褒姒

 庭園に目一杯花をつけた梅が芳醇な香りを振りまく頃でした。
 その方はここへといらっしゃいまして、女たちの拾った梅の実に唇をあてくすぐったくお口に含まれました。私が慌てて青梅は身体に毒です、とお伝えすると「こんなに甘い匂いをしているから、つい鳥のように啄ばみにきてしまったのですわ」といって、ふたつほどご自分のお袖に転がし、目配せを致しましたので、私はもう、その肌から立ち昇る強い梅の香りに酔って、はいと頷くしかありませんでした。それがはじめて会ったときのことです。名を褒姒様と仰って、齢十七程の女とも少女ともつかぬ、高貴な顔立ちの御仁でしたが、その出で立ちは決して名家の出ではなく、我が国と戦って負けた褒の国から陛下の元へ献上されたのでありました。そのうつくしさはこの世にふたつとない美貌だと伝え聞いておりましたが、実際この目でみたあとだとその言葉さえ草の枯れたように聞こえるほどでございました。繻子を解いたような黒髪、その肌は真珠を練った如く輝き、けれどぞっとするほど人の目を惹いて離さないのは、やはり陶磁器のように変わらない顔でございましょう。月が虚ろうことをやめたように、その表情はいつお伺いしても変わることはありませんでした。無表情で、いつも少し首を垂れて畏まっていらっしゃるので、いつもどこか憂のあるように見えます。それをみるとつい、手負いの鳥を懐へとしまいたいような、非常に憐れみの心を刺激されてしまうのであり、また飢えた人が水を求めるように、その淵から水が零れるのを待ち遠しいとおもってしまう卑しい心も増えてしまうので、女の私でさえ彼女を思うとそうなのだから、世の殿方からすればいったい彼女はどのように映っているのでしょう。陛下の寵愛は憚ることがない分、恐ろしいものでした。先妃と太子が廃され、褒姒様とその和子様がその位置につかれますと、ますます堰を切って落とすように溺愛っぷりは激しくなっていきました。それでも褒姒様のお顔が一度だって笑ったことはありませんでした。

 私が褒姒様の髪に香油を広げてくしけずっていたときのことです。月の明るい晩でした。三度も溜息をつかれておりましたのでそっと「奥方様は、なにか悩みがありますでしょうか」とお聞きいたしますと、ただ「待っているのです」といって、雲へ月が隠れるのを目を凝らしておいででした。私はそれをみて、夫人の心情をはかろうとしましたがさっぱりわかりません。「何を待っているのでしょうか」と愚鈍にもお聞きいたしますと、「お前はとてもいい人だから、妾の心がわからずとも気にすることはありません」と口を閉ざしてしまわれましたので、むきになる気持ちとそっとしておきたい気持ちで困ってしまいました。
「私はいい人ではありません」それでは足りないとおもって、埋めるように言葉を繋ぎました。「いったい、何を待っておられるのでしょう。ずっと笑わない理由は、それなのでしょうか。私ではお慰めすることはできないのでしょうか」
 私はそうも言いながら、天子の妃が待っているものが気になって仕方がありませんでした。透けるような薄絹がこすれて、こちらを振り向いた褒姒様の半顔を月が照らしました。その身からは何故だか、あの日の梅の実が香ってくるのです。これは香でもたいておりましたのでしょうか、それともお袖にでも入れてあったのでしょうか。口に含めば毒となる、芳醇な実の香りが私の鼻をくすぐって、知らず知らずのうちに口内が唾でいっぱいになりました。そのとき私ははじめて我が身がとても緊張していることに気がつきました。あるいは、警戒していたのでしょうか。唾を飲み下す音が、嫌に大きく響きました。
「ああ、だからお前はいい人。また妾と梅を拾いにいきましょう。陛下にも召し上がってもらいましょうね」
 私はやはりその匂いに惑わされはいと頷いてしまいました。


 憂愁の秋の頃、ひとつ事件が起こってしまいました。臣下のうちの一人が庭園で休まれていた褒姒様へと忍んで薄衣を盗んだのでございます。それに気づいた陛下が逃げる男のあとを追わせましたところ、男はあまりに慌てたのか転んで薄衣を破いてしまいました。すると褒姒様はふっと薄く微笑まれたのです。最初は男の醜態を笑ったのだと陛下はおもって、王妃の目の前で捕まえた男にあらゆる拷問をいたしました。しかし笑わなかったので男は打ち首になりました。「褒姒や、お前はどうして笑ったんだね」陛下が捧げられた男の首を前に問いかけると、褒姒様は「あら、絹が破けた音が可笑しかっただけですわ」と答えました。それで陛下は狂喜乱舞して、褒姒様を笑わせることに終始夢中になりました。国中の絹を集めて裂く悲鳴のような音の中でくすくすと笑う褒姒様をみていると、大抵の人間は背筋が寒くなる心地が致しましたが、次第に褒姒様はまた笑わなくなっていきました。こうなると陛下は躍起になって、あらゆることを褒姒様に試されました。そしてついに手違いで烽火があがり、諸侯が慌てて駆けつけるのをみて、褒姒様は声をあげて笑いました。こうなると陛下は敵が攻めてきてもいないのに烽火をあげるようになりました。諸侯の陛下への信用が失われていくのが目に見えてわかりました。私はどうして、あの褒姒様がそんなことで笑ったのか、理解ができませんでした。
 廃后された申后の父親が、諸侯をまとめ謀反を起こしたその日に、私はちょうど梅の実を煮たのを、褒姒様の元へ持っていったところでした。謀反と聞いて私は直ぐに褒姒様の元へと踵を返し、情けなくも震えておりました。やがて陛下が慌てて褒姒様の元へ来て「烽火をあげたが誰も来ない。何故なんだ。早く逃げよう、殺されてしまう」と褒姒様の手をとりましたが、彼女はその手を振り払いました。
「お前、何故……」
「嫌ですわ。妾はずっとこの時を待っていたのですもの」
 そういって褒姒様は悠然と微笑まれました。私はそれを目にすると、息が詰まってしまってもう動けなくなってしまいました。陛下があれほどまでに笑みを欲した気持ちがわかるような心持ちが致しました。月が赤く染まれば、このような気持ちに近くなるでしょうか。空気が凍るような静けさの中、褒姒様はとうとうと語り始めました。
「教えてさしあげましょう。妾を育てた親は、妾がこの国に貢物として献上されるのに反抗して、目の前で斬り殺されたのです。妾は、血の毒を浴びました。この毒を、かならず天子に食わせてやる。そう誓って、この国へ来たのです。絹を裂く音がすると、気持ちがすっとした。もうすぐ、この国もそんな目にあわせてやれるとおもうと、心の底から嬉しくてたまりません」
 陛下は壊れたように、その人をみておりました。自分がなにを口にしたのか、そのときはじめて理解したのです。しかしもう遅すぎました。毒は身体中にまわって、もう取り返しのつかないことになっていました。滅びのときが刻一刻と私たちに迫ってきていましたが、どこか時間の止まったような奇妙な錯覚を感じていました。私をさして、いい人といった褒姒様。その言葉は揶揄でした。なにもしらない幸せな顔をして暮らす私たちをみて、面白くなかったから笑わなかったのです。蔑んでいたのです。褒姒様はずっと、この国にとって悪い人でありました。
「妾はずっと復讐の時を待っていた。この国が滅ぶのを見届けるまで、笑ってやる。貴方も笑いなさい。国を滅ぼした暗愚として、永遠に史家の筆の呪いを受けるのです。嬉しいわ、ああ、なんて愉快なんでしょう?」
 褒姒様の笑い声が部屋に木霊し、梅香はますます濃くなって、足元が覚束なるくらいでした。私はたまらず床に手をついて、そのお姿を見上げておりました。これほどの美人が笑うと、人間とはおもえないくらいに威厳のある姿でした。あるいは今まで笑う姿を見せなかったから、余計に神々しいと、場違いな感想を抱くのでしょうか。まるで、雲間から光がさし、龍がそこを登っていくかのよう。いや、目の前にいるのは復讐の女神でした。たった一人の女が、笑みひとつで国を滅ぼしたのだ。なんて滑稽。なんて現実味のない。なんて馬鹿なんだろう。私は私の国を嘲笑したくてたまらなくなり、気がつけば、うふふふと笑いを零していました。それをみて褒姒様は可憐な鈴の音のような声をあげて笑いました。褒姒様が笑っていらっしゃるのをみて、陛下も引きつった笑みで泣きながら、褒姒が笑った褒姒が笑ったと、痴人のようにいつまでも手を叩いていらっしゃいました。



おわり

褒姒

褒姒

笑わない系傾国の美女・褒姒とその侍女の百合風味な話を書きました。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-07-25

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted