それらしく(完結)
なにもないけどいろいろある (1話完結)
石ころの裏側をよく見てみる――いた。
やっぱり、いた。
二、三の黒い団子虫。
指でつつけば、ころころと。
時間がたてば、のそのそと。
雲の隙間からよく見てみる――いた。
やっぱり、いた。
二十二、三の青白い若者。
光を当てれば、どきどきと。
音を立てれば、びくびくと。
「お。生きとったんかい」
団子虫が長い眠りを切り上げて、石の裏から這い出てきた。
並木通りの向こうからやってくる、痩せこけた若者をまぶしげに見つめている。
「久しぶりじゃのう。今日はまた珍しくお出掛けかい。え?」
青年は前かがみで、神経質に煙草をふかしている。
しっけた秋の中をさっさと通り過ぎていく。
団子虫のありなしの首は、左から右へねじ回る。
煙草のけむりだけが、コミュニケーション欠如の埋め合わせにもやもやと。
青年の感情を偽装して見えなくもない。
「なんだいなんだい。もう行っちまうんかい。んじゃ、わしゃもうひと休みするかな。なんにもいいことありゃしないしな。おっとっと」
ひしゃげた吸い殻が綺麗な非線型写像を描いて、団子虫の近所に落ちた。
「ま。あんまり無理しないようにな」
青年は、つゆ知らない。
黒光りする背中を見せて、石の裏に帰った団子虫のことなどは。
アスファルトの一点に瞳を定着させて、せかせか歩く。
急いでいる印象を与えるけれど、行く先はない。
他人の足で薄暗い裏道へ回る。
喫茶店のドアがある。
ノブらしき部分を引く。
いちもくさんにカウンター席に向かう。
空席を見つけたから。
人と人の間に陣取る形になった。
まずい。
と、再びドアがかちゃり。
何かが起こってる。
声がする。
知ってる人たちだたぶん。
丸まっておかなきゃ。
近づいてきた。
後ろにいるきっと。
透明なのになんでだろう。
初対面の糸にしがみつこう。
ダメだ。
覗き込まれてるに違いない。
ちょっと見てみよう。
ああ三人もいる。
もう透明でも人間でもない。
変な生き物だ。
何か言ってる。
聞こえたくない。
僕は強い。
僕が強い。
僕だけが知ってる。
いなくなってくれたかもしかして。
まだ安心できない。
変な生き物を実感する時だ。
周りの人もいずれ悟るだろう。
一秒が過ぎる。
もうばれたろう。
もともと何も言う資格はない。
それもみんな知っている。
五秒は過ぎた。
僕は強い。
僕が強い。
情けない。
目を動かせない。
このままでいるしかない。
体がほてってきた。
子供みたく平和そうに見えてるんだろう。
何秒かまとまって過ぎてくれた。
一本ずつ棘が抜かれてく。
これで少しは安心だ。
いいことがあったあとみたいだ。
青年は、カウンターの上で待っていたコーヒーをすすった。
青年は、透明に戻れた気がした。
格別の一杯。
生かされている。
こうやって生を繋いでいく。
そう思ったのは久しぶりだった。
ベッドの下でギザ付の十円玉を発見して以来だった。
一人のための春と、季節外れの春と、外で出会うことになるなんて。
冒険には危険がつきもの。
でもたまにはいい。
かすかに懐かしいあの頃。
春がやってきた。
憂鬱な季節の到来。
窮屈な日常の襲来。
陽気に浮かれる人々。
去来するのはただ一つ。
冬がいい。
すべてを隠してくれるから。
他人の健やかさや気高さも。
僕の傷も卑劣さまでも。
冬だけはあっち側ではない。
冬だけはみんなに追いつける気がする。
今年、僕の準備は遅れた。
春は早すぎた。
空想の彼女も色づきだしていた。
僕は習慣的に顔をそむけた。
今年も終わろうとしていた。
世間様からの全面撤退。
さて自分へ帰らなきゃ。
「ただいま」
去年の自分が出迎えた。
「今年は早かったね」
「うん。まあ」
過去の自分たちは暖かな機械。
「ごくろうさま。もう休んで。交代だよ」
青年は煙草に火を移して地味に微笑んだ。
長いまつげのまばたきは穏やかそのものだった。
とりつくしまもない男、かつて道ですれ違った人々の大半はそう判断した。
青年はため息で回想の余韻を吹き消した。
けむりと湯気も動かされ、訳知り顔のレンガ壁と対面した。
頭脳へ通いつめてきたのは、これまでの道程。
小さな賭けも大きな夢もなく、淡い恋と苦い日々が点滅している。
遠い遠い昔のこと。
幼い頃の想い出は、疲れ切った人たちにかき消され、
見知らぬ女性との恋愛は、秘密のせいで破られ、
口に出された友情は、同じ口に否定され、
季節にまつわる発見は、翌年には台無しにされ、
求めていたものは、運の悪さにかすめ取られ、
朝の決意は、雨の夜に押し流され、
信じた約束は、沈黙にないがしろにされ、
粗末な期待は、薄笑いに傷つけられた。
遠い遠い昔のこと。
青年の肩はしっかりしていた。
生暖かくて重たい頭。
崩れ落ちそうな華奢な四肢。
肩はそれとなく青年を支えている。
カウンターに片肘をついているせいか、身構えているようでもある。
あれこれ捨ててきてしまった青年に武器などない。
ただおとなしく流れに従うだけ。
捨ててしまったものたちの、かりそめの嘆きを聞きながら。
鮮やかなまま遠ざかる、あきらめの月日を思いながら。
青年の呼吸は乱れてきた。
カウンターのつやつやした監視。
狭苦しい空間。
四月へのカウントダウン。
十秒おきにやってくる人生の転機。
歴史の終わり
心臓をはじめとする内なるものどもの慌てぶり。
青年はこっそりとライターを引き寄せて味方にした。
他人たちは、それぞれの口でしゃべっていた。
ありがちな言葉のつらなり。
世間の人が言いそうなことも、だいたい見当がついていた。
病人は病気を語る。
苦労人は苦労を語る。
女好きは女を語る。
元野球選手は野球を語る。
人格者は道徳を語る。
文学者は文学を語る。
やれやれ。もうたくさんだ。ああでも……。
外国人は外国を語る。
宗教家は神仏を語る。
俳優は演技を語る。
居酒屋の大統領は武勇伝を語る。
いや、待てよ。
他人は他人であることを語らず……。
青年は微笑を取り戻した。
顔を伏せてのそれに違いなかった。
奥歯を合わせていたぶんだけ、押し殺された。
べったりしたむなしさに明日用の布石を打たれつつも、本当はいろいろ忍ばせている。
誰かを恨むことも何かを妬むこともない。
たった一杯のコーヒーでの苦しまぎれの陽気。
季節外れの春におけるうしろめたさの開花。
青年は三本目になる煙草に火をともした。
愛煙家ではあるが、人聞きの悪いレッテルを突きつけられるほどではなかった。
不十分な笑みをけむりに変えておきたいだけだった。
他人たちは、はっきりした笑顔を浮かべていた。
青年は理想的な形になったけむりを見送ってから、顔について考えるひと時を迎えた。
両手に花の男の顔。家に入れぬ男の顔。
男の前での女の顔。化粧に夢中の女の顔。
格好つける男の顔。乳房を眺める男の顔。
夢を夢見る女の顔。昼まで寝ている女の顔。
尊大ぶった男の顔。下から見られた男の顔。
熟女を気取る女の顔。途方に暮れる女の顔。
物知り顔の男の顔。自分を知らぬ男の顔。
読書に励む女の顔。漢字を読めぬ女の顔。
街をさすらう男の顔。道に迷った男の顔。
涙を流す女の顔。歯茎で笑う女の顔。
信念貫く男の顔。飲み屋で見かけた男の顔。
仕事に打ち込む女の顔。金を握った女の顔。
青年は一度たりとも見逃したことはなかった。
長く続く徒労のかなたからも。
重くおおいかぶさる憂鬱の幕下からも。
強くはさみつけてくる孤独の隙間からも。
透明になり言わず語らずのしらけた瞳で観察してきた。
誠実に生きていた人が、決定的な嘘をついたことも。
前を向いていた人が、想い出を見に帰っていたことも。
約束の道に入ろうとしていた人が、旅を想って涙したことも。
気さくに振る舞っていた人が、すすんで仮面を脱ぎ捨てたことも。
沈黙の鎖を握っていた人が、密かに合図を送っていたことも。
谷底を眼下に見ていた人が、小さな抜け道を見つけていたことも。
――もういいから。
ため息をついて、とんがった顎を指先で支えた青年を何かが呼ぶ。
心で振り返れば、おなじみのあとさきだった。
よく出会うあとさきこそ、青年の唯一の相手だった。
あとさきの前だと透明になる義務も免除される。
やっぱり来たんだ。
よくここがわかったね。
昨日はどうしてたの。
――申し訳ない。ちょっと休憩してたんだ。ここのところ立て込んでたからさ。
あとさきはそう伝えると、この数年間を持ち出した。
青年が女性と住みかを築いたこと。
可愛い娘が誕生したこと。
みんなで元気に遊んだこと。
なんとなく楽しく生きたこと。
――まだたくさんあったよね。
うん、そうだったそうだった。
本当にいろんなことがあった。
なんだか疲れさせたようだね。
――どうってことないよ。これをやっても自分はいないわけだから。ところで今日は何も持たずに来たんだ。もうなんにもないからさ。探してみたけどなんにもない。なんにもね。わかっているとは思うけど、いつか誰かの結婚披露宴にしろ、そのうちの海外留学にしろ、とっくに片づいてることだしさ。
青年は小さくうなずいた。
無色な表情を身辺にさらした。
そうして誰も知らない遠くを、いや、それよりも更に遠くをおさらいした。
結婚披露宴にて。
例によって一人になっていました。
五十人中の一人でした。
透明になっている僕に、酔った女性が愚痴をこぼし始めました。
友人のこと。自分のこと。
家族のこと。
仕事のこと。
自分のこと。
僕にはとてもむつかしかったのです。
それが嬉しかったのです。
それがむなしかったのです。
いくら飲んでも口が開きませんでした。
無理して飲んだからいけないんだ。
それが詭弁というものです。
多少は彼女にすまない気分になりました。
僕のところに来たグラスにも申し訳が立ちませんでした。
夜が流れていきました。
そうだ早くしなくちゃ。
人知れず出て行くことにしました。
みんなの後ろを通った時には、息を止めたはずでした。
なのにあとに着いてきました。
笑い声もありました。
僕を追いかけていたのではないのでしょう。
僕を笑っていたのでもないのでしょう。
僕が勝手に避難していたのです。
僕が勝手に道化になっていたのです。
でも確かに恐ろしかったのです。
なにしろ六人もいたのですから。
どうにか駅に着きました。
電車に揺られて家を目指します。
こんな人間が作られた場所へ、懲りずに帰るのです。
椅子には座れません。
窓の僕が何かを企んでいたからです。
作戦は成功したようです。
脚が痙攣してきました。
また自分が嫌になりました。
今日も日課を終えました。
こんなことをあと何回くらい繰り返せばいいのでしょうか。
あと五十年は生きることになっているそうじゃありませんか。
そんな奇跡は欲しくありません。
でも期待は裏切られるのです。
大人になるとは、あきらめることなのです。
余計な奇跡まで起こってしまうのでしょう。
耐える自信もあきらめました。
呼吸も、声も、手足も、値打ちはありません。
手すりもやけに冷たかったです。
海外にて。
夫婦に迎え入れられて、カモンと指された二階の部屋、
妙に広くてたじろいだ。背中丸めて入り込み、
向こうの隅で腰降ろす。スーツケースを開きもせずに、
ぐるりと辺りを見回すと、なんだおまえとフランス人形、
高いとこからきつい洗礼。何の言葉もないままに、
色んな国籍一つの部屋に。一秒二秒と時が過ぎ、
お互い様で硬直し、重たい空気が流れだす。
さっと煙草を取り出せば、ノーと派手はリアクション。
ソーリと頭をついぺこり。これでいいのか日本人。
やけに手ごわい外国人。ああだこうだと悩んだ末、
変な姿勢を維持したまま、ぼんやり窓を見つめるも、
映っているのは家の人。背中に刺さる冷たい視線。
厳しい現実またここに。帰るまでにはあと三年。
煙草の吸えないこの場より、母国のほうがまだましか。
不慣れな役にも慣れきって、不慣れな笑顔をばらまく頃、
二、三の人がたかってきて、いつしか知人に恵まれた。
耳に流れる母国の曲。孤独な日々がふとよぎる。
毛色の違う人の中、胸がつまるは僕一人。
すべてを捨てたつもりでも、こちらで準備がされていた。
話の花へと隠れても、卑劣な自己が芽吹きだす。
体が徐々に消えてくが、じっと見ていたある女性。
どもった言葉を送ってから、使い古しの恋をした。
夜へと続く並木道、二人の末路になぞらえる。
沈黙するし音もなく、この先注意の道しるべ。
今日が明日へと変わりゆき、春が夏へと変わっても、
二つのみじめさ色褪せず、悲恋のともしび消えんとす。
危険な愛の生まれた頃、別れの時がやってきた。
根のない自信を内に秘め、背筋をまっすぐ伸ばしつつ、
母国の空港降り立てば、次なる女性がすぐそこに。
いつの間にやら髪伸ばし、人込みの中見え隠れ。
かつて浸った愛の日々。話したことは一度もなし。
帰国の言葉を用意して、心で名前を呼ぶのだが、
なぜか横向きただ笑顔。疑問に思っているうちに、
知らない男が肩を抱き、知らないふりする僕がいた。
男の視線がこちらを刺す。体ぽつねん顔赤面。
苦痛が背中を削り取り、この瞬間にも痩せていく。
上手な英語もどこへやら、悲しいバラード胸を打つ。
それなりのものを得てきたが、それいったい何になる。
空気となって立ち尽くし、変わりなきこと痛感す。
悲嘆に暮れるこの間にも、試練の段取り着々と。
一歩進めば蟻地獄。二度と戻れぬよその国。
さよなら母国、異国の地。こんな自分よこんにちは。
青年に感想はなかった。
帰っていったあとさきは心で見送った。
四本目になる煙草に火をつけて、冷たい銀色をさらしている灰皿で安定させた。
思い通りの人生。
過去のこんなことや未来のあんなことまでも。
青年は艱難辛苦を克服してきた、旅人の風合いすらかもしている。
今日も疲れたなと言ったことにした。
口をつけずじまいだった煙草の火種を落としにかかる。
器用に折り曲げられた指は、どれもしなやかだった。
それもそのはず、
その手はロマンのかけらを乗せたことも、
充実の汗を拭ったことも、
確かな前途を指差したこともなかったのだから。
同時に、ひらひらと振ってみたこともなかった。
せめて今日くらいは、明日でもいつでもいいのだが、さようなら。
ひらひらとさようなら。
青年はカウンターになけなしの小銭を転がして席を立ち、必死に歩き出した
意志意志意志意志、意志のぜんまいと主のあんばい。
時代の移る不安と次第に宿る苦悶。
希望の道と不毛の道。
喜劇の生涯と悲劇の障害。
過去の参入と未来の退出。
早秋の輝きの讃歌と青春の翳りの挽歌。
模索の号令と不吉の天命。
まだまだ終わらず意志意志意志。
ヘイタイサンススメススメ。
分け入っても分け入っても青い山。
生きても生きても人間。
だからだから意志意志意志意志、意志意志意志。
歩くも歩くもたそがれで、走るも走るも行方不明。
それでもそうして……もう帰ろう。
青年はドアを閉めた。壮絶な静寂の心持ちで。
コーヒーカップの底には、砂糖を残していた。
これがプライドってものらしい。
青年は透明になってついてきた幼い娘に態度で示した。
僕もこんな風に好人物になれるんだ。
刹那的なさみしさから自らをそう評価した経験もあった。
でも、軒下を行く青年は役に立たない人間だった。
そんなことも昔から熟知していた。
広い空に星はあまりにわざとらしい。
けれども明日も晴れるのだろう。
立って歩いている青年は、深呼吸したいがために更に立ち上がった。
ああ。秋か。
街角に佇む二十二、三の若者に吹き寄せる風がある。
ほんのりとした花の香りの向こうに誰かの呼び声を聞いた気がして、再び歩き出す。
心なしか満ち足りた背中をして、風の中へ、秋の中へ、そして自分の中へ……。
誰でも一度は夢を見る。
ぼくもいつかはほんとの夢を見る。
たぶんもっと年を重ねた頃に、
夢という言葉を忘れた終末に、
内緒話みたいな夢を。
「お。帰ってきたか」
夜更かし中の団子虫は、黒光りを奪われた体で伸びをしつつ、痩せたシルエットを出迎えた。
「おやおや。今日はまた、ずいぶんといろいろあったようじゃないか。え?」
青年は前かがみでさっさと通り過ぎていく。
団子虫のありなしの首は右から左へねじ回る。
煙草のけむりだけが、コミュニケーション欠如の埋め合わせにもやもやと。
「なんだいなんだい。もう行っちまうんかい。んじゃ、わしゃもうひと休みするかな。なんにもいいことありゃしないしな。おっとっと」
ひしゃげた吸い殻が綺麗な非線型写像を描いて、団子虫の近所に落ちた。
「ま。あんまり無理しないようにな」
吸い殻をよけた団子虫は、雑踏に消える背中を見送ってから、住みかに帰っていった。
にわかじみた寒さに、青年は普段着の襟を立てた。
人込みを抜けた辺りで、不意に無表情を起こした。
今日も長い長い眠れぬ夜が待っていることを、おでこの薄皮で感じ始めた。
それらしく(完結)