近ごろマジに ムカついたこと

近ごろマジに ムカついたこと

近ごろマジに ムカついた こと
                           
 数週間前の日曜日のこと。長編を一作やっとの思いで書き上げた私は、カミサンと一緒に息子の車で『仔猫・仔犬の里親探し』という催しを覘きにいってきた。飼い主から何らかの事情があって手放されてしまったペットたちに、新しい飼い主を世話する集いである。
 会場は何とか言う寺の駐車場にテントが二張り設けられ夫々に一つずつボランティアグループが各自持ち寄った仔犬仔猫を提示している。ケージに入れられたペットたちはどれも綺麗に身支度されて健康そうで可愛らしい。早く引き取ってくださいとでも言わんばかりに、ケージの中からこちらを見上げている。
 システムはと聞くと、気に入った子がいたら申し込みアンケート用紙に家族構成やら家の様子やらを記入して、会に出展したボランティアの方に提出してくれと云う。会が終了後、ボランティアグループで集計し、人気があって複数の申し込みがあったペットについては、アンケートの内容によりその子が一番幸せに暮らせそうな里親を決めるということだった。そんなものかなあとなんだか釈然としないまま、それでも可愛らしいシーズーの雌がいたので申し込んだ。一両日中に結果を連絡するというので、了解して会場を後にした。

 子供の頃林檎箱や蜜柑箱の中に入れられて、やっと目が開いたばかりの仔犬や仔猫たちが近所の公園などに放置されていることがあった。体を寄せ合ってミゥミゥ鳴いている幼気(いたいけ)な姿を見ているうちにじわじわと愛おしさが募ってくるのである。あまりの可愛さについ抱きかかえ連れ帰っても親の答はいつも厳しいもので「飼えるわけないじゃないの!今すぐ戻していらっしゃい!」と叱られるのが落ちで、下手をすればこちらのほうが林檎箱に入れられて捨てられかねないほどの剣幕だったので、泣きながら捨てられていた公園まで戻しに向かったものである。
 そんなことがたびたびあったような記憶がある。確かに今でこそ『古きよき時代』などと云われる昭和30年ころから40年にかけて、私が住んでいた函館山周辺の住宅地には野良犬や野良猫が多かったかもしれない。自分で飼っているわけでもないのにどの家でも食事のあと残飯やら何やらを庭先などに出して与えていた。ノラくんたちもその恩義に応え、町内に不審な者などが入ってきたりすると積極的に吠えて急を知らせたり、追い払ったりした。共存共栄と云えば大袈裟だが、その時代の原風景の一部として溶け込んでいたように思う。
 もちろんそのような風潮を肯定するものではない。事故や病気なども増加するだろうし、社会的にも衛生的にも好ましくないのは当然のことだ。
これはあくまで私のイメージであるけれども、巷にノラくんたちの姿が少なくなったのは東京オリンピックが開催された昭和39年頃からではないだろうか? 国際社会への仲間入りを目指して地方自治体が管理に力を入れ始めたと考えれば、あながち間違いではない気もする。以来、町中をうろついているノラ犬・ノラ猫の姿はめっきり減った。昭和50年代前半まで続く高度成長期に芽生えた所謂『一億総中流階級意識』はその後も、実質が伴っているか否かに関わらず、定着して動物に対する基本的な接し方も以前とは異なるものとなっていく。飼い主もなく町中をうろつき餌を漁るノラ犬やノラ猫は許されずに捕獲処分され、代わって愛玩のためのペットたちが安住の地を得るようになるのである。
 酷いようだが当時は確かに野犬による事故も多く、その防止や衛生管理のために野生化した犬や猫を捕獲処分したことは、人間社会の向上という見地に立てば止むを得ないことだったのだろう。
 ただしこの意見はあくまでも過去形である。愛玩動物が主流となり、その他はほとんど見かけなくなったはずのこの社会において、今もなお行き所をなくし処分される動物が多いのは何故だ? 最近でも年間犬猫合わせて30万匹が処分されていると聞く。昭和の時代と比べて環境も経済も遥かに向上している現代社会において、これは許されることではない。
 飼育放棄されたペットは、届出さえすれば行政が引き取ってしかるべく処理をすることになっている然るべき処理とは云うまでもなく殺処分のことと考えてもよいだろう。行政が引き取るというシステムなどがあるから安易な飼育放棄が発生するといえるかもしれないが、きっとなければ無いでまた昔のように捨て犬捨て猫が増えることになるのだろう。だから決まっていることはもはや仕方のないことと受け入れて、今後の方策を検討するしかないだろう。
 では飼い主がペットを手放さなければならなくなったのは、いったいどのような要因によるのだろう。以下は神奈川県に提出された引取申請書に記載された飼育放棄理由の主なものである。
*世話ができない  *飼いきれない  *飼主の死去  *日常生活に支障をきたす *飼主高齢のため  *病人あり *母の痴呆がひどい *親の面倒をみるため    
*子どものアレルギー  *小さい子どもがいる  *孫が喘息になり飼えなくなった   
*一戸建てでなくなる  *引っ越し先が公団  *飼主が入院  *独り暮らしで不在 *飼主入退院繰り返し散歩不可能  *年金生活で犬を入院させられない
 どれもこれもまったく自分勝手で、端から動物を飼う資格など何処にも無いと言いたくなるものばかりではないか。ここに挙げられたような、『始めに飼育放棄ありき』の安直な考え方をすること自体可笑しいのであって、どうしたら飼育を続けることができるかが最も重要なことのはずである。
 だから犬にしても猫にしても平均的には10年~15年は生きるわけだから、その長い年月を家族としてともに暮らす覚悟と計画がなければペットを飼う資格など無いと考えるべきなのだ。
 世話ができない、飼いきれない。――それなら飼うな。
 将来ペットを飼えない所に引っ越すかもしれない。いつか親の面倒を見るようになると 経済的に苦しい。不妊手術や予防注射に金がかかりすぎる。――ペットは飼えません。
 こんな風に割り切って考えるべきなのである。十数年間という長いスパンで精神面金銭面の両面ともクリアできること。これがペットを飼育する上での最低限の責任なのである。

 さて、里親探し会の話の続きだが、翌々日電話が入った。その内容は、残念ですが今回は他の方に決まってしまいました、というものだった。正直言って私は少しがっかりした。
折角見つけた可愛い子犬が他へ行ってしまったということに対してではない。里親探しのシステムについてである。
 ボランティアの方々が愛玩動物たちの命を護るためになされているこの仕事は、確かに重い責任を負った大変な仕事であろう。しかし里親になろうとする人間まで干渉すべきでは無いと私は感じるのである。里親探しの会に足を運ぶ者は夫々がペットを飼育するための責任を自覚した上でやってくるのだ。里親を待つ仔犬仔猫たちがだれに貰われていこうが、ボランティアの方はもはや無関係のはずなのだ。その場で先着順で引き渡したって、なんら変わることも無いであろうに……
 渡すほうも貰うほうも善意の中で行われるはずの集いであろう。その中で貰うために集まった人々が何の根拠もなくランキングされているということで不愉快である。
 各個人の年齢とか家の条件とか、果ては家族構成まで、調査して決定する権限などボランティアの方にあろうとは思われない。むしろ基本的人権の侵害ではないかとさえ思えてくるのである。
 最近マジにムカついたことである。
2012・6・14

近ごろマジに ムカついたこと

近ごろマジに ムカついたこと

引き取り手の見つからない仔犬や仔猫の『里親探し・譲渡会』というものが各地で開かれているようです。 それらのひとつを覘いてみました……

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-06-15

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