雨の日のがらんどうバス
あめ あめ ふれ ふれ かあさんが
じゃのめで おでかけ うれしいな――。
見事なまでに土砂降りだった。バケツを引っ繰り返したような、勢いのある雨がわたしの目の前にあった。傘もないが、こんな鉄砲水のような雨ならばどうせすぐやむだろうと高をくくっていた。真夏の名物である。わたしは暇を持て余すために、濡れた前髪をつまみつつすこし震えた。バスの時刻を確認すると、次にくるのは4分後である。
外にはわたしの見る限り人ひとりとして見えなかった。どうやら水の中に閉じ込められているのはわたしだけらしい。こういうのは、それほど嫌いではない。雨だけれど、こんな稀有な体験をしているのは私くらいである。耳元でごうごうと鳴る雨の音、詩的なものを感じつつあった。そうだ、雨は非日常のにおいがする。鼻につくくらいの、物が濡れるにおいが充満して、わたしのこころは人知れず非日常の中に放り込まれていく。とはいえ、その感動も家に帰ってほっと一息ついた瞬間に忘れてしまうものなのだろう。わたしは轟音にまぎれて、ひっそりと雨の歌を口だけぱくぱくと動かして歌い上げた。そうしたらようやくバスが来たので、わたしはそそくさと乗り込んだ。静かなバスのなかには、乗客は乗っていなかった。わたしは一番後ろの、広い席に座った。バスが発車する。
ふと隣をみると、疲れた顔のわたしが窓にうつっていて妙な気分になった。しかしここまで人がいないとは、まぁずいぶんとみんな運がいい。周りに人がいないと、ふと、変な気分になるときがある。たとえば、このままバスに乗って、どこか知らないところへ行きたいという衝動。その後どうするかとかなんにも考えてないけれど、雨にまぎれてとにかくこの日常を抜け出したいという欲求。わたしは今しばらくの間だけ馬鹿げた空想を許す。愚かな考えをしても、ざぁざぁと降り注ぐ雨の音のせいで、恥ずかしくもなんともない。日ごろの私の自制がすぎる性格が、いけないのかもしれない。ため息をつくと、窓越しのわたしの顔は白く曇る。ひんやりと冷たい窓にほほをつけて、わたしはバスのエンジン音と水の奏でる大合唱を聞いていた。水の落ちる一定の音は、脳にいいのだとか、リラックス効果があるといわれているけど、そうじゃなくとも、雨の音は好きだ。あめ、あめ、ふれ、ふれ、とわたしは声を出さずにつぶやく。もっとふれ。じゃのめでおでかけ、うれしいな。母とぴったりくっついて、雨の日なのにおでかけが楽しいというこの子どもの気持ちが、なんとなくわかる。雨の日のおでかけは、晴れの日とはまた違うところへ行くおでかけなのである。
バスが止まる。人が二人、乗ってくる。どこからやってきたのか、それともどこかへゆくのか、大きな荷物を抱えたお母さんと、二人の子どもだった。男の子と女の子。お母さんが雨に文句を言いながら、濡れた荷物をバスの床へ置く。子どもは黙ってお母さんにじゃれついてる。くしゃみをする。わたしのすぐ目の前に、雨の日の日常があった。うん、傘を持ってなかったら雨の中のおでかけもひどいもんだ。かの歌もあめあめふれふれとは歌わないだろう。わたしの心が現実に急速に戻されてゆく。雨はいやだ。濡れるし、洗濯物もだせなくなるし、なにより風邪をひいてしまう。といった事実に、わたしはうんざりしてるけれど、納得もしている。諦めている。その一瞬を切り取る写真のような、しかし残すことのできないわたしの空想は、雨の中にしばし姿を隠す。
バスが目的地についたのでわたしは席を立つ。お金を入れながらありがとうございます、とお礼をいうのを忘れない。運転手はどこか狐に似た顔だった。目も顎も細い。バスを降りる。雨は降り続けているのに妙に明るかった。晴れているのだ。ひとりになると、雨はやはりわたしにとって、非日常なものへと姿を変える。空を仰いで両手を広げた。
おわり
雨の日のがらんどうバス