ルーシーはもうベースを弾かない
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一
UKで産業革命がブレイクし、資本主義国家では国内消費を超える大量生産が始まった。原料供給と販売市場を確保すべく、各国が激烈な勢いで植民地を広げていった帝国主義社会において十九世紀末、日本は近代国家として新たな一歩を踏み出し、日清戦争というデビュー戦を大金星で飾る。
そして始まった二十世紀、明治後期の一九〇一年、田中正造は足尾銅山の鉱毒被害を天皇に直訴すべく沿道を埋め尽くした群衆の中から躍り出るが失敗。「狂人が馬車の前でよろめいただけのこと」として相手にされなかった。足尾銅山は東洋随一の鉱山であり、銅は日本の主要な輸出品だった。銅精製で発生する有毒ガスが山林を枯らし、流出した排水が農地を汚染していた。川には死んだ魚が大量に浮かび、田畑では作物が朽ち、明確にはなっていないがヒトの健康被害も甚大であったはずだ。ある村は大気汚染のため廃村となり、ある村は問題をうやむやにしようという政府の思惑により水の底に沈んだ。銅山は操業を続け、ますます栄えていった。
当時の日本は、世界最強の軍事力を備えるロシアの脅威に晒されていた。そして玉音放送が流れるまで、戦争に負ければ即、財産も生命も、誇りもみんな失ってしまうと信じて疑わなかった。腹を切ることでなく、国土を奪われることだけが「世界の終り」と等しく、その危機感をほとんどの国民が共有していた。だから一部の国民の土地や健康が失われつつあっても黙殺された。富国強兵のためにも、その事件を共有などしたくなかったし、する必要がなかった。
敗戦を迎え日本は占領されたが、拍子抜けするほど快適な生活が始まり、戸惑った国民は足りない何かを埋めるように勤勉に働いた。公害問題が表面化したのは、朝鮮戦争による特需を契機として、いわゆる高度経済成長が始まってからだ。海の向こうで行われる戦争で弾みをつけ、日本は軽やかに成長を続けていった。それが代償行為と気付かぬままに、何を追い求めているのか知ろうともせず次々とクオリティの高い製品を生産し、敗戦国から一転して経済大国と呼ばれるようになった。
山を削り海を埋めて工場は増えていく。熊本と新潟では水銀が垂れ流された。水銀は一定量人体に蓄積すると脳の中枢に作用し、視覚や聴覚、手足の感覚を侵す。常に頭痛や耳鳴りがして、歩くことすらまともにできなくなる者もいる。水銀に汚染された河川の魚介類を摂取することで、このような症状が出た者は数万人いる。母親の胎内で水銀中毒になった子供は脳の一部が機能せず、精神や運動の機能発達が遅れる。訓練で症状が軽くなることはあっても回復することは絶対にない。富山ではカドミウムが土壌を汚染し、多数の女性が骨の痛みを訴えながら死んだ。北海道でも仙台でも、東京名古屋大阪、広島でも長崎でも何かしらろくでもない物質がばらまかれていただろう。
つい先日まで、裸足にボロをまとい黒く汚れた子供がそこらじゅうに溢れ、栄養失調で死んでいくというのは日常的な風景だった。登校中のガキから弁当を強奪するガキも珍しくなかった。たちまち店頭には無数の商品が並びカラフルに彩られ、ライフスタイルに革新的な変化をもたらす家電製品が三種の神器として持てはやされ、誰もがこれを手に入れるべく目の色を変えて一層労働に励んだ。ゴミ箱は捨てても捨ててもすぐに一杯になった。みんな同じ幻想を抱いていた。日本中が再び、同じものを共有していた。
三重では石油コンビナートから亜硫酸ガスが巻き散らされ、周辺住民が呼吸器疾患、肺気腫などを発症した。毒が長期間体内に蓄積して起きるボディブローのような効能に次いで、即効性の高いアッパーなやつが流行り出す。それはもはや局地的な現象ではなくなっていった。普及が進んだ自動車の排気ガスが引き起こす光化学スモッグは、あらゆる街でゲリラライヴを敢行、うら若き乙女どもをイカレさせた。同様に、大量消費の帰結である溢れんばかりのゴミが全国の乾ききった中年女を市民運動の熱狂の渦に巻き込んだ。食品公害、薬害も各地で乱発する。きっとこいつらは気の利いたノイズ・バンドに違いない。ひと段落してから幻想には名前が付けられる。きっとあいつらは、豊かになりたいという名前のバンドだったのだ。
その頃短パンを履いたガキどもは万博に行くことに情熱を燃やし、空き地で特撮ヒーローごっこに精を出し、パンタロンを履けるようになったガキどもは髪を伸ばしてゴーゴー喫茶に殺到した。コートの襟を立ててジャズ喫茶、家に帰ればカラー・テレビ。ミニスカートにホットパンツ、女の下半身戦争は過熱の一途を辿る。少年マガジンは発行部数を三倍に伸ばした。歓楽街のネオンサイン。フーテン、ヒッピー、シンナーにマリファナ。幻想の真っただ中でそれと気付かず遊び呆けていた。
大阪万博のシンボル太陽の塔は、堂々たる屹立膨張を全世界に晒しながらその実「人類の進歩と調和」を否定する芸術作品だった。同年、公害問題に関する法整備のため臨時国会が開かれ、廃棄物処理法が制定される。翌年には環境庁が発足し、すでに誰の目にも明らかになった環境汚染に国を挙げての対策がとられるようになる。
ルーシーの父親は、一九七一年に公開された「ゴジラ対ヘドラ」を観ただろうか? 僕の父親はそのとき中学生だった。強くて大きい怪獣の繰り広げる迫力満点のアクション、罪のないファンタジー性と勧善懲悪の物語に胸をときめかせた観客は、冒頭から海一面に広がるヘドロ、そこに浮かんでいる得体の知れぬ無数のゴミ、死んだ魚の群れ、針を失くした柱時計、切り刻まれたマネキンの映像を突き付けられた。サイケデリックな映像に乗っけて流れるブラック極まりない主題歌の歌詞はそこいらのアングラ歌手に引けを取らないほど衝撃的で、ヘドラが上空を通過した後に街中の人々が一瞬にしてドロドロに溶けた白骨死体になってしまうシーンに至っては生涯のトラウマになること請け合いだ。ヘドラは工場から発生した汚染物質の集合体であり、作中における、都市全域ほぼ壊滅四千人死亡という事態は人災に他ならない。
幻想は次第に破滅的なイメージに入れ替わっていく。恵みの雨は有害物質を含んだ毒の雨になり、黄金色に輝く田がいつかペンペン草一つ生えない荒れ地になる。太陽はほとんど姿を見せないか、太陽光線が毒を含むようになっている。かつて力強く頼もしく思えた工場から発生し放置された化学物質の影響で、虫や動植物は異形のミュータントとなる。ヒトは大幅に数が減り、終始脅えながら暮らしている。そういったイメージと、ある日突然世界がそんな風になってしまってもおかしくないという予感は誰の意識にも刷り込まれている。どこか別の場所からやってきたわけではなく、一人ひとりが大量消費の文化を享受して暮らすその間に、内側で少しずつ芽生え、育っていった。
ルーシーが産まれる頃には、もはや一握りが持つ特殊なビジョンではなく、死んだら天国に行くかもしれない、いつか宇宙人が地球にやってくるかもしれない、といった可能性と同レベルの、真剣に疑うことも馬鹿らしい、常識以前の普遍的なビジョンとして定着していた。
*
ルーシーはもうベースを弾かない。大学生になりベースを始めた女の子は、卒業して地元で就職すると、後部座席に大きなぬいぐるみを乗せたピンク色の軽自動車に乗るような人間になってしまった。しかも新車で、きっちりとローンを組んで。
彼女の本当の名前はアダチトモカという。でも彼女が所属するバンドサークルのメンバーは、そんな名前なんて知らないか、忘れている。
何故なら彼女を含む同期の女の子たちは、何故か一様に七〇年代のサイケデリックなファッションにかぶれており、趣味、主に音楽のことについて親しく語り合えない同性のことは、見下すのが当然と思っているか、あるいは集団に溶け込めない意趣返しとして自ら壁をつくっていた。異性すなわち男に対しては、例え魅力を感じることがあったとしても必要最小限のコミュニケーションしか取ろうとしないのが、最高にクールだと思っていた。その代わり同質性を感じることのできる同性に対してはそれなりに仲間意識を持ち内向きな集団を形成することを欲していた。
彼女たちは、地方の冴えない高校生という皮を脱ぎ、眼鏡をコンタクトにして髪を染め、楽器を手にして新しい名前を手に入れた。すなわち親元から離れた解放感と、それまでの鬱屈も相まって、同質性の分かりやすい表明として、彼女たちは互いに渾名を付けあった。それは大体が外人の名前だった。ヤノマユミとかカジヤユウコとか、先祖から引き継いだ姓と、両親が懸命に考えた名の代わりに、サリーとかナンシーとか、そういう名前を付けて呼び合っていた。
実に滑稽だけれど、まったくの他人事みたいに嗤うことはできない。少なくとも僕にはできない。普段から崇拝しているミュージシャンの影響なのか、田舎育ちで背伸びした少女らの目には洗練された、遠い世界のように映る外国の映画の影響なのか、それとも仮名遣い・日記文学・女のフリという革新的な試みを同時に成功させた紀貫之のように、ポップで前衛的な雰囲気に酔いしれているのか、知らないが、稚拙で痴呆的で国辱的とも言えるその試みは、何も持たず何者にもなり得ない、それでいて純真極まりない少女らの、涙ぐましい努力であり、精一杯の抵抗だった。
いったい何への? 彼女たちは、すでに語り尽くされていた。鬱陶しいくらいに描き尽されており、完全に捉えられていた。六〇年代、七〇年代、八〇年代、そして九〇年代。目新しい物事はもはや残っていない。彼女たちは、小学生の頃からデジタル機器を使いこなし情報の氾濫に晒されつつ成長した世代にはあと一歩のところで達していない。彼女たちの一部は、当然のように非処女であり、ある一部は、当然のように処女だった。そのようにして彼女たちは、そしてルーシーは二〇〇六年に僕の前に現れた。
僕らの大学は東京から近くも遠くもない静岡県にあり、九州の田舎から出てきた僕にとっては十分に都会だったけれどパッとしない地方都市の一つに過ぎなかった。僕と同じようにさらに田舎から出てきた奴も多かったが、そうでない奴も、特に大きく期待はしていなかった。
むしろ東海大地震が近いうちに起きると予測されており、それは地元民にとっては長年刷り込まれた常識だったけど、新たな住人にとっては後悔に値する脅威だった。大学が学生に最初に教えるのは、阪神大震災ではアパートが倒壊して亡くなった一人暮らしの学生がとても多かったこと、また倒壊を免れても大学は海のそばにあり周辺の学生街には間違いなく津波が来ることだった。廊下やトイレ、年中至る所に地震への備えを喚起する張り紙が氾濫していた。しかしあらゆる呼びかけの要点は、抜かりなく用心すれば死亡の確率が最大で数割減る、逆に言うと結局死ぬときは死ぬのだということであり、いつの間にかみんな地元民と同じように達感してしまい、屋外で視線をずらせば常に見える富士山みたいにさほど意識にのぼることもなくなった。僕が幼い頃流行ったらしい「世界の終りブーム」みたいに、メディアが報じる浜岡原発メルトダウンの可能性や津波のシミュレーション、噂で流れてくる大学の脆弱な耐震構造、富士山同時噴火説などが時々話題にのぼっては忘れられていった。
地方大学のバンドサークルに集まる奴なんて、男も女もろくな奴ではない。コミュニケーション能力の欠如、規則的な生活を送る能力の欠如、道徳的観念の欠如、多かれ少なかれ誰もが頭のネジをいくつか実家に置き忘れていた。もっとも、体育会系の部活に入り高校時代を引きずって爽やか一〇〇%の青春を再度謳歌しようとする汗臭い奴や、チャラチャラした仲良しサークルでただれた友情と不純異性交遊に熱中するイカ臭い奴、あるいは親元から電車やバスで大学に通い飲み会には一次会までしか参加せず、着実に単位を取得することに快感を覚え教師とも良好な関係を保ち、趣味程度にボランティアサークルやNPOまがいの活動に片足を突っ込むビラミッド社会に従順な奴なんかが僕らよりマシかと言えば甚だしく疑問だが。
学内には三つのバンドサークルがあったが、僕の所属していたのはその中で最も規模が大きいサークルだった。音楽性の幅もその分広く、メンバーも揃いも揃って癖のある変人ばかりだったと言える。曲がりなりにも音楽に関わる以上、むしろそれが正常な状態だ。もう何が大学生の普通なのかみんな分からなくなっていて、例えば外見に限っても、他の軟派なサークルや洗練された技巧派のサークルが巧妙に一般人に紛れ込むのに対し、鋲付きの皮ジャンに天を衝くモヒカン、あるいは堂に入った六〇年代ファッションにマッシュルームカットで毎日授業を受け、明らかに目立ってしまっているが本人は気付いていないというケースも珍しくなかった。僕は四年生になっていて、サークルの運営や飲み会の準備の煩わしさから解放され、タテ社会の論理をある程度組み込んだ集団の中でそれなりに慕われ非常にリラックスしていた。その年の新入生は男女が均等にそれぞれ十人くらいずつで、男子はまあどうでもいいとして、女子の数はそれだけで二年生以上の女子全部を超えるくらいだったから僕らはすっかり浮かれ上がっていた。
大学そばの公園で新歓コンパが催され、彼女たちの特異性は早くもサークル全体の知るところとなった。満面の笑顔で話しかける僕らに対し彼女たちは、目を合わせようともせず、微動だにせず無表情に受け答えをした。時々思い出したようにお菓子を上品にかじり、酒も唇を湿らす程度のペースでしか飲まなかった。はじめは緊張しているだけかと、皆微笑ましく捉えていた。現状を打開すべく誰かから発せされた、好きなバンドは何? というこの上なく空気を読んだ質問にもなかなか答えようとはしないで、ためらいがちにようやく出てくるバンド名は、大体が知らないか、知っているとしても非常にニッチなものばかりで閉口するしかなかった。新入生の男子が早くもテンションを高くし、同級生と肩を組み高歌放吟の振舞いに及びはじめても女子たちの会話は微妙に間延びしていた。服装に統一感があることも奇妙だった。ストレートのジーンズを履いている奴なんて皆無だった。目がチカチカするような赤や紫、緑や黄色のタイツを履いて、安全ピンがいくつも付いたタータンチェックのスカート、おばあちゃんのお下がりみたいなワンピース。ダブルのライダースでキメた六年生すら彼女たちには圧倒された。
時間が経ちようやく酔いが回ってくると、彼女たちは集団パニックを起こしたようにバッド・トリップに陥り、この世界や自分の存在を否定するような呪詛を吐き、懺悔を始めたり泣きだしたりした。そのくずれ方は見事としか言いようがなかった。声は急に高く大きくなり、ある者は雄弁に、ある者は早口に、どこにぶつけようと決して意味を持たぬ思いのたけを初対面の先輩に、あるいは地面や虚空に向かって投げつけた。静まり返った公園に一ミクロンも遠慮のない金切り声が途切れることなく飛び交った。黙って姿を消し、探しに行ってみると真っ暗な建物のてっぺんに座り視線を泳がせながら、ひたすら足をぶらぶら揺らしている奴もいた。まだ世の中の汚い部分をちっとも知らないのではないだろうかというあどけない顔を、自らの吐瀉物で台無しにする奴もいた。慰めの言葉をかけ、かいがいしく介抱してやり一旦落ち着いても彼女たちの気力は尽きることなく、ある者は走り、ある者は倒れ、その役割を繰り返し交換し続けた。何もかもが期待外れで、予想以上だった。後輩や同級の女子が、面白いを通り越して戸惑いを隠せなくなっていく中、僕は酩酊してげらげらと笑っていた。
上級生的かつ保護者的な観点から見れば、彼女たちは非常にか弱く繊細で、守ってやらねばならない対象に違いなかった。楽器が未経験だというのを差し引いても、このサークルにおける前途はこの上なく明るかったが、すぐに辞めてしまわないだろうか、いや大学自体ドロップアウトするんじゃないだろうかという危惧を僕らは共有認識として持った。
教育係である二年生、サークルを運営する三年生はどう接すればいいか分からないと口々に言い、四年生の僕も、有為であるはずの彼女たちの将来が、このサークルに関わることで台無しになりはしないかという心配をすることはしたが、彼女たちがどんな四年間を過ごすのか大いに楽しみだと思った。学生のバンドサークルなんて全くくだらない。そこからプロになる奴も一握りはいるだろうが、多くは演奏も未熟で、やっていることと言えば既存の曲をカバーではなくコピーするだけの、どんなに練習を重ねライヴを盛り上げようとカラオケまがいの茶番に過ぎない内輪だけの自己満足行為だ。時間は有り余っておりその上生活が保障されているから、ミュージシャン志望のフリーターよりもたちの悪いライフスタイルを送るようになるのは確実だ。音楽という芸術行為がバックボーンにある以上、自我が拡大すること甚だしく、他の集団とも話が合わなくなってくるから、交友関係はどうしても限定的にならざるを得ない。
就職活動を早々に終えていた僕は、サークル活動を含むあらゆる物事に諦念のようなものを抱いていた。残りの一年間、そしてその後始まる社会人生活も、どうせ大したことはないだろうと斜に構えていた。結局東海大地震も起きなかったし、これからも起きないだろうと思われた。それが眼前に広がる阿鼻叫喚のどうしようもない光景を見せつけられたことで、膝が震えるような歓喜に包まれたのだった。
コンパ以降予想通り数名が来なくなったけれど、あとはなんとかサークルにとどまり、新入生同士横のつながりを少しずつ固めていった。彼女たちの最新型の自我、あるいは彼女たちの同質性や共通の秘密は僕らの目の前でひとつひとつ、懐古調のレンガを積み上げるように形づくられていった。その手際はあまりに鮮やかに、ゼロ年代を密やかに謳歌しようとする文科系女子特有の軽さでもって滞りなく進行したから、僕の目が届かない場所で成立したように感じた。すなわち上級生や男子には完璧に秘密にして誰かのアパートに一年生だけで集まり、夜のコンビニでまだ慣れない安酒を買い込み彼女たち特有の言葉を交わす。まだぴかぴかの自転車でドン・キホーテに乗り付け買い求めたに違いない間接照明の灯りの下で、マイナーな曲やバンドについて思い思いに語り合う。中学校の運動場に一日おきに鹿が出るような山奥で先進的な文化の産物に飢えていた頃、深夜ラジオで聴くのがせいぜいだったあの曲やそれについての想いを堂々と共有する。恥ずかしくて痛いのは最初だけだ。黒魔術めいて、どこか官能的ですらある。そんな会合を、僕はずっと後になってからたくましく想像した。
ルーシーはその中の一人だった。初めて彼女の姿を認めたとき、まだ彼女には名前がなかった。アダチトモカでもなく、ルーシーでもなかった。たくさんいる後輩、僕らにとっては物珍しいサブカル少女のうちの一人。だけど次第に彼女は名前を獲得し、サークルの中に居場所を見つけていく。
ルーシーはもうベースを弾かない
2011年執筆