バレンタイン

「今日は何の日でしょう?」
 目の前に人影を感じたので、鞄に荷物を入れるのを中断して私は顔を上げた。そこには、親友の芳香が机に両手を置いて立っていた。
 その顔には、何かを期待するような笑顔があった。
「何の日?」
 今日は2月14日。バレンタインデー。それはもちろん知っている。しかし、私はとぼけて答えた。
「それを私に言わせる?」
 芳香は笑いながら、首をかしげた。いかにも愉快げだ。
「少なくとも私たちには関係ない日だと思うけども」
 そんな芳香を私は無視して、鞄に荷物を詰める作業に戻った。
「そんなことないと思うけどなぁ」
 芳香のわざとらしい言葉がなんだかしゃくに障った。私からチョコレートをもらえるもの、と完全に踏んでの言動だ。
「友チョコなら、たくさんもらっていたじゃない」
 私はそう言い捨てると、すっくと立ち上がった。
「それじゃあ。また明日」
 そして短く別れの挨拶を告げると、ずんずんと大股で歩き始めた。
「ちょっと待ってよ」
 私の予想外の行動に、芳香は慌てて自分の鞄を取りに駆け出す。
「待ってったら」
 そして私のあとを走って追いかけてきた。

「ねぇ。機嫌直してよ」
 芳香が私の右後ろから言葉をかける。
「私、怒ってないよ」
 嘘だ。私は怒っている。それも、かなり。しかし、それが芳香に伝わらないように、私は努めて冷静に言葉を紡いだ。
「ごめんったら」
「だから、怒ってないよ」
「嘘だよ」
「どうしてそう思うのよ!」
 しつこい芳香の言葉に、私はつい感情を言葉に載せてしまった。
「あ……」
 自分の失敗に気づいた私の口からは、後悔の言葉が漏れた。思わず立ち止まる。
「ごめんね」
 私の言葉に芳香が私の前に回り込んで謝罪の言葉を口にした。うつむき気味のその表情は、少し硬くなっていた。
 その表情が、私の罪悪感を刺激した。
 ……こんなつもりではなかったのに。
 ……すてきな、思い出の残る一日にしたかったのに。
「……私こそ、ごめん」
 私は深々と頭を下げた。悔やむに悔やみきれない。胸がずきずきと痛む。
「そんなしなくて良いよ!」
 芳香が私の行動に慌てる。しかし、彼女がなんと言おうと、私は顔を上げることができない。
 頬を伝った水滴が、静かに地面に落ちる。その雫は、アスファルトをぬらして、黒い斑点となる。
「聖?」
 なかなか頭を上げない私に対して、芳香がおかしいと思ったようだ。
「ごめん、なさい……」
 私はそれでも謝ることしかできない。今のこの表情を、芳香に見せたくなかった。
「ごめんなさい。私のことは良いから、先に帰って。芳香」
 私は声が震えるのを我慢して、できるだけ平坦に言った。
「……だめ」
 しかし、つきあいが長い芳香には、私の我慢なんて見抜かれてしまう。
「芳香が泣いてる。ほっとけないよ」
 そう言うと、私のあいている左手をむずとつかんで歩き出した。
「きゃっ!」
 突然の芳香の行動に私は戸惑ってしまう。
「だめ。私、芳香に泣いている顔見られたくない……」
 私はつい本音を口にしてしまっていた。
「聖がそう言うなら、私はあなたの顔を見ない」
 芳香が振り返ることなくずんずんと歩きながら答える。
「でも、やっぱりほっとくことはできない。大切な友だちだから」
 歩みを止めることなく、むしろ速くなっているような感じがする。芳香はずんずんと歩く。そして、抵抗する気がない私はずるずると引っ張られる。

 それから5分程度経ったろうか。たどり着いたのは、学校の近くの公園だった。中央の時計は、5時前を示していた。近所の子どもが楽しそうに遊ぶ声が響いていた。
「ここに座ろう?」
 芳香はあいていたベンチまで私を引きずってきたかと思うと、私の前に立ち、優しく肩を押してきた。
 軽い力であったが、力の抜けた私は簡単に押されて、ベンチに腰掛けた。
「それじゃ、私飲み物買ってくるから。それまでに落ち着くんだよ」
 そう言うと、芳香は入り口脇の自動販売機に向かって走り出した。
「最悪だ……」
 芳香が離れたことを確認すると、私は小さくつぶやいた。
 こんなつもりじゃなかったのに。再びその言葉が私の胸を刺す。
 今日は、特別な日になるはずだった。
 私は、鞄にしまったままのピンクのラッピングがされた箱を思い出す。
 今日は、自分の気持ちを芳香に伝えようと思っていた。
 ずっと二人一緒だった芳香。
 男女誰からも親しまれている芳香と、あまり人と交流をしない私。
 そんな対照的な二人だったけど、意外と二人の中はうまくいった。
 芳香は人気者だから、いつも一緒にはいられない。でも、気づくと二人は一緒にいた。
 楽しいときも、悲しいときも、嬉しいときも、切ないときも。二人は一緒にいて、二人で思い出を作ってきた。
 いつからだろう。芳香のことを意識しだしたのは。
 はじめは、友だちとして大切だと思っていた。
 しかし、私の胸の高鳴りが。私の心のざわめきが。私の思考のすべてが。
 それが違うと言うことを教えてくれた。
 今日の芳香はどうしているか。
 気づけば視線が追いかけるようになっていた。
 気づけば、彼女の声を求めていた。
 彼女の笑顔を欲していた。
 彼女が自分だけを向いてくれることを、望んでいた。
 そう、私は気づいてしまった。
 私は彼女が、芳香が好きだということを。
 愛していると言うことを。
 はじめはこの気持ちは隠すつもりでいた。
 女性が女性を好きになる。まだまだ世間ではこれは白眼視される。
 気持ちを伝えることで、芳香が離れて行ってしまったら。
 それを考えるだけで私は心が凍ってしまったような感覚になってしまった。
 だから、伝えずにいよう。
 このまま一緒にいられるだけでいい。
 いつか、芳香に好きな人ができて。芳香の気持ちに答えてくれる人が現れて。
 芳香が幸せな人生を歩む日が来るだろう。
 私はそれを笑顔で祝福してあげよう。
 そう思っていた。
 しかし、それで良いと思っていたことに、私の気持ちが耐えられなくなった。
 伝えたい。
 この気持ちを伝えたい。
 そんな思いに私はとらえられるようになっていった。
 芳香が離れて行ってしまうかもしれない。
 しかし、それでも伝えられずにはいられない。
 我慢の容量を超え、あふれ出した私の思いは、もう止めることができなかった。
 だから、私は今日という日を選んだ。
 この、バレンタインデーという日を。
 そのために、一生懸命手作りした。ラッピングをした。思いを込めた。
 芳香に思いを伝えるために。私の大好きを伝えるために。
 なのに、だ。
 私は失敗してしまった。
 芳香が朝から友だちとチョコレートを交換するのを見て。私は耐えられなくなってしまった。嫉妬してしまった。
 芳香にとって、それが友だちとの友情の確認だ、ということはわかっていた。
 だけど、私はそれすら我慢できなかった。
 私の独占欲はそれほどまでだったのか、と自分であきれてしまうほどだ。
「はぁ……」
 私はため息をつき、空を見上げた。
 挙げ句の果てに、八つ当たりを当の本人にぶつけてしまって、彼女を恐縮させて。そして、自分で泣いてしまうなんて。
「私って、子どもだなぁ……」
 自分の情けない行動を悔やんでも悔やみきれない。
「……いつまでも泣いていたら、駄目だよね」
 あふれ出そうとする涙をこらえる。ポケットから、赤のチェックのハンカチを取り出して目元をぬぐう。
 パンッ
 そして、頬を軽くたたいて、私は気持ちを切り替えた。
 今日、気持ちを伝えるのはやめよう。いや、気持ちを伝えること自体やめよう。やっぱり、無理だったのだ。
 私は心にそう誓った。
「芳香、まだかなぁ」
 気持ちを切り替えた私は、芳香の姿を探した。見つけた。今、飲み物を持ってこちらに帰ってくるところだった。
できればこのまま帰ってしまいたい気持ちもあった。
 しかし、そんなことをしたら芳香を心配させるだけである。
 今日は何事もなかったかのように一緒に帰って、気持ちを封印しよう。
 芳香が近づいてくるのを見つめながら、私はそう考えた。
「待った?」
 それからしばらくして、芳香は両手を後ろに隠して帰ってきた。
「ううん。待ってない」
 私は首を横に振った。
「ごめんね。急に泣き出しちゃって」
 私の口からは自然と謝罪の言葉が出てきた。
「気にしなくて良いよ。」
 芳香が笑う。その笑顔からは、私の失態を気にするそぶりは見られなかった。
「じゃ、これ聖に」
 芳香はそう言うと、私の前に箱を差し出した。
 箱?
 芳香の持っているものは、赤のチェックの包装紙に包まれた箱だった。
「これ……?」
 私はあっけにとられた。いったいこれは何だろう?びっくり箱?
「今日は何の日でしょう?」
 芳香が教室で私にした質問を繰り返した。
「……バレンタインデー……」
 今度は私も素直に答えることができた。
「そう。大切な人に、自分の気持ちを告げる日。だから、私の一番大切な人に」
 芳香は顔を赤く染めながら言った。恥ずかしそうだが、その目を私から背けない。
「えっ?」
 私が?一番大切な人?芳香が言っていることが私の頭の中に素直に入ってこない。混乱してしまう。
「だから」
 芳香が声のトーンをあげる。
「聖。あなたは私にとって一番大切な人なの。だから、私の気持ちを受け取って欲しい」
 芳香の飾りのない、まっすぐな言葉が私に向けて放たれる。その言葉は、私の胸を鋭く貫いた。
「私が?」
「そう、聖が」
「一番大切な?」
「一番大切な」
「芳香の好きな人?」
「私の好きな人」
 戸惑う私の言葉を、芳香は恥ずかしそうに拾ってくれた。
「本当に?」
 しかし、私はまだ信じることができなかった。だって、両思い……。
「こんなことで嘘はつかないよ。」
 芳香は困ったように笑う。
「いい加減にしてくれないと、私が今度は怒っちゃうよ」
 芳香はまっすぐ私を見据えた.。その目は、真剣そのものである。
「……ありがとう」
 私は、芳香が差し出した箱を受け取った。
「開けていい?」
 受け取った箱を宝物のように優しく包んで、私は芳香に尋ねた。
「駄目」
 芳香が笑いながら答えた。
「恥ずかしいから」
 芳香が続ける。
「わかった」
 私は芳香からもらった芳香の気持ちを、胸に抱き寄せた。
 ここに、芳香の気持ちがある。
 そのことが、私の心を穏やかにした。暖かくした。
「家に帰ってから開けてね」
 芳香が笑う。自分の気持ちを伝えることができたからか、なんだかすがすがしそうにしている。
 なんだか、いつもより輝いているように見える。
 そうか。気持ちを伝えるって、こんなに簡単なことだったんだ。
 悩んだり嫉妬したり怒ったり。そんな私の行動がなんだかばからしいものに思えてきた私は、つい吹き出した。
「え?何で笑うの?」
 芳香が慌てる。
「あ、ごめん」
 右手を左右に振る。
「なんだか、わたし馬鹿みたいだったな、って思ったの」
「聖が?」
「うん。つまらないことで悩んだり、嫉妬したり、怒ったり。完全に独り相撲だったな、って思ったの」
 私は、なんだかおかしくなって笑いがこみ上げてくる。
「ふふふ」
 ついにそれは、私を突き破って表へと溢れた。
「変な聖」
 芳香はあきれたような、困ったような顔。
「ごめんね」
 私は、人差し指で目頭をぬぐう。そして、右手を胸に当てて、深呼吸をした。
「芳香」
 ようやく落ち着いてきたところで、言葉をかけた。
「なに?」
 芳香は首をかしげた。
「後ろ、向いてくれない?」
「どうして?」
「どうしても」
 突然の私のお願いに、芳香は戸惑った。どうしようか悩んで、すぐに後ろを振り向く。
「これでいい?」
「うん。良いって言うまで振り向かないでね」
 そう言いながら、私は鞄の中から箱を取り出す。
 ピンクの紙に包まれた。私の思いを詰め込んだ箱を。
 私は立ち上がると、ちょっといたずら心がわいてきた。そして、それを実行するために、芳香の近くに寄った。
「いいよ」
 静かに告げる。それを合図に芳香は振り返ろうとした。
 そして、顔がこちらに振り向いてきたとき。
 私は彼女の頬にキスをした。
「えっ?」
 突然の出来事に、芳香が固まる。その顔から、何が起こったかわからず、頭がパニックになっていることが伝わってくる。
 成功だ。
 私は頬が火照るのを感じながら、最高の笑顔を向けた。
「これが私の答え」
 悩んでいたのが嘘のように、自分のありのままの気持ちが口から溢れた。
「私も、芳香が大好き。一番大好き。だから、芳香の気持ちが嬉しい」
 そして、ピンクの箱を芳香に差し出す。
「これ、私の気持ち。芳香が大好きな、私の気持ち。精一杯込めて作ったから、受け取って欲しい」
 呆然とする芳香に、私は強く差し出した。すると、思考が停止したままの芳香は、反射的にそれを受け取った。
 私は、胸の中にある気持ちを伝えたことに満足感を覚えた。しかし、次の瞬間。さっきの私の行動を思い出した。
 思い切ったとはいえ、大胆なことを。
 私は急に恥ずかしくなってきた。
「それじゃあ」
 恥ずかしさに耐えられなくなった私は、右手で鞄を持ち、走り出した。
「えっ?ちょっと!」
 その行動に我に返った芳香が、私の右手をがっしりとつかむ。
「あっ……」
 手を捕まれた私は逃げられなくなってしまった。何とか手をふりほどこうとしたが、がっちり捕まれた手をふりほどくのは無理のようだ。
「……聖」
 芳香が顔をうつむかせて、質問した。
「なに?」
 私は、顔を背けて答える。
「さっきのキスが」
 芳香の口からその言葉を聞くと、改めて恥ずかしくなる。
「答え?」 
「そう……かな?」
 私はわざととぼける。
「聖も私が好き?」
 芳香が質問を重ねる。
「……好き」
 私は小さくつぶやく。
「大好き?」
 芳香のさらなる質問。
「……大好き」
 私は、ささやくような声でそれに答える。私の心臓は、限界を超えたスピードで早鐘を打っていた。こんなはやさと強さ、初めてだ。
「嬉しい……」
 芳香が顔を上げた。そこには、思いが伝わった人が持つ、最高の笑顔が溢れていた。
「ありがとう……」
 芳香の笑顔に、私は見とれた。
 私の好きな人って、こんな幸せそうな顔をするんだ。
 今まで見たことのない芳香の顔が、私まで幸せな気持ちにしてくれた。
「こっちこそ、ありがとう」
 私は、芳香をまっすぐに見つめる。
「こんな私を選んでくれて」
 正直、その点は未だに信じられない。しかし、芳香の言葉は本物であった。これがどっきりだったら、芳香の演技の才能はアカデミー賞クラスだ。
「違うよ」
 芳香が首を左右に振る。
「聖だから、好きになったんだよ」
 芳香のまっすぐな言葉が私の心に優しくしみこんできた。
「ありがとう」
 私の口から、自然と感謝の言葉が紡がれた。
「……良かった」
 芳香がつぶやく。
「両思いで」
 その言葉が、私の心を満たしていく。
 両思い。
 かなえられないと思っていたその関係。
 それが今、二人の間に築かれていた。
 なんて、幸せな気持ちになれるんだろう。
 私は、嬉しくなって笑い出した。
「ふふふ」
 それは芳香も同じだったようだ。芳香が幸せそうに笑っている。
「ふふふ」
 私も思わず笑い声が漏れる。
 それが合図であったかのように、私と芳香は声を出して笑い合った。
 胸から溢れる幸福感でできた笑い声を出して。

 どれくらい時間が経っただろうか。
「……帰ろうか」
 私から芳香に切り出した。
「……そうだね」
 芳香がうつむきながら答える。
 どちらからともなく歩き出した二人は、同じはやさで歩いていた。
「……」
 先ほどまで笑顔だった二人の間には、今度は沈黙が訪れた。まるで声に出したら、今日のことが夢と消えてしまうかのように。
 しばらく無言で歩く。
 こつん。
 突然、私の左手と芳香の右手が当たる。
 なんだか、照れくさいな。
 私がそんなことを考えていると、突然左手が優しく捕まれた。
 驚いて左を見ると、芳香が私の方を見て笑っていた。
 それを見て、私は左手をほどいて、芳香に答える。
 まだ二人の間には、言葉は紡がれない。
 しかし、芳香の手の温かさから芳香の思いが伝わってくるようだった。
 その温かさの幸せを感じながら。
 私たちは、明日からどうなるんだろう。
 いつも通りに話せるのかな?
 そんなことを私は考えていた。

fin.

バレンタイン

バレンタイン

季節外れですが。 以前書いたものをアップしました。 見直しもしていないのですが。 記念碑として、さらし者として公開します。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-06-17

CC BY-NC-ND
原著作者の表示・非営利・改変禁止の条件で、作品の利用を許可します。

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