黄昏のスタートライン
出勤初日のこと。来津さんは少し早く目が覚めた。だから、ゆっくりとカーテンを開けて背伸びをして、普段よりも時間をかけて朝食を食べた。顔を洗い、歯を磨き、入念にひげを剃って、短い髪の毛はさっと手で癖を直す。近頃は抜いた先から白髪がはえてくるので、もうこまめに抜いたりしない。すでに自分は若くないのだと、来津さんは毎朝鏡の中の自分を見てそのことをしかたなく受け入れるのだった。あとは部屋着からスーツに着替えれば準備は終わる。来津さんは鏡の前に立つとネクタイの傾き具合を微調整し、コートを羽織る。家の鍵を握りしめると、テレビの電源を落とした。
部屋が静寂になって、外の路地を小学生たちが元気に駆けて登校していく音が室内にまで聞こえてくる。彼はその姿を捉えたくてベランダに近寄って階下をのぞき込むが、すでに子どもたちは遠くへ行ってしまった。
南向きの窓から冬の淡い朝日が射し込んで、空気に舞う小さなほこりに乱反射している。来津さんは時間を確認しようと左手首を上げると、腕時計をつけ忘れていた。時計を手に取ると、まだ駅に向かうには十分ほどの余裕があることを示していた。
来津さんは、陽光に照らされるカラーボックスの前に立つと、そこに立ててある二つの写真にやさしく手を触れた。
「じゃあ、行ってきます」
彼はそういうとしばらく写真を眺めていたが、ふと気を取り戻して鞄を手に玄関に向かい、革靴を履いた。けれどそこでもう一度立ち止まり、ワンルームの狭い玄関から写真のほうを向く。
「俺はとうとう東京に戻ってきてしまったよ」
そう口にすると、彼はしばらくじっとそのまま立ちすくんでいた。写真のほうへ聞き耳を立てているようでもあったが、しばらくすると、来津さんはドアノブに手をかける。ゆっくり静かにドアを開けると、外気に息が振れて白く立ちのぼった。
「さすがに冷えるが釜石ほどじゃないな」
来津さんは独り言を漏らした。ドアを閉めると鍵をかける。そしてコートの襟をたて、無造作に鍵ごとポケットに手を突っ込むと、スチールの階段を駆け下りていった。そうして来津さんは東京での暮らしを再びスタートさせた。
駅前の雑踏にまぎれると、来津さんはいつのまにかクルツさんになる。ほかの人たちと同じように一つの任務を持った市民の一人になる。そしてもちろん、クルツさんは来津さんと違って、写真と人と会話はしない。
*
ミウさんが西新宿の高層ビル街にあるオフィスに到着するのは、決まって始業の五十分前だった。
彼女はその習慣をキヨコさんから引き継いだのだが、もうかれこれ六年間、しっかりと守り続けている。
彼女はコーヒーとお茶を準備して、それから係長はじめ係全体の机の上とPCディスプレイを拭いて回る。始業三十分前になるとフロアにはちらほら出勤する人の姿が見える。彼女の係では係長のカツラギさんが一番早く出勤する。ミウさんは立って「おはようございます」とあいさつをする。普段いつも係長は「おはよう」と片手を挙げて通り過ぎ、席にどかっと座る。たまに「おはようミウちゃん」と私の名前つきで笑顔の挨拶が帰ってくるときは機嫌のいい証拠で、前の日はスワローズが勝ったか、巨人が負けたかのどちらかだ。係長の前で巨人のことをほめると予期せぬ理不尽が襲ってくるから注意が必要だった。席についた係長はPCの電源を入れると、少々古いパソコンの起動を待つあいだ、机の上にある朝刊を読む。これはあらかじめミウさんがセットしている東京新聞で、巨人の話題と同様、読売新聞のセットは禁忌である。そうして係長がひといきついているあいだに、ミウさんはそつなくコーヒーを出すのだった。もちろんミルク多め、砂糖少なめであることは言うまでもない。
これらはすべて先輩のキヨコさんに教えられたことだった。それに係長の異動もなかったものだから、彼女は引き継いだ知識で朝のルーティーンを完璧にこなすことができるのだった。
ミウさんがこの会社に大卒の正社員として採用されたのは八年前のことだ。はじめて出勤した日に職員全員の前であいさつをする機会があり、彼女は元気に大前美雨ですと名乗った。
係長からは、キヨコさんについて仕事を教わるようにと指示があり、彼の指さすほうをみると、キヨコさんの横に席が準備されていた。
「あそこの女性がキヨコさんですか」
「そう。その隣が君の席ね」
「あの」
「ん」
「キヨコさんの上の名前は」
「ああ、えーとね……ゼンバさん」
私は係長に礼を言って席に向かうと、横のゼンバさんに改めてあいさつをした。ゼンバさんはすでに私のほうに椅子をむけていた。
「ところで『みう』って、どんな字書くの?」とゼンバさんは彼女に聞いた。
「美しいに雨と書きます。なんでも梅雨の真っただ中に生まれたからだそうです」
「そう。素敵ね」
ゼンバさんは言葉ではそうほめながら、視線は私を値踏みするように足元から頭のてっぺんまで観察していた。
「ありがとうございます」
「これからはミウさん、と呼びます。いいかしら」
「え」
「ん?」
「あ、ええ、かまいませんが」
正直彼女は少しとまどった。
「私のこともキヨコと呼んでください」とゼンバさん、もとい、キヨコさんは続けた。「これは女性どうしのあいだだけではありません。男性職員もみな、私をそう呼んでいます」
「わかりました、キヨコさん」
「そう。理解が早くてよろしい」
「でも先輩のことをそう呼んで、本当にいいんですか」
「むしろそのほうがこの職場ではいいでしょう。違和感はあるかもしれませんが、慣れの問題です。さて、若いんだから、仕事をどんどん覚えてもらいますよ」
「はい。よろしくお願いします」
そのようにして彼女は西新宿のビルの23階でミウさんになった。
*
ミウさんが配属されたのは不動産管理課の賃貸2係だった。2係は東京23区以外の東京都にある賃貸物件を管理していて、入居者の入居から退去までのあらゆる業務を担当していた。
彼女の最初の仕事は電話番だった。机にはデスクトップPCと固定電話が置いてあって、ほかに、資料として少し厚みのある冊子と、ボールペン、そしてメモ用に裏紙を綴じたものを渡された。冊子を見ると、五十音順と地域別で管理物件一覧が掲載されていた。
電話は3コール以内に取る。まずはキヨコさんからそう習った。電話をとると、彼女はまず、どの物件の何号室の入居者で、いかなる案件かを簡単に聞く。そのあと、それを直接の担当者につなぐ。誰が何の業務を担当しているかわからないので、はじめは逐一保留にした後でキヨコさんに聞いた。
管理物件の名前は「○○荘」とか「○○コーポ」といった古めかしいものから「サンシャインヒル麗しの森」などといった横文字多用でイメージ先行の名前まで様々だった。相手が早口の場合や電話が遠かったりして聞き取りにくいこともよくあったため、そんなときは渡された冊子が役に立った。
電話をかけてくる人は基本的に入居物件のトラブルを抱えていることが多く、一番多いのは隣室や上の階の深夜の騒音問題で、これを注意してほしいというものだった。ほかには、ペットを飼いたいが大丈夫かといった契約内容を確認すれば済む平和な電話から、長期間連絡が取れない人の安否確認といった事件事故に発展する可能性のある重い内容のものもあった。場合によっては直接の担当者が警察とともに管理物件に赴くこともあり、仕事上、事件現場を目にしなければならないこともままあるということだった。
電話番としてしばらく過ごすと、そのうち自然と係全体の様相を把握するようになった。慣れてくると担当者と時折世間話をするようにもなって、あの案件は結局どう転んだのかとか、何が大変だったのかなどを自然と聞くようになって職場にも溶け込んでいった。ミウさん自身も将来は自分が担当者になるかもしれないと思っていたから、次第に意識的に担当者と会話をするようにもなった。
しばらくすると、ほかにも仕事を任されるようになった。「ミウちゃん、ちょっと」などと呼ばれて初めて頼まれごとを任されたとき、彼女は素直にうれしかった。自分が他の社員から必要とされるようになったのだと、すこし自信を持つこともできた。
「はい、なんでしょうか」
「例のマンションの大規模修繕、住民説明会の内容がやっと決まってさ、資料を用意してくれないかな」
「わかりました」
「助かるよ」
「ではまず一部用意しますので、チェックしていただけますか。オーケーだったら同じものを入居者分準備します」
「うんそうだね、そうしよう。よろしく頼むよ」
彼女に任されるのはそういう雑務だったが、ミウさんはそういう仕事も嫌いではなかった。自分がひとつの歯車になって、あっちの歯車からこっちの歯車へと動力を伝える。どの歯車が欠けても機械全体は動かない。そういうパーツとして機械全体の一部に位置付けられているんだ。そう考えれば、入社して一年もたたないうちは、うれしくもあった。
頼まれごと以外にも、こまごまとした仕事はたくさんあった。それらはすべてキヨコさんから教わった。
例えば、印刷用紙や社名の入った専用封筒のストック確認、発注といった備品管理。あるいは月一回のタイムカードの取り換え、郵送物の一括発送と後納郵便料金の支払い、会議室の予約、出張する社員のチケット・ホテルの手配など。細かいことを言えばコーヒーメーカーのコーヒーが切れないように気を付けたり、給湯室の冷蔵庫に食べ物を放置する人がいるので中身をときどき点検したり、生ごみを清掃会社の人が回収物と分かるようにまとめておいたり、社員のマグカップの定期的な漂白消毒などなど。
そういうありさまだったから、ミウさんは自分がどんな仕事をしているかと聞かれれば、何と答えていいか正直なところ分からない。人には不動産業ですと言っているが、実際は自分でも分からないくらいに、細かいことをたくさんやっているのだった。
そして彼女が入社して2年が経ったとき、先輩のキヨコさんが定年退職することになった。そのとき花束を抱えたキヨコさんが彼女に言ったことがある。
「ミウさん」
「はい」
「一人になって大変になるけど、ごめんなさい」
「いえ、とんでもありません。ほんとうに、お世話になりました」
「あとは任せます。ミウちゃんも奉仕の心を忘れないでね」
奉仕の心?
「はい、わかりました」
奉仕という言葉に違和感をもったけれど、最後の最後にあれこれ聞くのは野暮のような気がして、結局なにも聞かなかった。それでミウさんは笑顔でキヨコさんを送り出したのだが、彼女は時とともにその意味を悟ることになった。
*
現在、ミウさんは入社して八年になるが、結局のところ物件の担当者にアサインされることはなかった。
なぜ私には物件担当者としての人事が来ないのか。彼女は一時期自分に原因があるのかと思い、自分を責めたり、自信を失ったりすることがあった。けれど、それもほとんど意味がないことはしばらくすると分かってきた。ほかの係の女性たちもおおむねそのような扱いだったからである。
実際、ミウさんが入社してしばらくすると、六、七年先に入社した先輩の女性職員たちが続けて数人退職した。全員が全員、結婚に伴う遠方への転居が理由だった。そして彼女たちが辞めたあと、大卒の女性新入社員が採用されることはなかったし、そもそも新卒採用がぱったり途切れたのである。その代わりに採用されたのは、年齢性別も様々だったが、いずれも派遣社員だった。それも辞めていく女性社員2人に対して派遣社員が一人雇われた。
そしてミウさんは、そんな有様を、次第に萎えてゆく心とともに、ただ眺めていることしかできなかった。キヨコさんのあとに人が補充されなかったときに気付くべきだったのだ。
結果的に、時が経つにつれて、ミウさんは最後の女性正規職員になろうとしていた。その中で彼女は、波風を立てるよりも、静かに誰にも文句を言われないように正規職員で居続けることを選択した。すでに三十歳になるミウさんにとって、それ以外の選択はないように思われた。
*
クルツさんは西新宿の高層ビル街に到着したが、予定よりも一時間ほど早かった。家を出るのが早すぎたのだ。外にいるのも寒くて、仕方なくビルに入り、彼は23階を目指した。あらかじめ社員証が郵送されてきたので、それをセキュリティーゲートにかざすと入ることができた。
23階のフロアにはまだ誰も人がいなかった。彼はひととおりフロアを見て回ると、席次表が貼ってあるのを見つけた。不動産管理課の賃貸2係を発見すると彼はその近くへ行った。
行ってみるとひとりだけPCが起動していたので、クルツさんの知らないあいだに出勤してきた人がいるらしかった。それでクルツさんは待つことにした。
しばらくするとこちらへ向かってくる女性がいるので、クルツさんはあいさつした。
「おはようございます。はじめまして、クルツと言います」
「はじめまして」
彼女は新聞を持っていて、いぶかしげにクルツさんを見ていた。
「あの、不動産管理課の賃貸2係に今日からお世話になるのですが、そこにいてもいいでしょうか」
クルツさんはパーテーションで区切った打ち合わせスペースを指した。
「え、今日から? クルツさん?」
彼女は目を大きくして驚き、しばらく首を傾げた。
「はい……」
「そうなんですね」
しばらく彼女は沈黙した。それをクルツさんは不思議そうに見て、彼女と視線があった。
「あ、いいですよ。どうぞそこに座っていらして」
「すいません」
「私はミウといいます。よろしくお願いします」
「みうさん? 珍しいお名前ですね」
「そうですか? まあ多いほうではありませんが」
「漢字ではどう書くんですか。未来の未に生まれるとかですか」
「いいえ、美しい雨と書いてミウです」
「へえ。それはまたなんというか、風流で」
「そうですか。ありがとうございます」
ミウさんはお辞儀をして、係長の机に新聞を置きに向かった。するとすぐに係長が出勤したので、ミウさんはいつもどおりにあいさつをしたが、係長の視線は彼女を通り越してクルツさんに注がれた。
「もしかして、クルツさんで」
「はい。クルツです。どうもよろしくお願いいたします」
「いえ、こちらこそ」と言いながら係長はコートを脱いだ。「ちょっといま机をご用意できていなくて。ちょっと申し訳ないんですが、そこのスペース、あまり使っていないのでしばらく自分の机にしてもらっていいですから」
「ありがとうございます」
そういう会話のあいだに、ミウさんは颯爽と二人にコーヒーを入れて差し出した。クルツさんは「ああ、すいません」と言いながら頭を下げたが、係長は読んでいる新聞から目を離すことはなかった。
ミウさんはそれでも気分を害したりはしない。大切なのは奉仕の心だ。
*
係長のカツラギさんは不動産管理課の月例会議が頭痛の種だった。今年から「課」単位ではなく「係」単位で採算をとるようになり、従来はブラックボックスだった係ごとの収益性の違いが浮き彫りになっていた。毎月必ずほかの係と収益性比較をされて、カツラギさんの係はいつも順位が下から数えたほうが早いのだった。
以前も課ごとの採算管理は行われてきた。その仕組みが導入されたのは十年前だったが、さすがに係単位にまで採算管理をさせられるとは、カツラギさんは想像していなかった。
それでも動きは急速だった。まず動いたのは管理1係の係長オクゾノだった。
都心部の賃貸管理物件を扱う管理1係は、管理2係よりも、そもそも収益性が高い。仮に同じ管理物件数だったとしても、1件あたりの家賃が都心部であるほど高く、同時に徴収する共益費や管理費もそれに応じて高額に設定できるからだ。そのためオクゾノは、1係の体質をさらに改善して採算性を高めるために策を講じた。いつでも係単位で採算を見られてもよいように、先手を打ったのだ。
手始めに彼がしたことは、若手女子社員に結婚退職を促すことだった。オクゾノはそのために、23階フロア内の若手男性社員との飲み会を増やして男女の仲介役を買って出た。そして関東各県の営業所や仙台営業所に出張する仕事をあえて増やし、当地にいる男性若手職員も開拓したのである。その結果として、五年で四人の若手女性社員が結婚を理由とした退職、あるいは遠方への異動となり、1係から姿を消した。
次にオクゾノが行ったのは、派遣会社からの採用だった。四人の女性の代わりに、二人の派遣社員を採用した。これにより四人分の人件費を二人分の経費でまるく納めてしまった。仕事の密度は二倍になったが、オクゾノはそのために意味のない慣例はことごとく取りやめた。1係の管理下にあったコーヒーメーカーと百円を入れるとなんでも好きなものを食べられるお菓子ボックスを廃止し、派遣会社の社員にはお茶くみを禁じ、掃除は清掃会社が入るので自分たちではやらないことにした。そして効率的な業務のために喫煙者には休憩時間以外の喫煙を禁じた。これは趣旨として効率的な時間活用を促すための施策だあったが、ふたを開けてみればヘビースモーカー一名が耐えかねて退社した。オクゾノはこれを奇貨として係を全面禁煙にし、もう一人の喫煙者を執拗に責めたて始めた。それは誰の目にもわかるように実行されたので、このフロアにいる人間にとっては有名な話だった。
まずオクゾノは喫煙者の彼にストップウォッチを持たせた。そして席を立ってから、5階ごとに設置される喫煙室に向かい、タバコを吸い終わって席に戻ってくるまでの時間を五十回計測させ、離席の平均時間を算出させた。そのあとで、タバコを吸うために離席している時間にできる細切れな仕事を五十個列挙させると、その仕事ができないために失われる売り上げを経理に計算させた。そしてオクゾノは実際に彼の給料から喫煙時間分の賃金をカットした。当時は係長にそこまでの権限はなかったから、彼は課長以上の役職者を何らかの形で説得し、許可を得てのことのはずだった。そして彼を強制的に勤務時間内に禁煙外来に通わせ、その通院時間で勤務できたはずの賃金をもカットした。
おかげで最後の喫煙者は無駄に禁煙外来に通わされた挙句、いつも係長の視線を感じざるを得なくなり、極度の適応障害を生じ、しばらく休職したのちに退職していった。このようにして1係の贅肉はことごとく落とされ、筋肉質な体制へと移行したのである。
こうした1係の係長の行動に対して、上司からストップがかかる様子はなかった。そればかりでなく、彼がその後別の課の課長に抜擢されたことからも、この会社の上層部が何を考えているのかが浮き彫りになった。
オクゾノがこのフロアに残していったものは単なる恐怖政治だった。上司に目をつけられれば退職の憂き目にあう。そういうシンプルな事実だった。そしていつしか、このやり方はオクゾノシステム、あるいは単にシステムと呼ばれるようになった。
*
いまでは係長にある程度の権限が委譲されているので、カツラギさんは自らオクゾノシステムを発動することも容易なはずであった。係の運営はおおむね課長の判断を待たずに行えるよう改組されている。それでも彼は、オクゾノのような行為をしてまで強権的にふるまおうとは思わなかった。
そして同時にカツラギさんは思った。強権的な行為に躊躇してしまう自分はいつか、そのことで決定的な誤りを犯すのではないかと。オクゾノさんは彼自身を自分で優しすぎる性格だと思っていた。そのことが逆に、この会社では足をすくわれることになりかねない。そういう恐怖が常にあったのである。
その恐怖はつまるところ、彼が完全にカツラギさんを演じられないということに原因があった。彼はそのことをうっすらと自覚しているのである。
カツラギさんは1係の事態を横目で見ながら、ときおり自分自身に課せられた役割を忘れかけたりした。カツラギさんには係の利益を最大化する使命がある。それなのに彼はときどきカツラギさんであることをせずに、葛城さんとして1係の経過を見ていることがあった。
カツラギさんとしての彼は、誰とも区別がつかない単なる一般市民としての仮面をかぶっている。その仮面には、ほかのあまたの仮面と同じように、この社会の中で特定の任務が課せられている。彼の場合は係長としての任務がある。だが彼はその仮面の被り方が下手だった。カツラギさんの仮面の下からは、葛城さんがちらほら見え隠れするのである。ある目的のためには手段を躊躇しないオクゾノのような性質は、彼の仮面にないものだった。
オクゾノは、その仮面の姿と、奥園そのものとでは、遠い隔たりがあった。奥園としての彼は、いいやつだった。彼はいかにも善良な夫であり、良き妻をもち、かわいらしい女の子がいる。時折公園で娘の自転車の練習に付き合ったりしているという話を、彼はエレベーターの中で楽しげにしたりする。補助輪をとった自転車の後ろを支えて中腰のまま走りまわる葛城の姿を想像するにつけ、これがあのカツラギと同一の人物であるとは思えない。けれどそれがカツラギの会社での評価を高めてもいる。公私に分別があり、与えられた任務は必ずやり遂げる。いやそれ以上に、組織の意向を忖度して先んずることだってできる。
そうやって彼は、あるときはオクゾノであり、またある時は奥園なのである。その二つはコインの裏表のように分かちがたく一体であるのに、決して裏と表を同時に見ることはできない。
ただカツラギさんはちょっと違う。彼はある時はカツラギさんであり、またあるときは葛城さんでもある。これはほかの人間となんら変わらない。
彼がほかの人間と、とりわけオクゾノと違うところは、この世界の物理法則を捻じ曲げてしまうところにある。コインの裏と表はふつう同時に両方見ることは不可能だ。どちらかしか見ることができない。なのに彼の場合は、ときどき同時にコインの表と裏が見える。彼はこの世界の法則に反して、同時に存在してはならぬものを存在させている。オクゾノと奥園が同時に存在しても人から見えるのはどちらか片方だけなのに対し、カツラギと葛城は同時に存在し、かつ人から同時にそれらが見えるのである。
それでもなお、葛城=カツラギさんは、自分自身がこの世界の物理法則をねじまげているようにはとうてい思えない。彼にとっては、そのことはとても自然なことだった。その矛盾した状態、つまり表と裏が同時に見えるなどという奇妙な現象は、それこそ彼自身の優しさそのものであり、あるいは言い方を変えれば、良心の表れとでもいえるものに違いなかった。
*
とはいえこの世にはこの世の物理法則があるのは確かで、カツラギさんも自分をそこまで素朴に肯定することはできなかった。彼は一度オクゾノシステムに徹することにしたのだ。
葛城にも奥園と同じように娘がおり、高校生で、彼女の望む大学を進学先にかなえてあげるためにはどれだけの経済的な負担がのしかかるのか、そんなことに戦々恐々としたりもする。
カツラギは考えを改めることにした。自分が子どもの心配をできるのは、カツラギが立派にカツラギとして機能しているからだと。つまり、優先順位はカツラギが先であり、そのあとに葛城がついてくるのだ。それがこの世の物理法則であり、一部の例外をのぞいて人間がこの法則から逃れることはできない。先んじるのは仮面であって、その下の素顔ではないのだ。そうでなければカツラギさんの生活はいっきに崩れ去る。彼は自らの勝手でナイーブな判断で今を崩壊させたくはなかった。
カツラギさんは通勤の電車のなかで考えたそのことを、職場についてすぐに具体的に書き起こして、要点を手短に課長に相談した。いまは係長の権限で多くのことができる。ミウさんの処遇については、その判断が会社の利益に相反しない限り、カツラギ係長の独断で決しても問題はなかった。しかし彼は古いやり方に従い、課長に相談し、そのことが執行部の意思に沿うものであることを取り付けたのだった。彼は自分がカツラギさんでいるために、上司の力を借りる必要があった。そのお墨付きが彼に力を与えるのだった。
ただ、上司にミウさんの処遇について相談して以降、カツラギさんは、ミウさんが朝とお昼過ぎにコーヒーを持ってきてくれるとき、どうしても彼女のほうを向くことができなかった。向けなくなってしまったのだ。それで聞こえるか聞こえないかくらいの小さい声で「ありがとう」というのが精いっぱいだった。
そういう気まずさは感じる必要がないんだと彼は自分自身に言い聞かせた。けれども、そう強く己に念じれば念じるほど、気まずさのあまりミウさんの姿が気になるのだった。そしてしばらくパソコンの画面を見ながら、仕事しているふりをして、彼女の新入社員のころを思い出していた。いまでも覚えているのは、はじめて彼女が自分のところへコーヒーを持ってきてくれた時の緊張ぶりだった。手がふるえて、わなわなとしていた。なんて声をかけたのかは忘れたが、そんなに緊張しなくてもいいよ、とかなんとか言ったのではないかと思う。そう考えながら、カツラギさんはこれまで女性職員の仕事についてからきし無頓着だったなと、反省するのだった。以前長く在籍したキヨコさんのことも、そういえば一日中具体的には何をしていたのか、彼はあまり知らなかった。それにミウさんの教育をキヨコさんに任せっきりにしたせいで、いまのミウさんがどんな仕事をしているのかも、細かいことになるとやはりわからないのだった。
カツラギさんは席を立って、係全体を見渡した。そして腰に手をあてて背伸びをしながら、心を鬼にしなければならないと思った。これはオクゾノシステムなんだ。仮面は素顔に先立つのだ。
*
ミウさんは、クルツさんが今日から2係に配属されるという話は一度も聞いていなかった。次々と出勤する職員もみな一様に驚いていたのを見ると、このことはカツラギさんだけが知っていて、それを係の人間には伏せていたということになる。通常、人員が増えて事務机の追加が必要な時はカツラギさんからミウさんに事前に依頼があるはずだった。それで彼女が事務机を手配して、床下に隠してあるランケーブルも新しく増えるPCのために一本分岐を用意する必要があった。同様に電源の分岐も必要で、指定の業者に配回しを依頼しなければならず、なにかと面倒が多いのだった。カツラギさんはそのことを知らないはずがなかった。
しかしカツラギさんはいかにも普段通りに朝礼をはじめた。最初にクルツさんを今日から迎えることになったと紹介した。その言い方は、あたかもみな既に知っている事実であるかのような言い方だったが、正式にカツラギさんの口から聞いたのは全員が全員、これが初めてだった。
「それではクルツさん、ひとことあいさつをお願いします」
そういうと、カツラギさんは横に立っていたクルツさんに前へ出るよう促した。クルツさんは恐縮しながらも少しだけ前に進み出た。
「いま紹介にあずかりました、クルツと申します。ちょっと珍しい名字でして、未来の『み』に三重県の県庁所在地である『津』と書きます。出身はここ東京で、以前は岩手の釜石で仕事をしておりましたが、こうしてご縁があって再び東京で仕事をさせていただくことになりました。すこし年をとってはいますが、新人には変わりありませんので、なにとぞお手柔らかにご指導いただければと思います。どうぞよろしくお願いいたします」
クルツさんの言葉が終わると、ぱらぱらと拍手が起こった。
「えと、釜石では公務員をされていたんですよね」とカツラギさん。
「はい、今年の3月まで」
「震災の時はねえ、さぞ大変だったでしょうね」
「そうですね。なにもかも流されてしまいましたが、いまようやく鉄道も復旧してきているような状況です」
「ということで、これから皆さん、どうぞよろしくお願いしますね。それでクルツさんは当面ミウさんと一緒に仕事をしていただきます。ミウさんは、そう、向こうの女性のね」
「はい。了解です」
「ミウさんも、よろしくお願いしますね」
「承知しました」
「ではみなさん、本日もよろしくお願いします。朝礼終わり」
そういってカツラギさんは普通に朝礼を終えた。ミウさんは突然のことで戸惑った。クルツさんに仕事を教えるのはいいが、何を教えてよいかわからない。それでカツラギさんに聞きに行った。
「そうねえ。ミウさんは電話番から最初は始めたよね」
カツラギさんは横にいるミウさんとはあまり目を合わせない。
「たしかそうでした」
「じゃあそれにならって、電話番から初めてもらって、慣れてきたら担当者が抱えてる仕事を回してもらって2人でこなしていくことにしよう」
「わかりました。あとクルツさんの机はどこに置きます? 私のとなりになりますか」
「机はね、そうだな、ちょっとまってもらえるかな。クルツさんの仕事ぶりをみてどこに置くか判断するよ」
「わかりました。それじゃ、決めたらなるべく早く連絡ください。机は余っているのでみんなで運べばなんとかなりますが、配線が床をはがして業者の工事が必要なので」
「うん、わかった。じゃ、よろしく頼みます」
「はい」
そんなやり取りをしてミウさんは席に戻ったが、彼女にはカツラギさんがどこかぞんざいな感じに思えた。それに、そもそも係の全員に今日のクルツさんのことを公表していなかった時点で、何かあるなと思った。そのことをミウさんなら係長に聞き出せなくもなかった。この係では一番長く仕事をしてきた間柄でもある。
けれどミウさんはいらぬ波風を立てたくはなかった。クルツさんのことではカツラギさんのやり方に納得するわけではないが、昨今の会社の状況では上長の命令にたてついてもいいことは何もない。
彼女はほかの女性たちがこれまでたどった道を熟知していたため、今ではある種の達観に到達していた。なにをしても逆らえないことがあると。
それに退職に追い込まれた男性たちもたくさん見てきた。そのせいか、彼女の心は諦念にあふれていて、それを八年間いらだちの炎で熱し続けたせいか、心の底には苦々しい焦げがびっしりとこびりついている。
だが今日ばかりは、そのあきらめの心と苦々しい気分が彼女に一種の警告をしているように思えた。これはいつか来た道なのだと。そしてその道を歩くことになる人間は、もうミウさんしかいないということを。
「大丈夫ですか?」
ミウさんはそんなことを考えながら仕事をしていたものだから、あらぬ方向を向いていた。クルツさんがミウさんをのぞき込みながら彼女の視界で手を振っている。
「あ、ごめんなさい。ちょっと考え事を」
ミウさんは視線を机に戻して作業を再開させる。郊外の大規模マンションにポスティングする資料を封筒に詰める作業をしていた。
「考え事は、たとえば今週末どこに行こうかとか、そんなことですか」
クルツさんは人が思っていることを先取りして、それが正解だと喜ぶ傾向があった。それでミウさんはその通りだと答えてみた。するとクルツさんは確かに笑顔になった。
「クルツさんは週末何されてるんですか」
二人で仕事を回すとなると、意外にも隙間の空き時間が多くなり、会話する余裕があった。クルツさんは気が付いていないようだったが、ミウさんはその空き時間に二人が何をしているのか、カツラギさんが観察していることに気付いていた。けれど彼女はカツラギさんに何をどう思われようが構わないと思った。ぞんざいな態度にはぞんざいな姿勢で臨む。彼女にできる抵抗はそれくらいしかなかった。
クルツさんはしばし思いを巡らせていたが、そうですねえ、と言って「自分は今度お給料がでたら、また釜石に行こうかと思ってるんです」と切り出した。
「ああ釜石ですね。私出身が関西なものだから、東北ってすごく遠く感じます。実はまだ東北地方のどこにも行ったことがなくて。北海道ならあるんですけど」
「こんどぜひ行ってみてくださいよ。いいとこですから」
「はい。行ってみようかな」
「ぜひぜひ」
「釜石に帰るのはクルツさんおひとりですか。それともご家族で?」
「いや、なんといえばいいのか、家族で帰るんですけどね、帰るのは自分一人なんです」
「ん?」ミウさんは首を傾げた。「先に子どもさんと奥さんが帰って、クルツさんが後を追うように別便で帰るってことですか」
「まあ妻と娘が先に帰っていることは確かですがね。でも帰った場所がなんというか、この世ではなくて、その、土に帰ったと言いますか、天国と言いますか……」
クルツさんは仮面をはずし、来津さんの顔をしてそう話したのだった。ミウさんは思いがけない告白の言葉にとまどい、次が続かなかった。ミウさんは反射的に仮面を外して美雨さんになることができずにいた。ミウさんはこの23階フロアに長くいたせいで、職場ではとっさに美雨さんに戻る方法を忘れてしまっていた。
「あ、すいません。私何も震災のこと知らないのに勝手にしゃべってしまって。申し訳ありません」
「もう、どうしようもないことですから」
来津さんは笑いながらそういった。
*
ミウさんは職場を離れてすっかり美雨さんに戻ると、彼女は、改めて、なぜ涙や悲しい顔ではなく笑顔なのかを考えてみた。そして来津さんが笑顔をとりもどした経緯も考えてみた。でもそれは、美雨さんが推測で分かる範囲を超えているように思えた。美雨さんが来津さんになれないように、来津さんの思いは彼自身にしか本当は理解できないだろうと思った。それでもなお、美雨さんは自分自身について、他の人間よりもずっと来津さんのことを理解できる可能性は残されていると思った。
美雨さんはひとり家に帰ると、こたつで暖をとりながら静かに二十年前の神戸の地震のことを思い出した。彼女とその母は、倒壊した家屋の隙間から自力ではい出ることができた。それは本当に奇跡のように、二人のまえには路地への隙間ができていたのだ。けれど二人が脱出した後で、自分たちの不自然さに気が付いた。彼女らは2階に寝ていたにもかかわらず、道路とほぼ同じ高さのところにいたのである。すでに1階は崩壊しており、何も知らない人が見たら一見して平屋建ての家屋に見えただろう。1階で寝ていた父は下半身を押しつぶされていた。なんとか火災が広がる前に救出はされたものの、下半身圧迫の影響で急速に体調を崩し、搬送された大阪の病院で息を引き取った。
美雨さんはそのことを就職で上京してから誰にも話していない。東京は彼女にとって働くところだった。個人的な過去を同情したり、されたりする場所ではなかったのだ。
彼女は彼女なりに、自分に課せられた任務に正直であり続けた。任された仕事がいかに理不尽だったとしても、彼女はそれを批判するよりもまず、完璧にこなしたのだった。そうしているうちに、彼女の心はあきらめといらだちに支配されていた。彼女は気付かぬうちにミウさんを優先させていた。それは生存のためであったし、仕方のないことだと思っていた。
けれども、彼女はまだ、来津さんは、どうして笑顔なのかという疑問を持つことができた。彼女は、自分自身がその問いを発することができるということを、まだまだ彼女自身が不平や不満に完全に毒されているわけではない証拠だと考えた。
この会社にいても近いうちに退職勧告のような事態に追い込まれるだろう。直接口頭で告げられるより、周囲がそのような状況に追いつめてくるだろう。彼女はそう思うと、この十年間が徒労のような気がして、どっと疲れが押し寄せてきたのだった。そしてその夜はこたつで横になっているうちに眠ってしまった。
朝方、こうこうと電気がついたままの部屋で、彼女はこたつで目を覚ました。外を見るとわずかに日が昇った頃だった。うっかり寝てしまったなんて何年ぶりだろう。彼女は少しのどに違和感があった。かぜをひいてしまったかもしれない。水を飲んでからトローチを口にした。
トローチが溶けきってしまうまでのあいだ、彼女はこたつで寝ている間に見た夢のことを思い出していた。彼女は夢の中でいつもの通り出勤しているのだが、皆があまりにもミウちゃん、ミウちゃんと軽々しく呼ぶので、突然烈火のごとく怒り出す夢だった。そして最後に「私は大前美雨です。名前を憶えてください! いつになったら大前さんって呼んでくれるんですか、もお!」と怒鳴り散らしたところで目が覚めた。
シャワーを浴びようと下着とタオルを準備しながら、我ながら小気味いい夢を見たと彼女は思った。そしてそれが実現できるのであればなおいいのに、とも思った。
それから別の夢も思い出した。結婚しようとあせり、出会いサイトに登録するも、永遠に結婚できない夢だ。こっちは実現されると困る。でもなぜ慌てていたかというと、先輩たちが次々に結婚していったからだった。そして彼女自身も会社を辞める口実としての結婚を望んでいたのだ。夢の中で。
シャワーを浴びていると体が温まってきて、体の隅々まで血流がいきわたるのを感じた。そして彼女には、なんだか勇気がみなぎっていることに気が付いた。
その日彼女は、はじめて会社を仮病で休んだ。そしていつも家を出る時間よりもずいぶん早く家を出ると、そのまま新幹線に乗って神戸に向かった。そのまま墓地へと向かうと、父の眠る墓前に手を合わせた。
とくに何かを伝えたいとか、そういうのではなかった。来津さんが家族を失ってもなお笑顔を絶やさないのは、彼がその死を、不在を正面から受け止めているからなんだと思った。そのことを、彼女も実行しようと考えたのだった。
大学に入って就職活動をして、そのままあっという間に今の会社で八年も働くことになって、ほんとうにいろいろなことがあったけれど、美雨さんは多くの時間をミウさんとしてでしか過ごせていないことに気が付いた。彼女のミウさんとしての生活はたしかに彼女をたくましく成長させた。彼女は働くということについて、もう一定の経験を積んでいる。多少のことではへこたれない強さも、人並みに獲得してきたつもりだった。けれどそれだけでは、十全に生きているとは言えないのではないかと、彼女は思い始めていた。来津さんの、生まれたてのような笑顔で家族の死を語ることができるようになるまでの苦難の日々に、彼女は思いをはせる。そして彼女が語ることを長らくやめていた父を前にして、彼女は、自らの父の死を本当に自分のものとしていなかった不明を、父に詫びたいと思った。
美雨さんは、自分のミウさんであろうとするあまり、本当の素顔を忘れかけていることに気が付いた。本当の美雨さんは、父を失った悲しみに長くとらわれていて、あられもなく涙を流しそうなひとりの女の子だった。
静かに風が吹いて、空には次第に雲が湧き始めていた。東京は晴れだったが、今日は関西地方は昼頃から雨になるという。美雨さんは時計をみると、午後一時を過ぎたところだった。
*
カツラギさんはミウさんがめずらしく病気で休んでいることに、内心ではほっとしていた。
午前中いっぱいはカツラギさんがミウさんのかわりにクルツさんの様子に注意していたが、ほとんど何の心配もいらない様子だった。クルツさんの手元にはミウさんが作ったと思われるマニュアルが一式準備されていて、クルツさんは四六時中そのマニュアルを読み込んでいた。カツラギさんはクルツさんからマニュアルを見せてもらったが、三十ページほどもあって、電話応対の基本から、基本問答集、電話を誰につなげばよいかが分かるように担当者ごとの業務分担表があって、イレギュラー対応でもよくある事例についてはQ&A方式で読み物にされていた。
「これがあれば、よほどのことがない限り困ることはないように思います」
クルツさんはカツラギさんにそう言った。
カツラギさんの心はふたたび揺らいだ。ミウさんは係の実務上の細かいことについては自分以上に詳しいのではないかという気がした。けれども、彼はすでに強い覚悟を決めていた。そして昼休みが終わってすぐの午後一時にクルツさんを呼んで言ったのだった。
「ミウさんの机なんですがね、クルツさん、片づけてもらえますか。あなたの机は今日このときからここにします。それでミウさんは他の部署に異動となります。急なことで申し訳ありませんが、そういうことですので、よろしくお願いします。あ、段ボールはそこにあるんで。それに荷物を詰めてください。夕方に業者が取りに来る段取りになってます」
カツラギさんは表情一つ変えずにそう伝えた。その声はもちろん、ほかの係員にも聞こえていた。
クルツさんは、カツラギさんに命じられるままにミウさんの机を片づけるしかなかった。クルツさんには何が起こっているのか全く分からなかった。どんな理由でミウさんが排除されることになったのか、まだ勤め始めて三週間の彼には知る由のないことだった。
おそるおそるミウさんの机の荷物を段ボール箱に移すクルツさんを、係の者は思わず仕事の手を止めて見つめていた。係の電話が鳴っても、誰がとるでもなく、みな茫然としていた。彼らには何が起こったのかが理解できた。カツラギさんはついにオクゾノシステムを発動させたのだった。
「なんで誰も電話に出ないんだ」
カツラギさんの声に係員は戦慄し、全員が瞬時に電話に手を伸ばした。
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クルツさんはトイレに行くふりをして、個室に入るとミウさんの携帯にメールした。今日の朝、ミウさんからクルツさんの携帯電話にメールが入っていて、緊急事態が起こったらメールするようにとのことだった。ミウさんは予見していたのだ。クルツさんは顔面蒼白になりながら事態をメールした。緊急事態とはカツラギさんの命令以外には考えられなかった。
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美雨さんが来津さんからのメールに気が付いたのは午後2時半ごろ、新神戸駅で東京に帰る新幹線を待っているときだった。
彼女は携帯を握りしめ、涙を必死にこらえた。やり場のない怒りがこみあげてくる。来津さんはその後何通も状況のひどさをメールしてきた。彼女は「わかった。ありがとう」とだけメールを返した。
彼女にできることは、無力に打ちひしがれて会社を辞めるか、労働問題に詳しい弁護士に駆け込んで法に訴えるか、あるいは、今すぐ西新宿の高層ビル街に戻ってカツラギを一発ぶん殴るかだった。
彼女は入線してくる新幹線の風に髪の毛をぐしゃぐしゃにされながら、こぶしを強く握りしめた。いずれの選択が彼女のこれからのスタートにふさわしいか、美雨さんは新幹線の中であれこれと思案を巡らせた。(終)
黄昏のスタートライン