太陽の君、北風の僕
月が沈んだら、太陽が昇る。
あの子は太陽みたいに眩しかった。
私がこの家へ連れてこられたとき、まだ10歳だった。
この家のお嬢様は、私と同い年で、可愛らしいワンピースを着ていた。
「ほんとはね、スカートは嫌いなの」
そう耳元でささやかれたのを覚えている。この家の奥様と言うのが、体が弱く、床にこもりがちで、いつもお嬢様は一人で本を読んでいらした。
「あなたが来てくれて、本当によかった」
そう奥様に手を取って迎えられたとき、私は子供心に、奥様が美人で、とても恥ずかしかったのを覚えている。
このお嬢様と言うのが、学校でもいつでも皆の中心にいる人で、よく学芸会などの主人公を務めたりしていた。
「大きなかぶは、ぬけまっせーん!」
そんな拍子を付けては、皆を笑わせていた。
いつでも笑顔のお嬢様、私にはそんな風に見えた。
悩みがなくて、単純で、快活で、面白い人。
寄宿舎に通うようになってから、お嬢様はますます女性らしくなり、年頃の可愛らしさで、天真爛漫に輝いて見えた。
ある日、お嬢様が猫を拾ってきた。
「お母様にお見せするの」
そう言って、はずむ息を整えて、猫を抱いて帰ってきたとき、家中の者は、「そんな汚い猫、すぐに死んでしまいますよ、捨ててきなさい」とにべもなかった。
奥様だけが、優しく微笑んで、「見せてくれてありがとう。でも、元の場所に返さないと、この子のお母さんが心配するわ」と言い聞かせた。
お嬢様は、何も言わず、いつの間にか猫はどこかに捨てられたようだった。
「あの子にお母さんなんか、いるのかしら」
そうお嬢様が私に、暗い調子で仰った。
私は、元気づけたい一心で、「ええ、勿論いますとも。今頃家族みんなで巣穴の中ですよ」と答えた。
お嬢様は、少しだけ血の気の失せた顔で小さく笑った。
その後、奥様が念願だったボーダーコリーを飼われた。
「療養に良いから」という理由だったそうだが、それを見たお嬢様は、喜んではいらしたけれども、私にはどうにも無理をしているように見えた。
「大人ばっかりずるで、嫌ね」
私にそうささやいたお嬢様は、少しだけ拗ねた顔をしているようで、大きな葛藤があるようだった。
この頃から、お嬢様は奥様と距離を置かれるようになった。
10年経って、お嬢様は二十歳になられた。
お祝いのパーティーをしようと、奥様達が張り切る中、お嬢様はそれを見て、「とうとう私も、大人になってしまった」と笑った。
乾杯をした後、奥様が得意のピアノを披露して、皆がそれに合わせて歌っていた。
私は、お嬢様の姿が見えないことに気が付き、探していると、向かいの建物の窓から、こちらを無表情で眺めるお嬢様を見つけた。
「どうされたのですか?」
私が辿り着き、そう声をかけると、お嬢様は振り返りもせずに、こう仰った。
「あの中で、私のお葬式に来てくれる人が、何人いるかしら」
私は少し、ぞっとした。
「何を仰っているのですか、皆あなたのために集まってくれたのに」
私が笑ってそう言うと、「いいえ」とお嬢様は言い切った。
「あの人たちはみんな、私の母が大事なのよ」
だってみんな母のお友達ですもの、私の友達は、誰一人として来なかった。そう仰った。
私は少し呆然とした後、はっとして、軽くお嬢様の頬をはたいた。
「しっかりしなさい、あなた一人がいなくなったら、この家がどれだけ静かになるか、わからないのですか」
お嬢様は何も言わず、ただただ黙っていた。
涙目のお嬢様と私がいるところまで、ピアノと歌声が響いてきた。
お嬢様がいないことに、誰も注意を払わない。それは事実であった。
夜、少し無理をしたのか、奥様が体調を崩された。
お嬢様は、いつものように、お休みなさいを私と言いに部屋に行って、奥様の青い顔を見て、「あんまりはしゃぎすぎるから」と怒るふりをした。
「お前、どこに行っていたの?」
奥様が苦しそうな声で聞き、お嬢様は、「そんなこと聞くなんて、野暮天じゃない?」と私を振り返って明るく答えた。
奥様は、「まあ」と言って笑った。
お嬢様が部屋に戻られた後、私の部屋に使いが着て、奥様の部屋に行くように言われた。
急いで行くと、奥様は青白い顔で、「お前は、あの子についてやっていてね、あの子を一人にしないよう、くれぐれもよろしくね」と必死に手を取って懇願なさった。
私は胸がいっぱいになって、「はい、そうします、必ず傍に着いています」と繰り返した。
次の日の朝、侍女の絶叫で目が覚めた。
奥様は、静かに息を引き取っていらした。
お嬢様は、涙も流さず、目をぱちくりとして、ただただ呆然とされていた。
「お嬢様」
私が声をかけて肩を揺さぶると、はっとして、それから笑い、次に「こういう時って、どうすればいいの」と、私にすがって泣き崩れた。
「大丈夫です、私が着いています、私が傍にいますとも」
私は必死にそう言って慰めた。お嬢様は何度も頷き、わんわんと泣いた。
月が沈んで、太陽が昇った。
奥様が亡くなられた。
お嬢様の代わりに私が喪主を務め、周りに流されるままに、自然とお嬢様と私は一緒になった。
白無垢のお嬢様は、にこりともしなかった。三度の酒を飲む。
あれから、何十年も経った。
私は経済を勉強して、会社の後釜に収まり、そしてその会社が潰れてから、今は静かにお嬢様と余生を送っている。
「あなた、見て」
かつてのお嬢様、今は私の妻が、そう言って笑った。
「昼間の月よ、綺麗ねえ」
月はいつでも、太陽を見守っている。
北風の吹く季節、私は妻に「寒いから」と言ってコートを着せた。
妻の笑顔は、今でも私の太陽である。
太陽の君、北風の僕
文芸として成り立つかどうか。