華冰屋奇譚

一次創作作品
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春待つ思い

病室の窓からは、明るい陽射しが差し込んでいた。
のぞく景色はまだ、冬のなごりを見せてはいたが、そこここに春の息吹は感じられた。

「来る途中で、たんぽぽを見かけたぞ」

ベッドの背ボトムを起こし、もたれた恰好で外を見ている妹に声をかける。
けれど、返事はなかった。
胸の中で息を吐き、横の椅子に腰を下ろした。

細い首を無理矢理捩るようにして、窓へと顔を向けている。
肩がはだけてしまうのではと思うほどぶかぶかの病院着の先は、手首の所で幾つ
か折られていた。
ぴったりと頭を包む綿ニットの帽子は、今日は淡い空色をしていて、自分で選んだ
のかと聞きたかったが、そうではないことくらいはわかっているのにと、また、言い合
いになるのが嫌で、黙っていた。

「……部屋、暑くないか?」

やはり、返事はなかった。
薄っぺらい病院着ならば、この程度は暑くないのだろうと、自分が上着を脱いだ。
仕事の途中で様子を見に来るのは毎日のことだった。
そのために、内勤ではなく外勤の部署への配置換えを願い出た。慣れない仕事に
四苦八苦しながらも、妹のために少しでも時間を取りたかった。
幸い、上司も同僚も理解をしてくれて、仕事に支障がないのならと、勤務中に見舞い
に行くことを許してくれた。夜遅くなれば、行けないこともあるだろうからとの配慮だ
った。

「そういや、お前の好きな――」
「あのね、おにいちゃん」
「ん?なんだ?」

急に言葉を遮られ、骨の形がわかりそうな指先から、首元へと視線を戻した。
こちらを向く様子はなかったが、逆にそれがいじらしく思えた。

「……同意書に、サインして欲しいの」
「同意書?なんの?」
「先生に話してあるから」
「何か、大きな検査でもするのか?」
「わかってるくせに……」
「……」
「お願いね。私、たんぽぽなんて見たくないから」

疲れたから寝るねと、背を向けた。
だぶだぶの病院着から首の付け根の骨がのぞいていた。
皮膚が張り付いただけの小さな隆起から、その上下に続く連なりの形までしっかりと
見せるように、着衣と体の間はあいていた。

きついくらいだよと言っていたあの頃が嘘のように、同じサイズの病院着では、もは
や、’間に合わなく’なっていた。


********

チリンと、鈴の音がしたようだった。

目を開けると、写真立てが倒れていた。
肘をついたまま、どうやらうたた寝をしていたらしい。
左腕が、わずかに痺れていた。

右手に持っていたペンを離し、写真立てを起こす。
湖を背景に、全員がこちらを向いて笑っていた。
それに、笑い返した。
思えばそれも今の日課だった。
毎朝毎晩、いってきますとただいまを告げるのも。
妹が居ないこの家で、唯一、そこにだけ、家族の姿があった。

視線を手前の白い紙へと戻す。
帰りしな、主治医からもらってきた書類だった。
その場では、どうしても署名は出来なかった。
医者も、お気持ちはわかりますと、無理強いはしなかった。
けれど、持ち帰って来ても、何度読み返しても、決心などつかなかった。
つくはずもなかった。

「……神様」

どうしたらいいのかと、思わず、呟いていた。
こんな時、どの答えを選ぶのが最善なのか。

正直、神様など信じてはいない。
一度だって、真摯に祈ったこともない。
それでも、神様ではなくてもいいから、教えて欲しかった。

どうすれば妹の心を’活かして’やれるのかを。
どうすれば妹の体を’生かして’やれるのかを。

けれど、それを願うことは、健常なるものの私欲でしかないのだろうか。
苦しむものの苦しみなど、自分にはわからない。
それを望むほどの痛みなど、自分にはわからない。
簡単に、お決まりのように、励ましの言葉はかけられても、それを聞く相手の感情ま
では理解できない。
どんな思いでそれを聞いているのかもわからない。
うっすらと浮かべた笑みも、そうだねと頷いた仕草も、あれらが全部全部自分を気遣
ってものだとしたら、今の今まで自分はそれに気がつかずにいたということだ。
どれほどその胸を傷つけていたのかも知らずに、ただ闇雲に、なんの根拠もなく、あ
りきたりな言葉を吐き出していただけだ。
そんな自分が願ってもいいのだろうか。
その気持ちを無視してまで。
だけど。
だけど、それが人間だと思いたい。
エゴでもなんでも、それを望むのが人のココロだと。

白い紙が、気色の悪いくらいに真っ白な光を発して目に映る。
どうか応えてくれと願いながら、ぼやける視界を追いやる様に目蓋を閉じた。


********

シャランと、音が聞こえた。
何が立てたものなのか、わからなかった。
少なくとも目の前に、そんな音を出しそうなものは見当たらない。
あるのは障子格子の真白な戸で、その四角い間(ま)の一枚一枚に、白いガラスが
はまっているようだった。
いずれにも違う紋様、6つに先が分かれた花みたいなものが描かれている。

何の気なしに見上げると、軒先に『華冰屋』と白木の大きな板に筆墨で書かれた看
板らしきものがかかっていた。
なんと読むのかはわからなかったが、屋号があるのなら、何かの店なのだろう。
興味をそそられ、戸に手をかけた。
さして力を入れたわけでもないのにスルスルと音もなく、横へ滑っていく。その動き
に合わせて、蛍光灯を思わせる白い光がもれてきた。

「……、いらっしゃい」

半分くらいまで戸が開いた瞬間、小さな赤い光が二つ、見えた。
が、釣られるように中へ足を踏み入れたときには、消えていた。

「え、えと……」

慌てて、声がした方へ顔を向けた。
薄い靄がかかったような空間に、人影が立っていた。
白い和装に身を包み、長い髪を一つに束ねている。

「おや?」

シャランと、また、聞こえた。
いったい何の音だろう。
それに、さっきの赤い光は何だったのか。
人影の周りを見てみたが、光を出しそうなものは見当たらなかった。

「あ、あの、今の――」
「お探しかい?」
「え?」

横向きのまま、着物の袖が、ゆらりと動いた。
視線で追うと、台に置かれた花に手が触れていた。

「ここは、花屋だからねえ」
「花屋?」
「そうさ」
「でも……花なんて……」
「そこいら中にあるだろう?」

言われ、手近なところを見回すと、靄だと思ったものはすべて白い花だったことに気
がついた。
見渡す限りの白い花。
自分の足下にまで花の入った壷だの桶だのが並んでいて、足の踏み場というか、動
けるスペースが見当たらないくらいだった。
蛍光灯のようだと思ったのは、それらが、淡い’光を放っている’ように見えたからな
のだろう。
これだけみごとに白い花しかなかったら、見間違うのも無理はない。

「白い花しかないんですか?」
「そうさ」
「どうしてです?」
「こだわりだからさ」
「はあ……」

そう言う口調は、巫山戯ているようでも、からかっているようでもなかった。
花屋の経営のことなどまったく知らないが、白い花だけを集めて扱うのは酔狂では
できないだろうなと、慣れない仕事をしている自分を、一時、重ねた。

「何をお探しだい?」
「いや……俺は……」
「あるだろう?」
「……」
「あんたには、探しているもの、が」
「……それは……」

言われ、胸が震え、軋んだ。
花じゃない。
探しているのは、花ではなく。

「カミサマ、ねえ……」

答えながら、人影が、たぶん女が、小さく笑った。
けれど、横顔だけでは、わからなかった。

「ありますか?」
「似た名の花ならあるさ。カンナってのが」
「カンナ……」
「ブッダの血からできた、なんて言われているものさ」
「仏様ですか」
「けど、違うんだろう?」

不意に、こちらを向いた。
細い顎に、薄桃の唇。
滑らかそうな白い頬が、面白がるようにあがっていた。

「……」

やっぱり女だと、思った。
思った途端に、目を逸らしていた。

「あんたの探しているカミサマは、答えをくれる方だ。違うかい?」
「……っ」

シャリと音がして、女の動く気配を感じた。
そろりと視線を戻すと、足下の花桶に右手を伸ばしていた。

「ああ、この子がいいね」
「……」

そこから、一輪取り上げる。
何という花かは知らないが、見たことのない形をしていた。

「けど、あんたのそれは、幻想さ」
「え?」
「あんたのいうカミサマ、神様って書くんだろうが、そんなもんは、勝手な想像の産物
さ。人間に都合のいいことばかりをやりはしないよ。神様は、それぞれ決まったこと
しかしないのさ」
「そんな……」

花を寄せ、口づける。
と、淡い桃色が白い花弁を一瞬、色づかせたように見えた。

「創造主は、この星にあるどんなものでも生み落とすことができる。同時に、それら
を回収することもできる。それが、簡単にいうなら生まれて死ぬってことさ。そのタイ
ミングはそれぞれに決まっている。けどね。神様は精密機械みたいなもんだから、
決められた工程以外はしない。というよりも、出来ないのさ。変則なことにいちいち
対応していたら、機械がぶっ壊れちまうからね」
「け、けど、神を信じるものは救ってくれるって!奇蹟をおこしてくれるっていうじゃな
いですか!」

信じてもいないのに、つい、語気が荒くなった。
勝手に願っているだけなのに、何を、俺は反論しているのか。

「……奇蹟ねえ……」

ほうと、呆れたように女が息を吐いた。
ゆらりと、花が頭を揺らした。
女の言葉に、頷いているようだった。

「あんたは、神様ってもんがどこにいるのか、知ってるかい?」
「それは……天界とかっていうところに。空の上とか、宇宙とか、そういうところじゃ
ないんですか」
「ふふ……天界よりは、宇宙の方が壮大で、近いかもしれないねえ」
「……、」

一瞬、女が視線を向けた。
色素の薄い瞳に、光が、宿っていた。
何故か、星のようだと、思った。

「神様にもいろいろあるから、一概に何処とは言えないがね。けど、あんたのいう神
様は、あんたの中にいるんだよ」
「え?」
「あんただけじゃない。存在するすべてのものの中にいるのさ」
「……存在って……」

それは、じゃあ、その辺の石ころにでもあるってことですかと言いかけて、

「だから……、決まったことしか出来ないんだよ」

止めた。
女の声がわずかに沈み、寸秒の間に、辛そうな息を吐いたからだ。

「何が言いたいんですか?」
「あんたを助けるためにしか、あんたの中にいる神様は動けないってことさ」
「俺を、助けるため?」
「そうさ。あんたを助けるために、あんたの中に神様はいるんだよ」
「……」
「あんたを助けることしか、あんたの神様はできないのさ」
「さっきから、何を言って…………」

女の横顔が、目を伏せた。
持っている花が、また、ゆらりと頭を揺らした。

「……行きたいのかい?」
「え?」
「そう……君が望むなら……」
「……」

女が、呟いた。
話しかけられたのかと思ったが、そうではないようだった。

「……頼んだよ」

ゆっくりと、女が目を開く。
目の前の小さな花を見つめながら、左の掌で抱き寄せるようにそぅと包んだ。
優しくて穏やかな、けれど、どこか寂しそうな横顔が、何度もまばたきをして、
まるでその姿を写し撮ろうとするかのように、花を見ていた。

ふと、それは、愛しいものに注がれる視線だと、思った。
二度と会えないとわかっているときの眼差しだと思った。

瞬間、

「あ……」

―――― ズット ソバニ イル 
―――― ズット ミテイル
―――― ズット マモッテイルカラ

不意に、忘れていたそれが出てきた。

「……俺は……」

一緒に流れてきたその’時’が、顔を伏せて泣いていた。

「……どうして……」

シャリと、音がした。
顔を’上げる’と、目の前に女が立っていた。
真っ白な和装の袖から細い腕が覗いて、真っ直ぐに、こちらへ伸ばしていた。

「この子を、連れて行くといい」

その手には、さっきの知らない花があった。
小さいながらも凛として、可憐な顔を向けていた。

「これ、は……」
「節分草さ。スプリング・エフェメラルとも呼ばれているよ」
「……せつぶんそう……」
「この子が、あんたと行きたいってさ」
「なぜ?」
「花にも意思があるからね。持ち主を選ぶ権利があるんだよ」
「花に意思って……」

からかっているのかと、思った。
けれど、女の様子は至極真面目で、本気でそう考えているようだった。

「’意識’があるのは人間だけだとでも、思ったかい?」
「それは……」
「感じられないから、」

無い、ということにはならないんだよと、女が目を細めた。
思わず、声を失った。

その繊麗な容姿に違わず、清麗な笑みだった。
今まで見たことが無いくらい、ここにあるどの花と比べても美しかった。
白いものしかないのに、それよりもずっと白く澄んでいて、まるで雪を
纏っているみたいだと感じた。

いや。
女自身が、雪の華ではないのかと思った。
それほどに、純粋できれいだった。

「存在するものすべてに意義があるのと同じさ」
「……」
「徒(いたずら)にあるものなんてないんだよ」
「……、」

白い手が、そうと、差し出す。
白い花を、そっと、受け取る。

ゆらゆらと、小さな頭がさよならを告げるみたいにふれ動いた。
と、女の指先がわずかに追うような仕草をする。
が、すぐに手を引くと、胸元のえりを直す真似をした。

それで、わかった。
さっきの言葉の理由が。

女が、どれほどこの花を大切にしているのかを。
きっと、ここにある花すべてを思っているのだと。

「……その子はね」
「え?」

ほぅと、女が息をつき、こちらを向いた。
薄灰色の瞳が、翳っているようにみえた。

「『微笑み』だ」
「ほほえみ?」
「その子が持つ意味……花言葉というやつさ」
「ああ、はい」

頷くと、女も小さく頷いた。
そうしてまた、息をついた。

「渡すといい」
「渡すって、花をですか?」

わからないかい?と、女が小首を傾げた。
わからないと答えると、素直だねえと、口元で笑った。

「そのままの意味だよ」
「……」
「あんたがあげれば、救えるさ」
「……救う?」
「そう」
「……」
「それが、あんたの言っていたことだよ」
「……え……?」

おや、困った人だねえと、女が顔を上に向けた。
釣られてみると、どういうわけか、部屋のはずなのに天井らしきものはどこにもなか
った。
その代わり、果てしがないほどの真っ白な空間がずっと広がっていた。
それ自体が、光を帯びているようだった。

「神様ってのは怠け者でね。強い気持ちにしか反応しないのさ。それ以外のいちいちに
かまっていたら疲れちまうからね。いつもは知らないふりをしているのさ」
「そうなんですか」
「念じれば通ずって言葉があるだろう?あれのことさ」
「なるほど」

視線を戻すと、いつの間に飛んできたのか。
女の肩に真っ白な鳥が留まっていた。

「あんたの神様は、あんたを助けるためにしか動けない」
「……はい」
「それは、どの神様も同じさ。何も変わりはしないよ」
「…………あ、」
「ふふ……」
「そう、か……」

わかったかいと、女の顔がわずかに安堵をみせた。

と、急に、足下を吹き抜ける風を感じた。
どこからと辺りを見回したが、窓らしきものを見つけることは出来なかった。

「帰りはこの鳥が送ってくれるよ」
「帰り……そういえば、俺、どうやってここへ……」
「さあてね……」

息を漏らすように笑って、女が左手を挙げた。
掌を上にして、まるで落ちてくるものを受け止めるような手つきだった。

「帰りを送ってくれるなら、来た道があるってことですよね?」
「さあねえ」
「はぐらかさないで――」

教えてくださいと言うのと、女の小さな声が重なった。
まさかと、何かに驚いているようだった。

「……」
「何か、あったんですか?」
「なにも、ないよ」
「でも……」
「まったく……」

ああと、女が息を吐く。
と、こめかみの辺りでチラリと何かが光ったような気がした。
気がつかないのか、それとも気にならないのか、女は左手を見ていた。

「あの?」
「……」

問いながら、みえる範囲に視線を巡らせて、さっきの光を探す。
けれど、その理由になりそうなものは何も無かった。
女は無言のままで、けれど、表情が少し変わっていた。

「どうしたんですか?」
「……誰もが同じだと思って、さ」
「はい?」

つっと、女が掌を握った。
ゆるりと、頭を一度横に振って、左手の拳を見ながらもう一度横に振った。
それは何かを拒絶するような仕草にみえた。

「まいったねえ……」
「……」

女が長い長い溜息を吐き出すと、なだめるように鳥が嘴を頬に寄せた。
微苦笑がほろほろと零れて、そうしてようやく諦めたみたいに、こちらを向いた。
心なしか、寂しげな顔をしていた。

「これは、覚えなくていいよ。聞くだけ聞きな」
「はあ……」
「烏羽玉の夜にたゆたう浮き橋の果ては華冰(はるひ)の降る里よ」
「烏羽玉の……夜の、浮き橋……」
「……夜をただよう船橋の向こうは雪が降っていた、って古い歌さ」
「雪、ですか」

女が左手に目をやる。つられ、同じように見る。
もしかして、さっきのあれは雪だったのかと、おかしなことを思った。
女の掌には何も無かった。何も無いところをじっと見つめているのが不思議で、だか
ら、どうしたのかと聞いたのだ。

「夜の浮桟橋は、あちらこちらへの通い路でね。都度、行くべき所へ繋がっている」
「行くべき、所」
「けど、あんたみたいなのは、時々、変な所へ繋がっちまうのさ」
「はあ……」

視線を戻してくると、まったく困った人達だねえと小さく笑った。
呼応するように、鳥がジョウと鳴いた。

「あんたに、伝えてくれってさ」
「何を……というか、誰がそんなことを?」
「あんたのよく知る人達だよ」
「俺の?」
「ああ」
「誰だろう……」
「……さあね」

肩をすくめて、女が目を逸らす。
どうやらこれ以上聞いても、教えてくれそうにはなかった。

「あ、じゃあ、伝えて欲しいことっていうのは?」
「…………さっきの歌さ」
「はい?」

また長い溜息をついて、女が投げ出すような声を出した。
まるで言いたくないような雰囲気だった。

「……あんたが今いる場所は、’雪’のふるさとさ」
「雪のふるさとって……ここが、ですか?」

言われ、また辺りを見回した。
どこもかしこも真っ白な花に埋め尽くされている空間を。
「ここは、’白’を持つもののためにある場所」
「白……?」
「浮き橋の果てだ」
「あの……よく、わからないんですけど?」

わからなくていいんだよと、女が、一瞬、視線をよこした。
どうしてなのか、ひどく悲しい目をしていた。
それを告げたことを、後悔しているようにもみえた。

「これで、終いだ」
「……」

左の拳を解き、その手で胸元をポンとたたく。
特に何かが起きるわけではなく、ただ、手を開いたときに、カサカサと擦れるような
音が聞こえた気がした。

「タマモ」

女の声に、ファサリと鳥が翼を広げて肩から離れた。
同時に、シャリと音を立て、女が背を向けた。

「頼んだよ」
『ショウジョウジョウ』

長い尾羽をたなびかせ、鳥が目の前に飛んでくる。
タマモという名前なのかと、つぶらな瞳をじっと見つめた。
女のとは違って、その目は真っ黒だった。

「その子の尾羽を右手で掴んで、離さないように」
「離したらどうなるんですか?」
「どうにもならないよ。ただ、あんたに渡した花が枯れるだけさ」
「花が?」
「ああ」

シャリと音がして、女の背が少し離れた。
どんな顔をしているのかはわからなかったが、花が枯れないようにと願っていること
くらいは想像がついた。

だから、枯らさないようにしようと思った。
女が大切にしているものをくれたのだ。
それが、たとえ’花の意思’だったとしても、別れは辛いものだと知っていた。

「お行き」
「はい」
「橋のたもとまで、手を離しちゃいけないよ」
「わかりました」

鳥が尾羽を垂らしてくる。
出来るだけ力をいれないように握ると、そこからほのかに熱が伝わってきた。
やっぱり生きているのだと、どうしてか当たり前のことを思った。

「あ、あの……」
「なんだい?」
「ありがとうございました」
「……礼を言われることなんて、してないよ」

女の背中が、気がつくと、また遠くなっていた。
さっきまでは’なかった’花桶が、女との間に並んでいる。
それのどれにも、たくさんの白い花が入っていた。
けれど、そのいずれもが、同じ花ではないようだった。

「あの……」
「今度はなんだい?」
「また、会えますか?」
「………………どうしてだい?」

長い息を吐き出す音が微かに聞こえて、のろりと女がこちらへ体を振り向けた。
色素の薄い目が、少しだけ緩んだように見えた。

「礼を、したいから」
「……礼、ね」
「会えますか?」
「…………そうだね……」
「また、橋を通ってきたらいいんですよね?」
「……ああ」
「じゃあ、また来ます」
「……」
「妹も一緒に――」
「礼をするためになら、来るんじゃないよ」
「え?」
「あんたが来るべき時に来たらいいのさ。こう見えても手前は忙しいんでね」
「わかりました」
「さあ、お行き」

それじゃあと、一礼してから、踵を返した。
尾羽を握り直して、一歩踏み出す。
と、シャリと音がして、あれは女の履き物の音ではなかったのだなと、何の気なしに
下を見た。

「え……?」

一瞬、見間違えたのかと、思った。
けれど、どうやってみても、それは真っ白な雪だった。
時折キラキラと光を反射して、透明な輝きを放っていた。

「あ、あの?」

頭だけで振り返った。
2歩くらいしか歩いていないのに、女の姿はずいぶんと遠くにあった。


「どうして……」

わけがわからなかった。
もしかして、ずっと雪の上にいたのか。
けれど、寒さはなかった。
どちらかというのなら、温かさを感じていた。

これが、雪のふるさとということなのか。
だけど、その意味がわからない。

もう一度、女の方へ視線を向けた。
白い和装の袖が、ひらひらとはためいているのが見えた。

けれど、もう、声は届きそうになかった。

『ショウジョウジョウ』
「え?」

急に鳥の声がして、慌てて振り返った。
知らぬ間に、障子格子の大きな戸の前に立っていた。
やはり、真っ白だった。
小さな枠の中に填め込まれた白いガラスの一枚一枚に描かれた紋様は、すべて違
う雪の結晶だとわかったのは、鳥がまた鳴いたときだった。

『ショウジョウショウショウ』
「……開けろって言ってるのか?」

ファサリと翼をはばたかせ、鳥が頭をコクコクと上下に動かす。
左手に持った花に気をつけながら、窪みに手をかけると、さっきと同じように、スル
スルと横に開いた。
が、

「あ……」

今度は開け放たれた戸の先に、橋があった。
石造りのような、重い灰色の大きな大きな橋だった。
なぜ、さっきは気がつかなかったのだろう。

けれど、そちらは夜のように暗くて、街灯らしきものもないせいか奥の方はほとんど
見えず、ならばと空を仰いだが、さっきと同じように果てのない空間が広がっている
だけで、夜を照らす月や星の類はそこになかった。
だが、光の源(もと)になりそうなものはひとつもないのに、戸の前から橋の真ん中
あたりまで、道を示すように、ぼうと淡い光が浮いていた。
まるで雪明かりのようだった。

『ショウショウジョウ』
「このまま、出ていけばいいのか?」

コクリと鳥が頷いた。
尻込みしそうになる気持ちを奮い立たせて、一歩、戸の外に出る。
途端、酷く冷たい突風に襲われた。

「う、うわ……」

突然の事に、体がふらつく。
思わず尾羽を掴む手に力が入った。

『夜明けの嵐だ』
「え?」
『ひるまず、この橋を駆け抜けろ』
「は?」
『決して花を落とすなよ』
「あ、あの……」
『オレ達が出来るのは、ここまでだ』
「……俺達って……」
『あとは、其方がおこすんだ』
「おこす?」
『ここへ来た其方なら、できるはずだ』
「あ、あの、ちょっと、待――――」

頭の中で話しているような、内側から響いてくる男の声に戸惑っているうちに、ドンと
背中を押され、つんのめるように橋の上まで歩いていた。
急いで振り返ると、ゆっくりと閉まり始めた戸の内側に鳥が入っていくのがみえた。

「ちょっと、待ってください!」
『ショウショウジョウ』

長い尾羽をたなびかせ、クルリと反転する。
小さな黒い瞳に光を宿し、白い翼を広げて、こちらを見ていた。

「あ、あなたはいったい――――」
「ただの花屋、さ」
「え……」

いつの間に来たのか。
その横に、女が立っていた。

白い和装の袖をなびかせて、白灰色の髪を揺らして。
色の薄い瞳を、愛しいものを見るように、向けていた。

やわらかな笑みが、浮いていた。

「次は、渡守(ただもり)とおいで」
「え……?」
「一番似合いの花を用意しておくよ」
「……あ、」

戸が閉まっていく。
その間際、ほんのわずかな隙間から、もれ見えた。

真っ白な空間に、小さな小さな花びらが舞っていた。
まるで雪のように降っていた。

ゆっくりとその中に消えていきながら、
静かに微笑むその唇が

―――― みまもっているから

と言ったのを、
’濡れた’左の掌を握りしめ、同じ言葉を言った人達のことを思い出しながら、
ずっと見つめていた。

華冰屋奇譚

8年前の作品です
シリーズものとして書いていました
今と変わらない駄文っぷりでお恥ずかしいかぎり(笑)
画面表示を確認するための試験投稿でしたが
忍耐力を高めるためにしばらく晒しておきます

華冰屋奇譚

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-08-03

CC BY-NC-ND
原著作者の表示・非営利・改変禁止の条件で、作品の利用を許可します。

CC BY-NC-ND