大谷 佐保
「ねえ、さほちゃん」
呼ばれて、振り向く。旭ヶ丘高校一年A組の教室で、わたしはブログの更新をしていた。その手をとめ、わたしは振り向いたのだった。
「なに?」
声を掛けてきたのは、学年でもトップクラスの成績と美貌を持つと噂の、北島美咲だった。わたしは美咲とクラスが同じなのを誇りのように思っていた。A組の平均点を上げるのに大いに貢献しているし、先生受けは良い。社会人の彼氏がいて、それもわたしたち学生にとって手の届かない存在であり、女子の羨望の対象だった。
その美咲が、こんな地味なわたしに何の用事なのだろう。わたしは期待と怪訝の混じった顔で彼女を見た。
「今日の掃除当番、代わってくれない?急用が入っちゃって・・・」
申し訳なさそうに、胸の前で手を合わせる美咲。放課後の掃除当番は誰しも嫌がる仕事。わたしも当然、嫌だった。が、あの美咲の頼みなら仕方がない、わたしは承諾した。ありがとう、と大きな声で言い、彼女は教室から去った。
わたしは少しもやもやする気持ちで、スマホの画面に目を落とした。
わたしの名前は大谷佐保、と書くけれど、さほ、じゃなく、さお、なんだけど・・・。これだけでも、わたしと彼女の関係は薄いものだとわかるのに、どうして頼みごとを断れないんだろう。自信のこもった大きな彼女の言動が、全て正しいような気がする。美人で成績の良い彼女。周囲から認められている彼女の頼みを断るなんてことは、法律に逆らうのと同等なくらい、恐ろしいことだ。そう思うのはきっと周りの女子も同じで、みんな彼女のお願いを断りきれない。本音を言ってしまえば、頼みごとを断ったあとの報復が怖いだけだ。
このことが無ければ、わたしは彼女を好きになれるのだけど・・・。
まあでも、その頼みごとは小さな、たとえば先生の雑用の丸投げだったり、今日のように掃除を代わってほしいとか、ささいなことが多いから、美咲のお願いなら・・・と承諾してしまう。
それは彼女の戦略だよね、と心で思い、その戦略にまんまとハマり、そして避けようともしないわたしたちに苦笑いする。結局みんな、波風を立てるのが嫌なのだ。
放課後に、美咲の代わりに掃除当番をこなす。他の当番の子とぽつぽつお喋りしながら。その会話の中に美咲の名は出ない。美咲に対する不信感を打ち明けるには勇気が要る。打ち明けて暴露されては困る。それも美咲はお見通しなのだろうか。
ばいばい、と手を振って、わたしは夕暮れのなか水色の自転車を走らせた。
トンネルのように生い茂った街路樹の下を、自転車のタイヤが枯れ葉をかさかさ踏み鳴らしながら走る。その前方を、高校生のカップルが歩く。彼氏の方は、少しブレザーがくたびれて、おそらく三年生。彼女の方は、きりっとした新品のそれ。親しそうに手をつなぎ、顔を見つめあいながら会話する彼らを見て、わたしは微笑ましいと目を細めた。羨ましい、と同年代の女の子は思うだろう。
わたしはその二人を追い抜いて、自転車を飛ばした。
河川敷に毎日通うようになって、もうひと月になる。学校の帰り道、きまぐれに寄ったこの場所は、河の流れる音が時間の流れを表しているように聞こえた。近くにあったねむの木の袂にわたしは腰かけたのだ。この場所でわたしはひとりの男の子に出逢った。
「佐保ちゃん、遅かったね」
彼は、小林雪鳴くん。同じ高校の三年生で、彼も毎日ここにいる。色白で不健康そうな印象だが、顔立ちは整っていて、やわらかなまなざしがわたしを安心させてくれる。
「掃除当番を代わってあげたから・・・」
わたしは彼の隣にひとり分のスペースを空けて、スカートを撫でて座った。こうしないとスカートのプリーツがしわになるのだ。
「また?こないだもじゃなかったっけ」
わたしは笑って見せた。
「いいの。わたしはどうせ暇なんだから」
わたしは正面を向いて、言った。そして鞄の中から、昼休みに学校の自販機で買った水を取り出した。蓋を取って一口含む。ぬるい水の味。わたしはすぐに蓋をした。
秋といっても、まだ残暑はきびしい。自転車を漕いできたわたしの額には汗が滲んでいた。タオルハンカチをポケットから探り出す途中に、雪鳴くんはわたしの額に手を当てた。
「暑いの?」
「うん」
雪鳴くんの手のひらは、冷たかった。ねむの木の袂は日陰になっている。じっとしていたら、暑くはないのだろう。
わたしは、ここへ来るのをやめようと何度か決心した。だけど、できなかった。彼を独りにしておけなかった。そういうと聞こえはいいけれど、本音を言うと、わたしは雪鳴くんが好きなのだ。
わたしの話を聞いてくれるのは、雪鳴くんしかいない。興味を持って、質問してくれて。
雪鳴くんは、自分のことをあまり話さない。わたしも聞いたりしない。
彼は流行りのことは知らないし、テレビも観ないと言う。ずっと制服のままだし、二人で遊びに行くこともない。ただ放課後に、こうやって並んで座って、とりとめのない話をするのだ。
わたしは我儘を言わない。言っても、叶わないと分かっているから。
一緒にいて、話をして、少しだけ触れ合えれば、それだけでいい。
雪鳴くんのお母さんと、ここで会ったことがあるけれど、それは雪鳴くんにそっくりで、わたしはその夜切なくってベッドで泣いた。
「佐保ちゃん、どうしたの。考え事?」
黙ったままのわたしに、雪鳴くんは覗き込むように言った。
「ううん、なんでもないの。ごめんなさい」
わたしは笑って見せたけど、内心、本当に泣きそうだった。
だって彼は・・・。
その思いを、打ち消そうとわたしは頭を強く振った。
覚悟の上だったはずじゃないの、決心したの。それでもいいって。
「佐保ちゃん・・・」
雪鳴くんはショックを受けたような顔でわたしを見た。わたしは、泣きだしてしまった。
嗚咽を必死でこらえながら、涙を、汗を拭いたタオルハンカチで拭った。
理由の分からない涙を、雪鳴くんはどう思っているだろう。わたしは、涙の理由は明かしたことはない。いつも雪鳴くんは、わたしの肩をそっと抱き寄せて、髪を撫でてくれるのだ。
わたしはそうされることは、どきどきして、とても心地良いのだけれど、反面ひどく落ち込む。
彼の胸に、生きている証の、鼓動が無いからだ。
わたしはその真実にぶつかったとき、時間が止まったような気がした。
花束を持った彼の母親を見かけたこと、彼がずっと制服のままなこと、そして、伸びない髪や爪を見ると、現実を突き付けられそのことから、目を背けたくなる。
だって、こうして会話ができて、触ることもできる。なのに他の、身内である母親にさえ見えない彼の姿。どうしてわたしにだけ、見えるの?
誰にも言えない、彼の存在。彼にさえ。
雪鳴くん、生きていないんでしょう?
なんて聞いたら、彼が深く傷ついてしまうことは明白だった。そんな彼の顔は、見たくない。
一番つらいのは雪鳴くんだもの。
でも今日みたいに感情が抑えられなくなってしまう日が、ある。
好きなのに、叶う事は決してあり得ない、恋。未来が想像できない。わたしは年を取る、彼は取らない。
「佐保ちゃん、だいじょうぶだよ。」
頭上に彼の声が響く。落ち着いた、低い声。
どうして死んでしまったの、どうして生きていてくれなかったの、雪鳴くんが生きている時に会いたかった、そんなことばかりが頭を巡る。
「大丈夫ですか?」
女性の声がした。一人で泣いている女の子を見て、心配だったのだろう。その女性は子犬の散歩の途中らしく、足元でチワワが吠えている。なんでもないんです、とお礼を言い、その女性は不安そうに去って行った。
そうだ、周りには雪鳴くんの姿は見えていないのだ。泣いたり笑ったり、わたしは一人でしているのだ、変人に違いない。
ふふ、と自嘲的に笑いが起こり、わたしは顔を上げた。
「ごめんね、突然泣いたりして・・・」
「ううん、いいよ。泣いたら心がすっきりするから。たくさん泣くといいよ。」
雪鳴くんの言葉に、わたしは頷いた。泣いたら負けだとか、泣くな、と人は言うけれど、泣くことだって必要だと彼は言う。そんな雪鳴くんが好きだ。だけど、膝を抱えて独り泣いている彼を想像すると、また涙が溢れてくるようだった。泣いたらすっきりすると言う彼は、彼もそうしている、ということだと思った。
わたしが初めて雪鳴くんに出逢ったとき、会話の出来る相手が現れて彼は、喜びのあまり涙を流した。だから当初わたしは彼を「変なひと」認定していた。だが会うたび、チューリップの花束を持った彼の母親を見たとき、全てを悟った。変なひと、と思ってしまった自分を許せないと思った。
どうして、雪鳴くんはいのちが絶えてもここに留まるのか、という疑問が沸く。
宗教や死後の世界に詳しいわけではないから自分の一般的だと思う概念を当てはめると、彼は、この河で死んで、自縛霊のような存在、という解釈になる。
何か、この世に思い残すことがあるのだろうか。
わたしは彼を好きだから、ずっとここにいてほしい。だけど彼にとってみれば、成仏、というものをしたほうが、いいのではないか。この河川敷に、何年留まっているのかは定かではないけれどきっと、つらいと思う。制服は去年に新しいデザインのものに変更になっている。彼の制服は旧式だから、少なくとも一年間は経過している。
だけどこの河は雨が降るとすぐに増水するからと、十年ほど前に護岸工事が行われたはずだ。それ以来犠牲者は出ていないと、ニュースで言っていた。ならば、もっと前に・・・?
「佐保ちゃん?」
目の前で手を振られ、わたしははっとする。
「あ、ごめん、どこか行ってた。」
「おかえり」
二人で笑う。ああ、楽しいなあ、ずっと、永遠にこの時間が続けばいいのに。
願っても、それは不可能だった。彼は、夕方が終わる前にさよならを必ず言う。
なぜなのか。雪鳴くんは、女の子は夜に歩いちゃ危険だって言うけど。わたしは気が引けたけど、帰ったふりをして、遠くから観察したことがある。それはひどく後悔したけれど。
彼は、薄暗くなった河川敷の景色に、溶けるように消えてしまった。
雪鳴くんはこの瞬間を、わたしに見られたくなかったのだ。
愚かだった。だからわたしを帰したのに。
彼を裏切ってしまった、とわたしは自分を責めた。
もうすぐ冬が来て、日が短くなる。
そうしたら、会える時間はもっと少なくなる。
ああ、先のことを考えると、胸が苦しくなる。
わたしたちはこれから、どうなっていくのだろう。
わたしは年を取り、卒業し、進学や就職をする。そのとき彼は?
きっと、今のまま・・・。
制服のまま、若いまま、わたしに微笑みかけてくれるだろうか。
わたしはそんな彼を見て、同情や憐れみの感情を抱くかもしれない。その自分の気持ちが怖かった。その可能性がある自分の汚れたような心に嫌気がさす。今のように、彼を異性として好きでいられるか、自信が持てない。
そんなことを考えながら雪鳴くんと会話をし、内容はほとんど覚えていない。
すぐに別れの時間はやってくる。
「また明日ね」
「うん、また明日」
肌寒い河川敷を、自転車を停めた場所まで歩く。周りはしんとして、河の流れる音だけが耳に入って来る。さっきまでウォーキングの女性やキャッチボールの小学生がいたのに。まるでこの世に雪鳴くんとふたりきりのような錯覚に陥った。陥って、そうだったらいいのに、と思った。
学校なんて、家族なんて、友達なんて。いらない、そう、雪鳴くんさえいれば。
あのひとと、ずっと一緒にいたい。朝も昼も夜も。現実逃避なのは分かっている。でも、そう思わざるを得ない、わたしを取り巻く環境。
信じられるひとは、現実にはいない雪鳴くんだけ。
父さんも母さんも、信じられない。友達なんて上辺だけ、すぐに裏切る。そんな友人ばかりだった。わたしが悪いのか、随分悩んだけれどもし、そうだとして、だからといって裏切っていいことにはならない。人間なんてそう、他人のことなんてどうでもいいの。自分さえ良ければ。
彼は違う、わたしのことを見ていてくれる。本気でわたしを思ってくれる。
だから彼が、この世にあるべき存在ではないことなんて、どうでもいいのだ。
雪鳴くんとずっと一緒にいたい、その気持ちは日増しに強くなっていく。彼にこだわり過ぎている自分がいる。いつもいつも彼のことを考えて、ああ、苦しい、だめだ、いやだ、なんて意味もなく悶え眠れない。
彼の前で泣く回数も増え、雪鳴くんは心配そうにわたしの肩を抱く。
季節が変わり日が短くなると会える時間は少なくなる。それがたまらなく切なかった。まだ消えないで、まだそばにいて。そう願えば、現実の人ならばわがままを聞いてくれるかもしれない。だけどわたしの場合は違う。お互いがそう願っても、天が決めたルールに逆らうことは不可能だった。わたしのわがままは、ただ彼を困らせるだけのもの。そんな顔は見たくないのに・・・。
我慢しなきゃ。会えるだけでいいの。会えただけで奇跡なんだから。そう自分に言い聞かせる。
欲を消し去らなければ。
会いたい、触れたい、傍に居たい。それらの一切を、心の奥底に。
そうベッドの中で決心しても、翌日彼の顔を見ると、固まったはずの心はがらがらと崩れ去ってしまう。
秋も深まる衣替えの季節、半袖の彼は周りから浮いて見える。わたしは変化のないそれから目をそらす。
「佐保ちゃん」
彼は、穏やかな表情でわたしを見た。わたしはふわりと、嫌な予感がした。
胸が、ぞわぞわする。わたしは返事をしなかった。
「あのね、佐保ちゃん、僕・・・」
雪鳴くんの瞳に決意のようなものを見たわたしは、耳を塞ぎたい気持ちになった。
わたしは黙ったまま、水面を見つめていた。まるで聞こえないように。まるで、ひとりきりのように。
「僕、思うんだけど・・・」
心臓が、嫌な鳴り方をする。焦るような、恐れ。
「このままじゃ、いけない、と思うんだ」
わたしは言葉にならない呻きを発した。
「佐保ちゃんの為にならないよね、僕と一緒にいたら。だから、僕は・・・」
「いやよ!絶対に、言わないでよ、その先を!」
雪鳴くんはゆっくりと首を横に振った。
「いや、言うよ。僕は、君といて楽しかった。だけど、それだけだ。君の大切な時間を、時が止まった僕が奪っちゃいけないんだよ。佐保ちゃんにとって、何の意味もない時間なんだよ。だからこの時間を、もっと、君を守ってくれるひとと・・・」
わたしは雪鳴くんの言葉を遮って、彼に抱きついた。彼の発言を、妨害したかった。
「佐保ちゃん・・・」
「どうしてそんなこと、言うの?わたしには、雪鳴くんしかいないのに。お願いだから、ここにいて。お願い」
涙声で切望するわたしを、彼は優しく諭す。
「それが、いけないんだよ。僕といることで、新しい友達と出逢う機会が失われている。そんなの、僕はいやなんだ」
大谷 佐保