父を恨む

私は父が嫌いだった。愚鈍で頭が悪くて嫌な匂いがして、ただ声が大きいだけの父を憎みさえしていた。
自慢にしているこの屋敷も祖父から受け継いだものだし、かつてしていた仕事も高尚なものとはとても言えず、おかげでこの家系も没落してしまうほどだった。
だから、その父が不治の病を患ったときには喜んだ。やっと父が私の目の前から消えてくれる。
まだ独り立ちのできない私が父から離れるためには父が死ぬか、私が死ぬしかなかったから、その喜びは例えようもないほどの、はずだった。
なのにどうしてだろう、日に日にましていく父の死臭。死期に近づく人間とはこうも哀れに見えてしまうのかという、同情にも似た感情。
私が父に抱くとは思いもしなかった、微かな寂しさ。日が経つにつれ、まだその気持ちは増していく。

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その日は私の受け持っている、あの嫌なヤツとお話をするという用事も終わり、自室でゆっくりと身体を休めているときだった。
重苦しい紫の長いドレスを脱ぎ去り、よく手入れのされた木の床の上に粗雑に放り投げる。どうせ後で給仕が持って行ってくれるのだから、アレで良い。
確かに長女なのだからあのイヤな顔をした貴族どもとお話をしなければならない、というのは理解できる。けれどもまだ日も浅く、そして慣れたくもないものだった。
椅子に座って、目を閉じる。部屋着にも着替えず、下着姿のまま。もう少しだけ休んだら、ちょっと出かけようか。
そう思っているとドアをノックする音が聞こえた。この申し訳なさそうな小さな音は、妹のものだとすぐにわかった。

「姉さま」

耳を澄まさなければ聞こえないぐらい、小さな声が聞こえた。

「どうしたの? 少し休みたいのだけれど」

いつものように、棘のある言葉を投げかけてしまう。
優しくしなければならないといつも思っているのだけれど、今日のように嫌なことがあった日にはこうした態度を取ってしまう。悪い癖、だと思う。

「御免なさい、お疲れでしたか」

まるで給仕と話している気分になる。いや、まだ給仕の方が声は大きい。どうしてあの子は、こうも声が小さいのだろう。
おかげで少し別の物音を立ててしまえば、聞き返すはめになる。

「別に良いよ。けれど、いつも言ってるよね?」

常日頃からもう少し大きな声を話すように、と言っている。妹もそういう度にハイと応えているのだけれど、直らない。直す気がないのかも知れない。

「……」

返事はない。いつも小さな声なのに流暢に話すあの子が、珍しく黙り込んでしまった。珍しいな、と思いつつも次の言葉を待つ。どんな用事があるのだろう。
でもしばらく待っても、あの子は何も話さなかった。疲れていて苛々しているから、遂にガマンしきれなくなる。

「……あのねぇ! 私は疲れているって―――――……」

そんな私の苛々の積み重なった大声を。

「お父さまのことです!」

それ以上のあの子の大声が覆い被さる。
最初にあんな声を出せたのかと驚き、その次に父にたいして何も興味がなさそうだった妹が父について話があると言ったことに驚き、今度は私が言葉を止めてしまう。

「入って、よろしいでしょうか?」

戸惑う私とは違って、妹はいつも以上にハッキリとした声を出していた。

「……どうぞ」

何か大事な話なのだろう。声で部屋に招き入れると、妹は扉を開き部屋の中へと入ってきた。
白く余裕のある部屋着は、いつもどこか浮いているような妹によく似合い、肩まである空気を含んだようなふわりとした金の髪をした妹が、部屋の中に舞い込んできた。

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「お疲れのところ、御免なさい」

妹はいつも何かしらを謝っている。その癖はあまり好きではない、と言うよりハッキリと嫌いだった。
謝るぐらいならはじめからしなければ良い、と私はいつも思っているしそう行動している。
だから私は、本当にやらかしてしまったときか必要があるとき以外は、私はあまり謝らない。高飛車と言われようが、別に構いやしない。

「別に良いって言った」

同じことはあまり言いたくない。

「父のことって……なに? 貴方が珍しいじゃない」

てっきり興味がないと思っていた。だって、この子が父の病気を気にしている、だなんて話は全く聞かないのだから。冷たいヤツだと思っていた。私以上に。

「…………」

少しの無言。よほど言いにくいことなのだろう。いつもならば「早く言ってよ!」なんて急かすところだけれど、今回は待つことができた。
きっと、この子にとってもすごく言いにくいことなのだろうから。

「……お父さまは……」

妹がようやくそう口に出したのは、部屋に入って適当な椅子を引っ張ってきて椅子に座っていた私のすぐ目の前に座って、数分もうつむいたままなにも言わず、無言が続いた後だった。
この子はこの子なりに気にしていたのか、となぜか少し安堵した。
そして安堵したことに、自分でも驚いてしまった。なぜ妹が父のことを想っていたことを知って安堵したのだろう。なぜ?

「お父さまは、死んでしまうのでしょうか」

意を決した後は、一気に言葉が漏れ出していた。気持ちを押しとどめることができなかったのだろうか、涙さえも目に浮かべている。
金色の宝石が濡れて、私をまっすぐ見ている。
妹が泣いている。父が死んでしまうことを気に掛けて、その死を嫌がるように。あの、あまり気持ちを外に出したがらない妹が、泣いている。そのことに驚いてしまう。

「……早く、死んで欲しい」

涙を浮かべる妹とは、きっと対照的なのだろう。父の目の前で死ねとは言っていないけれど、それ以外ではいつも簡単に死ねと言っている。
感情をむき出しにした妹の前でも同じ、のはずだった。

「死んで欲しいって、思って……」

思ってる、思ってた。なぜだろう、言葉が続かない。きっと涙を溢れさせて、私を崩れた顔で見つめている妹が目に前にいるから、言い出しにくいのだろう。
まさか私が、あんなに憎んでいた父が死ぬことに対してわずかばかりも哀れに思うことなんて、あるはずもないのだから。

「お父さまに……っ、死んで欲しくない……っ!」

言葉にもならぬ妹の泣き声。両手で顔を覆い、肩を振るわす。思えば妹とこうしてお話をすることなんて初めてだし、ここまで気持ちをぶつけられたのも初めてだった。

「私に言われても……困る」

泣きじゃくる妹を目の前に、そんな言葉しか返すことができない。私はむしろ死んで欲しいって思っているのだから。そう思っている……はず、なのだから。
泣いている妹を目の前に、私も遂になにも言うことができなくなり、ただ呆然と見守ることしかできなくなってしまった。
気がつけば日が沈み始め、部屋に紅い日差しが差し込む。しかし妹はまだ落ち着かず、そして私も目を伏せって、頭の中ではずっと次に言う言葉を探していた。

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「……なぜ寂しいのだろう……」

妹は私のベットで眠っている。泣き疲れてしまったのだろう、日が沈み給仕が食事を運んできたときに、妹は椅子から崩れ落ちるように眠ってしまった。
それを給仕と二人でベットに運ぶ。幸いなことにベットは二人なら眠ることのできるスペースはあるから、眠る場所には困ってはいない。
けれどもその日は寝付けない。妹がすぐ横で静かな寝息を立てているからとか、そんな理由ではない。なぜか寂しいのだ。

「……眠れない……」

眠れぬまま、時間だけが過ぎていく。

 父が死んだ。あんなにも憎んでいた父が死んで、清々した。ようやく死んでくれたか、やっと私は開放されるのか、そう思うのだろうって思っていた。なのに、どうしてだろう。父が死んだと聞かされた瞬間のこの感情は。決して喜びではない。かと言って悲しみでもない。覚悟していたから、かもしれない。でも確かな喪失感はある。それは喜びになるはずの喪失感であるはずなのに、どうしても、喜ぶ気にはなれない。
 訃報は、自室で本を読んでいるときに聞かされた。それは、どちらかと言えば絵の割合が多い子ども向けの本で、ここ最近はほとんど読むことはなくなっていた。けれどもそのときは、なぜかその本の鮮やかな背表紙が目に付き、なんとなく手を伸ばした。子どもの頃はこんな本をずっと読んでいたっけ。そう思いながら、その場に立ったまま本を開けた。
 内容は、なんでもない、一人の少年が青い小鳥を不注意で逃してしまい、それを追いかけるといったような内容だった。飛び去った小鳥は少年を待つように木枝に止まり、それを少年が見つけて、どんどん森のなかに入っていく。やがて少年は森の精霊と出会う。少年は尋ねる。「青い鳥を見ませんでしたか?」精霊は応える。「さっき、そこにいましたよ」。

 足音が聞こえた。顔を上げる。

 この予感はなんだろう。思えば父とは、もうほとんど会ったことはない。

 でもなんとなくわかる。

 喜ばしいはずの予感は、なぜか虚しく、胸に響いた。

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 給仕が、父の訃報を伝えに来た。そうですか。そのときに漏らしたのは、まるで他人事のようなそんな言葉だった。

「母上様がお呼びです」

 給仕の言葉に、左右に首を振る。

「いいえ、私は、いい。いかない」

 その応えを聞いた給仕の、なんと曖昧な表情か。驚きと、諦めと、悲しみと、それぞれをちょうどよく混ぜ合わせたような、驚きが少し多いか、複雑なもの。

「ご主人様が悲しみます」

 死んだものが悲しむか? 冷静にそう思った。

「そうかもしれないね」

 きっとその言葉を発したとき、私は少し笑っていたのだろう。だから給仕は、こんなにも不思議そうな表情を浮かべているのだろう。

「怖いの」

それは本心だった。私の。

「人の死に顔を見るのが怖い。それが私の父ならば、よりいっそう」

 死が近づいているのはわかっていた。やがて、親しいものの誰かが死ぬことになるのはわかっていた。それが父であることは、もうとうの昔に覚悟していた。喜ばしいことだった。すくなくとも、死ぬとわかったその日だけは。

「母上様がお怒りになります」

 奥底に含んだものを隠しきれぬ、けれども冷静な言葉。

「そうね」

 それでも、怖い。

「でもいかないよ。お母様にはそう伝えて。怖いから、イヤだって」

 自分でも驚くぐらいの、冷たい言葉。給仕は、もう私の説得は無理なのだと悟ったのか、何も言わずに一礼して静かに扉を締めた。騒がしいぐらいの足音が、扉を挟んだ向こうで聞こえる。本来ならば私も、そこに交じる必要があるのだろう。
 冷えた扉に額を当てる。熱を持った頭が冷やされる。父が死んだ。

 ついに。やっと。

「……やっと……」

 喜ばしいはずなのに。

「……やっと……なのに……」

 確かな喪失感を感じて、目を閉じる。もう、何もする気は起きなかった。椅子に座って、目を閉じる。何も考えてはいない。気づけば、眠ってしまった。

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 目を覚ます。あたりは暗い。騒々しさは、もうなくなっていた。みんな寝てしまったのだろうか? 立ち上がり、寒気を感じた。夜はまだ冷える。だから、適当な衣服を壁掛けから引っ張って、羽織った。
 扉を開ける。いくつかの蝋燭が風に揺れる。薄暗い廊下に、人の姿は見えない。父の部屋に行こうか。足の先はそちらに向いたが、やはり進む気になることはできず、振り返る。

 妹は?

 あのとき、死んでほしくないと涙ながら言ったあの子は、どうしているだろう。この廊下の突き当り、銀色の枠の白い扉。足音はたったひとりぶんが、奇妙に静かに響いていた。

 誰もいない。

 父が死んで、どれぐらいの時間が経ったのだろうか。皆はやはり、明日に備えて眠ってしまったのだろうか。それとも、今も父の部屋で泣いているのだろうか? 妹も、そこに? 左右に首を振る。いいえ、あの子は自室にいる。そこで何をしているかわからないけれど、絶対にそこにいる。

 なぜか確信があった。

 妹の部屋、銀の枠に白い扉。ノックをしようと手を伸ばし……少しうつむき、目を閉じる。私らしくもない。ためらっている。今日は一人にすべきではないか、と。私も一人になるべきなのではないか、と。

「姉さま?」

 扉の向こう、小さな声。普通ならば聞こえないはずの、妹の声。

「入るよ」

 ノックもせず、扉を開ける。蝋燭もない暗いはずの部屋の真ん中で、その子はまるで空に浮かぶ細月のように、私を見ていた。

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「泣いてないんだ」

 悲しそうな表情ではある。けれども柔らかな白い頬に、涙の跡は見られない。

「……あのときは、泣けたのですけれど……」

 正面に向かい合い、冷たく白い床に座る。妹は、また少し髪が伸びた。こうして座っていると、床についてしまうぐらい。月の灯が、妹の髪を撫でる。

「私も、ね」

 泣くことはないと思っていた。きっと妹も、私は泣かないだろうと予想していたのだろう。

「……そう、ですね」

 今にも泣き出しそうなのに、潤んでいる瞳なのに、涙は流さない。私はそんな顔をみて、どんな表情をしているのだろうか。自分が何を思っているのか、どうしてこの子に会いに来たのか、全くわかっていない。

「ねぇ」

 尋ねる。

「悲しい?」

 父が死んで、少なくとも私は、ついに悲しいと思うことはできない。

「そう、ですね」

 その言葉を聞いて、ホッとした。少なくとも妹は、私のように人でなしではないんだと、安堵した。私はヒドいやつだってのは、わかっている。否定もしない。父が死んだってのに、その顔も見ようとしたいのだから。

「どんな顔だった?」

 妹は、少し目を伏せた。

「安らか……では、ありませんでした」

 そう。当たり前かもしれない。父はもう、誰にも愛されていないのだから。

「お母様は?」

 怒っているだろう。そう思っていた。

「お母様は、泣いていませんでした」

 それは意外だった。母は最後まで父の面倒を見ていたのだから。愚痴をわずかさえも漏らさずに、献身的に。まだ愛しているのかと思っていた。そんな母を、私は少し恨めしく思っていた。そんなヤツ、ほっとけばいいのに、と。

「……姉さまは……」

 白い、小枝よりも細い指が伸びてくる。

「姉さまは……泣いたのですね」

 ……。

「泣き跡がある?」

 眠ったときに、だろうか。

「はい。薄らとですが……」

 それはまるで真綿のような優しい感触。指で触れられていると、誰が思うだろうか。

「……私だけ、なんだ」

 たぶん、私は本当に泣いたのだろう。眠っているときに。それとも起きたときに? 死んだと聞かされた、その瞬間に? 何にせよ、自分でも気づかないうちに。

「……良かった……」

 それは妹の、優しい言葉。ええ、良かった。本当に。

「……私は、父の死を、悲しく思えたんだね……」

 私は父を憎んでいた。殺意さえ持っていた。死ねばいいと思っていた。けれども確かに、私は父を失って、泣くことができた。

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 父の葬儀は、小さく執り行われた。遺言だった。なるべく質素に、可能な限り費用を使わずに行うように、と。それには私も参加した。父の死に顔は、その際に初めて目にした。真っ白の衣服に包まれたその顔は、だらしなく口を開けて、触れれば確かに冷たく、そして私の大嫌いな父そのものだった。無表情で、まるでただ眠っているかのように。

「……」

 終始無言だった。お別れの言葉は、頭の中でさえ思い浮かばなかった。横を見る。黒と白のコントラスト。妹は、泣いていた。お母様も泣いている。でも私は、何も思うことができず、ただ父の姿が壁の向こうに消えるのを眺めていた。

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 一回忌を迎えた。父の墓は存在しない。これも遺言だった。父の遺灰は海に捨てられた。それがもっとも安くつくと言われたからだった。だからこうして、妹と一緒に海を見ている。このどこかに父はいるのだろうか。もしくは空の上から私達を見ているのだろうか。それとも、もうどこにもいないのだろうか。

「姉さま」

 横に立つ妹の、相変わらずの小さな声。波の音でかき消されそうなほど。

「もっと大きく、って言ったでしょ」

 これでも、昨年に比べるとずっとマシになったものだ。現にこうして、海辺にいてもぎりぎり聞き取れるぐらいには。

「御免なさい」

 ため息を漏らす。まぁ、これからマシになっていくだろう。そうでないと困る

「どうしたの?」

 尋ねて、そちらに目を向ける。私を見ている金の瞳は真っ直ぐに、薄化粧の施された淡い桃色の唇は何かを言いたげに、少しだけ動き。

「……いえ……」

 けれどもそれっきり何も言わずに目を背け、海の向こうを見てしまった。

父を恨む

父を恨む

父を嫌って生きていた。そんな父が不治の病を患った。ようやく私は開放されると、そう思っていた。

  • 小説
  • 短編
  • サスペンス
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-07-21

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