ぼくは神様

ぼくは神様

ぼくは神様だ。

 ぼくは神様だ。厳密に言うと次期神様。現在の神様はぼくのパパで、ニンゲン年齢で言うところの働き盛りの四十歳。ちなみにその見方で言うとぼくは十歳。神様見習い三年目のニンゲン課GT係の係長(えっへん)。
「神様の息子」ってだけでこのポストに就いた当初は風当たりも相当きつかったけど、三年目の今じゃ立派な上司だ!(たぶん)。
部下は一五〇名。種別はニンゲン界で言うところの“ウサギ”。ニンゲン課GT係の係長補佐はマー君(五十五歳)。なかなか頭の切れるオスだ。
「係長、№156―2286978の山田に関してですが、LSは24と短く、計算上最終GTは四週間ですが、どのようなGTにしますか?案としては、BT中の刑務所から出所後八十二歩行ったところで五メートル前方を歩いている女がハンカチを落とし、№156―2286978山田がそれを拾って恋に落ち、即成就、死の間際までGTが続く、というものがありますが」
「古臭いだろ、それ。まずもうそれ冤罪ってことにしよ。あと、服役中に会いに来る幼なじみがいただろ、その子のGTとBT計算し直して、間に合うようだったらくっつけて刑務所に迎えに行かせる。帰り道に宝くじを拾わせて偶然見たテレビで当選確認後に即結婚、でLS終了」
「わかりました。その方向で検討してみます」
 マー君は鼻をヒクヒクさせながら、ない首を無理矢理下げた。そしてちらりとぼくを見、白い前歯を突き出すようにして言った。
「それと係長、例の有給休暇、明日からなのでよろしくお願いします」
「ああそうだったな。楽しんでこいよ。それから、ケイタイの電源は必ず入れておくように」
「了解しました。では、書類はあちらにまとめておきますので・・・」
 小さな丸いしっぽをふさふさと振りながら、マー君は席に戻って行った。
またこの時期が来たか・・・。この部署特有なのが、部下がタンポポの咲く季節になると有給休暇をとって“タンポポ行脚”に出かけてしまうことだ。だからニンゲンの季節でいう三月から四月にかけては、このアニマル部ニンゲン課GT係はぼく一人になってしまう。
一年目はまいったよ。パパがぼくをこの部署に送り込んだ意味を痛感したもんだ。一気に一五〇名がいなくなるのは痛いけど、部下はそれが楽しみで仕事しているようなものだし、我慢我慢。面倒な仕事はほとんど片付けていくのが慣習だから、よしとするしかない。
 言い忘れたけど、「BT」は「Bat Term」、つまりニンゲン生活における「悪い時期」、例えば近親者の死や犯罪に巻き込まれる、大病にかかることなど。「GT」は「Good Term」で「良い時期」の略。望んだ結婚や子供の成功、出世など。「LS」は「Life Span」、寿命である。
BTとGTは同じ部署内に置かれているが、「アニマル部」に属する「ニンゲン課」だけは特別にBT係とGT係に別れている。LS決定後、まずBTの量が、そしてGTの量が決められる。つまりLSの長短に関わらずBTの量が付加され、BTとGTのミックス期間が加わり、その残りがGTとなる。もちろんBTよりGTが多い人間もいるし、中にはどちらかが付加されない場合もあるが、これは特別な例だ。
BTもGTも量、内容とともにさまざまで、GT係ではBT係から回された書類を見て、GTの期間と内容を検討する。そして最終的にぼくが承認印を押してもう一度アニマル課に書類を戻す。
LSの長さとBTの内容に見合ったGTを慣例に倣いつつ決定していくのは、知識と経験がものを言う。
マー君はプランツ部種子植物課ドクダミ係からキャリアをスタートさせた苦労組だ。だから親のコネでぼくがこの部署に入ってきた(ぼくだって好き好んで来たんじゃないけどさ)当初はなかなかイカしたイヤガラセをしてくれたものだ。例えば、ニンゲン界から取り寄せたぼくの愛用の正露丸のビンの中に、あのコロコロしたフンを入れてくれちゃったり。毎日少しずつぼくのマイデスクの足をかじって、半年かけて傾かせてくれちゃったり。会議中もずっとボリンボリンにんじん食べてたりね(今思うとちょっとせつないな)。まあ気にしてはいなかったけど、ぼくもその点ではお返しをたっぷりさせてもらったしね。
マー君のふっさふっさなしっぽを見ていたら、いろんなことを思い出してしまったよ。あのしっぽがショッキンググリーンに染まった日もあったっけな・・・。
仕事を早めに切り上げた部下たちを見送って、ぼくも帰路についた。帰路とは言っても、今神界で話題騒然の雲コースターで一駅だけど。ちなみに雲コースターに乗らないほうが実は早いけど。だってあの感触を一度味わうと癖になるんだもの。

「明日からGT係は君一人になるね」
「今年も大丈夫だよ、パパ」
「今年は(・)、だろう?一年目はひどかったなあ。案件を処理しきれなくてマー君たちを強制帰還させちゃってさぁ。覚えてるか?危うくストライキになるところだった」
 パパと二人の夕食の席。空腹感というものが存在しない神界でも、一応夕食はある。朝食はない。昼食とおやつは各自自由。内容は(ぼくとパパの場合はニンゲン式に)、ご飯、味噌汁、肉もしくは魚の焼いたやつにサラダ。時々季節のフルーツ。
「あの時は仕方なかったんだよ。慣れていなかったしさ」
「よく確認してからやるんだぞ。一つズレるだけで取り返しのつかないことになる」
「わかってる。もう三年目だよ」
「そうか、じゃあ今年も期待しているよ」
 パパは神様っぽく威嚴に満ち溢れたウィンクをぼくに飛ばしてきた。パパは超多忙な毎日なのに、夕食は必ず一緒に食べてくれる。それにパパは基本的に無表情だけど、ぼくといる時だけは変な顔をしたり、大きな口を開けて笑う。それを見るとぼくは安心する。ぼくだけのパパ、って気がするから。
 ママは・・・いない。でも、以前はいた。その事実以外は何も知らない。知っちゃいけない決まりなんだって。ベッドサイドに置いてあるフォトフレームの中のママは、いつも笑っているから、ぼくはそれで十分なんだ。

 朝、タンポポ月間であることをすっかり忘れて出勤した。もしやボイコット・・・が頭に浮かんで一人プチパニック。でもホワイトボードに「行ってきます。部下一同♥」の文字が見えてプチパニック解消。
 誰もいない仕事場は広すぎて眩しすぎて(神界は基本的に白しか産出し得ない。交じり合う色、という要素が存在しないためだ)、毎年のことながら少し、途方にくれる。デスクの上にペンを置いただけで音が響いてびっくりした。一五〇名が始終動き回っていた床も、今日は一粒二粒のフンと、にんじんの葉の食べ残しが落ちているだけ。髪の毛に白や茶の毛がつくことも、鼻をフガフガ鳴らす音もない。
 とりあえずイスに座り、まとめられた書類に目を通す。識別番号、LS、十年ごとの写真、周囲の人間との相関図、BTの回数と量と内容。そしてGTの空欄。クリップ止めされた別の書類には、部下が計算したGTの回数と量、その内容案がびっしりと書かれている。これから生まれ落ちる人間の一生は、この紙一枚の中にまだ未定稿のまま取り残されている。
 ぼくはあくびを抑え、GTの試案に目を通し、不自然な箇所を訂正し、印を押す。くり返しくり返し、静まり返った空間の中でページをめくり、ペンを走らせた。
 昼休憩を知らせるチャイムが鳴り、仕事を中断してニンゲンでいうところのキッチンへ入る。カップヌードルを作り、コーラと一緒に流し込む。
昼休憩は一番にぎやかな時間だった。水を飲む音、ぼくにはわからないウサギ語で話す声、葉っぱを食べる咀嚼音。そして年若い部下はマイデスクの上に乗って、ぼくにいろんなことを話しかけて、でもいつの間にか居眠りしちゃってるんだ。昨日のことなのに、何だかずっと前のことみたいだ。まあ話すっていってもあそこにおいしい草が生えてるとか、最近便のキレが悪くて尻の毛が汚れるだとか、ぼくにはよくわからないことだって多いけど、聞いているだけで楽しかったな。楽しかった、なんていうともうないみたいに思えるな・・・。結構ぼくもこの部署が気に入っているんだ。これから二ヶ月この調子で、大丈夫なのか?去年もこんなに寂しかったっけ?
ぼくが思案にくれていると、一匹のハチドリが飛んできた。たくさんある部署間の連絡係兼荷物の運び屋で、かなりの力持ち。BT係からの書類も全て運んできてくれる。いつもは二匹対になってくるのに、今日は一匹だ。しかも、オーロラヴィジョンを口にくわえている。オーロラヴィジョンは、ニンゲン界でいうところのスクリーン型テレビ(電話機能もアリ)。
ハチドリはぼくに緊急の用でBTから派遣されてきたことを告げ、空中で大判のスカーフサイズのヴィジョンを開いた。すぐにBTの係長フンコロガシの富田さんが映り、早口でまくしたてた。
要約すると、現在二十六歳男性№096―2452671高山融のサードGTとセカンドBTが逆転してしまっている、足りないタームは一週間でGTである、これはGTの前係長のミスである可能性が高い、ということだった。足りないタームがBTならば修正は容易だが、GTで足りないとなると修正が効かず、最終的にLSを削ることになってしまう。
何とかします、とヴィジョンに録音し、ハチドリに持たせた。マー君なら前係長の代からいたはず、と急いで携帯電話にかけたのに、電源切れてる・・・。だから切るなって言ったのにー。一年目のこと、まだ根に持ってんだな。ぼくは頭をかきむしりながらどうすべきかを考えた。
部下は今頃タンポポに夢中で仕事のことなんか頭にないだろうし、もう書類上でどうこうできる段階ではない。前任者トドの坂田さんは定年退職して、確か何とかっていう大きな木に生まれ変わったって聞いた。管理局に知られれば余計面倒なことになるだろう。ああもうかくなる上は、ぼくが直接ニンゲン界へ行って無理やりBTをGTにしてしまうより他にない。
立ち上がって自分のロッカーに行き、下界へ行く準備を始めた。下界へ下りるのは初めてだけど、この役職に就く前に半年間もニンゲン研修を受けているから、大体のことはわかってる。昔と違って今は神界にもニンゲン界の生活用品が出回ってるから使い方もわかる。
まずランドセルと呼ばれる黒い皮でできた荷物入れに№096―2452671の調書とニンゲン辞典(最新版)とニンゲンマニュアルを入れ、洋服を着、異様に黄色い帽子をかぶり、スニーカーと呼ばれる(老人はズックと言うらしい)、布を紐で縛ったものを足につける。どうして人間はこんなにも色々と体に付属品をつけるのか。重いし動きにくい。それに足の指が動かせないのは非常に不快だ。イヤしかし・・・仕方ないのだ。この格好がぼくの年齢の男子の「標準」らしいのだから(ニンゲンマニュアル第二章「年齢に合わせた服装のあれこれ」第三節「小学五年生編」参照)。
支度が整うと、GT係を出、唯一下界とつながっている“穴場”(たくさんの穴が開いているためこう呼ばれる)へ向かった。もちろんここへ来るのも初めてだ。下界へ行くには事前に管理局に書類を提出しなければいけないのだけど、通るのは全体の六割だし、仮に通ったとしても許可証が出るまで最低一週間はかかる。待っているわけにはいかないので強行突破は必至なのです。
穴場の番人、ツインズと呼ばれる双子のフタコブラクダに、神からの指示で緊急に下界へ下りる旨(もちろん緊急なので許可証なし)を告げ、一応用意しておいた上等の草を賄賂として与えた。二人は草をその場でむしゃむしゃと食べながらジロリとぼくを一瞥し、穴場に案内してくれた。案外簡単じゃん。
広い雲地に直径一メートルくらいの黒い穴が無数に開いている。そこから風が出入りするらしく、うめき声のような恐ろしい音が絶え間なく聞こえてくる。何だかちょっと怖くなってきた。
ツインズの兄よしおが、一つの穴の横を前足で叩いた。ここに入れということらしい。覗き込むと、無間の闇の底に一つの光が見える。行くべき場所を思い浮かべながらこの穴に飛び込めばいい。うーんタイミングが、と思いながら躊躇していると、いきなりよしおに背中を蹴られ、声をあげる暇もなくその中へ落ちた。
我に返って目を開けても、閉じている時と変わらない。まだ落ち続けているのだ。下を見ると、光が少しずつ大きくなっていくのがわかった。ぼくはそこで少し冷静になって、調書にあった№096―24・・・高山でいいや。高山の住む日本国東京都世田谷区の住所と、写真で見た高山の顔を思い描いた。
光がどんどん大きくなり近くなり、それにつれて雑音も増えてきた。もうすぐだな、と思った瞬間、体に強い衝撃を感じた。目を開けると、目線のずっと先にぼくを落とした穴が見えた。その白い穴は次第に小さくなり遠くなりやがて消えた。
ランドセルが衝撃を吸収してくれたようで、体はどこも痛くない。ランドセルとはこういう時に役立つものなのだな、と思いつつ立ち上がる。やけに薄暗く、視界が悪い。これが夕闇というものか。とすると、もうすぐ噂に聞く「夜」になるんだな?ウーン、これからどうしたものか。周りを見渡しても高山らしき男はいない。しかし急がなくては高山のサードGTが終わってしまうのだ!
「あらあらボーヤ、こんなところで何してるの?ママは?」
 ニンゲンだ!やっぱりぼくと似てる!毛だらけじゃないし、手の平にも乗らないし、テカテカしてない!
パーマネントをあてた髪、前掛けと呼ばれる白い布をつけた太い胴体、大きなかごから覗くねぎと大根・・・これはまさしく、「中年女性」タイプのニンゲンだな。非常に世話好きで話し好き、デパートの地階か道端によく出没すると言われている・・・ってことは、ここはデパートの地階か道端ってことなのか?
「ボーヤ?」
「あのう・・・ここはどこですか?」
「まあまあ迷子?ここは羽根木公園よ。わかる?わからない?どーしましょ、交番行った方がいいわね。大丈夫よ、おまわりさんがボーヤのお家見つけてくれるから。さあついていらっしゃい」
 「オマワリサン」とは警察官の別称で、交番とは警察署の分署のことだな。そこで人捜しもしてくれるはずだ。いいぞ!中年女性!
 嬉しくなっていそいそと中年女性のあとについて近くの交番へ入った。紺色の制服を着た男性が二人、ぼくの顔を見ながら中年女性の話を聞いている。パパとどっちが背、高いかな、と考えていると、
「ボク、名前は?」
 と不意に聞かれて気が動転してしまった。そうだ、ニンゲン界では名字と名前で識別するのだった。
「ぼくは神の子だ」
 とっさにそう答えると、
「カミノコウタだね?カミノ・・・この辺りじゃ聞かない名字だなあ」
 オマワリサンは首をかしげた。とりあえず、ぼくはカミノコウタという名前をもらった。
「お家なんだけど、何区、だったら住んでいるところわかるかな?」
「日本国東京都世田谷区××―×」
「日本なのはわかってるから。変わった子だなあ。じゃあそこに行けばわかるかな?」
「わかるわかる!」
 オマワリサンの一人がぼくを高山の家へ導いてくれることになった。ここまではよし、っと。でも、高山の家へ行ってぼくはどうするべきか?慌てて出てきたから計画性が一切ない。そこで苦肉の策。
「あの、尿意を催したのですが」
「尿意?」
 オマワリサンがぼくの顔を見た。その顔には明らかに『何言ってんだこの子は』と書いてあった。何か間違ったことを言ってしまったのだろうか?一瞬の沈黙。
「ああ、あ~トイレに行きたい、ってことかな?そこのドアを開けてすぐのところ」
 トイレ・・・そうか、尿意を飛び越してトイレに行く、という行為を先に述べるべきだったのか。ぼくはその狭い個室に入り、生まれて初めて見た便器に座って、ニンゲンマニュアルを開いた。
 第三章「ニンゲンに出会ったら」第一節、「初めてニンゲンに会い、任務をこなす時編その4」、「ニンゲンは知らない者を警戒する性質があるので、親類の人間だと思い込ませることが最適」とある。その方法は、ニンゲンの両目を見据え、自分はあなたの親類でアール、と唱えるだけ。なるほど。しかし、『親類』とは何だ?ええっと、辞書辞書・・・
「おーいコウタ君まだかな~?」
「はい、ただ今!」
 急いで個室から出、オマワリサンのあとについて夜道を歩いた。やけに眩しい通りを抜け、四角い建物が密集する小道を行く。通り過ぎるニンゲンはみんな黒っぽい服を着て、うつむくように歩いている。
「コウタ君、ついたよ。高山、って書いてあるけど、ここでいいのかな?」
「はい」
 オマワリサンが、こじんまりとした一戸建て住宅の石の門についているボタンを押すと、そこからニンゲンの声がして扉が開いた。女性の声だ。
「ママ!」
 板チョコみたいなドアを開けて出てきた女の人を見て、ぼくは思わず叫んだ。自分の思考より先に声が出てしまったのは初めてのことだ。
 ああ、しかし紛れもなくママだった。写真の中にいた、笑っていた、ぼくのママだ!
「あの・・・?この子はどちらのお子さんですか?」
ママはぼくとオマワリサンを交互に見ている。オマワリサンもぼくとママを交互に見ている。ぼくだってわからない。どうしてここにママがいるの?でも、ママの困惑した表情と他人を見る眼差しで我に返った。
「コウタ君?」
「どういうことでしょう、この子は、」
「ぼくはあなたの親類でアール」
 ニンゲンマニュアル通りの言葉を唱え、ママの顔を見ると、ママは何かに気付いたように目を大きく開けた。
「この子は・・・そうよ、妹の子だわ。そうよね、今日から家に来ることになっていたのよね。うっかりしていたわ、ごめんなさいね」
「そうでしたか、よかったね、コウタ君。では、私はこれで」
 オマワリサンが行ってしまうのを、何だか遠い気持ちで見送った。恐る恐る見たママの顔は、安心したように笑っていた。ぼくは急にドキドキして、でも悲しくて仕方なかった。抱きしめて欲しくて仕方なかった。こんなにもたくさんの感情を、ぼくは知らない。
「入って?遅かったわね。コウタはから揚げが好きなのよね」
 鼻の奥がツンとして、目の辺りがムズムズしたけど、何とかうなずいて、ママの顔を見ないようにして靴を脱いだ。
「ママ、」
「あらあら、私はあなたのママじゃないわよ」
 そう言って、でもママはぼくの頭をにこにこしながら撫でてくれた。温かくて、くすぐったくて、思わず抱きつくと、ママは黙って背中をさすってくれた。知ってる匂い。ぼくは、写真の中だけのママでいいなんて本当は思っていなかったんだ。寂しかったんだ、ずっと。
「ママと離れて悲しくなっちゃったのね。あなたのパパの出張が終わればすぐに会えるわよ。ほら、ご飯の支度ができないわ。ランドセル下ろして、テレビでも見ていらっしゃい」
 そう言ってママはぼくから手を離した。イヤだ、と言いたいのを必死でこらえて、ぼくも手を離した。
 通された客間でランドセルを下ろし、帽子を取り、高山の調書を読み直した。二十六歳、小学校教諭、独身、付き合って二年の恋人アリ。
調書を読みながらも、ママのことをくり返し思った。ママはぼくのことを覚えていなかった。それどころか、今はぼくじゃなくて高山融のママだ。どういうことなのだろう。
フォトフレームの中のママは、日々年をとる。髪も伸びるし服装も変わる。ぼくが初めて見たママは、そういえば調書の高山融の写真にどことなく似ている気がする・・・。ダメだ、ぼくは神の子だ。パパが引退してしまったら、ぼくが神になって全てを守っていかなくちゃいけないんだ。今考えるべきことは、別のことだ。あと一週間、高山の幸せだけを考えなくちゃ。
まだBTが続いているはずだからそれをまず止めて、GTに移行、一週間が過ぎればゆるやかにBTとGTが混じり合う期間が始まる。
「おかえり融、コウタがもう来てるわよ」
「コウタ?」
 まずい、高山が帰ってきた!ぼくは調書をランドセルにしまい、玄関へ向かった。
「・・・君は?」
「ぼくはあなたの親類でアール」
「お、コウタ、しばらく見ないうちに大きくなったなあ」
 微かに高山は笑った。でも、ぼくは笑えなかった。その表情には疲労と苦悩が強く深く彫り込まれていたからだ。ニンゲンの二十六歳にしては年を取りすぎている感じがあった。
高山は背が高く、ぼくの頭に乗せられた手の平も大きかった。パパのことを思い出した。
「今日、お父さん遅くなるって言うから、先に食べちゃいましょう。二人とも手を洗ってきて」
 ドアガラスの向こうからママの声。ぼくの代わりに返事をした高山が、ひどく羨ましかった。
「これは、スズキ目サバ科の鯖、料理名は鯖の味噌煮」
「そうだよ、コウタは物知りだな」
「これは・・・どうやって食べるの?」
「オイオイ、食べ方は知らないのか?どれ貸してみな、ほぐしてやるよ」
 ニンゲン界に下りてみると「空腹感」が生まれた。体の力が抜け落ちてしまうような、奇妙な感じだった。
 帰ってきた高山(父)にも親類だと思わせることに成功し、カルピスというとてつもなくおいしい飲み物を飲んでいると、
「融、コウタにウーちゃん見せてあげなさいよ」
 とママが言い出した。また聞いたことのないおもしろそうなものかな、とワクワクしながら高山のあとについて庭へ出ると、大きなかごに入ったマー君そっくりのウサギがいた。
「マー君!」
 ぼくが呼びかけても、白いウサギはぼくを見向きもしない。高山が与えたほうれん草を、無表情のままもぐもぐ頬張っている。ニンゲン界のウサギはやっぱり喋らないんだ。そう言えば、マー君がニンゲンはウサギをペットにしたり食べたりするから嫌いだと言ってたことがあったっけ。こうやってカゴの中に入れてほうれん草を与えてそれを見守ることがペットにするってことなのか。
「ウーちゃんはもう五年も生きているんだ。長生きだろ?」
「マー君はもう十年以上働いているんだぞ」
「は?」
「いやなんでも・・・ところで、高、っと、お兄ちゃん悩みでもあるんじゃないの?」
「そう、見えるか?」
「何だか辛そうな顔してる」
「うーん、顔に出てるかあ。いや、今俺さ、小学五年生、コウタと同じ学年のクラス担任なんだけどさ、みんな言うこと聞いてくれないんだ。何度注意しても、クラスで話し合いをしてもうまくいかないんだ。以前はこんなことなかったのになあ。俺、先生に向いていないんじゃないかってよく思うんだ」
 学級崩壊、というやつかな。ニンゲンジャーナル教育版によく掲載されていたっけ。
「他にもあるでしょ」
「コウタはするどいなあ。何でもわかっちゃうんだな」
 高山はウサギを見つめながら、横顔のまま笑った。月の光が、高山の頬を青白く染めている。
「付き合い始めて二年になる彼女がいるんだけど、お見合いするって言い出したんだ。親がうるさいからって言ってたけど、本当は俺と別れたいんじゃないかなって思っちゃうんだよな。ああ、情けないよな」
 申し訳ない・・・それはトドのミスター坂田のせいなんですよ、とも言えずに黙った。
「このことは、父さんや母さんには内緒だぞ?心配かけたくないからさ」
「ねえお兄ちゃん、ぼく、学校に行きたい」
「うーん、どうかな。転校ではないし、手続きとか色々あるだろうし・・・」
「お願い!寂しいんだぼく・・・」
 ニンゲンマニュアル第五章「ニンゲン生活に慣れよう」、第三節「ニンゲンと交流を深める時編その2」、「ニンゲンは“寂しい”という言葉に弱い。的確に使用すれば手の届きそうな願い事なら簡単に引き受けてくれる」。
「そう、だな。少しの間だし、校長先生に頼んでみるよ」
 高山はそう言ってぼくを見た。ぼくは、“何とかするから”そう何度も思った。だって高山の目はとても悲しく光っていて、放っておいたら死を選んでしまいそうに見えたんだ。
 あくる朝、高山が学校へ行くのを見送ってママと二人きりになると、ママは主婦の仕事で調理に次いで重要度が高いと言われる“洗濯”を始めた。ぼくは珍しくもあり、くっついていたくもあり、手伝うことを申請した。
「あら、コウタは優しいのね。じゃあ、この洗濯カゴの中の、裏返しになっている靴下を表にして洗濯機の中に入れてくれる?」
 なんだそんなことか。その程度の仕事しか遂行できないとママはぼくを甘く見てるなと思った。しかし。
「ママ、臭い、腐ってるよ、これ!」
 強烈な異臭だ。毒物混入か?はたまた新手のテロか?
「あら腐ってないわよー。これはパパの。ママもねえ、パパの靴下を触る時はゴム手袋をしてマスクをすることにしてるのー。終わったら手を洗ってね」
 重要な任務だったんだな。それにしても、大人になったら足元から異臭がしだすなんて、ニンゲンはやっぱり不思議だ。
「パパは病気?」
「本人は断じて水虫じゃないって言ってるけど、この臭みは異常よねえ」
ママは笑いながらシャツの襟元に何か塗っている。神界にいれば、こんなことしなくていいのに、どうしてぼくのこと忘れてここにいるんだろう。神界が嫌になってこっちに来たのかなあ。何でぼくをおいて高山のママになっちゃったのかなあ。
「どうしたのコウタ、パパの靴下触りたくないならママがやるわよ?」
「いい、ぼくがやる!」
 ぼくの肘くらいまである大きな靴下を、口で息をしながら洗濯機の中に放り込んだ。ママが透明な液体を入れ、スイッチを押すと、洗濯機の中で水がぐるぐる回り始めた。見ているとぼくもぐるぐる回ってるみたいに思えた。
「これで臭みがとれるの?」
「そうよ。さあ次は掃除機をかけるわよ」
 ママは洗濯機の蓋を閉めて腕まくりをした。ニンゲンのママって忙しいんだ。それに、ニンゲンって何かを綺麗にするのが好きみたいだ。体や機械や時間を使って。昨日歩いた道路にはいろいろな物が落ちてたり、色が変わってたり臭かったりしたけど、あそこは誰がきれいにするんだろう?
「ねえママ、」
「あら電話だわ。コウタ、掃除機のコードを出しておいてね」
 ママが機械を持って何か喋っている。あれ写真で見たことあるなあ。何ていったっけなあ、と思いながら掃除機の後ろについているねずみ色のコードをひっぱった。ひいてもひいても終わりがないように思えて何となく怖くなった。
「コウタ、学校行けるって。よかったわね」
 ママが、コードに絡まっているぼくを見て笑った。その時、ママはもう神界に戻る気はないのかも、って思えて悲しくなった。なんとなくだけど。
「午後から小学校に登校できるそうよ。お昼ごはん食べたら行きましょう。ママもついていってあげるわね」
 “学校”は話に聞くより何倍も大きかった。鉄の門を開けて入ると、丸くて大きな広場があって、隅っこに変な形のオブジェが置いてある。正面には、ニンゲン界で見た中で一番大きな建物があった。白くて窓がたくさんあって、そこからニンゲンの声が聞こえてきた。
 ニンゲンは四角や三角の角がある建物に入るのが好きみたいだ。神界にはこんな形のものはほとんどない。硬い扉も四角い窓もない。空を遮る線もない。いろんなものがありすぎて、窮屈で苦しくないのだろうか?
 コーチョーセンセーという等級が一番高いらしい中年男性に挨拶をして、ママに高山のクラスまで送ってもらった。
「じゃあね、みんなと仲良くね」
 そう言って、ママは行ってしまった。学校が終わったらまた会える。ぼくは今から仕事をするのだ。ノックしてドアを開ける。
教室内にいた生徒の動きがピタリと止まり、ぼくに視線が集まった。家にいる時よりさらに辛そうな顔をした高山がぼくを黒板の前に立たせ、名前を言った。ぼくが空いている席に座った途端、生徒が騒ぎ始めた。いや、騒ぐなんてもんじゃない、暴れる、だ。
 女の子は女の子同士で席をくっつけ、雑誌を読んだりマニキュアを塗ったりしてキャーキャー言ってるし、男は男で教室内で野球を始めるわ壁に意味不明な落書きをするわで、てんやわんやもいいところだ。何度ぼくの頭にボールが当たったことか。ニンゲンの十歳とはこんなにも幼稚な行動をするものとは知らなかった。これは議題にあげなくては。しかし高山は注意もせずに授業を進めている。もちろんぼく以外誰も聞いていない。でも聞きたくても高山の声が聞こえない。
 秩序がない。ルールがない。ここには何もない。ニンゲンはルールに縛られて苦しんでいる、とニンゲン学で習った。でも、ルールのないこの場所はもっとひどい。
 その時、ガラスの割れる鋭い音が教室内に響き渡り、一瞬の静寂が訪れた。幸い窓際には誰もいなかったが、大小さまざまに砕けたガラス片が床や机の上に散らばった。高山がまず動き、
「その場にじっとして」
 と叫んだ。掃除用具入れからほうきとちりとりを取り出して片付け始めても、誰も手伝わない。バットを持った男子が、
「やっべ、失敗しちまったな~」
 と吐き捨てるように言い、ボールを投げた体の大きい男子は、
「ウザイ、ウザイ」
 とガラスをかき集める高山に向かって言った。すると、教室中からウザイコールが起こり始めた。ぼくは立ち上がり、無言でバットを持って笑っている男子の頭をぶん殴った。ボールを投げた方も同様にした。反撃に出ようとした二人を高山が慌てて取り押さえ、ぼくに向かって、
「ガラスの散らばっているところで動くんじゃない。危ないだろう」
 と言った。教室はまた水を打ったように静まった。高山がガラスを回収し、かけつけた他の先生に事情を話しているうちに終了のチャイムが鳴った。
 高山の怒った顔が忘れられない。高山の言動は正しい。ぼくのしたことは間違っている。頭の中ではわかっているのに、どうしてかうまく飲み込めない。高山が怒ったのは当たり前のことで、理解するべきことなのに、どうしてこんなに悲しいんだろう?
「おい、カミノ、ちょっと来いよ」
 放課後、高山に会おうと職員室へ向かっていたぼくを、あの(、、)二人+五人の男子が止めた。学校から離れた廃屋の中へ連れて行かれ、一対七の“決闘”が始まった。
ニンゲンはこんなアンフェアなことをするんだな、とランドセルを放り投げながら思った。でも所詮十歳だ。ぼくの十年とニンゲンの十年とは大分、かなり、相当、違う。ぼくにニンゲンの動きはとても遅く感じるし、手や足をやたらめったら伸ばしてきたって怖くない。掃除機のコードがどこまで伸びるかわからないほうがよっぽど怖い。
 向かってくる小学生を丁寧に一人一人転がしながら、ニンゲンってなんなんだ、と思った。中年女性やオマワリサンみたいに優しくしてくれたり助けてくれたりするニンゲンもいれば、こいつらみたいにルールを無視して不条理でフェアじゃないことをするニンゲンもいる。家の中はきれいにしても外は誰もきれいにしない。そもそもあの人たちはぼくの外見が子供じゃなくても助けてくれたのか?どうして高山はこんな子供に振り回されているんだ?みんな種族が違うのか?同じニンゲンじゃないのか?わからない。ぼくにはわからない。
「おいカミノ、俺達の負けだ。許してくれ」
 教室でバッドを持っていたガタイのでかい男子が言うと、他のやつらも口々にごめんごめんと言い出した。
「俺は山中秀雄だ。お前、強いな」
 山中は傷だらけの顔で笑った。ぼくは拍子抜けしてしまったけど、仕方なく、まあね、と言った。
「おい帰るなよ、そこ座って、はいもう何もしないから」
 七人をぼくの目の前に座らせ、なぜ教師である高山の言うことに従わないのかと聞いた。
「別に、初めはしたくてしたわけじゃねーよ、ただなあ」
 そう言って、山中は隣の、田中と名乗った男子に目配せした。
「ただ、何だよ」
「リカがさあ、あいつのこと気に入らねえって言うからさあ。それに、やり始めたら案外おもしろくなったし」
「俺はどっちでもいいけどさ、やらないと殴るって山中が言うから」
 と隣の田中。パパの言う通り、何にでも原因があるということ、ニンゲンの子供は思考回路が単純すぎる、ということが本日の結論。
「高山って弱えーし」
「お前らの方がよっぽど弱いよ。先生はあの時お前らをボコボコにすることだってできたのに、それをしないでガラスの破片でぼくたちが怪我をしないように、って守ってくれたんだろ。お前らってほんとガキ」
「何だとカミノ!」
「だってそうだろ。女の言う通りに先生いじめて恥ずかしくないのかよ」
 七人が黙った。なぜか泣き出すヤツもいた。山中はふてくされたようにそっぽを向いている。でもぼくは思った。こいつらは本当はそんなこと、とっくにわかっていたんじゃないかって。
「ところで、リカって誰?」
「うちのクラスの女子だよ。学年で一番かわいい」
「お前、リカに気がつかなかったのかよ」
「わかんないよ。みんなガキすぎて区別つかない」
「言ってくれんじゃんカミノ」
 田中が笑った。山中も苦笑しながら坊主頭をかいている。
「知らないかもしれないけど、高山先生って実はめちゃめちゃ強いんだよ。リンゴや缶ジュースなんて親指と人差し指で潰せるし、素手で電話帳裂けるし、自転車なんて片手で持ち上げるし、両手なら一人でトラック押せるんだ」
 ぼくは研修で見た“世界びっくりニンゲンたち”がやっていたことを言った。
「嘘だろ?おい、あいつが?」
 七人は顔を寄せ合って囁いている。
「一回本気で怒らせたら、君たちの頭蓋骨なんて粉々」
「そんなことしたらよお、ピーテーエーが黙ってねーだろ」
「頭蓋骨粉々にされたら、PTAも何も関係ないと思わない?」
「っつーか、何でお前がそれ知ってんだよ」
「見たんだよ、ぼく。先生が溝にはまって動けなくなってたトラックを手で持ちあげて元に戻してあげたのを、さ」
「やばくねえ?つえーよ」
「まじかよ、こえーじゃん」
 ニンゲンのいいところは、素直なところだな、うん。
「コルアァ入るなと言っただろうクソガキがあ」
「やべぇ、ハゲタカだっ」
 割れた窓に、大きなハゲ頭がのぞいている。何だ?と思う前に七人がランドセルを持って一斉に走り出した。ぼくも七人のあとを追って廃屋の裏口から外へ出た。
 息が切れるまで走って、気がつくとまた学校に戻っていた。そこで七人とは別れ、帰路についた。
 ぼくよりあとに帰ってきた高山は、昨日の夜と同じように疲れた顔をして、でも愚痴の一つもこぼさずに黙々とご飯を食べている。パパもママもぼくには学校の様子を尋ねるけど、高山には話を振らない。昨日はわからなかったことが、今日は少し、見えたように思った。
 夕飯のあと、高山と二人でウーちゃんに餌をあげに行った。ウーちゃんはやっぱり無言で大根の葉っぱをむしゃむしゃ食べている。
「今日、怒鳴ってごめんな、コウタ」
「気にしてない。あそこで殴ったぼくが悪いし」
「それと、ありがとな」
「何が?」
「本当は、殴りたかったのは俺だ。コウタが山中と田中を殴ったところを見て、少しすっきりした。教師失格かな」
「お兄ちゃん、もっと怒っていいと思うよ?相手は子供だよ」
「子供のお前が言うなよ」
 昨日と同じように、高山は横顔のまま笑った。
「わかんないやつには、少しくらい脅した方がいいんだ。殴っちゃダメなら、机くらい叩いたら?」
「そうだな、優しすぎるって可菜子にも言われるんだ」
「可菜子って、彼女?」
「うん。今週の土曜日にうちに来るよ」
「ふうん・・・ねえ、お兄ちゃん、ハゲタカっていう名字あるの?」
「いろんな名字の人がいるけど、さすがにハゲタカなんてのはないんじゃないかな」
「じゃあ名前では?」
「名字よりもっとありえないなあ。そんな名前をつける親はいないだろう」
「じゃあハゲタカって何」
「人間のハゲ頭みたいに、頭部に毛のないタカのことだよ」
「・・・なるほど」

 次の日、学校へ行って“リカ”を探した。どの子が一番“かわいい”のか、やっぱりぼくには判断がつかない。大あくびをしながら教室に入ってきた山中に聞くと、女子の中心にいる髪が長くて色の白い、一番派手な服装の女子だとわかった。
 ニンゲンは心の中が外見に反映される不思議な生きものだ。しかし、ニンゲンの子供は本当の姿を見る目を持っていない。ニンゲン学ではその逆だと習った。
「お、おはよ、う。朝の会、を始めます」
 顔を上げ、男子がきちんと席についているのを見て、一瞬高山の動きが止まった。リカが異変に気付き、山中や田中を睨んだ。
「女子、自分の席に着きなさい」
 それでもリカたちは無視して話を続けている。
「席に着けと言っているだろう」
 高山が教卓を握りこぶしで叩いた。すると、教卓がミシミシと音をたてて壊れ、次いで壁掛け時計が崩れ落ちた。朝早く来て解体した甲斐があった。効果はテキメンで、ビビった男子が口々に、
「席に着けよ、やばいよ」
「早くしろよ、殺されるぞ」
 と女子に言ったから、ふてくされた顔をしながらも席に着いた。一番びっくりしていたのは高山で、自習しているように、と言い残して慌てて教室から出て行った。
「ちょっと、どういうつもりよ」
「うるせーな、もうやめたんだよ」
 リカが顔色を変えて山中に詰め寄ったが、山中は応じない。
「意気地なし!弱虫!最低!」
 リカが言うと、他の女子も同じようなことを連呼し始めた。何なんだニンゲンの子供(女)というものは。ニンゲン学では男が女を殴るのは最低の所業だと習ったが、よくニンゲン(男)は我慢できるな。ぼくが短気なだけか?それとも大人になるとパパみたいに優しくなるのか?
「意気地なしはお前だろ、リカ。高山にふられたからって腹いせに俺ら使うんじゃねえよ」
 何!?初耳だぞ、それは!リカは見る見る赤くなって、さっきよりももっと強く山中を睨んだ。耳まで真っ赤になって、目も口もつり上がってまるで別人だ。
「おっかねー、あの顔ひくわー」
 田中が俺に顔を近づけてつぶやいた。もしかして、力の弱い女子の、これが精一杯の威嚇なのだろうか?ニンゲンとは複雑だ。
 突然、リカがわざとらしいほど大きな声をあげて泣き出した。ポロポロと涙が頬を伝い、それでも何かわめいている。これはもしや、威嚇第二弾か?山中も明らかに狼狽して、何とかしろよ、と近くの男子の肩を小突いている。効果あるな、これは。ニンゲンの子供(女)は男を心得ている。
「いやー驚かせて悪かったね。今片付けるから、」
 高山が用務員の老年男性を連れて教室に入ってきた。泣いているリカを見つけると、
「どうした?どこか痛いのか?」
 といつものように優しく声をかけた。
「違うの、山中君が、」
 しゃくりをあげながら、リカは山中を指差した。指された山中は、俺何もしてねーよ、としどろもどろに弁解した。しかし高山は、
「女の子を泣かすなんて男として一番いけないな。里村に謝りなさい」
 リカは山中に対して怒っている高山を見ると、即座に泣き声を和らげ、指を絡ませ、先生。とつぶやきながら頬を桃色に染めた。目は大きく開き、心なしかキラキラと輝いている。これが“かわいい”というものだと、その時ぼくは理解した。ニンゲンの女子、恐るべし。そして山中、男って切ないな。
 放課後、山中と田中をハゲタカハウス(命名ぼく)に集合させ、明後日の土曜日に高山家へ来るよう命令した。今までのことで、高山は優しいが相手のことを思いやりすぎる、という性格を持つことがわかっている。GTを完成させるには、強い押しの一手が必要なのだ。
「何でお前んちに行かなきゃなんねーの。野球の練習があるんだよ」
「いいから来いよ。おいしい何かとかわいいウーちゃんが君たちを待ってるよ」
「ウーちゃん?何それ、食うの?」
「・・・食べないよ」

「ウーちゃんはにんじんが一番好きだね」
「やっぱり違いのわかる男だな、コウタは」
 今日一日、誰も教室内野球をしなかったし、授業中のお喋りもなかった。最初は教卓や時計の件もいたずらの一つだと疑っていた高山だったが、一日が終わるとほっとした顔をして教室を去った。優しいというよりも、気が小さいのかもしれない、と高山メモに記入しておいた。
「ねえお兄ちゃん、リカって子と何かあったの?」
「・・・内緒だぞ?里村にな、ラブレターをもらったことがあるんだ。初めてのことで予想もしていないことだったから驚いたよ。でも、はっきり言わないと、って決心がつくまで一ヶ月くらいかかったなあ」
 確か、ニンゲンの法律では成年は未成年と恋愛関係に陥るのは禁止されているんだっけ。ぼくはその感情がわからない。ぼくより(実際は)年下の女子がその感情を持っている。ぼくはそれを相手に伝える術さえ知らない。女子って、やっぱりすごいな。
「ぼくは教師で君は生徒だから、君が望んでいるような関係には決してなれないし、君と同じ感情をぼくは持っていないって伝えたんだ」
「結構はっきり言うね・・・」
 どこまで正直な男なんだ。普通に断ればいいものを、そこまで痛めつけられたら、反抗したくもなる・・・のかなあ。
「はっきりさせたほうが里村のためだと思ったんだ。そういえば、クラスが荒れ出したのもその頃からだったような・・・」
「もっとうまくやんないと」
「苦手なんだよ、そういうの。それより、今日のクラス、雰囲気が変わりすぎだよな。女子は大人しくなったし男子は妙に固まってるし。お前、何かしたのか?」
 ぼくは大げさに首を振って言った。
「ほら、机、叩き壊したでしょ。あれが効いているんじゃない?」
「そうなのかなあ」
「たまには壊すべきかもよ」
 高山はウーちゃんから目を離して夜空を見上げ、もうすぐ月が満ちるな、とつぶやいた。ぼくには円に見えるけど、高山の目にはまだ欠けて見えるんだ。
ああ、遠いところにあるなあ。

 夜、何かの擦れ合うバサバサという音に気付いて目を開けると、連絡係のハチドリがオーロラヴィジョンをくわえてぼくを見下ろしていた。ついに見つかってしまったのだ。ハチドリは神からのメッセージである旨をぼくに告げ、ヴィジョンを開いた。同時に映像と音声が始まる。
「パパです。事情は聞いたよ。連絡もなしに下界へ降りるのはマナー違反だとわかっているね?№096―2452671のサードGTは残り三日だと聞いている。まだ不十分であることは君も気付いていると思う。三日で結果を出せない時は№096―2452671のLSを縮める予定だ。君の成功を祈っている」
 プツっと音がしてヴィジョンが暗転した。
「ねえハチドリ、神界はぼくを探していたの?」
「さあ・・・あっ大騒ぎでしたっス。いやー、オレッチもあなたを探すよう命じられてずっと寝ずに、」
「なるほどね。ぼくが降りたことを知っていたのにパパは放っておいたんだね。どうりで連絡が遅いわけだ」
「違うっスよ違うっスよ」
 ハチドリは興奮して部屋中をバタバタと飛び回った。
「しぃーっ。みんな起きちゃうよ」
「大丈夫っス。ニンゲンには聞こえないっス。オレッチは余計なこと何も言ってないっスからね」
「わかってる。全てぼく自身の憶測だよ。君は・・・何て名前、」
「ハチっス」
「・・・ハチはこっちにはよく来るの?」
「たまーにっスね。任命があれば来るっス」
「ハチのママはこっちにいるの?」
「いるっスよ。いるっスけど、オレッチのことはもう忘れちゃってるっス。時間があれば様子見に飛びますけど、まあ虚しいんであまり・・・」
「何で覚えてないの?」
「記憶を消されちゃったからっス」
「何で消されたの?」
「それは、」
「ハチ?」
 ハチが異変に気付いて口を閉じた。ハチの視線の先にもう一匹のハチドリが現われた。
「ハチ、お前余計なことをベラベラ喋るな!転生できなくなるぞ!」
「それまずいっスまずいっス。それじゃ息子さん、バイバイっス」
 パチン、とシャボン玉が割れるように二匹の姿が消えた。静寂の闇の中に、照明器具がほの白く浮かんでいる。
 ぼくが今こうしているのも、ママに会ったのも、全てパパの計画だ。記憶が消されたママの元に、どうして?
「コウタ、もう起きなさいよ。今日は可菜子ちゃんが来るんだから、ちゃんと挨拶してね?可菜子ちゃんは、融にはもったいないくらいかわいいのよ」
 天井の方からママの声。そして開け放たれるカーテンと窓。ずっとこんな毎日が続いてきたみたいな錯覚。
あまり眠れなかった。あと三日でここを去ることが、急に現実となってぼくの胸に迫った。
「あらあら甘えん坊さんねえ」
 ママに抱きつくと、ママはぼくを抱きしめてくれるのに、もっともっと寂しさは増していく。ずっとここにいたい、と言ったら、それは許されるの?
「ほらもう着替えてキッチンにいらっしゃい」
 ママが離れていく。ぼくから離れていく。笑いながら、でも確実に。
「怖い夢を見たのね。大丈夫、すぐに忘れるわ」
 これがぼくの現実だと思いたい。ぼくが神の子だということを忘れてしまいたい。こんな弱いぼくが、神の子だなんてきっと嘘だ。
「コウタ、しっかりしなさい。男の子でしょう?そんなんじゃだめ。男の子は女の子を守れるよう、強くなくちゃね」
「そうだね、ママ」
「じゃあ顔洗って、ご飯食べるのよ」
 扉の閉まる音。遠ざかっていく足音。冴えてくる思考回路。ぼくは寝ぼけていたんだ。懐かしい夢を見て。幸福すぎる夢から覚めたくなくて。
 二階からキッチンへ下りると、食事を済ませた高山が新聞を読んでいた。いつもどこかに寝癖のついている髪もきちんとセットしてあるし、アイロンがきっちりかかった白と水色のストライプシャツなんて着ちゃってる。平日より明らかにめかしこんでる・・・。
「コウタ、今日の融、いつもと違うと思わなーい?」
 ぼくのコップにオレンジジュースを注ぎながらママが言った。
「可菜子ちゃんが来る日は、学校に行く時より早起きするのよ。もう二年も付き合っているのにねー」
「母さん、うるさいよ」
「あら、聞こえちゃったのねー」
 高山は、誰が見てもすぐわかるくらいソワソワしていた。見ている側が微笑んでしまうくらいに。これが“レンアイ”という感情の流れなのか?楽しそうで嬉しそうでぴかぴか光ってる。だからGT=レンアイという方式は固いんだな。
「こんにちはー」
「あら可菜子ちゃんだわ」
 ママが玄関へ向かう。高山も慌ててあとを追う。
「いつぶりかしら。お仕事忙しかったの?本当に久しぶりね」
「おばさまお久しぶりです。会社の同僚が急に退職してしまって、その子の分までお仕事していたので・・・」
「そおなの?まあまあ大変ねえ」
「あの・・・?」
 リビングに入ってきた高山の彼女は、ぼくを見て立ち止まった。ぼくも、彼女の雰囲気がママにそっくりで驚いて見つめ返した。
「この子は従兄弟のコウタ。両親が出張中でうちで預かっているんだ」
「こんにちは」
 ぼくが挨拶をすると、彼女もにっこり笑ってお辞儀をした。笑うと顔がくしゃってなってえくぼができるところまで似てる。ニンゲンは親と似たところを持つ者に惹かれる傾向があるらしい。でもぼくはその微笑の中に、決意に似た悲しみが混じっていることを見逃さなかった。
 高山(父)とママ、高山とその彼女とソファでお茶を飲みながら話をしている時も、ぼくは何だか落ち着かなくて、ストローでコップの中の氷をずっとつついていた。高山(父)もママも笑っていて、でも彼女は笑っていなくて、高山も違和感に気付いている感じ。ぼくは喉の下のあたりがムズムズ。これは何という感情だろう。不安で、嫌な感じだ。
少し観察していると、バラバラでフラフラで、この二人の土台は今にも崩れそうなんだってわかった。二人とも押したり戻したりしすぎてどうしたらいいかわからなくなっちゃってる。
二人が壊れることが、高山にとっては良いこと?長い長い目で見てそうだったら・・・?ぼくは想像した。でも、違った。それはあるべき未来から外れている。ぼくにはわかる。でもなぜ?“ぼくにはわかる”
「パパとも話していたんだけど、私たちが言うようなことじゃない、とは思うの。ねえ、融?」
 ママが彼女の目を見た。高山(父)も頷いている。
「そろそろ結婚、」
「母さん、それはぼくたちが決めることで、」
 高山が押しとどめるように言った。彼女の顔を見ないようにしているのがわかる。彼女が顔を上げる。責めるような、懇願するような、必死な目をしていた。なのに、高山は言わない。言おうともしない。沈黙を破ったのは彼女だった。
「すみません、急に用事を思い出して、」
 言いながら立ち上がり、嗚咽をこらえながらふらふらとぼくの横を通っていった。高山(父)は無言で高山を睨み、ママは慌てて席を立とうとしたが、高山(父)の手で引き戻された。
「融、」
 高山(父)が強い声で言うと、高山はうなだれていた頭を何とか起こし、彼女のあとを追った。ぼくもそのあとを追った。玄関ホールの少し手前で高山は彼女の腕をつかんだ。彼女は泣いていて、その目の中の決意は一秒ごとに増しているように見えた。とその時、玄関のドアが勢いよく開き、ダミ声が響いた。
「コータ君いますかー!」
 山中と田中だ!タイミング違う!
「・・・ん?」
 さすがの山中と田中もこの異常な雰囲気を察知したらしく、三秒くらい黙ってはいたが、
「あーっ、先生が女泣かしてる!」
 と山中が叫ぶと、田中も(なぜか)臨戦態勢に入った。
「俺らには女子を泣かすなんて男としてよくないな、なんて言ってたくせによー」
「自分こそ泣かしてんじゃん。ずるいぞー」
 二人が来ることを(当たり前だけど)知らなかった高山はますます狼狽し、二人と彼女を交互に見た。
「そうだよお兄ちゃん、最低。先生としてより人間として。自分ができないこと、ぼくらに言うなんてさ」
 高山はハッとしたようにぼくを見て、そして彼女に向き直った。
「先生、本当はつえーんだろ?今は前みたいに弱っちく見えるぜ」
「お兄ちゃん、今足りないのは、勇気」
 ぼくはそっと囁いた。大丈夫、高山は弱くない。
「可菜子、こんな時にあれだけど、今まで悲しい思いさせてごめん。本当は俺もずっとそうしたいと思っていたんだ。ただ不安で・・・俺が君を支えていけるのかなって。でも、君がいなくなってしまうのは絶対に嫌だ。だから・・・結婚して下さい」
 彼女が潤んだ瞳を上げ、はい、と返事を・・・するかと思いきや、
「この優柔不断男!」
 という怒声とともに、怒りの鉄槌が高山の左頬に炸裂した。一瞬、その場にいた男共全員が口を閉じるのを忘れた。
「遅すぎる、本当に。みんなに後押しされてやっとじゃない」
「ごめん、」
 高山は泣きそうだ。
「別れようと思ったけど・・・そんなんじゃ心配だよ。仕方ないから結婚してあげる」
 彼女はにっこりと微笑んだ。氷が春の風に溶けていくように、高山もゆっくりと笑顔になった。
「ちゅーしろよちゅー」
 山中と田中が騒ぎ出したから、二人を無理矢理リビングの方に引っ張っていくと、盗み聞きをしていたママと高山(父)と目が合った。ママと高山(父)はぼくたちをリビングに入れ、そっとガラス扉を閉めた。全てがあっという間で、ぼくは何だか拍子抜けしていた。
「やっぱ女ってこえーわ」
「強い先生があんなに弱くなるなんてよお、何だか親近感沸くよな」
 そして二人はどうして先生と一緒にいるのかとしつこく聞いてきて、説明するのも面倒で黙っていると、ママが
「ウーちゃん見せてあげたら?」
 と助け舟を出してくれた。にもかかわらず山中が、
「この前も言ってたよな、ウーちゃんってさあ。うまいのかよ。早く食わせろよ」
 と言ったから、本気でぶん殴ろうと思った。こらえたけど。
それから山中と田中は図々しく晩ご飯まで居座り、おかげで七人分の夕食を作ることになったママはすっごく大変そうだった。目を離すとウーちゃんの投げ合いを始めてしまう山中と田中を見張るのに必死で、ぼくはそれが最後の晩餐だということに気づく余裕もなかった。
山中と田中が帰り、やっと家の中が静かになった頃、ぼくはママに言われてウーちゃんの餌やりに庭に出た。
ウーちゃんのしっぽのようにまんまるい満月が、芝生の上に光を降らしている。ウーちゃんはぐったりとした顔を微かに上げてぼくを見た。耳をピクピク動かしながら、何か言いたげだ。やっぱり似ている。
「マー君、」
「コウタ、餌やりか?」
木戸が開き、可菜子さんを送ってきた高山が庭に入ってきた。
「今日はやけに月が明るいな。まんまるだ」
そう言いながら、ぼくの隣に腰を下ろす。
「コウタが来てからもう一週間になるなあ」
そうだ、ぼくは・・・ぼくの使命を終えたんだ。約束の一週間が、終わる。ぼくは帰るんだ。
「ホント、弟みたいに思えてきてさ、変な気分だ」
「お兄ちゃん、幸せ?」
「ああ。コウタのおかげだな。あ、中山と田中のおかげでもあるかな」
高山は思い出したように笑って、草をむしってウーちゃんの檻の中に投げ入れた。
「そっか、よかった。これから、いいことがきっとたくさんあるよ。でも悪いこともあるかもしれない。だから、忘れないでね、今日起きた全てのこと」
「今夜の月は本当にきれいだ。今コウタと話したことも、忘れないよ、ずっと」
明日、帰るんだ。ママには何て言おう。行かないでって言われたら、ぼく・・・でも、そんなことありえない。ありえないんだ。
見慣れた天井を見上げながら、ぼくは自分に言い聞かせるように何度もつぶやいた。目が冴えて、眠れそうにない。しかし、静かな夜を強引にかき分けて来たのは、またもやあの鳥だった。今回は初めから二匹いる。
「息子さん、息子さん、起きろっス」
「・・・起きてるよ」
「帰るっス」
「帰るのは明日だろ」
「今のほうが都合がいいっス」
闇の中でハチドリはしきりに羽をばたつかせ、微かに光るくちばしの先から、早口でまくしたてる。
「待ってよ、ぼくはまだ、」
「神さんからの命令っス。逆らえないっス」
「ほんの少しでいいから、時間をくれない?少しでいいんだ」
二匹は顔を見合わせ、もう一度ぼくの顔を見た。
「少しだけっスよ」
「神さんには内緒っスよ」
ぼくは客間を出、音を立てないように注意を払ってリビングを通り、高山(父)とママの寝室に忍び込んだ。
窓から月明かりが差し込み、ママの顔を白く照らしている。ベッドの脇にひざを付いて、ママの顔を覗き込んだ。優しく微笑んでいるような、ママの寝顔。
もっと話せばよかった。もっと抱きしめてもらえばよかった。もっともっと一緒にいたかった。ぼくはママの子なのに、どうして離れなければいけないの?
「息子さん、行くっスよ」
「嫌だ」
「冗談はやめてくれっス」
空中からぼくを見下ろしてハチドリは言う。
「冗談なんかじゃない。もう少しだけ、何日かだけでいいんだ」
「息子さん、それだけはだめっス」
「だってぼくが帰ったら、ママはぼくの記憶、消されるんだろ?その前に、」
「息子さん、わがまま言っちゃいけないっスよ。今だって、一週間分の仕事、ほっぽらかしてるんっスよ」
「そのせいでこの人たちの将来に影響が出ることだってありえるんっスよ」
ハチドリはくちばしで高山(父)とママを交互に指した。
「自分を甘やかしちゃいけないっスよ」
「坊ちゃんは、神様なんスから」
ぼくは、神。生きとし生けるものを守ってゆく使命。生まれた時から定められた、ぼくの使命。
「あっ、神から通信っス」
ハチドリが慌ててオーロラヴィジョンを広げた。ママと高山(父)は寝入ったままだ。
「息子よ、もう帰っておいで。パパは随分寂しいよ。仕事は済んだようだね」
「パパ、ぼくは、聞きたいことがたくさんあるよ」
「私も、お前と話がしたい。帰っておいで。ママの記憶を消しはしないから」
「どういうこと?」
そこでヴィジョンは切れた。記憶を消さないって、可能なの?
「息子さん、大穴が開くっス」
ハチドリに促されて、立ち上がった。ママの頬にキスをして、さよならとつぶやく。さよならママ。ぼくのこと、忘れないでね。またね、ママ。
寝室のドアを閉め、ハチドリが持ってきたランドセルを背負い、目を閉じた。それは来た時よりもずっと早く感じた。
頬に当たる風に気づいて目を開けると、一週間前にぼくが入った穴の横に立っていた。中を覗くと、遠く遠くに、ほんの微かに、街の灯りが見えた。ぼくがさっきまでいた街。
ぼんやりしていると、ツインズの弟まさるがぼくをランドセルごとくわえた。
「何すんだよ離せよ!一人で歩けるって!」
ジタバタしてはみたものの、宙吊りにされちゃ手も足も出ない。なすがまま、ぼくは通称“神様ルーム”行きエレベーターに放り込まれた。扉が閉まる時に見たツインラクダは、にこりともしていなかった。
ウィィンと小さな音をたてて真っ白な雲が上ってゆく。ぼくを乗せて。ぼく一人を乗せて。さっきまではニンゲンの世界にいたことまで置いてきてしまったみたいだ。
最上階は神様ルームだけ。エレベーターを降りて白い廊下を通り、白い雲のドアをノックする。
「入っておいで」
ドアが消え、ぼくは見慣れた“懐かしい”空間に足を踏み入れた。白いなあ。天井も床も壁も全部。こんなに白って眩しい色だっけ。目がくらむようだ。
「お座り。大仕事を良くやり遂げたね。偉かったよ。さすが神の子だ」
パパに促されて慌ててソファに腰掛けた。何かぼく、変だ。妙に緊張してる。
そしてパパはにっこり笑って言った。
「試験は合格。これで君は正式に次期神様だ」
「え?じゃあ今回失敗していたら、」
「そう、別の候補を立てないといけなかった」
「言ってよ!そういうことはさあ」
「言っても言わなくても結果は同じ。だったら余計なプレッシャーは少ないほうがいい。そうじゃないかな?それとも、神様になりたくなかった?」
ぼくは首を振った。
「パパ、ぼくはママに会ったよ。ママはぼくのこと、忘れてた」
「うん、ここから見てたよ。ママのこと、嫌いになったかい?」
「嫌いになんか、なってないよ!ママはママだもん。優しくて温かくて、想像通りの人だった。でも、もう会えないんだよね」
「大丈夫。会えなくても、ママは君のことを忘れない。君がママのことを忘れなければ、絶対にね」
パパはデスクから立ち上がり、広い部屋の中央にぽつんとある、ぼくが座っているソファの隣に腰掛けた。
「パパは寂しくないの?ママと離れて」
「いつもママのことを見守っていられるから、寂しくないよ。これはずっとずっと続いている神界のルールなんだ。ニンゲン界からお嫁さんをもらって、後継者を生んでもらう。そしてまた彼女をニンゲン界に帰す」
それを聞いて、ぼくは声が出ないほど驚いた。いろんな感情が、頭の中で雷のように閃いた。
「残酷じゃないの?それって」
「パパも、そのことを知った時はびっくりしたよ。だってそれだけを聞くとニンゲン界からお嫁さんを“借りてくる”みたいだもんな。でも、無理矢理ってわけじゃないぞ?自分でニンゲン界に下りて、自分で探さなくちゃいけない。もちろん相手の合意がなければ連れては来れないんだ。全てを知った上で、君のママはここに来てくれた。随分手間取ったよ。歴代最高は三十年。ぼくはその十分の一で、まあ早いほうだ。別れなければいけないのは、それはもちろん寂しかったし、悲しかったよ。ママもそう言ってくれた。でも、その時に初めて、本当の使命を自覚するんだ」
「本当の、使命?」
パパが、じっと、その深い色の目でぼくを見つめる。ぼくはパパの瞳の中に棲んでいる、遠い記憶に耳を傾ける。それは神界に時々吹く、“波の風”みたいだと思った。
「この広い宇宙には、君も知っているように地球に近い環境の星や、もっと高度な文明や高い知能、身体能力を持つ生物がいる。しかし、地球に住むニンゲンが一番デリケートで、その心は美しいんだ。美しさゆえに脆いところもあるけどね。わかるかい?ニンゲンを守っていくことは宇宙全体を守っていくことにつながるわけだ。つまりニンゲンがベーシックだということ。ニンゲンを手本にしてこの宇宙の生物を見ていくことが一番うまくいく。だから地球は日夜研究されている。それが、神が後継者の血筋を分けてもらっている所以だ。愛する人、愛する息子の血を分けたきょうだいであるニンゲンが住む地球を守ることが、自分の神としての使命だと、君もいつか気づく時が来る」
「そうなの、かなあ」
パパの話してくれたことは、まだまだぼくには実感として湧いてきそうにないや。でも、そう思える日がいつか来るといいな、と思った。
「ニンゲン界はどうだった?」
「想像した以上だったよ!カラフルだったし。やっぱりこことは全然違う。でも、不思議とすーって入っていけた」
ここでは、見る角度によって広さ高さの全く違う部屋が並び、一定の温度と湿度と空の色、そして七色の風が吹く。そしてニンゲンの形をしているのはぼくとパパだけ。白くて透明な、一つの変化しない世界。それが神界だから。
「ママのおかげだね」
「そうだね」
パパがぼくの髪の毛を優しく撫でる。その手の感触が、ママのそれと重なる。急に涙が溢れて止まらなくなる。“泣いた”のは初めての経験だったから、自分の目から水分が出てくることにとまどった。そんなぼくを、パパは懐かしそうに目を細めて見ている。涙は簡単には止まらないもの。液体で、無臭で、少ししょっぱい。
「一週間、短かったなー。いろんなことがありすぎて、何だったんだろう、あれは」
「そんな感傷に浸っている暇はないぞ、息子よ!その一週間分の仕事が山となって、マー君のデスクが押しつぶされたって報告をさっき受けたよ!」
豪快に笑って、パパはぼくの肩をバッシバッシ叩いた。
「早く着替えて仕事に戻れい!」
その時ぼくは、白い部屋を見渡して思ったよ。ニンゲンの子供が心底羨ましい。仕事をしなくていいなんて。
でも仕方ないのさ、ぼくは神様だから。

ぼくは神様

ぼくは神様

全宇宙を統治する「神様」の息子の「ぼく」。現在は神様見習いとして研修中。役職は人間の人生の一部を決める部署の係長。見た目は人間でいうと「10歳の坊っちゃん」。部下のウサギたちとともに日々仕事に精を出す。部下の有給休暇中に事件が起こり、生まれて初めて人間界に下りていく。そこで前任者のミスを修正すべくある青年と接触するが・・・?

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-08-09

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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