なくしもの
見えずじまいなおはなし。
「どうして」
電灯に照らされた君の目はいつになく黒かった。
考えておいたいかにもそれらしい台詞はいう気になれない。僕は結局のところ素直に答えた。
「噛み合わないんだよ」
君は訳がわからないというように目を伏せた。
「はじめはあんなに好きでいてくれたのに」
その言葉を聞いた途端、僕は自分の体温がさっと音を立てて引くのがわかった。
僕がどれだけ好きだったかなんて、今は冷めてしまっただなんてなぜ分かる。なぜ決めつける?
向ける方向を間違えた感情は君への憤りになった。
そのまま飛び出そうとしたのを僕は唇をぐっと噛んで押し込めた。
きっとこの数秒の僕の僕とのやりとりも君には見えるはずもなくて。
ただ僕が押し黙ったようにしかその目には映らないのだろう。
なんてめんどうなんだ。どんなに近づいても必ず何か伝わらない。よく出来た世界だ。
僕が今しがた君の言葉から随分離れたところを歩いていることを君は知らないのだろう。
そう思うとどうしてだか笑えてくるものだ。
「なんとか言ってよ」
君は潤んだ目で僕を見据えた。
言えるのものなら言っていると言いたいところだが、言う事はできる。
ただ、僕は僕を伝えると共に君を傷つけないような共通を探すから何も言えなくなるのだ。
僕は結局ただ、ごめんとだけ言った。
「あなたのためにわたしは支えたいと言ったのに」
君は言う。
それはきっと違うんだ。僕は喉の奥で答えた。
僕がまともであることで、君もまともであれる。
そういうことだったじゃないか僕らは。
君は僕を盲目的に愛すことで、多数の異性に振り撒きがちな愛情に蓋をし、俗に言う尻軽という存在から逃げ出すことに僕を利用したのだ。
それは始めから知っていた。
だから、僕をまっすぐに立たせ、愛するということは結局のところ君が踏み外さずまっすぐに歩くということじゃないのか。
そうするならば、それは君のためだ。
僕と君のためだ。
それを君にはわかっていて欲しかった。
自分のエゴだと認めた上での愛情ならば受け入れ、かつ僕なりの量の愛情を注ぎ易かったんだ僕は。
けれど君はエゴの上に咲いた大きすぎる愛情と同じ質量の愛情を僕に求めるんだ。
君のその如何にも僕のためのように見せかけた自分への愛が、僕のためと言いつつ自分の体に手を回すような愛の言葉がきっと嫌いだったんだ。
君が愛してるという度に自分のためだろと奥底から声が聞こえるものでね。
脆弱な静寂はすぐに破られた。
君はもう知らないと勢いよくドアを開けた。
誰もいない教室に乱暴に閉まる音が響く。
言えなかった僕が悪いのか?
それでも君はきっと僕のこの思考全てを、いや半分さえも受け取りきらないだろう。
酷いことを言うと泣きじゃくってきっと理解しようとすらしないんだろう?
だったら伝えなくてよいという道に至るのは僕の怠惰か。
君が置き忘れた傘は静かに僕を一瞥した気がする。
僕は知りうる全てを、理解しうる総てを受け入れた上で君が好きだったんだと思う。
ここが嫌いだと言いつつも視界が潤むのはきっとそういうことなんだろう。
今もその背中を追って走り出しそうなのはそういうことなんだろう。
あの日言いそびれた言葉の行方は誰も知らない。
なくしもの
悲しいことだ。