コギトスム
不定期連載、予定。
だいいちわ
エスカレーターをのぼっているときは何も考えないですむかと言えば、必ずしもそんなことはなくって生きることは甘くない。だいいち僕はここに何か目的があってきたのだろうから、それを忘れてしまっては時間や手間がまたもや無駄になってしまうのだし、自分が何者なのか忘れないための手がかりがこの場所にもきっとあるのだろうから、気を緩めてしまえばエスカレーターに愛想を尽かされて一人立ちつくした瞬間に、あのふわふわ頼りない気分にまたしても包まれてしまうだろう。
僕は本屋にいるのだった。本棚から本棚へと働きバチみたいに飛び回る人々。その中には僕のタイプのかわいらしい女の子なんかもいて、何を読んでいるんだろうかと気になったリする。そうして彼女にも生い立ちがあり、今住んでいる家があって、今日この後は誰かに会うのかもしれない。だとすれば彼女は古い図書館に収められた一冊の本のようだ。本棚にはそれぞれテーマがあって、料理、ファッション、推理小説、表紙にも目を引く工夫が凝らしてあって、どれもこれも面白そうで目が回ってしまいそうになる。時間が十分にあればそれらを片っ端から読んでしまいたいのだけど、時間には限りがあって、その区切りをつけているのは自分であったり自分でなかったりするのだ。
携帯電話を僕は持ち歩いている。これがなかなかの曲者で、番号を交換した誰かと音声通話を行うという主目的のために用いるつもりがまったくなくても、メールにアプリにソーシャルネットワークと、僕の退屈もしくは貴重な時間を削り取るべく虎視眈々とその機会をうかがっている。厄介なことには、何もちょっかいをかけてこなければそれはそれで不安になって、馬鹿みたいにカバンから取り出していじくりたくなることが往々にしてあるのだった。鬱陶しいとは思っていても、その鬱陶しさの中には大切だと信じている何かも含まれているのだし、本当に待っている連絡の一つや二つも確かにあるのだ。
僕は僕の気持ちになって考える。あるときは誰かの気持ちになって考え、あるときは虫の気持ちに、本棚の気持ちにだってなれるのだった。僕は適当な物語を頭の中で組み立てることがちょっとだけ得意だから、そうして立ち現われる新しい世界の中を歩き回ることもできる。ここは本屋であるばかりでなく、同時に僕の空想が生み出した都合のいい世界であるということもできるわけだ。僕は本屋だけじゃなくてイタリアンレストランにも行けるし、電車やバイクでうんと遠くに行くこともできる。そうして二重三重の世界を歩いている。
土曜日は雨。不愉快な朝と、きっと愉快であるに違いない夜の隙間を精いっぱい僕は謳歌しているわけだ。一年前は、違う町の本屋にいた。ここから数百キロ離れた場所だ。だけど僕は今日も本屋をうろついている。あの頃とは違った気分で。あの頃よりも増えた知識と経験なんかを抱えながら。変わっていない部分もあれば、日々使う持ちものなんかは案外まるきり変わっていたりする。誰もきっと僕のことを知らない。同じように、僕が勇気を出して誰かに話しかけてみたとしても、そいつは僕のことを知らないばかりか僕に関係するわずかな手がかりにもまったく接点がないのだろう。
都会の方が僕は好きだ。僕の欲しいものは街へ出ずともインターネットで簡単に手に入るし、気楽な人付き合いが上手だというわけでもないのに。その理由の一つには、群衆に紛れこんでしまえば本当の意味で一人きりになれるという点が挙げられるだろう。ポップでクールなものだって歩いているだけで目に入るし、人にせよモノにせよ、時間とともにあらゆるものが入れ替わっていく空気を感じとれる。僕は自他ともに認める自信家であるはずなのに、そうした空気感に埋没してしまえば、蜃気楼みたいな存在になれた気がしてとても落ち着くのだった。
何も買わずに本屋を出る。雨に打たれてカラフルな街並みや人々が僕に無言で挨拶をする。そうしてふと、僕がもし死んだら誰か気付いてくれるだろうかと考えてとてつもなく不安になるのだった。僕は全然自信家なんかではないのだった。あまりに不確かな存在を抹殺するために退屈を紛らわし、およそ似合いもしない飾りもので今僕がここに立っている意味を曖昧にしようとしている。ふとしたきっかけで、僕の待っている連絡は永遠に来なくなるだろう。僕が信じている物事は消えてなくなってしまうだろう。僕が大好きだったことや大好きな人が大嫌いになっているかもしれない。寂しいという三文字を三文字で終わらせないために足掻いている。
だいにわ
薄闇の中できらきら回るミラーボールみたいに生きていければいいなあと思うのだがこのままでは田舎の便所の裸電球みたいだ、という呟きをジントニックで流し捨てた深夜。どこにも行けない代わりに五感を酷使することのできる幸運だか不運だか依然不明の僕はクラブで遊んでいた。夜になれば路傍の花も見えなくなってしまう。雪化粧は美しくないものまでも純白に染めてしまうけれど夜の闇は単に光がないというだけなのでそんなにロマンチックなものではないのだ。
週末だというのに机にかじりつくなんて馬鹿げているのは明白だが、かじりついたその先に自分の進むべき道があるのもまた同じくらい確かであるのだった。誰かの面影を探しながら街へ出た。この頃では知らない誰かの顔に、知っている誰かのイメージを重ねる癖が付いている。もう脳のメモリーが足りなくなって人の顔を認識できる能力が少なくなってしまっているのだろうか。僕は昔から一度会ったきりでは顔を覚えることができなかった。
街では今日も至る所で誰かのハッピー・バースデー。誕生日なんて366通りしかないのだから、確率論的にそれは自然な成り行きだと言えよう。かくいう僕も間もなく免許証の更新時期を迎えようとしているわけだが誰かに祝ってもらえるのかは不明である、そして祝うという行為の定義について考える。物事は総じてタイミングに支配される。洒落たお店のケーキとシャンパンは出来すぎた舞台装置みたいで羨ましいが、当人にそれだけの価値があるというわけではなく、成り行きでたまたまそうなったと考えてしまうのは多少性格が悪いだろうか。
366通りの中のある1点を指している僕のバースデーは、宇宙の中で一つの定点といえよう。思うに、僕の誕生日がその366通りのうちどれかということを覚えていてくれればそれで十分というか、それ以上に嬉しいことなんてないのだ。今日は誰も僕のことを知らない。雑踏の中人込みを掻き分けて歩いていく。明日も僕は同じ道を通るだろうか。明日も誰も僕のことを知らない。
もし生命が存在しなかったら、広い宇宙のことを認識する存在がいないため、宇宙の存在それすらも危うくなってしまう。水も生命もなく、赤茶けた岩石だけでできた星のことを僕は想像することができる。ミラーボールみたいにくるくる軌道を回り続けるその星の光は誰かのところに届くだろうか。届いたとして何の意味もない。光を認識した誰かが都合のいい解釈をするだけだ。永遠に交わらない交差点というのは確かに存在する。僕は信号を順守して横断歩道を渡り、二足歩行をもってしてクラブに続く階段を上り、重いドアを開けたのだった。
二足歩行のリズムをあの手この手で改竄してできた電子のビートに乗せて、20歳そこそこの若い男女が踊っている。女の子はいかにも触り心地のよさそうな生地の服を着て、夜更かしなんてまるで日常茶飯事のようだ。勢いに任せて体を揺らし両手を掲げ、耳に口寄せて言葉を交わしときどき抱き合ったりしながら踊る群衆を見て、盛りのついた猿の群れのようだと思った。そのとき僕の視点は会場のミラーボールの斜め上くらいにあって、僕の姿ももちろん含まれている。
DJも意気揚々と手を挙げて盛り上がるクライマックス。チルアウトの予感が感じられるようになるのはもう少し後だ。祭りが終わればみんなそれぞれの家路につくだろう。青味がかった夜明けの街を歩いて帰るのだ。僕の知っている誰かは、今はどこにいる? 答えは想像するだけで、教えてくれる機械は未だに発明されていない。一人になった帰り道、昼間雨が降ったというのにもう道は乾いていて踏み出す一歩一歩があまりに軽快だった。靴の裏はベトつかない。つま先が白く光っている。僕は知りたいよ。いったい僕はどこにいるのだろう。
だいさんわ
今日も一日オツトメを終えて帰宅すると適度に整頓された自分好みの配色の部屋が待ってくれていた。生きているものは誰もいないから僕は自由だ。同時に戦いが始まることになる。義務感と焦燥と怠惰と苛立ちが四者四様に手ぐすね引いて僕を待ち構えている。もう一人孤独というやつがいるのだけれど、そいつは僕のポケットにここんとこ入りっぱなしなので割愛する。台風が微妙にそれてしまい部屋の外では祭りの始まる前みたいな風が吹いている。
最近ではなるべく料理をするようにしている。昔からどちらかといえば好きなのだけれど頻繁にする時期とそうでない時期がある。テーマを決めて自分なりにレベルを上げていくのが好きだ。僕は興味の幅が広く、没頭するときは視野が狭く深くなってしまうたちなのでつまり料理に対しても同じことなのだろう。料理は一人きりの静けさを効率よく紛らわせてくれる。料理をするときはだいたい誰でも一人でするものだからだし、料理をしている間は完成したあとどうやって食べるかを考えなくて済むからだ。
僕の家にはテレビがないしむしろテレビという存在を嫌悪しているくらいなので一人で食べるときはパソコンデスクを活用する。誰かがいるときにはベッドをソファ代わりにして低いテーブルを使うのだけれど一人でそうするのはもはや拷問に近い。想像するだけで津軽海峡に身を沈めてしまいたくなる。この部屋にもいつだか確かにあった温かさを思い出してしまえば眠ってしまうまでの長い長い時間が辛く厳しいものになることは請け合いだ。
自画自賛と言えばそれまでだが、僕が研究を重ねて出来上がった料理はかなり美味しいと思う。これを誰かに是非とも食べさせてやりたいと思うのだが、百歩譲ってそれが確かに美味しかったとして、きっと誰もそれを切望してはいないのだろう。僕が美味しい料理を作ることを喜ばしいとは思ってくれてもそれを食べたいかというのは全然別の問題なのだ。僕と食卓をともにしてくれるかというのも、地球と木星の距離くらいかけ離れた問題だ。
野菜を切る。切り方なんてまともに習ったことはないが自分なりにまあまあ良く切れているほうだと思う。誰かが同じ野菜を切っていたときは全然別の切り方をしていたことを思い出す。あらゆるところに個性は表出するものだなあと感心したことを思い出す。この人と私は育ってきた環境が全然違うんだなあと感じて切なくなってしまったことを思い出す。いつも一人のキッチンで一人ではなかったことを思い出す。とんとんという音は耳を澄ましみると結構残酷な響きをしている。
食事さえしてしまえばきちんと納税の義務を果たし社会生活を営んでいる人間として、もうせねばならない仕事は皆無だ。かといってどのみち僕は膨れてしまった腹とそのせいで血の巡りの悪くなった脳みそを抱え、様々に奔走するということは分かりきっている。うまくできる仕事もあれば自信のない仕事もある。考えたくない事柄もあるしいっそのことめちゃくちゃにしてしまいたいとすら思う。このフライパンが熱されているうちは自分は安全だ。
前日に使って半分になったトマトソースを冷蔵庫から取り出しラップを取ってフライパンに投入する。鮮やかな赤色は近くに寄ってみてみると繊維のような小さな形があるのが分かって、ああ生き物だと思う。僕は僕の中に流れている血や、僕の知っている人が流した血のことを思い出す。血の味や血の温かさ。煮込めばトマトソースなんて形は無くなってしまう。味の中に埋没して観念から消え去り僕の胃の中で消化されるのだ。小さな平穏がたとえわずかな時間しか続かないとしても、それを憎むだけの権利を有している程度にまだ僕は強い。
コギトスム
2012.6.16 開始