絵を描く男の子と女の子の話

 キャンバスにえがくように、夕日のそのオレンジ色が白い清潔な背中を染めあげているのは、おもわず、ほう、とため息をついてしまうほど絵になっているとおもう。まいは足をとめた。美術館で好みの絵をみつけたときと同じくらいごく自然に、それをもっとみたいとおもったのだ。
 彼は熱心に絵をかいていた。なにを描いているのかはまいのところからはみえないが、きっと今夕日が彼の背中にかいているのと同じく、大胆に色をおいていっている途中だった。腕がめいいっぱい動いている。子どもが落書きしているように気ままなそれは、けどきっと美しい絵にするために計算しつくされている。彼は「そんなたいそうなこと、考えてないよ」と謙遜するだろうけど。実際にはほんとうになにも考えずに、ただ、この色が綺麗だなあとかそういった感想で色をおいていってるのかもしれない。無造作に選ばれた色が、キャンバスの上でおどり、まざり、いつの間にか輪郭をともなって現出するそれをまいは、いつも魔法のようだとおもっていた。ただの色が、木になったり、花になったり、はたまた湖に、山に、空に、なったりするのをみているのが好きだった。そして彼は風景画しか描かない。黒板にむかってキャンパスをかかげ、たまにふざけて空にソフトクリームの形の雲を描いたりしながら絵画というものをたのしんでいた。
 まいは、あれだけ楽しげに絵を描くことはできない。
 だって、描いているときはいつも悩んでしまう。構図はどうしようとか、変ではないだろうか、どうしてうまくかけないのだろうとか、そういうことをつらつら考えていると、自然と眉間にしわがよって、ちっとも楽しそうじゃない。おまけに最近はスランプ気味で、昔のほうがもっとうまく描けてたのにとか思ってしまう始末である。それがほんの少しつらい。
「ずっとそこに立っているの、寒くない」
 彼が筆をとめてふりかえった。胸の「吉田」と刻まれた名札が絵の具で真っ赤になっていた。顔も真っ赤だ。気づいてたの、というと、今日もこのくらいの時間にくるかなぁっておもったから、と彼はほんわり笑った。まいは美術室に足をふみいれた。教室にはいっても別に凍える寒さなのはかわらない。「顔、赤いよ」「え、ええっ」と彼はばっと両頬をおさえたのでますます彼の顔は色でぐちゃぐちゃになった。まいはふっと吹きだす。
「鏡、トイレでみてきなよ」
そういうと彼は急いで教室をでていった。指先をこすりながらキャンバスをみると、そこには下半分は肌色に塗られていて、道のように青色が横切り、上半分は赤色とかがおいてあった。なにを描こうとしているのかわからなかった。ただなんとなく上が赤いから、夕方の景色なんだろうな、とおもった。それから、今度はどんな物語になるのだろうとわくわくしていた。
 はじめて彼の絵に会ったとき、キャンバスには一面に青紫がぬってあって、それは結局夏の夜になった。夏の夜というと、真っ先に花火をおもいだしそうなものだが、雨でもふっているのかどよどよとした夜景でいまいちぱっとしない絵面だった。美術部員でもないのに毎日美術室に来て絵をかいている彼は、かなりの偏屈な人物だとおもっていたがまいはその考えをますます強めた。「どうして、曇っているの」まいは絵をみて彼に聞いた。曇り空の絵など、普通はあまり描かない。だが彼は絵を完成しきった陶酔感そのままに、「かわいそうでしょう」とひとりごちていた。
「なにが?」
「この川」彼はそういって描いている川を指し示した。「この川には蛍がすんでいるんだ。夏になると、その蛍がいっせいにふわりと飛んで、その光がまた川に反射してお月様からみるととってもとっても綺麗なんだよ。けど、お月様はそこにいって蛍と遊べないからしくしく泣いてしまうんだ」
 彼が気ままに絵を描いているとおもってしまうのは、時々こんなトン拍子もないことをいうからだ。なるほど。しくしくと泣いているから、雨がふっているんだろう。
「ふうん」とまいは相槌をうつ。
「蛍は雨がふってきたからお家に帰ってしまって、お月様はいつも一人ぼっちだ。かわいそうでしょう」
 彼はしゅんと眉をさげた。その月にまるで感情移入でもしているみたいに涙までこぼしそうだった。まいはぎょっとする。
「じゃあ、泣きやめばいいのに」
「泣きやんでも、寂しいのはかわらないよ」
まいは少し迷って「けど月が泣きやめば…」と雲の切れ間を指差した。「ほら、雲が晴れて星がでる」
 あ、と彼は声をだした。「すごい! 蛍が遊びにきてくれたんだ!」すごいすごいと、彼は雲の切れ端に光を描いた。まいは無邪気な彼の姿にふと口角をゆるめた。賛辞に気分をよくしたともいっていい。まいには蛍が星になって会いにきたなどというロマンチックなことを考えて発言したわけではないが、彼がとてもうれしそうな顔をしているのでもうそれでいいや、とおもった。そしてこの変わり者の生徒のことがおもしろくて、時々美術室に足をはこぶようになってしまった。
 彼は絵をえがくというより、物語をかいている、といったほうがしっくりくる。完成したデコボコの絵の具の重みは、表面からはうかがえない時間の重みだ。その中に隠された彼の思いがどんなにひたむきなのかはまいだけがしっている。まいはそれに、幸福を感じるのである。さながら二人だけの秘密のような甘美な感覚にときめきを覚えながら美術室へと足を運んでしまう。しかしそれは、もしまいの他にもう一人誰かがいたならば、黙って身をひくであろう脆弱なつながりだった。しかしそんなか弱い糸だからこそまいはそのつながりをなおさら大事にした。
 やがて靴底が廊下を擦る音と共に彼は戻ってきた。冷たい水にさらされた顔はまだちょっと赤かった。前髪がほんのりぬれている。
「次はなんの絵をかくの」とまいはきいた。
「なにをかこうかな。なにをかいてほしい?」
「好きなのをかいてよ」
 好きなもの…と彼はちらっとまいをみた。
「じゃあねぇ…」
 彼は筆をもった。生命力をやどしたような、苔の色を含ませてキャンパスに山をえがいていく。
「雨が降ると、この山は川をつくるんだ」
「川はだんだん太くなって街に流れ込んで…つもりつもって、底がみえないくらい深くなる」
「懐の大きくなった彼女はいろんなものをうけいれるだろうね。魚は泳いで、それを目当てに人もあつまってくる」
「今は秋だから、山が紅葉をプレゼントしてくれる。それは花嫁衣裳なんだよ」
「そしてやがて海になる」
 海になったらどうなるのとまいはきいた。紅葉で着飾った姿が花嫁なんだから、きっとお母さんになるんだろうね。と、そういう返答を期待していた。彼は、得意げにいった。
「しょっぱくなるにきまってるじゃないか」
「ばか」
「えっなんでだよ」
まいは予想外の発言につい呆れてしまって、そして恥ずかしくなった。けれどこのいい意味で期待を裏切ってくれるところもまいはどうも嫌いになれない。


おわり

絵を描く男の子と女の子の話

絵を描く男の子と女の子の話

絵を書く男の子と女の子の話です。

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更新日
登録日
2016-07-26

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