さかなちゃん

ぼくの恋人はさかなちゃんである。
 とはいっても、それはぼく自身がいいだしたものではけっしてなく、さかなちゃんがいいだしたことだ。けれどさかなちゃんは水のなかにいてしゃべったとしてもこぽこぽ口から泡をはいているだけなので、さかなちゃんの口の動きから(そしてぼく自身の願望によって)わたしたち恋人だね、とよみとっただけだ。読唇術なんてできるはずがないから多分いや絶対違うだろうけど、ぼくはさかなちゃんが恋人だったらいいなあとおもっているのでそう信じておく。
 ぼくの恋人はさかなちゃんである。
 さかなちゃんのほんとうの名前はぼくは知らない。みんなはさかなちゃんをよく分からない番号でよぶので、それはかわいそうだとおもってさかなちゃんとよんであげることにしている。なんでも数百年前に絶滅してしまった水のなかで生きる生物をさかなとよぶらしい。だから、さかなちゃん。ぼくがそうよんであげるとさかなちゃんはうれしそうに目をぱちぱちとまたたかせる。さかなちゃんの動作はとてもおそくてまつげがゆらゆらゆれているみたいにみえるけれど、ついでに長い髪も海藻のようにゆらゆらゆれているけど、ぼくはそれがきれいだとおもう。
「さかなちゃん、おきて」
 太陽が沈んだ頃にぼくはいつもさかなちゃんのいる水槽にちかづいてガラスをこつこつとたたいてやる。さかなちゃんは起きていることもあればぼくがこつこつする音にびっくりして目をさますこともある。お、は、よ、うと泡をはきながらさかなちゃんはぼくに挨拶をして、それから二度寝しようとするからぼくはさかなちゃんがしっかり起きたことを確認するまで水槽を叩かなければいけない。夜の重労働のひとつである。
 さかなちゃんのうかんでいる水槽に栄養剤を注入しているあいだ、ぼくはシェルターのなかでとれたわずかな野菜をもくもくと口に運ぶ作業をはじめている。痩せた土すら使わない栄養がないそれをいちいち食事として咀嚼するのは食べるという行為をわすれないためだ。ぼくたちは退化している。脳がつかわれることなく萎縮していくように足があるかなくなってもろくなっていくように、ぼくたちは生物だということをわすれないように食事と睡眠という風習をのこしていた。三大欲求のうちのあと残りひとつ、つまりは性欲については、ぼくたちのなかに種をもっているものはおそらく一人もいなくなってしまったので三大という冠をはずされてしまった。これもぼくたちの退化してしまった部分。萎縮した脳が馬鹿の元、なんていわれるようにぼくたちのいろんなやわらかい部分はそれを気持ちいいとはあまり感じなくなってしまった。くすぐったい、程度。それでも完全にすたれてしまったわけではなく、その愛をたしかめる行為はほそぼそのこっている。
 人は愛や閉めにとくに強く、生きる欲求というものをみいだすらしい。むずかしく考えてはいるけれど、とりあえずぼくはさかなちゃんを残して死んでいけるか、と自問自答して、なんとなくいやだとおもったことで納得することができた。そしてさかなちゃんは使命に生きている。ぼくは恥ずかしいけれど愛に生きている。誰にもいえないけれど。ぼくは時々不安になるのだ。ぼくのまわりの人びとはいったいなんのために生きているんだろうって。
 今日はなぜかお腹が痛かった。ぼくが退屈な食事をおえて、さかなちゃんに注入されている栄養剤よりだいぶんおそまつなものを体にいれているあいだ、さかなちゃんはおとなしくぼくをまっている。ぼくのほうを片時もはなさずみていたり、かかえた自分の膝小僧をながめていたり、髪の毛をいじっていたりした。しかし今日はこつこつと水槽をたたいた。さかなちゃんがこうやってなにかを催促するように水槽をたたいているのははじめてなのでぼくは少しどきどきしながら水槽に近づいた。さかなちゃんはぼこぼこと大量の泡をはいて、口の動きすらよめなくなってしまった。「おちついてよ、さかなちゃん」ぼくはそうつたえるけれども、さかなちゃんは相変わらず泡だらけでみえないし、きっとむこうもぼくの姿がみえてないだろうから、外にでる時間になるまでまって「ごめんね」といってはなれなければならなくなった。さかなちゃんはまだそういう生命体だったように泡をはいていた。

 外の世界は暗い。というのは夜だからだけれど。昼には数百倍にふくれあがった太陽が地上をやきつくすのでぼくたちは夜しか活動することはない。ぼくたちは太陽がすべてをもやしつくして廃墟になった街の残骸を、この死の星から逃げだそうとして失敗して墜落してしまったロケットの残骸を、片づけていかなければならない。そうしてつかえそうなものをシェルターのなかにもちかえって再利用する。一番危ない仕事はぼくのように「旧世代の」「しかるべき教育をうけていない」「つまりは殻潰しの」人間がうけおうことがおおかった。年齢分布であらわすときれいな壺型、いた逆三角形型になっているだろう今日、教育をほどこされた大人たちは栄養剤やサプリメントの開発、または体力・筋力低下防止の運動器具の開発にいそしむかたわら、この死の星から逃げだす野望を胸に秘め、ぼくたちはたいして役にたたないゴミ屑の山からまだましなゴミ屑を拾ってくるのである。ぼくたちは消耗品であり、生命のバトンを受け渡す流れからはずれてしまっている。受け継ぐのはほんの一握りの子どもたちだけであった。
 さかなちゃんはそのマザーである。さかなちゃんは新世代のイヴであった。そして旧世代の最後の女でもあった。
 新世代と旧世代。
 それはぼくたちの代でようやく区別されてよばれるようになった。新生代の人間は頭とか身体能力とかそう、とにかくなにもかもケタ違いだった。そのさまざまな特殊能力と引き換えに生殖という能力をうしなってしまっていた。そこで必要になってくるのがさかなちゃんである。旧世代の最後の女性。卵子を腹に抱えた母親。太陽光という暴力的な放射能で、みんながなくしてしまったものを唯一もっているマリア。さかなちゃんの使命とは、人類という種を滅亡させないというとても重いものだった。
 ぼくが帰ってくるとさかなちゃんはぐったりとして水槽にもたれかかっていた。ぼくが進んで外に労働にでるのは、さかなちゃんが道具みたいにされるのをみたくなかったからである。さかなちゃんはぼくをみつけると心底ほっとしたように笑みをうかべた。そして離れたぼくの頭をなでるように水槽の壁をなでた。お母さんの顔をしていた。ぼくはさかなちゃんの顔をみて、ついお母さん、とよんでしまいそうになった。栄養剤と一緒に新世代の人間がゆっくり成長できる薬を投与しているので、何十年もかわっていないその顔を。
 ぼくは18歳になっていた。今日はぼくの誕生日だった。そして、
 さかなちゃんが逃亡した日だった。

 明け方のほんのちょっと前に、ぼくは腹痛にうなされて眠れずにまどろんでいた。そのなかでなにかにゆさぶられていた。冷たい手に一気に目が覚めてしまった。そしてその手につながっている濡れたからだと顔をみて絶句した。
「さかな、ちゃん」
 さかなちゃんはしーっ、と人差し指を唇にあてた。そうしてにっこりほほえむとぼくの手をひいた。ぼくはよろよろと立ちあがった。
「どこにいくの、ねえ」
 さかなちゃんはこたえなかった。さかなちゃんはぼくの手のひらに「外に出るにはどうすればいい?」とかいた。「外に出るの?」僕はもうびっくりしてきいた。朝になれば、ぼくたちは太陽にひからびるだけなのに。そこまで考えて、あれ?と疑問におもった。
 さかなちゃんは逃げるのか?一人で?
 ぼくはそう考えるとほんとに泣きそうになってしまった。さかなちゃんがここから逃げ出すというのは目をみるだけでわかった。何故今なのかは考えられなかった。
「待ってよ、案内するよ。だから、ぼくもつれていってよ」
 ぼくは半泣きになりながらそう訴えた。さかなちゃんは涙をそっとぬぐってくれた。ぼくはさかなちゃんの手をひいて外にでる道をすすみはじめた。さかなちゃんの手はしっとりとしていて冷たかった。ふりはわれないようにしっかりとつかむ。心臓がうるさい。だってこれ、愛の逃避行みたいじゃない。関係をみとめられない恋人同士が、手をつないで、逃げるなんてそんな。ぼくは愛に生きる人間だから、そんなことを考え始めたらどうしても浮き足だってしかたがなくなった。お腹の痛みなんてものもなくなってしまった。
 外はあいかわらず真っ暗だった。
 「どこにいこうか、さかなちゃん」
 さかなちゃんはちょっとつかれていたので、ぼくが背負った。ぼくはそんなに大柄な方ではないけれど、びっくりするほど軽かった。背負う時に、ふと下をみてぼくのたよりない足に一筋血が流れていたのをみた。どこでけがをしたんだろうと疑問におもいながら、もしかしたらお腹の痛みはこのせいだったのかもしれないとおもった。ぼくがもしも頭がよかったら、あるいはしかるべき教育をうけていたならば、さかなちゃんが突然逃亡を企てた理由も、腹痛も、この出血も、ぼくのたどるべきだった未来も、人類の末路も、全部わかったのだろうけど、ぼくはそのといさかなちゃんと一緒にいれただけで幸せだった。さかなちゃんはぼくを安心させるようにぎゅっとうしろから抱きしめた。空は少しずつあかるくなってきていた。
 ぼくたちを解放する夜明けがきた。



おわり

さかなちゃん

さかなちゃん

未来荒廃系ぼくっ娘×無口少女の百合SF。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-07-26

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