その皇帝、臆病にして劣等なり
後漢末期からの混迷とした次代は群雄割拠を迎え、後に天下三分の計として蜀漢、曹魏、孫呉の三国に分かれ派閥を争うことになる。長きに渡る戦いの末、曹魏の曹操は息子の曹丕に、蜀漢の劉備も庶子の劉禅に後を継がせこの世を去った。かくして争いは世代交代し乱世はまだ続くかと思われたが263年、内省の憂いを取り除いた曹魏は南進し天下統一への駒を進める。蜀の皇帝、劉禅は自らを後手に縛り、棺桶を担いで魏に全面降伏したといわれる。ここに漢王朝復興への礎は永久に失われることになった。
「降伏しよう」
綿竹にて諸葛譫討死の急報を受け取り、劉禅が発した一言に大広間に集まった臣下一同言葉を失った。蜀漢の二代目皇帝こと劉備玄徳の息子は、姓を劉、名を禅、字を公嗣という。皇帝は、ざわめきたつ臣下たちの動揺など気にもとめず言葉を次いだ。魏に降伏する。今度は断定であった。皇帝の五男である劉諶が、「なにを言われますか!」と一喝した。
「父上、魏に降伏するなど滅相なことを。綿竹を占領した魏軍がここへ来るまでにまだ時間はあります。どうかお考え直しを」
「いや、その必要はない」と劉禅は息子の言葉を突っぱねた。「城が次々と落とされているというのに、勝てる戦があるものか」実の父親にそう挑発されても意地になって劉諶は言い返した。
「しかしよりにもよって魏に降伏など!」
蜀と相対する魏の間には、己らの命よりも長い因縁に絡められた戦争の歴史があった。この蜀という国を作り上げた英雄達は、戦乱の中で次代へと繋がる命にその血塗られた重い歴史を授けた。劉禅自身も、戦争の最中で生まれた子どもだった。劉禅が覚えているかぎりの最初の記憶は、突き出された鋭い矛がやわらかい人体を貫通するところである。幼い頃から人の死を間近にして生きていた彼は誰よりも死に恐怖し、また嫌悪していた。そんな戦嫌いの人間が治めてきたのが、この蜀という国であった。30年間の治世は今、魏からして外征の憂いを取り除くという目的のために、まるでほんの気まぐれで人間が鼠の巣を潰してしまうかのように崩れ去ろうとしていた。しかし蜀人には、祖国の英雄から受け継がれてきたものに並々ならぬ誇りと自尊心があった。愛国心ともいわれるそれは、降伏などとのたまう実父を前にした劉諶を憤怒させているものであった。
「いいえ、その通りです、陛下」
ますます激昂する劉諶の言葉に相反して、蜀の学者譙周の言葉はただ静かであった。水を打ったように場が静まりかえる。その静けさを脅かさないよう、譙周は二投目を放った。
「降伏するのが正しい」
字は允南というこの男身の丈は8尺もあるが容貌はとてもまともではなかった。今は亡き諸葛亮とあいま見えたときでさえ、彼をみておもわずふき出してしまうのを堪えられなかった、と言われてしまうくらいである。学に秀でていたため、度々政で意見を求められることが多々あった。劉諶をはじめ愛国心に燃える武官一同は馬鹿にしたような目で譙周をみていた。あるいは敵をみるような憎しみのこもった視線で射抜いた。北伐と呼ばれる魏との戦争を聖戦のように取り扱うような人間からすれば譙周の言葉はそれこそ売国の意にも受け取れた。元々重かった場の空気はその二人によって煮詰められていた。そこでかつて呉に使者として向かっていたことのある樊建が口を開く。劉諶と譙周の広げた波紋に投げ込まれた第三の意見だった。
「一度呉へ逃げるか、南方に遷都されてはいかがでしょう。いずれ剣閣から姜将軍が戻ってきます。鐘会軍はそろそろ兵糧も尽きる頃。これを退けられれば、鄧艾を挟撃できるはずです」
剣閣に今陣を敷いているのは、姜維という男であった。元は魏よりの降将であるが、諸葛亮の思想に最も心酔し、彼の死後は彼にかわって北伐を取り仕切る第一人者であった。姜維率いる蜀の軍勢は剣閣にて魏軍相手に奮戦していた。だが何故姜維がいるというのに成都で降伏か否かの議論が行われているのかというと、魏将鄧艾が敵地である蜀の未踏の地を踏破し、無理矢理剣閣を迂回して綿竹を破り、成都を目指してきたからである。長らくの攻防により敵の補給線は実際に長くなっており、戦を嗜む者ならば食料の補給の困難のリスクを抱えて兵を動かし続けることが愚かなことを知っていた。もっとも現実的な策に思えたが、その言葉に譙周が異を唱えた。
「逃げるのならばもっと早くに準備するべきだった。そして呉に下るよりかは、魏に下ったほうがマシです」
あくまで降伏する意志を曲げない譙周に、劉諶は声を荒げて激高する。
「魏に降伏するくらいなら戦って死ぬべきだ! この国を築き上げた先帝らに申し訳がたたない!」
「貴様、陛下に死ねと申しておるのか? 口を慎め!」
劉諶の言葉に触発され、今度は宦官である黄皓が声を荒げて諫めた。何度も姜維の応援の要求をその手のひらで握りつぶし、専横にも近い振る舞いをしている宦官は、特に武官から猛烈な反感を食らっていた。迂闊に手を出せない理由は、ひとえに皇帝、劉禅の寵愛を一身に受けている人間だからである。今や会議室は降伏派の文官と交戦派の武官の一触即発の場であった。それをじっと見つめているのは、蚊帳の外扱いを受けている劉禅の一対の瞳しかなかった。魏に降伏するという心はずっと昔に決まっていたが、劉禅には生憎この場の者達を説得する弁がたたなかった。だから人一倍冷や汗を流し、悲しい目をして見つめていた。学もなく、口も回らず、この中で一番場違いな人間である劉禅は、先帝の息子として生まれてきてしまったがために、己を育てた蜀という国の命運を握っていた。だから、振り絞らなければならないものがあった。自分の中になくとも、拳を固めるもので生み出さなければならないものがあった。
「……何故朕を無視するのか」
第一声は震えていたが、それでもその声は十分に届いた。皆一斉に二代目皇帝の、汗水流した、それでいて手足の震えて、顔の真っ青な情けない姿を見た。
「劉諶よ。お前の父である朕は誰だ」
「……蜀の二代目皇帝、であります」
劉諶は気まずげに答えた。劉禅はその答えを聞くと、息を吐き出した。
「ならば何故、朕を無視して話を進めようとする。もう決めた。魏に降伏すると決めた。ならば早く降伏の準備をするのだ。皆、逃げるな。ここで魏を出迎える」
凡庸な君主は、この時ばかりは強い、弾けんばかりの早口で言い切った。虚勢だろうがなんだろうが、胸のうちをすべて曝け出すように言った。その間止める人間は誰もいなかった。圧倒されていたというよりかは、呆然としていた。皆が皆、己の君主がここまで確固たる意思を示しているのを見ることがなかった。ここまでの威圧は、諸葛亮亡き後に彼を侮辱した李邈をその場で処刑した以来である。そして否が応でも思い出さなければならなかった。その父が、漢王朝復興のために草鞋編みから一代で皇帝となり、また盟友を討たれ激怒し無理な戦を強行したように、一度決めた自分の意志は絶対に譲らぬ頑固者だったことを。
「朕には、政の難しいことはわからぬ。しかし国がかわっても、人はかわらぬ。注ぐ器をかえても、酒は酒にかわりない」一息尽き、呼吸を落ち着ける。そして次に言う言葉は、発言とみるにはあまり小さく、人に聞いてほしくないことだったが、劉禅がなによりも主張したいことだった。「それに……壊れた器では、酒はこぼれていくばかりだ」
ふ、と譙周が息を吐いた。否、笑ったのだ。自国の三倍の国力を有する魏相手に、幾度とない北伐を繰り返すことで、蜀の民は困窮し蜀の将も疲弊していた。劉禅は己の才能を信じず、また人より優れたところなどひとつもないことを知っていた。また争いを嫌って安穏な生活を望んだ。劉禅が望むのは、平穏な生活だった。幼い頃から脅かされてきた戦争に命を持っていかれるのだけは御免だった。その生活が手にはいるなら、争いの火種である国ひとつ滅ぼうが顔色を変えないくらいの芸当はできる。生きている間中戦争に支配されるのは嫌だ。他国との小競り合いに、いい加減疲れてきていた。疲れたのだ。もう、なにもかもがどうでも良くなってくるくらいには。頭を使って、無理矢理窮地を脱出する策を模索するのは。劉禅は百戦錬磨の英雄ではないのだし、離れて暮らしたゆえに父親の志も、言葉も、受け継げなかった。そんな人間に一国は荷が重すぎた。壊れた器に止め処なく注がれる、劉禅のような凡夫には勿体ないくらいの酒を、いくら台無しにすれば気が済むのだろうか。
「ご乱心か」武官の一人がついに吐き出すように劉禅の前へと進み出た。劉禅は自分への暴言にはほとほと無関心であった。ただ武官の言い訳を聞いている。
「きっと報いを受けまする」
「それは、呉将呂蒙を呪い殺した関前将軍の亡霊にとでも言いたいのか」
譙周が先回りすると、それを受けて劉禅が、「それでも」と言った。
「降伏する。呪い殺されようが、こればかりは変わらん」
どうあっても降伏の意見を取り下げない父親に対して、とうとう、劉諶は追いつめられた顔をして言った。
「どうしても降伏なさるつもりか」
「最初からそうだと言ったはずだ。諄いぞ」
「ならば、いたしかたない」
劉諶はそういい残すときびすを返して部屋から出ていった。しばらくしてから、劉諶の部下が血相をかえて報告してきた。
「劉諶様が、妻子様と共に先帝の廟で…じ、自決を」
「…そうか」
劉諶は己の義をすべて蜀へと擲ち忠を尽くした。そんな息子の決意を前にして、劉禅は痛ましさこそみせたものの顔色はかえなかった。その場にいた臣下は君主の無情さにため息をついた。劉禅のほうは、己に向けられる落胆、諦観の視線にどこか震えるものを感じていた。自分を後帝したらめる40年間分の重たい視線からいまようやく解放されようとしているのだ。これで酒は魏という新しい器に注がれる。才あるものたちを、自分の代で無闇に使い潰さなくともよくなった。臣下の中には、突っ伏して泣く者もいた。怒りをどこにむけていいかもわからず、頻りに歯を食いしばるものも、広間から消える者もいた。その人間達に、劉禅は声をかける。
「降伏だ。棺桶の準備と、伝令を呼べ」
そう言い残して劉禅は口を閉じた。放心していた人々がやがてよろよろと動きだし、忙しくなる広間の喧騒をよそに、劉禅はゆるりと目線を落とすと自らの手のひらを見つめた。その両手足はいまだに震えていて、闇に隠れたその青白い顔もこわばっていた。こぼれ落ちた落涙を、誰もみることはなかった。
おわり
その皇帝、臆病にして劣等なり