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花が咲く頃に
序章「最後に君へ」
たった一度。
最初で最後の恋だった。
我が愛しき姫。
初めて手にした優しく暖かい姫は、光を知らぬ自分に眩しいくらいのそれを与えてくれた。
姫の楽しげな明るい笑い声を聞くのが好きだった。
少し不満そうな声も、泣き声も。
そう、姫の全てが。
けれど。
自分には、過ぎた花だったのだ。
それを、いまさら思い知らされる。
だから、姫。
今、あなたに贈ろう。
最初で最後のあなたへ。
この歌を……。
†*†
かぎりなき
君がためにと
折る花は
時しもわかぬ
ものにぞありける
《訳》
限りないあなたのためにと折る花は、季節など関係なしに咲く花でした。
(古今和歌集巻第十七・八六六番より)
一章ー壱「依頼主はお姫様」
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肌を掠める、温かく柔らかな風。
暦は卯月。
すっかり寒さも和らいだ平安の都は、見る者の目を奪うほど美しい桜の淡い色で彩られていた。
その平安京の七条大路付近に、どこの大貴族が構えたのだろうと思わず身構えてしまうほどの豪邸が存在する。
手を伸ばしても届かないほど高く組まれた豪邸を囲む白い塀。
それから時折風で溢れてくる淡い薄紅の花びらは、庭に植えられた桜の木のものだ。
庭には、小舟が浮かべられるほど大きな溜め池。
その上を跨ぐように掛けられた赤い反り橋。
水面に浮かぶ桜の花びらが、なんとも美しい。
暖かく心地いい日差しの当たる豪邸の簀子の上に広がっているのは、鴉濡れ羽色の長く艶やかな髪。
すっと通った鼻梁に綺麗な曲線を描く眉。
真っ白な肌の上に着ている鶯色の狩衣はみっともなく着崩されている。
ごろりと横になって夢見心地の彼は、二十一歳ほどだろうか。
「………ず……平算!」
どすっ。
鈍い痛みと共に、枕の代わりにしていた腕が思い切り蹴飛ばされてしまった。
頭を支える物がなくなってしまったため、これまた派手な音をたてながら、したたか後頭部をぶつけてしまう。
「いっ……てぇ……」
痛む後頭部を撫でながら、むくりと起き上がって背後を振り返った。
彼は、安倍平算。
その名の通り、平算は稀代の大陰陽師・安倍晴明率いる陰陽一族、安倍家出身だ。
とはいえ、彼は家業である陰陽道を継いでいない。
元服と共に安倍家を出て、それからずっとこの豪邸で暮らしているのだ。
「ちょっと、なに油売ってるのよ。
仕事よ仕事、早く目を覚ましなさいったら」
呆れ混じりの声で畳み掛けるのは、十七歳の娘。
赤の袙に、紫匂の襲。
肩から背中にかけて長くたっぷりとした黒の髪が流れ、腰を過ぎた辺りで軽く結われている。
肌はきめ細かくつややかで、真っ赤な紅をさした小粒の唇がなんとも鮮やかだ。
少し吊り上がった眉が、彼女の気の強さを表しているようで、どことなく清々しさを感じてしまう。
彼女は菖蒲。
この豪邸の掃除から食事の支度、衣の管理を全て任される、いわば女房のような役目を一人せっせかと確実に果たしてくれる働き者だ。
「だからって腕を蹴飛ばすなよ、菖蒲」
「呑気に昼寝にかまけてるからよ。
依頼主が来てるんだから、早くなさいな」
口調も容赦なく告げ、顎で奥の間を指した。
そこは、仕事を依頼してくる者達を接待する、客間。
平算はしばらくそちらを見つめ、がりがりと頭を掻きむしる。
「もう来たのかよ……指定した時間はまだ先だってのに」
確か、指定したのは昼、未の刻だったと思うのだが。
今は午の刻。
まだ一刻ほど時間に余裕があるというのに。
「ほら、とりあえず狩衣くらい整えなさいよ、みっともない」
おかしいなぁ、伝えた時刻を間違えたかと首を傾げる平算を、菖蒲は無理矢理立たせる。
そして、着崩された平算の狩衣を整え、ばしっと気合いを入れるように背中を思い切り叩いた。
「よし、さっさと行ってきなさい」
「わかった、わかったから叩くんじゃねぇよ」
ばしばしっと何度も容赦なく背中を叩く菖蒲に、平算は目を眇ながら歩を進める。
客間に待っているだろう、今回の依頼主は高貴な姫。
姓を源融流嵯峨源氏。
先の左大臣、源融を祖に持つ父の次女である。
「姫、遅くなりまして申し訳ありません」
平算は客間の手前、簀子の上で膝をつき、出遅れた詫びを請う。
その隣には、恭しく頭を垂れる菖蒲の姿もあった。
「いいえ、わたくしの方こそ早く来すぎてしまって……。
ご迷惑をお掛け致しました」
客間の奥、御簾で覆われたそこから、僅かな布擦れの音と混じり涼やかで耳に心地よい声が掛けられた。
一章ー弐「平安京裏組織蟄龍衆」
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とても穏やかで人当たりのよい、礼儀正しい姫だ。
普通のやんごとなき姫君であるならば、遅いだの役立たずだの罵声を浴びせただろうに。
しかし、ふと平算は辺りを見回した。
足りないと、思ったのだ。
血筋確かな源氏の姫であるはずなのに。
護衛はおろか、身の回りの世話をするはずの女房の姿もない。
一人で静かに、この客間にいるのだ。
不審がる平算の様子からなんとなく察したのだろう、姫はくすりと柔らかく笑った。
「わたくしは、周囲からあやかし姫と呼ばれております。
ですから、あまり人が寄りつかぬのです」
「あやかし姫、で御座いますか」
聞き返した平算に姫はえぇ、と頷く。
「わたくしの周りには、とても不思議な事が起こるのです」
「一体、どのような?」
「元安倍氏である貴方様であるならば、おわかりでしょう。
沢山の魑魅魍魎達が起こす、怪奇です」
「それはまた……」
大変だな、この姫様は。
平算は思わずぼそりと呟いた。
魑魅魍魎達が起こす怪奇。
それは。
誰もいないはずなのに足音や声がする。
勝手に蔀や妻戸が開け閉めされる。
または階段やちょっとした段差から突き落とされたなど、実に様々である。
「ここに来れば、なんとかしてもらえると父上から聞いたものですから……。
まずは相談を、とこの蟄龍衆へ参ったのです」
「姫自ら、遥々この蟄龍衆へ……?」
それはまた、意外にも行動力のある姫のようで。
さすがは、武家生まれの姫なだけあって、少し遠いくらいの外出も苦にはならない忍耐力は持っているようだ。
平算は表面上は平静を保ったまま、内心でそう感嘆しながら呟いた。
その姫が呟いた、
《蟄龍衆》
という存在はというと。
表界、政を司るそこから排除され、居場所をなくした者達が最後に行き着く場所。
いわば、光を失い、拾われた闇に恩を尽くし生きることを定めとしている者達が集まる裏界の名称。
正式名を、
《平安京裏組織蟄龍衆》
裏界最強にして覇者、この至高の冠をほしいままに頭領として君臨するのは、平算である。
確かに、この蟄龍衆は実に様々な部門に特化した奴らが存在していて、陰陽師も多数抱えていたりするのだが。
しかし、疑問が一つ。
何故ゆえ、表界の正式な由緒正しい陰陽師に頼まないのだろうか、この姫は。
表界の陰陽師達ならば、もっと至れり尽くせりで対応してくれただろう。
それに、この蟄龍衆は裏に属する場所。
裏には、表の常識は通用しない。
貴族だから、姫だからこう接しなくてはならない、という規則は裏では非常識にあたるのだ。
そのようなことを裏界・蟄龍衆で発すれば、皆がどんな行動に出るのか、想像に難くない。
一方表は、自分よりも遥かに高い地位にある者には基本、逆らわない。
逆らえば地位を剥奪される。
だから、逆らわない。
それが、表界を生きる賢い選択であるのだから。
花が咲く頃に