狌狌

 昔、農民の家に男児が産まれた。身の丈は常人の半分もなく、背中は猿のように曲がっていて、鼻は大きく、大変醜かったため、村の人間から忌み嫌われていた。男児は成長したが、いつも一人で居た。自分の容姿を馬鹿にする人間をいつか見返してやろうという野望を持っていたが、男の家は貧乏で私塾に入れてやる金もなく、はやる気持ちを持て余していた。男の両親は、仕事をしない男には無関心であり、兄や妹の面倒に構いっきりであった。

 ある日男が村に戻ると、村が騒がしかった。なんでも面妖な怪獣を捕らえたという。男は人々の間を縫って、檻にいれられたその生物をみた。なるほど見れば見るほど奇怪なものだった。猿のようでいて大きさはその比でなく、体毛は黄色みがかっていて、耳が彩色のように白い。しかし男は自分の醜い容姿を幾度となくからかわれていたため、内心でなんだこんなものかとおもった。男には、人が人を嘲るその姿の方がよっぽど醜かった。この怪獣は檻の中からぞっとするような醜怪の面を人々へとむけていた。それは自然と心の内に嫌悪を呼び寄せるようなものだったので、なんとなく嫌な感情が村全体へと渦巻いていた。そのうちこれは災いをもたらすものなので、殺す方がいいと誰かが発言し、皆はそうだそうだと口々に同調した。しかし一人の村のものが「いや、こいつはきっと狌狌だ。都へゆけば、きっと高値で売れる」といったので、意見は殺すのと都へ持って行って売るのと二分し、ひとまず一晩の猶予が与えられた。

 男はおもった。こいつはただ醜いというだけで殺されるか、それとも売られてやはり殺されてしまうのだろう。人は自分より劣ったものを馬鹿にしなければ仕方のない性分なのだ。俺だっていつも容姿が醜いというだけでとても生き辛い思いをしているのだ。やってらんねぇなぁ。男は獣に同情し、そこでこの化物をこっそり逃がしてやろうという気になった。夜になるのを待って男はその狌狌という生き物の檻をそっと開け、逃げるように促した。すると狌狌は待ち兼ねていたかのようにするりと暗い森の奥へと逃げて行った。

 さて朝になると狌狌はいないので村中騒がしかったが昼にはもう落ち着きを取り戻していた。男は散々打擲され、石を投げられ、もう見切りをつけて村から逃げ出していた。実際のところ男が狌狌を逃がしたか逃がしてないかなんてどうでもよいのだ。未知なるもの、醜悪なるもの、そういったものを排除して秩序を保つのは人の本質だった。後の本に記された奇面奇獣の類は、人間が生み出した妄想の産物、あるいは人ではあるが奇形であったかも知れぬ。一つ目の奇人、手足のない奇人、あるいは人を食らう奇人、そういったものを恐れ排除して五体満足の人間を人と呼び、他を異のものとした。しかし真に人からすればそれは異であるのだ。弱者の叫びは獣の叫びとしか聞こえぬ。我らに仇なす害獣ならば討伐してもよい。だから害獣であった男は森へと追い出されたのであった。男は夜のうちにこの森を抜けなければのたれ死ぬか獣の餌になるであろうことは知っていた。打たれて不能となった足を引きずり、棒を持ち、歩けるだけ歩いたところでどうと倒れた。薄闇に包まれつつある空が万策つきたことを物語っていた。冷えたのか恐怖からか全身が震えた。もう手足も動かぬ。獣の咆哮、鳥の喚き声が森に闇を連れてきて、男の心臓を押しつぶそうとする。

 そのうち、奇妙な声が聞こえた。

「クエ、クエ」

 人のような声だが、心を薄く引っかいていくような気味の悪い声だった。それは勿論人間の声帯から出された声ではないからだ。男が声をした方に視線をはしらせるとそこには先ほど逃がしてやったおぞましい狌狌が男をぢっとみていた。いや、なにかを差し出している。何日も洗っていない獣からする生臭い匂いが男をえずかせた。男の顔面に滴り落ちるのは、その腕からほとばしるどす黒い血だった。狌狌は五体から引きちぎった毛だらけの己の腕を男の口にねじ込みながら、なおもクエ、クエ、とわめいている。生暖かい強烈な生き血を喉に受け吐き気を催し、臭い生肉に目を白黒させ、男はこの上ない嫌悪を味わったまま気絶した。

 狌狌の肉は食べるとはやく駆けられるようになるという。男の不能であった足は森の中を自由に駆け回れるようになった。男は森と生きた。男の姿はもうそのときには元は人間だとは思えないくらいに毛むくじゃらで、体毛は黄色を帯び、人の言葉を解し、ほとんど猿のようだった。名をつけて分類するのが人間だけであるなら、人は男を妖獣と呼んだだろう。男は人であることを捨てた。森に生きるものは皆、人ではないものだったが、男はそこでのびのびと生きることができた。幸せだった。



おわり

狌狌

狌狌

中国の山海経にでてくる妖怪・狌狌と男の話です。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-07-26

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