Whisper of Owdin〜オーディンの囁き〜

Whisper of Owdin〜オーディンの囁き〜

目を凝らせ。耳をすませ。
この森では決して隙を見せてはならない。

森の亡霊

木々の隙間を縫うように朝日が差し込むと、深い森は陽光に照らされて姿を変えていく。高くそびえる老木は葉を茂らせ、幾重にも重なり合った枝葉が空を隠していた。霧は深いが、足元が見えないほどではない。
 夜明けとともに、むせるような土の匂いが漂い始める。地面に積もった枯葉は湿っており、獣道を踏み鳴らす蹄の音を殺した。

 忍ばせの森に入って2日。オーディン教団の先陣隊は、緑深い森をひたすらに進んでいた。

 先頭を行く馬上の男は40代半ばで、名をアデル・ゾーイと言う。美しく彫刻の施された銀色の鎧と背の長剣が、わずかに差し込む朝日を反射してキラリと輝いた。森の奥にある砦を目指して国を出たのは4日も前だか、隊を指揮する動きに疲れは見えない。
 アデルの後ろには、屈強な体躯の老いた槍兵が続く。見事な口ひげを蓄えたこの男、名をボイル・コトーと言う。かつて先鋭部隊を指揮したこともある兵士で、60を超えた今でも、その腕に衰えはない。
 ボイルの後ろには馬に乗った4人の剣士が続き、さらにその後ろには6人の歩兵。どれも若い兵士だ。
 歩兵の最後尾には、若馬に乗った弓兵が1人いたが、新馬に手を焼いているようで、遅れを取りがちになっていた。ボイルはそれに気付くと、しゃがれた声でたしなめる。
「おい、しっかり歩かせんか」
 老兵の声は通りが良く、最後尾の弓兵にもその苛立ちが伝わった。
「すみません、先ほどからどうも落ち着きがなくて」
 弓兵は馬の歩みを整えようと、手綱を左右に引いた。しかし、なかなか言うことを聞かない。ボイルが、ため息交じりに言葉をつなぐ。
「獣道を知らん若馬を使うからだ」
「しかしボイル様、もう夜通し歩かせました。他の馬も息が乱れておりますし、歩兵も疲れています。少し休ませた方が...」
 ふと、先頭を行くアデルが口を開いた。
「足を止めてはならん」
 振り返らず、前方を指さして続ける。
「ここは見晴らしが悪い。老木の群れを抜けるまでは、長く留まらぬ方が懸命だ」
 弓兵の乗る馬が激しく首を振り始めた。何度も(いなな)いて歩みを乱す。ボイルは、ついに声を張り上げた。
「教団員ともあろう者が!馬もまともに扱えんのか!」
 弓兵はビクリと肩をすぼめた。
「すみません...しかし夜明け頃から様子がおかしいのです。獣の声に怯えているのだと思いますが...」
 馬上でやりとりを聞いていた剣士たちが、「頼りない奴め」と弓兵を笑った。
「馬は乗り手の心持ちに動かされるものだ」
「貴様、亡霊の迷信に怯えているのであろう」
 馬に振り回される姿を見て、歩兵たちも小さく笑っている。弓兵は、眉をひそめて言い返した。
「亡霊など迷信にすぎませんよ」
「どうかな。この森は、かつて異教徒が処刑された場所だ。首なしの僧侶やら血の涙を流す女やら、夜になると現れるらしいぞ」
「森の奥に足を踏み入れた者は、神隠しに合うと言われている。亡霊が森を操って人を喰らうそうだ」
「人を喰らう...」
 青ざめた弓兵を見て、剣士たちがケラケラと笑った。
「案ずるな、俺たちが守ってやる」
 
 ふと、アデルが手綱を引いた。それに習って、隊は歩みを止める。
「いかがなされた?」
 ボイルが尋ねると、アデルは短く答えた。
「人の気配がしないか?」
 ボイルは(いぶか)しげに耳をすます。しばらく周囲をうかがい、しゃがれ声で答えた。
「確かに、何やら視線を感じますな。いつの間に近づいたのか...賊でしょうか?」
「もし賊ならば、とうに手を出しているはずだ」
「金目当ての貧族が潜んでいるようですが、まさか国の隊にまで手を出すほどではないでしょう。襲ってきたとて、返り討ちにしてくれますわ」
 アデルは「うむ...」と小さく呟いた。
 
 その時。
 
 隊の頭上で、野鳥がけたたましく鳴き始めた。その声は徐々に大きくなり、幼子の悲鳴のように響き渡る。不気味なほどに静まり返っていた森が、一瞬で異様な空間に姿を変え、若い兵士達は思わず肩を震わせた。
 突然、アデルは背の長剣に手をかけて、ボイルに呼びかけた。
「殺気だ、近いぞ」
 ボイルも反射的に槍を構えた。
「...先ほどとは比べものにならんほどの気配ですな」
 ただならぬ緊張感が漂う。戦の経験を持つ先頭の2人は、険しい表情で辺りを見渡した。
「何か見えますか?アデル様」
「いや、しかし感じる」
 無数の木の葉や野鳥の羽が雨のように降り注ぐなかで、2人は老木の群れに目を凝らした。鋭い視線を感じるが、人らしき影を捉えることはできない。

 野鳥の群れはひとしきり騒いだ後、やがて荒々しい羽音を立てながら飛び去って行った。
 
 静寂が戻ると同時に、怪しげな気配が消えるのを感じると、アデルは小さく息をついた。
「気のせいか...」
「消えましたな」
 ボイルは槍を短く持ち替える。
「野犬か狼が様子を伺っていたのやも知れません。何せ2日もろくに眠らずじまいですから、我らも神経が高ぶっているのでしょう。砦に着いたら、まずは酒でも煽りましょうぞ」
 ボイルは緊張を解くと、大きく首を回した。
 ふと、アデルは目の前を舞う羽に目を留めた。黒と白の縞模様で、他の羽に比べてひときわ大きく鋭い。風に泳ぎながら、その羽はアデルの乗る馬のたてがみに落ちた。
「鷹の羽だ」
「ほう、珍しいですなぁ」
「...砦からの伝書に『鷹』の記述がなかったか?」
「あぁ、そう言えば。『砦の鳩が鷹に怯えてうまく飛ばぬ』とありました」
「では、砦に近付いていると言うことか」
 アデルは羽を投げ捨てると、連隊に向かって声をあげた。
「砦は近いぞ!あと少しの辛抱だ!」
 指揮官の言葉に、兵士たちは安堵の表情を浮かべた。
 
「なぁ、亡霊とは何のことだ?」
 歩兵の1人が、隣の男にボソリと尋ねた。
「知らんのか?先代の国王が幼少の頃に、異教徒が反乱を起こしたらしい。オーディン教団が、貧民街の協力者もろとも捕らえて処刑したそうだ。この森でな」
 話を聞いて、後ろの歩兵も加わる。
「その話なら俺も聞いたことがある。数百人が斬首されたのだろう?教団幹部に首謀者がいたせいで、数人の王族も犠牲になったとか」
「そうらしいな。国王は疑わしい人物も裁きなしに処刑したそうだ。家族も国を追われ、森でのたれ死んだらしい」
「その処刑場が、この『忍ばせの森』か」
「あぁ、どこかに首塚があるらしいが...やはり気味が悪いな」
 歩兵達は、深い森を見渡して身を震わせた。
 
 刹那。

「!!」
 鋭く風を切る音が聞こえた。途端、アデルは肩口に鋭い痛みを感じ、思わず身を崩した。不意に手綱を引かれて、馬が苦しげに(いなな)く。
「アデル様?!」 
 ボイルは急いで馬を降りると、指揮官のもとへ走った。馬上でうずくまるアデルの身を起こすと、その右肩に目を止めて息を飲む。
 鎧のつなぎ目に、金色の短剣が深く突き刺さっていた。ボイルが思わず手をかけるが、アデルは「抜くな!」と叫んだ。
「抜いてはならん...!血が噴き出すやも知れん...」
「しかし!」
 兵士たちも、アデルの異変に気付いて口々に叫び始めた。
「アデル様?!」
「刺客だ!」
 隊は素早く円陣を組み、アデルを囲んだ。ボイルも腰をかがめ、槍を構える。しかし1人として刃先が定まらない。
「見当たりません!」
「上か?!」
 弓兵は弦を引き、茂る枝の陰に刺客を探した。
「何も見えません!」
 じわじわと広がる鈍い痛みに、アデルは顔を歪ませた。傷が深い。右腕が痺れ始め、熱を帯びていく。傷口から流れ出る血が、鎧の中を滑っていくのがわかった。何度か短く息を吐くと、アデルは手綱を握り直した。
 刺客の姿が見えなくては、たとえ連隊と言えども不利だ。短剣は前方から飛んできたように思えたが、この急襲にはさすがのアデルも面食らった。姿を隠したままで、鎧の隙間を仕留めるほどの相手ならば、こちらが動きを止めるのは危険ではないか...。
 迷っている暇はない、アデルは痛みで声を震わせた。
「このままでは狙い撃ちだ...皆を馬へ戻せっ...走るぞ!」
 ボイルは急いで馬へ戻ると、隊に向かって声を張り上げた。
「馬に戻れ!歩兵も乗せろ!お前はワシの後ろだ!走るぞ!」
 剣士が一様に馬へ戻ると、歩兵も慌てた様子で相乗りする。けたたましい蹄の音を響かせ、隊は一斉に走り出した。
 アデルが叫ぶ。
「砦が見えるまで止まるな!」
 ボイルもそれに続けて叫んだ。
「敵はワシらを捉えておるぞ!決して止まるなよ!」
 地響きを立てて獣道を切り進む。そびえ立つ木々は、まるで川のように横を流れていった。見えない刺客から逃げる恐怖に溺れ、皆は鬼気迫る形相で走り続けた。
 枝葉が当たり、皮膚が裂けた。身を屈め、ひたすらに手綱を振り下ろす。馬が泡を吹いた。

 どれぐらいの距離を走り抜けたか。深く多い茂る老木に変わって、青い若木が群れ始めた。遮られていた日の光が、地面に伸びていく。
 もうすぐだ、もうすぐ森が切れる。砦まで行けば敵を迎え撃つこともできよう。安堵したアデルは顔を上げた。
 すると。
 突然、7頭の馬が暴れ始めた。上下左右に首を振り、激しく足を踏み鳴らす。
「どうした?!」
「これ!静まらんか!」
 高い(いなな)きを繰り返し、一向に前へ進もうとしない。
「何だ!何に怯えている?!」
 隊の動きが止まった途端、何の前触れもなく強い風が吹き上げた。連隊を囲むように渦を巻き、枯葉や土埃が舞い上がる。とうとう馬は乗り手を振り落とした。狂ったように走り出すと、やがて森の奥深くへ消えて行った。
「くそ!何だこの風は!」
 地面に叩き落とされた兵士たちは、慌てて体勢を立て直した。アデルはすかさず「円陣!」と号令をかける。
 円陣を組み、一様に武器を構えた。しかし風は止むどころか、どんどん強さを増して行った。巻き上げられる土埃で、視界が奪われる。
「がっ...!」
 突然、短い叫び声と共にアデルの体が宙に浮いた。まるで釣り人形のように、隊の頭上をかすめていく。兵士達は悲鳴を上げた。
「アデル様!!」
 ボイルが叫んだ。
「足をつかめ!足だ!」
 皆が一斉に腕を伸ばすが、アデルの体はそれをすり抜けるように森へ吸い込まれて行く。悲痛な叫び声が響いた。
「助けてくれ!ボイル!止めてくれ!」
「アデル様!アデル様ぁ!!」
 隊の目の前で、アデルの体は頭上高く舞い上がり、多い茂る枝の中へ消えて行った。姿が見えなくなってもなお、悲痛な叫び声だけが聞こえる。
「ボイル!_ボイル..._助け__」
「くそっ!何が起こっているんだ!」
「アデル様はどこだ?!」
「ボイル様!どうすれば?!」
 旋風に行く手を遮られ、隊は身動きが取れなかった。
「どうすれば良い?!どうすれば!」
 ボイルは槍を握りしめ叫ぶ。
「うろたえてはならん!円陣を崩すな!」
 巻き上げられる無数の葉、土埃。まるで意志を持っているかのように、身につけた防具すら剥ぎ取らんばかりの勢いで旋風が襲いかかる。
「くそっ!くそっ!」
「ボイル様!」
 若い兵士達の恐怖は頂点に達していた。
「離れるな!離れるなよ!」
 ボイルは懸命に目をこらすが、そばにいる兵士たちの姿すら、土埃に霞んでいる。
 その時、目の前で何かが動いた。
「誰だ!!」
 ボイルの槍先が怪しげに浮かぶ影を捉える。白く細い人影が、ぼんやりと風の中に直立していた。若い兵士たちは腰を抜かさんばかりに驚く。
「ぼっ...亡霊だぁ!」
 弓兵が叫んだ。
「亡霊が出た!」
「阿呆!何を恐れておるか!構えっ!」
 ボイルの号令を聞いて、兵士たちは白い影に刃先を向けた。
 影の動きを見逃すまいと、皆が必死に目を開いた。土埃で涙が溢れる。
「グラディア国!オーディン教団先陣隊!ボイル・コトーだ!」
 戦の慣習にならって身分を叫ぶ。
「名を名乗れ!貧族の異教徒めが!」
 ボイルのしゃがれた怒号が響いた。
 3歩だ、あと3歩詰めば良い...長年の勘から、ボイルは素早く間合いを見積もった。槍で腹を突けば封動きを封じ込むことができるはずだ。あとは他の兵士に急所を狙わせれば...。
 無数の刃先に捉えられた影は、しかし一向に動きを見せない。
 構わずにボイルは動いた。利き足に力を込め、一気に2歩足を進めて大股で踏み込む。突き刺した槍が白い影の中心を貫いた。鈍い手応えが伝わる。槍先が肉を裂く感触だ。
「射て坊主!」
 弓兵がすかさず矢を射る。風の壁を切り抜け、ボイルの槍先より上に命中した。
「仕留めたか?!」
 すると。

 突然、風の渦が姿を消した。

「「?!」」

 渦を巻いていた木の葉が、風に揺れながら降り注ぐ。
 まるで何事もなかったように、一瞬にして深い森は穏やかな姿へ戻っていた。ボイルは力なく膝をつき、震える声で呟いた。
「何だ...いったい...」
 槍先が捉えたはずの影が、土埃に溶けるように消えた。的を失った弓が、パタリと音を立てて地面に落ちる。
「仕留めたはずだ!確かに仕留めたはず!」
 若い兵士たちは、激しく肩で息をしながら顔を見合わせた。
「消えたぞ!」
「しかしどうやって...?」
 歩兵たちは、カタカタと鎧を鳴らしながら震えていた。何度も「亡霊だ...森の亡霊だ...」と繰り返す。途方にくれる兵士たちの頬を、穏やかな風が撫でた。
 混乱の中、1人の剣士が頭上に光る物を見つけた。
「ボ...ボイル様!あれを!」
 剣士の指差す先、茂る枝葉の隙間に、消えたアデルの兜が吊り下がっていた。
「アデル様...アデル様ぁー!!」
「ご無事ならばお返事を!!」
「アデル様!!」
 皆の呼び声が、虚しく響き渡る。

 弓兵は青ざめた顔で、うわ言のように呟いた。
「森が...アデル様を喰らった...」

 遠くで、馬の(いなな)きが聞こえた。

出会うべき者たち

「間もなく迎えが参ります」
 下女は教えられた通りに、目を伏せたまま告げた。
 陽光の差す窓際に座る少女に、自分の声は届いたのだろうか。不安に思ったが、彼女に視線を向けることは叶わない。しばらく返事を待つ。
 また1つ、教会の鐘の音が聞こえた。これは3度目の鐘だったかしら?と下女は思った。まだ少女からの返事はない。急がせた方が良いのか、それともこのまま下がった方が良いのか。「お伝え」の役を務めるのはこれが初めてだ。勝手がわからず、考えあぐねる。
「あれは何度目の鐘でしょうか」
 突然少女が口を開いたので、下女は思わず顔を上げた。逆光に照らされた白い姿が立ち上がる。少女は、まっすぐに下女の目を見返していた。
「もっ...申し訳ございません!」
 視線を合わせた非礼を謝った。ふと、少女が笑った気配がした。
「構いません」
 鈴のような声だ。
 ひたひたと、裸足で歩く音が聞こえる。
「巫女様、草履はどうなさいました?お身体を冷やしては...」
「草履の帯が解けてしまったの。結び方がわからなくて」
「では、すぐに世話方様(せわかたさま)をお呼びいたします」
 下女は一礼すると、その場を去ろうとした。少女が呼び止める。
「待って。あの...ライ様は怖い。シュマを呼んでもらえるかしら?」
「はい、すぐに」
 下女は足早に部屋を後にした。暗く長い廊下を進みながら、ふと少女を哀れむ。
(あんなに幼い巫女が...可哀想に)
 すれ違う門徒に頭を下げながら、下女は階下への階段を急ぎ足で降りて行った。

1

 広大なエンダイク大陸の南西部に位置するグラディア国。その周囲を険しい谷と深い森に囲まれ、豊かな資源を誇る国だ。
 他国と比べても歴史は古く、現国王で38代目となる。「神の眠る国」として栄えてきた宗教国である。
 高い山を切り拓いて建てられた白壁の城は、うねりを帯びた細い塔がいくつもそびえ立ち、天に向かって伸びる煙のようにも見える。国土の東に位置しており、朝日が昇ると、その影が数里先の城下まで届いた。
 城壁の外に広がる街は、多くの人々で賑わっていた。「満月の巫女」の誕生を祝い、色とりどりの狼煙(のろし)が上がっている。赤レンガの街道では至る所で祝い菓子が振舞われ、見知らぬ者同士も肩を並べて酒を交わしていた。

 人ごみを押し分けて、馬車の列が城門へ向かっていた。ひしめき合う群衆に向かって御者(ぎょしゃ)の怒号が飛ぶ。
「退け!道を開けろ!」
 物珍しい細工の施された馬車に、野次馬が群がり始める。磨り硝子の窓を覗き込み、中の様子を伺う者もいた。
 客室の中から、主人が尋ねた。
「何を騒いでいるのだ」
 声が苛立っている。若い御者(ぎょしゃ)はヒクリと肩をすぼめた。
「申し訳ございません、レイゲン様。どうも酔うた人間は厄介で...全く無礼な連中です、えぇい退け!」
 ピシャリと手綱を振り下ろすと、馬は激しく首を振って蹄を踏み鳴らした。驚いた人々が街道の脇へ避け始める。
「そらそら退け!退けと言うに!」
 突然、客室の扉が乱暴に開かれた。御者(ぎょしゃ)は慌てて馬車を降りると、主人のために足場を整える。
 中から1人の青年が降りて来た。
「貴様の怒鳴り声の方がよほど気に触るわ。っあ~!」
 大きく伸びをして、硬くなった体をほぐす。
 その奇妙な容姿に群衆がどよめいた。
 背の丈は6尺(180cm)を優に超えている。麻で織られた異国の服は袖も丈も短く、若く逞しい肢体が惜しげもなく晒されていた。幾重にも巻かれた黒い腰帯に、湾曲(わんきょく)した鉄製の短剣が挿し込まれている。

 青年の名は、レイゲン・モース。

 グラディア国の先代、37代国王の落とし子として生を受けた。母親は王族に囲われた妾の1人とされているが、レイゲン本人も実母の素性は知らない。南西大陸に君臨する「ズート族」に人質として差し出され、幼くして(まつりごと)に翻弄された人物である。
 背中まで伸びた金色の髪が、数年ぶりの祖国の風を受けて揺れた。

「そもそも狭い街道に乗り込んだ貴様が悪い」
 青い眼にジロリと睨まれ、御者(ぎょしゃ)は「申し訳ございません...」とうなだれた。
「まぁ良い。おいマニ、歩くぞ」
 客室に向かって声をかけると、もう1人、連れの青年が降りてきた。レイゲンと同じ衣装をまとい、浅黒い肌をしている。歳の頃も変わらないようだ。腰帯と同じ色の布を頭に巻き付けていた。その隙間から、うねりのかかった黒髪が覗いている。
「歩くのですか?」
 明らさまに不機嫌な態度だ。
「5年振りの帰郷だ、早く兄者に会いたい。何だ?その顔は」
「日取りに合わせて国入りすれば、北の馬車道に通してもらえたでしょうに」
「小言を言うな。それに元はと言えば此奴(こやつ)が悪い」
 レイゲンに指を差され、御者(ぎょしゃ)は更にうなだれた。
「あなたが『街道を突っきれ』と言ったんでしょう」
 マニが鼻で笑う。
「気が急いてな。まさか本当に通ると思わなんだ」
「思慮深いお言葉で」
「嫌味な奴だ」
「菓子でも買いますか?白砂糖は好物でしょ_」
 ふと、マニは口をつぐんだ。群衆の中に目を留める。レイゲンも、つられてマニの視線を追った。
「何だ?」
「何やら妙な気配のする者が...あれです、黒頭巾の」
 マニの視線の先に、1人の男が立っていた。野次馬に紛れてはいるが、周囲とは様子が違う。突き刺さらんばかりの鋭い気配、少なくともマニはそう感じた。
 背を屈めているが、年寄りには見えない。頭巾を目深にかぶっているせいで顔が見えず、視線も合わないが、まっすぐにレイゲンを捉えているのがわかる。
「馬車に戻りますか?」
 マニが尋ねると、レイゲンは気だるげに腕を回しながら答えた。
「グラディアの衣装ではないな。賊にしては身なりが良い...随分と俺にご執心のようだ」
 声が弾んでいた。思わずマニはため息をつく。好戦的な主人に振り回されるのは、これが初めてではなかった。
「よし、捕らえるぞ」
「捕らえてどうするんですか?」
「お前は、そうだなぁ...よし、あの横道から露天の屋根に登って、奴の後ろに回れ。俺は正面から行く」
「だから、捕らえてどうするんですか?」
「決まっているだろう。誰に雇われたか吐かせる」
「刺客とは限りませんよ?逞しい太ももが好みの男色かも知れない」
「それはそれで面白い。今宵の相手を探さずにすむではないか」
「思慮深いお言葉で」
「その口癖は嫌いだ」
 レイゲンが足を進めようとしたその時。
 突然、馬車の馬が激しく蹄を踏み鳴らした。2人は思わず視線を移す。御者(ぎょしゃ)が必死で手綱を引いて抑え、しばらくして馬は大人しくなった。
 しかし2人が再び男を探した時、すでに黒頭巾の姿は消えていた。
「どこに行った?」
 レイゲンは眉をひそめた。
夜伽(よとぎ)の相手がいなくなりましたね」
「ふん...肩慣らしに暴れようと思ったが、残念だ」
 大げさに鼻を鳴らすと、レイゲンは大股で街道を進み始めた。マニも少し離れて後に続く。
 威風堂々とした異国人たちに()され、野次馬が道を開けた。どんどん人ごみが割れていく。
 若い御者(ぎょしゃ)は、立ち往生した馬車とともに主人に取り残されてしまい、肩を落として2人を見送った。

2

 北の裏城門は、広大な敷地の極端に位置する。城下から最も離れており、周囲には荒れた岩肌が見えるばかりだ。うねりを帯びた城壁の石はとても古く、苔やツタに覆われている。
 高さは9尺(3m)。他の場所に比べれば幾分か低く積まれており、見張りに立つ門兵もたったの3人だった。
 城門から少し離れた茂みの中に、2人の影が潜んでいた。
 1人は年老いた男で、質素な商人の衣装をまとっている。その隣には、長身の男が静かに立っていた。顔を覆う灰色の長布から、雪のように白い髪がのぞいている。
「ここは、お城付きの兵しか使わない裏口です。少し先に馬車の出入り口がありますが、距離があるので、ここの騒ぎには気付かないかと。当番制で見張りの交代は日に3度、成人したての新兵ばかりです。どうしますか?」
 年老いた男が尋ねると、白髪(しろかみ)の男は「ここで良い」と短く答えた。
「ここから南の中庭までは、およそ半里(2km)。入ってすぐ右に数人の見張り番がおりますが、門兵と同じ長剣を差しております」
「弓兵は?」
「おりません。夜は松明が灯りますが、身を隠す影は十分にあります。表廊下を左手に進んで行くと、左前方に書物庫の丸い塔が見えてきます。そこからは教団員が見張りに。お1人では危険もあるかと」
「1人で良い」
「しかし、もし見つかれば_」
「戻るぞ」
 白髮(しろかみ)の男が、ひらりと身を返した。年老いた男は足をもつれさせながら、慌ててそのあとを追った。

はぐれ者の憂い

 細長い天窓から入る陽光がつま先に届くと、レイジスは、草履から覗く指を動かした。じんわりと日のぬくもりが伝わる。ツンとした、かすかな痛みを感じた。薄い部屋着のままで過ごしていたせいか、彼の体は冷えきっていた。

 レイジス・モース。

 グラディア国先代、37代国王の第1子である。父王の没後に自ら王位継承の座を離れ、父神オーディンに使える教会の信徒へ身を落とした「はぐれ者」だ。王族としての地位は高いが、(まつりごと)への影響力はないに等しい。
 城の北側にある書物庫は、明るくとも不気味さが拭えなかった。教会の鐘は、微かだがこの部屋にも聞こえてくる。6度目が鳴り終わる頃に、レイジスはようやく古文書(こぶんしょ)を閉じた。古い本に触れた手は埃で(すす)け、はたくと白い埃が顔にかかった。
「探し物は見つかりましたか?」
 書物庫の入り口に控えていた男が尋ねた。レイジスは振り返り、「あぁ、いたのか」と微笑んだ。
「朝から姿が見えないと門徒が慌てておりましたから、ここかと思って様子を見に」
「いつからそこに?声をかけてくれれば良かったのに」
「一心に読みふけっておいででしたので」
 レイジスは、「それはすまなかったね」と笑みを深めた。
 男は足音も立てず、レイジスへ歩み寄った。高官の黒法衣をまとっており、腰には司教の証である「百日帯(ひゃくじつおび)」が結ばれている。王族付きの占術師が百日かけて祈りを捧げた、神聖な絹帯だ。
 長い法衣の裾が、男の動きに合わせて揺れる。
「祝儀用の法衣は初めて見たなぁ。とても似合っているね、ジマ。あなたは背丈があるから、優雅に見える」
「ありがとうございます。それで、何か見つかりましたか?」
「別に調べ物をしていたわけではないよ。ただ、古い文字を読むと心が落ち着くから」
「何か探しておいでなのかと思って、待っておりました」
「そうなのか?祝儀の支度が嫌で隠れているのかと思った」
「よくお分かりで」
 ジマと呼ばれた長身の司教は、ニコリともせずに答えた。冗談なのか本気なのかは読み取れないが、レイジスは笑った。
「さて、そろそろ着替えようかな」
 古い椅子を軋ませて腰を上げると、分厚い古文書を数冊抱え、1番近い棚に収めた。肩にかかる金色の髪が陽光を受けて輝く。
 ジマは、しばらくレイジスの様子を伺っていたが、小さく息を吐いて尋ねた。
「ひとつお伺いしたいことが」
「何だい?」
「レイジス様は、満月の継承をどうお考えで?」
 レイジスの口元には、まだ先ほどの笑みが残っている。しかし、目には困惑の色が浮かんでいた。
「今更それを聞くのか?」
「えぇ」
 レイジスは、しばらく考えを巡らせた。
「どう言えば良いか...王は、力を渇望しているんだ。民ならず教会までも、未だに先代を偲んでいるのが不満なのだろうね。見えない影に怯えるのは、国王の常だ」
 レイジスは、棚に並ぶ古文書の背表紙を、細い指でそっと撫でた。ふと、病に伏せた亡父の顔が浮かんで、思わず目を閉じた。呟くように言葉をつなぐ。
「歴代の王は皆、信仰の象徴となる存在だった。亡父もそうだ。このグラディアが神の加護にあると、国王こそが神の化身だと、誰も信じて疑わなかったんだ。なぜだと思う?」
「...戦ですか」
「そう。どの王も、大きな戦を勝ち抜いてきた。だが現王にはその経験がない。そのせいで、王の存在を軽んじる者もいるだろう?もちろん高官の中にも、ね」
 ふと、ジマが目を伏せた。声に出さずとも、レイジスにはジマの心が手に取るようにわかった。彼も、現王に敬愛の念を抱けない高官の1人なのだ。
 かつてはその手で教団を率いた屈指の剣士が、現王から司教の役を命じられたのは3年前。剣を奪われ、国を出ようとしたジマを引き止めたのは、他でもないレイジスだった。
「王は、巫女の伝説を足杖になさるおつもりなのですか?」
 ジマは、相変わらず目を伏せたままで尋ねた。
「金眼の巫女が現れたのは150年ぶりだ。これを機に、王は自らの存在を知らしめたいんだと思うよ?それが伝説だとしてもね」
「しかし、王がツキヨミの予言に固執するあまり、事を急いていると懸念する者も少なくありません」
「そう言えば...1年前、忍ばせの森に砦を建てたとき、お前はひどく反対したね。『畏怖の念を持って扱うべき場所だ』と」
「歴史を軽んじる行為だと申しただけです。あの森には、歴代の王も手をつけなかった。それに、ツキヨミは強欲な預言者だ。あの老婆の言葉には毒がある。あなたもお気付きかと思っておりましたが」
「たとえ気付いたとしても、私に何ができる?」
「王へご助言をなされば良い。仮にも先代の忘れ形見なのですから、あなたの言葉には耳を傾けてくださるのでは?」
 レイジスは、複雑な笑顔を浮かべて深く息をついた。
「ここだけの話だが、叔父上には『巫女の成人まで待つように』とお願いしたんだ」
「それで、王の返事は?」
「さぁ、いろいろ言われたけど。『卑怯者の分際で』とか何とか...私は嫌われているからね」
「...なるほど」
 レイジスは天窓を見上げた。ジマもつられて上を見る。青く澄んだ空に、綿のような雲が泳いでいた。

巫女

1

「『満月の巫女』ですか?」
「あぁ、そうだ」
 酔った民の群れで賑わう街道を、レイゲンとマニは城門へ向かって歩いていた。
「金の眼を持つ巫女が満月を迎えると、太陽神が目覚めると言う伝説さ」
 レイゲンは、マニが露店で仕入れた祝い菓子を頬張りながら話した。口の周りに白い砂糖の髭をたくわえている。
「その『満月を迎える』とは、何のことです?」
女子(おなご)の『印』だ。子を産める体になったと言うやつだ」
 嘲笑するように顔を歪めながら、言葉を繋ぐ。
「金眼の巫女が幼い頃から城の奥で育てられていたそうだ。教会は、巫女の話が異教徒の耳に入るのを恐れるあまり、王族にも知らせずに存在を隠し通したのだろうと、兄上の(ふみ)に書いてあった」
「誰にも知られずに...何やら絵空事のように聞こえますね。その巫女がそんなに特別なのですか?」
「金眼の巫女と王が契りを交わすと、父神オーディンが国に加護を与えると言う伝説がある。俺の高祖母(こうそぼ)にあたる巫女が金眼の持ち主だったが、その頃のグラディアは奇跡を起こす国として他国に恐れられていたそうだ」
「それなら、祖父から聞いたことがあります。グラディアに攻めこもうとした国が、森で神隠しや疫病に遭ったそうですね。教団と剣を交えるどころか、城を目にすることもなく逃げ帰ったとか」
「グラディアの北にある『忍ばせの森』が侵略者を喰らうのだ。全ては神の成せる技らしい。幼い頃、あの森に足を踏み入れて、父上にひどく折檻(せっかん)されたことがある」
 レイゲンは鼻を鳴らした。
「あなたは信じていないのですね」
「何を?」
「巫女の力を」
「俺は目に見えんものは信じないタチでな。第一、神が偉大な存在ならば、小国の行く末など案じると思うか?他国の侵略を防ぐのは、伝説ではなく剣だ。現王も教団も、古い迷信を足杖に権力を握っているが、しょせん道化者の集まりにすぎん」
 レイゲンの顔には、あからさまに軽蔑の色が浮かんでいた。マニは思わずため息をつく。
「どうお考えになろうとご自由ですが、城の者には聞かれないようにしてください」
「思ったことを口にするのが俺の良いところだろう?」
「揉め事の元です。もし王族との繋がりを失えば、あなたの立場も危うくなりますよ?人質としての価値がなくなれば、嬲り殺されて砂漠に捨てられるか、あとは...そうですねぇ、西の国に売り飛ばされて見世物にされるか...ふむ、奴隷市ではいくらで競り落とされるでしょうか?青い眼に金の髪ですから、やはり多少は...」
「よくしゃべるなぁ!」
 子供のように口を汚したレイゲンを、ふと数人の女たちが指差しながら笑った。マニは(ふところ)から手ぬぐいを出すと、主人の顎をつかみ、口周りを乱暴に拭いた。
「おい、痛いぞ」
「砂糖まみれの顔を晒さないで頂きたい」
「傷がついたらどうする。優しくしろ」
「優しさはお側付きの女に求めるものです。私はただの護衛ゆえに、配慮できかねる」
「食えん奴だ」
 大股で道を進む異国人たちを、グラディアの民は遠巻きに眺めていた。丈の短い衣装を見て「はしたない」と呟く者もいる。
 レイゲンは悪戯な笑みを浮かべ、「ガァー!」と叫びながら周囲を威嚇した。悲鳴をあげて逃げる者、見世物を楽しむように笑う者、それぞれが肩をぶつけながら街道の端へ避(よ)けて行く。
「はははっ!それ噛み付くぞ道を開けろ!」
 無邪気に笑う主人につられて、マニの顔も微かにほころんだ。

2

「出来ましたよ、巫女様」
 シュマは満足げに立ち上がった。巫女の細いふくらはぎに、絹帯が格子模様を描いている。
「ありがとう、シュマ」
「少しきつめに結びましたけど、痛くはありませんか?」
 巫女は長椅子に座り、両足をパタパタと動かした。
「うん、大丈夫。痛くない」
 巫女の無邪気な笑顔に、シュマは胸を痛めた。目頭が熱くなり、思わず下を向く。
「どうしたの?」
 巫女は怪(いぶか)な顔で尋ねた。
「いえ...あ、そうだわ」
 シュマは足元の裁縫箱から、小さな金の飾りを取り出した。
「これを。私の可愛い巫女様に」
「あら、なに?」
「鷹の飾りです。城に上がる時、母がくれたんですよ。『清きものを守る鳥』だと言っていました」
「素敵ね」
 シュマから渡された小さな飾りを、巫女はうっとりと眺めた。親指ほどの大きさだが、見事な細工が施されている。翼を広げる鷹の雄姿。地上に降り立つ姿のようにも、獲物をしとめる姿のようにも見えた。
「もともと首飾りだったんですけど、鎖が切れてしまって。これ、巫女様の衣装に縫い付けましょう」
「嬉しい、ありがとう。とても綺麗だわ」
「私の代わりに巫女様を守ってくれます」
 シュマは、自分の声が震えていることに気付いた。しかし構わずに言葉を繋ぐ。
「何者も、巫女様を傷つけません。この鷹が、たとえ暗い闇の中にあっても、必ず巫女様を守ってくれます」
「シュマ」
 巫女は小さな手で、震えるシュマの顔を包んだ。
「ねぇシュマ。昔のように話そう?お願い」
「巫女様」
 伏せていた顔を上げる。巫女の金色の瞳が揺れていた。
「『カラ』よ。名前を呼んで」
「...カラ」
 ふと、昔よく2人で摘んだ実の香りを、シュマは思い出した。甘い中にほのかな酸味のある小さな赤い実を、口いっぱいに頬張っていた幼い少女の顔が浮かぶ。
「カラ」
 つい数ヶ月前まで無邪気に笑っていた少女が、今『満月の巫女』として幼い身を捧げようとしている。シュマは泣き崩れた。
「カラ...」
「あなたは私の姉も同然じゃないの。他の世話役みたいに接しないで?心細くなるわ」
「...ごめんねカラ。本当にごめんね、あなたの方がもっと辛いでしょうに。出来ることなら、ここから連れ出してあげたい。なぜ神はあなたにこんな仕打ちを?まだ小さな身体なのに...」
「うん、シュマ姉様。わかってる」
「あなたを失ってしまいそうで怖いの。あなたが消えてしまいそうで怖いの」
「私は消えたりしないわ。どこにも行かない。大好きよシュマ姉様、大好き」
 巫女は、跪いたシュマを抱いた。強く力を込める。
 白く細い腕に包まれた肩が、激しく揺れた。

手痛い再会

 中庭へ向かう表廊下を、レイジスはのんびりと歩いていた。日はすでに頭上高く昇り、南向きの廊下を照らす。右手に広がる小さな庭の茂みでは、鳥がさえずっている。冬も間近だと言うのに、ここ数日は温かな日が続いていた。
 少し後ろに、4人の門徒を従えたジマが続く。小柄なレイジスの歩幅に合わせようとするが、すぐに間を詰めてしまう。門徒たちの足並みも不揃いだった。
「レイジス様」
「何だい?ジマ」
「もう少し歩みを速めて頂けませんか」
「急ぐことはないだろう?祝儀まではあと半日もあるし。それにほら、こんなに良い天気だ」
「そうですね。ただ、とても歩きにくいので」
 レイジスが足を止めると、ジマもそれに習った。4人の門徒も司教の動きに従う。少しして、再びレイジスは足を進めた。が、すぐに立ち止まる。門徒たちは困惑した表情を浮かべたが、何とか主人の動きに合わせようと、必死で足元に注意を払っている。その滑稽な様子に、レイジスは声を殺して笑った。
「おやめなさい、王子」
 ジマは、眉を潜めてレイジスをたしなめた。
「だって...おかしいだろうっ?ふふっ」
「からかうのは、よろしくない。門徒はあなたをお守りするためにいるのです」
「それはまた...頼もしいね」
 ひょろりと細い身体の門徒たちを見て、レイジスはまた笑った。

「ジマ様!!ジマ様ぁ!!」
 ふと、長い表廊下の先から叫び声が聞こえた。
 二人の門兵の姿が慌てた様子で一同の元に駆け寄ってくる姿が見えた。鎧のぶつかる音が響く。
「よかった、レイジス様っ...失礼いたしました。驚かせてしまいましてっ...申し訳ございません...」
 若い門兵たちは息も切れ切れに、王子への非礼を詫びた。
「どうしたのだ?」
 ジマが尋ねると、門兵の一人が答えた。
「それが、城内に侵入したものがおりましてっ...その...賊が...それで王族の方々をお守りするようにと教団長からお達しが」
 ジマは思わず腰に手を当てる。しかし司教として身を潜めたその腰に剣はなく、右手は虚しげに空を切った。3年の歳月を持ってしても、この男の心は未だ剣士のままなのだ。レイジスは、その様子に苦笑した。
「教団の者が探しておりますが、まだ見つかりません。事が収まるまで、お部屋にお戻りください。あぁ、お会いできて良かった...」
 門兵たちは安堵した様子で膝に手をついた。
「賊は何人だ?」
「2人です。まだ他に潜んでいるやも知れません。無理矢理に東門を抜けたようでして...教団の者が見咎めたのですが、恐ろしく腕の立つ男たちだったそうです」
「賊相手に教団員が負けたのか?情けない、どんな稽古をつけているのだ」
 
 その時。

 突然、庭の茂みが音を立てて激しく揺れたかと思うと、奇妙な衣装をまとった若い男が姿を現した。レイジスの一同を見つけてニヤリと笑う。門徒たちが小さな悲鳴をあげた。
 ジマは男の腰に光る異形の剣に気付き、素早く身を返した。レイジスを門兵の胸へ投げやると同時にその腰の剣を奪い、賊に向けて構える。
 門兵の剣は、敵を威嚇するために大きく作られている。およそ6尺(180cm)ほどの長さがあり、久々に構えた鉄製の剣はジマには重く感じられた。持ち手を両手でしっかりと握り、切っ先を頭上へ掲げた。半身で構え、利き足に力を込める。
 男は獣のように身をかがめると、素早い動きでジマへ向かってきた。いや、少し左へずれている。門兵に守られたレイジスを目指していることに気付き、ジマは迷わず賊へ目がけ走った。
 間合いを見極め、まっすぐに振り下ろした。鋭い剣筋が音を立てて風を切る。しかし賊は素早くジマの右へ身をかわし、剣先は地面に落ちた。間髪入れず右へ斬り上げる。今度は身を屈めて避けられた。剣先にえぐり取られた土が、離れて見守る門徒たちの元まで飛んだ。
 瞬時に持ち手を入れ替え、ジマは屈んだ相手めがけて剣を突き立てる。賊が後ろへ避けようと土を蹴った瞬間、体勢が崩れた。一瞬の隙をついて、ジマがその足を払う。賊は派手に尻餅をついた。
 ジマの剣先が、その頭を捉えた。
 しかし、(すんで)のところでピタリとジマの動きが止まった。
 レイジスは息を飲んだ。門兵も思わず悲鳴を上げる。
 ジマの喉元に、鋭い短剣が光っていた。わずかに喉に食い込んでいる。いつの間に現れたのか、ジマの背後にもう1人の賊が張り付いていた。
「剣を置いてください」
 ひやりとした声とともに、喉元の刃に力がこもった。
 せめて1人だけでも仕止めるか。しかし相打ちになったとて、未熟な門兵がレイジスを守りきれるとは限らない。ジマは、身を震わせる王子に目を向けた。
 途端。
「ジマかぁ!!」
 尻もちをついていた賊が叫んだ。鋭い剣先に捉えられていながら、大きく笑い出す。
「ただの高官にしては強いと思った!そうかジマか!どうりで!」
 聞き覚えのあるその声に、ジマの身体から力が抜けた。長剣を脇へ投げ捨て、両手を挙げる。それに習うように、背後の男も短剣を引いた。
 レイジスは、門兵を押しやりながら叫んだ。
「レイゲン?!レイゲンじゃないか!!」
 頬を高揚させ、賊の元へ走り寄った。先ほどまでの緊張が一瞬にして消え失せ、表廊下に取り残された一同は、状況が飲み込めずに惚けるばかりだ。
「レイゲン...すっかり逞しくなった!」
「兄上は相変わらず小さいなぁ!」
 レイゲンは小柄な兄を勢い良く抱きあげた。レイジスの両足が宙へ浮く。兄の肩に顔を埋め、笑いながら言葉を繋いだ。
「兄上よ、ジマはいつ教団を抜けたのだ?高官の衣装なんぞ着ているおかげで、気付くのが遅れたわ」
(ふみ)に書いただろう?3年前だよ」
 ジマは、乱れた法衣を直しながらレイゲンを咎めた。
「全く...何と無茶な入城をなさるか。それに何ですか?その格好は。危うく仕止めるところでしたよ」
「良く言うわ。勝算は俺にあった」
「どうでしょうか。首を切られる前に突き刺す自信はありましたが」
「さらりと恐ろしいことを抜かすわ。おいマニ、此奴(こやつ)は、かつてオーディン教団で『仏のジマ』と呼ばれていた男だ。良く背を捕らえたな」
「失礼いたしました、ジマ様」
 マニは片膝をつくと、深く頭を下げた。
「我が主の手助けとは言え、グラディア教団の元長に刃を向けるとは、どうぞこの無礼をお許しください」
 先ほどまで突き刺さらんばかりの殺気を放っていた人物とは思えないほど、やわらかな声だった。その変わりようにジマは少し驚いたが、「いや良い運動になった」と笑って見せた。
 ふと、首筋に滲みるような痛みを覚え、指で撫でる。少し腫れているが、その跡はしっかりと静脈を捉えていた。これが実際の戦なら、この異国の若者に仕留められたと言うことか...ジマは思わず苦笑した。
 小さく息をついて呼吸を整えると、惚けた様子の門兵たちに呼びかける。
 「お前たち。すまんがもう一度走ってくれるか。賊は北門へ逃げたと伝えろ。お前たちの手柄にして良い。ここで見たことは決して漏らさぬよう」
「はっ...はい!すぐに!」
「待て、剣を返そう」
 ジマは傍に落とした長剣を拾うと、門兵に手渡した。かすかに睨みを効かせながら念を押す。
「もう1度言う、決して漏らすな。もし口を滑らせた時は、その首を刎ねる」
「はい!はい!決して漏らしません!」
 門兵たちは、怯えた表情で走って行った。
「レイゲン様、マニ殿も。まずはその衣装を着替えて頂きたい。レイジス様のお部屋へ」
「御意。レイゲン様...こら離れなさい」
「苦しいっ、レイゲン息ができない」
「あぁ、すまん兄上。つい力が入った」
「レイジス様、お二人のご案内をお願いできますか。私は他の王族を探します。死ぬほど怯えているでしょうから」
 ちらりとレイゲンに視線を投げ、ジマは足早に表廊下を西へ戻った。4人の門徒も慌てて後を追う。
「ほら行こう、レイゲン。積もる話もある」
 レイジスは、声を弾ませながら弟の手を引いた。無邪気に笑う主人を見て、マニはようやく息をついた。
 ふと振り返ると、ジマの姿はすでに見えなくなっていた。元教団長とは言え、あの司教、6尺もの鉄剣でレイゲンの動きに追いついた...マニは不意に冷たいものを感じた。
「どうした?マニ、早く来い」
 マニの様子に気付いて、レイゲンが声をかける。
「...あのお方、『仏』と呼ばれる割には鋭い剣さばきでしたね」
「ん?あぁ、ジマか。違う違う、『仏』は別の例えだ」
 レイゲンは楽しげに笑った。
「別の?」
「奴が戦に出ると敵の屍が山積みになった。ジマは仏の山を作る魔物と呼ばれていた男だ」
「それで『仏のジマ』ですか」
「あの邪魔な法衣がなければ、彼奴(あやつ)はもっと早く動けた。俺もお前も殺されていただろうな」
「...今それを言いますか」

 庭の茂みで、また鳥が鳴いた。

Whisper of Owdin〜オーディンの囁き〜

Whisper of Owdin〜オーディンの囁き〜

広大な森に囲まれた国、グラディア。 モース家は、神の血を継ぐ王族として、数百年にわたり国の頂点に君臨していた。 38代目の国王が誕生して間もなく、「満月の巫女」と呼ばれる一人の女が王室に迎えられる。 ”北に迎いて金眼の巫女が祈るとき、神はその身に宿るであろう” 古文書に記述された伝説を信じる現王は、ツキヨミと呼ばれる預言者の言葉に従い、北に広がる広大な森を切り開き神殿を建てようと計画する。 しかしそこは歴代の国王すら足を踏み入れなかった場所、呪われた異教徒の亡霊が眠ると恐れられる『忍ばせの森』だった。 力を渇望する国王と、その影響力を利用しようともくろむ教団幹部、そして王族の血筋を追う謎の集団。森の中で、それぞれの私欲が絡み始める。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • アクション
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-07-22

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 森の亡霊
  2. 出会うべき者たち
  3. はぐれ者の憂い
  4. 巫女
  5. 手痛い再会