猫少女縁起
「東京都人並区」のスピンオフですが、単独で読んでも大丈夫。
1 猫の探偵
「んまあ、猫の探偵って言うから、どんなおじさんかと思ってたら、こんなにお若いの?驚いちゃったわ」
駒野さん、というそのおばさんは、足元にまとわりつく猫たちを器用にあしらいながら、座っている僕と美蘭に紅茶を出してくれた。ざっと見たところ四匹。他にも人見知りで隠れてる奴がいるだろうから、総勢六、七匹ってところだろうか。決して広いとは言えない家で、一階は僕らが通された六畳のリビングの他にキッチン、風呂、トイレでおしまいみたいだった。
「江藤さんの奥さんとはね、フラダンスのサークルで知り合ったのよ。猫好き同士だからすぐに意気投合しちゃって。ご夫婦そろって素敵な方たちよね」
「そうですね」と、にこやかに相槌を打ちながら、美蘭は紅茶を一口飲み、そこに浮かんでいた猫の毛をさりげなく取りのけた。僕はお腹がすいていたので、一緒に出されたクッキーを遠慮なく食べる。猫たちは部屋のあちこちに散らばり、侵入者である僕らを観察していた。
「よく似てらっしゃるけど、お二人はきょうだいなの?」
「双子なんです。私が上で、彼は弟」
「まあそうなの。仲良しでいらっしゃるのね」
美蘭は営業スマイルで受け流すけど、僕らほど仲の悪い双子も珍しいんじゃないだろうか。とりあえず相手のことは大嫌いだし、こういう風に、金銭の絡む時しか一緒に行動しないし。
「その制服だと、学校も同じなのかしら。高校生?」
「はい、三年です」
「あらそう。うちの息子が高校の頃は、随分とむさ苦しかったけど、近頃の子は本当に垢抜けてるわね。まあ、息子も結婚しちゃって、今はニャンコたちが子供だけれど」
丸々と太った三毛猫をよっこらしょと抱えて、駒野さんは使い込んだ感じのクッションに腰を下ろした。年は五十代だろうか、化粧っ気がなくて、かなり目立つ白髪も染めずにいるところを見ると、自然体でいるのを好むタイプみたいだ。或いは、猫の世話が忙しすぎて、自分が留守になってるのかもしれない。
「猫はやっぱり自由が好きだから、外にも出してやるべきだっていうのが、旦那の意見なのよね。私もあえて反対しなかったし、ごはんの時間にはみんなちゃんと帰ってきていたんだけど、この子、サンドが戻らなくなって、もう一週間なの」
駒野さんは座ったままで腕を伸ばすと、出窓に積んであったチラシを一枚とってテーブルに置いた。「迷子の猫をさがしています」と大きく書かれた下に、丸顔でベージュの猫が座っている写真。「名前:サンド。呼ぶと、みゃーん、と答えます。赤いちりめんの首輪をしています。尻尾の先が少しだけ曲がっています」なんて説明もついていた。
「旦那がパソコンで作ってくれたの。やっぱり責任感じてるみたい。町内会の掲示板とか、スーパーとか、喫茶店やお年寄りのデイケアセンターにも貼らせてもらったんだけど、何の情報もなくて。考えたくない事だけど、保健所にも毎日連絡してるのよね」
話をするうちに、駒野さんは声に勢いがなくなってきた。それを励ますように、膝の三毛猫が短く鳴く。
「ね、ロロちゃんも心配だね。サンドとは一番仲良しだもんねえ」
駒野さんはそう言って、三毛猫をあやすように揺すった。本当のところ、猫って仲間の心配なんかするんだろうか。この動物にさして思い入れのない僕は、疑問に感じながら五つ目のクッキーを齧った。美蘭が「食べ過ぎ」という気配を発しながらちらりとこっちを睨み、「じゃあ、そろそろ始めたいと思いますので、サンドちゃんがいつも使ってるクッションとか、見せていただけますか?」と尋ねた。
「それがねえ、うちはとにかくニャンコが多いから、何でもみんなで使ってるの。でも、お気に入りの場所は決まってるから、それでどうかしら」
駒野さんに案内されるまま、狭くて急な階段を二階へ上がると、手前に一部屋あって、そこがどうやら人間の寝室らしかった。その奥、南向きの明るい一室は猫部屋で、キャットタワーが二本も設置してある。そのうち一本のてっぺんにある、見張り台のような場所を駒野さんは指さした。
「サンドはおっとりした性格だから、あそこで昼寝してるのが大好きなのよ。だからお出かけも滅多にしなかったんだけど」
猫がふだん使っている寝床だとか爪とぎだとか、そういうものに触れれば、僕はその猫の波長をつかんで、今いる場所までたどり着く事ができる。脳のどこをどんな風に使うのか、その仕組みは自分でも全く判らない。ただ、頭の中に灯った小さな明かりがはっきりするまで、ずっと歩いて行けば猫に会える、そんな感じだ。普通の人は、できるのにやってないだけだろう。あまりにも馬鹿らしくて。
商才にたけた美蘭は、この僕のささやかな能力を小遣い稼ぎと人脈作りに利用している。彼女が営業窓口で、僕が実務担当。取り分はその都度変わるけど、僕が圧倒的に搾取されているのに変わりはない。美蘭はいつも、「あんたの能力なんて、口の中でサクランボのヘタを結ぶ程度なんだから、私が営業しなけりゃ何の値打ちもないのよ」と、威張り散らしていて、僕はうまく反論できないまま、これまでやってきた。まあ、他にも一人じゃできない理由はあるし。
僕がキャットタワーに近づくと、そこにいたサビ猫とキジ猫が、あからさまな警戒心を発して逃げて行った。ゆっくりと手を伸ばし、サンドの指定席に触れてみる。途端に、赤と黄色を基調にした、鮮やかな幾何学模様のようなものが視界に立ち上がり、一瞬で消える。後に残るのは頭のどこかに灯ったとても小さな明かりだ。
「じゃあ、これからサンドちゃんを捜しに行きます。飼い主さんはお家で待っていて下さい。何かあればこちらから連絡します」
美蘭はそれだけ言いおいて、僕と一緒に外へ出た。
小さい頃の僕は猫と遊んでいて、何かの拍子に波長が合うと、そこでスイッチが切れてしまう癖があった。意識がとんで、その場に座り込むのだ。どこでそんな事態に陥るかは時の運で、ロッカーの隙間とか、水を抜いたプールだとか、奇妙な場所に潜んでいるので、小学校では「神隠しの亜蘭」と呼ばれたりした。そんな時に僕を探しに来るのは美蘭の役目で、「もう、いい加減にしてよ」と言いながら、僕と猫を引き離すのだった。
でもまあ、大きくなるにつれて、僕は少しずつ自分をコントロールする方法を学んだ。だから今は、猫に触れていたって、いきなりスイッチが切れるという事はない。ただし、追跡モードに入っている時は別だ。探している猫に触れてしまうと、まるでラジオのチューニングが合った時のように、僕の意識は猫と重なり、バッテリー切れのロボットみたいに座り込んでしまうのだ。
だから、僕にはどうしても美蘭の助けが必要だった。
「後はよろしく」
そう言って、美蘭は僕のベルト通しに銀色の金具を取り付けた。この金具には糸巻がセットされていて、糸の端は駒野家のフェンスに結び付けられる。そして僕が歩いたぶんだけ糸が繰り出され、美蘭は頃合いを見計ってこの糸をたぐり、後をつけてくる。場所の特定だったら、スマホのGPSでもよさそうなもんだけど、実際やってみるとそうはうまく行かなくて、未だにこのアナログ式に頼っているというわけ。
僕があちこち歩き回って迷子のサンドの行方をたどる間、美蘭はきっと近所の喫茶店でコーヒーを飲むか、フルーツパフェでも食べて時間を潰すのだ。「鵜飼と鵜みたいなものね」と、当然みたいに言うけれど、いま一つ納得がいかない。
道を横切り、家と家の隙間を通り、不法駐車の脇をすり抜ける。午後の住宅地を行ったり来たりしながら、僕は少しずつサンドに近づいていた。頭の中に灯った明かりはもう随分とはっきりして、迷路の出口はもう近いと知らせている。
僕はやがて狭い路地を抜け、古びた小さな二階建ての家にぶつかった。サンドはどうもその中にいるらしい。でも道路に面した一階の窓には、防犯用のフェンスが嵌められていて、猫であろうと通れそうもない。もっとよく確かめようと、壁の近くまで寄ってみると、サンドがそこから右に曲がり、隣の家のブロック塀との隙間に入り込んだのが感じ取れた。当然、後をつけてみる。
その隙間は、大して肩幅の広くない僕でも身体を横にしないと通れないような狭さで、一歩進むたびに背中が塀を擦った。制服のブレザーを脱いでおけばよかったと後悔しながら、僕は少しずつ奥へと進む。目の前にブロック塀が建てられたせいなのか、この家の一階の窓は、雨戸を閉めきったままだ。
サンドはこの窓のあたりで、ブロック塀の上に登ったらしい。それから、雨戸の戸袋に飛び移り、更に二階の窓によじ登っていた。本当に、何を考えてるんだか。これまでの人生の、けっこう長い時間を猫とつきあってきたけど、僕はいまだに奴らの考えがよく理解できない。賢いかと思えば間抜けだったりするし、かと思えば驚くようなことをやってのける。まあ、人間と大して変わらないって事だろうか。
僕はエアコンの室外機を踏み台にして、ブロック塀の上に移動した。それから家の方へ向き直り、大きく足を踏み出すと雨戸の戸袋を足場に、二階の窓に取り付けられた、幅三十センチほどの手摺をつかんで身体を引き寄せる。窓にはカーテンが引かれていて、中の様子が判らない。
不安定な体勢でそこにしがみついたまま、僕は片手でそろそろとサッシの窓を動かしてみた。幸い、というか不用心にも、というべきか、鍵はかかっておらず、窓は少しだけ軋んだ音をたてて開いたけれど、途中で動かなくなった。分厚いカーテンを脇に寄せて中を覗き込むと、サンドがいるのは明らかで、その証拠に僕の目の前はハレーションを起こしたように白くなり、視野の中心のごく限られた部分でしか像を結ばなくなっていた。そのせいで、大きく首を左右に動かしてサンドの姿を探す必要があったけれど、猫は向こうから僕の視界に入り込むと、駒野さんのチラシにあったように、みゃーん、と鳴いた。
「サンド、おいで」
僕は力の限り上体を持ち上げると、手摺ごしに腕を伸ばした。このままサンドに触れて「同調」してしまったら、スイッチが切れて地面に落ちるかもしれない。でもまあ、後は美蘭が何とかしてくれるだろう。指先にサンドの湿った息を感じたその時、「だめ!」という声が聞こえた。
何か、柔らかいものが僕の手をはねのけ、そのせいで僕の集中力はぷつんと途切れた。一瞬、足を踏み外しそうになって、反射的に手摺にしがみつき、それからようやく、何が起きたのかを確かめることができた。
急速に色を取戻して広がった僕の視界に、サンドをしっかりと抱え込み、こちらを睨んでいる女の子がいる。年は十歳ぐらいだろうか。とても青白くて、髪は誰かが見よう見まねで切ったみたいに、どこか不揃いなおかっぱだ。でも、何より違和感があるのは、家の中で、しかも秋も終わりだというのにスクール水着を着ているという点だった。
「あの」
今まで猫探しをやってきて、こんな事は初めてだ。僕はとりあえず、不法侵入者として怪しまれないのが先決だと思い、手摺にしがみついたまま「その猫、迷子なんだ。連れて帰りたいんだけど」と説明した。それでも、女の子は「だめ!」と繰り返して、サンドを更にきつく抱きしめた。
「お友達なの。お願いだから連れていかないで」
そう言う彼女の声は震えていて、今にも泣き出しそうに見えた。
一体どうすればいいんだろう。
サンドの奴は気持ちよさそうに抱かれているし、女の子はこっちを睨んだままだ。でも、僕は仕事としてサンドを連れて帰らなくてはならない。時間はかかりそうだけど、親に説明するのが最短ルートかもしれないと思って、僕は「お父さんか、お母さん、いる?」と聞いてみた。
「ここには、いない」
彼女は絞り出すようにそう言った。
「ここ、君んちじゃないの?遊びに来てるんだったら、そろそろ帰った方がいいんじゃない?」
もう夕方も近いし、さっさと家に帰ってもらえれば、猫も手放してくれるだろう。でも彼女は「帰っちゃ駄目なの」と言った。
「もうずっと、ここから出ちゃ駄目って言われてる。玄関には鍵がかかってるし、窓はそれ以上開かない。それに、水着で外に出たら、みんなに笑われるもの」
ようやく、僕は彼女の身に何が起きているのかを考えた。改めて部屋の様子を見てみると、そこは四畳半ほどの空間で、床にはシミのあるピンクのカーペットが敷き詰めてあった。壁際にマットレスが置かれ、読み込んでぼろぼろになった漫画が何冊も積んである。それ以外にはテレビもなく、ミネラルウォーターのペットボトルが何本か並んでいるだけだ。そして水着姿でも寒くないようにという事なのか、エアコンが入ってかなり暖かかった。
「誰かが、君をここに連れてきたの?」
僕の質問に、彼女は頷くだけだった。
まずい事になってしまった。僕は何だか胃のあたりがざわついてきたのをなだめながら、この先どうすればいいのかを考えていた。普通なら、警察に通報。それで全て終わるんだけれど、残念ながら僕らの一族は警察なんてものとは一切関わらないのが信条だ。
美蘭に、相談しよう。
結局これだから、双子なのに威張り散らされるんだけれど、僕は一人でこの状況に対処できそうもなかった。
「本当に面倒くさいんだから」
もう何度目かの「面倒くさい」を繰り返して、美蘭はさっきの僕みたいに一階の雨戸の戸袋を足掛かりに、二階の窓の手摺にしがみついていた。僕は雨戸にもたれ、美蘭が窓を開けるのを待っている。ここで上を向けばスカートの中が丸見えという素敵な状況だけれど、他の女の子ならともかく、美蘭のなんて見たくもないので、隣のブロック塀をじっと眺めておく。
さっき僕が電話をしただけで、トラブル発生と察知した美蘭は不機嫌になった。
「あんたさ、ちょっとぐらい何かあっても一人で対応できない?」
「たぶん、ちょっと、どころの騒ぎじゃないと思うんだけど」
ざっと事態を説明したところで、美蘭は驚く様子もなく、「猫だけ連れて帰ってくればいいのよ」と言ってのけた。
「でもなんか、警察沙汰じゃない?誘拐監禁とかって」
「知らないわよ。関係ないじゃないそんなの。警察なんか、絶対無理だから」
「でも、あそこから猫だけ連れて帰るの、無理だよ」
「能無し」
まあ、この程度の暴言ならいつも浴びてるから、美蘭が来てくれた時点で、僕は正直なところ肩の荷が下りた気分だった。あとは彼女がサンドを回収して、駒野さんに引き渡して、お金をもらって、そして今日のことは…忘れる。
そんな事、できるだろうか。
普通の人間だったら、迷わずにあの子を救おうとするだろうけれど、僕と美蘭はそんな価値観とは無縁の一族に連なっている。とにかく何もかも面倒くさいけど、死ぬのも面倒だから生きてるだけ。人の不運なんていちいち気にかけても仕方ないし、自分の事さえ考えていればそれで十分。他人のために心を痛めるなんて愚の骨頂。今まで何度も聞かされたその哲学を頭の中で弄んでいると、美蘭が窓を開ける音が聞こえた。
「ちょっと、その猫返してくんない?さっきもトロそうな兄ちゃんが来たでしょ?」
子供相手でも手加減なしだ。女の子の返事は聞こえないけれど、もしかしたら美蘭が怖くて何も言えないのかもしれない。
「そうよ。あんたの友達っていっても、元々はよその飼い猫だから、家に帰すの」
しばらく間があって、「泣いたってしょうがないよ」と、きつい一言。
「ほら、さっさと渡して」
またしばらく間があり、窓に何かぶつかる音がして、いきなり上からサンドが降ってきた。くるりと回転してきれいに着地したサンドを急いで捕まえ、美蘭が運んできていたキャリーケースに入れる。さあ、次は美蘭が下りてくるから、すぐに退散だ。そう思って待っていても、全く気配がない。代わりにまた彼女の声が聞こえた。
「あんた名前なんていうの?いい?今夜また別の猫がここに来る。そしてあんたを手伝うから、自分で逃げ出すの。前の通りに出て、右にまっすぐ行くとバスの走ってる道路がある。そこでタクシーを拾って、警察に連れてってもらいなさい。自分で逃げないのなら、もう後は知らないよ。チャンスは一度だけ。水着が恥ずかしいならこれを着るといいわ、きっとお尻まで隠れるから」
美蘭、何言ってるんだろう。思わず上を向いた僕の顔に、制服のブレザーが降ってきた。それをとりのけると、こんどは赤いボウタイがひらひらと舞い落ちてくる。
「でも私と猫と、さっきのトロい兄ちゃんの事は絶対誰にも言っちゃ駄目。もし言えば、友達になった猫が殺される。三味線の皮にされるからね」
それだけ言うと、美蘭はいきなり跳び下りてきた。何故だかブラウスを着ていなくて、白いブラキャミ姿だ。相変わらず、前か後ろか判らないほど薄っぺらい体つき。彼女は僕が手にしていたブレザーをひったくると「脱げ」と言った。
「脱ぐって、何を」
「シャツに決まってんだろ。それともあんた、私の代わりに猫返して、お金受け取ってくれんの?」
どうしてこういう展開になるのか判らないんだけれど、家と塀に挟まれたその狭い空間で、美蘭は僕が脱いだシャツを着込んで袖を折り返し、ボウタイを結んでブレザーを着た。そして僕はというと、アンダーシャツにいきなりブレザーという、どうしようもない格好だ。
「ちょうど日も暮れてきたし、誰も気にしないわよ」
自分だけちゃっかり身なりを整えた美蘭が見上げたその先には、半分だけ開いた窓から、女の子が放心したような顔を覗かせていた。その手にはしっかりと白いブラウスが握られている。美蘭は別に笑顔も浮かべず、女の子に軽く手を振ってから前の道路へと出ていった。僕も急いで、サンドの入ったキャリーケースを提げて後に続く。
「駒野さんちのサビ猫を使ってあの子を逃がす。三毛は重過ぎる」と、美蘭は振り向きもせずに言った。
「それ、僕がやるって事?」
「他に誰がやんのよ」
僕は彼女のこういう勝手なところが、とにかく気にくわない。
2 目標八時
駒野さんの玄関を出てくるなり、美蘭はブレザーの下に隠していた小柄なサビ猫を取り出した。猫はきょとんとした顔つきで、声もたてずにいる。そいつを外で待っていた僕に押し付けると、「後はよろしく。名前はウツボ、女の子」とだけ言って歩き出した。あたりはもう真っ暗で、どこからかカレーの匂いが漂ってくる。
「よろしくって、本当にこの猫使ってあの子を逃がすの?」
「あんたがそうしたいんでしょ?とにかく、私は一秒でも早く、このむさ苦しいシャツを脱ぎたいの」
そう言いながらも、美蘭は急ぎ足で大通りに向かう。僕はサビ猫を抱えたまま慌てて後を追い、「お金は?」と催促した。今とっておかないと、一生なかったことにされかねない。彼女は渋々、という感じで立ちどまり、鞄から封筒を取り出す。中身は僕が迷子のサンドを連れて帰った謝礼。ふっかける金額は相手次第だけど、今日は十万あたりだろう。でも、彼女が僕に差し出したのは、たったの一万円。
「少なすぎ」と抗議すると、「だったら自分で仕事とってきな」と、にべもない。
「大体あんた、自分でトラブルに足突っ込んどいて、よくそんな事言えるわね。そっちに払ってもらいたいぐらいよ」
僕は何だか反論できず、そのお金を大人しく受け取るしかない。美蘭は「目標八時」とだけ言うと、大通りに出てタクシーを拾い、走り去ってしまった。
腕時計を確かめると、あと十分ほどで六時だ。日が落ちてから風が出てきて、アンダーシャツにブレザーという格好では少し寒いし、何よりみっともない。でもまずはとりあえず、美蘭がさらってきたサビ猫との間に回路をつなぐ必要がある。僕は猫を連れ、さっきサンドを追いかけた時に通った公園に向かった。
そこは忘れられたような場所で、夏場に生い茂った雑草が枯れ果て、無残な姿をさらしている。滑り台には使用禁止の貼り紙がされ、二つあるブランコの片方は鎖が切れていた。僕は塗装のはげたシーソーに腰を下ろすと、あらためてサビ猫の顔をよく見た。
「ウツボ、だっけ」
名前を呼ぶとサビ猫は口だけ開いて返事をした。魚のウツボに似た、だんだら模様なのでこの名前なのだろう。目を閉じていると、全身迷彩色という印象だ。
僕はあんまり雌猫と相性がよくないんだけれど、今はそんな事言ってる場合じゃなかった。抱き寄せて、その小さな頭が僕の首筋のあたりに触れると、ほんの一瞬、水に潜ったように目の前がぼやける。時には奇妙な匂いや味を感じたり、背中を何かが這い登るような感覚があったり、猫によって様々だけれど、とにかくそれが僕と猫の間に「回路」が開く瞬間だ。
いったん回路が開けば、僕はその猫を通して見たり聞いたりできるし、猫の感じてることも何となく判るし、相性さえよければ思い通りに操ることができる。まあ、別に大した事じゃない。うちの一族は揃って自堕落でろくでなしのくせに、こういう芸当は教わらなくてもやってのける。美蘭は虫、特に蜂の類が得意だし、玄蘭さんは鳥を分身みたいに遣う。
僕はウツボを抱いたまま、この雌猫の感じている事を探ってみる。機嫌はそう悪くないけど、かなりお腹を空かせていた。そろそろ餌の時間らしくて、家に戻ることしか考えてない。
「ごはん食べたらすぐに出ておいで。ここで待ってるんだ」と声をかけて、僕は彼女を地面に下ろした。駒野家の猫ドアは勝手口にあって、今はまだ出入り自由だけれど、封鎖されるのは時間の問題だろう。まあ、とりあえず今夜をしのげればそれでいい。僕の手を離れたウツボは枯草をよけながら公園を出ていくと、一度だけ振り向いて細い声で鳴いた。
さて、八時までの間に僕も何か食べたかったし、もう少しまともな服に着替えたかった。頭の片隅では絶えずウツボの動きを追いながら、僕は大通りに出てタクシーを拾った。
高校生のくせにタクシーとは贅沢な、という考えは僕にも美蘭にも理解できない。僕らは車も持ってるけど、こういうせせこましい住宅街じゃ駐車場を探すのも楽じゃないから、結局のところタクシーが一番合理的な移動手段だと思う。バスや地下鉄なんて面倒で乗っていられないし。
僕は一番近くにあるファストファッションの店でタクシーを降り、黒いタートルネックのセーターを買った。こういう時、アンダーシャツにいきなりブレザーという自分の格好は、忘れておいた方がいい。誰かがそれを変だと感じたところで、僕自身には何の異変も起こらないから。
トイレで服を着替えたら、あとは食事だった。土地勘のない場所だけど、何を食べようか。スマホで店を検索しようとして、僕は手を止めた。近くはないけど、行きたい店はあるのだ。
「本当に、君たち双子って面白いね」
桜丸がカウンターごしに出してくれた、細麺チャーシューダブルを受け取りながら、僕は隣に座っている美蘭の様子を伺った。すでに青龍軒メガ盛りスペシャルを食べ終え、焼き餃子二人前も綺麗に平らげて、涼しい顔でグラスの水を飲んでいる。
「どうしていきなり、立て続けに現れて、しかもペアルックみたいに黒い服着てるの?」
「たんなる偶然」
そっけなく言うと美蘭は立ち上がり、「払っといて」と、僕の伝票に自分のを重ねた。それから「これ、返しとくわ」と水色のビニールバッグを押しつける。どうやら中身は僕から奪い取ったシャツらしい。彼女もどこかで服を買ったみたいで、黒いカットソーに、黒のパーカーを羽織り、下はこれまた黒のジーンズだ。制服のブレザーとスカートは、ふだん運動着なんかを入れるサブバッグに丸め込んであるようだ。
「目標八時」
小声でそれだけ言うと、美蘭は桜丸に「ごちそうさま」と声をかけ、さっさと店を出ていく。彼女のいた席にはすぐにジャージ姿の男が座った。この辺りは学生が多いので、夕飯時は下手をすると行列になるのだ。桜丸は狭い厨房の中を忙しく立ち働きながら、時おり僕の傍へ来た。
「替え玉、いる?」
「今日は、いいや」
後に一仕事控えている時は、あんまり食べ過ぎない方がいい。僕が断っても、桜丸はまだこちらを見ていて、「本当に、どうしたの?急に二人で、時間差攻撃」と、呆れたように笑った。その人懐っこい笑顔は、別れた時と全然変わってない。
あの頃、僕らは神奈川にある私立の小学校に通っていた。桜丸が六年生で、美蘭と僕は五年生。全学年合わせても百五十人ほどの学校だったので、生徒は互いをよく知っていて、桜丸と僕らは特に仲がよかった。
学校は小中高一貫でおまけに全寮制、というと良家の子女が通っていそうだけれど、実際は馬鹿高い授業料と引き換えに、子供の世話を丸投げしている家庭が若干含まれていて、美蘭と僕はそちら側だった。桜丸はまともな家の子で、父親はけっこうな規模の会社を経営していた。
全寮制とはいえまだ小学校だから、週末になると生徒たちは家に帰った。でも、親が海外に赴任中だったり、事情のある子は寮に残るしかない。美蘭と僕は永遠の居残り組で、それは要するに、シングルマザーである僕らの母親が、存在を忘れたい我が子を何とか遠ざけようとした努力の結果だった。
ただでさえそう面白くもない寮の生活は、週末になると宗教的な勤行にも似た、禁欲的な色彩を帯びてくる。それを逃れようと、居残り組の子供たちはあれこれと脱出を企てたけれど、一番よく使う手が「お泊り」だった。要するに、お人好しで親切そうな友達に目をつけて、一緒に連れて帰ってもらうわけだ。
美蘭はこの「お泊り」の達人だった。これは、と思う子に目をつけて口説き落とすのはもちろん、親に気に入られてリピーターになるのも忘れない。家事の手伝いは常に先回りしてやるし、話題が途切れないように場を盛り上げるのは当然、そしてまだ手のかかる小さな子供がいる家では、ベビーシッターに徹する。これだけやれば毎週行っても喜ばれるところだけれど、更に気を配って、繰り返し行かないように、何軒かでうまくローテーションを組んでいた。僕はといえば、美蘭に便乗して、家庭の雰囲気だけ心ゆくまで堪能して過ごしていた。
そんな美蘭が気を遣わずにすむ、唯一の場所が桜丸の家だった。彼が一人っ子なせいもあるのか、母親の百合奈さんはいつだって僕らを歓迎してくれた。父親の亮輔さんは週末もよく留守にしていたけれど、それには理由がある。彼は会社を経営する傍ら、ボランティア活動を熱心に行っていたのだ。
僕らも子供だったので詳しくは知らないけど、引き取り手のない犬や猫の保護活動だ。どんなに遠くても、何時だろうと保護する方針らしくて、亮輔さんが仕事で行けない時には百合奈さんが代わって駆けつけていた。保護された犬や猫のシェルターは山梨にあって、専任のスタッフも何人かいた。運営費用を賄うために、あちこちに寄付を募っていたらしくて、そのためのパーティーや講演会を企画するのも百合奈さんの役目らしかった。
というわけで、この夫婦には息子の世話をする時間がなく、寄宿学校を選んだ。そして同じ理由で犬や猫も飼っていなかったけれど、家のリビングには巨大な水槽があって、一メートル近くある銀のアロワナが悠然と泳いでいた。
「要するに、バランスなんだよね」
鈍い光を放つアロワナの鱗を見つめながら、美蘭は僕の耳元で囁いた。
「玄蘭さんが言ってたもの。世の中にはボランティアみたいに、誰かに何かしてあげたい人がいるんだから、受け取ってあげる側がいないと、うまくバランスとれないんだって」
それが真実かどうかは判らないけれど、僕と美蘭が帰属する夜久野の一族が、桜丸の両親のようなボランティアと対極の存在である事は間違いなかった。とにかく何もかも面倒くさくて、生きているのも面倒だけれど、死ぬのはもっと面倒だからとりあえず現状維持、という人間ばかりで、まともに働いて収入を得る、などという発想はどこを叩いても出てこない。
こんな連中、自然の摂理で淘汰されそうなものだけど、そこは生き物の不思議なところで、僕らの一族は別のある一族に寄生する形で、長い年月を影のように生き延びてきた。
彼らは僕らの一族が暮らしていけるように、十分な資金を用立ててくれる。そして僕らの一族は、例の下らない芸当も含め、昔から伝えてきた技を使って、彼らの一族が栄えるための手助けをするのだ。といっても、面倒くさがりの集団だから、誰もそんな事はしたくない。貧乏くじを引いた者だけがその役目を背負わされて、あとは全員がだらだらと寝て暮らす、という具合になっている。
いま現在は玄蘭さん、という人がその不運な人物で、美蘭は二十歳になったら彼の後釜を引き受けなくてはならない。彼女は貧乏くじを引いてしまったのだ、僕のせいで。
その事を考えると、僕はちょっとした迷路に入ってしまうので、今は見ないことにしておく。僕らの一族は、深刻な事から目をそらすのが得意なのだ。しかし、僕と美蘭は、母親が中絶するのを面倒くさいと先延ばしにしたせいで生まれてしまったわけで、この習性には感謝すべきなのかもしれない。
まあそんな具合で、桜丸と美蘭と僕はとりわけ仲がよかった。でも、彼は六年生の秋に学校を辞めてしまった。もちろん小学校は義務教育だから、公立の学校に移ったのだけれど、彼はその理由については語らず、「転校するんだ」とだけ告げて僕らの前から姿を消した。大人の事情に通じた同級生によれば、父親が騙されて会社を乗っ取られたという噂だった。
彼の不在が余りに大きくて、僕はその後しばらく泣いてばかりいた。美蘭はというと、案外さっぱりしたもので、「仕方ないじゃない」と、あたかも桜丸なんて最初から存在しなかったかのように振る舞った。ところが、それからすぐ彼女の身に不思議な事が起こった。何を食べても味がしないというのだ。最初は「なんかうちの寮の食事、急にまずくなったよね」と言っていたけれど、僕や他の子が「いつも通りだよ」と繰り返すので、ようやく自分の異変に気付いたらしかった。
それでも美蘭は別に自分のことを病気だとは思っていなくて、それもまた「仕方ないじゃない」で片づけていた。しかし実際のところ、味がしないものに食欲がわくはずもなく、美蘭はどんどんやせ細っていった。それでも平然としているのが彼女の奇妙なところだ。
彼女の「味気ない生活」はその後も続いたけれど、ある日突然、変化が訪れた。それは冬休み間近の月曜日で、学校が終わって寮に戻ってくると、美蘭と僕あてに、少し厚みのある封筒が一つ届いていた。差出人は桜丸で、住所は川崎。寮の先生はしょっちゅう泣いていた僕を気遣って、その封筒を先に渡してくれたのだけれど、美蘭はそれを一瞬でひったくると、バリバリと音をたてて破った。
中から出てきたのはクリスマスカードと、どこでも売っている板チョコ一枚だった。その質素さに、僕はぼんやりと「やっぱり桜丸の家、お金なくなったのかな」と考えていた。だっていつも彼の家で食べていたお菓子といえば、宝石細工のようなケーキだとか、傷一つない完熟フルーツだとか、バターをたっぷり使った焼き菓子だとかで、間違っても板チョコなんて出てこなかったからだ。しかし美蘭はその板チョコの銀紙をこれまた勢いよく剥ぎ取ると、貪るように食べ始めた。
「うっわ、このチョコレート、すっごくおいしい」
僕は我が耳を疑った。あれだけ味がしないと言っていた美蘭の口から「おいしい」という言葉が出るなんて、しかも食べているのは何の変哲もない板チョコなのに。でももしかしたら、美蘭が破ってしまった包み紙に「限定クリスマスバージョン」と書かれているかもしれないと思って、「半分は僕のだと思うけど」と訴えた。その頃にはもう美蘭は四分の三あたりまで食べ進んでいて、ひどく面倒くさそうな顔で一かけらだけ恵んでくれた。
結論から言うと、それは普通のミルクチョコレートだった。今の日本でまずいチョコレートにあたることは皆無に等しいから、おいしかったと言っても嘘ではない。でも、「すっごくおいしい」程じゃなかったのは確かだ。とにかく、その日を境にして、美蘭の舌には味覚が戻ってきたようだった。
その週末、僕らはせっかく勝ち取った「お泊り」をキャンセルして、桜丸の封筒にあった、川崎の住所を訪ねて行った。そこは住宅街で、小さな一戸建てと集合住宅が半々ぐらいに、ほとんど隙間なく建てられていた。どの建物も一様にくすんだ雰囲気を漂わせていて、クリスマスも近いというのに、イルミネーションを飾っている家なんて一軒もなかった。
桜丸の住所があったのは、その中でも特にくたびれた感じがする、木造アパートの一階だった。でも、部屋の番号は合っているのに彼の名字である「須賀」という表札はなかった。ブザーを押してみたけれど人が出てくる気配もなく、ドアを叩いても何の反応もなかった。
「出かけてるのかもね」と美蘭は呟き、僕らはドアの前に腰を下ろして彼の帰りを待つことにした。やがて冷たい雨が降り出し、辺りが暗くなり、雨がみぞれに変わり始めたころ、隣に住むお婆さんが帰ってきて、そこは空き室だと教えてくれた。
「先週まではいたんだけどね、きれいなお母さんと、とっても可愛らしい男の子だったわねえ」
それから僕らは重い雪の降る中、お婆さんにもらった、骨の折れた傘を二人でさして帰った。寮に着いた頃には夕食の時間もとうに過ぎていて、無断外出で門限破りの僕らはこってりしぼられるはずだった。ところが舎監室に呼び出された美蘭は、僕の目の前でいきなり派手にぶっ倒れた。四十度近い熱を出していたらしい。そういえば、もらった傘は一本なのに、どうして美蘭だけずぶ濡れなのか、とても不思議だったんだけれど、どうやら傘は僕がほとんど独り占めしていたみたいだった。
その夜、トイレに行くふりをして保健室に忍び込むと、ベッドにいる美蘭はちょうど目を覚ましていた。
「美蘭、どうしてちゃんと傘に入らなかったの?」
「ばーか、これは作戦よ」
「作戦?何の?」
「病気になっちゃえば、無断外出の罰やなんか、うやむやにできるじゃない。私、あと二日ほどこの調子で引っ張るから」
それが本当なのか、負け惜しみなのか、いまひとつよく判らなかったけれど、ためしに触れてみた美蘭の額はすごく熱かった。そして確かに、僕らは何の罰も受けないままで冬休みを迎え、桜丸からはそれっきり連絡が途絶えてしまった。
僕と美蘭はその後、同じ学校の中等部に進んだけど、寮生活に嫌気がさしてしまって、高校からは都内にある姉妹校に移った。今は自分たちだけで住んでるから、まあまあの居心地。美蘭がいなけりゃ、完璧。
問題は家事全般で、掃除はロボット任せの最小限。洗濯は僕がコインランドリー派で、美蘭は自分でやってる。そして食事は、二人ともコーヒーと朝のシリアルぐらいしか自分で用意しない。
というわけで、僕らは外食が多い。そして色んな理由から、よく行く店というのが出てきて、青龍軒はその一つだ。ふた月ほど前、猫捜しの仕事帰りに小腹がすいたので、目について入った店だった。ところが、カウンターに座った僕らの背後から、誰かがいきなり「美蘭!亜蘭!」と肩を抱いてきた。僕は驚いて固まったけど、美蘭は瞬時に飛び退いて、守り刀に手をかけていた。その後でようやく、目の前にいるのが桜丸だと気づいた次第。
僕らの学校を去ってからの桜丸は、かなり波乱に富んだ生活をしていた。両親は離婚し、彼は母親の百合奈さんに引き取られたけれど、彼女は弁護士と再婚した。弁護士は桜丸の父親になる気はなく、彼は長野の親戚のもとで中学と高校を卒業し、その間に父親の亮輔さんは失踪してしまった。
とはいえ、彼は死ぬほど前向きな性格なので、真面目に勉学にいそしみ、都内の大学に優秀な成績で合格して、授業料免除という栄誉に浴している。そして奨学金とこの店のバイトで生活費をまかなっているらしい。
猫捜しで一回数万円の僕らから見ると、信じられないほど地道な話なんだけど、迷子の猫はそう何匹もいるわけじゃないし、トータルでどっちが多く稼ぐのか、僕にはよく判らない。
「美蘭、急いでたね」
桜丸は僕のグラスに水を注ぎながら、「彼氏と約束?」と探りを入れてくる。僕は「そうかも。夢中だからね」と気を持たせるけど、これは大嘘。美蘭は猛獣だから、彼氏なんてものはいない。でも、ちょっとした遊び相手ならいる。三十代の妻帯者だ。
僕らと再会したその時から、桜丸は美蘭の事ばっかり見ていて、僕はそれがひどく気に食わない。美蘭はといえば、わざとそっけない態度で、彼女の天邪鬼な性格を考えると、これは警戒レベルの危機的状況。何かのはずみで気持ちが通じたら、本気で面白くない。だから僕は、美蘭が三十男との不倫にどっぷりハマってるという話をでっち上げている。
とりあえず今は、子供の頃と同じように、僕らの関係は二等辺三角形という感じで収まっている。むしろ、僕だけが桜丸のアパートに泊まったり、一歩リードしてるってとこだろうか。そして美蘭の不倫情報を少しずつ流して、彼に「無理」だと悟らせるよう工作中。
問題はただ一つ。何があっても彼は、「無理」と言ったことがないのだ。
全く、どうしてそこまで前向きになれるのか。この後の仕事も彼に代わってほしいぐらいだけど、まあそれこそ無理な話。僕は自分が開けてしまったパンドラの箱を、自分で閉めに行くしかないのだった。
3 別の猫ちゃん
青龍軒を出た時、空に懸っていた細い月も沈んで、今日は暗い夜というわけか。美蘭が指示してきた八時に合わせて公園に戻ると、サビ猫ウツボはシーソーの上に蹲り、ちゃんと僕を待っていてくれた。
「美蘭もこれくらい聞き分けがよければいいのに」
抱き上げて頭を撫でてやると、ウツボは細い声で鳴いた。そこへ「私のどこが猫以下だってのよ」という声がして、美蘭の黒いシルエットが公園の入り口に現れた。
「こっちはあんたの道楽に付き合ってるんだから、さっさと終わらせなさいよ」
彼女は公園には入らず、そのまま例の家へと歩いてゆく。あの、女の子が閉じ込められていた家。
僕は抱いていたウツボを地面に下ろすと、シーソーに腰かけた。目を閉じると深く息を吸い、頭の片隅の、ウツボとつながっている場所を覗く。そして一気に飛び込むと、次の瞬間には枯草の中に立っている小柄な雌猫をとりまく全てが、僕の世界になっている。
僕とウツボは小走りに公園を抜け出すと、もう随分と先を歩いている美蘭の後を追った。すれ違いに犬を散歩させている人が来たので、脇に逸れて家の軒下を通り抜ける。側溝を飛び越え、道を横切り、不法駐車のミニバンをくぐって、小走りに進む。自販機の脇に隠れていた野良の雄猫が突然顔を出し、もの欲しげに寄って来たって相手にしない。
そうして最短距離を突き進み、僕とウツボは美蘭よりも先にあの家に着いた。昼間は人気の感じられなかった一階の窓に、ぼんやりと明かりがさしている。誰か帰ってきたんだろうか。僕とウツボは家の脇に回り、昼間やったようにブロック塀をよじ登ると、一階の窓の庇を踏み台にしてジャンプし、二階の窓の手摺に飛びついて、這い上がった。なるほど、美蘭が言った通り、これは身軽な猫じゃないと少し難しい。
中には明かりがついているので、誰かいるのは間違いない。僕とウツボは前足で何度か窓ガラスを叩いた。すぐに、分厚いカーテンが揺れて窓が少しだけ開き、昼間の女の子が顔を覗かせた。
「別の猫ちゃん。お姉さんが言った通りだ」
頬を紅潮させて、明らかに驚いている。僕とウツボは彼女の肩を踏み台にして部屋に飛び込み、ドアに駆け寄ると前足でひっかいた。
「本当に逃げるの?ちょっと待って」
昼間と同じ、スクール水着姿の彼女は、床に敷いたマットレスに乗ると、壁との隙間に押し込んであった美蘭のブラウスを引っ張り出した。それを丸めて大事そうに抱えると、ドアノブに手をかけた。
「ルネさんが帰ってるから、静かに歩いてね」
ドアが開くと、階下から食べ物の匂いが漂ってくる。肉、多分冷凍ハンバーグの、けっこう値が張る奴をレンジで温めてる感じ。ウツボはその匂いに浮かれてしまって、僕が押さえておかないと一気に階段を駆け下りそうだ。女の子は足音を忍ばせて一階に降りると、階段の脇に積まれた、フランス産ミネラルウォーターの箱の隙間にブラウスを隠した。それから「ちょっとだけ待ってね」と言ってからトイレに入った。
タイミング悪いなあ、別に今じゃなくてもいいのに。猫の口ではそんな文句も言えなくて、仕方ないから僕とウツボはその間に玄関の様子を探った。ドアにはシリンダー錠の他に、暗証番号を使うらしい電子錠がつけてある。昼間出かけている間は、これで彼女を閉じ込めてるわけか。今は施錠されているのか確かめようとした時、別な物が僕の目を引いた。靴だ。
そこに一足だけ脱いであるのは、少しヒールのある、紺色のパンプスだった。この家の主は女装が趣味なんだろうか。でも、靴のサイズは美蘭のより小さくて、普通の男が履けるようなものではなかった。それに、料理の匂いで判りにくいけれど、この家には人間の男の匂いというものがしない。
どういう事なんだろう。
その時、水を流す音がして、女の子がトイレから出てきたので、僕とウツボはそちらに戻った。水なんか流さなくていいのに、全く。その音を聞きつけたのか、廊下の突き当たりのキッチンで、誰かが動く気配がした。
「リムちゃん?ごはんすぐできるよ。こっちおいで」
女の声。リムちゃん、と呼ばれた女の子は一瞬身体を強張らせて、そちらへ行こうかどうしようか迷っている様子だ。もちろん、そんな事してる場合じゃない。僕とウツボは女の子の足元に駆け寄ると、頭でぐいぐいと彼女のすねを押した。
「そうだよね。逃げなきゃ」
彼女は自分に言い聞かせるみたいに呟くと、さっきミネラルウォーターの箱の間に隠しておいたブラウスを取り出し、急いで身に着けた。袖が長すぎるので何度か折り返し、前のボタンを喉元まで留める。美蘭が言った通り、ブラウスの丈は彼女の水着が隠れるのに十分な長さだった。
女の子は足音を忍ばせて玄関に向かい、それを見届けてから、僕とウツボは回れ右をして廊下の奥へと進んだ。まあ、ウツボが肉の匂いに抗えなかっただけの話だけれど、そこにいる女は何者なんだろう、という疑問も僕を動かしていた。
僕とウツボは、明るい花柄の暖簾で廊下と仕切られたキッチンに入る。でもそこには誰もいない。冷蔵庫の陰に身を潜め、隣の部屋を覗き込むと、そこに女が一人いた。彼女はこちらに背を向け、しゃがみこんで何かを拾っているみたいだった。セミロングの髪を後ろで一つにまとめ、ベージュのカーディガンにグレーのロングスカート。丸みを帯びた肩のラインや体格から考えても、男が女装しているとは思えない。
「今日はハンバーグだよ。にんじんのグラッセと、コーンポタージュもあるからね」
女の子が近くにいると思っているのか、彼女は歌うように語りかけてから、ゆっくりと立ち上がり、部屋の奥に移動する。それまで彼女の身体で隠れていたけれど、フローリングの床には水色のレジャーシートが敷かれ、その上にはペットの餌入れに盛りつけられた料理が並んでいた。その一角がうまくフレームに入るように、彼女は三脚にセットされたビデオカメラを調節していた。よく見るとカメラは一台だけではなく、床置きのものもある。
「みんなリムちゃんがごはん食べるところ、可愛くて大好きだってよ」
湯気をたてているハンバーグに突撃をかけようとするウツボを全力でなだめながら、僕は目の前の現実をどう受け止めるべきか戸惑っていた。どこか芝居がかった声で語りかけるこの女は、ごくありふれた三十代に見える。ピンクのフレームのメガネをかけて、色白のふっくらした丸顔で、メイクは控えめ。うちの学校に事務室にもこんな感じの人、いたと思う。
「ね、リムちゃん?お部屋に戻っちゃったの?」
カメラをセットし終えた彼女は、まだ女の子が傍へ来ていない事に気づくと、声を張った。その時いきなり、耳を刺すような電子音が鳴り響いた。反射的に隠れようとするウツボに逆らえず、僕らはキッチンの隅にある、使用済みの食品トレーの山に身を潜めた。
「リムちゃん!何してるの!お外に出ちゃ駄目よ!」
女の声は一気に甲高くなり、せわしないスリッパの足音が廊下を移動してゆく。どうやら玄関の電子錠は、セットされたままだったらしい。僕は食品トレーの中で縮こまっているウツボを無理やり奮い立たせ、キッチンから廊下に出て女の後を追いかけた。そして前方にいる彼女の背中めがけてジャンプし、爪をたてて一気に駆け上ると肩に噛みついた。
「ぎゃああ!」
絞め殺されるニワトリみたいな悲鳴をあげて、女はその場にしゃがみこんだ。でも、すぐにまた立ち上がって腕を肩に回すと、僕とウツボを引きはがそうとする。僕らは彼女に食らいついたたまま、前足を伸ばしてその指に何度も爪をたてた。すると彼女は反射的に身体を激しく揺すり、僕とウツボを振り落とそうとする。それでも僕は彼女の肩にとりついたまま、顎に一層力をこめようとした。
僕の精一杯の攻撃にも拘らず、肝心のウツボは相手の反撃に怯んでいた。どうにかしてこの場から逃れたい、その気持ちが強すぎて、女の肩に食いついていた顎の力が緩んでしまう。その機を逃さず、女は壁に思い切り背中をぶつけ、僕とウツボをつぶそうと試みる。これにはウツボが完全に参ってしまった。
ウツボは大人しくて、本来こんな荒っぽい真似をするような猫じゃないのだ。自分の何倍もある生き物に攻撃をしかけるなんて、縄張り争いに明け暮れている、気の荒い野良の雄猫を使っても、そう簡単にはいかない。
「何これ!猫?別のが入ってきたの?」
女は肩で息をしながら、ついに転がり落ちてしまった僕とウツボを見下ろした。そしてスリッパを脱いで手にとると、凄い勢いで投げつけてきた。
早く女の子の後を追って、玄関から逃げなきゃ。僕はそう考えて焦っているのに、攻撃を受けてパニックに陥ったウツボは、袋小路であるキッチンへと全速力で撤退する。そして、さっきあんなに食べたがっていたハンバーグの器を蹴散らかして、奥の部屋へと突進した。
僕は何とかしてウツボを落ち着かせようとしたけれど、恐怖に駆られた猫というのは、そう簡単に言うことを聞かない。更にまずいのは、猫のパニックに僕まで引っ張られてしまう事だ。もちろん、ここでウツボから離れるのも一つの解決法ではあるけれど、そういう真似をすると後で美蘭に何をされるか判らないから、どうにかして乗り切らなくては。
ウツボが駆け込んだ袋小路の先、部屋の突き当たりは、壁面収納のクローゼットだった。彼女は何とかよじ登ろうとジャンプしたけれど、爪が立たずに落ちてしまう。その一方で僕は、方向転換して女の足元をすり抜け、廊下を走って玄関から逃げるよう彼女に命令していた。相反する二つの意思が衝突したせいで、ウツボの身体は固まりつつあった。そこへ、空の段ボールを捧げ持った女がじりじりと接近してくる。
「動いちゃだめ」
肩で息をしながら、彼女は一歩また一歩と近づく。カーディガンには血が飛び散り、まとめていた髪はほどけ、汗で額に貼りついている。ウツボは尚も動く気配を見せず、全身の毛を逆立てたまま、自分を呑み込もうとする虚ろな箱を凝視していた。
その耳に、かすかな振動が聞こえる。
「痛っ!」
突然、女は悲鳴をあげて段ボールを放り投げた。驚いたウツボは飛び上がり、僕はその一瞬の隙をついて彼女の全身を支配する。目の前で変拍子のステップを踏んでいる女を見上げると、一匹のスズメバチが彼女の顔を狙って執拗に飛び続けていた。
「何?何なのもう!」
怒りと恐怖に突き動かされながら、彼女は両腕で顔をかばい、ぐるぐると回転している。僕とウツボはそのまま駆けだすと、廊下を抜け、わずかに開いた玄関のドアから外に飛び出した。
ほとんどウツボ任せで公園まで戻ってくると、僕はようやく彼女を解放した。公園に残っていた僕自身は、何がどうなったのか、座っていたはずのシーソーから落っこちて枯草の中に寝そべっていた。頭上に見えるのは、晩秋の地味な星空だ。
自由の身になったウツボは、すぐに我が家へ向かおうとせず、律儀にも僕の様子を見にきてくれたので、僕もそれに応えようと起き上がった。背中がびっしょりと汗で濡れていて、今更のように夜風が冷たい。それはつまり、ウツボが味わった混乱と恐怖の量を意味していた。
「本当に、手際が悪いったらないわね」
かさこそと、枯草を踏み分けて近づく黒い影。美蘭はしゃがみ込むとウツボを抱き上げ、「よく頑張ったね。いい子。偉いね」と、僕にはかけた事もない優しい声で呼びかけて頬ずりをした。その髪にはハロウィン向けのアクセサリのようにも見える、大きなスズメバチがとまっている。
「おうちに帰ってゆっくりお休み」と、美蘭が地面に下ろすと、ウツボはか細い声で鳴いてから、後も振り返らずに公園を出て行った。
「あの子、ちゃんと逃げた?」
「タクシーに乗ったところまでは見たけど。後は知らない」
美蘭はそして立ち上がり、髪にとまっていたスズメバチを指先に移し、腕を高く天に向けた。蜂は低い羽音を立てて指先を離れると、北極星の方へと飛んでゆく。
「女の人、だったね」
「だから何よ。あんたね、たとえ道楽でも、やるならもっと手際よく、確実にやりなさい」
冷たい声でそれだけ言うと、美蘭は足早に公園から出て行ってしまった。取り残された僕は枯草の中に座ったまま、今夜は桜丸に泊めてもらおうかと考え始めていた。
4 構われると逃げる
隣の部屋から聞こえてくるテレビが、バラエティ番組のどこか嘘っぽい笑い声を運んでくる。
「耳がちょっと遠いお婆さんなんだ。時々点けっぱなしで寝ちゃうみたいだけど、僕はテレビ持ってないし、得してるかな」
桜丸はそう言いながら、電気ポットで沸かしたお湯でインスタントコーヒーを淹れてくれた。僕は来る途中で買ってきたドーナツの箱を小さなテーブルにのせ、蓋をあける。桜丸はそれを覗き込んで「おいしそうだね」と笑顔になった。
六畳一間で小さなキッチンがついた古いアパート。ここが桜丸の今の住まいで、子供の頃とは比べようもない質素さだ。安っぽいベッドと本棚と折りたたみのテーブルが目ぼしい家具で、後は小さな冷蔵庫だけ。シャワーとトイレの他に洗濯機も共用らしいけれど、彼は気にかけている様子もない。
「六つもあると迷うね。亜蘭はどれがいい?チョコ好きだろ?」
「先に選んでよ」
「じゃあこの、黒砂糖の。いただきます」
彼はそう言って一番手前のをとると、大きく一口かじった。僕はチョコレート生地の、白くアイシングしてあるのを選ぶ。
「店の賄いでけっこうお腹いっぱいになるんだけどさ、こういう甘いものって出ないから嬉しいな」
「桜丸って、ケーキとか大好きだもんね」
「うん。お母さまに似たんだと思う。お父さまは甘いもの苦手だったからね」
二つ目にバナナフレーバーのドーナツを選んで、半分ほど食べたところで、桜丸は「あ、来た来た」と笑った。いつの間にかドアが少し開いていて、隙間から入ってきたのは巨大な茶トラ猫だった。
この猫の名はトハ三七。アパートの大家さんの飼い猫で、住人が何か食べていると必ず覗きに来るらしい。この猫が器用なのか建物が古いのか、施錠していないドアだと、自力で開けて入ってくるのだ。茶トラ猫は物おじせずにゆっくり歩いてくると、僕の膝にのってドーナツの匂いを嗅いだ。
「君の食べ物じゃないよ」
僕は急いでドーナツを平らげた。体重七キロ超えの中年の雄で、食欲と好奇心が旺盛。僕はもう彼との間に「回路」を開いているので、大体のところは判っていた。
「やっぱり亜蘭って猫を扱うのが上手だね。人によっちゃ、全然触らせてくれないって文句言ってるのに」
「猫ってさ、放っておかれるの好きなんだ。構われると逆に逃げる」
僕はわざとそっけなくトハ三七を膝からおろすと、二つめのドーナツを手にした。
「構われると逃げるって、まるで美蘭みたいだ。彼女、君が来る少し前に電話してきたよ。遊びにおいでよって言ったら、嫌、だって」
「なんで電話してきたの?」
「さあ。退屈しのぎかな。彼氏と会ってるはずなのに、変だね」
桜丸はそう言って笑うけど、僕は穏やかじゃない。嘘がばれるのも心配だけど、僕と美蘭の、彼に会いたくなるタイミングがほぼ一緒というのが気にくわないのだ。
「ね、今日は泊まってくだろ?」
三つ目のドーナツを齧りながら、桜丸はトハ三七を撫でた。
「明日は僕、朝から語学だから、一緒にここを出れば亜蘭も遅刻しないと思うよ」
「学校は、別に行かなくてもいいんだけど」
「まだ高校なのにサボっちゃ駄目だよ。それに、君たちのマンションよりこっちの方が学校に近いだろ?」
「それはそうなんだけどさ」
でも何だかわざわざ人んちから学校に行くなんて面倒くさいのだ。僕はぬるくなったコーヒーを飲み、「もう、このアパートに引っ越そうかな」と言ってみた。桜丸は少し驚いた顔つきで、「空き部屋はあるけど、あんなにいいマンションから、わざわざここに来るのはどうかな」と言った。
たしかに、僕と美蘭が住んでいるのはタワーマンションの二十七階で、桜丸の部屋とは比べようもない。しかしこれは別に贅沢を好んだわけではなく、ただの仕事なのだ。
僕らが入る前、このタワーマンションには引退したばかりの野球選手が住んでいた。彼は引退の理由が薬物疑惑だったのに、懲りずにまた手を出して、過剰摂取で絶命してしまった。彼の遺体は、いつも僕がぐうたらしているリビングで発見され、その隣で意識を失っていたのが、ベストセラー本「激やせ!スピリチュアル野菜レシピ」を書いた美人料理研究家だったということで騒ぎは大きくなり、マンションは事故物件となった。
そして事故の記憶をきれいさっぱり抹消するため、部屋には僕と美蘭が住んで「ロンダリング」しているというわけ。僕らは事故物件という点については全く平気だ。死んだ人間なんて恐ろしいこともは何もない。人間、厄介なのは生きている時だけだ。
「でも、もしここに越してくるなら、亜蘭ひとりってこと?美蘭はどうするの?」
嘘に耐性の低い桜丸は、さっきの戯言を真に受けている。
「さあ、彼氏に部屋でも借りてもらうんじゃないかな。けっこう収入あるらしいし」
「そうなんだ、すごいね」
「大人だからね。色々と経験豊富なところも、美蘭は気に入ったみたいだよ」
経験、のところを嫌になるほど強調して、僕は冷えてしまったコーヒーを飲む。偽りの言葉に弄ばれて、桜丸の長い睫毛はブラインドのように瞳の輝きを閉ざしてしまう。僕のこのどうしようもない性格は、やっぱり母親譲りだろうか。
僕と美蘭の母親は、とにかく僕らの事が嫌いだったから、何とかして関わらずにすまそうと、あらゆる手を使ってきた。お金の心配はないから、学校は小学校から寄宿制だし、夏休みにはサマーキャンプに送り込まれた。それでも何日かの空白ができて彼女の元に戻る時には、ベビーシッターの女性が来て、僕らの世話をした。
支払いは悪くなかったはずだけれど、母親のところには常に怪しげな人間が出入りして、昼夜逆転、酒びたりで薬物オッケーという環境だったので、ベビーシッターは仕事が終わると逃げるように去って、二度と来なかった。「次はどんな人だろうね」というのが僕と美蘭の合言葉だった。
僕らの母親はもちろん働いてなんかいなかった。でもタロットカードのインチキ占いが得意で、皮肉なことによく当たると評判だった。この占いに心酔した人は、まるで教祖みたいに彼女を持ち上げ、頻繁に訪れては買い物や運転、料理に洗濯、果てはトイレや風呂掃除といった雑用を引き受けていた。要するに彼女は、占いを餌に使用人を集めていたのだ。
この取り巻きたちに僕らは、「親戚の子供」と紹介されていた。「従姉が育児放棄しちゃって、しょうがないのよ」なんて、産んだ本人が言うんだから呆れるけど。
大人ばかりの中に子供がうろついていると、どうしたって注目を集めるわけで、僕らを構おうとする人はけっこういた、でも、少しでも彼らの注意がこちらに向くと、母親は声のトーンを一気に引っ張り上げて「ねーえ!私の目、なんだか腫れぼったくない?」なんて具合に、注意を引こうとした。そして後でこっそり僕らのそばに来て、「あんたたちみたいに憎らしい子、誰も相手にしないんだからね」と低い声で念を押し、髪を指に巻いてきりきりと引っ張ったり、脇腹に血がにじむほど爪をたてたりするのだった。
何度も言われなくても、僕と美蘭は自分たちが並はずれて醜く、厄介な子供だという事は承知していた。僕らを帝王切開で産んだせいで、母親の「完璧に美しかった」身体には傷跡が残ってしまったわけで、彼女は何かにつけその事で僕らを責めた。
「あんたたちのおかげで、もう二度と幸せなんて戻ってこないんだわ」というのが得意の台詞だったけれど、僕も美蘭も自分たちが彼女のお腹を引き裂いて生まれてきたのだと信じていた。最初に美蘭がその鋭い歯で、膨らませ過ぎた風船みたいな皮膚を食い破って外に出る。産声の代わりに獣みたいに凶悪な叫び声をあげている彼女に続いて、よろよろと這い出していくのが僕というわけだ。
もっと大きくなって、学校の授業で帝王切開のビデオを見た時には、拍子抜けして美蘭と顔を見合わせてしまったし、うちの母親に関して言えば、普通に産むのが面倒だったというのが真相なのは容易に想像がついた。過去をすり替えるなんて、彼女にとっては呼吸と同じくらい当然の事なのだ。
しかし皮肉なもので、大きくなるにつれて、母親の取り巻きたちは美蘭と僕を「きれいな子」とほめそやすようになった。こっちはまだ十にもなっていないというのに、出入りしている男の中には、僕らに手を出そうとする奴までいて、美蘭は常にカッターナイフを持ち歩いていた。脅しても懲りない相手には実力行使で、流血沙汰になった事もあるけれど、そんな時に責められるのはもちろん僕らだった。
「その年で大人を誘うなんて、本物の悪魔ね」なんて、男の気を引くのに夢中な母親に言われてもうんざりするだけだ。そして彼女は本気でライバルを消したくなったらしくて、ついに僕らは毒を盛られてしまった。もちろん、美蘭は狡猾だし、用心深いから危険は回避した。僕はといえば、素直に毒入りのミルクを飲んで、腎臓をやられてしまった。
母親にとっては残念なことに、彼女の取り巻きたちが異変に気づいて僕を病院に運んでくれたけれど、回復の余地はなかった。ふだんは無関心を決め込んでいる玄蘭さんも、さすがに警察沙汰になるのは困るという事で病院に現れ、とりあえず病死って事で、と大金を積んでの買収工作にとりかかった。そこへ待ったをかけたのが美蘭だ。母親の事を警察に通報すると脅して、自分の腎臓を片方、僕に移植させたのだ。その代わり、自分が大人になったら、一族のために働くと約束して。
僕はぼんやりしているから、移植された腎臓が誰のものか知らずに育ってきた。でも今年の夏休みに、ほんの偶然からこのことを知ったのだ。でも結局、僕は未だに、それについて話せずにいる。だって美蘭はいきなりロシアのカムチャツカに高跳びして、ふらっと帰ってきたかと思えば、相変わらず僕の事なんて厄介極まりないという態度だし、どう近づいていいか判らなくて、いっそ何もなかったように振る舞った方がいいような気がするのだ。
「亜蘭、眠いならベッドを使いなよ」
気がつくと、桜丸が僕の肩に手をのせて覗き込んでいる。
「あれ?僕、寝てた?」
「うん、倒れそうになってたから、頭打つ前に起こした方がいいかと思って。僕はこれから明日の予習するから、先に寝なよ」
「そっか」と言いながら、僕はもうベッドに潜りこんでいた。ベッドの下には桜丸の友達が持ち込んだマットレスと毛布があって、僕が来ると彼はいつもそっちで寝るのだった。
桜丸は電気スタンドをテーブルに置き、「節電しないとね」と言って蛍光灯を消した。たぶん節電よりも僕を気遣っての事だろうけれど、僕はもう口をきくのも面倒で、毛布をかぶって目を閉じた。
この眠気の原因はよく判ってる。猫、特に自分とそんなに相性のよくない猫を操るのはかなり疲れるし、今夜みたいな大立ち回りをすれば尚更だ。でもそれは猫にとっても同じ事で、サビ猫ウツボは今頃眠りこけているだろう。すると足元へ、トハ三七がもぞもぞと乗っかってくる。この巨大な茶トラ猫はいつもこうやって、部屋をわたり歩いて夜を過ごしているらしい。
小さい頃、母親の機嫌を損ねてクローゼットに押し込まれたり、風呂場に閉じ込められたりして夜を明かすことがけっこうあった。そんな時僕は、近所にいる子猫に波長を合わせた。猫に限らず、動物の頭の中というのはシンプルで居心地がいい。妬みや憎しみ、僻みなんてものが一切なくて、掃除が行き届いた部屋みたいにすっきりとしている。
僕が波長を合わせた子猫は母猫の懐に潜り、きょうだいたちと押し合いながら、暖かい寝床でまどろみ続けていて、僕はその満ち足りた感覚を共有することで、自分の現状を忘れて長い夜をやり過ごした。そして美蘭もまた、僕と手をしっかりつないで身体を寄せ合っていれば、同じ感覚を分かち合うことができた。
学校の寄宿舎にいる時でも、寝付けないようなことがあると、美蘭はこっそり僕のベッドに潜りこんできて、「猫のところに行こう」と呼びかけた。寄宿舎の隣にある古いお屋敷で飼われている雌のコラットはいつも何匹かの子猫を育てていたので、僕はそこに波長を合わせた。柔らかい寝床と、暖かい母猫の身体。でも実際に暖かいのは母猫だったのか美蘭の身体だったのか、僕の記憶はあいまいだ。
僕も美蘭も、何割かはこうして猫に育てられたようなものだし、そのせいか、いわゆる普通の人と少しずれてて、相手を当惑させたりする。まあどうせ、まともな一族じゃないんだし、気にもならないけれど。そういえば、美蘭が僕のベッドに潜りこむのを止めたのって、一体いつからだろう。こういう事に限って、僕の記憶から抜け落ちてゆくのだ。
5 可愛い名前
美蘭は放課後の教室にふらりと現れると、俺の前の席に腰を下ろした。
「何かやらかして、残されてんの?」
「個人面談の順番待ち。お前こそ、今頃ご出勤かよ」
「昨日ちょっと、夜更かししちゃって」
彼女はそう言うと、両手を組んで前に伸ばし、軽く伸びをした。
「出席日数大丈夫かよ。九月はほとんど休んでたし、今月もこの調子じゃヤバいだろ」
「だからさ、先生にその辺の交渉をしようと思ってわざわざ来たんだけど、あんたの面談終わるまで待つの、面倒くさい」
気怠そうに、緩く波打つショートカットの髪をかき上げる。桜色の唇の間から軽い溜息がもれた。
「俺の時間、売ってやろうか」
そう誘いかけると、彼女は笑みを浮かべて「いくらで売る?」と聞いてくる。
「金じゃなくてさ、また、俺んち泊りに来ない?」
一瞬、薄い色の瞳が光って、それから「残念」と短い返事があった。でも俺はそのくらいでは引き下がらない。
「別にさ、泊まらなくても、遊びに来るだけでもいいし。ママも美蘭のこと気に入ってるしさ、俺が女友達連れて帰るなんて、ママはすっごく嬉しいんだよ」
「そりゃそうよね。風香なんて可愛い名前つけてあげたのに、中身が男なんだもんね」
「その名前、呼ぶなよな」
「ごめんね、勇斗」
彼女は素直に謝る。
「そりゃ、俺が本当の自分に戻るのはずっと先だけどさ、少なくとも美蘭には嘘の名前で呼ばれたくないんだよ。だってこの学校で俺のこと知ってるの、お前だけだもの」
「沙耶ちゃんも、まだ知らないものね。で、計画は順調?」
「とりあえず、専門学校って事で親を説得したいんだけど、あっちは先生を味方につけて大学受験の方に進めたいみたいでさ。でも俺は一年でも無駄にしたくないし」
「受けといて、全部落ちちゃえばいいじゃない。それで予備校通うふりして、いい店みつけて雇ってもらえば?」
「そうだよな。俺って変なとこで親に弱いっていうか、ついつい大学に行っちゃいそうで」と、そこまで言って、我に返る。
「美蘭に進路相談してる場合じゃないし。でさ、どうかな、さっきの話。遊びに来るだけでも」
「うん。でもやっぱり、やめとく」
迷う様子もなく、彼女は俺の提案を却下した。少しプライドが傷ついて、でも怖い物見たさというのか、俺はつい「それはつまり、やっぱ、下手だったって事かな」ときいてしまった。美蘭は俺の目は見ずに、「じゃなくて、何だか癖になりそうだから」と答えた。
そう言われると悪い気はしない。俺は女としてはタイプではない美蘭の事が妙に可愛くなって、腕を伸ばすとその頬に触れた。
俺はもうずっと小さい頃から、自分が男だという事に気づいていた。周りからは「女の子」だと言われるし、服もおもちゃも「女の子」のものをあてがわれて、立ち居振る舞いが美しくなるようにとバレエ教室に通わされても、俺は絶対に男なのだった。でもそれを言うとママが悲しそうな顔になるので、俺は黙って耐えることを選んできた。いつか大人になって、家を出る日がきたら、その日から水瀬風香という偽の名前を捨てて、水瀬勇斗という、俺本来の名前と姿で生きることだけを支えにして。
けれど、俺は本当の自分に戻る前に、運命の相手に出会ってしまった。彼女の名は沙耶。都内にある女子高の生徒で、俺と同じ高三だ。今年の春、バスケ部の引退試合で対戦したチームのマネージャーだった。
単純に言えば、俺の一目惚れだ。長身のバスケ部の選手に囲まれて、ひときわ小柄で華奢で、柔らかな笑顔を絶やさずにいる。それでいて、試合の最中には自分が戦っているみたいに真剣な表情で応援し、僅差で負けた後には懸命に選手たちを励ましていた。自分もあのチームの選手になりたい、そう思ってしまうほど、俺は彼女に惹きつけらた。
それからは放課後に彼女の学校まで行って、下校してくる姿を眺めたり、後をつけて家を探し当てたり、ほぼストーカーの状態になってしまったけれど、うわべは女子高生である俺が怪しまれることはなかった。
休みの日には友達と遊びに出掛ける彼女の後をずっとついて回ったり、ファストフードの店ですぐ近くの席に座って、彼氏の有無、志望校、好きなタレント、色んなことを探った。そしてとうとう、彼女が夢中だというアイドルグループのファンイベントで、偶然を装って声をかけ、「友達」になったのだ。
沙耶は俺が思っていたより大人だった。これまでにつきあった相手は二人いて、そのうちの一人である大学生とは身体の関係があった。
「でも、浮気されて、結局別れちゃった」と、未練もなさそうに言われて、そっかあ、なんて相槌を打っている俺の内心は穏やかではない。何せこちらは経験ゼロなのだ。でも考えようによっては、案外ハードルが低いという事かもしれない。とりあえず、うまくいった時にこっちが未経験で、無様なことになるのを避けるために、俺は誰かを「練習台」にする必要があった。
それをあっさり引き受けてくれたのが美蘭だ。
そもそも彼女は、高校に入って間もない頃にいきなり、「風香ってさ、中身は男だよね」と、俺の正体を見破ったのだ。
「別に誰かに言う気はないけど、私の前で女子のふり、しなくていいわよ」と言われ、少なくともこの世で一人は俺の正体を知っている事で、奇妙な解放感を味わった。その美蘭に、「練習台」の話をもちかけると、「私でよければ、別にいいけどね」と二つ返事で引き受けて、泊まりに来てくれたのだ。夏休み前のテストが終わってすぐ、パパとママが従姉の結婚式で福島に行った時の「留守番」要員だった。
事前に聞かされた彼女の希望は一つだけ。自分の身体のあれこれについて、誰にも口外しないこと。もちろん俺はそこまでデリカシーのない人間ではないけれど、彼女の胸がずいぶんと控えめで、お腹に子供の頃のものらしい、かなり目立つ手術の痕があるというのは、やっぱり強い印象を残した。
だからいつも体育の時は更衣室を使わずに、茶道の実習用の和室を勝手に使ってるのかな、なんて思ったけど。実際のところ、身体がどうこうなんて、俺には全く問題じゃなかった。
「練習台」は別に何もしなくていい、というのが条件だったので、俺は一方的に攻めた。美蘭は普段の気の強さからは想像もつかないほどシャイで従順で、これでもっと小柄だったら本気になってたかも、なんて思ってしまったほどだ。
俺は緊張してたし、手際も悪かっただろうけど、心配していたよりずっとうまく事が運んで、美蘭は俺の腕の中で声を漏らし、全身を震わせた。ぐったりと力を失ったその薄い身体が深く呼吸するのを抱きながら、俺は自分も一人前の男になったかな、という満足感を噛みしめたりした。
「お前さ、なんで俺と寝てくれたわけ?」
もしかして、美蘭は俺に惚れてるのかもしれないという気さえしてきて、今更のように尋ねると、彼女は気怠い声で「初めての時に、うろたえてるとこ見せたくないから、練習しとくのもいいかな、なんてね」と答えた。
「馬鹿だな。そういうのが可愛いんじゃないかよ。初めてってのは」
「私は、嫌なの」
美蘭は俺の腕を抜け出し、こちらに背を向けて丸くなった。
「それって、いま誰か相手がいて、そろそろかなって予感があるわけ?」
沈黙。眠ってしまったのか、答えたくないのか判らなかったけど、まあ仕方ない。美蘭の私生活なんて、詮索するだけ無駄ってものだ。
「まあ、無理にとは言わないよ」
強引さと執拗さというのは別もので、これを間違うと女の子は一気に興醒めするから、俺はその話を終わりにした。でも、諦めがよすぎるのも芸がない。俺は美蘭の頬に触れた指をそのまま顎に滑らせると、「代わりにキスの練習させて」と頼んだ。
「ご自由に」という返事が終わらないうちに、彼女の唇を塞ぐ。沙耶を落とすために、俺はあれこれ研究に余念がなくて、どうやったらすぐに乱れてしまうようなキスができるか、なんて事をいつも考えていたりする。そうして、美蘭の唇に舌を滑り込ませながら、誰かが偶然廊下を通って、この光景を見てくれないかと期待してしまう。
この学校の男子全員が敬遠する気の強い女、美蘭の唇をこの俺が奪っている。それはちょっとした勝利の感覚だ。この反応だと、うまくすればその気にさせられるかもしれない、と思った瞬間、美蘭は急に顔を背け、俺から離れた。
「どうかした?」
何か彼女が嫌がる事でもしただろうか。あらためて美蘭の顔を覗き込もうとした時、「ここにいたんだ」という声が聞こえた。振り向くと、後ろの入り口に彼女の双子の弟、亜蘭が立っている。
全く、最悪のタイミングで登場しやがる。無駄に背が高くて、美蘭によく似た美形なのも腹立たしいけど、いつもうすらぼんやりしていて、幽霊みたいにいきなり現れるところも何だか苛々させる。でも美蘭はやっぱり双子だからか、奴の気配を察していたのだ。
「瑠佳が探してたよ。土曜のバレー部の試合、助っ人に来てほしいって」と、亜蘭は入り口に立ったままで言った。
「そんな面倒くさいこと、するわけないじゃん」
「取った点数に合わせて、出席日数くれるらしいよ。勝てば、だけど。監督から先生に話つけるって」
「本当?」
美蘭は急に背筋を伸ばし、「それを早く言いなさいよ」と立ち上がった。
「よし、もう先生に会う必要なくなった。風香も面談さぼっちゃいなよ。進路決まってるんなら、相談なんかいらないわよ。ちょっと熱っぽいから帰るって言えばいいから。そろそろインフルエンザの季節だもんね」
亜蘭がいるので、美蘭は俺の本当の名を呼ばない。それは彼女の口の堅さの証でもある。
「ねえ、ラーメン食べに行こう。おごるから、つきあって」
返事も待たずに、美蘭は肘に手をかけて引っ張った。俺は授業もサボったことのない、真面目が取り柄のつまらない男なんだけど、まあいいか。亜蘭は相変わらずぼーっと突っ立ったままで、俺たちが教室を出るのを見送っていた。
「地下鉄とか面倒だからさ、タクシーで行こうよ」
美蘭は俺の返事なんか待たず、学校の門を出るといきなり車を停めた。そして行先を告げると、鞄からタブレットを取り出し、馬鹿みたいに長いメールをチェックし始めた。普段は友達とのラインでも面倒だからと平気でスルーするくせに、一体誰からだろう。
でも俺ごときの頭であれこれ考えたところで、美蘭が学校の外で何をしてるかなんて判る筈もなかった。とりあえず亜蘭とは一緒に住んでるらしいけど、親の話は聞いたことがないし、家の場所も知らない。でもかなり裕福なのは間違いない。
俺たちの通う学校は、私立ではかなり上のランクで、それは偏差値というより授業料の話。小中高一貫で、あとは系列の大学に推薦で進むというのが一般的なコース。そして姉妹校に、更にお金のかかる全寮制の学校がある。名前を聞けば誰だって、「ああ」って顔をする学校で、俺たちとは格が違う良家の子女が通うところ。亜蘭と美蘭はここに中等部まで通っていたのだ。
「もう飽きちゃった」というのが、美蘭がうちの学校に移ってきた理由らしい。
「だってさ、小学校から高校まで同じメンバーで、寮まで一緒なんだもの」
超名門校が実際はどんなものか、俺はけっこう興味あったんだけど、美蘭は辞めてせいせいした、という感じで多くを語らなかった。たぶん周りは彼女がいたおかげで退屈しなかっただろうけど、美蘭本人はかなり煮詰まってたんだろう。高校ではしょっちゅうサボってるし、寝てるし、なのに成績は抜群。先生なんか「君は早く社会に出た方がいいタイプだ」とか言って、完全に放し飼いだ。
たしかに彼女は明日から社会人になっても、堂々と世渡りできるに違いない。それだけの自信というか、気迫みたいなものが背骨と一緒に身体の中心を支えている感じで、大勢の中にいても際立って見える。まあ、たんに美人ってことかもしれないけど。
女にしては背が高くて、百七十と少し。ほっそりしてるけど、華奢ではなく、運動神経は申し分ない。少しウェーブのある鳶色の髪はずっとショートカットで、「一生伸ばさない」と宣言している。色白で、眼の色も光の加減で緑っぽく見えるから、もしかすると何代か前がロシア人とかかもしれない。正面から見ても整った顔立ちだけど、横顔はモデルみたいで、実際にスカウトされた事があるらしい。
彼女の変なところは、そのスカウトを断って、代わりに弟の亜蘭を売り込んだって事。まあ奴の仕様は美蘭とほぼ同じだし、格好つけて肩のあたりまで髪を伸ばしてたりするから、とりあえず事務所には入れたらしいけど、雑誌やなんかで見かけた事がない。美蘭は「社会勉強させようと思ったんだけど、ほんと売れなくて。やっぱ他人に調教してもらおうなんて、甘かった」とぼやいてたけど、スーパーのチラシ程度の仕事はしてるかもしれない。
これは俺の想像だけど、美蘭は母親のお腹の中でも、やりたい放題だったに違いない。彼女なら自分の臍の緒だって凶器にしそうだから、そいつで亜蘭の首を締め上げて、栄養を奪い取ってたんじゃないだろうか。そうでなければ、この双子における不均衡の説明がつかない。
美蘭は確かに面倒くさがりではあるけど、やりたい事であれば半端ない行動力だ。そして学校の連中はもちろん、年寄りだろうと子供だろうと、誰とでもうまく調子を合わせられる。しかし亜蘭はいつもぼーっとしてて、親しい友達なんか一人もいないし、たまに口をきいても会話がろくに続かない。不思議なのは、成績だけはそれなりにいいって事。つまり馬鹿ではないんだから、消去法でいくと奴は間抜けって事になりそうだ。
タクシーは細い路地に入り、「青龍軒」というラーメン屋の前で停まった。こういう店にタクシーで乗り付ける女子高生ってのが多いか少ないか、俺にはよく判らないんだけど、美蘭にとっては日常的な事らしくて、何のためらいもなく店に足を踏み入れた。
「いらっしゃい!」という威勢のいい声があちこちから聞こえてきて、俺も彼女の後に続くと、さりげなく店の様子を窺う。四人掛けのテーブルが三つと、L字型のカウンター。まだ夕食時には間があるけど、客の入りは半分程度、その全員が男だった。
美蘭は慣れた感じでカウンター席に座ると、「私は青龍スペシャル黒胡麻担担麺。風香は何にする?」と言ってメニューを差し出した。しかし写真入りのメニューを見ても、俺は注文を決めかねていた。男としてはちょっと情けないんだけど、俺の胃はあんまりガツンとしたものを受けつけない性質なのだ。それに、ママが夕食を準備して待っているから、満腹で家に帰るわけにもいかない。
「ゆっくり選べばいいわよ」と美蘭が笑ったその時、「今日は友達と一緒?」という声がして、水の入ったグラスが出された。俺は何気なく視線を上げたけど、息を呑むほど驚いた。
その店員はまさに、俺が男に戻ったらこういう風になりたいっていう姿かたちをしていたのだ。背が高くて、骨太で、目障りでない程度に筋肉がついていて、黒目がちのはっきりした目元で、顎の輪郭が力強くて、指が長い。欲をいえばもう少し日焼けしているべきだけれど、まあそれはどうにもできる事だ。
「彼女少し食が細いの。桜丸のお勧めは?」
美蘭はどうやらこの男と親しいみたいだ。彼は人懐っこい笑顔を浮かべると、「女の子に人気なのは、もやしハーフかな。これだと麺が半玉であとはもやしだから、ダイエット中の子がよく注文するんだ」と、俺に話しかけてきた。
「じゃあ、それにする」
「ネギは入れていい?血行促進とかって、山盛り入るんだけど」
「うーん、少し減らしてもらっていい?」
「了解!」
奴がオーダーをとって厨房に引っ込んだ途端、俺は美蘭に向かって小声で質問を浴びせていた。
「何?あいつ滅茶苦茶かっこいいんだけど。ずいぶん仲よさそうじゃない?桜丸って名字?名前?」
「名前よ。フルネームは須賀桜丸。まあ、友達かな。博倫館で一年上だったの」
美蘭は例の、中学まで通っていた名門校の名前を出してきた。
「博倫館?じゃあすっごいお金持ちってこと?なんでここで働いてるの?」
今は二人っきりじゃないから、女子高生モードで話さなきゃならないんだけど、それを忘れそうになるほど、俺は興奮していた。
「残念ながら今は苦学生。お家の事情って奴」
「もしかしてだけど、つきあってる?」
「冗談やめて」
美蘭は急にすごく冷静な声になると、グラスの水を半分ほど一気に飲んだ。そしてまたタブレットを取り出すと、「ちょっとごめんね」とメールをチェックし始めた。どうやら俺は余計な質問をしたらしい。仕方ないので背筋を伸ばし、厨房で立ち働いている桜丸に視線を向けた。
広い肩と、まっすぐに伸びた背筋と、しなやかで逞しい腕。あの身体を手に入れて、沙耶を抱きたい。しかし現実の俺は美蘭よりもずっと「女らしい」体型をしていて、それがまさに苛立ちの種だ。身長はようやく百六十と少し。何とか目立たないように苦労している胸はEカップに近いし、全体の体つきが妙に丸っこい。手は小さくて厚みがあって、女どもは「赤ちゃんみたいで可愛い」なんて言いやがるけど、これも嫌で仕方ない。たまに電車で痴漢にあったりすると、本気でこの身体に刃物を突き立てて、きれいさっぱり脱ぎ捨てたい衝動に駆られるのだ。そして、桜丸みたいな男に生まれ変わりたい。
「はい、お待たせ!」
俺の夢想を打ち消すように、桜丸が注文の品を運んできた。美蘭はさっさとタブレットをしまい、「これが一番おいしいんだよね」と、舌舐めずりしそうな勢いで割り箸を手にとった。彼女の頼んだ黒胡麻担担麺はその名の通り、黒胡麻ペーストのおかげで邪悪なほどに黒く、そこへ溶岩のように赤い辣油が浮かんでいる。煮卵はかろうじて浮かんでるけど、麺は底の方に沈んでいるみたいで、ほとんど見えない。
それに比べると俺のもやしハーフなんて可愛いもんだ。醤油ベースのスープにもやしがどかっと盛られて、煮卵と薄めのチャーシューが花を添えてるだけ。器も美蘭のより一回り小さい。
美蘭は「いただきます」とだけ言うと、あとは無言で、ただ勢いよく麺をたぐり、煮卵を頬張った。頬をうっすら紅く染め、額に汗まで浮かべ、夢中になって食べている。俺はそこまでラーメンに集中力を発揮できないな、なんて妙な気後れを感じながらその横顔を見ていると、何故だかあの夜、俺に触れられて声を漏らした彼女を思い出してしまう。声なんて絶対に出すもんか、って感じで、身体のどこかにずっと力を入れてたのが、ついほどけてしまって。彼女が自分の喉から零れ落ちた切ない声に当惑してる様子は、俺をひどく昂らせた。
人が物を食べるって事は本能に結びついてるわけだから、やっぱりどこか、愛し合う時の姿を映し出してしまうのかもしれない。そんなことを思いながら、ラーメンを食べようと向き直ると、カウンターの向こうで桜丸も美蘭を見ているのが目に入った。奴は何だか、猫が餌を食べるのを嬉しそうに眺めてる飼い主みたいな感じで、俺みたいにやらしい考えなんて微塵もなさそうだ。
こいつ、まだ女を知らないんじゃないかな、なんて優越感が俺の中で頭をもたげてくる。それを察知したのか、奴はこっちを向いた。俺と目が合うと笑顔を浮かべ、席を立った客の食器を下げるためにフロアへ出て行く。
「こんど、部屋まで遊びに行こうよ」
気がつくと、美蘭がこちらを見ている。
「部屋って?」
「桜丸の下宿。すんごい貧乏生活してて面白いよ。あんた、彼のこと気になるんでしょ?まあ、気になるの意味が違うけど」
彼女は悪戯っぽく目を光らせ、黒いスープの底から麺をさらった。
「よく判ってんじゃん」
「遊びに行ったらさ、私、適当なとこで先に帰るから。あんたちょっと誘ってみなよ」
「え?そんなの無理!」
「でもさ、どんな風に手を出してくるか、そういうとこ、参考にしたいんでしょ?」
「まあそうだけど、俺、男とは絶対無理だから」
うっかり男モードに戻ってしまうほど、美蘭の提案は俺を慌てさせた。それが少し悔しくて、「だったら、俺が寝たふりするからさ、美蘭があいつを誘ってくれよ。そういうのって、スリルがあるから盛り上がるらしいじゃん」と言い返してやった。しかし美蘭は自分で切り出した話を「ありえない」と、そっけなく終わらせ、グラスの水を飲んだ。
俺はまたもや地雷を踏んだらしい。どうも美蘭の奴、夏休みの間に少し変わってしまった感じがする。前はどんな話題でも一瞬で冗談にできたのに、最近はふいに自分の世界に入るような所があって、慣れないうちは具合でも悪いのかと思ったほどだ。
夏休みに何かあったんだろうか。或いは、これは自分でもすごく傲慢だとは思うんだけど、俺に抱かれたせいかもしれない。女の子ってのはやっぱり、男によって変わるもんだし。でも、俺の方はどうかというと、まあ今まで通り。敢えて言うなら、ちょっと自信がついたってとこか。
もう余計な事は言わずにおこうと注意しながら、俺は「ここのスープ、好きな味だな」なんて感じでラーメンを食べた。美蘭は引きずるタイプじゃないから、「見た目よりあっさりしてるでしょ?」と、普通に相手してくれる。
「それに、麺にエッジがきいてるじゃない。丸い麺より絶対いいよね。パスタでも、リングイネが好きだもん」
「そこまで考えてラーメン食べたことないなあ」と、これは俺の本心からの言葉。そしてもっと本音を言えば、隣にいるのが美蘭じゃなくて沙耶なら、どれだけ幸せか。でも彼女は難関校の法学部を狙っていて、まさに追い込み中。俺はラインのやりとりも極力抑えてるほどで、一緒に出歩くなんて夢のまた夢なのだ。
「いらっしゃい!」
また威勢のいい声が幾つも響いて、俺は我に返る。ぼんやりしてたら麺が伸びてしまうので、慌てて追い込みにかかっていると、新しく入ってきた客は俺の隣に座った。スーツ姿で、他にも空いた席があるのにわざわざ詰めてくるのは、女子高生狙いの変なオヤジかもしれない。俺が警戒しながら、どんな男かと確認するより先に、奴は「やっぱりここだった。予感的中」と言った。
6 背中をくわえて仁王立ち
男は美蘭の知り合いみたいだった。もうラーメンを平らげていた彼女は、ちらりと視線を向け、「亜蘭の奴」と低く唸った。その不機嫌そうな様子をものともしないで、男はカウンターごしに「彼女と同じの」と注文を入れた。
うちのパパより若い感じ、ということは三十代だろうか。中年太りとは無縁のすらっとした体型で、スーツ姿だけど、ちょっと長めの髪は銀行員とか公務員じゃなさそうで、しいて言えば、カーディーラーをしているスミレのお父さんに雰囲気が近い。どこか調子よさそうな、皮肉っぽいような笑顔を浮かべて「亜蘭は関係ないよ。僕は自分の勘で君の居場所を突き止めたんだ」なんて言っている。
美蘭は「あっそ」とだけ答え、席を立ってトイレに雲隠れしてしまった。大人相手にこんなデカい態度とっていいのかと、こっちがハラハラするけど、男は別に気にする様子もなく、今度は俺に話しかけてきた。
「邪魔してごめんね。自己紹介が遅れたけど、江藤っていいます」
いきなり名刺なんか差し出してきて、俺は「どうも」とか言いながらそれを受け取った。江藤靖、というのが奴の名前で、会社はオフィスハバキ、肩書きはチーフマネージャーとなっている。一体何の仕事だろうという俺の疑問が顔に出たのか、奴は「うちはモデル事務所なんだ。彼女の弟もうちの所属」と説明した。
「え?じゃあ、美蘭をスカウトした人?」
つい、そう尋ねたら、奴は一気にテンション上げて「そう!目利きだと思わない?」なんて、打ち解けようとしてくる。俺は何だか鬱陶しくなって、「だけど彼女、断ったんでしょ?」と突っ込んだ。奴はしれっとした顔で、「まあね。でもいいんだ、今は彼女とつきあってるから」と言ってのけた。
悔しいことに、俺はそこでうろたえて「本当?」と言ってしまった。美蘭ならこれぐらい年の離れた男が相手でもありうると思ったのだ。でも、奴の指に光ってる結婚指輪が目に入ったので、うまい具合にからかわれたと気づく。
何か言い返してやりたかったけど、その前に美蘭が戻ってきた。相変わらず江藤さんの事なんてどうでもいいって態度だったけど、よく見るとリップグロスを塗り直してたりして、微妙な感じ。おまけに「ねえ、せめて僕が食べ終わるまで一緒にいてよ。車だし、送るから」なんて言われて、「好きにすれば」と、そのまま居座ったんだから。
ちょうどいいタイミングで、奴の青龍スペシャル黒胡麻担担麺が出てきたので、俺はこっそり「帰らないの?」と美蘭に尋ねた。
「まあいいじゃん、タクシー代浮くから」
彼女はどこか上の空って感じでそう答えると、「ちょっと失礼」とか言ってまたタブレットを取り出す。じゃあ俺は一体どうすりゃいいのかと、泳いでしまった視線の先に桜丸がいた。江藤さんとの会話は奴の耳にも入ってたらしくて、当惑ぎみの笑顔を浮かべている。
「ねえ君、亜蘭が猫探偵だって知ってる?」
江藤さんは美蘭に無視されてるのなんか全く平気な様子で、ラーメンを食べながら俺に話しかけてきた。
「は?猫、たん、てい?」
「そう。迷子の猫を探す天才。彼がうちの家出しちゃった飼い猫を見つけてくれたのが、僕と美蘭の知り合ったきっかけなんだ」
「そうなんですか」
あの間抜けな亜蘭に、そんな特技があったなんて初耳だ。
「あれ、一種の超能力だよね。猫が寝てるクッションとか、触っただけで探し出せるんだから。残念ながら僕は現場に居合わせたわけじゃなくて、出張から帰ったら、ちょうど猫が戻ったとこで、そこに亜蘭たちもいたんだけど」
「つまり、亜蘭が猫を連れ戻したんですか?」
「そう。でも僕は正直なところ、猫が戻ったことより、そこにいた美蘭に驚いた。ちょうどその時探してたモデルのイメージにぴったりだったんだ。誤解を受けないように言っておくとね、モデルってのは顔立ちが綺麗とか可愛いとか、そういう事じゃないんだ。だって女の子ってのはみんな綺麗で可愛いからね。もちろん君もそう。だけど、モデルというのは存在感が命なんだ」
「でも、亜蘭って存在感ないけど」
江藤さんがあまりにも調子よく話しかけてくるので、俺はつい本音を漏らしてしまった。奴はにやっと笑うと、「学校じゃそうなの?」と質問で返してくる。
「まあ、無口だし、とにかく気配消してる感じです」
「そうだね。でも、彼はそうやって自分を隠してるんだよ。その煙幕みたいなものの向こうに、本当の亜蘭がいる。まあ、僕もまだ、ちゃんとお目にかかったことはないけど」
「へえ、そうなんだ」と、俺は素直に感心してしまった。今まで亜蘭について、そんな事を言う奴なんかいなかったからだ。
「でもね、だからといって美蘭が自分自身を表に出してるかというと、そうでもない。僕は彼女のこと、実はすごく内気でシャイじゃないかと思ってる」
当たってる、と言いそうになって、俺はそれをごまかすためにグラスの水を飲んだ。こいつはたんに軽くて調子がいいだけの男じゃなさそうだ。でも、そこで美蘭が「もう!うるさいよあんたたち!」と吠えた。
「ね?こういうところ」と、江藤さんは悪びれる様子もない。
「だからうるさいっての!」
美蘭は手にしたタブレットで奴を殴りそうな勢いだけど、その間に挟まれてる俺はどうすればいいんだか。
「初めて会った時、美蘭は不思議な事を教えてくれた。猫が家出するのは、何かを知らせようとしてるの、って。それで僕は、はっと閃いて、じゃあ、うちの猫が家出したのは、君をここに連れてくるためだったんだね、って言ったんだ。そしたら彼女、そこにいたうちの猫をひっつかんで、背中をくわえてぶら下げちゃった。それで仁王立ち」
「猫を?くわえた?」
「そうだよ。親猫が子猫を口にくわえて移動させるだろ、あんな感じ」
「うそ、美蘭マジでやった?」
俺の問いかけに、美蘭は憮然として「するわけないじゃん」と言うんだけど、江藤さんの訳知り顔を見てると、やったような感じがする。
「うちの奥さんはそれを見て、卒倒しそうになっちゃってさ。猫はあんがい平気そうだったけどね。そしたら亜蘭が冷静に、美蘭、そういう事しちゃ駄目だよって、猫を救出してくれた」
そこまで聞いて、俺はつい爆笑してしまった。いつも偉そうにしている美蘭が、弟に諭されるってのはなかなか面白い。気がつくと厨房の桜丸も笑っていた。江藤さんは俺たちがうけたのに満足したらしいけど、最後に「でもさ、僕はそこで彼女のことを本気で好きになったわけ。人を好きになるのに、結婚してるかどうかって関係ないんだよ」と付け加えた。そして呆気にとられている俺を後目にラーメンを平らげ、「待たせたね。ごちそうさま。じゃあ、行こうか」と立ち上がった。
「門限七時なら、まだお茶飲むぐらいの時間はあるよ」
バックミラーごしに江藤さんは誘いかけてくるけれど、俺は「昨日もちょっと遅くなったから」と断った。だいたい門限じたい、早く帰りたいが故の出まかせなのだ。家まで送ってもらえるのはありがたいけど、美蘭はこの後どうするつもりなんだろう。
助手席に座るのを渋った彼女は、俺の隣で何も言わずシートに身体を沈めている。タブレットも出さず、窓の外に視線を向けたままで、その艶やかな髪の上を暮れてゆく街の明かりがせわしなく通り過ぎる。さっきタクシーに乗った時の寛いだ感じとは逆に、内側から張りつめているような気配。
この車、パパが春先に新車に乗り換えた時、最後まで買うかどうか迷ってた奴だ。予算オーバーで、泣く泣くあきらめてたっけ。さすがそれだけの事はあって、乗り心地がいいし、広々してる。江藤さんってけっこう稼いでるんだな。
「明日の数学、自習かもしんないよ。浅田先生、町内会のドブ掃除でぎっくり腰になって動けないんだって」
わざわざ関係ない事を言いながら、俺は江藤さんに気づかれないように右手を伸ばし、美蘭の膝にのせた。ちょっとした対抗意識というか、俺の方が先だって事を彼女に思い出させたくなったのだ。掌に彼女の温もりを感じた途端、もう少しいいかなという気がして、俺はスカートの下にそろそろと指を移動させる。美蘭はまるで気づかない顔で窓の外を見てるけど、俺には彼女がほんの一瞬だけ反応したのが判った。
「ぎっくり腰か。君たちみたいに若い子には、あれがどんなに恐ろしいか、絶対にわからないだろうな」
ゆっくりとハンドルを切りながら、江藤さんは俺たちの会話に遠慮なく入ってくる。仕方ないから「江藤さんは、なったことあるんですか?」と聞いてやった。
「幸い、まだないね。でも半年ほど前にうちの社長が、デスクから立ち上がろうとした瞬間にやらかしちゃって。そのままの姿勢で固まって、動けないんだよ、本当に」
「なんかすごく、大変そう」
口ではそんな事言ってみるけど、知らないおっさんのぎっくり腰なんかどうでもいい。俺は全神経を右手に集中して、美蘭の滑らかな肌の上をゆっくりと移動していた。掌がいいか、指先なのか。指先だったらどの指がいいのか。彼女の示すどんな小さな反応でも、感じ取れるように。
「それで、これは大変だって、彫刻みたいに固まった社長を、みんなで担いでタクシーに乗せて病院に行ったんだ。その夜にすごく大事な商談が控えてたから、なんとか歩けるようにしてくれって頼んだら、痛み止めの注射をしましょうって事になった。腰椎に直接打つんだよ。神経をブロックするんだ」
「わあ、痛そう!」なんて騒ぎながら、俺は指先にほんの少し力を加える。美蘭の肌は明かりを灯したように、ほんのりと温度を上げ、やがてその熱は他の場所へと波紋のように広がってゆく。
「注射針も太くて、見てるこっちの方が恐ろしかったけど、劇的に効いたよ。しばらく休憩したら、歩いて帰れたものね。ゆっくりだったけどさ」
「じゃあ先生も、注射打って出てくるかな」なんて、俺が江藤さんの相手を続けてると、とつぜん美蘭が俺の手に触れた。払いのけられるのかと一瞬身構えたけど、彼女はそのまま掌を重ねてきた。横顔は無表情に外を眺めたままだけど、神経を尖らせてるのが指先から伝わってくる。
「よっぽどの事がないかぎり、注射なんて必要ないよ。あれは何日か安静にしてればおさまるんだ。人が病気になるのは、それが治るまでの間は休む必要があるというサインだからね」
江藤さんは相変わらずしゃべってたけど、俺は返事するのも忘れ果て、美蘭の指に捕らわれたまま息をひそめ続けた。
知らない人の車で家まで送ってもらうとママが騒ぎそうだから、俺は近くのドラッグストアの前で降ろしてもらった。江藤さんは「またね。気が向いたら電話して」なんて最後まで調子よかったけど、美蘭はほとんど無言。もしかして江藤さんにさよならしたいのかと思って、「ちょっと寄ってかない?ママすごく喜ぶよ」と助け舟を出してみたけど、「また今度ね」という返事があっただけ。そして俺がドアを閉めようとすると、江藤さんは振り向いて「前に来なよ」と美蘭を誘った。彼女は素直に車を降り、俺に「お母さまによろしくね」とだけ告げて助手席に移り、そのまま夜の向こうに消えてしまった。
家のドアを開けると、何故だか晩ごはんを作ってる気配がない。これはもしや、と思ってダイニングをのぞくと、ママが草加せんべいを齧りながらテレビを見ていた。
「あら風香、お帰り。今日からお父さん出張なの。ママと二人だから、お夕食簡単なのでいいかしら?」
いいかしら?って、要するに手抜き宣言なんだけど、俺も別に異存はない。特に今日みたいに寄り道してきた日は。
「ママ、お友達の生け花の展覧会に行っててね、帰りにみんなでお茶飲んだりしたから、なんかお腹すいてないのよ。ちょうど近くにお寿司屋さんがあったから、太巻きとか買ったんだけど。お味噌汁、インスタントでいい?物足りなかったら、カニ玉でもつくろうか?」
「お寿司だけでいいよ。パパ、出張ってどこ行ったの?」
「さあ、チンタオって言ってたけど、どこの国かな。パリとかニューヨークとか、 判りやすいところに行ってくれるといいのに。もうお土産に外国の変なお菓子買ってこないでって言ったの、ちゃんと憶えてるかしら」
ママは基本的にパパの仕事には興味がない。なんか機械作ってる会社、って言ってるけど、本当は自動車部品のメーカーらしい。ママにとって気になるのは、パパの仕事内容より毎日の帰宅時間と出張の予定ってとこか。それ次第で我が家の夕食は随分変わるのだ。
「パパ、出張はいいんだけどさ、土曜に郡山の法事があるの、ママ一人で行かなきゃなんないのよ。風香も一緒に来ない?みんな喜ぶよ」
「受験生だからパス!」
ママの「もう!」という溜息を聞き流して、俺は階段を上がった。郡山、というのはパパの実家がある場所で、じいちゃんばあちゃんを始め、親戚が大勢住んでる。という事はママにとって完全アウェーだから、何とかして俺を巻き込もうとしてるわけ。でも俺は親戚関係を極力避けたい。風香ちゃん、もう彼氏できたの?なんて下らない事をあれこれ言われたくないのだ。
俺の親戚は別にひどい人間の集まりではない。でも、悪気のない社交辞令ほど俺をげんなりさせるものもないし、今のうちにフェードアウトしといた方が、将来本当の俺、つまり男に戻った時のショックが小さくてすむんじゃないかとも思う。パパとママには悪いけど、俺なりに考えた結果なのだ。
俺は少しどんよりした気分になって、自分の部屋に戻った。真っ先に制服を脱いでジャージに着替え、それからベッドに腰をおろしてスマホを見る。沙耶からラインで「はらへりで死にそう。中華まん食べてまた頑張るよ」と入ってるけど、いま返信しても授業中だろう。とりあえず「うちの晩ごはんは手抜き寿司」なんて送って、それから「土曜とか、会えない?」と打ってみた。
もうどのくらい顔見てないだろう。俺は沙耶の顔だとか声だとか、絶対に忘れないけど、彼女は俺のこと、少しずつ忘れてるかもしれない。大勢いる女友達の中の一人で、同じ学校でもなく、気が向いたらラインするだけの相手。一番大事な受験に比べたら、取るに足らない存在。
俺に親しくしてくれるのだって、彼女的にはそれが普通って事にすぎなくて、もしかしたら俺は知り合いレベルの評価かもしれない。沙耶が明るくて活発な女の子だって事そのものが、俺の気持ちを暗くする。
沙耶にとって、特別な誰かじゃない。
ちょっとでも油断すると、この考えが雨雲みたいに頭の中に広がり始める。俺はさっき打ったばかりの「土曜とか、会えない?」を削除すると、ベッドに寝転がった。こんなつまらない事で沙耶の邪魔するわけにいかない。俺はそんな面倒な男じゃない。でもこの雨雲を払ってほしくて、さっき別れたばかりの美蘭に会いたくなる。
「だからさ、あんた十分にいい男だって」
嘘でもいいから、美蘭のこんな言葉を聞いて、本当にそう思ってんのかよ、なんて言いながら彼女を腕に抱きたい。美蘭、今頃何してるんだろう。江藤さんは美蘭をどうする気なんだろう。
そんな事を考えると、俺はますます自分一人だけ世界から置き去りにされたような気持ちになる。そしてママの「風香、ごはん食べよう!」という能天気な呼び声が、結局のところ俺が何者であるかを教えてくれるのだった。
7 なんでここにいるの
美蘭の奴、きっと慌てるだろうな。
僕は教室の窓にもたれたまま、スマホをポケットに入れた。グランドではサッカー部の連中がストレッチしてるし、音楽室では吹奏楽部が賑やかに練習中だけど、毎日学校に来る上に、よくもこんな面倒な事ができるものだと呆れてしまう。
「飛び降り自殺なら手伝おうか?」
いきなり誰かが背中を思い切り押してきて、僕は我に返った。
「ま、二階じゃ即死は無理さ。自分の体重でこの高さだと加速度何Gか判ってる?頭使えよ」
気が利いた冗談を言ってるつもりらしくて、秀矢は笑いながら僕の肩をたたく。高三だけどまだ声変わりの収まりきってない声と同じように、彼はいつもどことなく平衡を欠いた身のこなしで、それが僕の居心地を悪くさせる。
「美蘭、また風香と一緒に帰ったぞ。あの二人、仲いいよな」
「気が合うんじゃない?」
「それ以上だよ絶対。俺、見たんだけどさ、風香の奴、美蘭をこんな感じで」と、秀矢は僕の首に腕を回して顔を寄せてきた。彼、そろそろ髭は剃った方がいいんじゃないかなと思いながら、僕は「じゃれてただけだろ」と言って身体を引く。
「違うよ、あいつらきっとレズだ」
「だったら面白いね」
「お前、双子なのに気がつかないわけ?」
「こんど会ったらきいとく」
僕はそれだけ言って教室を出た。たしかに美蘭は他の女子よりも風香とよくつるんでるけど、単につき合いやすいんだと思う。遠回しな言い方とかしないタイプだから。まあその分、風香が僕の事をうざったいと思ってるのは率直に伝わる。でもそれは彼女に限った事じゃないので、別に構わない。
僕は生まれついてのいじめられっ子だ。なのに大してひどい目に遭わなかったのは、美蘭が「亜蘭をいじめる特権があるのは私だけ」と、宣言していたからに過ぎない。さすがに今は小さかった頃よりましだけど、彼女に虐待されてる事に変わりはない。とはいえ、僕だってやられっぱなしというわけじゃない。
「美蘭は今どこ?学校にいる?」
さっきそう電話してきたのは、江藤さんだった。
「残念。帰ったところ」
「一人?だったら誘拐しようかな。この前、食事の約束してたのに、ドタキャンされたからね」
「食事の約束?いつの話?」
「月曜の夜。急に都合悪くなったとかって」
「ふーん、でもまた残念。彼女は今、友達と一緒だ」
「どこ行ったの?」
ここで僕は、いい事を思いついた。
「青龍軒ってラーメン屋。そこでバイトしてる奴がタイプだから、最近行きまくってる」
「それは初耳。だから僕のこと見限ったのかな」
「放っといたら、そうなるかも」
「君はどっちに勝ち目があると思う?ラーメン屋の奴と、僕と」
「もちろん江藤さんだよ」
くすっと笑うような響きがあって、「君はなかなかの策士だね。行ってみるよ、ありがとう」と通話は切れた。僕は頭が切れるわけじゃないけど、この案は悪くない。もし江藤さんが首尾よく現れたら、桜丸もこれが美蘭の彼氏か、って諦めるだろうし、江藤さんは彼女をお持ち帰りすればいい。まあ、猛獣だから指一本触れさせるはずないんだけど。
それにしても美蘭、江藤さんのことどう思ってるんだろう。初対面であんな風に猫を咥えちゃったのは、彼女的にはかなり動揺した証拠ではある。あれ以来、僕をだしにしてけっこう会いもしてたけど、月曜に二人きりで食事の約束してたなんて、全然知らなかった。
「あ」
僕は思わず声を出していた。月曜って、迷子猫のサンドを探しにいって、あの女の子に出くわした日だ。という事は、僕がドタキャンの原因?そんなはずはない。あれはもう不可抗力だ。まあ、美蘭が一方的に僕を逆恨みしている可能性はあるけれど。
ともあれ、そういう事なら、今日の美蘭は泣いて僕に感謝するかもしれない。思いがけず江藤さんが会いに来てくれたんだから。ちょっとした優越感に浸って校門を出ると、誰かがブレザーの裾を引っ張った。また秀矢か。でも「何?」と振り向いた先には誰もいなくて、気のせいかと歩きだすとまた引っ張る。「だから何だよ」と、もう一度振り向くと、そこには女の子が立っていた。
リム、と名前を呼びそうになって、僕は慌てて口をつぐんだ。あの、僕とサビ猫ウツボが逃がした女の子だ。もちろん水着なんか着てなくて、ピンクのパーカーと水色のショートパンツに、星柄のスパッツとスニーカーという、その辺の小学生と変わらない格好をしている。
「なんでここにいるの?」
ついつい後ずさりしながら、僕は彼女に質問していた。面倒な事に巻き込まれるのは御免だし、彼女が一体どうやってこの学校を探し当てたのか判らない。
「あのお姉さんに、お洋服を返したいの」
彼女はそう言って、腕にかけていた紙バッグを持ち上げた。中身はどうやら、美蘭のブラウスらしい。これでまた妙な事に関わる羽目になったら、美蘭は激怒するに決まってる。
「そんなの捨てちゃっていいよ。どうせあげたんだし」
僕はそれだけ言うと、彼女に背を向けて歩き出そうとした、なのに「ちゃんとお洗濯して、アイロンもあてたから綺麗だもん」なんて言われると困ってしまうのだ。更にタイミングの悪いことに、女子が何人か通りがかって「やーだ、亜蘭が小学生たぶらかしてるよ」と冷やかしてくる。
「ねえねえ、こんなヘンタイの相手しちゃ駄目だよ。早く帰らないと暗くなるし」
見た目は女子高生だけど、中味はおばさんと変わりない彼女たちに声をかけられて、女の子は「でも、お兄さんに聞きたいことがあるの」とはっきり言った。
「ちょっと亜蘭、用があるんだからちゃんと話を聞いてあげなさいよ」
「時間も時間だし、お家まで送ってあげるべきね」
口々に正義感溢れる言葉を投げつけられて、僕は彼女を連れ、すぐ近くのコーヒーショップに緊急避難するしかなかった。
氷抜きのりんごジュースというのが女の子の注文で、僕はアイスコーヒー。店の明かりの下で向き合う彼女は、この前よりも顔色が良いように見えた。僕はあらためて、「名前、何だっけ」と聞いてみる。
「あんざいりむ」と答えながら、彼女は背負っていたリュックのフラップをめくって、「安西莉夢」という名札を見せてくれた。
「お兄さんは?」
「え?ああ、夜久野亜蘭」
言ってしまってから、鈴木田吾作とかの偽名にしておけばよかった、と後悔する。この子には美蘭の脅し、効いてないんだろうか。
「あのさ、こないだ僕と会った後で、猫が助けに来ただろ?」
「うん」
「その事、誰にも言っちゃ駄目って、約束したよね」
「うん。誰にも言ってない」
「じゃあどうやって、僕らがここの学校の生徒だって判ったの?」
「かっちゃんが調べてくれた」
「かっちゃん、て誰?」
「パパのお姉さん。ばあちゃんと住んるけど、足が痛いからずっとお家にいる。でも、ネットで調べて色んなことを知ってるの。このお洋服の襟にある刺繍は、有鄰館って学校のマークなんだって」
僕は思わず自分のシャツの襟を引っ張り出していた。確かに、白地に白で目立たなくはあるんだけど、校章が刺繍されていて、お金持ち学校だと無駄に主張している。
「中学校は刺繍の場所が胸のポケットで、襟にあるのは高校。でも、かっちゃんには猫の事やお姉さんの事とか、絶対に言ってない」
今まで大して気にもしてなかったけど、学校の制服ってのはけっこう世間の注目を集めているらしい。いっそ、その方面の店で売ってくれたらよかったのに。
「だからさ、あげた物だし、捨てちゃっていいよ」
僕は面倒くさくなってそう繰り返したけれど、莉夢は「捨てないもん。お姉さんに返して、ありがとうって言う。今日会えなくても、明日から毎日、学校終わるの待ってる」と食い下がった。
「でも、君も学校あるだろ?また変な人につかまったら大変だし、パパとママも心配するよ」
「学校はずっとお休みしてる。それに、変な人が来ても、きっとお姉さんが助けてくれる」
「あのさ、彼女は君が思ってるような優しい人じゃないから。何があっても、もう二度と助けたりしてくれないよ。それどころか、うわ面倒くさっ!マジでウザい!って、怒るだけだから」
僕の演技がことのほか真に迫っていたのか、莉夢は一瞬きょとんとして、それからじわっと目に涙を浮かべた。
「パパもママも莉夢のことは心配してない。ばあちゃんとかっちゃんはお金がないから、莉夢はまたルネさんちに行かなきゃならないかもしれない。そうしたら、またお外に出れなくなる」
「ルネさん?」僕はその名前を思い出そうとしてみる。サビ猫ウツボと一緒に忍び込んだあの家にいた女の人、確かルネさんって呼ばれてなかったっけ。
「ルネさんはママのお友達。ママはトシアキさんと住むけど、莉夢はお部屋がないから、ルネさんちに行ったの。でも、あそこはもう嫌。絶対行きたくない」
僕はあの家で見た、床に並べられた食事とビデオカメラを思い出していた。
「それで、君は今、おばあちゃんの家にいるの?」
「うん。でもお金がないから、長くは預かれないって」
「パパは?」
「お仕事で遠くにいる」
「そっか」と言いながら、僕は頭の中のあれこれを並べ直してみた。どうやら彼女は誘拐監禁されたわけじゃなくて、母親の同意があって「ルネさん」という女に預けられ、あんな風に扱われていたのだ。要するに彼女は、身内にとってはお荷物で、ルネさんには小遣い稼ぎの道具というわけ。でも、だからって僕に何ができるわけでもないし、そんな義務もない。
「まあ、話は判ったからさ、もう暗くなるし、そのブラウスは僕が預かって彼女に返しとくよ」
そう言って手を伸ばしても、彼女は紙バッグを渡そうとしなかった。
「お姉さんに会って、直接返すの。あと、猫ちゃんたちにこれ食べさせてあげる」
莉夢はリュックサックの中をかき回すと、パックに入った「猫おやつ」シリーズのささみジャーキーを取り出した。ご丁寧にきらびやかなシールやリボンで飾り立ててある。いや別にウツボやサンドの事なんかどうでもいいし、と思いながらも、僕はそれが言えなかった。代わりに何故だか「とにかく、もう学校まで来ちゃ駄目だよ。明日の夜、ここに電話してみて」と、湿ったコースターの裏に電話番号を書いていた。
家に帰っても何だか気持ちは落ち着かなくて、僕は途中で買ったローストビーフサンドとニース風サラダを、炭酸水で流し込むようにして食べた。それから何をする気にもなれないので、シャワーを浴びてベッドに入ることにした。自慢じゃないけど、僕は寝ようと思えばいくらでも眠れるのだ。
でも本当の事を言えば、、毛布に潜り込んでもまだ眠ってるわけではなくて、僕は意識の端っこをずっとずっと遠くへ伸ばしていって、小さな街の旅館で飼われている黒猫を捕まえたりしてみる。
出入り自由の気ままな生活を満喫している黒猫は、夜の住宅街を飛ぶように駆けて、とある一軒家の塀をよじ登って屋根に乗り、二階の窓ガラスを叩いたりする。それに応えて窓を開けるのは中学生の女の子で、「来てくれたの?」と微笑む。
黒猫は彼女の邪魔をしないように、窓際のスタンドの脇で脚を揃え、尻尾を身体に巻きつけて座っておく。彼女もそれ以上僕らのことを構わずに、問題集を解いたりしているけれど、時々「これどっちだと思う?」なんて質問してくる。そして少し疲れると、思い切り伸びをして、黒猫をゆっくりと何度か撫でる。
そんな事をしてるうちに、僕は段々と自分がどこで何をしてるのか判らなくなってきて、いつの間にか眠ってしまっていたりするのだ。
ふいに、何かがベッドに飛び込んできて、僕は慌てて目を開いた。
「美蘭?」
何がどうなったのか判らないけど、僕と背中を合わせるようにして毛布の下にいるのは美蘭に違いなかった。
「ここ、僕のベッドなんだけど」と言っても返事がない。
ふだん寝る時と同じように、Tシャツと短パンって格好だから、飲んだくれて帰ってきたわけでもなさそうだ。でもずっと外にいたのか、身体がひどく冷たくて、僕はそのせいですっかり目が覚めてしまった。
枕元の時計を見ると、もう日付が変わりそうな時間。江藤さんと会ってたみたいだけど、どうしてこんな真似するんだろう。あれこれ考えていると、美蘭はいきなり身体の向きを変えた。僕の肩に柔らかな息がかかって、頬が背中に押し当てられるのを感じる。そして彼女は氷のように冷たい指先を僕の指に絡めた。
「猫のところに行こう」
なんだ、そういう事か。
僕は、美蘭と指を絡めたまま、空いた方の手で毛布を肩まで引き上げた。そして、どこか近くに母猫と眠る子猫がいないかと捜し始める。最初は小さく、それから徐々に円を広げてゆくと、このマンションの六階にキジトラの母猫がいるのを感じた。横になっている彼女の懐には、生まれて一月ほどの子猫が四匹いて、僕はその中の一匹に波長を合わせてみる。
穏やかで何も恐れるもののない、暖かな感覚が僕を包み込み、それは僕を通じて美蘭にも伝わっているはずだった。さっきまで感じていた彼女の身体の冷たさは遠ざかり、やがて抗えないほどの眠気が押し寄せてくる。僕はそれに呑み込まれながら、ふと莉夢の事を想った。今、あの子はどうしているだろう。こんな風に安心して、眠っているんだろうか。
8 エレベータの鴉
美蘭が出かけてゆく。
昨夜のことなんてまるでなかったみたいに、いつも通りシリアルに牛乳をぶっかけて平らげ、オレンジジュースを飲んでから制服に着替え、ろくに教科書も入ってなさそうな鞄を肩にかけて。
「あのさ」と、まだ顔も洗ってない僕は、彼女が消える前に話だけはしようと呼びとめた。
「何?休むんだったら自分で電話してね」
「行くよ。たぶん二限目から」
「そりゃ結構」
「あのさ、昨日なんだけど、学校出たとこで、あの子が待ってたんだ。閉じ込められてた女の子」
僕に背中を向けていた美蘭は、一瞬動きを止め、それから振り返った。
「ちゃんと追っ払った?」
「ていうか、直接ブラウス返したいらしくて。あと、サンドとウツボにも会いたいって」
「無理。私は車にぶつかって死んだことにしといて。サンドとウツボは三味線にされた。あの子、誰かにしゃべったんでしょ?」
「誰にも言ってないって。学校をみつけたのは、襟の刺繍で校章を調べたらしいよ」
「ガキが一人でそんな事できるわけないじゃない。とにかく、私もう死んでるから」
「でも、美蘭に会いたいみたい」
「だったらあんたが髪切ってスカート履けば?どうせ子供なんだから判んないわよ。ちょっと風邪ひいて声かれちゃった、なんてね。クリーニングに出してくれるなら、これ貸してあげる」
美蘭はスカートの裾をつまんでぴらぴらさせてから、身体を反転させると玄関に向かい、ドアを開けて廊下へ出た。僕は裸足のまま後を追って「髪切るの、嫌なんだけど」と食い下がった。美蘭は全く無視してエレベータのボタンを押し、鞄からスマホを取り出すと別世界に逃げる。
「ねえ、聞いてる?」と、僕が無駄な試みをしたところで、エレベータのドアが開いた。急いで乗り込もうとする美蘭を跳ね返すように、中から飛び出してきたのは鴉だった。
「うっわ!」と叫んで、美蘭は思い切り背を反らせて避けたけれど、逃げ遅れた僕はその黒い翼でしたたかに頬を打たれた。鴉はそのまま玄関から部屋へと飛び込み、僕と美蘭は一瞬顔を見合わせてから、後に続いた。
「あんた達、またこそこそと下らない事に関わってるね」
リビングまで飛んで、ソファの背にとまった鴉は、脅すように胸をはったままで嘴を開いた。美蘭は「この馬鹿がね」と僕を小突いたけれど、鴉はそれを無視して「ちょっと顔をお出し」と言った。
「私、これから学校なんだけど」
「ろくすっぽ通いもせずに、よくお言いだ。とにかく、今日のうちに来ること」
それだけ言って鴉が翼を広げたので、僕は急いでベランダの窓を開けた。鴉はソファの背からベランダへ、更にその手摺へと飛び移ると、羽ばたきもせず、黒いグライダーのように秋の空を滑っていった。
「何もかもあんたのせいだ」と不機嫌な美蘭を助手席に乗せ、僕は黙って車を運転した。朝も結局、「あんたのせいで遅刻する」とか言って送らされたし、放課後になればなったで、「白梅庵で期間限定の和栗パフェ食べてから」とか何とかで待たされたし。行きたくないのはこっちも同じだけれど、逃げられる相手じゃないんだから仕方ない。
坂と曲がり角がやたらと多くて、同じ場所を何度も回っているような気さえする細い道。何の商売をやってるのか判然としない古いビルだとか、蔦が絡まり過ぎて謎の生き物に見えるお屋敷だとか。空襲で焼けずにすんだおかげで、そんな建物ばかり残っている一角に「四番館」はある。
長方形の中庭をぐるりと囲んだ二階建ての洋館で、八世帯が入れるアパートメント。西北の角だけが三階建てに屋根裏のある、少し広いつくりになっていて、鴉を使って僕らを呼び出したのは、そこの住人だった。
前庭にある訪問者用の駐車場に車を停め、僕と美蘭は重い木のドアを押して建物に入った。薄暗いホールの正面にある階段を上り、パティオとかいう中庭に面した回廊を歩く。睡蓮の枯れた茎がのぞく細長い池は、空の色を映して青く静まり、金色の実をたわわにつけた夏蜜柑は午後の風に揺れている。その穏やかな光景とは無縁に、僕の気持ちはざわついていた。
僕は廊下の一番奥にある部屋の前に立つと、ドアをノックした。「呼び出し」のある時には鍵はかかっていないので、返事は待たずに中へと入る。後には美蘭が続き、ドアが閉まると同時に外の明るい世界は異次元へと遠ざかる。いつもブラインドの降りている薄暗い部屋には、天井から色んな薬草の束がぶら下げられていて、僕らは頭を低くしてそれを避けながら次の間に入る。そこもやっぱり薄暗くて、窓を背にしたソファに座っているこの部屋の主の表情はよく見えなかった。まあどうせ仏頂面に違いない。いつだってそうなんだから。
「遅かったね」
大声というわけでもないのに、やたらとよく通る声。何も言えずにいる僕の代わりに、美蘭が「勉強大好きだから、ついつい頑張っちゃって」と答えた。
「そういうご挨拶はいらないよ」という返事を頂戴して、僕らはいつもの席に腰を下ろす。美蘭が布張りの椅子で、僕が三脚のスツール。「元気そうじゃん」と美蘭が声をかけると、「とんでもない。あんたらのおかげで、寿命が縮みっぱなしだ」と即座に反撃される。
この部屋の主、玄蘭さんは僕らの親戚だ。といっても血縁が入り乱れているので、どういう関係にあたるのかは知らない。この人は若い頃に貧乏くじをひいたせいで、自堕落なこと極まりない夜久野一族の世話役を引き受けている。性別はたぶん男だけど、男と女のひねくれて意地悪いところだけ抽出したような性分で、おばさんめいたおじさんと、男っぽいの女の人を足して割ったような顔立ちをしている。年は六十前後だと思うけど、「あんたらのせいで老けた」が口癖だから、もう少し若いのかもしれない。その年齢の割に黒々とした長い髪を後ろで束ねていて、いつも黒ずくめの格好をしている。
ソファの前のコーヒーテーブルには、「はばたけ!紅ピルエット!」というアイドル研究本が置いてあるけど、この人はいい年してミーハーのアイドル狂いであることを隠そうともしない。全国各地、どんなレベルのアイドルでも、ほぼ百パーセント顔と名前を一致させられるんだから、本当にどうかしてると思う。
玄蘭さんは大義そうに、テーブルに転がっている煙草のパッケージから一本取り出し、ライターで火をつけた。傍にある年季の入った灰皿は、パリの有名なカフェでくすねたらしいけど、吸殻が十本ほど溜まっている。
闇ルートで調達している、オーダーメイドのブレンドだという煙草は、ほんの少し甘ったるいシナモンのような香りを漂わせ、それに誘われたかのように銀のトレーを捧げ持った宗市さんが部屋に入ってきた。
「美蘭、亜蘭、ようこそいらっしゃい」
彼はいつも通り丁寧な物腰でテーブルに食器を並べ、ポットからお茶を注ぐ。僕らが小さい頃、初めてここに来た時から、彼はまるで変ってない感じで、少しお人好しの度が過ぎる三十代のホテルマン、という印象だ。玄蘭さんによると「住み込みの使用人」らしいけど、僕らもこの年になると、その説明を丸呑みするほど素直じゃない。
「花梨のジャム持って帰る?」と彼に聞かれて、美蘭は「もちろん。今年も作ったんだ」と、今日初めての笑顔を浮かべた。
「毎年のことだから、やらないと落ち着かないんだよね。こんど柚子でママレードを作るよ」
「でも、そう何度もここに来たくはないのよね」と美蘭が返すと、玄蘭さんは「こっちもお断りだよ」と噛みついた。宗市さんは僕らにだけ見えるようにウインクすると部屋を出て行って、後にはまた重苦しい空気がたちこめる。
「まず亜蘭」と言って、玄蘭さんは煙草の灰を落とした。
「小学生のガキを相手に何を手間取ってる。尻尾までつかまれて」
「でも、学校を知られたのは、美蘭がブラウスを貸したからだ」と、僕が釈明した途端、美蘭が「責任転嫁かよ」とこちらを睨む。
「あんたが美蘭をそそのかしたんだろう?自分の言う事なら聞いてもらえるって、相変わらずの甘えた小僧が」
「私はこいつの言う事なんかきかないわよ」
「よくお言いだ。とにかく、あの子は切ること。美蘭、あんたもうとっくに調べたんだろう?」
言われて美蘭は腕を組み、椅子に深くもたれた。
「名前は安西莉夢。十歳。生まれたのは千葉。三歳の時に両親は離婚。父親は再婚してて、莉夢たちとは没交渉。母親の安西早苗は東京に移って再婚したけど、五年ほどでまた別れた。今は前田俊明って男と住んでるけど、彼の離婚が成立してないので、籍は入ってない。でも半年前に大輝って名前の男の子が生まれてる。
この赤ん坊に手がかかるって理由で、母親は三か月ほど前、友達に莉夢を預けた。仲間内じゃ「ルネさん」って呼ばれてる、今宮知子という女。彼女は親が残した一戸建てに住んでて、内装関連の会社で事務をしてる。給料はイマイチらしくて、莉夢の動画をネットで配信したり、彼女に着せた水着を売ったりして小遣いを稼いでた。まあそれなりにうまく回ってたのよ。大人の都合だけで言えば」
「つまり、あんたらは余計な事に首を突っ込んだってわけだ」
「亜蘭はそう思わなかったみたいだけど」
美蘭の視線が僕を刺す。
「莉夢はたしかに警察に保護されたけど、母親がルネさんを庇ったから、事件として扱われなかった。動画サイトの事はばれなかったし、彼女が水着を着てたのも、子供が勝手にやった事、で済んだみたいね。判りたくない事は、受け入れやすい解釈で片づけるっていうのが、一番楽な方法だもの。
でもまあ、莉夢がお荷物だって事に変わりはなくて、母親は彼女を二人目の元旦那の家族に預けた。旦那とはうまくいかなかったけど、こっちとの関係は悪くなかったみたい。莉夢から見れば、元義理の祖母と伯母ね。でもお祖母さんはパートで収入が不安定だし、その娘、かっちゃんと呼ばれてる女の人は病気やなんかで働けずにいるから、生活はぎりぎり。このままいくと莉夢はまた母親に返されて、ルネさんに預けられる。ふりだしに戻るって奴よ」
「なるほど」
軽く頷いてから、玄蘭さんは僕の方を向いた。
「判ったかい?あんたが何を思ったのか知らないけど、あの子を助け出そうなんて、とんだ無駄骨だったって事さ。あの子もあと何年か、ネットできわどい格好を晒し続けて食いつなげば、自分で稼げるぐらいにはなれるさ。勿論、ロクな仕事はないだろうけど、そんなのは知ったこっちゃない」
僕は何も言い返せずに座っていた。自分がすごく間抜けで、とんだ独り相撲をとってたような気分にさせられて。
「あんたもいい加減、弟の言うことを何でもきいてやる癖をどうにかするんだね。そのためにわざわざ、カムチャツカくんだりまで行ったんじゃないのかい」
こんどは美蘭を睨むと、玄蘭さんは深々と煙草を吸い込んだ。僕がこの人の精神状態を疑うのはこういう時だ。美蘭が僕の言うことを何でもきくだなんて、どこの世界の話だ。美蘭も憮然とした顔つきで「だから、こいつの言うことなんかきいてないし」と言い返した。
「カムチャツカに行ったのは単なる遊び。趣味で高山植物の写真撮ってるから」
「全くこのヘソ曲がりが。あんた達を育てるのにどれだけ無駄金使ったか判ってるのかい?あれやこれやの面倒を起こして、そのたびに尻拭い。ただでさえ子供なんか大嫌いだってのにもう」
言いながらも、かつて僕と美蘭がやらかした色んな事の記憶がよみがえってきたのか、玄蘭さんは段々とヒートアップしてきた。美蘭は感情のこもらない声で「ごめんなさーい」と謝り、「けど、文句は産んだ人に言ってくれる?」と突っぱねた。
「火積がそれを理解するような女なら、こっちも苦労なんかしないんだよ。けどまあ、あんたもそろそろ用心した方がいいね。あの子がうっかり孕んじゃったのは十八の時だし。うちの連中はさかりがつくと手におえないからねえ」
「私をあのイカれた女と同じにしないでくれる?」
元はといえば自分で誘発した話題だけれど、美蘭は母親と少しでも重ねられると本気で怒り狂う。今だってきっと、全身総毛立ってるはずだ。玄蘭さんはわざとらしく口角を上げ、「これは失礼いたしましたこと」と笑ってみせた。
「とにかく、あのガキが誰かに何か言いふらす前に、さっさと片をつけること。いいね」
玄蘭さんは灰皿に煙草を押しつけて火を消すと、もう一本取り出して「あと、美蘭」と呼びかけた。
「あの誰だっけ、同級生の、桃太郎?」と言いながら、煙草を咥えて火をつける。美蘭はぶっきらぼうに「桜丸」と訂正して、足を組んだ。
「そう、その桜丸の父親がどこにいるのか探ってるみたいだけど、あんた本当に暇人だね」
「別に暇ってわけじゃないわ」
「じゃあ何。感動のご対面を演出して、感謝されたいわけ?」
「違う。ただちょっと、金になりそうだったから」
「へーえ、誰が払ってくれるんだい?」
玄蘭さんは面白そうに身を乗り出した。僕もつい、この奇妙な話に耳を傾ける。
「桜丸の母親と再婚した弁護士に払わせる。まあ要するに、再婚話じたいがこの弁護士先生の計画みたいなの。まずは桜丸の父親の会社を潰して、債務逃れのために離婚させて、偶然よろしく母親を口説いて、息子は放り出してはいご結婚」
「証拠は?」
「集めてる途中」
「そこまでして手に入れるほど、いい女なの?」
「まあね。二人は元々、学生時代に接点があったらしいわ。それが、ボランティアがらみのパーティーで再会したみたい。そこで弁護士先生が一念発起したのね」
「母親もグルだった可能性は?」
「彼女は、そういう人じゃない」
美蘭が否定した途端、玄蘭さんはあからさまに哄笑した。
「あんた、世間じゃどれだけの犯罪者が後になって、まさかあの人が、って言われてるか知ってるだろう?平和ボケは命取りだよ」
ほんの一瞬、当惑した表情を浮かべてから、美蘭は「まあ、グルだったとしてもさ、実行したのは弁護士先生だし、息子と父親サイドから強請ればけっこう搾り取れるはずよ」と反論した。
玄蘭さんはしばらく黙っていたけれど、一度大きく煙草を吸い込むと「止めた方がいいね」と言った。
「何かしくじったら、尻拭いをするのは私だ。面倒くさいったらない。そんな道楽をするつもりなら、まず本業を継いでからにするんだね」
本業、というのは、玄蘭さんがやっている、一族の世話人という役目だ。僕のせいで美蘭は彼の後継者に決められて、二十歳になったら正式に後を継ぐことになっている。彼女は何か言いたそうだったけれど、「本当は十八のところを、二十まで待ってやってるんだ。有難く思ってもらわなきゃ」という玄蘭さんの言葉に、小さな溜息で返した。
「全く、子供なんて死ぬほどうんざりさ。図体ばっかり筍みたいに大きくなって、頭の中は相変わらずの遊園地。下らない事を次から次へと思いついては、遊び回ってる」
美蘭はまたしても「すいませーん」と、抑揚のない謝罪を繰り返してから「もういいかな」と尋ねた。玄蘭さんの「判ったなら、さっさと消え失せな」という返事が終わらない内に、彼女は立ち上がってキッチンへと逃げ出し、僕もその後に続いた。
「宗市さん、何か食べるものない?」
いつだってこの古いアパートに呼び出しを食らえば、僕らは最後にこう言いながらキッチンを訪れることになる。夕食に使うらしい野菜の下ごしらえをしていた宗市さんは手を休めると、「黒豆入りのパン焼いたの、温めてあげようか?」と尋ねた。美蘭は早くも作業台代わりの小さなテーブルに陣取って、「チーズのせてほしいな。コンテの、薄く切ったの」とリクエストしている。
「亜蘭はどうするの?」と、宗市さんは僕のことも忘れない。
「蜂蜜塗って食べたい」
「了解」と返事があって、彼は戸棚からパンを取り出し、長いナイフで切ってくれる。
「本当はアップルパイ焼いてあげようと思ったんだけど、玄蘭さんに怒られてさ」
「金食い虫にやる餌なんかないよ、って?」
「まあそんなとこ。でも、夕飯食べていかない?」
「いらない。玄蘭さんがいると食事がまずくなる。あっちもそう思ってるだろうし」
美蘭がそう答えると、宗市さんは困ったような笑顔を浮かべた。この人はいつまでたっても、玄蘭さんの哲学に染まるという事ができなくて、僕らを普通の子供みたいに扱おうとしては、「とんでもない悪ガキなんだから、構うんじゃないよ」と怒られている。
宗市さんは温めた黒豆のパンに添えて、豆皿に入れた栗の蜜を出してくれた。僕が食べ始める前に、美蘭はもう人差し指を蜜に突っ込んで舐めている。宗市さんは「美蘭」とたしなめるけれど、もちろん気にするそぶりもない。新しく淹れてもらった紅茶を飲みながら、彼女は「玄蘭さん、松江なんか行ってたんだ」と、テーブルに置かれていた、和菓子屋の紙バッグを手に取った。
「ああ、先週ね。不動産の仕事とかあったらしいよ」
「そういう時こそ連絡してよ。ごはん食べに来るから」
「わかった。でもあの人、本当に突然出かけるからね。どこ行くかも言わないし、いつ帰るかも秘密で、全部事後連絡」と、宗市さんは困ったように笑った。
「私たちのこと、いまだに相当警戒してるのね」と、美蘭は愉快そうに笑い、手にしていたパンでまた僕の蜂蜜をさらった。
そう、小学校時代の僕らは、玄蘭さんがいない隙を狙ってはここに上がり込んでいた。それはつまり、宗市さんのガードが甘すぎたわけで、僕らは玄蘭さんがあちこちから取り寄せた美食の数々を大胆にむさぼり食い、宗市さんのベッドを占領して寝た。僕に至ってはそこでおねしょまでしたんだけど、一緒に寝ていた美蘭は本気でブチ切れて、僕の髪を一束まとめて引き抜いたのに、本来の被害者である宗市さんは何故か「やっちゃったねえ」と笑っていた。
もちろん玄蘭さんが僕らの襲来に気づかない筈はなく、でも宗市さんがそれを拒絶できないのも事実で、結局のところ宗市さんに情報遮断をして、僕らを締め出すのに成功したのだ。
宗市さんがつくった花梨のジャムと、アップルパイになり損ねた紅玉を貰って、僕らがアパートを出る頃には、外はすっかり暗くなっていた。とりあえず車を走らせ、迷路のような街並みを抜け出したところで、僕は気になっていた事を尋ねた。
「あの、桜丸の話だけど」
「何よ」と、助手席の美蘭はスマホを触っている。
「あれ本当なの?お母さんの再婚相手の話」
「まあね。ほぼ間違いないよ」
玄蘭さんの仕事を継ぐ予定だから、美蘭は彼の情報源と顔なじみだし、それ以外にも何人か、私立探偵めいた人間とやりとりがある。莉夢の情報もその辺りから仕入れてもきたんだろう。
「桜丸もそう言ってる?」
「まさか。あいつ単純だから、騙されたに決まってる。他人から見たら変な話だもの」
「でも僕も、変だと思わなかった」
「あんた馬鹿だもん」
明快な答えが返ってきて、僕はとりあえず納得する。
「お父さん…亮輔さん、どこにいるか判ったの?」
「それらしき人がいる、ってところまではね。しばらく泳がせとくかな」
「桜丸に教えてあげたら?」
「それでどうするの?一円の金にもならないわよ。あいつ、ただでさえ貧乏学生なのに、お父さま探しに行く、なんて言い出したらどうすんの」
美蘭はそれだけ言うと、スマホを鞄に放り込んだ。
「あんたってすぐそういう、考えなしの方向に流れるよね。おかげで今日も呼び出し食らったし。お詫びに寿司でもおごってもらおうか。ちゃんとしたカウンターの奴」
「なんでそうなるんだよ。僕一人のせいじゃないし、桜丸の事は関係ないし」
「問題なのはあの莉夢ってガキだけよ。桜丸の事はまだ何も動いてない」
「でも、あの子に見つけられた原因は美蘭のブラウスじゃないか」
「だからそれが責任転嫁だって言うのよ。そもそもあんたが猫だけ回収すればよかったものを、腰砕けになったくせに。自分がしくじったのを、よくそれだけ人のせいにできるね」
たたみかけるように美蘭に言いつのられると腹が立ってきて、僕の運転はそれに比例して荒くなった。
「ちょっと!警察のお世話になりたいわけ?」
「うるさいな」
「さっさと自分の負けを認めて寿司屋に行きな。いい店検索してあげようか?」
「うるさい!寿司が食べたいなら、江藤さんに奢ってもらえばいいだろ!」
「はあ?」
「でも、やっぱり無理かな。昨日のあれ、フラれて帰ってきたんだろ?それとも奥さんから電話があって、車から降ろされちゃった?どっちにしろ、ご愁傷様。本当にみじめでお気の毒。でも、だからってあんな風に、僕が寝てるとこ邪魔しないでほしいんだよね。もういい加減、小学生みたいな真似するのやめて、大人になってくれない?」
自分を誉めたくなるほど、すらすらと気持ちよく反撃できてしまった。美蘭はほんの一瞬押し黙って、それから低い声で「ここで降りる」と言った。
「え?」
「ここで降りるってんだよ馬鹿!早く停めろ!」
言うが早いか彼女は腕を伸ばしてきて、クラクションを押しまくった。僕は慌ててそれを払いのけると、車を脇に寄せた。サイドブレーキも引かない内にドアを開けて外に出ると、彼女はあっという間に夜の街へ姿を消してしまった。
行き交う人の「何やってんだ」という視線をやり過ごして、僕は静かに車を発進させた。別に何も心配するほどの事はない。もしここが人里離れた山奥の峠道でも、美蘭は平然と生還してくるんだから。
何気なく目をやった後部座席には、宗市さんにもらった花梨のジャムと紅玉の入ったペーパーバッグが置かれている。いつも僕らが派手な喧嘩をすると、宗市さんは「きみたち、仲良しだから一緒に生まれてきたんだろ?」と宥めたけど、決してそういうわけじゃないのだ。でも、どういうわけなのか、それは僕にもよくわからない。
9 ガールズトーク
美蘭がうちに来た。
俺がママと晩ごはん食べてる最中にいきなり電話してきて、「しばらく泊めてくれない?」なんて普通の調子で言う。もちろん大歓迎だし、運よくパパは出張中だけど、さすがに連泊となるとママにどう説明すればいいんだろう。でも美蘭はぬかりなく、「うちのお風呂が故障して、特注品でイタリアから部品取り寄せだから、修理に十日ほどかかるって話にしといて。まあそんなに長居はしないつもりだけどさ」と、口実も用意してくれた。
「亜蘭と喧嘩でもした?」と聞いてみると、「あいつとは三六五日戦闘状態よ」という答えだった。
そして彼女は九時を少し回った頃、制服姿で現れた。着替えや何かを買ったのか、大きなショッピングバッグを肩にかけて。夕食は済ませたらしいけど、ママは前に美蘭が来た時のガールズトークがよっぽど楽しかったらしくて、お茶や焼き菓子を用意して、今や遅しと待ち構えていた。
「もう、一週間でも十日でも泊まっていってね。ほら、風香って何きいてもそっけないし、パパも似たような性格でしょ?いつも話し相手がいなくって寂しい思いしてるのよね」
まるで飼い主を出迎える犬みたいにまとわりついてるんだけど、美蘭は愛想よく笑顔を浮かべて、「うちの弟なんか、そっけないどころかほとんど口をきかなくて、本当に退屈。だからやっぱり、友香さんみたいなママのいるお家がいいな。それで、二人で洋服取り替えっこしたり、スイーツの食べ歩きしたり」なんて言ってる。
俺が彼女をすごいと思うのは、こういう時だ。一瞬で相手の好きそうなキャラに化けて、適当に話を盛り上げるんだから。
「そうよね、女同士だったらやっぱりそういう事したいわよね。風香ったら、いくら誘っても、ママの友達と行けば?なんて、つれないの。でも美蘭ちゃんとお洋服の替えっこはちょっと無理ね、あなたスレンダーすぎるもの」
ママは自虐的に、二の腕の振袖をつまんでみせた。たしかにママはかなり太目なんだけど、別に見苦しいってほどじゃなくて、賑やかなキャラによく合った体型だと思う。美蘭は「私、もしかしたら、お腹に寄生虫がいるかもしれない。だからいくら食べても太らないのかも」なんて言ってて、ママは「だったら何匹か分けてもらわなきゃ」と大笑いしている。
二人のやりとりに時々口をはさみながら、俺はふだん、自分がどれだけママをがっかりさせているかを考えていた。友達の噂だとか学校であった事だとか、とりとめのない話を次から次へと続けるという、女の子に当然のように備わった才能が俺にはない。
何か愚痴っぽいことを相談されれば、「じゃあこうすれば」なんて、解決策を提案してしまうんだけど、ママはただ話を聞いてほしいだけだったりする。俺からすれば、そんなのまるで意味ないし、結局のところママとの会話なんて、ママの独り言と変わらないと思ってしまう。
「そうだ、明日ね、着つけのお稽古の帰りにアフタヌーンティーの約束してるんだけど、よかったら美蘭ちゃんも来ない?いつも娘さんと一緒の人もいるし、おばさんばっかりってわけじゃないから、安心して」
もちろん美蘭は「じゃあ、参加しちゃっていいですか?」なんて調子を合わせている。俺も何度かその手の集まりに誘われた事はあるけど、無理な雰囲気に決まってるので、断り続けているのだ。これもママを失望させてるに違いない。
ママの弾丸トークは郡山のおばさんからの電話で中断し、俺たちはようやく解放されて部屋に引き上げた。本音を言えば、今夜は美蘭と一緒にお風呂に入りたいところだけれど、ママがいるので自粛だ。俺はたいがいシャワーで、しかもすごく早いから先に入って、普段は長風呂派だという美蘭も今夜はシャワーで済ませてしまった。
「ちょっと保守的な感じでいこうと思って、こういうの選んだの。ワゴンセールだけどね」と、湯上りの美蘭は買ったばかりのパジャマを着ていた。ミントグリーンに白い水玉という、らしくもない色と柄。
「ほんと、堅気の女子高生みたいだな」
「友香さんに気に入っていただきたくてね」
「ママの趣味に合わせるんだったら、ピンクのひらひらしたのとか、リボンのついてる奴にしなきゃ」
「そんなパジャマ着て寝たら、うなされる」と言いながら、美蘭は俺のベッドの隣に敷いた、客用の布団に足を投げ出した。俺もママの趣味は理解できないけど、沙耶にはそういうの、似合いそうに思う。でも、大事なのはその中。理想を言うなら、脱がせるためだけに存在するような下着、なんてのが望ましい。
で、今夜の美蘭はどんな感じだろう。俺はベッドから腕を伸ばして、彼女の上着の裾をつまんでみた。途端に美蘭は身体を遠ざけ「今回はそういう事、しないつもり」と言った。
「つもり、って事は、気が変わる可能性もある?」
「多分、ないわ」
いきなり泊めてくれって現れておいて、それはない。少なくとも、俺はかなり期待していたのに。でも美蘭の性格を考えると、しつこいのは逆効果なので「そっか、残念」とだけ言って、俺は天井の明かりを消した。暗くなれば彼女の気分も変わるかもしれないから。
枕元に置いたスタンドの柔らかい明かりだけが美蘭の横顔を照らしていて、少しゆったりとしたパジャマの襟元が、彼女の首の長さを強調している。ただ座っているだけなのに、肩から背中にかけての曲線や、足の崩し方がすごくさまになっている。
「美蘭ってさ、本当に綺麗だよな。お前が着るとワゴンセールのパジャマだってブランド品に見えるよ。亜蘭より、自分がモデルやればいいのに」
口説いてるように聞こえるかもしれないけれど、これは俺の本心だ。美蘭は可愛いとかそういうレベルじゃなく、紛れもない美人で、顔だけじゃなく全身、美蘭という存在じたいがそう感じさせるのだ。でも彼女は俺の言葉に笑みひとつ浮かべず、顔を光のあたらない方へとそらせた。
「そういうこと、言わないでくれる?」
「本気でそう思うんだから、いいじゃん」
「言われると、苦しくなるのよ」
「なんで?」
「わかんない。とにかく、消えたくなる」
「それ、変だよ。綺麗って、誉めてるんだし」
「私だって変だと思うんだけど、実際そう感じるんだから仕方ないじゃない。頭が痛くなったりするんだもの」
それだけ言うと、美蘭は布団にもぐりこんだ。彼女と一緒に寝るなら今しかない、そうは思ったんだけど、どうもうまく行きそうにない雰囲気。
「美蘭、なんか怒ってる?」
「ううん」
「そういえば昨日さ、あれからどこまでいった?江藤さんと」
彼女が泊まりに来ると言った時から、ずっと聞きたかった事を、ようやく口にしてみる。
「どこも行かないわよ。まっすぐ家に帰っただけ」
「じゃなくてさ、どこまで、だよ」
美蘭の奴、わざとはぐらかしてる。
「あんたが想像してるような事、何もないわ。それよりさ、このごろ沙耶ちゃんと会ったりしてないの?」
こうあからさまに話題を変えられては仕方ない。それに、俺は沙耶の事だと舞い上がるので、すんなり乗せられてしまった。
「向こうは本格的な受験生だからな。毎日ラインはするけど、実際会うのは週一も難しいし、しつこく会いたがって、変だと思われたくないし。写真とかいっぱい送ってほしいけど、そういうのも我慢してるよ」
「彼女、法学部希望だっけ」
「そう。沙耶に言わせると、あそこの生徒は受験サイボーグなんだってよ。人間らしい生活はお預けなんだ。うちみたいな推薦頼みの学校とはわけが違うから。でもさ、お前は大学どうすんだよ。推薦とろうにも、出席日数でアウトだろ」
「裏口入学するから大丈夫」
冗談とは思うけど、美蘭が言うと何だか真実味がある。
「亜蘭は?」
「知らない。ねえ、沙耶ちゃんは都内の学校狙ってる?」
「ああ。もし地方に行くなら、追っかけるつもりだったけど」
「その方がいいのかもね。知らない土地で下宿生どうしだったら、距離も縮まるし、うまくすれば一緒に住めるかもしれないし」
「まあ、しょせん夢だな」
正直なところ、俺は自分の将来についてかなり悲観的だ。男に戻るための手術費用は一体何年で貯まるのか?パパとママにはどう説明するのか?それまでどうやって沙耶をつなぎとめるか?彼女が大学で彼氏をつくったら?
「大丈夫、勇斗はいい男だし、沙耶ちゃんも本当は判ってると思うよ」
「そうかな?」
「女って、男が思ってるよりずっと敏感だもの。知らないふりしてるだけよ、あんたのために」
「嬉しいこと言ってくれるじゃん」
すっかり嬉しくなった俺は、勢いづいて美蘭の方に向き直った。それを察したのか、彼女は「ごめん、なんかすごく眠い」と言うなり、背を向けてしまった。
美蘭は次の日もまた次の日も自分のマンションに戻らず、うちから学校に通った。亜蘭の奴が時々何か言いたそうに様子を伺ってたけど、たとえ廊下ですれ違っても、彼女は完全無視を決め込んでいた。
この調子なら美蘭は週末もうちにいてくれるだろう。つまり、ママが法事で郡山に行ってる間も。ひい爺ちゃんの、そのまた兄さんの五十回忌、なんて言われてもピンと来ないけど、水瀬家としては重要なイベントらしい。パパが出張だからって欠席は許されないらしくて、しかも泊まりだから、ママは日に日に機嫌が悪くなってる。
それとは反対に、俺の期待は高まる一方。二人きりなら、美蘭も気が変わって、俺のこと受け入れてくれるかもしれない。今度はどういう風に彼女を攻めようか、暇さえあればそんな事ばっかり考えてしまう。
「風香」
教室を出ようとしたところで、誰かが俺を呼び止めた。秀矢だ。
「美蘭、どこ行った?」
相変わらずガキっぽさの残る声。こいつは何だか線が細くて、下手するとまだ一年生ぐらいに見えるし、やる事全てがどこか子供めいている。
「さあ知らない。探してみれば?」
本当の事を言えば、彼女は一足先に帰っていた。ママが法事に持っていく手土産を買うのにつきあってるのだ。パパは代役のギャラとしてバッグをプレゼントするらしくて、ついでにそれも選ぶらしい。
「でも美蘭って今、風香の家に泊まってるんだろ?」
「そうだけど」と、俺は思いきり「お前には関係ない」感をこめて答えた。
「亜蘭からの伝言、お願いしていいかな」
「何?直接言えばいいじゃない。電話でもラインでも」
「俺にそれ言われても困るよ。頼まれただけだし。あのさ、クリーニング代出すから、スカート貸してって。伝言はそれだけ」
「は?スカート?何それ」
「だからさ、亜蘭が何考えてんのか、俺にはわかんないし。ちゃんと伝えといてくれよ」
一方的にそう言うと、秀矢は走って逃げた。あいつ、男子にはいつもじゃれついてるけど、女子、特にキレイ系の連中には距離をおいてる。美蘭なんかもう論外だけど、俺はその点、まだ声がかけやすいらしい。
しかし、スカート貸せってのは一体何だ。まあ、美蘭と亜蘭はちょっと変わってるし、あいつらの間では判る話なんだろう。俺はそのまま学校を出ると、駅の近くにあるファストフードの店に入り、レモンソーダを注文して壁際の二人席に陣取ると、スマホを取り出した。この時間は学校の自習室にいる沙耶とラインのやりとりができる、貴重な機会なのだ。
もし、沙耶と同じ学校、同じクラスで、毎日好きなだけ一緒にいられたら、俺の抱えてる不安や焦りはもう少し落ち着くんだろうか。いつも通り彼女の「さあ勉強だあ。またね」というメッセージを受け取ると、俺は魔法が解けたような気分で自分の周囲、現実の世界を見回す。
半分ほど残っている、薄まったレモンソーダ。いつも流れてる、変わりばえしない音楽。向かい合ってうつむいたまま、スマホをいじってるカップル。わけもなく楽しそうな中学生たち。ネクタイを緩めたサラリーマンと、小さな子供を連れた母親。そして制服姿の女子高生である、俺。
ななめ向かいの席にいる学生らしき男が、妙にちらちらとこっちを見てるのが鬱陶しい。この世界は俺にとって牢獄だ。自分自身でいることを禁じられ、中身とは違うラベルを貼られて、窮屈な独房に押し込められる。でも結局のところ、俺が一番苛立つのは自分自身に対してだった。本当の事を知られるのが怖くて、牢獄から逃げもせずにうずくまってるんだから。
本気でやろうと思えば家だって出られるし、沙耶にだってちゃんと告白できるはずなのに、俺は怖気づいている。何もかも無理に違いないと、心のどこかで諦めているのだ。
「バッグ選ぶのにすごく迷っちゃってね。美蘭ちゃん勧め上手だから、本気で二つ買おうかと思ったのよ」
ママはまだ興奮が醒めない様子でキッチンに立ち、デパ地下の惣菜を盛りつけている。美蘭もそれを手伝いながら「だって、ああいうのって、後でやっぱり欲しくなって見に行くと、絶対売れてるのよ」と笑った。
「そういうこと言われると、また欲しくなってくるじゃない!」
俺はテーブルに頬杖をついて、二人の様子を見ていた。ママは日頃の欲求不満をすっかり解消できたみたいで、これなら機嫌よく法事に行ってくれそうだ。でも、美蘭はママのことどう思ってるんだろう。本気で楽しんであちこちつきあってくれてるのか、泊めてもらうための交換条件と割り切ってるのか。お金に不自由してないし、これまでも亜蘭と喧嘩したとかって、時々ホテルに泊まってたんだから、わざわざうちに来て窮屈な思いする必要もないのに。
「はい、風香お待たせ。すっかり遊び過ぎちゃったから、今晩はこれで許してね」
「別に気にしなくていいじゃん。私はデパ地下、好きだよ」
俺も立ち上がって、料理やなんかを運ぶ。メインは煮込みハンバーグで、付け合せにベイクドポテト。それからブロッコリときのこの和風サラダに、ベトナム風生春巻き。俺の好きなちくわの礒辺揚げもある。いつも通り、和洋とりまぜて統一感のない食事だけど、このごった煮感がママの特色とも言える。
「友香さん明日早いんでしょ?後片付けは私たちがやるから、お風呂とか先にどうぞ」
本当なら俺が言うべき台詞なんだけど、美蘭はさらりと口にすると、食事の後で流しに立った。ママは「サンキュー!郡山でおみやげ買ってくるから、楽しみにしててね」と美蘭をハグすると、鼻歌混じりでお風呂場に消えていった。
「おっかしいよねえ、自分ちじゃまともにこんな事しないのに」と言いながらも、美蘭は手馴れた感じでお皿やなんかを食洗機に放り込み、ダスターを濯いだ。俺はただ傍に立って、それはこっち、なんて置き場所を教えてるだけ。
「でも、ちょっとは料理するんだろ?」
「ちょっとは、ね」
「亜蘭に作ってやったり?」
「まさか」
美蘭は冗談じゃない、という顔つきをすると水を止め、ダスターを固く絞ってハンガーに干した。
「そういえばさ、亜蘭からの伝言預かってるよ。秀矢が伝書鳩になってお前を探してたけど、もう帰った後だったから」
「いいよ、言わなくて。亜蘭の話なんか全然聞きたくないし」と遮って、美蘭は洗い桶の水を捨てた。
「でも一応、聞いちゃったんだから伝えとくよ。クリーニング代出すから、スカート貸して、だってさ。それだけ」
その瞬間、美蘭はまるで一時停止のスイッチを押されたみたいに動かなくなった。それからすぐに「あの野郎」と唸って、すごい勢いでリビングに突進し、ソファに置いていた鞄からスマートフォンを取り出した。
「コウジさん?もしかして今日、亜蘭が来なかった?」
誰に電話してるんだろう。図らずも俺は、彼女の言葉を盗み聞きしていた。
「もう切っちゃった?なんでそういう事するわけ?そりゃコウジさんには仕事だけどさ、一言私に相談してくれたっていいじゃない。そうだよ、すっごく困る。コウジさんが上手だから余計に困るのよ。もう、しょうがないけどさ」
美蘭は一方的に早口でまくしたてると電話を切った。そしてキッチンを覗き、「ちょっと出かけてくる」と言った。
「出かけるって、どこ行くんだよ。もう八時半なのに」
俺の質問には答えず、美蘭は「お母さまには内緒ね。戸締りして、勇斗の部屋の窓だけ開けといて」と言い残して出ていった。
10 面白いほど隙がある
「坊主になりやがれ!」
たしかそんな事を叫びながら、美蘭は守り刀を手に飛びかかってきた。
完全に不意をつかれた僕をソファに押し倒すと、髪をわしづかみにして刃をあてようとする。かろうじて逃れられたのは、ちょうどキッチンから出てきた桜丸のおかげだった。
「美蘭!危ないよ」
彼は背後から彼女の手首をつかんで動きを封じた。その時初めて彼の存在に気付いた美蘭は、「邪魔するな!」と身体をひねり、一瞬で逃れてしまった。僕はその隙に体勢を立て直して距離をとったけれど、向こうは守り刀をかざしたまま、どう間合いを詰めようかと探っている。桜丸はそんな僕たちを呆れたように見ていたけれど、やはり一番の問題は刃物だと判断したらしくて、また美蘭に近づいた。
「やめなよ。怪我でもしたら大変だ」
「平気よ。髪切るだけだから」
「だったら鋏の方が安全だし、使いやすいと思うよ」
「こっちの方が上等」
桜丸の言葉に答えながらも、美蘭は右目を閉じ、少しずつ間合いを狭めてくる。冷静にみて、僕は劣勢。向こうは刃物を持っていて、しかも片目だけとはいえ、人間離れした動体視力がある。こういう事のために貸し与えられた眼じゃないはずなのに。
「ねえ美蘭、いまココアいれたところなんだ。冷めないうちに飲んで、それからじゃ駄目かな」
「はあ?」
根気よく続く桜丸の言葉に、美蘭は閉じていた右目をうっすら開いた。
「二人分あるから、君と亜蘭で飲むといいよ。僕のは今から作るから」
「あんたは先に飲めばいい。亜蘭の分を私がいただく」
それだけ言うと、美蘭は尚も僕を睨んだまま、守り刀を握っている腕をゆっくりと下ろした。桜丸は大きな溜息をつくと、すぐキッチンに引き返し、湯気をたてているマグカップを二つ運んできた。僕はそれと入れ替わりにキッチンへと逃れる。
「男二人で夜中にココアだなんて、あんたたち変態だね」
「僕たち甘いもの好きだから。ホットチョコレートなら、もっとよかったんだけど」
「百合奈さんがよく作ってくれたやつ」
「そうそう、ちゃんと憶えててくれたんだ」
僕はミルクパンにココアパウダーを入れながら、二人の会話に耳を傾けていた。小学生の頃、桜丸の家に「お泊り」で押しかけると、母親の百合奈さんは色んなものをご馳走してくれた。真夏の昼下がりに飲む、きんと冷えたジンジャーエールだとか、秋の庭で食べる焼きたてのマロンパイも素敵だったけど、冬の夜に出されるホットチョコレートは格別だった。僕が今作ってるココアとは違って、とても薄くて細かいスイスチョコレートを温めたミルクで溶かし、更に生クリームを入れたもので、コクがあるのにどこか上品な甘さの飲み物。ほんの少しシナモンを入れるのが百合奈さん流で、僕も美蘭も天を仰ぐようにして、カップに残る最後の一滴まで飲み尽くした。
「それにしても、あんたどうしてここにいるのよ」
やっぱり甘いものには鎮静作用があるらしくて、美蘭は多少穏やかな声になっていた。
「亜蘭が、髪型おかしくないか見てくれって言うからさ」
桜丸がそう説明しても、美蘭の返事はない。もう十分に判ってることだけど、彼女は怒ってる。僕が彼女の行きつけのサロンで、同じ髪型にカットしてもらったから。スタイリストのコウジさんは「本当にやっちゃっていいのかな」なんて困惑してたけど、いいはずなかったのだ。
「なんだか感動しちゃったよ。あんまり似てるから。でも正直言って、子供の頃ほどじゃないね。顎から首のあたりがやっぱり違うな」
「当たり前でしょ」と、美蘭はようやく口を開いた。
「もしかして、それで怒ってるの?髪型を真似されたから?」
「あいつのムカつくとこは山ほどあるけど、今はそれ」
「でもやっぱり刃物は駄目だよ。ねえ、さっきの刀、見せてくれる?」
僕はキッチンからそろそろと首を伸ばして、ソファに並んでいる二人の様子を伺った。美蘭は守り刀をもう一度鞘から抜き、無言でテーブルに置く。桜丸は「触ってもいい?」と断りを入れてから、彼には似つかわしくない、どこか恐れを帯びた様子で手に取った。
冷たい刃に反射した光が僕の目を刺すと、それがどういうものかを思い出さないわけにいかない。美蘭が十八になった日に贈られた、彼女にしか鞘を払えない守り刀。彼女がその役目を引き受けた証となるもの。
「美蘭って変わらないね。小さい頃、いつもポケットにカッターナイフ入れてたのを思い出したよ。外に遊びに行ったりして、知らない男の人なんか傍に来ると、僕の後ろに隠れてカチカチって、ナイフの刃を出してたよね。怖くないぞって言うみたいに」
「そんなこと、したかな」と、美蘭は興味なさそうに言う。
「うん、はっきり憶えてる。ねえ、なんであんなもの持ち歩いてたの?まるで…」
そこまで言って、桜丸はふいに口をつぐんだ。そしてもう一度守り刀をよく見てから「これは本当にいいものだね」と、鞘に納めて美蘭に返した。
どうやら美蘭も大人しくなったので、僕はココアの入ったマグカップを片手にキッチンを出て、二人から離れた場所に座ろうとした。それに気づいた美蘭は冷たい声で「廊下の荷物、取ってきな」と言い放つ。
荷物、ってことは、家出終了か。僕は鬱陶しさと同時に、何だかわからない安堵を抱えて部屋を出た。けれど、そこに置かれていたのは、猫のキャリーケースだった。しかも二つ。中にいたのは駒野さんちの猫、ベージュのサンドとサビ猫ウツボだ。
「亜蘭が猫好きだから、連れて来てあげたんだ。美蘭って優しいね」
桜丸はそう言って、まさに借りてきた猫状態のサンドを膝にのせた。美蘭は「あんた時々、理解できないこと口走るわね」と言いながら、足元をすり抜けようとしたウツボを抱き上げる。喧嘩してるとはいえ、彼女の意見には僕も同感だった。
僕は猫なんて別に好きじゃない。単に波長を合わせられるというだけの話。それを言うなら猫好きはむしろ美蘭の方で、げんにウツボをずっと撫でまわしている。
「この子たち借りてくるの、嘘を重ねて大変だったんだから。映画に出すブサカワ猫のオーディションがあるから、このサビ猫を是非、なんてさ。まずは書類審査の写真をスタジオで撮るけど、一匹じゃ心細いだろうからって、二匹お持ち帰り。でも後でアリバイ写真とらなきゃならないし、超面倒くさい」
文句を言いながらも、美蘭はウツボの肉球をぷにぷにと触り続けている。
「でも、そうやって猫を借りてきたのは、亜蘭のためじゃないの?」
「違うってば。ハロウィンパーティーの仮装に使うのよ。生きてる迷彩マフラー」
美蘭はそう言うと、ウツボを首に巻きつけてみせた。全く、何をされても猫パンチ一つお見舞いしないぐうたら。でも、喉が渇いてるみたいだから、僕はキッチンに行くと、スープ皿に水を入れてきて床に置いた。これで元気が出て、美蘭に反撃してくれるかもしれない。
先に、桜丸の脇でだらりと伸びていたサンドが寄ってきて、美蘭の腕を抜け出したウツボもその後に続く。ピンクの舌をせわしなく動かし、涼しげな音をたてながら水を飲んでいる猫たちを見て、桜丸は「亜蘭って、猫の考えてることがちゃんと判るんだよね」と笑顔を浮かべた。
「猫って別に、何も考えてないよ」
僕はしゃがんで、猫たちの小さくて丸い頭を眺めながら、彼の誤解を訂正した。すると「あんたと同じだね」という声がして、何かが僕の頭に軽く触れたかと思うと、黒っぽいものがふわりと目の前を落ちた。猫たちは即座に反応して前足で押さえようとしたけれど、一瞬で散り散りになる。それは僕の髪の毛だった。
なんだかその光景が信じられなくて、後頭部に手を伸ばすと、いきなり指が地肌に触れた。慌てて振り向いた僕の目に入ったのは、守り刀を手にした美蘭だ。
「面白いほど隙がある」と、彼女は残忍な笑みを浮かべて目を細め、更にもう一撃加えようと腕を伸ばしてきた。慌てて飛び退いたけれど、ほんの少し遅れてしまい、またしても僕の髪は宙に散った。そこでようやく彼女は目的達成と判断したらしくて、守り刀を鞘に納めると、目を丸くしている桜丸に「眠くなってきたし、帰るわ」と言った。
「帰るって、美蘭、ここは君の家じゃないか。それに猫はどうするの」
「今は住んでない。猫はまた取りに来るから」
美蘭はバッグを肩にかけると、ほんの一瞬だけ僕の方を見た。
「あのガキといつ、どこで会うつもり?」
「明日、一時にここで」
「もうちょっとマシな場所選べなかったの?」
「女装して外に出たくない」
「あんたさ、本気で私のふりできると思ってるわけ?」
「風邪ひいたってマスクして、首にマフラーでも巻いとけば、たぶん」
美蘭は能面のような顔つきでしばらく黙っていた。それから「あんたが全くシャレの通じない人間だって事、忘れてた」とだけ言うと、部屋を出ていった。桜丸は慌てて後を追いかけたけど、美蘭は「ついて来ないで」と突っぱねる。
「でも僕、今からコンビニに行かなきゃ。電気代、今日中に払わないと止められる」
「あっそ。貧乏って大変ね」
そんな会話の後に玄関のドアを閉める音が続いて、辺りは急に静まり返った。
さすがの僕でも、桜丸がコンビニに行くのにかこつけて、美蘭を送っていったというのは判るけど、あれから一時間近くなるのに、彼はまだ帰ってこない。
うちのマンションから一番近いコンビニは、歩いて五分ほどの場所にある。その辺りで美蘭がタクシーに乗るのを見送って、それから電気代を払ったとして、どれだけ時間がかかるんだろう。僕は生まれてこの方、自分で電気代やガス代を払ったことがないので、こういう問題は全く見当がつかない。
もしかすると美蘭がまた気まぐれを起こして、歩いて帰るとか言ってるのかもしれない。それとも、二人でコンビニの中華まんとか食べてるんだろうか。
僕はソファに深くもたれて、傍のサンドとウツボを見下ろし、どちらかを偵察に出そうかと考え、やっぱり却下する。美蘭に気づかれたら、後で何をされるか判らない。
まあいいか。美蘭がああやって、莉夢に会う時間と場所を確かめたって事は、たぶん来てくれるんだ。僕だって女装せずに済むならすごく助かるし、莉夢も本物の美蘭と猫たちに会えば、きっと納得してくれるだろう。
安心すると何だか眠くなってきて、僕はそのまま横になると目を閉じた。床に散らばった髪の毛を掃除するのも面倒で、明日どうにかすればいいやと思ってしまう。美蘭が出て行ってからずっとこんな感じで、一度もベッドで寝ていない。それはつまり、僕の縄張りが広くなって、美蘭を警戒する必要がなくなったって事。でも何故だかそんなに深く眠れなくて、ちょっとした物音で簡単に目が覚めてしまう。
だから僕は桜丸が戻ってきた気配にすぐ気づいて起き上がった。時計を確かめると、出て行ってから一時間と十五分が経過していた。
「やっぱり夜は冷えるね」と、彼は少し肩をすくめて部屋に入ってきた。
「電気代払うのって、けっこう時間かかるんだね」
「ん?ああ、電気代はすぐだけど、タクシーがなかなか来なくてさ」
「美蘭、怒っただろ?待つの大嫌いだから」
「まあ、なんで今日に限って、なんてぶつぶつ言ってたけど。おかげで少し話ができたよ」
「話?」
「彼女が本当に彼氏と別れたのかどうか、確かめた」
途端に、僕の背筋を冷たいものが走った。
桜丸がここに来た時、「美蘭は出かけてるの?」なんて言うから、彼女がいきなりブチ切れて家出した事を伝え、その原因は江藤さんにフラれて情緒不安定になったせいだと説明していたのだ。まさか本人に直接確認するなんて、予想もしてなかった。
このままだと本気で半殺しかもしれない。いや、それより問題なのは、これをきっかけに桜丸と美蘭の距離が近づくことだ。どうしてその可能性を忘れてたんだろう。今更のように、美蘭に言われた「面白いほど隙がある」という言葉がよみがえってくる。
「亜蘭、なんて顔してるんだよ。冗談に決まってるだろ?」
それまで真顔だった桜丸は、こらえきれないように笑いだすと、僕の肩を軽くたたいた。
「ああ、今の冗談なんだ」
「君って素直だからね。時々からかいたくなる。女の子に面と向かってそんなこと聞けるわけないよ。美蘭とは別に大した話はしてない。猫のこととかね。それにしても、今夜は星が怖いくらいよく見えた。長野にいた時を思い出したよ」
桜丸はパーカーのポケットから猫缶を次々に取り出すと、コーヒーテーブルに置いた。全部で四つある。
「これ、美蘭から。渡すの忘れてたって。君たち、こんなに猫が好きなら、飼えばいいのに。そしたら喧嘩もしなくなるよ」
「嫌だよ。生き物の世話なんか面倒くさい」
僕がそう答えると、桜丸は「美蘭と同じこと言ってる」と、声をあげて笑った。それから僕の顔をじっと見て、「その髪、どうするつもり?」と尋ねた。
「そんなにまずいかな」
僕はようやく、洗面所に行って鏡をのぞいてみた。右耳の少し後ろあたりの一角が、地肌が見えるほど大胆に刈り取られていて、アシンメトリーなんて表現ではごまかせない違和感を出している。一緒についてきた桜丸は鏡の向こうから「多分、だけど、それを自分で何とかしようとすればするほど、選択肢はなくなっていくだろうね」と、あきらめ顔で言った。
「つまり?」
「最終的には坊主ってこと。美蘭が言ってたみたいに」
「ありえない」
「だからさ、早いとこプロに任せた方がいいよ。髪なんてすぐ伸びる」
桜丸は慰めたつもりらしかったけど、僕はなんだか気が滅入ってしまった。小さい頃は当然のように美蘭と同じ髪型だったし、中学に上がっても何となくそのままだったのが、ある日突然「髪型マネするのやめろ」と言われたのだ。でも彼女自身に髪を伸ばすという意思はなくて、仕方ないから僕が伸ばすことになった。
校則で髪型をどうこう言うような学校じゃないから、そこは問題なかったけど、授業中に居眠りなんかしてると、三つ編みにされてリボンまで結ばれた。おまけにそれが美蘭の指図だったりするから腹が立つ。そんな悪戯にも美蘭が飽きた頃、僕もようやく襟元まで伸ばした髪に慣れたのに。
よく考えたら、僕らの緩く波打った、色の浅い髪は母親譲りだ。彼女はいつも取り巻き連中に「火積さんの髪って、ゴージャスでお姫様みたいね」なんておだてられていたけれど、背中まである髪を束ねもせずに垂らすのがお決まりのスタイルだった。仲間うちでパーティーなんかある時には、丁寧に編み込んでティアラやなんかをつけたりしていたけれど、作業はもちろん人任せだった。彼女は自分の手で髪にブラシひとつあてた事がないし、シャンプーもブローも「腕が疲れちゃう」と、拒否していた。
そこまで投げやりなのに、彼女は髪の美しさを自慢にしていたみたいで、周囲の気を引こうとする時には、必ず髪を一束手にとって、指で繰り返し梳きながら「ねえねえ、カズトくんたら私のこと、男の運命を狂わせそうなタイプって言うのよ」などと声を張り上げていた。それは僕と美蘭に「あんたたちなんか大嫌い」と繰り返す時の低く鋭い声とは違う、甘ったるく甲高いものだった。
もうずいぶん長いこと彼女に会ってないけど、今もあんな風に髪を伸ばしてるんだろうか。彼女は自分が最高に美しかった瞬間は、僕らを孕んでしまう直前で、望まない妊娠と出産が全てを台無しにしたと固く信じていた。だからだろうか、彼女の髪型もファッションも、僕の記憶にある限り常に同じパターンで、それはつまり、十八歳の自分を永久保存したものだった。
いくら面倒くさがりとはいえ、僕らの母親も年齢だけは律儀に積み重ねている筈だから、今は三十代後半ということになる。同級生の母親なんかで、娘と同じファッションをきめてる人もいるけど、まあ何をどうしたって十代と三十代は同じじゃない。そして、こんな風にうっかり母親のことを思い出してしまうと、頭をよぎる疑問がある。あの人、いまだにあんな感じだろうか。
もちろん僕には確信がある。今から十年たっても二十年たっても、彼女はあのテンプレートに納まったまま、年齢だけを重ねていくだろう。僕はその事について何も思わない。だってもう、二度と会うことはないだろうから。
11 心配事ってなくなる
自分じゃ眠ったつもりはなかったけど、ふと目を覚ますと美蘭のいる気配がした。外のひんやりした空気がかすかに漂って、どうやら彼女はたった今戻ってきたところらしい。
部屋は暗いのに、彼女は俺が起きたのに気づいたらしくて、「ごめんね」と言った。そして「今夜は星がたくさん」と、独り言のように呟くと、着替えはじめた。俺はベッドに身を潜めたまま、彼女の黒い影を目で追いかけ、下着だけになったあたりで「ねえ、こっちで寝ない?」と声をかけた。
「ちょっと狭いけどさ、今から下の布団で寝るよりあったかいよ」
彼女は何も答えず、ハンガーにかけていたパジャマを手に取る、かすかな衣擦れだけが聞こえた。ここで余計なもの着させてる場合じゃない。俺は思い切って起き上がると、彼女の腕をつかんで強く引き寄せた。パジャマが床に落ちる音がして、しなやかな身体が俺の腕の中に納まる。そう、普段の気の強さとうらはらに、彼女はこんな状況だとけっこう従順なのだ。
俺はそのまま彼女を抱き寄せてベッドに入ると、毛布を肩の上まで引っ張り上げた。外にいたせいで、指と爪先はどちらも冷たかったけれど、それは俺にとって好都合だった。
「ほら、やっぱり冷えてるじゃん」なんて言いながら、羨ましいほど薄い胸の先に触れると、そこはすぐに固くなって、黙ってる彼女の代わりに、どのくらい感じてるかを俺に教えてくれた。
俺はそのままお腹から下へと指を滑らせて、ショーツを引きはがしにかかる。美蘭はそこで初めて抵抗した。
「シャワー浴びてないし」なんて言うんだけど、そこで遠慮するのは却って失礼というものだ。俺は「だから何?」と、余裕のあるところを見せながら、無理やり脱がせてしまう。
「そういう事しないつもりって、言ったじゃない」と、彼女はまだ気乗りしない様子で、ただ俺が強引すぎるから、何となく相手してる感じ。でもまあ、俺はこのチャンスを逃がすわけにいかない。
「お前は別に何もしないでいいからさ。嫌になったら、すぐにやめるよ」
そして俺は、日頃考えていたあれこれを彼女の身体で試しにかかる。そりゃ、本音をいえば抱きたい相手は沙耶なんだけど、なんせあの子は俺のことを仲のいい女友達だと信じてる。それに何より、俺はあの子にありのままの自分を晒すわけにいかない。奇妙に柔らかくて丸っこい、女の身体に閉じ込められたこの姿を、本来の俺だなんて思われたくないのだ。
美蘭にはもうすっかり正体を知られているから、俺はあれこれ取り繕う必要がない。でももしかしたら、彼女がこうして身を任せてくれるのは、俺が本気じゃないのがはっきりしてるせいかもしれない。何となく判るのだ。そういう相手の方が気楽だって感じ。
慌てるのもみっともない、なんて思うんだけど、俺の右手は迷うことなく美蘭の足の間に忍び込む。指先が予想外に滑らかに沈んだ瞬間、彼女の身体が微かに震え、俺はその耳元でちょっと意地の悪いことを囁く。なんだ、けっこういい感じじゃないか、なんて安心する一方で、もしかして彼女、さっきまで江藤さんと会ってたのかも、という考えが浮かぶ。
彼女の肌から男の匂いはしないけど、一緒にいて、気持ちだけは十分高まってたってことかな。そう考えると、美蘭が浮気をしたようにさえ思えてきて、少し懲らしめたくなった。
俺も服を脱ぎ捨て、遠慮せずに責めてやると、彼女の息はそれに応えるように熱く、荒くなって、冷えていた肌が汗ばんでくる。胸をゆっくりと舐めて、それから唇を重ねようとした時、彼女の喉から冷たい声が響いた。
「誰か、歩いてる」
「え?」
俺は動きを止め、耳を澄ましてみた。「誰も…」と言いかけたその時、ドアを閉める音がはっきりと聞こえた。
「ママがトイレに行ってるだけだろ」と言ってはみたものの、今度は話し声らしきものまで聞こえてきて、俺は起き上がった。明かりをつけたいけど、それじゃ美蘭に悪い。脱ぎ散らかした部屋着を手探りで探していると、美蘭がすぐに渡してくれた。どうして彼女はこんなに暗い場所で目が見えるのか、本当に不思議だ。
廊下に出てからようやく明かりをつけ、俺は階段を下りて行った。もう話し声の主は見当がついてるので、怖いだとかそういう事はないけど、相変わらずだな、という呆れた気分だ。リビングのドアを開けると案の定、見慣れた大きな背中が目に入る。
「パパ、今頃帰ってきたの?」
「おう、風香、起こしちゃったか」
ネクタイだけを外したスーツ姿で、パパはこちらを振り向く。その後ろでパジャマにカーディガンを羽織ったママが、「そりゃ起きるわよね、こんな大声で」と顔をしかめていた。
「でも、来週帰る予定じゃなかったの?」
「ああ、工場の視察が一つ中止になったからさ、予定を繰り上げて帰ってきたんだ。ママが法事に行きたくないって、ずっと文句言ってたからな。空港でキャンセル待ちして、ロス行きの成田経由便に運よく乗れたんだよ」
「じゃあ、明日の法事に行くつもりなの?」
「そうさ、俺は水瀬家の長男だからな」
どうやらパパは本気らしい。仕事もゴルフもすごい過密スケジュールでこなすけど、親戚づきあいも同じノリだ。
「まあとにかく、法事に行かなくて済むなら、私は文句ないわ」
こんな時間にもう、と迷惑そうな顔してるけど、結局のところ、ママはパパが帰ってくれて嬉しいみたいだ。
「ねえ風香、だったら明日の朝、美蘭ちゃんも一緒にキッチンデリのモーニングビュッフェ行きましょうよ。予定空いてる?」
「ん、特に何も言ってなかったけど」
「じゃあそれで決まりね。美蘭ちゃん、パパがうるさくて目が覚めたんじゃない?」
「大丈夫、寝てたよ。私はたまたまトイレに起きただけ」
それだけ言うと、俺は二人を残してリビングを出て、嘘を本当にするためトイレに寄った。ちらっと時計を見るともう二時前で、パパは四時間寝られるかどうか。けど、無理をしてでも、パパは親戚の行事に参加したがる。長男だからってのはもちろんあるだろうけど、どうやらパパにとっての家族はママと俺だけじゃなくて、親戚全部みたいなのだ。だから、おじさんおばさんの仕事、病気、いとこ達の進学、就職、何でも気になって仕方ない。
でもママにとっての家族はパパと俺だけで、自分の実家サイドの親戚ともほとんどつきあいがない。「それが普通よ」って言ってるけど、まあ両極端なんだろう。ママはいつも「結婚するなら親戚の少ない人がいいわよ」と言ってるけど、実際、俺はパパの親戚とのディープな付き合いが年々苦手になってきてる。学校だけじゃなく、親戚の間でも女の子のふりを続けるなんて、疲れるだけなのだ。だからといって本当の俺の事なんて、絶対に受け入れてもらえないだろうし。
「ごめん、パパが予定変更して、出張から帰ってきたんだ」
暗い部屋に戻り、俺はそれだけ言ってベッドに入ったけれど、そこには誰もいなかった。
「美蘭?」
慌てて枕元のスタンドをつけると、彼女はすっかり身支度を整え、荷物までまとめて窓辺に立っていた。
「いきなりで悪いけど、私これで失礼するわ」
「え、何?出て行くの?今から?」
「そう」
「でも、こんな時間からどこ行くつもり?」
「別にそれは心配しないで」
確かに、美蘭は金に不自由はしてないから、ホテルでもどこでも泊まる場所はあるだろうけど、そういう問題じゃない。
「大丈夫だよ、パパは朝早くに出るんだ。ママの代わりに法事に行くって張り切ってる。俺たちが起きる頃にはもういないから、顔を合わせずにすむよ」
「違うの。お父様のせいじゃないわ。ただ、ちょっと、よそに行きたいっていう、私の勝手」
「でもさ、いてくれないと困るんだよ。ママは明日、キッチンデリのモーニングビュッフェに行こうって楽しみにしてる。前からずっと行きたがってたんだよ。パパのおかげで法事に行かずにすむから、ちょうどいいって喜んでるんだ。美蘭が黙って帰っちゃったりしたら、がっかりする。本当に、すごくがっかりするよ」
何故だろう、そこまで言ったところで、俺はほとんど泣きそうになっていた。そうなんだ、ママの理想は姉妹みたいな母親と娘で、どこでも二人で仲良く出かけてくって奴。だからいつもケーキバイキングとか、アフタヌーンティーに誘ってくるんだけど、俺はそういう店は苦手だし、ママとあらたまって話すこともないから「別に興味ない」なんて、断り続けてる。それがどれだけママをがっかりさせてるか、十分判ってるのに。でも、美蘭さえいてくれたら、俺だってちゃんと間が持つし、ママもきっと喜ぶはずなのだ。
どうしようもなく溢れてきた涙をこっそり拭うため、俺は眠気をさますふりをして指先で目をこすった。美蘭は黙ったまま、追いつめられた野良猫みたいな顔つきで立っていたけれど、ふいに「そっか。じゃあ、モーニングビュッフェに行こう。あそこのオムレツ評判よね」と言って、肩にかけていた荷物を床に下ろした。
「でも私、こっちで寝るから」と、彼女はベッドの脇にたたんであった布団を敷くと、あっという間にTシャツとショーツだけになって潜り込んでしまった。俺としては、出ていくのを止めてくれただけで満足すべきなんだろうけど、明かりを消して横になってからも、今、強引にいったら怒るかなあ、なんて考えばかりが頭の中を回り続けていた。
結果から言うとモーニングビュッフェは大成功で、ママはすっかりご機嫌。法事をパスして思いがけない空き時間ができたってことで、そのままエステに行ってしまった。
俺は別に予定もないし、沙耶は朝から予備校なので、美蘭に付き合おうと思ってたんだけど、彼女は「ちょっと、亜蘭のとこに行く」と言い出した。
「それって、家に帰るってこと?」
「違うわよ。亜蘭のとこに行くだけだから」
その言葉を裏付けるように、彼女は俺の部屋から引きあげた自分の荷物を地下鉄のコインロッカーに放り込んで、ショルダーバッグだけを持っている。けっこう長い付き合いなのに、よく考えたら俺は一度も美蘭の家に行ったことがないのだった。亜蘭と二人でマンション住まいとは聞いてたけど、いま、目の前にそびえてる立派なタワーマンションがそれだとしたら、俺の想像をかなり上回る物件って事になる。
美蘭と並んで緩い坂を上りながら、俺は「もしかして、あそこに住んでるわけ?」と確かめる。
「亜蘭がね」という、そっけない返事。
一人っ子の俺にはきょうだいっていうか、双子の気持ちなんて判りようがないけど、いくら喧嘩したといっても、そろそろ仲直りしてもいいのに。土曜日で車が少ないせいか、空はきりりと晴れ渡っていて、ずっと坂を上っていると少し暑いほどだ。でも俺はさっきから気になってることがあって、天気とはうらはらにかなり憂鬱だった。
「ちょっと、そこのコンビニに寄っていいかな」
声をかけると、美蘭は「何?水とかだったら、亜蘭の買い込んでるやつを飲めばいいわよ」と立ち止った。
「じゃなくて、始まっちゃったみたいなんだよな」
すぐに美蘭は判ってくれたみたいで、「残念ながら私も用意がないわ」と、コンビニ目指して歩き出した。そして「どこのメーカーとか、リクエストある?」と尋ねてきた。
「いや、別にないけど」
「じゃあ適当に選ぶね。後でお金返してくれたらいいから」
それだけ言うと、彼女は先にコンビニに入ってしまった。俺がナプキンとか買うの、すっごく嫌だって事、ちゃんと判ってくれてるのだ。この身体が女だって事をわざわざ鼻先につきつけるように、俺を鬱陶しく苦しめ続ける内臓。腰の奥からねじれるような、鈍い痛みが湧きあがって、俺が現実に屈服するのを求めてくる。これじゃもう、たとえ今夜チャンスがあったとしても、美蘭を抱けない。まず何より、そんな気分になれやしない。
俺は急に重くなった足をひきずるようにして、コンビニに入った。美蘭はもうレジにいて、お釣りを受け取ると小さな包みを俺のパーカーのポケットに滑り込ませてきた。
「極薄瞬間センター吸収。私は最近ずっとこれ使ってるの」
続けて差し出されたレシートを受け取りながら、おれは小声で「ありがと」と礼を言い、回れ右をしてコンビニから出ようとした。自動ドアが開いたその時、十歳ぐらいの女の子がすごい勢いで駆け込んできて、よけきれなかった俺に軽くぶつかった。
「危ない!」
バランスを失った女の子がレジ横の棚に突っ込みかけたので、俺は慌てて手を伸ばしたけれど、その前に美蘭の腕が彼女を支えていた。
「お店に入る時は、走らずに歩くべきね」
美蘭は淡々とそう言うと、女の子から手を離してコンビニから出ようとした。ところが女の子は「お姉さん!」と叫ぶなり、美蘭にしがみついた。
「何?知ってる子?」
俺は呆気にとられてそう尋ねたけれど、美蘭も驚いた様子で「いや、知らないし」と女の子を見下ろしている。しかしその顔をよく見てから、「なんだ、あんたか」と表情を緩めた。女の子は相変わらず切羽詰った様子で、「さっきからずっと変なおじさんがついてくるの」と、外の様子を伺った。つられて思わずそちらを見ると、ちょうどドアの向こうに、おじさん、というにはまだ若い感じの男が立っているのが目に入った。
年は三十前後ってとこだろうか、ちょっと気の弱そうな、眼にも立ち姿にも力のない男で、全身ファストファッションという、どこにでもいそうなタイプだ。美蘭はちらりとそちらを見ると、足早に店の外に出て行った。その後ろに恐る恐るといった感じで女の子が続き、何だか事情の呑み込めない俺も後を追う。
「この子に何か用?」
向き合って立つと美蘭の方が少し背が高いぐらいで、男は明らかに気圧されて「い、いや、別に」と目を泳がせている。美蘭は氷のように冷たい声で「あらそう。じゃあお買い物、ごゆっくり」と、尚も相手を凝視している。男は目を伏せたまま、逃げるようにコンビニに入っていった。カウンターからは店員が、何事かと身を乗り出してこちらの様子を伺っていた。
「あんた何?一人でここまで来たの?」
またしても自分にしがみついている女の子に向かって、美蘭は呆れ顔で尋ねている。
「うん。かっちゃんのパソコンで調べた。亜蘭が、ここのコンビニを検索すれば地図が出るって教えてくれたから」
「じゃあ、あのおっさんは何?」
「地下鉄の駅のところで、莉夢ちゃんだろ?って声をかけてきて、ずっとついてきたの。ついてこないでって、何度も言ったけど、僕もこっちの方に行く用事があるから、一緒なだけだよって、帰ってくれなかった。それで、お店の人に助けてもらおうと思って」
話すうちに色々と思い出したのか、女の子は泣き声になってきて、美蘭は「とにかくもう大丈夫だから」と、彼女の背中に腕を回して軽くたたいた。すると彼女は少し笑顔になり、「やっぱりお姉さん、変な人から助けてくれた」と言った。でも美蘭は「そんなの、偶然よ」とつっけんどんに答えただけだった。
未だに事情の呑み込めない俺と、莉夢って名前らしい女の子を連れて、美蘭はタワーマンションの二十七階にある、「亜蘭の」住まいを訪れた。その広さだとか眺めの良さだとか、驚く事は山ほどあったんだけど、それとは別に、亜蘭が異様にこざっぱりした短髪に変身していたのにびっくりした。
「一体、どうしたの?」
本当は「その髪型もいいじゃない」とか言うべきだったのかもしれないけど、あまりに唐突すぎて思いつかなかった。まあ予想通り、奴は「いや、別に」とか何とか、意味不明な返事しかしないんだけど、やっぱり元が美形だから、十分もすれば違和感も消え失せる。美蘭は訳知り顔で「うまくごまかしてもらったじゃない。次は坊主にして出家しなさいね」と、にやにやしていた。
だだっ広いリビングには何故か桜丸もいて、一体何を目的にこの面子で集まってるのか、さっぱり判らない。美蘭に「まあ適当に座ってよ」とか言われて、上等そうな革張りのソファに腰を下ろそうとしたら、変な柄の猫が丸くなっている。
「わ、猫飼ってるんだ」
できるだけ平気なふりしてみせたけど、実の所、俺は動物が苦手で、ちょっと固まってしまった。虫やなんかは平気なのに、犬や猫ぐらい大きくなると、なんだか怖いのだ。それに気づいたのか、桜丸が立ち上がって「ほら、亜蘭のとこに行っておいで」と、猫を床に下ろしてくれた。「ありがと」と礼を言うと、奴はにこりと笑ってキッチンに姿を消した。
ようやく少し落ち着いて周囲を見回すと、部屋の隅にもう一匹、ベージュ色の猫がいる。莉夢はそいつの前にしゃがみこんで、嬉しそうに頭を撫でたりしてるけど、間違ってもこっちに来てほしくない。美蘭は俺の隣に腰を下ろすと、「ごめんね、わけあって、借りてきた猫、って奴なの」と詫びた。
「いや別に、いるだけなら大丈夫だけど」
「不思議なことに、猫は苦手な人のお膝が大好きなのよね」なんて不穏な事を言いながら、美蘭は俺の掌に何かを押し込む。
「とりあえず渡しとく。冷蔵庫の水、好きなように飲んで」
そう俺の耳に囁くと、彼女は亜蘭に「ちょっと、これだけお客が来てるのに、煎餅の一枚でも出したらどうなのよ」と、説教をはじめた。その隙に指を開いてみると、渡されたのは痛み止めだった。
全く、ここまで気がつく姉を持ってしまったら、亜蘭みたいにぼんやりした人間になるのも仕方ないかもしれない。しかし奴は姉の駄目出しもどこ吹く風で、何故か代わりに桜丸が、キッチンであれこれ準備して運んできた。
大きさも色も不揃いなマグカップに入れた紅茶。大皿に山盛りの、薄切りにしたバゲットのトースト。クリームチーズとジャムと蜂蜜。美蘭は「これ、花梨のジャムなの。手作りだからおいしいわよ」と、口では俺たちに勧めながら、自分が真っ先にバゲットに塗って頬張っていた。
美蘭も亜蘭も、自分のうちなのに桜丸を働かせておいて全く平気な様子で、だからといって嫌な雰囲気にもならない。たぶん二人とも桜丸に甘えきっていて、それが当然という関係なのだ。友達というより、きょうだいみたいな感じだろうか。俺は美蘭と出会うまでずっと、友達の前では「水瀬風香」の演技を続けてきたから、本当の意味で誰かと打ち解けたことがない。そのせいなのか、この三人を見ていると、今まで知らずにいた寂しさに触れてしまったような気がした。
「猫ちゃんたちにおやつあげていい?」
ひととおりジャムやチーズを味わった後で、莉夢は持ってきたリュックサックを開け、パックに入った猫用のおやつをいくつか取り出した。キラキラしたシールやなんかいっぱい貼ってあって、本当にザ・女の子って感じ。美蘭は「まあ好きにすれば」なんてそっけないこと言う割に、普段より優しい顔して莉夢と猫たちをじっと見てる。
「美蘭、来週また遊びに来ていい?」
猫たちがおやつを食べ終え、水を飲みに行ってしまうと、莉夢は床に座ったままで美蘭に尋ねた。その問いかけを予想していたのか、美蘭は「次はもうないよ。これっきり」と即座に答えた。
「あと一度だけでいいの。だってその次の月曜日から、莉夢はまたルネさんちに行くから。次はもう猫ちゃんたち、来てくれないかもしれない」
俺にはなんだか判らない話だったけど、美蘭は「どうして?」と驚いたような顔をしている。
「おばあちゃんち、お金とか足りないんだって。莉夢はごはんをあんまり食べないようにするって言ったんだけど、かっちゃんのお薬とか、病院に行くタクシーのお金とか、いっぱいいるから」
「ママのところには行かないの?」
「お部屋がないから。前は莉夢だけ押入れで寝てたけど、今はトシアキさんのフィギュアとか、大事なものをしまってるから使えないんだって」
「そりゃ大変ね。でもまあ、心配することないわ」
「どうして?」
「まだ始まってないことを心配しても、仕方ないから」
莉夢はきょとんとしていたけれど、美蘭は独り言のように「心配するのをやめたら、心配事ってなくなるのよ」と続けた。
12 続けさせない
美蘭が呼んでいる。
そんな気がして目が覚めると、午後の日が差し込む教室には僕一人が取り残されていた。重ねた腕には日本史の教科書が下敷きになって、とうの昔にやったはずの大化の改新あたりが開いてる。誰か起こしてくれてもいいのに、と思うけど、実際のところ簡単には起きないので、皆も僕のことをよく判ってるというわけだ。
そろそろ帰ろうかと立ち上がったけれど、やっぱり頭のどこかで、美蘭が呼んでいるという感じがする。それをはっきりさせるため、僕は屋上に出てみた。風もなく、いわゆる小春日和って感じの穏やかな天気。園芸部が作った屋上花壇の間を抜けてフェンスまで近づくと、そこにもたれて目を閉じる。
ふだんは美蘭がどこで何してるかなんて気にもならないけど、彼女が「力」を使っている時は、どうしたってノイズのようなものが僕の頭の奥をひっかく。別に呼ばれてるわけじゃない。だって彼女は僕の事なんか必要にしてないから。でも、僕の頭はノイズをそんな風に錯覚するらしい。その微妙な感じが中途半端に気持ち悪くて、僕は彼女がどこで何をしているのかを探る。
学校の屋上から同心円状にゆっくりと、僕は感覚を広げてゆく。要は、猫を探すのと同じ方法だ。美蘭は猫よりずっと強烈であくどいから、すぐにどの方向か調べはついた。彼女はあの、莉夢を逃がした時に僕がウツボを操っていた公園にいるみたいだ。でも場所は判っても、一体何をしてるのかが判らない。
ゆっくり目を開くと現実が戻ってきて、フェンス越しに、グランドでボールを蹴っているサッカー部の連中が見える。僕は身体の向きを変えると、フェンスにもたれて腰を下ろし、美蘭のいる公園から遠くない、駒野さんの家へと意識を向けた。
細い道路に面して、押し合うように小さな一戸建てが並んでいる住宅地。ちょっと古びた家の二階にある、日当たりのいい六畳間。猫たちは思い思いの場所で昼寝をしている。サンドはキャットタワーの指定席で干物のように広がり、ウツボは出窓に置かれた籐のバスケットで丸くなっている。どちらを指名しようか少し迷ったけれど、やっぱり一度使ったことのあるウツボに決めて、僕は彼女を昼寝から目覚めさせた。
顎が外れそうなほどのあくびと、渾身の力をこめた伸びをしてから、僕とウツボは階段を下り、ワイドショーを見ながらうたたねしている駒野さんに気づかれないよう居間を横切り、勝手口の猫ドアを目指した。そこはサンドの迷子事件のせいで一度は封鎖されたけれど、外に出たがる猫達に根負けして、また開放されたらしい。まあ、もしも迷子が出たら再び僕が呼ばれるだろうし、美蘭もサービスで少しは値引きするかもしれない。
ウツボは嫌がりもせず、大人しく僕の命令に従ってあの公園を目指した。なるべく道路を使わず、家の隙間や裏庭、ブロック塀を伝っての最短コース。枯れた雑草だらけの公園は、小柄な猫にはちょっとしたジャングルだ。その中へと分け入ってゆくと、錆びた金具のたてる軋んだ音色が聞こえ、塗装のすっかり剥げ落ちたブランコに座っている美蘭が見えた。
制服のままで、背筋を伸ばし、かるく顎を上げて空を眺めながら、彼女は前へ後ろへと緩やかにブランコを揺らしていた。僕とウツボが踏む雑草の乾いた音に気付くと、彼女は視線をこちらに向ける。どうやらウツボは彼女のことをちゃんと憶えているらしくて、かすかな鳴き声をあげると駆け寄って、僕が止める間もなくその膝に飛び乗った。スカートの生地越しに伝わってくる、肌の暖かさ。
「ウツボ、いい子ね。お前だけなら抱っこしてあげるけど、今日は変なのが憑りついてるから、駄目」
美蘭は容赦なくウツボをつまみ上げて地面に下ろすと、またブランコを揺らし始めた。どさくさ紛れに蹴られそうな気がしたので、僕はウツボを十分に後退させる。美蘭の視線は再び、澄み切った空に向けられ、少しだけ開いた唇からは細く、とても高い音の口笛が流れる。ウツボはその音色にじっと聞き惚れているらしくて、その場に蹲って動こうともしない。ブランコの鎖が奏でる調子の外れたリズムと、途切れることのない美蘭の口笛は、夢の中の音楽みたいに広がってゆく。
どれだけの間、そうしていただろう。やがて青い空の向こうから、一匹また一匹とスズメバチが集まってくる。黒とオレンジの甲冑に身を包んだ、美蘭の忠実な従者たち。蜂たちは主の傍に集まると、群れ全体で小さな雲のように伸びたり縮んだりを繰り返して宙を舞っていたけれど、口笛が止むと同時に求心力を失い、飛び去っていった。
唸るような低い羽音が遠ざかってしばらくすると、その向こうからサイレンの音が響いてくる。それは一つだけではなくて、あちこちで泡が立つようにぽつりぽつりと叫びを上げ、競い合うようにこちらへと近づいてくる。異変を感じたウツボは、草むらの中で小さな身体を更に縮め、耳だけをあちこちに動かして様子を探っている。
サイレンの音は今やうるさい程に響きわたり、重なり合って空気を震わせている。僕は蹲っていたウツボの背筋を伸ばし、雑草の隙間から辺りを見回した。ちょうど公園の前を走り抜けてゆく消防車と、それを追いかけるように集まり始めた野次馬が目に入った。
心配そうな老人たちと、興奮を隠しきれない様子で自転車をこいでくる小学生の男の子たち。どんどん走ってくる消防車の一台は公園の前にも停まって、傍にいる消防士は家から飛び出してきたおばさんから質問攻めにあっている。しかし彼らがお互いの声を聞き取れないほど、鳴り交わすサイレンは大きくて、空には黒い煙の柱が、少しだけ西に傾いで立ち上がっていた。
周囲の騒ぎなんてまるで関係ないみたいに、美蘭はまだブランコに座り、ゆっくりと揺れている。ふいに、サイレンの隙間から乾いた羽ばたきが聞こえ、大きな鴉が舞い降りるとブランコの上にとまった。美蘭はそれに気づくと、軽く肩をすくめてブランコを止め、僕はそろそろ退散しようかと、ウツボを身構えさせた。
「一体何のつもりだい」
鴉は首を伸ばし、美蘭に向かって大きく嘴を開いた。
「何かっていうとすぐに燃やすんじゃないよ。全く、馬鹿の一つ覚えみたいに」
美蘭は涼しい顔で「駄目なのよ。生理前になると、火が見たくなっちゃって」と答えた。
「嘘をお言い。あと十日はあるはずだ」という鴉の反撃に、彼女はほんの少しだけ眉を上げ、「つまらない詮索しないでくれる?」と顔をしかめた。
「うるさいね。何かあれば面倒は全部こっちに回ってくるんだ。文句は独り立ちしてからにしな」
忌々しげに舌うちする美蘭を見下ろし、鴉は艶のある翼を広げて羽ばたくと、煙の立っている方へと飛び立っていった。黒かった煙はいつの間にか灰色になり、徐々に白さを増してゆく。辺りの空気にはいがらっぽい、焚火のような匂いが混じり始め、その匂いは僕の記憶の中の景色へとつながっていった。
あれは僕と美蘭が六年生の時の夏休みだ。いつもならスイスのサマースクールに送り込まれるところを、エージェントの手違いとやらで登録できず、山梨で行われているキャンプに途中から押し込まれたことがあった。まあ、僕らにしてみれば、母親の傍にいなくて済むならそこが安全圏なので、外国でも日本でも異存はなかった。
キャンプに参加していた子供は、三十人ぐらいだったと思う。男女半々でみんな五、六年生。冬場のスキー客向けの小さなホテルに寝泊まりして、ハイキングに乗馬、ボートに料理に天体観測と、高い費用を払った保護者を納得させるためのプログラムが毎日ぎっしり詰め込まれていた。
美蘭も僕もそんな活動にはうんざりで、本当は一日中ぶらぶらして過ごしたかった。でも、そんな事をして送り返されてはもっと困るので、叱られない程度に参加して、あとは仮病や何かでごまかしてやり過ごした。僕はいつも通り、親しい子もできないままにぼんやりと過ごしていたけれど、美蘭は女の子たちとうまくやっていたみたいだ。中でも、サホコという同い年の子と仲が良かった。
子供たちの中にいて、サホコはとても目立っていた。大きな黒目がちの瞳と、まっすぐに切り下げた髪のせいで、まるで人形みたいだったという事もあるんだけれど、何より彼女を際立たせていたのは、もうすっかり大人といっていいほどの体つきだった。黙っていれば高校生といっても通用するだろうし、ちょっと化粧をして制服でも着れば、銀行の窓口にいてもおかしくない感じ。子供たちみんなが集合すると、彼女ひとりが引率の先生みたいに見えた。
でもまあ、子供にとってそんな存在は異分子でしかない。男の子は彼女を完全に別世界の住人として敬遠していたし、女の子から見ると、早すぎる成長は憐みの対象にしかならないようだった。さらに皮肉なことに、サホコの性格は他の子よりずっと幼く、内気で、人目につきすぎる身体の隠し場所を探すように、いつもおどおどしていた。
子供たちは男女別々の二人部屋で寝起きしていたけれど、人数割りの関係なのか、サホコは一人部屋だった。僕と美蘭は遅れてきたのと、双子だからという理由で同じ部屋に放り込まれて、それが面白くない美蘭は、よくサホコの部屋にもぐり込んでいた。二人が仲良くなったのは、たぶんそんな理由からだと思う。
美蘭といる時には、サホコはふだん見せないような笑顔を浮かべたし、声をあげてはしゃぐこともあった。でも、彼女は常に影のようなものを漂わせていて、もしかすると外見よりもその事の方が子供たちを遠ざけていたかもしれない。
僕が彼女の影についてはっきりと意識したのは、ほんの偶然からだった。サホコに負けないぐらい、他の子から浮いていた僕の遊び相手といえばやっぱり猫で、ホテルの食堂で餌をもらっている白黒猫と仲良くしていた。といっても別に撫でたりなんかするわけじゃない。消灯時間を過ぎてから、白黒の身体を借りてあちこち探検するのが僕の楽しみだった。河原を散歩したり、壁から落ちたヤモリを追いかけてみたり、近所の空き家に潜り込んだり。そんな事をして遊んでいた時に、真っ暗な中庭を歩いているサホコと出くわしたのだ。
そんな時間に一人で出歩くのは禁止されている筈なのに、彼女は水色のワンピース姿で、裸足にサンダルを履いていた。足取りはどこか覚束なくて、自分が行くべき場所がよく判らないような感じだった。彼女は僕が身体を借りている白黒猫に気づくと、ゆっくりとしゃがみ込んで手を伸ばし、「おいで」と呼んだ。白黒は人を怖がらないし、僕も好奇心に後押しされて彼女に近づいていった。
彼女はどうやら家で猫を飼っているらしくて、慣れた様子で白黒を抱き上げた。初めて近くで見る彼女の睫毛はとても長くて綺麗だった。悲しいことでもあったのか、眼を赤く泣き腫らしていたけれど、僕を驚かせたのは別なものだった。
猫の身体を借りていると、普段は判らないような、かすかな匂いまで感じ取ることができる。誰かのそばに行けば、何を食べて、どこにいたか、そんな事まで判ってしまう。だから僕は、サホコの身体にまとわりついた男の匂いに面喰っていた。それは知らない人間じゃなくて、キャンプのスタッフである仁科さんの匂いだったからだ。
仁科さんはスタッフの中でも中堅らしくて、たぶん三十代だったと思う。日に焼けていて、サッカーが得意で、よく冗談も言って、男の子には人気があった。子供たちのとは別の棟にあるコテージに寝泊まりしていて、朝は一番に起きて庭でラジオ体操を始めるのが日課だ。でも、どうしてサホコから仁科さんの匂いがするんだろう。しかもその匂いは彼女の服ではなく肌にしみついていて、触れるどころか、舐めでもしたんじゃないかというほど、はっきりとその痕跡を残していた。
それ以来何度か、僕と白黒は夜の散歩のさなかで彼女に遭遇した。彼女からはいつも仁科さんの匂いがして、僕はぼんやりと、何か悪い事が彼女の身に起きているのを感じるようになった。だから、余計なお世話かもしれないと思いながら、美蘭に話してみることにした。
夕食前の貴重な自由時間、美蘭は庭の外れにある大きな木の枝に腰掛けて、二、三日前から姿を見せ始めた赤とんぼを操って遊んでいた。木の上から片方だけ垂らされた彼女の裸足の爪先を見上げて、僕は「あのさ、サホコが夜、中庭を歩いてるの知ってる?」と尋ねてみた。
「知ってるよ」と、あっさり返事して、美蘭は僕の頭に赤とんぼを一匹とまらせた。
「どこ行ってるかも知ってるし、誰と会ってるかも知ってる」
「仁科さん?」
「わざわざ言うんじゃないわよ、その嫌な名前」と、赤とんぼがもう一匹僕の頭にとまる。
「呼び出されて、怒られてるの?」
「あんたは余計な事考えなくていいの」
「でも、泣いてたよ」
「それでも逃げられない時って、あるんだよ。大人はずる賢いから」と、三匹めの赤とんぼ。美蘭は少し身体の向きを変え、垂らしていた足を引き上げた。かすかに衣擦れがして、彼女がいつも持っているカッターナイフの刃を出す、カチカチという音が聞こえる。
「じき終わりにさせる。あんな事、続けさせない」
彼女がそう言い切ると、僕の頭にとまっていた赤とんぼはいっせいに飛び立っていった。
それから何日か過ぎて、キャンプもあと数日という夜、美蘭は消灯の後にベッドを抜け出し、パジャマからサマードレスに着替えると部屋を出ていった。どこへ行くのかきいても、どうせ何も言わないに決まっているので、僕はベッドにもぐりこんだまま、物置小屋の軒下で寝ている白黒に意識を飛ばすと、起き上がるように命令した。
八月とはいえ、山あいの夜は一足先に秋を迎えたようにひんやりしている。僕と白黒が虫たちの鳴き騒ぐ草むらを抜けて中庭へ回り込むと、仁科さんのコテージの戸口に美蘭が立っているのが見えた。ドアは開いていて、仁科さんの大きな影も目に入る。彼らは何か少し話をした後で、一緒にドアの向こうに消えた。
僕と白黒は急いでコテージへと駆けていった。ドアはもう閉まっているから、明かりのついている窓の下へ行き、エアコンの室外機に飛び乗って中の様子を伺う。残念ながらカーテンが閉まっていて何も見えないけれど、美蘭がくすくす笑う声は聞こえたし、仁科さんが機嫌よさそうに何か喋っているのも聞こえた。二人はその後しばらく笑ったり、立ち上がったり、座ったり、何か飲んだりして過ごしていたけれど、そのうち何も聞こえなくなった。いや、何も、ってわけじゃない。奇妙に荒い仁科さんの息だとか、言葉のようで言葉でない美蘭の声だとか、そんなものがしばらく聞こえて、静かになったのだ。
僕は美蘭がコテージから出てくるまでずっと待っているつもりだったけれど、白黒は飽きっぽい上に、まとわりつく藪蚊にもうんざりしていたらしくて、大きく伸びをすると僕を振り払って駆け出していってしまった。
僕がベッドに戻ってからすぐだったのか、ずいぶんしてからなのか憶えていないけれど、美蘭は音もたてずに戻ってくると、明かりもつけないでシャワーを浴び、上がってくると脱いだ服を丸めてごみ箱に放り込んだ。そして濡れた髪のままでベッドに入ったけれど、寒いらしくて、震えているのが薄闇の中でも見てとれた。
「ドライヤー使えば?」と声をかけてみたけれど、「うるさい」としか言われなかった。そして僕がうとうとし始めた頃、けたたましい火災報知器のベルが鳴り響いて、子供たちは全員中庭に避難させられた。そこで目にしたのは、暗い夜空に向かって炎を上げている仁科さんのコテージだった。
予定表に載っていなかったキャンプファイアを、みんな声も出せずに見つめていて、その中にはサホコの姿もあった。僕のそばに立っていた美蘭は彼女を見つけると嬉しそうに笑いかけたけれど、サホコはまるで幽霊でも見たような顔つきになって、いきなり背を向けると闇の中へ紛れこんでしまった。
キャンプはそこで中止になり、子供たちは早朝から迎えに来た家族に連れられて次々と去って行った。最後に取り残されたのは僕と美蘭で、僕らは焼けたコテージから漂ってくるいがらっぽい匂いを嗅ぎながら、乳白色の朝靄に包まれた中庭のベンチに座っていた。
「玄蘭さん、迎えに来てくれるかな」
「来なくていいよ。別に私たちだけで帰れるし」
「じゃあどうしてここで待ってるの?」
「手続き上そうはいかないんだって。子供ってさ、荷物と一緒なんだよね。ちゃんと受け取りましたって、サインもらわないと動かせないんだから」
美蘭の説明を聞いて、僕はどうしていつも母親に「お荷物」呼ばわりされているのか、理解できた気がした。辺りを満たしている靄は一向に晴れる気配がなく、僕の髪も服も湿り気を帯び、半袖では寒いほどだった。
「ホットチョコレート飲みたいな」
僕が思わず口にすると、美蘭は「桜丸のとこで飲んだやつ」と言った。
「桜丸、いまどこにいると思う?」
「知らない」
「桜丸のこと、考えたりしない?」
「全然」
ぶっきらぼうに言うと、美蘭は湿った髪をかきあげた。建物の中で待つよう言われたのに、彼女は頑なに外にいることを選んで、半分ほどが焼け落ちて無残な姿を晒している仁科さんのコテージをじっと眺めている。その周囲には立ち入り禁止のテープが張られ、消防車が一台だけひっそりと停まっている。僕は何となく昨夜のことが聞けなくて、ベンチの上で膝を抱えると、猫の白黒が近くにいないかと捜し始めた。
「全くもう、どこまで世話かけたら気が済むんだい」
その心底面倒くさそうな悪態に、僕は我に返って目を開いた。相変わらず漂い続ける靄の中に、全身黒づくめの案山子みたいな玄蘭さんが立っていて、その向こうに黒塗りのハイヤーが止まっているのが見えた。玄蘭さんは勿体ぶった足取りで近づいてくると、「あんたら、何の権利があって私を夜中の二時に叩き起こすなんて真似ができるんだい」と言った。
「電話したの、私じゃないもの」
美蘭は上目使いにちらりと睨んで、そう反論した。
「ガキが何かすりゃ、大人に連絡がくるに決まってるだろう。おまけにこんな派手なことやらかして」
「私は何もしてない」
「お黙り。確かに寝煙草が原因って話にはなってるけど、どうせ薬でも飲ませたんだろう。あんた達の母親のところには、いかれた仲間の持ち込んだ奴が山ほどあるからね。あの男が死んで、司法解剖なんて話になったらちょっと面倒だよ」
「そんなに危ないの?」と、美蘭は少し硬い声で尋ねた。玄蘭さんはポケットから煙草を出して咥え、「死にやしないさ」と言って火を点けた。
「少しばかり火傷をしたのと、たんまり煙を吸ったせいで頭のネジが緩んでるのと。元通りになるかどうかは運次第かね」
「ずっと治らなければいい」と美蘭が言うと、玄蘭さんは長く煙を吐いてから「そもそも、あんたには関係ない話だ」と言った。
「金を積まれたわけでもないのに、つまらない話に首を突っ込むもんじゃない。誰がどうなろうと、気にかけるだけ無駄ってもんだよ。それで自分がすっきりしようって考えかもしれないけれど、どうだい、お友達には有難がっていただけたのかい?」
玄蘭さんの問いかけに美蘭は何も答えず、僕はぼんやりと、炎に照らされて浮かび上がった、サホコの怯えた顔つきを思いしていた。
鴉はどこかへ飛び去り、空へと上っていた煙はすっかり白くなって、徐々に輪郭を失ってゆく。その向こうにいつの間にか、消え残った煙のような色の月が浮かんでいた。
集まっていた消防車の大半が引き上げると、美蘭はブランコから立ち上がった。公園から出て行こうとするその足元を縫うように、ウツボがいそいそと追いかける。僕は慌てて引き留め、美蘭との間に距離をとった。彼女はそれに見向きもせずに公園を出ると、まだ名残惜しそうにうろついている野次馬の中に紛れ込んでしまった。
13 おっそろしい話
週が明けても、美蘭は亜蘭のいるマンションには戻らず、どこかのホテルから学校に来るようになった。
「制服着て朝ごはん食べてたらさ、オランダから来てるおじさまに写真撮らせてって言われちゃった」なんて笑ってる。でもまあ、手頃なアパート探してるって話だし、そのためなのか、今日も午後の授業をすっとばして消えた。もし彼女が本当に一人暮らしするようになったら、俺は毎週のように泊まりに行くだろう。誰かに邪魔される心配なしに彼女を抱けるかと思うと、色んな考えがとりとめもなく浮かんでしまう。
妄想の中の俺は、押しつけられた肉体を捨て去り、桜丸の姿を手に入れている。その力強い腕で、シーツの上に美蘭を荒っぽくねじ伏せ、ためらうように引き寄せられた白い足を押し広げて、彼女が濡れるのも待たずにその身体を貫く。本当はそんなやり方じゃ美蘭を悦ばせられない事、女の身体に縛られた俺は十分判ってるんだけど、どうしたって考えてしまうのだ。
俺は初めての男として、彼女の身体に痕跡を残したい。それができる肉体を手に入れたくて仕方ない。そしていつの間にか美蘭の姿は沙耶に変わっていて、彼女は桜丸の広い背中の下で息を乱している。もうそこには俺も美蘭もいないんだけど、俺はその様子をじっと思い描き続ける。
自分でも判ってるのだ、こんな事考えるのは相当おかしいって。
でもまあ、クラスの男たちも似たようなもんだろうし、美蘭だって「時々、いかれたこと考えちゃう」って言ってたことがあるし。しょせんまともな女子高生じゃない俺は、こうして開き直りでもしない限り、普通のふりを続けることができない。
羊の群れに紛れ込んだ狼。俺は羊の皮を脱ぎ捨てることもできず、牙を隠したままで放課後の廊下を歩き、羊たちと「もう帰るの?」なんて言葉を交わす。そして思うのだ、この生暖かい偽りの皮を肌に貼りつけたまま、一生を過ごすことになったらどうしよう。
中学の頃には本気で死にたいと思ったこともあるけど、美蘭が現れてからは少しだけ楽になった。でも今だって何かの拍子に、ふとそんな恐怖に呑まれそうな時があるのだ。一生、一生ずっとこのまま。
「風香」
名前を呼ばれて、俺は我に返った。いつの間にか学校の外に出ていたけれど、周りには誰もいない。思いつめすぎて幻聴でも起こしたのかと、少し自分が心配になったところへ、また「風香ちゃんってば」という細い声がした。
よく見ると、植え込みの陰に隠れるようにして、女の子が立っている。こないだ美蘭と一緒に会った、莉夢とかいう名の子だ。俺が「びっくりした。何してるの?」と声をかけると、彼女はどこか緊張した顔つきで辺りを見回した。
「美蘭は?まだ学校?」
「ううん。今日はお昼で帰ったよ」
「帰っちゃった?」
はっきりと落胆した莉夢の表情を見てると、なんだかこっちも悲しくなってしまう。この子って何故か、そんな風に人の気持ちを動かすところがある。美蘭もそう感じてるから、この間はわざとそっけなく振る舞ってたのかもしれない。
「電話してみれば?出るかどうかは判んないけど。美蘭の番号知ってるよね」
「電話は亜蘭のしか知らないし、莉夢は携帯持ってないから、おばあちゃんの家にある、大きな電話しか使えないの」
「ふーん。亜蘭の電話じゃ何の役にも立たないよね。いいよ、私から美蘭に伝えとく。莉夢が会いに来てたって」
「じゃあ、他の事も伝えてもらっていい?」
「いいけど?」と俺が請け合うと、莉夢は落ち着かない様子で、肩で息をしながら言葉を紡ぎだそうとした。俺は何だか心配になって、「慌てなくても、ゆっくり言えばいいよ」となだめた。
「あの、あのね、ルネさんちが火事になったの」
「え?家が火事?いま燃えてるの?」
「違う、今じゃなくて、火事になったのは昨日。ルネさんが会社に行ってる間に、電気の線が切れちゃって、そこから火事になったんだって」
「じゃあルネさんて人は、大丈夫だったの?」
「うん。お昼だったから、すぐに消防車で消したけど、ルネさんちは半分ぐらい焼けちゃって、水浸しで、もう住めないの」
さっぱり全体が見えない話だけど、俺は記憶を総動員して、この間の美蘭と莉夢の会話を思い出していた。
「でも、莉夢はこないだ、ルネさんちに住むとか言ってなかった?」
「だからそれも、なしになったの。しょうがないから、まだおばあちゃんと、かっちゃんのところにいていいって」
「そっか。じゃあ、結果としてはよかったんだ。ルネさんには気の毒な話だけど」
俺がそう言うと、莉夢はまだ肩で息をしながらこくんと頷いた。
「わかった。じゃあそれを美蘭に伝えとけばいいのね。でもさ、ずっとここで待ってたの、寒かったでしょ?コンビニで何か暖かいもの飲まない?」
「ううん、今日は内緒で来てるから、早く帰らないとだめなの。じゃあね、美蘭にちゃんと言っておいてね」
莉夢はまた念を押すと、手を振ってから駆けだした。その小さな後ろ姿が角を曲がって消えてしまってから、俺はやっぱり途中まで送ってやればよかったかな、なんて考える。こないだは変な男に付きまとわれてたし、一人じゃ危ないかもしれない。そう思い直して後を追ってみたんだけど、どこの小路に入ってしまったのか、もうその姿は見えなくなっていた。
伝言を預かったとはいえ、学校を出てしまうと美蘭の行方は本当に判らない。ラインだろうと電話だろうと、向こうから連絡してこない限り、全くつかまらないのだ。まあ、さして緊急でもなさそうだし、俺はとりあえず用件だけ送っておいたけど、実際に話ができたのは次の日、二限目の後に彼女がのんびり登校してきた時だった。
「おっそろしい話よね」
俺が伝えた火事の話に、美蘭はそう感想を述べたけど、「おっそろしい」なんて言葉とはうらはらに、驚きなんて少しも感じてない様子。そして大あくびをすると、「やっぱ帰ろうかな」なんて気怠そうに言う。
「早退の翌日は遅刻って、お前どんだけ遊んでるんだよ」
「別に遊び歩いてるわけじゃないけど、色々と用事があるのよね」
「住むとこ探してるから?」
「それは先送りかな。ホテル暮らし、けっこう気に入ったから。ねえ、放課後ちょっとつきあってよ」
俺はどうせ暇人だから、美蘭に誘われたらどこだって行く。彼女が律儀なのは、俺に授業をサボらせようとはしないとこ。だからちゃんと午後の英語が終わってから、俺たちは「待ち合わせ場所」である、近くのファミレスに行った。
「誰と待ち合わせてんの?」
もしや江藤の奴かと勘ぐってたんだけど、窓際の席にぼーっと座っていたのは亜蘭だった。学校には来てなかったので、ベッドの中から直行してきたようなジャージ姿。美蘭は接触を最小限に留めたいというオーラ全開で、俺を置き去りにしたまま早足で奴に近づくと、無言で手を差し出した。亜蘭も負けじと、黙ったままで何かをテーブルの上に放り投げ、美蘭はそれをひったくると回れ右をして戻ってきた。
彼女が持っていたのは車のキーだった。どうやらこのファミレスに来た目的は、車の受け渡しみたいだ。美蘭は無言のまま駐車場に行くと、一番奥に停めてあった黒のGTRにキーを向けた。
「ったく、嫌がらせしやがって。出しにくいんだよ」
悪態をつきながらロックを解除し、俺に向かって「一応保険はかけてあるから、乗って」と、怪しげな事を言う。でもまあ、車に乗ってるって話は聞いてたし、あちこち行ってるみたいだから、たぶん大丈夫だろう。少なくとも、うちのママよりはましな運転のはずだ。
「この車、亜蘭の趣味?」
遠慮なく言わせてもらえば、少しオヤジっぽい選択だ。
「これはスポンサーの趣味かな。亜蘭の脳には“趣味”って概念、ないからね」
美蘭はシートの位置を調整してから、「駄目、馬鹿の匂いがする」と窓を全開にした。俺にはわかんないけど、これも亜蘭への敵対心って奴か。でもまあ、文句言ってた割にすんなり駐車場を脱出して、車は川崎の方に向かった。
「どこ行くの?」と尋ねても、美蘭は「そんなにかからない」としか言わない。「もしかして、江藤さんのとこ?」と言ってみたけど、「まさか」とそっけない。でも俺は「あの人に会うのは、夜になってから?」と、ねばってみた。美蘭はちらりと視線を投げてよこし、「そんなんじゃないわ」と切り捨てる。
「じゃあ、何なの?嫌いな相手じゃないだろ?見てりゃわかるよ」
実のところ、はったりなんだけど。でも美蘭は少しだけ眉を上げ、前を向いたままで軽い溜息をついた。
「私には判んない」
「え?」
「自分じゃ判らないの。好きか嫌いか。あの人といると、何もかも調子狂っちゃう感じで、自分が自分の思い通りにならない」
「それはさ」と言ってから、俺はこっちが何故かドキドキしてることに気づいた。美蘭がこんな風に答えるなんて、ちょっと予想してなかったのだ。
「やっぱ、好きってことじゃない?俺も沙耶と仲良くなりかけた頃って、そんなだったもの。自分の一言がすっごく気になってさ、あれで嫌われたらどうしよう、とか、彼女がさっき笑ったのって、どういう意味だろう、とかさ。とにかく何でも心配で仕方なくて、ちょっとした事がひどく嬉しくて、でも少しも前に進めなくて。まるで迷路に放り込まれたような気分でさ」
てんでうまく説明できないけど、俺なりに美蘭の言葉を解釈してみたら、彼女は「ふうん」とだけ言って、あとは黙って運転を続ける。表情は変わらないんだけど、頬と耳がほんのり紅くなったようにも見えた。
車はいつの間にか住宅地に入っていって、何の変哲もない家の前で停まった。車を降り、先に立った美蘭がインターホンを押すと、返事より先にドアが空き、五十代ぐらいの小柄なおばさんが出てきた。何だかせっぱつまった顔つきで、「もう、本当に大変なのよ」なんて言ってる。
「上がってもらいたいのは山々だけど、よそのお嬢さんに何かあったら一大事だし、ここで勘弁してちょうだいね。そちらは、お友達?」
「はい、ちょっと手伝ってもらいに。もう準備はできてますか?」
「ええ、でもちょっと待ってね。カリカリとか、トイレの砂とか、買い置きがあるから持って行ってちょうだい」
それだけ言うと、彼女は家の中へ戻っていった。俺は話がさっぱり見えなくて、美蘭に「どうなってんの?」ときいてみる。
「こないださ、亜蘭のとこに猫が二匹いたでしょ?」
「ああ、ベージュのと、まだらの」
「あの子たち、ここの飼い猫なのよね。でもこの家、屋根裏にスズメバチが巣を作ってたらしくて」
「スズメバチ?あの、でっかい奴?」
やっぱり話が見えてこなくて、俺が「なんで蜂の巣と猫が関係あんの?」とか言ってたら、おばさんが戻ってきて「そうなの、もう本当にびっくりしたわよ!腰が抜けるかと思ったほど!」と話に加わった。
「それがね、ちょっと前から、近所でスズメバチを見かけたって話はあったのよ。でもこんな街のど真ん中だから、飛んでるうちに迷いこんだんじゃないの、なんて言ってたの。そしたら向いのご主人が、うちの軒下にスズメバチが入っていくのを見たっておっしゃるのよね。まさかと思って、旦那に覗いてもらったら、本当に何匹かとまってたの。オレンジ色の、それこそ雀みたいに大きいのが、壁の隙間から出入りしてるのよ。
もう大変だって事になって、区役所だの保健所だの電話して調べてもらったら、屋根裏に大きな巣があるって言うじゃない。恐ろしくって、すぐに駆除して下さいって泣きついたんだけどね、特別な業者じゃないとできないらしくて、しかもこの夏は異常気象だったから、あちこちでそういう依頼が来ていて、予約がいっぱいなんですって。
結局、半月ほど待たされることになったんだけど、こんな状態で住むわけにいかないから、にゃんこ達を全員疎開させることにしたのよ。それで、サンドとウツボはちょうどこの前、美蘭さんに預かってもらった事があるし、少しでも知っているおうちの方がいいからって、お願いしたのよね」
たぶん俺は、文字通り「目を白黒」って顔をしてたと思う。おばさんは「もう、今は窓を全部閉め切って、毎日怯えながら暮らしてるの。殺虫剤も買ったんだけど、下手に使って、逆切れとかされたら怖いじゃない」と訴えた。
スズメバチって逆切れするのか?という疑問は口にせず、俺はじっと話を聞き、美蘭は「そうですよね」なんて、絶妙のタイミングで相槌をうっている。
「サンドとウツボをお願いしたら、あと残ってるのはロロだけだから、この子は私たちと一緒に、町田に住んでる娘のところに疎開させてもらうのよ。でもねえ、駆除の費用とか、あれこれ考えると本当に大変」と言って、おばさんは一息ついた。そしてキャットフードと猫トイレの砂の大袋を、次々と玄関から引っ張り出してきて「はいこれ、どうぞ持ってってちょうだい」と並べた。
美蘭と俺はそいつを車のトランクに積み込み、最後に猫の入ったキャリーケースを二つ受け取ると、後部座席に並べた。おばさんはまるで人間相手みたいに「じゃあね、サンド、ウツボ、お行儀よくしてね。母ちゃんのこと忘れちゃ駄目だよ」なんて、窓越しに言い聞かせてる。猫達はニャアのひと声もなく、ケージの奥で大人しくしていた。
「写真とか動画とか、送りますから」と、美蘭は愛想よく言ってるけど、たぶん亜蘭にやらせるつもりだろう。「それじゃあ、失礼します」なんて、優雅に頭を下げて挨拶してから車を出したけど、おばさんは家の前に立ったまま、ずっと手を振っていた。
「すごいね。なんか、猫が本当の子供みたい」
角を曲がって彼女が見えなくなってから、俺は率直な感想を口にした。
「まあ、ペットなんてそんなもんよ。しっかし、餌だとかトイレの砂とか、何が嬉しくてあんなもの運ばなきゃなんないのよ。亜蘭に来させればよかった」
「いいじゃん、下ろす時はまた手伝うよ」
「ありがと。でも下ろすのは猫だけ。荷物はトランクに入れといて、後で亜蘭に運ばせるから」
「でもさ、屋根裏にスズメバチの巣って、すごいよな。襲われたら死ぬかもしれないって、きいたことあるけど」
「本当に、おっそろしい話よねえ」
美蘭の口から、今日二度めの「おっそろしい」が出たけど、やっぱり少しも怖がってる様子なんかなくて、むしろどこか楽しんでるような気配がある。彼女は時計をちらりと見てから、「近くに子持ち鯛焼きの店があるんだけどさ、寄ってかない?」と言った。
「いいけど、猫は置いてくの?」
「テイクアウトして、車ん中で食べるの」
「わかった。でもさ、子持鯛焼きって一体何?」
「それは食べてのお楽しみ」
美蘭は慣れた手つきでギアを入れると、少しスピードを上げた。本当のところ、彼女にとって怖い事なんてあるんだろうか。どんな事が起きても「おっそろしい」なんて口先では言いながら、軽々とハンドルを切って、かわしてしまうような気がする。
14 猫少女ニャーニャ
猫が暴れてる。
僕は薄目を開けて、部屋の明るさから時間を予想してみる。たぶん朝の七時とか、それぐらい。お腹を空かせてるのは判るけど、せっかくの土曜なんだから、ゆっくり寝かせてほしい。まあ別に、毎日ちゃんと登校してるわけじゃないけど。
ソファの上で寝返りをうち、毛布を引き上げると、二匹の猫はその動きに反応して飛びついてくる。僕の上を遠慮なく踏んで歩き回り、あげくに鳴き声をあげて餌の催促。とうとう僕は根負けして起き上がり、キャットフードを手づかみで餌入れに投げ込み、自分が飲み残して気の抜けた炭酸水をボウルに注いだ。猫たちは押し合って食事を始め、僕はソファに戻って毛布をかぶる。
これだから生き物は面倒くさくて嫌なのだ。なのに美蘭の奴、いったんは返したサンドとウツボをまた預かってきて、強引に置き去りにしていった。もちろん僕だって抵抗したのだ。でも「儲け話なんだから、黙ってやりな」と言われたんじゃ仕方ない。僕も所詮は、金に弱い夜久野一族というわけ。
それにしても最近、美蘭の話し方が玄蘭さんに似てきたような気がする。まあ、仕事の後を継ぐんだから当然かもしれないけど、この世にあんなのが二人もいるというのは嬉しくない話だ。でも、不思議なのは、長いこと玄蘭さんと平気な顔で暮らしている宗市さん。ああいう、頭のてっぺんから足の先まで嫌味で固めたような人と一緒にいて、何が楽しいんだろう。
僕の記憶にある限り、宗市さんが嫌味らしきものを口にした事はないし、不機嫌だったり意地悪だったりした事もなくて、いつも穏やかに接してくれる。小学校の頃、美蘭はそれを怪しんで、「宗市さんって、親が借金返せなくて、玄蘭さんに売られたんじゃないかな」と言っていた。
「だからさ、そのうち玄蘭さんの隙を狙って、花瓶かフライパンで殴り殺して逃げるよ。そしたら私たちも助かるんだけど」なんて話だったけれど、一向にその気配はなかった。すると美蘭は更に「あれ多分、ストックホルムシンドロームって奴だね。長いこと監禁されてると、人質は犯人に同情的になるんだってよ。逃げる気力、なくなっちゃうんだね」という分析をした。
まあ僕らも今では、宗市さんは自分の意思で、玄蘭さんのところにいると理解しているけれど、やっぱり不思議ではあるのだ。あの人の、どこがいいわけ?って。そして、僕は自分自身について考える。もう十分美蘭にうんざりしてるのに、どうして出て行かないのか。
言い訳に聞こえるかもしれないけど、僕はこれまで数えきれないほど、美蘭と縁を切ることを考えてきた。だいたい、うちの一族はお互いのことを嫌ってるし、滅多に顔を合わせることもないから、誰と誰がどういう関係なのか、さっぱり判らない。全体をちゃんと把握してるのは玄蘭さんぐらいで、それも「仕事」なので仕方なく、ってとこだろう。
だから別に僕だって、美蘭と離れて暮らせばいいのだ。不動産の事故物件なんて山ほどあるし、お金の心配もない。なのに、最後の最後になると、やっぱりあの時の…
「邪魔!」
いきなり誰かがすごい勢いで毛布を引っ張って、僕は床に転がり落ちた。見上げると、美蘭が小脇にサビ猫ウツボを抱え、仁王立ちで睨んでいる。何だか涼しいと思ったら、ベランダの窓が開け放たれていて、快晴の空が見えた。
「何だよいきなり、邪魔なのはそっちだろ」と言いながら起き上がると、ちょうど入ってきた桜丸と目があった。彼は大きなスーツケースを二つも運んでいる。
「おはよう、亜蘭。やっぱり寝てたよね。起こしてごめん」
「あの…何してるの?」
僕の質問に答えようとする桜丸に、美蘭は「ほら、まずは馬鹿の巣を片づけて」と命令する。彼は申し訳なさそうな顔で、「今日は美蘭に雇われてるんだ」と笑ってみせた。そして彼女に言われるがままに、彼は僕が寝ていたソファやなんかを部屋の隅に寄せ、スーツケースから取り出した、淡いピンクの布地をテープで壁に貼ってゆく。日当いくらか知らないけど、そんなに頑張らなくていいのにと思いながら、僕は桜丸の働きぶりを眺めていた。
普通ならここらで、「あんたもちょっと働けば?」と嫌味の一つでも言われるんだけど、美蘭も何やら忙しそうにスーツケースの中身を点検している。このまま見ていたって仕方ないし、外に何か食べに行こうかと思っていると、こんどはインターホンが鳴って、莉夢を連れた風香が現れた。
「美蘭、桜丸、おはよう!」
莉夢は彼らにまた会えたのが心底嬉しいみたいで、飛び跳ねるようにして二人に挨拶した。それからソファの上に避難しているサンドとウツボをなでて「おはよう」と声をかけ、その後でようやく僕に気づくと、ワントーン低い声で「おはよう」と言った。まあよくあるパターンなので、僕は何とも思わない。要するに自分の影が薄いって事で、向こうに悪気があるわけじゃないから。
それは風香も同じ事で、僕に向かって申し訳程度に「おはよ」と声をかけた後は、ずっと美蘭たちのそばにいて、「ねえ、一体何やるの?」なんてきいている。 美蘭は返事の代わりに、スーツケースから一抱えもある衣装らしきものを取り出すと、「莉夢、あっちの部屋で着替えよう」と、リビングを出ていった。
しばらくして戻った莉夢は、黒い膝上丈のワンピースに黒いタイツ、そして黒いブーツという格好をしていた。ワンピースの襟元と袖口、そしてフレアになった裾にはフェイクファーがあしらわれていて、胸元に赤いリボンが結ばれている。そしてお尻のあたりには黒いフェイクファーで作られた、長い尻尾が揺れていた。
「うわ!どうしたの?すごい衣装!」と風香が声をあげると、美蘭は「ハロウィンの仮装用を、ちょっとバージョンアップ」と説明した。莉夢は頬を紅潮させ、眼を輝かせている。
「さて、後はメイクだね」と、美蘭はスーツケースから化粧道具を取り出した。莉夢は大急ぎで彼女のそばに駆け寄り、「お化粧していいの?」と尋ねている。
「うん、変身するからね」と言いながら、美蘭は床にぺたりと座った莉夢の顎を指先で軽く持ち上げた。
眉を鋏で整え、ファンデーションを塗ってから、タトゥーシールを組み合わせて、目元にアラベスクの模様を入れてゆく。まるでレースの仮面でもつけてるようになったところで、赤いシャドウを仕上げに加える。それから頬紅をのせ、ブラシで顔全体に光沢のある粉をはたく。それからリップグロスを塗って、完成らしい。
「いい?莉夢は今から違う女の子になるの。特別な力のある女の子に」
「どんな力?」
「猫を思い通りに操れる」
「名前は?」
「そうね、猫少女ニャーニャってとこかな」
あまりに安直な名前に、僕は失笑しそうになったけれど、反撃が怖いので噛み潰しておく。小さい頃からずっと、美蘭の名づけのセンスは最低なのだ。三年生の時、宗市さんにもらったヒヨコのぬいぐるみは「鳥肌」って名前だったし。でも本人はいたって真剣らしくて、ハゲハゲになった今もまだ大事にしている。
「さ、これをつけたらニャーニャに変身完了」と、美蘭は少し赤みのある黒髪のウィッグをスーツケースから取り出した。髪型はストレートボブで、大きな三角の猫耳が生えている。風香は「うわあ、完璧」と驚きの声を上げたけれど、猫耳ウィッグをつけた莉夢は人間に化けた子猫のようで、濃いめに描いたアイラインが更にその印象を強めていた。桜丸も「可愛い黒猫だね。今日は猫が三匹だ」と笑っている。
美蘭は更に先端にきらきらと輝く星のついた、天気予報の指示棒みたいなものを莉夢に手渡すと「はい、これが魔法の杖って奴ね。ニャーニャがこれを振れば、猫は何だって命令をきくから」と言った。
「本当?」
「本当よ。そのために今日はサンドとウツボもいるんだし」と、美蘭は部屋の隅に寄せたソファの上で、こちらの様子をうかがっている猫たちに視線を向けた。しかし、と僕は思う。猫は人の命令なんか絶対に聞かない。奴らは自分のしたい事しかしないのだ。もし命令通りに動く猫がいるとしたらそれは…
「さて、じゃあ撮影に入るか。桜丸、カメラとライトの準備できてる?風香はこっちで時間計って」
美蘭はてきぱきと指示をしてから、ちらりと僕を見て「あんたは引っ込んでな」と言った。その時にはもう、僕は自分が嵌められた事を悟って、大人しく自分の部屋へ引き上げるしかなかった。
ベッドに腰を下ろし、まずはウツボに意識を飛ばしてみる。もうカメラのテストも終わり、美蘭は莉夢の立ち位置をチェックしている。そして「最初は簡単に、輪くぐりからやってみようか」と、鮮やかな色のテープを巻いた輪っかを差し出す。
「はい、じゃあウツボを呼んでごらん」
言われて莉夢は「ウツボ、おいで!」と「魔法の杖」で手招きする。僕は観念し、ウツボを促してソファから飛び降りると、猫少女ニャーニャのもとへ駆け寄った。
そこから先はまあ一言で表すと難行苦行の連続だ。ウツボとサンドは交代で休めるけれど、僕はずっと出ずっぱりで、輪くぐりに始まって、投げられたボールを拾ってきたり、回ってみたり、莉夢の肩にのったり、トランプのカードをひいたり、サッカーしたり、およそ芸と名のつきそうな事は一通り全部こなした。
おまけに撮影は一発でOKというわけでもなく、角度を変えたり、タイミングを変えたり、壊れた道具を修理したり、けっこう時間がかかるのだった。時々桜丸が水を飲ませてくれたけれど、飽きっぽい猫たちは段々と言う事をきかなくなるし、そこを無理して操るのだから本当に楽じゃない。最後に莉夢と縄跳びをする頃には、僕はへとへとに疲れ果てていた。
「まあ、こんなもんでいいか」という美蘭の一言を合図に、僕はサンドを解放してベッドに倒れ込んだ。
「亜蘭、具合でも悪いの?」
心配そうな桜丸の声に、僕は目を開いた。何故だかリビングに置いてきたはずの毛布がかけられていて、部屋は真っ暗。
「ちょっと昼寝してただけだよ」と、起き上がると、桜丸は「さっきもそう言ってたけど、長すぎるんじゃない?」と言いながら、明かりをつけた。
「さっき?」
「そう。みんなで晩ごはん行くからって誘いに来たら、昼寝するからいいって断ったじゃないか」
「ふうん。憶えてない」
だからって別に驚きもしない。僕は寝ぼけていると、意識がなくても会話ぐらいできるのだ。桜丸もそれを知ってるので、仕方ないな、という感じで笑うと「君のごはん、あるよ」と言った。
促されてリビングに行くと、ソファやなんかは元の位置に戻されていて、猫たちは一足先に食事を始めていた。コーヒーテーブルには白い袋が二つ置いてある。
「美蘭のおごりで、みんなで近くの中華料理食べに行ったんだ。あそこ、すごくおいしいね。風香と莉夢はもう帰って、美蘭も…ホテルに戻ったけど、僕は猫の餌お願いって言われたから、帰ってきた。あと、君にこれ、渡しておいてってさ。本当はこれが一番大事な任務だ」
そう言いながら、桜丸は袋の中身をテーブルに並べてゆく。ローストダックにセロリと烏賊の炒め物に揚げ春巻きに白いご飯。卵ととうもろこしのスープもあって、まだ十分に暖かかった。
「残り物じゃないから安心して。美蘭がちゃんと注文しておいたんだよ。きみが寝てるの、心配してたんだね。照れ屋だから口に出さないだけ」
桜丸は手放しで美蘭のことを誉めるけど、僕はそこまで単純じゃない。あれだけこき使われて、ギャラがこの程度じゃ全然割に合わないし。まあそれでも空腹なのは確かで、一気に平らげてひと息ついていると、桜丸はキッチンでコーヒーを淹れてきた。トレイには最近コンビニで品切れ続出という、プレミアムチョコプリンものっている。
「はい、こっちは僕からおみやげ。美蘭が日当を現金払いしてくれたから」
「ありがとう」と、僕は遠慮なくサファイヤブルーの高級ぶったカップを開けて、スプーンを突っ込んだ。なるほどチョコの味が濃くて、甘いだけじゃなくてちゃんと苦さもある。でもやっぱり桜丸のお母さんが飲ませてくれた、ホットチョコレートの方がおいしいかな、なんて偉そうなことを考えるうちに、カップは空になってしまった。
「亜蘭、もしかして朝から何も食べてない?」
そう尋ねる桜丸は、まだ半分ぐらいしかチョコプリンを食べていない。僕は自分の記憶を呼び戻し、「そんな気がする」と答えておいた。あんまり長いこと猫とつながっていると、記憶がごちゃまぜになって、朝ごはんがキャットフードだったように思える時があるのだ。
「いつもそんな感じ?ちゃんと食べなきゃ。それにまだソファで寝てるだろ?毛布置いてたから判ったよ。ずっと美蘭のこと待ってるんだろうけど、ベッドで寝ないと身体によくないよ」
「美蘭なんて待ってないよ。部屋に戻るのが面倒だからだ」
「まあ理由は何でもいいけどさ」と軽く肩をすくめて、桜丸はチョコプリンを食べ終え、コーヒーを飲んだ。気がつくと、食事をすませた猫達が彼の膝を独占しようと無言の争いをしている。彼はサンドより小柄なウツボを抱き上げると、「はい、亜蘭の担当」と差し出した。本音を言えば今日はもう猫なんか見たくもないんだけど、仕方ないから受け取っておく。
「それにしてもさ、この猫たち本当にすごかったんだよ。何を命令されてもちゃんときくんだ。縄跳びとか、撃たれて死んだふりとか。美蘭にきいても企業秘密って教えてくれないけど、どんな訓練したんだろう」
「さあね。でもそんなの撮影してどうするつもりかな」
「なんかさ、動画サイトにアップして広告収入がどうのこうのって。これから大急ぎで編集するらしいよ」
なるほど、それで儲け話ってわけか。まあ動物の出てくる動画は人気があるし、ルネさんって女が流してた莉夢の動画も、見てた奴はかなりいるみたいだし、使わない手はないと美蘭も思ったんだろう。
「さて、僕はそろそろ行かなきゃ」
桜丸は腕時計を見ると、テーブルの上を片付け始めた。
「今から青龍軒?」
「いや、人探し」と答えてから、彼はちょっと考えるような顔つきになって、「つきあってもらっていい?」と言った。僕はどうせ暇だし、昼寝も食事も十分にすませている。
「いいけど、誰を探すの?」という僕の問いに、彼は「お父様」と答えて、膝からサンドを下ろした。
15 仲直りしたらどう?
僕と桜丸はベンチに腰を下ろし、福島からのバスを待っていた。土曜の夜だし、街は賑わってるけど、この辺りはそうでもない。たまにバスが入ってきた時だけ、吐き出されてきた乗客がたむろして、しばらくするとまた静かになってしまう。
僕らが待っているのは、桜丸の父親、亮輔さんだ。ただし、バスに乗っているかどうかは判らない。
「知ってる人がね、お父さまは福島で働いてるらしいって教えてくれたんだ」
ここに来る前、桜丸はそう言った。
「何の仕事してるの?」
「たぶん、除染作業。何日か働いて、東京に戻って、また福島で何日か、なんて感じらしいよ。だからさ、都合のつく時は高速バスの降り場に行って、待ってみるんだ。亜蘭も一緒なら、もっと見つけやすいかもしれない」
頼りにされて、僕も悪い気はしない。でも、ここに来てから一本目のバスは空振りだった。そして次の最終便まではまだ一時間ほどある。さっき桜丸が自販機で買ってくれたカフェオレも飲み干してしまって、僕は何だかまたお腹が空いてきた。
「美蘭からだ」
ふいに、桜丸が嬉しそうな声を上げて、スマホを僕に見せた。「今日はお疲れさま。動画アップした」なんて書いてるけど、お疲れなのはこっちだ。そんな僕の気も知らずに、桜丸は「さすが美蘭は仕事が早いな。ほら見て」と、動画サイトにアクセスした。
なんせ金儲けが目的だから、動画はすぐに始まらなくて、まずは広告に連動する。そいつをスキップするとようやく、「猫少女ニャーニャ ボールあそび」というタイトルが出て、莉夢の扮するニャーニャがボールを投げ、それをサンドが前足で転がしながら運んでくるという動画が始まった。ご丁寧に音楽までついていて、けっこう短いけど、早くも「神猫さん!」「どうなってるの?」といったコメントがついていた。他にも「輪くぐり」「なわとび」というタイトルの動画が上がっていて、投稿者のハンドルネームは「猫舌」だ。
相変わらず最低のネーミングだと思いながら、僕は桜丸が次々にチェックする動画を眺めていた。自分が操ってる猫の動画なんて、判りきったものかと思ったら、案外退屈しない。すごく短いってこともあるけど、何よりも莉夢が魅力的なのだ。
まあ、普通に可愛い顔はしてたけど、目元のメイクが凝っているせいで、彼女本来の顔立ちというのは判らない。でも、声だとか、視線だとか、全身の動きだとか、全てにおいて人の目を惹きつける。もちろん、猫耳ウィッグや、フェイクファーをたっぷりとあしらった、尻尾つきのドレスの効果もあるだろうけど。
「すごいね。今日初めて撮影したのに、この子、ずっとテレビとかに出てるような雰囲気だ」と、桜丸は感心しきりだった。
「それにしても、美蘭もよくやるなあ。あの小道具ぜんぶ、彼女が僕のアパートに来てほとんど徹夜で作ったんだよ。あれからまだ寝ずに、編集すませたんだ」
「え、じゃあ美蘭は桜丸のとこに泊まったの?」
「うん」と答えてから、桜丸はようやく「泊まった」という言葉を意識したみたいで、「だからさ、僕もずっと手伝ってたんだ。輪くぐりの輪っかとか、魔法の杖とか、百均で買った小物をうまく組み合わせて作ったよ。あと、美蘭は衣装の毛皮と尻尾も縫い付けてたな。僕は途中で先に寝ちゃったけど」と説明した。
「ふうん」と受け流しながら、僕はあの狭いアパートで二人がせっせと内職に励んでいるところを想像してみた。無理。
「本当は、ボンドか何かで貼りつけたんじゃない?美蘭はそういう細かくて面倒くさい事、死ぬほど嫌いだよ」
「そうは言ってた。でもさ、嫌いだけど、できないわけじゃないんだ。むしろすごく器用だね」
「でも、やってるうちに怒りっぽくなってきただろ?針で突き刺してきたりしなかった?」
「するわけないよ。でもまあ、とにかく時間がかかるから、小さい時の事なんか話して、楽しかった。美蘭って色々とよく憶えてるんだ。特に亜蘭の事」
「どうせ僕の失敗とか、そんな話ばっかりだろ」
「違うよ。もっといい話。でもそれ以上は言えない。もし言ったら殺すってさ」
いたずらっぽく笑う桜丸を見ていると、やっぱり僕を馬鹿にするネタで盛り上がってたんだという確信が湧いてくる。僕が均衡を保とうとしていた三角形は、知らない間にかなり歪んでいたのだ。美蘭が桜丸に近づいたのは、江藤さんにふられたからに違いない。
「どうしたの?怒ってる?」
気がつくと、桜丸が心配そうな顔つきで覗き込んでいる。
「別に」と否定すると、彼は「美蘭のために言っておくけど、彼女はいつだって君のこと気にかけてるんだから」と付け加えた。
「判ってるよ。いつもそれで、最悪のタイミングを狙って攻撃してくるんだ」と、僕が率直な見解を述べると、彼は目を丸くして「亜蘭、少し日本語の勉強した方がいいかもね」とだけ言った。僕はもう、美蘭のことなんか思い出したくもなくて、話題を変える。
「ねえ、スマホに亮輔さんの写真とか、入ってる?」
「ああ、これには入れてないな。もしかして、お父さまの顔、よく憶えてない?」
「いや、もちろん憶えてるけど、何年も会ってないからさ」
確かに僕の記憶力は大したことないけど、それでも亮輔さんのことははっきりと思い出せる。濃い眉と力強い目元が印象的で、角張った顎のあたりが少し頑固そう。がっしりした体格で、よく僕のことを片腕で抱え上げては「子猫みたいに軽いなあ」と、太い声で笑った。桜丸は母親の百合奈さんに似た顔立ちだけど、体つきと声は亮輔さん譲りだ。
「知り合いの人は、すぐ判ったって言ってたけどね。大人って、子供ほどは変わらないのかな。君と美蘭なんか、見違えるほど大きくなったもんね」
「それは桜丸も同じだよ。でもさ、亮輔さんが東京と福島を往復してるって事は、東京に住んでるのかな」
「多分ね」と、桜丸は頷いた。
「でもね、お父さまって一時期、ホームレスみたいな生活してたらしいよ。だから、今もそんなにお金は持ってないかもしれない」
「じゃあ、友達のとこに居候とかしてるのかな」と言いながら僕は、女の人かもしれない、なんて考えていた。
「もし亮輔さんに会えたら、一緒に住むつもり?」
「もちろん。今のとこじゃ狭いけど、二人で家賃を出しあったら、もう少し広い部屋に移れるんじゃないかな」
「そうなったら亮輔さんも、東京で働くかな」
「どうだろう。お父さまにも考えがあって、除染作業してるのかもしれないし」
桜丸はそこで言葉を切り、暗い地面を見ていたけれど、ふいに顔を上げて、「君たち、いつまで喧嘩してるつもり?」と言った。
「え?君たち、って、僕と美蘭のこと?」
「そうだよ。いいかげん仲直りしたらどう?別々に住んでるなんておかしいよ」
「だって互いに嫌いだからしょうがないだろ。心底うんざりしてたから、今は本当にすっきりしてるし、美蘭にはもう帰ってきてほしくない」
「よく言うよ。家族なんだから一緒に住むの、当然じゃないか。外から帰ってきて、ただいまって言って、今日は何してたとか、ちょっと話するだけでも楽しいだろ?」
「楽しくないよ、そんなの。桜丸は家族と離れてるから、勝手にいい事を想像してるだけさ。家族なんて、本当はすごく鬱陶しいから」
僕がそう否定すると、桜丸の目元に翳りが浮かんだ。でもそれはほんの一瞬のことで、彼は笑みを浮かべ、「そうなのかな」と呟いた。その時になって僕はようやく、何かひどい事を言ったような気がしてきた。もし美蘭がそばにいたら、「次から検閲したげるから、何か言う前に紙に書いて」とか言いそうな感じ。
僕は自分の失敗を検証しようとしたけれど、ちょうど福島からの最終便が入ってきて、話はそこで途切れてしまった。そして更に残念なことに、乗客の中に亮輔さんの姿はなかった。
結局、その夜は何となく桜丸のアパートに泊まって、日曜の昼過ぎにマンションへ戻った。なぜか玄関の鍵が開いていて、僕はどうやら施錠せずに出かけていたらしい。美蘭がいたら嫌味を言われそうなところで、やっぱり彼女がいないのは有難い。そう思いながら中に入ると、見覚えのない靴が三足も脱いであった。これは、美蘭がまた何か企てているのかもしれない。警戒しながらリビングに進むと、知らない人がいた。
スーツを着た三十前後の男。ジャケットにセーター姿の、白髪混じりのおじさん。薄手のニットの上にストールを羽織り、年の割に攻撃的なタイトスカートのマダム。この二人は夫婦みたいだ。スーツの男は僕が戻ったのに気づいていたらしく、目が合うといきなり「お邪魔してます。夜久野さんですね?」と話しかけてきた。
「あ、はい」と、僕は慣れない呼び名に更に当惑する。
「保証人様から、お話を聞いておられませんか?」
「いや、何も」
僕の答えに男は少し驚いた顔になり、それから名刺を取り出すと「三栄エステートの馬上と申します」と自己紹介してきた。
「このお部屋は先週から退去可能物件に登録されていますので、ご紹介を始めているんですが、こちらのお客様からご覧になりたいとうご要望がありましたのでお連れしたんです。保証人様からは、いつでも見学してよいとの許可をいただいていますから」
保証人様、というのは玄蘭さんの事だ。たしかにこのマンションはそろそろ貸しに出すって話だったけど、こうもいきなりだとは思ってなかった。僕は「わかりました。どうぞご自由に」とだけ言うと、隅の方に移動した。
ふと外に目を向けると、ベランダの手摺に鴉がとまってこちらを見ている。僕は急いで外に出て、「ちょっとひどいんじゃない?」と言った。鴉は少し首を伸ばし、「何を勘違いしてるんだい」とはねつける。
「あんたがそこに住んでるのは、事故物件をリセットするためだよ。そうでもなけりゃ豚小屋で十分なんだからね」
「でも、一言ぐらい言ってくれてもいいじゃないか」
「前からずっと言ってるだろう、借り手がついたらすぐに出ろって。せいぜい愛想よく尻尾を振るんだね。まあ、猫には難しいだろうが、美蘭がいないんじゃ仕方ない」
鴉の奴、嘴を大きく開き、真っ赤な舌を見せびらかす。
「ここ出たら、次はどこに住むの?」
「心配しなくても、事故物件なら山ほどある。さしあたっては、強欲親父が愛人に頭を割られて死んだ、ワンルームマンションかねえ」
「あんまり狭いと美蘭が怒るよ」
「二人で住めとは言ってない。それはそうと、お客様を放っておいていいのかい?」
振り返ると、マダムが不思議そうな顔で僕を見学している。鴉と会話する、ちょっと危ない人。僕はすぐ中に入り、後ろ手に窓を閉めた。
「滅多に鳥やなんか飛んでこないから、珍しくて」と言い訳すると、彼女は穏やかな微笑みを浮かべた。
「ご両親とは離れて住んでらっしゃるの?」
「はい。両親は仕事の都合で外国にいます。二人とも南極圏に生える苔の研究をしてるんですけど、向こうはこれから夏だから、ずっと調査旅行で」と、これは美蘭がいつも使う台詞。季節が春先の場合は、北極圏の話になる。マダムは「それは大変なお仕事をしてらっしゃるのね」と頷き、あらためてリビングを見回して「日当たりも眺めも素晴らしいわ」と言った。
不動産屋の馬上さんは「ここはバスルームからの眺めも最高なんです」と、マダムを促し、美蘭お気に入りの場所を見に行った。
その頃になってようやく、僕は猫の事を思い出した。しかし探し回るまでもなく、サンドもウツボもキャリーケースの中に身を潜めているのが見える。そういえば外泊したので、水は置いてあったけど餌がまだだった。
これだから生き物って面倒だ、と思いながらキッチンに行き、キャットフードの袋を開けていると、その音でもう猫たちが駆け寄ってくる。これが駒野さんの家なら、獲物を捜しに出かけるという手段もあるだろうけど、マンションの二十七階だとそうもいかない。なんせ猫はエレベータの使い方を知らないから。ちょっと気の毒な事したな、と思いながら、僕は乾いた音をたてて食事をする二匹を眺めていた。
あのお客たち、あとどれくらいで帰ってくれるだろう。バスルームを見たら、あとは寝室か。ウォークインクローゼットのある、一番広い部屋を美蘭が占領していて、次に広いのが僕の部屋で、もう一部屋は緩衝地帯の空室。そこまで考えて、僕ははっとした。
美蘭の部屋。
あそこには侵入者、つまり僕を迎え撃つためのトラップが仕掛けられている筈だ。或いはタランチュラかサソリといった毒虫。鍵はかかってるけど、馬上さんは合鍵を持ってるだろうし。ここで何かトラブルが発生したら、玄蘭さんがブチ切れるに違いない。
僕は慌ててキッチンを出ると美蘭の部屋へ向かった。
待って!と声をかける前に、馬上さんはドアを開けていて、彼は怪訝そうな顔で僕を振り返った。来客ふたりはもう部屋の中だ。
「そこは」危ない、と言おうとした僕の目に入ったのは、がらんとした空間だった。何もない、わけではなくて、ベッドもあれば本棚も、デスクもある。でも美蘭の私物一切が消えていた。
切羽詰った僕の存在を気にも留めず、おじさんは窓を開けて「富士山は見えないかな」と首を伸ばしていた。マダムはウォークインクローゼットに姿を消し、「まあ、ここはバスルームとつながっているのね」なんて弾んだ声が聞こえてくる。そこで僕はようやく、のんびりしている場合じゃないと我に返った。
急いで自分の部屋へ入ると、ベッドの毛布は渦を巻き、床には脱いだ服がインスタレーションよろしく点在し、雑誌だとか本だとか、いつ使ったのか憶えてないマグカップやペットボトルもある。机の上にも種々雑多なものがひしめき合い、作品としてタイトルをつけるなら「混沌」だった。
しかし、と、少し冷静さを取り戻して僕は考える。今からこの惨状をどうにかするのは無理だ。それに、彼らにどう思われようと、痛くも痒くもないし。僕はそのまま部屋を出ると、リビングのソファに腰を下ろして、嵐が過ぎるのを待つことにした。
「まあ本当に申し分ないお部屋だわ」
僕の部屋も見た上で、マダムは機嫌よくビングに戻ってきた。おじさんはただ穏やかな表情で頷いているだけだ。馬上さんは「率直に申しまして、この立地と間取りでかなり抑えたお家賃になっていますので、他にもお問い合わせは受けております」と、追い込みに入っている。マダムの気持ちはもう決まってるらしくて、彼女は有無を言わせない感じで話しかけてきた。
「あなた、お引越しはいつまでにできるかしら?ここに住むのはうちの息子なの。イタリアで美術史を研究しているんだけれど、お世話になった先生から学芸員のポストに空きが出たってお誘いいただいて、戻ることになったのよ。お嫁ちゃんのお腹にベビーがいてね、安定期のうちに帰国させたいし、そうなったらすぐここに住ませてあげたいじゃない?さっきのあの、クローゼットのある大きなお部屋なら、お嫁ちゃんも喜んでくれるわ」
「はい、引っ越しはいつでも」
お金さえ積んでもらえれば、今すぐでも大丈夫です、と続きを呑み込んで、僕は精一杯の笑顔を浮かべた。マダムは「ああ、それは助かるわ!本当にありがとう!」と声をあげ、馬上さんはすぐさま「では、事務所の方で手続きを」と号令をかけて、一行は慌ただしく去っていった。
気がつくと、膝の上にウツボがのっている。足元にはサンドの気配。ウツボは声を出さずにニャアと鳴き、どうやらきれいな水が欲しいらしい。ボウルに汲んでやると、二匹は涼しげな音をたてて飲み始める。僕はそれを聞きながら、さっき目にした美蘭の部屋について考えていた。
いつの間に荷物を運び出したんだろう。
僕が最後にあの部屋を見たのは、夏だった。友達を泊めるからってマンション全部を大掃除させられて、あちこちに転がっていた雑多なものの大半は僕の部屋に押し込み、美蘭の私物と判定したものは彼女の部屋に放り込んだのだ。あの時は特例で鍵も開いてたけど、読み終わった本が所狭しと積み上げられて、ジャングル状態だったのに。
水を飲み終えたウツボが足元に戻ってきて、僕は彼女を抱き上げた。こんな風にわけが判らない時は猫といるしかない。少なくとも僕はこれまでの人生を、そうやってやり過ごしてきたのだ。
16 僕の美蘭
美蘭が帰ってきた。
どうしていつもこう唐突なんだろう。僕は寝そべっていたバスタブから身を起こし、耳を澄まして様子を伺う。何やら大きな荷物を幾つか放り出す音が響いて、それから束の間の静けさがあって、いきなり洗面所のドアが開く。まずい。半殺しで追い出される。美蘭は自分が入りたい時にバスルームを占拠されると怒り狂うのだ。しかしもちろん逃げ場はなく、僕は立ち込める湯気の中に固まって、耳慣れた足音が近づくのを聞いていた。
ドアが開いた、と思った瞬間、僕はソファの上に寝転がっていた。
あたりは暗く、足元にいたサンドが長く鳴いて床に跳び下りる。少しずつ現実が僕の周りに戻り、不意の来客が帰ってから昼寝していた事を思い出す。しかしお風呂の夢だなんて縁起でもない。まさかと思ったけれど、幸い子供の頃みたいな不運には見舞われていなかった。
目が覚めた理由は電話だった。ジーンズのポケットに入れていたスマホを取り出して確かめると、江藤さんからだ。連絡はたいがいメールなのにどうしたんだろう。かけ直してみると彼はすぐに出た。
「寝てたの?」
「まあ、そんなとこです」
彼は僕の生態を把握しているから、どんな時間帯に寝ていても全く驚かないし、起こして申し訳ないという言葉もない。
「ねえ、今日これから夕食どう?」
「夕食、ですか」
一体何時だろうとスマホの画面を確かめると、五時過ぎだ。断る理由もないけど、どうして誘うんだろうと考えていると、彼は「今日はうちの奥さん留守なんだ。一人で食事も味気ないなと思って」と続けた。
家に招かれて手ぶらで行く奴は敵を増やす覚悟をしろ、というのが美蘭の持論で、平穏な生活を続けたい僕は、美蘭がよく行く店で四角い白かびチーズを買った。江藤さんはワイン好きだから、チーズも食べるだろうという考えで、当たってるかどうかは知らない。
半時間ほど車を走らせて近くのコインパーキングに停め、緩い坂になった細い道を抜けて江藤さんの家を目指す。猫探偵の仕事で一度行ったきりだけど、ややこしい場所じゃないから迷いもしない。少し歩けば広い通りに出るのに、この辺りは静かで、犬を散歩させる人とたまにすれ違うぐらいだ。
インターホンを押すとすぐに返事があって、玄関の明かりが灯る。ドアを開けて迎えてくれた江藤さんはTシャツにジーンズという格好で、オンの時のスーツ姿より若く見える。
「急に呼び出してすまなかったね」
「僕はだいたい暇にしてる」
「それを聞いて安心した。特に好き嫌いがないと記憶してるから、食事は僕の好みで用意したよ」
中に通されると、テーブルには白菜に春菊に椎茸と、すっかり鍋の準備が整っている。江藤さんは卓上コンロに火をつけながら「まあ特別なものって何もないけどね。強いて言えば鳥のつくねが、長年の研究成果かな」と言った。
「研究成果って?」
「まず鳥のひき肉。今日はもも肉だ。それから刻んだ葱とおなじく刻んだ柚子の塩漬け、すりごまをたっぷり入れて、おろした蓮根と生姜も忘れずに。そして十分に混ぜて馴染ませること。これが一人暮らし時代に完成させたレシピだ」
「確かにおいしそうかな」
「だろ?僕は寒くなるとむしょうにこいつが食べたくなる。しかし問題は、うちの奥さんが鍋嫌いって事だ」
「鍋?鍋料理全般っていう意味?」
「そう。結婚してから判ったんだけどさ、彼女は鍋料理を衛生的だと思っていない。要するに、人が直接口をつけた箸でかき回した料理は気持ち悪いと」
「でも、熱湯消毒みたいになって、大丈夫じゃないかな」
「理屈ではね。でも感覚として気持ち悪いそうだ。ただ、奥さんの名誉のために付け加えておくと、食べようと思えば食べられるし、会食の席では絶対に嫌そうな態度はとらない。しかし本心では耐えがたく感じている」
「相手が江藤さんでも?」
「まあそういう事。夫婦でもそれは別問題らしい。だから僕は彼女がいないと鍋をつくる。寒い季節はね。でも一人じゃ味気ないから、誰か誘ったりする」
そう言いながら、江藤さんはアボカドと豆のサラダを冷蔵庫から出してきた。
「煮えるまで、これでも食べてて。飲み物はルイボスティーと烏龍茶の二択だけど、どうする?」
「じゃあ烏龍茶を」と答えて、サラダをしばらく食べたところでようやく、僕は自分がチーズを買ってきたことを思い出した。鍋とは全然合わないけど、江藤さんは喜んでくれた。
「君って年の割に、ちゃんと気遣いができるね。やっぱり博倫館の教育はあなどれないな」
「さあ。僕は小学校で習ったことはほとんど忘れたけど」
確かに、ずっと母親のところにいた場合を考えれば、あの学校で延べ九年の寮生活を送ったことは色々と役立ってるに違いない。ドアは開けっ放しにするな、人の通り道を遮るな、スプーンをくわえたままうろつくな、等々。
「意識してなくても、身についてるのが教育の成果だ。さあ、そろそろ煮えてきた」
それからしばらく、僕らは鍋を食べながら、とりとめもない話をした。江藤さんが出張で行った福岡のイベントだとか、事務所で一番売れてる大城くんの写真集ロケだとか、事務所の下の階で起きた暴力沙汰だとか。本当のところ江藤さんは誰が相手でもよくて、ただ自分の考えを整理するためにしゃべってるみたいだったので、僕は時々相槌をうつ以外は、食べることに集中できた。なのに江藤さんは「君って聞き上手だよね」と、勘違いした事を言うのだった。
たしかに鳥のつくねは絶品で、最後には雑炊まで作って、鍋はきれいになくなってしまった。江藤さんは「残り物が出ないって気分いいよ」と、手際よくテーブルを片付け、部屋のドアを開ける。食事の間は閉めだされていた飼い猫マカロンが二階から降りてきて、僕を見ると大あくびをしてから近づいてきた。
前に会った時は家出の後だったから痩せて薄汚れていたけれど、今日はベージュに茶色い縞模様の毛並みが光ってる。こいつは美蘭に咥えてぶら下げられたけれど、僕のことは警戒してないらしく、平気で膝の上に乗ってくる。
「マカロン、亜蘭の事憶えてるかい?」と声をかけて、江藤さんはコーヒーを出してくれた。マカロンは返事の代わりにニャアと鳴く。
「チョコレートケーキ食べる?奥さんの友達が焼いた奴だけど」
「奥さんいないのに、食べていいの?」
少なくとも、美蘭の友達が焼いたケーキを黙って食べた場合、ばれた瞬間に飛び蹴りとか食らって、罵倒と説教の豪華二点セットがついてくる。
「心配無用。うちの奥さん、手作りの料理やお菓子は食べられないんだ。まあ、鍋と似た理由かな。プロじゃない他人が作ったものは、なんだか気持ち悪いんだってさ。もちろん心遣いはありがたいから、受け取りはするんだ。とはいえ、このケーキはそこらの手作りとわけが違う。入学予約半年待ちっていう、一流ホテルの料理教室で焼いたんだから。素材もスイスチョコをどっさり使ってるらしいよ」
分厚く切られたチョコレートケーキを盛った皿は、見た目よりもずっしりと重かった。さっそく一切れ食べてみると、半分以上がチョコレートでできているという感じ。しかもカカオの苦みが濃くて、大人向けの甘さだ。
「これと同じレシピで焼いたのをショップで売ってるんだけど、冗談かってほど高いよ」
自分も分厚く切ったのを食べながら、江藤さんは呆れたように笑った。
「すごくおいしいね。これが気持ち悪くて食べられないなら、奥さんはかなり損してると思うな」
「まあね。でも本人は、食べたければお金を払ってショップのを買うからいいんだ。そういう感覚の違いってのはもう、どうしようもないからね」
まるで自分に言い聞かせるみたいに、江藤さんはそう言って立ち上がると、タブレットを手にして戻ってきた。
「ねえ、ちょっと面白いもの見せてあげるよ。うちの奥さんが教えてくれたんだ」
そして僕に向けておかれたタブレットの画面には「猫少女ニャーニャ 縄跳び」の動画が再生されていた。莉夢が扮するニャーニャと一緒に、サビ猫ウツボがせっせと縄跳びをしている。いつの間にか再生回数が桁違いに増えていて、コメントも山のようについているけれど、誰が拡散させたんだろう。
「この他にもカードを使って足し算引き算とか、撃たれて死んだふりとか、色々あるんだよ。しかも、芸をする猫は一匹じゃなくて、二匹もいるんだ」
「へーえ、すごいね」と、僕はできるかぎりの気持ちをこめて、自分の芸に感心してみせた。
「しかし不思議な事に、うちの奥さんが、二匹の猫は駒野さんちの飼い猫だって言うんだよ」
「え?駒野さんの?まさか」
「ほら、こっちの」と江藤さんは「猫少女ニャーニャ サッカー」を再生する。
「これはサンドって猫らしい。迷子になって君に見つけてもらった子だ。そしてさっきの縄跳びしてたのはウツボ」
「でも、こんな猫あちこちにいっぱいいるけど」
「僕もそう言ったんだけど、奥さんに言わせると、ウツボは間違いないって。ほら、この背中のところ。尻尾に向かってダイヤとハートとスペードがつながったような黒い模様があるだろ?」と、江藤さんは画面を一時停止させた。
「これがウツボの特徴らしいよ。駒野さんも最初はトランプって呼んでたけど、ご主人がウツボって呼ぶからそっちになったって」
「本当に?」と、僕は画面を覗き込んで固まっていた。これはよくない事のような気がする。とりあえず何か言って話題を変えようと思ったその時、江藤さんが後ろから僕の肩越しに腕を回してきた。
「更に不思議な事に、今は駒野さんちに猫は一匹もいない。スズメバチが屋根裏に巣を作ってたらしくて、業者に処理してもらうまで、人間も猫も避難してるんだってさ。そしてサンドとウツボは、夜久野美蘭さんが預かってくれたらしい」
「そうなんだ」と言って、僕は少しだけ気を緩めた。
「じゃあもしかしたら、美蘭が何か知ってるかも」
「そう思ってきいてみたら、彼女はいま家出してるらしい。猫は弟の夜久野亜蘭さんが世話してると教えてくれた。さて、それは本当なのかな?」
江藤さんはまるで面白がってるようにゆっくりと言葉を続け、腕に力を加えてくる。僕がどうかしてるのは、こういう事をされると相手が男でも何だか変な気分になってくるところだ。チョコレートの甘い香りがする「亜蘭?」という呼びかけが、僕のいちばん得意な、もうどうでもいいか、という考えを揺り起こす。
「我ながら不思議なんだけど、美蘭が振り向いてくれないなら、代わりに君のこと、どうにかしようかとさえ思うね」
その一言で、僕は少しだけ冷静になった。
「江藤さん、美蘭のこと、本気で好きなの?」
「そうだよ」
「じゃあどうしてあの日、美蘭のこと帰らせたの?あの、彼女が青龍軒にいるって僕が教えた日」
「知りたい?」と返事があって、ようやく江藤さんは腕を緩めて身体を離した。そして僕の隣に腰掛けると、「あの日、彼女は君が教えてくれた通りの場所にいたよ。風香って友達と一緒にね。幼馴染だって男の子も店で働いてた」と言った。
「僕もそこでラーメンを食べたよ。なかなかの味だね。で、店も混んできたから、僕は美蘭と友達を車で送った。寄り道を提案したけど、友達は早く帰りたがったので、先に彼女を送って、それから美蘭は助手席に移ってくれた。
もちろん僕は美蘭をそのまま君の待つ家に送り返すつもりはなかった。ラーメンの後だから、何かすっきりしたものが欲しいねと誘って、フルーツパーラーに寄った。僕はブラッディオレンジのジュースを飲んで、美蘭はレモンのジェラートだ。
その後、もう少しドライブしようと提案して、横浜に向かうことにした。中学まで神奈川にいた美蘭に敬意を表して、ってとこかな。でも、本当に二人きりになると、彼女は無口になってしまった。話しかければ答えはするけど、会話が続かない。予想はしてたんだけどね。
彼女がいつも人に見せている顔は、意識して作ってるものだ。でもその更に向こう側に本当の彼女がいるわけで、僕はそれを確かめたい。しかし、かなり長いこと一方通行に近い会話を続けてから、もうこれ以上、言葉だけじゃ無理だと判断して、僕は海の近くに車を停めた。
目の前には夜景が広がっていて、女の子を落とすには絶好の設定。僕は別に内気な高校生じゃないし、美蘭もそういうのは嫌いだろうから、変な回り道なんかしない。単刀直入に、初めて会った時からずっと好きだよ、と伝えて手を握る。抵抗なし。そこでもう一段階進んでフレンチキスをする。これも抵抗なし。それでは遠慮なく大人のキスをする。彼女はかなり慣れた感じでそれに応えてくれて、僕は自分より先に彼女とつき合った幸運な男に嫉妬しながら、本当の大人ってのはそんなもんじゃない事を彼女に教える。そこでようやく、軽く抵抗が入る。
僕は余裕を見せて手加減すると、ごめんね、大丈夫?と尋ねる。彼女は目を伏せて小さく頷き、そこでいったんブレイク。僕は俯きかけた彼女の顎に手をそえ、君は本当に美しいねと語りかけて、少し乱れた髪を直してやる。君の美しさは生き物の美しさだ。何もしなくても、そこにいるだけで完璧だ。でも僕は欲張りだから、君にもっと近づきたくて、どうしようもなくなる。
呪文のように思いのたけを打ち明けて、彼女のスカートの下に少しだけ指を忍び込ませ、ね?いいだろ?なんてお願いする。この状態で、いいわよ、どうぞ、なんて返事する女の子はまずいないから、僕は沈黙こそ彼女の同意だと了解して車を出すタイミングを計る。頭の中じゃ、この近くで一番いい感じのホテルはどこだっけ、あそこなら少し高いけど部屋はあるだろうな、なんてことも考えなきゃいけないし、それでも上の空にならないように、彼女に触れ続けなきゃいけない。君も判ると思うけど、男ってのはなかなか大変だ。
でもやっぱり美蘭は明らかに緊張していて、だんだんと指が冷たくなっていくのが判った。寒いかな、エアコンもっと強くしようか、なんて話しかけてみたけど、唇に血の気がない。目の焦点もなんだか怪しい感じで、どうやら彼女は貧血を起こしたらしい。
僕は全ての作戦を中止して、上着を脱いで彼女にかけるとエアコンを調節した。ごめん、強引すぎて驚かせたね、なんて謝りながら。しばらくすると彼女の頬に赤みが戻ってきて、僕はほっとしながら、もう帰ろうか、と声をかける。美蘭はかすれた声で大丈夫、と言ったけど、僕は、続きはまた今度、と軽く彼女の髪を撫でてから車を出した。
少し走ったところで、僕はコンビニの前に車を停めた。飲み物買ってくるけど何がいい?ときいたら、ホットチョコレート、なんてしゃれたものをご所望だった。残念ながらそこにはココアしか置いてなくて、まあこれで許してもらうかと車に戻ってみたら、助手席には僕の上着だけが残されていて、美蘭の姿は消えていた。
これがあの夜起きたことの全て、僕の無様な失敗談というわけだ。あれから美蘭を何度か食事に誘ったりしたけど、適当にはぐらかされて、お茶ぐらいしかつきあってもらえない。まだ希望はあると思いたいんだけどね」
「嘘だ。それは本当じゃない」
僕は江藤さんがどうしてそんな作り話をするのか、理由がわからなかった。
「僕の美蘭は誰ともつきあったことなんかないし、誰にも指一本触れさせたりしない」
「いや、僕は嘘なんて話してないよ」
「違う。美蘭は自分の目を刺した時だって、全然ためらわなかったんだ。男に迫られたぐらいで貧血を起こすなんて、そんな臆病じゃない」
江藤さんは美蘭の事なんか全然わかってないし、何かすごく勘違いしている。それとも、僕のこと思い切り馬鹿にしていて、面白がるためにこんな話をするんだろうか。
「亜蘭、ねえ亜蘭」
今更ながら言い訳でもしたくなったのか、江藤さんは僕の肩に手をおいて強く揺さぶった。
「亜蘭、聞こえてる?」
僕は「ちゃんと聞こえてるよ」と答えた。
「よかった。何かちょっと、どうなったのかと…」
そう言う江藤さんの表情は少しこわばっていて、僕は膝のあたりに妙な感じがしたので目を落とした。何故だかそこはコーヒーで濡れている。いや、それだけじゃない。テーブルにのっていた食器はすべてひっく返り、食べかけのチョコレートケーキは床で砕けている。
「え?これ、江藤さんがやったの?」
「いや、そうじゃなくて、マカロンが…」
「マカロン?」
言われて見回すと、マカロンが出窓の上で全身の毛を逆立て、尻尾をこれでもかと膨らませて唸っている。
「いきなり暴れだして、すごい勢いでテーブルをひっかき回したんだ。その、何ていうか、見当違いな話かもしれないけど、君と無関係じゃないような気がして」
江藤さんは少し間をおいて、息を整えてから話を続けた。
「亜蘭、僕の話で気分を害したなら謝るよ。君の美蘭を否定しようとか、そんなつもりじゃなくて、ただ僕の失敗談を白状しただけで」
「僕の美蘭?彼女は別に、僕のものじゃない」
「でも、君はさっきそう言ったよ」
「言ってない」
「でも」と江藤さんが言いかけると、マカロンが低い声で唸った。江藤さんは一瞬びくっとして言葉を呑み込み、それからゆっくりと僕の背に腕をまわし、悪酔いしてる人の介抱でもするみたいにさすった。
「もうこの話はやめよう。僕が間違ってた」
僕は何故だか言葉が出なくて、背中にふれる江藤さんの掌の暖かさをただ追いかけていた。ぼんやりと見上げた先ではマカロンがこちらの様子をうかがっているけれど、逆立っていた毛並みは少しずつ落ち着いて、尻尾も徐々に細くなった。それからマカロンはゆっくりと座ると、首をよじって毛づくろいを始めた。
17 本当にヤワだねえ
美蘭が振り向いた。
「五分遅刻」
僕は言い訳せずにテーブルの傍に立つ。美蘭の向かいにはスーツにひっつめ髪の女の人が座ってる。年は三十代だろうか。そして美蘭の隣にいるのは宗市さんだ。これまたスーツなんか着て、堅気の営業マンみたいな感じ。
「こちらが、弟さん?」と女の人は僕に向かって会釈した。僕はとりあえず「遅れてすみません」と謝り、彼女が「大丈夫です、おかけになって」と笑顔で答えるのを待ってその隣に腰を下ろした。
全く、いきなり一時間後にホテルのカフェテラスに集合とか言われたって、こっちにも都合がある。といっても、授業聞かずに寝てたんだけど。おかげで僕は制服のままで、朝からサボってた美蘭は白いニットにモスグリーンのフレアスカートという、作為ありありの慎ましい格好だ。僕はメールで送られてきた、このミーティングについての詳細を頭の中に呼び出してみる。
スーツ姿の女の人は木原さんといって、ペット関係が専門の出版社コンパニマルの編集者だ。ここは「わんころび」「ねこたいむ」という月刊誌の他に、ハムスターやインコといった小動物の飼い方ハンドブック、写真集、カレンダー等も出している。彼女は最近突然アップされ、記録的なアクセス数増加を続けている「猫少女ニャーニャ」の動画に興味を示し、DVDを出さないか、という話でハンドルネーム「猫舌」に連絡してきた。
美蘭が木原さんに話した「設定」では、「猫舌」はさる高貴な一族の子女で、妹のあまりの愛らしさに、出来心で動画をアップしてしまったが、下々の者と直接やりとりできるような立場ではない。しかし木原さんからの誠意あふれるアプローチに心を動かされ、ご学友である夜久野美蘭さんに、自分の代理人として話を進めてほしいと全てを委任している。なお、支払われるギャラは全額を野生動物の保護基金に寄付するつもりとの事。
ご学友の美蘭さんと同席するのは、彼女の叔父にあたる氷水宗市。彼は「偶然にも」芸能関係の仕事をしているので、猫少女ニャーニャのマネジメントを請け負うことを承諾した。そしてもう一人は美蘭の弟である亜蘭。彼が面白半分で、猫に芸を仕込んだ人物である。
まあ要するに宗市さんは「大人要員」で、まだ学生の美蘭の代わりに事務仕事を引き受けているわけだ。彼の所属する芸能事務所なんてのは、玄蘭さんが山ほど作ってるペーパーカンパニーの一つで、美蘭がとってくる胡散臭い仕事は何でも、こんな感じで対応できるようになっている。
「うちとしましては、各三十分、三巻ぐらいのシリーズにして、それぞれに付録もつけることを考えています。独自に調査したところでは、ニャーニャちゃんの動画は一般の猫好きの方以外では、特に低学年の女子からの人気が高いので、この年齢層向けの文具雑貨、ステッカーやなんかですが、これを候補にしています。ただ、少し申し上げにくいんですが、一緒に遊んでいる猫ちゃんがですね、サビ猫ちゃんの方なんですが、絵的に、何と言いますか」
はじめは勢いよかった木原さんだけど、サビ猫ウツボの話になった途端にトーンダウンしてしまう。美蘭が営業スマイルで「それは私も思っていました。あの子は少し、地味すぎますよね」と後を続けると、彼女は困ったように言い訳をした。
「いえ、うちの読者の方はもちろん、サビ猫ちゃんの良さは十分にご存知なんですよ。私も一匹飼ってますけど、本当に頭がよくて気立てのいい子です。ただ、やはり子供向けにアピールする商品となりますと、もう少しはっきりした毛色の、できれば血統書のある品種の子が望ましいんです。それで、メールでお願いしたような事が可能かどうか」
僕は運ばれてきたハムとアボカドのサンドイッチを食べながら、木原さんの話を聞いていた。僕以外の三人はコーヒーしか飲んでなくて、美蘭が明らかに「空気読め」という目つきで睨んでるんだけど、昼を食べてないんだから仕方ない。でももしかして、と思った僕は美蘭に「ひと切れ食べる?」と聞いてみたけれど、あからさまに無視されたので、読むべき空気はそっちじゃなかったみたいだ。
「そこは問題ありません。うちの弟はご覧の通り社会性の欠片もありませんが、猫の調教については天才ですから」
「そうなんですか」と、ほっとしたような笑顔を浮かべて、木原さんはこっちを見ている。
「ただ、猫ちゃんによって憶えの早い遅いがありますので、お伝えしたように、何匹かの候補から選ばせていただきたいんです」
「それなんですが、うちのカレンダーのモデルになってくれた子がいいんじゃないかと思いまして。こちらなんですけど」と言いながら、木原さんはテーブルに置いていたファイルから週刊誌ほどの大きさのカレンダーを取り出した。
「うちの雑誌、ねこたいむの新年号に付録として毎年つくんですけど、これは来年分のサンプルです。一月から三月、六月と九月、これだけの猫ちゃんが同じ飼い主さんのところにいるんですけど、話をしてみましたら、是非にという事で。よろしければ今から、ご自宅の方へご一緒していただけないでしょうか」
美蘭はテーブルに広げられたカレンダーを覗き込みながら、「ええ、もちろんそうさせていただきます。どの子もすごく可愛いですね」と盛り上がっている。本当はここですぐに出発なんだろうけど、僕はまだサンドイッチを食べ終わっていなかった。一瞬、美蘭の冷たい視線が僕を刺し、木原さんは「ゆっくり召し上がってね」とフォローしてくれた。
木原さんが僕らを連れて訪れたのは、東京湾に面した高層マンションの一室だった。間取りは多分3LDKで、だだっ広いリビングにキャットタワーがオブジェみたいな感じに設置され、猫たちが思い思いにくつろいでいる。その片隅にラグを敷いてクッションを置いたコーナーがあり、そこが人間の居場所らしかった。
この部屋の主はナツメさんという。「ナツメ」が名前なのか名字なのかよく判らないし、若いのかそれなりの年なのかもよく判らない、痩せて小柄な女の人だ。背中まである髪を無造作に束ね、化粧っ気のない顔に太い眉が印象的。カットソーのワンピース姿できびきびと歩き回って、ラグの上に身を寄せ合っている僕らのために紅茶を淹れ、焼き菓子と一緒にトレーに載せて運んできてくれた。
「猫と暮らしてると、余分なものは全部しまっちゃう生活になるわね」
彼女は少しハスキーな声でそう言うと、ポットから紅茶をカップに注いでゆく。美蘭は「遊牧民みたいでいいですね」と言い、彼女を手伝ってカップを移動させた。僕もこういう暮らしは嫌いじゃないなと思いながら、抱えた膝の上に顎をのせていると、早くも丸顔のアメリカンショートヘアが挨拶に来た。
「その子はロビンちゃん。カレンダーの六月に写ってる子です」と木原さんが説明する。僕はとりあえずその猫を抱き上げてみる。まだ若い雄で、好奇心旺盛だし、まあ有力候補。それから紅茶を飲んで、ナツメさんの出してくれたマドレーヌでも食べようかと手を伸ばしたところで、美蘭が「さっさと済ませな」と囁いた。
僕はしぶしぶ立ち上がると、キャットタワーに近づく。猫たちは来客には慣れているらしくて、僕のことなんかどこ吹く風といった感じで寛いでいる。ペルシャやスコティッシュフォールドといった外来種ばかり十匹近くいるけれど、かなり年とってるのと、明らかに体重オーバーなのを除くと、候補は四匹。まず一番近くで尻尾をぱたぱたさせているラグドール。僕は正直あんまり長毛種と相性がよくなくて、まあこれは国民性みたいなものではないかと思う。背中を撫でてみたけれど、こいつはのんびりした性格で、あまり動き回るのが好きじゃない。
「これはジュリアちゃん。女の子です」
気がつくと、木原さんがすぐ傍まで来ている。僕は一応笑顔らしきものを浮かべてうなずくと、次に頭上でこちらを見下ろしているアビシニアンに手を伸ばした。ちょっと臆病だけど、遊び好きで活発な雄。ここにいる猫の中ではいちばん小柄で、身軽そうだ。
「ロブ君は、うちの子と兄弟なんです。パパがコンテストで入賞しているから、まあ折り紙つきのハンサム猫さんね」
どうやら木原さんのイチ押しはこの猫らしい。確かに悪くないな、と思いながら、僕はもう一度頭を撫で、足元にすり寄ってきたロシアンブルーの方に屈み込んだ。
「これはソフィアちゃん。この子のママは漫画家の夜空燐さんちの猫なんですよ」
「そうなんですか」と言ってみたけど、僕はその漫画家を知らなかった。猫は名前の通り雌で、ちょっと控えめな性格。でも他の猫に比べて明らかに頭がいい。猫の頭の良し悪しなんて取り沙汰する意味があるかどうか知らないけど、それはもう歴然としていて、風通しのいい部屋と、閉め切った地下室ぐらいの違いがある。
結論から言えば、アビシニアンがベストだけれど、ロシアンブルーも捨てがたくて、僕はこの二匹を候補にした。ナツメさんは「あら、もう決まったの?」と半信半疑だったけれど、「ソフィアを選んだなら間違いないわね」と結果には満足そうで、僕のために紅茶を淹れ直してくれた。
「それで、この子たちの訓練にはどれくらい時間がかかるのかしら。その間お預けすることになるの?」
「ご心配なく。撮影の前日にお預かりすれば、それで大丈夫ですから」
美蘭が自信満々で断言すると、ナツメさんと木原さんは顔を見合わせた。
「でも、そんな事ってありえないわ。猫ちゃんが芸をするだけでもすごいのに」
「だからうちの弟は天才なんです。ただし、猫ちゃんたちは撮影が終わった後にはもう芸の事は憶えていませんから、その点はご了承ください。あと、気が散るといけないので、飼い主さんは撮影にはご一緒いただけません」
「それって、催眠術みたいなものなのかしら?大丈夫なの?その、性格が変わっちゃったりとか」
「大丈夫です。猫ちゃんにとって芸を憶えるというのは、やっぱり少し負担になる事ですから、わざと忘れさせているんです」
美蘭はさくさくと話をまとめてしまうと、「じゃあ私たち、門限がありますので、今日はこれで失礼します」と、僕がマドレーヌを食べる隙を与えずに立ち上がった。
事務所に戻るという木原さんと別れて、僕ら三人はタクシーを拾った。僕は助手席で美蘭は後ろ、宗市さんの隣でふんぞり返っている。
「あのナツメさんて人さあ、なんか見たことあるよね。テレビかな」
「女優さんだよ。真乃夏芽って芸名で、活躍したのは十年以上前だ」
「へーえ、そんなに売れてたの?」
「そうだね。クールな個性派女優って感じで、海外の映画祭で主演女優賞とったこともあるんだよ」
「なんで木原さん、教えてくれなかったのかな。そのネタで盛り上げたのに。宗市さんも気がついたなら言ってよ」
「まあ、引き際が微妙だったからね。プロデューサーと不倫騒動起こして、相手が自殺しちゃったんだよ。不倫相手の奥さんは梨園の令嬢で、元宝塚の娘役。悲劇のヒロインと性悪女って構図になって、週刊誌で思い切り叩かれた」
「玄蘭さんの好きそうなネタだ。で、引退して静かに猫と暮らしてるわけ?」
「さあ、オリンピックぐらいの間隔で、小さく話題になってるかな。ロッククライミングの国際大会で入賞したり、青年実業家と結婚してすぐに別れたり、毛皮扱ってる業者のビルにペンキぶちまけて、警察のお世話になったり。自由人なんだろうね。あからさまに言えば、世渡りは上手じゃない。」
「社会性のない人と猫は相性がいい、ってとこか」
美蘭は軽く笑い、宗市さんは「不倫ってのは、時としてひどく高くつく」と言った。
「それは格言?」
「率直な感想。リスクを回避したいなら、通らない方がいい道だね。美蘭は賢いから、そんな割に合わない事しないと思うけど」
宗市さんは時折こんな風に、不意打ちで釘を刺してくる。美蘭は「意味わかんない」と受け流し、「お腹空いてない?」と尋ねた。僕が「空いてる」と答えると、即座に「あんたに聞いてない」と返される。
「自分だけ呑気にサンドイッチ食べといて、意地汚いんだよ」
「でもさっき、マドレーヌ食べ損なったし」
「あれは絶対ダミーだ。干からびてて、すごく変な味がしたもの。半年ぐらい前から、客が来るたびに出してはひっこめてた奴に違いないよ。食べて損した。まあ、あんたにはぴったりだけど」
そんな事言っても、美蘭は食あたりなんか絶対にしない。たまった雨水を飲んでも平気な、野良猫並みの胃腸なのだ。
「ナツメさんて、金持ってるのか貧乏なのかわかんないわね。ただのケチかな。玄蘭さんみたいな」
「玄蘭さんはそんなにケチじゃないよ」
「宗市さんにはね。そのスーツ、新しく作ってもらったでしょ?いい生地使ってるんだ。イタリアの?いくらかかった?靴も買ってもらった?」
言いながら、美蘭はぺたぺたと宗市さんを触りまくってじゃれついている。それを見て僕は、やっぱりこの前の、江藤さんの話は嘘だと確信する。まあ確かに今は宗市さんに迫られてるって状況じゃないけど、貧血とは正反対のテンションだもの。宗市さんは例によって困った笑顔で、「この靴、前から持ってるよ」と言い訳した。
「それに、玄蘭さんは君たちに対してもケチじゃない。ちゃんと大学だって行かせてくれるだろ?」
「けっ、そんなの当たり前じゃない」
美蘭は宗市さんのネクタイを手首に絡めたまま、忌々しげな口調で唸ったけれど、僕にはそれは初耳だった。
「大学、行くんだ」
「何か文句でも?」
「いや、でも聞いてないな、と思って」
「別にあんたに進路相談する必要ないじゃん」と、美蘭は後ろからシートごしに蹴りを入れてきた。運転手がちらりと心配そうな視線を向ける。とんだ客を乗せてしまったと、後悔してるみたいに。
「ねえ、亜蘭も大学に行く?」
宗市さんはネクタイを直しながら、まるでカラオケに誘うみたいな感じできいてくる。
「実を言えばその件と、あと他にも話があるらしくて、君たちを帰りに連れてくるよう、玄蘭さんに言われてるんだ」
「え?それこそ聞いてないし。運転手さん、私ここで降ります」と美蘭はシートの間から身を乗り出してくるけど、タクシーは高速を走ってる。僕は観念して、少しだけでも寝ようと目を閉じた。
「全く、これじゃ拉致されたようなもんだし」
美蘭は文句たらたらでいつもの椅子に勢いよく腰を下ろした。玄蘭さんはリモコンでDVDのスイッチを切ると、例によって不機嫌そうに「ご挨拶だね」と言い返してこちらに向き直った。僕は大人しく指定席に座り、この不愉快な時間がさっさと終わるように祈る。
「この紗月もりかって子さあ、進学するから引退なんて話、みんな信じてるのかね」
美蘭はテーブルに転がってるDVDのケースを手に取った。「黒苺遊撃隊 紗月もりか卒業ライブスペシャル」と書いてある。
「本当は親が色々と口出してきて、事務所と衝突しちゃったんでしょ?」
「綺麗ごとで飾ってないものを、アイドルとは呼ばない。どっちにしろ、黒苺のセンターは雪乃宮ちぇろだ。ややこしい子はどんどん卒業させて、また新人を育てればいいのさ」
玄蘭さんは男のアイドルには目もくれない。とにかく女の子のグループしか興味がなくて、美蘭に言わせると、来世で生まれ変わったらアイドルになりたいと思ってるらしい。
「あれさ、どっぷり見てる最中は自分がなりきってんだよ」なんて言ってるけど、頭の中を想像するのも恐ろしい。
「さてと、面倒な話はさっさと片付けようじゃないか。こっちはまだ半分も見終わってないんだから」と言いながら、玄蘭さんは煙草に火をつけた。
「まず亜蘭、あんた大学行くのか行かないのか、どっちなんだい」
いきなりそんな事言われても困るんだけど、僕だって考えてないわけじゃない。例えばもし女の子がいるとして、大学生である僕と無職の僕、どちらを選ぶかという状況になったら…
「こいつ、どっちが女にもてるか考えてるよ。本当に馬鹿」
美蘭はうんざりした様子で僕の方を見る。玄蘭さんは「あんたの弟なんだから所詮その程度だよ。似た者同士さ」と、煙を吐いた。
「まあ、百歩譲って、真面目にお勉強する算段をしていたとして、だ。こっちも使える駒は多い方がいいんだから、先生と呼ばれる資格をとっていただければ申し分ない。といっても教員免許みたいな、しみったれたもんじゃ駄目だよ。弁護士税理士会計士あたりだね。もちろん医者になっていただいても結構。学費の方はご心配なく」
「それはちょっと、無理かな」
「謙遜しなくてもいいんだよ」と、玄蘭さんは勿体つけた動作で煙草の灰を落とす。こういう厭味ったらしいやり方を美蘭が踏襲して、いけすかない女になってきたわけだ。
「とはいえ、夜久野の連中は馬鹿でもぐうたらでも、恥じ入る必要はない。そこがアイデンティティって奴なんだからね。あんたも好きにすればいいさ。名ばかりの学生さんになって、ちゃらちゃら遊んで暮らしても構わないよ。そっちの費用は私に代わって、あんたの姉さんがせっせと稼いでくれるから」
「でも、別に、無職がイマイチなだけで、学生でなくてもいいんだけど」と、僕は妥協案を考えてみた。
「はあ?あんた何を名乗りたいんだい」
「ええと、会社役員とか」
いきなり、美蘭が派手に失笑した。玄蘭さんは忌々しげに煙草をもみ消すと、「たしかに会社は山ほど作ってるけどね、形だけでも役員名乗ろうなんざ十年、いや、二十年早いんだよ」と唸る。
「もういい、質問したこっちが馬鹿だった。スカスカの脳味噌であれこれ考えなくていい。とりあえず学生になっときな。女目当てならそれで十分だ。学校はどこにする?」
本当にどこでもいけるんだったら、東京大学とでも答えてやろうかと思ったけれど、また何を言われるか判らないのでやめておく。しかし候補になる学校の名前が浮かばず、面倒くさいのでつい「美蘭と同じとこでいい」と言ってしまった。
「はあ?」
案の定、彼女は凄んでる猫みたいな顔でこっちを向くと「ふざけんな」と脅した。玄蘭さんは新しい煙草を取り出し、「相も変わらず、美蘭と同じとこがいいってか」と言って火を点ける。
「違うよ。同じとこでいいって言ったんだ」
「馬鹿、よそ行け。ツンドラ大学とか行って、そのまま永住しろ」
美蘭が本気で蹴りを入れてきたので、僕は椅子ごと少し移動する。玄蘭さんは「ここで暴れるなって、一千回言われても判らないのかい、あんたは」と、美蘭に煙を吹きかけた。
「まあ同じ学校なら授業料の振込手数料も一回分で済むし、手間が省けて結構。書類は宗市が揃えるから、学部とか適当に考えときな」
「ちょっと、玄蘭さん本気?私の意見は完璧スルー?」
「やかましいね。もうこの話は終わりだ。どうせ遊びで行く学校の事を長々とやりあっても意味がない。さて次のお題に移らせてもらうけれど、美蘭、あんたいつまで無駄金使ってホテルに住むつもりだ」
「ちゃんと自腹切ってるから、文句言われる筋合いないけど」
「生意気言うんじゃないよ。あんたらは事故物件に住むのがお役目だ。勝手に好きなとこに住んでいいわけないんだよ」
玄蘭さんは煙草を指に挟んだまま、空いた手でテーブルに置かれていたフォルダを繰ると、紙切れを一枚引っ張り出して美蘭の鼻先に突き付けた。
「駅近1DK、六階建てマンション五階、西向き」
「普通じゃん」と言いながら、美蘭はその間取り図を手に取って眺めた。
「何?薬やった勢いで飛び降りちゃった、的な物件?」
「シングルマザーが、ガキ二人閉じ込めたままで男と沖縄旅行。電気も水道も止められて、もちろん食べ物なんか置かずにボンボヤージュ。帰ってみたらガキは極楽に旅立ってたって具合」
玄蘭さんは深く煙草を吸い込むと、長々と煙を吐き出した。美蘭は無言で間取り図を見るふりをしていたけれど、しばらくして「東向きの部屋がいいんだけど」と言った。玄蘭さんはそれ見たことか、という感じに鼻で嗤うと、「本当にヤワだねえ」と口角を上げる。
「別に誰がどうお陀仏になろうと構わないけど、東向きがいいのよ」と、美蘭は間取り図を放り出して椅子に深くもたれた。
「まあ、ワイドショーにも散々映ったし、近所の暇人がエントランスに地蔵なんか置いちまったりしたから、ごまかしもきかないんだけど」と、玄蘭さんは煙草を咥えたままで次の物件をあさる。美蘭は「だったら最初から言うなっての。ふざけやがって」と苛立ちを抑えきれない様子で足を組んだ。
「うるさいね全く。そういや亜蘭、あんた部屋を出る準備はできたのかい。来週から工事だ。若奥様はヴァイオリンをお弾きになるから、一部屋を防音に改装なさるんだよ」
「ええと、次どこに住むの?」
「親父が愛人に頭割られて死んだワンルームだってこないだ言っただろ。もう忘れたのかい」
「でも今、東向きの部屋がいいって」
「だから美蘭と住めなんて、一言も言ってない。あんたの犬小屋は、ええと、これだ」と、玄蘭さんはよれよれの紙を一枚、投げてよこした。何度もコピーを繰り返したような、すすけた間取り図だけど、ワンルームだから見るまでもない。
「どうせ一人じゃ荷物もまとめられないろくでなしだ。引っ越し業者を行かせるから、邪魔にならないようにするんだね」
「預かってる猫はどうしよう」
「知ったことかい。私の言う事もきかずに動画だDVDだ、やりたい放題のくせに。猫なんか勝手に逃げたってことにして、どこかに捨てておいで。そいつを見つけてやったら、また小銭が稼げるんだから」
玄蘭さんは自分のアイデアにご満悦という感じにほくそえんで、煙草を深々と吸った。
「そういや美蘭、猫娘のギャラ、もう少しふっかけないかい。動画は見たけど、あの子はなかなか上物だ」
「莉夢のこと?でもさ、高貴な一族の子女って話だから、がっついたとこ見せらんないし」
「そこを逆手にとって、自分の小遣い程度って感覚で大金ふっかけるんだよ」
「まあ、宗市さんが言えば大丈夫だと思うよ。出版社の木原さん、宗市さんのこと狙ってるから」
「それはよござんした」と、玄蘭さんはあっさり受け流す。そして僕も美蘭も、何がどう間違っても宗市さんは玄蘭さんから心変わりしないことを判っている。世の中には変な人っているのだ。とてもいい人なんだけど。
「じゃ、そういう事で」
美蘭はちらりとスマートフォンを見て、いきなりそう宣言すると立ち上がった。そして僕に向かって「撮影に遅刻したら、部屋に野良猫二十匹ぶちこむからな」と言い残して出て行った。玄蘭さんは舌打ちして「本当に小憎らしい。とっておきの物件に住ませてやる」と呟き、蕁麻疹でも出てるような顔つきで煙草を吸い込んだ。僕は僕で、撮影には絶対に遅れるなと自分に言い聞かせる。野良猫二十匹、本気でやるに違いないから。
18 この世の終わりみたいな
美蘭が溜息をついた。
「あら珍しい、今日は何だか元気がないわね」
ママはそう言って彼女の顔を覗き込んだ。美蘭は少し慌てた素振りで「ちょっと思い出しちゃって」と言い訳すると、出されたばかりのパンケーキにメープルシロップをかけた。
「さっきこの店に入る時に、レジで大柄な女の人とすれ違ったでしょ?帽子をかぶったおばさんと一緒にいた、ちょっと派手な感じの人」
「ごめん、私ぜんぜん憶えてないわ。パンケーキをストロベリーとチョコバナナのどっちにするかで頭がいっぱいで」
そう言うママが食べてるパンケーキは何故かラムレーズンとホイップクリーム。美蘭は少しだけ微笑むと、「あの女の人、元は男だったと思うの。声も太かったから」と言った。
「それって、オネエの人ってこと?やだ、何で言ってくれなかったの?見たかったのに」
「でも別に、タレントとかじゃない感じ。おばさんをママって呼んでたから、親子かな」
「あらあ、そういう人って本当にいるのね。こんど見かけたら、ぜったい教えてよ。でも美蘭ちゃんはそれで、何を思い出したの?」
「うちの弟のこと。本当言うと、妹なんだけど」
そこで美蘭は言葉を切り、パンケーキを食べる手を休めて遠くを見た。ママと背中合わせに座ってる俺は、振り向いた肩越しにその様子を見ながら、彼女は本気で女優になれるなと、半分感心し、半分呆れかえっていた。
あれは先週の金曜だった。いつも通り、学校帰りに電車の中で沙耶とラインのやりとりをしてたら、「ヤバいよ、告白されちゃった」というメッセージ。相手は研吾って奴で、彼女と同じコースをとってる。これまでも時々話には出てたけど、ただの同級生ってノリだったのに。何でいきなり?
俺はもう心臓がバクバクして、「研吾って、かなりおバカな軽い奴じゃなかった?」と返したんだけど、「でも告白されちゃうと、なんか少しいいかな、とか思えちゃう。顔はけっこうイケてるし」という言葉が戻ってきた。
「きっと受験ストレスだね、いますごく恋愛したいの」
沙耶が打ってきたそのフレーズに、「俺じゃ駄目かな」って切り出す勇気があれば、こんなに苦しい思いなんかしなくていいのに。臆病な俺は「で、返事どうするの」としか打てなかった。
「まだ考えてる。今から授業で顔合わせるし、マジヤバいよ。ノリでOKしちゃったら笑ってね」というのが彼女の最後のメッセージで、このままじゃ絶対に頭がおかしくなると思ったから、俺はすぐ美蘭に助けを求めた。
朝から授業をサボっていた彼女は、何故か白いセーターにモスグリーンのフレアスカートという、いつになくお上品な格好で、ホテルのロビーに座っていた。普段は何があってもつかまらないのに、緊急事態にはちゃんと現れるのだ。
「この世の終わりみたいな顔してるわね」
「だって本当にそうだもの」
俺の情けない答えを聞くと、彼女は「あらまあ」という感じに眉を上げ、「部屋行こうか」とエレベータに向かった。彼女の家出は継続中で、フロントともすっかり顔なじみ、廊下にいた掃除のおばさんも「あら美蘭ちゃん、お友達?」なんて声をかけてくるぐらいだ。
「慣れちゃうとホテルの方がいいんだよね。トイレットペーパー切れても、替えてもらえるし」と言いながら、美蘭は七階にある部屋の鍵を開けて俺を招き入れた。ワンルームマンションほどのシングルルームで、机の上には山積みの本とノートパソコン。その脇にあるチェストの上には大きなスーツケースが横たわっている。
美蘭はベッドに腰を下ろすと、俺にも座るよう促した。
「なんか飲む?といっても水とジャスミンティーしかないけど」
「いらない」
俺はただぼんやりと、足元の絨毯を眺めていた。」
「で、何が最悪の事態なわけ?」
俺の隣で前を向いたまま、美蘭はそう尋ねた。俺は沙耶とのやりとりを繰り返し、「もう、ライン見る勇気ないよ」と白状した。
「でも、まだそうと決まったわけじゃないでしょ?」
「そうだよ。俺には判るんだ。研吾のことなんか別に好きじゃなくても、沙耶は恋愛したいんだ。あの子自分で言ってるんだ、恋愛体質だって。ただ今は受験だから封印してるだけ」
「じゃあまだ封印中じゃない?国公立の合格発表まで、まだかなりあるじゃん」
「でもきっとダイエットやなんかと一緒で、ちょっとだけならいいかもって、それで…」
「止められずに、ドカ食いしちゃうかもしんない、ってこと?」
俺はただ俯くしかなかった。判るのだ、研吾に告白された沙耶が、何だかハイになってるのが。
「美蘭、俺もう、女でいるの無理だ。すぐにでも男になりたい。それが駄目だっていうなら、もう自分を消したい。これ以上みじめな思いしたくないんだよ。目の前で何が起きても、ただ見てるしかないっていう、幽霊みたいな生き方しかできないなら、死んだ方がましだ」
「研吾より俺を選んでくれって、彼女にそう伝える選択肢はないわけ?」
「無理だよ」
「やってみないと判らないじゃない」
美蘭は目の前の窓を見つめたままでそう言った。外はもうすっかり暗くなっていて、向いのビルには明かりが灯っている。
「嫌だ。女の身体のままで沙耶に告白するなんて、そんなみっともない事できない。絶対に嫌われる」
「でももしかしたら、勇斗が男に戻れる時まで待ってくれるかもしれない」
「そんなの、いつになるか判らない。もしかしたら、一生無理かも。美蘭、俺ほんとうに怖いんだよ。このまま、この変な身体に閉じ込められたままで、ずっと年とって死ぬんじゃないかって。そんな悲惨な目に遭うくらいなら、今のうちに死にたい。もう生きていたくない」
俺はそれ以上言葉を続けることができなかった。何か言おうとすると、それが涙になって溢れてくるのだ。女の前じゃ泣かないでおこうなんて、ふだんは思っているのに、もうどうしようもなく悲しくて、悔しくて、惨めで、情けない。美蘭は黙っていたけれど、静かに腕を伸ばすと、俺の肩を抱き寄せてくれた。俺はそれでもまだ足りない気がして、彼女にしがみついて泣いた。俺の方が体重があるし、両腕で思い切り抱きついたもんだから、そのままベッドに倒れ込んでしまって、それでも俺はまだ泣き続けた。
俺の涙は美蘭の白いセーターに浸み込んでいった。その下で、彼女のうすい胸は呼吸を続けている。ひとしきり泣いて、ようやく気持ちがおさまってくると、俺は少しだけ身体を起こして、横たわっている彼女の顔を見下ろした。無表情にも見えるし、何か言いたそうでもあるし、なげやりな感じにも思える。
そのいつになく無防備な様子に、俺は何故だか気持ちが高ぶって、気がつくと唇を重ねていた。最初のうちは軽く、何度か。それから舌を絡め、貪るように吸って、セーターの下に手を入れる。
「美蘭、お願いだ、助けて」
もしかすると、彼女も心の底でこの成り行きを見透かしていたから、この部屋へ俺を連れてきたのかもしれない。でもそれなら、窓のカーテンぐらい先に閉めておいただろう。俺はちらりとそんな事を考えながら、彼女の服を剥ぎ、自分の制服のボウタイでその両手を縛った。そうやって彼女を思いのままにすることで、俺の自信は砂時計の砂のように積もってゆく。次の瞬間にもひっくり返って、また消え去ってしまうであろう、まやかしの、俺の強さ。
舌の先に感じる彼女の柔らかな内側と、耳で受けとめる切ない声。彼女の喉から漏れる吐息の分だけ俺の涙が乾いてゆく。こんな身勝手なやり方でしか自分を確かめられない情けなさ、それがつまり俺が男であるということの証だ。そしてその俺を受け入れている誇り高い美蘭は、女の中の女だ。
俺がシャワーを浴びて戻ってきても、美蘭はまだベッドの上で白い身体を晒していた。向いのビルから覗かれたりしないのか、少し気になって窓を見ると、大きな鳥の影が外の明かりに照らしだされている。
「カラスって、暗くなっても飛ぶんだな」
なんとなくそう言ったら、美蘭は弾かれたように身体を起こして、軽く舌打ちするとまたひっくり返ってしまった。それに反応したみたいに、カラスは飛び立ってゆく。
「カラス、嫌いなのか。まあ好きな奴もいないだろうけど」
「嫌いも嫌い、大嫌い」と、美蘭は歌うように言って両手で顔を覆った。手首を縛った痕がまだほんのり紅い。俺はベッドに腰を下ろすと、彼女の波打った髪に指を滑らせた。
「ごめん。なんか、強引すぎて。ずるいと思われても仕方ないよな」
今更のように、泣き落としの言い訳。美蘭は「謝らないで」とだけ言って、両手を伸ばすと俺の頬に触れた。
「いま勇斗に死なれると困る。きのう言ったでしょ?莉夢のDVD作ることになったって。あんたにも手伝ってもらわないと」
「うん、それはやるけど」
「それに何より、お父さまとお母さまが悲しむ」
言われなくても、痛いほど判ってる。だから余計に辛いんだ。美蘭はそんな俺の気持ちを見透かしたような目をして、「とりあえず、伏線はってみよう」と言った。
これの何がどう「伏線をはる」なのか、いま一つよく判らないまま、俺は美蘭に借りたセミロングのウィッグに黒縁眼鏡で変装し、「デート」している美蘭とママの会話に耳を傾けていた。美蘭はまた一つ溜息をつくと、「うちの弟ってね、生まれた時は女の子だったの」と言い、ママは「あらやだ、どういう事?」とがっぷり食いついている。
「要するに私たち、一卵性の双子なんです。もちろん二人とも女の子。のはずだったのに、妹はもう小さい頃からずっと、自分は男だって思ってたみたい」
「つまりその、男の子になりたい女の子ってこと?自分をボクって呼ぶ子はけっこういるわよね」
「なりたい、じゃなくて、男なのに間違って女に生まれちゃった感じ、なんですって。だからもう、スカートなんか大嫌いだし、バレエやピアノのレッスンもすぐ辞めちゃって、男の子の遊びばっかり。周りからは、見た目はそっくりなのに中身は正反対だねって、よく呆れられたの。ほら、これが幼稚園の頃の写真」
美蘭はスマホを取り出して、ママに何やら見せている。
「可愛い!本当にそっくりね。私、こんな子が生まれたら、毎日朝から晩まで眺めて暮らしちゃう」
「うちの母は残念ながら、そうじゃなかったの。もし妹が普通に女の子として育ってくれたら、違っていたかもしれない。母は、娘しか欲しくなかったの。子供の頃に、乱暴な男の子からいじめられたのがトラウマらしくて。おまけに彼女の父親は単身赴任でほとんど家にいなくて、大学までずっと女子校って環境。もうとにかく男の人が苦手なの」
「でも、結婚はなさったのね。不思議な話だけど、そういう人の方がお嫁に行くのは早かったりするものよ。私のお友達にもいるけど、男嫌いなんかケロっと治ったし」
「ええ、うちの母も、周りからすすめられて、二十四で結婚したの。でも、男の人が苦手なのはずっと克服できなくて、実を言うと私たちは体外授精で生まれたの」
「それ、お母さまから直接きいたの?」
「ええ。母はかなり精神的に不安定な時期があって、勢いにまかせて、って感じで言っちゃったの」
「で、でもね、お母さまはお父さまのことは大切に思っておられるはずよ。夫婦のかたちなんて百組あればそれぞれだし、気にすることないわ。それに、美蘭ちゃんたちが大事な子供であることに変わりはないし」
「そう言ってもらえるのは嬉しいけど。とにかく、妹は小学校の五年生ぐらいになると、自分は男の子だって頑なに言い張るようになって、髪はベリーショート、服はジャージ、放課後はサッカーで泥まみれ。でも母にとって家の中に男の子がいるってことは、耐えられない嫌悪感と恐怖。私はそれが判っていたから、ちゃんと女の子でいるよう、妹に何度も言い聞かせたんだけど、彼女にはそれがまた耐えられなかったみたい。
無理に女の子らしくさせようとすると、自分は死んじゃった方がいいんだって、壁に頭をぶつけ続けたり、もう大変。母は母で、自分の子供なんだから受け入れなきゃだめだって、努力はしたみたいだけど、やっぱり駄目で。私たちが中学の時、母はついに、妹を殺そうとしたの。自分も死ぬつもりだったから、無理心中ね。
母はその頃精神科にかかっていたから、貰ったお薬を呑まずにずっと貯めておいて、妹の食事に混ぜたの。父は月の半分は出張だったし、私はちょうどお友達の家に泊まりに行っていて、母はきっとその日を待っていたのね。次の日に帰ったら、お昼近くなのに二人とも死んだように眠ってて、揺すっても叩いても起きないの。私は泣きながら救急車を呼んだわ。
それで、二人とも命は助かったんだけど、母は殺人未遂って事で起訴されて、執行猶予でそのまま入院。妹は人が変わったみたいに暗い子になってしまったの。それでもやっぱり、自分が男だっていう意識は変わってなくて。
ただ私たちにとって救いだったのは、父がすごく冷静な人だったって事。彼は専門家の話も聞いて、妹の名を亜蘭に変えて、男の子として扱うことにしたの。ちゃんと病院で男性ホルモンの投与を受けたりして、あっという間に驚くほど男っぽくなったわ。治療、って敢えて言うけど、治療を早く始めたせいで、女の子として生まれたなんて、今じゃ誰も信じないと思うわ」
「そうだったの。色々と大変だったのね。だから今も、ご両親と離れて住んでいるの?」
「ええ。妹は中学にほとんど行かなくて、リセットするために高校から有隣学園に変わったの。相も変わらず暗いままだけど、自分の願い通りに男でいられるんだから、ずっと楽になったと思うわ」
「そうよね。風香だって、弟さんが女の子だなんて夢にも思ってないわよ」
「だといいけど。でも、本当いうと私はまだ受け入れられないの。やっぱり元は姉妹だし、一緒に出掛けたり、お揃いの服着たり、気になる男の子の話とかしたかったのに、なんて思っちゃうの」
「まあ、それは仕方ないかもね。私も風香が生まれた時は、姉妹みたいな親子になりたいって、それこそ色んな事を楽しみにしてたのに、何ひとつ叶わなかったもの。
でも、そういう意味じゃ風香もちょっと弟さんに似てるかしら。女の子らしい服は嫌がるし、髪はずっとショート。ショッピングなんか全然つきあってくれないし、ずっとバスケット部で、私服はジャージかジーンズでしょ?もう諦めの境地ね。それでも、美蘭ちゃんとこうして、娘と楽しみたいって思ってたことが実現できてるんだから、よしとしなきゃ」
全く、ママって超鈍感というか、おめでたい人だ。それでも、俺は少しだけほっとしていた。ママもそれなりに、俺が期待通りじゃない事を受け入れてるみたいだから。
「それで、お母さまは今も病院に入ってらっしゃるの?」
「いいえ、祖母が元気なので、実家のお世話になってるの。私を見ると亜蘭の事も思い出すらしいから、ずっと会ってないけど」
「それは寂しいわね」
「でも正直いって、私には亜蘭の方が大事なの。母には実家があるし、自分の両親も夫もいるけれど、亜蘭には私しかいないって気がするから。何より、私はあの子がいないと生きていけないの。
今もたまにだけれど、夢に見るのよ、あの子が死にそうになった時の事。怖くて、心臓が破れそうになって目が覚めると、震えながら確かめに行くの。あの子がちゃんと息をしてるかって。そうしないと、朝まで一睡もできない」
「判るわ。私もいまだにテストの夢で飛び起きることがあるもの。大学でね、もう就職の内定までもらってたのに、語学をずっと落としてて、やっとの思いで卒業したのがトラウマになってるのね。もう二十年以上になるのに」
俺はつくづく、美蘭の話が嘘でよかったと思った。ママのこういう天然なところ、人によってはかなり苛立つだろうから。でも、嘘にきまってるのに、美蘭の言葉は奇妙なほど深く、俺の心に突き刺さった。
それにしても、随分と深刻な話をしていた筈なのに、美蘭とママはパンケーキをいつの間にかきれいに平らげていた。これだから女って奴は得体が知れない。そして話題はいきなり、ママの友達が始めたネイルサロンに行ってみよう、なんてところに飛んでいた。
俺はこっそり立ち上がると、美蘭に目配せだけして、店を後にした。ママが話の主導権を握ると、どうでもいいネタが延々と続くからだ。まあ、この「伏線」がどれだけ使えるか判らないけど、何もせずにいるより気が休まるのは確かだ。
外に出ると、俺はスマホをチェックする。本当のところ、今はとにかくラインを見るのが怖くてたまらないけど、放っておくのも耐えられないから。
沙耶はあれから研吾の告白に対して、「それ本気?悩む」と思わせぶりな返事をしておいて、実はもう相当乗り気だった。軽いと思われたくない、という理由で引っ張り、ようやく「つき合う選択もありかな」と返事をしたのが一昨日。今日はどこまで進展してるのか、逐一報告されるのは恐ろしくもあり、みじめでもある。
でも、今日は「ちょっと聞いて!」とだけあって、あとは着信記録になっている。さっき店にいた間だ。俺は慌てて電話をかける。
「あ、沙耶?ごめん、すぐ出られなくて」
「ううん。授業とかだった?」
「いや、歯医者さん。どうかした?」と、平静を装ってみるけど、足が震えそうなほど不安だ。研吾ともう寝ちゃったとか、そんな話だったらどうしよう。
「それがひどいの。研吾ったら、いきなり乗り換え」
「乗り換え?」
「そう。せっかくこっちがつき合おうか、なんて言ってあげてるのに、今日になったらテンション下がってて、やっぱり俺たち受験生だし、この話なかったことにしよう、とか言い出して。まあ、昨日は模試の結果が出て、あいつランク落としてたから、そのせいかと思ったの。でも、なんか変なのよね」
「女の勘ってやつ?」
「そうよ。で、他の子に探りを入れてみたら、どうも別の女がいるらしくて」
「つまり二股」
「ていうか、知らない女の子が研吾のこと、門のとこで待ち伏せしてたんだって。なんかさ、近くの大学病院にずっと入院してたけど、毎日研吾のこと窓から見てたとかって。それで、ようやく退院して神戸に帰るけど、どうしても直接会って話がしたかった、なんて言ったらしいの。もう研吾の奴、舞い上がっちゃって、これからもずっと連絡とろうよとか何とか、つなぐのに必死だったらしくて」
「そんなに可愛い子だったの?」
「なんかね、背が高くて細めの美人だって。ショートカットで色が白くて、モデルみたいなクールビューティーらしいけど。普通の男なら一発で落ちるし、屈折した男なら、何か裏があるって疑うような高スペック」
そう言われて、俺が頭に思い描く女は一人しかいない。嫌でも浮かんでくる笑いを噛み殺しながら「で、沙耶はどうするの?」と聞いてみる。
「もう完全無視ね。一瞬でもあいつと付き合う気になってた自分が嫌になる。あんなチャラい奴」
「まあさ、受験で煮詰まってるから仕方ないよ」
「そうだよね。いま普通のアタマじゃないって、つくづく自覚しちゃった。もう絶対、受験終わるまで恋愛封印。ねえ、私本当に、風香が男だったらどんなにいいだろうって思うよ」
「え?どうしたの、急に」
「いや、マジな話。気が合うし、嘘つかないし、私のこといつも気にかけてくれて、優しいし、ねえ、聞いてる?」
「うん、聞いてるよ」
「ねえ、笑ってるでしょ?馬鹿にされちゃってもいいけど、そう思ったの!本当に」
俺はもう笑ってなんかいない。ただ、いきなり道端で泣きださないよう、必死の努力をしていたのだ。でもそんなのとうてい無理で、仕方ないから目にゴミが入ったふりをして、速足で歩き続けるしかなかった。
19 好きなことすればいい
美蘭が微笑んだ。
今日はベビーピンクのモヘアのセーターにチャコールグレーのプリーツスカート。良家の子女はスカートしかはかないと思いこんでるせいか、「猫舌」の代理人を演じる時の彼女はこういうファッションで、物腰も驚くほど優雅になる。僕はアビシニアンのロブの身体を借りて、このスタジオにいる美蘭以外の人間を観察した。
まずは今日の撮影の監督を努める、小牧さんという男性。四十前後で少し髪が薄くて、助手を二人も連れてるのに、何故かずっと申し訳なさそうな態度。美蘭の笑顔にあっさり腰砕けで、台本の打ち合わせがろくに進まない。傍でモニターをチェックしているのは撮影の堀さんで、こちらは二十代の女性。動物が専門らしくて、学生バイトみたいな男がサブでついている。彼らの傍には、音声担当を兼ねた制作会社のスタッフが二人いた。
莉夢は少し離れたところで椅子に座っている。猫少女ニャーニャの衣装に身を包み、いつになく緊張した様子だ。良家の子女だから顔出しは不可って事で、動画サイトを更にバージョンアップした、仮面のようなアイメイク。やっぱりプロがやると違いは歴然で、莉夢はまるで妖精のように見えた。
彼女の横に立ち、時々何か話しかけているメイク担当は柴さんという男性。彼は一目でそれと判るゲイだ。仕事熱心だけど、やたらと宗市さんの方に視線を投げかける。でも宗市さんは一貫して、素行の正しい芸能プロ社員という姿勢を崩さない。
もう一人、宗市さんを意識しまくってるのは出版社の木原さんで、彼女は事あるごとに「問題ないですか?」と声をかけている。そして猫たちのキャリーケースの傍には、風香が所在なさげに立っている。彼女の役目は莉夢の付き人だけど、場違いなところにいるという困惑を隠さず、美蘭の方を見ている。
そう言う僕は一体どこかというと、スタジオの入っているビルの最上階、非常階段の踊り場に座っている。猫を操るにはやっぱり、距離的に近いのが楽だから。隣にいるのは桜丸で、彼はずっとペーパーバックを読んでいる。
「別に寝てるわけじゃないけど、放っておいてくれればいいから。もし人が通ったりしたら、適当に取り繕ってほしいんだ。それが無理なら、僕を起こして」というのが彼に頼んだ仕事で、これにはちゃんと日当が出る。でも彼は撮影について何も知らない。そして人を疑う性格でもないから、「そんなに楽してお金もらっていいの?」なんて喜んだ。
こうして二人並んで座っていると、嫌でも子供の頃を思い出す。
僕らの小学校は人数が少なかったから、たいていのイベントは全学年まとめて行われた。遠足のバスでも映画鑑賞でも、僕と美蘭はとにかく桜丸と並んだ席を狙っていて、彼を挟んで両脇に座るというのが平和的解決。しかし運悪く空きが一つしかない時には武力衝突。そして必ず僕が負けた。体力差もあるけど、そこに座ろうという気迫が桁違いに強かったのが美蘭の勝因だ。
隣に座ったからといって、別にあれこれ喋るってわけでもない。ただ時折ほんの短いやり取りをして、彼が「そうだね」と頷いたり、楽しいと感じた時に彼も笑顔になってるのを確かめたり、そういった事が僕にはとても心地よかったし、きっと美蘭も同じだったと思う。
もちろん桜丸は他の子たちからも好かれていたし、彼もみんなに分け隔てなく接していた。それでも美蘭は彼と同級の女子には目障りだったらしくて、高学年になると「桜丸に色仕掛けで迫ってる」と噂された。「色仕掛け」という言葉の響きは、精巧に作られた鳩時計を思わせて、僕には好ましかったけれど、美蘭はそうでもなかったみたいだ。だからだろうか、その噂がたち始めてすぐ、リーダー格の女の子の部屋に毛虫が大量発生するという事件が起こった。
それは生徒全員が食堂で夕食をとっていた間のことで、部屋に戻り、ベッドを這い回る毛虫の群れを発見した女の子はパニックに陥って絶叫した。それは瞬時に他の子にも伝染して、寮は混乱状態、警察と救急車が出動するほどの騒ぎになった。もちろん美蘭には完全なアリバイがあったけれど、女子の間では誰が犯人で、今後どう対処すべきかの答えは出たみたいだった。
生き物は体内で作れないビタミンや何かを補うために食物を摂取するけれど、僕と美蘭も自分に欠落したものを桜丸から貪っていたのかもしれない。いや、結局のところ今もまだ、僕には彼が必要みたいだ。
「はい、それじゃ猫ちゃんお願いします」
小牧さんの声が響き、僕とロブは美蘭の手でキャリーケースから外に出された。床に降りてから軽く身震いをし、「魔法の杖」を持ってスタンバイしている莉夢の方へ駆けてゆく。
撮影の内容は動画と大体同じで、縄跳び、輪くぐり、足し算引き算、撃たれて死んだふり、サッカーなどなど。そして新しい芸として、アルファベットの積み木を拾って単語を作り、猫パンチでボクシングをし、タンバリンに合わせて踊った。それからイメージショットとして、莉夢に頬ずりされたり、こちらからもお返ししたり、テーブルに座って紅茶を飲む彼女を覗き込んだり、前足で角砂糖を挟んでカップに落としたり。これをアビシニアンのロブとロシアンブルーのソフィアの二匹で交互にやるのだ。
少しでも猫が疲れてきたと感じると、僕は合図として三回短く啼く。すると美蘭が「そろそろ交代しましょうか」と声をかける。僕はとにかく撮影なんかさっさと終わらせたかったので、ほとんど撮り直しなしの一発勝負で決めた。むしろ莉夢の方が長丁場の撮影に疲れたみたいで、後半はまとまった休憩を何度かとった。そうなると僕は猫を離れ、桜丸の傍に戻る。彼はずっと読書中で、僕がいきなり立ち上がってトイレに行ったり、近所のコンビニでコーヒーとドーナツを買って戻ってきたりしても、驚く素振りも見せなかった。
結局、撮影が終わったのは夕方だった。誰かが叫んだ「お疲れさま」の声を合図に、僕は猫たちから離れたから、どんな感じで現場が終了したかは知らない。猫が参加しての撮影は今日だけだけれど、莉夢にはまだ日を改めてロケの予定がある。子供向けのDVDということで、房総にあるフラワーパークの温室で花に囲まれた映像を撮り、あとは木原さんと懇意にしている猫カフェ。こちらは店とのタイアップだ。
僕が「帰ろうか」と声をかけると、桜丸は「もういいの?」とペーパーバックを閉じた。
「うん、お疲れさま」と立ち上がり、階段を降りようとすると、誰かに頭を掴んでぐるりと回されたような気がした。桜丸は慌てた様子で、僕の肘を支える。
「亜蘭?すごくふらついてるよ。気分悪いの?」
「悪くはないけど、ちょっと変な感じ」
しばらく壁にもたれていると、これは自分の身体だという感覚が徐々に戻ってくる。要するに、猫と一緒にいすぎたという事だ。しかし壁を離れると、こんどは足がもつれてしまう。桜丸は「少し休めば」と、まだ僕を支えていたけれど、僕は彼以上に自分の疲れ具合に当惑していた。
「悪いけど、一緒に下まで降りてタクシー拾ってくれないかな」
「もちろんそのつもり、っていうか、家まで送るよ」
気がつくと、僕の顔には何か暖かいものが覆いかぶさっていた。それが猫のお腹だと判るまでにしばらくかかって、ようやく手で払いのけると、「ほらね、簡単に起きたでしょ」という声が降ってきた。
眩しくてうっすら目を開けると、美蘭が片手にサビ猫ウツボをぶら下げている。その横で桜丸が目を丸くしていた。
「いくら声かけても全然起きなかったのに。本当にどこか悪いのかと思ったよ」
「悪いとこはあるわよね、頭とか性格とか」と言いながら、美蘭は僕が寝ているマットレスに腰を下ろした。膝にのせられたウツボは喉を撫でてもらってご機嫌だ。僕は一瞬、この猫を使って美蘭の鼻でも引っ掻いてやろうかと思ったけれど、今の体勢では即座に反撃されるだけなので我慢した。そしてようやく起き上がると、まだ馴染みのないワンルームマンションを見回す。
家具や電化製品は何もなくて、ただ寝場所としてマットレスを置き、あとは段ボールが四つとスーツケースが一つ。それから猫のサンドとウツボのケージにトイレ。天井から照らす蛍光灯はやけに青白く、前のマンションからとりあえず持ってきたカーテンは少し丈が長いけれど、これがなければこの部屋はまさに物置だった。
「二人とも、ここで何してるの?」
僕は一人で寝ていた筈なのだ。桜丸は床に腰をおろすと、「亜蘭ったら、ここに着くなり、じゃあおやすみって寝るんだもの。猫はニャーニャー騒いでて、お腹が空いてるみたいだったから、水と餌をあげたんだ」と説明した。
「それでさ、もう帰ろうかなと思ったんだけど、亜蘭の食べ物もなさそうだし、コンビニで何か買ってこようと出かけたところで美蘭とはちあわせだ。ねえ、こんなとこで猫四匹も飼って、大丈夫なの?」
「猫は二匹だよ。じき飼い主に返す」
「でも美蘭がまた二匹連れてきたよ」
そこで僕はようやく、美蘭が現れたわけを理解した。
「あいつら、連れてきたんだ」
姿は見えないけど、キャリーケースは玄関にでも置いてあるんだろう。
「当たり前じゃない。宗市さんに預けたら、玄蘭さんがカラスの餌にしちゃうし。でもあの子たちは、明日すぐ返せばいいから」
「誰が返すの」
「あんたに決まってるじゃん。高い駐車場代払って車おいてるんだから、当然よ」
僕は思わず怒りにまかせ、ウツボの前足を借りて美蘭の顎に猫パンチをくらわせた。彼女は顔色ひとつ変えず、僕の胸元にエルボーを炸裂させる。桜丸が慌てて「美蘭!」と制止した。
「猫がじゃれただけだろ?どうして亜蘭にそんな事するんだよ」
「あんたには関係ない」
「でも暴力はだめだよ。それよりさ、亜蘭にごはん持ってきたの、食べさせてあげなよ」
「そんなの持ってきてないし」
「だってさっき、あれはカツサンドとサラダだって言ったじゃないか」と、彼は床に置いてある紙バッグを指さした。
「あれは猫の餌」
「猫はサラダなんか食べないだろ?カツサンドは食べる、のかな?でも味が濃いよね」
「猫はそんなの気にしない。でも食べたけりゃあんたが食べれば?」
美蘭は意味不明な方向にぶち切れ、立ち上がるとウツボを桜丸に向かって放り投げた。
「こんな場所にいたら、馬鹿にあたって気が変になる。じゃあね」
それだけ言うと、床に丸めてあったコートとバッグを腕にかける。僕は彼女がさっさと出て行くことだけを祈っていたけれど、桜丸は「美蘭」と呼び止めた。
「ずっと言いそびれてたけど、そのセーターよく似合ってる。ピンクの服着たの、初めて見たよ」
美蘭は一瞬フリーズして、それから何も言わずに大股で廊下へ出ていった。玄関の辺りでガシャガシャと妙な音がしたかと思うと、まずアビシニアンのロブが投げ込まれ、次にロシアンブルーのソフィア、それからややあって、美蘭が着ていたセーターが放り込まれた。そして廊下に続くドアが派手に閉められ、玄関のドアも閉まった。
投げ込まれた猫たちは難なく着地すると、新しい環境を見回している。サンドとウツボは大急ぎで新入りにごあいさつだ。桜丸は慌てた様子でセーターを拾い、後を追いかけようとドアノブに手をかけたけれど、そこで固まってしまった。
「ほっとけばいいよ。どうせコート着てるんだから」と僕が声をかけると、「そうか、じゃあ大丈夫」と自分に言い聞かせるみたいにして、彼は飛び出して行った。
でもまあ、美蘭を尾行するなんて玄蘭さんにも簡単じゃない。しばらくすると桜丸はセーターを片手に引き返してきた。
「そんなに遠くに行ってないはずなのに、どこに消えたんだろう」
「マンホールかもね。あるいは塀に上ったか。でもどうせ、美蘭はもう二度とそのセーターは着ないよ」
「まあそんな気はするけど。本当に変わらないなあ」と桜丸は溜息をついた。彼だって判ってるのだ、美蘭は見た目を真剣にほめられるとブチ切れるって事。
僕らは小さかった頃、誰かに可愛いだとか何とか言われる度に、それを否定する百倍ほどの嫌味と暴力を母親から頂戴したけれど、美蘭のねじれた反応はこの後遺症らしい。ほめられた途端に、次の展開を予想して暴れるというわけ。それを無理に我慢してると具合が悪くなるみたいだ。でも、僕は誰かにほめられるなんて事もないし、あったとしても嘘に決まってるから、彼女のように傍迷惑な真似はせずにすんでいる。
「そのセーター、持って帰れば?それで、好きなこと想像して好きなことすればいいよ」
僕がそう勧めると、桜丸は外国語を聞いたような顔つきになって、それから目を伏せた。
「亜蘭ってさ、けっこう過激なこと言うね」
「そうかな。男なら皆そんな事考えてるんじゃない?」
「まあ、それは敢えて否定しない」と言いながら、桜丸は美蘭のセーターをたたんで僕の傍に置いた。
「だからって、これを持って帰るわけにはいかないな」
僕はマットレスに座ったまま桜丸を見上げて、「美蘭のこと、好き?」ときいてみた。彼は少しだけ笑みを浮かべ、「好きだよ」と素直に答えた。
「あんなに狂暴で自分勝手で偏屈なのに?美蘭より優しくて可愛い女の子なら大勢いるだろ?」
「でもそれは美蘭じゃない。僕は全部ひっくるめて美蘭がいいんだ」
「不倫してる彼氏もいるのに?」
「うん。でも時々、彼女も僕のこと好きなんじゃないかって思うことはあるよ」
「え?どんな時?」と、僕はにわかに不安になる。でも彼は「それは言えないな。単なる自己満足だから」と笑うだけで、「僕もう行くよ。明日の予習しなきゃ」と帰ってしまった。
一人残された僕は、美蘭が置いていった極端に安いギャラ、カツサンドとサラダを食べ、それから明かりを落とすとまた横になった。この調子なら明日の昼前まで眠ってしまいそうだ。
腕を伸ばすと、さっき桜丸が置いた美蘭のセーターに触れる。何かのってると思ったら、ウツボが寝床にするべく、せっせと前足でならしている。僕はこの猫の嗅覚を借りて、セーターの匂いを確かめてみた。
見たことないけど確かに存在する花のような、美蘭の匂い。彼女が上品ぶる時に使うスズランのコロン。スタジオは暑かったみたいで、彼女は汗を少しかいた。休憩時間に飲んだコーヒーと、木原さん差し入れのフルーツサンド。メイクした莉夢と、風香と、宗市さんの匂い。そしてさっきこのセーターを腕にかけていた、桜丸の匂い。
彼だってきっと、僕の見てないところでセーターに顔を埋めてみたに違いない。そして何を想っただろう。僕はあんな風に、自分の気持ちをためらわずに話す彼のことを、何だか恐ろしく感じた。
20 何もできない子
莉夢の演じる「猫少女ニャーニャ」のDVD撮影も今日が最後だ。最初に一番大事な、猫の曲芸をスタジオで撮って、それからフラワーパークでアイドルのプロモーションビデオっぽいもの。そして今日は公園の隣にある、ログハウス風の猫カフェを借り切って、猫型のパンケーキを食べたり、猫におやつをあげたり、といったシーンを撮った。
この撮影の間ずっと、俺は莉夢の付き人みたいな感じで、彼女の送り迎え、衣装や飲み物の準備、トイレの場所の確認、なんて事をしていた。美蘭に頼まれて気軽に引き受けたけど、簡単そうでけっこう気を遣う仕事だった。でも普通なら絶対に関わらない世界だし、面白かったのは確かだ。
俺の中で「仕事」ってのは何となく、会社に行ってパソコンのキーボード叩きながら電話する、みたいなイメージがあったんだけど、撮影やメイクや照明、そんな仕事もあるんだと、あらためて気がついたのだ。
まあ、そんな感じで猫カフェでの撮影も順調に終わって、クランクアップ。大人だけの現場なら、打ち上げで飲み会ってのが定番らしいけど、何せ莉夢はいいとこの令嬢って事になってるし、俺も美蘭もその姉のご学友という設定なので、現地解散だ。
撮影の人たちは慌ただしく機材を片付けていて、監督と出版社の木原さんは、編集の日程がどうこうって話をしてる。莉夢はもう私服に着替えていて、奥の部屋でメイクを落としてもらっている。美蘭は彼女が「宗市さん」と呼んでいる男の人と、何やら楽しそうに喋ってるけど、この人が芸能事務所勤務というのは嘘で、本業は不明だ。
それにしても美蘭の奴、大人の中でも全く物おじしないんだから恐れ入る。弟の亜蘭は同い年の連中といても浮いてるのに、この差は何なんだろう。でもまあ、これが本当の美蘭かというとそうでもない。要は、実際にいそうな人物のイメージで着るものを選び、それらしく振る舞ってるだけの話。天性の女優あるいは詐欺師ってとこだ。今日だって白いブラウスのボタンを襟元まで留めて、濃紺のカーディガンにサックスブルーのフレアスカートという、いかにも「女学生」っぽい格好をしてる。
しかしいくら美蘭でも、予想外の展開はあるらしい。それが江藤さんの出現だった。片づけた機材を車に積もうかってところで、彼はいきなり店のドアを開けて入ってきたのだ。
「あれ?今日は休み?」と、雑然とした雰囲気に面喰ったような顔をしてたけど、猫カフェの店長はすぐに「あら、江藤さん。いらっしゃい」と声をかけた。
「ごめんなさい、ちょっと撮影してたの。いま片づけてるとこだから、よければ座ってて」
どうやら彼はここの常連らしい。でも、そんな偶然ってあるだろうか。
「そう?じゃあ遠慮なく」と入ってくると、彼はすぐ美蘭に目をとめた。もちろん彼女は先に気づいてて、にこやかに挨拶した。
「今日はお仕事、お休みなんですか?」
他人行儀な言葉遣いだけど、木原さんたちの手前仕方ない。なんせ俺たちは良家の子女なのだ。江藤さんは「うん、代休なんだよ。用事で近くまで来たから寄ったんだけど、奇遇だね」とか言って、近くの席に腰を下ろす。確かに、前回会った時はスーツだったのが、今日はマウンテンパーカーにチノパンという出で立ちで、首にはイヤホンがかかってる。
「偶然すぎてびっくりしちゃった」
美蘭はそう言って笑ったけど、彼に近寄ろうとはしない。江藤さんは、テーブルを飛び石みたいに渡ってきたキジ猫を抱き上げると、「本当のこと言うとね、うちのマカロンが、今日ここに来れば君に会えるかもって、教えてくれたんだ」と言った。
「本当?」と微笑みながら、彼女はまだ何か言おうとしたけれど、宗市さんの「美蘭」という呼びかけがそれを遮った。その声にはたしなめるような響きがあって、江藤さんはそこで初めて彼と目を合わせた。
「どうも初めまして。江藤と申します」
代休だってのに、ポケットからちゃんと名刺を出してご挨拶だ。うちのパパなんか、休みの日はダミダミのジャージ姿で完全に油断してるけど、やっぱりこれが業界の人って奴だろうか。宗市さんもにこやかに挨拶して、彼らのいる場所だけ異次元のビジネス空間になっている。
その時、奥で何かが割れるような音がして、甲高い悲鳴が後に続いた。
「どうかした?」と、店長が覗き込んだところへ、バイトの女の子が血相かえて飛び出してきた。
「蜂!おっきいの!」
彼女がそう叫ぶ間にも、低い羽音を響かせて大きな蜂が五、六匹、こちらへと飛んできた。
「スズメバチだ!刺されるぞ!」
監督の小牧さんは慌ててそう叫ぶと身を翻し、体当たりするようにドアを押し開けて出て行った。撮影スタッフも次々と後を追い、雑誌社の木原さんは一瞬ぽかんとして、それからようやく悲鳴をあげ、肩にかけていたバッグで顔を覆うようにしてドアに向かう。店長は逃げようとしながらも、「あああ、猫ちゃんどうしよう」とうろたえていた。
しかし猫たちは飛び回る蜂に興味津々で、首を伸ばし、尻尾をばたつかせながら目で後を追っている。江藤さんは立ち上がると、「猫は危ない時には自分で逃げるよ。先に出た方がいい」と店長の背中を押した。
俺はまあ、スズメバチといったって、こっちが巣に近づいたわけでもないし、いきなり刺されることもないだろうと思ったので、様子を見ながらドアの方に移動した。それより心配なのはまだ奥にいる莉夢だ。でもちょうどそこに、メイクの柴さんが、パーカーのフードを深くかぶった彼女の腕を引いて走ってきた。俺も二人に続いてドアに手をかけたけれど、やっぱり美蘭のことが気になって振り返る。
どうせ何が起きても騒ぐ女じゃないんだけど、彼女は店の中を飛び回る蜂たちを、どこか楽しんでいるような風情で立っていた。江藤さんは彼女の足が竦んでいると思ったらしくて、その手をとろうとする。でもその前に宗市さんが彼女を、まるで親鳥が雛をかくまうように抱き寄せてしまった。美蘭は不意をつかれたのか抵抗もせず、そのまま引きずられるようにして店を出た。
外では店長がスマホに向かって、「だから殺虫剤!あるだけ持ってきて!」と喚き、木原さんはバッグを抱えてへたり込んでいる。監督たちは機材を中に置いたままなので、渋い顔で店を睨んでいた。俺はとりあえず莉夢の傍へ行くと、彼女のフードを外して無事を確かめた。
「驚いたね。怖かった?」と言うと、「大丈夫。柴さんが守ってくれたから」と笑顔を見せたけれど、やっぱり青ざめている。美蘭はどうしたろうと思ったら、まだ宗市さんの傍にいて、少し離れたところに江藤さんが所在なげに立っていた。
さっきのあの宗市さんの態度、江藤さんへのあてつけみたいだった。わざわざ美蘭の腰に腕を回して、あんなに身体をくっつけなくても逃げられるし、何より彼女は少しも怖がったりしていなかった。いや、怖がっていたとすれば、いきなり江藤さんが現れたという状況に、かもしれない。
宗市さんって一体何者なんだろう。すごく優しそうだけど、その気になればどんな事だってやる、大胆な人にも思えた。
スズメバチはそれからも店を占領し続けて、莉夢と俺、そして美蘭は宗市さんが呼んでくれたタクシーで一足先に帰ることになった。現場では無口だった莉夢は、車が走り出した途端に、「最初にね、キッチンの窓から一匹入ってきて、それからどんどん増えたの。お店のお姉さんがびっくりしてお皿とかいっぱい落として、莉夢と柴さんはそれに驚いたよ」と、さっきの様子を語り始めた。
「柴さんはね、お店のすぐそばが公園だから、木の上とかに巣があるのかなって言ってた。スズメバチの巣をとるの、宇宙服みたいなの着るんだって。針がすごく太いから、危ないんだってさ。中に猫ちゃんたち残ってるの、刺されたりしないかな」
「大丈夫よ。猫は毛皮に守られてるもの」
美蘭は気怠そうにそう答えて、窓の外を眺めている。俺はちょっと気になって「さっき江藤さんが来たの、偶然かな」と確かめてみた。
「たぶん、猫つながりって奴よ」
「猫つながり?」
「店長が猫友達に、撮影のこと喋ったんだと思う。木原さんの口止めが足りなかったのかな。それが回り回って、江藤さんに伝わった」
「マジで?」
「正確には江藤さんの奥さんに伝わったのかも。彼女、人脈ならぬ、猫脈ありそうだから」
そして美蘭は軽く溜息をついた。俺は思わず「何かまずい事になりそう?」と確かめる。彼女は「心配いらない」と首を振り、「ごめん、莉夢を家まで送ってくれる?私ここで降りるから」と言った。
「ここって、今どこ?」
俺は外を見たけど、どこを走ってるのか見当がつかない。それでも美蘭は「どこでもいいじゃない」とだけ答えると、タクシーを停めてさっさと降りてしまった。
莉夢はしばらく後ろ向きになって手を振っていたけれど、信号で止まったところで向き直り、「美蘭、また遊んでくれるかな」と呟いた。
「多分ね」と言ってはみたものの、俺も美蘭が莉夢とどこまでつきあう気なのか、いま一つよく判らない。あからさまに可愛がるわけじゃないし、むしろ突き放してるぐらいの感じがするのに、莉夢は美蘭にぞっこんだ。
「莉夢ね、これからもずっと、ニャーニャみたいな事がしたいの。莉夢じゃない女の子になって、色んな事がしてみたい」
「なんで?莉夢は莉夢のままでいいじゃない」
「それは駄目。別の女の子になりたい。本当の莉夢は何もできない子だから」
彼女はそれだけ言うと、リュックをきつく抱きしめた。こんな時、普通の女の子ってどんな会話をするんだろう。ふだん小学生と全く接点のない俺は、言葉に詰まってしまった。これまではまだ撮影が控えていたから、そういう話をしてればよかったけど、今じゃ全て終わってしまったし。
何だか気まずい沈黙を漂わせたまま、タクシーは走り続け、俺はさも大事な用があるようなふりをして、スマホの中に逃げ込んでいた。ようやくタクシーが停まると、俺は美蘭からもらったチケットで支払を済ませ、いつの間にか眠っていた莉夢を起こした。
彼女を預かっているおばあさんには「猫少女ニャーニャ」の話は一切秘密だったから、俺はいつも、一番近いコンビニでタクシーを停め、彼女の家の玄関が見える十字路のところまで送り迎えしていた。おばあさんは莉夢が長時間出かけていても、全く心配していないみたいで、それはとりあえず、俺たちには好都合だった。
「じゃあね。お疲れさま」
俺はそう言って、まだ眠そうな莉夢がリュックを背負うのを手伝い、小さく手を振った。莉夢も「バイバイ」と手を振り、歩き出したけれど、数歩いったところで立ち止り、すごい勢いで駆け戻ってくると俺の後ろに隠れた。
「何?どうしたの?」
見下ろした彼女の表情は、猫カフェでスズメバチが現れた時よりもずっとこわばっていて、しがみついた指先には食い込むような必死さがあった。
「あの車、ルネさんのだ。莉夢を迎えにきたんだ」
確かに、莉夢の家のそばには水色の軽自動車が停まっている。
「ルネさんて、誰だっけ」
「ママの友達。でも嫌。絶対に行かない」
「でも別に、莉夢を迎えに来たかどうか判らないじゃない」
「判るの。ねえ風香、莉夢あそこに帰りたくない。美蘭にそう電話して」
「帰りたくないって言っても、莉夢の家なんだから帰らなきゃ」
「違う。あそこは莉夢のおうちじゃない!絶対帰らない!」
叫ぶようにそう言うと、莉夢は声もたてずに、大粒の涙をこぼした。俺はもちろん他の男と同じように、女の子の涙なんて苦手だから、それ以上は何も言えない。仕方がないから美蘭に電話して、助けを求めることにした。ところがこんな時に限って、向こうは電源を切ってやがる。さっきタクシーを降りたのは、引き返して江藤さんに会いに行ったんだと、俺は今更のように思い当たった。
でも一体どうすればいいんだろう。ここに莉夢を置き去りにするわけにいかないし、かといって自分ちに連れて帰るわけにもいかない。美蘭といつ連絡がつくかわからないけど、彼女のホテルで待ってるのは無理だろうか。あれこれ考えて、俺はさしあたっての避難先をようやく思いついた。
「いらっしゃい!」
桜丸はいつもの開けっぴろげな笑顔で、青龍軒を訪れた俺と莉夢を歓迎してくれた。俺は窓際のテーブル席を選び、莉夢にメニューを渡した。彼女はとりあえず家に帰らずにすんだので落ち着いたみたいだったけれど、ここに来る間もずっと無言でいた。
「莉夢ちゃん、ここは初めてだよね。どのラーメンにする?」
水を運んできた桜丸は、注文をとろうと伝票を取り出す。俺は先にもやしハーフを頼み、莉夢は「のりラーメン」と小さな声で告げると、俯いてメニューを閉じた。
「了解!ちょっとだけ待っててね」と厨房に戻ろうとする桜丸を、俺は小声で呼び止めた。
「ねえ、すごく急で、勝手なお願いなんだけど、この後しばらく、アパートの部屋を貸してくれない?」
「部屋って、僕の?」
「そう。行く場所がなくて困ってるの。美蘭に連絡がつくまででいいから」
いきなり過ぎる話に、桜丸はぽかんとした顔をしていたけれど、すぐに「いいよ」と答えた。
「でも、ちょっと散らかってるかな」
「そんなの全然平気だから」と俺が言うと、莉夢まで「平気だよ」と後に続く。桜丸は軽く苦笑しながら「じゃあ、後で地図と鍵を渡すね」と言った。
「今日は、美蘭と一緒じゃないの?」
「途中から別行動なの」
「そう」と頷いて、彼はもう何も詮索しなかった。莉夢はようやく本当に落ち着いた表情になって、コップの水を半分ほど飲んだ。
しばらくして注文の品を運んできた桜丸は、「ちょっと考えたんだけどさ、僕の部屋ってあんまり女の子向きじゃないかも。トイレとか共同なんだよ」と言った。俺はもちろん「そんなの大丈夫よ」と答えたけれど、彼は「だからさ、別のとこ紹介するよ」と続けた。
「別のとこって?」
「亜蘭のとこ。けっこう近いんだ。引っ越したところだから、冷蔵庫もテレビもないけど、ワンルームでトイレやなんかはちゃんとしてる。あとさ、莉夢ちゃんと動画を撮った猫もまだ預かってるし」
猫と聞いて、莉夢の顔がぱっと明るくなった。桜丸はその反応に満足そうで「さっき電話してみたら、行って構わないって。亜蘭は入れ替わりで僕のとこに来るから、気を遣わなくていいよ」と告げて、厨房に戻っていった。
莉夢は人が変わったように元気になってラーメンをかき込み、「早く行こう」とはしゃいでいる。俺は亜蘭と顔を合わせるのが少し億劫だし、部屋に猫がいるというのも落ち着けないんだけど、まあほんのしばらくの我慢だと自分に言い聞かせた。
青龍軒から亜蘭の引っ越し先まで、タクシーだとすぐだった。一体どういう経緯であの豪華マンションから下町のワンルームに転落したのかさっぱり判らないけど、当の本人は全く変わらないぼんやり加減でドアを開けると、「猫の餌と水、よろしくね」とだけ言って鍵を渡し、そのまま出ていってしまった。
そこは面白いほど何もない部屋で、ベッドの代わりにマットレスと毛布が置いてあるだけ。あとは段ボールとスーツケース。そして猫のキャリーケースが二つ。猫たちは不意の来客を警戒して隠れていたけれど、莉夢が「サンド、ウツボ」と呼ぶ声に応えて顔を覗かせた。彼女が猫を撫でまわしている間に、俺は風呂場とトイレを探検してみた。ほとんど何もないけど、汚れてもいないという感じで、キッチンにはミネラルウォーターのペットボトルが何本かと、キャットフードの袋があるだけだった。
後でコンビニでも探しに行こうと思いながら、俺は莉夢のところに戻った。彼女はマットレスに座り、サンドを膝に抱いて何やら話しかけている。
「莉夢は本当に猫が好きだね」と、俺もその隣に腰を下ろす。テレビも何もないし、退屈なことこの上ないけど、沙耶はまだ自習室にいる時間だからラインもできやしない。とりあえず、ママに夕食はいらないと伝えておこう。美蘭と一緒、と言っておけばママは全く心配しないから。
それにしても、莉夢のおばあさんは彼女がどこで何をしてるか、気になったりしないんだろうか。少なくとも俺が莉夢ぐらいの年の頃には、こんなに遅くまで外をほっつき歩くなんて、ありえない事だったんだけど。
「ねえ、これ、美蘭のセーターじゃない?」
不意に莉夢が声を上げたので、俺は我に返った。彼女はマットレスの隅に、ウツボが寝床みたいに丸め込んでいるピンク色の物体を引っ張り出してきた。広げてみるとたしかにそれは、この前スタジオで撮影した日に美蘭が着ていたセーターだった。
「ウツボちゃん、駄目じゃない、こんなにくしゃくしゃにしたら」と、莉夢は一生懸命セーターの形を整えようとしていたが、すでに猫の毛だらけで、おまけに爪でひっかけたらしく、細い糸が何本も飛び出している。
「それ、もう着られないよ。美蘭がいらなくなったから、ウツボにあげたんじゃないかな」
「そうなの?」
莉夢は半信半疑、といった顔つきでセーターから手を離す。ウツボは細い声で鳴くとその上にのり、前足でせっせと自分好みの形にこね始めた。しかし、という事は、美蘭はあの日、撮影の後でこの部屋に来てたのか。彼女の口からは亜蘭の話なんて一つも出てこないのに、ちゃんと会ってるのだ。
仲が悪そうなこと言ってるけど、やっぱり双子だもんな。そう思うと一人っ子の俺は、すごく羨ましいような気持ちになる。あんなぼんやりした弟はご免だけど、美蘭みたいにしっかりした姉貴がいれば、すごく心強いに違いない。まあ、莉夢みたいな妹でも、それはそれでいいんだけど。
21 震えてるのはどうして
どこをほっつき歩いてたのか知らないけど、美蘭は何だか青ざめた顔色で、部屋に入るとコートを脱いだ。桜丸の「ハンガー使えば?」という言葉は無視して床に放り投げると、その下は彼女の素性とかけ離れた清楚な格好。白いブラウスに紺のカーディガンとサックスブルーのフレアスカートというコスプレだ。そして僕が座っていたクッションを奪い取って腰を下ろし、「お腹空いたんだけど」と言った。
「すぐ食べたいならカップラーメンがあるけど、スパゲティも作れるよ。もっと別なものがいい?」
お人好しの桜丸は立ち上がると、食糧庫になっている棚を覗き込んだ。
「ホットチョコレート飲みたい」
いったんそう口にしてから、美蘭はすぐに「なんてのは冗談」と打ち消した。
「お金払うからさ、その辺のコンビニでパンかおにぎりでも買ってきてくれない?食べたいものがあれば、あんたの分もおごるわ。こいつは知らないけど」と、僕の方を一瞥する。
「僕と亜蘭はもう食べたから大丈夫。お金も大丈夫。君にちょっとおごるぐらいは持ってるから」
桜丸はにこりと笑ってそう言うと、パーカーを羽織って出ていった。全く、どうして美蘭のわがままなんか聞いてやるんだろう。当の彼女は何食わぬ顔で「ここ、なんか寒い」とか言いながら、スマホをチェックしている。
「風香と莉夢、もう帰った?」
僕はまだこの部屋に居残るべきかどうか確かめるため、質問してみる。「帰ったわ」と、そんなに機嫌は悪くなさそうな答え。
「今日は猫カフェで撮影したんだろ?何かトラブル?」
「撮影は問題なしよ。ただ、風香が莉夢を家に送っていったら、またルネさんが来ててさ、あの子、帰らないってゴネたの」
「でも、ルネさんの家は燃やしちゃったよね」
「だからさ、もう莉夢のことなんかどうでもよくなるかと思ってたんだけど、やっぱり母親に頼まれたらしい」
「おばあさんは?預かってくれないの?」
「まあ、金に困ってそうだったから、動画の広告代とDVDのギャラで一息つかせようと思ったんだけど」
「おばあさんは撮影のこと知ってる?」
「まさか。下手に欲を出されたら面倒。だからさ、莉夢の実の父親から金が回ってきたって話にするつもりだったの。でも今は金がどうこうより、かっちゃんの具合が悪いらしくて」
「かっちゃんて、誰だっけ?」
「おばあさんの娘だよ。莉夢の母親の、二人目の旦那の姉さん。莉夢の実の父親は一人目の旦那」
僕はこういうの、いくら説明されてもすぐに忘れてしまう。まあ要するに、うちの一族ほどではないけど、ややこしい家系ってことか。
「かっちゃんてさ、進行性の病気らしいんだよね。おばあさんはパートで忙しいし、新しく介護の人を頼んだりする手続きもあって、実際のところ莉夢まで面倒みきれないの。そこでルネさん再登場ってわけ」
「彼女、今どこに住んでるの?」
「埼玉の賃貸。燃えた家は彼女の親が買った築古で、かなり傷んできてたし、火災保険のおかげで何か儲けたみたいになってんの。ムカつくんだよね」
「それで、莉夢は?」
「今日のところは帰らせたけど、きっと今週中にはルネさんちに連れてかれる」
「しょうがないって事?」
「そこであんたの出番」
美蘭はしれっとそう言って、今日はじめて僕の目を見た。
「出番って、何も聞いてないけど」
「そりゃそうよ、こっちだって大急ぎで計画変更したんだから」
僕はようやく、美蘭がどうして桜丸を追い出したのか理解した。でなければ使い走りは僕に決まってるんだった。
「入り込んでもらう。いつになるか判らないけど」
「でも…」
「うるさいな。あんたのせいで始まった事なんだからね」
またいつもの嫌味な決まり文句。どうやり返そうかかと考えていると、ドアの隙間から茶トラ猫、トハ三七がぬっと顔を出した。どうも桜丸の閉め方が緩かったらしい。美蘭が「うわ、来た!」と腕を伸ばすと、ニャゴ、と返事して寄って来る。
さあ、これはチャンスだ。僕は美蘭に気取られないようトハ三七に意識を飛ばし、一撃くらわす瞬間を狙う。難しいのは、僕が猫を操るために集中すれば、それだけ彼女に気づかれやすいという点。
「七キロいくかな」と言いながら、美蘭はトハ三七を膝にのせ、僕は接触を最小にして目標を絞った。顔はさすがに報復が怖いので、手の甲で勘弁してやろうか。そう考えながらトハ三七と一緒に深く息を吸い込むと、美蘭の胸元から江藤さんの匂いがした。いや、そこだけじゃない。服の上とはいえ、背中、肩、腕、至るところに彼の名残がある。
「江藤さんに会ってたんだ」
思わず口にすると、美蘭は鋭い目でこっちを睨み、膝にのったトハ三七にちらりと視線を落としてから「あんた、何をしゃべった?」と言った。
「あの人、動画に出てたのがサンドとウツボだって気づいてるし、今日も撮影してた猫カフェに現れた」
僕は言い訳を必死で考える。でも美蘭に下手な嘘をつくと後が余計に苦しいので、「確かにこないだ、家にご飯食べに行ったし、動画の話も出たけど、何もばらしてない」と答えた。美蘭は眉間にしわを寄せて、「家にご飯?」と繰り返す。それから思い切り無関心を装って、「奥さん、いた?」と尋ねた。
「いたら行ってない。彼女きっと、僕らのこと嫌いだから」
「そんなの百も承知よ」
美蘭はふふんと鼻をならして、トハ三七の喉元を撫でる。僕はぼんやりと、あの日江藤さんに聞かされた、未遂に終わった情事の話を思い出す。今夜もまた空振りだったみたいだけど、やっぱり美蘭は彼なんか相手にしてないんだ。
「あの人、猫のことも気にはなるらしいけど、それより、莉夢を事務所に引っ張りたいみたい」
「だったらいいんじゃない?紹介料いっぱいもらって」
「無理よ。下手に人気が出たりしたら、ルネさんがネットに流してた動画のことがばれる。ニャーニャはメイクでごまかしてるけど…」
美蘭はふいに口をつぐみ、ドアの方を見た。桜丸が戻ったのだ。彼は「あ、トハ三七!ねえ、その猫すごいだろ」と嬉しそうに入ってきた。
「ちょっとこの重さ限界」と、美蘭は文句を言ったけれど、膝から下ろす気にはなってないみたいだ。桜丸はコンビニの袋をテーブルに置き、「さっきホットチョコレート飲みたいって言っただろ?実は僕、こないだから色々と研究して、お母さまが作ってたのにかなり近い奴を開発したんだ。いま作るから、君たちの意見を聞かせてほしいな」と、生クリームに牛乳、カカオたっぷり大人のブラックチョコレートなんかを並べていった。美蘭は「期待させるじゃない」と笑い、彼が一緒に買ってきたオレンジピール入りのデニッシュを食べ始めた。
結果として、桜丸特製、コンビニブレンドのホットチョコレートはかなりの出来だった。熱くて、滑らかで、苦くて、こくがあって、香りが立って、甘い。僕らは無言のまま、褐色の液体から立ち上る湯気を吸いこみ、最後の一滴まで執念深く飲み尽くした。
「ラーメン屋より、ケーキ屋でバイトした方がいいんじゃない?」
彼女なりの賛辞をのべる美蘭の頬には赤みがさしていて、子供のころの面影を甦らせる。桜丸は少し得意そうではあったけど、「作れるの、これだけだからね」と笑った。トハ三七はおこぼれにあずかろうと必死だったけど、残念ながら猫にチョコレートは毒物だ。彼は空になった生クリームの紙パックをもらい、テーブルの下に隠れて最愛の恋人みたいに舐めまわしている。
美蘭は巨大な猫から解放されて、ふうと一息つき、床に転がしていたバッグに手を伸ばすと、僕のアパートの鍵を放ってよこした。
「そろそろ引き上げれば?あんたの顔みてるの飽きたわ」
「いや、そりゃ、帰るけど。そっちは帰らないの?」
「帰るに決まってるでしょ。あんたとタイミングずらしたいだけよ」
僕だって美蘭にはうんざりなので、大人しく桜丸に別れを告げ、古びたアパートを後にして、人気のない夜道を歩いた。でもまあ、そんなのはうわべだけで、僕の意識の一部はトハ三七につながったままだ。彼は相変わらずテーブルの下で、生クリームを削り取るようにして舐めているけれど、僕が帰った途端に美蘭が始める悪口は聞き逃さない。
「あの子の部屋ってさ、いまだに冷蔵庫も何もないの。風香も呆れてたわ」
「あれこれ選ぶのが面倒だって言ってたよ。一人暮らしは初めてだから、わからないんだろ?」
「じゃあさ、買うのつきあってやってくれない?新生活応援セットみたいなのあるじゃない」
「それは構わないけど、条件が一つだけある」
「何?」
「美蘭も一緒に来ること」
「無理」
「どうして?亜蘭のこと心配なら、自分で面倒みてあげなよ」
「別に心配じゃないもの。もういい。この話なかった事にして」
確かに話題は僕関連だったけど、悪口、というには変な感じがする。美蘭の奴、黙ってしまったけど、一体何を考えてるんだろう。僕は時たまバイクや車とすれ違いながら、ひんやりとした夜の街を歩き続ける。トハ三七はまだテーブルの下にいて、すっかり綺麗になった生クリームのパックをまだ弄んでいる。しばらくして、また美蘭の声がした。
「帰るの、明日の朝でもいい?」
「え?」
「一緒に寝たいの」
「そりゃ、構わない、けど、でも」
桜丸の声はあやふやで、冗談か本気かとうろたえてるけど、美蘭は「大丈夫よ。あんたは何も心配しないで」と言いきった。僕は慌ててトハ三七をテーブルの下から引きずり出し、何が起きているのか確かめさせる。
美蘭が、桜丸の首に腕を回し、食らいつくようにキスしてる。
桜丸は理性なんか一瞬でショートしてしまったらしく、されるがままだ。二人はそうやって長いこと、繰り返しキスしていたけれど、ようやく美蘭が「電気消して」と囁いたのをきっかけに、桜丸は部屋を暗くして服を脱ぎ始めた。でも猫の目にはこの程度の暗さは問題じゃない。そしてもちろん、美蘭にも。彼女はキャミソールとショーツだけ残してあとは全部脱ぐと、ベッドに入って桜丸を抱き留めた。
僕は撤退すべきなのか、このままトハ三七と目の前の出来事を見届けるべきなのか、決断できないまま息をひそめていた。あの猛獣美蘭が、こんなにあっさりと桜丸に抱かれるなんて。玄蘭さんは「うちの一族はさかりがつくと手におえない」と言ってたけど、そういう事なんだろうか。
僕は尚も夜道を歩き続け、意識の片隅から二人の荒い息遣いと、シーツの擦れる音を聞き続けた。でも突然、ひときわ大きな溜息をついて、桜丸が「やめよう」と言った。
「美蘭、何か無理してるだろ?」という問いかけに、彼女はくぐもった声で「大丈夫よ」と答えた。それでも桜丸は身体を起こし、「じゃあ、こんなに震えてるのはどうして?」と尋ねた。
「美蘭、君ほんとうは男の人が怖いんじゃない?」
返事は何も聞こえなくて、桜丸は美蘭の髪に軽く触れた。
「子供の頃にさ、外にいたりして、知らない男の人がそばに来ると、君はいつも僕の後ろに隠れるようにして、ポケットからカッターナイフを出してた。カチカチって、刃を出す音が今も耳に残ってる。大人のこと信用してないんだなって思ってたけど、あれは怖かったんだね?」
それでも美蘭は何も答えず、桜丸に背を向けてしまった。
「ねえ美蘭、正直いって、僕は怖いんだ」
彼は半分身体を起こしたまま、美蘭の髪をその長い指でゆっくりと梳いた。
「こんな事するの初めてだし、君に何か嫌な思いさせたらどうしようって、不安でしょうがない。だからもう少し、このままにしてていいかな?」
桜丸は何だか悲しいような顔つきで美蘭の返事をじっと待っている。僕はトハ三七の中で息をひそめながら、絶好のチャンスを見送ろうとしている、彼の要領の悪さに呆れ果てていた。
酔っぱらって帰ったらしい住人が足音を響かせて廊下を歩いて行き、隣の部屋のテレビは天気予報を流し始める。桜丸が再び口を開こうとした時、美蘭が小さな声で「好きにすれば」と言った。
次の瞬間、何かがすごい勢いでぶつかってきて、僕は焼き鳥屋の看板と、積み上げられたビールケースの間に背中から突っ込んでいた。
僕の目の前には倒れた自転車と、中腰でこちらを見ている男がいる。スーツにデイパック、どうやら勤め帰りらしい彼は、僕が何故ここにいるのか判らない、という当惑を隠しもせずにじっとしていたけれど、僕がどうにか身動きしたのを見届けると、手さぐりで自転車のハンドルを握って起こし、視線をこちらに向けたままサドルにまたがると、何も言わずに走り去った。
どうやら僕は、自転車にはねられたらしい。
ビールケースの間から這い出して、そろそろと立ち上がる。とりあえず動けるけど、あちこち痛くて結局どこがどうなってるのか判らない。でもまあいいかという気もしてきて、僕はそのまま歩き出した。後ろの方で焼き鳥屋の引き戸が開いて、誰かが呼びかけてきたけど、もちろん面倒くさいから振り向いたりしなかった。
いつの間にか僕はアパートに辿り着き、玄関ではサンドとウツボが待ち構えていた。足元にまとわりつく猫たちをよけながら部屋に入ると、僕は明かりもつけずマットレスに座り込んだ。左の手首に擦り傷があって、肩と顎と背中がひどく痛んだけれど、そんなのは寝れば治まるような気がする。
そのまま横になると、僕はゆっくり目を閉じた。足元ではサンドがうろうろと寝場所を探していて、ウツボは一足先に美蘭のセーターの上に丸くなっている。猫たちの波動をぼんやりと感じながら、僕はある考えを弄んでいた。どうせ新しい傷になると判ってるんだけど、剥がさずにいられない、治り切らないかさぶたみたいな執着。
そして僕はもう一度、トハ三七に意識を飛ばした。
桜丸の脱ぎ捨てたパーカーの上に、トハ三七は巨体を丸めて眠っていた。僕は彼をそっと起こし、眼を開く。部屋は暗いままで、隣のテレビは通販番組を流している。ベッドからは寝息が二人分聞こえてきて、僕はさっき自転車にぶつかってから、どれだけの時間が経ったのかと考えてみる。その間に何が起きたのかを。
トハ三七は僕の指図に従い、静かに立ち上がるとベッドに近づいた。美蘭と桜丸はアクリル毛布と薄い布団にくるまっていて、猫の目線ではわずかに覗いた美蘭の髪しか見えない。もう少しよく見ようと近づくと、いきなり細い腕が伸びてきて、首筋つかんで引き寄せられた。
猫は宙吊りにされたまま、薄闇に見開いた美蘭の左目に走査される。彼女がほんの少し目を細めたのは、僕に気づいたせいかもしれない。だとしたら本気で半殺しだ。その時、桜丸が「どうしたの?」と寝ぼけた声を出した。美蘭はちらりと後ろに視線を投げて「トハ三七」と答える。それから、「一緒に寝ていい?」と尋ねた。
「もちろん」という返事があって、桜丸はまた寝息をたて始める。美蘭は少しだけ身体を起こし、キャミソールを着たままの胸元に空間を作ると、そこに猫を抱き込んだ。トハ三七は自分の周囲を前足で何度か押して身体の位置を決め、枕に顎をのせると一瞬で眠りに落ちてしまう。
僕もそれに引きずられるようにして、沼のような眠気に沈み込んでゆく。薄っぺらい美蘭の胸は思ったよりずっと柔らかくて、枕からは涙の匂いがした。
22 一人になりたくないの
「あんなに遅い時間に帰らせて、莉夢の家の人、何も文句言わなかった?」
学校の裏門から徒歩三分の定食屋。人目があるので、俺は女子を装ったまま美蘭に尋ねる。彼女はメニューを閉じると「知らない。だって家まで行ってないし」と答えた。
「私、表向きは一切あの子と関わりなしだもん。何時に帰ろうと、それは変わらないわよ」
「でもさ、それで莉夢は怒られたりしないの?」
「しないみたいね。おばあさんはパートの時間が不規則で、夜にいないことも多いらしいから」
美蘭はそっけなく言うと、お茶を一口飲んで、特盛のソースカツ丼を注文した。俺はおろしハンバーグ定食で、ごはんを半分にしてもらう。バスケ部で練習しまくってた頃は平気で一人前いけたんだけど、ここは基準量が大盛りなので、引退した今はちょっと苦しいのだ。
この前の日曜、猫カフェでの撮影を終えた帰り、莉夢は急に家に戻らないと言い出し、俺はそれにつきあう羽目になった。あの子は大人しそうに見えてなかなか頑固で、俺なんかが宥めすかしたところで簡単に従ったりしない。多分、腹の底では美蘭のことしか信用してないんだろう。
でも、その美蘭がなかなかつかまらなくて、ようやく姿を現したのはほぼ十時。それまで俺と莉夢は、独房みたいに殺風景な亜蘭の部屋で、猫二匹と一緒に立てこもっていたのだ。そりゃ途中でコンビニに行って、お菓子や雑誌を買ったりはしたけど、正直ちょっと長すぎた。
美蘭は莉夢のことを叱りつけるわけでもなく、ただ冷静に「あんたまだ子供なんだから、大人が決めた場所に住まなきゃ駄目よ」としか言わなかった。猫たちと遊んで、いったんは笑顔が戻っていた莉夢は、また涙を浮かべたけれど、そんなもので手加減なんて一切なしだ。
美蘭は俺に「ごめんね、色々ありがとう」とだけ言うと、莉夢を送っていった。そして俺は美蘭と遊び歩いてたふりをして家に帰ったのだ。
「ねえ、なんかいい事あった?顔に書いてある」
たぶん図星だろうなと思いながら、俺は美蘭に問いかける。莉夢との事があった日曜の夜はちょっと疲れてて、どこかとげとげしい感じさえした彼女。月曜は学校に来なくて、火曜の今日は昼ごはん食べに現れたようなものだけど、妙に穏やかな雰囲気で、表情も柔らかい。
美蘭は少し眉を上げて「とりたてて報告するような事はないわ」と、意外に素直な答えをくれた。
「でも少しは進展あったでしょ?絶対そんな感じするもの」
「なくはないけど、やっぱり駄目。すごくぎくしゃくして、自分が自分じゃないみたい。あんたとだったら大丈夫なのに」
「要するに、緊張しちゃってるんだ。でも気にすることないよ、あっちにリードさせればいいんだから」
「でもなんか、向こうも遠慮してて」
「いっそ強引に、奪ってほしい?」
思い切って口にした問いには何も答えず、美蘭は頬杖をついて目を伏せた。俺はそれ以上余計な事を言うのは止めて、店の奥に視線を移す。近所の会社の人やなんかに混じって、うちの生徒も何組か来てるけど、まさか俺たちがこんな話をしてるなんて、誰も思いはしないだろう。身勝手な話だけど、俺は彼女がまだ江藤さんのものになってない事に安堵して、優越感に浸ってる。
やがて美蘭は軽く溜息をつくと、「鬱陶しい。何をヒロインぶってんだか」と笑った。でも何故だろう、悩んでるみたいな言葉の割に、どこかふっきれたような気配がある。俺は率直に、「美蘭さあ、少し変わったね」と言った。
「そんな風に、自分の弱さみたいなの見せるなんて、びっくりした。でもその方が絶対いいよ。男ならそこに惚れる」
「冗談やめて。大体さ、特盛のソースカツ丼食べる女なんてお呼びじゃないし」
美蘭はそう言うと、ちょうど目の前に出された大きな丼に顔を近づけ、立ち上るソースの香りを深く吸い込むと、勢いよく食べ始めた。
「そっちこそ、沙耶ちゃんと最近どうなのよ」
美蘭は一息つくと、話題を変えてくる。
「どうもこうも。追い込み入ってて、マジですごいよ。冬休みも毎日学校らしくて、寝るのと食事以外は全部勉強って感じ。恋愛したいとか騒いでたのも、また封印だしね」
「そうなると、却って心配しちゃうわね」
「まあ、受験が終わったら弾けるつもりみたい」
「あんたは黙って見ておくの?」
食べるペースは全然落とさずに、美蘭はキツいことを聞いてくる。俺はこの前思い切り醜態をさらしたところだし、黙って見てられるはずはないんだけど。
「他に選択肢ないからね。こっちは最低あと五、六年は女のままだし」
「もう学校の願書出しちゃったの?お母さまうまく説得できたんだ」
「説得っていうか、ゴリ押しに近かったよ。パパが意外と味方になってくれて、風香が自分で決めたんだからいいだろうって」
俺は結局、大学じゃなくて専門学校に入ることにした。医療系の学校で理学療法士の資格をとるつもりだけど、大学を選ばなかったのは、沙耶より先に社会人になりたいから。資格があれば仕事に困らないし、男に戻ってからも続けられそうなところも気に入った。仕事自体はまあ、バスケ部の先輩が靭帯切って入院した時に初めて知ったぐらいで、詳しいわけじゃないんだけど。
「ママはやっぱり、大卒にこだわってるんだよね。同じ資格がとれるんだったら、四年間ゆっくりすればいいじゃない、とかさ。要するに大学卒業して、いいとこ就職して、エリートサラリーマンと結婚して、孫の顔見せてほしいんだよね」
「自分と同じ幸せって事か」
「どうだろう。うちのパパはエリートってわけじゃないし」
「でもバリバリ仕事して、立派な家に住んで、奥様は専業主婦で、娘は名の通った私立学校に通ってる」
「だけどママは、海外駐在してみたかったって言ってるよ。お手伝いさんのいる生活したいんだって」
「なるほど。そういう上昇志向の強い奥様がいると、男の人は出世するんだ」
そう言って美蘭は笑ったけど、本当に、うちのパパはエリートじゃないし、出世してるかどうかも疑問だ。新卒で機械メーカーに入って、ずっと営業で突っ走ってきただけ。ママとは友達の紹介で知り合ったらしいけど、妹の君香おばさんによると、当時のママは失恋したとこだったからパパにしがみついただけで、本当の理想はもっと高いらしい。
「あーら美蘭、お久しぶり!」
またうちの生徒が三人入ってきたと思ったら、バレー部の連中だ。杏樹は「ここお邪魔していい?」と言いながら、もう美蘭の隣に座ってる。確かにもう四人掛けのテーブルは埋まってて、残りの二人は「じゃあうちら、カウンターいくね」と、奥へ流れて行った。
「相変わらず豪快に食べてるんだ。ね、一口おくれ」
杏樹がねだると、美蘭はトンカツを一切れつまんで彼女の口に放り込んでやった。
「ん、おいしい!杏樹は何にしようかな。ただいまダイエット中につきまして」
「だったら人の食べ物ねだるなっての」
そう美蘭に突っ込まれても、杏樹は「一口だから大丈夫」と受け流し、わかめうどんを注文した。
「そんなの、一瞬でお腹空くんじゃない?」
「だからいいの。ダイエットだもん。うちのお母さん全然協力してくれなくて、昨日の夕飯にまた揚げ物出してきたから喧嘩しちゃった」
「そりゃ作ってる側からすれば、腹が立つかもね。おまけにあんた、デブってないし」と、美蘭はソースカツ丼のラストスパートに入っている。
「まさか、目標体重かなりオーバー。だからサラダだけでいいの。クラブ引退したし、進路も決まったし、杏樹は本格的に自己改造するつもりなの」
「自己改造って?」俺はちょっと、その言葉に興味があった。
「うん、まずは部活で蓄積しちゃったお肉をすっかり落とすでしょ、それで、電車なんか乗ってても、すぐにヨロヨロってなるぐらい、華奢な感じにするのね」
とはいえ、杏樹はけっこう骨太で、身長も俺より少し高いほどだ。いくら筋肉を落としてもそれなりにがっちりした外見は変わらない気がした。
「まあね、理想は美蘭なのね。それぐらい細くなったら、あとは髪型変えて、カラコン入れて、お人形さんぽい印象にするんだもん。大学じゃ最初っからそのイメージでいきたいから、早いとこ始めなきゃ」
「なるほどね」と、美蘭はほぼ聞き流してるのに、杏樹は「ぜったい期待してね」と張り切っている。
「つきましては、彼氏の方も作りたいんだけど、あの子まだフリーかな?ラーメン屋さんの」
「桜丸?」と、俺が聞き返すと、彼女は「もしかして、風香も気がある?」と、目を丸くした。
「いや全然。ただ、杏樹ってビジュアル系みたいなのが好みかと思ってたから」
「まあね、でもあの彼、真面目で優しそうで、色々わがままきいてくれそうじゃない。学校もいいとこだし。ねえ?」と同意を求められて、美蘭は「かもね」と軽く頷いた。
「でもさ、こないだ会ったら、彼女っぽいのと一緒だったよ」
「うっそ!やっぱりお店行った時に、グイグイいけばよかった。でも、彼女っぽい、ならまだいけるかも。杏樹とキャラかぶってる?どんな感じの子だった?」
「可愛げのない女。なんでこんなのがいいんだろ、って思ったけど、好きなんだってよ」
「なにそれ、本気じゃん。最悪!」
杏樹の大げさなリアクションとは対照的に、美蘭は別に面白くもない、といった顔つきだ。それなりに妬いてるのかもしれない。
予想通り、わかめうどんなんか一瞬で平らげて、杏樹は「やっぱ甘いもん食べたい。三人であんみつシェアしない?」と言い出した。俺はそういう食べ方は苦手なので「のってあげたいけど、昼休み終わっちゃうし」と、スマホの時計を見せる。
「うっそ、もうこんな時間?亜蘭のことなんか構うんじゃなかった」
「え?亜蘭、来てたんだ」
そういえば、あいつの姿も今週は見てないけど、日曜の事があるから、一言お礼は言っとくべきだろう。
「さっき校門のとこですれ違ってさあ、もう笑っちゃうから」
「なんで?」
「だって、顔にすっごい痣つくってて、どしたの?って聞いても、別に、なんて、平然としてるんだもん。カツアゲでもされたんじゃない?」
俺は思わず「知ってた?」と美蘭に尋ねたけど、返事は「関係ないし」だった。
でもまあ、口ではそんなこと言ってても、気にはなったみたいで、美蘭は午後の授業が終わるなり、帰ろうとしていた亜蘭をとっつかまえた。
「ほんとだ、面白い事になってる」というのが最初の一言だったけど、実際には面白いどころじゃない。強烈な左アッパーでもくらったみたいに、顎から頬にかけて派手に内出血していて、右の手首にも生々しい擦り傷が残ってる。
「あんた一体、何やったの?」
美蘭は腕組みをしたまま、唸るように言った。
「自転車にぶつけられた」
「いつ?」
「こないだ、桜丸のとこから帰る途中」
「それであんた、相手と話はしたの?」
「してない。ちょっとぼんやりしてたから」
「よく言うよ。いつだってす、ご、く、ぼんやりしてるくせに」
美蘭は苛立ちを隠せない様子で、こんどは「脱いで」と命令した。亜蘭はあからさまに面倒くさいという顔つきになったけれど、「聞こえてんの?」という言葉に小さく舌打ちをしてから、のろのろとブレザーを脱いだ。
それまで教室には何人か残ってて、遠巻きに見てたんだけど、亜蘭がシャツのボタンを外し始めた頃には、誰もいなくなっていた。よく考えたら、俺もそこで席を外すべきだったけど、ついタイミングを逃してしまって、じっと二人のやり取りを見てるしかなかった。アンダーシャツだけになった亜蘭の肘にも痣は残ってて、どうやら奴の動作がのろいのは、痛みが原因のようだった。
「まだ脱ぐわけ?」
「背中。それだけ見せればいいから」
亜蘭は明らかに「面倒くさい」と主張する溜息をついてから、こちらに背を向けてアンダーシャツを半分ほど脱いだ。美蘭に劣らないほど白い奴の背中は、ちょっとした現代アートみたいに赤紫の内出血で禍々しく彩られていて、俺は思わず「うっわ」と声をあげてしまった。美蘭はきつく腕を組んだままで、「呆れた」と呟いてから「もういい、服着な」と言った。
「亜蘭、それ相当痛いんじゃない?病院とか行った?どっか折れてたりしない?」
姉の美蘭をさしおいて、俺の方が慌ててしまう。よく考えたら、自分の部屋にいた亜蘭を追い出して、桜丸のところに行かせたのは俺と莉夢だし、何だか責任があるような気がしてきたのだ。でも亜蘭は「昨日は動けなかったけど、今日はましだから、どれだけ動けるか試しに学校に来たんだ」とか言ってる。
「本当呆れるよね。加害者つかまえて金払わせなくてどうすんのよ」と、美蘭は口惜しそうだ。でも当の被害者である亜蘭は淡々と、シャツだけ着てブレザーを肩にかけると「それじゃ」と、出ていこうとした。
「面白いもの見せてもらって有難う。そういえばさ、宗市さんが顔出せって言ってたわよ」
「僕だけ?なんで電話してこないのかな」
「知らない。とにかく顔出せってさ」
美蘭はそれだけ言うと、教室を出て行く亜蘭を見送った。俺の方が何だか落ち着かなくて、「ねえ、あれ本当にかなりヤバいんじゃない?」とか言ってたんだけど、美蘭は「自力でここまで来たんだから、大丈夫でしょ」と、平然としている。でも奇妙なことに、組んでいた腕をほどいた彼女の指先は、小刻みに震えていた。
「美蘭、気分でも悪いの?手、震えてるけど」
「お腹空きすぎちゃって。低血糖だね」
「昼にあんだけ食べてて?」
「甘いものは別腹だもん。杏樹の言うとおり、あんみつ食べればよかった」
いつの間にか美蘭の穏やかさは消えていて、代わりに苛立った空気をまとったまま、彼女はスマホを取り出すと何やらメールを打ち始めた。でも半端なく指が震えてるもんだから、何度も間違っては舌打ちをしてる。俺は傍にいてはいけないような気がしてきて、「じゃあ、お先に」と声をかけてその場を離れることにした。
「待って、勇斗」
背中から美蘭の声が追ってくる。振り向くと彼女はこちらを見ていて、「一人になりたくないの」と言った。
一人は嫌とはいえ、二人きりもイマイチな気がして、俺は美蘭をうちに連れて帰った。ママはもちろん喜んじゃって、せっかくだから焼肉でも食べに行く?その後でカラオケは?なんてはしゃいでたけど、俺は自分が風邪気味って事にして、うちでふだん通りの晩ごはんを食べた。
あれから何も甘いものなんか食べなかったのに、美蘭の震えはいつの間にかおさまって、ママの前ではいつもの元気でおしゃべりな彼女に戻っていた。俺は二人のためにわざわざケーキなんか買いにいったりして、男ってのはどうしてこうも女のご機嫌をとってしまうんだろう。言い換えれば、不機嫌な女ほど男の居心地を悪くさせるものはない、って事かな。
食事が済んでしばらくすると、美蘭は「急にお邪魔してすみませんでした」なんて、あっさりと帰っていった。ママは「いいじゃない、泊まってけば。パパなんか気にしなくていいわよ」と、全力で引き留めたけど、俺には何となく、今の美蘭はまた一人になりたいんだと判った。
たぶん彼女の中には、誰かと一緒にいたいのと同じぐらい、一人でいたいって気持ちがあって、いつもそれが本当に微妙なところで揺れ動いているのだ。
その日の夜遅く、俺が歯を磨こうと一階に降りてゆくと、リビングでテレビを見ていたママが、仮面みたいなパックをしたまま「美蘭ちゃんから、今日はごちそうさまでしたって、メール来ちゃった」と喜んでいる。あいつはこういうところが本当にぬかりない。
「泊まってくれたら、このパック試してもらえたのにね。今話題の漢方エキス配合らしくて、もちもちプルプルよ」
「美蘭はそんなの使わなくても大丈夫だよ」
「あら、今からやっとくと、十年後が違うのよ。風香も美蘭ちゃんも十年後にはもう二十八よ。三十手前よ」
「はいはい」と相槌を打ちながらも、俺は二十八の自分なんてうまく想像できずにいた。予定ではもう働いてるし、順調に貯金できてれば、手術を受けて男に戻ってるだろうし。でも、沙耶はどうしてるだろう。
「あらやだ、蜂だってよ。スズメバチ」
ニュースに反応したママの声に、俺は我に返った。
「夜道でスズメバチの群れに襲われたって。考えただけで発狂しそう」
ママは虫関係を異様に怖がるんだけど、詳しく見ようにもニュースはもう次の話題に移っていた。
「なんかさ、今年は異常気象で、スズメバチが大量発生してるらしいよ。美蘭の知り合いの家、屋根裏に巣ができてて、駆除できるまで住めないんだって」
「ちょっと、怖いこと言わないでよ」
まだ騒いでいるママを残して、俺は部屋に戻るとスマホでこの事件を検索してみた。驚いたことに、現場は亜蘭のところにけっこう近い。自転車で帰宅途中の会社員が、突然現れたスズメバチの群れに襲われて転倒、全治三週間の怪我をしたらしい。
何故だか判らないけど、俺はスズメバチと聞くと美蘭を思い出してしまう。やたらと攻撃的なところとか、獰猛なのにすごく綺麗な姿だとか。
彼女はいま、一人で何してるんだろう。でも、「一人になりたくないの」って言えるようになったんだから、やっぱり誰かと一緒かもしれない。その一方で俺は、彼女がそんな事言える相手は自分しかいないと、うぬぼれてみたりするのだ。
23 ずっとさがしてる
美蘭に騙された。
宗市さんから呼び出しって話だったのに、行ったらその場で車に乗せられ、強制的に一泊二日の検査入院なんて。
病院、といってもここは新しいくせに評判が悪いのか、他の患者をほとんど見かけない。四階にある僕の個室は、ちょっとしたホテルのような雰囲気で、いま住んでるアパートより立派だ。十分に広い上にテレビがあって、テーブルと椅子が二脚、クローゼットに冷蔵庫まである。そしてもちろんバストイレ付き。でも枕元にナースコールや酸素の端末があるから、ここは病院だと思い出すのだ。
僕をここに案内してきた看護師さんはかなりの美人。いやに身体のラインが出た白衣と甘ったるい喋り方のせいで、コスプレかもしれないという気すらした。でも実際にはてきぱきと体温や血圧を測って、僕の手首に名前が入ったプラスチックのリストバンドを取り付けた。そして「こちらの服に着替えて下さいね」と、水色のパジャマみたいな上下を置いていった。
僕は優しい女の人の言うことなら素直にきくから、ちゃんと着替えて、子供の頃に寮でそうしていたように、脱いだ制服はクローゼットにかけておいた。それからベッドに寝転がり、もしこの後また彼女が現れ、僕の男性機能を検査しようとしたらどうしよう、なんて事を考え始めた。
そこへいきなり誰かがドアをノックするもんだから、僕は慌てて飛び起きた、つもりだったけど、実際にはあちこち痛くて、安っぽいアニメーションみたいにしか動けない。その間にドアを開けて、入ってきたのは宗市さんだった。
「どう?何も問題ない?」
さっきは有無を言わさず僕を病院送りにしたくせに、彼はとてもにこやかだ。
「こんなの面倒だから、帰りたいんだけど。まだ猫を預かったままだし、餌をやらないと」
僕の言葉を聞いて宗市さんは「亜蘭らしからぬ、責任感ある発言だね。心配しなくても美蘭がやっといてくれるよ」と笑った。
「ぶつかった相手が自転車だろうと、交通事故ってのは侮れない。僕の友達は乗っていた車が追突されて、三日してからとつぜん両腕が動かなくなった。色々と治療したけど、今も左手が少し不自由だ」
例によって、宗市さんはお伽噺でもするような口調で脅しめいた事を言うと、ベッドに腰をおろし、手にしていたクリップボードに何やら書き始めた。
「それ何?」
「問診票。君がこれまでにどんな病気をしたか、毎日の生活習慣はどうか、なんて事を申告しておくんだ」
「そんなの別に関係ない」
「情報としては伝えておく必要がある。それに、いい機会だから頭のてっぺんから足の先まできちんと調べろって、美蘭が言ってるからね」
「美蘭の奴、僕が病院なんか大嫌いだと知ってて、わざとこういう嫌がらせするんだ」
「そうじゃなくて、君のことを気にかけてるんだよ。さあ、小さい頃の事は書いたから、あとは自分で答えて」
宗市さんはそう言って、クリップボードとボールペンを僕の方に差し出した。「これまでにうけた手術」という欄があって、「生体腎移植」と書いてある。僕はその答えを見ないようにそろそろと紙をめくると、「妊娠していますか」なんて質問に答えていった。
「亜蘭、怪我だとか病気だとか、自分一人じゃどうにもならない時は、すぐに僕や美蘭に言わなきゃ駄目だよ」
「どうってことないよ。じっとしてれば、そのうちよくなるんだから」
「そんな猫みたいな事言ってないで」
宗市さんは呆れたように溜息をついたけど、実際のところ僕は猫からこの真理を学んだのだ。きっと美蘭だって同じようにしてるはずだ。
「玄蘭さんはちゃんと話してないかもしれないけど、夜久野一族の人ってのは、とにかく不摂生で、治る病気をろくに手当もせずに亡くなったりしてるんだからね」
「まあ、当然じゃない?面倒だもの」
僕は「一日の睡眠時間」の「十から十二時間」に印をつけながらそう答えた。うちの一族は不摂生というより自堕落だから、病気の手当なんかまともにするわけがない。おまけに、まあこれは僕自身もそうなんだけど、何かにつけて上の空だったり、思いつきで行動して命を落とすことも少なくない。
台風が直撃してるのに、何だかそわそわして海を見に行くとか、自転車のブレーキをかけるのが面倒で、信号無視で交差点に突っ込むとか、そんな感じであっけなくご臨終。かと思えば、僕と美蘭の母親みたいに、何も考えずに子供を産んだりするから、増減はほぼゼロのはずだった。
「だからさ、そういうところに気をつけないと」
宗市さんは心配そうにたしなめる。でも、と僕は思う。彼や玄蘭さんが曲りなりにも僕の健康状態を気にかけていたのは昔の話、正確には今年の五月、僕と美蘭が十八になるまでの事だ。それまでは僕らの父親から養育費が支払われていたから、生かしておく必要があったのだ。
じっさい会った事はないけど、僕と美蘭の父親は柊貴志といって、政治家の秘書をしている。彼の父親、つまり僕らの祖父は国会議員の柊源二で、閣僚経験者でもある。その伯父もまた政治家というわけで、要するに政治家ファミリーの人間だ。
僕らの父親は学生時代、夜久野火積という小娘に引っかかって、出来心でつき合った。あっという間に別れたけれど、彼女の顔すら忘れた頃に、双子が生まれると知らされた。この話を携えて柊家に接触したのは玄蘭さんで、彼は祖父の柊源二と、どう片をつけるか談判した。たぶん脅迫まがいの手口でも使ったんだろうけど、僕らのことは公にしない代わりに、けっこうな額の養育費を受け取るという話に落ち着いたのだ。
だからまあ、僕と美蘭は玄蘭さんにとって頭痛と厄災の種ではあったけれど、ちょっとした金蔓でもあり、おかげでどこかの海中に遺棄されずにすんだ。しかしその魔法も既に解け、玄蘭さんの仕事を引き継ぐ美蘭はともかくとして、僕には何の利用価値もない。だから本当のところ、死のうがどうしようが、問題じゃないのだ。
病院の早い夕食の後は絶飲食という命令が下って、僕はこれといってすることもないまま、無駄に立派な病室に閉じ込められていた。
テレビも大して面白くなくて、ただ寝転がって白い天井を見上げる。退屈しのぎに宗市さんが置いていってくれた推理小説も読む気がしないし、スマホも触ろうと思わない。とにかくこの、病院という場所が僕の意志を吸い取っているので、濡れた毛布みたいにまとわりつく無力感に耐えるしかない。その合間に息継ぎするように、もしやあの優しい看護師が現れるんじゃないかと期待してみるのだ。
そうするうちに、僕の意識は時々白く飛んで、今がいつで、自分は何歳なのか判らなくなってくる。病室は静まり返っていたかと思うと、奇妙なざわめきに包まれ、明るくなったかと思うと暗くなり、枕元で何かの機械がせわしなく泡をたてていたり、身体中に奇妙な管がつながれていたりする。
僕の全身はどんどん重くなり、自力では指一本動かせず、足元から少しずつ冷たく痺れてゆくのが判る。このままではどこか暗く凍った場所に引きずり込まれるような気がして、僕は誰かに助けを求めようとする。でも鼻と口にはプラスチックのマスクが覆いかぶさり、乾いた空気を送り込み続けていて、唇も喉もからからだ。それでも僕は何とか声を絞り出して助けを求める。
「美蘭…」
言葉が零れ落ちた途端、現実の世界が戻ってきた、部屋の明かりは煌々と辺りを照らしていて、身体には管も何もつながれていない。僕は軋むような背中の痛みに耐えながら腕を伸ばし、枕元のスイッチを探って明かりを落とした。
これだから病院は嫌なのだ。普段は思い出そうにもぼやけきっているあの出来事が、この場所にくると封印を解かれたように息を吹き返す。もう全てすんだ事なのに、始めから終わりまでやり直す羽目になる。
僕はそろそろと寝返りをうち、大きな枕を抱え込んで丸くなった。そして、近くにいる猫を探し始める。
車に乗っていた時から、この病院が海に近いことは判ってたけれど、ここからあの、撮影用に借りた猫を飼っている、ナツメさんという元女優のマンションは遠くなかった。どうやらベイサイドの同じ再開発エリアにあるらしい。最初に僕が捉えた猫の波長は、アビシニアンのロブ。彼はキャットタワーの上で毛づくろいをしている最中だった。
僕はしばらく彼と一緒に全身を舐めまわし、悪夢の名残をどうにか拭い去ると一息ついた。そのまま寝てしまってもいいんだけど、ロブはこれから遊ぶつもりらしくて、大きく伸びをするとキャットタワーを跳び降り、人の声がする方へと駆けていった。
この前ここへ来た時に僕らが座っていた人間用スペースには、ナツメさんが寛いでいた。彼女の傍には男が一人、こちらに背中を向けて座っている。けっこう大柄で、彼氏ってやつかもしれない。遊牧民のキャンプを思わせる、絨毯とクッションで構成されたその空間で、二人は酒を飲んでいるみたいだった。
床に置かれた小さなスピーカーからはジャズが低く流れ、そのすぐ前に寝そべっているロシアンブルーのソフィアの長い尻尾が、ベースのリズムに合わせるように揺れ動く。ロブはナツメさんが羽織っているストールのフリンジが気になるらしくて、後ろからこっそり回り込んだけれど、手を出す前に「もう!ママのお洋服においたしちゃ駄目」と、つかまえられてしまった。
ナツメさんはそのままロブと僕を抱え上げ、胡坐をかいている膝にのせると、喉元を撫でる。でもロブはそこで落ち着く気などなくて、軽く猫パンチをくらわせると逃げ出した。頭の上からは「遊び足りないんだな」という太い声が降ってきたけれど、何だかその声に聞き覚えがあるような気がして、僕はロブの耳をそちらに向けた。しかし後に続いたのはナツメさんの、「うちの末っ子ちゃんだもの、ねえ」という笑い声だけだった。
再び伸びてきたナツメさんの腕をすり抜けて、ロブはソフィアの方に近づいた。僕はそのついでに少しだけ彼の視線を上げ、男の顔を確かめる。そして驚きのあまり立ち止ると、その名を呼んでいた。
「亮輔さん!」
もちろん猫の口は人間の言葉を話す構造じゃないから、ロブが発したのは「ニャオ」とか、そんな声だった。それでも僕の気持ちは十分に伝わったようで、彼は「おう、どうした?」と返事をした。僕は慌てて彼の膝に前足をのせると伸びあがり、その顔をよくよく確かめる。記憶よりくたびれた感じで白髪もあるけど、桜丸の父親、亮輔さんであることに間違いない。
「何か用でもあるのかな」と彼は笑い、ナツメさんは「猫って男の人の膝が好きなのよ。体温高いから。冷え症で損しちゃったあ」と不満そうに言うと、氷だけになっていたグラスに焼酎のボトルを傾けた。
「雄猫に気に入られても仕方ないな」と言って、亮輔さんは大きな手で僕とロブを頭のてっぺんから尻尾の先まで何度か撫でた。そして「じゃあ、そろそろ失礼するよ」と告げて立ち上がる。ナツメさんはグラスの氷を軽く鳴らして「人間の雌には興味ないの?」と尋ねた。
「なくはないけど、これから仕事じゃしょうがない」
亮輔さんは桜丸によく似た声で笑うと、ゆったりとした足取りで玄関へと歩いていった。ナツメさんは無言のまま、見送ろうともせずにグラスを口に運ぶ。よく見ると飲んでいたのは彼女だけで、亮輔さんのグラスはなかった。僕は急いでロブを促すと、亮輔さんを追った。
彼はトレーナーの上にナイロンのジャケットを羽織り、下はジーンズにスニーカーという服装だ。どれも量販店の一番安そうな奴。手ぶらで、ジーンズの後ろポケットに入れてる財布だけが所持品らしかった。
「亮輔さん」
僕はもう一度呼びかけてみた。玄関のドアノブに手をかけていた彼は振り返ると、「じゃあな」と笑みを浮かべてもう一度頭を撫でてくれた。僕は何だか涙が出そうだったけど、猫はこんな時に泣くような動物じゃないので、ただじっとしていた。そして、海沿いの湿った夜気の中に出て行く亮輔さんを見送るしかなかった。
気がつくと、僕は薄暗い病室でベッドに横たわっていた。とりあえず、寝てる場合じゃない。亮輔さんのことを美蘭に知らせようと電話してみたけど、着信拒否。病院に入れるために騙し討ちにしたから、報復を警戒してるんだ。では桜丸に伝えるべきか?そうなると、どうやって亮輔さんを見つけたか、説明するのが難しい。いや、それより、今この瞬間にも、亮輔さんはこの病院からそう遠くない場所を歩いているはずだ。
僕は痛む身体をなだめすかして起き上がると、クローゼットの制服に着替えた。名前の入ったリストバンドはつけておくしかないけど、袖に隠れるから大丈夫。そして、誰かに見とがめられると面倒だから、建物の外にある非常階段で降りることにした。一度出てしまったら戻れない構造になってるけど、その方が有難いし。
外はけっこう寒く、風も強かった。わけもなく胸騒ぎを誘う海の匂いを感じながら、僕は足音をたてないように階段を下りていった。目の前には高層マンションが三棟並んでいる。
カーテンごしの暖かい明かりだったり、蛍光灯の青ざめた光だったり、真っ暗だったり。マンションにある無数の窓はそれぞれ違った表情を見せながら、不思議なモザイクを作っている。ナツメさんの部屋は一番向こうの棟にあるけど、その先は海岸だ。亮輔さんはこれから仕事って言ってたから、この病院の方から大通りに出るつもりだろう。まだ近くにいればいいけど。
僕は非常階段を降りると、植え込みの脇を抜けて二車線の通りに出た。それからナツメさんのマンションとは逆方向、大通りを目指して、できる限りの急ぎ足で亮輔さんの姿を捜した。でも、殺風景な湾岸の再開発エリアは、どれだけ歩いても前に進んだという感じがしない。遠くには高速道路とビルの群れが見えるし、行き交う車の音だけは川の流れのように聞こえてくるのに、僕の周囲の景色だけは変わろうとしない。
何だかまだ、さっきの悪夢の中に閉じ込められたままで、同じ場所を回り続けているような気分になってきた頃、僕はようやく前方に黒い人影を見つけた。
「亮輔さん」
呼び止めようと叫んでみたものの、僕の声は一瞬で風に吹き散らされてしまった。実のところ、普段から大声なんて出したことないし、叫ぶって一体どうしたらいいのか、よく判らないのだ。とにかく、僕は少しだけ立ち止まり、二三回深呼吸らしきものをして、喧嘩で唸り声を上げる雄猫を思いだしながら、「亮輔さーん」ともう一度呼んでみた。
ようやく、その人影は立ち止り、何かを確かめるように辺りを見回す。僕はまた彼の名を呼んで、なるべく「走る」という行為に近い動きで彼の後を追った。
「…亜蘭?」
意外なことに、彼はすぐに僕が誰か判ったみたいだった。僕がようやく追いつくと、彼は険しい表情で「誰かに追われてるのか?」と言った。
「そうじゃなくて、僕が亮輔さんを追いかけてきたんだよ」
「でも、その顔はどうしたんだ」
言われて初めて、僕は自分の顔にひどい痣があるのを思い出した。
「これは大丈夫。ちょっと自転車にぶつかっただけだから」と説明すると、彼はやっと少しだけ笑顔になった。
「そうか。しかしなんて偶然だろう。ついさっき、知り合いの飼い猫から同じように呼び止められたところなんだ。それで、わけもなく君の事を思い出していたんだよ。猫とすごく仲のいい子がいたなあって」
それから亮輔さんは、実在するかどうか確かめるように僕の肩や腕に触れると、「背が伸びたな」と言った。
「桜丸も背が伸びたよ。亮輔さんのこと、ずっと探してる」
僕がそう言うと、亮輔さんの笑顔は消えて、代わりに何だか申し訳なさそうな表情が浮かぶ。彼は僕に触れていた腕を引っ込めると「せっかく会えたのに悪いけど、これから仕事で移動なんだ」と言って、また歩き出そうとした。僕が慌てて「ついて行っていい?途中までだけど」ときくと、亮輔さんは困ったような顔になり、「こんなところで、また亜蘭に追いかけ回されるとはな」と笑った。
小さい頃、桜丸の家へ「お泊り」に押し掛けると、僕はとにかく亮輔さんの後をついて回った。彼が仕事とボランティア活動に明け暮れていて、あまり会う機会がなかった事もあるけれど、男親が物珍しくて仕方なかったのだ。小学校は女の先生が多かったし、男の先生はけっこう年齢が高かった。後見人である玄蘭さんは男とはいえ、ひねくれた性格だからなるべく離れていたかったし、宗市さんは優しすぎて物足りない。だから僕が一番気に入っていた大人の男性は亮輔さんだった。
美蘭も亮輔さんのことは好きだったけど、僕に比べると距離を置いていた。それよりも百合奈さんと過ごす方が好きらしくて、僕にとって男は男どうし、というのがまた嬉しかったのだ。
「そういえば姉さんは、美蘭は元気かい?」
「殺したくなるほど元気だよ」
「相変わらず仲がよさそうだな」
どうしてそういう解釈になるのか判らないけど、亮輔さんは自分の言葉に納得したみたいに頷いた。そして腕時計を見ると「悪いけど、少し急いでいいかな」と言った。
24 君の守護天使
自分の車なのに、久しぶりに座る助手席は窮屈だと思いながら、僕はシートを下げた。美蘭はハンドルに両手をおいて前を見たまま、「呆れた」と溜息まじりに言った。
「あんたってさ、リード引きちぎって逃げて、人骨くわえて戻ってくる犬みたい」
「それ、誉めてるのか、けなしてるのかどっち?」
「どっちでもない、客観的なコメント。病院から脱走したと思ったら、亮輔さんみつけたっていうし、本当に理解不能」
「仕方ないよ。僕だって予想してなかったんだから」
僕は数時間前の、亮輔さんとの再会を思い出していた。病院のそばで追いついて、それから一緒に地下鉄に乗ったのだ。通勤帰りとは逆方向なので車内は空いていて、僕らは並んで座ることができた。向かいの窓に映る頭の高さはそう変わらなくて、僕は亮輔さんの背中に登って遊んだ記憶が急に遠ざかったような気がした。
「君はいま、高校だね?ずっと博倫館に通ってる?」
「高三だよ。でも博倫館は寮が嫌だから、高校から有隣館にかわった」
「なるほど。だから東京にいるんだ」
「桜丸も東京にいるよ。大学に行ってる」
そうやって僕が桜丸の話をするたびに、亮輔さんの顔に困ったような表情が浮かんだ。何年も連絡とってないし、やっぱり気まずいんだろうか。
「ねえ、桜丸はずっと亮輔さんのこと探してるよ。一緒に住みたいってさ。青龍軒ってラーメン屋でバイトしてるから、会いにいくといいよ」
僕がそう言うと、彼は「うん」とかって頷くんだけど、青龍軒の場所を尋ねたりはしない。「桜丸の携帯の番号教えようか」と言っても、「今ちょっと、人のを使わせてもらってるから」としか言わない。こうなると「桜丸にはもう会わないって決めたの?」と確かめるしかない。
僕だってわざわざそんな事ききたくなかったけど、亮輔さんはもっと困ったんだろう。もし煙草を吸う人だったら、とりあえず火をつけて、最初の一息を長々と吐き出すほどの間をあけてから、彼は「父親失格だからな」と呟いた。
「別に失格してないと思うよ。桜丸も全然そんな事言ってないし」
「自分でそう思うのさ。俺はあの子に、償いようのない事をした。会うならせめてもう少し、ちゃんとしてからにしたい」
「今だって、ちゃんとしてるよ」
「亜蘭、父親ってのはすごく見栄っ張りな生き物なんだ。武士の情けで、俺のことは見逃してくれないか?」
そう言われると、父親という物をよく知らない僕は納得せざるを得ない。
「わかった」とは答えたけど、桜丸はともかく、美蘭には言うつもり。
「でも、大体どれくらい待ったら、ちゃんとする予定なの?」
「そうだな、できるだけ早く、かな」
「可及的速やかにって奴だね」
「その通り」と亮輔さんが深く頷いたところで、地下鉄は目的地に着いた。僕はそのまま彼について、長距離バスの乗り場に行ったけれど、行く先はやはり福島だった。
「向こうで何の仕事してるの?」
「その時々で変わるけど、基本的に除染作業だな」
「大変じゃない?」
「そうだな、楽じゃない。でも何ていうか、少しだけ気が楽になるんだ。失われたものを元に戻してるような感じがしてね。でもそれは気休めかもしれない。俺が駄目にしたものは、もう帰ってこないんだから」
僕は亮輔さんの言うことがあまりよく判らなかった。これだから美蘭に馬鹿呼ばわりされるんだけど、仕方ない。彼も僕がぽかんとしてるのに呆れたのか、「相変わらず、君は猫みたいな顔で人の話を聞いてくれるな」と笑った。そして「会えて嬉しかったよ。車には気をつけて帰るんだぞ」と言った。
僕はといえば、色んな気持ちが入り混じって結局何も言えず、バスに乗る亮輔さんの背中をただ見送るしかなかった。
「で?ちゃんととってある?」
美蘭はまだ車を出さず、後ろのシートに置いていたショルダーバッグを手繰り寄せる。僕はスマホの液晶保護フィルムにはさんでおいた亮輔さんの髪をつまんで、差し出した。
「白髪じゃん。そんなにロマンスグレーのおじさまになってた?」
「そこまでじゃない。黒っぽい服着てて、見つけやすかったから」
「まあ、五十近くなれば白髪もあるか」と自分に言い聞かせるみたいにして、美蘭はショルダーバッグから掌にのるほどの竹籠を取り出し、そっと開いた。中からスズメバチが一匹顔をのぞかせ、彼女は僕から受け取った亮輔さんの髪をその大きな顎へと差し入れる。蜂は前足を器用に使ってあっという間に髪を呑み込むと、籠を出て美蘭の白い指にとまった。
「いづくにおはしますや」
美蘭はそう囁くとウィンドウを下げ、夜明けに近い冷気の中へと腕を伸ばす。蜂はその指先からふわりと浮かび、しばらく同じ場所を回っていたけれど、やがて東の方へと飛び去っていった。それを確かめると美蘭はウィンドウを閉め、車のエンジンをかけた。
「アパートまで送ってくれる?」
「何言ってんの。病院に戻るのよ」
「嫌だ、もう戻る必要ないよ。今だって全然大丈夫だし」
「嫌もへったくれも、料金前払いしてるんだから」と、美蘭が車を出そうとしたので、僕は慌ててキーを奪い、エンジンを切るとポケットに入れた。
「馬鹿!さっさと返せ」
「馬鹿はそっちだ。病院で検査なんかしたって何の意味もない。僕は別に長生きしたくないし、自転車にぶつかってあのまま死んでたってよかった。それより、病院にいると必ず思い出す、あの嫌な感じの方がよっぽどリアルでしつこくて、うっとうしいんだよ!美蘭には絶対にわかるはずない」
美蘭の奴、また言い返してくる、と思ったけど、何故だか静かだった。背筋を伸ばし、軽く溜息をつくと、「じゃあ好きにすれば」と言って、右腕を背中にまわす。そしていつも身に着けている守り刀を抜き、「手、出して」と命令した。僕がそろそろと右手を出すと、「そっちじゃない!」と怒る。なので左手を出すと、彼女は僕の腕をつかみ、病院でつけられたリストバンドと手首の隙間に守り刀の先を差し入れた。でも、あと一息というところで、「やめた」と呟いた。
「これで最後にしてやるから、今日だけは病院に戻りな」
そう言って守り刀を収めようとしたから、僕は「なんでだよ!」と怒り狂った。そして美蘭の右手をつかみ、そのままリストバンドを切ろうとしたけれど、向こうも凄い勢いで抵抗するもんだから、撥ねた刃先は僕の頬にあたった。そう思ったけれど、実際には彼女の左手が一瞬先にそれを遮っていた。
気がつくと美蘭の掌から血が滴り落ちていて、彼女は「ちくしょう」と唸りながらハンカチを取り出していた。僕は少し冷静になって「手伝おうか?」と言ってみたけど返事はなく、彼女は片手と口を使って器用に傷を縛ると、守り刀についた血も拭って鞘に納めた。それからようやく「キー返せ」という命令があって、僕は仕方なくポケットを探った。
「運転、代わろうか」と言ってみたけど、やっぱり返事もない。美蘭はそのまま車を出したけど、横顔は恐ろしく無表情で、これは内側に怒りの嵐が吹き荒れているが故のホワイトアウトだ。僕は再び囚人になる覚悟を決めて、助手席に沈み込んだ。美蘭は横目でちらりとこちらを見て、「あんたにだって、絶対にわかるはずがない」と言った。
「何が」
「生きるか死ぬか、ぎりぎりなのをじっと見てるしかないのが、どんな気持ちか」
彼女はまだ無表情なままで、やがて高速道路の明かりが規則正しくその横顔を照らし出す。僕はようやく、夏からずっと棚上げにしている事を思い出して「美蘭」と呼びかけてみたけれど、「うるさい」という返事しかなくて、そのままふりだしへと送り返された。
翌日の午後、やっと解放された僕がアパートに戻ると、不思議な事が起きていた。物が増えてるのだ。キッチンには冷蔵庫と電子レンジとガスコンロに、オーブントースターまである。おまけに冷蔵庫を開けると、いつも飲んでる炭酸水のボトルが何本か入っている。鍋とフライパンも一つずつ置いてあって、食器も一通り揃ってる。そして部屋には小さなローテーブルとクッションまであった。
まるで、僕が病院に強制収容されてる間に、誰かが住みはじめたような感じで、なんだか気味が悪い。留守番していた猫のサンドとウツボだけが相変わらずで、僕が戻ると早速、足元にまとわりついてきた。
でもまあ、こんな事をする人間なんてたぶん一人しかいないから、僕はすぐに宗市さんに電話をした。
「僕の部屋に冷蔵庫とか入れたよね」
「そんな事より、病院で何て言われたか報告してほしいな」
「全部異常なし」
「本当に?」
「ええと、肋骨にひびが入ってるけど、放っておいても大丈夫らしいよ」
僕としては、猫と同じようにしてれば治る、という持論を肯定されたようで得意だったけど、宗市さんはそれを見透かしたように「とはいっても、君は猫じゃないからね」と言った。
「でもさ、どうして冷蔵庫とか置いていったの?」
「それは僕じゃないから、何とも言えない」
「じゃあ誰?」
「君の守護天使」
「そうなんだ」と言いながら、僕は宗市さんってどうして時々メルヘンに走るんだろうな、と呆れていた。まあ、僕のことを未だにサンタクロースを信じてる子供ぐらいにしか思ってないんだろうけど、自分のした事は素直に認めてほしい。
僕は電話を切るとマットレスに寝転がり、天井を見上げた。昨夜あんまり寝てないせいもあって、瞼が自動的に降りてくる。病院じゃない場所なら、どこだって楽園だ。サンドが肩のあたりで寝場所をつくっている気配があり、ウツボはお腹の上に伸びている。好き勝手にふるまってるように見えるけど、猫たちは僕が傷めてる場所には決して体重をかけたりしない。こういうところが人間よりずっとつき合いやすいんだよな、と思いながら、僕は眠りに落ちていった。
そうしてどれだけ眠ったんだろう。僕を起こしたのは、ふだんほとんど沈黙を守っているインターホンだった。
部屋は薄暗くなっていて、身体を起こした途端あちこちに痛みが走り、猫たちが体温を残して逃げてゆく。素早く動けない僕が受話器をとるまでの間に、インターホンはもう一度鳴った。「はい」と答えてからようやく、別に出る必要もなかった事に気がついたけど、もう遅い。でも面倒だから受話器を置いてしまおうと思った時、「亜蘭?」と不安そうな声が聞こえた。
声の主は莉夢だった。ドアを開けてやると、彼女は小さく「こんにちは」と挨拶して、「猫ちゃんいる?」ときいた。要するに、僕じゃなくて猫達に会いたかったのだ。「いるよ」と答える前に、彼女は「それ、叩かれたの?」とまた質問した。僕の顔にある痣のことらしい。
「違うよ」
「よかった。前にトシアキさんが怒って莉夢のママを叩いた時にね、ママのここがそんな風になったから。亜蘭も誰かに叩かれたと思った」
言いながら、莉夢は自分のこめかみのあたりに触れた。今を時めくDV亭主って奴らしいけど、莉夢の母親は男運が悪そうだ。そんなやりとりをする内に、気配を察した猫たちが飛びだしてきて、仕方ないから僕は彼女を中に通した。
部屋を見回した莉夢は「お買い物したんだ」と言った。テーブルとかクッションに気づいたらしい。そして隅っこに腰をおろすと、いつも背負っているリュックから「猫おやつ」シリーズのささみスティックを取り出して「あげていい?」ときくので、僕は「どうぞ」と言った。
「炭酸水しかないけど、飲む?」
「水筒あるから大丈夫」
相変わらず、僕の方なんか見向きもせず、莉夢は猫たちにおやつを食べさせ、「おいしい?」なんておしゃべりしている。自分の部屋なのに、居場所がないような気すらして、僕は莉夢とは対角線上の隅っこに膝を抱えて座っているしかない。
おやつを全部食べ終わってしまうと、猫たちはキッチンに水を飲みに行って、戻ってくると好き勝手に寛ぎ始める。莉夢はサンドを膝に抱き上げると、「会えなくなるけど、ちゃんと憶えててね」と話しかける。僕はつい「どっか行くの?」と口をはさんでしまった。
莉夢は何か迷っているようだったけれど、かすれた声で「またルネさんのところに行く」と答えた。
「いつ?」
「たぶん来週。本当は行きたくないけど、みんなが困るし、美蘭も大人の言うことは聞かないとだめって言ったから」
最後の方は消えてしまいそうな小さな声。僕は返事のしようがないので、黙っておいた。莉夢は俯いてサンドの頭を何度も撫でていたけれど、ふいに「亜蘭は猫の言葉が話せるの?」と言った。
「僕は日本語と英語しか話せないよ。あとフランス語が少し」
「でも、ニャーニャの撮影をした時、猫ちゃんたちに何をするか教えたのは亜蘭でしょ?」
「別に教えてない。あれはニャーニャに魔法の力があったから」
宗市さんに見習って、メルヘンで回答してみる。
「あのさ、莉夢はもう十歳だから、魔法とかそういうの、本気で信じてるわけじゃないよ」
「へえ、そうなんだ」
僕は何となく面白くなってきて、毛づくろいを始めていたウツボの身体を借りると、莉夢の背中に軽く体当たりした。そして驚いて振り向いた彼女の顎に前足でそっと猫パンチ。それからジャンプして肩に飛び乗り、マフラーみたいに身体を巻きつけると、尻尾の先で頬をくすぐる。莉夢はこらえきれずに笑いだし、「もう!亜蘭、やめてよ」と悲鳴をあげた。
「だから僕じゃないって」とやりあってるうちに、こっちもつい笑ってしまう。ふだん子供なんて種族と接触する機会はないけど、自分の小さかった頃を考えると、連中がそう天真爛漫とか無邪気ってものではないのはよく判ってる。でもまあ、女の子をからかうのって、そう悪くない娯楽だ。
莉夢の腕に抱きとられたウツボを離れると、僕はサンドに乗り換え、床に転がっていたリュックサックをくわえて引きずり回した。小柄なウツボと違ってサンドは力があるので、けっこうなスピードが出た。
「もう、いたずらしちゃ駄目!」と、莉夢は慌てて追い回すけれど、声にはどこか楽しんでる響きがある。でも、勢い余って水筒や何かが中から転がり出すと、莉夢は急に真剣な様子になり、猫たちには目もくれずにそれらを拾い集めた。大事なものでも入ってたのかと、僕はサンドと一緒に莉夢の持ち物を点検する。彼女が真っ先に手にしたのは、竹で編んだ小さな籠だった。
「莉夢、それ…」
つい僕が声をかけると、彼女は一瞬びくりとして、その籠を大切そうに両手で抱えたままこちらを向いた。
「もしかして、美蘭にもらった?」
彼女は黙って頷く。
「何が入ってるか、知ってるの?」
しばらく考えている様子があり、彼女は小さく頷くと「亜蘭は知ってるの?」と聞き返してきた。
「知ってる。中にいるのはスズメバチだろ?」
「そう。一日一回お水だけ飲ませてあげればいいって」
「怖くないの?」
「少し怖いけど、美蘭が大丈夫って言ったから」
「それ、どうするかも聞いた?」
彼女は少しこわばった表情で頷く。そしてそれ以上僕が何か尋ねるのを遮るように「もう帰らなきゃ」と言って、他の持ち物をリュックにつめこんだ。
莉夢が慌ただしく立ち去るのを見計らっていたかのように、美蘭からメッセージが入った。せっかく自由の身になったのに、僕はまた出かけなければならない。こんな時、素知らぬ顔で寛いでいる猫が心底うらやましくなるのだ。
25 黒猫の亜蘭
美蘭がブレーキを踏んだ。
「この辺にするか」と周囲を見回し、「私有地につき駐車厳禁」という看板のある空き地に車を入れる。辺りに建ち並んでいるのは町工場ばかりだけれど、夜も十時を回るとほとんど明かりがついていない。二車線の直線道路は時おり思い出したように自家用車が走るだけで、あとは時間が止まったように静まり返っている。
空は濁った色の雲に覆われ、地上に漂う靄は街灯を青白く滲ませている。美蘭がわざわざ天気に合わせてこの時間を選んだわけではないけれど、これからやろうとしている事には好都合だ。
僕らは車の陰に隠れるようにして、時が経つのを待った。何台かの車が走り、一瞬の通り雨が地面をかすかに濡らした後で、美蘭はようやく「来る」と囁いた。
僕は車を離れて車道に出ると、街灯がスポットライトのようにあたっている場所を選んで俯せに横たわる。
冷たい路面から立ち上る、濡れたアスファルトの匂いを感じながら、地面を伝わる振動が徐々に近づくのを肌で捉える。きっとこの車だ。どうかちゃんと気づいてくれますように。或いは、うっかり轢くなら一気にやってくれますように。また病院送りになるような、中途半端な怪我だけはごめんだから。
僕の願いが通じたのか、走ってきた車はやや急ブレーキではあったけれど、僕より少し距離をおいて止まった。ドアを開ける音がして、ためらいがちに近づく足音が聞こえる。
「やだ、死んでる、の?」
女の人の声。彼女は一度立ち止まり、それから弧を描くように間合いを狭めると、上半身だけ少しのりだして、横たわっている僕を覗き込んだ。僕は細く目を開き、腕の隙間から声の主を確認する。あの、莉夢を預かっていた女、ルネさんだ。
彼女が更に少し近づいたその時、背後から音もなく歩み寄った美蘭が、両手で彼女に目隠しした。
「ルネさん、後ろの正面誰だ?」
そう呼びかけられた途端、彼女は硬直したように動かなくなった。美蘭はその耳元に唇を寄せると「これは雄の黒猫。名前は亜蘭。とても弱ってるから、貴女はこの猫を連れて帰って飼うことにする」と囁いた。
「大丈夫よ、猫を飼うなんて少しも面倒じゃない。特にこの猫は自分で冷蔵庫から餌を取り出して食べるし、人間のトイレを使うほどのお利口さん。ただ、家の中を自由にうろつかせてやればそれでいい。時々勝手に出かけたりするけれど、心配しなくてもちゃんと帰ってくるわ。いい?この子は貴女に何か困った事が起きた時、どうすればいいかを教えてくれる、とても役に立つ猫だからね」
静かに、淀みなく続く美蘭の言葉に、ルネさんはゆっくりと頷いた。
「それでいいわ。さあ、後ろの正面には誰もいませんでした」
美蘭は目隠ししていた両手を離すと、現れた時と同じくらい密やかに闇の中へと身を翻した。ルネさんは何度か目をしばたくと、僕を見下ろして「猫だわ。はねられたのかしら」と呟いた。
そこで僕は彼女を驚かさないようにそろそろと起き上がる。そして「ニャア」と鳴いてみせると、彼女は目を丸くした。
「お前、大丈夫なの?うちにおいで」
お言葉に甘えて、僕はルネさんの運転していた水色の軽自動車の助手席に乗り込む。美蘭は闇に身を潜め、車が走り出すまでじっとこちらを見ていた。
「ふう、疲れたあ」
ルネさんはマンションの鍵を開け、玄関にバッグを投げ出すと溜息をついた。僕は彼女の脇をすり抜けて先に上がり込み、中の間取りを見て回る。入ってすぐのところに小さな部屋があり、ここは段ボールが無造作に積まれたりして、物置のようになっている。その奥にあるのが彼女の寝室。ベッドにはコーディネートに落選したらしい服がまき散らしてあるけど、コミック類は全部本棚に収まっていて、美蘭のジャングル部屋に比べればずっと綺麗だ。
寝室の向いにはトイレと風呂場、そして奥がカウンター付のキッチンとリビングという間取りだ。火事で半焼した家からはあまり荷物を持ち込まなかったみたいで、越してきて間がない事もあるのか、どこかよそよそしい雰囲気がある。
僕がリビングのカーテンをかき分け、窓越しにベランダの外を覗いていると、ルネさんが入ってきて明かりをつけた。
「お腹空いてる?子猫じゃないけど、ミルク飲む?」
僕は振り向くと「お構いなく」と答える。といっても、彼女の耳には猫の鳴き声にしか聞こえないはずだ。でも僕の言葉の意味はちゃんと伝わる。その証拠に彼女は、冷蔵庫から出した自分用の冷凍カルボナーラを電子レンジにセットして出ていった。
スウェットパンツとパーカーに着替えて戻ってきたルネさんは、冷蔵庫から缶チューハイを取り出して、その場で少し飲んだ。それからキッチンのカウンターについた小さなテーブルに移動し、電子レンジから出したカルボナーラを食べ始めた。僕はその間、リビングにある二人がけのソファに寝転がって過ごす。コーヒーテーブルの上にはナンバークロスワードパズルの雑誌と通販カタログが何冊か。そして洗ってないマグカップが二つと、信用金庫のロゴが入ったボールペンが一本。
ルネさんはカウンターに置いてあったリモコンでリビングにあるテレビのスイッチを入れた。一人暮らしにはちょっと大きすぎる感じだけれど、画面にニュースキャスターが映ると部屋に人が増えたように思えるから、それがいいのかもしれない。彼女はしばらくチャンネルを次々と変えていたけど、最後はトーク番組に落ち着いた。そして食べ終えたパスタの皿を流しにおくと、二本目の缶チューハイを手にして、僕のいるソファの方へとやってきた。
「ちょっと、そこどいてくれる?」
もちろん部屋の主はルネさんなので、僕は黙って席を譲ると、床に置いてあったビーズクッションに腰をおろした。
「拾った猫のくせに、図々しいんだから」
ルネさんはさっきまで僕がそうしていたみたいに、ソファに横になり、缶チューハイを飲む。それからボールペンを手に取ると、ナンバークロスワードパズルを解き始めた。そして時々思い出したように「お風呂入んなきゃ」と言うんだけれど、その言葉とは裏腹に眠り込んでしまった。
僕は猫だから、彼女を起こすだとか、毛布をかけるだとか、そんな事はしないし、明かりを消すこともしない。ただちょっと冷蔵庫を覗き、缶チューハイの奥に隠れていたペリエを飲み、寝室に移動するとソファよりもずっと心地よいベッドにもぐりこんだ。
翌朝、まだ外が薄暗いほどの時間に、ルネさんは「ああもう、またやっちゃった」と不機嫌そうな声で寝室のドアを開けた。ベッドにいる僕には構いもせずに、クローゼットから着替えを取り出し、また出て行く。僕は目を閉じて眠りなおすけれど、風呂場からは水音が聞こえてくる。ややあって、こんどはドライヤーを使う音なんかがして、それから彼女はまた戻ってくる。ショーツにTシャツだけという格好だけど、美蘭も普段から似たような姿でうろついているから驚きもしない。まあ、美蘭の体型が板状だとすると、ルネさんは筒に近いという違いはあるけど。
彼女はどれも似た感じの、地味な色あいのカットソーやニットにとっかえひっかえ袖を通し、結局昨夜とそう変わらない印象のアンサンブルと膝下丈のフレアスカートという選択をして、また部屋を出ていった。そこで僕もようやく起き出してゆくと、キッチンからはコーヒーのいい匂いがしてくる。カートリッジ式のマシンで淹れる奴だ。これは後から飲ませてもらおうと思いながら、僕はまたソファに居座る。
ルネさんは冷蔵庫を覗きながら、「ペリエ、あと一本あった筈なのに」とか言っていたけど、諦めたらしくて、カウンターに置いてあったシリアルバーの箱から一本取り出して齧り始めた。
「ねえ、亜蘭、朝ごはんいらないの?」
名前を呼ばれて、僕はキッチンの方を向く。「お構いなく」と返事すると、彼女は「ほんと、この猫って手がかからない」と納得したように言って、そばにあった鏡を引き寄せるとメイクを始めた。
ルネさんが家を出たのは六時五十分で、これが勤め人として早いのか遅いのか僕には判らない。もちろん僕はそのまま起きるなんて馬鹿な真似はせず、またベッドに入った。ルネさんは着飾るよりも身体のメンテナンスにお金をかけるタイプらしくて、このベッドは馬鹿みたいに寝心地がいいのだ。なのに彼女は何が嬉しくて酔っぱらってソファなんかで寝てしまうんだか。まあ、僕には関係のない事だけど。
次に目を開くと、枕元にある時計は十二時を回っていた。さすがの僕も、もう眠りは堪能し尽くしたのでベッドを抜け出し、キッチンに行くと冷蔵庫を開けて、ペットボトルの水を飲んだ。それから冷凍庫をあさり、サーモンと生クリームのフェトチーネを取り出して電子レンジにかけた。他にもカレー、ビーフシチュー、ペスカトーレにラザニアと選択肢は豊富で、しかもいちいち有名シェフ監修だったりして、コンビニには並んでなさそうな高級感のあるものばかり。どうやらルネさんは食べ物にもお金をかけるタイプらしい。でも食材そのものはほとんどないから、料理はあんまりしないようだ。
冷凍フェトチーネは予想に違わず、なかなかの味だった。僕はそれから例のマシンでコーヒーを淹れてみたけど、これもいい加減な店より遥かにおいしい。勢いあまって二杯めを飲んでから、僕はこの部屋をもう少し探ってみることにした。もちろん猫が皿洗いなんかしたら異常事態だから、食べ終わった食器やなんかは、ルネさんが朝残して行ったコーヒーカップと一緒に流しに突っ込んでおく。
僕が最初に目をつけたのは、テレビ台に置いてあるノートパソコンだった。一人暮らしの油断というべきか、起動した時のパスワードも設定してないので、ファイルや何かは全部見られるし、ネットで利用しているサイトに至ってはログインの入力内容をを全て保存しているから、大した手間もなしに履歴をたどることができる。
通販は何種類も利用してるし、海外ドラマのネット配信や占いのサイトも頻繁に使ってる。クレジットカードは三種類持ってるけど、ふだん使ってるのは一つだけ。銀行口座はメガバンクが一つとネット銀行。給料はメガバンクの方に振り込まれていて、賞与も年に二回入ってるけど、うちの学校の生徒がもらってるお年玉と大差ない額だ。
実際のところ、ルネさんのちょっとした贅沢を叶えてるのはネット銀行の口座らしい。ここには給料ほどではないにせよ、コンスタントな入金があって、振込人名義から察するに、動画サイトらしい。入金額には波があるというか、最近目に見えて減っているのは、莉夢がいなくなったせいだろう。
そして僕は少し考える。大体のところは判ったから、あとは他の部屋を見て回ろうか。でもやっぱりうろつくのが面倒になって、そのままルネさんが配信している動画のアカウントに潜り込んだ。
彼女が莉夢の動画をサイトに上げ始めたのは半年近く前だ。最初はけっこうまともというか、莉夢に可愛いドレスを着せてシャボン玉を吹かせたり、公園でボートに乗せたりしている。でもそれに対するコメントの中に、もっと短いスカートがいいとか、水着姿も見たいといったリクエストが現れたのに呼応するように、動画の内容は変質しはじめる。わざと下着が見えるような角度で座らせたり、お風呂上りの彼女との追いかけっこを装ってバスタオルを引っ張ったり。
そういう演出が始まるとアクセス数は目に見えて増え始め、反比例するように莉夢の顔からは表情が消えてゆく。そしてうつろな目をした彼女は家の中に閉じこもったまま、水着姿で床に四つん這いになって食事をすることになる。動画のファンたちは熱心に彼女の愛らしさを称賛するコメントを寄せ、次はこれを食べてほしいとリクエストを出してきた。まあ大体は何かを連想させる形状の品物で、ルネさんはかなり忠実にその要望に応えていた。
冷静に見ると、ルネさんという人はかなり真面目に仕事をこなすタイプらしい。だから会社勤めもずっと続いてるんだろう。でも彼女は莉夢のことを道具、あるいは使い勝手のいい人形ぐらいにしか思っていない。自分以外にひどく冷たいという点では、僕と美蘭の母親も負けてはいない。でも僕らはこういう搾取はされなかった。まあ、試みたところで、美蘭が黙って耐え忍ぶはずもないんだけど。そういう点では莉夢は運が悪いとしか言いようがない。
ルネさんがアップした動画を次々と覗き見するうちに、僕は男に生まれた自分の、どうしようもなさみたいなものに気づき始めていた。ひとことで言うなら業が深いって事だろうか。醜くねじくれたものに対する嫌悪の向こう側に、何か自分を昂らせるものが透けているのが判るのに、それは僕のせいじゃない、というふりをしながら目をこらしている。
僕はかなりの努力をしてノートパソコンをシャットダウンすると、元の場所に戻した。それからもう一杯コーヒーを淹れたら、買い置きのカートリッジはなくなってしまった。でも猫はそんな事を気に病んだりしない。僕はカップを手にしたまま、ベランダに出てみた。
五階建てマンションの三階とはいえ、周囲も似たような高さの建物がひしめきあって、開放感のない眺め。人の姿はなくて、郵便配達のバイクが狭い路地を行ったり来たりしているだけだ。午後の空は鉛色の雲に覆われていて、太陽がどこにあるかも定かではない。風は冷たくて、季節が足早に冬へと移り変わっているのを教えてくれる。
今頃学校では何をしてるだろう。ふだんさぼりまくってるのに、こんな時に限って気晴らしに行ってみたくなる。別に誰に会いたいってわけでもないけど、ちょっと話でもして、教室で昼寝して、目が覚めたら外でも眺めて。ここからだとけっこう遠いし、一限目には間に合わないだろうけど、明日はとりあえず行ってみようか。
殊勝にもそう考えたんだけれど、僕の思いつきは実行されることはなかった。夜遅くにルネさんが莉夢を連れて帰ってきたから。
26 子供って不自由
ルネさんが莉夢を連れ帰ったことを伝えても、美蘭からは「後はよろしく」というそっけない返事しかなかった。まあ確かに、なるようにしかならない。決めるのは僕じゃないんだから。そう達観してソファに寝そべり、テレビを見ていると、廊下を歩くルネさんの足音が近づいてくる。
「やだ、私ったらテレビ点けっぱなしにしてたんだ」
そう言って彼女はショートコートをソファの背にかけ、俯きがちに後をついてきた莉夢に向かって「ほら、猫拾ったのよ。亜蘭って名前なの。莉夢ちゃん猫好きでしょう?前のお家の時も、お散歩猫と遊んでたものね」と話しかけた。
猫、と聞いて莉夢はようやく顔を上げた、そして僕と目が合うと一瞬息を呑み、「亜蘭」とかすれた声を出した。何度か見たことのあるピンクのパーカーに、小さな星がプリントされた水色のレギンスをはいて、背中にはいつものリュックサック。
「そうよ。すごく大人しい猫なの。私、ちょっと莉夢ちゃんのお部屋の準備してくるから、さっき買ったパンでも食べてて」
ルネさんはローテーブルにコンビニの袋をおいて、玄関脇の小部屋に姿を消した。今回はあそこが莉夢の部屋になるらしい。僕はコンビニの袋を手にとると中をのぞいた。チョココルネとレモンドーナツと牛乳。いらないなら貰おうと思って「食べないの?」と声をかけてみると、莉夢は「ここで何してるの?」と質問で返してきた。
「何も。ルネさんにとって僕は猫だし、猫は何もしない。で、これ食べないの?」
「ドーナツと牛乳だけ食べる。これは、あげる」と言って、莉夢はチョココルネを差し出してきた。ちょっと強引だったかなと思いながら、僕はありがたく頂戴する。こしのないパン生地と、ぼやけた甘さのチョコレートクリーム。莉夢はリュックを下ろすと、ソファの隅っこに腰掛けて、ゆっくりとドーナツをかじった。
「美蘭はいないの?」
「残念ながら、ここにいるのは僕だけ」
「美蘭に電話して。お話がしたいの」
「猫は電話をかけない」
僕はチョココルネの入っていた袋を丸めて捨てると、リモコンでテレビのチャンネルを替えた。莉夢は粘土でも呑み込むようにしてドーナツを食べ終え、牛乳を飲むと、何も言わずにニュースの流れている画面を見つめた。廊下の向こうからは重い物を動かしたり、ぶつけたりするような音が何度か聞こえ、しばらくして「莉夢ちゃん!」という声が響いた。
名を呼ばれて彼女はびくりとしたけれど、すぐには動かず、リュックを膝の上に抱えてじっとしていた。ややあって、更に大きく鋭い「莉夢ちゃん!」が聞こえると、ようやく立ち上がり、のろのろと歩いてゆく。僕はチョココルネを食べたのは間違いだったと思いながら、舌に残ったクリームの変な甘さを流すためにキッチンでコーヒーを捜す。でもよく考えたらルネさんがいない間に自分で全部飲んでしまったわけで、仕方ないから近所のコンビニに行くことにした。
昼間にベランダから近くの様子を見ていたので、コンビニのありそうな方向は見当がついたし、実際それは当たっていた。歩いて五分のほどのところにバス停があり、そのすぐ近くに首都圏でだけ展開している弱小チェーンのコンビニがあった。それでも定番のコーヒーマシンはちゃんと置いてあって、僕は深煎りヨーロピアンブレンドというのを選ぶ。
コーヒーの入ったカップを持ったまましばらく近所を歩き回り、明かりの消えた薬局の店先にあるベンチでゆっくりと飲んでから、僕はマンションに引き返した。玄関を開けると、かすかに暖かい空気が漂ってきて、どうやらルネさんは入浴しているらしかった。莉夢が履いてきたはずの靴はどこかに隠されていて、ルネさんのパンプスだけが揃えてある。
僕は玄関脇にある部屋のドアをノックして「いる?」と声をかけた。
返事の代わりに、細くドアが開く。最初に目に入ったのは折り畳み式のベッドで、ルネさんはどうやらこれを用意するのに苦戦していたらしい。部屋にあった他の段ボールや何かは壁際に寄せてあるけど、今にも崩れそうなほど適当に積んである。
「ここが君の部屋?」と尋ねながら僕は中に入り、莉夢の姿を探した。彼女はドアの裏側にいたけれど、さっきまでのパーカーに代わって、紺色のスクール水着を着ていた。当然だけど僕に見られたくないらしくて、マントみたいに羽織った毛布をひきずっている。
僕は何と言っていいか判らず、とりあえず折り畳みベッドの座り心地を確かめてみる。薄い敷布団は大して役に立ってなくて、鉄パイプの違和感がじかに伝わってくる。ふだんならまだしも、自転車事故のダメージが残ってる身体には不快極まりない。莉夢はいぶかしげにこっちを見ていたけど、ようやく話しかけてきた。
「亜蘭はどうしてここにいるの?何もしてはいないけど、理由はあるんでしょ?」
「そうだね」
僕は少しでも座り心地のいい場所を求めて、身体の位置を変える。
「ここでの僕は猫だから何もしない。でも君のことは見てる。そして何があったかを、美蘭に教える。ねえ、もう一度逃げ出す気はある?」
莉夢は毛布にくるまったまま、眼を伏せて首を振った。
「きっとまた同じことになる。ママが色々と忙しくて大変だから、ルネさんは親切で莉夢を預かってくれてる。なのに、莉夢が勝手に逃げ出したりたせいで、ルネさんは何も悪いことしてないのに警察に呼ばれたりして、すごく迷惑したって。ママは莉夢がいい子じゃないから、とても悲しくて、眠れなくなったって。何度も何度も言われた」
「なるほど。じゃあこれからはどうするつもり?」
僕の残酷な質問に、莉夢はしばら黙っていた。答えが見つからない、というよりは、形になっていないものをどうにかまとめようとしているみたいに。それからようやく、かすれた声で答える。
「美蘭は、大きくなるまで我慢し続けるのも、一つの方法かもねって言った。莉夢もそうしてみようかと思ったけど、やっぱり無理かもしれない」
「子供ってのは何かと不自由だね。一人じゃ生きてけないし」
「莉夢も、猫になりたい」
僕はあえて何も答えなかった。時には夢物語も必要だろうけど、それだけじゃ物事はどうにもならないから。
翌日は土曜で、ルネさんはさっそく動画の配信を再開しようとした。部屋にいる莉夢に水だけを与えておいて、自分はメープルシロップをかけたパンケーキと、ラズベリーソースを山盛りにしたギリシャヨーグルトのブランチを楽しむ。それから部屋の掃除をして、洗濯物を干し、DVDを見ながらヨガのレッスンを一時間ほどやった後で、リビングの床にレジャーシートを敷き、カメラを三か所にセットした。パソコンのモニターで映り具合を確認してから、こんどはキッチンへ行き、冷凍庫から「特濃チーズのえびグラタン」を選び出すと電子レンジにセットする。
彼女が一連の作業に没頭している間、僕はずっとソファに寝そべっていた。朝食はルネさんが買い置きしているシリアルバーを頂戴し、コーヒーが切れてるので、飲み物は箱買いしてある「健康三十品目野菜ジュース」で我慢だ。
グラタンができるまでの間に、ルネさんはペット用のボウルを二つ、レジャーシートの上に置いた。一つには水を入れ、もう一つにはパック入りの豆サラダをあける。それから温まったグラタンをその真ん中に置くと、カウンターにもたれてスマホをさわり始めた。溶けたチーズの匂いは僕のいるところまで漂ってきて、こっちも何かちゃんとしたものが食べたくなる。
五分ほどしてから、ルネさんはグラタンの温度を確かめ、「莉夢ちゃん!ごはんできたよ」と呼びかけた。返事もなければ、ドアが開く気配もなく、彼女は「もう!」と小さく呟くと、スリッパの足音をわざとらしく響かせながら莉夢の部屋に向かった。
グラタンが適温を通り越して冷めてしまう頃に、莉夢はようやくルネさんの後についてリビングに入ってきた。しかし床に並んだ食事の支度を見ると瞬時に表情を強張らせ、「やっぱり、いらない」と言った。
「何言ってるの、前からうちではずっとそうしてたでしょ?それがお約束なの。莉夢ちゃんのママも判ってるんだから」
声を荒げるほどではなかったけど、ルネさんは明らかに不機嫌そうだ。
「でも、いらない。ちゃんと座って、テーブルで食べたいの」
「それは無理って言ってるの。莉夢ちゃん、前はいい子だったのに、すごくわがままになったね。私すごくがっかりしちゃった。傷ついちゃったよ。どうして判ってくれないの?」
ルネさんは被害者になるのが上手なタイプらしい。大きな溜息をついてみせると、「せっかく莉夢ちゃんのために用意したのに、悲しいな」と言いながら、サラダとグラタンをこれ見よがしにゴミ箱に捨てた。更にその上から、流しに溜まっていた生ゴミも放り込む。これで、後からゴミ箱をあさるという選択も難しくなったわけだ。
「もういいよ、好きにしたらいいわ。でもあげられるのはお水しかないからね」
その言葉に莉夢は何も返さず、のろのろとした足取りで自分の部屋に引き返して行った。ドアの閉まる音が聞こえると、ルネさんは「あーあ」と声をあげ、「あの子、だんだん母親似てきた感じ。依怙地なとこなんかそっくり」と心底嫌そうに呟いた。
それからルネさんはソファにいる僕を追い払うと、録画してあった海外ドラマを見始めた。仕方ないので僕はコーヒーを飲むために出かけたけれど、莉夢の部屋をのぞく勇気はなかった。
また昨日のコンビニでコーヒーを買って、僕はあてもなく近所をうろついてみた。空は曇りがちで、時々薄日がさす程度。この辺りはみんなが好き放題に土地を売って集合住宅を建てたという雰囲気で、曲がりくねった細い道が、迷路みたいに入り組んでいたり、いきなり途切れたりしている。しばらく歩き続けると、砂場と鉄棒しかない小さな公園があったので、ベンチに腰掛けて、ぬるくなったコーヒーの残りを飲み干す。
誰にだってそうだけど、飲み食いさせてもらえないのは子供には特にこたえる。僕と美蘭の母親も、僕らを痛めつけるのに一番効果的な方法だと判っていて、しょっちゅうそんな真似をしていた。でも、食べ物がないのはかなり長時間でもしのげる。辛いのは何も飲めない場合だ。特に夏場やなんかは気が変になりそうな時がある。
でもまあ、美蘭と一緒にいればたいていは何とかなった。彼女は監禁されても何とか脱走して、どこかから口に入れるものを調達してきた。たとえそれがドッグフードでも文句は言えない。ただ、何度も繰り返すうちに、母親も美蘭の狡猾さに気がついて、僕らを分断するという手を選んだ。
今でもそう変わらないけれど、小さい頃の僕は本当にぼんやりしていて、自分一人ではふつうに生活するのも覚束ないほどだった。だから食べ物や飲み物を自力で調達するなんて全く無理な話で、クローゼットに半日閉じ込められただけですぐにへばってしまった。そして、何の疑いもなしに、母親が差し出した、毒物入りのミルクを一気に飲み干してしまったのだ。
あの時、美蘭はベランダに締め出しを食らっていた。夏の暑い午後だったけれど、彼女はエアコンの室外機から浸みだす水滴を舐めてしのぎ、母親から受け取った毒入りミルクは全部排水口に流した。
その後の事はもう思い出したくもない。僕は長い間病院に閉じ込められて、退院できた頃には季節は秋に変わっていた。それからも僕らは預かり手の見つからない時には母親のところに送り込まれ、色んな事に脅かされながら過ごしてきた。母親と全く会わずに済むようになったのは、中学校に上がってからだ。
すっかり日が暮れてからルネさんのマンションに戻ると、ドアを開けるなりカレーの匂いが漂ってきて、それはもちろん莉夢の部屋にも流れ込んでいるはずだった。ルネさんはまだ海外ドラマの録画を見ていて、キッチンの小さい鍋には封を切ったレトルトパックのカレーが湯煎されたままになっている。彼女は先に食べてしまったらしくて、流しには空になったカレーのパウチと、炊きたてごはんパックの容器と、汚れた食器が放り込んである。
ルネさんは僕に気づくと「お散歩してたの?何か食べる?」と声をかけてきた。「お構いなく」と答えると、「本当にこの猫って、手がかからない」と呆れたように言った。テーブルにはチューハイの缶が三本と、ポテトチップスの空き袋がのっている。僕のいない間に宅配便が届いたらしくて、部屋の隅には段ボールがいくつか積んであった。
何が届いたんだろうと開けてみると、「料亭の味 和惣菜シリーズ」、「至高のパスタソース」、「美と健康計画 食彩サラダ」といった食べ物ばかりだ。
「亜蘭、いたずらしちゃ駄目よ」
ルネさんはまだ酔いが残ってる感じで、大あくびをすると立ち上がり、莉夢の部屋へと向かった。僕はその間に湯煎されているカレーのパウチを覗いてみる。中にはビーフの塊がごろごろしていて、即座に呑み込みたい衝動に駆られたけれど、何とか我慢して冷蔵庫の水を飲んだ。
朝よりもずっと長い間、ルネさんは莉夢の部屋にいて、結局一人で戻ってきた。それからレンジの火を止めると、蛇口から勢いよく水を出して、カレーを全部流してしまった。食器も洗い、ゴミも全部片づけると、忌々しげに「可愛げのない子!」と唸り、バスルームに消えた。
僕は莉夢のところへ行き、ドアをノックしてから細く開いてみた。彼女はこちらに背を向け、毛布にくるまり横になっている。かける言葉なんて思いつくはずもないので、そのままドアを閉め、ルネさんの寝室に入るとベッドに潜りこんだ。
翌日の日曜、やっぱりソファで眠っていたルネさんは、昼前にようやく目を覚ました。それから大急ぎでシャワーを浴び、野菜ジュースだけ飲むと綺麗に身支度を整えた。それから莉夢の部屋を覗くと、ペットボトルの水だけ放り込んでドアを閉め、リビングとキッチンに通じるドアには南京錠をかけてしまった。どうやら昨日のうちに自分で取り付けたらしい。
小学生の工作みたいに不器用なやり方ではあったけれど、南京錠は役割を十分に果たしていて、莉夢は彼女の不在に乗じて食糧をあさることができない。反対に玄関の方はまるっきり無防備で、逃げられるはずがないとふんでいるらしい。そしてルネさんは廊下に立っている僕には構いもせず、バッグを肩にかけると玄関を出て鍵をかけた。
僕は少しだけ間をおいてから、ルネさんの後をつけてみた。猫だからもちろん、戸締りなんかしない。彼女は車を使わず、バスと私鉄を乗り継いで都心に出ると、外資系のホテルに入っていった。
ロビーには同い年くらいの女性が二人待っていて、彼女たちは「元気だった?」「変わらないわね」などと華やいだ声をあげながら、「秋の収穫祭ランチバイキング」というプレートの出ているレストランへ入っていった。このバイキングは時間制限がない代わりに、けっこうな料金が設定されていて、たぶん彼女たちはディナーのサービスが始まる頃まで居座るだろうから、僕はそのまま引き返すことにした。
マンションの近くまで戻ってくると、赤い首輪をつけたキジ猫がブロック塀の上で日向ぼっこをしていた。こうして自由に外出させているんだから、少しぐらい拝借しても差し支えないだろうと思って、僕はそいつを連れて帰った。人間でいえばおじさんという年頃のがっちりした雄猫で、かなり呑気な性格らしく、知らないマンションに連れ込まれても平然としている。
僕は莉夢の部屋のドアをノックして入ると、「おみやげ」とキジ猫を毛布の上にのせた。突然の生き物の感触に驚いたのか、莉夢は慌てて起き上がると、びっくりして跳びのいたキジ猫に目を丸くした。
「猫ちゃんだ。これ、どうしたの?」
「外にいたから、連れてきただけ」
僕は床に降りたキジ猫を抱き上げると、莉夢の傍に座らせた。彼女は相変わらず水着しか着ていなくて、毛布を器用に羽織ってからキジ猫を膝にのせる。髪は寝乱れ、唇は荒れていて、眼の下には隈があった。
莉夢はしばらく黙ってキジ猫を抱いていたけれど、やがて思い切ったように「もういい」と言った。
「もうお家に帰ってもらって」
あまりにも彼女がきっぱりと宣言するので、僕はそのままキジ猫を受け取り、玄関から外へと逃がした。それからまた莉夢の部屋に戻ると、彼女はリュックサックをベッドの上に置き、中からあの、竹で編んだ小さな籠を取り出していた。
「亜蘭、私もう決めた。これを使うことにする」
「でも…」
「いいの、ちゃんと判ってる。これを使ったらすごく遠いところに行くから、もうママにも、大輝にも、ばあちゃんや、かっちゃんにも会えないって。でも、もういい。いっぱい考えて、そう決めた」
それだけ言うと、莉夢は籠をゆっくりと開けた。中からスズメバチが一匹顔をのぞかせ、外へと這い出してくる。レーダーのように触覚を動かし、複眼を光らせて、自分の役割をいつ果たそうかと思案しているように見える。莉夢は息を殺してその昆虫が掌に移るのを待った。そして空になった籠をリュックに入れると、もう片方の手でスズメバチを覆い、眼を閉じてその両手に力をこめた。
一瞬、彼女の全身がぴくりと動き、次の瞬間には全ての力を失ってベッドの上に崩れ落ちた。彼女の手から零れ出たスズメバチは、扇のように広がった黒い髪の上を歩き回っていたけれど、やがて羽を広げて飛び立った。僕は格子のはまった窓を細く開け、そいつが主のもとへ行けるよう手助けをしてやった。
27 僕も病気だよ
美蘭の奴、断食してる。
はっきりはそう言わないんだけど、でなきゃどうしてあの大食い女王が何も口に入れないのか、説明がつかないからだ。さっきもファストフードの店に寄ったのに、ストレートティーしか飲まなかったし。でも一体どうしたんだろう。
「おととい瑠佳たちと、鯛焼き何個食べられるか競争したらしいけど、そのせい?」
「まあね、向こうは二人でこっちは一人だったもの。勝ちはしたけどね」
「お前の胃袋って、思ったより繊細なんだな」
「そうよ。か弱い乙女だもん」
俺の挑発にも全くのらず、美蘭は手際よく猫トイレを掃除して、食器を洗うと新しい水と餌を入れてやった。さっきから彼女の長い足にまとわりついていたサンドとウツボは、大急ぎで食事を始める。その間に彼女はフロアモップで床を掃除して、かつては自分のセーターだった猫の寝床をベランダに持ち出してはたいた。俺は別に何をしてくれと頼まれたわけでもないけど、手持無沙汰でちょっと居心地が悪い。
「いつ帰ってくるの、亜蘭の奴」
「さあ、あと二、三日かな」
「だからさっさと医者に見せればよかったのに」
こないだ自転車とぶつかったという亜蘭だけれど、後から具合が悪くなったらしくて、ちょっと入院している。といっても猫は預かったままなので、こうして美蘭が世話をしに来ているわけだ。しかし不思議なのは、彼女にさほど心配している様子がないところ。最初に亜蘭の傷を見た時の落ち着きのなさに比べると、妙に平然としている。
「ねえ、悪いけどこれ、コインランドリーで乾かしてきてくれない?」
いつの間にか彼女は洗濯機から洗い上がったシーツやタオルを取り出してきたので、俺はバスケットごと受け取った。美蘭の奴、普段は何かにつけて面倒くさいなんて口走るくせに、面白いほどてきぱきと部屋を片付けてゆく。もしかして、結婚したら「素敵な奥さん」なんてものに化けるかもしれない。
俺は歩いて五分ほどのコインランドリーへ行くと、乾燥機に洗濯物を放り込み、美蘭から預かった硬貨を落とした。いったん戻ってもいいけど、却って邪魔になるかもしれないと考え直し、並べてある椅子に座る。俺の他には誰もいなくて、洗濯機と乾燥機は半分ほどが運転中。DVDの撮影もそうだったけど、美蘭といるとふだん無縁の場所に足を踏み入れる事ばかりだ。まあ、これも社会勉強って奴。
退屈しのぎにスマホを取り出してみるけど、今日は土曜で沙耶は朝から特別授業。仕方ないからゲームで時間を潰していると、たまに人が現れては、洗濯物を入れたり、乾いた服を取り込んだりして出ていく。そしてまた一人入って来ると、俺の方に近づいてきた。足元を見る限り男だけど、一体何だろうと顔を上げたのと、「風香」と呼ばれたのと、ほぼ同時だった。
「桜丸、どうしたの?」
奴はいつもの笑顔を浮かべて俺の隣に腰を下ろすと「亜蘭に全然連絡がつかないから、様子を見にきたんだ。バイトまで少し時間があるし。そしたらちょうど、君が座ってるのが外から見えた」と言った。
「もしかして、亜蘭が怪我したの聞いてない?いま入院してるんだけど。だから美蘭が猫の世話しに来てるの」
「入院?」
途端に桜丸の表情が険しくなったので、俺は慌てて「でもそんな重傷じゃなくて、二、三日ですむらしいよ」と付け加えた。
「何があったの?」
「自転車にぶつかったんだって。ほら、こないだ、私と莉夢が亜蘭の部屋に上がり込んだでしょ?あの日の夜、桜丸のとこから帰る途中に」
彼はほんのしばらく考えて、それから「本当に?!」と声をあげた。
「肋骨にひびが入ったらしくてさ、私は自分が原因作ったような感じで、何だか悪い気がして」
「いや、風香は何も悪くないよ。それより…」と言って、桜丸は唇をかんだ。
「ねえ、美蘭は?すごく心配してるだろ?」
「うん、口には出さないけど、手なんか震えちゃって、あんなの初めて見た」
「当然だよ。亜蘭は一度、死にそうになったことがあるんだから」
「本当?そんなの聞いたことないけど」
いや待てよ。なんか聞いたことがあるかも。でもあれは、美蘭がうちのママにでっち上げた大嘘のはずだけど。桜丸は俺が頭の中を整理するのなんか待たずに、「小学校の時の事だからね」と話を続けた。
「二人が三年生の夏休みだったかな、ちょうど家の内装工事をしていて、亜蘭は白い塗料をミルクと勘違いして飲んじゃったんだって。手術とかして、やっと助かったらしいけど、新学期が始まってもまだ入院してたよ。美蘭は学校に来てたけど、本当に元気がなくてさ、ごはんもほとんど食べないもんだから、すごく痩せちゃって、給食を全部食べるまで反省室に入れられたり、色々大変だった」
「そうなんだ」と、頷きながらも俺は、塗料をミルクと間違うなんて、やっぱり亜蘭は昔から間抜けだったんだと納得していた。
「おまけにさ、美蘭はすぐに学校や寮から脱走して、亜蘭のいる病院に行っちゃうんだ。それで夜遅くに帰ってきて叱られたりね。お腹が痛いとかって保健室で休むふりをしておいて、こっそり出て行くって手口なんだけど、僕はちょうど彼女が逃げようとしてる現場に出くわした事がある。止めても絶対に行くだろうけど、ほとんど食事してないのが心配だったから、一緒についてく事にしたよ。
美蘭って小さい頃からすごく逞しいっていうか、しっかりしてたんだよね。学校にある焼却炉の裏に隠し場所を作っていて、小さい空き缶にお金を入れてるんだ。それも小銭だけじゃなくって、札束。といっても千円札だけど。多分お年玉だろうね。出かける時は、それを何枚かポケットに入れてくんだ。
一緒に行って初めて知ったんだけど、亜蘭のいる病院はすごく遠かった。子供だから余計にそう感じたのかもしれない。まず電車に乗ったけど、けっこう混んでて座れなかったりしてさ。美蘭はただでさえ痩せちゃってるのに、大丈夫かと思うんだけど、平気そうなんだよね。僕が色々話しかけてもほとんど黙ってて、いきなり「次、乗り換え」とか言うんだ。
たしか二回乗り換えて、ようやく電車を降りたらこんどは迷路みたいな地下街だ。人がいっぱい歩いてるのに、美蘭はほとんど走るみたいにして進んでいくからこっちも必死だったよ。見失ったら自分が迷子だからね。それで、なんとか外に出たと思ったら、次はバスに乗り換え。三十分ほど乗ったような気がするけど、病院はバスを降りてすぐの場所にあったかな。
あれ一体どこだったんだろうって、今も時々不思議になるけど、けっこう大きな病院だったな。美蘭は慣れた感じで入っていって、顔見知りの看護師さんに「こんちは」って挨拶したりね。でも彼女は「桜丸は子供だから上まで来れないよ」って、僕にロビーで待ってるように言った。「美蘭も子供じゃないか」って反論したんだけど、「私は保護者だから」って、置き去りにされちゃった。
それで、どれ位待ってたのかな。病院って午後になると人もあんまりいなくて、通りがかった人に、おうちの人は?とかってきかれたりしてね。まあ、お薬もらいに行ってます、なんてごまかすんだけど、内心ドキドキしちゃって。このまま美蘭が戻らなかったらどうやって帰ろうか、なんてね。
本気で心配になってきて、小児科って書いてある五階まで上がってみようかって、立ち上がったところで、ようやく美蘭がエレベーターから降りてきたんだ。僕はこれで一安心、と思ったんだけど、彼女の顔を見てびっくりした。新学期になってから一度も見たことのない、嬉しそうな笑顔だったから。でも更に驚いたのは、彼女がまっすぐ駆けて来て、僕に抱きついたこと。「明日退院するんだって!」ってさ、全身で嬉しいって叫んでる感じだった。
僕らたしかに仲良しだったし、亜蘭とはじゃれあって遊んでたけど、美蘭とはそんなの初めてでさ、どうしていいか判んなくなった。だって…」
そこまで言って、桜丸は急に口をつぐんだ。心なしか奴の頬が赤みを帯びたように思えて、俺は、もしかして奴はそこで初めて感じちゃったのかな、なんて馬鹿なことを考えていた。話をつなごうと、「その頃は美蘭も可愛いとこあったのね」と混ぜ返すと、奴はかなり真顔で「今だって可愛いよ」と言った。俺は可笑しくなってきて「何それ、まるで本気宣言」と突っ込んでやった。
「美蘭にきいたけど、彼女できたばっかりなんでしょ?そんな事言ってたら、二股って疑われるよ」
「美蘭が?僕に彼女がいるって?」
「そう。その子のこと、本気で好きらしいよって」
さすがに、可愛げがない女ってコメントは黙っておいた。でも桜丸は急に、笑いをこらえきれないって顔つきになって、「それ、美蘭のことなんだけど」と口にするなり、「うわあ、言っちゃった!」と立ち上がって、意味もなく辺りを歩き回った。
「それ、どういう意味?あんた達、つきあってるの?」
俺にはさっぱりわけが判らない。桜丸はこちらに背をむけたまま「つきあってはないよ。でも、美蘭に僕の気持ちは伝えた。彼女が江藤さんのこと好きなのは知ってるけど」
「それで、美蘭は何て?」
「考えさせてって」
俺は「そう…」と言ったものの、後が続かなくなった。美蘭の奴、どっちにするか迷ってるのかな。普通に考えたら桜丸の方が釣り合ってるけど、やっぱ大人の魅力には勝てないんだろうか。
桜丸はすっかりテンション上がってる感じで、ようやく俺の隣に戻ってくると、「たぶん、僕も入院した方がいいほど病気だよ。寝ても起きても、何を見ても美蘭の事ばっかり考えちゃって、我ながら、頭がおかしいと思う」と自嘲気味に言った。俺もまあ、気持ちは十分に判るから「そういうの、すごく辛いよね。いっそ生きてない方が何も考えずにすむから楽かも、なんて思ったりして」と同意すると、奴は少し真顔になって「誰か好きな子、いるの?」と尋ねた。
「まあね。片想いだけど」
「言えばいいのに。向こうに彼女がいるとか?」
「そうじゃないけど、ちょっと事情があるの」
「そっか」
桜丸はさっきまでの浮かれ具合が嘘みたいに、神妙な顔つきになって頷いた。
「でもさ、やっぱり気持ちは伝えた方がいいよ。風香ならきっと大丈夫だから。何ていうか、君と話すのって気が楽なんだ。こんな言い方すると変だけど、男同士でしゃべってるみたいな感じ」
奴は笑ってたけど、俺は複雑な気分だった。うまくごまかしてるつもりなのに、結局のところ俺が男だって事はうっすらと見えてるんだ。女の身体に閉じ込められた男。自分で考えただけでも気持ち悪いのに、沙耶にばれたらどう思われるだろう。美蘭が特別に鋭いのは別にしても、桜丸なんてすごく単純そうなのに、こうして嗅ぎつけてる。
「どうかした?僕、何か嫌な事言った?」
「ううん、そんな事ない。それよりさ、病院の話。その後どうなったの?美蘭が抱きついてきて」
「ああ、そう、それで、僕がびっくりして動けずにいたら、美蘭も自分が普段と違うことに気がついたみたいで、さっと離れると、スカートの皺なんか直しながらそっけなく「じゃあ、帰るから」なんてさ。で、僕らはまたバスと電車を乗り継いで寮に帰ったんだ。
夕方の電車は通勤の人で混んでて大変だった。美蘭は慣れてるから大丈夫なんだけど、僕は駅に停まるたびに人の波に流されちゃってさ。ぐるぐる回ってようやく戻るってのを繰り返して、将来サラリーマンにだけはならないでおこうって思った。でもさ、途中でワッフルとコーヒー牛乳を買って、ホームのベンチで食べたのはおいしかったな。
ようやく寮に帰った頃にはすっかり暗くなってて、食事の時間もとっくに終わってた。僕はそれまで無断外出なんてしたことがなかったから、ひやひやしてたんだけど、美蘭はいつも通り帰ってきましたって感じなんだよね。舎監の先生も心配を通り越して「またか」って呆れ顔で、美蘭は言われなくても反省室に直行。仕方ないから僕もついて行こうとしたら、「あなたはこっち」って、別の部屋で食事させてもらって、外で何してたか色々聞かれて、美蘭は問題のある子だから、これからは絶対について行っては駄目、なんて念を押されちゃった。
その日はそれで終わったけど、罰として一週間、授業が終わってから夕食までの自由時間を反省室で過ごしたよ。偉人伝みたいなの読んで、感想文を書くんだ。美蘭は一緒じゃなくて、たしか鳥小屋の掃除か何かしてたと思うな。僕は後にも先にも、そんな大きな規則違反をしたことがなかったけど、そういうのって当然、両親にも連絡が行くんだ。でも、次の週末に家に帰ったら、お父さまは「お前のした事は間違ってないよ」って、お咎めなしだった。
それから少しして、亜蘭は学校に戻ってきたけど、半年ぐらいは何かと熱を出したりして、そのたびに美蘭は食事しなくなったり、授業を抜け出して保健室に様子を見にいったり、落ち着かないんだ。僕もちょっと大げさだと思って、もう入院してないから大丈夫だろ?って言ったことがあるけど、彼女は「だって怖い夢見るんだもの」ってふてくされちゃった。どんな夢かは黙ってたけど、何となく想像はついたし、僕はごめんねとしか言えなかったよ。
きっと美蘭は今も同じ心配をしてるし、これからもずっとそうだ。いくら亜蘭が彼女より背が高くなって、病気なんかしなくなっても変わらないと思う」
桜丸の話に一区切りついたその時、俺の使ってた乾燥機が止まった。奴は「洗濯物、僕が運ぶよ」と言ってくれたけれど、俺はそんな事させるほど野暮じゃない。
「あのさ、多分だけど、この乾燥機のドアは故障してて、業者の人を呼ばないと開かないと思うの。きっと三十分ぐらいかかるから、先に行って、美蘭にそう伝えといて」
「え?何言ってるの?」
「とにかくそういう事。今から三十分はかかるの。早く行かないとバイトの時間になるよ!」
桜丸はようやく、ちょっと肩をすくめて「わかった。ありがとう」と笑顔で言った。俺はその瞬間、何故だか突然大きな賭けをしてみようという気持ちになって、出て行こうとする彼に「あのさ、少し驚くと思うんだけど」と声をかけていた。
「本当のこと言うと、私は男なの。つまり、見た目は女だけど、心は男って事。今のところ美蘭しか知らないけど、何かその、ええと、桜丸にも黙っていたくなくて」
思い切ったはずなのに、俺の言葉は後になるほど勢いを失っていった。少し冷静になったのもあるけど、何より、桜丸が真顔になってしまった事で、奴の受けた半端ない衝撃にようやく気がついたのだ。間違いなくドン引き。やっぱり、言うんじゃなかった。
「そう、なんだ。じゃあ、風香が好きな相手って、もしかして、美蘭なの?」
「まさか!美蘭はただの友達。絶対違うから。ああいう身長も態度もデカい女はタイプじゃないし」
俺が全力で否定すると、桜丸は「それ、ちょっとひどくない?」と苦笑した。
「でもとにかく安心した。もしライバルだったら勝ち目ないかもって、ひやっとしたよ。君たち本当に仲がいいから。じゃあ、三十分、もらうね」
奴はそれだけ言って、軽く手を振ってから外に出ると、まるで翼があるみたいに一瞬で駆けて行ってしまった。
俺は一人になってようやく、全身が震えてることに気づいた。額には汗がにじんで、心臓はバクバクいってる。桜丸の奴、俺の話を本当に理解してくれたんだろうか。でもまあ、とにかく、言えた。言えたことに変わりはない。
まだ震えている手で乾燥機からシーツやタオルを引っ張り出し、テーブルでたたみながら、美蘭がどんな顔をして突然現れた桜丸を迎えるのかと想像してみる。せっかくだから、彼女は意外と強引なのに弱いって教えてやればよかった。でもまあ、余計なお世話かもしれない。そういうのって、自分で発見するのが嬉しかったりするから。
28 私のせいじゃない
全身黒ずくめの美蘭が車を降りると、まるで影が一人歩きしてるように見える。僕も助手席から降り、ガードレールから下を覗いている彼女の傍に立った。近くに街灯もなく、上弦の月はかなり痩せているから、僕らの周囲はほぼ真っ暗だ。それでも、美蘭の瞳には昼間と変わらないほど、はっきりとした世界が映ってるはず。まあ、それも左目だけなんだけど。
「ロープとってきて。あと毛布も」
僕は大人しく命令に従い、車のトランクを開けると、中にあるライトを手にしてスイッチを入れた。面倒くさがりの割に、美蘭は色んなものをここに準備している。大小さまざまな工具やロープの他にも、双眼鏡にバーナー、水と食料に断熱シートや寝袋、レインブーツにヘルメットなんかも積んでる。
でも、彼女はキャンプやバーべキューなんてアウトドアライフには無関心というか、嫌いだ。わざわざ出かけて不便な事するなんて、意味わかんないし、というのが理由で、それは僕も同じ。できれば便利な環境でのらりくらり過ごしたいのだ。ただ、玄蘭さんの手前、資金稼ぎをおろそかにするわけにもいかず、いつの間にかこんな装備が揃ってしまった。
僕はロープと毛布を取り出し、トランクを閉めて美蘭の方へ向かった。空気は冷え切っていて、僕の白い息はドラゴンの吐く炎みたいに広がってゆく。「ライト消して」と命令されたので、スイッチを切ってベルトに提げ、声のした方へとロープを投げる。狙いが少し外れたみたいで、舌打ちが聞こえたけど、どうにか受け取ったようだ。
ガードレールにロープを結びつける音がしばらく聞こえ、それから美蘭が深く積もった落ち葉を踏みしめる、乾いた音が聞こえた。それは二度、三度と続くうちにどんどん遠ざかっていった。
僕は再び暗闇に慣れてきた目を見開いて、ガードレールのそばまで行くと、固く結ばれたロープに触れてみる。それはぴんと張りつめて、闇の底にいる美蘭とつながっている。僕は数時間前にここで見た光景を思い出しながら、彼女は今どのあたりに立っているかと考えていた。
ルネさんが友達とのランチを終えて戻ってきたのは夕方だった。僕は彼女のベッドで昼寝していて、「莉夢ちゃんただいま。ケーキ買ってきたの、食べない?」という声で目が覚めた。
もちろん莉夢の返事はなかったけど、ルネさんはドアを開けようともしなかった。僕が廊下に出てみると、彼女はちょうどリビングの南京錠を開けているところで、その後について行き、ローテーブルに置かれたケーキの箱を開けようとすると、「悪戯しないの!」と釘をさされた。
それからルネさんはルームウェアに着替えると、リビングの床にレジャーシートを広げた。昨日と同じようにカメラをセットし、ノートパソコンに電源を入れると、カメラの映り具合を確かめる。そして箱からチョコレートケーキを一つ取り出して皿に載せると、それを手にして莉夢の部屋へ向かった。僕はその隙に箱の中を確認する。残る一つはマンゴーらしい鮮黄色のソースと生クリームに彩られたムースだ。少し長い間何も食べずにいたせいで、ほんのわずかな匂いでも眩暈を起こすほど食欲を刺激する。でも、今はまだその時じゃない。僕はなんとか自分をなだめすかすと、廊下に出た。
莉夢の部屋のドアは開いたままになっていて、「莉夢ちゃん?」と繰り返し呼ぶ声が聞こえる。覗いてみると、ルネさんが慌てた様子でベッドにいる莉夢を揺さぶっていた。ケーキの皿は床に置いたままだ。
「どうしたの?莉夢ちゃん、莉夢ちゃん!返事して!」
彼女がいくら呼びかけようと、揺さぶろうと、莉夢は何も反応しない。スクール水着を着たままの身体は血の気がなく真っ白で、まるで蝋人形のように見えた。僕は部屋の入口に立つと「何かあったの?」と声をかけた。ルネさんは一瞬動きを止め、それからゆっくりと振り向いた。
「どうしよう、息してないみたいなの。身体が冷たい」
僕は訳知り顔で「脈は?」ときいてみた。ルネさんは慌てて莉夢の手首をつかみ、それから何度か握り方を変えて、また僕の方を見た。
「脈って、どうやって計ればいいのよ」
「さあ、手首がふれないなら頸動脈でもいいし、いちばん簡単なのは直接心臓の音を聞くことかな」
僕が言い終る前に、ルネさんは莉夢の胸に耳をあて、しばらくして反対の耳を押し付けた。
「何も聞こえない。息もしてない」
「だったら死んでるよ」
「うそ!どうして?何があったの?」
「さあ。子供って体力がないからね。食事も与えずに放っておいたら、死んじゃうこともあるんじゃない?」
「でも、お水はあげてたし、ごはんはいらないって、この子の方がそう言ったのよ。私のせいじゃないわ!」
ルネさんは感情の軸足を混乱から苛立ちに移し換え、莉夢が横たわっているベッドを力任せに何度か叩いた。
「私のせいじゃない!私が悪いんじゃない!」
「まあ、それはそれとして、今は現実的な対応が必要だと思うよ」
僕は部屋に入ると、ルネさんの背中に近づいた。彼女の丸い肩は荒い息に合わせ、せわしなく上下している。
「救急車を呼べばいい?でもサイレン鳴らされたら困るわ。引っ越してきたばっかりなのに、近所で噂されたくないもの。車で大きな病院の救急に連れて行こうか」
「無駄だと思う。何度も言うけどさ、この子死んでるよ」
そう言って、僕は莉夢の腕を容赦なくつねった。ひんやりした肌が僕の指先から熱を奪うだけで、何の反応もない。ルネさんは両手で口元を覆い、もう一度「どうしよう」と呻いた。
「それにさ、病院なんか連れていったら、この子が何も食べてないって判っちゃうよ。そしたら厄介な事になる。警察が動くだろうし、下手したら逮捕されるかもね。前にこの子が逃げた時の記録があるはずだから、今回はただじゃすまないと思うよ。動画の事もさすがにばれるだろうね。あれで稼いだお金、申告とかしてないのもマズいんじゃない?」
ルネさんは床にぺたりと座り込んでしまった。
「私、なにも悪いことなんてしてないわよ。警察とか、そんな面倒に巻き込まれるのは絶対に嫌!」
叫ぶようにそう言うと、彼女は身を乗り出し、もう一度確かめるように莉夢の白い身体に触れた。その細い手首を握ったり、お腹を撫でてみたり、そんな事を何度か繰り返す。
「バラバラにするのは無理。だいたい私、気持ち悪いから魚だってさばいたことないのに。でも、どこかに埋めるにしても、そんなに大きくて深い穴なんて掘れない。無理よ」
ルネさんって、苦手な事はあれこれ理由をつけて逃げ回るタイプみたいだ。僕は今更のように親近感を覚え始めていたけれど、ここでそんなもの表明してる場合じゃない。
「大丈夫だよ。そのまま捨てればいい」
「捨てる?」
「そう。ちょっと山奥まで車で運んで、適当なところから投げ捨てればいいんだ。あとは野犬やカラスがきれいに片づけてくれるよ。ただし、服は脱がせておかないと、変な具合に食べ残しが出るかもしれない。それに、万が一見つかった時に、警察が証拠として押さえるだろうからね」
「わ、わかった。でも山奥って、どこに捨てればいいのかしら」
「ちゃんと案内してあげるよ。けど先に、これ食べてもいいかな」
僕が床に置かれたケーキ皿を手にとると、ルネさんは「勿論。よければ私の分も食べて」と立ち上がったけれど、足に力が入らず、へたり込んでしまった。
「お構いなく」と言い残して、僕はリビングに戻り、ルネさんが買い足してくれたコーヒーを飲みながら、まずはマンゴーのムースを食べ、それからチョコレートケーキをゆっくりと味わった。
そうやって僕が寛いでいる間、ルネさんはあちこち行ったり来たりして、たまに「ああもう!」とか、「本当ついてない!」なんて叫んでいた。僕は二杯めのコーヒーを飲み干してから、寝室のクローゼットに潜り込んでいる彼女に「じゃあ行こうか」と声をかけた。
ルネさんは返事の代わりに大きなスーツケースを引っ張り出してきて、額に滲んだ汗をぬぐいながら「これ使えるかしら」ときいた。
「そうだね。うまく身体を丸めさせれば入るよ」
「わかった。これもあとで捨てればいいわよね」
彼女はそれを莉夢の部屋に運んでいくと、ベッドの脇に置いて開いた。それからもう裸にされている莉夢をシーツで包んで抱え上げようとしたけれど、予想より随分重かったみたいで、前につんのめってしまった。仕方なくシーツごと引きずり下ろすようにして、ようやくスーツケースの中に落とし込んだ。そして莉夢の手足を折り曲げ、胎児のように首と背中を丸めると、はみ出していたシーツの端をかき集めてその身体を覆い、勢いよく蓋を下ろした。
莉夢の姿が隠されてしまうと、ルネさんは少し落ち着きを取り戻したように見えた。キッチンに行って冷蔵庫を開け、コラーゲン入りのビタミンドリンクを一気飲みし、ミネラルウォーターのボトルをバッグに放り込んだ。そして「よし、行こう」と自分に言い聞かせるように宣言すると、明かりをつけたままのリビングを後にした。
「電気、消さないの?」
「留守って思われたくないもの。それに今日は、帰った時に真っ暗なんて嫌だわ」
ルネさんは再び莉夢の部屋に入り、バッグを肩にかけると、「よいしょ」と声をかけてスーツケースを起こそうとした。でもやっぱり普通の荷物とは勝手が違い、そう簡単には動かない。格闘するうちに息が上がってきて、彼女は僕の方を振り返ると「ちょっと、手伝ってくれてもいいんじゃないの」と、苛立った声で呼びかけた。
「猫はそんな事、やらないから」
僕はあくまで傍観者だ。彼女は「ほんと、猫なんて何の役にも立たない」とぶつくさ言いながらようやくスーツケースを起こし、よたよたと引っ張って玄関を出ると、エレベータに乗った。
それから駐車場までは、またしても苦難の道のりだったけど、うまい具合に誰ともすれ違わず、何とか移動はできた。でも最大の難関は莉夢の入ったスーツケースをどうやって車に積むか、だった。後部座席に乗せようにも、ルネさんの力では地面から持ち上げる事ができないのだ。それでも火事場の馬鹿力って言うのか、アドレナリンが出まくってるというのか、彼女はまず自分が車に乗り込むと、中からスーツケースを引きずり込むことに成功した。
運転席についてからも、ルネさんはしばらく肩を上下させて息をしていた。手が震えているのは、重いものを持ち過ぎたせいか、気が高ぶっているせいか判らない。持ってきたミネラルウォーターを半分以上飲み干してから、彼女はようやくエンジンをかけた。
「ねえ、どこに行けばいいのよ」
「ご心配なく、それはちゃんと教えてあげるよ」
ルネさんは助手席にいる僕の指示通り車を走らせた。時々スピードを出し過ぎたり、ぼんやりして前の車に追突しそうになったりもしたけど、どうにかしてこの場所、夜は滅多に車の通らない、山あいの間道までたどり着いた。
車を停め、ヘッドライトは消さないままで、彼女はスーツケースを引っ張り出した。何度もやるうちに、少しはこつを掴んだらしくて、今までで一番スムースに下ろす事ができた。
すっかり日も暮れて、街中よりずっと冷えるというのに、ルネさんは額に汗を浮かべ、地面に膝をつくとスーツケースを開き、丸めたシーツをかきわけた。中では莉夢が、まるで人形のように折りたたまれている。
「さあ、あと一息だよ。ここから投げ落とすだけでいいんだ」
僕はルネさんにエールを送ったけれど、彼女はそれを無視して、荒い息を吐きながら、どうにかこうにか莉夢の身体を抱きかかえた。そして車で背中を支えながらゆっくり立ち上がると、つんのめるようにしてガードレールまで数歩の距離を移動し、投げるというよりは取り落とす、という感じで莉夢を手放した。
崖と呼びたいような斜面には枯葉が厚く積もっていて、莉夢が落ちたのをきっかけに、雪崩を起こしたように勢いよく下へと流れ始め、白い裸身を呑み込んでいった。ルネさんは身を乗り出してその様を眺めていたけれど、やがて枯葉のたてる乾いた音が止むと、呼吸するのを思い出したように大きな溜息をつき、ガードレールを離れた。そして、まだ震えている手でシーツを丸め込んでスーツケースを閉め、後部座席に押し込むと、すぐに車を出した。
彼女は来た道を大体は憶えていたので、帰りは僕もあまり口を出す必要はなかった。かなり街中に戻ってきたところで、僕はようやく「ねえ、ちょっと停まってくれる?」と声をかけた。
「何?寄り道なんかしてる暇ないでしょ?」と言いながらも、彼女は車を路肩に寄せた。
「そうだね。この後もやる事はいっぱいあるよ。まずは荷物をまとめて引っ越すことだね」
「引っ越す?」
「だって、莉夢の家族から連絡があったらどう答えるの?一度や二度はごまかせても、ずっとは無理だよ。いずれ、いなくなったのがばれる。それだけじゃない、引っ越しても職場に連絡してくるかもしれないから、仕事も辞めないとね。それに、友達から居場所がばれるとまずいから、誰にも連絡とっちゃ駄目だよ。っていうか、名前も変えた方がいいね。引っ越し先もずっと遠くの、知り合いのいない場所にしなきゃ」
ルネさんはようやくその辺りに考えが及んだらしくて、「そう、そうね」とぼんやりした表情で何度かうなずいた。
「でもまあ、僕にはもうこれ以上手伝える事はないから、ここで降りる。幸運を祈るよ」
そして僕はルネさんの鼻先で、ぱちんと手をたたいた。彼女は軽く目をしばたき、それから僕をまじまじと見て「あなた、誰?」と訝しげに尋ねた。
「僕は、黒猫の亜蘭」
まあ、短い間だったけど住ませてもらったし、食べ物もそれなりにいただいたので、僕は精一杯の笑顔を浮かべた。でも、ルネさんは何か悪い知らせを耳打ちされた時みたいに、ひきつった表情で固まってしまったので、僕はそれ以上無駄な真似はせずに車を降りた。ドアを閉めた瞬間に車は発進しようとしたけれど、サイドブレーキがひかれたままだったらしく、痙攣したように大きく揺れて、それからようやく猛スピードで走り去った。
あの後すぐ美蘭に連絡して、彼女が車で拾ってくれるまで、近くのファミレスで過ごした。そしてまたこの山道に戻ったんだけど、夜明けにはまだしばらくある。気温は更に下がっていて、じっとしていると足元から冷気が這い登ってくる。僕は美蘭が早く仕事を終えないかと待ちわびながら、ぴんと張ったロープに触れていた。
ようやく、闇の底で枯葉をかき分けるような音がして、ロープに何度か力が伝わった。枯葉の音は少しずつ大きくなり、やがて僕の目にもぼんやりと、斜面を登る美蘭の姿が見えてきた。肩に担いでいる毛布の中には、莉夢が包み込まれている筈だ。彼女はこちらを見上げると、「高みの見物とは、いいご身分ね」と言った。これは美蘭語で、ぼんやりしてないでさっさと手伝えという意味だ。
僕は仕方なくロープに手をかけて、美蘭が上ってくるタイミングに合わせて少しずつ引き上げた。手元に余った部分はガードレールの反射鏡に巻きつけてゆくけれど、大した強度はなさそうなので心もとない。まあ、いきなりぶっ壊れて投げ出されたところで、美蘭は平気な顔して谷底から戻ってくるだろうけど。
そして彼女の顔がはっきりと見える距離まで上ってきたその時、前触れもなく一陣の風が吹いた。美蘭が「うわ!なんで?」と叫ぶのとほぼ同時に「あんた達、誰の許しがあってこんな真似をしてるんだ」という、最も聞きたくない声が耳に入った。
見ると、大きな梟が美蘭めがけて舞い降りている。彼女は右腕にロープを巻きつけ、左腕で何とか防戦しているものの、左肩には莉夢を担いでいるからほとんど思うように動けず、梟の爪と嘴に一方的にいたぶられていた。
29 本当に大人になったら
「ちょっと、やめてよ!なんで判っちゃったの?」
闇の中で美蘭が喚くと、彼女を襲っていた梟はようやく攻撃を控え、傍の枝にとまった。
「宗市の様子がどうも変だと思ったら、あんた達の下らない遊びにつき合ってるらしいじゃないか。はた迷惑にも程がある」
「白状しちゃったのか。根性ないなあ」
美蘭がそう言うと、梟は「そっちが図々しすぎるんだよ」と、さっきにも増す勢いで彼女めがけて舞い降りた。美蘭はその鋭い爪と嘴が届く寸前に何とか守り刀を抜き、応戦に入る。といっても莉夢を担いだままで、利き手はロープをつかんでいるという、圧倒的に不利な体勢。
「亜蘭!」
ついに美蘭の怒りの矛先はこっちに向いてきて、僕は仕方なくライトを手にすると、焦点を絞った一番強い光で梟の眼を狙った。いくら玄蘭さんが並外れた鳥の使い手といっても、彼らが持って生まれた習性に逆らうのは難しい。特に不意をつかれた場合は。
案の定、梟は反射的に身を翻して闇に逃れ、美蘭はその隙に守り刀を咥えると、両手でロープをたぐって最後の数メートルを上ろうとした。僕はガードレールを飛び越えて斜面を下り、毛布に包まれた莉夢をひとまず引き受けた。彼女はルネさんのよろけ具合から想像していたよりもずっと軽く、脇に抱えることができたけれど、それとほぼ同時に、梟の羽ばたきが起こす、音のない風が頬を冷たく撫でた。
「本当に忌々しい。私に逆らう時だけ阿吽の呼吸だ」
ようやくガードレールに手をかけた僕が振り向くと、梟はまた美蘭に襲いかかっていた。彼女がいまだに防戦一方なのは、いくら玄蘭さんに遣われているといっても、こんなに美しくて立派な梟を手にかけたくないからだろう。僕はその隙に莉夢を車の後部座席に放り込むことにした。でもそれに気づいたらしくて、梟はこちらへと方向を変える。
しかし次の瞬間、美蘭は跳躍して梟の脚をつかみ、着地と同時に守り刀で片翼の風切り羽を薙ぎ払った。もちろん梟もじっとしているはずがなく、彼女の腕に何度も嘴を突き立ててもがく。かろうじて顔を狙わないのは、商品価値を考えてのことだろうか。バランスを失った美蘭は枯葉に足をとられて斜面を滑り、そのはずみで梟を捉えていた手を緩めた。
片翼にダメージをうけた梟は、傾きながら低く飛んで着地し、また少し飛んでは着地するということを繰り返していたけれど、ようやく近くに低く張り出していた枝にとまると、枯葉にまみれて体勢を立て直した美蘭の方へ首を伸ばした。
「どうしても意地をはりたいようだね。あの小娘を構ったところで、何の得にもなりやしない」
「別にいいじゃない、親が捨てたも同然の子よ。どうしようと私の勝手だわ。ねえ、見逃してくれるなら、DVDのギャラは全部あげるからさ」
「はした金だね」
「莉夢がもっと大きくなれば、金はいくらでも稼ぐよ。玄蘭さんだって、あの子は上玉だって言ったじゃない。まだ先の話だけど、アイドルに仕立てて、プロデュースさせてあげてもいい」
「それは、少し面白そうだね」
いきなり玄蘭さんは態度を軟化させてきた。
「楽しいゲームになると思うよ。ただし期間は十五から十七の三年間だけ。あとはあの子の好きにさせる」
「なるほど。そこから先は、人気商売で甘やかされて腑抜けになろうと、小銭目当ての男に食い物にされようと、当世はやりの自己責任って奴だ。で、十五までの餌代はあんたが持つのかい?」
美蘭は闇の中で大きく頷いた。梟は風切り羽根を切られた翼を確かめるように軽く広げたり、畳んだりしながら、尚も問いかけた。
「とはいえ、子供なんて気まぐれの塊だ。明日にでも、母親のところに帰りたいなんて騒ぎ出すかもしれないね」
「そうなったら、私が自分で始末する」
美蘭の返事に、梟はまるで笑うように目を細めた。
「好きにするがいい。あの子が十五になる頃には私も優雅な身分になってるだろうし。あんたは寝る暇もないほど働きづめだろうが」
美蘭は「せいぜい楽しみにしといて」とだけ返すと、枯葉の中からロープを探り出して上り始めた。梟は軽く首を伸ばすと「そうだ、忘れちゃいけない」と呼びかける。
「あの、桃太郎の父親につけたお前の蜂は、うちの鴉がおやつにいただいたからね。よく肥ってて美味しかったらしいよ」
美蘭はほんのわずか眉間にしわを寄せると、「なるほど」と言った。
「おかしいと思ったんだ。急に消えたから」
「余計な事に首を突っ込むのも、いい加減にするんだね。だいたい、親の目がない方が、桃太郎も気兼ねなく女遊びできるってもんだろう?感謝してほしいね」
それだけ言うと、梟は翼を広げ、危なっかしくバランスをとりながら滑空して闇に溶けた。
「あとどれ位かかる?」
美蘭が尋ねると、宗市さんは「半日ぐらいかな」と答えた。二人の視線の先にはパジャマを着た莉夢が横たわっている。部屋はずいぶんと暖かくしてあるのに、彼女の肌は血の気を失ったままだ。
「こういうのは、絶対に急いじゃいけない。遠くに行ったら、帰ってくるのにそれだけの時間がかかるのは当然だろ?焦って薬を増やしたりすると、眼が見えなくなったりするからね」
そう言うと、宗市さんは立ち上がってキッチンに姿を消した。
美蘭と僕は回収した莉夢を連れて、猫たちの待つアパートまで戻ってきた。途中で宗市さんと合流したけど、彼が玄蘭さんに口を割ったことは不問。っていうか、絶対に逆らえない関係なのは僕らも納得してる。ただ、今回はうまくごまかせなかっただけなのだ。
宗市さんは持ってきた薬草を使って、蜂の針に塗られた毒で仮死状態になっていた莉夢を蘇生させようとしていた。猫のサンドとウツボは莉夢のことが気になるみたいで、彼女の足元に並んで蹲っている。そして僕はやっぱり自分の部屋なのに居場所がない感じで、隅っこにおさまっていた。外はまだ暗いけれど、たまに車が通ったりして、すでに早朝だということを教えてくれる。
「美蘭、これ飲んで」
キッチンから戻ってきた宗市さんは、コーヒーみたいに濃い色の液体が半分ほど入ったマグカップを差し出した。離れている僕にもわかるほど、ひどい匂いがして、当然ながら美蘭は「何それ?」と明らかに嫌がっている。
「何でもいいから。山にいる鳥や獣からうけた傷は甘く見ちゃ駄目だよ。これを飲んでおけば、こじらせずに早く塞がる」
美蘭はしぶしぶマグカップを受け取ったけれど、Tシャツ姿の彼女の腕は梟にやられた生傷だらけだ。あの時着ていた服はあちこち派手に引き裂かれていて、すでにゴミ箱の中だった。
「ちょっと、この距離でもすでにアウトって匂いなんですけど」
「いいから」
宗市さんは有無をいわせない。全く、どうしてこの毅然とした態度で、玄蘭さんの追及をかわしてくれなかったんだろう。美蘭は一気にカップの中身を飲み干すと、鬼瓦みたいな顔で「まっずい!」と唸り、傍においていたペットボトルの水をごくごくと飲んだ。猫たちは美蘭が叩きつけるように置いた空のマグカップに寄ってくると、競って鼻先を近づけた。
「何だかこれ、猫のおしっこみたいな匂いだと思ったけど、本当に入ってたんじゃない?」
「そんな恐ろしいもの入ってないよ。薬草だけだから安心して」
美蘭は何も答えずに肩をすくめると、まだ匂いをかいでいるウツボの背中を撫でた。宗市さんは莉夢のお腹のあたりにかかっていた毛布を肩まで引き上げると、「この子に新しい名前をあげるつもり?」と尋ねた。
「そうね」と頷いて、美蘭はウツボを抱く。
「奈々って名前にしよう。夜久野奈々」
それを聞き、僕は思わず声をあげて失笑してしまった。猫少女ニャーニャからとったに違いないけど、あいかわらず安直で、つくづくセンスないなと呆れたのだ。すぐにしまった、と気づいたけど手遅れで、美蘭は凄い勢いでウツボを投げつけてきた。
「美蘭!」と宗市さんがたしなめた頃には、ウツボは四肢の爪を僕の腕にがっちりと食いこませてぶら下がっていた。セーター越しでもけっこう痛い。
「可哀想なことしちゃ駄目だよ」と言われても、「猫ダーツ。腕は三点、顔面は五点」とうそぶく美蘭は、更にサンドに視線を向ける。宗市さんは先回りしてサンドを抱き上げると、「奈々って、いい名前だと思うよ」と言った。
美蘭はもう猫ダーツに興味がなくなったみたいで、片膝を立てると、そこにかるく顎をのせて「ねえ、宗市さんはどうして名字変えないの?」と尋ねた。
「はっきり言って、夜久野宗市って名乗る方が今の状態に合ってると思うんだけど。血筋なんて誰も気にしちゃいないし、薬のことは玄蘭さんより詳しいでしょ?」
宗市さんはサンドの喉元を撫でながら少しだけ微笑んで、「僕は夜久野と名乗れるほど、強くないからね」と答えた。
「意味わかんない。まあ、うちの連中にロクな奴はいないし、そんなのと一緒にされたくはないか」
「美蘭、僕は本当に、自分が夜久野を名乗るに値するとは思ってないんだ。それとあとは、自分が何者か忘れないでおく必要があるから」
「自分が何者か?」
「そう。知ってるとは思うけど、僕は東京の人間じゃない。地方の、そこそこ人口のある、そうだな、特急列車が停まるぐらいの街で生まれた。
僕の父親は腕のいい料理人で、母親も手伝う小さな店はいつもにぎわってた。でもね、彼は店では陽気で気さくな人物なのに、家では妻と息子に当たり散らす暴君だった。僕はいつも殴られていて、階段から突き落とされたこともあるけど、何の偶然だか、命に係わるような怪我はしなかった。
ひどい生活だけど、僕にとってそれは日常だったし、父親とはそういうものだと思って我慢していた。でも、母親は耐えきれなかったんだろうね、ある日、何の前触れもなく出ていっちゃった。後になって判ったのは、店のお客さんと逃げたらしいって事。僕が中学に上がってすぐの時だ。
それから父親の暴力は一段とひどくなった。僕は怪我を隠すために学校にほとんど行かなくなったけど、店の仕込みはよく手伝った。少なくとも、店にいる間の父親は別人だったし、僕も中学を卒業したら料理人になろう、そうしたら家を出られるって、漠然と考えてたんだ。母親が出て行ってすぐの頃は、迎えに来てくれるんじゃないかと期待していたけど、三か月たっても半年たっても連絡はなかったから、捨てられたって認めざるを得なかったからね。
今になって思うと、あの頃の僕はかなり奇妙な外見をしていた。服はほとんど洗濯してないし、何故だか髪があちこちごっそり抜けちゃって生えてこないし、顔と首のどこかにいつも赤い発疹が出ていた。そして背が少しも伸びなくて、腕も足も細くて、よく小学生と間違われた。判りやすく言うと、みすぼらしい捨て猫みたいな感じだね。
それで、母親が出て行った翌年の冬だったかな。玄蘭さんが来たのは。あの人の印象は、まあ今とほとんど変わらない。いきなり店に現れて、この一角にビルを建てる計画があるから売らないかって、単刀直入に切り出したんだ。僕はちょうどその時、仕込みを手伝ってたけど、父親に言われて外に出た。子供心にびっくりしたよね。この黒ずくめで威圧感のある人は一体何者だろうって。
外に出たところで、下手にうろついて学校の友達やなんかに見つかりたくないから、僕は店の脇にある細い通路に入って、空いた一斗缶に腰掛けて時間をつぶした。携帯なんか持ってないし、ただぼんやり座って、通りを歩く人を眺めて、数えるだけ。それは僕なりのゲームで、家から閉め出された時でも、二十七人通ったところで、何かの動きがあるっていうのがジンクスだった。
でもその日は、もっと早くに変化があった。十六人目の通行人が玄蘭さんだったんだ。彼はいったん通り過ぎて、僕に気が付くとまた戻ってきた。そして通路の中まで入ってくると、こちらを見下ろして「あんたの父親はまだ店を売るかどうか決めてない」と言った。
「それでも売らせるのがこっちの仕事だし、私は失敗なんかした事がない。だから、あんたの父親は店を売る」
僕は呆気にとられて、何も言えなかった。とにかくその場から逃げたかったけど、何せ玄蘭さんが立ちふさがってるから動きようがない。仕方なく俯いてると、彼は「あんた、食事は作れるかい?」と尋ねた。何だか漠然とした質問だけど、僕は咄嗟に「はい」と答えていた。本当の事言えば、カレーとか野菜炒めぐらいしか作れなかったけど、僕にとっての食事はその程度だったから、嘘ってわけでもない。
玄蘭さんは頷いて、「いいだろう。うちじゃ、この前雇った料理人をクビにしたところなんだ。男を顔と身体だけで選んじゃ駄目だって、判っちゃいるんだけど、つい趣味が出ちゃっていけない。あんたならそんな心配も無用だ。ついておいで」と言った。
そのやり取りだけで、僕は玄蘭さんの所に行った。父親には何も言わなかったし、荷物を取りに戻ったりもしなかった。
君たちも知っての通り、玄蘭さんは世間一般の意味での優しさなんて欠片も持ち合わせていない。でも僕にとっては、父親といるよりずっと過ごしやすい相手だった。僕は料理人というよりは、雑用係という感じであれこれ手伝わされたけれど、理不尽に当たられた事は一度もない。まあ、へまをすれば思い出したくもない言葉を頂戴したけど、原因は僕にあったし。
それよりも厳しく叱られたのは、僕が自分の頭では何も考えないって事だった。それはもう、僕にとって生存戦略みたいなもので、父親の言う通りにしていても当たり散らされるんだから、自分で考えて動くなんてありえなかったんだ。玄蘭さんにはよく、「あんたの耳と耳の間には空気が詰まってる」って言われたけどね。
でもまあ、僕は少しずつだけど新しい生活に慣れていった。何か判らない事があれば、まず自分で考えてみるようにもなった。抜けてた髪はいつの間にか生えそろって、自分でも驚くほど背が伸びたし、赤い発疹も消えてしまった。何をどうやったのか知らないけど、玄蘭さんは必要な書類を揃えて、大学受験の資格もとらせてくれた。役立たずに用はないってのがあの人の口癖だけど、僕はそれに後押しされて大学の薬学部に入った。
本当のことを言うと、玄蘭さんは僕が受験する前に一度、名前を夜久野宗市に変えないかって尋ねたことがある。すごく世話になってるんだから、当然かなって、そうは思ったんだけど、受験票に貼る写真を見て気持ちが揺らいだ。自分の顔に、父親の面影を見つけたんだ。そして考えた。顔立ちが似てるって事は、あの乱暴さも受け継いだはずだって。
正直いってそんな事、考えたくもなかった。僕は暴力なんて大嫌いだし、誰かを傷つけるなんて絶対にしたくない。でも、もしかしたら、条件さえ揃えばやってしまうかもしれない。それと同時に僕は母親の事も思い出していた。自分の子供を置きざりにする身勝手さもまた、僕という人間の一部に違いないってね。
結局、僕は氷水宗市のままでいる事にした。自分に潜んでいるものを忘れないために。でも両親にはずっと会ってないし、生まれた街に戻ったこともない。ただ、名前だけが僕と過去とを結びつけているんだ。
玄蘭さんは別に僕を束縛しなかったから、大学を出た後は一人暮らしをして、製薬会社で何年か働いた。少なくとも学費は全部返せたし、それはよかったと思ってる。でもまあ、会社勤めで見聞きする事より、玄蘭さんの傍にいる時に出会った事の方がずっと面白いような気がして、結局僕は仕事を辞めてあの人のところに戻った。「あんたも酔狂だねえ」って呆れられたけど。
小学校に上がった君たちがあの部屋に出入りするようになったのは、ちょうどその頃だよね。初めて会った時、君は後ろに亜蘭を隠すようにして、僕をじっと睨んでた。僕はきょうだいがいなかったし、親戚づきあいもなかったから、まるで新しい家族ができたみたいで、すごく嬉しかったのを憶えてるよ。その気持ちは今でも変わらないけど」
そう言って宗市さんが微笑むと、美蘭は大きな欠伸をして、「やっぱ徹夜明けは眠いわ。ちょっと帰って寝ようかな」と唸った。
「ねえ、この子と住むつもりなら、ホテル暮らしは無理だろう?玄蘭さんに頼んで、ちゃんとした部屋を見つけないと」
「この子とは一緒に住まない」と答えて、美蘭は彼女の髪に軽く触れた。
「東京じゃ誰に見つかるか判らないし、三重の山奥に知り合いのご夫婦がいるから、そこに預けるわ。寂しがってる暇なんてないわよ。お利口で綺麗な猫がいっぱいいるから。金目銀目の黒猫専門のブリーダーなの。」
「なるほど」と、宗市さんは頷いた。
「ではもう一つ質問するけど、君はまだ一人暮らしを続ける気?その理由は?」
美蘭はしばらく黙っていたけど、「重たい女になりたくない」と低い声で答えた。
「それは考え過ぎってものだよ。今はまだ一緒にいて、互いにわがまま言ったり、助け合ったりすればいいと思う。本当に大人になったら、自然と離れていくものさ。どんなに仲がよくてもね」
どうして一人暮らしに体重が問題なのか判らないし、宗市さんのアドバイスも右斜め上四十五度。徹夜明けのせいか、二人とも頭がうまく回ってないみたいだ。そして僕は美蘭がその後どう返事したのか知らない。眠ってしまったのだ。こういう時に目を閉じるのは最高に気持ちいいから。
30 新しい名札
雨が止んだみたいだ。
僕はベッドから出ると、窓辺に行った。微妙にひずんだガラス越しに眺める庭は、何だか現実味が薄い。低い雲の隙間から少しだけ陽がさしてるけど、その光は夕暮れがあまり遠くないことを知らせるように、金色を帯びている。
そして僕はまたベッドに腰をおろし、ここはどこかと考えてみる。新しい場所に移ってすぐの時は、よくこんな事が起きる。朝はそうでもないんだけど、今みたいに昼寝をしてると、目が覚めた瞬間、自分がどこにいるのか判らなくなってしまうのだ。
十日ほど前、美蘭は莉夢、じゃなくて奈々を連れて東京を離れた。僕は運転手で、もちろん何の手当も出ない。途中のサービスエリアで食べたカツカレーだって自腹だった。
僕らが訪ねたのは三重の山奥に住む、金目銀目の黒猫専門のブリーダー。榊さんという六十代の夫婦だ。彼らは古民家で猫を育てながら畑なんか耕して、ほぼ自給自足の生活を送っている。まあ、知らない人が見ればエコなご夫婦の猫屋敷ってとこで、じっさい集落の中では「黒猫さん」と呼ばれてるらしかった。
車を降りた奈々は緊張した様子で美蘭にくっついていたけれど、家に入るなり真っ黒な猫がうじゃうじゃと寄ってきたので、少し安心したみたいだった。そして彼女は榊さん夫婦と一緒に家の中や周囲を見て回ったり、子供の足だと半時間ちかくかかる小学校まで行ってみたりと、新しい生活の輪郭を手探りし始めた。でも運転手として来ただけの僕は、本当に何もする事がなかった。
スマホのゲームを除けば、縁側で黒猫たちを構うぐらいしか暇つぶしがない。とはいえ、猫なんて別に面白くもない生き物だからすぐに飽きてくる。仕方ないから横になってうとうとしていると、「ぐうたら昼寝三昧で、本当にいいご身分だね」という、嫌味ったらしい声がした。
薄目を開けると、庭の柿の木に鴉がとまってこちらを見ている。相手をするのが面倒なのでまた目を閉じると、鴉は「聞こえてるのかい」と、いきなり飛びかかってきた。僕は慌てて跳ね起き、傍にいた黒猫達も散り散りに逃げる。鴉は勢い余って座敷に飛び込んでから、畳の上を歩いて僕のいる縁側へと戻ってきた。
しょうがないので「何か用?」と尋ねると、「用もないのにお前さんの顔なんぞ拝みたくないね」と吐き捨てるように言う。
「アパートに借り手がついた。家具、家電つきって条件にしたら即決だ」
「でも、あの冷蔵庫とか、宗市さんが買ってくれたんだけど」
「宗市がそんなムダ金を遣うわけないだろう。とにかく、戻ったらすぐに荷物をまとめて出ること」
「わかったけど、次はどこ行けばいいの?」
「うるさいね、これから言おうとしてるのに、余計な口をはさむんじゃないよ」
鴉は苛立った様子で嘴を突き出し、羽ばたいて庭先の物干に移動した。多分だけど、僕に見下ろされてるのが嫌なんだろう。
「今度は立派なお屋敷だよ。彫刻家の醒ヶ井守が震災の後に建てた家だ」
「じゃあ、ほぼ新築」
僕がそう言うと、鴉はのけぞって笑った。
「これだから教養のない人間は嫌だねえ。醒ヶ井守は明治の生まれ、日本の彫刻界の草分けだよ。こっちの震災は関東大震災だ。木造の日本家屋は頼りないってんで、洋館をお建てになったのさ」
「ふーん」
僕は極力さりげなく、鴉のレクチャーを聞き流す。本当に、人を馬鹿にする時は心底嬉しそうなので鬱陶しい。
「お屋敷には醒ヶ井の末娘の絹子が、ずっと一人で住んでたんだけどね、先月とうとう大往生なさった」
「だったら事故物件でもないし、僕が住む必要ないじゃん」
「話は最後までお聞き!」
鴉が羽根を逆立てたので、僕は口をつぐむ。
「相続人は全員海外で、管理もできないから屋敷を売りたがってる。ところが遺言状のせいでそうもいかない。絹子は猫を一匹飼ってたんだけど、その猫が手厚く世話をうけて天寿を全うするまで、屋敷の売却は罷りならんと書いてあるのさ。
猫に毒でも盛ってやりたいとこだけど、弁護士が獣医とも契約してるんで、下手な事ができない。まあ、二十年は生きてるらしいから、じきお迎えが来るだろう。お前はこれまで散々猫の世話になってきたんだから、恩返しのつもりでお仕えするんだね」
「猫の世話になんかなってないし、飼いたくもない」
こないだようやくサンドとウツボを返したところなのに、また猫の餌やりに明け暮れるなんて、冗談じゃない。でも鴉は僕の言葉を遮るように「うるさいね。お前の値打ちなんざ、その猫以下だってのが判らないのかい」と喚いた。
「用はそれだけだ。お屋敷の住所はアパートのポストに入ってる」
鴉が翼を広げて飛び立とうとした時、後ろから「それはアナログ過ぎ。せめてメールにしてくんない?」という声がした。美蘭だ。
彼女は座敷の奥から縁側に姿を現すと「素敵なおうちみたいじゃない。その話、私がいただくわ。猫の世話はごめんだけど」と言った。鴉は「立ち聞きとは、行儀の悪い小娘だ」と不愉快そうだけど、美蘭は「なんせ育ちが悪いからね」と開き直っている。
「猫の事は心配しなくてもいいわよ。世話係としてこいつを雇うから」
美蘭は腕を組んだまま、爪先で僕の背中を小突いた。捕まえてひっくり返してやろうと手を伸ばすと、瞬時に間合いをとられてしまう。鴉はそんな僕らをうんざりしたように一瞥すると、「猫の面倒さえみるなら、誰が住もうと知った事じゃない」と言い捨てて飛び立ってしまった。
そんなわけで僕はこの屋敷に移り住んだ。大きく見えても半分ほどはアトリエで、実際に住める場所はそう広くない。元の住人の荷物は処分済みだけど、家具やなんかはそのまま残してあって、館の主である三毛猫の小梅は専用のドアからあちこちの部屋を行き来している。
げんに今も僕の部屋の猫ドアをくぐり、彼女が入ってきた。かなりの年だけど、いいものばっかり食べてきたのかすごく元気で、毛並みもいい。だみ声で「ビャア」と鳴き、ベッドに上がると丸くなった。餌の時間でもないのに僕のところに来るのは、他の部屋の居心地がよくないからだ。
耳を澄ますと、一階の居間から甲高い笑い声が聞こえてきて、これが原因だと判る。美蘭の奴、風香だけならまだしも、彼女の母親まで呼んでお茶してる。宗市さんに焼いてもらった洋梨のタルトを、自分で焼いたと詐称する根性の悪さで、僕は見せしめとして、先に一切れ食べておいてやった。
ここに越してからというもの、美蘭は僕の雇い主だと主張して、一層態度が大きくなって傲慢さも倍増だ。桜丸も辟易してるのか、前はうるさい程だった美蘭の話をあんまりしない。そして江藤さんはといえば、上海事務所の立ち上げを任されて、中国に長期出張中。やっぱり美蘭みたいな女は、誰からも愛想をつかされるのが当然なのだ。
とにかく、美蘭とお客が盛り上がってる限り、小梅も僕もここからは動けない。僕はもう一度ベッドに横になると目を閉じた。小梅がお腹に乗ってくるけど、それには構わず、意識をずっと遠くまで飛ばしてみる。三重の山奥、古い家で飼われてる、金目銀目の黒い猫が僕の行き着く先。
あっちじゃ天気は快晴で、この黒猫は庭先にある柿の木の根元で日光浴の最中。ヒヨドリが鋭い声で仲間を誘い、鶏小屋からは雌鶏の声が低く聞こえてくる。乾いた空気には焚火の匂いが混じっていて、その中にほんのりと焼き芋の甘い香りが漂う。
僕と黒猫は地面からかすかに足音を感じたので、身体を起こして耳を立てた。その足音はどんどん近づいてきて、やがて庭先にランドセルを背負った女の子が駆け込んできた。胸につけた真新しい名札には「夜久野奈々」と書かれている。
「ただいま、ええと、モミジ」
彼女は何匹もいる黒猫を、まだちゃんと見分けることができないらしくて、首輪の色で確かめてる。僕とモミジが頭を摺り寄せて挨拶すると、彼女は慌ただしく背中を何度か撫で、「また後で遊ぼうね」と言ってから、「おばさん、ただいま」と声を上げ、家の裏手にある畑の方へと駆けていった。
それを見送って、僕とモミジはまた横になり、日光浴を続ける。目を閉じてはいるけれど、耳はずっと奈々の声を捉えている。そして待っているのだ、彼女が新しい家族と戻ってくるのを。別に心配してるとか、そういうわけじゃない。ただちょっと、気になるだけ。
猫少女縁起