学者です。こちらで物理を研究しています。」
年のころは五十歳過ぎに見えた。額は禿げ上がり髪は白髪が多くなっていて少し伸ばしていた。いかにも学者然とした風貌であった。おそらく彼はこのスタイルが好みなのだろう。 
やがて部屋中になんともいえないコーヒーのいい香りが広がってきた。村長の奥さんがコーヒーを運んできた。赤ヒレは先般来たとき飲んだコーヒーを思い出した。これまでに飲んだことのないものであった。砂糖とミルクはコーヒーカップの脇に置かれていたが、赤ヒレはブラックで飲んだ。口の中に仄かな苦味がサーと広がり香りが鼻腔に充満した。次の瞬間その苦味の中からほんのりとした甘味が感じられる。すべてがまろやかなのである。赤ヒレはほんのひと時この至福の時間の中にいた。突然、村長の声が聞こえた。
「アインスタインさん、先ほどもお話いましたが赤ヒレさんがこちらの世界についていろいろとお聞きしたいと言っております。どうも私では上手く説明出来ませんので先生にご足労願ったしだいです。」
「恐れ入ります。私の専門は精神科ですがどうもこちらの世界はすべてがそのことに関連があるように思いまして。」
「その直感は大方正しいでしょう。私はこう定義してます。こちらの世界は精神界、そしてあなた方がいる世界は物質界です。」
「なるほど。ただ少しばかり厄介なのが物質界にも精神があることです。そしてその精神が物質を纏っていることです。」
「確かに精神が物質を纏っていることは厄介なことでしょう。本来精神が物質界にあること自体ややっこしい。物質界は何億年もの間精神は存在しなかった。それが突然精神界と同通出来るようになった。しかし本源的には精神は物質界には存在出来ないものでしょう。したがって物質が精神を纏うのを止めたときには精神はこちらに戻らざるを得ない。それが貴方達の言う死です。それとこれはきわめて重要なことですが、精神の存在は本来精神界にありますので物質界ではエネルギー補給が出来ないのです。」
「ええ!それはどういうことですか?」赤ヒレは驚いた。
「動物の肉体にしても植物の身にしてもエネルギーは物質界のものから得ています。しかし精神のエネルギー源だけは物質界には存在しないのです。だから物質界の生き物は動物であろうと植物であろうと時間の長短はあれすべて眠るという現象が必要なのです。眠っている間にその精神は精神界に戻りエネルギーを補給してから再び物質界に戻るのです。」
「そうか、それでこちらでは眠る必要がない。眠らなくてもエネルギーの補給は出来るということですね。」
「そのとうりです。」
「しかし、そうすると一日二十四時間として我々人間は通常六、七時間は眠りますがその間こちらに来ているわけですね。何故こちらに来ている記憶がないのでしょうか?」
「実はこれにはこちらでもさまざまな説があります。私の考えではそれは記憶の再生の仕組みにあるのではないかと思っています。記憶というのは精神の働きの中で最も精密なものです。おそらく物質界での出来事を記憶する部位と精神界での出来事を記憶する部位が異なっているからではないかと思っています。あるいは記憶の部位と言うよりは再生の部位が異なっていると言ったほうが正確かもしれません。異なっているというのも正確な表現ではないな。異なってきたと言ったほうがより正確かもしれない。というのは人間が最初に地球に誕生してしばらくは精神界に来たことを再生出来ていた形跡があるのです。徐々にそれが出来なくなってきた。そして今ではほとんど出来なくなってしまった。その理由は定かではありませんが、ひとつには使わなくなったことによる一種の退化に似ているのかもしれません。人間の文明の発展に関係しているようにも思えますがこれはまだ私らのレベルでは分かっておりません。ところで、赤ヒレさんもこうしてわざわざここにき来ていることについては記憶を再生出来ますが眠っているときのことは今でも再生は出来てないのではありませんか?」
「そうですね出来ませんね。ただ、そのことと関係があるのかどうか分からないのですが、夢を見ることはあります。われわれはそれは深層心理が生み出す脳の幻想と捉えていますがどうでしょうか?」
「其の点になると私も詳しくは分からないのですが、夢を見る時の状態は眠りが浅い時でしょう。つまり起きていても眼を瞑ってさまざまなことを空想することが出来ますが、夢を見るというのはそのことと本質的には変わらないことではないでしょうか。つまりおっしゃるように脳の幻想、空想ではないかと思いますが、まれにこちらの世界の再生もあるかもしれません。」
 赤ヒレは記憶の再生ということを聞かされ、精神には構造があることを示唆されたことに新鮮な驚きを禁じえなかった。今こうしてこちらの世界に来てみると、認識できるものはすべて物質界と変わらないにも拘らず、明らかにそれは物質ではないのである。それは取りも直さず精神には構造があることの証しなのかもしれないと思った。
「赤ヒレさん、今私が研究していることについてお話いてもよろしいでしょうか?」
アインスタインはコーヒーを一口飲んでから言った。
「ぜひお聞かせください。」
「それはこちらの世界の構造です。我々が今ここにいる以外にも精神界にはいろいろな居場所があります。その居場所には居場所特有の制約があるのです。その制約の研究です。」
「居場所ですか。居場所の多様性ですか。」
「そうです。あなたたちが居る物質界には基本的には居場所の制約はありませんがこちらはそれがあるのです。あなたたちの世界にはさまざまな人々が混在していますが精神界はそうではありません。居場所、居場所に存在するための制約がある世界だということです。研究課題はその制約がどういうものか、あるいは逆の言い方をするとそれがどうして居場所を作り出しているかということです。制約そのものの分析は困難を極めますが、しかしなかなか奥が深くやりがいのある仕事です。」と言って、アインスタインはいかにも満足気に微笑んだ。
「私は精神科の医者をやっているのですが、その居場所の多様性と精神的に病んでいる人たちの居場所とはなんらかの関係があるのでしょうか?」
「それは私には分からない。精神的に病んでいるからといって誰もが同じ居場所に居るわけではないからね。要するに悩みの質というか根本がどうなのかが問題なのだと思う。」
「質ですか・・・いったん居場所が決まるとずっとそこに居ることになるのでしょうか?居場所の変化はどうでしょう、あるのでしょうか?あるとして頻繁なものなのですか?」
「それも人によりますが制約の少ないところに居る人たちは比較的同じところに長くおります。まあ要するに単純な人たちということかな。傾向的には制約が多くなるにつれ変化する頻度は多くなるようです。勿論例外はあります。極端な例ですが制約が多い処に居た人があなたたちの世界からこちらに戻ってきたらほとんど制約のない処に変わってしまったこともあります。早晩元に戻るでしょうが、そういう意味では厳しい制約が存在するのです。」
「私たちの世界は、こちらからいろんな居場所から来た人たちがごっちゃになって居るわけですが、その人たちの居場所というものは接するとすぐ判かるのもなのですか?」
「しっかりと観察すれば大雑把には判かるはずですが、ただ難しいのはそちらの世界の価値観とこちらのそれはかならずしも同じではないということと、これが極めて重要なことなのですが、そちらの世界にいると誰でも心が揺れ動いているということです。こちらに居ても心は揺れてはいるのですが揺れ方が比較にならない。それはそちらの世界は精神の本来の居場所ではないからです。精神が付属した物質つまり肉体ですが、これに影響されるし、またまわりの環境にも影響される、こちらから見ると極めて困難な世界ともいえそうです。」
 赤ヒレはアインスタインの話を聞いてまたひとつ研究課題が出来たなと思った (十七)
 ハナコはユカリがあちらの世界に行ってしまったことに少しばかり寂しい思いをしていたが、仕事のあと山崎と夕食をすると決めてからは気持ちがそちらのほうにいっていた。仕事は雑誌社の表紙の写真をとるというものであった。何着か着替えて撮ったが二時間ほどで終わった。山崎はあらかじめ店の予約をとっておりタクシーを待たせていた。ハナコがスタジオから出てくると、「お疲れ様。」とボソッと言って待たせていたタクシーへ誘導した。ハナコは緊張していたがそれを覚られないように敢えて明るく振舞った。
「お待たせしました。今日は何をご馳走していただけるのかしら?」
「六本木にうまい寿司屋があります。お寿司はいかがですか?」
「大好きです。」とハナコはうれしそうに言った。山崎は相変わらず無口であった。
ハナコは黙っているのが息苦しくなって「山崎さんはそこへはよく行かれるのですか?」と聞いてみた。
「ときどき。」ボソッと言ったきり黙ってしまう。ハナコはあきれて、こんな面白くない人とデートをしている自分がいやになった。ユカリといたほうがよかった、と思いながらタクシーに乗っていると、六本木の交差点を乃木坂方面に曲がってしばらくして止まった。大通りから外れて細い道に入って五分ほど歩ったところにその店はあった。寿司妙高という暖簾がかかっていた。店に入ると「いらしゃい。」という威勢のいい声がした。L字型のカウンターの中に年のころ四十歳位の愛想のよさそうな職人がいた。カウンターだけの狭い店であった。まだ客はいなかった。山崎はハナコを一番奥の椅子に座るよう促した。店の大将がハナコを見て「モデルさんですか?」
と山崎に聞いた。山崎は黙って頷いた。若い職人がお茶を運んできた。
「取り敢えずビールにしますか。」と言ってハナコの方を見た。ハナコは黙って頷いた。
「なにか銘柄はありますか?」「いいえ。」
「それじゃ、キリンで。」と山崎は大将に言った。
 乾杯をして一口飲んでハナコは「おいしい」と言った。九月の半ばであったがまだ昼は暑かった。山崎はコップに注がれたビールをいっきに飲み干した。ハナコがそのコップにビールを注ごうとして手に持とうとすると、山崎は「自分で。」と言って自ら注いだ。注ぎながら「何か嫌いなものはありますか?」と聞いてきた。ハナコは
「なんにも。」と言うと山崎は「いつものアテを頼みます。」と大将に言った。しばらくぎくしゃくとした会話が続いたが、
「ここのお店の名前が妙高ということはご主人は新潟ですか?」とハナコが聞いた。
「ええ。山崎さんと同郷です。しかも実家は同じ町です。」と返ってきた。ハナコは山崎が新潟出身であることをはじめて知った。
「ええ!そうなんですか。驚いた。」と言って山崎を見た。山崎は涼しい顔をしていたが、酒が入ったせいかいつもの無愛想な顔ではなく和やかな顔をしていた。ハナコはこの人はきっといい人なんだと思った。そう思うと気が楽になってきた。
「山崎さんは自分のことをほとんどお話にならないのではじめて聞きました。もう初めてお会いしてから二年もなるのに。」
「ええ?二年もお付き合いしているのですか。それにしてはうちに来るのはなじめてですね」 大将は意外な顔をして言った。
「ごめんなさい。言い方がおかしかったかしら。お仕事で最初にお会いしてから二年ということです。こうして誘っていただいたのは今日がはじめてなの。」
「ああ、そういうことですか。それにしてもおかしな人ですよね。あまり余計なことはしゃべらない。」
「ほんと、こちらが気を遣いますわ。」と言って山崎を見た。山崎はにこにこ笑っていたが相変わらず黙っていた。ハナコは山崎が笑っている姿をあまり見たことがないので黙っていても機嫌はいいのだなと思った。
「この人は自分のことをお話ししないのでご主人に聞いちゃおっと。」ハナコは茶目っ気たっぷりに言った。
「まず、質問その一。独身とは聞いているのですが本当ですか?」
「間違いなく独身です。彼のマンションに行ったことがありますから間違いないです。隣に妹さんもおりますし。」
「ええ!妹さんがいらしゃったんですか?」
「はい。彼は東大で頭がいいのですが妹さんもお医者さんで私たちの田舎では秀才一家で有名です。」
「山崎さん、東大なんですか。びっくりした」
「文三で中退ですよ。」山崎はぼそっと言った。
「まあ変わり者といっちゃ失礼なんですが私から言わせりゃ頭が良すぎるんでしょうね。小説を書いてるようですよ。この前雑誌に載っていましたよ。読ましていただきました。」
「驚きの連続ですわ。」ハナコは心底驚いた。山崎が東大中退で小説を書いてるとは思いもしなかった。
「そうか、本当になにも知らないようですね」と言って大将はさらに妹のことを言おうとしたとき、
「大将、モォいいよ。」と山崎がさえぎった。
「山崎さんの妹さんの話、聞きたい。」ハナコは楽しくなってきて大将に話しを続けるよう促した。
「東京女子医大を出てたしか今は東大病院に勤務していると聞いてます。マユミさんとおしゃるかたでいいかたです。」
 ハナコはそれを聞いたときどこかで聞いた名前だなと思ったが、まさかあのマユミとは思いもよらなかった。大将がそこまで言ったとき山崎が話し出した。
「あいつは中学一年のとき交通事故に遭ってね、それ以来変な病気に罹るようになった。ときどき死んだみたいに眠るんだ。ひどいときには三日も眠り続けるときがある。それで一人じゃ置いとけないということで僕が隣にいるんだが、心配でね。」
 それを聞いてハナコは腰を抜かさんばかりに驚いた。間違いなくあのマユミさんだ。マユミさんが山崎さんの妹とは。驚きのあまり気を失いそうになった。
「あっ、大丈夫ですか?」ハナコが一瞬ふらふらっとなったのを見て大将が声をかけた。山崎は驚いて、
「どうしました。気分でも悪いのですか?」と言った。
「いいえ、大丈夫です。ちょっと驚いたものですから。実は私たちマユミさんとお友達なの。」
「ええ、本当ですか!」今度は山崎が驚きの声を上げた。
「どうして妹を知っているのですか?」
「お目にかかったのは二年ほど前、ああそうそう、オーデションを受けたあと私たち貧血を起こして入院したの。マユミさんとそこでお会いしたの。東京へ出てきてからは月に一度は三人で夕食をとっているわ。それにしてもマユミさんが山崎さんの妹さんとはおどろいた。」
「奇遇だなあ、妹を知ってるなんて。」山崎は感慨深げに言った。
 大将は大喜びであった。「なにかの縁ですね、これは。とにかく目出度いことだ。改めて乾杯しましょう。」と言って、ビールを開け三人で乾杯をした。 (十八)
 マユミとユカリはマユミの部屋でさきほどの話の続きをしていた。
「失礼なことをお聞きしてよろしいかしら。」ユカリが言った。
「なにかしら。」
「マユミさんは恋人はいらっしゃるのかしら。私とハナちゃんで赤ヒレさんじゃないなんていつも話しをしているのだけれど。」
「赤ヒレさんは私のことは単なる部下としてしか考えていないわ。そうねえ、大学三年のとき付き合った子がいたわ。二年ほどで別れた。」
「何かあったのですか?」
「私の兄のお友達だったんだけど、二人があるとき口論になったの。文学論を戦わしているうち喧嘩みたいになって。そのときの彼の様子を見ていて、なにか幻滅しちゃったの。私は公平に見ていたつもりだったんだけれど、兄に言い負かされて焼けになったんでしょうが、その態度が酷く小さく見えたの。それから上手くいかなくなって結局別れたわ。」
「マユミさん、お兄さんがいらっしゃるの?いいなあ。私は一人っ子だからお兄さんがいるなんて羨ましい。」
「変わり者よ。大学は中退するし、無口だから自分のことは一切言わないからなにをしているかも分からないの。ただこの前よく兄に連れて行ってもらうお寿司屋さんが言っていたのだけれど、小説を書いたりしているみたい。」
「まあ、小説家か。素敵ね。」
「まだ小説家とは言えないんじゃない。たまたまこの前入選したようだけど。」
「今度紹介して。もし彼に恋人がいなければだけど。」
「いないとは思うけど、なにせ無口いってんばりの変わり者だから止めておいたほうがいいわ。紹介する私が自信がないわ。」
「わたし男の子と付き合うの、とっても不安なの。ずっとハナちゃんとばかりいたから、何を話していいか分からない。」
「ユカリさんはモデルをされてるから男の人にもてるわよ。スタイルはいいし美人だし私なんか足元にも及ばないわ。」
「そんなことはないわ。マユミさんは知的だし私たちの憧れの人よ。そうね、私も今考えるとチャンスはあったのよ。大学生のとき合コンによく誘われた。でも当時はハナちゃんと遊んでるほうが気が楽で楽しかった。」
「これからよ。いろんな人を知ることね。私もあまり偉そうなことは言えないけどお付き合い程度だったら何人か知ってるわ。」
「そうか。私もそろそろハナちゃん離れしなくちゃいけないのかな。なんか寂しいなあ。」
「一種の親離れ子離れみたいなものよ。前にも言ったけど誰もが何らかの形でそうした経験をすることだし、時が解決するわ。」
 二人がそうこうしていると赤ヒレが帰ってきた。
「やあやあ話が弾んでいるようだね。」と言って二人の前に座った。
「いかがでした。お仕事は?」とマユミが聞いた。
「仕事ではなかったんだがいろいろ面白い話を聞いてきた。」赤ヒレは機嫌がよさそうであった。
 マユミとユカリは赤ヒレの満足気な様子を見て自分たちの世界と赤ヒレの世界が違うこと、それが男と女の違いそのものではないかと思った。女が男に惹かれるのはやはり住んでる世界が違うからかもしれない。特にマユミは赤ヒレと同じ仕事をしていて興味の持つところの違いを実感していた。ユカリは赤ひれのそうした様子を見ていて、赤ヒレが自分の中に仄かに入り込んで来ていることを感じていた
(十九) 
 山崎とハナコは妙高を出て近くにあるショットバーにいた。ハナコは少しばかり酔って来て口が軽くなっていた。
「山崎さん、恋人はいるの?」
「いない。」
「本当?意外にプレイボーイだったりして。」
 山崎はそれには答えずニコニコしていた。そして突然、
「今月いっぱいで会社を辞めることにした。」とボソッと言った。
「ええ!辞めちゃうのですか。ショック!どうしてですか?なにかあったのですか?」
「特に会社に何かがあったわけじゃなくもうすぐ三十歳になるし、書き物に専念しようかなと思ってね。」山崎は真顔で言った。ハナコはそれを聞いて今までの楽しげな気持ちが急に萎み何ともいえない寂しさが襲ってきた。 
 しばらく沈黙していたが、
「ハナコさんはお付き合いをしてる人はいるの?」と山崎が聞いた。
 ハナコは黙って首を振った。次の瞬間ハナコは山崎から意外な言葉を聞いた。
「僕と付き合ってくれないかな。」
 一瞬ハナコは山崎が言ってる事が理解できなかった。山崎がそのようなことを言うとは思いもよらなかったからである。そして言ってる意味が分かって、顔がぱっと赤くなった。直ぐには言葉が出ず黙っていた。
「今すぐ返事をしなくてもいい。僕が辞めるまでに考えておいて。」と山崎は言って話題を変えた。
「たしかハナコさんはユカリさんと一緒のマンションに住んでるのでしたよね。どのあたりですか?」
「私たちマユミさんを頼りに東京へ出てきたものだからマユミさんの近くです。あっ、そうか、だから山崎さんの近くです。本郷の菊坂です。」
「そりゃ近い。僕らは上野だから歩っても行けそうだな。」
「私たちお付き合いをしたらマユミさんに叱られそう。」
「マユミが怒るわけないよ。あいつは自分が誰と付き合おうと僕に言った事はないし、そういうことはお互いに干渉しないことになっているんだ。」
「ひとつだけ質問していいかしら?」
「どうぞ。ひとつといわず何回でもいいですよ。」
「山崎さんとは最初にお会いしてから二年近くになるけどいままで一度も誘われたことがなかったわ。どうしてかしら?」
「ひとつには君は大学生であったこと、社会人になってからその制約はとれたが会社での僕の立場があり、立場を利用するようでいやだった。こんど辞めることにしたのでその制約もなくなるのでお誘いした。」山崎は説明文でも読むように話した。ハナコはテレ隠しでそのような口調になっていることを知り思わず吹き出した。山崎も自笑した。
「私、最初にお会いしたときは怖い人かなと思ってました。それから何回かお会いして、正直に申し上げて、なんて愛想のない人なんでしょう、もう少しお話をしてもよろしいのにと。つい先ほどまでそう思ってました。」
「僕は口下手だからね。話がつい堅っくるしくなるし自分でもおもしろくない奴だなと思ってまーす。」山崎は少しおどけて言った。 「でも本当はそんなことないんだ。見直しちゃった。」ハナコはうれしそうに言った。
「でも私が山崎さんとお付き合いするって言ったらユカリがなんて言うかな。少し心
配だな。」
「ユカリさんはお付き合いしている人はいないの?」
「わたしと一緒、だれもいない。」
「信じられない感じだな、理想が高すぎるのかな?」
「理想なんて言えるものは二人ともないわ。大学は女子大だったし合コンには一度も行かないで二人で車に乗って遊んでた。楽しかったなあの頃は。」
 ハナコは当時を思い出していた。眼の前のことが楽しく先のことなど考えもしなかった。男の子が自分たちを見ることには慣れてしまっていて、敢て付き合おうとは思わなかった。
「そうか、じゃずっとユカリさんと一緒だったんだ。」
「そうなの。私たち姉妹以上だったの。」
 ハナコは思わず姉妹以上だったと過去形で言ったことに自分で驚いた。社会人になり、仕事の時間のズレから二人での行動がすくなくなってきて、最近はお互いに心が離れていくような寂しさを感じていた。
「時間も遅くなったし、ユカリさんが心配するでしょうから帰りますか。同じ方向だし送ります。いい返事を待ってます。」と言って伝票をもって会計のほうへ歩いていった。ハナコはいい返事も悪い返事もないもう決まっているのにと思った。
(二十)
 赤ヒレは自分の研究室に戻りあの世の研究課題の整理に取り掛かった。最大の課題は居場所を決定する制約の問題である。次に物質と精神の本質的違いについてである。このことは精神世界にいて物質が無いにも拘らずあたかも物質があるがごときに感じることと関係していると赤ヒレは考えていた。あちらに行くと身体は軽やかになる。しかし手もあり足もありでこちらの世界となんら変わらない、質感まで一緒なのである。木々や花々ばかりではなく海や山もあらゆるものがこの世のものと変わらない。ただ全般的に雰囲気が圧倒的に明るいのである。ここに何時間か居るだけで精神はすこぶるリラックスする。 これらの課題をこれからあちらとこちらの事象から研究することにした。
 取り敢えずこちらの世界からはじめようと思った。今自分が抱えている患者の分析がひとつの取っ掛かりになると思った。しかし、この研究にはどうしても限界がある。ことは初めから分かっていた。アインスタインの協力がなければ実証というものが出来ない。幸い彼はかなりの部分で同じようなことを研究していた。二人三脚だなと赤ヒレは思った。ここまで考えて、ふと松原正平が思い出された。松原は大学の時の友人で物理を専攻していた。研究室に残ったはずであった。赤ヒレは同窓会名簿を取り出し探してみた。理科一類の項を捲ると松原正平、確かにあった。しかし大学の研究室ではなく(財団法人)地球物理学研究会に所属してた。彼とは院をでてから会っていない。学生の頃は二人でよく喫茶店で議論を交わしたものであった。二人とも議論好きであらゆる事が議論の対象になった。あるとき神の存在について議
論したこともあった。彼らの議論の仕方は一風変わっていてまず議論のテーマを決める。次にどち
らの立場かを決める時にサイコロを使うのである。つまり、神が存在する立場を取るか存在しない立場を取るかをサイコロで決めるのである。丁なら存在する半なら存在しない立場で議論すると決めておくのである。どちらも論がたつのでなかなか決着はつかない。もっとも最初から決着をつけようなどとは思っていない。ようするに単なるゲ―ムだと思っているのである。長いときには一時間以上もしたことがあった。 「山田というものですが松原さんをおねがいします。」
「少々お待ちください」と女子職員が言って、電話から「松原さんお電話です」という声が聞こえたあと、
「やあ久しぶり。」と言って松原は直ぐに出た。
「元気にしてる?」
「元気、元気。君は?」
「まあまあそこそこやっているよ。久しぶりに会わないか?」
「いいねえ。僕はいつでもいいよ。」
「それじゃ明日七時、新橋駅の汽車のある方の改札口でどうかな?」
「わかった。」
 翌日松原は約束の時間より五分ほど早く来た。二人は赤ヒレが予約していた店に入った。
「マドンナとは上手くやってる?」赤ヒレはビールで乾杯したあといきなり聞いた。
 マドンナとは学生時代多くの男子生徒が憧れた衣笠裕子のことである。多くのライバルを尻目に松原は彼女を勝ち取り結婚してしまったのであった。
「まあね。」と松原は浮かぬ顔で言った。当然上手くやっていると思って聞いた赤ヒレは松原が浮かぬ顔をしているのを見てまずいことを聞いたかと思い話を変えた。
「今日君に会いたいと思ったのは、君が専門にしている地球物理とは少しずれるかもしれないが、物理的視点での話を聞きたいと思ったからなんだ。」
「赤ヒレはたしか精神科だったよね。それがどうして物理なんかに興味を持ったの?」
「実は現実離れしたことで気でも触れたかと思われるかもしれないが、あの世の存在のことなんだ。」
「ふうん。おもしろいじゃないか。それで君はあの世は存在するといいたい?」
「そう。でもいきなりそこに話が行くのではなく, まず宇宙とか地球の誕生とかについて君に講義をしてほしいんだ。」
「宇宙の誕生か。専門ではないが今言われている説はビッグバンと特異点説に分かれているね。そうそうそれで思い出したんだがある雑誌社から肩のこらないおもしろいことを書いてもらえないかという依頼が来ているんだ。それでいま書きかけのものが君のいうあの世に関するものなんだ。それを君に送るよ。まあ科学者としてはちょっと気の引けるものなんだが、おもしろい物を書けと言うんで仮説として書いているものがある。短いものなんで今週中には書き終えるから雑誌社に出す前に君に送るわ。だから今日は難しい話はよそう。久しぶりに会ったし、昔話でもしよう。」
「それはありがたい。楽しみにしてるよ。」以前と変わらない松原の様子に、赤ヒレは会ってよかったと思った。
(二十一)
 ユカリはハナコからマユミが山崎の妹であること、そして山崎からお付き合いの誘いを受けたことを聞かされショックを受けた。顔には出すまいとすればするほど顔が引きつってくるのを感じていた。心構えは出来ていたつもりであった。しかし心のどこかでまだハナコは自分との付き合いを優先してくれるであろうと思っていた。ユカリは精一杯自分を殺して言った。
「ハナちゃん、よかったね。山崎さんきっと良い人よ。」
「あの人、今月一杯で会社辞めるんだって。」
「ええ!本当に?どうして?」
「私も驚いたのだけれど、あの人小説を書いてるらしいの。それで書くほうに専念したいって言って言ってたわ。」
 ユカリはハナコの口調から山崎とは付き合いの約束が出来ていると思った。ハナコはどこかうれしそうであった。

ユカリは一人になり、心にぽっかりと穴が開いてしまたことを実感していた。実家に帰ることも考えた。しかし実家に帰ってこの寂しさが癒えるとは思えなかった。むしろハナコとの思い出が一杯あるところへ戻ることは一層悲しみがますような気がした。やりきれなさがユカリを容赦なく波のように繰り返し繰り返し襲ってきた。今日は山崎の送別会である。欠席したい。しかし、ユカリにはまだかろうじて自分をあからさまに人に見せることへの躊躇いがあった。明るく振舞おうと心に決めて会場に向かった。 
送別会はユカリたちがオーデションを受けたホテルの一室で行なわれた。雑誌社の人たちが大勢来ていた。パーティはカクテルであった。一通り乾杯の用意が出来たところで乾杯をすませたあと社長の挨拶が始まった。
「本日はお忙しいなか山崎の送別の会にお集まりいただき誠にありがとうございます。」ありきたりの挨拶が続き、最後に「山崎は弊社を辞めましてもライターとしてこれからも力になってもらう所存であります。どうか皆様におかれましてもこれまで以上に山崎をよろしくお願いいたします。」と締めくくった。それから雑誌社の人が数人挨拶に登った。宴会場は次第にざわつきだした。やがて各人挨拶まわりが始まった
やがて宴会がピークに達してきたとき、手持ちぶたそうに立っていたユカリのところに川口が来た。
「下のロビーにいきませんか?よければ僕が先に行ってます。」
川口はそっと会場を抜け出し下のロビーへ降りていった。ユカリは自分でもふらついているのがわかった。川口はロビーの椅子に腰をかけてタバコを吸っていた。川口はユカリを見て吸っていたタバコを消して立ち上がった。川口の背は180センチ近くあり立ち上がると見上げる感じであった。川口はさらりと「外にでますか。」と言った。ユカリは酔っていたこともありだもって頷いた。
二人はホテルを出てしばらく新宿駅の方向へ歩き出した。「少し酔っちゃったみたい、歩くの辛いわ。どこか喫茶店でもないかしら。」ユカリが言った。「喫茶店もいいけどホテルで休んだら。」川口は再びさらりと言った。ユカリは一瞬驚いたが川口がさらり言ったことに自然と頷いていた 
タクシーに乗りホテルの前で降りたときにはユカリはかなり酔いが回っていた。川口はユカリを抱えるようにして部屋に入った。そのまま川口はユカリをベットに寝かせた。ユカリは眠ってしまっていた
川口は椅子に座りタバコを吸った。ユカリはかすかに寝息をたてていた。タバコを半分ほど吸ってから、シャワールームにむかった。少し熱めにして酔いを醒ました。十分ほど浴びて出たがユカリはすやすやと寝ていた。川口はそのままユカリのところに行きキスをした。ユカリは少しばかり気づいたようであったがそのまま寝ていた。衣服を脱がし丁寧に下着も取った。一糸纏わぬユカリの身体を見た。けっして大きくは無いが形の整った乳房があり、その先にピンク色した小さな乳首が上を向いていた。腰はほどよくくびれ、小さなお臍がお腹にぽつんとあった。あまり多くない陰毛が花芯を隠していた。これまで数えるのが億劫になるくらいの女を抱いてきた。女を抱くのは一種のスポーツに似た感じであった。今でも何人かはそうして遊んでいる子がいる。彼女らも割り切っており誘えば大抵はOKであった。ユカリの身体を見ていてこれほどきれいな女体を見るのは初めてだと思った。やがて自分のものがいきり立ってきているのを感じてきた。ユカリの花芯に顔を近づけると仄かに淫靡な香りがした。きれいなピンク色をした花芯を眺めたあと、クンニリングを始めようとした。ユカリの腰が少し動いた時、突然身体がふわっと気持ちよく浮かんだ瞬間不覚にもはげしく射精してしまった。 川口はいったん椅子に戻りタバコに火をつけた。川口は改めてユカリの身体を眺めた。ユカリは相変わらずすやすやと寝ていた。その姿を眺めながら川口はふと寝ているユカリを抱くのはもったいなくなってきた。起きているユカリを抱きたい。情を絡めて抱きたい。 (二十三)
 ユカリは窓から差し込むひかりに目を覚ました。一瞬自分がどこにいるのかわからなかった。部屋のまわりをぐるりと見て、あっそうかホテルだと気が付いた。そして次の瞬間自分が一糸まとわぬことに気が付いた。そうだ川口とホテルに入ったのだ。しかし、川口は部屋にはいない。時計を見た。十時を少し回っていた。川口は帰ったのだなと思った。下着は洋服の脇にきちんとたたまれてあった。ユカリはしばらくじっとして自分の身体に意識を集中してみた。なんの変化も感じなかった。ユカリはシャワーを浴び身支度を整えたとき、テーブルの上に小さなメモが置いてあることに気付いた。見てみると川口からのものであった。事務的に、お先に帰ります。今日は早朝の会議がありますので。とだけあった。
ユカリはホテルを出てしばらくすると大通りに出た。大通りの歩道を歩いていると早稲田通りと表示されている看板が眼に入った。あてもなく歩いているとアマンドという喫茶店があった。ユカリはこに入りモーニングサービスを注文した。携帯電話をカバンから取り出すとハナコからの着歴があった。ユカリは迷ったが連絡することにした。ハナコは直ぐに出た。
「ユカリ、どうしたの?大丈夫?」
「ええ、大丈夫よ。友達の家に泊まちゃった。」
「そお、それならいいけど心配したわ。声が少しおかしいわね、風邪でも引いたかしら?」
「ちょっと具合が悪いけど大丈夫よ。」
「ところで、ユカリ、今日の午前中にお仕事が入ってたんじゃない?」
「ああ!忘れてた。どうしよう。」ユカリは慌てて手帳を取り出しスケジュールを見た。午前十時半BB於撮影、とあった。今からでは間に合いそうもない。それに昨日のお酒がまだ残っており、間に合ったとしても撮影出来る状態ではなかった。
「とりあえず会社に連絡してみたら。」ハナコは心配そうに言った。
 ユカリは電話を切って会社に連絡をいれようとして、急に自分が酷くみじめな状態で
あることに気づいた。このまま逃げ出したい衝動にかられた。なぜか涙が溢れてきた。震える手で会社の番号を押した。
「はい,K企画です。」受付の前田が出た。
「前田さん、ユカリです。川口さんをお願いします。」
「少々お待ちください。」と言って、しばらくして、
「川口さんはいま会議中で出られないそうです。」
「そう、困ったわ。どうしよう。」
「専務ならおりますけど、どうします?」
 ユカリは一瞬迷ったが、
「お願いします。」と言っていた。しばらくして、「はい、山下です。」専務の声がした。ユカリはその声を聞いて、専務に言うことで
はなかったと後悔したが後には引けなかった。
「ユカリです。今日B社の撮影があるのですが誠に申し訳ないのですが、体調が悪いのでキャンセルしたいのですが。」
「どうしたの?どこか具合が悪いの?」
「風邪かなとは思うのですが、少しふらふらしてまして。申し訳ありません。」ユカリは弱々しく言った。
「わかりました。私からB社には連絡しておきましょう。お大事にしてください。」
「すみません。」と言って切ろうとしたとき、
「ああ、少し厳しいことを言いますが、今日はいた仕方ないとして、あなたもプロと
してやっていくのであればドタキャンはいけません。体調管理も仕事のうちです。い
いですね。」いつになく厳しい専務の声であった。ユカリは打ちひしがれたが、やっとの思いで、
「すみません。」とかろうじて返事をした。返事をして電話を切った後、いままでに経験したことのない虚無感がユカリを襲ってきた。身体中が空っぽになり消え入りそうな感覚がユカリを支配していた。昨日川口の誘いを断ればよかった。後悔の念がユカリを容赦なく襲ってきた。ユカリはこれまでに経験したことのない悔しさと悲しみに身体を震わせていた。
 ユカリはあてもなく街をぶらついたり、公園に行ったりして、マンションに帰ったのは夕刻であった。ハナコはいなかった。自分の部屋に入り改めてこれからのことを考えた。依然として言うに言われぬ孤独感がユカリの心を包んでいた。このままではモデル業はやれない、。専務が言うとおりのプロとしてやるには、今の自分では自信がもてない。辞めるしか仕方がない。それに川口にはもう二度と会いたくないと思った。自分の至らなさからホテルに行ってしまったが、後悔のみしか残らなかった。しばらく、ぼんやりと机の上に置かれたハナコと撮った写真を見ていた。卒業のとき六甲山の山頂付近で撮ったものである。この頃はなんの屈託もなく明るい未来が二人を照らしていた。ついこの前のようにまざまざと蘇る。悲しみが胸を押し上げるような感覚になり、涙が溢れてきた。ユカリは声をあげて泣いた。大学を卒業して半年、いままでの楽しい日々はどうしてしまったのか。もう取り戻すことは出来ないのか。どのくらい経ったであろうか、ひとしきり泣いた後、しばらくして、少しばかり気が落ち着いてきた。これからどうするか。このままここにいても惨めになるだけのよう気がした。ユカリは決心した。ハナコから離れよう、そして会社は辞めようと思った 
(二十四)
 マユミが赤ヒレの研究室に入ってきた。
「今日、先生のことを知っているという女の方が来院されました。いろいろとお話をしてましたら、学生のとき一緒だったようです。」マユミはわざとさぐり入れるような口調で言った。
「女の人?」赤ヒレは一瞬これまでに知り合った女の人が数人思い浮かんだ。
「名前は?」
「松原裕子さんという方です。上品ですっごくきれいな方でした。」
「ええ!マドンナが来たの?」赤ヒレは飛び上がらんばかりに驚いた。あまりの赤ヒレの驚きようにマユミが眼を丸くした。
「マドンナなって何ですの?」マユミは思わず聞いていた。
「いや、驚いた。われわれが学生の頃、みんな彼女に憧れてたんだ。それでいつのまにか彼女はマドンナと呼ばれるようになった。当時は衣笠裕子という名だった。松原と突然結婚しちゃってね、みんながっかりしたものだよ。ところで彼女はどこか悪いの?」
「どうやら心の病に罹っているようです。欝の症状がみられます。」
 赤ヒレは先日松原と会った時のことを思い出した。赤ヒレが「マドンナは元気か。」と聞いた時、松原は浮かぬ顔をした。急に場の雰気が悪くなりかけたので赤ヒレは話を変えたが、それがあってからは、松原に会っている間一度もマドンナのことは触れなかった。
[これを先生にと言って帰られました。」マユミは折りたたまれたメモを赤ヒレに渡した。見ると携帯電話と思しき番号が書かれてあった。
「何かこれを渡すとき言ってましたか?」
「いいえ、なにも。」
 赤ヒレはマドンナがなにかあるなと思ったが、松原がいることだし迂闊には電話をするわけにもいかないと思った。
「マドンナさんは明らかに悩みを持っていらっしゃいます。私には悩みの状態のお話だけでしたが、根本的なところは別にあるのでしょう。余計なことかもしれませんが、お話されたほうがよろしいように思います。」マユミは真顔で言った。
「そうだな、医者として話を聞いてみるか。」
 赤ヒレはマドンナに電話をする前に、まず松原に先般送られてきた論文のお礼を言おうと連絡を入れたが、松原は国際学会でドイツに出張中とのことであった。次にマドンナから渡されたメモを見ながら番号を押した。数回呼びだし音が鳴ったあとマドンナは出た。
「もしもし、山田です。松原さんですか。」
「はい。そうです。」赤ヒレはたしかにマドンナだと思った。声が変わってない。一瞬のうちに学生の頃に戻ったような気がした。
「お久しぶりです。」
「本当、何年ぶりかしら。」
「四、五年は立っているかなー。声は変わらないね。直ぐに分かったよ。」
「山田さんも変わってないわ。」
「まあ、僕の場合は進歩がないってとこかな。ところで、どうなの調子は?」
「そのことでお話をしたいのですが、もし、お嫌でなかったらお会いしたいのだけれど、お忙しいかしら。」
「忙しいことはないのですが、ちよっと待ってください。」赤ヒレはスケジュール表を見て、「明日は空いていますがどうでしょうか」と言った。
[私は結構ですがよろしいかしら。」」
「場所と時間はどうします。?」
「赤ヒレさんのほうで決めていただけたら、私は合わせられます。」
[どこにしましょうか。そうだなー、学生のとき一度あなたと行った本郷のミドリでどうでしょうか。よければ七時ということで、夕飯でも食べながら。」
「わかりました。すみません、お忙しいでしょうに。」
「いやいや、そんなことはありません。それでは明日。」
 赤ヒレはマドンナがこのように低姿勢の口調を聞いたことはなかった。学生の頃は貴婦人然としており優雅な話し方をしていた。声は確かにマドンナであったが当時とはかなり違っていた。悩みの深さを予感させた。
(二十五)
 赤ヒレは七時を十分ほど過ぎて,グリルミドリに着いた。マドンナはすでに来ていた。赤ヒレを見ると座っていた椅子から立ち上がり丁寧にお辞儀をした。
「やあ、すみません、遅くなって。」と言いながら赤ヒレは恐縮しながらマドンナのいるテーブルのところに行った。
「お忙しいでしょうにわざわざすみません。」昨日と同じように言ってマドンナは再び頭を下げた。
 赤ヒレはマドンナと向かい合って座った。マドンナは赤いワンピースを着ていた。
相変わらず圧倒されそうな品のよさと美貌を誇っていた。
「変わらないねぇ、お美しい。」
「あら、いやだ、赤ヒレさんもお世辞を言うようになったんだ。学生の頃は真面目一辺倒でしたのに。」マドンナは輝くように笑った。
「お世辞なもんか、心からそう思っていますよ。」と言って赤ヒレも声をあげて笑った。

 二人は学生の頃に戻った気分になり、ひとしきり過去のことを話し合った。 
 
 やがてマドンナは現実に戻ったか、真顔になった。
「今日赤ヒレさんにお会いしたのは、実は松原とのことなの。」マドンナは言いにくそうに言った。赤ヒレが黙って頷くのを見て、マドンナは一呼吸おいて、
「私たち上手く行ってないの。二年程前松原がドイツへ出張して、変な病気を染つされてきたの。あちらで女を抱いて染つされたと告白したわ。気持ちの上では男なんだから一度くらい許さなくちゃいけないと何度も自分に言い聞かせたんだけれど、それ以来身体の方が受け入れられなくなってしまって・・・。それから段々生活がおかしくなって、最近は普段の会話もなくなってしまったの。」マドンナはうっすらと涙を浮かべていた。
「それで、君は松原をどう思っているの?まだ愛しているの?」
「それが自分でも分からなくなってきているの。多分愛していると思っているのだけれど、それを拒んでいる自分がいて・・・。」
「うーん、そのことで話し合ったことはあるの?」
「最初の頃は何度もあったわ。私も忘れて彼を受け入れようと努力したのだけれど,言いにくいけど、身体が受け入れられなくなってしまって・・・。もう二年もないわ。」
赤ヒレは言葉を失った。しばらく沈黙が二人を包んだ。そして、マドンナは思い立ったように一気に話始めた。「私、本当は最初から彼を愛してなかったんだわ。学生の頃の彼は私が思っていた理想の人だった。でも其の理想は本当の理想ではないんじゃないかと。彼と一緒になってからずっと自分では分からない違和感があったの。それでも、彼は理想の人なんだと自分に言い聞かせながら過ごしてきたの。それが突然ああいうことがあって、頭では許しても身体の方が本当のことに気づいてしまったんだわ。今日あなたに会って分かった。ずっともやもやしていたけど、きっと間違いないわ。最初から愛してなんかいなかったんだわ。」 赤ヒレはマドンナの意外な言葉に驚いたが、慌てて「そうかな、当時は君もうれしそうにしていたよ。」と言った。「うれしかったわ。だって理想の人と結婚出来たと思っていたんですもの。」 
またしばらく沈黙が続いた。「ごめんなさい。こんなことを言って。でも今日あなたに会えてよかったわ。何かすっきりした。来週彼がドイツから帰ってきたら離婚するわ。」マドンナは明るく言った。「おいおい、そんな重大なことを簡単に決めるなよ。」 「いいえ、簡単じゃあないわ。ずっと考えていたことよ。ただなにか胸につっかえるものがあって決心がつかなかっただけよ。今日あなたに会って胸のつっかえが取れたわ。」
赤ヒレが何と答えていいか迷っていると、「誤解しないでね。あなたが好きだったなんて言わないから。」
「そんなことは分かっているけど,いかにも急なことなので・・・」
赤ヒレはなんと言ったらよいか沈黙した。どうやら事は精神科医の領域ではなさそうだ。しばらくしてマドンナが 
「ごめんなさい。もうこの話はやめましょう、自分から言い出して申し訳ないんだけど。学生の頃のお話をしたいわ。」マドンナは明るく言った。
赤ヒレは救われ気がした。
「学生時代かあ、君は忘れてると思うけど、ここで、君に付き合ってくれって言ったことがあったな。断られたけど。あの時はつらかったな。」
「ごめんなさい。先に松原に申し込まれていたから。」
「恨みを言ってるのではなくて、いい思い出だった。青春の一ページを飾ってくれた。」
「懐かしいわねー、ああ、あの頃に戻りたいわ。」
(二十六)
 赤ヒレに松原から連絡が入った。
「一昨日帰ってきたんだが、近く会いたいんだが都合はどう?」
「今週は忙しいが来週になれば一段落する。来週であれば君の都合に合わせられが、どうかな?」
「わかった。それじゃ火曜日でどうだ。」
「僕は大丈夫だ。時間と場所はこの前と同じでいいかな?」
「そうだな。じゃ来週。」
 松原に変わった様子は感じられなかったが、赤ヒレは一抹の不安を抱いた。マドンナが何事もなく松原に接することは考えにくいと思った。ただ、まだ離婚ということは言ってないのかも知れないとも思った。ともかく、そのことに関しては知らぬふりをしなくてはならない。おもしろ仮説に話題を集中すればよいと思った。 

 赤ヒレと松原は約束した店で会った。
「どうだったドイツは?何度も行ってるからあまり新鮮みはないだろうけど。」
「そうだな。でもときどき海外に行くのもいいもんだ。今回は少し時間があったので
田舎めぐりをしてきた。田園風景はよかったな。それに田舎の人というのはどこでも人の良さを感じさせ心がなごむ。」
「それは言える。人間というのは本来自然の中にいると、善良心が素直な形で出て来るのかもしれな。」
「ところで、僕のおもしろ仮説はどうだった?すこしは参考になたかな。」
「うん、おもしろかったよ。特にこの世の生き物はあの世の反映ではないかというところが斬新なアイデアだな。」
「荒唐無稽と言っちゃ荒唐無稽なんだがおもしろいものを書いてくれと言うもんだから思い切って想像してみた。ただ仮説というのはどうだったかな、あの世のことは検証できないからね。」
「そう、そういう意味では科学ではないよな。科学者には申し訳ないが。」
「いや、俺もそう思っている。ただ、科学はお前も分かっているとおり最初は想像か
ら始まるものなんだ。想像し検証しの繰り返しから新しいものが生まれる。宇宙の実
態はまだよく分かってないのだが、最近驚くような説が発表された。」
「ほう、なにか見つかったのか?」
「まだはっきりとはしないのだが、宇宙空間はエネルギーで七割がた充たされている
というものだ。それと物質の本質と光のそれは同じではないかというものだ。これなども最初は想像であったと思われる。それを検証しているうちにたどりついたのではないかな。僕の経験上人間が想像できることは事実としてありうるケースが多い。そういう意味で、新しい発見とか発明というものはいかにして固定観念から脱出するかというのが出発点になるような気がしている。」
「よく分からないがそうかもしれんな。」
赤ヒレはあの世の光を思い出した。あの光はこの世の太陽の光とは明らかに違うものであった。科学的にどう違うかは勿論分からないがあの世の光はこの世の太陽のものに比べると圧倒的に柔らかなものであった。穏やかでありその中にいると包み込まれるような優しさがある。
赤ヒレがしばらく黙っていると、松原が突然話題を変えてきた。
「ところで今日お前を呼び出したのは,女房のことなんだ。」
赤ヒレはやはり来たかと思ったが知らぬ顔で、「マドンナのこと?なにかあったのか?」と意外そうに言った。
「うん、ドイツから帰った翌日あいつから突然離婚してくれと言れた。実はうまくいってなくてね,ここ二年ばかり。」
「なにかあったのか?うまくいかなくなった原因は。」
「まあな。俺の浮気だよ。浮気といったって特定の女をつくったわけじゃあないんだが。二年前ドイツに行ったとき、染されちゃってね、それがあいつにバレてね。それからどうもうまくいかなくなった。」
「それくらいのことならなんとかなりそうだが、マドンナもプライドが高いからな。難しいね。」
「それにちょっとした偶然にあいつの日記を見てしまったんだ。あいつが一週間ほど入院したことがあって、あいつの本棚から本を探していて間違って日記を本棚から落としてしまった。開いたページに自分には本当に好きな人がいるのかもしれない云々と書かれてあった。半年ほど前のことだが。つぶさに日記を見たわけではないし俺も面と向かって聞きもしてないのでそれが誰だか分からないが今回の離婚の申し出にそれが奥にあるような気がしている。」
「それはどうかな、にわかには信じられないが・・・」
 赤ヒレはどう返事をしていいものか迷った。まさかそれが自分であるとは思えないし他に誰かいるのだろうか。赤ヒレが黙っていると
「今日お前に会ったのは、女房の心理状態のことだよ。好きな人が出来たのならそれはそれで仕方がないと思っているんだが、あいつは病気ではなかろうかとも思っているんだ。欝じゃないかなと。もし病気だとすると簡単に離婚とはいかないなと思ってね。」
「それは詳しく診てみないと軽々には言えないが、二年もの間お前の浮気にこだわっているとすると尋常じゃないね。」
「やはり病気と考えたほうが自然かな。」
「うーん、どうかな、そのあたりは難しい。普段の生活に変わったことはないんだろう?突然落ち込むとかはしゃぐとか。」
「それはない。あいつは冷静だから。」
赤ヒレはこれ以上言うことはまずいと思った。下手すると離婚を奨励しているとも取られかねない。
「今どうかなと言ったがよく分からないと言ったほうが正直なところだ。」
松原はしばらく考えていたが、
「ありがとう。まあ、基本的にはわれわれ二人の問題だということかもしれない。」と言って、寂びそうに笑った。
(二十七)
 赤ヒレは研究室にいた。今日で長井氏は元に戻った。引継ぎを終え今はその書類を整理している。窓を開けていたが突然強い風が吹き込んできた。あやうく書類が飛ばされそうになった。八月も末、陽はすでに落ちていたにも拘らずまだ暑かった。空を見ると真っ黒な雲が西のほうから向かってきていた。赤ヒレは慌てて窓を閉めクーラーをつけた。稲光が光ると同時に雷鳴がなった。やがてバケツをひっくり返したような雨が降り出した。赤ヒレは松原とマドンナのことを考えていた。あの二人はこの先どうなるのか?二人とも感情より理性が勝るタイプである。マドンナのあの様子からは心は既に決めているかもしれない。それにしてもマドンナに好きな人がいたとは驚きであった。赤ヒレはここまで考えて自分の考えが危うい方向に向かうのを感じていた。
 ドアーがノックされた。「マユミです。」という声が聞こえた。
「すごい雨ですね。雷も落ちそうで怖い。」マユミは本当に怖がっていた。
「これで少しは涼しくなりそうだ。」赤ヒレはマユミの怖がっている顔を見て愉快そうに笑顔で言った。
「先生、質問してよろしいかしら?」
「なんだい、改まって。」
「マドンナさんのことなのですが。」
「マドンナ?」赤ヒレは一瞬ビクッとした。マユミがマドンナのことを知っているとは思えなかったが内心を見透かされたかと思ったのである。
「私のところへ来た時はかなり深刻な様子でしたので,その後どうなさったかと思いまして。」
「ああ、そうだね、まだ君に報告してなかったね。」赤ヒレは医者としての立場を取り戻していた。
「彼女は君が診たとおり鬱の初期症状があった。ただそれは彼女には自覚があり、その原因もよく解っていた。典型的インテリタイプの鬱の症状だ。したがってその原因を掘り下げれば治る類のものだ。」
「それで、其の原因を掘り下げたのですか?」
「私が掘り下げたわけではないが、話をしているうち彼女自身が気づいたと言った方が正確かな。」赤ヒレはここまで話をしてもういいだろうといった顔をした。マユミもそれを感じたのかそれ以上聞いてこなかった。
「ところで、ユカリさんが少しおかしいの。ちょっと心配だわ。」マユミは医者としてより友人として心配していた。
「君が診てみたら。」
「私は友達だから公平な見立てに自信がもてない。一度先生が診てくださいな。」
「そうか、それもそうだな。私はいいよ。連れてきなさい。」
雨は小降りになっていた。赤ヒレは窓を開け外気を入れた。
「もう三十分もしたら終えるが君がよければ夕飯でもどう?」
「ご馳走さま!うれしい!」このような時のマユミは天真爛漫な喜びようをする。赤ヒレはかわいいと思った。
(二十八)
松原は昨日初めてマドンナから離婚の話を切り出された。覚悟はしていたものの改めて離婚したいと言われて愕然とした思いであった。しばらく沈黙が続いた後、一言「わかった。」というのが精一杯であった。松原は離婚の原因が自分の浮気にあると思っていた。その意味で、マドンナに対し何故だと追求する気にはなれなかった。
マドンナが口を開いた。そして松原にとっては意外なことを言われた。
「私たち最初から間違っていたのだと思う。私はあなたを恨んでなんかいないわ。あなたも私も人を愛するということがどういうことなのか判っていなかったのだと思うの。人を愛するということがこんなに奥が深いものなどとは思ってもいなかった。愛は長い間一緒に生活して徐々に作り上げていくものだと言う人も居るけど、私にはそれはどこか妥協というか諦めを含んだものなのじゃないかと思うの。本当の愛が今でも判ったわけじゃないけど、少なくともあなたを愛してないということだけは判ったわ。」
松原は思わず、「誰か好きな人でもできたのか?」と言いかかったが飲み込んだ。
「俺はお前のことを愛していると思ってこれまで来たが・・・。」と言って松原は自分が為した過ちが頭をよぎり沈黙した。マドンナはそれを見て、
「私はあなたを責めるつもりはないわ。あなたは自分がした浮気のことを原因と思っているようだけれど、それは違うわ。それは愛について考える切っ掛けにはなったけれど、それが原因ではないわ。」
「よく解らないな。お前の言ってることが。」
「あなたには解らないと思う。だってあなたは愛について考えたことなどないと思うから。」
「それはないだろう。俺だって考えたことはあるさ。」
「いいえ、ないと思う。あなたが考えたのは愛ではなく、どうしたら私と上手くやっていけるだろうかということだけだわ。」
「そう言われてしまうと返す言葉はないが。」
「あなたは優しい人よ。だから私が悩んでいるのを見てどうしたら上手くやっていけるのだろうかということばかり考えていたのだと思う。でもそれは愛についてじゃない。一種の処世術みたいなものよ。根本のことじゃないわ。」
 松原はマドンナが言ってる事は漠然とではあるが解るような気がしていた。結婚当初こそ胸が躍るような新鮮な思いをしていたがやがてそれも醒め、むしろここ二年ほどは一緒にいることが息苦しく感じることさえあった。ただ、それはひとえに自分の浮気のせいと思っていた。そうした雰囲気をなんとか打破しようとここ二年は費やされたと言っても過言ではない。松原はそうすることがマドンナへの愛だと思ってきた。しかし、マドンナはそれは愛などではなく処世術みたいなものだと言う。改めて言われて、松原は自信を失くした。たしかに其の時点で愛は醒めていたのかもしれない。いや、醒めたのではなく、マドンナが言うようにもともと愛などは無かったのかもしれない。それでは結婚当初のあの新鮮さはいったいなんだったのだろうか?松原
は混沌としてきた。
 またしばらく沈黙が続いたあと、松原が口を開いた。 
「ひとつだけ質問していいかな?」
「どうぞ。」
「僕が結婚しようと言ったとき、君はどうだったのかな?そのときから僕のことはあまり好きではなかったのかな?」
「それは間違いなく好きだったわ。今は当時ほどではないけれど、でも嫌いじゃないわ。」
 松原はそれを聞いてすべてを諦めたように静かに言った。
「そうか、いやそれだけでいい。」

 離婚して間も無くして、松原から赤ヒレに手紙が届いた。内容はきわめて事務的に書かれていた。マドンナと離婚したこと。まもなくドイツに留学すること。そしてしばらく日本には帰らないと付け加えられていた。 (二十九)
 赤ヒレは松原の手紙にどう答えていいか迷った。当然のことながら、松原の離婚に自分が関わっていることはないし、松原もそのようには思っていないであろう。しかし何かが赤ヒレの中に引っかかっていた。
松原から手紙が来てから一月ほどしてマドンナから連絡が入った。
「衣笠です。」マドンナの声であった。「よろしかったらお会いしたいのだけど・・・、ご都合は如何かしら?」
「離婚したんだって?」
「そうなの。」
「松原はドイツに行くようなことを言っていたが、もう行ったのかな?」
「さぁ、わからないわ。別れてから会っていないし、ドイツに行くという話しも聞いてなかったから。」
「そうか。わかった。明日と明後日は大阪に行く用事があるので君さえよかったら今週の土曜日はどうかな?」
「お忙しいのにごめんなさい。」
「いやいや、そんなことはない。」赤ヒレはマドンナが気に掛けている気持ちがわかっていたので敢えて明るく言った。 しかしながら、はたしてどのように接したらよいのか皆目見当がつかなかった。自分の中に今でもマドンナを好いてる気持ちがあることは明らかであった。しかし其の気持ちをストレートに言う気にはなれなっかた。学生のころとは明らかにマドンナへの気持ちは微妙に変化している。それがどのように違ってきているのかは解らなかった。ただ、自分の気持ちの中に他の何かが入り込んでいるのである。透き通るような学生の時とは違って曇りガラスで見るようなすっきりとしない気持ちであった。

 赤ヒレは本郷の道を歩きながら今から会うマドンナにどう接したらいいか思案していた。いささか暗鬱でもあった。気持ちの整理が出来ないまま待ち合わせのミドリに着いた。まだマドンナは来ていなかった。赤ヒレは学生だったころを思い出していた。
 この喫茶店でマドンナに自分の気持ちを打ち明けたのがつい昨日のように思い出され
る。苦い思い出であった。あの頃のマドンナは眩しかった。明るく知的に輝いていた。多くの学生がマドンナに憧れたが、当のマドンナはそんなことはおかまいなく誰とでも気さくに話をしていた。当時の彼女は間違いなく幸せであったろう。赤ヒレはマドンナに自分の気持ちを打ち明けたあと、打ちひしがれた気持ちをなんとか持ちこたえていた。それからまだ何年も経っていないうちに状況は一変してしまっていた。結婚の失敗といえばそれまでであるが、あの明るく高貴に輝いていたものは永遠に続いていくのもと思っていたが、それがあっけなく失われてしまうとは、赤ヒレは人生の波の大きさにただ唖然とするばかりであった。
 十分ほどしてマドンナは現れた。思っていたより明るい表情であった。マドンナは赤
ヒレの顔を見て、
「ごめんなさい。お忙しいところを。」と言って赤ヒレの前に座った。
「待った?」
「いいや、僕が少し早めに来ただけだから。」
「相変わらずpunctualね。」マドンナは微笑みながら言った。
「驚いたな。決断が早いのには。」
「そうねぇ、でも悩んでいた時間は長かったわ。」
そう言われて先般会ったときマドンナが言っていたことを思い出した。たしかにマドンナはしばらく悩んでいたことを告白していた。マユミが鬱の初期症状がみられると言っていたくらいであった。
「今日お呼びだてしたのは私も働こうと思って。どこかあなたの知っているところがあれば紹介していただけないかしら。」
「急いでいるの?」
「急いではいないわ。松原に少しばかりいただいたし。ただ、遊んでいても仕方ないし、働いていたほうが余計な事を考えないでしょう?」
「それはそうだな。」
「無理をしなくてもいいのよ。」マドンナに切迫感はなかった。それは仕事の依頼などはどうでもいいともとれる言い方であった。
「うん」赤ひれは小さく頷いた。頷きながら、マドンナにたいする気持ちが何故か以前のものとは明らかに違ってきていることを感じていた。

(三十)
 ユカリは会社を辞めた。そしてマンションを出ることをハナコに伝えた。ハナコはマンションを出ることだけは止めてほしいと泣きながら言ったがユカリの気持ちは変わらなかった。そしてハナコに意外なことを言った。
「ハナちゃん、ハナちゃんが嫌いになったからじゃぁないのよ。私あちらに行ってきたの。そうしたら昔の彼が出てきたの。すっかり記憶から無くなっていたのに当時のことが一気に蘇ってきて、なんと言ったらいいのか、胸が締め付けられるような切なさが溢れてきて、でも悲しいというより、なにかとっても気持ちがさわやかなのよ。そこでは彼とお話出来なかったけど、私確信したの、彼は今でも私のことを待っていてくれてると。」ユカリはこれまで見たことも無いような明るい笑顔で続けた。
「どうしたら彼に会えるかまだ分からないけどしばらく一人で居たいの。一人になって彼のことを考えてみたいの。きっと会えるわ。だって彼も私に会いたいと思っているのだもの。」
「彼がそう言ったの?」
「ううん、彼とは話してない。ただ分かるのよ、私に会いたがっていることが。」
 ハナコにはユカリの話が取り留めが無いように思えた。しかしそれを問い詰める気にはなれなかった。ユカリは現実の世界では傷ついている。その傷の一端が自分にあることを知っていたからである。ハナコは何故か無性にユカリが可哀想でならなかった。思わず涙が溢れてきた。ユカリはそれを見て
「ハナちゃん、私は大丈夫よ。一人になったってしばらくの間だし、ハナちゃんには連絡するから。」
「きっとよ。約束して。」
「うん。」
「引越し先はこれから探すの?」
「しばらく神戸に帰るわ。落ち着いたら連絡する。神戸に長居するつもりは無いし。」
「寂しいわ。」ハナコは思いもかけないユカリの話に呆然としていた。ユカリが可哀想とつい先ほどは思ったが実は可哀想なのは自分であることに気づいた。子供の頃からユカリとはずっと一緒であった。さまざまな思い出が一気に溢れてきた。
「ユカリ、ユカリの気持ちはわかったけど、お願いだからもう二三日考えてからにしてくれない?」ハナコは自分の気持ちがどうしていいのか分からなくなっていた。
 ユカリはハナコの必死な様子を見てしばらくどうしたらいいか考えていたが杳として分からないでいた。しかし自分の気持ちとは裏腹な答えが口を突いて出た。
「分かったわ、少し考えてみる。」
「ほんと?うれしい。」ハナコは思わずユカリの手を握った。
 思わずそう答えてユカリはまたもや自分の気持ちが無限に広がる海の中にぽつんと浮いてるような寂寥に覆われてきた。こうしてまた自分は混沌とした闇の中に置かれるのかと恐怖とともにえもいわれぬ不安感がじわりと広がってきていた。これまで自分で物事を決めることはほとんどなかった。常にハナコがイニシアチヴをとってきたし、ユカリはそれに従ってきた。ユカリにとってはそれが楽であったし、これまでそのことを不快に思ったことは一度もなかった。あれほどマンションを出て一人になろうと決心したのに図らずもハナコの説得に頷いてしまったのはこれまでの習い性なのであろうか?ただ今回ばかりは一時的にハナコの説得に屈したもののユカリの心はほぼ決まっていた。
 ハナコは一人になってみてユカリが言ったことが妙に気になっていた。彼が会いたがっているとはどういうことか?彼は今この世に居るのだろうか?それともそれはユカリの妄想なのだろうか? 
 ユカリは二日ほどマンションに留まったが出て行った。ハナコには手紙が置いてあった。ハナコはここ二日ばかり仕事が忙しくユカリと話す機会が無かった。しかし、ハナコはユカリの決心が固いことが分かっていた。分かっていたがいざ一人になってみてユカリの存在の大きさを実感した。えも言われぬ寂寥がハナコを包んでいた。
 新たなものを得た代償に大切なものを失う、人生の不条理にハナコはただ立ち尽くすのみであった。

太陽の見えない明るい世界

太陽の見えない明るい世界

  • 小説
  • 中編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-08-13

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著作権法内での利用のみを許可します。

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