夕暮れ陽だまり、君と私と
中学生の櫻井ひよりと日高詩音の出会い。勉強がすべての家に産まれたひよりとちょっと可笑しな彼女のちょっとおかしな友情物語はじまりの一歩。
第一部
「あずー、ノート貸して!」
一時間目が終わったジリジリとした太陽光を辛うじてカーテンで抑えて、微風だけを頼りに下敷きで肩まで伸ばした黒髪を揺らす櫻井ひよりの耳に届く声。夏の窓際は暑いし蝉の声が煩い。
「お前は、またか」
呆れたような声が隣の席から聞こえ、ちらりと視線を向けると如何にも学級委員とばかりにずれた眼鏡をくいっと指で上げる仕草をする城崎梓が第一ボタンが開いた胸元をパタパタと仰ぐ姿が目に入る。
自分と城崎は三年生になって同じクラスにになってからずっと隣の席で窓際の一番後ろを陣取っていたし、委員会が同じこともあり少しばかり必要なことは話すが、この、城崎梓という男子はなんだか近寄りがたかった。それに、ひより自身も男子と自ら話に行くようなタイプでも無かった。
「だってー、次ぜぇーったい、しおの番なんだもん!なのにすっかり忘れてたんだよー」
そう、言いながら城崎の机に突っ伏してゴロンゴロンと左右に転がりながら前の椅子に勝手に座り込むこの子が二人の居る一組に出入りするのも珍しいことじゃなかった。
ひよりはさも見ていないとばかりに机の中から次の教科である数学の教材一式を取り出しながら視界に入る完全に黒いとは言えない彼女の髪を盗み見る。
日高詩音、三組の問題児だと噂で聞いたことがある。長期休暇になると同じく三組の男子、確か幼馴染みだとかいう子と一緒に髪色を明るくしたり、下手したら金髪にしたりしてるとか、大学生と付き合ってるとか、どこまで本当かわからないような噂が飛び交っていた。
どこまでが本当かなんて、どうでもきっと良くて、きっと小さい顔に、ぱっちりした目、それからいつも近寄りがたいと言われている城崎が楽しそうに笑ったりしてることに対しての嫉妬心。そういうのが噂の出元。
ばちっ、思わずじっと見ていたようで微笑まれて慌てる。ゆっくりと城崎まで振り返るから居た堪れなくて、無愛想さ全開に肘をついて窓の外に顔を向ける。
そんな嫉妬心を覚えるのは、ひよりだって同じだ。
ただでさえ、日々は夏空みたいに明るくないのに。見上げた夏空は皮肉めいたくらいに青くて、入道雲が綿飴みたいに広がっていた。
もうすぐ、夏休みだ。
上には上がいるのはもう、痛いほど分かっていた。そう、例えば隣に座る彼とか。なんでこんなとこにいるんだろうって思うくらいに自分とは出来が違かったし、憧れと一緒に劣等感を覚えていた。
「櫻井ー」
名前順に担任が生徒を呼ぶ。小さく返事をすると溜息が自ずと溢れてくる。担任から通知表を受け取って、開いてみる。変わりはない。体育以外はオール5。でも、たかが、公立。目にもしてくれないのはわかりきっているけれど、クラスで仲良くしてくれる子達に気付かれないように、閉じて、どうだった?なんていうお決まりの文句にまぁまぁ、とそれらしい言葉で返すとブーイングを受ける。だけど、これは努力して、努力して、それで手に入れた成果だ。必死になって、ここに立ってるだけだ。
ソンナニヨクナンテナイ。
"どうしてひよりちゃんは私立に行けなかったのかしら”
ジリジリジリジリ、蜃気楼の先に聞こえた声に眩暈を覚えてその場に立ち竦む。
小学校も中学も受験に失敗した。弟は……。
学校指定の緑のバッグに入れた通知表はただ新学期が始まる前にはんこを押されるだけの産物だ。当たり前、そんなの当たり前なのだから。
「……ただいま」
重たい脚を前に出してガチャリ、玄関のドアを引く。玄関にのろりと入って、靴を脱いでいるとお母さんの金切り声がリビングのドアの向こうから聞こえてくる。多分、誰かに愚痴ってるんだろう。あれから、両親は仲が悪くなった。
堪らなくて二階に続く階段を駆け上がる。学歴を気にするお母さんとおっとりしたお父さんが中学受験に失敗したあの日から徐々に不仲になっていって、部屋にいても、お母さんの声が耳に響くようで。バッグを投げ出してベッドに横たわると耳を塞いで、目を閉じる。
そうしていつも思う。
ゴメンなさい、失敗して。失敗作でゴメンなさい、と。
どれくらいそうしていたか、わからない。気付いたら眠っていて、恐る恐る耳から手を離した。声は、もちろん聴こえなくて、ホッとしたのと同時に時刻を確認する。今度はお父さんが帰ってくる、そんな時間だった。今日はお母さんの機嫌が悪いから、嫌だった。弟の通知表を見て、撫でて、それから自分にはなにか見たくないものでも見るような眼差しを向ける。そんなのわかりきってて、ここに居たくなくて、慌てて着替えてそっと玄関に向かう。音を立てないように靴を履く。ゆっくりドアを押して振り返ってリビングの明かりを見るけど気付かれてはないようでそのままバクバクする心臓を持ったまま外に飛び出る。
むわっとした空気が辺りを包み込む。それでも夕闇が近づく外は昼間より涼しくて伸ばしてる髪を揺らす。
帰りたくないし、夏休みなんて嫌いだった。
争う声も、興味のない瞳も、みたくない。
カンカンカーン……、踏切の遮断機の音がぼんやりする思考に飛び込んでくる。
このままここに飛び込んだら……ぼーっとする頭の中で沸き立つのはこの世に居たくない、ただそれだけで。躊躇って居るうちに降りてきたしましまの遮断機に遮られる。電車が通過する。ここの踏切は少し長い。真ん中に立っていたようで後ろから車のクラクションを鳴らされて仕方なしに端に寄った。
ぽつん、水滴が頭上から大粒で舞い降りて、地面を濡らす。最悪だ。なんだかわからないけれど、夕立にまで会わないとならないほどあたしがなんかしたのだろうか。
気付けば遮断機は上がっていて、隣にあった車は走って行っていて、ひよりだけがそこに取り残されていた。ざあざあと降る雨に、お気に入りの黒髪はびっちょりだし、身体は蒸し暑いよくわからなさに気持ちが悪い。
どれくらい、そこに立っていただろう。もう一度遮断機が降りてきたら、ねぇ、いいよね。足を一歩踏み出した瞬間、くんっ、後ろに確かな力を持って濡れ鼠のTシャツを引っ張られる。それから聞こえる声は聞きなれたような声で吃驚して振り返った先には金色の髪に一筋の赤を入れた、それでいて良く知った顔が真摯な眼差しでこっちを見ていた。
「ひだ、かさん?」
「なにしてんの?」
責めるわけでもなく、ただ不思議そうに眉を寄せた彼女は小首を傾げて自分と同じようにびっちょりと濡れた髪をかきあげつつも掴んだ手は離そうとしなかった。
「……別に」
まさか、このままこの世を断つつもりだったなんて言えなくて俯くと離してと、腕を振りほどく。
「別にって顔じゃなかったね」
ぼそり、呟かれた言葉は雨音に掻き消されて、顔を上げたひよりがえ、っと聞き返すとその腕を掴んで詩音が笑う。にっこりと。そうして足早に遮断機をくぐって、歩き出すから半ば引き摺られるようにひよりは歩き出す。
「ちょ、ちょ、どこ行くの」
「うち、すぐそこだから、風邪引くよ?」
有無を言わせない笑みに自分より全然小さいくせに意外と力強い腕の力になんだかそれ以上反論する気も失せて引きづられるままに透けて黄金が上がりかけた雨の夕陽に透ける様を見つめた。
「うわ、びちょびちょだね」
連れて行かれたレンガ調の一軒家の玄関先で迎えてくれたのはシルバーのゆるふわパーマのかかったマッシュヘアーのお兄さん。いかにも美容系の仕事をしてます、と言った感じのさらりとしたシャツを上品に着こなした姿にびしょ濡れな自分が惨めに映る。
「だから車に乗ったらって言ったのに……」
そんなことを言いながらパタパタと走ってバスタオルを二つ持ってきてくれた。それから急いでお風呂を沸かすねと笑いかける柔らかい笑みに何故か緊張が解れていくよう。
他に人の気配は無くて、瞳だけで辺りを見回してしまうのをお兄さんがやっぱり笑って、両親はいつもここには居ないんだよって教えてくれた。どんな経緯があるのかわからないけれど、やっぱり大人がいないのはホッとする。
「だから、気を使わなくていいからね」
「ねー」
顔を見合わせた金と銀の二人は面立ちが、笑った顔が似ていた。あーもう、しおは、とお兄さんが頭をタオルで拭きながらこちらを見て目尻に皺を寄せて人のいい笑みを浮かべる。ゆったりとした動きでもたもたと頭を拭いていたひよりがその視線にたじろぐと尚更笑みを深める。
「さ、冷えるからお風呂、入っちゃって」
突然の申し出にタオルまで借りてしまった申し訳なさも相まって手をブンブン振る。
「え、いや、私、帰るんで、大丈夫です」
「ダメだよ、風邪引く。夏風邪怖いんだよー」
そこに間髪入れずに顔を近づけて来た詩音にびくっと身体を仰け反らせたひよりが後ろに転げそうになるのをお兄さんが腕を引いて止めて、冷えた身体に眉根を寄せる。
「しおの言う通りだよ、夏風邪はしつこいし、こんな時間だ、大人の言うことは聞くものだよ」
ね、と年を押さえ頭をポンポンと撫でられるともう何も言えなくなった。
「親御さんには僕から連絡しておくからご飯も食べて行ってよ。二人より三人のほうが楽しいからね」
タオルを抱えて玄関を申し訳なさそうに通過しようと足を出した先に、連絡、そう聞こえて慌てて振り向くと今度は首を振る。
「い、いえ、母は、いいんです……その、大丈夫なんで。……メール入れとくので」
詩音の頭を拭きながら日高一夜は考える。そうしてまた人のいい笑みを浮かべる。
「じゃあ、今メールしようか。帰りは僕が責任を持って送っていくからお母さんに今、メールして?」
唇を噛んで俯いたひよりは小さく、ハイ、と答えると濡れたバッグの中で辛うじて無事を保っていたスマホを取り出すと、案の定心配の連絡すら入っていないラインを開いて言われた通りに文面を打つ。
どうせ、どっちでも同じなのに。
「んじゃ、行こっか」
それを見守った詩音はひよりの前を歩いてタオルを首からかけたまま脱衣所へ行く。
「ありがと、あなただって風邪引くのに」
脱衣所でくしゃみをする詩音を心配そうにひよりが振り返る。鼻下を乱雑に擦った詩音が笑って、着替えれば平気だよと言うからもう一度ありがとうと告げてゆっくり脱衣所の扉を閉めた。
「……あんなこと、したら悲しいよ」
ガラガラ、引き戸の音に混じって消え入りそうな声が聞こえた。
「あんなこと、か」
チャポン、水音を立てて腕を湯船から出す。39度の水温は雨に打たれた身体に心地よくてピンクの広々とした浴槽に凭れ掛かりながら瞳を伏せる。
悲しむんだろうか、誰か。出来損ないの自分なんて居ない方がいいじゃないかってずっと思ってたし、それが当たり前だと思ってきた。それに、今度は私立を、っていって勉強ばっかりで友達さえいやしない。クラスで自分がなんて呼ばれてるかなんて知ってる。
"ガリ勉櫻井”
友達だと思ってた子さえも、裏でそんな風に呼んでること、知ってた。
あんな髪色にして、あんな優しいお兄さんが居て、自由に生きてる彼女にはわからない。わからないんだ。やっぱり帰ろう、出たら帰ろう。
ざばっ、思い立ったとばかりに立ち上がって浴槽に足をかけた時、脱衣所に人の気配を感じて慌ててぶくぶく浴槽に戻る。
「櫻井さーん、しおの服だと小さいから、いちにい、あ、さっき居た人ね、の服持ってきたからこれ着て。櫻井さんの服、今洗濯してるからご飯食べ終わった頃には乾燥も終わるだろうから」
やられた。洗らわれたとか帰れない。口までぶくぶくと湯船に浸かって不貞腐れていたら少しだけ、目が、あのまあるいおっきな目が小首を傾げてドアを開けてこちらを見ていた。
「櫻井さん?大丈夫?」
水中に浸かったままこくりと頷けばなにが嬉しいのか楽しそうに笑った彼女は満足そうにドアを閉めて脱衣所を後にしていった。
櫻井さん、そういえば彼女はあたしをそう呼んだ。なんであたしの名前を知ってるんだろう。そんなことを思いながらホカホカとあったまった身体を浴槽から出して、充てがわれた服を着て通ってきた明るいリビングのドアを恐る恐る開ける。振り返った二人が各々、笑いかけるから、居た堪れなくて視線を逸らしてテーブルに並ぶ食器を見る。駆け寄ってきた詩音がコップをひよりに手渡す。
「ハイ、麦茶でよかった?」
「ほら、しおもお風呂入って来なさい」
「ありがと……」
はーい、そのまま彼女が駆けていく。
暖かい匂いが、空気が堪らなくて息が苦しい。もう忘れた香りがそこにはあった。
夕暮れ陽だまり、君と私と
続きます。さわりの部分となります。